Mistery Circle

2017-08

Mistery Circle Vol. 38 - 2011.07.22 Fri

Mistery Circle Vol. 38

☆ 復活第一回記念号 ☆
通算第38回 Mistery Circle






∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ 

●場内が爆笑に包まれた。

《 ダーリン 》

著者:空蝉八尋



 私はあまり、他人を干渉しない人間だと思っていた。
 思っている、つもりだった。
 自分は自分でありたいと常に思ってきていたし、ひとはひとで居ればいいと考えていた。
 それで焦りを感じた事もなければ、優越に浸ったこともない。
 違って当然だと、そしてそれは順当だと思っていたのだ。

 場内が爆笑に包まれた。
 顔を上げると、フェンスの向こうで応援席の母親達が手を叩いて大笑いしている。
 日の照り付けるマウンドを見わたしたけれど、耳の大きな少年が打席に立つところで、何が起きたのかは分からなかった。
 楽しいことはもう、終わってしまったらしい。 
 私はもう一度自分の足元に視線を戻した。去年買ったサンダルと、地面をうごめくアリ。
 木陰のベンチから足を投げ出しては、フェンス越しの少年野球をたまに眺めた。
「香子、日陰でも注意しろよ」
 缶ジュースをふたつ持った成が、顎から汗をポタポタ滴らせて歩いてくる。
 隣に腰かけた途端、わずかな風が遮られてしまった。
 ちょっと、ムカついた。
「私、炭酸がいいなー」 
「……お前、去年……一昨年か、一回倒れただろ。注意が足らねんだよ」
 唇を大袈裟にとんがらせて文句を言う成は、私が強引に換えさせたスポーツ飲料をすする。
 グラウンドから再び歓声が上がり、白球が飛ぶ。
 相変わらず陰らない空に、名前を知らない大きな鳥が飛んでいて、旋回を繰り返していた。
「暑いなか、よく頑張ってんなー。少年たちよ」
「なんだか懐かしいねぇ。ナリと準ちゃんもやってたよねぇ」
「ん……その時はまだ、女子は入団出来なくてな! 香子が監督に泣いて縋ってて」
「あははっ。私もやるー!ってね」
 そうして四年生になった頃、準ちゃんは特進塾に通うようになって、少年野球をやめたのだ。
 私は準ちゃんからグローブを勝手に借りては、成とキャッチボールをしたりした。  
「あぁ、そう言えば!」
「うるっさ……なんなの急に!」
 成は突然、思い出したように叫んだ。私の耳元で。
「俺ね、準ちゃんに会いに行ったんだ」
「……はっ!? パリまで!? いつ!?」
 私は思わず身を乗り出して、成の鼻先まで顔を近づけてしまった。
 のけぞった成は、どこか自慢げに笑みを浮かべる。
 激しく、ムカついた。
「実はひとりで行ってたんですぅ」 
「うそぉー、早く言いなさいよばかぁ」
「えっへっへ。俺と準ちゃんのヒミツですぅ」
 準ちゃん。準ちゃん。
 きっと、私の事は寝る前に思い出さない準ちゃん。
「それで、調子はどうだって? 何か言ってた? 準ちゃん」
「んーとね。俺と香子が、似てるって言われた」
 成の、奥二重の瞳が私をまっすぐとらえた。
「……ナニソレ」
「似てるって。俺と香子ちゃん」
 私は、成を見た。
 成は、もう私から視線を外していた。
 わざわざ首を捻って覗き込んだ顔は、少し怪訝そうにしかめられて、眉間にしわが寄る。
 途切れそうな細い眉。
 奥二重と、汗で光った鼻。曲がった血色の悪い、薄い唇。
 右頬にうっすら浮かぶそばかす。

 少し、ガッカリした。

「全然、似てないじゃんね」
 私が言うと、成は表現しがたい笑みを浮かべた。
 ただ、口角を曲げただけのような。
「あ、意外」
「なにが? 成も似てると思うの?」
「俺は、香子は似てるほうがいいのかと思ったんだ」
「え……」
 突然に、不安にも似た気持ちが私を襲う。
 ふたりで腰かけたこの場所が、ひどく落ち着かなかった。
 私はそして何故か、"誤った"と思ったのだ。
「そしたら、違ったんだぁ」
 成の言葉が遠くに聞こえた。きっとのぼせるような暑さの所為に違いない。
 私は味もよく分からない、甘いだけの炭酸水を飲み干した。
 違う事は当然で、自然で、そしてそれですべてが"良い"と思っていた。


 同じで居たい、なんて。そんな風に誰かを思うような時が来るなんて。

 
 私と成は同じもので出来ているけど、同じじゃない。
 それがこんなにもどかしい事だなんて。
 夢が邪魔だ。言葉が邪魔だ。肌が邪魔だ。
 重ねて、入り込んで、たとえひとつになれたって、私は。
  

 私は、どうしたって成にはなれない!


「成、あのね……」
 思い出したように顔を向けると、成はいつものように意地悪く笑っていた。
 そしてやっぱり当然のように、私に言う。
「残念!」
「……っ」
 成。あと、準ちゃん。
 残念だね。
 本当は私もそう思っていた。だけれど、言えなかっただけ。
 どうやらカラスだったらしい鳥が、頭上で再び空中に弧を描く。
 スタンドの歓声と拍手が聞こえた。



《 ダーリン 了 》



【 あとがき 】
拝啓、連日厳しい暑さ、皆様にはご機嫌うるわしくお過ごしのことと存じますぴよぴよ。
すいかバーは何故夏にしか販売されないのか、本気で嘆いておりますぶっとび女子高生(肩書き)カラッパチですぴよぴよ。
生息地はココスです。
大好きなMCの再開、とっても嬉しいです。
まさかの一番バッターで、ええ、落とすわけにはいかn……。おお振りで言うと泉君ですよ、一番は。

読んで下さった方、本当にありがとうございました。

【 お題当てクイズ回答 】
わかりませんでした

【 その他私信等 】
私はつくづく、名前に興味を示さない女です。

家電の名前なんですけどね。
名前というより、いわゆるメーカーなんですけどね。

パチ「うちのテレビはもう地デジですから!液晶で!」
相手「へえ、どこの? ソニー?」
パチ「えー、と。ソニーだっけ……あの、知りません……」
相手「家のテレビ知らないの!?」

なんででしょう。
そもそも、会話の中にメーカー名を尋ねるは何故ですか…

パチ「妹の部屋にやっとエアコンついたんですよ」
相手「松下か?」
パチ「え……」

パチ「扇風機、どこもないんですってねー。私は何年も前のやつがしぶとく壊れないでありますけど!」
相手「丈夫なんだねぇ!どこの?」
パチ「…………」

電子レンジもポットもドライヤーも、全然わからん。

我社の事務の奥様だって、新調した会社の液晶テレビのメーカー気になってたのにねえ。
私は微塵も気にならなかったよ……。
自分のケータイだって、ソフトバンクなのはわかるけど、メーカーを思い出すのに時間がかかる。

化粧品とか洋服とか、漫画とかならメーカーとか出版社とか気になるし覚えるのに、家電に至っては何故かこんな調子です。
あまり不自由はありませんでしたが、最近大人としてどうかと思ってきている次第で御座います。
そういえば車の名前も全然知らないな……。
そもそも「セダン」の意味が分からなかった。
なんだ、この無知の晒し場は。

次回☆「幼き日にお母さんに適当につかれた嘘は長い間信じきる(中学くらいまで)」の巻き!!

『片翼てふてふ。』 空蝉八尋


゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜

●再び空中に弧を描く。スタンドの歓声と拍手が聞こえた。

《 Resonance 》

著者:知



 懐に入り込み右アッパーを決めると体は再び空中に弧を描き、それと同時にスタンドから歓声と拍手が聞こえた。
「す……凄い……」
 その光景を観客席から見ていた私は思わずそう口にしていた。
 もし、この大会が普通の武道会であったなら特に珍しい光景ではなかったであろう。でも、これは魔法使いの卵による武道会。打撃によって勝負が決する試合は皆無に等しい。だからこそ、信じられない光景に観客は興奮する。
 私も唯の一観客なら興奮するだけで済んだ。でも、私もこの武道会の参加者の一人だ。彼と戦う可能性がある。
 だから考えなければならない。彼と戦う事になったらどう戦うのか。
 彼の予選の戦い振りを見る限り、今の私では接近戦を挑むのは無謀に近いだろう。いや、私達、セカンダリに通う生徒で彼に接近戦で敵う人はおそらく誰もいない。
 ならば、中・長距離からの魔法で行くしかないか。
 問題は彼の魔法技術に関しては、予選の戦いからはほぼ未知数という事しか分らない。
 いや、少なくともセカンダリに通う生徒の中では、かなり高度な魔法技術を身につけていることだけは分っているか。
 普通に下から上に突き上げた所で人はあそこまで吹き飛ぶことはない。何らかの補助魔法による威力の増加を行っているのは間違いない。
 そして、人が吹き飛ぶほどの威力があるのに対戦相手の顎の骨は勿論の事、彼の手の骨も折れていない。
 おそらく、魔法でグローブのような物を作ると共にパンチを当てた瞬間に衝撃を逃がすという事もやっているのだろう。
 鍛えている大人でも下手をするとグローブをして殴っても骨が折れる事がある。人を殴っても手の骨が折れない程に鍛えていると考えるよりもそう考える方が妥当だと思う。
 これらを無発声で行っている。これだけでも彼の魔法技術が高いものであることがわかる。

 こう考えていると彼の異常性がよくわかる。
 人に与えられた時間は限られている。一般的にセカンダリに通う生徒で魔法以外のことを鍛える余裕はない。したとしても将来の事を考えて避ける訓練をするぐらい。
 補助魔法の効果があったとしても、この武道会に参加する生徒なら素人の打撃なんて避けることは簡単のはずだ。だからこそ、この武道会では打撃によって勝負が決する試合は皆無に等しいのだ。
 これらの事から簡単に導かれる事がある。そう、彼は少なくとも魔法と共に体術も鍛えている。

「少し遅かったか、もう試合終わってるな」
 そんな事を考えていると背後から知っている声が聞こえてきた。
「ええ、ついさっき終わったところよ」
 その声の主は独り言に――独り言にしては声が大きかったが――返答がきてびっくりしたのだろう慌てて私の方を向き、そして安心したようにため息を吐いた。
「何だアリィか……驚かせやがって」
「何だ、とはご挨拶ねイオリ? そっちのブロックも終わったのね?」
 この武道会は予選トーナメントと決勝トーナメントに分かれていて、決勝に残れるのは8名。
 予選はA~Gの7つのブロックに分かれていて、各ブロックの優勝者が決勝に進出できる。
「ああ、終わったよ。アリィは……前回の優勝者だから予選は免除だったな」
「ええ、おかげでいい試合が見れたわ」
 心の底から彼の試合を見る事が良かったと思う。もし、彼の試合を見ずに彼と決勝トーナメントで対戦する事になったら、彼と予選で戦い負けた二人と同じ目に合っていたことは簡単に想像できる。
「ん? あいつ、どんな風に勝ったんだ?」
 私の言葉に何か思う事があったのかそう聞いてきた。
「二戦とも格闘戦で勝ったわよ」
「……手を抜きやがったか、まぁ、作戦として有りではあるが」
 私の返事を聞き呆れたようにため息を吐きそう言った。
 どこか納得した感じではあるが、今度は私の方に疑問が生じたので素直に尋ねてみよう。
「彼のこと知ってるの?」
「知ってるも何も、俺とあいつは同じセカンダリに通ってるんだよ」
 セカンダリは公立私立含め100校近くある。どのセカンダリに通っていても武道会に参加する資格はあるけど、予備予選を勝ち上がらないと予選にすら参加できない。
 他にも武道会には変わった規則があり、どのセカンダリに通っているか明らかにしてはいけない、決勝トーナメントになるまではその都度割り当てられた番号で呼ばれ名前が明らかにされることはない、となっている。
「そう、イオリと同じセカンダリなのね」
 ということは、私が決勝トーナメントの1回戦で彼と対戦する可能性が高い。
 決勝トーナメントの組み合わせは完全な抽選ではなく何らかの意思が介入して決まる。例えば、同じセカンダリに通っている者同士は別ブロックになる、といったものがある。
 彼との対戦がますます現実味を帯びてきた。
「アリィが何を考えているかわかるけど、俺は予選敗退だぞ」
「え? 本当に?」
「こんな事で嘘ついても意味ないだろ」
 信じられない言葉に思わず反射的にそう返した私に、呆れた口調で言った。
「それはそうだけど……」
 イオリとは前回の決勝トーナメントの2回戦で対戦した。私が勝ったが実力差は殆どなく、決勝戦で対戦した人よりイオリの方が強かった。そんなイオリがまさか予選敗退だとは思いもしなかった。
「まぁ、俺はセカンダリ内予選3位だったしな」
「……それも信じ難い言葉ね」
 予備予選前にセカンダリ内で予選を行う事になっている。選考基準はセカンダリによって違うが、トーナメント形式で戦うのが一般的だと思う。
「という事は、彼が1位だったの?」
「いや、俺に予選の決勝で勝った子が1位だよ」
「……さらに信じ難い言葉ね」
 私はため息混じりにそう返す事しかできなかった。
「多分だけど、アリィが決勝トーナメントの1回戦で対戦するのは、その子になるだろうな」
「どうしてそう思うの?」
「今大会の優勝候補だしな。優勝候補と前回の優勝者を決勝の初戦で戦わせるのはよくあることだからな」
「それだけ? 理由は」
「いや、もう一つの理由があって……」
 そう言うとイオリは周りを見渡し、近くに人がいないことを確認し声を小さくして話を続けた。
「アリィぐらいしかいないんだよ。彼女と初めて戦って重症を負わずに済みそうなのがな」
「どういうこと?」
 学年が違ってもセカンダリに通っている人の持っている魔力の総量は殆ど変わらない。
 魔法使いの卵とはいえ実践練習を積み重ねているから、魔力の総量が殆ど変わらない者同士の戦いで重症を負う事は稀なはず。
 ということは……
「ああ、その通りだよ」
 私がどういう結論に至ったか表情で察したのだろう、イオリはそう言うと続けて
「実際に俺は一回も彼女に勝った事ないしな」
と、言った。
「……じゃあ、彼は?」
「んー何回か勝った事はあるらしいけど……負けた回数の方が多いらしい。最近はほぼ引き分けでみたいだけどな」
 イオリが肩をすくめてそういった。
「この武道会に出てくるやつ、特に、決勝まで残ったやつらは無駄に自信過剰だろ?」
「そうね」
 イオリの言葉に私は肩をすくめてそう返した。
 前回大会の決勝トーナメントの1回戦で私と対戦し敗れ、今大会では予選トーナメント1回戦で彼と戦い敗れた小者を思い出した。
 両方とも明らかに完敗だったのに負けを認めずあれこれ言ってきたっけ……何と言う名前だったかしら……まぁ、どうでもいい事ね。
「その点、アリィは冷静に把握できるしな。アリィに勝ったと後だとギリギリまで負けを認めないやつはいないだろうしな」
「私が負けること前提なのね?」
 意地悪でそう返してみたが、イオリは慌てることなく
「ああ。いい勝負はできても勝つことはできないよ」
と、返してきた。
「本人を目の前によくそこまで言い切れるわね」
 おそらく、イオリ言う通りなのだろう。
「とか言ってるけど、どこか嬉しそうだな」
「あら、そう見える?」
「ああ」
 前回、優勝したけど私は決して強くはない。それは自分でもわかっている。
 私には年の離れた、魔法使いである兄がいる。
 最近は兄が忙しく手合わせをしていないけど、兄に勝つどころかダメージを与える事すらできた事がない。
 魔法使いの卵と魔法使いとの差は想像以上にあることを私は実感している。
 だから前回で私が優勝したとき愕然としてしまった。魔法使いの卵と魔法使いとの差を実感しながらもぬるま湯につかったままセカンダリを卒業する事になるのか、と。
 別のセカンダリとはいえ、セカンダリ内に私よりも強い人が最低でも2人現れたのだ。それが嬉しくて顔に出ていたのだろう。
「そんなアリィに彼女と戦う際のアドバイスを一つしようと思うのだがどうする?」
「……いいの?」
「ああ、特にアリィに有利になることでもないし。伝えた方がアリィにとっても彼女にとってもいい経験がつめるだろうしな」
「そう……なら折角だしもらおうかしら」
「ああ……彼女と戦う際は……」
 イオリは私の耳元で呟いた。
「え、そんな事なの?」
 その内容に私はびっくりした。だってあまりにも単純な事だったから。
「そう、そんな事。でも、重要な事なんだ。彼女と初めて戦うときは、ね」
 イオリはそう言うと私に背を向けて
「見ごたえのある試合になることを楽しみにしてるよ」
と、言い残し去っていった。
 さて、私も決勝トーナメントの準備に入りますか。
 

 選手控え室に張っている決勝のトーナメント表を確認するとイオリの予想通りの組み合わせになっていた。
 名前はミオ……か。どこかで聞いた事があるような気がするけど、思い出せないので気にしない事にしよう。
『今から決勝トーナメント第一試合を開始いたします。アリィ選手とミオ選手は試合会場に入ってください』
 入場を促すアナウンスを聞き、深く深呼吸をする。
「よし」
 気合を入れ選手控え室から試合会場へ繋がる道へと歩いていく。
「今日はよろしくお願いしますね」
 私より頭一つ分身長が低い女の子がそう言うと、私と並んで歩き始めた。
「あなたがミオね」
 優しそうな……悪く言えばか弱く頼りなさそう。それがミオに対する第一印象だった。
「はい。今日はアリィさんとの試合を楽しみにしてたんです」
「私との試合を?」
「はい。イオリさんからアリィさんとの試合は私にとってもいい経験になるはずだって、大会が始まる前から聞いてましたから」
 微笑みを浮かべたままミオはそう言った。
 楽しみにしているならそれに応えたいと思う。
「そう……なら、私の全力をもって戦うわ。楽しみましょう、お互いに」
 私がそう言うと、ミオは
「はい」
と、より微笑みを強くし頷いた。

『それでは決勝トーナメント1回戦。アリィ選手vsミオ選手、始めてください』
 試合開始の合図があるとすぐに、私は速攻をしかけた。
 イオリから受けたアドバイスが、最初から全力で行け、というものだったからだ。
 最初に無発声の雷系の魔法、ライトニングをミオの背後から発動させる。
 無発声で速さで一番を誇る雷系の魔法を発動させる、これを避けるのはかなり難しい。けれど、無発声魔法ということでかなり威力は落ちる。でも、無発声魔法は相手の隙を作るのが目的だからそれで問題はない。
 ミオがライトニングに当たったのを確認すると、続けざまに、
「ウィンドカッター、ファイアボール、アースジャベリン、ウォーターハンマー」
 無発声魔法と無詠唱魔法を組み合わせて魔法を放っていく。初級魔法なので無発声魔法と無詠唱魔法で威力はあまり変わらないけど、飽くまでこれらは隙を……そう、私が無詠唱で扱う事のできる最大の魔法を放つための隙を作るのが目的。
「よし、いっけー!ダウンバースト!!」
 突風を真下に吹きつけ相手を地面に叩きつけることで、長い隙を作る事ができる呪文だ。
 これで詠唱できる隙ができたはず。
 ミオと距離を取り精神を集中させ詠唱に入ろうとした瞬間、嫌な感じがしすぐさま後ろへと飛び下がった。
 飛び下がった瞬間、私が先ほどまでいた所に雷が落ち、地面に穴が空いた。
「なっ!」
「あれ? タイミング的に決まったと思ったんだけど、避けられちゃいましたか」
 試合会場には強力な防御魔法がかけられていて、そうそう地面に穴が空く事はない。
 しかも、発動までミオの声が聞こえなかったから……無発声魔法という事?
 試合中に相手と自分との魔力の総量を比較するのに指針になることが2つある。
 1つ目は無発声魔法の威力。2つ目は魔法抵抗の強さ。
 強力な防御魔法がかかっている物に対して穴を空けることができる無発声魔法の威力を誇り、あれだけの魔法を立て続けに受けて殆どダメージを受けていない魔法抵抗の強さ……
「さて、次は私の番……ですよね?」
 そう微笑みながら言うミオ、その微笑みは私にとって恐ろしく感じた。でも……
「ふふ……そうね、さぁ、きなさい!」
 私もミオと同じように微笑みを浮かべていた。
 おそらく、ミオの魔法抵抗の前では、私の無発声魔法は全くダメージを与えるはなく無詠唱魔法で何とかダメージを与える事ができる、と言ったところだろうか。
 でも、ミオは私が詠唱に入るとすぐにそれを阻止した……詠唱をされたくなかったのだ。
 詠唱さえできればダメージは与える事ができるはず。
 問題はどうやってその隙を見つけるかだけど……私でその隙を作ることはできなかった。ならば、ミオ自らの手で隙を作ってもらうしかない。
「……くっ!」
 でも、それも容易な事ではない。
 先ほどの無発声魔法の威力を見る限り、無発声とはいえ当たってしまうと運が良くて大きな隙ができる、と言ったところだろう。
 だから、避け続けるしかないのだ。どうしても避けられないときは防御結界を作りダメージを極力少なくする。
「無発声なのにそこまで避けることができるなんて」
 攻撃を中断し感心したような様子でミオはそう言った。
 無発声魔法でも発動するときには魔力の動きはある。それを見極めれば避けることができる。
 理論上では分っていた事だけど、実際にやってみるのは初めてだった。
 初めはギリギリで避けていたのだけど、慣れてきたからか余裕を持って避けられるようになってきた。
 この試合中に自分が成長していることに気づく、苦しいけど楽しい。
「では……こういうのはどうですか?」
 ミオがそう言うと無発声のライトニングを私の背後から発動させてきた。
「危なっ!」
 ギリギリの所で何と避けれた。雷系の無発声魔法は慣れてもギリギリになってしまう。
「アイスジャベリン、ストーム、ストーンブラスト」
 今回は無発声だけではなく、無詠唱魔法も織り交ぜて放ってくる。
「ちっ」
 何とか避けることはできているけど、このままでは私の体力がなくなってその内に当たってしまう。
「!?」
 魔法を避けるために飛んで着地した瞬間、嫌な感じがし体をひねると雷が頬を掠め空へと向かい走った。
「スプライト? でも全く発動した瞬間に魔力を感じなかった……遅延魔法まできるなんて」
 普通の魔法の完成と発動はほぼ同時。しかし、遅延魔法は発動のタイミングを遅らせるもの。
 魔力が使われるのは魔法の完成時、つまり、遅延魔法は相手に知られず発動させる事ができるので避けるのはかなり困難。
「いえ、避けれる方が凄いと思います」
 私の言葉に対しそうミオはそう返した。
「でも、私のターンはまだまだ続きますよ」
 そう言うと次々と魔法を放ってくる。
 これだけ魔法を連続で放っているのにミオには疲れが見えない。
「くっ……危な……あっ」
 何とか飛んで避けたその先には
「行きます……サンダーブレード!」
 ミオが雷の剣を携え待ち構えていた。
「…ォォォォ…!」
 声にならない声をあげ何とか避けようとするも掠ってしまった。
 この魔法は掠ってもいけないのに。
「掠っただけですか……でも、十分です」
 ミオはそう言うと私と距離をとり呪文を唱え始めた。
 よし、引っかかった。
 サンダーブレードはダメージの他に相手を麻痺させる効果があり、その効果は掠っただけでもある。
 普通なら呪文が完成するまで体は痺れたままだろう。
 でも、私は……
「リカバー」
「っ!」
 状態回復魔法を使えるのだ。セカンダリで使える人は殆どいないから私が使えるとは思わなかったはず。
 ミオは今、詠唱に入っている。
 詠唱に入ってすぐなら途中でやめても影響はないが、呪文が完成に近づくにつれ途中でやめたときに体に負担がかかる。つまり、隙ができる。だから途中でやめることはできない。
 呪文が完成するのが速いか私がミオに攻撃を入れるのが速いかの勝負。
「サンダーストーム!」
 しまった、呪文の完成の方が速かった?
 いや、呪文を唱えた割には魔力がこめられていない……未完成のまま放った? そうなら……
「は、はぁぁぁぁーーー」
 防御結界を上だけに展開しミオに向かって走り続ける。よし、これなら大丈夫、私の防御結界で耐えられる。
 ミオまで後数メートル。ミオは魔法発動後の硬直に入ったままだ。いける。
「サンダーブレー……っ!?」
 何かを考える前に私は後ろに飛び下がっていた。何かに気づいたわけではない。ただ、本能で危険ということを察知した。
 そして、飛び下がった瞬間、私が元いた場所を雷の嵐が襲った。
「……っ」
 危なかった。あのままサンダーブレードを放っていればまともに食らっていた。
 この威力からすると当たったら私は気絶していただろう。
「あれ……今度こそ決まったと思ったのに……」
 そう、不思議そうに首を傾げながらミオが呟いた。
「何故避けられたのか、私自身でもわからないわ」
 ミオの呟きに私は素直にそう返していた。
 ミオが先ほどした事は遅延魔法を使った物だということは何となくわかるけど、どうやったのか私には全く分らなかった。
「まさかこれを使う事になるなんて……メロディーフラワー」
 私は反射的に身構えたけど何も起こらなかった。辺り一面に数え切れないほどの音符が現れた事以外は。
「この音符は私以外が触れると爆発する仕掛けになっています。勿論、私の意思で爆発させる事もできます」
 ミオはそう言うと近くにあった全音符を持ち軽く上に投げると全音符は爆発し、二分音符が二つになった。
「反撃の事なんて考えず防御に集中してくださいね。そうしないと、少し大変な事になるかも」
 ミオはそう言うと私の背後に無発声のライトニングを発動させてきた。
「っ……しまっ」
 反射的にそれを避けたけどその避けた先には音符があったのだ。
「……くぅぅぅう」
 私が音符に触れるとその音符は爆発し、それに巻き込まれた私は吹っ飛ばされ、その先に音符があり……それの繰り返し。
 上下感覚がなくなるくらい繰り返されてもまだまだこの連鎖は終わりそうにない。しかし、不思議と頭は回っていた。
 ミオが触れても爆発しないという事は魔力を感知している? ならば、私が纏っている魔力を0にすれば……ダメ、ミオの意思でも爆発させる事ができる。魔力を0にした状態でこの爆発を一回でも受けたら大怪我を負ってしまう。
 ではどうすれば一番ダメージが少なくてすむ?
 気づいたことはこの音符に触れたときに纏っていた魔力が多いほど爆発は大きくなるという事。つまり、防御結界を強くしたら逆にダメージを受けてしまう、というようになっている。
 纏っている魔力を0にしないまでも小さくしすぎたらミオは音符を爆発させるだろう。
 ならば私の取れる行動は一つだけ……
 ミオが自らの意思で爆発させないギリギリの弱さで防御結界を作り、後はひたすら耐えるのみ。
 音符に触れているうちに何となくその弱さはわかっている……後は私が耐えられるかだ。
 恐らく、長くても数分間の事だったと思う。だけど、私には何十分間の事にも感じられた。
 だけど……
「これでもまだ立っているなんて……」
 何とか立っている事だけで限界だけど耐える事ができた。
「尊敬します……少なくとも同じ事をセカンダリに通っている人でできる人はいないと思います。勿論、私にもできません」
 ゆっくりと私に向かい歩きながらミオはそう言った。
 そのミオの胸元には小さな光玉がある。
 私が吹き飛ばされ続けている間に呪文を唱え終わっていたみたいだ。
 呪文は聞こえなかったけどその光玉にこめられている魔力……私の魔力の総量と同じ……上級魔法だろう。
 あはは、言葉は悪いけどこの子、正真正銘の化け物だ。
 そう思った瞬間、ミオという名前をどこで聞いたのか思い出した。

 兄がセカンダリの入試試験委員を終え、実家に帰ってきたときの事。兄は入試試験の中でも実践試験の担当をしていた。
 セカンダリに入ろうとする子達が相手、何戦しても疲れることはないはずだった。
 だけど、兄は疲れた様子で実家に帰ってきた。
 どうしたの? と私が聞くと兄は
『手加減をしていたとはいえ実践試験でもう少しで負けるところだった……いや、あの結果は負けたも同然か』
 と、ぽつりと言った。
 兄の口から出た予想外の言葉に呆然としていると、兄は続けて
『いや、手加減してなくてもどうだったかな……ミオだったか……能力だけなら今からでも十分に魔法使いとしてでも活躍できるな。おそろしい子が入ってきたものだ』
 と、言うとシャワーを浴びに行った。
 3年ぐらい前の事だから忘れていた。あの兄の言葉は嘘でも冗談でもなかった。

「一ついいかしら?」
 私の目の前までミオがきたのでそう聞くと、首を縦に振った。
「ミオによってこの試合は楽しかったかしら?」
 そう、これだけが心残りだった。
 私は楽しかった。
 実力差を見せ付けられた結果だったけど、何かつかめるものがあった。勝ち続けるだけでは得られないものがあった。
 では、ミオはどうだろうか。
 セカンダリにいる間にミオより強い人が現れることはない。
 勝ち続けていく中で何かを得ていくのは難しい。それは私がよく分っていた。
「はい、楽しかったです。当たったと思ったのに当たってなかったり。決まったと思ったのに決まってなかったり。私はまだまだだと思い知らされましたし……何より、私が持ってない何かを持っている人に会えることは楽しいですよ」
 ミオは満面の笑みを浮かべながらそう言った。
「そう、良かった。審判、私の負け……降参するわ」
 私がそう言うと観客席から大きな歓声があがった。
 そうだった観客がいたんだ……試合中に声なんて全く届いてなかった。
「あの、歩けますか?」
「ええ、大丈夫」
 ミオから差し出された手を丁寧に断り歩き始めた。
「もう歩けるなんて、やっぱり私はまだまだです」
 私の歩いている姿を見てミオはそう言うと選手控え室に向かい歩き始めた。
 試合に勝った選手は選手控え室に戻り、負けた選手は治療室へと向かう。
 選手控え室にも簡単な治療をできる設備はあるけど、ダメージが大きいとダメージが残ったまま次の試合に挑む事になる。
 如何にダメージを受けないかも優勝するには大切なのだ。
 私はゆっくりと治療室に向かい歩いていく。
 焦る事はない。折角の楽しい試合だったのだ、その余韻を味わいたかった。
 治療室に向かう階段を降りるなり、そこは一転して薄暗く、薬品の匂いが――私が負けたことを強く感じさせる匂いが鼻をついた。



《 Resonance 了 》



【 あとがき 】
祝MC復活!
というわけでより気合を入れてみました。その分、長くなっているよ!
人様に見せる作品を書くのが久しぶりだったので苦労しました。
書く内容はあっさり決まったんだけどね。
タイトルのResonanceは共鳴とか余韻という意味……この内容だと何故このタイトルにしたのか意味不明かも

『忘れられた丘』 矢口みつる(知)


゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜

●階段を降りるなり、そこは一転して薄暗く、薬品の匂いが鼻をついた。

《 ワルプルギスの夜 》

著者:Clown

【 注意 】
 残酷表現が苦手な方は飛ばしてください。



 階段を降りるなり、そこは一転して薄暗く、薬品の匂いが鼻をついた。
 寂れた市立病院の地下、薄緑色に塗られた廊下は下地のコンクリートがひび割れ、所々に地肌が顔をのぞかせている。一応清掃はされているものか、埃っぽさはないが、浮いた塗料が粉になってそこかしこに拡散していた。
 しんと静まりかえる細長い部屋に、革靴の音はよく響く。いつもならそんなことは気にも止めないのに、今は乾いた残響が青年の心を酷く苛んでいる。胸の内を掻き乱し、掻き毟り、抉り取るような感覚、あるいは端的に絶望と呼んでも良い。一つ歩を進めるごとに、彼我の距離はわずかに縮まる。すぐ背後に押し迫る絶望をなすがままに、彼は最奥にある扉を目指して歩み続けた。
 簡素で、錆の浮いた、鉄の扉。ドアノブを回し、そっと押し開く。
 蝋燭の火が、扉に煽られてゆるりと揺れた。
 六畳そこそこの薄暗い部屋に、男が三人。医師と、警察と、そして恐らく病院の警備員であろう壮年を順繰りに見やり、青年は部屋の中央に鎮座する小さな寝台に向けて足を伸ばした。
 地金剥き出しの寝台に、申し訳程度の白いシーツがかけられている。何の飾り気もない無機質なオブジェの上には、何かを覆い隠すようにさらにもう一枚のシーツがかぶせられていた。
 その純白のベールを、そっとはぎ取る。
 まるで、泣いているようだ、と青年は思った。
 シーツの下から現れた、少女の顔。つい昨日まで、自分の隣で笑ってくれていた。今日の朝には、お揃いの服を着て、一緒に海の見える公園を歩くはずだった。
 白い装束に身を包む彼女の頬を、そっと撫でる。絹のようななめらかな肌は、冷たくなった今でもやわらかな弾力で青年の指を押し戻した。そのまま、首元に指を滑らせる。そして、なだらかな皮膚にわずかな窪みを感じ取り、青年は唇を強くかみしめた。
 左右一対の、楕円形のあざ。
 どれほど、苦しかっただろう。青く変色したその痕をなぞりながら、彼は思わず叫び出しそうになった。ぐっと飲み込んだ嗚咽と呪詛に、握りしめた両手が震える。
 一点を見ていたはずの視界が、ぐらりと揺れた。遅れて大きな音と右手の痛みが走り、彼は初めて自分の行動を知る。やや慌てた様子で近づいてきた警備員を制し、今し方寝台に叩き付けた右手をそっと少女の胸に下ろした。
 その手に返る鼓動は、ない。
 何度確かめても同じことは、青年にも理解できていた。だが、例え理解を出来たとしても、その理解を受け入れるには、事実はあまりに重すぎる。
 少女は、死んだ。
 人気の無い公園で、無残に殺された。
 警察の男がゆっくりと近づき、青年の肩に手をやった。医師は少し乱れたシーツをそっと少女の亡骸にかけ直し、軽く黙祷する。青年は警察の男に促されるまま寝台から下がると、警備員の開けた扉から一緒に廊下へと退出した。
 事件性があるため、このまま司法解剖に回されるのだと、警察から説明を受ける。死んでからも陵辱されるんですね、と青年が言うと、警察の男は苦い顔をした。もう何十回と無く恨み言を聞いてきたよ、と、ため息混じりに言うと、男は青年の肩を軽くたたいてそのまま廊下の向こうへと歩いて行く。
 一人取り残された青年は、扉の向こう側をもう一度見やった。純白に包まれた少女。彼女の体温も、声も、永遠に失われ、もう二度と戻ってこない。そしてこのまま、彼女の肉体も失われてしまうのだろう。わずかな記憶と記録を残して、彼女は『いなくなってしまう』。
 いやだ。
 そんなのは、いやだ。
 ただの思い出に成り下がるなんて、そんな現実を受け入れることなど出来ない、受け入れない。ただ一方的に思い出すだけなんて、そんなのは自慰行為に等しい。まだ話したいことはあった。まだ一緒にしたいことはあった。そしてそれらはこれからも増えていくはずだった。増え続けるだけのはずだった。
 途絶えることなど、無かったはずなのに。
 青年は、その場で膝をついた。閉じられゆく扉が、世界の終わりに見える。この扉さえつなぎ止めれば、少女はいなくならないかも知れない。そんな馬鹿げた思考すら頭をよぎる。
 だが、今の青年にとって、それは馬鹿げたものであると同時に、何よりも甘く魅力的な希望でもあった。扉を閉めさせなければ、彼女は消えない。きっといつか、開け放たれた扉からいつもの笑顔がひょっこり顔を出すに違いない。
 そうだ。
 そうに、違いない。
 青年の顔に、わずかに、わずかに色が混じる。絶望に沈んだ黒の中に、狂気という黒が混じる。そのわずかな明度の差が、彼を意識の虚へと、境界線を越えた先へと、深く飲み込んだ。
 それは、宴。
 生と死の狭間で運命を嗤う、魔女達の饗宴。

「あなたの願い、叶えてあげよっか?」

 一切合切を台無しにする、一夜限りの狂い詩。



 目覚めると、青年は自分の部屋にいた。
 いや、正確には恐らく自分の部屋であろうという確信を得るまでに数度あたりを見渡した。机の上にある写真立てを見て、ようやくここが自室であると結論づける。
 靄のかかったような思考の膜を振り払うように頭を横に振り、青年は今に至る経緯を思い出そうと天井を仰ぎ見た。何の変哲もない白い壁に、ぼんやりとした記憶が思い描かれる。
 突然の訃報。変わり果てた少女。閉じゆく扉。そして、声。
 声? そうだ、確かにあのとき、声を聴いた。まるでその場にそぐわない、それなのに何故か心地よい響きを伴った、声。その声に導かれるまま、自分はゆっくりと立ち上がり、錆の浮いた鉄扉に手をかけて……それから?
 しばらく記憶の海を彷徨い、それが徒労であることを青年は思い知った。そもそも、どうやって帰り着いたかも記憶にないのだ。もしかしたら、突然の出来事に張り詰めた気を失って、誰かに連れ帰られたのかも知れない。だが、それにしても状況が奇妙だ。なぜなら彼が今思考を巡らしているのは、椅子の上だからだ。ベッドの上ならまだしも、椅子に座らされて寝かされるなど普通ではない。
 天井から、机に視線を移す。ここが自分の部屋だと確信せしめた写真立てには、青年と、そして傍らにたたずむ少女の姿が写った写真が飾られていた。手を伸ばし、そっと写真立てを手に取る。二人が出会った記念日に撮られた、一年目の記録。ほんの最近の事だと思っていたが、気付いたらそれからさらに一年が過ぎ去っていた。
 ピンクのワンピースに身を包み、やわらかな笑顔をたたえる少女。記憶の中にある透き通る声で、今にも語りかけてきそうな、そんな表情をしている。思わず写真の中の彼女に笑いかけそうになり、青年は苦い顔をした。彼女の喪失を既に受け入れつつある自分を、唾棄したくなる。そうじゃない。諦めたくない。諦めたくないからこそ、自分は契約を、

 ……契約、って、なんだ?

「やっと思い出してくれたね」
「!?」

 突如耳元に聞こえた声に、青年は思わず椅子から転げ落ちそうになった。何とか持ち直し、声のした方向を振り向く。だが、そこには誰もいない。幻聴だろうか? そう思ったのと同時、彼の顔を何者かが掴んで引き寄せた。
 その目線の先、青年はあり得ないものを見て思わず気を失いそうになる。
 女の顔があった。いや、よく見れば童女と言っても良いほど幼い顔立ちをしている。勿論、彼女が何故、どうやって、どのような理由でそこにいるのか知る由もない。だが、それら全ての疑問すらどうでも良いことにしてしまうほどの問題がある。
 彼女が、全く逆さまを向いていると言うこと。
 天井に重力が移ってしまったのだろうか? 確かに彼女の足は『天井を踏みしめている』。だが、自分は今も床に足をついている。単純なパラドックス。だが目の前の彼女は、そんなものは何でも無いかのように振る舞う。
 混乱する青年を見て、まるで悪戯を楽しむ様に笑う女。彼の顔から手を離すと、ぽんと天井を蹴って本来の重力の方向に戻った。しかし、笑顔のまま振り向く女の足は、床には接していない。
「気付いてくれるの、ずっと待ってたのに。退屈で寝ちゃってた」
 欠伸のまねごとをする女を前に、青年は何とか混乱を収めようとしていた。物理法則を無視して漂う女は、どうやら幽霊の類いではないらしい。今でも頬に残る温かな彼女の手の感触が、それを否定している。さりとて人間でもあり得ないことは明確で、いくら考えたところで結論は出そうにない。
 ならば、と青年は思いきって根本的な質問を切り出した。
「お前は、誰だ」
 瞬間、女はきょとんとした顔をしたが、ややあってキャハハと甲高い声で笑い出した。
「え~? ホントに覚えてないんだ~。ガッカリだな~」
 台詞とは裏腹に全く落胆の色を見せない女に、青年は苛立ちを覚え始めた。超常的なところを除いてしまえば、女はただの迷惑な闖入者に過ぎない。途方も無い喪失感に打ちのめされた彼の心に、それ以上彼女に関心を割く余裕は無かった。
 しかし、

「せっかく愛しのあの子を生き返らせてあげようと思ったのに」

 その全ての意識を、彼女はたった一言であっさり奪い取った。
「……今、なんて言った」
「あなたの一番して欲しいコト」
 詰め寄る青年に意味深げな笑みを浮かべると、女はひらりと再び天井に足をつけた。そのまま行き止まりまで歩くと、見せつけるように壁に沿って歩き出す。だが今の青年にとって、彼女の存在の特殊性など大した意義は無い。
 椅子から立ち上がり、青年は壁に足をつけてこちらを見上げる女の前に立った。女はそこにしゃがみ込んで両手でほおづえをつくと、小首をかしげて青年の瞳をのぞき込む。
 赤く透き通る瞳が、青年をとらえた。その刹那、まるでストロボスコープのごとく強烈な光の明滅とともに、様々な光景が脳裏に映し出される。
 少女の亡骸。
 安置された白い部屋。
 閉じゆく鉄扉。
 伸ばした右手。
 そして……現れた赤い女。
 全ての映像が青年の中で弾け飛び、彼は全てを思い出した。この扉さえつなぎ止めれば……そう心の底から願った瞬間、自分の周囲が凍り付いたように動きを止め、目の前にこの女が現れたのだ。



 真っ赤なパーティードレスのような衣装に身を包み、深紅に燃える髪をなびかせた女は、童女のような顔立ちにまるでそぐわない妖艶な眼差しで青年を見、ルージュののったやわらかな唇で言葉を紡いだ。
「あなたの願い、叶えてあげよっか?」
「……え?」
 突然目の前に現れた女の言葉に呆気にとられる青年を尻目に、女は開かれたままの鉄扉をすり抜けて金属の寝台に向かう。慌てて追いかけた青年は、扉の向こうの光景を見て絶句した。
 少女の亡骸が、宙を浮いている。だらりと力の抜けた四肢が垂れ下がり、肩まで伸びる亜麻色の髪が無風のはずの空間で揺れた。その隣には、少女の後頭部に手を当て同じように浮遊する女。
「この子、生き返らせたいんでしょ?」
 唖然とする青年に事も無げに言い放ち、女は少女の亡骸から手を離した。思わず駆け寄り伸ばした手の元に、まるで羽のごとく軽い亡骸が収まる。横抱きに抱えた青年はそのままゆっくり彼女を地面に下ろした。
「お前、一体……誰だ」
 引きつる声で問う青年に、女は何故か嬉しそうな顔で答える。
「私はねー、あなたたちの言葉で言うなら『魔女』ってことになるかな」
「魔女……?」
「そ、魔女。あなたの強い欲望に惹かれて、こっちにやって来ちゃったの」
 そう言って、女は衣装をひらりと翻して、青年が抱える少女を指さす。彼は女の指先をたどるように少女の亡骸に視線を落とした。
 そこに、奇妙な印があることに気付く。
 少女の左胸、ちょうど心臓の高さにある位置に、赤い六芒星が浮かび上がっていた。鮮血のように鮮明な赤の印は、薄暗い室内でぼんやりと輝いている。青年はそれに手を伸ばしたが、手のひらに返ってきた冷気に思わず手を引っ込めた。
「これは、なんだ」
 浮かぶ女を仰ぎ見ると、彼女はクスクスと笑いながら答える。
「それは、契約書よ」
「契約……書?」
「そ。あなたの『願い』を叶えるための」
 思わぬ答えに、青年は言葉を詰まらせた。流れがあまりにも荒唐無稽に過ぎる。止まったままの周囲の時間。突如現れ、浮遊する女。そして、魔女の契約。いずれも現実にはあり得ない。たちの悪い冗談か、或いは悪い夢でも見ているのだろうか。
 青年の内に一瞬の躊躇が生まれ、程なくして願望が勝った。それが例え夢で会ったとしても、失うものは何も無い。そして仮に現実であったとして、少女が生き返るのであれば彼にとっていかなる代償をも払う価値がある。
「……契約の内容は?」
 青年が問うと、女は笑顔のまま、しかしやや神妙な口調で語り出した。
「私があなたの願い事を一つ叶えてあげる代わりに、あなたは私の願い事を一つ叶える。どんな願いでも叶えてあげられるけど、それがどんな願いだとしても、私の願いを必ず一つ叶えること。例えどんなに釣り合わない願いだとしても、ね」
 最後の一言に妖艶な笑みを乗せ、女は浮かんだまま青年に顔を近づけた。ぞくりと背中に寒いものが走るのを感じながら、青年はなるべく平静を保った表情で女に相対した。
 アンフェアな契約であることは、目に見えている。少女を生き返らせる代わりに、自分の死を命じられる可能性すらある。死なないまでも、彼女と一緒にこれまでと同じ生活を続けることは困難になるかもしれない。
 青年の手が、わずかに震えた。彼が本当に望むのは、何事も無く少女と歩んでいける人生だ。彼女が死ぬこと無く、彼が欠けることも無く、ともに想いを全うできる人生。
 しかし、その願いは『二つ』。彼の願いと、そして少女の願い。二つで初めて一つとなる。
 実際、女はそれを是としなかった。少女の意思がない以上、その願いは青年一人の意思で実現できるものではないし、何より『何事も無い』ことを女は許さない。それは女の願いの幅を狭める条件だ。
 だから、選択肢は、一つしか無い。
「……彼女を、生き返らせてくれ」
 平静に振る舞ったつもりでも、声が震える。女はそれを見て取ってまたもクスクスと笑うと、左手を少女の胸の六芒星にあてがった。そして青年の右手を取ると、強ばる彼の手を彼女の左手の上に乗せる。先ほど感じた冷気は無く、まるで脈打つような感覚と柔らかな暖かさが彼の手を包み込む。
 鼓動。
 そこに感じるのは、確かに少女の鼓動だ。
 青年の頬を、思わず涙がこぼれ落ちる。だが、その鼓動はとても弱々しく、今にも止まりそうなほど不安定だ。女の方を見ると、彼女は唇に指を当てて囁くように言った。
「純粋な『魔法』だけで動かすのは、これが精一杯。完全に生き返らせるには、『触媒』が必要よ」
「魔法……触媒……?」
 およそ現実とはかけ離れた言葉の流れを、青年はオウム返しのように呟く。その間も、彼の手に返ってくる熱は弱く、拍動も感じられなくなっていく。
「そう、触媒。この子の心臓を、ずっと動かしておくための、ね」
 だから、まだこれは仮契約。そう言って、女は青年の目をまっすぐ見据えた。青年の奥深く、まるで彼の内面を直接のぞき込むような視線から、目をそらすことが出来ない。
 恐らくそれは、彼の最も深い場所、魂とでも言うべきものに刻まれる、契約。
「私の名前を呼べば、契約は成立よ。さぁ、呼んで。私の名前は、『輝ける赤き純情(キャンディド)』」
 彼女の言葉に、言葉の波動に、揺さぶられた魂が、うねる。彼女の名前を呼ぶだけで、愛しい少女が蘇る。甘美で、歓喜に満ちた契約。それと引き替えに支払うべき代償が、目の前の報酬の前に霞んでいく。
 そうだ。彼女さえ蘇れば。
 彼女さえ、蘇れば。

「……『輝ける赤き純情(キャンディド)』」

 呟いた瞬間、青年の目の前を赤い闇が覆った。視覚が赤以外の色を認識できなくなり、聴覚も、嗅覚も、味覚も、触覚も、さらには自分と周囲の境界すらも曖昧になっていく。
 己の願いを頼りにようやく自我を保つ青年の前に、より深い赤の六芒星が現れた。それが加速度的に回転し、やがて弾け飛ぶ。そして、その中から溶け出すように現れた深紅の魔女は、青年の右頬に手を当てると、左頬にそっと口づけた。溶けそうなやわらかさを感じたのもつかの間、青年の意識は赤に溶け込んで霧散する。その様を、深紅の魔女は、笑いながら見送った。



「……夢、じゃ無かったのか」
「もちろん」
 壁に座り込む女を見下ろしながら、青年は苦い顔で呟いた。夢では無いと言うことは、少女を生き返らせる事が出来ると同時、自分自身の身柄が、既に魔女の手に預けられてしまっていると言うことを意味する。
 得がたい報酬に盲目となった自分に懊悩する青年を見ながら、魔女は手を伸ばして彼の鼻に指を押しつけた。
「何悩んでるの? 今更契約の破棄なんて認めないからね」
「……そんなつもりじゃない」
 彼女の手を振り払い、青年は憮然と答える。彼女はクスクス笑うと、男の子は強がるのよね-、などと言いながら壁から離れ、青年の前に立った。地に足をつけると青年より一回り小さい彼女は、やはり彼を見上げながら話し始める。
「さ、それじゃ、早速働いてもらおうかしら。愛しのあの子を生き返らせるために」
 契約。
 青年の願いを叶える代わりに、魔女の願いを一つ叶える。それが契約の内容だった。例えそれがどれほど釣り合わない対価であったとしても、支払わなければならない代償。その大きさを、青年は最大限に見ていたつもりだった。
「……何をすれば良い」
 しかし、魔女から提示された内容は、彼の想像の枠そのものを、大きく逸脱していた。
「そうね。じゃあ、処女の心臓を持ってきてもらおうかな」
「……な、に?」
 青年は耳を疑った。いや、その声は明朗で、実際には確実に言葉の意味をとらえられていた。だから、願望として耳を疑っていたかった、と言った方が正確かも知れない。
「だ・か・ら、処女の心臓よ。新鮮なのじゃなきゃ駄目よ?」
 魔女は先ほどまでと同じ、無邪気なまでの笑顔で繰り返す。彼はじっとりと湧き出てくる汗を感じながらも、微動だにできなかった。唇と手足が、酷く強ばっているのが分かる。まるで全身の血液を抜き取られたかのように、あちこちで鈍いしびれが走った。
 とても容易に頷ける内容では無い。目の前の魔女は、処女を殺してその心臓を抉り取れと言っているのだ。彼女が魔女であるという事実を、改めて思い知らされた。それはもう、人としての領分を完全に超えている。
 拒否権が無いことは、言われないまでも理解できた。既に契約を交わした以上、破棄すればこれ以上の凄惨な対価を支払わされることになるのだろう。最早、想像もつかないほどの対価を。
 轟々と鳴る耳鳴りを圧して、青年は渇ききった喉を絞るようにうめいた。理を曲げようとした、これが罰か。人外のものと契約した、これが報いか。声にならない声をあげる青年を、魔女は小首を傾げて見ていた。
「そんなに唸るほど大変? あ、分かった。処女の選別を心配してるの? 大丈夫よ、私がちゃんと見分けてあげるから」
 勝手な想像に回答を出し、得意げに語る魔女を、青年は畏怖を超えてまるで何か質の悪いオブジェでも見るような目で見ていた。理解の範疇を超えた存在を、脳が『物質』としか認識できないのかも知れない。
 だが、目の前に屹立するオブジェの発する呪いの言葉に、青年は従うしか無い。
 彼の頭の中で、覚悟と諦念の歯車が噛み合った。
「……分かった」
 掠れきった声で、承諾の意を表す。そのままきびすを返すと、青年はベッドの上に投げ出されていたジャケットを拾い上げて身にまとった。魔女の方に目を向けること無く、開け放たれたままの部屋の扉から外へ出る。背後から押し殺したような笑い声がついてくるが、一切耳を貸さないようにつとめた。
 外は、既に夜の帳が降りていた。契約からどれくらいの時間が過ぎたのかは分からないが、恐らくはそれほど経っていないのだろう。ずっと寝ていた割には空腹感に乏しいことも、それを指示している。
 住宅街を抜け、少し広めの公園に出た。そこからしばらく歩くと、街路樹が立ち並ぶ遊歩道に出る。冬支度を始めた木々の中を歩き、小さな十字路を渡ってさらに先へと進むと、そこに先ほどよりも二回りほど広い公園が姿を現した。
 そこは、少女が発見された場所。
 卑劣な暴力を受け、挙げ句絞め殺された場所。
 検分はもう終わった後なのか、警察やそれに類する人間の姿は無かった。中央に建てられた時計は既に深夜零時を回っており、それ以外の人影もほとんど無い。隅のベンチにはホームレスの布団らしきものが転がっていたが、今は何処かへ行っているようだ。
 時計台の前まで歩き、青年は周囲を見渡して自嘲気味に笑った。目指す場所など無かったはずなのに、まるで何かに吸い寄せられるようにこの場にやってきていた。無意識の行動とは恐ろしいものだ、と彼は心の中で独りごちる。彼をこの場に招いたのは、少女を悼むが故か、それとも。
「うーん、瘴気が濃くて良いところねー」
 背後で魔女が緊張感のない声を上げる。青年は生ぬるい溜息をつきながら、ジャケットの内側に手をやった。
 そこには、家から持ち出したナイフが仕舞われている。以前に海外にいた友人からもらった、やや大振りのサバイバルナイフだ。魔女の要求は処女の心臓であって、処女の命ではない。動物を腑分けるためには、それなりに頑強な刃物が要る。
 喉の奥から嫌な味の液体がこみ上げてくるのを、青年はぐっとこらえた。思わず想像してしまった光景を、彼は必死に頭から追いやろうとする。何かを考えればその分だけ、精神を蝕まれるだけだ。魔女のオーダーに応えるためには、自分自身も人外のものにならなければならない。
「やだ、緊張してるの? 大丈夫だよ、私がついてるんだから」
 魔女の声には応えず、青年はじっと前を見据えた。
 この公園は、街灯の数が少なくて光のささない死角が多い。少女も街灯の死角になるところで殺されていた。人通りもあまりなく、会社や学校帰りの人間がいなくなると全く無人となる時間も長い。少女の家はその先にあり、いつもはまだ公園に人がいる時間帯にここを通って帰宅している。
 少女の警戒心が薄すぎた、と言えばそれまでだが、それは決して免罪符を意味しない。少女を殺した犯人を、青年は死ぬまで許すことは無いだろう。
 そして、自分も今からそうなる。
「あ、あの子はどう? 処女だし、気も弱そうだよ?」
 まるでナンパをけしかけるような口ぶりの魔女を無視し、青年は公園の入り口に現れた人影を見た。小柄で、何処かおどおどした堅い動きの少女だ。高校生くらいだろうか。小洒落た私服と鞄は、友達と遊びに行った帰りなのかも知れない。或いは恋人と? おびえているのは、夜道を一人歩く心細さだけでは無く、遅い帰宅を叱責する両親を思い浮かべてのことなのかも知れない。
 考えないように努めていたはずなのに、様々な想像が止めどなく湧き出てくる。大事な人を失った彼には、それを止めることはできなかった。人一人の死は、その個人の死という事実にとどまらない。その周囲の人間の心をも、容易に壊す一個の『現象』だ。
 近づいてくる、黒髪の少女。時計台に寄りかかる青年の方に気付いたが、特に警戒することも無くこちら側へ歩いてくる。いつの間にか、魔女は姿を消していた。なにやら呟く声だけはするから、近くに存在はするらしい。
 青年はなるべく少女に目を向けないようにしながら、じっと彼女が通り過ぎるのを待った。懐に忍ばせたナイフを握る手が、じっとりと汗ばむ。緊張で乾燥した目が、チクチクと痛んだ。自分の鼓動が耳元で聞こえるほど、感覚が鋭敏になる。
 荒くなる呼吸を悟られないように、胸筋に力を入れた。一歩、二歩、彼女が近づく。ほんのわずかな距離が千里にも錯覚するほど引き延ばされた時間の中で、少女が青年の横を──時計台によって作られた陰の領域へと足を踏み入れた。
 その、一瞬。
 青年のナイフが、少女の首に深く突き立った。踏み込む足音に驚き振り返った表情のまま、少女の口がパクパクと鯉のように開閉する。声帯まで食い込んだ刃は、獲物に声をあげることすら許さない。
 血管を刃で塞がれ、突如行き場を失った血液が傷口から溢れ出した。ごぼり、と言う音を立て、貫かれた少女の喉からも深紅の塊が吐き出される。急激に失われていく血液と酸素供給の途絶は、何が起こったのかも理解させぬまま彼女の脳細胞を死滅に追いやった。
 全身の筋肉が弛緩して地面に叩きつけられそうになる少女を慌てて抱え込み、青年は彼女を公園の隅へと運んだ。いつの間にか姿を現していた魔女が、嬉々として横で飛び跳ねる。
「凄いすごい! 一回で仕留めるなんて、まるでプロみたい!」
「…………」
 負のエネルギーによって生み出された興奮と、二度と引き返せぬ過ちを犯した後悔が綯い交ぜになって、青年は言葉を失っていた。物陰に少女を運んだ後、血塗れになった自分の右腕をじっと見つめる。まるで、他人の腕のようだった。ナイフを握っていた感触も、少女の首を貫いた瞬間の感触も、何も思い出せない。
 汚れていない左手で、右腕を掴んで持ち上げる。そっとナイフに右手をかけると、ゆっくりとそれを引き抜いた。惰性で流れるだけの血液が、破綻した血管からだらりと流れ落ちる。
 そのままナイフを右手にしっかりと握らせると、青年は少女の服を切り裂いた。層になった布地はあっさりと二分され、少女の滑らかな肌が露わになる。控えめな乳房を左手で横へ押しつけると、ナイフの切っ先を彼女の肌にあてがった。
 わずかな逡巡の後、刃が少女の皮膚を貫いた。そのまま、横一文字に滑らせる。限界まで失血したはずの体からわずかに血が流れ、まるで抵抗するように傷口を覆っていくが、すぐに乾いてひび割れていった。忘れていたはずの吐き気がこみ上げて、耐える間もなく空っぽの胃から胃液が吐き出される。
 だが、皮膚の下が覗き、筋繊維が断裂し始めた頃から、嘔気は無くなり始めていた。凄惨なはずの行為が、ただの作業に成り下がっていく。筋肉をそぎ落とし、骨を砕き、まるで家畜の解体のように解剖を進めていく。
 目当てのものは、白い膜に包まれて体の中心部に納められていた。丁寧に膜を剥ぎ、接続する血管を切り落として、その下に隠された赤い臓器をゆっくりと両手に取った。
 最早、脈打つことの無い、心臓。
 ほんの300g程度の、生命の動力源。
「よくできました! これなら良い触媒になるわよー」
 そう言って魔女が青年の手から心臓を拾い上げようとしたが、青年はその手を払いのけ、
血にまみれることも厭わずそれを胸に抱き、泣いた。失われていた感情が、ようやく息を吹き返し、荒波となって青年の心を揺らしていく。
 少女を生き返らせるために、別の少女を殺す。どれほど大義名分を振りかざしたところで、彼の行為はただの殺人だ。殺人者を憎悪しながら、自らも同格に身を堕とす。これほど滑稽なことは無い。或いは、少女もこうやって殺されたのかも知れない。誰かの蘇生の代償に、少女が選ばれ殺されたのだとしたら。
 何のことは無い。少女を殺したのは、自分だ。
「ふ……ふふ……」
 取り戻したのは、笑い声だけだった。弛緩しきった、だらしのない笑い声。だが、最早そんなものは要らなかった。青年は、目的を果たした。少女は生き返る。そしてまた、今喪われた少女のために、別の少女が殺される。これは、ただの通過点に過ぎない。延々と続く人殺しのバトンを、次の走者に渡すだけの。
 青年は顔を上げ、目の前の魔女を見た。相変わらず笑ったままの魔女に、乾ききった笑顔をくれてやる。そして、両手に抱えた心臓を魔女の目の前で握りつぶそうとして、

 彼の意識は、闇に閉ざされた。



 そこには、何も無かった。
 何も無い、と言う表現が正しいかどうかは分からない。ただ、どこまでも広がる空間があって、彼はその空間の一部でしか無かった。手を伸ばそうと思っても手はないし、しかし空間のどの一部分でも認識することができた。
 散り散りになりそうな意識をまとめ上げようとしても、広大な空間にそれらをとどめておく術がない。形という概念が存在しないそこでは、自分というものすら曖昧になっていく。
 ふと気付くと、空間の中に一点だけ、ほんの一点だけ他とは違う場所があった。この空間には色という概念すら無かったが、その一点だけは、『赤』と言う概念が存在した。
 彼は空間に希釈された自分を、何とかその一点に注ぎ込もうとした。一つとっかかりを見つければ、後はそこへと至る流れを作り出せば良い。彼はその点に向けて、ゆっくりと、ゆっくりと『自分』を注ぎ込んだ。
 ゆっくりと、ゆっくりと。

 まずは、白が目についた。
 そこはやはり広大な空間のようだったが、取りあえず白という色は認識できた。徐々に視界が開けてくると、それ以外にもたくさんの色が目の前で踊っていることに気付き始める。そして、視界というものを認識できることに、青年は軽い驚きを感じた。空間という概念ではなく、自分という個が、ここでは存在できる。
 あたりに目をやると、不思議な液体の入った瓶や注射器、あちこちに伸びるコードのようなものが散乱していた。戻ってきた聴覚に規則正しい電子音が聞こえてくる。どうやら、病院のベッドにいるらしいことは、想像がついた。ただ、どういう経緯で自分がここにいるのか、靄がかかったように不明瞭になっている。
 何となく気配を感じて、青年はゆっくりと視線をそちらにやった。少し向こうに、人影が見える。何処かで見たような角のある帽子は、恐らくナースキャップだろう。呼ぼうとしたが、声が出ない。まだ戻ってきてはいないようだ。
 だが、その努力に気付いたものか、看護婦と思われる人影がこちらを振り返った。ピンク色のナース服を着た看護婦は、青年の顔を確認すると、にっこりと笑ってこちらにやってくる。近くに来ると、青年を挟んで向こう側にある機械に手を伸ばした。
 看護婦が身をかがめる。胸の谷間がくっきりと見えた。香水のいい匂いもした。ようやく戻ってきた嗅覚に感動すら覚えたが、まだ手足の感覚だけは戻ってこない。しばらく機械をいじっていた看護婦が、ようやくその手を止めた。「もう大丈夫?」と言う声に応えようとして、声が戻っていないことを思い出す。だが、そんな青年の様子を見て彼女はクスッと笑うと、彼女の右手の人差し指を青年の唇に押しつけた。
「ごめんね、声を戻すのを忘れてた」
 その言葉を聞いた瞬間、青年の全身に衝撃が走った。まだ霞がかっていた意識が急激に晴れ、これまでの全てのことを思い出す。そして反射的に彼女から距離を取ろうとして、自分の四肢がぴくりとも動かないことに愕然とした。よくよく見ると、彼の手足にはまるでぬいぐるみの縫い目のような模様が施されている。
「一体俺に何をした、『輝ける赤き純情(キャンディド)』!」
 何とか動く首を巡らせ、青年はナース服姿の魔女に叫んだ。魔女は悪びれた様子も無くコロコロと笑うと、青年の上に浮かんで告げた。
「何って、契約だもん。あなたのお願いを聞いて、愛しのあの子は生き返らせてあげたのよ? だから、今度はあなたが私のお願いを叶える番」
 青年の頭が混乱する。契約は、互いの願いを一つずつ叶える約束だったはずだ。だが、青年は既に魔女の願いに応じて処女の心臓をえぐり出した。その後確かに握りつぶそうとしたが、その直前に意識を失っているし、恐らく心臓は彼女の手に渡ったのだろう。ならば、それで契約は完了では無いのか?
 だが、それを否定するように、魔女は青年に言った。
「あ、もしかして処女の心臓が私のお願いだと思った? 残念でしたー。アレはあの子を生き返らせるための触媒に必要だったから、自給してもらっただけ」
「そんな……! だけどあのとき『働いてもらう』と……」
「そうよ? 彼女を生き返らせるために働いてもらうって言ったわ。私のために、とは言ってないはずよ?」
「ば……」
 馬鹿な、と言いたかったが、確かにそう言っていた。魔女は自分のためのお願いだと一言も言っていない。愛しのあの子のために働け、と言った。
「だから、ここからが私のお願い。あなたには私のお人形さんになってもらって、ずっとここで私とおままごとをするの。もう百年以上ずっと同じお人形使ってたから、飽きちゃったんだ。ね、良いでしょ?」
「……!?」
 彼の心を、絶望が襲った。手足の模様は、その見た目通りのぬいぐるみの縫製を表していたのだ。魔女というのがどれほどの長きにわたり生き続けるものかは知らないが、さっきの言葉からは少なくとも百年以上彼女のおもちゃとして生きていかねばならない。手足の自由もきかず、ただ彼女にもてあそばれ続けるだけの百年。それは拷問以外の何物でも無い。
「や、やめろ……やめてくれ、頼む……!」
「うーん、でも、契約だから、仕方ないよね。それに、お人形さんは勝手にしゃべっちゃ駄目なんだよ? これから気をつけてね」
「……!! ……!!」
 再び魔女の人差し指が、青年から言葉を奪い取った。それだけでは無く、取り戻した視覚も、聴覚も、嗅覚すらも奪われ、彼は魔女の手のひらサイズまで縮められてたくさんの人形が並ぶ陳列棚にそっと飾られた。
「うん! やっぱり新しいお人形さんがいると嬉しくなるわね! ふふ」
 魔女は嬉しそうにくるりと回転すると、そのまま部屋を後にした。飾られた青年人形のガラスの目から、ひとしずくの涙がこぼれた。





































「あ、そうだ! 一人で寂しくないように、女の子のお人形も入れておいてあげるね!」

《 ワルプルギスの夜 了 》



【 あとがき 】
 以前に書いた「悪魔のメリークリスマス」と対を成す作品を、いつか作りたかったのです。
 つまり、『悪魔と契約してしまった場合のお話』。
 今回は魔女でしたが、身の程を知らない願いは自らの身を滅ぼす、と言う、ある意味単純なお話。
 タイトルは某魔法少女からいただきましたが、この単語とあの作品が無ければこの物語はできてなかったと思います。
 珍しくバッドエンド感満載の作品ですが、何か感じ取るものがあれば幸い。

『道化師の部屋』 Clown


゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜

●看護婦が身をかがめる。胸の谷間がくっきりと見えた。香水のいい匂いもした。

《 嗤 》

著者:辻マリ



看護婦が身をかがめる。胸の谷間がくっきりと見えた。香水のいい匂いもした。
少し前なら鼻の下を伸ばして凝視した後、友達と一緒に馬鹿みたいにその話題で盛り上がるだろう光景。
なのに今は、少しも感情が動かない。
目線は看護婦の方の向こう側の窓の外に向かう。
空が青い。
かすかにセミが鳴いているのが聞こえる。
多分、窓の外は暑いんだろう。

「気分はどう?」

看護婦じゃない声がした。
いつの間にか病室に看護婦の姿は無く、青い空の半分は誰かのシルエットに切り取られている。
逆光でよく見えない顔は、俺を見て笑っているのか、真面目な顔をしているのかもわからない。
誰だ、と尋ねる気力は無かった。

「ははは、絵に描いたような無気力だねえ。そりゃあそうか、死に掛けたんだもんね、君」

そいつは行儀悪く窓枠に腰掛けて、こちらを向いている。
脚を組んでいるのが見えた。

「残念だ」

逆光で姿が良く見えないだけじゃない。そいつ自身が真っ黒い服を着ているのだと、ようやくわかる。
真っ黒だ。上から下まで。
髪も黒ければ肌も浅黒い。何処の国の人間だか分からないけれど、話している言葉は俺と同じ国の言葉だ。

「嗚呼全く残念だ。もう少し発見が遅ければ君は死んだのに。死んだら僕の所に連れて行けるのに。残念だなあ。生きてる限り君をこちら側に連れて行くことは出来ないんだ。嗚呼、残念だ。折角のチャンスだと思ったのに」

何を言っているのだろうか。
其処まで言うのなら止めを刺せば良いじゃないか。

「其処まで言うなら止めを刺せばいいって顔だね?それがさあ、無理なんだよ。僕達は生きている人間に対して物理的な危害を加えることは許されていない。あくまで、死んだ人間の魂を連れて行くだけ、だ。それはその人間が死んでからで無いとやってはいけない決まりになってる。何とも不便なものだけど、世の中何事においてもルールは必要だからね。ルールが有れば当然罰則ってのも有ってねえ、守らなければ僕達も無事じゃすまないんだ。それはあまり歓迎できない。大それた事でもない、ほんの些細な悪い事をして相応以上の代償を支払わなければいけないなんて、めんどくさくてやってられないだろ?ばれなきゃ良い、なんて言わないでね?君たちの世界の法律とやらとは違うんだ。やっちゃった時点で自動的に罰則が発動するんだよ。だから、やってられない。真面目にやってる限り、罰則は発動しない。だから真面目にやる。面倒を避ける為に悪い事はしないって言う発想だよ。だからかなあ?僕達は非常に事務的かつ、後手に回る行動しか取らない事が多い。先手必勝なんて言葉も君達の世の中には有るようだけど、先手を打って失敗した場合のリスクが大きすぎるからね、僕達には考えられない発想だよ」

要するに、不可能って事なんだな。
黒い奴の話は無駄に長いけれど、纏めるとそういうことになる。

「だからね、今日は君にお願いがあって来たんだ」

黒い奴が窓枠から降りる軽い音がした。
部屋の中央に来るにつれて、そいつの瞳の色まではっきり分かるようになる。
肌も髪も服も黒いそいつの瞳は、やっぱり真っ黒だ。
白目と、口から覗く歯だけが、やたらと白い。

「君がこれから先生きるか死ぬかはわからない。それは君の選択次第だから。でも僕は、今回君が自分から死のうとしてるのを嗅ぎ付けて、わざわざこの街までやってきたんだ。それなのに君は死に切れなくて生き残ってしまった。僕はとんだ骨折り損のくたびれもうけだ。君の魂を連れて行くための事務処理を全部終えてから来ちゃったってのに。だからね」

黒い奴は俺の枕元に何かを置いた。
見てみると、それはすぐ傍のナースコールのスイッチに良く似ている何か、だった。
少し違うのは、ナースコールのスイッチはプラグで何処かに繋がっているのに対して、それはスイッチだけが独立してる形で、掌に握りこんでしまえば隠すのも簡単そうなほど小さい。

「次に君が、本気で死ぬつもりになったら押してね。僕はすぐに駆けつける。そして君が死ぬのを待って、死んだら連れて行ってあげるから。捨てても無駄だよ?何処でどういう風に捨てようと、これは君達の世の中の技術や素材で作られたものじゃないから、必ず君を探し出して君の元まで戻ってくる仕組になってるんだ。でも、一回押したら壊れちゃう使い捨てタイプなんだよねえ。ま、平常心や健康そのものの状態で押した場合は安全装置ついてるから作動しないんだけどね。だから、無闇矢鱈に押したりしちゃ駄目だよ?押す時は本気で死ぬ覚悟をして、誰にも助けられたりされない状況を固めてからにしてね」

ベッドの横に立って、そいつは楽しげに笑いながら、点滴と繋がる俺の手を取り出して、指を絡める。
そうして、

「約束だよ。指切り、指切り」

強引に指切りをさせられた。



《 嗤 了 》



【 あとがき 】
此処二ヶ月くらいで激痩せしました。

辻マリ
mixiアカウント http://mixi.jp/show_friend.pl?id=5098176


゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜

●「約束だよ。指切り、指切り」強引に指切りをさせられた。

《 クラシック 》

著者:幸坂かゆり



「約束よ。指切り、指切り」強引に指切りをさせられていた。
一体何事だ、と涼は呆れるようにその光景を見る。
目の前で指切りげんまんをしているのは定年を過ぎたばかりの父親、夏彦と結婚相手なのだが、その結婚相手の女性、陽子は二十二歳で夏彦の息子である涼と同い年だった。

それはまだ夏の浅い六月下旬、突然の報告だった。
「数年前から交際している人と籍を入れたんだ。彼女を家に迎え入れたいと思ってる。お前にも会わせたい」
「親父、まだ結婚なんて考えてたのか?しかももう籍を入れただって?何だよそれ」
遠慮のない涼の言葉に夏彦は少し俯いて頭に手をやった。
一人暮らしをしている涼は仕事が多忙な中、急に電話をかけてきた夏彦に何かあったのかと急いで実家に駆けつけたのだ。その理由が結婚だとは。もう年だし、今さら結婚なんてしなくてもいいじゃないか、と涼は思った。
そして、その思いを更に強く感じたのは、夏彦に連れられ、部屋に入って来た陽子があまりにも年若かったからだ。息子である涼と同い年。何だってわざわざ、と涼は我ながら理不尽な思考だと百も承知の上で思う。

涼の母親は彼が生まれて間もない頃、既に離婚をしていたので涼は母親についてほとんど記憶していない。
円満に別れたと聞かされていたがもちろん知る由もない。協議離婚を済ませてから、父親である夏彦が涼を引き取り、一緒に暮らしていた。涼の母親は若かったが、夏彦が父親になったのは四十代に入ってからだった。なので、二十二歳の涼は傍から見ると息子ではなく孫に見える。時には好奇の目で見る人間もいて、嫌な気持ちになる時もあった。
今回の結婚を深く考える事をしなかった涼だが、陽子を見た今となっては後悔している。そのうち、近所でも知られるようになるだろうし、最初は涼の恋人だと間違われるだろうから、そこから説明しなければならない事を考えると、本当に面倒でうんざりする。
それでなくても夏彦は高齢なのだから、陽子を見て変にロリコンだとか言う誤解を受けてはたまらないと思った。

しかし、なぜ若い陽子がそんな高齢の男との結婚を承知したのか納得がいかず、涼は考え込んだ。もしや、保険金目当てか、夏彦がロリコンなのではなく陽子がファザコンなのか、それとも夏彦がこれからの介護に専門として雇ったのか、ひょっとすると結婚詐欺なのでは、と、涼は疑心暗鬼になってしまう。
父親のどこが気に入ったのですか、と涼は問いかけた。
夏彦さんとは笑う所や怒る所が一緒なんです、と、陽子は微笑む。

陽子は健康的な色の白さを持ち、美しかった。その白い肌に薄化粧で整えると、色の白さは更に際立った。いつも染めていない肩ほどの長さの黒髪を一つにきゅっと結んでいて、そのため、地味な印象も受け、涼より年上に見えるが、肌はつやつやとしており、姿勢正しく、陽子の佇まいは古い日本の絵画のように静けさを纏っていた。



七月に入り、夏の陽射しも強くなってきた頃、涼は土日の休みにこの忌々しい二人から食事に呼ばれた。
酒も入るから泊まっていけ、と夏彦が言う。最初は戸惑ったが高齢の父親が変な女に騙されていないか見分けるきっかけにでもなれば、とおかしな理由をつけ、承諾した。
正午になり、涼は一応手土産にケーキなんぞを買って持っていった。久しぶりに見る実家の玄関前の庭では、既に陽子がおり、打ち水をしていた。
「こんにちは、涼くん。暑いわねえ」
りょうくん、だと!?一瞬、怒りのような気恥ずかしさのようなものがこみ上げたが、その気持ちを押し込めた。母親気取りになっている訳ではないだろうな、と素っ気なく「どうも」とだけ返事をし、これ、とだけ言って、ケーキの箱を陽子の目の前に差し出した。
「わあ、ありがとう。洋菓子、大好きよ。三人でいただきましょう」
陽子は箱を覗き込み、笑顔になる。
しかし二人の間にはどこかぎくしゃくとしたものは拭い切れなかった。そのせいもあり、涼は憮然とした表情のまま、乱暴に玄関の引き戸を開けた。
玄関を閉め、靴脱ぎに腰掛け、靴を脱いで家に上がると、廊下がまっすぐに続いていた。廊下を進むと、右手に茶の間へのドアがあった。茶の間の中央には夏彦が若い頃から大切にしているステレオセットが置いてある。レコードプレイヤーの下にAMとFMのラジオ、カセットテープの再生と録音機能がついており、その下の収納スペースには夏彦が好きで集めてきたレコードがぎっしりと並んでいた。CDを聴く機材はステレオの重厚さに比べるとちんまりしていた。夏彦はレコードに針を乗せる瞬間をこよなく愛しているのだと言っていた。その見慣れた茶の間へのドアを開けると、夏彦が長椅子に腰掛けてテレビを見ていた。

「よお、よく来たな。座れ座れ」
「新婚のジャマをするほど野暮じゃないからね」
「何だ、生意気だな。いつの間にそんな台詞、口にするようになったんだ」
夏彦は笑う。陽子が、がらがらと玄関を開けて入ってきた。
「涼くん、ゆっくりして行けるのよね」
「ああ、はい。まあ・・・」
何で同じ年の女に敬語なんか使っているんだ、と思わず心の中で舌打ちをする。
「今日ね、お豆腐を買う時にビニールの袋に入れたんだけど、穴が開いてるよって夏彦さんが教えてくれたから二重にしたの。二枚も袋を持って帰って注意されないかしらって恐々。そしたらね、バーコードがお豆腐を読み取らなかったのよ。本当にどきどきしちゃった。それで、ばれたらどうしようって思いながら夏彦さんを見たら肩が笑ってるの。注意される訳ないって知っていて私を騙したのよ。まったくひどい人よね。笑っちゃったわ」
夏彦と陽子はその時を思い出していたのか、笑い合った。
こいつら、本気で同じ思考の持ち主なのか、と涼は呆れた。朗らかな二人の姿を見て苛立ち、いてもたってもいられなくなってトイレに立った。涼は、もしも自分がこれ以上居心地悪くなったらすぐにでも帰ってやる、俺を見て少しはでれでれする事に反省をしろ、いい年しやがって、と心の中で悪態をついた。それでも涼が気にしていた近所づきあいは誤解を受ける事もなく、丁寧にこなしているようなので、そこだけは安心できた。

夕飯は庭で採れた野菜の盛大なサラダ、高野豆腐と豆とひじきの煮付け、茹で海老、カリカリに焼いたにんにくのスライスと山わさびを載せた、まぐろのステーキなどが食卓に並んだ。涼はうまそうな匂いに思わず腹が鳴るのを隠せない。
「どうぞ」
陽子がにこやかに冷たいビールと共に勧める。夏彦と一緒だと陽子から緊張感は伝わってこなかった。
「どうも・・・」
まろやかなデザインのすりガラスで作られたグラスに陽子はビールを注いだ。同じく、夏彦の分も。夏彦は陽子にも同じように注ぐ。陽子は両手でグラスを持ち上げ、嬉しそうに「ありがとう」と礼を言った。
「じゃ、久しぶりに家族が揃ったって事で、乾杯」
夏彦がグラスを掲げる。陽子がそれに続いて「乾杯」と言い、涼のグラスにかちん、とぶつけたので、涼も仕方なく会釈だけした。
しかし、暑い日の夕暮れ時、美味しい食事が並ぶ中でのビールは格別だった。
「うまいっ」
思わず口に出した涼は、はっとしたが、二人は勿論そんな事を気にかけてはいない。
「本当においしい。どうぞ、お料理もたくさん食べてね」
陽子は取り皿をかちゃかちゃと夏彦と涼の前に置いた。
グラスはすぐに汗をかき、薄い麻布でできたコースターに染み込んで行く。茶の間の大きな窓ガラスは全開にしていたが、外からの風はなく、扇風機の風でレースカーテンが揺れていた。夏の湿気で木の香りがいつにも増して強く感じる。

この家は夏彦が三十代の頃に建てたのだと言う。古さは目立っていたが、そこをうまく利用していた。和室には洋風なドレスを纏う球体関節人形が飾ってあり、ロッキング・チェアが置いてあった。その上に華奢で鮮やかな色の布がかけてあり、無国籍な印象になっていた。洋室には敢えて古い木材の家具を配置し、どの部屋にも白檀が香り、和洋折衷で独特の美しさがあった。時折入ってくる風は心地良く、庭の緑が目に鮮やかだった。田舎の風景だ、と涼は思う。

料理は絶品だった。
「どこかで習っていたんですか?」
まだ敬語を使い、陽子に話しかけてみた。
「いいえ、すべて自己流よ。それから母に教わったもの。お口に合って良かった」
陽子も変わらず、友達口調で話した。
結局、涼は緊張も手伝い、五杯もビールを飲んでしまい、今は座布団を枕にして茶の間の隅っこに横になっていた。仕事の疲れもあったので、すぐに酔いが回ってしまったのだ。涼の体には陽子がかけてくれたブランケットがかかっていた。
しかし、完全に寝ている訳ではなく、時折ちらちらと薄目を開けては二人の様子を窺っていた。陽子は空いた食器を台所に片付け、鼻歌を歌いながら台所に運び、夏彦はテレビに目をやっていた。
「陽子さん、ビールもう一杯持って来てくれる?」
「はーい」
ようこさん!?涼はまたしても驚愕する。『さん』付けかよ!陽子が夏彦にそう言うのなら判るが、年下の女房に『さん』を付けるなんて。涼はまた不条理だと思う気持ちに支配された。
しばらくして洗い物を終えた陽子が髪を解き、夏彦の隣に腰を下ろした。
「お疲れさん。陽子さんも一杯やろう」
「うん。喜んで」

二人は仲良くビールを飲みながらテレビに目を向けていた。クイズ番組らしく、二人で答えを言い合っては「当たった」だの「違った」だのと、子どものようにはしゃいでいる。
夏彦は確かに、身なりはきちんとしていた。今は靴下こそ脱いではいるものの、シャツは胸を少し開ける程度でだらだらしていなかったし、年齢の割には程良い腰周りを保ち、肉が腹の上に乗るような事もなかった。白髪ではあったが、白というより銀色に見まごうほどに、輝いていた。息子ながら外国人のようだ、と時折思う。まあ、年寄りにしてはハンサムな部類に入るだろう。しかし、だからと言って陽子のような若い女性が夏彦と一緒になる理由としては足りないと思う気持ちは変わらないのだが。
何しろ相手は還暦を過ぎていて、いつどんな事が起こるのかもわからない。陽子は、ゆくゆくは訪れるであろう夏彦の死を考えた事があるのだろうか?受け止める事ができるのか?世話をきちんとできるのか?涼は不安に思う。
そして夜は更け、そのまま二階にあるかつての自分の部屋に泊まった。

次の日の朝、涼は不思議な気持ちで目を覚ました。
思わずきょろきょろとあたりを見渡すと、夕べは気づかなかったが、とても片付いている。涼が出てからは客間としてでも使用しているのだろうか。
茶褐色をした艶のある木目の階段は歩くと、ぎしぎし音を立てるのは変わらないが、障子は真新しく貼り返られており、すっと開くと、六畳の和室があり、その上に布団を敷いている。
そこが涼の部屋だった。幼い頃、涼はこの部屋が嫌で、早く一人暮らしがしたかった。実家というものを感じさせない、自分自身の住む部屋が欲しかった。この家を出る事にいくつか理由はあったが、古臭いと言うのもあった。
しかし、今は行き届いていてレトロな雰囲気さえ漂う。涼がいた頃にはなかった白木で縁取られた大きな姿見や、すぐ傍に同素材で作られた見た事のない小さなテーブルとベンチ椅子があった。陽子が持ち込んだ花嫁道具だろうか。壁は真っ白に掃除され、大きな窓ガラスも磨き抜かれている。テーブルの上には庭の花が小さく活けてあリ、夏の匂いがそこにあった。涼は布団を出て、窓を開けてみた。
下を見ると洗濯物を干す陽子の姿があり、その横には夏彦がいて何やら話しかけていて二人で、ははは、と声を出して笑っていた。本当によく笑う二人だ。
何となく面白くなくて涼はすぐに窓を閉めた。もう帰ろう、しばらく来ないぞ、と心に決めた。

「おはよう」
陽子が明るく挨拶し、涼はただ会釈した。
「朝ご飯、できてるわよ」
台所では既に味噌汁の匂いが漂っている。
「料理も上手いんですね」
「あら、ありがとう」
陽子は涼の言い方が気にかかったのか、ちらと振り返ったがすぐに鍋に視線を戻した。
暇(いとま)の挨拶をしようと思った矢先だったのだが、帰ると言い出せなくなり、その上、夏彦が追い打ちをかけるような提案をして来た。
「二人とも、夕方、花火しよう。買ってきた」
「あら!いいわね」
子どもかよ、と思ったが、きちんと断る事もできず、曖昧なままで夕方を待つ事にした。いくら二人に対して素直になれない涼でも、これほど機嫌を良くしている人間の気分を害すような行動を起こす勇気はない。

朝食はシンプルだった。
豆腐とわかめと玉ねぎの味噌汁、焼き鮭、玉子焼き、えのき茸の酢の物、白菜のお浸し、そして白いご飯。夏彦は昔から白いご飯が大好きで、夏彦の茶碗は小さなボウルと同じくらいの大きさをしていた。陽子の作ったあっさりした献立はすっきりと腹に収まリ、夏彦は満足して「ご馳走様」と言っていつもの仕草で手を合わせた。
涼は相変わらず会釈するのみで、まだどうやって断ろうか、と考えていた。

夏彦は花火のために昼前に早々と風呂を済ませ、灰色のシャツに少しだけ色褪せたジーンズを履き、髪を乾かそうとしていた。
「涼、お前もひとっ風呂浴びて来い」
「うん」
さすがに真夏の暑さでべったりと汗をかいた体は気持ち悪かった。夏彦がドライヤーをかけ始めたので、涼も風呂に行こうと、バスタオルを用意した。
風呂に続く廊下からは台所が見え、そこに洗い物をする陽子がいて、涼を見つけた。
「ごゆっくりー」
陽子の言葉に涼は思わず足を止めた。
振り返ると、陽子は涼が振り返ったのも気づかず、鼻歌を歌いながら洗い物を続けている。涼は上から下まで陽子をじっと見る。

黒髪を一つに結び、薄い一部袖のブラウスにタータンチェックのふんわりした膝までのスカートを身に着けていた。いかにも新妻らしい格好に見える。涼は陽子の背後に近づき、話しかけた。
「いくつか聞いていいですか」
「うわ、びっくりした!もうお風呂に行ったのかと思った。何?」
「親父とあっちの方ってどうなってるんですか?」
涼自身も自分の質問に驚いた。なぜこんな事を訊いているのだろうと思った。
「あっちの方?」
「夜の方です」
「あら・・・。聞くの?無粋な人ね。性の関係はないわ。でも抱きしめ方が上手よ。とても素敵なの」
陽子は目を逸らしながらも、淡々と、どちらかと言うと元気に答えた。
「そうか、ないんだ。俺、ずっとあなたと父の関係について懐疑的なんです。正直今も。まさか保険金狙いとかじゃないですよね」
陽子は水を止め、布巾で手を拭いながら涼の方に向き直った。
「違うわよ」
ぶしつけな質問にさすがに陽子も少しきつい目を向けた。
「もしも保険金目当てだったらもっと慎重になるでしょう。私みたいな性格では無理だと思うわね」
「でも決定打があった訳でしょう。結婚しようって思う事の」
「そうね・・・」
陽子は顎に手を添えて考える。
「この先、どんな事があっても私の名前を忘れないって言ってくれたのが大きいかな。恋人同士として、友人として、それから、細胞レベルでって。指切りして約束してくれたの」
その言葉に涼は思わず口をつぐむ。バカじゃねえの?ままごとかよ、と思った。
「でも、爺さんだぜ?若い男でもそれくらいの約束してくれる奴、いるんじゃない?」
涼の言葉は明らかに言いがかりだった。バカにしている。陽子もむっとする。
「爺さん爺さんって言うけど、夏彦さんは紳士よ。ううん、姿だけで言っているんじゃない。時にはステテコでその辺をうろつく事だってあるけど、あの人の優しさは変わらない。ご近所に挨拶を欠かさないし、悪口も決して口にしないわ。その一言と指切りという行動がたまらなく嬉しかったのよ」
勿論、そんな事は判っていた。判っていながらも言葉を投げかけてしまう。
「恋に落ちるのに年齢は関係ないって事?」
「そういう事ね」
陽子は顔を少しだけ引きつらせながらも努めて笑顔で返したが、涼は口の奥で笑った。
「・・・なにが可笑しいの?」
「そこら辺の高校生の言ってる事と同じですよ、それ」
「だからなに?涼くん、さっきから何が言いたいの?」
「これから母親面するつもりですか?」
「まさか。今さら私をお母さんだなんて呼べないでしょう」
「まあね。ああ、俺の母親、料理上手でしたよ。親父もそこに惚れていたんだろうね。あなたに母親の面影を見たのかな」
「そう、素敵な奥様だったのね」
「妬かないの?」
「前の奥様の話でしょう?その時はまだ私、夏彦さんと出会ってないもの。人の恋愛に足を突っ込むのはやってはいけない事だと思ってるわ」
陽子は『いい子』だ。しかし、そこがまた涼を苛立たせる。
「でも、外見がどんな人だったのかは、少しだけ気になるかな」
否定の言葉が陽子の口から出た時、涼は一瞬、歪んだ希望を持った。しかし陽子は無理して笑顔を作った。そんな態度を取られれば取られるほど、涼はますます意地悪な気持ちになる。
「美人でしたよ。近所でも評判だったらしいです」
「・・・そう」
さすがに気分を害しただろう。涼は俯いた陽子を凝視した。しかし、陽子はすぐに視線を上げて涼をまっすぐ見つめた。
「気が済んだ?他に言いたい事は?なかったら早くお風呂に行ってらっしゃい」

陽子の言葉に涼は頭に血が上った。どうしようもなく暴力的な衝動に駆られ、陽子の腕を強く掴んだ。
「痛っ!」
「こんな時まで澄ましてるのかよ。どんなにいい子ぶったって、親父はどうせあんたより先に逝くんだぜ?」
陽子は掴まれた手を必死で振りほどこうとしていて、眉間に皺が寄り、その顔は涼には見せた事のない怒りの表情だった。
「父親に向かってそんな事言ってはだめよ。夏彦さんはあなたの悪口を絶対に言わないわ」
「俺は親父と違う!あんたを見てると苛々するんだよ!」
涼は声を荒げた。陽子は真っ赤な顔で歯を食いしばって手の痛さに耐えていた。どうしてこんな時まで親父の事を庇うんだ。なぜ俺を罵倒しないんだ。涼はたまらずに陽子の頬を殴った。陽子は小さく悲鳴を上げた。
しかし、次の瞬間、涼はなぜか唐突に陽子の唇を塞いだ。
陽子は驚いて身を硬くした。涼も思いがけない自分の行動に驚き、すぐに唇を離したが、陽子は「いやいや」をするように顔を左右に振リ、その仕草もまた子どものように見えて苛立ち、また涼の気持ちが荒ぶった。声を出さないでいる陽子の心中は判っていた。夏彦に気づかれたくないのだ。そんな陽子を台所に押し付け、涼は自分の足で陽子の足の間に割って入った。露になった太ももの筋肉は美しく均整が取れていて、若さそのものだった。
この体に何もしないなんて。陽子も抱擁以外何も望まないなんて。親父もこの女もバカだ。涼は心の中で毒づいた。
まだ夏彦のドライヤーの音が遠くの部屋から聞こえている。
激しく取っ組み合い、陽子の髪が崩れて、さらりと肩に広がると、不意にシャンプーの香りがした。その残り香は、涼と同じものだった。
思わず、涼の手がひるんだ一瞬の隙を突いて、陽子は涼の頭を、ばしん、とぶった。
それと時を同じくして、ドライヤーの音も止まった。

その場に静寂ができて、涼と陽子の体にやっと距離が空いた。二人とも、息が上がり、口を聞けなかった。しかし陽子は澄んだ目で涼をじっと見ていた。涼は陽子のその目を見た途端、涙が溢れた。何て思いがけない事が続くのだろうと涼は思いながら、見ないでくれ、と陽子に懇願した。そのまま冷蔵庫に、どん、とぶつかり、ずるずると床に崩れ落ちながら両手で顔を覆った。陽子は涼の涙に動揺したが、深呼吸をして体中の力が抜けたようにその場にうなだれる涼のすぐそばに屈み、その指先で涼の涙を拭おうとした。
「いいよ」
ぶっきらぼうに陽子の指を振り払う涼の手には、先ほどのような力はなく弱々しかった。
陽子を振り払った事で、涼の気持ちはみるみる内に冷静さを取り戻し、さざ波のように穏やかになっていたが、同時に顔から火を噴くような恥ずかしさが襲い、情けなくて顔を上げられずにいた。
あんなふうに苛立った事と陽子に欲情した事は、それぞれ独立した気持ちではなかった。何だか判らない内に、父親が男になり、父親でなくなるような焦り、そして突然家に来た陽子の存在によって、自分自身が記憶から消されるのではないか、という不安にずっと怯えていた。
憎悪と欲望は表裏一体をなす。
本当は自分こそが、顔も憶えていない母親の面影らしきものを陽子に見て、わがままを言いたくなっただけなのかも知れないのに。陽子なら、八つ当たりしても受け止めてくれる気がしていただけだった。ただのガキの甘えだと心の中で嘆きながら、涼はいつまでも止まらない涙を袖で拭いながらひたすら恥じる。
陽子は服と髪を整え、新ためて涼の前に屈む。
「涼くんがたった今、私にした事は暴力的だったけれど、一度はぶつからなくてはいけないと思ってた。涼くんの視線、私いつも怖かったわ」
涼は陽子の顔を見る。今まで見た事のない表情をしていた。多分、夏彦には見せているであろう、飾らない、しかし笑みもない顔。先ほどのような怒りは、もう見えなかった。真剣に涼を見据えるその表情は、夏彦とぶつかり合ったリ、笑って許し合ったりする時の表情なのだろうか。
「俺もそうです。あなたが怖かった」
「急には仲良くなれないよね」
陽子の言葉に涼は目を伏せて頷いた。
別に義理の親子になったからって、仲良くなんてならなくたって良いのに、敢えて陽子はその言葉を使う。もう出会ってしまった。すべては始まってしまったのだ。二人の確執は二人が何とかしなくてはならないのだ。

ふと、茶の間から音楽が聴こえてきた。
「あ、夏彦さん、レコードかけてる」
柔らかなピアノの音色に耳を傾けると同時に、呑気なものだ、と涼は思ったが、あんな嵐のような状況の中、陽子が必死に隠そうとしていた行動に効き目があったようで、そのレコードの音に本音では安心していた。
「親父が若い頃から聴いてる曲なんだ。知ってた?」
「知らなかった。大好きなのね」
「うん」
二人は同時に沈黙した。
「ねえ、腫れてる?」
「え?」
「ほっぺた」
あまりにも普通の調子で陽子が言うので、涼は一瞬、何を言われたのか判らなかった。しかし、はっとして、すぐに陽子の頬の様子を見た。片方の頬がほんのりと赤くなっている。
「・・・ほとんどわからないよ。傷もないし。ちょっと赤いけど冷やしたら目立たなくなるかも・・・」
涼は小さな声で言いながら、熱を持った陽子の頬に、ほんの少し触れた。
「じゃ、冷やす」
「うん」
涼は、思いついてすぐさま冷凍庫を開け、氷をいくつかビニール袋に入れた。更に上からタオルを巻き、陽子に渡した。
「それじゃ、お風呂に行って来て。お互いに気持ちを整えましょう。さっきの事は秘密。知らない方がいい事ってあるわよね」
涼は黙って頷き、先ほどの荒々しい想いは既に遥か遠くに去った、と感じる。
「ごめんなさい」
涼は一言だけ言って、陽子に頭を下げた。
「うん」
陽子もまた静かに頷いた。
その姿を一瞥して涼は風呂場へ向かった。

その場に残された陽子は涼が手渡した氷の袋が入ったタオルを頬に乗せた。痺れていて感覚が鈍っていたが、きっと後から痛みがやってくるだろう。
風呂場から水音が聞こえ、茶の間からの音楽と混ざり合った。その音を聴きながら少しだけ陽子は放心したように、ゆっくりとため息をついた。

「陽子さん」
不意に夏彦が呼んだ。
「あ、はい」
「忙しいかい?アイスコーヒーでも飲まないかい?」
「ええ、そうね」
陽子は鏡で一度顔を見て頬を隠すように前髪を撫でつけ、夏彦の許へと走った。
もうすぐ暮れかける陽の中で、レコードを持つ夏彦の穏やかな横顔が逆光で輝いて見えた。陽子は泣き出しそうになる。泣いてもいいだろうか、と考える。
「夏彦さん」
夏彦は、ゆっくりと陽子の顔を見る。陽子は夏彦の腕の中へとそっと体を滑り込ませる。
「どうしたの?」
「甘えてるの。夫婦だもの」
「そうだね。存分に甘えなさい」
夏彦は陽子をそっと抱き寄せる。陽子の頬が火照り出し、ずきずきと痛み出すのを感じた。けれど裏腹に陽子の髪をそっと梳くように撫でる夏彦の指が心地良い。
夏彦の指がふと止まった。
「どうしたの、頬が腫れてるよ」
陽子はびくっと体が動いた。
「あ、・・・さっき冷蔵庫のドアにぶつけたの。ドジだわ」
「危ないなあ。気をつけるんだよ」
咄嗟に出た嘘の理由を夏彦は信用したようだった。夏彦は優しく頬を撫でる。
「はい。今度から気をつける。心配かけてごめんなさい」
「でも今度がないようにしなくちゃ、陽子さん」
「そうね。夏彦さん、約束しましょう。指切り」
陽子と夏彦は微笑み合う。いとおしむようにゆっくりと絡まる小指と小指。
涼は二人をそっと覗いて見ていた。幾度か見たその光景を、涼は額縁に入った絵画のように頭の中に刻みつけたいと思った。なぜだか。

花火に適した天気のまま、陽は暮れた。
夏彦がトイレに立った時、涼が陽子に話しかけた。陽子は線香花火についたセロハンテープをはがしていたので、顔は涼の方を向かなかった。
「あのさ」
「なに?」
「俺、さっき母親の事、美人だとか言ったけど、あれ嘘だから。料理上手とか言ったのも」
「そんな事気にしてないわよ」
「本当は憶えてないんだ。まだ物心もつく前の出来事だったから」
「そう」
「正直、あなたがいてくれて良かったと今は思ってる。年を取った親父がこの先一人だったらって考えたら、文句は言えないし。一応ありがとうって言っておく」
陽子は頷き、また涼の目をまっすぐに見て言葉を受け止める。
「・・・後さ、俺、今あなたと親父の事をあんまり素直に見られないんだけど、自分のせいだから。さっきあなたにあんな事したから罰が当たってるんだと思うんだ。俺、あなたに頭をぶたれなかったらどうしていいのか判らなかった。俺が一番子どもだ。最低だな」
涼は自分で自分の言葉を聞く内に本当に情けなくなってきた。
陽子は労わるように、しかし思いがけない力で強く涼の肩を抱き寄せ、語気を強める。
「そんな事思わなくていいの。そんな言葉であなた自身を悪い方向に追い込まないで。大人だとか子どもだとかは理由にならない。そしてもちろんあなたのせいでもない。だから罰なんて当たらない。それに、私達だって決して時間は長くないのよ。急いでいる訳ではないけれど、悲しい思考で時間の無駄遣いはしたくない」
そう言って、陽子は涼の肩から手を放し、屈んで線香花火に火をつけた。

本音を言い合って、心は少しでも近づけただろうか。すべては判り合えなくても、昼までは確実に存在していたぎこちなさが今の二人にはなかった。
言葉は花火のように儚くて、この先の事なんて、決して誰にも判らない。

陽子の線香花火が燃え尽きた。火薬の残らないそれは土の上に落ちる事なく、一瞬明るい炎になり、淡く消えていった。
「あ、すごい。最後までできた!」
涼と陽子は思わず顔を見合わせ、微笑んでいた。戻ってきた夏彦にも、もちろん陽子は報告に行く。

愛しているから、一緒にいたいと思う。それがどんなに陳腐だと言われようが、真実だと思う。その人がたとえこの先、どれほど大きな病に犯されようと、最期まで面倒を見る。そう決意する事のどこがおかしいのだろう、と、陽子は思う。誓いのための約束がたまたま結婚という形だった。
それだけでも陽子は嬉しかったのに、夏彦は指切りまでしてくれたのだから。それこそ、いい年をした大人が。



その後。

実家に遊びに来た涼は、陽子が柔らかい陽射しの中で夏彦の向かいに座り、洗濯物を畳んでいる姿を見るとはなく見ている。
二人とも、相変わらず他愛無い話をしては笑っていた。笑いの共通する箇所は本当に同じらしい。笑いながら器用に指を動かし、散らばった布地を次々と整え、自分の隣に積み上げてゆく。
その細い指先を見て、涼はふと自分の手を見た。
もう遠い日の記憶になろうとしているが、陽子は手という器官を指切りという人肌の温もりに使い、自分は殴るという暴力に使った事を思うと苦い気持ちになる。

同じ手であるはずなのに、と、涼は自分の手の甲を見る度に、じんじんとしたあの日の痛みを思い出す。陽子の赤くなった頬を思い出す。その手を握り締め、思いがけない強さを持っていた自分の力を新ためて戒める。
あの日の自分はもう既に子どもではなく、自分の手が人を傷つける凶器になるなんて思いもせず、痛みを与えてしまう事すら知らなかった。その事を涼は深く悔やむ。
決して忘れてはいけないと思う。
あんなに感情に溺れ、理性を失い、人を殴ったなんて、成人して始めての経験だったのだ。



《 クラシック 了 》



【 あとがき 】
最初、私から「書かせて」と言ったくせにお題が出てから、書けるか判らなかった。
正直に罰ゲームを受けても仕方がないと思っていた。
何日も何日もお題をメモして持ち歩き考えたけれど、何一つ心に浮かんでくれず、途方に暮れた。
私自身の心に問題があった。その時、出てくる言葉と物語はとても自分の現在の状況に近く、書き進める事が怖くてできなくなっていたのだ。
一ヶ月が過ぎ、締め切りが迫ってきたある日、ある音楽を思い出し、聴いてみた。頭が冴えたようにすっきりとした。陽気なワルツは私から日常を切り離してくれた。私は自分の問題に縛られていたが、何とかそこから逃れようと思った。勇気を出して、創り出さなくては、未来を造らなくては、と思った。その間、他の音楽や映画などを一切シャットアウトし、今私が書きたいと思う事を一から練り直した。

最初は悲劇しか浮かばなかったが、
その音楽をテーマ曲として自分で設定してから順調に進み、この物語は生まれた。
どう考えても最後が見えないもやもやした物語だけれど、きちんと終わらせる事ができたのはとても大きい。今まではどれほどアイディアが浮かんでもラストまで辿り着けなかった。数年前から「スランプ」だと言っていたけれど、実際は燃え尽きてしまっていたのだと思う。
もう書こうという欲求を感じなくなっていた。日常に押し潰されそうになったままで。
そんな時なのに自らMistery Circleさんに志願してしまい(もちろん再スタートを切るこのサイトさんの微力にでもなれたら、という思いだったのだが)今思うと本当に無謀だったと冷や汗をかく。
けれど、私に書かせてくれてどうもありがとう。稚拙この上なく、これ以上推敲しようもないけれど、
書けた事でほんの一歩だけでも、私の夢の続きが見えたような気がします。心から感謝します。

『L'oiseau Blue』 幸坂かゆり


゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜

●人を殴ったなんて、成人して初めての経験だったのだ。

《 ATHAZAGORA PHOBIA 》

著者:鎖衝



 他人を殴ったのは、思い出す限りでは生まれて初めての経験だった。
 嫌なものだった。叩いた掌の痛さと、それ以上の罪悪感。そしてなんだか身体全体が震える程の緊張感と、拒否反応。そしてそれよりもっと上にあるのだろう、僕自身の純粋な怒り。僕は目の前に立つエストリアを見つめるが、彼女は叩かれたその頬を庇うでもなく、ただ嬉しそうに、そして少しだけ哀しそうな表情で、僕を見つめ返すだけだった。


 僕達の一日は、朝のお祈りから始まる。広い礼拝堂へと全員が集まり、共に主であるアムサ・ラーに向かい手を合わせ、跪きながら祈りを唱える。
 相変わらず、僕にはその祈りの意味が判らない。祈りの句の意味さえ判らない。果たして他の人達は、その祈りの句の意味を理解しながらそうしているのだろうか。――永遠を理想としながら、人の人生の儚さを敬え――。大雑把に解釈するとしたならば、どうにもそんな意味のように聞こえる。
 僕の右隣には、”祝福”のクラスでは最年長の、エストリアがいた。黒く長い髪はウェーブをまとい、ゆたかに腰まで伸びている。目を瞑り、神に祈りを捧げるその横顔は、いつも通りに狂おしい程美しい。どこか僕の胸の内をくすぐるような、そんな不思議な魅力に溢れていた。
 そして左隣には、去年からこの”祝福の子供達”のメンバーに加わった、五歳の幼きジャンヌがいる。エストリアとは対照的に、白に近い程の美しいブロンズの髪。そして人形のような整った顔。それは誰もがハッとして注目をしてしまうような、そんな可憐さを感じさせる。
 祭壇に立ち、聖書を読み上げるノエル神父の声が、教会の内々に響き渡る。相変わらず、低く、美しい声だった。彼は決して声を荒げる事はない。他の修道士達とはまるで違う。他の人々は戒律や規則に病的な程うるさいのに対し、ノエル神父は僕達がどんなに破目を外した行動をしても、決して怒る事をしない。いつもの丸眼鏡の下には穏やかな笑顔をたたえ、静かに、「それは良くない事だよ」と、語り掛けながら教えてくれる。
 エストリアに、ジャンヌ。そして、ノエル神父。僕がこの教会内にいて、唯一心から、「美しい」と思えるのが、その三人だった。
 それはもしかしたら、魂の大きさ。光を感じさせる生命力。その体内から生み出される、”核”たる美しさなのだろうか。ただ容姿が綺麗だとか、高貴さを感じさせる性格だとか、そんな次元では語れない何かがあった。
 比べれば他は誰も――威厳を湛えた年配の修道女であるリューシーも、”祝福の子供達”の中の、美人姉妹のマドレーヌやニネットにしても、そして――そう、悪いとは思うが、主であるアムサ・ラーのブロンズ像さえも、僕には美しいとは思えない。この教会は溢れ出る光と神々しい程に飾ったステンドグラスが窓と言う窓全てに飾ってあると言うのに、それすらもあの三人には敵わないと、いつも思う。
 教会も、聖書も、そして白いローブを羽織った子供達の姿も、何故か全ては、「創られたモノ」のようにしか感じられない。決してそれを口に出す事はしないが、僕は常にそう思っている。三人の内側から溢れ出て来るナチュラルな魅力に比べたら、なんだかどれもこれも贋物のようにしか思えない。そしてそんな事を思う僕自身が、常に嫌悪の中心だった。
(もしもこんな考えを、朝のお祈りの時間に声高々と叫んだら、僕は一体どんな罰を受ける事になるんだろう)
 思いながら、僕はクスリと微笑んだ。朝の、静かな祈りの時間の事だった。

 今日の一時限目は、道徳の時間だった。判りやすく書き直された聖書や聖典を学ぶ。そんな時間。
 その日は、アムサ・ラーの六十九人の弟子達の話だった。しかもその内容は、ラーの教育係だったヴェラが、弟子の一人であるアナ・マリーアをそそのかし、ラーの後継者として選ばれた後に主の暗殺を計画すると言う話。
 ――正直、飽き飽きだった。今更どうしてそんな話を聞かされなければいけないのか。もはやそんな有名な話など、子供達の童話の中にだって存在している。
 ラーの跡継ぎ候補として選ばれた、六十九人の弟子。そしてその中でもひときわ狡猾で独占欲の高かった、アナ・マリーア。結局アナは、ラーの教育者として仕えていたヴェラの計略に乗り、他の六十八人を殺そうと企む。だが、そうしてアナが他の弟子達を殺している間に、もっと知略に長けたオノロに先を越されると言う話。
 アナもアナだが、オノロもオノロだ。アナはオープンで明るい策略家だったけど、オノロは最後までその胸の内をあらわにしなかった暗い性格だ。僕は自分の性格的にどっちの人間にもなれそうにはないけれど、それでもやはりオノロの性分は好きじゃない。だがそれ以上に嫌いなのは、やはりその師匠であるアムサ・ラーだ。ラーはそうやって弟子達を競い合わせるが、勝ち残った二人はどちらも選ばず、結局はまたヴェラに新しい弟子達を揃えろと命じる。童話の中では、「結局、悪い事をして頂点に立っても、神は許さないのです」と言う教訓で終わりなのだが、聖書の中ではそうもいかない。話は次の章に出て来る新しい弟子達と、生き残りながらもその弟子の中に含まれる事がなかった、アナ・マリーアとオノロの話へと続く。
(馬鹿馬鹿しい。こんな授業をするぐらいなら、高等数学の計算式で、頭を沸騰させている方がまだ面白い)
 思いながら机の上で肩肘を突いていると、僕の左頬に何かが当たる。――視線を向ける。見れば、広く幅を取った机と机の向こう側、坊主頭のユベールが、僕を睨みながら挑発的な笑みを浮かべていた。
(またかよ)
 思いながら視線を避ける。するとまた教師がボードの方を向く間に、ちぎって丸めたノートの紙片を僕に向かって投げ付けて来る。同時に、”選ばれし神の子供達”の同学年クラスの連中が、密やかな笑い声で僕達を挑発して来る。
 ガタン、と、音が鳴る。僕は片手で顔を覆う。――思った通り、後ろの席のクレマンだ。
「なんだよ?」
 ユベールがいかにも可笑しそうな声でそう聞くと、クレマンは何も言わずにユベール達の方へと向かい、そして机を蹴った。
 おぉーと、一斉に声が上がる。ユベールとその取り巻き達は立ち上がり、気も早くファイティング・ポーズを取る。
「やめろよ!」
 僕はクレマンの背中に向かってそう叫ぶが、どうやらまるで聞こえてはいない。ただユベールの取り巻きの一人が、「腰抜けは黙っとけよ、エリオット」と、僕に向かってそう野次ったのが聞こえただけだった。
「やめなさい!」
 たっぷりと遅れて、無能な教師、ルーが叫ぶ。その体型に見合った鈍重さだ。
(いいから警備員を呼べよ!)
 僕は心の中で舌打ちをしながらそう叫ぶが、ルーはただおろおろとしながら、「やめなさい」を連呼している。そうしている間にも、クレマンはユベールとその仲間達に掴み掛かられ、そして拳の制裁を受けていた。
 多勢に無勢だ。同学年の”選ばれし神の子供達”は二十二人もいると言うのに、”祝福の子供達”は、僕とクレマン、二人だけだったからだ。
 僕は体当たりをするようにしながら、クレマンを背後から引き離しにかかる。同時に僕の顔面にも、いくつか拳がめり込んだ。痛みよりも先に、この状況の過酷さが辛かった。同じ教室にいても机を離され、同じ学年だと言うのに、住居施設も食事も違う。どうして教会は、こんな差別を僕達に与えるのか。その不思議さの方がよほど辛かった。
 ようやく、非常ベルが鳴った。グレイの作務服を着込んだ警備員達が教室へと踊り込んで来たのは、したたかに鳩尾を蹴られて僕の意識が遠退く寸前の事だった。
 孤独だと思った。人は沢山いるし、仲間だってそれなりにいる。――だけど、孤独だ。僕は思った。視界が暗転し、思考がそこで途切れるままに、僕は例えようのない深い孤独を噛み締めていた。

「ひどくやられたのね、エリオット」
 エストリアは言う。言いながら、僕の目の上のテープを貼り直している。
 彼女からはいつも、不思議な良い香りが漂っている。とても同じ施設の同じ浴場を使っているとは思えないぐらいの、そんな香りだ。僕は数年前、今と同じような状況の時、彼女にそれを聞いた事がある。どうしてエストリアは、そんな素敵な香りがするのと。
 ――大人になったら、あなたもきっとそうなるわ。彼女はそう言ったが、後二年で十七歳の成人となる僕には、とてもそうはならないだろうと言う確信めいたものがあった。
 確かにエストリアは大人だった。僕よりも七つ年上で、その当時から彼女は周囲から浮いて見える程に大人びて見えていた。ただ美しいだけじゃない、どこか妖艶めいたそんな雰囲気。なんだか心の奥底をくすぐるような、そんな不思議な感情を沸き立たせる程の存在だった。
「ユベール達が悪いんだ」
 僕は目の前にあるエストリアの顔を薄目のまま眺め、どぎまぎとしながらそう答えた。
「そうね。見なくてもどんな状況だったか、良く判るわ」エストリアは言う。
「どこの学年でも一緒よ。私も学業から解放されるまでは、毎日がそんな状況だったわ」
「エストリアも、殴られたりとかしたの?」
「もちろん。女だからと言って、容赦なんかなかったもの」
「――ひどいね」
「えぇ、酷いわ。この教育方針、そのものがね」
 言って、エストリアは立ち上がる。そして僕に向かって、手を差し伸べる。僕がその暖かい手を握り返せば、「ホラ、立って」と、彼女は言った。
「まさか今日もやるの?」
 聞けばエストリアは、「当たり前じゃない」と言って、取り上げた剣の一本を僕に向けて差し出した。
 僕は渋々とその剣を受け取る。幅の広い、湾曲した形の剣、シミター。もちろんその刃は斬る事も刺す事も出来ない模造品だ。――ここは、”祝福の子供達”だけが使える剣武場。そして僕はいつも、エストリアに付き合って毎日ここで剣の練習をしている。だが実際は、剣の練習にかこつけた雑談がメインでもあった。僕達は常に見張られ、その会話は盗聴されている。従って、こんな拾い場所で他の雑音が聞こえるような状況でなければ、思ったままを話す事は出来ない。僕が彼女の練習に付き合っている、原因の一つだ。
 礼もそこそこ、エストリアの剣が上段から襲って来る。僕はそれを受け流し、横に払う。刃と刃がぶつかる。時折、鮮やかな火花が飛ぶ。激しい音が響き渡り、僕とエストリアはその中で近況を話し合う。
「今日、あなたに挑発して来たのは誰と誰? 思い出せる限りで言って」
 僕は剣を押し返しながら、考えた。そして、「ユベール以外では、ジャンとロイーズと……」と、一人一人の名前をゆっくりと語った。
 瞬間、僕の左手の手首を、エストリアの手刀が撫でた。同時に彼女は、「残念。一回死んだわね」と、こっそり言った。
 エストリアの剣の腕前は、表向き、さほどでもない。年に一度開かれる、剣技大会においても好成績とは言えないレベルだ。――だからこそ、怖かった。どうして彼女は実践でのみ効果を発揮するであろう、殺傷用の剣技に長けているのか。そして彼女が僕に教える剣もまた、彼女が得意とするその技だった。
 利き腕である右手には、常に小さなナイフを持っていると意識しながら行う剣さばき。左手に持つ三日月刀は、常にフェイクだ。派手に躍らせ相手にそれを意識させ、隠し持つ右手のナイフで相手の腕や喉を裂く。彼女は誰かに監視されているのを意識しながら、僕にこっそりとそんな技術を教え込む。いつどこで、それが有効になるのかも判らないままに。
「でも、随分と上手くなったわね。最近じゃああまり簡単には殺されてくれないじゃない」
 エストリアは、その髪にしっとりと汗を含ませそう言った。時折、彼女のその長い髪が僕の頬をさらりと撫でる。その瞬間、僕の胸中にゾクリとした得体の知れない何かが疼く。彼女の髪と、その汗を感じ、僕の中の何かが激しく疼くのだ。
 ――僕は、知っていた。それが恋なのだと。もう何年も前からの事だ。僕は気付き、そしてきっと彼女も僕の気持ちを知っている。そして彼女もまた、僕と言う存在を他の人以上に特別に想っていてくれている事を。
 だが、教会の戒律が邪魔をする。ここにいればこそ、叶わない想いが僕の胸を締め付ける。ラーの教えは、男女の性的感情を決して認めてはいない。戒律と言う名の独自の法が、それを厳しく禁止しているのだ。僕とエストリアがこの教会の信者の一人である以上、決してその秘めた感情を外へと出す事は許されないのだ。
(エストリア!)
 心で叫び、剣を振るう。だがそうやって力に任せた切っ先は、エストリアの身体をかするどころかその反動で大きく振られ、おかげで僕は二度目の死を迎える羽目となる。
 抱きつくようにしてエストリアの身体が僕を包み込み、そして隠されたその右拳は、僕の心臓の上へとあった。触れる、火照った頬と頬。彼女の冷たい汗が、僕の首筋へと流れ込む。――抱き締めたい、その衝動を必死で押さえ、僕はぼそりと、「負けました」と、呟いた。

 シャワーを済ませ、”祝福の子供達”に与えられた東棟へと向かっていると、その廊下の途中でクレマンに逢った。どうやら先程の喧嘩で相当派手に殴られたらしく、両目と唇が大きく腫れている。鼻筋高く整った顔立ちなだけに、その変貌は物凄い。
「クレマン……」
 声を掛けると、「よう、エリオット」と、クレマンは無理に笑いながら言う。
「大丈夫か?」
 聞けば、平気さと言わんばかりに肩をすくめて見せる。彼らしい、飄々とした仕草だった。
「今日の夕食は、大食堂での合同だ。――どうする? 行くのやめるか」
 聞けばクレマンは、「どうして?」と問い返して来た。
「僕はお腹が空いているし、大食堂での合同夕食会なら尚更行かなくちゃ。きっといつも以上にご馳走だろうし、今夜は誰が卒業なのかも見ておきたいしね」
 聞いて僕は、やはり彼には敵わないなと思った。例え同じ歳でも、精神的にも僕よりずっと高い位置にそれはある。同時に僕は、自分自身のふがいなさと度胸の無さを恥じ入った。
 大食堂は、賑わっていた。白いローブ姿の子供達の中には、きっと卒業生に渡すのだろうブーケを持った者もいる。そして僕はそれを見る度、胸の奥のどこかがキュッと締め付けられるように痛くなる。僕は――いやきっと、隣にいるクレマンだってそうだろう。未だにあの花束を誰かに渡した事もなければ、それがどんな経路で手に入るのかも全く知らない。そしてきっと、あの花束を受け取るであろう側にも立つ事はないのだ。
「よぅ、クレマン。ついでに腰抜けもいるのか」
 声が聞こえた。振り返れば、やはりそれはユベールだった。どうやら彼もまたクレマンに何発かをもらったらしく、その右目は青く大きく腫れている。
 咄嗟にクレマンが、拳を握るポーズを見せた。すると意外にもユベールはひるんだような表情を見せ、「まぁ待てよ」と、不敵に笑った。
「今夜はウチの棟の人間の卒業会なんだぜ。少しも大人しくしてられないのか、この野蛮人達は」
 ――どっちがだよ。思う間もなく、「まぁ、お前等には関係無いんだろうけどな」と、取り巻きの一人であるシアンがそう言った。
 結局その場は、何も起こらずに終わった。もしかしたら、あんな目に会っても戦う気満々なクレマンに、恐れをなしているのかも知れない。思えば”祝福の子供達”は皆、どこかそれに共通する芯の強さを持っていた。恐怖や圧力には負けない、闘志のような気力を。そしてそれは僕に無いものであり、憧れであり、理想だった。
 大食堂でのテーブルの位置も、”祝福の子供達”の場合は特殊である。大勢いる”選ばれし神の子供達”がその食堂の中心を席巻し、その端を借りるようにして教師や修道士達のテーブル。そしてそんな教師の”壁”の外側に、僕達”祝福の子供”がいた。
 クレマンとテーブルに向かうと、ジャンヌがそこで僕を待っていた。”祝福の子供達”の中では一番の最年少にもかかわらず、その会話の受け答えの良さと知識の高さで、ジャンヌは誰からも好かれ、そして一目置かれていた。――いや、正直に言うなら、「置かれているらしい」と言った方が正しいのか。どう言う訳かジャンヌは、僕が傍にいる時にはそんな態度などは一切見せず、常にその容姿ままのような年齢相応の対応をする。正に臆病な五歳児のよう、僕のローブの袖に掴まり、常にその背後に隠れるようにしながら僕に付いて歩くのだ。
 だから実際、僕自身はそんな大人のジャンヌを知らない。それは常に誰かから聞く、未知のジャンヌの姿でしかないのだ。そして今もまさにその通り、僕の姿を見付けるや否や飛び付くようにして僕の服に掴まれば、力強くハグをして来る。
「こんばんは、ジャンヌ。今日はどんな授業を受けて来たんだい?」
 聞けばジャンヌは何も答えない。ただ潤んだ瞳で僕を見上げ、そして恥ずかしそうにまたローブの中に顔を埋める。
「相当に愛されてるみたいだな、エリオット」
 クレマンは言う。僕はどう答えていいのか判らずに、ただ黙って困ったような笑みを浮かべるだけだった。
”合同夕食会”僕達、”祝福の子供達”はそれをそう呼んでいる。だが向こうの”選ばれし神の子供達”は、その会を”卒業会”と呼んでいた。実際は”慶びの会”と言うらしいのだが、子供達は誰もそうは呼ばない。自分達の立場を意識しての事なのか、二つの対立する派閥は、違う呼び方をしている。
 原因は、ある。それは、”卒業”で分けられる大きな隔たりだ。この会で”卒業”をする子供はいつも、”選ばれし神の子供達”の誰かだった。”祝福の子供達”には、それがない。僕が誰にも花束を渡した事が無い理由がそれだ。僕が知る限り、”祝福の子供達”から卒業生が出て、親元へと帰った者はいない。エストリアを見れば良く判る。学業の習得を終え、成人して精神修行一筋の身の上になって尚、”卒業”と呼ばれる迎えは来ない。この教会の中で、修道女にもなれずにただ一人、何にも属さない存在としてそこにいるだけだ。
 僕は最初、どうしてこの教会の子供達には二つの属する場所があるのか、そこに大きな疑問を持っていた。だがそうして何年もの月日が経ち、次第にエスカレートして行く同年代の差別意識を見ている内に、その理由が判った。ただ単に、卒業が出来るのが、”選ばれし神の子供達”で、”祝福の子供達”はずっとその場に留まり続けるだけと言う差だ。
 教会の子供達は決して外には出られず、教会内の人以外とは会話も出来ず、情報は全て神父や修道士達からの又聞きだけの日常を淡々と送っている。そしてそんな修行と学業の日々、そんな平坦な繰り返しの日々に、彼等”選ばれし神の子供達”にだけ、「終わり」が来る。それが全ての、「差」であった。
”卒業”は、ある日突然に訪れる。年齢や学業、修行のレベルには関係が無く、ただ突然にその日が訪れる。きっと卒業を言い渡された子供も、その突然の解放に喜びより先に驚きがあるのだろう。今夜の卒業生である一つ年下の学年の女の子もまた、付け焼刃で覚えたのであろうお別れの言葉を涙ながらに朗読し、そして声を詰まらせていた。
「ここで、過ごした、日々の……思い出は、決して……忘れないと思います」
 周囲から小さく、「頑張れ」とか、「泣くな」とか、密やかな応援の声が上がる。そして女の子は、「ここでの修行と、神の教えを忘れる事無く――」と、いつも通りのお決まりの台詞を並べ出す。そしてその台詞を言い切れば、それで終わりだ。明日の朝には、もう彼女の姿はどこにも無い。文字通り、「解放」だ。囚人のように閉じ込められているこの世界から巣立ち、ようやく親の元へと帰れるのだ。
 ならばやはり、僕は生まれ付いての”祝福の子供”なのだろう。僕は――そう僕は、親を知らない。親の顔もその温もりも知らないままここに来て、そしてここで育った。きっと僕には帰れる場所は無い。卒業する日も、迎えに来る人もいない、ただここで永久に近い時間を過ごすだけの、”祝福の子供”でしかないのだ。
 ふと、遠い目で卒業生を眺めている、隣の幼きジャンヌに聞いてみたくなる。君もまた、親の顔を知らないのかい――と。
 ジャンヌはどう答えるのだろう。「知らない」か、それとも、「親って何?」か。どのみちそれは、僕達には永久に関係の無い存在でしかないのだろうと思った。

 ユベールのクレイモアが、右に左にと飛んで来る。僕はそれを愛用のシミターで受け流しつつ、密かに思っていた。
(右の頚動脈。左手首。――次は、右目。あぁ、脇腹ががら空きだ)
 力ばかりで優雅さのないユベールの剣は、僕を傷付けるどころではなかった。もしも僕の右手にナイフが一振りあったなら、もう既に彼を十回は殺せている。だが本人はまるでその事に気付いてはいないのだろう。防戦一方の僕の剣に笑みを浮かべながら、「ハァ!」とか、「エイヤァ!」など、得意げな気合いばかりの掛け声で踏み込んで来る。
(転んだ振りをして、股間でも蹴ってやろうか)
 僕は思う。――だが、それをやってしまっては、その後の仕返しが何十倍にもなる。仕方なく僕は自分でも惚れ惚れするぐらいの芝居を打ちながらじりじりと後退をし、そして次の一手でわざとシミターを弾き飛ばされて見せた。
「――負けました」
 尻餅をつきながら、僕は言った。するとユベールは肩で息をしながら剣の切っ先を僕に向け、「結構しぶといじゃねぇか、腰抜け」と、笑って言った。
 歓声が上がる。今年の剣技大会もまた、”選ばれし神の子供達”の圧勝で終わった。僕が皆の待つコーナーへと戻れば、エストリアがタオルを持って立ち上がるのが見えた。だがそれより一歩早く、ジャンヌが僕に向かって走り出していた。目に一杯の涙を浮かべ、僕の胸へと飛び込んで来る。そして僕がそれを抱きとめれば、彼女は声も上げずにそっと泣き始めた。
 誰もがぐったりとした顔で、うなだれていた。それはそうだろう。どのイベントでも、どんな種目の対抗戦でも、僕達”祝福の子供”が向こうに勝ったためしは無い。きっと学力で対抗すればこっちが勝つだろう事はなんとなく判ってはいたが、何故かそんな学力勝負のイベントは存在していない。常に僕達は、負け続けているだけだ。
(勝てば良かったのだろうか)
 想いが募る。勝とうとすれば、勝てた試合だ。しかもこの大会の最終の試合だ。ここで僕が勝ってさえいれば、少しはその活気も違っていただろうにと、僕は今更ながらにそう感じていた。
 だが、エストリアの顔を見てその気が変わった。――良く頑張ったねと、彼女の唇が動くのを見て、これで良かったのだと改めて気付く。
 目的無き勝利は、大きな敵を作る。ラーの教えの一つに、そんな言葉があった。別に神はどうでもいいが、彼等”選ばれし神の子供達”は、一点の曇りもない圧勝こそが喜びなのであり、それが常なのだ。波風を立たさなかった事は、大きな意味がある筈。僕はそう自分に言い聞かせ、もやもやとした胸の内を晴らそうと努力をした。
 その晩、僕は一人で冷たいシャワーを浴び、そして痛いぐらいに唇を噛み締め、思った。大きな疎外感と、劣等感。そして深い孤独と絶望。様々な想いが一気に身体の奥底から吹き上がって来る、そんな感覚。――どうしたらいいのだろうか。何がどうして、どんな答えを求めているのかも判らないまま、意味不明な自問自答を繰り返す。素手で力一杯壁を殴り付け、湧き出る衝動をなだめようとする。だが、一度込み上げてしまったその感情は収まる事を知らず、僕はいくら浴びても冷えない火照った身体を持て余すように、強烈に、「エストリアに逢いたい」と、そう想った。
 今なら――今なら言えそうな気がした。あなたを愛していると。あなたを抱き締め、口付けしたいと。そしてきっと彼女は拒まないだろう。そんな自信も確かにあった。きっとそれは彼女の愛情ではないかも知れないが、それでも彼女は僕を拒む事はしない。神の教えも、禁忌も無い。きっと彼女は僕の求愛を受け入れてくれる筈。
(僕は孤独はもう嫌だ)
 思いながら決断し、そしてシャワーのコックを閉じた。
 心音が逆流し、耳から飛び出していた。流れる汗が頬や首筋を濡らし、絶えずローブが肌に張り付く不快さを感じていた。消灯の時間はとうに過ぎ、進む塔の廊下はほとんど何も見えないぐらいに真っ暗だった。そして僕はその廊下の所々に見える非常灯だけを目当てに進み、女性ばかりの部屋で区切られている区域へと侵入をする。
 突然、向こうの暗がりに何かが見えた。それは部屋の中から漏れ出る明かり。ドアが開き、そこから誰かが静かに抜け出るのが見えた。僕は咄嗟に廊下の柱に身を隠し、様子を伺う。だがその人影は僕が隠れている方向へは来ない様子で、廊下の逆へと向かって進む。僕はその人影が充分に離れたのを確認した上で、行動を再開した。その影を追うようにして廊下を進み、エストリアの部屋を目指す。――だが、その目的に部屋へと近付きようやく気付いた。今しがた開いたのはエストリアの部屋のドアであり、あの人影がエストリア本人のものである事を。その証拠に、廊下に漂う香りが、エストリアから漂ういつもの香りそのものだった。ただそれはいつも以上に強く、そしていつも以上に僕の内なる奇妙な感情を奮い起こす。
 そして、湧き上がる疑問。エストリアは一体、こんな夜更けにどこへと向かっているのだろうか。自然、僕は彼女を追っていた。足音を立てずにゆっくりと、彼女の足音とその残り香を追っていた。
 やがてその人影は”祝福の子供達”の東棟を離れ、そのまま長い長い廊下を経て修道士達の住む北棟へと辿り着く。――訳が判らなかった。なんでこんな夜遅くに、こんな場所に? 大体、消灯を過ぎての個人の行動は厳しく禁止されている筈。なのにその監視者たる修道士達のいる場所に来るだなんて、無謀もいいところだ。思いながらも僕は、何度も引き返そうと考えつつ、それを実行出来ずにいる。その原因はただ一つ。エストリアが、何をしようとしているのかを確かめたい。ただそれだけだ。
 そしてエストリアは、どこかのドアの手前で足を止めた。そしてそこで何をしているのか。少しの間立ち止まっていたかと思えば、ノックも無くそのドアを開いてその身を内側へと滑り込ませる。僕はそれを眺め、しばらくの間呆然としていた。そうしてようやく気付いた事と言えば、エストリアはそのドアの合鍵を持っていたか、そのドア自体が施錠されていなかったと言う事実だ。
 僕は足音を殺し、ドアへと歩み寄った。そしてそのエストリアの消えたドアの前に立ち、そこに掛かったプレートを見上げる。――ノエル・ハートランド。暗がりの中、そこに書かれてある文字はそう読めた。
(訳が判らない)
 思いながら僕は、そのドアのノブに手を掛ける。だが、ノブはがっしりと重く、回らない。
 耳を付ける。やはり何も聞こえない。だが確かにエストリアはこのドアの向こう、ノエル神父の部屋の中に消えたのだ。想いは頭の中をぐるぐると回り、そして心臓はシャワー室の時よりも早く、高く、打ち鳴っている。
 瞬間、僕は弾かれたかのように駆け出していた。足音を聞かれ、誰かが起き出して来ても構わない。僕はその棟の非常口を目指して懸命に駆け、そしてそのドアの内鍵をはずし外へと飛び出す。外はひんやりと冷たい風が吹いていた。僕はそこに並ぶ窓の数を大雑把に数え、そして再び駆け出した。そして――ノエル神父の部屋は、すぐに判った。窓に掛かったチェック柄のカーテンが、そこだと教えてくれていた。滅多に出る事のない校庭から見る景色で、誰かがそう話していたのを思い出したからだ。
 窓は、閉まっていた。だがそのカーテンの隙間から漏れ出る薄明かりが、そこに誰かがいる事を証明していた。僕は急ぎ足でその窓の下へと駆け寄り、そっとその隙間を覗き見る。だがその隙間の向こうにはレースのカーテンが邪魔をし、薄い照明の中、内部の様子は良く判らない。だが、確かにそこに誰かがいた。誰かがいて、動き回っているのは見えた。窓に耳を当て、僕はそこにエストリアの声を聞く。泣いているような、苦しんでいるかのような、そんな声。同時にそこに、神父の声も聞こえた。僕が大好きな彼の穏やかな声はどこへと消えてしまったのか、下卑た声で高らかに笑い声を上げ、そして酷い侮辱の言葉で誰かを罵る。そしてそんな罵りの声を浴びながら、エストリアは更に高い声で泣き、そして――自らが辱められるべき事を、自らで懇願しているのだった。
 果たして僕は、どれぐらいそこにそうしていたのだろうか。長い長い時間を掛けてお互いの満足が終わったかのように部屋が無言になった頃、僕はその月明かりの下、ぼんやりと教会の外を回るようにして東棟へと帰った。広い庭には一面に青い芝生が広がり、その向こうには誰一人として逃がさないと言わんばかりに高い塀が連なっている。僕はそんな絶望的な風景をのんびりと眺めながら、痺れた思考で今あった事の全てを忘れようと試みた。
 だが、無理な事は知っている。例え何も知らない子供でも、二人があの部屋で密会し、そして何をしていたのかは想像が付く。きっと今夜あったこの出来事は、一生僕の胸の内に深くえぐり込み、消えない記憶となるのだろうと予感していた。

「どうしたの? 浮かない顔しているじゃない」
 いつものように、エストリアは僕を惑わせるような表情で、剣を振るいながらそう聞いた。
「――別に」
 僕は言う。だがもちろん、「別にって顔してないじゃない」と言うような返事を期待しての台詞だった。そしてエストリアは、一字一句僕が思った通りの言葉を返す。そして僕はまた、「何でもないって」と、とぼけた返事をし、そんな意味もない言葉のやり取りを何度か繰り返した上で、ようやく僕は彼女に向かってこう切り出した。
「教会では、男女の恋愛事は禁止だよ」
 言うとエストリアはその剣を休め、「それが?」と、首を傾げて聞いて来る。
「いいのかい? 見付かったら、君も神父もただじゃ済まない」
 僕は、言った。大きな決心と、それより大きな屈辱と虚しさ。そしてそれを言ったら絶対に後悔するであろう事を予測しながらの決断だった。
 エストリアはしばらく放心したかのような表情で僕を見つめ、そしてそれからようやく、笑い出した。いつになく、乾いた笑い方だった。口元を手で押さえる事もせず、ひとしきり笑った後で、エストリアはいきなり打って来た。
 咄嗟に剣を跳ね返す僕。だがエストリアはその剣を収める事をしない。素早く何度も何度も打ちつけながら、「いつから知ってたの?」と、僕に聞いた。
 僕はその問いに答えなかった。だが彼女は気が付いたのか、「そうか、昨夜ね」と、笑いながらそう言った。
「あぁ、きっと窓の外からね。今朝、そんな事を誰かが言ってたわ。夜中に誰かが外に出た形跡があるって。――なるほど、あなただったのね。ずっと窓の外から、私達の声を聞いてたんだ?」
 僕は答えない。無言の肯定だった。
「幻滅したでしょう? ちょっと普通じゃない行為だもんね。――ホラ、神父ってさ。病的なぐらいに優しいじゃない? でもそれって、自分の弱さの裏返しなのよね。特に自分の立場と言うもののコンプレックスや、強迫観念なんかが強く……」
「どうでもいいよ!」僕は叫んだ。
「別に君がどこで誰と何をしていてもいい。ただ僕は、ここの戒律に反しているんじゃないのかって言ってるだけだよ。しかも相手は、その戒律に一番厳しくなければいけない人じゃないか。そんなのどう考えたって――」
「ショックだったのね?」
 エストリアは、そう言いながら笑みを浮かべた。
 瞬間、僕の右手は信じられないぐらいの素早さで、彼女の頬を打っていた。痛みと痺れが、後から強くやって来た。叩いた僕本人の掌がこれだけ痛いのだ。恐らくは相当な勢いで叩いてしまったのだろう。
 僕が他人を殴ったのは、思い出す限りでは生まれて初めての経験だった。
 嫌なものだった。叩いた掌の痛さと、それ以上の罪悪感。そしてなんだか身体全体が震える程の緊張感と、拒否反応。そしてそれよりもっと上にあるのだろう、僕自身の純粋な怒り。僕は目の前に立つエストリアを見つめるが、彼女は叩かれたその頬を庇うでもなく、ただ嬉しそうに、そして少しだけ哀しそうな表情で、僕を見つめ返すだけだった。
「ごめん――」
 僕は小声でそう言う。するとエストリアは、「やるじゃない」と、噛み合わない言葉でそう返した。
「今のは見えなかったわ。もしかしたら初めてじゃない? 私があなたに、本気で一本取られたのって」
 ――そんな事考えてたのかよ。僕は無言でそう呟いた。
「どうでもいいから、もうやめない?」僕は言う。
「僕は君達の事を告げ口するつもりはないけれど、それが明るみに出て大事にならない内にやめた方がいいと思う。特にその戒律は、教会内部では一番の禁忌だって事、君だって良く知っている筈だろう」
「でもその理由までは、あなた知らないんじゃなくて?」
「……え?」
「どうして神がそれを禁忌と教えているか、そこまでは考えてみた事ないでしょう?」
 言い返されて、僕は返答に詰まる。確かに――言われてみればそうだった。禁忌は、神の教えだからこその禁忌なのだが、その元となる禁忌の理由までもはまるで知らない。
「ねぇ、エリオット。もう話しても良い頃だろうから、あなたに話すわ」エストリアは言う。
「どうしてこの教会には、多くの禁忌が存在しているのか知ってる? 恋愛事の禁止もそうだけれど、修道士や教師達と同じ席で食事をする事すらも禁止がある。それは何故だか知っている?」
「……いいや」
「外からの情報の遮断もそうね。この教会には、何人かの教師の部屋以外にはテレビもラジオも置かれていない。それはどうしてだか知っている? 神が許さないからと言う理由は別にしてよ。どうして私達はこの教会の中にて、外では有り得ないだろうおかしな常識に縛られているか、あなたは考えた事がある?」
「有り得ない常識って? 例えばどんな?」
「あぁ――エリオット、あなたにはもはやそんな事から教えなきゃいけないって事ね。そりゃそうだわ、外での暮らしは全く無いし、外からの情報もまるで触れてはいないんでしょうから」
 エストリアは、剣のさばきをまるで何かの演舞のような単調なものに切り替えて、話を続けた。
「この教会は、遮断されているの。完全に外界をシャットアウトしているの。そして私はその疑問を解消する為に、神父と契約を結んだ。彼を通じて外界のあらゆる事を知る術を授かった代わりに、私は彼の欲求を満たすと言う条件を飲んだ。彼、ノエル神父は、病んでいるのよ。存在していない神に仕え、偽りの教義を垂れ流す事に罪悪を感じ、いつしかその神に一矢を報いると言う目的を掲げた。だからこそ、私は彼のその欲求に加担した。彼は私を陵辱し、はずかしめて、痛めつけて、その欲求を果たそうとしたわ」
 僕は彼女から目を逸らす。聞きたくなかったのだ。彼女の口から放たれる、その真実を。
「聞きたくなくても聞いて。あなたがこれを知ってしまった以上、私はもうここにいられないから。だから今、あなたに全てを話す。だから聞いて、エリオット」
「いられないって、どうして?」
「後で嫌でも判るわ」エストリアは言う。
「外界からの遮断は、この教会がいかに異常なのかを知られたくないから。そして教師達とのみだりな接触の禁止や、食事の同席の禁止は、同じ皿を共有して、彼等の唾液からの雑菌の侵入を私達にさせない為の予防。それだけ私達は外の雑菌に弱いと考えられているぐらいに、純粋培養な存在なのよ」
「……」
「そして恋愛事の禁止は二つある。”選ばれし神の子供達”の場合は、単純に妊娠を恐れての事ね。もしも彼等の誰かが孕んだら、その商品価値は無くなってしまう。ただそれだけの為の禁忌なのよ」
「商品価値って……何を……言ってるんだい、エストリア」
「判らない? ”選ばれし神の子供達”は、”養殖されたヒト”なのよ。卒業して親元へと帰るなんて大嘘。ただここを出て、必要なパーツに切り刻まれて買い手のバイヤーに渡るだけ。そんな商品が孕んでいたら、価値が無くなるとは思わないの?」
 ――意識が、どうにかなりそうだった。彼女の語る言葉の意味がまるで判らず、なのに今まで仄かに疑問だった事の数々が、一気に氷解して行くようで。
「そして私達、”祝福の子供”の恋愛事が禁止なのは、それ以上に簡単な理由よ。いい、エリオット。心して聞いて。私はずっと前からあなたの気持ちには気が付いていた。私と言う人間に対し、親しみ以上の感情を抱いていた事を。そして私もあなたは嫌いじゃなかった。いえむしろ、この教会の中に措いては一番の特別な存在だったわ。きっと私もあなたには、好き以上の感情を持っていた。――でも、許される事じゃないの。私はあなたの愛を受け入れる事は出来ないの。だって私とあなたは、その体内に同じ血が流れているんだもの」
 思考は止まる。返事は出来ない。むしろ息すらも出来そうにない。僕の剣は次第にだらしないものとなり、ただぶらぶらと左右に振って、エストリアの剣に触れ合わせているばかりだった。
「でも、私達の関係は肉親のそれじゃない。親子でもなければ、兄弟でもない。実際はそれよりもっと深い。――同じ肉体、同じ血液、同じ細胞の、同じ遺伝子。私とあなたは、全く同じモノで作られているの。言うなれば、同一人物。もちろんこれだけ顔や姿は違っているのだから遺伝子は操作されているんだろうけど、元を正せば全く同じ遺伝子で出来上がっているのよ。それが、私とあなた。そんな人間同士で、どうして恋愛が可能になると思うの。教会のタブーや神の教えなんかどうでもいいわ。それ以前に、私とあなたの間には絶対に受け渡してはいけない一線があるの。それが、”種”としての絶対的禁忌。同一の人間として、そこに愛情以上の欲望があってはいけないの」
 剣が、落ちる。床を叩いて乾いた音を立てる。そして僕は彼女を見つめ、ただ立ち尽くしていた。
「これは、私とあなただけの問題じゃないわ。”祝福の子供達”全員に言える事なの。――ねぇ、エリオット。どうして”選ばれし神の子供達”は必要以上に私達を迫害しようとしていたのか、本当の理由は判っている? あれは、差別や立場的有利を確立しようと考えての事じゃないわ。一番の最深の心理には、恐怖があるのよ。――そう、あの子達は私達を怖がっていた。あなた達は自分の側からしか自分を見る事が出来ないけれど、彼等は違った。向こう側に立ち、私達を見る事が出来た。だからこそ判るのよ。私達がどれだけ類似のある顔形をしているか。どれだけ似たような魂を持っているか。彼等はそれを感じ、潜在的にそれを恐れていたのよ。私達が物凄い奥底の部分で共通し、そしてその通じる部分は決してあの子達じゃあ太刀打ちが出来ないものである事を。動物的勘のようなもので感じ取り、そして恐れていたの」
「何を?」僕は聞いた。
「何を恐れているって言うの? 僕達は……僕達はただの人間だ」
「そうね。姿形は違えども、全てが同じ遺伝子を共有する、同一人物の群れだって事を除けばね」
 言ってエストリアはしゃがみこみ、落ちた剣を拾って僕に差し出す。だが僕はそれを受け取る気力もないまま、放心を続けていた。
「同じ人間なのは、私とあなただけじゃない。クレマンも、バスティアンも、カミユも、全員が同じ遺伝子。同じ人間から作られた、同一のクローン。それが”祝福の子供達”の隠された真実。もちろん、あなたを慕うジャンヌもまた、同じ存在なのよ」
 嘘だと、叫びたかった。そんな突拍子もない冗談を、なんでこんな時に言うんだと、怒鳴りたかった。――だが、出来なかった。僕にはそれこそが真実なのだと、はっきり確信出来たからだ。
 だが、クローンとは、どう言う事だ。どうして僕達は、そうまでして生まれて来なければいけなかったんだ。思いながら、「じゃあ僕は、そんな十数人の中の一人……」と、心細げに呟けば、「違うわ」と、エストリアは即答した。
「確かに”祝福の子供達”は僅か十数人ね。でもあなたは、その中の数十分の一なんかじゃない。厳密には判らないけど、実際は何万……いえ、何百万、何千万、何億と作られたクローンの、僅か数個の個体なの。完全体となった私達に比べれば、出来損ないの方が圧倒的に多いと言う、そんな存在。それこそ文字通りに、”祝福された子供達”ね。まるで奇跡のような偶然に守られて出来上がった、五体満足なクローンが私達。――どう? 彼等と比べて私達の方がどれだけ貴重で特別な存在なのか、判るでしょう? 彼等はただ、無菌状態で育てられて、いつかは切り刻まれて売られるだけ。でも私達は違う。天文学的投資をして、ようやく生まれる貴重な宝。それを知れば、どれだけ”選ばれし神の子供達”に蔑まれようとも、痛くも痒くもないわ。哀れなのはあなた達の方だと、大きなゆとりを持っていられるから」
「……」
「そろそろ、私自身の役目も終わるの。”卒業”とはちょっと違うけれど、必要のなくなる時が来る。必要とされているのは、あなた達だからね」
「だから、いられないの?」
「それもあるけど――もっと違う理由」エストリアは言う。
「成人の日の誕生日に、またあなたに逢いに来るわ。その時、あなたがまだ私を必要としていたならば、その時こそちゃんと全てを教えてあげる」
「エストリア……」
「それより、エリオット。あなた結構危ないわよ。その剣の腕前と暗殺力、そして感情を抑える術に関してはトップなんだけど、他の能力全てが他の子に比べて著しく劣っているわ。いつ、その試練の時が終わってもおかしくはない。もう少し、生きる事を頑張って。他人を騙し、蹴落としてでも生き残るぐらいの野望を持って、エリオット。――愛していたわ」
 言ってエストリアは僕の剣を大きく弾き、そして素早く身を寄せると、その唇を僕のそれに軽く触れ合わせた。
「ジャンヌを守って」エストリアは、僕の耳元に唇を寄せ、そう呟く。
「彼女もまた、私と同じ”繋ぎ”の存在。彼女だけは、あなた達の中に入れない。最初から競争の中に含まれない、そんな存在なのだから」
 言って彼女は僕の掌に何かを握らせ、後は何も言わずに振り向き歩き去る。最初で最後の、エストリアとのキスだった。感動も何もない、ただ哀しく虚しいだけのキス。そこに残されたのは、きっと神父が好きだったのだろうエストリアの身体に染み込んだコロンの香りばかり。堂々とした足取りで立ち去るエストリアは、ただの一度も僕に向かって振り返らずに、剣武場から姿を消した。
 そして、彼女は本当の意味で、消えた。翌朝は恒例の朝のお祈りもなく、教師達、修道士達が大騒ぎをしているのが目に入った。エストリアは、忽然とこの教会内部から姿を消してしまったのだ。

 部屋が、明るくなった。僕はその突然の明るさに目を瞬かせ、慣れさせようと努力をした。
「――エリオット? 君が、どうして」
 部屋のドアを開け、驚いた表情の神父がいる。
「勝手に申し訳ありません」
 言って僕は、差し出した。数日前のあのキスの瞬間、エストリアに渡された神父の部屋の合鍵だ。
「あ、あぁ……」
 見て、一瞬にして全てを理解した様子だった。そして神父はいつもの通り、僕の規律違反を咎める様子も見せず、嘘の無い――いや、嘘を見破れない程の明るい笑顔となった。
 僕は神父の寝室のベッドの横のソファーに腰掛け、彼を見上げていた。恐らく、この上で彼と行為に及んでいたのだろうベッドを目の前にし、僕は不快さと怒りを必死に押さえ込みながら、彼と対峙していた。そして彼もまた僕が何を言いたいのかを、それで察したのではないだろうか。どうしたの? と、言わんばかりに両手を広げ、僕の言葉を待っていた。
「教えて下さい。まず――僕が誰なのかを」
 聞けば神父のその表情は一切崩れもせず、まるで予期していた質問のように、「神ですよ」と、そう答えた。
「ふざけないで」
「ふざけてなんかいませんよ」神父は言った。
「神です。あなたの身体の細胞は全て、神から授かった、神と同じ成分です。――素晴らしいでしょう。この上なく、最上の高貴なのですよ、あなたは」
「神などいない。この世にいるのは、人間と、造られた人間ばかりだ」
「賢いですね、エリオット」言って神父は更に嬉しそうな笑顔となる。
「でも、嘘は言っていませんよ。あなたは神の分身です。この”教会”と呼ばれる施設は、そんなあなた方を育てる為に存在している政府公認の秘密機関です。そしてそんなあなた方こそ、国家最大の秘密の存在。まさに生ける国家機密です」
「……」
「あぁ、そんな顔をなさらないで。私は全く嘘は言っていませんよ、エリオット。あなたも知っているでしょう。この世には、”神”である主と同じ名前を持った人がいると」
「知りませんよ、そんな人」
「いいえ、知ってますよ。ただあまりにも有名過ぎて、自然過ぎて、疑問に上らないだけです。――ねぇ、もう一度考えてみて下さい。この国の中で、”神”と同じ名前の人間は誰?」
 聞いて――背筋がじわじわと冷えて来るような、そんな感覚が襲って来た。
 知っている。確かに僕は知っている。神と同じ、主と同じ名前の人間を。
「そう、判りましたね。アムサ・ラー国家元帥。この国の頂点である主導者。まさに神と等しい地位にあるとして、代々その名を受け継ぐ、そんな存在」
「まさか……僕は……」
「そうですよ。あなたは国家元帥その人です」神父は言った。
「”選ばれし神の子供達”は、元帥の側近や政治的に重要な位置にある人々の、”パーツ交換”の為の存在。だけどあなた方は全く違う。元帥の為にだけ生きる、元帥その人なのです。むしろ、選ばれた神の子供は、あなた達の方でしょうね」
「じゃあ……もしかしたら次の国家元帥は、僕達の中から選ばれるの?」
「まぁ、簡単に言えばそうでしょう」
 神父は奥歯にものの挟まったような言い方をする。
「そうして今度は、僕達がその名を次ぐ訳ですか。先祖代々の教えの通りに、悪魔のような所業を繰り返しながら、尊き神の名を授かる訳ですか」
「そこはちょっと違います」神父は言う。
「逆ですよ、エリオット。元帥が主の名を受け継いだのではありません。主が、元帥の名をいただいたのです。尊きは国家元帥の方であり、主はその下におられるのです」
「有り得ないでしょう。どうして神より先に、元帥がいるのですか。それが本当なら、神より前に元帥が生まれた事になる」
「その通りです」神父は言った。
「先に、国家元帥が生まれました。そして元帥が、神をお造りになられました。従って、主もまた元帥の子供です。名前を授かったのは主の方であり、聖書の教えは全て元帥の教えであり、元帥の出生をなぞった神話がそれなのです。つまり主は元帥の子でありながら、元帥そのものでもあるのです」
「訳が判らない。じゃあ、今の元帥のずっと祖先の人が、今のこの教団の全てを造ったって言うの?」
「祖先なんかいませんよ。元帥は、ずっと元帥その人です。身体を取り替え、永遠に近い程の転生を繰り返す、神そのものなのですよ」
 それを聞いた瞬間、全てが理解出来た。僕達、”祝福の子供”の存在理由が。
 僕達は、”器”だったのだ。国家元帥と言うその人が、未来永劫生き続ける為に存在する、魂を入れ替える為の”器”。恐らくは気の遠くなる程昔から、それは続いて来たのだろう。元帥と、神。その二つが完全に分離されて存在する、それ以前から。どうして僕達”祝福の子供”には、親がいないのか。どうして僕達”祝福の子供”は、同じ遺伝子から作られていたのか。答えは全て、そこにあった。
 同時に今、僕達がどんな状況にあるのかが、おぼろげに理解出来て来た。僕達、「時期元帥候補」がこれだけ多くいるのも、現国家元帥の様態が思わしくなく、しばらくの間病の床に伏せていると言う事実も、無関係ではないのだろう。僕達、”祝福の子供”は、知らない間に競い合わされていたのだ。どの身体が一番優秀で、長生きをしそうなのか。それを試されていたのだろう。
 今ならば、エストリアが別れの際に言った言葉がなんとなく判る。エストリア自身がどうしてこの教会を離れなければいけないのかまでは知らないが、彼女の”身体”に価値が無くなっていると言う事だけは、理解が出来た。恐らくは彼女は、予期せぬ元帥の死の為に造られた存在なのだろう。いつ今の元帥の身体に不調が来て、突発的に身体を入れ替えなければならない事態が起こるか判らない。その為だけに、彼女はいた。だが今は違う。予期出来る元帥の死が迫っているからこそ、僕達はこれだけ多く造られた。ならば、僕達がいる限りエストリアにはもう価値は無い。それが真実なのだろう。
 僕は両手で顔を覆った。強く瞑った瞼の中に、エストリアの凛々しい顔と、ジャンヌの弱々しい幼い顔が交互に浮かぶ。きっとジャンヌもまた、自分自身に何の価値も見出せないまま、この教会の中だけでその人生を終える事になるのだろう。まだ五歳と言う年齢だと言うのに、その全ては決定している。なんと言う皮肉なのだろう。
 ――声が、聞こえた。顔を上げれば、部屋の隅で僕の方に背中を向けて、必死にその声を殺しながら泣いている神父の姿があった。
 彼もまた、国家元帥の機密による犠牲者の一人なのだろう。神父とは名前ばかりで、存在もしていなければまだ死んでもいない人間を、”神”として語り継ぐ、滑稽な役者。どうして彼がエストリアと関係を持ち、歪んだ行為に及んでいたのかも、なんとなくは判った。彼は、”神”の分身であるエストリアを服従させ、それを汚す事によって、心の均衡を保っていたのではないのだろうか。彼が言っていたと言う、「神に一矢報いる」とは、そんな程度の反抗だったのではないのだろうか。
 彼は、泣く。今ではもう声を殺す事も出来ないままに、僕の前で泣いていた。そして僕は――。
「ねぇ、神父。力を貸して」
 言うと、横顔だけで神父は僕に振り向いた。
「ねぇ、力を貸してよ」僕はもう一度言う。
「あなたなら、外界との接触は可能なんでしょ? ――なら、頼みたい事があるんだ」

 ――人はどうして永遠などと言うものに憧れを持つのだろうか。
 それは”死”と言うものを受け入れる事の出来ない恐れのせいか。それとも人と言う種が望む、最高級の欲望か。その答えだけは、聖書の中のどこを探しても載ってはいない。
 僕は腕を組みながら、そんな想いに耽る。周囲は耳がおかしくなるぐらいの絶叫が轟いているのだが、何故かその時の僕の心の中は、やけに落ち着いて、穏やかだった。
 中央の塔の最上階。天井にはドーム型のステンドグラスが張り巡らされている、溢れる光の美しい場所。今日、そんな最上階の大広間は、異常とも思える程の熱気と怒号で包まれていた。急ごしらえで作られた、大広間の剣武場の中央。今はちょうど一学年下のアドリアスが、その中央の舞台で”選ばれし神の子供達”の代表を徹底して追い詰め、圧倒的な剣技でいたぶっている最中だった。
 あれから、二年の歳月が流れていた。僕はまさに今日、十七歳と言う成人の日を迎えた。同時に今日は、僕と神父とで計画していた、”解放の日”の決行日でもあった。
 僕がエストリアから受け継いだ剣の技術は、二年の歳月を経て”祝福の子供達”全員に、浸透していた。お手本通りにしか剣を習っていない”選ばれし神の子供達”にとって、思った通りに僕達の剣技は未知の領域だったようだ。例え利き腕にナイフを仕込んでいなくとも、誰も僕達に敵うものはいなかった。圧倒的な差で試合が進んでいるのは例年通りでも、今日のこの日だけはその内容が全く逆だった。昨日までは何の変哲もなく大人しいままだった”祝福の子供達”は、もういない。溢れんばかりのその怒りと負のエネルギーを発散しようかと言うぐらいに、誰も容赦をしていない。
 文字通りの、”解放の日”。もはや誰もその仮面の下の牙を隠さない。何の遠慮もなく、剣と暴力で”選ばれし神の子供達”を叩き伏せる。中には頭を割って血を流しながら退場する子供もいたが、僕達は誰もその事を苦にすら感じてはいない。ただ淡々と、積もりきったその鬱屈を剣先に込めるだけだった。
 アドリアスが、相手の子供の剣を払い、同時にその返す刀で側頭部を殴打する。当然相手の子供は倒れるが、尚も追い討ちをかけるかのようにその腹を蹴り、そしてその模造刀を胸に突き立てる。
 ――悲鳴が上がる。もちろん剣は突き刺さらない。ただ激しい痛みが走るだけ。所詮、使っているのは玩具の剣でしかないのだから。
 だが、相手方の反応は思った以上だった。恐怖と混乱。そして興奮。この試合の最終戦が終わると同時に、暴動が起きてもおかしくはないだろう程の興奮だ。そして僕は立ち上がり、その試合の最終選手として舞台中央へと歩み出る。
「エリオット、お待ちなさい。これはもう剣の試合なんかじゃなくて、殺し合いのようです。今日のこの試合は全て没収として――」
 審判役の修道女リューシーが、僕の前に立ちはだかる。この教会の中では一番の古株である修道女で、誰もが恐れおののく程のヒステリックさを持つ、そんな人。僕はそんな彼女に一瞥をくれた後、剣の柄の部分を顔面に遠慮無しに叩き付け、床へと転がした。
 またしても悲鳴が上がる。今のワンシーンは、きっとこの教会内では初めての事なのだろう。普通、僕達子供が教師や修道士達に反抗的な態度を示す事など、あってはならない事なのだから。
(でも、斬られないだけマシじゃない)
 僕はそんな事を思いながら、広場の真ん中で一人の子供目掛けて剣先を向ける。そしてその相手とは、同じ学年のユベール。果たしてその心中はどんなものなのか、血気盛んな彼にしては珍しく、うろたえた表情で僕を見返していた。
「来てよ、ユベール。腰抜けの僕じゃあ物足りないかい?」
 言うとユベールは、引けた腰付きのまま立ち上がる。そして上がる歓声。彼もまた、僕と同じでこの教会に残る最上級生となっていた。おかげで彼の下級生達は、その彼の肩に全ての期待を込めているようだった。
 今やこの教会は、以前とは違って子供達で溢れ返っている。理由は簡単。”卒業”をする子供がいなくなってしまったからだ。
 でも、”卒業”がなくなった理由については定かではない。もしかしたら、時期的にもエストリアが失踪をした直後からの事なのだ。彼女が外部でなにかしら影響を与えていたとしてもおかしくはない。
 こめかみに血管を浮き上がらせ、真っ赤な顔をしながらユベールが舞台に上がって来る。僕はそんな彼を笑顔で迎え、気の毒な子だなと心の中で呟いてみる。
(君はまるで屠殺の順番を待ちながらも、いつまで経ってもその時が来ない、忘れられた家畜のようだね)
 思いながら、礼をする。同時に彼が、礼も取らずに襲い掛かって来るのを肌で感じる。
「解放してあげるよ」
 呟いたと同時に、ユベールの剣を跳ね上げる。まず、鳩尾に一発。そして顔面に肘を叩き付け、背後に回りその喉元にシミターの刃を当てた。
 横に滑らす。掌に、弾力のあるブツリとした感触が伝わって来る。そして、子供達の悲鳴が先か、ユベールの声にならない絶叫が先か。喉元から鮮血を吹き上げながら暴れまわったせいで、その返り血は僕の真っ白なローブまでをも真っ赤に濡らす。ごぼごぼと泡を吹かせ、ユベールは両手で必死にその喉の傷を塞ごうとするかのように宛がうが、間もなくその目は真っ白に裏返り、右手で宙を掻き混ぜながら舞台の上に倒れ込んだ。
 静かだった。広間は奇妙に静まり返っていた。僕はそっと、剣を頭上へと持ち上げる。そしてそれを”選ばれし神の子供達”の群れへと向ければ、背後でクレマンが上げる、「解放を!」の号令と同時に、”祝福の子供達”全員が立ち上がり、飛び出して行く気配を感じた。
 ――銃声。――悲鳴。――怒号。――そして殺戮。神父に頼んで仕入れてもらった銃器や刀剣は、もはや誰の抵抗も許しはしない。まさに、”解放”と言う名の、虐殺の始まりだった。
”祝福の子供達”をこんな行動へと追いやったのは、僕と神父だ。彼等には僕達に共通する秘密を語ってはいなかったが、それでも自由を勝ち取らない限り僕達は決して外へと出られる事は無いと言う真実だけは説明していた。そして彼等の行動の理由は、それだけで充分な様子だった。未来永劫、自分達にはもたらされる事の無い自由。それは彼等の理性を狂わせるには、充分な程の素材だった。思った通り、長い間に積み重なった恨みと劣等感は、その行動をもって吹き出した。仲間達は皆、その手に剣や銃を取り、”狩る者の目付き”で、次々と逃げ遅れた者達を屠って行く。
 そこにはもう、差別も区別もなにもなかった。教師であれ、修道士であれ、そして”選ばれし神の子供達”であれ、”死”は分け隔て無く訪れた。大広間は、その規模に反比例して出入り口が少なく、そして狭い。一斉にその出入り口へと殺到した人達は、自らの身体でそこを塞いでいた。おかげで、僕達がそれを追い詰めるのは簡単だった。僕自身もまた、血に濡れた剣を振るいつつ、逃げ惑う子供の背中にそれを突き立て、”魂の解放”を行っていた。
 そうしてどれぐらいの時間が経ったのだろうか。周囲が静かになって来たなと思った頃には、既にその広間には数人程度の姿が見られるだけになっていた。そしてそんな人々もまた、追い立てられて、必死にその場を後にする。声は、遠くより小さく密やかに響いて聞こえて来た。教会の敷地内を逃げ惑っているだろう生き残りの人々を、仲間達が追っているのだろう。僅か十数人に全滅させられる程度の人々を想い、僕は少しだけ情け無く思ったのも確かだった。
 広間は、まさに血の海だった。床も壁もその元の色が判らない程に鮮血に濡れ、折り重なって倒れ込む死体はその広間を狭く見せる程に多かった。
 そんな中、今までどこにどうやって隠れていたのだろうか、その白いローブには何の染みも見せないままに、厚手の聖書を片手に持ったノエル神父が涼しげな顔で歩いて来る。
 その横には、ジャンヌがいた。右手は神父の手を握り、左手には小型の拳銃。きっと彼女もまた仲間と一緒に戦いに加わったのだろう、血飛沫を浴び、無表情なままの虚ろな目で、こちらへと向かってやって来た。
「エリオット」
 ジャンヌが小声で呼び掛ける。僕はすぐに、「どうしたの?」と聞き返すが、ジャンヌはどこか僕を怖がるような表情で、「――私も殺すの?」と聞いて来た。
 なるほど、確かに頭のいい子だ。僕は思った。確かに僕はジャンヌの言う通り、今度は僕の分身である”祝福の子供達”を全滅させると言う計画を、極秘裏に練っていたからだ。
「いいや、まさか。僕はただ、君だけを守りたかった。――それだけさ」
 言うとジャンヌは泣きそうな目になり、僕へと飛び付いて来た。そして僕は、少しだけ大きくなった彼女の身体を抱き締める。――嘘ではなかった。僕はジャンヌだけは殺すまいと、心に決めていたからだ。
「来ましたねぇ。――いよいよ、最後の審判ですね」
 向こうで、呆けたような表情で立つノエル神父が、天井のステンドグラスの窓を見上げながら、のん気そうにそう呟いた。
 見れば確かに、”それ”は来ていた。いくつもの大きな影が大きく広間の屋根を旋回し、時折派手な銃撃音を轟かせ、”何か”を撃っていた。どうやらその影達は予めに決められていた作戦を静かに遂行するかの如く、この一連の所業を、確実に”沈黙”へと変えつつあった。
 突然、僕達のいる大広間の天井の一角が、派手な音を立てて砕かれた。窓は割れ、鮮やかな色彩のステンドグラスは破片となって降り落ちる。そしてそこに見えたのは、いくらもローター音を響かせない作りの巨大なヘリコプター。そしてそのヘリの胴体の窓から覗くのは、二年前の彼女よりもずっと大人びて見える、エストリアの姿だった。
 壊された窓から覗く、黒く長い髪。僕達とは対を成すかのような黒いローブ。そして相も変わらず僕へと向けるその笑顔は、どんな悪意も読み取る事が出来ないぐらいに美しかった。
 銃口は今度は、僕達に向けられていた。彼女が直接握るその銃のトリガーは今にも引かれそうなままに、巨大なガトリングガンはヘリの窓から僕達の方へと向けられ、そしてエストリアはそんな圧倒的有利な立場のまま、「お久し振りね」と、ヘリの音に負けないぐらいの大声で、そう叫んだ。
 僕は何も言い返せなかった。横を見れば、神父はただ嬉しそうに、眩しそうに、彼女を見上げているだけだった。
「ノエル。さぁ、選んで。共闘か、対峙か――ね」
 最初に声を掛けられたのは、神父の方だった。予期していた事ではあったが、僕はそこに幾許かの嫉妬を感じた。
 だが、神父が返した言葉は実に意外なものだった。いつもと同じ――いや、いつも以上に穏やかな笑顔を湛えたまま、変わらない落ち着いた綺麗な声で、神父はエストリアに向かい、「解放を」と、答えた。
 突き刺さるかのような音。宙を舞う、厚手の聖書。そして吹き飛ぶ神父の身体。仰向けに転がった神父の身体は、凄い勢いで真っ白なローブを深紅へと変えていた。
 僕の腕の中で、ジャンヌが強くしがみつく。そして僕はそんな彼女を庇うかのようにしながら、今度は僕の番かと覚悟をしながらエストリアを見上げる。
 視線が、天井の穴越しに交わった。強い、そして優しい目だった。僕がひたすらに憧れ、そして恋焦がれた女性の瞳だった。僕はそっとジャンヌを横に押しのけるようにしながら、彼女の前に立ちはだかる。
「エリオット。お久し振りね」
 エストリアは言った。そして少しだけの沈黙の時間。僕の視線と、彼女の視線が絡み合う。
 低くうなるヘリのローター音の向こうから、細やかな音の銃声が聞こえた。恐らくはまだ生き延びて逃げている人々や、僕の仲間である”祝福の子供達”を、片付けに入っているのだろうと予感された。
「――さぁ、選択の時ね」エストリアは、薄く笑いながらそう言った。
「問いは二つだけ。共闘か、対峙か。私達と共に戦うか、それとも敵へと付くか」
「神の存続を望むか、死を願うかって事だろう」
 僕は言い返す。エストリアは薄く微笑む。背後でジャンヌが、僕に何かを手渡した。
 それを僕は手で探る。そしてすぐに判った。それは先程までジャンヌが握っていたのだろう、血にまみれた小型の銃だった。
 汗で湿った掌で銃のグリップを握り、そして僕は、答えた。「どちらも選ばない」と。
 銃を構える。エストリアの眉間を狙う。そして僕は、「ごめん――エストリア」と呟き、そしてそのトリガーを引いた。
 ――狙いは、外れた。いや、外れたと言うよりも、弾は出なかった。僕の引いたトリガーはそのまま軽い金属音を響かせて、終わりだった。銃には既に、弾は残っていなかったのだ。
 汗が吹き出た。当然今度は、僕が肉片となって吹き飛ぶ番だったからだ。――だが、その時は一向に訪れない。エストリアは未だ同じ格好のまま、ガトリングガンを手にしたままでそこにいた。
「もう一度聞くわ」エストリアは、たっぷりと無言の時間を掛けてから、そう言った。
「共闘か、対峙か。――選んで」
 言われて僕は、「何度聞かれても……」と言い掛け、やめた。
「あなたに従うわ」
 同時に声が聞こえたのだ。そしてそれは僕じゃない。僕の数歩前に立つ、小さな背の少女、ジャンヌだった。
 彼女の片手には、血に塗れた聖書が握られていた。それは多分、ノエル神父の傍らに落ちていたのだろう、立派な表紙の厚手の聖書だった。
「一緒に行くわ。だから乗せてちょうだい、エストリア」
 言うと同時に向こうの壁が崩れ落ちた。その向こうはテラスとなっており、そこにはヘリから釣り下がった縄梯子が垂れ下がっているのが見えた。
「ジャンヌ、何を言って……」
 言葉が途切れる。そして僕は、初めてそれを見た。きっとそれは、”祝福の子供達”がいつも言っていた、僕の知らない、”大人の顔のジャンヌ”なのだろう。エストリアと同じ冷たくも優しい、何かを悟ってしまったかのような目。ジャンヌはそんな目で僕を見つめ、そして僕にこう言った。
「さようなら、エリオット。あなたが辞退してくれて嬉しいわ。おかげで私は、まだ生きられるんだもの」

 ヘリの姿が遠ざかる。もはや教会のどこにも、銃撃音どころか人の声も足音もしない。僕は血の海のような広間で孤独に佇み、空の向こうに消えつつあるヘリの姿を見送っていた。
 横を見れば、神父が実に嬉しそうな笑顔のままで仰向けに転がっていた。あの時の彼は、迷わずに「解放を」と答えた。そしてそれは叶った。しかも自分自身が唯一愛しただろう女性の手によって、死ねたのだ。それ以上に嬉しい事はないだろうと思えるぐらいの笑顔だった。
 砕けた壁から外へと抜け、テラスへと向かう。そこからだと、高い塀より向こうに見える、”外界”が望めた。僕は風の吹くそんな場所に立ち、息を大きく吸い込んだ。
 エストリアはきっと、ヴェラなのだ。ラーの弟子のアナ・マリーアを教育し、そして騙し、人を操るそんな役柄。それは確かに、彼女にはうってつけの役だろう。頭脳も魅力も、そして知略さえも到底敵わない。
 天から降り注ぐ陽光が、痛いぐらいに眩しい。僕は目を細めながら空を見上げ、ようやく現実へと戻って来たかのような気になった。
 そして僕はまた、孤独になった。今度こそ本当の意味での孤独になった。孤独を恐れ、涙したのは自分。迎えに来てくれた、愛する者の手を振り解いたのも自分。それらは全て本心から望んだ事ではなかったけれど、孤独もまた悪くはないなと、僕は血に塗れたナイフを鞘に収めながらそう思った。

「ねぇ、彼は随分と逞しくなったでしょう?」
 低いローター音の響くヘリの中、聞かれてエストリアは、「そうね」と、嘘の無い笑顔でそう言った。
「きっと彼はいつか、私達を葬りに来るわ。――それでもいいのね?」
「当然じゃないの」ジャンヌは言う。
「楽しみにしているわ。ようやくこの聖書の最終章が紡がれる日が来るんだもの」
 言って、ジャンヌは笑った。とても七歳の子供とは思えない程の笑顔で。
 横でジャンヌの肩に手を置き、エストリアは窓の向こうから訪れる夕焼けを眺めていた。そしてその表情は、まさに満ち足りた至福の笑顔そのものだった。



《 ATHAZAGORA PHOBIA 了 》



【 あとがき 】
長文、申し訳ありません。
皆様、お久し振りです。またこうして同じ場所にて同じ時間を共有出来る事、嬉しく思います。

『上昇既流』 鎖衝


゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜

●一面の窓から差す陽光が眩しくて、現実に返ってきた気がした。夢じゃないよな、と一人頬をつねった。

《 明日が来るなら 》

著者:朔



0.

一面の窓から差す陽光が眩しくて、現実に返ってきた気がした。夢じゃないよな、と一人頬をつねった。

職場の大きな事務所の一角、ふと気が付くと自分のデスクにいた。数少ない男性事務員としては、極力、女性陣のランチに付き合わされないようにと、昼休みには屋上へと抜け出しているのだが、いつの間にか、きちんと自分の椅子に座っていたようだ。外は真昼の明るさだ。ぼんやりしている頭をどうにか動かそうと、その光を目に入れる。

「ちょっと木村君、さっきの企画書、早く始めたほうがいいんじゃない?」

と、ふいに声をかけられ振り返る。一瞬、目が眩んでその声の主が黒く焼けたように見え、気分が悪くなる。「わかってるよ」と、今回は幾分か腹立たしく思いながらぶっきらぼうに答えてみる。
「もう…人が心配して言ってるっていうのに」
隣のデスクの女…アスカがため息をついた。俺が唯一、社内で言葉を交わす女性社員だ。朝、上司に指示された企画書のことを言っているのだろう。普段なら、ただ黙って見ているだけだというのに、おかしな事もあるものだ。
よくヘマをやらかす俺のことを、内心、気にかけているのはわかる。だが、多少節介が過ぎる。女性に窘められるほど嫌なものは、男には無いというのに。特にそれが、同期とあっては。
チラっとカレンダーを見る。期限の7月20日まで、あと2日。確かに、仕事が遅いと定評の俺には、無理難題かもしれなかった。対照的に、思い切りの良さと相まって、仕事のできる女で通っているアスカからすれば、同期の好だろう。だがしかし。

「お前こそ、人の心配してる暇あるのかよ」
ボソリと嫌味を言ってやった。お前こそ、訳の分からないことで悩んでばかりのくせに。意地が悪いとは思ったが、つい口をついて出てしまった。だが言ってしまってから、急に冷静さが纏わりついてきて、ゆっくりアスカの顔を見る。

 彼女は驚いた顔をしていた。
『どうして知ってるの?』



01.

 「ねぇ、屋上行くなら私も行っていい?」
昼休みの始まる直前、アスカがそう言った。他の女性社員に付きまとわれるならともかく、アスカならば居ても居なくても同じだろうと、一瞬思ったのは確かだ。毎日隣で顔を合わせているし、かと言って特別何かがある訳でもなかった。
「好きにすれば?」
と、朝のうちにコンビニで買い込んだパンとドリンクとを手に取って、さっさと歩きだす。
「ちょっと、待ってよ!!」
と、アスカ。待つ必要なんか無い。無言でエレベーターを降り、非常階段を昇る。屋上に行こうとしているのは俺だ。

 ドアの向こうの外は快晴だった。ベンチも無い屋上の先に、広がるビル群の窓が反射して眩しかった。事務所の中の空気を忘れる程の、広い空間と空気感。都会独特の汚れた重たい空気ではあっても、ここだけが入社当初からの俺の憩いの場だった。もともと社員が集う為に造られた屋上ではないため、ベンチどころか、フェンスの類も無い。どっかりと、コンクリートに腰を下ろし、パンの袋を破る。
「え、こんな所に座るの?」
追いついてきたアスカ。答えない俺。しばらく立ち尽くしていたアスカだったが、仕方なさそうに隣に腰を下ろした。長い髪が、視界の隅で揺れる。
「今日は自分でお弁当作ってきたんだよね」
「……」
「最近、女子のランチに付き合うの、面倒になっちゃってさ」
「……」
「毎日同じことの繰り返しばっかりなんだもん」
「……」
「どこの課の誰がどうとかさ」
「……」
「誰と誰が付き合ってるとかさ」
「……」
「だからお弁当作って逃げちゃおうと思って」
「……」
「そしたら木村君がいつも屋上で食べてる事思い出してさ」
「……」
「便乗しちゃったってわけ!」
「……」
「……」
風が二人の間を抜けていった。二つ目のパンに手を伸ばそうとした時、アスカが少し声を荒げて言った。
「何か言ってよ!!」

 俺は手を止めて、アスカを見た。涙の溜まる大きな目を赤くして、アスカは俺を見ていた。伸ばしかけた手を、引き戻して俺は視線を落とす。
「そんな事、言う為についてきた訳じゃないんだろ?」
続けて、俺は言った。
「本当は、何が言いたいんだ?」

アスカは無言で、俯いたまま弁当を食べていた。


02.

  「ねぇ、屋上行くなら私も行っていい?」
昼休みの始まる直前、アスカがそう言った。またか、と俺は思う。何度目だろうか。あれから何度もこの言葉を聞いている。
「勝手にしろ」
またも俺は無言で歩きだす。いつも通りに、事務所のあるフロアからエレベーターに乗り、最上階で降りる。非常階段を昇る。アスカの靴音が追いかけてくる。

 「今日はお弁当なんだ」
アスカが言った。そう、と相槌を打つ。
「たまに作るといいよね、こういうのも」
いつもの場所に二人で腰を下ろし、今回も快晴の空の元、すでに昼食は始まっていた。
「今日『も』、じゃないのか?」と、俺。
「やだ、いつもやってたら寝不足になっちゃうじゃない」と、笑うアスカ。
「そうだな」
「それにしても本当、毎日同じことばっかり」
「あぁ」
「もう、女って何で皆ああなのかしら」
「さあ」
「一言一句違えずに、同じ話ばっかりしてるのよ」
「ふうん」
「どうして皆も同じ話題で笑えるのか不思議だわ」

お前も同じだろう…と、言いかけて飲み込む変わりに、別の言葉を投げかける。
「で、お前は何を、俺に言いたいんだよ?」

 風に吹かれる長い髪を、耳にかけながらアスカは言った。
「なんだろうね?」

その視線は、空の向こうを見ていた。俺は、気が付きはじめていた。


03.

 「ねぇ、屋上行くなら私も行っていい?」
昼休みの始まる直前、アスカがそう言った。もう、この言葉は聞き飽きてきた。いつもは空返事の俺も、流石に釘を刺す。
「他に言い方、無いわけ?」
「え、じゃぁ何て言えばいいわけ?」
きょとんとした顔のアスカ。あまりに他意が無さ過ぎて、その表情に返す言葉もなくなる。
「……」
「……」
しばらく見つめ合っていたが、意味の無いやり取りだと思い直し、目線を外して屋上への道程をたどりはじめた。
「何なのよ、もう」
後ろから、アスカのぶつぶつ言う声が聞こえてきていたが、お構い無しに屋上へのドアを開け放つ。お決まりの場所へ腰を下ろし、まだぶつぶつ言い続けているアスカに、座るよう促し、自分はパンの袋を破く為に手を伸ばした。

「今日は弁当か?」
珍しく俺が、会話の口火を切ってやった。
「そうなの!!いいでしょ」
「いや、別によくはないけど」
「ランチ付き合ってばっかよりは、いいじゃない」
「まあな」
口の中でパンをもごもごさせながら答える。アスカも、口に卵焼きを放り込みながら言う。
「どうしてこう、毎日は同じことの繰り返しなのかしら?」
「さぁ、何でだろうな」
「みんな同じ事ばかり言うのよ?」
「へぇ、そうなんだ」
「あのお局様なんか、何百回同じ話してるのか分かったもんじゃないし」
「あぁ、あの人ね…」
「受付の子なんて、その話、まともに聞いてるのか聞いてないのか、
 いつも同じところで笑うのよ?」
「聞いてないんじゃねぇの?」
「いつも初めて聞きましたって感じなの!」
「ふぅん、変な女だな」
「でしょ?」
同意を求めるアスカに、俺は、前回飲み込んだ言葉を放った。

「まぁ、俺に言わせればお前も同じだけどな」

「……」

アスカが黙り込んだ。

「言いたいことがあるなら、言えよ」

「……」

風がアスカの髪を巻き上げた。口元が、寂しそうに笑っていた。


04.

「ねぇ、屋上行くなら私も行っていい?」
昼休みの始まる直前、アスカがそう言った。ため息が出る。何とかならないものなのか。
「いいよ」と、力無く答える俺。「やった」と、はしゃぐアスカ。隣に並んで、歩き出す。

 快晴。一体、どれだけこの空は続くのか。

「今日は?」
面倒くさくなってきた俺が、先に聞いてやる。
「お弁当だよ!」そう言いながら、アスカは楽しそうに弁当を広げだした。いたずらっぽく「少しあげようか?」などと言っている。
「いらねえよ」と、俺はいつものパンを手に取る。
「そう言わずに食べたらいいじゃない!パンとトレードしてもいいよ!?」
アスカがずいずいと、俺の前に弁当を差し出す。
「ふざけんな、彼女でもない女の手料理なんか、食わねぇよ」
今にもフォークに刺した卵焼きを、口に突っ込んできそうなアスカを防ぐため、俺は封を切ったパンを口に詰め込んだ。

 しばらく、これもまた無意味な弁当とパンの戦を交わしたが、諦めたのか、アスカは弁当をぱくつき出した。

「今日もさ、女子達は同じ話ばっかりだった」
「へぇ、またか」
「うん、よく飽きないよね」
「まぁ、そうだなぁ」
「もういいって、言ってやりたくなるんだけどね」
「どうせ言えないんだろ」
「何よ、私は思い切るときは思い切る女ですからね!」
「はいはい、それは我が社の誰もが知ってますよ」
「よく言うわよ、私のことなんか知りもしないくせに」
そこでアスカは、ぷいと横を向いた。その横顔に、俺は言った。
「知ってほしいなら、言えばいいだろ」

アスカの肩が、ピクっと動いたように見えた。

「毎回同じなんだろ?じゃあ、変えればいい」

「……」

「どうすれば変わるんだ?」

「……」

「俺はどうすればいい?」

「……」

アスカの髪が、風になびいて眩しい。初めてアスカを、綺麗だと思った。そして、俺はそれに気が付いてしまった。


05.

「屋上、行くか?」
昼休みの始まる直前、俺はアスカにそう言った。目を丸くして、アスカが俺を見る。
「何で知ってるの?」
弁当が入っているであろうミニバッグを抱え、今正に、俺に声をかけようとしていた瞬間だった。アスカが俺に声をかける時間は、決まっている。今回は先回りをしてやった訳だ。

「行くんだろ?」と、俺。
「う、うん…!」と、アスカ。

肩を並べて歩きだす。見慣れたはずの、屋上までの廊下や階段。腹を括った俺には、それらが全く違うものに見えた。ドアノブに手をかける。分かっている。今回も晴れだ。

 慣れた足取りで定位置へと腰を下ろすアスカ。俺も続いて腰を下ろす。そのまま、パンの袋をアスカに渡す。
「何?」
怪訝そうなアスカに、俺は言う。
「卵焼き」
「え?」
「卵焼きくれよ、パンやるから」
「え、あ、うん」
アスカが動揺していた。「卵焼きあるって、言ったっけ?」などと独り言を言いながら、そそくさとバッグを開ける。

「いつもあるから、知ってる」
ポツリと、俺は言った。
「え?」
弁当の蓋にかけていたアスカの手が止まった。

「毎回、入ってるの見てるから、知ってるよ」
「……」
アスカの指が、小刻みに震えている。

「なぁ」
俺はそれを見ないふりをして、続けた。
「今日もいつもと同じだったか?」

「……」
黙りこくったままのアスカをも、見ないふりをして、更に続けた。

「アスカ、俺の19日は、いつ来るんだ?」




00.

『ちょっと木村君、さっきの企画書、早く始めたほうがいいんじゃない?』

 何度、私はこの言葉を木村君に向けて発したのだろう。彼が嫌がるだろうと分かってはいたが、こうでもしないと、私の日々の繰り返しが終わらない気がしていた。
毎日同じ会話を繰り返す女性陣と、当たり障りなく過ごす同じ時間、延々と繰り返す18日。抜け出す為には、『違う何か』が必要だ。そう思った。

それなのに。

何となく、気が付いてるんじゃないかって思ってた。同じ時間を繰り返してるはずなのに、貴方は同じじゃなかったもの。





FINAL.

 アスカは、弁当に手を掛けたままだった。

「お前、ずっと18日を繰り返してたんだろ?」

「だから、俺に声、かけたんだろ?」

「ずっと、俺だけが繰り返してるんだと思ってた」

「だけど、それはお前だったんだな」

「本当はこれが言いたかったんだろ?」


アスカは、俺の言葉に一言も答えなかった。
風が、止んでいた。

 どれくらいの時間が過ぎただろうか、急に、アスカが立ち上がった。転がる弁当を気にも留めず、肩を震わせながら絞り出した声は小さかった。

「私、どうして『繰り返し』てしまうのかしら…」

俺は座ったまま、アスカを見上げた。逆光で、その表情はよく見えないが、泣いているようにも、怒っているようにも見えた。
「わかんねぇけど、少なくとも、俺の『繰り返し』は、お前からの伝染だな」
「…そうだね、きっと。私が一人で変えなきゃいけなかったんだね」
アスカはもう、震えてはいなかった。

「俺は、どうすればいい?」

「木村君は、そのままでいいんだよ。私のせいなんだから」

「けどなぁ、俺は俺なりにだな…」そう、言いかけた時だった。

「いいから!!」突然に、大声でアスカが叫んだ。
「また明日、19日にね!」
同時に、見上げていたその影がスッと消え、太陽の光が一気に目に入ってきた。またも、眩しさで目が眩む。視界を失った俺の耳に、ドアとは反対の方へ駆けていくアスカの足音が聞こえてきた。
「アスカ!」

目をかばいながら、足音の方向へ何とか目を凝らすと、それはアスカが跳ねる瞬間だった。

「アスカ!!」
俺はもう一度、叫んだ。

屋上の端へと駆け寄ったが、遅かった。俺の手は、アスカの髪を掠めて宙空を掴んだ。訳も分からぬまま、落下していったであろう体を目で追ったが、彼女は、影も形もなく、霧のように消えていた。


こんな時まで、なんて思い切りのよい人間なのか。ふつうは躊躇するものだろう。微かに、彼女の髪の感触が指先に残っていた。ドアの向こうから、『昼休みの終わり』を告げるベルの音が聞こえる。俺は、そのまま事務所へと歩き出した。



「また明日、19日にな」



彼女にも明日は来るだろうか。



明日も彼女に逢えるだろうか。



こんなに明日が待ち遠しいなんて、知らなかったよ、アスカ。



《 明日が来るなら 了 》



【 あとがき 】
あー最後ですね、ミソです、ミソ!!orz
本当、すみません。ギリギリまで来ても、どうしてもラストが纏まらず、こんな形になってしまいましたが…久しぶりだったもので若干おかしな文体&話になっていることと思いますが、えぇ、気がついてます。
是非、ご割愛ください!!!(え

【 その他私信 】
よしなに!!!
遅くなってすみませんでした!!!!

【 お題当てクイズ回答 】
わかりません!!!T T

『+ AcetiC AciD +』 櫻朔夜


゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜

●なんて思い切りのよい人間なのか。ふつうは躊躇するものだろう。

《 それはそれはとても簡単なことで。 》

著者:松永夏馬



 なんて思い切りのよい人間なのか。ふつうは躊躇するものだろう。

 目もくらむような深い渓谷の上に、途中までしかのびていない橋がある。その先端に立った内藤君は、両手を振ってこちらにアピールしてみせた。彼の揃えた両足には太く丈夫な長いゴムが結ばれている。そう、いわゆるバンジージャンプ。係員がこちらにも届く大きな声でカウントダウンを始めた。
「ああ、もうオレ見てるだけでもダメっス」
 高所恐怖症だという綱宮は、見物台の手すりからも数歩下がったところで顔をしかめた。
「ま、安全は確認されてるんでしょうけど、好んでやる人の気は知れないなぁ」
 皮肉げな笑みでそう言う菜穂さんに僕も賛同する。バンジージャンプなんてどう考えてもただの苦行でしかないのに。係員のゼロの掛け声に、まるで躊躇うことなく内藤君は奇声をあげて谷川へダイブしていった。あんなにも簡単に宙空に身を投じられる人を他に知らない。たいした度胸だ。

 両足の自由を取り戻し、意気揚揚と戻ってくる内藤君を皆が迎える。行為の無意味さという面でまったくもって理解できないのだが、彼の精神面での力強さは折り紙つきだ。今の彼女と付き合う為に12回告白したという逸話は伊達じゃない。

「スゲーッスよ先輩」
「簡単だよ簡単。いぇー」
 興奮気味の綱宮が両手を掲げると、内藤君も満足そうにハイタッチ。その瞬間、内藤君が悲鳴をあげた。

 救護所で診てもらった結果は両肩脱臼。ハイタッチしただけで。驚く僕の横で菜穂さんが呆れた様子で呟いた。
「この人、メンタル面とフィジカル面の性能差が極端なんだよなあ……」



《 それはそれはとても簡単なことで。 了 》



【 あとがき 】
思いついたら他が出てこなかった。
記念すべき復活第一回目に気合をッ・・・うん・・・まぁ、大概こんな感じで(苦笑)

『Missing-Essayist Evolution』 松永夏馬


゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜

●「この人、メンタル面とフィジカル面の性能差が極端なんだよなあ……」

《 たまねぎ会話と警告音 》

著者:ひとみん



「この人、メンタル面とフィジカル面の性能差が極端なんだよなあ……」
「この人ってどの人?」
「ほら、ツーピースって漫画の第13話に主人公を颯爽と助けた後にかっこよく去ろうとして、車に衝突して入院した人」
「知るかっ」
私は全力で突っ込んだ。突っ込まざるを得なかった。私たちはマックで中学校のアルバムを見ながら、このこがかかっこいい、大会で見たことある、あー明日の小テストヤバイ、そういえばミスコンで1位になったのだれだっけと中身の無い会話をあーだこーだと言いながら楽しんでいたところだ。それが何で漫画。おかしい。全く持っておかしい。テストで100点取ったのに追試やるくらいおかしい。

なぜマックの一角を陣取ってこのような実のない話をしているのかというと、きっかけも実に下らない。
学校が終わってから皆で帰るときまで遡る。






私たちは皆、高校に入って同じクラスになった友達である。一人として同じ中学の人はいなかった。
きっかけは忘れたが、中学の卒業アルバムを皆で持ち出して見合おうという話になった。
ある程度仲良くなると、その人がどんな中学に通っていてどんな生活をしていたのか気になるもので、それは皆お互い様だったらしい。

そこで、いったん家に帰り、各人マックにアルバムを持って集合することになり、現在に至る。

「あーーー!ひろみ髪短い!」
「サッカーやってたときに邪魔だったから切ってたんだ~」
「かっこいいね!」
「ありがと。そういう美和は中学ん時は長かったんだ」
「えへへ~。そうなのです。そこには深―いわけがあ」
「はいはい。はいはいはい次いこうか」
「無視!?しかと!?いじめ!?」
「お。中学のときから綾は髪金髪だったんか」
一人漫画を読んでいた綾のアルバムを見ながら、私は彼女に話しかけた。
いつもの通り「あー」とか「んー」とか気の無い返事を返されるかと思いきや、彼女は目を爛々と輝かせて会話に入ってきた(たいてい漫画を読んでいるときは、漫画の世界から帰ってこない)。
「いえす!金髪は私のじゃすてぃす!恋人に愛されるための必須条件!」
「?なんで?」
「つーまーり!今週間ステップで連載している漫画のヒロインが金髪で、その恋人のルイスが「僕は金髪が朝日に照らされて、君の横顔も光り輝く瞬間が一番好き」って言ってたからだよん。――――きゃーーーーーー!ルイス様!!!サランヘヨ!」
「・・・・」
「・・・・」
「・・・ル、ルイスかっこいいもんね!」
「ルイス様とお呼びなさい!」
「はいすみませんでした・・・」
「・・・あ、この子かっこいい!」
「ん?どれどれ?」

一人暴走する綾を尻目に、中学時代の綾の横に写っている男の子にひろみが注目した。
その子はいかにもスポーツができますと言った体格と顔立ちの男の子で(運動神経がいいというのは学生時代のもてるための重要なステータスなのだ)、サッカーのユニフォームを着て、はにかみながらこちらに向かって全快の笑顔を向けていた。

「ねえ綾、この子かっこいいね」

付き合いのいい美和が、ルイス様が如何にかっこいいかということを延々と語る綾のトークに嵌っているのを見かね、ひろみが助け舟を出した。
潔くルイス様!と言いながら振り向いた綾が、その男の子を目にしたとたん、ちょっと複雑そうな顔をした。

「どしたの?」
「あー。うん。そいつね。」

歯切れが悪そうに綾が口をもごもごさせている。
珍しい。


「そいつね、中学んときに死んだんだ」
「え・・・・」

空気が凍る。

「熱中症だったかな。ちょっとその時調子悪かったみたいでさ、レギュラー落ちちゃったから、他のやつらより長く練習してたんだって。で、いきなり倒れて、救急車で運ばれて、でももう病院に着いたときにはだめだった」
「そう、なんだ」

ほかに言う言葉が見当たらなかった。

死という感覚は良く分からない。自分で体験することはきっと一生一度しかないだろうし、そのことを後世に伝えることなんて誰にも出来ないから、きっと一生誰もがわからないものなんだと思う。


ひろみが思い出したように私たちを見渡した。

「・・・ねえ、うちの担任、こないだ過労で倒れたよね。」
「あー、うん。ねえ、今度お見舞いにいこっか」
「うん」
「そだね」



「あーあ、ウルトラマンのビーコンが皆についていればいいのに。」
 
綾の発言は、突拍子も無いものが多くて、ほとんど理解できないけど、たまに、そうほんとうにたまに、とても納得できる例えをする。

私たちは自分の体のことなのに、自分の体の悲鳴に気づけない。気づいたときには、手遅れなことが多い。あともうちょっとで限界を超えるから、そろそろ休みましょう。そういった警告音が鳴るものが各人についていれば、自分も、周りも、もっと生きやすくなるんじゃないかと思う。

私たちはマックを出た。明日の授業の話とか、彼氏の話とか、好き勝手に会話しながら駅に向かう。このなんでもない日常が、楽しくてしょうがない。それは皆同じ気持ちだと思いたい。
だから、わざと遠回りの道を選んでも、誰も文句を言わなかったんだと思う。


綾が伸びをしながら口を開く。

「あー納豆入り大納言杏仁豆腐が食べたい!」

今度は誰も同意できなかった。

「ねえ。頼むから会話をしてくれないかしら?ねえ。マジで!言葉のキャッチボール!あんたの返球はボール投げたら返ってきたのはたわしだった、わー掴めないどうしようレベルなんだけど!話飛びすぎてあんたの頭の回転の方向性についていけてないよわたしゃ」
もう突っ込みたいけど突っ込みきれず懇願になってしまった。甚だ不覚である。
そしたら、こいつめ、ため息をついてこうのたまりおった。

「おかしいなあ、イメージ的には回転してるんだけどなあ」
おかしいのはあんたの頭だよ!



《 たまねぎ会話と警告音 了 》



【 あとがき 】
はじめて小説なるものを書きました。何がなんだかかいてる自分も良く分かっとりません。
とりあえず、最初と最後をつなげるのに必死でした。
高校のときの友達との会話とか思い出しながら書きました。
最後に一言。
なでしこじゃぱんおめでとううううううう!!!

【 お題当てクイズ回答 】
すみません一個もわかりませんでしたorz

ひとみん
mixiアカウント http://mixi.jp/show_friend.pl?id=7558170


゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜

●「おかしいなあ、イメージ的には回転してるんだけどなあ」

《 盲信サマエル 》

著者:氷桜夕雅



「おかしいなあ、イメージ的には回転してるんだけどなあ」
私の彼氏、如月師走はゴロゴロとスローペースでレーンの端っこを転がっていくボーリングの玉をを見つめながら呟く
(下手ね、下手糞だわ。自信満々と言っていてこれとはね)
そんな白のワイシャツにデニムを履いた師走の後姿を眺めながら私───水無月弥生は嘆息していた
案の定というか当たり前というか勢いのないボーリングの玉はカーブすることなく静かに端のピンだけを倒しただけ
「いやでも見た弥生ちゃん!?10番ピンだけ倒すなんて逆に凄くない?」
「全然、そういうゲームではないですから」
なにかを成し遂げたかのように言う師走に対して私は缶のミルクティーを口にしながらテンション低く返答する
「いやでももし10番ピンだけ残ったときにこの才能は発揮されると思うんだ」
「そんな才能よりも自信満々に言っていたストライクを見せてください」
繰り返される単調でつまらない会話
倦怠期?いや彼、如月師走と付き合い始めたのは今から丁度一週間前。デートに至っては今回が初めてだ
しかも告白をしたのは私のほうで、本当はもっと恋人らしくすべきなんだろうけどどうにもうまくいかない
どうしてもあのにやけた顔を見るとこれが“任務”というのも忘れて辛辣な態度をとってしまう
『任務』、そうこれは私に課せられた任務
私、水無月弥生は新興宗教『三栄神教団』の特殊教団員であり彼───如月師走に任務として近づいたのには理由がある
「どぐらっしゃー!!あーくそ!9本かー!!」
奇声を上げながらボーリングの玉を投げ続けている如月師走、彼はこう見えて
この国の内閣総理大臣『如月暦』の一人息子だ。
『三栄神教団』はこの腐敗した国家を浄化するために内閣総理大臣を影から操ろうとしている、師走はそのための言わば人質・・・というわけだ
しかしならば近づいていればいいだけでなんでこんな恋人ごっこまでしなければいけないのか、上司の指示とはいえそこは理解不能だ
「そうだ僕ばっかり投げてるのもアレだから弥生ちゃんも投げなよ」
「いえ私は見ているだけでいいです」
「そんなこと言わずにさ、楽しもうよぅ」
そう言って隣に座りぐっと顔を近づける師走に思わず恥ずかしさから顔を逸らすと私は立ち上がる
「わ、わかった一球だけ投げるから見ていろ」
冷静を取り戻し先程まで師走が使っていたエメラルドグリーンに輝く12ポンドのボーリングの玉を持つと長いレーンの先に並び立つ白い十本のピンを視界に入れる
「要はあれを倒せばいいんだろう」
「“要は”ってもしかして弥生ちゃんボーリング初めて!?なんだったら僕が手取り足取り胸取り教えてあげようか?」
「結構です」
そんな冗談にも私は冷たく言い放つとゆっくりと歩を進めながらフォームをつくりピンへ向けて玉を転がす
ボーリングという競技はやったことないが師走が下手糞なりに投げていたのと周りの人間の投球を見て大体の“動作”は“把握”していた
「おおおっ!そのコースいいんじゃない?!」
師走が歓喜の声をあげるがこれ以上見る必要がなかった
「覚えておくといい、一番ピンと三番ピンの間に入射角3度から6度の間で投げればストライクは取れる」
私が振り返り師走にそう言った所で背後で気持ちのよい音とともにピンの倒れる音がした
「す、すげぇ!本当にストライクだよ弥生ちゃん!」
頭上の液晶に表示されるストライクの文字に大喜びの師走を他所に私は小さく溜息をついた
(なにが楽しいのかさっぱりわからない)
「なるほど、よし!入射角度3度から6度の間を狙えばいいんだね!よっしゃ見ててね弥生ちゃん」
(本当に出来るのか?)
わかっているのかいないのかそう師走が屈託のない笑顔を見せ意気揚々と再びレーンに向おうとした矢先、私のスカートのポケットに入れてある携帯電話から着信音が鳴り出した
「すまない師走、電話だ。しばらく一人でストライクを目指していてくれ」
私はすばやく電話を取り出すと踵を返し歩き出す
「え、いやちょっと弥生ちゃん!?弥生ちゃーん!」
なにか背後でなさけない声が聞えたような気がしたが気にせず私はボーリング場から外へとでた

小高い丘の上にあるボーリング場、夕刻ということもありそこから眺める町並みは真赤に染まっていた。携帯電話の画面には私が唯一登録してある同じ教団員であり私の直属の上司である“さつき”の文字が浮かんでいる、私は辺りに人がいないのを確認して携帯電話の受話ボタンを押す
「こちら弥生、今は任務中のはずだがなにかようかさつき?」
声を潜め言う私にたいして電話の主はおよそ人間には聞えないと言ってもいいような物凄く高い声色で答える
「きゃっほぉ!弥生ちゃん師走君とラブラブしてるかなー?」
「全然していない」
さらっと返答すると耳を劈くような更に高い声が携帯電話から漏れる
「えーダメじゃん!ダメじゃん!ダメダメじゃん!!んもーせっかく私が素敵な服まで用意してあげたんだから大体これ任務なんだよわかってるのぉ?」
素敵な服───任務とはいえこんな身を守る範囲の狭い極端に短い黒のミニスカートや胸元の大きく開いたジャケットを寄越したさつきを恨む
「わかってる。けど上手くいかないものは上手くいかないのだからしょうがない」
「うぬぬ、やっぱり私も一緒に行った方がよかったかもー。あ、でもそうしたら師走君私のほうにメロメロになっちゃうかもーキャー」
「私としてはそっちのほうが好都合だ、こうゆう任務は向いていない」
代わってもらえるのなら本当に代わってもらいたいところだ。さつきはずっと教団内で過ごしてきた私よりもずっと外の世界を知っているし人との付き合い方も上手なんだから
「はいはいぐずらないの、しょうがないじゃない教祖様のお告げは絶対なんだから」
「わかってる、わかってるが・・・」
『三栄神教団』教祖様のお告げ通りにしていれば幸せになれる───
その言葉を信じて今まで幸せに暮らせていたしこれからも信じていけるその自信はある、けれども如月師走といるとなぜか心に蟠りが生じる
電話口の煮え切らない私の感情が伝わったのかさつきはなぜか小さく笑い出した
「なにがおかしい?」
「いえいえなんでもないわ。ところで一つ弥生ちゃんにお願いしたいことがあるんだけど」
さつきの声色が一気に沈んだのがはっきりわかった。私の本職である仕事を彼女が依頼するときはいつもこうなので何の話なのかはすぐにわかった
「誰を殺せばいい?」
私はより声を潜めて言葉を発する。私の本職、本来の仕事それは『三栄神教団』に仇なす政治家や著名人の抹殺。『三栄神教団』のことをなにも知らないというのにカルト教団だとか問題行動を起こすために早く潰すべきだとかそんなことを言っているそんな輩の抹殺、自業自得に口は災いの元とはまさにこのこというのだ───
そんなことを言わなければ本当に殺されたりはしないのにな
「位置は・・・ちょうど今丘の上のボーリング場の、外にいるのね。そこからなら見渡しがいいから良くわかると思う一際大きい赤い建物があるでしょ?」
さつきの言葉通りに辺りを見渡すと確かにそれらしき建物が見える
「あそこか」
「都立康応大学、あそこのウヅキとかいう教授が今度の国会の答弁で『三栄神教団』に関してありもしないことをでっちあげるという情報を得たわ。おそらく三十分ほどで大学から外に出る頃だわ、後で写真を送るから上手く始末して」
「了解した。けど師走はどうする?」
どうでもいいことだけど今もちまちまとストレートを取る為に投げ続けている師走を放っておくのは少しだけ気になるというか頭の隅っこで気になってしょうがなかった
「ああ、師走君ね。まぁ後で『女の身支度には時間がかかるのよ!ぷんすか!』って可愛く言っておけば大丈夫じゃない?」
「相変わらずいい加減だな」
「なぁに弥生ちゃんがささささっと五分くらいで仕事してくれるって信じてますから私。それじゃお願いしますよぅ」
「・・・・・・わかった、終わったら報告する」
私はそれだけ言って携帯電話の通話ボタンを切る
正直納得は出来なかったがこれ以上くだらない問答を繰り返すのも面倒だ、さつきはいつもあんな風だし問答をすればまず先に折れるのは私のほう、だから私も深く考えないことする
私にとっては師走の相手をするよりも教団に仇なすものを始末しているほうが楽だ
そう思い静かに息を吐いて大学へ向って歩き出そうと一歩踏み出したとき
「にしし、だーぁーれーだ!」
気の抜けた声とともに突然視界が真っ暗になる、それが背後から目隠しされたのは直ぐわかったしそんなことをやる人物が誰かのもすぐにわかったのだが
思わず次の瞬間には思考よりも先に手が出てしまっていた
「さぁて誰か・・・ごふぉア!」
背後、みぞおちに向ってまずは強烈な肘うちをいれ視界の拘束を解き
「ちょ、ちょっと弥生ちゃ───」
そのまま腕を掴むと手首をひねり上げ一気にコンクリートの地面へと投げ飛ばしていた
「うひゃおわぁぁぁぁっ!!」
投げ飛ばされた男、というか如月師走は奇声を上げてぽーんとおよそ数メートル投げ飛ばされおもいっきり地面に落ちた
「しまった・・・」
流石に私も思わずしまったと反省、地面に突っ伏し倒れる師走に駆け寄った
「大丈夫か・・・ですか、師走?」
「いやぁははは、ものの見事にやられちゃったねぇ」
むくりと師走は顔を起こすとなぜか笑っていた、あの高さまで投げ飛ばしておいた私がいうのもなんだが受身でもとらない限り平気でいられるはずがない
「怪我はない?いきなり背後に立つからつい癖で投げ飛ばしてしまって、えっとなんだ・・・ご、ごめんなさい」
「あれもしかして弥生ちゃん心配してくれてるぅ?うれしいなぁ」
ニコニコと笑う師走からは怪我を負っている様子も見られない、怪我していないことは良かったんだが逆に何か嫌な予感をも感じさせた
なんで一般人のしかも運動のたいしてできない、更に言えばろくにボーリングでストライクも取れないような運動オンチの師走が突然投げられてこうも簡単に受身を取ったのか
「そうそうそういえば、弥生ちゃんの言う通りに投げてみたらさっきストライクでたんだよ!」
「そ、そうそれはよかった」
「いや本当もうビシドバァーンと決まってさ、いやー見せたかったなぁ」
「一回出たくらいで満足しないほうがいい、です」
「大丈夫、大丈夫!コツは掴んだからさ、今度はキッチリ目の前で見せてあげるよ」
師走はそう言うとボーリングのフォームをやってみせる。相変わらず変なフォームだがあえてツッコんだりはしないでおく、私には速やかにやらなければならないことがあるんだから
「えっとしかしすまない師走、少しその用事を思い出したんだ。だから───」
「残念だけど行かせるわけにはいかないよ、弥生ちゃん」
突然ざぁっと辺りに風が吹く
そのせいかはっきり師走が何を言ったか聞き取れなかった
ただ先程までとうって変わった真剣な様子で師走がこちらを見つめていた
「あの師走、今なんて?」
私の問いに師走は答えない、じっとこちらを見つめると不意に私の腕を掴むと
「なんで弥生ちゃんみたいなこんな細い腕してる女の子が人殺しなんてしなくちゃいけないんだ?」
誰に言うわけでもなく静かにその言葉を漏らした
「なっ・・・」
その言葉と師走の急変に思わず私は動揺しかけた。どうゆうことだ、まさか師走は私の正体を知っているとでもいうのだろうか
「『三栄神教団』の水無月弥生ちゃん、内閣総理大臣である僕の父親を操るために僕に近づいたんだよね」
師走の顔は笑っているが彼の握る腕に力が篭っているのが物凄く痛い
「なにをわけのわからないことを言っている師走」
「知らない振りしたってダメだよ、あんまり僕の情報網を甘く見てもらっては困るなぁ」
───失態だ
内閣総理大臣の息子で能天気なだけの男だと思って完全に如月師走という男に対して油断していた
この男どうやってかは分からないが確かに『三栄神教団』のこと、そして私達の作戦についてのことを知っているようだ。どこまで知っているのかはわからないが知られてしまった以上、やるしかない
利き腕を師走に押さえられているがそれでも本気を出せば師走一人倒せないほど私も普段から鍛えてはいるつもりだ
「そうか如月師走、秘密を知られた以上お前には消えてもらわないと───」
「いやいやいやちょっと、弥生ちゃんストップストップ!」
私の振り上げた手を前に師走は手を離すと慌てた様子で両手を挙げ降伏の姿勢を見せる
「ちょっと、ちょっともー落ち着いてよ弥生ちゃん、そもそも僕を殺すなんて任務じゃないでしょー!」
「・・・・・・。」
私は構えを解かずじっと師走を睨みつける
「目がマジだし、はぁ・・・とにかく僕を殺すのは止めた方がいいよ。僕を殺した瞬間に君達の情報が国家の各関係機関に流れちゃうようにしてあるから、君達『三栄神教団』は間違いなく今までのやってきたことにより崩壊を余儀なくされちゃうよ」
「それは本当なのか?」
「嘘だと思うなら僕を殺してみればって、ダメ!それはやっちゃダメ!!と、とにかく敵意はないっていうのをさ、信じてよ」
あまりに気の抜けた師走の声に私は渋々構えていて腕を降ろす
「全く信用してない、殺したら情報が漏れるだとかそうゆうのも含めて」
「まぁそうかもしれないけどそれは本当だよ。あ、でも大丈夫まだ弥生ちゃんの秘密を知っているのは僕だけだから」
「そもそもなんで教団のことを知っている?」
「えっ、それ聞いちゃう?いやーあのーそれはー」
その言葉に急に師走は顔を真っ赤にして挙動不審な様子を見せる
私は警戒するように再び手刀を振り上げる
「言え、でないと殺す」
「弥生ちゃん怖い怖い!い、言うからその手を降ろして」
「だったら早く質問に答えろ!」
「あれだよ、弥生ちゃんが大学に編入したのって二週間前でしょ」
「確かにそうだが」
如月師走に接触するために私がさつきの手はずで大学へと編入したのは確かに今から二週間前のことだ、だがその“二週間前”という言葉が妙に気になった
「二週間前?師走と出会ったのは一週間前じゃないのか」
そう気になったのは私と師走が出会ったのはまぎれもなく一週間前のはずだ
そこで初めて会って任務として告白して・・・
「僕は編入してきた二週間前から弥生ちゃんのことを見てたよ」
「そうなのか?」
編入して最初の一週間は情報収集のために普通に生活していたのだが、私としたことが師走の方が私を見ていたなんて全く気が付いていなかった。
「うん、長く伸びた黒髪が綺麗でね、儚げな表情といいなんていうかとにかく一目惚れしちゃたんだよ。それからずっと弥生ちゃんのことが気になってね色々調べたらその『三栄神教団』ってのがでてきてさ」
そこまで言って師走は視線を外し少し言葉を選ぶように続ける
「ちょっと怪しい宗教に入ってるし声かけるのやめようかなとか思った矢先だよ、そのまさか弥生ちゃんのほうから告白されるとは思わなくて」
「なるほどだから私の正体を知っていてなお告白を受けたのか」
「それだけじゃないよ。僕は弥生ちゃんが───好きな女の子が人を殺してるなんて状況が耐えられない。その弥生ちゃんにとって『三栄神教団』にどんな思い入れとかがあるのかはわからない、けどなんとかしたいんだよ、だから弥生ちゃんの秘密だってばらしていない」
「如月師走・・・」
私は思わず振りかざしていた手を降ろした。正直どうすればいいのか自分自身では良くわからない状況になっていた
よくわからない、師走の考えていることに対してどう答えればいいのか?
いつも、いつもならさつきや教祖様の言うとおりにしていればそれだけでよかったのに今は何故か胸の奥の鼓動が激しく私を苛める
「弥生ちゃん、僕は───」
師走の瞳が私をじっと捕らえる。何故だかわからない、師走の真っ直ぐな瞳から目を逸らすことができなかった
「『三栄神教団』とか任務とか関係ない、その僕は君のことがす・・・」
「悪い師走、その告白は受けられない」
思わず師走が口走るよりも先に言葉が出た。それはもう自分が発したと思っていた以上に大きな音で辺りに響き渡った
それは自分でもわからない照れていたのかなんなのか
沈黙が二人の間に流れる。しばらくして口火を切ったように声を発したのは如月師走だった
「ええーここまで盛り上げておいてそれっていうかせめて最後まで言わせて欲しいというか!?じゃ友達からは?友達からはいいよね!?」
「と、友達?」
締りのないなんというか先程までとは打って変わって悪足掻きの様にしか見えないくらい滑稽なものだった
「そうそう友達からでいいんでお願いします!!」
『友達』───
だけどその言葉を聴いた時なぜかずっと閉ざしていた私の心になにかが燈った気がした。
ずっと忘れていた感情、どこかに忘れてきた懐かしい感情
「友達───か、まぁそれなら構わない」
自分でも良くわからないまま何故か思わずそう答えてしまった
「えっ本当!やったー!!」
歓喜の声をあげる師走に対して私はなんでそう言ったかもわからないくらい混乱していた、と思う
何故今まで感じていなかっただろうという感情が私の心の中を埋め尽くしている。
唯一つ、今わかることがあるとすれば
たぶん自分は、閉じているのだ。本当は人恋しいくせに、近づこうとしない。友だちが増えることに慣れていないのだ。



《 盲信サマエル 了 》



【 あとがき 】
颯爽と現われるくーるびゅーてぃ、氷桜夕雅です
書店でいきなりあとがきから読んでる方、今すぐレジに持っていってください!!(嘘
反省点しか今回の作品にはありません
まずお題から始まってお題に繋げるのは思ったよりなかなか難しい
あと今回は設定を詰め込みすぎたこと、締め切りってきついねってこと頭にヒラヒラついた可愛い子がいないの?ってことなどなど反省ばっかり、反省が積み重なって猛省になるくらい!!
夏休みの宿題を夏休み前に終わらす主義がこのていたらくですよ
そして実力的に引き伸ばしというかいきなり続き物にしちゃったりして更に反省、まぁ次のお題で続きを書くかもしくは自分のブログで続きを書くかは思案チュウ・・・デス!!
この後登場人物と作者の痛い話とかをしようとか思ったけどやめときます!!

【 お題当てクイズ回答 】
ぐーぐる先生に聞いたけどわかんないって言ってた

『べ、べつに好きで書いてるわけじゃないんだからね!』 氷桜夕雅


゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜

●たぶん自分は、閉じているのだ。本当は人恋しいくせに、近づこうとしない。友だちが増えることに慣れていないのだ。

《 ハグ~ひまわりの庭 》

著者:すずはら なずな



「『自分は閉じてます』ってアピールしてる感じがするなぁ」とそのオトコは言った。

バーガーショップの妙に明るい店内で 彼と向き合いながら 私はその言葉をぼんやり聞いていた。
まだ親しいとも言えない ただの顔みしり程度の関係だったのに
相席いいですか?と問われ 返答する前に 義人は向いの椅子に座っていた。


「ハグとかって、どうなんだろうな…」
黙ってコーヒーを啜っていると 唐突に義人が言った。
何を言い出すんだコイツ。いきなりの質問にポテトの欠片が開いた口から転がり出そうになった。

「自然体で そういうのできたら 何かが変わるかもしれないとか思わない?」
さっきの「閉じている」発言から続けて 驚いたらいいんだか、怒ったらいいんだかよく解らない。
すぐに素直な感情を出す前に固まってしまう。自分で自分の「素直な気持ち」っていうのが 解らない。
確かに我ながらやっかいな性格だとは思う。

咄嗟のことにうろたえたのが見てとれたのか、義人は愉快そうに目を細めて私の顔を見
聞きもしないのに 最近観たDVDについて語り出した。

「文化の違いについて考えていたところなんだなぁ。実は」
その映画は、クリスマスやバレンタイン頃によくあるハートウォーミング系のオムニバスドラマだ。
「『恋人同士』じゃない男女のハグっていうのがね・・・」
そういうのが成り立つ「西洋文化」っていうのについて 彼なりに考察したという。
「日本人じゃ、なかなかああはいかないよなぁ、と思ってさ」
案外面白い人なのかもしれないなぁと くるくる変化する表情と よく動く唇を眺めながら思ったのだった。

「で、思ったわけ」
義人は息をつき、カップから氷が融けて薄まったアイスコーヒーの残りをすする。
ズズズッという遠慮のないその音を聞いて いきなり現実に引き戻された気がした。
「もしあなたが『閉じている』なんて言われるのに今 ムカっときたんならさ…
 そんな自分のカラを破りたいと思っているとしたら」
人懐っこそうな目でじっと見つめられて困惑する。何なんだいったい。
「僕とハグ・・・」
バックで その軽そうな頭をバコンとはたいて席を立った。



「ハグ攻撃で やっと相手がさ、気持ち開いてくれた」
とろけそうな笑顔で急に話し出す義人の顔を見て またハグの話か、そう思った。
誰か他にも同じ手で迫ったわけだ。ふうん、と思った。

懲りもせずまた同じバーガーショップで 懲りもせずまた義人は勝手に相席しに来る。
会うのが嫌なら別の店に行けばいいんだとは解っていたが 
それだけの理由で自分がお気に入りの店に行くのをやめるっていうのも大人げない気がした。意地もあった。
自覚はなかったけれど少しだけ 義人への興味もあったのだ、と今では思う。

「本当は人恋しいくせに近づこうとしない・・・そんな子でさ」
「…そうですか」
「のりさんと ちょっと似てる」
「そんなことで私と似てるなんて言われても・・・」・・・別に嬉しくないんですけど。

「ハグさせてもらうまで長いこと掛かったけどさ、いやぁ、今ではもうお互い離れられない存在って感じで」
「ふうん。それは良かったですね」
不機嫌そうに聞こえないように注意して答える。

「最近なんかあっちから寄って来てさ、喉なんかゴロゴロいわせて目細めちゃって」
「・・・?」

「ニワって名前付けた、猫、好き?」


以下義人の話を要約するとこうだ。
ハイツの1階の部屋には小さい庭があり、そこによく来る猫がいたが 義人にはいっこうに懐かない。
最初は警戒され、逃げられていたが 脅かさないようにしていたら やっとエサを食べにそばに寄って来るようになった。
だんだん近づいて来て やっと触らせてくれるようになったけれど、それでもまだまだ、心を開かない。
少しずつ少しずつ スキンシップを増やし やっとハグを許してくれる仲にまでなったのだそうだ。

映画の時の話といい猫の話といい 目をキラキラさせながら嬉しそうに語りつづける彼の様子に 
悔しいけれど思わず次の言葉を期待して待つ自分がいた。
ハグできる仲になった相手が猫だったと解ったその時の 自分の力の抜け方が可笑しかった。
 



母が亡くなって 実家をぼつぼつ片付けていたら色々な古いものが出てきた。
幼稚園のお絵かき帳、小学校の時の賞状・・・私が放置していたものを
母は丁寧にまとめて 大事にとっていたのだ。
その中に「伸びる力」とかいう名のついた小学校の成績表も入っていた。

「内向的なところがあります。もっと 積極的にお友達をつくりましょう」
義人に言われたのと同じようなことが成績表の「先生の所見」のところに書かれている。

おずおずと見せた幼い頃の私を ふと思い出す。
母はゆっくりとその短い文章を吟味するように見た後 言った。
「もっといっぱい いいところ書いてくれたらいいのにね。こどもにも解りやすい言葉使ってさ」
母にしたら あんたにはもっと褒めるところがあるのよ、と言っているつもりだったのかもしれない。
「でも、その時私は思ってしまったんだよね」
縁側で、義人は爪を切っている。最近は 義人相手になら少しだけ 素直に話せるようになった気がする。

「自分の性格はいけないんだ。お母さんもそこをよく解っているのに、先生が書いてきたから 余計怒ってるんだ・・・
そう、思った」
義人は母の葬儀から付き添ってくれて 実家の片付けを手伝いに来てくれた。 
今 義人とニワと 同じ屋根の下に住んでいる。
義人が聞いてるのかどうか良く分からなかったが 続けた。
「自覚はあったんだ。新しい友達を作るのも苦手だったし 友だちが増えることに慣れてないし」
パチン。大きな音を立て 義人の足の爪の先の 小さな欠片が飛んだ。

「でもさ、それってアレだな、うん」
短い沈黙の後 義人がゆっくりとこちらを向いた。どうやら聞いてたみたいだ。
「クラスでさ、みんながみんな積極的で社交的ってのはさ、先生にしたって案外 ややこしいもんだと思うなぁ」

猫の「ニワ」がいつの間にか現れて 縁側にストンと飛び乗ってきた。義人の足の指を目を細めて舐める。
「先生がそれを目指していたとしたら それは大きな間違いだ」
ニワのつややかな黒い毛を撫でながら 義人は続けて言う。
「のりさんがのりさんで、良かった。まあ、そういうことだ、なぁ、ニワ」

話しかけられたニワはナォーンと甘えた声を出し義人の膝に上り 
気を良くした義人はニワを更に抱き上げ 抱きしめて、頬を寄せすりすりする。

「何ですか、そのいい加減な感じの結論は」

ニワと義人の相思相愛ぶりにちょっと嫉妬を覚えながら 
黒光するちゃぶ台の上のピーナッツを義人に向って投げると、義人は素早い動作でキャッチし

「サンキュ」
ポンと口に放り込んで 呆れるほど美味しそうな顔をして食べた。

「いい加減じゃないよ。心からそう思ってる」


バーガーショップの「相席」が、何度も重なって 
それぞれの観たDVDが 少しずつ重なった。

ニワの来る義人の部屋で 一緒に観たDVDが増えていった。
選ぶ映画も感想も、色々違うところもあるけれど 何だかちょっとズレた義人の視点はいつも面白いと思う。
いきなりの義人からのハグはやっぱりあり得なくて、冗談でごまかした。


母が亡くなってひとりで帰るつもりだった実家に 今 義人とニワがいる。

大好きなひとに自分から積極的にハグできるようになったら 自分も少しは変わるのかな。
それとも やっぱり変わらなくてっもいいのかな。

そんなことを思いながら TVに夢中な義人の横顔を覗き見る。



残念なことに いつもそこにはニワが先にいて 私はまだ義人の胸に素直に飛び込めないでいる。



《 ハグ~ひまわりの庭 了 》



【 あとがき 】
この一話で完結するようにはしているつもりですが 「ひまわりの庭」というシリーズで書いているものの 一部として書かせてもらいました。長いお題なのでバラバラに使ってしまってスミマセン。久々のmcですが 相変わらずのワタシです。これからもよろしくお願いします。

『STAND BY ME』 すずはらなずな


゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜


●「人の胸に飛び込めないんです」

《 笑い話 》

著者:亞季



「人の胸に飛び込めないんです」

彼女は泣きながら、僕の腕の中でそう言った。

「・・・今、飛び込んでるじゃん?それとも、僕は「人」じゃないとか?」

「い・・いや・・・、そういう意味じゃなくて・・・。ごめんなさい・・・。」

本当は分かってるんだ、彼女の言う意味は。甘えてくる彼女が愛おしくなって、意地悪を言いたくなっただけだ。

僕は彼女をぎゅっと引き寄せた。

「・・・僕と付き合う?」

「え・・・?」

「僕を彼氏にしない?」

「・・・あの・・・彼氏っていうより・・・お兄ちゃんって感じで・・・」

「・・・嘘だよ。分かってる。」

彼女は自分を甘やかしてくれる人になら、本当は誰にでも飛びこめる。

ただ、社会人になってしまったから、昔より、自分を甘やかしてくれる人が少なくなって、

子供みたいに甘やかしてほしい気持ちが抜けなくて困ってるんだ。

彼女にとっては甘やかしてくれる相手なら僕でなくても誰でも良くて、

僕がヒツジのままオオカミにならないんだとも思い込んでいて、

現に僕は僕の腕の中で泣く彼女の柔らかい胸や頬や手のひらを感じながら、

甘えてくれるならそれだけでいいか、と思ってしまう、オオカミになりきれないヒツジだった。

「・・・ちょっとトイレ行ってきていい?」

「あ・・・ごめんなさい。うん。いいよ。」



トイレで僕は友達何人かに電話をした。

今さっきあったことを面白可笑しく語って聞かせた。

実際、ここまで来ると笑い話だ。

僕がオオカミになれるように、「お前、男じゃないだろ!」とか言って、バカにして笑ってほしかった。

だけど、僕の笑い話は「最先端」過ぎたみたいだ。

誰も笑わなかった。そういう感想を超えた何かがあった。あまりにユニーク過ぎて、笑うぐらいでは表現できなかったのだ。



《 笑い話 了 》



【 あとがき 】
ちょっと考えたけど、考えないで書いたらこうなりました。
草食系ブームな時代の今に。

『超短編小説』 亞季


゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜

●誰も笑わなかった。そういう感想を超えた何かがあった。あまりにユニーク過ぎて、笑うぐらいでは表現できなかったのだ。

《 魂の居場所 》

著者:rudo



初めてその場所に行った時
私は笑えなかった。
そういう感想を超えた何かがあった。
あまりにユニーク過ぎて、笑うくらいでは表現できなかったのだ。

あちこちで抱き合っているのか
寝技なのか分からない
うめき声のような 唸り声のような
そんな声で半裸で組み合っている男たちとか
 
手だけで車いすに上ろうとする人を手助けしている女の子の
スカートをめくりあげている背骨が不自然に曲がった男とか

なんなの ここ。
どうなってるの ここ。

体の不自由な人たちの手伝いをしてほしいって聞いてきたのに
或る程度の事は何でもできる人たちだから楽なボランティアだって聞いてきたのに

固まってしまった私を正気に戻したのは
微妙にゆがんだ顔をして上半身裸で
ぶよぶよした生白い体をさらし
そのくせ 赤ん坊のように細く頼りない足を投げ出したそいつは 
 「新しいボランティアか? よろしくなっ」
そう言って 私のおしりをムンずとつかんだ。

驚いてよけた私は何か固いものを踏みつけてバランスを崩し
尻もちをついた。 何だろうとつかんで また驚き
思わず投げ出した。

足。

硬くてつるっとして……

義足だった。

いまでは どこで うめき声が聞こえようと
そのへんに 手や足がころがっていようと
お尻を撫でられても
おっぱいをつかまれても
エロ本を読みながらパンツに手を突っ込んでるのを見ても
何とも思わない。

彼らは障害者であり 
だけどプロレスラーであり
性欲も食欲も物欲も
普通の人たちと同じに 
あるいはそれ以上に持っている
人間らしい人間たちだ。

なんとなく障害者って
清く正しく 優しく
遠慮がちに だけどまっすぐ力強く辛抱強く
明るく前向きな努力の人たちだと思っていたけど

ここで そんなのは間違いできれいごとで
もちろんそういう人も中にはいるけれど
実際は 普通の人と同じだと知った。

そんなことを思い出してにやにやする。
ここを手伝うようになってもう三年だ。

「なに笑ってんだ?
 思い出し笑いはスケベの証拠だぞ」 

「棚田さんが私のお尻をつかんだ時の事を思い出したんです」

「いつでも頼めばつかんでやるぞ」
そういって ひじが縮こまり 指がそったままかたまっている右手を伸ばしてくる。

三年前に私の尻をつかんだその手は少しづつだが硬直が進み
今はもうつかむことはできない。

棚田雄吾 35歳 脳性マヒ。

「おまえが踏みつけて投げ捨てたおかげで
 俺のかかとが欠けたんだったよな」

今もその時欠けたままの義足を装着しながら横やりを入れてくるのは
 下原隆 32歳 

今日は彼らの引退試合だ。

棚田さんはこの障害者プロレスを思いつき仲間を募った人だし
下原さんはそれに一番に賛同しずっと手伝ってきた人だ。

「本当にもう試合しないんですか?
 ショーなんだから 少し考えれば出来なくもないんじゃないですか?」

「ばかだな おまえ。
 ここまで客が入るようになったのは普通のショーじゃなくて
 いつも みんな本気でやってきたからだよ 手加減した試合なんて
 誰も見たかねーよ」

そっぽを向いて棚田さんは言う。

「下原さんはまだ 続けてもいいんじゃないですか?
 だって 別になにも変わってないんだし…
 かかとが欠けてるのは ずっとなんだし」

下原さんはにやにやしながら黙って
 私のおしりを 欠けたかかとで蹴った。

私は黙る。

会場からものすごい拍手と歓声が聞こえてきた。
今 一番人気の ダイナマイト葛田 VS エロがっぱ悟のカードだ。

障害も一番重く ほとんど寝たきりに近い体のくせに
手や口や使える場所は何でも使ってトップロープに上り
そこからボディアタックをするような無茶を平気でやる。

「新しい奴がどんどん入ってくる
 いつまでも古いのが居座ったら 廃れちゃうだろ?」

カンカンカンカンカンカンカンカン 

「いつもならこれで終わりのメインカードだからな。
みんな間違って帰っちゃうかもな」

棚田さんが言い

「ありえるーっ 俺ら出てったら
 もうみんな帰りかけだったりしてなー」

下原さんが受ける。
だけど そんなことあるわけないって
もちろん知っている。

そうして自信たっぷに私たちは リングに向かう。

棚田さんはいざって
下原さんは少し 足を引きずりながら
私はふたりのプラカードを掲げて。

花道へのカーテンが開いたとたん
客席からは、今日いちばんの大きな拍手が鳴り響いた。



《 魂の居場所 了 》



【 あとがき 】
とにかく なんとかしなくちゃ…
そればかりを思っての なんだか なによ?これっ
になってしまいました。
次回はもう少し 早めの対処をこころがけたいと思います。

【 お題当てクイズ回答 】
全然見当つかずっ sf とかかしらん…

『すみねこ屋』 rudo


゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜

●客席からは、今日いちばんの大きな拍手が鳴り響いた。

《 恩情と詐欺師、詐欺師と慈愛 》

著者:望月



客席からは、今日いちばんの大きな拍手が鳴り響いた。
自分でも狙っていたところで、笑い声が聞けて嬉しい。
客席に向かって微笑む。
例えその拍手が四人程度のまばらな拍手でも、笑い声が控えめなものでも、今日の講演の参加者からその反応を得られたことは、とても大きな収穫だった。


「講演会?」
大福を頬張ろうとしていた手が止まる。
自分とはおよそ無縁の単語に、思わず聞き返してしまった。
相手の意図がわからずに聞き返せば、先生は、いつも通りの柔和な顔でゆっくりと頷く。
「ええ、講演会です。早瀬さんにぜひ、お願いしたいのですが」
にこにこと笑う。笑いながら、盤上の飛車を取って、二つ前に進めた。

私は、先生が好きだった。崇拝していると言ってもいい。
先生は女性としても小柄な方で、背丈は私の胸ほどまでしかなかったが、背筋はいつも伸びていて、背の小ささを感じさせない人だった。
目尻に刻まれた何本もの皺は、笑い皺と呼ばれるもので、それはそのまま先生の性格、生き方を伺うことができる。今まで何度、先生に救われてきたかわからない。
私は、先生が好きだった。
「講演会、と、言われましても…先生も、私の性分はよくご存じでしょう。間違っても、他人に何かを教えることができるような人間じゃぁありませんよ」
食べかけの大福を頬張ってしまってから手を拭き、歩兵を桂馬の犠牲にするために一歩前に進める。
「おや、そうでしょうか」
「資格云々の前に、向き不向きの話でもあります。先生のようにはなれませんよ」
「おかしなことを言いますねぇ」
少し困ったように笑って、先生は視線を私から庭へと移した。
この八畳の和室は、俗に数寄屋造りと呼ばれる造りをしている。ガランとした和室の真ん中に、黒檀で作られた卓が置かれ、その上には、年期の入った将棋盤が広げられている。私はそこで先生と、時間制限なしの将棋を指しながら、お茶をご馳走になっているのだった。
この茶室にも、もう十二年通っている。先生の視線を追って、庭の草木を眺めながら、ここの景色は変わらないなぁと息を吐いた。
「あそこの松の木、覚えていますか」
先生の言葉に、庭の池のほとりに生えている、立派な松の木を見る。
もくもくと茂った、真っ白い入道雲とのコントラストが見事な青空を背景に、枝葉を伸ばしている松の大木は、下の方が奇妙な形に膨らんでいる。
「はい」
忘れるわけがない。私は頷いた。

あの松は、私が十二年前に、一度折ってしまった樹だ。
乾いた松の細い枝を折る感触は、人間の骨を折る感触にも似ている、と思う。
すべてにイライラしていて、ムシャクシャしていて、人間が嫌いで自分が嫌いで、狭い世界が嫌いで、壊したくて壊したくて、仕方なかったあの頃。
あの頃に壊した、松の木だった。
「……その節は、本当に申し訳ありませんでした」
「ああいえいえ、早瀬さんの謝罪が聞きたくて言ったのではありませんよ。あの節の部分ですけれども、あれだけ倒れそうだった樹が、十二年の間にここまで大きくなりましたよ。自分で再生した幹は太くなって、きっとこの先、どのような衝撃がきたとしても、あの部分から倒れることはないでしょう」
先生が、おそらく無意識に着物の袖を直しながら言う。
控えめに鳳仙花をあしらった濃紺の着物は、季節の変わり目に合わせて新調したものだという。薄氷色の帯がよく映えた。
「早瀬さんも、この十二年の間に、随分と変わったように思いますよ」
「……先生」
「変わらないものなどありませんよ。人も景色も、時代も空も、すべてがゆっくりゆっくり変わっていきます。今が生き辛かったとしても、止まらないで生きながらえれば、いずれは過去を笑い話にすることがきっとできます。山があって、谷があって、泣いて、笑って、きっとその繰り返しだと思うんです」
庭を見つめながら、目を細める先生の横顔を見つめる。笑い皺の刻まれた柔和なその横顔が、ふと、泣いているようにも見えて、私は少しだけ動揺した。
「……でもやっぱり、どうしても、どうしても止まってしまう時があると思うんですよ。悲しくて、自分じゃどうしようもできなくて、でも先にも進めないって、そんな時があると思うんです」
「……かつての私みたいに、ですか?」
「早瀬さんは止まっていたんですか?」
聞き返されてしまった。
どうだろう。止まっていた、のだろうか。
劣勢の盤上に目を落としながら自問するが、答えを見つけることはできなかった。
「わかりません」
「そうですか。……私はね、早瀬さん。怒れるならば、怒ればいいと思うんです。泣きたい時があれば、泣けばいい。感情の発散は自分を救います。我慢して、我慢して、止まってしまうのが、一番怖いと思うんですよ」
しんみりと語っていた先生が、視線を戻して、私の目を見つめた。僅かに茶色かかった瞳が、私の心を射抜く。まっすぐな先生の瞳は、どこまでも優しくて、少し眩しい。
「あなたにお話しして頂きたいのは、事情があって親元を離れ、施設に入れられた子供たちです。泣きたくても泣けない、笑いたくても笑えない、人と接することが怖くて、話すことが怖くて、自分の世界で止まってしまっている、そんな子たちです」
だからこそ、と、先生は言う。
「だからこそ、早瀬さんにお話ししてほしいんですよ」
庭で水を湛えたししおどしが、小気味のいい音を響かせて石を叩いた。


頬を生ぬるい風が通り抜ける。
一応空調はきいているようだったが、お世辞にも涼しいとは言えなかった。
私は、目の前の子どもたちの顔を、今一度ゆっくりと見回した。
眼が、合う。瞳の色が、わかる。
頬にそばかすを散らした女の子が、私と目が合って、あわてて俯いた。長い黒髪で表情が隠れる。
その隣で私の様子を伺っていた少年は、目が合うとあからさまに嫌そうな顔をして、視線を逸らした。
可愛いなぁ。微笑ましく思う。
八歳ほどから、十四,五歳ほどまで、総勢一二名。
この三時間の間に随分と変わったものだ、と思う。
「ずっと聞いてると、疲れたかな。暑いね」
子供たちの中で、一番遠くで胡坐をかいている少年に問いかけた。子供たちの中で一番年上とみられる少年は、何も言わずに、無表情にこちらを眺めるだけだったが、それでも当初に比べると反応の差は顕著だった。
ほんの少しでもいい。
人と目を合わせることができれば大丈夫だと、私は一つの線引きを持っていた。
人を見ること。自分以外に興味を持つこと。
そして興味を持たせるには、まずその人の意識を内から外へと導き出す必要がある。
だからこそ、先生は私に講演を依頼したのだろう。

人の意識を導くのには、コツがある。逆に言えば、コツさえ掴めば人の意識を自分に向けることも難しくはない。
それが、この十二年間で私が学び、必死に習得した技術だった。
講演会は、施設の狭い体育館の中で、傍聴人は子供たちのみ。2つある入口には、どちらも内側から厳重に鍵と、突っ支い棒がされ、四つある窓はすべてカーテンを引いてある。
教壇の上にあった大きな教卓は、とうに倒されていた。
辺りには、教卓から出た木片であったり、講演の資料であったり、壁から剥がれ落ちたコンクリート片などが、至るところに散らばっている。
そんな中で私は、教壇の淵に行儀悪く腰かけて、目の前で思い思いに座り込んでいる子供たちと同じ姿勢を取って、講演をしていたのだった。
「講演会の時間も大分過ぎてるからそろそろ終わるけども。なんか言いたい人いるかい」
講演時間は、すでに予定よりも一時間が過ぎていた。
言いたいことは、大体言うことができた。子供たちの顔を見ながらまとめの言葉を切り出すと、辺りが落ち着かない沈黙に包まれる。
これもまた、私にとっては馴染みのある空気だった。
そろそろと、周りの出方を伺って、自分の意見を言うことを躊躇って、言うに言えない―――そんな空気だ。だが、言葉が素通りし、他人のことを意識から排除するよりはよほどいい。

「―――あの、」
「ん」
流していた視線を止める。一番前で、膝を抱えている小さな少女から声がした。膝の間から顔を覗かせるようにして、長い前髪の隙間からこちらを見上げている。
「質問?」
「……さっき言ってたこと、なんだけど」
「うん」
「止まったら、だめ? ……歩きたくない時があっても、進まなきゃ、駄目かな」
「……駄目とは言わないし、言えない」
怖がらせないように、ゆっくりと首を振った。
「私は、明るく前向きに、歩き続けたら良いんじゃないかって言ってるわけじゃない。どうしても進めなくて、止まるときだってあるだろうし。だから、止まるなって言ってるわけじゃなくて、ただ、止まり続けるのはあまり良くないと思うわけだ」
「ただ、誤解しないで欲しいんだけど」と続ける。
「私は別にこうあるべきだ、こう生きるべきだっていう生き方を君たちに説くために来たわけじゃない。私はそんな高尚な人間じゃないしね。生き方を決めるのは自分であって、考えて考えた結果が、止まることなら、それはそれでいいと思うさ。自殺するのも手だし、止まるのは自分の中を整理するために必要な時だってきっとある。他人が偉そうに何かを言ったところで、それは所詮他人の言葉でしかないんだから」
子供たちは静かだ。沈黙の中で、全員とまでは行かずとも、殆どの子供が私の話を聞いてくれていることが分かる。
「だから、君たちは私の言葉をそのまま鵜呑みにする必要なんて全然ない。ただ、自分にとって良いと思えたことだけ、参考にしてみてくれれば嬉しいよ」
これで良いかな、と女の子を確認するとこくりと頷いた。
私も微笑む。
ああまったく。本当に。居心地が悪い。
自分の世界に籠りがちな人は、言い換えればその人の世界観、価値観を人よりも強く持っているということだ。
そんな人が集まったところに、かくあるべきだ、などと説いたところで、例えそれが倫理的、世間的に正しいことだったとしても、受け入れられることは難しい。
私は何もこの講演を通して、子供たちの性格を変えようなどとは少しも考えていない。
ただ、ほんの少しだけ、意識を外に向けてくれればそれでいいのだ。
だから、わざと遠回しな言い方をして、偽善者ぶって、子供たちが受け入れやすい言葉を使うのだ。

「他に質問とかあるかな」
「はい」
今度は端の方に座っていた十歳ほどの少年が、軽く手を挙げた。
「なにかな」
「自分が人と違うってはっきりわかったら、周りに合わせた方が良いの?足りない部分があって、自分じゃどうしようもできないこととか、いじめられたらどうすればいい?」
胸中で私は苦笑した。
どうにも、カウンセラーのような気分になってきた。
「逃げればいいと思う」
持論を口にする。
「自分を変えることで対処できるなら、それでもいいと思うし。いじめてくる奴の程度の低さを笑って、自分を保つのも手だし、立ち向かえるならそれでもいいさ。でも、どうしても無理だっていうなら、たとえば学校とか行っていじめにあって、どうしようもなければ、逃げればいいと思う。人生は一度しかなくて、長くて短い。だから、そんなやつにかまけている時間がもったいないし、そんな奴と関わって、ストレスを感じる時間がもったいない。私だったらきっと逃げるな」
『この程度で辞めていたら、この先もきっと続かない』
『頑張っていれば、きっといつか認めてもらえる』
励ましは悪くないが、どちらもやはり、他人の言葉だと思う。
「……ぼくね、」
私の話を聞いていた少年は、私に向かって右の手のひらを向けた。違和感はすぐに分かる。少年の小さな右手は、中指よりも右がなかった。手首とつながっているのは中指で、薬指と小指のあったであろう部分は、艶のある赤い皮膚に覆われていた。
「二年前に交通事故で失くしたんだけど、この手のせいでどこ行っても上手くいかないんだ。変な目で見られていじめられて、手袋したり、頑張ったんだけど、無理だった」
後には台詞は続かない。
「そうか」
慰めの言葉は言わない。欲しいわけでもないだろう。
この施設には、様々な事情の子供がいると聞いた。その『事情』とやらの詳細は聞いていないのだが、ある程度は予想ができた。
「指がないと不便?」
「ううん、もう慣れたよ。左手があるもの」
「そっか。なら、良かったな」
「うん。先生は、ほかの人にいじめられたりしなかったの?」
「うん?」
「右腕」
少年の言葉で、改めて子供たちの視線が私に―――右腕に集まるのがわかった。
私の体にも右腕が足りない。かつて右腕のあった場所は、肩先三センチほど肉が盛り上がっているのみだ。今日は半袖一枚なので、右腕がないことはより顕著に分かるだろう。
「うーん、まぁ色々見られたりすることはあるけど、最近はないかな。隠しても仕方ないし。こっちが堂々としてると、相手もそこまで気にしない」
正確には、気にしないように振る舞ってくれる。中には、気にしていることを申し訳なさそうにする人もいるくらいで、それもまた世界観の違いを実感する瞬間だ。
「不便じゃない?」
先ほどの少年が、私と同じ質問をしてきて笑う。だから私は、少年と同じ答えを返した。
「慣れたよ。左腕があるしな」
足りないところは、補ってやれば良い。人間は順応できる生き物た。
腕がなくとも先生と将棋を指すこともできるし、同じ腕でご飯を食べることもできる。子供の頭をなでることもできれば、教卓を倒すこともできる。
足りないことは、そう重要なことではない。
「ふーん」
まじまじと私の腕を見ていた少年が、自分の手のひらに視線を移した。
「そっか」
3本の指をにぎにぎと動かしながら呟く。
私も頷いた。

「ああ……さて、ほかに質問は? もういいかな」
より共感しやすい空間を作るために、敢えて閉鎖しきった空間を作ってみたが、外で待っている施設の職員達的にも、そろそろ限界かもしれなかった。
子供たちを見回しても、質問の声は上がらない。
開始時に比べれば、多少なりとも子供たちの意識の変化は認められるだろう。
先生に頼まれたことは、果たすことができたと思えた。
「じゃぁ……」
そろそろ終わろうか。
そう言おうとした矢先に、無造作に手が挙げられた。最年長の彼だ。
私は正直驚いた。彼が、このような場で発言するということが意外だった。
「質問?」
「ええ、まぁ」
そう無表情に呟いてから、緩く首肯した。挙げていた手を、だらりと胡坐に落とす。
「質問というか、あまり内容とは関係ないんですけど。個人的に聞いてみたいことが」
「良いよ。なに?」
「あなたから見て、この世界はどんなふうに見えますか」
少年からの問いかけは予想外のものだった。

「……」
「さっきから、話を聞いてて聞いてみたいなって思って。腕がなくても、普通に暮らせるって、補っていけるって、ご立派だなぁと思ったんです」
ご立派、ご立派、と繰り返す。少年は、子供たちからも一目置かれているのだろう。子供たちの視線が、私と少年を行き来する。
「ねぇ、世界って、綺麗ですか?」
「……」
「人って優しいですか?」
「……」
「嫌なことがあっても、諦めないで進んでいれば、絶対にいつかは幸せだと思えるんですか」
不揃いな短髪をガシガシとかいて、少年は、顔に冷めた笑みを浮かべて私を見つめた。
「僕にはあなたの話も、世界も、嘘ばっかりに見える。嘘で塗り固めて、笑いたくないのに笑って、性善説を信じて、馬鹿みたいだ」
口角が上がるのが分かった。
何が面白いって、昔自分が先生にした質問と、まったく同じ内容を、今この場で聴くことになるとは思わなかったからだ。
耐え切れずに噴き出した。
「……おかしいですか」
「いや、違う、ごめんな。まさか昔自分がしたのと同じ質問を聴くことになるとは思わなかったんだよ」
くっくっと笑いをかみこらえる。怪訝そうに眉根を寄せる少年に、笑顔を向けた。
人の内面は、あくまでその人しかわからない。わかったようなことを言って、その人を理解したつもりになっても、所詮それは「つもり」でしかない。
それでも私は、少年の無表情の訳を、少しだけ理解できた気がした。

「君さ、この世界が壊れちゃえば良いのにって思ってる?」
少年からの応えはない。だが、僅かに動いた表情を認めて、そのまま言葉を紡ぐ。
「もしくは壊したいって思ってるか。皆嘘ばっかりで、本音隠してにこにこして、そのくせ裏では悪口ばっかりで? すぐ集団で群れて、集団に入れない人を爪はじきして、そのくせすぐに綺麗ごとばかり並べる。世の中欺瞞ばかりってか」
「あんた……」
少年の呟きは、続かない。私は続けた。
「なぁなぁ君さぁ、名前も知らないけどな? 君たちもさぁ」
子供たちにも話しかける。今や、十二人すべての子供の視線を感じた。
「良いじゃないの。本音を隠して何が悪い? 人間本音を隠さないと、争いがおきますよって、昔の偉い人の本でも書かれてたけどさ。大事なのはそこじゃない。本音を隠して、世の中が回っていくなら、それはそれで良いじゃないか。何か思うなら、自分は自分の生き方をすればいい」
それこそが、十二年前にはわからなくて、今ならば分かること。
「そもそも性善説がおかしいっていうなら、性悪説を信じればいい。私も性悪説を信じてるよ。根っからの善人なんてこの世にはいない。皆大なり小なり悪の意識を抱えてて、でも本音を隠してやっていこうと思うからこそ、日々が回っているのさ。性悪説を信じているなら、借金なんて絶対にしないと思わないかい? っていうのは、私の持論だけどね」
子供たちに見えるように、自分の右腕を持ち上げる。三センチの肉塊が上方に上がり、つられて半袖が持ち上がった。より、子供たちの意識が向くように。

「世の中にはいろんな生き物がいる。人間一個種にしたって、一人として同じ人間がいるかい? クローンの話はおいておくけどね。それぞれ育ってきた環境、周りにいた人が違うんだから、性格が違うのも当たり前の話だよ。じゃぁそんな人間たちが、どうやってほかの人間と交流を持つ? 自分の尖った角を上手に丸めて、お互い角が突き刺さらないように、丸まってるだけだと私は思うよ」
子供だからと、かみ砕いた言葉を使おうとは思わなかった。
子供は、大人が思うよりもずっと物事を理解する能力が高いということもあるが、何より、わからないのであれば、別に分からなくても良いという心境だった。
人間は、生来悪である。これが性悪説であり、私もこの考えを信じている。
大事なのは個体であると同時に、別個体と付き合う力だった。
だから私は、極端に言えば、例えば先生が悪人だとしても構わなかった。私にとっては先生は先生であり、裏切られて騙されたとしても、先生であることに変わりはないからだ。

「一人で生きていけるなら、それはそれでいい。寂しいならば、人に話しかければいい。受け入れてもらえなければ、受け入れてもらえるところを探せばいい。世の中に自分と同じ人間はいなくたって、数十億の人間がいれば、似通った形の人間はいるかもしれないしね」
私は質問してきた少年を見た。
細い首と、骨の目立つ肩。夏だというのに黒一色の長袖を着込んだ少年は、不揃いな前髪の間から、こちらを憮然と眺めている。
あの頃の私よりもさらに若い。
やれやれ。苦笑する。
自分の行動が、らしくないと自覚する。まったく、いつもの私を知っている人間が今の私を見たら、どう思うだろうか。
それでも、情が湧いてしまったのだから、仕方がない。

「私には世界は広すぎるけれども、自分の周りのことを区切って世界と呼ぶならば、日々生きていることを自覚できる、素晴らしい世界だよ」
「……」
「特に私の周りは殺伐としていて、毎日食うか食われるかだけども。楽しいよ本当に」
「楽しい……」
「人だって悪くない。仕事柄、毎日騙して、化かし合いだけど、好きだと思える人を見つけることができた。それだけで楽しいよ」
「……」
少年の瞳が僅かに揺らいでいるのを見る。
「私は昔、全てを壊してしまおうと思って、最後の最後に止めてもらえた人間だよ。人と話すのがいやで、世界がいやで、自分が嫌いで、全てを壊したいと思っていた人間だった」
「……壊さなかったんですか」
少年の言葉に、私はそれこそ満面の笑みを浮かべた。あの時の、先生に出会った時を思い出して、満面の笑みを浮かべた。
「勿体なくなったんだ。あんなに嫌っていた世の中で、最後にたった五分会話しただけなのに、人も悪くないなって思えたんだ」
「……」
黙ってしまった少年を見て、私は目を瞑った。
当時を思い出す。先生と会えた時を思い出して、会話を思い出して、最後に出してもらった豆大福の味を思い出した。
『ねぇあなた』
とあの時先生は言ったっけ。
「ねぇ君たち。世の中は自分で完結してるけど、それでも隣の人と交流する手段はあるんだよ?」

だから、と、私は一呼吸おいてゆっくり話した。
「だから今から皆で、おしゃべりしよう」
先生のように、ゆっくりと、落ち着いて、人の目を見て話すこと。
この世界を壊したくて、絶望していた私が、ここまで生きながらえた理由。
気取らなくていい。飾らなくていい。ただ、自分の意識をほんの少しだけ外側に向けること。

空気が、そろりと動き出す。
この空間が、待ちわびていたもので満たされるまでに、そう時間は掛からなかった。



《 恩情と詐欺師、詐欺師と慈愛 了 》



【 あとがき 】
最初はファンタジーを書こうと思っていました。
久しぶりにMCに参加することができて、小説を書くことができて楽しいです。
お題有りの小説を書くのも久しぶりでした。
ありがとうございました!!

【 お題当てクイズ回答 】
わかりません!!^^

『kaleidoscope』 望月


゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜

●場内が爆笑に包まれた。

∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ 

お題当てクイズ正解発表
《 文春文庫 『空中ブランコ』 著:奥田英朗


正解者 : なし

次回出題者指名 : 内藤クン ⇒ 氷桜夕雅さん


● COMMENT ●

お疲れ

アップお疲れでした
後でゆっくり読もう

うわぁ~。お疲れ様でした!何という素早いアップ。
懐かしい皆さんの熱気も伝わってきます!すごい!
勝手に同窓会のような気分になってしまう~。
大切に楽しく読ませていただきますね。
そして、本当に「Mistery Circle」復活おめでとうございます。感無量です。
私も含め、皆さん待っていたんじゃないかな、と思えます。
書ける場所があるって大切なこと。管理人の皆さんもどうかムリなさらずに続けてください。

乾杯!

わああー管理人さん、アップお疲れ様でした!
そしてありがとうございます。

なんだか…本当に懐かしいなぁ^^
初めてお会いする方も、久しぶりにお会いできた方も。
お会いできてうれしいです。

またこうして、皆さんの小説を読むことができてとても嬉しいです。
空ちゃんとか久しぶりすぎて^^

ゆっくり拝読させて頂きますv

読了。

ほう…^^*
ご馳走様でした。

個人的にかゆりさんの作品が綺麗だなぁと思いました。
そして松永さんの作品が好きです。
内藤さんって内藤さん?^^

お疲れ様でした

読了しました。
個人的には、朔さん、ひとみんさんの作品が良かったです。
でももっと好きなのが、rudoさんの、『魂の居場所』でした。
こう言うの、すっごく好きです。素敵です。

皆様、本当にお久し振りです。
またこうして参加させていただいた事、感謝しております。

お疲れ様でした……結局俺が最後だよいつも通りだよチクショウ○∠\_
全部読んで最もお気に入りは幸坂かゆりさん、鎖衝さん。同率。
でも、やっぱり皆凄いなぁ……。

読了。

自分の短ッ。
相変わらず皆さんのエネルギー量がハンパないですよね。やべー、すげー楽しいー。

かゆりさんのにドキドキしたり、朔さんのにビックリしたり、氷桜夕雅さんのにニヤニヤしたりしてました。そしてなずなさんが相変わらずステキでした。

新MCも内藤君から始まります。今後、皆さんのお名前をちょいちょいお借りしますが、たとえどんな役であってもお許しを。ひらにひらに。

みなさん、がんばってますねぇ☆
私も松永さんと同じく「自分の短ッ」ですw
全文、米粒より小さな超小さな文字(フォント4)で印刷して9枚分。
これから読ませてもらいます。
ちなみに通常フォントサイズ10.5だとA4、100枚分になりましたw

うわーーーん!・゚・(つД`)・゚・
読んでくださっただけでもありがたいのに、
こんなに温かく受け止めてもらえるなんて・・・。
本当に光栄です。どうもありがとうございます。

昨夜、Clownさんの作品を読んで変な夢見ました(笑)
そして望月さんの文体が心地良くて好きです。
なずなさんも変わらない微笑みのようなお話も。
亞季さんのはせつなかった。きゅんとしました。
rudoさんは一見、べらんめえ調ですがクールな視点と、
シャープな解釈が頭の良い小説だなと思いました。
松永さんはさすがで、知さんも鎖衝さんもひとみんさんも朔さんも。。。
ああ、皆さんのお名前全部書きたいです(笑)
皆さんの小説すべてが個性に溢れ、
それぞれのジャンルでできているので、皆さんが一番です!
ありがとうございました。本当にありがとうございました。(;ー;)ノ


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック:

http://misterycirclenovels.blog.fc2.com/tb.php/11-f6f2b8a5
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

「クラシック」

お久しぶりです、幸坂かゆりです。 休止中の眠りから醒めて、更新です。 以前、参加していた物書き応援ブログさんが閉鎖し、 途中紆余曲折あったようですが、 今回、再スタートを ...

Mistery Circle Vol. 38 寸評 «  | BLOG TOP |  » MC9月号参加受付 ※追記あり!

プロフィール

MC運営委員会

Author:MC運営委員会
このブログの八割は、カボチャで構成されております。

カテゴリ

Mistery Circle(メインカテゴリ) (39)
寸評 (29)
MCルール説明 (1)
お知らせ (35)
参加受付 (23)
出題 (34)
メールフォーム (3)
内藤クンのおもちゃの部屋 (9)
天野さんの秘密の部屋 (8)
Ms.伍長の黙示録の部屋 (0)
伊闇かなでの開かずの部屋 (4)
未分類 (27)
亞季 (2)
いつき (1)
伊闇かなで (2)
空蝉八尋 (4)
黒猫ルドラ (12)
ココット固いの助 (21)
桜井 (1)
桜朔夜 (1)
鎖衝 (11)
知 (21)
しどー (12)
瞬 (3)
白乙 (12)
すぅ (13)
すずはらなずな (29)
田川ミメイ (2)
辻マリ (14)
夏海 (3)
七穂 (1)
氷桜夕雅 (30)
ひとみん (4)
松永夏馬 (12)
望月 (8)
幸坂かゆり (21)
李九龍 (13)
りん (3)
ろく (1)
Clown (12)
MOJO (1)
pink sand (9)
rudo (8)
×丸 (4)
MC参加者に聞け (7)
Mistery Circle ヒストリー (1)

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

リンク

このブログをリンクに追加する

検索フォーム