Mistery Circle

2017-08

《 黄昏時の女神 》 - 2012.01.31 Tue

《 黄昏時の女神 》

著者:鎖衝




 それは、身体の奥底から沸騰して湧き上がって来るかのような、深い深いあくびだった。
 ――疲れてるなぁ。思いながら私はそのあくびを絞り出し、それからようやく目を開ける。そしてまた再び憂鬱な朝がやって来たのだと自覚して、顔をしかめた。
「……うるさい」
 私は呟き、ゆっくりとその行動を開始する。
 全身でごろりと転がって、その勢いでベッドの端まで転げて行けば、そのままフローリングの床へと落っこちる。
 ベッドと言っても、それはただ床にマットが直に敷いてあるだけのもの。従って段差はそれほどでもない。むしろ、落ちた時の衝撃が程よい刺激となり、床の冷たさと共に心地良くすら感じられる。
 そして私はそのまま床を這うようにして、私を起こそうとするけたたましい物体へと近付いて行く。
 ――目覚まし時計。
 私がこの世の中で二番目に嫌悪している物体だ。もちろんそれより遥か上にランクインしている堂々の一位は、“締め切り”と言うものなのだが。
 バンと音を響かせて、クマの頭をひっぱたく。あぁ、もちろんそのクマとは、私の天敵である目覚まし時計そのものだ。徹底してディフォルメされた、コミカルなクマの置き時計人形である。
 そうしてまたその世界の中に静寂が戻れば、自然にまた、まぶたは閉じられて行く。
 素肌に直接伝わる床の冷たさにうっとりし、後十分ぐらいはのんびりしていてもいいかなと思った頃――。
「起きなきゃダメなんじゃない? 今日はさすがに遅刻が許される相手じゃないと思うし」
 頭上から声が聞こえた。女の声だ。
「……レイミ?」
 言って薄目を開けながらテーブルの方を向けば、やはりそれは彼女だった。
 私と瓜二つの顔と容姿を持つ彼女は、椅子に腰掛け、朝刊を開きながら珈琲をすすっている。
「私にも珈琲ちょうだい」
 言うとレイミは、「じゃあまず起きろ」と、冷たく言い放つ。
 仕方なく、私はスローな動作で起き上がる。どうやら昨日も作業途中で眠ってしまったらしい。両手を見れば、それは色とりどりな絵の具で染まっていた。
 床に落ちたブラを拾い、両手を同じように絵の具で染まるシャツを拾い、それをのろのろと身に着けながら、レイミの向かい側のテーブルに着く。
 そうしてそこに置かれてあるノートパソコンに手を伸ばし、マウスをゆすってスリープ状態から目覚めさせる。
「また、天気予報?」
 またと言う部分を強調しながら、レイミは聞く。私は無言で頷くと、本日の鷺ノ宮市の天気を確認する。
 鷺ノ宮市は、ここから電車で一時間程の距離ものある、山向こうの大きな所だ。
 ――そして本日の天気、晴れ。しかも晴天。今日も向こうは暑くなりそうだなと思いながら、私は天気予報のマップを閉じた。
「それで自分の住んでる場所の天気は見ないんだから、面白いよね。彩夏は」
 そう言ってレイミは自分の飲み掛けの珈琲のマグカップを私の前に押し出して来る。しかもそのカップは私の愛用のものだった。
「ほっといてよ」
 言いながら私はそのマグカップを手に取り、一口珈琲を啜る。独特のその香りが、起き抜けの脳を敏感に刺激してくれる。
 橘彩夏。私の名前だ。職業は画家……と言えば聞こえもいいのだろうが、実際に絵を描いて得られる収入など無いに等しい。従って生計は、絵画教室の講師と、深夜の居酒屋のアルバイトで補われている。
 昔から絵を描くのが好きで美大まで出たものだが、こうして絵を描くと言う仕事を選べば、実際には学生の頃の数分の一程度しか絵を描く時間が無くなっていると言う現実に突き当たる。
 従って私自身の純粋な趣味のみで絵が描けると言う時間は、深夜のアルバイトのそのまた後の時間となるのだ。こうなって来ると、学生時代に友人達と遊び歩いていた時の無駄な時間がうらめしくすら感じられて来る。
「あぁ、そうか。今日は大槻さんと逢う日だった」
 言って、パソコンをシャットダウンする。
 ――シャワーぐらい浴びなきゃなぁ。思いながら私はまた珈琲のカップをレイミの方へと押し返し、急ぎ足で浴室へと向かった。
「絵は売れそうなの?」
 レイミがダイニングの方から大きな声でそう聞いて来る。私は急いで下着を脱ぎながら、「売れるといいねぇ」とだけ返事をしておいた。
「どうでもいいけど、自分を売ってまで絵を描こうとかしないでよね」
 レイミは尚も言ったが、私はそれには返事をしないで浴室の中へと飛び込んだ。
 頭から熱いシャワーを浴び、そして私は考える。もしも本当に私が大槻さんと付き合う事になったなら、やはりそれは自分を売ってまで絵を描こうとしている事になるのだろうかと。
 実際、彼には既に誘われている。それは大人な彼の貫録から来るものなのだろうか、決して私は拒まないと言う自信を持ちながら、何度か交際を迫って来ていた。
 そして私が彼に、「はい」と頷くのもそう遠い事ではないだろうと自覚もしている。私が今尚彼からの求愛を拒んでいるのはやはり、彼が私の絵を売りに出すバイヤーでもあり、そして彼には家庭があると言う部分に尽きる。
 もう既に私の心は彼に大きく傾いていると言うのに、彼を受け入れる事をためらってしまう事の原因は、そこにあるのだろう。
 身体にタオルを巻き付けてダイニングへと戻ると、もう既にレイミは消えていた。
 テーブルの上にはただ、冷たくなった飲み掛けの珈琲と乱雑に畳まれた新聞が置いてあるだけ。私はそれを見て、「全くもう」と呟いた。
 壁を見る。一つながりになった寝室の一辺の壁。そこに視線を移せば、レイミはそこにいた。
“暁の女神”
 そんなタイトルが付けられた、大きな絵画。その絵の中心に彼女は立ち、そしていつも通りの不思議な笑顔をたたえつつ、左腕を天に伸ばし、昇り始めた朝日に向かって端正な横顔を見せている。
 そしてあのレイミは、私自身でもあった。なにしろモデルが私なのだ。
 絵の中の私は今よりもずっと髪が長く、そして若い。一番綺麗な時を、ここに収めたいんだと、この絵を描きながら彼がいつもそう言っていたのを思い出す。
 そして彼はこの絵を描き上げ、私の前から消え去った。つまらない、些細な口論一つで別れてしまったのだ。
 だが、それと同時に私の前には、“レイミ”が現れるようになった。
 多分それは誰にも見えない。もしかしたら私自身にだって見えてない存在なのかも知れない。
 でもレイミはいつも私の傍にいる。彼――河合俊哉が、この絵ごと命を吹き込んだのだろう。レイミはいつも、私の傍にいてくれている。

「お待たせしました!」
 息を切らせながらそう言って、私は大槻の差向いの席へと着く。
「やぁ、今日も元気そうだね」
 そう言って、笑う彼。いつ見ても、どこにも隙が無いかのように揃えられた高級そうなスーツにネクタイ。温厚さと実直さが滲み出ているかのような笑顔。
 その業界で広く名前も知られていれば、多くの実績もある。実際に彼が評価した絵は必ず売れると言う定評すら良く耳にする。そして私の描いた絵は、全て彼が商品として売りさばいてくれている。
 彼には感謝こそあれ、何かを拒むと言う事など、普通では考えられない。それぐらいの恩人なのだ。
 今日も暑いねなどと軽い世間話をしながら、彼は私の名前を書き入れたファイルを取り出し、すぐに仕事の説明に入る。
 今売りに出されている絵の評価や、その相場。そしてこれからの展覧会の予定などを順番に話して行く。そして一通りの説明が終わった後、大槻さんは驚くような事を言い出した。
「依頼が来たんだよ。君個人に描いて欲しいって言う、絵の制作依頼が」
 そうして開かれたもう一冊のファイルには、彼自身がラフスケッチしたのだろういくつかの風景画と、モデルとなった風景のスナップ写真がそこにあった。
「ホラ、君の絵の中に、夏の夜を描いた作品があっただろう? あれを見て気に入ってくれた方がいてね。是非この作家さんに依頼したいんだと、そう言ってくれてるんだよ」
 そうして開かれた次のページには、その絵に付くのだろう値段が書かれてあった。
 驚きで目が見開かれる。どう少なく見積もっても、私のアルバイトの月収の半年分はあるだろう額だ。
「依頼はこうだ。君が以前に描いた夏の夜の風景と同じタッチで、その依頼人の田舎の風景を描いて来て欲しい。――ただそれだけ」
 なるほどと思った。恐らくこの報酬は、その絵を描きに行く旅費も含まれているのだろう。一体どんな地方の田舎なのだろかと思い悩んでいると、「僕も一緒に行くからね」と、彼は言い出した。
「北海道の、随分と西北の方だから。新幹線とフェリーを乗り継ぎ、路線バスも使って、ようやく辿り着ける秘境だ。もちろん近くには旅館なんてものも無いから、仕事が終えるまでは僕がレンタカーで送迎しなきゃいけなくなる」
「でも大槻さん、仕事の方は?」
「全部キャンセル。早目の夏休みさ」そう言って彼は両手を広げ、おどけて見せた。
「それに僕の仕事は、ほとんどが電話一本で済んでしまうようなものばかりだからね。それに今はパソコンが一台あれば事務仕事なんかは片付いてしまう。だから何の心配も要らないよ。君が絵を描き上げるまで、僕はずっと一緒にいてあげられる」
「でも、私の仕事に付き合わせる訳には……」
「これだって仕事さ」彼は言う。
「新人の発掘に、新人の育成。そして君には既に固定客も付きつつあるし、こうして制作依頼まで来るような才能だってある。だから僕は、この手で君を育てたいんだよね。君には一体、どれ程のセンスなんだろうって言う興味もあるしね」
 ――少しだけ、その言葉の中に嘘を感じた。そして彼自身の本性なのだろう、自信過剰な見栄や自慢。そしてその底にあるのだろう、下心さえも。

「……ふ……ん」
 思わず声が漏れた。
 彼の舌先が、私の首筋を這う。ゾクゾクとした奇妙な感覚が私の神経を麻痺させ、意識しないままに鼻に掛かった声を上げさせる。
 彼の手が伸び、衣服の上から私の胸を揉みしだく。キスもまた、慣れているのか濃厚で長く、ねっとりとした大人のキスだった。
 ブラインドを下ろし、電気も消したままの、薄暗い私のマンションの部屋だった。
 あぁ、昨夜少しでも片付けしておいて良かったなと思いながら、私は彼の行為に身をゆだねていた。
 それは特に、愛情でも打算でもなかった。ましてや仕事の一部ですらない。確かに心のどこかではまだブレーキをかけたがる自分がいたが、それよりもずっと大きい私の想いは、“寂しさ”なのだと、今こうして彼に抱かれながら初めてそれを知ったのだった。
 彼、大槻は、私を好評価してくれている。そして才能を認めてくれている。
 そして――私を欲し、私を求めてくれている。恐らくはその部分こそが、私の心のブレーキを緩和させている。それがこの場面になって初めて判った事だった。
 彼の指が、私の衣服のボタンを一つずつ外して行く。私は彼の背に手を回し、自らキスを求める。
「愛してるよ、彩夏……」
「本当に?」
「本当さ。最初に君を見た時からずっと」
「……嬉しい」
 ――嬉しい? 本当に?
 愛しているのは奥さんの方で、最初に見た時からずっと私に感じていた事は、ただ私を征服したいだけの下心ではないの?
 思いながらも、私の身体は快楽に身悶える。せめて抱かれている間だけは心を閉じよう。そう思った時だった。
 ――助けて!
私は大槻と舌を絡め合わせながら、何故か強烈にそんな感情が込み上げて来た。
 そして同時に想った事は、どう言う訳か彼の事。私を見て、君は俺のライバルだなと笑う、河合俊哉の記憶。
 彼は私なんかよりもずっとずっと繊細で、センスも良くて、創造性も意欲も遥かに上だった。そして彼はいつも私を敵視し、君だけには負けたくないと口癖のように言っていた。
 芸術は勝負じゃないでしょう。言いながらも私は、そんな彼の嫉妬心が嬉しかった。私が彼と同じレベルで創作が出来る事。ただそれだけで充分に満足だったのだ。
 だが今、私はその芸術と言うものとはまるで違う所にいる。
 私は、欠けて空いてしまった心の隙間を、よこしまな代価で埋めようとしている。
 ――助けて! 私は大槻にブラのホックを外されながら、心でそう叫んでいた。――その時だった。
 バン! 大きな物音に、私と彼は我に返る。そして私は驚いた。ベッドの横、壁に手を当て私を軽蔑した顔で見降ろしていたのは、レイミだった。
「あなた何してるのよ!」
「レイミこそ……いつの間に?」
「あぁ、びっくりした。テーブルから鞄が落ちたのか」
 大槻は照れたように笑い、ベッドを降りて立ち上がった。
「あなた、自分の才能の無さを身体で補うつもり?」
「いや……そんな訳じゃあ……」
「鞄、こんな所に置いたっけ? 確かソファーの横に置いたつもりだったんだけど」
「この男が認めてるのは、あなたの女としての価値だけよ。それぐらい判っていて、こんな真似してるんだよね?」
「……」
「あれ? へぇ、大きな絵だねぇ。しかも素晴らしい」
「こんな真似して絵が売れても、あなたの画家としての寿命は、愛人としての寿命が尽きるのと同時に終わるわ。――それでもあなたは満足なの?」
「……」
「“暁の女神”か。これ、君の筆のタッチじゃないね。一体誰が描いたんだい?」
「あなたの意欲って、本当にちっぽけなのね。なるほど、俊哉があなたに愛想尽かしたのが良く判るわ。あなたには実力で名を上げてやろうって言う信念が全然無い」
「……そうね」
「ねぇ、橘君。今日はここでゆっくりして行ってもいいかな。向こうでの制作プランも話し合いたいし」
「あなたが絵を描くのは、一体誰の為? あなた自身の為? この男の為? それとも、もう届かないだろう俊哉への為?」
「……」
「依頼の絵は、旅行にでも行く気分で考えておくといいよ。近くには温泉もあるし、泊まる場所だってなかなかのものらしいし。きっと二人でのんびり出来る」
「とにかく、この男を追い出して。流されっぱなしでこんな真似するあなたじゃあないでしょ?」
「……うん」
「大丈夫。もうアルバイトなんかしなくたって、絵だけで暮らせるようになるさ。僕が必ずそうしてみせる……あれ? どうしたの?」
「さぁ、早く! 私が蹴り出してやるから、あなたは玄関のドア開けて!」
「――判った」
「ちょ、ちょっと、橘君!」
 同時にレイミは大槻の片腕をひっつかみ、力づくでそれを引き摺る。私は言われた通りに玄関のドアを開けただけだったのだが、レイミは沈着冷静に大槻をその外へと放り出すと、靴と鞄も一緒にその外へと投げ捨てる。
「あ、ねぇちょっと、橘君! 帰れって言うなら今日は帰るけどさ。予定では来週の頭には向こうに行くからね!」
 レイミはドアを閉めに掛かる。だが大槻はそのドアの隙間に手を挟み、尚も続けた。
「お客さんの依頼は、蛍の舞う夏の夜の風景なんだ。こっちはもう夏本番のような暑さだけど、向こうまだこれからが蛍の季節だからね! 今の時期を逃したら描けない景色なんだからね!」
 彼の言葉の最後の方は、背後で閉まるドアに邪魔されて聞こえなかった。
 レイミはドアノブに鍵を掛け、ついでにチェーンロックまで嵌め込む。そうしてからようやく彼女は私の方へと向き直り、そして軽く、私の頬を打った。
「馬鹿ね。助けてなんて叫ぶぐらいの覚悟なら、家に上げちゃダメじゃない」
「……ごめんなさい」
 情けなさと恥ずかしさで、涙がこぼれ出した。
 レイミはもうそれ以上は何も言わず、そっと私の背に手を回し、優しく抱き締めてくれた。
「ありがとう。――珍しいね。今日は随分と優しくしてれるじゃない」
 私が言うと、「まぁね」とだけレイミは答えて、薄く笑った。
 やがて嗚咽が、私の口から突いて出た。何年振りかに感じる、激しい衝動でもあった。

「ねぇ、どうして人間って、たった一人の存在にこうも囚われるものなんだろうねぇ」
 酔いが回り、少々呂律の回らなくなった口調で私は聞いた。
 部屋の中、私とレイミの二人きり。目の前のテーブルには、既に空になったビールの缶が三本も並んでいた。
「さぁねぇ。何でなんだろうね。人ってのはこんなに沢山いる筈なのに、どう頑張っても忘れられない“一人”って、いるのよねぇ」
「不思議よね。もう既に住む世界も考え方も違っているのに、想いの中のその人はいつも同じ。私が知っている姿そのままで、歳を取らないんだもん」
「そうね。もう三年も経っているのに、今も毎日、彼の住んでる地域の天気予報見続けてるもんね」
「うるさい」
私は笑いながらそう言って、シャワーで濡れた髪をタオルで押さえる。
「でも、ただそうやって彼の頭上にある天気を想像するだけでも楽しいんだ。天気が曇りって出ていると、彼は外に出掛けるのが億劫になってるんじゃないかとか、雨だったらきっと一日中家の中じゃないかとか」
「あるよねぇ。判るわ、それ」
 言ってレイミは、グラスのビールを傾ける。そしてそんな彼女の表情は、想像の中の俊哉と同じ、三年前から歳を取らないままの私自身だった。
「想ってるだけじゃあ届かないもんね。――実際、口に出して言っても届かない事だってあるんだし」
「あぁ、あなた達の最後の事ね」レイミは言う。
「私もその壁の中からずっと見てたわ。なんてつまんない喧嘩なんだろうって。――でも結局、それが最後の喧嘩になっちゃったのね。わかんないわね、どれだけ仲が良くても、何がきっかけで取り返しのつかない結果へと辿り着いちゃうのか」
「そうね……」
 口論は、本当に些細な事だった。
 俊哉が描き上げた、この絵、“暁の女神”を、今度は彫刻で作りたいと言い出し、私はそれに賛成した。実際彼は絵だけではなく、彫刻も手掛けていたのだから、何の不思議も無い。
 けれど口論は、その彫刻のスケールについて発展して行った。
 私は等身大か、少し大きなぐらいがいいと言った。だが彼は、誰もが圧倒されるような巨大なスケールでそれを作りたいと言い張った。この絵のままに、暁の光を全身に浴びて輝く女神の像を作り上げたいと。
 そんなのどこで作るのよ。場所は? 予算は? 材質は? 私はそんな否定材料を彼に向けてぶつけた。
夢が現実味を帯びて語り出された時、その夢の実現の可能、不可能までに話は及ぶ。そして彼は、「出来る」と言い張ってその夢を語り、そして私は、「無理よ」と否定する。
 思えば私は、その時にとんでもないミスをしていた。
『夢は願う所から始まる』
 彼の口癖だった。そして私もまた、彼と全く同じ意見を持っていた。
 だが私は、その時ばかりは自分の我儘を優先させてしまった。彼にその彫刻を、完成させて欲しいと願ってしまったのだ。
その絵に描かれたモデルが彼の視点から紡がれる私であるように。彼の手で、今のその時の私と言うものを完成させて欲しかったのだ。
 強烈に。彼が望むよりもずっと強く、その作品を現実のものにして欲しかった。
 だが結局、その口論が大きなヒビとなってしまった。彼は私に夢を否定された事からの気落ちか、常にふさぎがちになり、そして一方の私は絵画教室の講師の職を得て、忙しく動き回っていた時期でもあり、彼へのフォローがおろそかになってしまっていた。
 実家に帰ると彼が言い出したのを、私は強く引き止めなかった。まさかそれが完全な別れになるとは思ってもおらず、私は彼の望むままにこの部屋から送り出していた。
 残されたのは、彼の想い出と、その当時の記憶だけ。そしてこの絵と、レイミだ。
 結局、私の想いは彼には届かなかった。想うだけではなく、口にして、言葉にしても届かなかった、そんな想いだ。
「俊哉の事、まだ好きなの?」
 聞かれて私は素直に頷く。
「でももう、好きって言うより、彼の記憶が私の身体の一部みたいよ。彼を想う事だけが今の心の支えで、彼の日常を想像する事だけが、今の生活の唯一の娯楽みたい」
「そう……」レイミは言う。
「もし、あなたが良く考えた上であの男――大槻を選ぶって言うなら、もう私は止めないわ。もちろんその後のリスクも良く考えた上で、答えを出して欲しいんだけれど」
「うん……」
 私はそう返事をして、グラスの底に残ったぬるいビールを喉の奥へと流し込む。
 でも多分、もう私自身の気持ちは決まっている。あの場で、「助けて」と願ったのは、大槻さんを拒みたいからではない。きっと、まだ私の想像の中で、私だけを想い続けてくれている俊哉を裏切りたくないと言う、実に馬鹿馬鹿しい理由だけなのだろう。
「たった一人の存在に、永久に束縛されるってのも、不思議な感覚ね」
「そうね。不思議よね。男なんてこの世の中に、腐る程うじゃうじゃいるって言うのにね」
 言って、レイミは笑った。
 私も笑った。
「ねぇ、レイミ。あなたはいつまで私の傍にいてくれるの?」
「えぇ? まぁとりあえず、あなたが泣き止むまでね」
「そうじゃなくて、この先もずっと私と一緒にいてくれるのかって事よ」
「判んないわよ、そんな事。私だって、どうしてこんな場所にいるのかさえ判ってないんだから」
 レイミはぶっきらぼうに、そしてどこか嬉しそうな声で、そう言った。
 いよいよ夏本番が近付いているぞと、無言で警告されているかのような、熱い熱い夜の事だった。

「ごめんなさい」
 開口一番、私は大槻さんに向かってそう言った。
「ごめんって……もしかして、仕事のキャンセルって意味なのかな?」
 聞かれて私は、「いいえ」と答える。
「でも、私の話を聞いて、それでもまだ私にその仕事を振っていただけるのならば、喜んでお引き受けします。――でも多分そうはならないだろうから、先に謝らせていただきました。ごめんなさい」
「えぇと――それでそのごめんなさいは、どう言う意味で?」
「私はあなたを愛せません」私は、彼に向かってそう言った。
「私は大槻さんを尊敬してますし、多大な感謝もしております。でもやはりあなたとは、仕事だけの関係でお付き合いしたいのです」
「なんだ、そう言う事か……」
 彼はそう言うと、苦笑しながらスーツの胸ポケットから一枚の封筒を取り出した。
「だからと言って、僕が君に依頼した仕事を取り下げるとか思ったのかい? そればかりは心外だなぁ。僕はそんな子供じゃないよ」
 言って封筒から出して見せたのは、新幹線の切符と紙幣。そして手書きで描かれた地図のようなものだった。
「きっと君はそう言うと思ったので、あらかじめ先に用意しておいた。仕事の依頼の地図と住所。そして描いて欲しい場所の詳細なんかがここにある。――いいね、これはビジネスだから。ちゃんと依頼主の願い通り、蛍の舞う夜景を描いて来るんだよ」
「え……本気でこの仕事を、私に下さるんですか?」
「くれるもなにも、最初から君を名指しで飛び込んで来た仕事なんだってば」彼は言った。
「もしかして君って、どこか自分を過少評価してないかい? もしかしたら僕の手腕だけで絵が売れてるとでも思ってた? 悪いけど僕はこの業界じゃあそれなりに名前が売れているんだよ。そんな僕が良くもない絵画をベタ褒めしながら売り捌いていたとしたら、まずこの業界からはホされるね。絵が売れているのは、間違いなく君自身の実力であり、認められるべき才能なんだよ」
「でも私、いつも絵を貶されているばかりですよ。構図がダメとか、タッチがダメとか、いつもいつも酷い評価ばっかりで……」
「それは、その人の見る目が無いんだろうね」彼は言う。
「もしくはあまりにも身近過ぎて、第三者的な視点で見てない。まるで自分自身で自分の作品を評価しているような、そんな感覚なんじゃないかな」
 ――図星だった。なにしろそれはいつもレイミの評価であり、そして彼女の視点はきっと、私自身そのものなのだろうから。
「いいかい、橘君。君の作品には人の目を惹き付ける何かがあるんだ」彼は言った。
「ちょっと才能のある人は、すぐに背伸びをしたがる。今作ったものよりも、更に完成度が高いものを作りたがったり、スケールの大きなものをと考えたりする。だけど大抵は自分の理想とするラインのものが作れずに、スランプになったり筆を折ったりしてしまう。自分が理想とする作品を作れる人なんか、非常にごく稀な事なんだよ。それこそよほどその才能に恵まれているか、それ以上の努力をした人だけが、そこに辿り着ける」
 聞きながら私は、俊哉の事を思い出す。確かに彼は、人一倍の意欲と向上心がある人だった。そして常に、次こそは今出来上がった作品よりももっと上のものをと考える人だった。
「だけど君にはそれが無い。常に絵を楽しんで描いている。向上心が無いとは言わないが、君は既に描きたいものが安定している。――そしてそこが君の才能の尤も素晴らしい部分だ。妙に気取らず、誰かに褒められたいとか評価されたいと思いながら描いているものじゃないのが判る。そう、君の絵は凄く静かなんだ。多くの人に喜んでもらいたいとかじゃなく、たった一人に静かに何かを伝えたい。こんな想いが伝わって来る」
 へぇ……と、私は声に出さずに呟いた。
 確かに、そんな気持ちはどこかにあった。多くの人に見て欲しいとか、名前を知って欲しいとかじゃなく、この絵を見た誰かに笑顔になって欲しい。私はいつもそんな気持ちで絵を描き続けていたような気がする。
 そしてきっとその対象は俊哉であり、もう届かない人の事であるのだが――。
「だから僕は、君自身が欲しかったのかもね」大槻は言った。
「実は僕も昔、君と同じように絵を描く側の人間だった。だけど全然売れなくてね。かなり苦しかった時代があるんだよ」
 大槻は、遠い目をして続ける。
「当時、付き合っていた女性がいてね。ほとんど彼女に養ってもらっていたような感じだった。僕は風景画が専門だったけど、趣味で彼女を描く事もあってね。そしてその辺りで気付いたのかな。売れる絵と、売れない絵の差がどこにあるのかを」
 そして大槻は私の方を見た。
「売れる絵って言うのは、誰かに見て欲しいと強烈な願いが込められた絵なんだよ」
 ――強烈な、願い。私は言葉に出さずに反芻する。
「僕は絵を売りたくて懸命に描いた。でも不思議な事に、売れるのはいつも趣味で描いていた彼女の人物画の方。そして僕は描く側から売る側の人間になったんだけど、そのコツを飲み込めた僕はあっと言う間にその仕事で成功出来た。――だって、売れる絵と言うものは見てすぐに判るんだもの。見分けるのは簡単だよね」
「見ただけで判るんですか?」
「あぁ、判る。絵が語ってるんだもん。眩しい光を放ちながら、私を見てーって叫んでる絵。もしくは君の描いたもののように、静かに想いを告げているかのような絵なんかもね。そしてそう言う絵は、不思議に人の目を惹き付けるものなんだよ。それは決して、名前を売りたいとか、大勢の人に賞賛されたいとか、そう言う想いで描いている人の絵とは違う。ただ綺麗に描けている、模範のような絵とは違うんだ。だからこそ僕は、君の描く絵に凄く惹かれる」
「……」
「僕は、ね。君に描いて欲しかったんだ。君が僕だけに伝えてくれる、強い想いを秘めた、僕だけの絵を。今度こそ誰にも売る事はしない、僕自身の宝物のような絵を。――だから、ね。僕は君が欲しかったんだ。君に愛されたとしたならば、それはどれだけ心地良いものなのかなぁって――」
 その先は言わずに、彼は笑顔で珈琲を啜る。
 あぁ、もしかしたら私は、俊哉よりも先にこの人に出逢っていたのなら、きっとなんのこだわりも持たずにこの人を愛してしまったのかも知れないなと密かに思った。
 そして同時に、彼もまた私と同じで、きっと今でも“たった一人”に縛られているそんな人なんだろうとも思った。
 ほんの僅かではあったけれど、彼が語る“昔付き合っていた彼女”と言う言葉が、やけに熱っぽく、そして寂しげに聞こえ、私はそこに共感を覚えたからだ。
「ところで橘君。この後は用事ある? ちょっと付き合って欲しい場所があるんだけど」
 そこまで言って彼はしまったと言うような顔になり、すぐに、「言っておくけど、玩具屋さんだよ。息子に誕生日プレゼントを買わなきゃいけないんだ」と慌てて付け加え、そして笑った。
 私も笑った。すると横で、「なんだ。思ったよりいい奴じゃない」と、口を挟むものがいた。
 見ればいつの間にそこに来ていたのか。レイミが私の隣に腰掛け、大槻を斜に構えて睨みつつ、いつもながらに私の珈琲を横取りし、それを啜っていた。

「何ですか、これ」
 思わず私はそう聞いていた。デパートの玩具売場の真正面、山のように積まれたその箱を、私は一つを手に取った。
「あぁ、クリスターって言う玩具だよ」大槻は言った。
「海外の玩具なんだけどね。最近日本にも入って来て、今や物凄い大ブームになりつつあるんだ。――ホラ、このパッケージに描いてあるような形の透明なブロックの欠片でさ。これが、上にも下にも左右にも、好きなように組み合わせる事が出来る。簡単に言うと、透明で綺麗な積み木みたいな奴。単純だけど面白いんだよ。好き勝手に積み上げて行っても、凄く綺麗なクリスタルの塔が出来上がる」
「ふぅん……」
「あぁ、ホラ。あそこでこの玩具の事が流れてる。見てごらん」
 そう言って大槻が指差した方向には、店頭の大型モニターが設置されていて、子供から大人までがそのモニターの前に並び、クリスターを積んで行くその映像に見入っていた。
 見ていれば確かに積み上がったこのピースの塔は美しく、人気が出るのも頷けた。
 それは何かの大会かなにかの映像なのだろうか。番号の振られたゼッケンを見に付け、数人の男性がそれぞれにクリスターを積み上げて行く。そんなシーンが流れていた。
「じゃあ、ちょっと包んでもらって来るから」
 言って大槻は箱の一つを手に取りレジへと向かう。私はそれを見送りながら、この人も家に帰れば普通にいいお父さんなんだろうなと思いながら、その背中を見つめた。
 突然、背中を叩かれる。振り向けばそれはレイミだった。
「どうしたのよ」
 聞けばレイミは真剣な表情で、「あれ見て」と、先程の大型モニターを指差している。
「あれが何?」
「いいから黙って見ていて!」
 言われるがままに、モニターを見つめる私。
 良く見ればそれは、どこかで見た事のある景色。果たして一体どこだったのだろうかと考えていると――。
 俊哉!
 心臓が、跳ね上がったかのような感覚だった。確かに俊哉は、そこにいた。
 赤いゼッケンを身に付け、赤い顔をしながら、額から大粒の汗をしたたらせながら、確かに俊哉はそこにいた。
 三年前といくらも変わらず、ただ少しだけ痩せたかな程度な、懐かしい姿がそこにあった。
 だがそれは僅か数秒の事。画面はすぐに切り替わり、普段良く目にする運動靴のコマーシャルが流れ出す。
「すみません、今のこれ、なんの映像なんですか?」
 近くにいた女性の店員さんを呼び止め、私は聞いた。すると店員さんは、「あぁ、クリスター大会の中継ですよ」と、そう答えた。
「クリスターの本部が許可した公式の大会の中継なんです。ルールは単純に、崩さずに一体いくつのピースを積み上げられるかってだけ。でも、今回の大会は凄いんですよ。もしかしたら大会新記録が出るかも知れないんですから」
 ――公式大会? そんなものにどうして俊哉が?
「今これ、生放送で中継されている映像なんですよ。今日、鷺ノ宮市の駅前で、この大会が行われているんです」
 思っている間にコマーシャルは終わり、再びその大会中継へと切り替わる。テレビで良く見るアナウンサーがマイクを握り、「残す所、後二人だけのチャレンジャーとなりました」と、興奮気味にそう言っていた。
 そして再び俊哉が映る。照り付ける陽射しのせいなのか、その顔も腕も真っ赤に見える。
 俊哉はハシゴ車のようなものに乗り、身を乗り出してクリスターのピースの一つをそこに積む。同時にモニターの中と、目の前の人混みとが同時に、「おぉー」と歓声を上げる。そんな繰り返しの単純作業。
アナウンサーが彼を、「河合選手」と呼んでいる事からも、それが確実に本人であると判った。
 だが一体、何の為に? この空白の三年間の間に、あなたに何があったの?
 疑問は次々と湧いて出る。だがそうしている間にも俊哉のピースもまた次々と積まれ、その度に溜め息のような感嘆のような声が、観客達の間から上がっていた。
 カメラが切り替わり、一人の男性を映し出す。
「現在トップの、松岡亮二選手。果たしてこの大会を制して世界新記録と言う栄冠を飾れるのか」
 そんなアナウンサーの解説と同時に、「器用さ日本一」とタイトルの振られた、恰幅のいい中年男性がアップになる。
「松岡亮二。指先に神を宿す、不敗の王者――」
 そんな語りが挿し込まれ、彼の経歴であろう数々の大会受賞の一覧がそこに並ぶ。それは彼の器用さを裏付けているかのように、物を積み上げたり何かの細かい工作などを作り上げる、そんな大会の記録ばかりのようだった。
 私にとってはそんな経歴も彼の偉業もどうでも良いものであったのだが、それでも充分に彼が俊哉にとっての強力なライバルである事だけは理解が出来た。
「そしてそんな王者を追う、若きサムライ、河合俊哉」
 次に、俊哉の紹介が始まった。彼に振られたタイトルは、「熱きサムライ芸術家」だった。
 どうやらそれは、彼の部屋で撮られたものらしい。彼らしくその背景には作り掛けの彫刻やらイーゼルなどが垣間見え、そしてその中には私が昔描いたものである学生時代の絵もあった。
「あれ? あの絵、君の描く絵のタッチに似ているねぇ」
 いつの間に帰って来たのだろうか、青いリボンを飾ったプレゼントの箱を持ち、私の背後に大槻が立っていた。
『えぇ、この大会を通じて、どうしても伝えたい想いがあるんです』
 俊哉がモニターの中からそう語り掛ける。残念な事に、その話の前後は大槻の言葉に邪魔されて聞こえなかったのだ。
「松岡と河合、両選手の差、二十ピース! またしても河合、王者松岡に追い抜かされました!」
 突然、画面はまた中継の映像に切り替わる。目の前にたむろする客達の間から、「情けねぇなぁ、河合」とか言う声が聞こえ、私はかなりムッとする。
「これで松岡さんの逆転、三回目なんですよね」店員さんが言う。
「最初は河合さんの積んでるピースよりも三千個引き離しての独走状態だったんですけどね。途中で二回も崩しちゃって、その都度やり直ししているんですよ」
 画面に、二人の記録なのだろう現在まで積まれたピースの数が表示される。
 二人の数は本当に僅差であり、そしてその数は大会の記録にもう間もなくと言うぐらいにまで迫っていた。
 ついでにその二人の記録の下に、もう一人。俊哉達よりずっと下ではあるのだが、表示があった。
「この記録は、もう既に挑戦終了した高校生の明石君のなんです。――あぁ、ホラ。今映ってる」
 見ればモニターには、テントの下の日陰で皮肉な笑みを浮かべながら二人の挑戦を眺めている、眼鏡の子供の姿が映っていた。
「記録は松岡さんの五分の一程度なんですけどね。それでも赤いピースを積んで記録終了の宣言をしているんで、もしも突風で塔が崩れても問題無いんです。だからもしもあの二人が塔を崩しちゃったら、必然的に明石君の優勝になっちゃうんですよね」
「なるほど。あの子は知将だね」言葉を継いだのは、大槻だった。
「この大会って、積んだ数によって勝敗が決まるんだけどね。でも、それだけ凄い数を積んでも、終了って宣言して最後に赤いクリスターのピースを積まない事には、それが記録として認められないんだよ。だから上手い人はあぁやって、適当な数で切り上げちゃう。後は新記録を狙って積み上げて行く選手達の自滅を眺めているだけなのさ。特に今日は風も少しあるみたいだし、試合が長引けば当然リスクも高くなるしね」
 明石と言うその少年は、いかにも残る二人が愚か者のような顔で、常に笑いながらスポーツドリンクを飲んでいる。
「あのガキ、ムカ付くなぁ」
 誰かが言った。そして私は、内心でその意見に賛同していた。
 俊哉の腕が伸びる。その指先は震え、積み上げるピースが山の上でカチカチと音をさせているようにすら見えた。
 ――頑張って! 自然に、私はそんな事を思っていた。
 そうしている内に、大きくリードしていた松岡が、大会記録まで後数個と言う場面で……。
「あぁーっ! 崩れたー! 天高く積み上げられた塔が今、音を立てて崩れ落ちたーっ!」
 アナウンサーの上げる絶叫。そして違う角度から何度も何度も繰り返される、積み上げた何万個ものピースが崩れるシーン。私は瞬間、俊哉の積んでいた塔なのかと思ったのだが、どうやらそれは違ったようだ。茫然とした松岡のアップが、モニターに映し出されたからだ。
 崩れるシーンが繰り返される度に、アナウンサーの絶叫もまた、「あぁーっ! 崩れたー!」と繰り返さる。それを聞く度に、臆病になりつつある私の神経がやけに苛立った。
 今度は俊哉がアップになる。横目でライバルの脱落を眺め、そして深い瞬きをした後、再び自分自身の作業へと戻る。
 次に映ったのは、明石と言う少年だ。テント下の日陰で軽くガッツポーズを作り、そして嬉しそうに微笑む。きっと彼の心の中では、大会記録へと向けて猛進する俊哉達の姿が、愚行にでも見えているのだろう。
 松岡の今度の崩落は、修復不可能なレベルだった様子だ。崩れる直前に見えた綺麗な三角錐の塔はもはや、陽射しを受けて照り輝くピースの残骸となっていた。松岡はアナウンサーからマイクを向けられ、「残念です」と呟き、涙を拭いていた。
「さぁ、これでもう大会新記録を狙えるのは河合選手ただ一人となってしまいました。果たして彼は、どんな選択を望むのか。ここで赤いピースを置いて終了宣言をすれば、そこで河合選手の優勝が決定します。そして今、地上から松岡選手の声援を受け、河合選手の握ったピースは……」
 おぉーと、声が上がった。俊哉の握ったそのピースは、赤ではないノーマルのピースだったのだ。
 突然、手が触れた。そしてその手に、握り締められた。
 私は咄嗟にそれが大槻のものかと思って横を向いたが、意外にもそれはレイミの掌だった。そして私の手と同じ、彼女の掌もじっとり汗ばみ、そこから彼女の緊張が伝わって来た。
 ――大丈夫よ。彼女の視線が、そう語っていた。
 そして私は、うんと頷いた。
「あれはもう無謀ですよ。僕の計算によれば、理想とされるピラミッド状でも、ある一定の高さに達してしまうと安定が無くなるんですよ」
 明石少年が、得意そうに語る。続いて、リタイヤを決めた松岡が、「正直言えば、彼には記録を狙って欲しいですね」と、語り始めた。
「僕はただひたすら記録を狙っての挑戦のでしたが、なんだか彼の場合はそうじゃない気がします。もっと別の目的があるように、そんな風に思えて仕方ないんですよ」
 そして俊哉は手を伸ばす。ハシゴ車の手摺に掴まり、身を乗り出しながら懸命な表情で。
 陽はまだ高く、モニター越しにもその暑さが感じられる。元々色白だったせいか、彼の腕や顔は、痛々しい程に赤く染まっている。
 いくら挑戦するにしたって、どうしてこんな時期なのよ。私は一人そう呟くが、俊哉はまるでそんな事になど興味がないかのように、黙々とそのピースを積み上げて行く。
 いつしか、一つ積み上がる度に上がっていた歓声は消え、ただただ小さな、「あぁ」とか、「おぉ」などの感嘆の声が聞こえるだけ。
 時折、「もういいよ。終わっちゃえよ」とか、「記録なんか要らないだろう」とかの野次も聞こえたが、それはもう全て純粋な俊哉への応援にしか感じられなかった。
 画面左上に、大会の記録の数と、俊哉の積んだ数が上下に分割されて表示されていた。
 残り、僅かに三ピース。つまり、後四つを積み上げて終了宣言をすれば、世界一の記録保持者となれるのだ。
 思わず、握った手が強くなる。同時にレイミもまた、私の手を強く握り返して来る。
 ――頑張れ! 頑張れ! 頑張れ!
 声には出さず、そう呟く。そしてまた一つと、ピースをつまんだ俊哉の腕が差し伸ばされる。同時に、眺めるモニターの画面がやけに不鮮明になる。何故かぼんやりと滲み、上手くそれが目に入らない。
 残り三つ。私はレイミから受け取ったハンカチで目頭を押さえ、視線を戻す。
 残り二つ。俊哉がつまみ上げたピースがその手からこぼれ落ち、熱く焼けたアスファルトへと落ちて行くシーンが映される。
 残り一つ。山の上へとピースが積まれ、そしてそれを離そうとした瞬間――。
「あぁっ! 揺れている、揺れている! 河合選手の積み上げたそのピースが、風に煽られて静かに揺れている!」
 息を飲み込む。俊哉の腕は、まだその山の頂上から離れない。
 ――お願い! 崩れないで!
 果たしてその願いは通じたのか、長い沈黙の時間を経て、腕は離れた。そして彼の積んだ山も、まだそのままだった。
 画面左上のカウントが、大会記録と同じものとなり、その横に「クリアー」の表示が浮かび上がる。
そして、静かに、静かに、そのコールは始まった。
 後ひとつ――。後ひとつ――。
会場と、そしてこの店内にも。静かに、「後ひとつ」のコールが、手拍子と共に沸き起こる。
 画面には、まるで自分の事のように興奮しながら、両手を高く挙げて応援する松岡の姿。
 そしていかにも面白くなさそうに、憮然とした表情でそれを眺める明石少年の姿。
 アナウンサーは、「今、世界の記録は、ここ日本の地で塗り替えられようとしています!」と叫び、そしてその全てはまるで他人事のような顔で、山を見つめる俊哉の姿が画面に映る。
 ――お願い! 後一つ! 後一つだけ、俊哉に積ませてあげて!
 私は願った。目をつむり、他はもう何も考えられないぐらいにそれだけを願った。その時だった――。
「えぇーーー!」
「おぉーーーっ!」
 大勢の声が、同時に上がった。そしてそれに続き、「信じられない!」と言う、アナウンサーの叫びが轟く。
 どうしたの? まさか、崩れたの!?
 思いながら目を開く。そして私がそこに見たものは、確かに驚くべき光景だった。
 俊哉は、ノーマルの透明なピースを掴んでいた。そして何の躊躇もせずに、それを山の上へと積んだ。
 まさか数え間違えているの? 思う暇なく、俊哉はまたノーマルのピースを掴む。
「河合選手! 河合選手! もう記録は更新されているのに、まだ止まらない!」
 アナウンサーがハシゴ車の下から、俊哉に向かって呼び掛けるかのように叫んでいた。
そして、私は見てしまった。
 今まで、それは番組の都合上での事なのか、俊哉の積み上げる塔の全貌はまるで画面には映らなかった。
 映るとすればそれはほんの一部だけ。もしくは俊哉自身のアップだけ。それは他の選手のものも同じであり、もしかしたらその塔が崩れるか完成するかのどちらかでなければ、映らないものだったのかも知れない。
 だが、今それは映し出されていた。
 真夏の太陽の光をその全身に浴び、眩しいぐらいに光り輝く、女神の姿が――。
「あぁ、これ……」
 そのモデルとなった本人の、レイミが呟く。
「あれ? これって君の部屋に飾ってあった……」
 その後ろで、大槻が呟く。
「河合選手、積み上げるその手はまだ止まりません! 一体彼は、何をしようとしているのか? この、積み上げのセオリーを全く無視して作られた奇跡のような立像に、まだ何か手を加えようとしています! この新生ミロのヴィーナスに、まだ何かを付け加えようとしています!」
 アナウンサーの叫びに、私は気付いた。そして同時に、レイミもまたそれに気付いた様子だった。
 その、“暁の女神”には、左腕が無かった。暁の光に差し伸ばされた、頭上を向く左腕。それが無いが為にアナウンサーもまた、新生ミロのヴィーナスと比喩したのだろう。俊哉の積み上げるその像には、左腕だけが欠けていたのだ。
 そしてまた、俊哉の腕は差し伸ばされる。その腕は震え、額からは異常なまでの汗が流れ、ピースの山を見つめるその瞳もまたどこか虚ろで……。
「あぁ、もう限界超えてんじゃんよぉ」
 誰かがそう呟いた。それでも俊哉の挑戦は終わらない。
「うん。きっともう限界だね」大槻が、そっと私に肩に手を置き、そう言った。
「でもきっと、彼はやめないだろうね。記録なんて彼にはきっとどうでもいい事なんだと思うし。――見ていてごらんよ。例え彼が最後のピースの一つを置いたとしても、きっとそれは赤いピースなんかじゃないよ。彼が望む事はただ一つ、彼が望んだ、あの作品の完成形だけなんだろうから」
 大槻が言う。そして私は頷いた。
「あなたの言葉、届いてなかった訳じゃないじゃない」
 レイミが言う。そして私はようやく気付く。あぁ、そうか。これはいつかの日の約束の光景だと。
 あれは私の、届かなかった想いじゃなかったのだと。
「あぁっ! また、像が揺れている! 今度こそダメかーっ!」
 またしても、耳にうるさいアナウンサーの絶叫。モニターには、呆れ返って帰ろうとしている明石少年の姿が映っていた。
「大丈夫よ」レイミは言う。
「私が崩させないから」
 そして彼女は手を離す。
 気付けば、レイミの姿はどこにもなかった。ただ、「ふふっ」と笑った彼女の声と、その掌に感じる彼女の手の感触だけが、残されただけだった。
「レイミ?」
 振り返るが、もうそこには彼女の姿は無い。私は急に不安になり、急いで彼女の姿を探す。
 ――彩夏。私、先に行って待ってるわ。
 声だけが、何故か遠くの方から聞こえた。振り返れば、レイミはそこにいた。モニターの向こう、俊哉の伸ばすその指先の向こうに、彼女の姿はあった。
 あの絵のままに。空を仰ぎ、その全身に光をまとい、神々しいぐらいの存在感で、レイミはそこに立っていた。
 俊哉が、誰もが圧倒されるような女神でなければと、熱く語った時の事を思い出す。
 想像以上だった。彼が語ったイメージよりも、ずっとずっと大きなスケールで、その女神はそこにある。
 違うのはただ、天から降り注ぐその光だけ。暁ではなく、熱い初夏の太陽の光がその女神の全身を染めているだけの違い。
 何故かもう、二度とレイミとは逢えないような気がしていた。
 だけど、寂しくはなかった。レイミはきっと、あの場所で私を待っていてくれる。そう思い、もうのんびりなんかしていられないと私は感じた。
「大槻さん。私いつか、あなたの為だけに真剣に一枚、絵を描きます」私は言った。
「だからごめんなさい。私、行かなきゃ」
「どこへ――」
 言い掛けて、大槻は口をつぐみ、そして笑った。
「行っておいで。きっと彼も、君を待ってるよ」
 その口調はいつも以上に柔らかく、そして優しみを帯びていた。
「はい!」
 私は言って、店を飛び出る。
 背後でまた、歓声とも落胆とも取れる人々の声が上がった。
 もしかしたら今度こそピースは崩れ落ちてしまったのかも知れないが、そんな事はもう既にどうでも良かった。
 私はただ、二人が待つあの場所へと急ぐだけだ。
 ――陽が沈む前に。
 暁の代わりに、黄昏時の光が空を染め上げる前に。



《 黄昏時の女神 了 》



【 あとがき 】
どうもこんにちは。鎖衝(さつき)です。
最初は、前回掲載させて頂いた、“死神達の週末”の続編を書く予定でいました。
実際、残す所あと少しと言う部分まで書き終えてはいたのですが、「これ、なんか違う」と思い、そこで中断させてしまいました。
そして次に書いたのが、ちょっとグロテスクな新興宗教団体の内部の話。これもまた書き上がり直前で筆が止まってしまいました。
そしてある朝、いきなり思い付いたのがこのお話しでした。
そして同日夜。これを書き上げて、私は溜め息を吐き出しながらつくづく思いました。
やっぱり、アルフォートのリッチミルク味は美味しいなぁと……。


『 上昇既流 』 鎖衝

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