Mistery Circle

2017-08

《 青の夢、白の夢 》 - 2012.05.01 Tue

《 青の夢、白の夢 》

 著者:望月






 目の端を細やかな泡がゆっくりと登っていった。
 その泡たちを視線で追って、眩しい陽射しに目を細めた。
 視界を遮る影、影、影。反射する光。そしてまた、影。視界は鮮やかで賑やかだった。
 舞い踊るように、チカチカと群れている銀色の小魚と、その周りに入り混じる色も形も様々な熱帯魚たち。
 重力から解き放たれたかのように、優雅にふわりと浮かんで行く脚の長いクラゲに、数匹で群れを作って泳いでいくブダイの仲間たち。
 気持ちがいい。
 辺りは温かくもないが冷たくもない。まるで最高級品の毛布のような柔らかさで、水が体の表面を撫ぜていく。
 頬に流れを感じてふと視線を上げると、一メートルほどもある青ブダイが泳いでいた。白い腹を見せて、尾ひれをゆるやかにくねらせて目の前を泳いでいく。
 耳に当たる海藻の感触がこそばゆくていただけない。それでも目の前の光景に変化を与えたくなくて、私はその場所を動かなかった。
 背中と四肢の裏に感じる地熱が気持ちいい。
 水の流れが変わる音や、細やかな泡が登って行く音、耳元の海藻の立てる音を耳の中の空気越しに聴いて、私はゆっくりと目を閉じた。

 目が覚めた時、私は自分の体を知覚してがっかりした。
 あー、と思ったときには、色鮮やかだった夢が急速に色褪せていく。思い出そうとすればするほどに、瞼の裏の情景は白く塗りつぶされていった。
 何度経験してもこの瞬間は嫌いだった。
「海……」
 シーツに額をこすり付けて体を丸める。喰いしばった歯の間から抑えきれない呻き声が漏れた。
 水に触れたい。海に行きたい。あの浮力を持った塩水の中で何も考えずに一日中揺蕩っていたい。海に行きたい。海に潜りたい。海に。
 息を吸い込むと、唐突に胸が痛んだ。いつものように喉元を押さえて、私は意識して深呼吸を繰り返した。喉がヒュウと音を立てて、小さく咳き込む。咳は一旦出始めるとなかなか止まらないから困る。
 やけに寒いと思ったら、どうやら熱が出てきたようだ。
 枕元のナースコールのボタンをチラリと見やるが、薬が必要なほどではないだろうと思い直す。ベットの向かいに掛かっている時計は午前五時を過ぎたばかりだったが、どうせあと三時間ほどもすれば朝の診察が始まる。薬が欲しければその時に言えばいいだろう。
 目を瞑って呼吸を整える。あと三時間。診察が始まるまでに、もう一眠りしよう。
 眠ることができれば、きっとまた、あの青い世界に潜ることができるだろうから。

 ゆらりと意識が浮上する。
 ふと気が付くと、私は海の底近くを仰向けに漂っていた。視界は仄明るい。くるりと体を反転させて下を臨む。
 まだ春の半ばだというのに、風のない道には、夏を思わせる熱く湿った空気がよどんでいる。
 呼吸を繰り返しながら、水を空気と捉えた自分に気づいて小さく笑った。
 この柔らかい水の中では、肌に触れる水は大気と変わらないほどに軽い。そのくせ、時折ねっとりと纏わりついてくる水流の感触は水の上で感じる不快感と変わらない。
 周囲をぐるりと見渡しても、遮るものは何もなく、遠くを見透かすとだんだんと薄闇が濃くなっていくのみだった。水温の割に、水面が遠い。
 足元は柔らかい砂地で、私の尾ひれの動きに合わせて細かな砂がゆるやかに舞う。
 私は一匹の小さなイルカだった。
 身体が軽い。水の抵抗が心地いい。尾をくねらせるうちに楽しくなって、くるくると円を描きなから上昇し、下降する。
 移動するにつれ、視界が次第に賑やかになっていく。
 ふと気が付けば、自分のすぐそばをもう一頭イルカが泳いでいた。新だ。どちらともなく尾を力強くくねらせて、上に下にと速さを競い合う。新の楽しげな鳴き声を聴いて、私も自然に笑い声が漏れた。
 水面が近づく。キラキラと光る水面を一瞥してから、その場で鋭角のターンを決めた。

 ―――お前は水に魅せられているね。
 祖父の苦笑した顔を見ていた。日本家屋式の大きな家の、家の庭にある池の中から。足を境に逆さに見える祖父に、水に仰向けに浮かんだまま幼い私は笑顔を向けた。
 水が気持ちいい。短い脚を交互に動かして水面に飛沫を立てる。
 母が着せてくれた、おろしたての真っ白なワンピースは水を吸って重くなっている。
 足の先を見ながら、そのまま視線を真上へと移した。月光に縁どられた祖父の顔越しに、満天の星空が広がっている。
 水底から見上げる水面に少しだけ似ていると思った。

 気が付くと、すぐそばに祖父が座っていた。私の額に手を当てて、そのまま手を滑らせて髪を撫でてくれる。
 私が起きたことに気が付くと、渋面が少し和らいだ。先ほどまで見ていた夢の中と同じように苦笑して、おはようと言った。それに返して、ベッドに身を起こす。目の前に掛かる長い前髪を後ろに流した。
「気分はどうだね」
「朝はちょっと悪かったけど、今は悪くないよ。いつ来たの?」
「三十分ほど前だ。今日は予定があるからもうすぐ帰るけどね。新のところにも寄ってきたよ。よく寝ていた」
「そっか」
 時刻は午前十時を回ったところだった。朝の検診で起こされなかったということは、今日もまた様子見の日だったのだろうか。
「五時くらいに起きたんだけどなー。また検診なかったみたい」
「ふむ。……今日は夢見は良かったのかね」
 いつもと同じように私の瞼や舌、喉などを確認しながら祖父が言う。
 今朝の夢を思い出すと自然に口元が綻んだ。この病院の先生方にも、両親には夢の話をしたことはなかったが、小さい頃からいつも私の味方をしてくれる祖父にだけは夢のことも伝えている。
「良かったよーいつも通りの海の夢で今日はイルカだったよ。新もいて一緒に泳いだんだけど、すごく速く泳げてすごく気持ち良かった。今日は会話はしなかったかな? あと、昔の夢も見たよ。おじいちゃん家の庭で泳いでたんだけど、あれ今思うとすごく恥ずかしいことしてるよね」
「懐かしい夢を見るねぇ。私も今思い出したよ。……今日も夢だと分かったかい?」
「相変わらずね。ここまでくると夢ってなんだろうって思っちゃうよ」
「かなた」
 祖父が困ったように眉根を寄せた。いつも親身に話を聴いてくれる祖父も、私がこのような言い方をするのは好かないらしい。続く言葉を想像して、愛想笑いを向けた。
「現実と夢とを違えてはいけないよ。夢は夢だ」
「大丈夫だよ。分かってる。夢は夢だもんね」
 分かっていると言いながらも、祖父の顔から視線を逸らしてしまう。反発したがる体は正直だ。それでも、祖父の心配してくれる気持ちが分かるから反抗はしない。
「……夢の中はすごく自由だからさー、どうしても憧れるんだろうね」
 足も動くし、と呟いて布団に隠れている自分の足を見つめる。常にしびれを持ったこの両足は、もう慣れてしまったことではあるけれども、不便さは変わらない。麻痺してしまった足がさらに固まってしまわないようにと、意識して足先を動かした。
「自由な世界か」
「うん、そう。だって、あっちにいる時は夢だって分からないもの。耳も聞こえるし、記憶もあるし、感覚もあって違和感感じなかったら、どうして夢だって分かるんだろうね?」
「……起きたら夢だって分かるだろう? 今のは夢だったんだ、って思えばいいじゃないか」
「起きたらね。でもあっちにいる時はこっちのことが夢みたいな感覚だもの。今この瞬間も、本当は夢かもしれないなーって思ってるんだよ。どっちも現実だと思うなら楽しい方がいいなーって思っちゃうんだよね」それに、と続けた。
「新がいてくれるし。どんな世界にいても新はついてきてくれるし、沢山私と話してくれる。こっちの新は一言も喋らないのに、夢の中ではいくらでも私に笑いかけてくれるんだよ。凄いよね……」
 祖父は困ったように笑うだけで、言葉にはしなかった。相槌に困る話題だろう。元より言葉を期待していたわけではないから、私も語尾を曖昧に濁した。
 しばらくの空白のあと、祖父が躊躇いがちに唸りながら口を開いた。
「いつか聞こうと思っていたんだが……かなたは夢の中で、どうして新だって分かるんだい?毎回姿が違うんだろう? 夢でかなたが願った通りの姿になって出てくるってことかな」
 祖父の言葉を吟味してから、「ううん」と否定する。
「別に願ったことなんてないよー。潜在的とか言われたらわからないけど。でも新だったらどんな姿になってたって見れば分かるよ。 双子だもん」
「でも新とは五年間話してないんだろう?」
「時間がどれくらい経っていたって、自分は自分のままでしょ? 外見なんか関係なくて自分のままでしょ。それとおんなじだよ。新はどんな姿になってたって新だもの。話し方が変わっていたって姿が変わっていたって私には分かるよ」
「自分と他人は違うと思うんだが……そういうものかなぁ」
「そういうものだよ」
 腑に落ちないというように、首を捻る祖父に内心で苦笑する。
 夢の中なのになぜいつも新がいるのか。なぜいつも新のことが分かるのか。兄を願う妹の妄想ではないのか? そしてなぜ、海の夢なのか。祖父が考えているのはこんなことだろうか。
 私にしても、全てを言葉で説明できる気はしない。それでも、夢を見れば必ず新がいる。それはもう私の中では当たり前のことであって、疑いようがない事実だ。
 そもそも詐欺や思い込み、妄想の類も、本人が信じていて幸せならば真偽はさほど重要ではないのではないですかね? などというのは、私の勝手な自論だけども。
 考え出すとキリがない。ゆるゆると首を振りながら、ベットにとぐろを巻いている自分の長い髪先を見つめた。十歳の時から伸ばし続けているこの髪も、五年間でかなりの長さになった。
 新が目を開けなくなってから五年。私がこの入院生活を初めてから五年。時間が経つのは本当に速い。
 長くて短い五年間。本当は夢の中だけではなくて、現実世界の体調なども新と繋がっていると言ったら、祖父は信じるだろうか。
 祖父が手元の腕時計に目を落とした。
「―――ああ、時間だ。かなた、すまないけど私はそろそろ行くよ。今日も元気な顔を見れて良かった」
「うん、わかった。ありがとう。気を付けて帰ってね」
 ビジネス鞄を抱えて部屋を出ていく祖父を親愛の笑みで見送る。これからどこに行くのだろう。少ししか会えなかったが、会いに来てくれたことが嬉しかった。
 さて、と独り言で呟く。
 個室の中をぐるりと見回して、ブラインドに目を止めた。ブラインドの隙間から見える光の強さで、ああ今日もいい天気なのだろうなと想像がついた。
 外に行くのもいいのだけども……
「新に会いに行こうかな」
 ベッドのサイドテーブルに乗っていたシュシュで、髪を右耳の下にまとめた。これで大分動きやすい。
 足が攣らないようにと、足先を動かしてからベッドから足を下ろした。
 
 スリッパの音に混じって、物を引きずっていく物音が響く。
 病院の廊下というものは、どうしてこうも音が響くのだろうかと考えたけれども、答えが分からなかったので、まぁいいやと思考を放棄する。
 足を引きずりながら、ゆっくりゆっくりと歩いて行く。辺りに人気はなかった。
 特別病棟へと向かうこの通路は、何回通ったか分からないほどに通い慣れた道ではあったけれども、今日ほど人が少ないのも珍しい。
 二階から一階へと階段を下り、突き当りまで足を引きずりながら進む。「金生」とプレートのついた部屋の前に立った。今日は誰にも見咎められなかったことにホッとする。  
 病院の先生方は、私が新に会いに行くことをあまりよく思っていないようだった。こうして新に会いにきても、先生に捕まるとやんわりと部屋に帰されてしまう。
 看護師の人たちにしても、先生方の指示を聞いている人たちは厄介だったから、今日は運が良いと言えた。
 左右を見回して誰もいないことを確認してから、するりと新の部屋に潜り込んだ。
 ドアを後ろ手に閉める。かすかに消毒アルコールの匂いがする。電気の点いていない薄暗い部屋の中でまず聴こえるのは電子音だ。
 ピ、ピ、ピ、ピ、と規則正しくリズムを刻んでいる。しばらく耳を澄まして、その電子音に乱れがないことを確認してから、部屋の中央奥に備え付けられたベッドへと向かった。
 電気は無駄に見つかるだけだから点けない。遮光カーテンの隙間から漏れている陽光だけでも、障害物を避けて移動できる程度には明るい。
 ベッドに横たわる人物を見つめて、私はベッド脇の椅子に静かに腰を下ろした。
「おはよう新」
 ベッドに眠る、兄の瞳は今日も開かない。もう五年間もこのままなのだから、分かっていることではあるけども、 毎回新と遊ぶ夢を見るたびに期待してしまうのは仕方がない。
 しばらく新の瞼を見つめて、動かないと見切りを付けて溜めていた息を吐き出した。
 手足を行儀よく仕舞われたかけ布団の中に手を差し入れて、新の細い腕を引っ張り出した。指を絡ませる。
「今日も遊んでくれてありがとうね。イルカになったのは初めてだったけど、楽しかったよねぇ。最後のターンとか凄くなかった? また行きたいなーあの海」
 応えのない兄に対して、こうして話しかけるのも苦ではなかった。むしろ、部屋に一人でいるよりはずっと穏やかな気持ちになれる。
 空いている片方の手で、新の肉の付いていない頬を撫ぜた。 動かない瞼を親指の腹でなぞって、乾燥の目立つ唇に眉を顰める。  
 頬骨の当たる感触はあまり良いものではないけれども、それでも温かい頬に触れると新が生きていることを実感して安心できた。
「今日朝熱出てたよね。ちょっと心配したよ? おにーちゃん」
 熱が下がったようで良かった。手を握ったまま、ポフポフと布団の上から軽く叩いた。
 そのまま静かな部屋の中で、自分に似た片割れの顔をじっと見つめる。
 新が熱を出すと、私も熱を出す。新が怪我をすれば、私もその箇所が痛む。それは物心ついた時から当たり前にあったことではあるけども、五年前に新がこの状態になってからはより顕著に表れるようになっていた。
 新の腹部の辺りを見つめる。最近、胃腸の辺りがシクシクと痛むことがある。新の担当の先生いわく、新の胃の辺りには悪性の腫瘍がいくつかあるようで、三日後に手術をするらしい。
 私は入院している身ではあるけれども、手術などはしたことがない。ただ漠然と、手術という言葉に恐怖心を抱いていた。新の手を握る手に力を入れる。
「新……」
 体を倒して、新の布団に顔を落とした。新の顎を下から見上げる。
「新今頃何してるの? 私のいない海で泳ぎまわってるのかな」
 それは少し面白くない。
「さっきおじいちゃんが来たでしょ? 気づいてた? おじいちゃんにさーなんで夢の中で新がわかるのかーって聞かれたよ。全然上手く説明できなかったけど。説明なんてできないよね。私だってなんであんな夢ばかり見るか分からないもの」
 布団に頬を押し付けて、電子音を聴きながら思考を巡らせた。
「……新と体調とかシンクロ……完全にシンクロはしてないか。ちょっと? してて、精神っていうの? 夢の世界でも繋がってるなら、私の元気を分けてあげられないのかな……」
 精神だったら、と思う。ここでは話ができなくても、あちらの世界でならば。
 あっちで新が私の分の元気を貰ってくれたら、 新も元気にならないだろうか。
 夢の中で何度も、起きようよ、と誘ったことはある。そのたびに困ったように笑う兄は、起き方が分からないのだろうか。それとも、起きたくはないのだろうか。
『体なんて入れ物にすぎないんだよ』
 以前の夢で、コモドオオトカゲになった新が、のっそりと訳知り顔で言っていたことを思い出す。
「分かるようなわかんないような」
 夢を見ればいつでも会えるけれども、叶うならばこちらの世界でも一緒に話したい。夢の中の話をして、一緒に笑いたい。感覚を共有したい。
「海、行きたいなぁ……」
 こちらの世界ではもう五年以上行っていない。あのキラキラとした世界を、砂浜で浴びる太陽の陽射しを、今体感したらどのような感想を持つだろうか。
 胃の辺りが痛む。
 新の顔を見続けて、ふとベッド上の時計を見て時間の速さに驚いた。
 あまり長時間いると、見回りの先生や看護師の人に見つかってしまいそうだ。
「また来るね」
 またね、と新の髪を撫ぜた。

 辺りの物音がうるさいなぁと思った。
 やけに熱い。息ができない。 誰かが叫ぶようにして誰かを呼んでいる。
「―――ナウさん、カナウさんっ、金生さんっ!」
 目を閉じたまま、びくびくと痙攣する自分の体を知覚したとき、私は愕然として跳ね起きた。
 暴れないようにか、体を押さえつけようとする手を外そうともがく。
「―――っだいじょうぶ、大丈夫です。起きました! 仲井間さん」
 腕を軽く叩く。強く押さえつけられていた手の力が緩んだ。
 動悸が激しかった。辺りの気温は熱くないのに、べっとりと汗をかいている。
 速い呼吸を戻そうと深呼吸をする。眩しい光に目を細めながら辺りを見回すと、ベッドの周りは掛け布団やサイドテーブルの物が散らばり、乱れに乱れた状態だった。時計は二時を指している。真夜中だ。
「大丈夫ですか、金生さん。呼吸できますか」
 押さえていた手を放して、仲井間さんが私を覗きこむ。若い仲井間さんが私の担当になってからのこの二年間、一度も見たことがないような深刻な顔をしていた。
「すみません、こんな夜中に……」
 下瞼を押し下げられる。蛍光灯の光が眩しい。
 いつもきれいにまとめられている仲井間さんの髪が乱れているのを見て、申し訳なくなる。
 深呼吸を繰り返すうちに汗が引いていくのを感じた。身体にはどこも痛いところはない。喘息の気もない。こんな発作を起こしたのは初めてで、頭が混乱していた。
 今日は夢を見なかった気がする。それとも見たのだろうか。どちらにしても、いつも覚えているような楽しい気分は皆無だった。
 新にも会っていない。
「…………」
 呼吸が止まった。新。
「仲井間さん……」考えすぎかもしれない。思い至った不安に、声が僅かに震えた。
「……新は?」
 ただ一言、「いつも通り寝ていますよ」という言葉が聞ければ、それで良かった。
 それなのに。
 一瞬、私の言葉で仲井間さんの目が逸らされるのを見てしまった。
「―――夜半からちょっとだけ調子が悪いみたいですが、今先生方が看ているので大丈夫ですから――――」
 頭の中が真っ白になっていく。仲井間さんの言葉も急に遠くに聞こえた。
 意識のない新の体調が悪い。夢に新はいなかった。発作を起こしたにもかかわらず、体に悪いところは感じられない。痛くもない。私じゃない。
 ―――であるならば。
 半ば無意識のうちに、喉から悲鳴が漏れた。

 途切れ途切れの言葉が聴こえてくる。
「このままでは―――……緊急に……すぐにでも手術を……」
 頭がぐらぐらとする。視界が定まらなくて、まるで現実味がなかった。
 これも夢なのだろうか。今までも海以外にも夢を見て、新がいたことはある。
 夢を見ている間は、それが夢だなんて分からない。知識も経験も感覚も感情も、夢の中で感じることができるならば、覚めるまではそこが現実になる。
「新を助けないと……助けないと」
 心臓の動悸がうるさくて、頭がガンガンと鳴り響いていた。
 新の病室には、先ほどから白衣を着た先生たちが何人も出入りしている。
 今日ほど思うように走ることができない足を呪ったことはなかった。新の顔をほんの少し見ただけで、病室に入ることが叶わない。
 不規則な電子音が、やけに大きく聞こえる。ギュッと目を閉じて、両手で耳をふさいだ。
 人垣の間から垣間見えた新は、いつも通り静かに眠っているように見えた。それでも、周りの緊迫した空気が、飛び交う言葉が、血の気を失った新の顔が、五年前のクルージング事故を思い出させた。
「新……あらた、あらた新あらたあらた」
 全身から冷たい汗が噴き出てくる。
 夢ならば、覚めてほしい。この世界から今すぐに脱出したい。
「……あ」
 思い当ってハッとする。新の容態が悪くなったとしても、夢ならば繋がっているだろうか。
 身体なんて、と言っていた新を思い出す。
 可能性は低い。夢の中に、新はいるだろうか。会えるとは限らない。いつ容体が変わるか分からないならば、ここで待っている方が良いのではないだろうか。
 それでも、可能性は―――…
「新……新、あらた、待ってて」
 睡眠薬ならば個室に数錠置いてあったはずだ。
 慌ただしい病室を見てから、歯を食いしばって踵を返した。

 私は巨大な穴の入口、中央部分に漂っていた。
 下一面は真っ暗な闇で、私の位置からでは全貌が把握できないほど巨大な穴が開いている。穴の中から冷たい水が湧きあがってきていて身震いした。
 ごつごつとした岩肌をむき出しにして、岩の淵から細やかな砂を呑み込んでいく。
 深い海の底に開いた、巨大な落とし穴だと思うとなぜだか笑いが込み上げてきた。
 今この瞬間が、夢だと分かる。 
 海が好きだ。海が好きで大嫌いで、それでも毎日海の夢を見るほどに惹かれている。
 現実の海ではない。こうして、過去に来た海や、家族で見た映画の海の記憶を追っているだけだ。それでも、海に潜れば安心する。我ながら、憑りつかれているのかもしれないと笑った。
 やることは分かっていた。
 おかしくて怖い。怖くておかしい。
 こういうのもありかもしれない。鼓動が煩い。穴の中に降りていく。光すら届かないほどの闇の中に、ゆらりと蠢く影を見つけて、言い知れない安堵感が体を包んだ。唇が震えた。
「―――新。良かった」
 降りていく私に合わせるように、巨大な黒い影が上昇してくる。
 それでいいんだよ、と小さくガッツポーズを作った。体調の同調、精神世界でのリンク、栄養の補給。それらが全て、体のある世界にも反映されるならば。
 この世界に新がいて良かったと本当に思う。この青い世界で新と繋がっていて良かった。
 もっと上がってきて、私を見て。どこにいたって新が私を見つけてくれるなら、私だって新を探すよ。私が新を助けるよ。
 尾鰭に力を込めて急降下する。
「かなた」と新の声がした。「かなた」
 新の声にいよいよ泣きそうになる。さっき見た新の体は、もう戻ってこれないような危うさがあったから、声を聴けることがこんなにも嬉しい。
「新、今新の体どうなってるか分かるよね。私が何して欲しいか分かるよね? 私まだ、新と離れたくないよ」
 冷たい水の中に涙が混じった。
「海が好きだよ。お父さんとお母さんと、新と潜った海が好きだよ。海で全部変わっちゃったけど、それでもやっぱり捨てられないよ。新はもう起きたくない? どうして夢に出て来てくれたの?」
 だんだんと、自分でも何を話しているのか分からなくなる。
「夢なのかな。やっぱりこれも全部全部夢で、本当は病院にいる私すらも夢で、起きたら全部忘れられるのかな」
「自分が本当だと思ったなら、そこがどこの世界でも現実になると思うよ」
 深く響くような、穏やかな声がする。病室では死にかけているくせに、こんな状況でも冷静な兄が、らしすぎて泣き笑いした。
「新はこの世界を本当の世界だと思うことにしたの?」
「僕にとっては、ここが現実世界なんだよ、かなた。だから、そっちの世界で僕が死んでも、またこの世界で目が覚めるだけなんだ。夢の世界にはかなたはいない。だから、僕は夢を見たくはないんだよ」
「……あらた?」
「夢を見るんだ。僕も眠ると白い夢を見る。でも、夢の中ではかなたも誰もいなくて、ただゆっくりとした時間と、ピッピッピっていう電子音が聴こえるだけなんだよ。かなたの声がしても、何も話すことができない。身体を動かすこともできない。応えることもできないんだよ」
「…………」 
 新の絶句して、息を飲んだ。それは、その世界は―――……
「わかってるよ。あれがかなたのいう現実世界なんでしょう? 僕の身体もそこに眠ってるんでしょう。でも、やっぱり実感がないんだよ。知識があって、記憶があって、感覚がある世界が現実世界というならば、僕はここなんだ」
「でも、でも!」
 頭がまとまらない。言葉が続かない。それでも、混乱する頭でも、一つだけ確かなことはあった。
「新が今病室で死んじゃったら、すごく悲しいよ……? 夢は起きたらずっとは覚えていられないもの……いつも来てくれるおじいちゃんも悲しむよ」
 下に向かって手を伸ばす。新は動かない。
「新にとっては夢かもしれないけど、私にとってはあっちが現実なんだよ。夢から醒めて、新がいないと分かるのはすごく寂しくて悲しい」
 血の気を失った新の顔が浮かぶ。
「新今、すごく危ない状況なんだよ。ずっと寝てるから体力がなくて、手術に耐えきれるか分からないんだって。……だからね、私が助けるから。絶対に助けるから、お願い。せめて少しだけでも、起きようとしてみて。……夢の中で動こうとしてみて。お願い」
 情けない。新を助けるつもりで、蓋を開けてみれば自分が新から離れたくないだけだった。
 新にとっては、苦痛でしかない世界かもしれない。何もない世界で、ただ白い時間だけが過ぎる世界は、悪夢だろうか。
 それでも、と願ってしまう。手はいまだに、新の頬の温かさを覚えている。
 新にこの世界でしてほしいことがあった。助けられると思ったから来たのに。
「私が! 助けるよ! だから!」
 涙が溶ける。あとからあとから出てくる涙に、情けなさを覚えてまた泣けた。
 無言だった闇が、わずかに身じろぎした。 
「……仕方ないなぁ、かなたは」
「新」
「わかったよ。僕もこの世界でかなたがいなくなったら悲しいもの」
 苦笑した気配を感じる。目の前が、急に明るくなった気がした。
「新!」
「かなたが僕にここでどうして欲しいかも知ってるよ。でも、どうなるか分からないよ? 僕にとってはここが現実で、かなたにとっては夢の中だし、確証はないよね。それでもやるの……?」
「やる」躊躇わずに頷く。そのために来たのだ。
「プラシーボ効果の要領だよ」
「全部をネタバレしてからじゃ意味ないだろ。効果なかったらどうするんだよ」
「御託は良いの! 全部全部、やれることやってから諦めるって決めたんだよ」
「ほら」と下に向かって両腕を広げる。
 しばしの躊躇うような時間を置いて、闇が迫ってきた。巨大な生き物が、海の底から上がってくる。
 名前を呼ばれたから、私も相手を見た。
 穴の闇よりも、なお暗い。視界一面真っ黒な空洞と、それを縁どる歯、歯、歯。肉を削ぐための鋭い前歯と、びっしりと並んだ平たい奥歯。
 私の意図を汲み取って、拒否しないことが嬉しい。
「ありがとうね」
 小さく聞こえた声は、どちらのものだっただろうか。
 そうして、私の意識は闇へと消える。


 ふと気が付くと、私は手術台の前にいた。
 目の前には、十五、六歳ほどの少年が吸引器をつけて横たわっている。
 やるべきことは、頭の中に入っていた。
 手元のメスを握りなおす。

「よろしくお願いします」
 穏やかな声が耳朶を打って、思わず顔を上げた。

 手術台の向かいで、助手の姿をした新が微笑んだ。



《 青の夢、白の夢 了 》



【 あとがき 】
こんにちは!
胡蝶の夢を思い出しながら書いておりました。
夢と現実って、自分が体験する限りはその境界って結構曖昧なのかなぁと。

気が付けば社会人になって早2年目になり、時間経過の速さに嘘だぁああああと焦りながら日々を過ごしております。
あれ……ついこの間生まれたばかりでしたのに……


『 kaleidoscope 』 望月

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