Mistery Circle

2017-11

《 MEMORIES OF WATER 》 - 2012.05.01 Tue

《 MEMORIES OF WATER 》

 著者:ココット固いの助





【第1章・←Water】


水が綺麗


水が嫌い


水が憎い


水がなければ出逢えなかった


水がなければ離れなかった


今私は水の中



水の底で腐乱して骨だけになった私の体。

その骨を組んで拵えた椅子に腰掛けたまま。

キラキラ光る水の天井を眺めている。



私は水辺が苦手だ。プールや海や湖。

ありとあらゆる水が満ちる場所を避けるようにして生きてきた。

泳げないからという理由ではない。

水とは恐怖の対象であり最も忌むべきものと言っても過言ではない。

予兆は幼年期の頃に既に私の中にあった。

その時私は幼稚園の年長で確か青組だったと記憶している。

その日は確か遠足で幼稚園から歩いて三キロ程の道のりをマイクロバスで浜辺に向かう予定だった。

園児に往復6キロは長いという配慮からか浜辺のある町の駐車場にバスを停めて.そこから1.5K程の距離を海に向かって歩く予定だった。

普段の私はあまりごねたり我が儘を言わぬ子どもであったらしい。

その日ばかりは気持ちが沈んで「行きたくない」と母に駄々をこねた。

本当に体調が悪い時のぐずりなのか見てすぐ判る母だった。

彼女は私の額に手を添えて子供用の体温計を口に突っ込んだ。

そしてそれをチラ見しただけで軽く降って容器にしまうとナップサックを背負わせ外に連れだした。

母も当時パートに出ていて忙しかったのだ。

マイクロバスを降りて目的地の海岸に向かう途中私は列の誰かと手を繋いでいたと記憶している。

しかし海辺に近づき磯の香りと波の音が聞こえるようになると私はますます暗鬱になり下を向いて歩いた。

けして前を見ようとはしなかったし他の園児のように歌など歌う気にすらならなかった。

ふと気がつくと私は見慣れぬ町の郊外を1人で歩いていた。

潮騒の音もあの嫌な海の塩の香りもしなかった。

私は1人だった。

何処ではぐれたのか幼稚園の遠足の列もそこには無かった。

私は気にせず目の前の電車の踏み切りを渡ると.どんどん1人で歩いた。

途中児童公園らしき場所を見つけ園内のベンチに腰掛け水筒のお茶を飲んだ。

私は遠足の目的地から2Kmも離れた隣町の公園まで来ていたようだ。

探しに来た先生に見つけ出された頃には日も暮れ遠足の時間はとうに過ぎていた。

両親にひどくしかられたのは当然だがあまり記憶にない。

後々私はこう考えるようになった。

私は水辺が苦手だが水辺も私を好いておらず遠ざける傾向にあるのでは.と。

私は水に嫌われている。

そう確信したのは小学校1年生の時。

私の体育の水泳の成績は芳しいものでは無かった。

まず水を怖がる以前に水に触れて親しむ気がさらさら無かった。

1学期の終わりに担任からもらう通信簿には

「もう少し水泳がんばろうね」というコメントと絵心のあるイラストが添えられていた。

プールの中で地蔵のような顔で突っ立つたままの私。

水に無理矢理入れば入れない事はないが.そこから1歩たりとも動こうとしなかった。

両親は事態を重くみたようだ。

夜中に枕元でひそひそでもなく話し合いする両親の声を聞いたような気がする。

私の両親は大変教育熱心な夫婦で.その頃は父もかなり多忙であったようだ。

お酒を呑んで帰る事は無かったが毎日帰りが遅く朝出て行くのも早かった。

両親を早くなくして親戚の家に預けられた。

父は忙しいにも関わらず私が夏休みに入ると休暇を取り出来たばかりの市民プールに私を連れて行ってくれた。

両親が出かける場所には何処にもついて行きたがる私であったが.その時ばかりは首を縦に降らなかった。

「焼きそばとか.かき氷売ってるぞ」

食べ物で釣ろうとしたが。

「マクドナルドかデニーズに行きたい」

こちらも当時市民プールの近くに出来たばかりだった。

実際そんなに行きたいわけでは無かったが…プールに行くよりそうぎなゆた.ましであった。

「なら帰りに寄るか」

「じゃあ全部行かない」

友達に聞いただけでマクドナルドもデニーズもどんな場所かよく分かっていなかった。

彼はファーストフードとかファミレスがとにかく嫌いで。

娘との押し問答に業を煮やした両親は私と水泳バッグをセダンの後部席に放り込むと市民プールに向かった。

今でも覚えている。

新しい水着のパンツをはいた父。

痩せすぎてはいないものの引き締まった腹のあたり見ていた母の横顔を。

自然公園でも体育館でも道路でも何でも造りたい当時のいけいけ市長の肝いりで昨年完成した市民プールはさすがに広くてまだ綺麗だった。

子供料金なんてあってないような値段。弁当にむすびでも握って渡せば1日中遊んで家にいないので近場に住む親は大助かりだった。

毎日通う強者もいて…学校のプールというのは何時から何時まで水泳部の練習とか何学年までしか使ってはいけないとか規制が多い。

自販機のジュースどころか帰りの買い食いも禁止されていた。

毎日市民プールに通いつめる強者もいた。

そんな市民や子供たちの憩いの場である我が市の市民プールであったが。

「すごい人ね」

照り返しの日差しを気にしながら畳んだマットを抱えた母か呟いた。

「さっき篠原ふみちゃんのお母さんにあったわ…あと宮代さんのご家族と国吉さんち」

市内の就学児童のいる家族連れが集結しているのではなかろうか。

プールの内も外も人間の頭しか見えない。

芋を洗う…なんて言葉を当時の私が知る由もなく実際に泥のついた芋を洗う光景も見た事がない。

ただ私はプールの更衣室という場所で母にそら豆みたいに着ている服を剥ぎ取られ下ろしたての新しい水着を着せられた。

白地に右胸にでかでかプリントされたバラかハイビスカスの水着。

どっちの花だったか覚えてないのはその日以来1度もその水着を着ていないせいもある。

当時の私の体型を考えるとマルメリコのポットのように見えたに違いない。腰のあたりにはピンクのヒラヒラしたパレオみたいなやつがついていて.まんま母の趣味だった。

1番てっぺんにこれ以上ないくらい不機嫌な私の顔が1つのっていた。

「さあ怖がらないでおいで」

父が私が立てるプールの1番浅いところから声をかけた。

「自分で入れる」

私はこれ以上ないくらい低いトーンで答えた。

プールサイドに腰を下ろし足を水に浸した。

両手で自分の体にばしゃばしゃ水をかけた。

水の中にいる父も日傘をさした母も満面の笑顔でいた。

冷たさ涼しさが足元から胸のあたりにまでかけ上がってくるのを感じた私は

「少し楽しいかも」

そう思い始めた矢先父の元に行こうとした私は水没した。

溺れたのでもなければ足が吊ったわけでもない。

足元に激痛が走り立っていられなくなったのだ。

水の中で呼吸も出来ず全身にものすごい激痛が走った。

水が体に触れている部分は髪の毛以外全ての皮膚が。
耐え難い痛みに苛まれた。私は水の中で泣きながら悲鳴を上げた。

水という存在が初めて明確な敵意を持って私に向かって来ているのが分かった。

水は私の周りに沢山あって突然それは火に変わった。

火の海の中で体を焼かれる痛み。

それは突然私の身に起きた災厄のようだが予兆はあった。

顔を洗ったり入浴したりすると薬品に触れたように肌がピリピリする事が最近よくある。

なんだか嫌なかんじがしていた。私は私の体の変化に伴う嫌なかんじを信じるべきだった。

母は私をこの日プールに連れて来た事を後々まで後悔していた。

しかしこれはいずれ起こる事であり幼かった私にも抗う術は無かった。

せっかくデパートで母が選んでくれた水着。

異変を感じた父は直ぐに私をプールから引き上げた。

少しだけ水を飲んでしまっていたが自力で吐き出した。

水着から出ている私の皮膚はどこも赤く晴れ上がり炎症を起こしていた。

さっきまで笑顔だった母の顔はひきつり日傘は投げ出された。

大勢の人が私の周りに集まり騒然となった。

痛みで泣き叫び寝かされたコンクリの地面を転がり回る私の泣き声が響いていた。

誰も私の体に触れる事は出来なかった。

やがて担架に乗せられた私は救急車で市内の病院に運ばれた。

搬送された病院の皮膚科の医師は私に背を向け内線の受話器を握りしめていた。

「ええ紫斑は…出てないです。血管からの出血はありません。赤い炎症と痒み。アレルギーのようですが…アルカロイドやヒスタミンの投与は経過を見ませんと。ヒエラルキーの症状は今のところ見られません。経過を…」
経過を見守る。という言葉の意味を当時の私が理解していたら絶望はさぞかし深かったに違いない。

私は診療台の上に水着のまま放置され痛みと痒みに耐え続けなければならなかった。

その間医師は何もしなかったわけではない。

父と母に紙を渡し.ここ1週間で私が口にしたものを全て書かせた。

その間に自分の母校の大学病院の恩師に電話をかけ意見を聞いた。

私がプールに入ってから2時間が経過する頃炎症は嘘のように消えた。

私は病院で尿検査と採血をしてから家に帰される事になった。

検査の結果は大学病院に送られる。

「今日の入浴と肉類や魚介類卵や小麦粉はとりあえず控えて下さい」

帰り際に医師が両親に伝えた。

朝になると昨日の事はすっかり忘れていた。

洗面所で顔を洗って朝食の席についた。

顔と手に針で突かれるような痛みが。

痛くて涙を流して濡れた皮膚にも炎症は起きた。

眠って涎が皮膚についても。母と一緒に寝ていて肌が触れて汗をかいても。

水が体に触れただけなのに。

病院に行かねばならなかった。

東京の大学病院に検査のため入院した。

私は水アレルギーと診断された。

世界でも30人しか症例がない珍しいアレルギーだった。

私は後天性の水アレルギーと診断されたが現在に至るまで明確な発症原因も治療法も見つかってはいない。

夏でも冬でも家のエアコンは一定の汗をかかない温度に保たれていた。

シャワーを浴びると必ず激痛が襲う。それでも母は私の体をシャワーで洗った。

横にいて注意深くシャワーの温度を記録した。

水でも熱いお湯でも症状は現れた。しかし17℃では他の時より炎症は軽くて済む事を発見した。

アメリカの病院から水を弾く特殊なクリームを取り寄せ.それを私の手足に塗り込んだ。

市内の病院では定期的に抗ヒスタミン剤を投与され経過が見守れた。

calnitinという薬が私のアレルギーに適合し効果が出始めたとは1年後の事だった。

幼い頃に打ったペニシリンが私の体に会わずアレルギーの原因ではないかと医師は結論づけた。

症状が現れなくなった今でも詳しい原因は分からないらしい。

例えば映画やテレビを見て涙ぐんだり。

毎日シャワーを浴びたり誰かと手を繋いで太陽の下を歩ける事はなんて幸せな事なのだろうと失って初めて分かる。

痛みは去り月日は流れ薄れても.それを失った日々の記憶は残る。

私にとって.それはけして黒い歴史と呼べるものではない。

父や母は私のために出来る事を探し全て実行し励ましてくれた。

私に出来る事は痛くても辛くても泣かない事だけだった。

苦い薬も我慢した。

しかし後天的ではあるが例えば人が闇や死を怖れるのと同様に私が冷たい水が潤沢にあるプールのような水場を怖れる気持ちは根源的な恐怖として心の中に残ったままだ。




森に棲む魔女のナルシアは境界線を越えて海の水に触れた時体が溶けて泡になってしまうの。

それでもナルシアは愛するピエトロ王子のために…泣けるわ。

私のあだ名はナル。

水に触れると死んでしまう魔女にちなんでそう呼ばれたなら.さぞかし素敵。

でも現実は違っていて私の名前が成宮博子だから。

今夏休みだけど家でゲーム。因みに夏休みの宿題は10日くらいで片付けた。

得意な科目は算数と理科。

友達にプールに誘われても行かない。

ていうか既に誰も誘わない。

水アレルギーを隠れ蓑に水場には近づかないようにしている。

お気に入りのゲームを何周もする。

算数の教科書を何往復もする。最近眼鏡をかけるようになった。

私は将来どんな人になるのだろう。

中学時代の私も相変わらずこんな感じで。

けして水に入らないので

「1年中生理女」とか「理数の理科ちゃん」とか呼ばれるようになるのだが今はまだ知る由もない。

鏡を覗き込んで思う。

「私が水に落ちて死にかけたらピエトロみたいな王子が助けてくれたらいいな」

でも無理だ。

私は一重だし。

ナルシアみたいに可愛くない。

お母さんも一重だ。

一重だけど私にシャワーを浴びさせて体を洗ってくれた時のきりっとした真剣な眼差し。

鏡を覗く度に思い出す。

お母さんと同じ一重でよかった。

鏡に映った私は小6になっていた。


やがて中学に通う。


孵化をして目も無いうちから餌を探す虫の子のわらわらみたいに。

せめぎ犇めき合いながらけして他人と違う他人の個性は許さないくせに。

自分だけの新しいカントやぺニスや神や宗教や音楽や…自分だけの別の新しい…を無意識に皆求めていた。
そんな中で暮らしていた。

そんな暮らしもじきに終わる3年生の1学期。

私には気になる男子が1人だけいた。


窓際の席から遠くに見える製紙工場群を見るのが好きだ。

玩具みたいなデッキがついた巨大な煙突は夜になると赤いランプを明滅させる。

工場の建物から管楽器のように無秩序に競りだしたパイプ。

鉄で出来た工場の臓器のように見える。

いくつもの円筒から吐き出される煙はいつも空を灰色に雲らせるけど。

年末年始に工場が操業を停止した時だけ空は済んで町の輪郭ははっきりとして遠くに海と空の境界線が現れる。

窓際にいる国吉有知はいつも頬杖をついて窓の外を眺めていた。

私にとって彼はいつまでも忘れ難い故郷の風景の1部だ。

もっとも彼がいつも見ている窓の景色は私が見ているものとは違っていた。

彼がいつも眺めていたのは学校のプールだ。

それが私を不安にさせたり時々切ない気持ちにさせた。

隣の席になれて嬉しいかった。

だけど彼はプールばかり眺めていた。

「国吉水バカ」

皆が言う。

彼の机には誰かが落書きした←Waterの文字が。彼は気にも留めていないようだ。

放課後は図書室で水に関する本を借りたり読んだりしている。

授業中は窓の外のプールばかり眺めている。

「国吉。学校のプールに可愛い子でもいたか」

と教師に注意され。

「この問題解いてみろ」

彼はちゃんと問題を聞いていて正解を言う。

そのうちどの教科の担任もあきらめた。

頭は悪くない。

しかし変人。

小さい頃近所のお姉さんの家で読んだ陸奥A子の少女マンガに出てくる男の子に似ている。

他の男子みたいにバカでがさつで放送禁止用語をわめいたりしない。

見た目も含め私好みの男だ。

しかし彼と私の間には巨大な水の壁の隔たりがある気がしてならない。

数字の先生が時々挑発して私に出してくる数字の問題より難しい。

只でさえ私は人とのコミュニケーションが不得手だというのに。

何故彼はそんなに水に興味を持つのか。

「えい」

心の中で恋する乙女の声でやつの足元に消しゴムを投げる。

普段死んでも出さないような声だ。

彼が落ちた消しゴムを拾って私の机のはしに置く。

「ありがと」

と私は素っ気なく答える。

シャープペンや分度器やコンパス…思いついた時に放ってみるが結果はいつも同じ。

私は嫌われているのだろうか。

いや現在進行形で嫌われる行為に及んでいるのか。

既に取り返しのつかないくらい嫌われたかも。

携帯はまだそんなに普及していない時代だった。

紙に手紙を書いて渡してみよう。

「なぜ水?」

ダメだ。全然ダメだ!!

私はボキャブラリーが貧困過ぎて。

こんな私はいったいいつの時代の女だ。

そうこうしているうちに大事な3年の中間と期末も終わり終業式が近づいて来た。

私と国吉の間には相変わらず何の進展もなかった。

国吉有知。確か小学校は同じだったはず。

同じクラスになった事は1度もない。

中学で同じクラスの隣同士になるまで顔も覚えてなかった男子だ。

彼と話がしてみたい。

子供の時の彼に会ってみたいと思う。

話してすごくバカだったり嫌なやつだったらいいのにと時々思う。

そしたらすぐ嫌いになるのに.と思う。

とても愚かな女だと思うかも知れないが。

落としたペンを拾って机のはしに置く時彼の口元は微かにだけど微笑んでくれたような気がした。だから嫌いになんてなれない。

本当に愚かな女。

1学期の終業式の1週間前になると私の通っていた中学では1つの行事が開催される。

「記録会」早い話しが学年毎のスポーツテストだ。

通常のスポーツテストと違うのは生徒各自の記録が得点となりクラス対抗戦になっている事だ。

夏と秋に行われクラス対抗という事もあり毎回大変盛り上がる。

夏は水泳。秋は陸上と球技。

その当日。私はいつも機会があれば他県や他校の人たちに聞いてみたい。

やっぱり3年の時ってこんなんでしたか?

プールに集結した生徒のうち水着を来ているのは男子だけ。

あと3年の女子全員体操着にジャージで見学。

3年の女子その日全員が生理で見学。

思春期だし…男子に水着姿なんて見られたくないし。そんな乙女心。

私は思う。誰発信で伝達が3年女子ほぼ全員に為されたのかと。

私のとこにはそんな通達は来なかった。

いつも水泳出ないからだと思うが。

にしても異様な光景。

私たちの時代はぎりぎり女子はブルマの時代だ。

1年生の時体育が終わると皆平気でブルマ姿のまま廊下を歩いて教室に戻ったりしていた。

冬が来て寒いからジャージをはいて過ごした。季節が温かくなっても人前でブルマ姿はもう恥ずかしくてなれなかった。

変わらないようで皆少しづつ変わって行くものだ。

そんな事をペンキの剥げ錆びたプールの金網によりかかりながら考えていた。

男子に混じって僅か数名だが水着姿の女子もいる。

水泳部の子たちだ。

彼女たちにとっては日頃の練習の成果を見せる記録会は花舞台のはず。

でも周りが男子ばかりじゃ競技にならないよ。

可哀想になあ。と思っていたら誰かの怒鳴り声がする。

一二三だ。一二三と書いてヒフミと読む。

うちのクラスの女子で女子水泳部の部長。クラスの副委員長もなさっている。

「ちょっとフザケナイでくれる。あんたもあんたも生理じゃないじゃん」

「ちょっとヒフミ声大きい」

「今からでも間に合うから水着着替えてきなよ」

「休むつもりで持って来てないよ」

「私風邪だから」

「お前ら全員ふざけんな!!」

遠くで揉めてる…というか一方的に糾弾されてる。


女子の声が。

「あんたも?」
「あんたもなの?」

だんだんこっちに近づいて来る。

小西一二三は面倒見が良くてサバサハした性格で男子にも女子にも人気がある。

小学校から有名な水泳の選手で中学の県大会でも凄い記録を出した。

皆より早く私立大の付属高から推薦の話が来た。

学校の近くにある日蓮宗のお寺の娘。

ユイシンは住職をしている父の名前。

時々男子に「おいユイシン」なんて呼ばれからかわれるが屈しない。

日焼けした見事な逆三角形。

曲がった事が大嫌いな逆三角形。

私少し苦手かも。

「成宮さん」

「来た」

おそるおそる顔をあげる。

「嘘つき」

いきなり冷水をかけられた気分になる。

「アレルギーなんて嘘でしょ」

「嘘なんてついてない」

私は立ち上がって小西の前に進み出た。

普段あまり自己主張するタイプではない私だが言うべき事は言わないと。

「お風呂とかシャワーどうしてんの?水アレルギーで」

お風呂とかシャワーは今は普通に入っている。

でもシャワーのコックを捻る時またあの針のような痛みが降り注ぐ気がして少し緊張する。

水場の近くに行き過ぎると心臓の鼓動が早くなり息苦しい。足元が震えて全身に冷や汗をかいたようになる。

いつか克服しなきゃと思うけど。

「お風呂は平気になったけど今でも冷たい水は怖いの…昔酷い目にあったから」

「ほらみな。アレルギーなんて精神的なものがほとんど原因だって顧問の山本先生が言ってたよ」


「精神的なもの」

「そう精神的なものね。水を怖がる気持ちがアレルギーを引き起こすの。勇気を出して一歩踏み出すべき。なんなら私が」

「黙れ」

「今なんて」

「黙れって言ったんだ。この水泳バカ」

「ちょっとナル」

さすがにマズイ雰囲気と察したのか周りにいた女子が止めに入る。

「あんたやあんたの顧問に私の何が分かるって。何が…くそが」

私は金網を蹴っ飛ばした。

冷静に自分の事を説明して相手を納得させないと。

しかし私の口から出た言葉は酷いものだった。

「なにさ。水泳でしか高校行けないバカのくせに」

「よしなよ」

「水泳だけ一生懸命やってれば何でも解決すると思ってんの?そんな狭い了見だから人の気持ちなんて分かんないんだよ」

「私はバカじゃない」

「バカだよ。バーカバーカ!!脳まで水に浸かり過ぎてふやけまくってんだよ」

「バカじゃないぞ…推薦のテストや作文だってちゃんとやったし。難しかったよ数学の分子の計算とか」

「分子の計算て…それはパラダイムの入口よ」

大学の付属ってそんな高度な問題が出たりするのか。

「ひっくり返して×分子と…ええと」

「分母!小西さんそれは数学じゃなくて算数!!」

「あとブラインド方程式」

「虫食い算でしょ。何で難しくいうの」

「方程式だ」

譲らない。

「だって計算するやつが上と下に連立で」

「ひっ算だ!!」

「自分なりに手応えはあったが自身はない」

「小西さん」

「なんだ」

「そんなの出来たからって人間とは言えないんだよ」

「成宮の言うとおりだ。人間勉強だけが取り柄じゃない。勉強が出来る成宮の言葉は説得力がある…ありがとう」

そう解釈する!?

小西は前向きだ。羨ましい。

皮肉じゃなくてそう思う。

小西は子供の時から自分が得意で打ち込めるものを見つけて.それを信じて努力して道を開いたんだ。

小西の言う事は正しい。

その正しいは私や他の誰かに当てはまるとは限らないけど。

私もいつか見つけたいと思う。

「ちょっとガリ勉。小西に何からんでんだよ」

「さっきから聞いてたらお前小西バカにしてんだろ」

他のクラスの水泳部の女子が2人小西を押し退けて私に詰め寄る。

「いや.あの…ガリ勉って」

さっきまでバカにしてたけど発想のコペルニクス転回で今はバカにしてないよ。

小西を挟んで3人並ぶと卑弥呼様と等身大土偶みたい。

何故同じ髪型。なぜ同じ眉毛…麗子像にも似てる。

「お前なに笑ってんだよ」

麗子1が私の肩を押した。

よろけてプールに落ちそうになるが韓国ドラマじゃないんで簡単には落ちない。

「成宮はそんなやつじゃないよ」

小西が助け船を出してくれた。

私はそんなやつだ。

ごめん小西。私底意地の悪い女だ。

「ならいいけど。なんかあったら言いなよ」

女子2人は私と小西を残して自分のクラスの場所に戻って行った。

「小西私プール入るわ」

「そうか。じゃあ水着に着替えて準備運動」

「水着持ってない」

「そうか残念だな。今度私と一緒に」

「今入る」

私は運動着とジャージ姿のままプールに飛び込んだ。

大丈夫だ。もう完治したってお医者さんも言ってたし。

今飛び込まないとこれから先はずっとない。

そんな気がしていた。

「成宮無茶するな」

絶対大丈夫なんだから。

水なんて怖くない。

何故あそこで私はあんな事をしたのか今だによく分からない。

ただ1つ言える事は私は私の足をすくませるもの出来れば迂回して通りたいと思うものに向かって1歩踏み出したいと思っていた。

心の奥底でずっと燻っていたものがその日弾けたのだ。

そんな事にチャレンジする人はいないと思うが。

数えていたら気が狂いそうな気泡諸ともに私は水中に落下した。

あの時以来。

あの時は酷い事になったが。

今度は違う。

目を開けて水の天井を見る。

両手を広げて上へ上へと水を掻き出す。

あの水の天井を突き抜けて空気の層に顔を出せば。

私と私を取り巻く世界は今までと違っているはず。

水面から顔を出すと両手で顔の水を拭う。

「あれ」

手の甲に何か出来ている。

やだ。

イボガエルの背中みたいにボコボコだ。

「成宮…顔」

顔もなんだかボコボコして熱い。

体中蚊に刺されたみたいに皮膚が盛り上がっていた。

差し伸べてくれた小西の手を断って私は自力でプールから上がった。

「成宮ごめん。私のせいだ。私が余計な事言わなきゃ」

「違う。これ違う」

そう言ってあげたいと思った。

けど水から上がった私の顔はさっきよりいっそう酷い事になっていて座り込んだまま顔をあげられないでいた。

突然頭の上にふわりとタオルがかけられた。

顔を上げると目の前に水着姿の国吉がいた。

私はタオルで顔を隠した。

まだ使われていない真新しいタオルは柔軟剤の良い香りがした。

「成宮立てるか」

国吉が私の腕を掴む。

私は俯いたまま頷いて自分で立ち上がる。

「保健室行くぞ」

私の手を引いてその場を立ち去ろうとする前に小西の方を見て

「お前が落としたのか」
と聞いた。

私は慌てて国吉の前で「違うよ」と右手を振った。

「そうか。小西ごめん」

国吉はぶっきらぼうに言った。

私は国吉の顔を見ていない。

でも小西に

「これ違うから。痛くないしすぐ治るやつだから」

小西は見てるのが気の毒なくらい萎縮して目に涙をためていた。

国吉の顔はまた横を向いて表情はわからない。

私は国吉が握っている手を強く握り返した。

「自分で水に入ったの」

「そうか」

国吉は私の手を引いて大股でプールサイドを歩いて行く。

周囲の好奇な視線や囃し立てる声など一切気にも止めず。

2人で歩く2人分の振動が胸に響いて心地よかった。


「どうした大丈夫か」

水泳部の顧問の山本が目の前に走って来た。

「プールに落ちただけです。すぐ戻ります」

国吉が言った。

「私の精神の未熟さ故に」

私はタオルに手をかけ山本に顔を見せた。

「失礼します」

私は本当に根っから底意地の悪い女だと思う。

だってこれは…。

「知ってると思うけどこれは私の昔からの持病じゃなくて」

「寒冷蕁麻疹だ」

体温よりも低い物質や水や風に触れると発症する蕁麻疹だ。

誰でも1度や2度なった事はあるかもしれない。

私はヒスタミンの分泌が人より過剰なせいもあり結構なり易い体質なのだ。

もっとも以前私が患ったアレルギーに比べれば全然大したことない。

プールのコンクリートの階段を降りて体育館前の簀のところで室内靴に履き替える。

校舎屋内の5段だけの階段を登って左に曲がれば保健室。

その隣が職員室で反対側が教職員用のトイレだ。

「小西に悪い事をした」

「あいつ長年水泳やってて寒冷蕁麻疹とかならないんだな」

「きっと水に好かれてるんだよ」

「ちょっといい?」

と国吉にことわり私は教職員用のトイレの扉を開けた。

体半身だけ中に入れて洗面台の鏡を覗いた。

「うわあ。ひっで-。国吉-トイレの鏡にお岩さんがいるよ」

「知ってる」

「これじゃあ彼氏どころか嫁にも行けんわ」

「そんな事はない」

「じゃあ国吉彼氏になってくれるか?」

口を閉ざしたままの横顔は好きだけどもう見飽きた。

「なにか云ってくれ国吉」

私だって男の子にこんな事を言うのは初めてだ。

「保健室」

「ほほう。お前は海パン1丁で女子に告白めいた事を言われたら

「じゃあさっそく」と保健室を指さす男か」

「じゃあさっそく保健室なんて言ってない。それに俺はそんな事」

「国吉」

「なんだ」

「そんな姿で私と保健室で2人きりになって危ないのはむしろ.お前の方だ」

私は国吉の海パンの裾を引っ張ってみた。

「くれだましか」

「くれだましって」

「なにを大切そうにこの海パンの中に上等なものを」
「ばか」

国吉が背中を向けて走り出した。

しまった! こんな顔でもいいなんて君が言うから素を出し過ぎた。

「まてまて。国吉待って」

私は国吉を追って廊下を駆け出した。

背中で職員室の扉が開いて。

「廊下を走るんじゃない」
という教師の声がした。

パンデミック。

私のショボくれていた全細胞が喜び一斉に万歳している。

伝われ。伝われ。国吉あんたにも感染しろ。

なんつ-か。これが青春…でいいのか。

替えの下着もってない。
どうしよう。

顔の蕁麻疹は教室に戻る頃には引き始めていた。

放課後制服のスカートの前を抑えこそこそ帰る。

昇降口の下駄箱の前に国吉が立っていた。

私と目が合うと右手を上げた。

私はそそくさと彼の前を通り過ぎた。

国吉は何か言いかけて突如何かを察したように俯いた。

「今日はありがと」

すれ違う時私は国吉に言った。

国吉は黙っていた。

微かな声で背中越しに。

「風邪ひくなよ」

声が聞こえた。


生まれて初めての恋だったの。

それから何か日常に劇的な変化が私の身の回りで起きたかと言えば。

私は今日も国吉の席に向かって消しゴムや鉛筆を投げている。

いつも通り国吉はそれを拾って私の机の上に置く。

こんなダイスの同じ目が十回連続して出るような偶然など、あるはずがない。

つまりこれは。

また投げる。

拾う。

ペンを机の上に置いて国吉が微笑む。

何度コイントスをしても必ず表しか出ないなら。

私は国吉に言った。

「ラプラスの悪魔の仕業なの」

「ラプラスの悪魔」

「塾の数学の先生が統計と確率の問題を出した時にしてくれたの。ラプラスの悪魔とシュレディンガ-の猫の話。その実験」

「猫?悪魔? 成宮はおっちょこちょいだと思っていたよ」

国吉が笑っているので私もつられて笑ってしまう。

「国吉この問題解いてみろ」

突然指名されて国吉は立ち上がる。

「すみません聞いてませんでした」

クラス内が少しざわめく。

「ちゃんと授業聞いてるように…成宮」

「はい」

指名されて私も立ち上がる。

「文房具を床に落とし過ぎているようだが。7回は多すぎだ」

「すみません」

「2人とも仲良く手を繋いで後ろに立ってなさい」

もう国吉に物を投げるのは金輪際止めにしようと思った。

放課後昇降口に行くと国吉が立っていた。

「ここに来ると国吉君によく会うわ」

「必然だ」

「もう誰かに聞いたの」

「数学の坂下先生に」

「3年のせむしの松永じゃなくて2年の数学担当の巨乳をわざわざ選んだのね」

「さっき帰る時廊下にいたから」

「さようなら」

「一緒に帰ろう」

「巨乳を選んだからダメ」
私は父が大好きでよく口ずさんでいる木枯らし紋次郎の主題歌をハミングしながら通り過ぎる。

あっしには関わりねえ。

国吉の足音が近づいて来るのを聞きながら。

卒業式だけ親と帰ったので国吉と帰れなかったのが残念でならない。

夏休みの5日前。私はクボジこと担任の窪田先生に職員室に呼び出された。

「成宮は東の単願が第1志望だったな」

「はい東校です」

「三者面談の時も言ったがもう1ランク上を狙う気はないかと聞いたよな」

「東は家から近いですし」
それに国吉が単願希望出してる高校だし。

「お前に相談なんだが」

「余った内申点を誰かに足りないやつに譲れと」

「お前なんて事を」

クボジは慌てて右手を振った。

よくある話かと思ったまでだ。

「この間の全国テストな」

「ああそんなのありましたね」

「結果が出たんだが。お前数学が4位で理科が6位だ。…なんだ驚かないな」

「100満点中120点の子がいたとか?」
ほぼ出来たと思ったんだが。

「上の方は1点違えば順位も変わるさ。

なるほど。全国恐るべし。

私は間違った解答がどこであったか知りたくてたまらない。

「その結果を踏まえた上でたが成宮」

「はい」

嫌な予感がする。

「もう2ランク上の湘校の理数科を狙ってみないか?

まあ.こっからから電車4つの距離になるが」

「嫌です」

「はあ!?お前ばかじゃないの!?理由を言ってみなさい」

うちの中学からは2年か3年に1回1人進学者が出るか出ないかぐらいの学校だぞ…とクボジは捲し立てた。

「横綱に推挙しますと相撲協会から打診されて断る力士がどこにいる」

私は力士ではないし横綱ばかり集まる土俵で毎日ぶつかり稽古の日々なんて私には耐えられない。

「それに水の名前つく場所は鬼門なんで」

「あと名前が水に由来する土地は地盤が弱いと聞きます。もし万が一震災など起きた場合」

「もういい。帰ってご両親とよく相談なさい。夏休み明けには返事を聞かせてくれ」

ダ-リンにも相談しないと。

「どうしよう国吉君」

「うちの近所の2つ上のミツル先輩な」

「うんうん」

「湘校の理数受かったんだけど授業についていけなかくてノイローゼになって学校辞めて今だにひきこもり」

「やだそんなとこ1人で行きたくない」

「成宮ならついて行けるさ」

「1人はいや」

「え?俺も?無理だよ学力足りてないし」

「夏休み毎日寝ないで勉強すれば何とかなる」

国吉はぽかんとした顔で私を見た。

「ていうか一緒に勉強とかしたいな」

私は仲良くなると途端にあつかましくなるタイプらしい。

「六花亭のレ-ズンバターサンドとか好きだ。それでなくても勉強に甘いものは必須だと思う」

「何時なら」

「電話して」

「成宮と国吉立ちなさい」

まただ。

「お前ら仲良しだな。この間みたいに手を繋いで。
そして笑顔で。クラスのみんなに手を振って。そうだ。良い笑顔だ。そのまま1組から六組まで回って来い」

今なら訴訟ものだが。

まもなく中学最後の夏休みが始まろうとしていた。




夏休みになった。

いつもと変わらない夏休み。

間近に入試を控えた受験生の夏という以外は。

宿題は例年通り10日前後で終わらせ後は…。

ゲーム 勉強 睡眠。

ゲーム 勉強 睡眠 食事。

おい国吉。

国吉から一向に音沙汰がない。

どうした事かといらいらし始めた頃国吉からようやく電話があった。

「おい。成宮いつ勉強すんだよ」

半ギレした様子だ。

「ずっと連絡待ってるんだけど」

電話の向こうからも苛立ちが伝わってくる。

何言っちゃってくれてんだろうかこの男。

そっちから連絡して来るのがスジだろうが。

しかし返事をした私の声はあり得ないくらい高くて可愛いらしい声だった。


「ごめん。すぐ行く」

「迎えに行くよ」

少し落ち着きを取り戻した声が受話器の向こうから聞こえた。

何故か胸が熱くなった。

準備しなきゃ。

服!服なんて持ってない。

準備…準備って何処まで準備したら。きゃあ。

新品の服と言えば最近通販で買ったアイアン メイデンのエディのTシャツが…ダメだ!

エディは好きだしメイデンはリスペクトしてるが.こんなの着て行ったらどんびき必死だ。

私の当時の神曲Trooperが頭の中で鳴り響いく。

自転車のべダルをこぐ足に力が入る。

私こんなに速く自転車こげたっけ。

やっぱメイデンと言えばTrooperよね。

Trooperって前?後ろ?

どっちでも前進あるのみだ。

駅前商店街の入り口に国吉は立っていた。

私は国吉の前で急ブレーキをかけた。

「見慣れない光景。やっぱ夏休みだな」

「自転車なんて普段乗らないもの。ママのチャリよ」

体力ねーと思いつつ私は国吉の前で無様に両手を膝にのせたまま肩で息をした。

「乗せて」

「なに」

「私を自転車の尻に乗せて家まで」

「成宮」

「なによう」

「矢吹丈みたいだ」

「何それ」

国吉は商店街から覗く夏の空を見て言った。

「夏休みは始まったばかりだぜ。生き急ぐなよ」

これから彼氏になろうかって男に「生き急ぐな」と言われた私は戸惑うばかりだ。

こんなに夏休みな大空と入道雲の下だから自転車に乗せてくれと言ったんだ。

私は自転車の荷台に横座りして心の中で呟いた。

「生き急いで何が悪い」

私はもう自転車をこいで大汗をかいても平気だし。

誰かと手を繋いでも.隣で寄り添って眠る事だって出来るのだから。

商店街から10分ほど自転車を走らせると国吉の家に着いた。

お祖父さんの代からすんでいるという庭木に囲まれた和風建築の2階建だ。

玄関を明けると国吉のお母さんが出迎えてくれた。

「いつもがお世話になってます。成宮さんのお嬢さんね。お母さんとはスーパでよく会うの」

「いつも母がお世話になってます」

私は頭を下げた。面長ですらりとした体型が国吉に似ている」

「成宮さんすごく勉強出来るんですってね。いつもこの子から聞いてるの」

「母さん」

「受験勉強の約束したのに連絡が無いって1日中電話の前をうろうろ」

「母さん」

「私も国吉君から電話があると思って連絡無いからおかしいなと」

「そうなの」

「国吉君のお母さん」

「何かしら」

「私先日とても困った事があって国吉君に助けてもらったんです」

「そうなの」

「国吉君は勉強出来ますから私なんか別に一緒にやらなくても平気だと思ったんですが。何か私で役立てればと」

「まあ」

「成宮俺の部屋2階」

「お邪魔します」

「どうぞどうぞ」

スリッパを勧められて2階の階段を上がろうとすると国吉のお母さんに

「成宮さんはどちらの高校に行かれるの?」
と聞かれたので

「先生には湘校を勧められたんですが」

「湘高ですって」

「でも自信が無いって国吉君に相談したら自分も出来れば湘高行きたいと」

「うちの子が湘高」

「夏休み頑張れば何とかなるかもって」

「うちの子が湘高生」

「成宮!」

「成宮さん」

「はい」

「うちの息子をよろしくお願いします」

「こちらこそ。お世話になります」

「今度学校でのこの子の話ゆっくり聞かせてね」

2階の階段を登り国吉の部屋の前に来ると

「おふくろ…お前の事相当気にいったみたいだな」

私は何1つ嘘もお世辞も言ってない。

国吉にも国吉のお母さんにも私は正直者でいたい。

「国吉」

「なんだ」

「本当に感謝してる」

「なにかの時のギャップがすごいな」

「だめかな」

「たまらないと思ってる」

「部屋に入って急になんかしたら大声を出す」

英国ロックが好きな私はシンガロングには自信があった。

「急にじゃなきゃいいのか」

国吉は部屋のドアを開けて私を招いてくれた。

「だからそこで沈黙するなって」

「へえ。綺麗にしてるじゃ…」

と言いかけた私は勉強机の横にある水槽に釘付けになった。

魚や水棲生物の類いは一切入っていない。

2つに仕切られた水槽には水とそれぞれに電極らしきものが突っ込んであった。

「なにこれ」

「マイナス イオン水生成機」

自慢のコンポを見せる時みたいな口ぶりだ。

「お前水まで作るのか」

おもしろ過ぎるな国吉。

「アルカリ性電解水のpHの基準値は9.5±0.3で。それ以外の電解水を生成する機器は電解水生成器に該当しない。つまりアルカリ・イオン水の基準を満たしていないと言う事になるんだ」

今のは翻訳すると

「僕の水の国にようこそ」…でいいのか。

「国吉。前から聞いてみたかったんだけど」

「なんだ」

「お前はどうしてそんなに水バカなんだ」

「直球だな」

「性分なんだ」

部屋の本棚には水学に関する本や専門書がずらりと並べられていた。

「小学校5年…いや6年の時かな。友達とプールに行ったんだ」

「うんうん」

「プールの水に手が触れた瞬間突然神の啓示を受けた」

「国吉私ちょっと急用を思い出した」

「え!?今来たばかりなのに!?今おふくろがパンケーキ焼いてるし。お前が来るからいつもの森永じゃなくてホテル オークラのやつを」

普段見せない慌てぶりに胸がきゅんとなるが。

「台所でお母さんとお話して帰るよ。国吉」

「なんだよ」

「お前が好きだ。初めて同じクラスで同じ席になった時から…それより前から好きでなかった事を悔やむくらいにな」

「あ」

「下を向かないでくれ。時間がおしい」

「成宮」

「だがしかし。私はカルトにはついていけない。互いに互いの頭に神水と称するものを頭に掛け合い恍惚に浸る儀式など。お前がしたい行為はそれだろう。違うか国吉」

「違う」

学術的な興味と国吉は真っ向から否定した。

私は椅子に座り直した。

「それを聞いて安心した。私はてっきり今からお前に「成宮頼む今から俺の顔にお前の黄金水を」」

国吉が私の声を遮るように顔を抑えて.きゃーという悲鳴を上げた。

当時から私は耳だけは熟女だった。

「なんだ女みたいな声を出すやつだな」

「どうかしたの!?大丈夫!?」

国吉のお母さんがお盆にパンケーキの載った皿と紅茶の入ったカップをのせて入って来た。

「博子ちゃん。うちの子になんかされた」

「母さん…なんでもないよ」

「私平気です」

「成宮なんで胸とかおさえてるんだ…やめろよ」

国吉が私に耳うちした。

「本当に私平気ですから。窓開けたら蝉が部屋に飛び込んで来て。でももう大丈夫。国吉君が外に出してくれました。やっぱり男の子は頼りになります」

「そう。水の事しか興味ないと思ったけど一応男だからと思ったけど…成宮さんこんな息子だけど私には可愛いの。仲良くしてあげてね」

「はい勿論です」

部屋を出て行く時お母さんは国吉に向かって言った。

「だから昔からお母さん言ってりでしょ。ひた向きな思いはいつか必ず芽を…」

「うるさい。さっさと出てけ」

「女の子が部屋に来た途端邪魔者扱い。母親って切ないわ」

パタパタと遠ざかるスリッパの音を聞きながら

「私もいつか母親になったら成長した息子とこんなやり取りをするのかな」

なんて。

今日は国吉から電話があって自転車に2人乗りして今は部屋に2人でいる。

国吉のお母さんもいい人だ。

でも思い出して噛みしめるのは夜布団に入って眠る前にしようと思う。

こんなに幸せでおなかいっぱいな日は今までなかった。

ありがとう国吉。

「パンケーキ美味いぞ。食べないのか」

私は机の上に置かれたパンケーキをじっと見る。

食べさせてくれないかな。

いや人生にそこまで期待するのはいくらなんでも.がっつき過ぎだ。

慌てるコジキは貰いが少ないと言うではないか。

私はブルーベリーのソ-スと生クリームのホイップが添えられたパンケーキに手を伸ばした。

「美味しい」

自然と顔が笑顔になる。

「メープル」

国吉がフォークに刺した自分の皿の分を私の口に放り込んだ。

「こっちのが美味いだろ」

微笑みながら私の顔を見て国吉が言った。

私はよく味わいパンケーキ呑み込むと頷いた。

5分後に私は私の.いや私たち2人の人生が大きく変わって行く事態に直面するとは思いもしなかった。

「ところで国吉さっきの子供の時の話の続き聞かせてくれ」

その日国吉は当時仲の良かったクラスの友達3人と市民プ-ルに来ていた。

国吉も家にいると弁当を渡され市民プ-ルに放り込まれる小学生の1人であったのだ。

プ-ルの水に浸かりながらポンタこと本多君が

「俺たち2日おきにプ-ル来てるよな。水曜日来たばかりだぜ」

ちなみにその日は金曜日だった。

「水曜日は来てないぞ」

フルこと古郡君は水にプカプカ海月みたいに浮かびながら言った。

「水曜日来たべさ」

「水曜日ここ休み。火曜日の間違いだろ」

「そうだったっけ」

そんな2人のやり取りを聞きながら国吉少年は

「夏休み入ったから水曜日は休みじゃなくて。水曜日にポンタは来なくて神尾とフルと3人で来たんだっけ」

記憶ってけっこういいかげんだ。すぐ忘れたり間違える。

書き取りの宿題やらなくていい日にやってしまったり。

水はどうだろう?

水ってこの間来た僕たちの事を覚えている…わけないか。

生き物でもないし。

水の中の魚や蟹は死んで腐って水に溶けたら消えてなくなってしまうのかな。

どうなんだろう?

「そんな事考えたの?」

「まあ子供ながらの素朴な疑問だね」

「で答えは出たの」

私は記憶に残っていない少年時代の国吉を思い絵描きながら問いかけた。

「それがさっぱり。どの本見ても出てないんだ」

国吉はさらに続けた。

「例えば成宮は今まで聞いたり人に話したなぞなぞの答えって殆んど記憶してる?」

「してないわ」

「それは多分その場で答えを知ってしまうからだと思うんだ。逆に答えが出ないといつまでも忘れない」

「なるほどね。それでいつもプールを見てたの」

「中2まではね」

「中2まで?」

「3年になったら隣からやたら消しゴムやペンが飛んで来て」

「邪魔してたのね」

「違うよ」

国吉は首を降って答えた。

「プールなんかよりも子供の頃に頭に舞い降りた疑問なんかそっちのけで僕は隣の女の子と話しがしたかったけど」

恥ずかしかったんだ。

と国吉は私に告げた。

「僕は学校で変人だし。それに授業中だし」

国吉の机に書かれていた。

←Waterの落書き。

それまでの私にはこの上ない不吉な文字。

しかし私は今そっちに進もうとしていた。

後悔など微塵もない。

それは私にとってもはや不吉でも怖れるものでもなくなっていた。

「国吉よく聞いて」

「なんだ成宮真剣な顔で」

「小さいころ貴方が抱いた疑問は「水に記憶が残るか」っていう事だと思うの」

「まあ。そうだな」

「そしてその疑問を知りたくて今まで沢山の本を読んだりしたのよね」

「そうだね…かなり沢山読んだな」

「でも答えはどの本にも書いてなかった。…という事は.貴方のインスピレーションはまったく貴方のオリジナルで未だに問題提起も解決もされてないって事よ。その意味あんたに分かる?」

「いや」

「国吉あんた天才かもしれないよ」

「そんなバカな」

「あの頃より少し大人になった頭で考えてみよう。どうやったらそれを証明出来るか。幸い頭は今2つあるわ」

勉強そっちのけで2人で考えた。しかし答えは出なかった。

「テレビでも」

国吉が部屋のポータブルテレビのスイッチを入れた。

考えるのに飽きた私たちはテレビの画面をぼんやり見ていた。

夕方の時間帯民放は大概水戸黄門か刑事ドラマの再放送を流していた。

「害者はこの場所で殺害された事は間違いありません現場に残された血液が害者のものと一致しました」

「犯行当日はかなりの大雨だったはずだが」

「鑑識によりますとアスファルトに残された血液は2000倍の水で洗い流してもルミノ-ル反応は検出されるそうです」

「ルミノ-ル反応」
「水に垂らした血液からルミノ-ル反応が出れば」

「でもお水を2000倍薄めないといけないのよね。それで証明できるのかな!?」

また思考の袋小路に入る。
長い沈黙。

コポコポ音を立てるアルカリと酸性の水を満たした水槽の音。

国吉は楽しいのかな。

こんな話題ふっかける女の子で普通は退屈なはずだ。

自分でふった話題だが私は後悔に苛まれ始めていた。

「成宮ってすごいな」

国吉が呟いた。

「長年僕が疑問に思ってた事を少し話しただけで一気に前進させた。尊敬するよ」

「そんな」

私はふと思った。

「国吉。聞いてみようよ」

「聞いてみる?」

「どのジャンルにもメイデンみたいなボスや神的な存在の人っていると思うの。国吉が今で読んだ本の著者で1番凄い人って誰?」

「標野博士だと思う」

国吉は即答した。

生まれて初めて聞く名前だった。けれど国吉はその人の本を沢山読んでいて尊敬の対象らしい。

現役で大学で教鞭をとる大学教授で日本の水学に於ける権威でもあるらしい。

「ならその人に手紙を書いて聞いてみようよ」

「そんな。すごく偉い人がこんな田舎の中学生の質問に答えてくれるわけないだろ」

「どうせダメもとならアイドルにファンレタ-でも書いてみるつもりでさ」

外が随分暗くなって来た。そろそろ帰らないと。

私は国吉に「そろそろ帰るね」と暇を告げた。

国吉は頷いて私を玄関まで送ってくれた。

「明日も来てくれるか」

「いいよ。暇だしね」

私は背中越しに答える。

台所にいる国吉のお母さんに声をかける。

「お邪魔しました。パンケーキすごく美味しかったです」

国吉のお母さんが台所から顔を出して

「また来てね」と言ってくれた。

「お皿とフォーク汚したままですみません」

「あんた家の近くまで送ってあげなさい」

「大丈夫です。自転車ですし」

次来る時は何かお菓子をお礼に持って来よう。

そんな事を考えながら国吉の家を出て自転車をこいで家に帰った。

自宅に向かう途中通る田園地帯や遠くに見える工場群。

故郷の街は夜の空気に装いを変え始めていた。

見慣れた景色が私には普段と違って見えた。

明日はお母さんに教えてもらってクッキーを焼いてみようと思う。

ペダルをこぐ足にも自然と力がこもった。

翌日母とキッチンで焼いたマ-ドレ-ヌを綺麗にラッピングされた袋に詰めて私は国吉の家に向かった。

「あの子まだ寝てるの」

国吉の部屋がある2階の方に視線をやりながらお母さんが言った。

「夕べ遅くまで机に向かってたみたい」

「そうですか。では後ほど」

「何を言うの。ここで起こさかったら私あの子に1日中文句言われるわ」

そう言って笑う。

「あの…これ.下手くそなんですが母に教えてもらって。パンケーキのお礼に」

そう言ってマ-ドレ-ヌの入った袋を渡した。

「やっぱり女の子っていいわね-。もう1人産もうかしら」

丁寧にお礼を言ってお母さんは袋を受け取った。

「上がってお茶…その前に息子叩き起こして来るわ」
「あの。お母さん」

私は昨日のやり取りで少し懸念があった事を口にした。

「考えたんですけど。夏休みすごく勉強頑張っても国吉君湘校届かないかも」

私たちの時代は入試の成績よりも中学3年の1学期と2学期の成績を元にした内申書が最も重視されていた。

1学期と2学期の中間と期末の結果がのべで算出されてその生徒の学力が決定する。

2学期飛躍的に成績が伸びた子でも1学期の成績が足を引っ張りかねない。

国吉は1学期の成績は平均以上だが.そこだけ見てしまうと湘校には少し足りない。それが私の懸念だ。

「いいのよ」

と国吉のお母さんは言った。

「なんとなく学校に通って.なんとなく用意された自分の席に座る。高校も自分の座れそうな席のある場所をなんとなく選んだ。あの子そんな感じだもの」

「お母さん」

「自分が本当に行きたい場所やしたい事を見つけても後の祭りっていうのは大人になるとよくある事なの。最初から追いかけもしないで後から悔やむのと気がつくのが遅くて走ってみたけど届かなかったというのは随分違うと思うの…痛い目にあったら次は抜け目なくやるでしょう」

「お母さんシビアですね」

「昨日あの子に「母さんと成宮は時々容赦ないとこが似てる」と言われたわ」

そうなんだ。私国吉のお母さんに似てるんだ。

「男の人はみんな道端に落ちてる石ころと同じで案外簡単に拾えるけど路傍の石で終わるか玉石になるかは女次第って昔祖母が言ってたわ。家には漬物石が2つ…1ついる?」

「成宮来てたのか教授に手紙書いたぞ」

「朝から漬物石がハイブロ-な台詞を!ついに輝き始めたのかしら」

「ずっと前からですよ」

私は国吉のお母さんにそう告げた。

国吉の書いた手紙を彼の部屋で読ませてもらった。

まずは丁寧な挨拶から始まり突然手紙を記す非礼への詫び。

自分が現場受験を間近に控えた中学生である事。

先生の作品に触れるきっかけになった事件について。

いかに先生の書物に深い感銘を受けたかについて。

その経緯を踏まえた上で問いかけていた。

先生はたして水に記憶する力はあるのでしょうか?

また過去においてそれはどのような証明が成されたのでしょう。

僕たち2人が思いついた実験方法で証明可能でしょうか?

僕たち2人ここまで来てすっかり行き詰まりを感じています。

どうかご教授頂ければ幸いです。

成宮博子 国吉


連名でサインがしてあった。一晩徹夜して辞書も引いて何度も書き直したのは机の横の屑籠にたまった便箋紙の量を見れば分かる。

私は国吉が手紙に僕ではなくて僕たちと書いて最後に連名のサインを載せてくれた事が何より嬉しかった。

私が手紙の受け取り人なら良かった。

宝箱に入れて一生大切にするのに。

もしもこの手紙をろくに読みもせずゴミ箱に入れるような人間なら多分どんな偉い博士であろうが教授であろうが教育者とは言えない。

「誤字とかないか?」

私に訊ねる国吉の声が少し不安げで掠れている。

「大丈夫」

私は手紙を出来る限り丁寧にたたみ終えると便箋にしまった。

「必ず届く。そして返事が来るの」

そう自分自身に言い聞かせるように手紙を胸の鎖骨の辺りに押し付けた。

その日私たちは手紙を駅前のポストに投函した。

水の中に小さな一石を投じたに過ぎない。

でも私たちの未来はその時既に始まっていた。

今にしてそう思うのだ。




その後私たちは最後の夏休みを陸地を求めてひたすら漂流した。

漂流というとなんだか格好いい感じだが居場所を探していただけの話だ。

国吉の家に入り浸るのは勉強という名目があってもさすがにマズイ。

ご近所の手前とか向こうのお母さんも迷惑。

第1なんか間違いでもあったら…という母の小言は1度聞けばもう沢山だ。

私はそんなとこでエネルギーを無駄に消費する気は毛頭ない。

図書館や学習塾の自習室やマックで飲み物だけで散々粘った。

国吉は夜かなり遅くまで勉強しているらしく髪は寝癖目はいつも眠たそうにしていた。

何処かに2人で出かける金なんて中坊の私ら2人には無かった。

教科書や問題集を広げられるスペースがあれば何処でも良かった。


「博士から手紙が届いた」

国吉から電話があったのは手紙を投函してから10日ほど過ぎた日の事だった。

「さあ。ぼうや私のために読んでおくれ」

夏休みの読者感想文に私が選んだのはドイツの小説「朗読者」であった。

しかし「夏休みの課題に全く向いていない」と読後思った。

面白くて感動したが耳熟女の皺がまた一つ増えただけであった。

「アメリカン・サイコと華麗なるギャツビーって現代と古典ていう時代の隔たりはあっても書こうとしている事は似てると思うの」

「村上春樹に怒られるぞ」

「でも品とか格とか考えると足元にも及ばないのよ。ジェラルドには」

「だからアメリカン・サイコでは同じような物質社会の無機質さを描いて尚且つヒロが言う品とか格は失われたって事だと思うよ」

「なるほど」

私たちは高校生になっても大学生になってもそんな感じだった。

例えば名高い華麗なるギャツビーの最後の1文は私にはこの上なく不穏で不吉な全人類に向けて発信されたアポカリプスなうな響きがある。

しかし国吉に。


「読んでおくれ.ぼうや」

私は促す。アンナみたいに。


【先へ先へと後ずさりながらも、しびれるような幸福を約束する未来を信じていた。あの時はぼくらの手をすり抜けて逃げて行った。しかし、それはなんでもない―
あすは、もっと速く走り、両腕をもっと先へのばしてやろう
・・・・そして、そのうちいつの日か―
こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れにさからう舟のように、力のかぎり漕ぎ進んでゆく。】


私はこの文章に限りない絶望感を感じてしまう。

しかし国吉がこの文章を口ずさむと未来はまったく違う響きに聞こえてしまうのだ。

何度も読み返した。

その度絶望感に苛まれたけれど私の隣には国吉がいてくれた。

だから。その手紙は国吉に読んで欲しかった。

さあ読んでおくれ.ぼうや私のために。

私はふざけて言ったけど内心は緊張していたのだ。


前略

お送り頂いた手紙確かに拝読致しました。

大学の教授と研究者という2足の鞋を履くという事情から閲覧しなくてはならない手紙や書類に日々追われる毎日です。故に返信が遅れてしまいました。

まず率直な感想を述べさせて頂くと手紙をくれた君たちが現役の中学生だという事実に驚きを禁じ得ない気持ちです。

君たち2人の着眼点と研究に関するインスピレーションは素晴らしいと思います。

前置きせず賛辞は後程書く事にして結論から先に書かせて下さい。

水は情報を記憶出来るか?

この問いかけに対して私の記憶では論文が発表された事は未だかつてありません。

だから私にも答えようが無いというのが真実です。

例えば小説や詩編などの創作物やVoodoo Sienceといった類いのものには過去そのような記述があったかも知れません。

しかし何れもそれは科学の領域とは程遠いものとして考えるべきです。

しかし君たち2人の問いかけは学術的命題とそれに伴う実験方法に関するもので。

これは中学生の自由研究などという水準を遥かに越えるものだと私は考えました。

ですから私は学者としてあなた方2人の問いかけに真剣に向き合いました。

以下の記述がそれです。

極限まで希釈した抗血清中の抗IgE抗体によって引き起こされるヒトの好塩基球の脱顆粒化。

これがあなた方が提案した実験の概要です。

この実験を繰り返し得られる数値により結果は証明されるでしょう。

ただ水に血液を垂らし薬品を混ぜるだけでは充分な実験結果は得られません。

この実験にはヒトの血清を扱う免疫学の知識と水の性質に関する水理学や水文学などの深淵な知識が求められると推察します。

しかる後実験結果において…1分子も抗体が含まれていないほど薄く希釈した後であっても、水溶液は抗原・抗体反応を引き起こす能力を保持し続けるという証明が成された時初めてこの研究は成功したと言えます。

私は今この文を読んでいるあなた方が何1つ理解出来ないでいる事を承知で書いています。

もしも理解出来るのならば高校も大学も必要ないのですから。

私はあなた方2人に1つ約束をしたいと思います。

どうか.あなたたち2人は今と変わらぬ探求心を持ち続けて下さい。

大学に進学し相応の知識を身に付けて私と再会出来る日があるとするならば。

私は喜んであなた方2人に私の研究室と設備を開放します。

いつかその日が来る事を私は願って止みません。

尚この実験に於いてはマルコフ過程とエルゴード仮説への理解も非常に重要な要素となるでしょう。

けして世に蔓延るホメオロジーになど心を惑わされぬようにー以下略

「意味分かった?」

「全然成宮は?」

「お手上げ…惑わされるも何も単語の意味すら。辞書貸して」

渡された辞書のページを無作為に捲る私の指は微かに震えていた。

なんと言うか指先が痺れる感覚に興奮していた。

なんという知性。

以前国吉は私に言った。

「どの本にも載っていない」と。

なのにこの教授は私たちの問いかけに対して実験方法を明確にシュミレーションしたものを書いて送って来た。

成長し必要な知識を身につけて.この問題を解きなさい.と。

多分…多分だけど意味すら分からないけど。

マルコフとかエルゴードなんとかというのは.この実験の障壁になるものだろう。

賢い大人が子供に知識をひけらかしたんじゃないよね。

「成宮抱きしめていいか」

「バカ。なに言ってんだ」

国吉の右手が肩に伸びて私の体を引き寄せた。

「暑苦しいから止めろ」

「成宮。湘校に行きたい」

「うん」

「1学期の成績が足りなくても実力で入ってみせる」

「話聞いてたのか」

「教授の大学は国立だからな東からは難しい」

「なんだそっちか」

私は今心を強く揺さぶられた言葉が1つあった。

免疫学。免疫学を学べるなら国吉の役に立つ。

でも理由はそれだけではない。

私のように小さい頃からアレルギーに悩まされている子供の助けになるかも知れない。

その考えが私の気持ちを熱くさせてくれた。

「やれるとこまでやってみよう」

泳げるとこまで泳ぎ続けよう。

過去の波に引き戻されるのだけは.もう嫌なんだとその時私は思った。

こうして私たちの夏休みは惜しむ間もなく終わって行った。

結論から先に言ってしまえば国吉と私は別々の高校に進学した。

国吉の成績は夏休み中の本人の努力のせいもあって飛躍的に向上した。

地元のどんな進学校にも受かる実力を身につけた。

にも関わらず湘校受験はおろか願書を提出する事も認められなかった。

私は到底納得が行かず国吉を連れてクボジに詰め寄った。

「今の受験制度では受かるか落ちるかギリギリの1発勝負みたいな受験はさせないんだよ。生徒のリスクを考えてね」

「それでも本人が希望したら?」

「その場限りの試験1度で生徒の学力を判断しない。でないと入学後に学校のレベルについて行けない生徒を生みだす事態になりかねない。勿論この制度が100%正しいなんて思わない。けれど規則は規則だ。1人の生徒のために特例は出せないし。学校側としても中学浪人は出せない。こんな事を言うのは酷だが国吉。お前の行きたい高校は内申書で選抜されて席がもう埋まってるんだ」

それでも…と言いかけた私にクボジは楔を打ち込んだ。

「学区制の問題がある」

「学区制?」

「例えばこの市に住所があ生徒で公立高校に進学するものは他の市にある高校に入学するのは難しいんだ。住所を高校のある市に移さないと行けない。私立に通うなら別だけどな。公立高校では他県や市を跨いで公立に通うのは学区制の問題があって難しい」

「でも私は」

「お前の受験する湘高だって生徒は地元市から募集してるよ。ただお前が通うのは理数科だ」

「理数科だけ特別なんですか」

「地元市の募集だけでは理数科の偏差値の基準を満たす生徒は集まらないんだ。1学期の全国テスト…あれがお前の場合受験資格の決め手になった。枠は1つしかなかったんだ」

「文科省め」

「安全な受験てありがたいようで釈然としないよね」

「入試なんて出来レースよ。虫が好かないわ」

「それでも落ちる人もいるみたいだから.やっぱり受験勉強はしとかないと」

「そうね」

「俺達の子供が高校入る頃はまた色々変わってるんだろうね」

それでも学校自体は.学校という場所のあり方みたいなのは何時までも変わらないんだろうな…とその時の私は思っていた。

変わらないものなんて何もないと言うのに。

「成宮」

「なんだ」

「ありがとう。僕の言いたい事全部クボジに言ってくれた」

「なんだそれ。皮肉か」

例えばこの世界の主役は私視点から見れば私自身に他ならない。

曲げようのない事実だ。

でも国吉だって主役で私たち2人はどちらもお互いの脇役ではない。

私はまた余計な事をしてしまったのかも知れない。

「成宮は高校に行っても大学に行っても変わるなよ」

「それはずっと国吉の事を好きでいろと」

「だと嬉しいけどね」

嬉しいけど.何なんだ国吉。

こんな時に不安にさせるような言葉を言わないでくれ。

「いやだ」

その言葉を発した私の口元が歪む。

私は国吉に向き直って言う。

「い・や・だ・と言ったんだ。何を国吉の分際で偉そうに。高校に行ったらコンタクトを入れる。髪型だって変えるぞ。それでお前より超イケメンの将来有望株に出会ったらさっさと乗り換えてやる。悪く思わないでくれ」

「いいね」

「いいのか?」

「変わるなって言ったって変わりたければ変わるのが僕の好きな変わらない成宮だからな」

「ややこしいな」

「僕はそれを見るのが好きだ。時々自分もそうありたいと思う時があるよ」

「お前が私になりたい」

「まあ成宮は1人で充分だけどね」

「私は職員室でお前が思うように喋れていたか」

「ああ」

「なら私たちは2人で1つだ」

簡単に口にしていい言葉ではない。それは分かっていた。

でも私は言わずにはいられなかった。

「卒業してもお前のへぼ研究に付き合ってやる」

「ありがたい」

「その代わり」

「その代わり?」

「南校行ったら誰にも負けんなよ」

「またハードル上がった」

国吉は夏休みがっつり勉強したおかげで中堅の東から市内で一番難関の南校に受験校のランクが上がった。

「成宮といると渡る世間がどんどん厳しさをますよ。ま.いいけどね」

あの時の国吉の笑顔を私は忘れない。

ざわめく放課後の喧騒と夕暮れの淀んだ空気の中で私は思った。

どたばたしたけど私はもうこの場所を出て行く理由を見つける事が出来た。

見つけたら留まる理由は無いけれど。

それでも私は今少しだけ私の好きな人と.ここに居たいと思った。

魔法なんて信じない。

私はもう森の魔女に憧れる少女ではない。

でも私は国吉の机に書かれていた落書きの文字を忘れない。

すぐに時が流れて誰の記憶からもそれが失われたとしても。

きっと忘れないと思う。

【←Water】

それは常に私たちの未来を暗示していた。


まさか私が水の中で命を落とす事になるなんて。

予定調和?水は何でもうまく隠して何もなかった事にしてしまう。



【第2章・カナウの森】

おいしそうな紅茶色の、まずいコーヒーをすすりながら、私は早速仕事を開始することにした。

机の上に放ったままのダイナブックを開いて立ち上げる。

国吉が徹夜で取った希釈デ-タを矢継ぎ早に打ち来んで行く。

希望の希に釈か…。

汲めど尽くせぬわが水を…か。飽きる。

飽きたよ国吉。今頃やつは仮眠室で夢の中か。


ヒトの血液から取り出した好塩基球と呼ばれる白血球の一種を使って、アレルギー反応を分析を開始。

好塩基球を入れた試験管の中にアレルギーの原因物質を添加。
すると、
好塩基球は反応して細胞内の顆粒を外に放出しする。

この反応を脱顆粒反応と呼ぶ。

ある種の抗血清(抗IgE抗血清)もこの反応を引き起こすことが知られており.言わば私たち2人の研究の要である。

これから世にでるはずの私たちのベイビ-の脳か心臓に当たる部分だ。

時々胎動が確認され期待すると沈黙。そのくり返し。

大学に入学して卒業後も教授の研究棟に勤務する研究員としてもう2年。研究に費やした時間は足かけ6年にもなる。

10の23乗倍を越える希釈倍数は、“高度希釈”に当たり、理論上は元の抗血清の分子は1分子も存在していないはず。

60乗も試した。

240乗までやった。

実験結果が反映されないなら未だしも出るのだ。

まるで幽霊のように。

これでは実験に終止符が打てない。

原因は。

マルコフ過程とは確率過程の1つで、簡単にいうと「未来が現在のみに依存し、過去には依存しない過程」のこと。

つまり、この過程では常に「過去の運動に関する記憶の喪失」が起こる。

水分子はブラウン運動(熱揺らぎ)により他の分子とランダムにぶつかり合い、動き回っている。

何回か周りの分子とぶつかり合うと、ちょっと前にどこにいて、どのような速度でどの方向に動いていたかわからなくなる。、


水分子の状態がマルコフ過程で揺らぎ、可能な状態すべてを経験しているとすると、1個の水分子の時間平均は多数の水分子の集団平均に等しくなるはずである。 

これがエルゴード仮説。

私らにとってめちゃくちゃ不利な仮説である。

水の記憶に関する反証という訳では今のところない。

なにしろ水の記憶に関する論文は今のところ発表すらされていないのだ。

しかし最近。

「液体H2Oの水素結合ネットワークにおける極めて速い記憶の喪失およびエネルギー再分配」という研究が発表された。

この研究では赤外線パルスレーザーを用いて、液体H2OのOH伸縮振動の赤外吸収バンドにホログラムを書き込み、それがどのくらいの時間で消えるか?ということを測定している。(IRフォトンエコーの測定) 

その結論は「液体水が構造中の持続的相関関係の記憶を50fs以内に本質的に失うことを浮き彫りにしている」とのこと。

ここでの「fs」とはフェムト秒のことで、1フェムト秒は10の-15乗秒のこと。

つまりめちゃくちゃ短い時間のことだ

以上の仮定を踏まえて。

何らかの情報を水に記録しようとした場合、個々の水分子に何かを記録することはできない。

なぜなら、同じ状態にある水分子同士は量子力学的要請により全く同じ性質を持ち、区別がつかないからだ。


この実験から得られる仮説を分かりやすく説明すると。

「水になにか覚えさせようとすると瞬きするより早いスピードで記憶を失う」

だめじゃん。

まずいな国吉。今回も芳しくない結果だ。

旗色が悪い。

チェックメイトか投了寸前てとこだ。

あくまでも理学部で免疫学を学んだ私の観点からだが。

国吉は大学に入ってたから標野教授の地球環境学部で地質と水質学を学んだ後ゼミから研究員となり研究員としての仕事と自身の研究にとひた向きに励んで来た。

私には免疫学の専門家としての道を修める傍ら…という言葉は悪いが逃げ道があった。

もしも首尾よく私たちの論文が世に出たとして。

マルコフ仮説 エルゴ-ド性 これらを肯定する実験デ-タと。

三首を揃えたケルベロスに八つ裂きにされるだろう。

私が引導を渡すべきなのか…私が.自分で。

我が子をほふる母親のように。

昔の私なら簡単に出来た。

しかし私は国吉の側にいて彼を長く見すぎた。

「国吉お前は試合には負けたけど喧嘩には勝った」

ここまで来て喧嘩もくそもない。

今日は国吉の誕生日だ。

後でケ-キを買いに行かないと。

あいつ今年でいくつだ。

…あたしと同じか。

いかんいかん疲れて頭が回らない。

そろそろ部屋に戻って湯船に浸かりたい。

研究室のシャワーでは疲れが取れない。

私たち2人には他の恋人たちみたいな思い出と言えるものがあまりない。

海とか。

高1の夏休みに私は生まれて初めてアルバイトを経験した。

国吉や親に内緒でオ-プンしたばかりの焼き肉のチェーン店で短期のバイトだった。

あの時代はお寿司とか焼き肉だとか.それまで高級だと思われていたものが.どんどん大衆化して行った時代だ。

稼いだお金で国吉の誕生日プレゼントを買った。

誕生日のプレゼントに白衣をあげた。

「未来の博士に」というメッセージを添えて。

同級生の女の子に話したら.どんびきされた。

白衣を着てなにかプレイ的な事を想像したらしい。

白衣というのは.いくらぐらいするのか当時の私は全然知らなくて。

買う時になってあまりの安さに愕然とした。

バイトしなくてもお小遣いで買えたなぁ…と。

お金が余ったので自分の分も買ってみた。

国吉は喜んでくれたと思う。

私も自分のを羽織ってみた。

国吉は私を抱きしめた。

友達の想像は間違いではないが白衣はちゃんと脱いでハンガーにかけた。

今でもその白衣は現役だが大学のとは少し違うのですぐに分かる。

国吉がそれを着てるのを見ると私は当時を思い出して恥ずかしくなる。

標野教授の受け売りだが嘗てアイシュタインは言った。

「学問との関係は結婚生活よりもナイ-ブな恋人との恋愛関係のようなものが望ましい」

国吉は完全に前者のような望ましくない生活を送っていた。

それが時に私を苛つかせた。

研究室は大人になっても唯一子供の時のままでいられる事を許された場所である。

それが時に私の彼に対する不安を募らせる原因ともなる。不安は2人に不和をもたらした。

些細な衝突が原因で10日も口を聞かぬ日々が続いた。

私たちはその頃互いの両親に会い婚約までしていたが。

だめかもしれない.と心の中で思っていた。

そんな時研究室に顔を出した標野教授にお使いを頼まれた。

標野教授には入学時中学時代に頂いた手紙を手に挨拶に行った。

それ以来公私共に私たちは教授にお世話になっている。

まだ一般教養課程であった1年の頃から教授は研究棟への出入りを許可してくれた。

研究施設内で雑用をこなすアルバイトとしてだが.これは貧乏学生だった私と国吉にはありがたかった。

ゼミの先輩や研究員の方とも顔見知りになれたし施設内の設備や用具に関する知識も自然と身についた。

私たちは専門課程に入ってから.すんなりと研究棟の1員となる事が出来た。

標野博士は当時50代であったが見た目はそれよりずっと若々しい印象で。

「運命の逆転に出ていた俳優に似てる」

私は国吉に言ったが国吉は

「その映画を部屋で観た記憶があるけど難しそうで途中で寝てしまったので覚えてない」

と言っていた。

標野教授はうちの大学の 出身で7博士の1人。

7博士とは…大正時代に創設されたわが母校は過去に7名に博士号を授与している。

その中の1人が標野博士で残りの6人は故人.歴史上の人物である。

彼が教壇に立つ前にスーツ姿や白衣で学生の前に通る時「スーツとはこう着るもの」と学生に教えているようだ.と私は勝手に思っていた。

彼ほど白衣が似合う男性はうちの大学にはいなかった。

大学に勤務する教職員の皆が皆標野教授のような訳ではない。

というか縛り首の縄みたいにヌクタイを首からぶら下げた服装なんか既にどうでもよくなったようなお父さん…みたいなおっさんがほとんどだ。

公立大学の教授なんて名誉職で年収は有名私大はおろか予備校の人気講師の年収にも遠く及ばないなんてよく聞く話だ。

標野教授は日本はおろか世界にも名が知られた環境学の権威だ。

今後ますます重要性が増すであろう氏の研究と頭脳を求めての内外からの誘いを断り母校で教鞭をとり続けている。

大学の英雄である。

研究室では時に暴君と化すが生来の王ではある彼には誰も逆らわない。

彼の曾祖父はこの大学の創設者の1人である。

祖父は最初の博士号を受けた植物学者で。

実家は地方の豪族から財閥に転身を果たした希有な名家の出身であるとか。

自ら特許を取得したニジマスの養殖が好調過ぎるとか。

大学内で彼の逸話には事欠かない。

現学長と理事長は2人とも標野家の書生で教授の家庭教師も勤めていた。

「でなければ私は多分希望通りケンブリッジかイェ-ル大に合格していたと思うので諸君たちとも縁がなかった訳であります」

毎年入学式でかますネタらしい。私も聞いた。

カムチャッカ体操事件。

カムチャッカ体操。これを検証するために大学を休業し実際に蟹工船に乗り込んだとか。

マクドナルド事件。

教授はファースト・フードがお気に召さない。

「ああゆうものを前途ある若者が食べているのは実に嘆かわしいものだ」

と常々生徒に話している。

カロリーばかり高くて栄養価が低い効率の悪い食べ物だと。

ご高説はごもっともだが.そうした食べ物を私たちは好む。

でも教授のいる場所で食べるバカはいない。面倒くさいから。

ところが深夜普段なら教授は帰宅している時間に.ひょっこり顔を出した。

何の用向きで来たのは失念したが.とにかく来た。

そして研究員の机の上にあるマックの紙袋を目敏く見つけると.いつもの説教を始めた。

「こんなもの食べてたら頭に栄養がまわらんだろ」

「お言葉ですが教授」

研究員は珍しく反論した。

「これらは皆コスパが良いと思われますが。私たち貧乏な研究員には手早く食事が接種出来て大変ありがたい食べ物です」

教授は黙って研究員の話を聞いていたが財布から1万円冊を取りだして

「これで何か滋養になる物を食べなさい」と言った。

それを見ていた他の研究員はマクドナルドやロッテリアや天津甘栗の袋を教授のいる方に向けた。

8万くらいは使ったのでは…財布に8万入ってるのが私には信じられないが。

「標野教授にマクドナルドの袋を見せると1万くれるらしい」

どこで話がそうなったのか分からないが大学構内がマックの袋を持った学生で溢れた。

講義中も。

教授はある日両手にマックの手提げ袋をぶら下げて大学構内でところ構わず食べ始めた。

そのうちゼミの学生を捕まえてはストロ-の直径の長さとシェイクの飲み易さやバンズと肉の比率・出店する場所におけるマ-ケティングについて等々…周囲から大変うるさがられた。

自らが寄稿している自然科学の雑誌にも論文を載せ…経済学界からは大反響を得た。

出版された本「ドナルド博士のファーストフード経済学」

は教授の本で最も版を重ねるベストセラーとなった。

海外でも翻訳され米国のマクドナルド本社から感謝状と一生ドナルド博士を名乗ってよいというお墨付きを頂いた。

マクドナルドの永久無料パスも添えられていた。

傑出した人物はどのような分野に於いても素晴らしい業績を残すものだ。

我々若者の間ではマックの永久無料権を持ってるなんて神以外の何者でもない。

ご本人は来店時「ドナルド博士ようこそ」と定員に言われたのがトラウマらしく.以来足は遠退いているらしい。

量子論など畑の違う学問もお好きなようで会話にアインシュタインの語録からの引用が目立つ。

時々自分の発言と混同するらしく学生に

「それはアインシュタインからの引用ですね」

指摘するとかなり狼狽する。

「しかし他人の論理に徹底的に自分のオリジナリティを加えて行く事が重要で…」

「教授それもアインシュタインです」

「ちょっと外の空気吸って来い」

その時教授は私と国吉の間に車の鍵を置いた。

職員や学生のブライベ-トには一切口を挟まない教授が低い声で言った。

まずい。怒ってる時の声色だ。

私たちはそんなに職場の空気を悪くしたのかと…恐る恐る顔を上げると…目がすわってらっしゃる。

鳥類…それも猛禽類の目だよ。

「なんなら2.3日でも構わんが」

私たちは立ちあがってそれからええと…途方に暮れた。

「おい雪印。ちょっと来い」

雪印と教授に呼ばれたのは研究員最古参の渡貫さんだ。

長年研究室で水の結晶の研究に携わっている。

教授から誕生日にプレゼントされた結晶の写真がプリントされたTシャツ100枚を大切に夏も冬も着まわしている。

しかし長年着ているせいか結晶が地図の発電所や裁判所や森林監理局の記号にしか見えない。

皆に雪印さんと呼ばれるが本人は本名で呼ばれるより気にいっているらしい。

教授は雪印さんを私立ちの前まで呼びつけると。

「この2人に私の車を貸すから駐車場まで案内してやってくれ。ついでに場所の説明も頼む」

「どちらまで」

「天鳥の保養所までだ」

「今からですと」

「泊まりでも構わんと言ってある」

「かしこまりました」

「ついでにナビの使い方も教えてやってくれ」

私たちは雪印さんに促されて大学構内にある職員専用駐車場へと向かった。

「カナウの森に行って来いだなんて。君たちは余程教授に気に入られてるんだな」

「カナウの森ですか」

「いや…それは教授が時々口にする言葉で本当には天鳥にある保養所の側にある森なんだ」

「カナウってなんですか」

「いや僕も文系じゃないから分からないけど。神話とかに出て来る神様とかじゃないかな」

カナウ…聞いた事ないな。

「教授もめったに口にしないよ。逆にこちらからその名前を口にすると.おかしな空気になるから」

「そうなんですか」

「この時期の今頃になると教授はちょっと不穏というか気を使わないとね」

「私たちがちょっとあれなんで怒ってらっしゃるのかと」

「気にかけてはいたのは確かだけど君らのせいじゃないと思うよ。この時期いつもなんだ」

話ながら歩いているうちに地下1階にある駐車場についた。

「教授の車って」

「1番奥にとめてあるジャガーがそうだよ」

「ジャガーってイメージにぴったり」

ではなかった。

私がイメージするイギリスの高級車ジャガーはクラシカルな伝統的なデザインの優雅な大人の車だ。

教授のジャガーXKRは突き刺さるような流線型メタルブルーのコンバーチブルのスポーツカ-だった。

ホイールが馬車の車輪のようで。

まるでポニーの厩舎に一頭だけ紛れ込んだサラブレッドを思わせる。

ちなみに基本スペックは。

エンジンは4.0L V8 DOHCのAJ-V8エンジンを搭載。XK8の最高出力は294ps/6100rpm、最大トルクは40.0kg・m/4250rpmであり、これにスーパーチャージャーを搭載したXKRの最高出力は375ps/6150rpm、最大トルクは53.5kg・m/3600rpm。

「僕免許AT限定なんだけど」

「あたしミッション」

「ヒロの運転は怖いよ」

「車の運転と恋愛は右脳でするものよ」

私につんけんくらわした事を後悔させてやるわ。

「教習所ではサ-キットの狼と言われたんだから」

「ナビもオッケーだ。後細かい道はメール送るから」

雪印さんは手早く車内で作業を済ませるて私たち2人に

「いい車だよね」と言い残して持ち場に帰って行った。

私たは早速車のシ-トに滑り込むとイグニション・キ-を回しエンジン音を確かめた。

「さてー」

言いかけた時だ。

「すまない飯田橋駅まで頼む」

後部席に標野教授が座った…というより転がり込んできた。

匂いですぐピンと来た。

「教授…お酒飲まれてます」

さっき会った時からどうも挙動がいつもの教授と違う気がしていたのだ。

研究室特有のアルコールや薬品臭で先程は気にならなかったが。

いや。あれからさらに飲んだに違いない。

「教授が勤務中にお酒なんて」

国吉は明らかに狼狽していた。

「勤務後だ」

教授は憮然とした表情でリヤシートに身を預けた。

「文句を言うなら胃の内容物をここに直ちにぶちまける。因みに昼に食べたのは」

「最低だ。この親父」

私はアクセルを思いきり踏み込んだ。

「教授。無頼を気どるなら車外にして下さい。めちゃくちゃお酒臭いです」

「理性が邪魔してそんなに都合よく生きられぬ者だから酒に頼るのだ」

後部席のウィンドウを開けて大きく口を開けてしゃべる教授の横顔がカーブミラーに映ってたいた。

駅に向かう途中私は自分のアパートの前に駐車してよそ行きの白いワンピースに着替えた。

「わざわざ着替えなくても」

「私はせっかくのお出掛けにとても餓えているの。知ってるでしょ」

「国吉君。女の身支度にじっと耐えるのは円満の秘訣だぞ」

「酔っぱらいに接客されてりゃ」

「ヒロの言い方はいちいち.勘に触るな」

「そのいい方もね」

車内でも私たちの険悪なオーラはぶつかりあったままだったが。

「あれ」

国吉が右手を床にのばしてごそごそしてる。

「ちょっと危ないでしょ。何やってんの」

「いちゃつくな。事故るぞ。ついてからやれー」

「教授これ」

国吉が指先でつまんだものを教授に見せた。

「ドナルド博士」

「その名で私を呼ぶと不可をつけるぞ」

「もう卒業してるもーん」

「教授これ」

国吉は納得行くまで手を下ろさないよ教授。

貴方の教え子は昔からそうなの。

それは今まで何千…いや億かもしれないくらい製造されたであろうドナルドダッグ。

マクドナルドのハッピーセットについているオマケの品だった。

「娘のだ。何処にいったかと探していたが…そこにあったか」

教授は手を伸ばして受け取ったドナルドを大切そうに胸のポケットにしまった。

「娘さんおいくつですか?」

「今年で7つになる」

「可愛いでしょうね」

「ああ。それにとても聡明なんだ」

教授は通り過ぎていく古本屋が軒を連ねる昔ながらの町並みを見ていた。

「彼女生まれる前から小児麻痺でね」

「生まれる前に分かるんですか」

「今は医療が進んでいるからね」

「そうでしたか」

「大きくなったら私と結婚してくれるらしい」

「教授はお幸せな方ですね」

「まあね」

信号街でエンジン音が少し小さくなった時教授の呟きを私は聞いた。

「不可能じゃないさ」

水道橋駅の前で教授を下ろした。

手を振る教授の胸ポケットからドナルドが顔を覗かせていた。

「よかったらご一緒に」と言うと。

「後ろの席は足が痛む」と遠慮された。

確かに教授はその年代の男性に比べると背がたかくて足もすらりとしていた。

私たちは教授と別れた後国道41号線に入るために新宿を目指した。

新宿大ガード西交差点から青梅街道に入る。

「残念。首都高ルートではないようだ。高速をぶっ飛ばし。怯える男の顔を私は見たかった。どちらが本当の主か教えてやりたかったのだ」

「声に出して言うなよ」

「教授ってさあ…普段どんな音楽聞いてるのかなあ。国吉かけてみて」

車内に流れ始めたのは。

「アンパンマン・マーチだ」

「私好きよ」
「僕もだ」

都心から1時間半車を走らせると次第に都市の町並みは消え.やがて民家も疎らになる。

森と渓谷が目の前に現れる。

貯水地やダムの標識を通り過ぎ東京と山梨・埼玉の県境にある山系に至る。

そこかしこに見える湖や河川。東京都の水源地帯に入ったのだ。

天鳥山は標高2500mの東京都が監理する水源地の1つだ。

雪印さんのメールの指示に従い麓の駐車場に車を止めて。

登山道を1.5K登ると…ワンピースとパンプスなんだけど。

登山道から途中脇道にそれるように獣道がある。

熊笹に覆われた入り口の前には「ここより先ー大学施設により立ち入を禁ず」


暗い山道を藪蚊に刺されながら下生えの雑草や藪に手を焼きながら歩き続ける。

突然緑の光溢れる光景が目の前に広がる。

万緑の衾。

カワセミの羽根の色に似た翡翠の色に潤う森に辿り着く。

「ブナの原生林」

国吉が驚嘆の声を漏らす。

森の近くにひっそり寄り添うように建つ建物はまるでお伽噺に出てくる魔女の屋敷だった。

「あれが大学の保養所?」

国吉が雪印からのメールを読みながら言った。

「教授曰く「いいかんじに勘違いされたゴシック風ポストモダニズム建築」だそうだ」

「素敵。気に入ったわ」

「だろうね」

国吉は先程から森に心を奪われたようだった。

ここがわが大学の王たる教授の夢のお城だった。


「音を立てずにそっと上を見上げてごらん」

国吉の言葉に頷いて私は顔を上げた。

頭にだけ赤帽を被ったような黒い鳥が巣穴から顔を覗かせている。

「あれがヤマゲラ。とても臆病で人前に姿を表す事はないんだ」

ブナの木との共生を選んだ彼らは他の森で姿を見る事はない。

「枯れ葉の下の土。真っ黒だよね。黒色土アンドソルっていうんだ。暗土とも言うね。火山灰の堆積や笹の生育で生成される土なんだ」

ブナは落葉樹だから葉が地面に堆積する事で豊かな土地になる。

しかも森自体が保水性に優れている。

「ブナの原生林が誕生してどのくらいの年月が経つか知ってるかい?」

「分からないわ」

「約8000年だよ。人間の歴史よりもずっと以前からこの森はあったかも知れない」

森の中を散策しながら国吉は私に教えてくれた。

森がこんなに明るく緑の光に満ちているのは落葉樹は常緑樹よりも.ずっと葉が薄いから。

原生林は信じられない時の流れを生きて来た。けれど木自体の寿命は200年くらいで倒木して森を豊かにする。

実をつけるのに50年。

それも5年に1度だけ。

太古の雨が降り注ぎ枯れ葉や暗土や石灰を通り濾過され蓄えられた地下水は地上に沸き出す。

「その水は生命を育む。それだけじゃなくて生命を生み出した水なんだ」

私たちは森に迷い込んだ子供みたいに疲れを忘れて歩き続けた。

国吉は訪れた事のないこの森を知り尽くしていた。

それは彼が標野教授の教え子で.最も熱心で優秀な生徒であったからに他ならない。

私の知らない国吉が手を引いて私にこの森の素晴らしさを伝えてくれる。

元々この森は代々標野教授のご先祖が守って来た土地であり東京が水源確保のために買収を持ちかけた際にも大半の山々は手放した代わりにこの森だけはけして手放なさなかった。

国土地理院の調査もあったが.現在もあくまでもこの森は杉の山林として登録されている。

標野教授の一族は以前今にもまして政財界に強い影響力を持っていた。その力を利用して森を守ったのは教授の曾祖父であるとか。

標野教授は他の大学からの誘いを断り母校に残る条件としたのはこの森を大学の施設として申請登録する事。

名義は教授名義でも大学が施設として国に登録申請した場合文部科学省の傘下に入る。

国土交通省の傘下にある国土地理院は手が出せない縦割り行政である。

「世界遺産の白神産地は原生林の核心部に観光客を立ち入らせない…というより場所が危険過ぎて立ち入れない。天鳥は白神よりも人が入り易い場所にある」

それほどまでに環境学者にとって原生林はなにもの変えがたいものであった。

後々雪印さんから聞く事になる話だが。

「何処かにマザーツリーがあるはずだ」

国吉は興奮した口調で言った。

マザーツリーは森で1番樹齢を重ねた樹木の事である。

勿論8000年前から立ち続ける樹木など存在しないが。

私もそれを見てみたい。

けれど日没の時刻が森に迫っていた。

私たちは施設というか教授の別荘に戻った。

学生や大学職員がここを利用する事は無いという。

時より教授に言われて雪印さんが掃除に来るくらいで。

その雪印さんでさえ森には立ち入れない。

教授は私たちが森を散策するのを許可してくれた。

建物の裏は発電機があるとの事だが私たちはランタンの明かりだけで夜を過ごした。

ハンドル式のやつで豆をひいてサイフォンでコーヒーを入れた。水は来る途中にあった沢から汲んで来た。

天鳥山に入る前に立ち寄った店で買ったお握りやパンを2人で食べた。

夜梢を渡る風の音を聞いた。

様々な動物や鳥の鳴き声が風にまじり聞こえて来た。

私たちは耳を済ませて2人で寄り添って眠りについた。

微かに遠くで水の流れる音がしていた。


「元々ブナの木は建材には適さない。「茸を植える以外何の役にも立たない森」と言われて来たんだ。教授の論文が発表される前はね。役に立たない木と思われていたおかげで他の木の森林より伐採が遅れたという事実はあるのだけど」

既に日本には原生林と呼ばれる森林はほとんど存在しない。

ブナに関して言えば世界的にも希少なのだと。

翌朝森を歩きながら国吉は私にそんな話をしてくれた。

「学術的価値が高まれば保護の動きや関心も高まるけど訪れる人の数も増えるのね」

「人が何か森に対して出来るというのは傲りなのかもしれないよ。人が生まれる前から森は森としてあり続けたのだから」

水の流れる音がさらに大きくなった。

近くに滝があるのだろう。

森が途切れる断崖の下の壁岩から水が白いアーチを描いて地面に降り注いでいる。

緑の苔に覆われていた。

森に降り注ぐ太陽の光はブナの葉のフィルターを通して辺りを一面ライムの色に染めていた。

自然の滝と断崖を見下ろすようにマザーツリーはそこにあった。


幹周り約4.7m、胸高直径1.6m、樹高30m…。

私たちは自分の体を定規代わりに計測した。

教授なら正確な数値を知っているに違いない。

「樹齢400年は経過してると思う」

私たちは森の主をしばらく鑑賞してから崖を迂回して水の流れの後を追った。

山系の支流は山に流れる血脈として名のある渓流に合流するのだろう。

途中何度も枝分かれして山に潤いを与え樹木を育む。森は何処までも続く気がした。

水の流れつく溜まりの一つに木々に囲まれた美しい泉に辿り着く。

そこで私たちは岩場に腰を下ろし休憩した。

森の中でひっそりと水を湛える美しい泉に私たちは長い時間心を奪われた。

滝や渓流のように勢いを増して流れるではなくただそこに新緑の色に染まる泉。初めて水のある風景を美しいと感じた。

私は彼に言われるままにワンピースの裾をたくしあげて爪先を水に浸した。

水の冷たさが心に染みた。

心地よさに身体中が満たされて行く。

私はその時初めて水と握手して和解した。足だけど。

なにかしんどい事に直面したり心が萎えた時私はいつも.あの森にいた時の風景や彼の事を思い出す。


誕生日くらい夢みたいな出来事が起きてもいい。

私はバースデーソングをハミングしながらPCのデータをいじってみた。

「この数値なら完璧なんだよ国吉君。おしいね~。

【↑これは私とあなたの願望がもたらす妄想の数値です。早く良い結果が出るといいね。ハッピー・バースデー国吉(^-^)v ↓こちらが現実_(._.)_】というメッセージを添えた。

これを間違えて読むバカはいないだろう。

あいつ.すぐ勘違いするからな。

「疲れた~」

私は事務椅子の背もたれにもたれて背筋を伸ばす。

最近吸い始めたメンソールに火をつけて目を閉じる。

「熱!!」

何分かブラックアウトしたみたいだ。

「ケーキ買いに行かなきゃ」

私は研究室を出た。

大学のすぐ近くにあるケーキ屋さんで予約していたケーキを受け取り研究練に戻る。廊下で国吉と鉢合わせする。

「よお」

「ヒロ!?」

国吉は奥にある教授の部屋から出て来た。

心なしか顔色が悪い気がする。いつもの事だが。

「悪い…ヒロ後で話す」

「なんだよ」

国吉はそれだけ言い残すと研究室にも入らず足早に立ち去った。

「なんだよ…」

研究室に入って主のいない国吉の机を見る。

遅刻も欠勤も昔からした事がない空席を見ると無性に不安になる。

研究室に標野教授が入って来た。

私が何か言う前に手にしていた雑誌を私の手に渡した。

イギリスの権威ある学術雑誌Nature。

科学に携わる者なら知らぬ者はいない。

これまで歴史的な研究論文が寄稿され発表されて来た。

私はその雑誌の巻頭を飾る論文のタイトルを読み息を呑んだ。

【Memory of Water】

「教授これって」

「フランスの高名な免疫学者ジャック・ベンベニスト博士の論文だ。水に記憶があるか?という命題で書かれている」

「結論は」

「水は記憶する事が可能であると」

「論理に破綻は」

「論文を読む限りでは破綻はない。とにかく読んでみる事だ…おい話は最後まで聞け」

国吉の精神的な痛手を考えると私はとてもじっとしては居られない。そら恐ろしくもなる。

だってあいつは半生をこの研究に費やして来たのだから。

「先生。国吉は」

「しばらく休暇を取らせたよ。後の話は国吉から聞くべきだ。成宮」

「はい」

「しっかり支えてやれよ」

国吉…証明には至らなかったけど私たち正しかったんだよ。

私があんたの事を誉めてやるよ。

国吉の携帯にかけたが繋がらない。

何度かけてもダメだ。

アパートに寄ってみたが不在。

自分の部屋でケーキや国吉の好きな食べ物を用意して待つ事にした。

夜になって「ごめん今日は行けない」とメールが来た。

気持ちは分かるが…ケーキ1ホールと鳥の丸焼きと一緒に1人ぼっちにするなよ。

私は普段の私でしか国吉に接する事が出来ない。

だから罵詈雑言を打ち込んだメールを返信したが…返って来ない空回り。

1人で飲みたい日もあるさ。

次の日もその次の日も国吉から連絡は来なかった。

朝アパートに寄ってチャイムを鳴らす。部屋の電気メーターをチェックする。

夕方部屋のドアにセロテープで張り付けた髪の毛が切れてないかチェックする。

どこにいるの国吉。

研究所の職員に国吉が行きそうな場所を知らないか聞いてまわる。

皆口を揃えてここだと言う。

実家にも帰ってないみたいだ。

「そう言えば」

教授が思い出したように言った。

「『しばらく休め』と言った時『また天鳥の保養所使っていいぞ』とは言った」

「なんで早く言わないの」

「だって.あいつ車ないし」

「教授」

私は教授に向かって右手を差し出した。

貸して下さい車のキー」

「君がハイオク車なのにレギュラー入れるから調子悪くなったんだぞ」

教授の車は今修理中らしい。

私はコンビニのATMであり金を下ろした。

タクシー待ちをしている時国吉の携帯から着信があった。

「ごめん。ヒロ…ごめん」

「国吉今あんたどこ?どこからかけてるの」

「俺達…もう…終わりにしないか」

外の車の通行が激しくてよく聞き取れない。

けれど国吉の「終わりにしないか」という言葉だけは.はっきり聞こえた。

目の前が真っ暗になる。

それでも携帯に向かって話をしようとした時目の前でタクシーの扉が開いた。

私の当時使っていた携帯はvoda phonで車に乗ると繋がらない事で有名だった。

「何処かで下ろしてもらい電話しよう」と考えたがバッテリーが切れそうだ。

朝から国吉にメールや電話を何度もしたし充電もしていなかった。

私は国吉に別れを告げられた。

無事を祈って探してるうちはまだよかった。

私に会いたくなかったんだな。

滑稽だ。

どうしよう。国吉はやっぱり天鳥の保養所にいるのだろうか。

会って話をしないと。

私はタクシーの中でぼんやり考えた。

目的地に着いて金を払う時運転手は怪訝そうな顔をしていた。

こんな人気の無い山奥に女のが1人。

自殺志願者と思われても仕方ない。

「大丈夫私自殺なんてしませんから」

私は自殺するくらいなら原因になったものの喉笛に噛みつく女だ。

けれど国吉はどうだろう。国吉の自殺の不安が消えた訳ではない。

私はその時冷静に振る舞いながらも確実に正気ではなかった。

保養所に辿り着くまでの長さも感じない。

保養所の玄関の鍵は閉まっていた。

私は玄関の前にある木の階段に座り込み両手で顔を覆って泣いた。

泣かないと小さい頃に決めたのだ。泣くのはとても痛い。

涙が私を傷つけるから。お父さんとお母さんが哀しむから。

だから私は小さい頃から泣かない。

そう決めていた。

「国吉を支えてやれ」

教授に言われたけど支えられて彼がいないと何も出来ないのは私の方だ。

今それが分かった。

いやずっと前から。

頼らないように依存し過ぎないように強くあろうとしてきた。

私は弱い。弱い女だ。

国吉を探して森の中を歩いた。

彼の亡骸に出会ったらどうしよう。

ここにいてくれない方が彼にとっては良いに違いない。

それでも彼の姿を探さずにいられない。

彼と歩いた森を1人で歩く。

森は変わらず美しく厳かな緑の光に溢れていた。

しかし何処かよそよそしく恐ろしくもあった。

彼と辿り着いた泉の前に立つ。思い出もここで行き止まりだ。

私は泉に背を向けてその場を立ち去ろうとした時足元の岩に張り付いた苔で足を滑らせた。

思わず手をつこうとした。けれど手は水を叩いた。

私は岩に後頭部をぶつけた。

鈍い音がした。

岩の尖った部分に背中を打ち付け時「まずいな」
と思った。

水から出なければ…。

水を掴もうとする指先が痺れて動かない。

ばたつかせているつもりの足が棒のように重くて。

服の中に水が染み込んで来る。

私はゆっくり水に呑まれて行く。

頭の後ろから生暖かいものが流れ出している気がする。

恐ろしくて.冷たくて思わず目を閉じた。

死ぬというのは.こうゆう事なのか。

これで終わり…なんて思ってなかった。

これで終わり…国吉にもう会えない。

死にたくない。

国吉…私死にたくないよ。

意識が途切れ私の体が水に呑まれる時水の中から誰かの手が私の踝に触れた気がした。


どれくらいの時間が流れたのだろう。

長い昔の夢を見ていた気がする。

瞼をそっと開けてみる感覚。私にはもう瞼はおろか肉体すらない。



水の中に漂う意識。

それが私だ。

水の中は時間の流れは感じない。

私の体は既に朽ち果て水に溶けて消えた。

水底にあるのが私の白骨。

散らばった頭蓋骨や手や足の骨は何かの数式の並びに見えなくもない。

水底に誰かがいた。

私ではない他の誰か。

白衣姿が懐かしい。

「国吉?」

近づいて呼び掛けてみる。

振り向いたのは女性で右手に私の頭蓋骨をぶら下げている。

「人違いの無礼はこの際だから許そう」

「あなたは誰ですか。私の骨で何をしているの。それから…なぜ白衣?」

うちの大学の白衣とはデザインが少し違う。

「矢継ぎ早だな…まず君の名前を聞いてから質問に答えようか」

肩胛骨の辺りまであるソバージューを靡かせ眼鏡の奥から理知的な瞳が私を見据える。

「成宮博子です」

「昭和って感じの名前だ」

「ほっといて下さい」

「私の名前は奏雨。奏でる雨と書いて奏雨だ」

「カナウって教授がカナウの森って言ってた?!そのカナウさんですか」

「おそらく」

「この森の女神なんですね」

「長い事森に住んでるだけだよ。神なんて大層なもんじゃない」

「教授は貴女の事知ってたわ」

「以前はちょいちょい来てたからね」

「なぜ白衣」

「君が私に恐怖心を抱かぬよう。1番安らぐ姿で現れた」

「骨で何をしてるの」

「椅子を作ろうと思ってな」

「なぜ椅子?」

「椅子やネクタイは文明や社会性の象徴だ。骨を放置しておいても骨。哀しいだけだ。道具となれば意義も生まれる。文明とはそういうものだ」

なんだか.えらく理屈ぽい怪異もいたものだ。

「不幸な事態というのは誰しもある事だが。幸いにして君は」

「幸いって死んだのに」

「君以外に私という他者の存在がある。他者の存在無くして自己の実現などあり得ないからな…でないと」

「でないと?」

「忘却の水に呑まれてしまう」

「難しいです」

「つまり君は1人ぼっちではないという事さ」


白衣を着た妙なもののけ奏雨さんは時おり現れては私と話しをして消える。

おかげで私は無限とも思える水の中での時間を退屈せずに過ごせた。

奏雨さんは物知りで私にこの泉に棲息するトゲウオという珍しい魚の生態について教えてくれたり

「成宮の研究していた水の記憶の話は興味深い。ただ水の性質を考えると物質を記憶させようとするのがそもそも…なんじゃないか?」

「つまり記憶は物質ではないと」

「そういう事だ。人間の記憶が何であるか解明されていれば話は別だが。残留思念とか…今私たちの存在そのものが.何かの強い思いであったりする訳で。つまり水であろうと何であろうと強い思いは残る」
「それを言ったら」

「科学ではないが。科学である必要がそもそもそもあったのかという話だ」

すべてにおいて奏雨さんの考察は興味深い。

それから幾つも昼と夜が過ぎた。

トゲウオや他の水棲の生き物たちは季節毎に消えてはまた同じ姿で現れる。

夜になると水辺に集まる野生動物の足音の震動を感じた。

それほどまでに私は水と同化していた。

季節が春から夏に変わったのは水に差し込む光の波長の長さで何となく分かる。

ある日ふいに心が震えた。

泉に近づく幾つかの足音に懐かしさを覚えた。

国吉だ。国吉がすぐ近くに来ている。

私は嬉しくて泣きたくて水面を目指す。

「怖がらないで。足をつけてごらん」

いつか聞いた彼の言葉。

水の天井に彼の足が差し込まれた。

昔窮屈な靴を無理して履きすぎたせいで右足の小指が少し横を向いている。

私はその小指に口づけするのが好きだった。

小さな子供の足が水の中に現れる。

続いて細い女の人の足が。
国吉とその女性の体は水の外では寄り添っている。

私がここにいる間時間が流れていたのが今になって分かる。

一目だけでも会いたいと思うけど。たとえ水になっても手をのばしたい距離にいても。

このまま私は水に溶けてしまおう。

私の意識は水よりも重く底へ底へと落ちて行った。

今度意識が途切れたなら私は2度と再び目をさまなさい。


水を見ないで欲しい。

それが私の心だから。

水底を覗かないで欲しい。

そこは私の骸が眠る場所だから。

私の意識は水底に沈むと.そのまま途絶えた。


「すっかり疲れて眠ってしまったね」

車内で国吉が後部席の女の子に目をやりながら目を細めた。

一体何が起きたのか。

気がつくと私は国吉の運転する車の助手席に座っている。

私は彼女に…国吉の恐らく妻…とおぼしき女性の体に入り込んでしまったのか。

私は俯く。どうしよう。

どうしたらいいの。

このまま彼の横で素知らぬ顔をして彼の妻として暮らす。

そんな恐ろしい考えが頭を過る。

多分横を向いて彼の顔を間近に見れば私はそれを実行するだろう。

「国吉」

私は声を絞り出して彼に言う。

国吉は.はっと息を呑んで車を路肩に止めた。

「国吉お願いがあるの私を」

国吉が顔を抑えて突然咽び泣く。

私は前だけ向いて彼に言った。

「綺麗な水のある場所で私を降ろして」

「ヒロ…」

「違う。ここにいるのは貴方の奥さんで。貴方の恋人は水に落ちて死んだの」

国吉は私の方を見て言った。

「ドアのウィンドウを開けて.それからミラーを覗いてみてくれ」

私は彼の言われるままに鏡を覗き込んだ。

鏡の中から怪訝な顔をした私が私を見ている。

「やだ枝毛」

「天鳥山の泉で事故にあってから君は僕の事も何も覚えてなかったんだ」

「後ろの子貴方に似てるわ」

「姉貴の子だよ。離婚調停中で忙しいんで今日は僕が預かる事になった」

私は水辺で転んで頭を打ち.駆けつけた国吉に助けられ病院に運ばれた。

脳に損傷は見られないものの記憶障害を起こしていて…国吉は私に縁のある場所に私を連れて次々と歩いたが2年近く私はそれまでの記憶を無くしていたらしい。

頭痛がする。さっきまで国吉以外の誰かといた気がするけど思い出せないでいた。

車のミラーに映る天鳥山が次代に遠くなってやがて見えなくなった。

「小さい頃の話だ」

車を運転しながら国吉は私に話した。

両親と一緒に市民プールに行ったんだ。

子供は他にも沢山いたけど.その中にすごく可愛いい女の子がいてね。

僕はその子が気になって.そちらばかり気になった。

突然女の子が溺れたみたいになって。

水から上げられてもすごく苦しそうにしていた。

助けてあげたいと思った。

バナナみたいな足がばたばた地面を叩くのを見て。

体中が赤く腫れているのを見て。

「誰かあの子にタオルをかけてあげて」

そう思ったんだ。

自分のタオルを手に.その子の側に行きたかった。

けど大人が沢山いて先に進めなかった。

女の子は担架で運ばれて行った。

プールに入る度に思い出した。食事の時に母が

「成宮さんちの博子ちゃん水に触れない病気なんですって」

と話すのを聞いた。

いつも学校体育の時間1人だけプールを見ている.あの子だってすぐ分かった。

プールに入るといつも思い出すんだ。

「水の事にもっと詳しい人になればな」

僕が見ていたのはプールじゃなくて。

考えていたのはその子の事だったんだ。

それが僕の原点だ。

「なぜか医者でなくて水の専門家になろうとしたのかは子供の時の僕に聞いてみないと分からない」


いつからだろう。

目的が証明する事だけにすり変わってしまったのは。

「君や教授に言い訳出来ない事を僕はしてしまった。

「私の誕生日プレゼントの方を教授に見せたのね」

「そうだ」

早く結果を… 君にふさわしい男になりたい…そればかり考えていた。

「ばかね」

「教授は僕が渡した研究データを一読するとこう言った。

「今までと違うな」

希釈の倍数を変えた時に出る数値のばらつきがない事を指摘した。

「破綻は」

「ありません」

答える声は上ずって震えていたかも知れない。

少し考えるそぶりの後教授は例の論文が掲載された雑誌を僕の前に放り出した。

研究内容の類似にも驚いたが問題はその実験結果だった。

「教授…この実験結果は」

「破綻や綻びはあるかね」

「ありません。完璧です」

「つまりは。君はどう考える。率直な意見を聞かせてくれ」

「捏造です」

同じような条件で何千何万回と実験を繰り返した自分だから言える。

こんな数値が出るはずがない。

「ジャック・ベンベニスト博士は権威ある免疫学者だ。しかし私には道を誤ったとしか思えない。Nature誌は最初からこの実験結果に懐疑的で博士の論文の最後にこんな但し書きが添えられた」

「我々は世界中の名のある大学及び科学者に検証を促す目的でこの論文を掲載した」

「ロンドン大で追試が行われているそうだ。この動きは世界中の大学や科学者に波及するだろう。Nature誌は3人の調査員を博士の研究室に送り込んだ。その中にはジェイムズ・ランディなる人物も含まれているらしい」

「ジェイムス・ランディ」

「手品師のトリックや霊能者のインチキを見破るのを専門にしているマジシャンだそうだ。科学者にとってこれ以上の屈辱があるか」

もしも自分がジャック・ベンベニスト博士と同じ立場だったら。

「国吉。お前もそうなっていた」

教授の言葉に顔を上げる事も出来なかった。

「…申し訳ありません…」

喉の奥からそれだけ絞り出すのが精一杯だった。

「研究者としてあるまじき行為だ。しばらく謹慎しとけ」

「はい」

「ジャック・ベンベニスト博士はその分野において大変な功績を残した権威であった…国吉お前はまだ何者とも言えない。彼は私のような師は既にいないだろう。お前にはいた。不幸中の幸いだ」

良かったな。ヒヨコのうちに間違って。

教授の笑顔が心に痛かった。

「科学者は常に普遍的なものを探して証明したいと願うものだ。いつか先人たちのような人類の叡知にと。しかし私たちは既に人類の叡知とつながっている。1つの定理の証明や発見は千や万もの検証や試算や実験によって導き出される。
誰かの1つの失敗も見逃さず我々はそれを糧にして来た。たとえ証明に至らずとも…国吉.我々は人類の叡知の1部なのだよ」

アインシュタイン博士の名言からの引用ではなかった。

「教授から受けた恩や君の愛情に泥を塗ってしまった」

「未遂でしょ。それに私があんなメッセージとデータを残さなければ」

「それでもだ。僕は都内を方々ほっつき歩きながら考えた」

「結論はでたの」

「僕たちの研究を終わりにしようと君に電話を」

「ちゃんと聞こえなかったの…私たちの事かと」

「たとえ君にそう告げられても仕方ない。そう思っていたよ」

教授からメールが来て天鳥山に向かった国吉は泉のほとりに倒れこんでいる私を見つけた。

私には確かに水に呑まれた記憶がある。でも国吉の話しだと私は水に浸かっていなかった。

抱き上げると確かに洋服や髪は水に濡れていたのに。

何か大事な事があった気がする。でも思い出せないでいた。

昔仲良しだった友達の名前が出てこない時みたいに。

「今年の4月から地元の中学で理科を教えてる。教員免許取ったんだ。

「そう…私は」

目の前に広がる人造湖の景観。夏の夕暮れの太陽を鏡のように映していた。





「そこの若いカップル。隠れても無駄だ」

笹藪から1組の男と女が顔を出す。

私は泉の中央に立ち2人を見据えた。

2人とも高校の制服を着ている。

女の子の方は右手に捕中網の柄を掴んでいる。

「学年や学校は省いて構わないから名を名乗れ」

「犬島美景」
「犬島美景です」

「私の名前は奏雨。この森の番人。ここは大学の私有地だ。勝手に入っちゃいかん」

「前後の文章が著しくあってない」

「美景。しーだよ!」

「君たちは兄妹か」

似てはいないが中々姿のいい兄妹だ。

「いえ私は彼の愛人です」

「僕は魔法使いだ」

「そうか。ここは君たちみたいなのが来るところじゃない。帰れ」

「来年進学予定なんで下見に来ました」

「嘘をつくな」

「本当は圏外の者という悪魔を倒すために仲間を探しています」

「ここに水妖が棲むと聞いて来てみました」

「私の事か」

「でも戦力的にないかなって」

「知らないところで戦力外か」

「せめて給水係とかダメ?可哀想よ」

「同情までされてるし」

「その網で私を捕まえるつもりか」

女の子が慌てて網を背中に隠した。

「いえ…これは山にオオクワガタでもいればの話で。一儲けしようかと」

「残念ながら海抜1500m地点にクワガタはいないよ」

「だってさ」

「残念ながら私は悪魔と戦う力なんて持ち合わせてない。私の専門は文化人類学でな」

「面白い!」

「一緒に戦おう」

私は2人の申し出を丁寧に断った。

「ここを離れられない?」
男の方が私に聞いた。

「なら美景が」

「…いや。ただ長く居すぎたようだ。私はここを去るつもりだ」

「どちらへ行かれるんですか」

女の子の問いかけに私は天を指さした。

「なら僕たちの領分ではないな。美景.行こう」

「さようなら奏雨さん」

「さようなら」

私は不思議なカップルと別れた。

太陽の日差しに揮発していく泉の水面。

小さな天使が私を迎えに来る。

水蒸気と一緒に雲になり凍える空の下で私は沢山の私とともに結晶化する。

そうして風に流されて山系に降り注ぐ走り梅雨となろう。

小さな天使たちに別れを告げる。

渓流の水となり川を下りやがて海になる。

水が綺麗

水が嫌い

水が憎い

水がなければ出逢えなかった

水がなければ離れなかった

今私は水の中

水そのもの

両親を早くに亡くした。親戚の家に預けられた。

大学が私の家だった。

私は文化人類学を専攻していたけれど

「授業面白いよ」

と友達に勧められて地球環境学の講義を受講した。

彼を一目見ただけで好きになった。

生まれて初めての恋だったの。

少しでも教授の側に居たくて専攻を変えた。

教授の学部とゼミにも入った。

教授に初めて食事に誘われた時は本当に嬉しくて。

彼はファースト・フードが嫌いだった。

行った事のないお店に沢山連れて行ってもらった。

海とか。

教授にはお見合いで結ばれた奥さんがいる事も知っていた。

「奥さんと別れるつもりだとか。上手く行ってないなんて浮気する男はみんな言う」

そんな言葉を聞かない訳はない。嘘ならそれを愛せばいい。

それだけの話だ。

教授の奥さんにも恋人がいると教授は言った。

「それが僕には少しも哀しくない」

教授は家に帰る日はほとんどなくて大概都心のホテルにいた。

私も一緒だった。

一番嬉しかったのは彼が秘密の森に私を案内してくれた時。

「私はここに棲みたい」
と教授に告げた。

「不便だから」と最初は言われたけど私は譲らなかった。

電話も携帯も繋がらないけれど昼間は森を散策して夜は好きな本を読んで彼が来るのを待った。

突然扉がノックされるのを待ちわびて暮らした。

私はいつも教授に森で見たもの聞いたものを話して聞かせる。でも彼は必ず最後まで聞いてくれなかった。

私は彼の手によって完全にこの世界から隠された。

「別れてくれ」

そう彼に云われた時の事を私はあまりに覚えていない。

「妻に子供が出来た」

「君にはまだ未来がある」

全部戯言にしか聞こえなかった。

「君が望むものはなんでも」

「知ってるくせに」

最後の会話だけは覚えている。 

気がつくと私は街を歩いていた。

魔法が溶けた気分になる。

どこか今までと違う世界に…でも世界なんて何処も外側は似ているものだ。

内側に。

人の体だってそうだ。

彼の居ない場所に行こうと私は目についた風俗店の看板を潜った。

興味深い仕事ではあった。

私の女医のコスプレは冷淡で本物ぽいと好評だった。

店の裏口で煙草に火をつけて白衣姿のまま曇った夜空の月を見た。

天鳥の山から見える月はもっと大きくて美しい。

老いさらばえて使い物にならなくなるならまだしも…私が死にたいと思う場所はここじゃない。

私は路地を抜け出すと歩き出して2度と戻らなかった。

夜半を過ぎた頃私は森にいた。

身につけているものはすべて脱いで沢に流した。

こんな振る舞いを彼が見たらなんと言うか。

本当に愚かな女。

私は泉のほとりに立ち.黒い水の中に身を沈めた。

最初は彼が森の中でも.こよなく愛するこの泉を私の腐乱した皮膚や溶けだした脳漿で汚してやろうかと思ったが今はどうでもいい。

揺らめく木立の暗い間から見える月を見て思う。

月は死だと。

私たちが肉眼で目にする事が出来る唯一の死だ。

「出来うるなら私をお前の傘下に入れてくれ」

祈らずともその願いはすぐに叶えられた。

今私は海にいる

予定調和? 

水は何でもなかったことにしてしまう。

私の知る限り彼の行動範囲は狭い。可笑しいくらいに。

1度だけ2人で来た白浜の奥にある人気のない砂浜。

彼は海と言えばここしか馴染みがないようだ。

人気のない砂浜に親子連れの姿が見える。

砂浜ではしゃぐ女の子と近くで見守る父親と母親。

1人の顔が懐かしくて愛しくて私は波の手を彼の頬に伸ばした。

水の飛沫が彼の口から喉を通り奥へ。

深く深く落ちて行く。

その先の子供の姿のままの彼に会えたら。

泣いていたら。

母親のように抱きしめてあげるのに。

やっと会えた。

ずっと一緒だ。

2人はこれから1人。





私は高1の夏休み焼き肉のチェーン店で短期のアルバイトをした。

理由は彼氏みたいなやつの誕生日プレゼントを買うためだ。

夏休み前にちょっと喧嘩してギクシャクしてる最中だ。

今はちょっとした冷却期間中。

私が今働いているのは焼き肉店の炭焼き場の中。

文字通りここで釜で炭を焼いている。

面接の時店長に

「ここ普通の接客より女の子はきついけど平気?」

聞かれたけど納得。

バンダナ・マスク・長袖の制服に長ズボン・エプロン・鍋つかみの親分みたいな耐熱グローブに火箸は標準装備。

ここだけ冷房が無い。

客が来店すると火箸で釜から赤く燃えたレンタンを炭坪に入れる。

客が帰ると汚れた炭坪を金ダワシで洗う。

肉の脂で焼け焦げた網は化成ソーダにしばらく漬け込んだ後手洗い。

入ったばかりの下っぱの仕事だ。

手が空いたらキッチンの下げ場を整理したり時々ご案内に出る。

結構きつい仕事だ。

夕方5時から夜10時までの仕事。

初めてのバイトだし結構楽しい。

ある日仕事を終えて家に帰ろうとすると同じバイトの大学生たちに呼び止められた。

「今からファミレスでご飯食べてくけど行かない?」

その日は母が近所の友達と旅行に出ていて夕飯買って帰ろうと思っていた。

「場所は何処ですか」

聞いてみたら家から近い。自転車置いて帰っても.すぐに帰れる。

私の他に地元の女子大に通ってる南さんもいるし私は
「行きます」

気軽に返事をした。

ちらりと国吉の顔が脳裏を過るが。

いいや.あんな分からず屋。

私たちは大学生の男の子の軽に乗り込んだ。

途中で誰かが。

「やっぱ途中で食いもんと花火買って海いかね?」

「いや…私は海よりファミレスのハンバーグセットが…」

「いーじゃん近くだし行こうよ行こうよ」

その場のノリで押しきられた格好になった。

まあ…海の側に近づかきゃいいか」

と私は考えていた。

地元の夜の砂浜は街灯も暗い。

波の音だけがやたら大きく胸に迫って来る。

元気いっぱいの若者たち(私を除く)車を降りると2人の男の子たちが砂浜に向かって駆け出した。

私と南さんはゆっくりその後を追って防波堤の階段を降りた。

男の子2人の体が砂浜に突き刺さったように動かない。

前に進みたいのか後ろに戻りたいのか。

砂浜の上で妙なタコ躍りを踊っていた。

「どうしたんですか」

私が遠くから声をかけると1人が振り向いて

「足が動かない」

その時私は見た。

波間に赤いドレスがいるのを。

それは.あるではなく.いたのだ。

波の上を漂うのではなく立ってこちらを見ていた。

本当に一瞬の出来事で。それはもう波打ち際に来ていた。

尋常ではない早さでこちらに向かって走って来る。

いやもし本当に走ってるなら.こんな早さで砂浜を移動出来るはずがない。

その場にいた全員が悲鳴を上げた。

赤いドレスは血溜りから這い出て来たように黒ずんで汚れていた。

何かを掴もうとするかのように両の手を前につきだして.動けない2人の体をすり抜けた。

逃げようとして砂浜に尻もちをついた私と南さんの間を通り抜けて消えた。

目と鼻があった場所には黒い穴が空いているだけ。

ただ咆哮するように口だけが大きく開けられていた。

女は声にすらならぬ叫びをあげていたのだ。

私が幽霊を見たのは後にも先にもそれだけだ。

車に逃げ込むと私と南さんは2人で後部席に縮こまって震えていた。

呪縛から解かれた残り2人が車に乗り込むとすぐにその場から逃げ出した。

誰も口を聞かなかった。

地元のコンビニの駐車場についても誰1人口を聞かない。

そのうち南さんが鞄から何か取りだし指先でボタンを押している。

「南さん」

「携帯買ったんだ」

南さんは誰かと話をしていた。私にも貸してくれた。

自宅にはまだ誰もいないようで呼び出し音だけが耳もとで鳴っていた。

国吉に電話すると本人が出た。

私は先程の出来事を国吉に向かってまくし立てた。

「今どこ」

「御幸町のセブン」

「わかった」

電話は切れた。

10分後南さんの彼氏の車が駐車場に着いた。

「乗ってく?」

と言われたが。

「大丈夫です」と断った。

すぐにライトを点けた国吉の自転車が駐車場に入って来た。

私は国吉の自転車の後ろで彼の背中につかまって暗い田舎の夜道を帰る。

その頃はまだ周囲に畑とか田んぼとかばっかりで量販店とかパチンコ屋とか出来る前で街灯もまばらだった。

帰りの夜道は暗かったけど私は怖くなかった。


国吉の背中につかまり夜道を照らす自転車の行く先が私にはちゃんと分かっていたからだ。



《 MEMORIES OF WATER 了 》



【 あとがき 】
最初お題を見た時バッドエンドしか思いつかなくて・・奏雨エンドがそうですね。

だから本当のヒロインは彼女だと思いました。

ひと月放置してもこの終わりしか思いつかず。

バッドエンド書きたくなかったので回避するかたちで話を書いて行きました。

でもそのまま最初のイメージ通りのラストも残りましたが・・。

今回は主人公に大分助けられたかんじがしています。

最後まで読んで下さいまして、ありがとうございます。

次回は短いお話書きたいです。

【 その他私信 】
お茶摘み剪定がやっと一段落しました。少し遊べるかな・・


ココット固いの助
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