Mistery Circle

2017-08

《 死神達の週末 》 - 2011.01.03 Mon

《 死神達の週末 》

著者:鎖衝





 作業服の袖に付いた犬の小便の匂いを気にしながら、俺はそいつの背後に立った。
 ジジィは俺の存在に気付いているのかいないのか、鼻歌をうたいながら保育園児が知育工作で使っているような紙粘土をこねながら、懸命に何かを作っていた。
「このシェパード犬は測量師。こっちのチワワは看板屋」
 そう言ってジジィ――いや、甲田さんは、どこかピントのずれたような口調でそう語り、どこが犬なのかも判らない自作の白い人形を、年期の入った皺だらけの手でロッカーの上の空きスペースに置いて行く。まだ作られて間もないその人形達は、まるで首の座っていない赤ん坊のようだ。置くとすぐにくたっと萎れてしまう。
「そしてこの三毛猫は……建築家だなぁ」
 どこが三毛猫なんだよ。俺は甲田さんの背後でそんな事を思いながら、その真っ白な粘土細工に目を凝らす。もちろんどれだけ見ても、三色には程遠い無地の紙粘土だ。
 ――痴呆老人かよ。心の中で毒づく。同時に、どうしてこんな正職員でもない人間に報告なんかしなきゃならないんだと言う憤りに、思わず声が荒くなる。
「甲田さん、時間です。そろそろお願いします」
 同じ言葉を二度言って、ようやく気付く。そうして人形を置いて振り向くその老人は顔もまた皺だらけで、目なんか見えていないんじゃないかと言うぐらいに上まぶたが垂れ下がって見えた。
「おぉ、時間か」
甲田さんは、小さな声でそう言った。そして見た目通りのおぼつかない足取りで部屋を出て行けば、それとは入れ替わりで他の職員達がぞろぞろと戻って来る。
“死神長”とあだ名される甲田さんが出て行けば、そこから約二十分の休憩。それがここの施設の約束事のようになっている。職員達はめいめいに、椅子へと座って新聞を読み始めたり、テレビを点けたり、お茶を淹れたりしている。俺はそんな連中に交わりたくはなくて、黙って部屋を出て処置室のある廊下へと進んだ。
 遠くから、犬達のうめきのような声が聞こえる。吠え声ではない。最後の悪あがき的な抵抗でもない。単純に、その恐怖から来る悲痛な“泣き声”である。
 左右に、大きなアクリル板で出来た房がある。右手は犬。左手は猫やその他の小動物。手前から一日目。そして順に二日目、三日目と言うプレートが下げられていて、そしてあの“死神長”は、七日目の房の前で動物達の追い出し作業に入っていた。
 七日目の房の向こうには何も無い。ただのコンクリートの壁である。――だが、部屋はあった。ここにいる動物達の最後の部屋、“処置室”である。この施設に送られて一週間が過ぎた動物達は皆、この壁の向こうにある最後の部屋で強制的に殺処分となる。だが実際は名前通りな「処置」とか、そんなレベルのものではない。まさに、「死刑」と言うイメージの、そんな絶望的な部屋だ。その部屋には犬も猫も、その他の動物達も一緒になって押し込められ、そして想像を遥かに超えた残酷な方法で殺される。俺もこの施設に配属になった初日にそれを見せられたが、それはまさにアウシュビッツのガス室そのものだ。――もちろんアウシュビッツの強制収容所など、見た事も無いのだが。
 皆に、“死神長”と呼ばれている甲田さんは、慣れた手付きでオートメーションの追い出し作業を終え、開錠された鉄製のドアを抜けて処置室へと入って行った。
 ドアを開けると同時に、向こうから限りなく悲痛な最後の断末魔の声が聞こえた。そこには犬や猫などと言う種類の隔たりは何もないかのような、絶望と最大級の恐怖が入り混じる動物達の絶叫だった。
 だがその声は、甲田さんがそのドアを後ろ手に閉めると同時に掻き消える。後はもう何も聞こえない。天井の空調音が、低いうなり声を上げている程度だ。
 そうして俺は、どれぐらいそこに突っ立っていたのだろうか。やがて中から甲田さんがひょこっと出て来て俺の顔を見て、「おぉ、筒井君か」と声を掛けるまで、ずっとそのままだった。
「終わったよって言って来てくれ。俺はちょっと小便」
 そう言って“死神長”は、これから数日後には自らの手で殺す事になる犬猫達の房の前を通り過ぎる。
「何が“死神”だよ」
 思わず呟きが漏れた。――たかが動物殺しに慣れているってだけのジジィじゃねぇか。もちろん、後の言葉は飲み込んだ。

 ここ中野辺処分場は、中野辺動物愛護センターの一区画にある。
 俺、筒井修平は、社会福祉の一つとして障害者支援の活動を期待して福祉保健局へと入った訳なのだが、どう言う訳か今はこうして動物の殺処分を行う仕事へと配属になってしまった。
 仕事に対し、夢も希望もクソも無い。あるのは自分の理想とする配属が成されなかった事への恨みと、ここに勤める連中の覇気の無さへの憤りばかり。たまに野犬の目撃情報が寄せられて保護に出向く以外、社会に貢献していると感じられるような行動は何一つとして無い。一日の大半を動物の世話や、房の入れ替え、そして“死神長”が処分を下した動物達の亡骸を火葬し、骨を拾い集めるだけ。施設の中はほとんどがオートメーション化されており、実際に自らの手を下すような作業は、遺骨集め程度しか無いのだ。
 そして今まさに、その作業の真っ最中だった。どうやらこの仕事は新人の勤めらしく、俺より二つ先輩である佐藤さんと一緒に、大きなトングのようなもので骨と灰を掻き集め、麻の袋に放り込む。三十匹以上いた動物達も、こうして灰にして集めれば僅か一袋にしかならない。
 焼却炉のドアを閉める。重く響く音をさせ、施錠をほどこす。これでもう俺の大きな仕事は終わりだ。後の時間は暇に任せて機械のメンテナンスや、動物達の世話と電話番だけで一日が終わる。
「ねぇ佐藤さん。どうして甲田さんって、委託なんかであんな仕事してんですか?」
 何気なく、普段から疑問に思っていた事を聞いてみた。若い割には老け顔で、落ち着いて見える佐藤先輩は、その印象に違わず短い言葉で、「知らない」とだけ答えた。
「なんかおかしいですよね。委託の人間に犬猫殺す仕事やらせておいて、ここの人達は自らの手を汚さないようにって考えている人ばっかだ。それでいてその嫌な仕事を引き受けている甲田さんは“死神長”呼ばわり。なんか雰囲気悪いっスよねぇ」
 言うと佐藤は、「ちょっとだけ違うよ」と、返事をする。
「“死神長”って呼ばせてるのは甲田さん本人だ。しかももう既に、四十年以上もそう呼ばれ続けている。――まだ君には良く判らないと思うよ。ここの特殊な事情は」
 佐藤さんはそう言って、麻の袋を担いで焼却室を出て行く。俺は額の汗を袖で拭い、「変な奴ばっか」と小声で愚痴った。

 収容房の裏口から猫の餌を与えていると、その向かい側に当たる通路に、一人の少年が立っているのに気付いた。――確か名前は、橘圭太だったと思い出す。もう三日もここに通い続けている、そんな子供だ。
 少年は厚いアクリル板の向こうから、一匹の猫を見ていた。虎縞の子猫で、名前を、「ミウ」と言う。あの少年が付けた名前らしい。
 子猫は三日前にここに来た。少年自身が持ち込んで来たものだ。
 若い、神経質そうな母親も一緒で、こっちの説得も聞かずに、「預かって下さい」の一点張りで、ミウを置いて行った。どうやら少年が拾って来た子猫を家で飼う事を許さず、こっちに持ち込んだ様子だ。少年は終始泣きっぱなしだったのを覚えている。
 餌の配布が終わって事務所へと戻る途中、少年がまだそこにいるのを見付け、俺は声を掛けた。
「また見に来たのか。――どうだ? 飼い主は見付かりそうか?」 
 言うとその少年は俺の方へと振り向きもせず、「見付けるよ」と言い切った。
「まだ四日もあるじゃない。ミウは絶対に殺させはしないから」
 どこか怒気のはらんだ、怖い声だった。
 ――まぁ、頑張って。俺は小声でそう言って、少年に背を向け立ち去った。背中越しに、「ふん」と鼻を鳴らす音が聞こえた。
 本来ならば、飼い主が持ち込んだ動物に限っては、即日かその翌日には処分となる。また、保護した動物であっても、まだ子供の内ならば同じようにしてすぐに処分される。どちらも、「飼い主が引き取りに来ないから」と言う名目で、そうなるのだ。
 だがミウに限っては特例が出された。あの少年の半狂乱じみた気迫に押されての特例だった。
『絶対に飼い主を見付けるから、殺さないで!』
 あまりの絶叫振りに、房の動物達が吠え出したぐらいだった。
 そして特例は通った。それを認めたのは他でもなく“死神長”で、正職員である他の連中は何の意見も言わずに甲田さんに従った。
 特例の内容自体は俺も賛成ではあったが、甲田のジジィがその特例を言い出して、職員達に納得させたのだけは気に入らなかった。どうして委託の人間がそんな事を言える権限があるのだと、そこに大きな疑問を持ったからだ。
 あんなの、たかが動物の処分を任されているだけのボケたジジィじゃないか。処分の時以外は日がな一日粘土細工をして遊んでいて、それで職員達を抑えられる権限を持ち、“死神長”なんて言うニックネームで呼ばせている。俺はそんな年功序列的な体質も、ここを気に入る事が出来ない大きな要因だった。
 事務所では、女性職員のいない気楽さからか、暇を持て余しているオヤジ連中が堂々と禁煙すべき場所で煙草を吹かし、既に何十回となく聞かされた過去の栄光話で花を咲かせていた。
 闘犬として育てられた土佐犬を素手で捕獲した話や、体長四メートルを超すワニや、ニシキヘビの捕獲話。聞けば確かに語りたくもなる内容だったが、どうにも大袈裟な誇張があるような気がしてならない。そしてそんなオヤジ連中は、決まって俺のような新人を掴まえ、「お前もいつか、そんな大捕り物を経験するようになるぞ」とか言うのだが、俺自身はそうなる前にここを出て行く気持ちで一杯だった。
 だが、半年前に出した異動願いはまだ受理されていない。月に一度はその経過を聞きに行くのだが、話が進展していた試しが無い。まるでどこかの動物園の園長だろうかと思わせるようなおおらかさを持つ大杉所長は、「君はここが嫌いか?」とだけ聞いて、まるで取り合おうとはしないのだから。

 休日。俺は用あって、近所の大型のホームセンターへと買い物に出掛けた。日用品が一通り揃う便利さもあり、普段から良く利用していたからだ。
 主要の目的のものは、その大型さに反比例した小さいもので、ただの耳栓である。――声を、聞きたくなかったのだ。動物達の悲痛なうめき声を、だ。
 カートに必要雑貨をどんどん放り込み、とある一画を通り掛かった時だった。熱帯魚の水槽越しに、子犬や子猫を入れたガラスの陳列棚が見えた。ペットショップのコーナーだ。流石に休日までも動物は見たくないなと思いながら通り過ぎれば、まさに今買ったのだろう子犬を抱っこした女の子が、満面の笑みで両親と一緒に俺の前を横切った。
 ――お前、ちゃんと最後まで飼える自信あるのか? 込み上げて来る言葉が胸の辺りでつかえる。買われたペットが、必ずしも寿命尽きるまでその飼い主の元でいられると言う保証は無い。むしろ年々、捨てられるペットの数は増えている。その理由のほとんどは実に単純な理由で、大きくなり過ぎただの、凶暴だからだの、吠え声がうるさいだの、引っ越し先で飼えないだのと言う我儘な理由から、放棄されて処分場へと持ち込まれるのだ。
 愛玩動物が、“愛玩”ではなくなった瞬間から、それはただの迷惑な生き物に変わる。今しがた少女が抱きかかえた子犬だって、数年も経てば大人でも力で勝てなくなるだろう大型の犬種だ。ペットを「家族」として扱える人ならまだマシで、生き物と言う存在と生活を共にする苦労を知らない人は、案外そう言う単純さで飼う事を放棄する。向こうで、ウサギの絵柄の赤いエプロンをしたペットショップの女性店員が、「またお越し下さい」と明るく挨拶するのを見て、俺は顔をしかめる。もしも俺達が“死神”や“死刑執行人”とか呼ばれるのなら、お前達は“人売り”みたいなものだなと密かに悪態を吐く。売る事ばっかしてないで、たまには命を買ってみやがれ。思いながらそこを通過しそうになった時、俺はそこに信じられないものを見た。
 ペットショップの入り口の柱に貼られた紙の一枚。訊ね犬や里親募集の紙片の中に、それはあった。“子猫の飼い主探しています”と言う文字と、その下に描かれたへたくそな猫のイラスト。――虎縞模様の、“ミウ”と言う名の猫だった。

 翌朝、小さな事件があった。センターの前、正門の近くに小さなダンボール箱が置かれていたのだ。
 箱にはマジックペンで、こう書かれていた。“この子をよろしくお願いします”と。
 すぐに誰もが理解を示した。捨て犬か、捨て猫だと。だが、箱の中からはなんの物音もしない。叩いても呼び掛けても返事はない。確かに何かが入っているだろう重さはあるのだが、中からはなんの反応もないのだ。
「毒ヘビとかなんかかな?」
 誰かが言った。もちろんその可能性もあった。爬虫類ならば箱を叩いた程度では大きな反応は示さないものだから。
 だが、そこから逃げ出さないようにとした為なのか、厳重に幾重にも巻き付けられた箱のガムテープを見て理由が判った。まるで、呼吸が出来ないぐらいの密閉度だったからだ。
 急いで封を開ける。かろうじて、中にいた小型犬は生きていた。緊張と恐怖のせいか、身体中を濡らすぐらいの放尿をしていて、箱の中は引っ掻き傷と小便と糞で、悲惨なぐらいに汚れていた。そうしてようやく息を吹き返したその子犬は、自分が今どこに閉じ込められているのだろうかを徐々に理解して来たらしく、今度はその小さな身体を小刻みに震わせながら、またしても床に小便を漏らしていた。
 いたたまれなくなった。この子犬は、飼い主に捨てられただけではなく、今日の内に二度も殺される恐怖を味わうのだ。窒息し、息も絶え絶えになりながら助かった挙句、今度は炭酸ガスを浴びてもう一度窒息死の苦しみを味わう事になる。
「これ、どうしますかね?」
 そんな誰かの質問が聞こえた。そして、「今日の処分の房に入れておいてくれや」とそれに答えたのは、甲田さんだった。甲田さんは、いつもの通りにお茶をすすりながら粘土をこね始めている。そしてのんきな声で、「さっきの子犬は、こんな形だったっけなぁ」と呟きながら、一匹の犬の人形をかたち作っていた。
「ふざけんなよ!」
 思わず声が出た。自分でも不思議だった。普段からあまり目立つ事をせず、好戦的な性格でもない自分がどうしてそんな事を言い出したのか、全く判らないまま。
「アンタそれ、処分する犬猫への弔いのつもりか? いつもいつも殺した数だけの人形作って、それ持ち帰って、一体どうするつもりなんだよ。アンタが他の誰にも出来ない仕事しているってのは凄いと思うけどな。たかが死刑執行のスイッチを押すだけの事じゃねぇか。何が“死神長”だ。何が弔いだよ。俺にはアンタの行動を、自分が嫌な仕事を引き受けているってな自慢と、自己満足からなる偽善にしか感じられないね」
 事務所の中は静まり返っていた。誰も俺に、非難や小言を浴びせたりはしなかった。どう言う訳か、振り向けば誰もが今の言葉を聞かなかったかのように目をそむけ、黙り込んでいるだけ。
「――臆病者ばっかりだな、ここは」
 今度の言葉も、胸でつかえず、飲み込みもしないまま口から出ていた。憤りと勢いみたいなものだった。
 ポンと、肩を叩かれる。見ればそれは、俺より二回りも小さい甲田さんの手だった。
「じゃあ筒井君は、臆病ではないのかな」
 そう言われた。俺は咄嗟に、その言葉を挑発だととらえていた。
「えぇ、もちろん。少なくともアンタの仕事を取り上げられる程度にはね」
 俺はなけなしの虚勢を張って、そう言い切った。

 処理室に入るのは、二度目だった。もう二度とごめんだと思った配属初日以来の事だ。
 呼ばれて来てみれば、既に今日の殺処分される動物達は、ガス室の中に追い込まれ済だった。もちろんその中には、先程奇跡的に息を吹き返したあの小型犬の姿もあった。
 甲田さんは何も言わず、操作盤の前に立って俺を待っていた。要するに、俺に「やれ」と言っているつもりなのだろう。そして俺はあんな大見得を張ってしまった以上、完全に後には退けない状況にあった。
 息を飲み込み操作盤の前に立つ。動物達ももう既に“絶望”が蔓延してしまっているのだろう。数日前に部屋の外で聞いたような断末魔の悲鳴を上げているものはいない。
 そっとポケットの中で、柔らかい樹脂で出来た耳栓を探る。だが結局それを取り出す事もせず、俺はレバーに向かって手を伸ばした。
 一斉に、動物達の視線がこっちに集まるのを感じた。全身の皮膚が粟立ち、胃液が逆流しそうになる。操作盤はいかにも誰でもが判るように、“ガス充填”と、“停止”と、“ガス除去”の表示しかされていない。もう説明を求めるようなレベルではない。操作だけならバカでも出来る。俺はただその表示の通り、ガス充填を実行すればいいだけの事なのだ。
 手が掛かる。汗でレバーがぬめる。そして目を瞑り思い出したのは、幼い頃に見た“チロ”の変わり果てた姿だった。
 引けなかった。引けば簡単に倒れるだろうレバーが、異常なぐらいに重かった。そうしてそのまま全身を汗で濡らしながら、どれぐらいの時間が経ったのだろう。再びまた甲田さんに肩を叩かれて、俺は大声で、「うわ」と、情けない悲鳴を上げた。
「ご苦労さん。――もういいよ。代わろう」
 今度は虚勢も意地も張れなかった。俺は肺の底から絞り出すような深い溜め息を吐きだして、そして素直に頷いた。
――その日の夕方近く、またあの橘と言う少年が来ているのを見掛けた。四日目の房の前だった。アクリル板の向こうでは、ミウが背伸びをして少年の手を板越しに引っ掻いていた。
 その日はとうとう、少年に声を掛ける事が出来なかった。疲れていたのだ。仕事にも、俺自身の弱さにも。

「甲田さんは、昔っから“死神”だったよ」
 一緒に野犬保護で出掛けた同僚の久島さんから、そんな話を聞いた。甲田さんを除けば、あの所内で三番目に古株な人だった。
「今でこそ施設はあんな近代的な設備で出来上がってはいるが、昔はどんな処分場だったか知ってるか? もう、房も焼却炉も全部筒抜けな牢獄だったよ。収容房なんか刑務所よろしく鉄の檻で出来ててさ。移動だって全部人の手で行ってた。――だから生傷が絶えなくてなぁ。何度も犬に噛み付かれたり、引っ掻かれたりしたもんだよ」
 言って、久島さんは笑う。そしてその話は本当なのだろう、彼の耳や頬には一生消える事がないだろう傷がいくつも見受けられた。
「でも甲田さんにはそんな傷が無いですよ。彼は一体どんな仕事していたんです?」
 俺は移動する車のハンドルを握りながらそう聞けば、「だから“死神”なんだってば」と、笑いながら答える。
「当時は今よりも処分に金掛けてなかったからね。処分の方法は撲殺だよ。鉄の棒を持って叩き殺して回るんだ。しかも相手は機敏な動物ばかりだからね。一撃で殺せるような事は滅多にない。甲田さんは何回も何回も棒を振るって、相手の動きを止めながら血まみれになって殺して回ってたよ」
 ――俺は返事が出来なかった。
「動物の血の匂いが染みついちゃってるのかな。どの動物も決して甲田さんに歯向かおうとはしなかった。ただ逃げようとするだけさ。――逃げられないのにね」
 俺はそれを聞いてちょっとだけ、彼が事務的に動物を殺せる理由が判ったような気がした。

 センターへと戻れば、時刻は既に夕方だった。車を施設のドアに隣接させながら停めると、ブザー音と共にドアが開き、所員達が保護した犬達を移動させに掛かった。
 ――ふと、視線に気付いて窓の外を見る。そこには橘少年の姿があった。
「どうした? 今日もミウの面会か?」
 俺はなるべく笑顔でそう語り掛けたのだが、少年はまるで殺意のこもったような目付きで俺を睨み、「楽しいの?」と、そう聞いた。
「――何が?」
「犬や猫をそうやって生け捕りにして殺す事が、そんなに楽しいの? 動物達になんの罪があって、そんな酷い事をしてる訳?」
 それが……仕事だからだよ。とは、言えなかった。あまりにもその少年の怒りが純粋過ぎたからだ。
「憎いか、坊主」
 代わりに答えたのは、いつの間にか車の横に立っていた、甲田さんだった。
「憎けりゃ憎めばいいよ。俺達ぁ犬猫殺しておまんま食ってんだ。そうしなきゃ俺達まで死んじまうからね」
 少年は何も答えない。ただ怒りのままに甲田さんを睨んでいるだけだった。
「悔しかったら俺達全員に仕返ししてみな。あんたが大きくなって偉い人になったなら、俺達の仕事を取り上げて、クビにしちゃえばいいんさ。そうすればもう二度と、動物達が死ぬ事ぁない」
 少年は駆け出した。俺達に背を向けて。
 今日はミウに逢わなくてもいいのかと言おうとして、やめた。何故か甲田さんが車の横に立ち、笑いながら俺を見ていたからだ。
「どうしました?」
 聞けば甲田さんは、「別に」とだけ答える。そして今度は全く関係のない話を始めた。
「なんで君がここに配属になったのか知っているかな?」
「――はぁ? どうしてです?」
「君は配属希望の用紙に、こう書いただろう。動物は好きかって言う問いに、“嫌い”と書いて、その後ろに“自分よりも先に死ぬから”と、そんな理由を付け加えていた」
「あぁ……なんかそんな事書いたような気も……」
「“嫌い”って答えた新人は、君一人だったんだよ」
 なるほどと、俺は思った。背後でドアが閉められ、「オーケー! 前出て!」と叫ぶ久島さんの声が聞こえた。

 ミウが五日目の房に移された日。その日も少年は姿を見せなかった。
 飼い主探しが上手く行ってないのだろうか。それとも昨日の一件があるからなのだろうか。俺はいつも通りの退屈な一日を過ごし、家路へと着いた。
 少し肌寒い秋風の吹く中、俺は愛用のマウンテンバイクを走らせる。こうして自転車のペダルを踏んで、流れ行く風景と全身に受ける風を感じていると、仕事の悩みが僅かながら薄まって行くのが感じられる。
 今夜は何を食うか。思いながら肉屋の前を通り掛かれば、まさに今揚げたばかりのコロッケが盛られている所だった。
「いいね、コロッケ」
 呟いて俺は自転車を停める。そうして五百円分の大量のコロッケを包んでもらい、再び自転車で走り始めた頃、道端に何かが落ちているのに気が付いた。
 紙屑か。思いながらそれを踏んで通り過ぎようとした瞬間、俺はその内容に気が付いた。急いで自転車を止めて引き返せば、やはりそれは橘少年の作ったミウの里親探しのビラだった。
 ――どうしてここに? 思いながら拾い上げれば、沈む夕日に長い影を落としながら、あの少年が向こうで懸命にビラを配っている姿が目に入った。
「猫、飼ってくれませんか。まだ生まれて間もない可愛い子猫です」
 俺は自転車を押して、その少年の前を通り掛かった。作業着も着てはおらず、帽子もかぶっていない俺に気付いていないのか、少年は俺にまでそのビラを手渡そうとした。
 俺は咄嗟に片手を上げて、それを拒否した。――ただそれだけだった。もうその次の瞬間には、他の人に向けて少年はビラを渡そうとしていた。あれぐらいの年頃ならば、こんなビラのコピーでも、自分の小遣いで作るには相当にきびしい筈なのにと思いながら。
「あら、可愛いじゃん。どこにいるの、この子」
 背後でそんな声が聞こえた。小さく振り返って少年を見れば、ビラを手にした若い男女が彼の前に立ち、ビラを見ている最中だった。
「写真じゃねぇから、わかんねぇだろ。子猫ったって、可愛いのは今だけじゃんよ」
「いいじゃん、飼おうよ。私猫大好き」
 軽薄そうな男女だった。女は遠く離れていても何か匂って来そうなぐらいに派手だったし、男はちゃらちゃらと音がするぐらいにチェーンやアクセサリーを身に着けている。
「飼えねーって。俺、うるさい動物ってダメなんだよね」
「いいじゃん、無理なら無理でまた考えるから、とりあえず飼おうよ」
 ――そいつらはやめとけ。俺が思った瞬間だった。
「いえ、お姉さんには譲れません」
 少年は言った。断固とした返事だった。――あぁ、なるほど。道理で里親探しが難航している訳だ。俺はそんな少年の不器用な頑固さに感心しながら、自転車のスタンドを下す。
「何でだよ、クソガキ。お前今、俺等に猫飼ってくれってこの紙渡したじゃねぇかよ」
 男がいきり立つ。飼う意志など微塵も無い癖に、そう言う妙なプライドだけは高いらしい。まだ小学生だろう少年相手に脅し文句を並べ始めた。
「なにこの子、マジ腹立つ~。何で私じゃダメな訳~?」
 女の方も、同じ知性レベルで絡み出す。そして男は少年相手に蹴りを繰り出し、その腹を蹴った。
「おい、このクソガキ。お前どんな詐欺商法よ。てめぇのやってる事、犯罪だぞおい」
 少年が二発もの蹴りを食らって崩れ落ちる。そして俺はと言えば、揚げたてのコロッケの袋を男に向かって投げ付けて、奇声を上げながら突進をかましていた。

「旨い?」
 聞けば少年は、「まぁ、そこそこ」とだけ答えた。
 大きな月と、数えられる程度ないくつかの星。そんな夜空を見上げながら、原っぱで食う冷めたコロッケ。切れた唇がひどく痛み、コロッケにソースがかかってなくて本当に良かったと思いながら、俺は少年に話し掛けた。
「俺、殴り合いの喧嘩したの初めて」
 言うと少年は口に含んだコロッケを吹き出しながら、「みっともないな」と、そう言った。
「でも、初戦で白星って。幸先良くねぇ?」
「もうこの先、一切喧嘩しなけりゃいいよ。そうすれば勝率百パーセントって言い張れるから」
「そりゃあ恰好いいな」
 五日目の夜の事だった。俺はその少年からもらったビラの一枚を持って、帰りにアパート近くのコンビニへと寄った。財布の中にあったお金の全てを十円玉に両替し、それでコピーを取ったら、コンビニのコピー用紙の方が先に“紙切れエラー”の音を上げていた。

「早退します!」
 届け出書きの早退理由には“体調不良”と書いて元気良く提出したものの、それは疑われる事なくすんなりと受理された。俺の異動願いもそれぐらい簡単に受理してくれよ。思いながら俺は、マウンテンバイクのペダルを強く踏み込む。
 背中に背負ったザックには、はちきれんばかりの大量のビラ。そして事前に買っておいたペットボトルのスポーツ飲料と、このやる気。今日は何も怖くないなと思いながら、俺は施設の前から続く長い坂道を勢い良く駆け降りた。
 行き先は、昨夜調べたペット可のアパートやマンション。そして少年が足を運んではいないだろう、隣の町や高台の建て売り住宅。とにかく、少しでも可能性がある場所には全て足を運んでみるつもりだった。
 とうとうミウは、六日目の房へと移された。明日を過ぎればもう後は無い。今だって特例であの房にいるのだ。今度はもう特例はないだろうと俺は思った。
 ビラをマンションの集合ポストへと放り込み、その辺りに立っている暇そうな主婦達にもそれを手渡して歩いた。電柱があればビラを貼り、目に入った地元スーパーなんかにも入り込んでは、掲示板を探して歩いた。時折、少年に電話をする事も忘れない。彼もまたどこかでビラを配って歩いているのだろうか、「イタズラ電話しか来ないね」と、息を切らせながらそう言った。
 そしてその日もまた、成果は無かった。

「すいません。体調不良で休みをいただきたいんですが」
 翌朝、電話でそう言って怒られた。
「いいから出て来い。今日も一日、ビラ配って歩くつもりか?」
 俺の行動は既にバレていた。俺は電話向こうの久島さんに謝って、いつも通りに出勤した。特にそれ以上咎められる事はなかったが、いつもの骨集め以外に俺は、六日目の房の追い出し作業をやらされた。
 犬側の房は自動で追い出しが出来るのだが、猫側の方は自力でそれを行わなければならない。時には猫科特有の凶暴さで襲い掛かって来るものもいるそうなのだが、幸いにもまだそんな猫には出逢っていない。
 そんな猫の房の片隅で、ミウは丸まって震えていた。俺が近寄れば一人前にフーッと威嚇をするのだが、抱きかかえれば懸命に腕の中でバタバタと足掻くだけ。まだ幼く、まだ軽く、その命の重みが上手く伝わって来ない程に、小さな小さな存在だった。
 そんな小さな存在に、俺と少年は必死に里親探しを続けている。良く考えれば馬鹿げた話だが、笑えない程に重い何かがそこにはあった。
 学校が終わってすぐに来たのか、少年は四時過ぎには施設に顔を出した。いつものようにアクリル板の外側から、ミウに向かって呼び掛ける。そしてその幼いミウもまた少年の事が判るのか、姿を見付ければコロコロと転がるようにして走り寄って来た。
「筒井君、今日が最後だから抱っこさせてやればいいじゃない」
 いつの間に来ていたのか、横に立つ甲田さんが俺に向かってそう言った。
「最後って……」
「助けますよ」少年は言った。
「まだ時間はあります。絶対に助けますから」
 頑とした、強い意志を秘めた返事だった。そしてその言葉に、俺も一緒になって頷いていた。
 結局、少年がミウを抱き締めたのは、僅か数分の事だった。すぐにまた里親探しに向かったのだろう、少年は走って施設から飛び出した。俺はその日も早退を申し出たのだが、今回はあっさりと却下された。仕事自体は酷く暇だったのに対し、定時までその時間を潰す事はいつも以上に苦痛だった。

 夜の九時半。陽はとうに暮れ、街には窓から漏れ出る蛍光灯の明かりばかり。俺はビラを配り終わった後で少年に電話をしたが、たっぷり三十コールを待たされてようやくそれは繋がった。どうやら少年は泣いている様子だった。彼の居場所をなんとか聞き出しそこへと向かうと、彼は公園の片隅のベンチで大量のビラを撒き散らしながら座り込んでいた。
「ここにいたのか」
 声を掛ければ少年は、無言のままに頷いた。
 聞くまでもなかった。きっと里親候補の電話が来なかったのだろう。その丸まった背中がそれを物語っていた。
 俺は彼の隣にそっと腰掛ける。そして星の見えない夜空を見上げ、俺はぼそりと語り始めた。
「俺、お前ぐらいの歳の時、犬飼ってたんだ」
 ――白くて毛の多い、雑種犬だった。
「名前はチロ。実家の庭先で飼っていた。俺は特別犬が好きだった訳でもないんだが、チロは本当に特別だった。学校から家に帰ると、勉強なんかしないでずっとチロと遊んでたぐらいだからな」
 実際、良く遊んだものだった。夜眠る時以外は、ずっと一緒だったように思える。
「ある日、俺、とんでもなく馬鹿な事しちまったんだ。家にはその周囲をぐるっと囲む板塀があったんだけど、俺は何を思ったんだか、その塀に立て掛けられていた梯子を上って、向こう側へと飛び降りてしまったんだな」
 かなりの高さだった。足がジンジンと痛み、涙が出て来た。幸い骨折も捻挫もしなかったが――。
「チロが、俺の後を追って飛び降りたんだ」
 少年はようやく顔を上げた。相当に泣いていたらしく、暗がりでも判るぐらいにそのまぶたは腫れ上がって見えた。
「俺は何も付いてはいなかったけど、チロには首輪とリードが繋がれていた。――もちろんチロは、俺のいる地面までは届かなかった。リードが引っ張られてその板塀の途中でぶら下がったままだった」
 どうしようもなかった。幼い俺は、苦しくて暴れるチロを見上げながら、ただ名前を呼ぶだけで精一杯だった。
「あれからもう、動物は飼わない事に決めた。好きなら好きなだけ、亡くした時の悲しみが大きいって判ったから。そしてどの動物も、きっと俺より長生きはしないだろうって判ったから」
 少年は何も言わない。ただ黙って俺の顔を見るだけだった。
「俺が飼うよ」俺は言った。
「俺を信じて、俺に預けてくれよ。ちゃんと飼うし、ちゃんと面倒見る。約束するから」
「本当に?」
 聞かれて俺は、「もちろん」と答える。
「たまにはウチに遊びに来てもいいぜ。お茶ぐらいなら淹れてやる」
「――ありがとう」
 少年は言った。きっと本心からの言葉だろうと、俺は思った。
「茶菓子は出ないけどな」
 俺が言うと、「コロッケでいいよ」と少年は言う。
 そして俺達はしばらく、酷く無理のある大笑いをしていた。少年は俺から顔を背けて笑っていたが、いつしかその声は涙声に変わっていた。
 俺はそれに気付かない振りをしていたが……まさか俺が、そんな少年との約束を破る事になるとは思ってもいなかった。少なくとも、その夜の間だけは。

「駄目だよ」
 甲田さんは言った。まさか、微塵も想像してはいなかった返答だった。
「どうして?」
 俺は聞く。机の上には例のビラと一緒に、ミウを引き受ける為の書類が、俺のサイン入りで置かれていた。
「駄目は、駄目だよ。君には預けられないねぇ。あの子猫は予定通り、今日の内に処分するから」
「だからどうして?」俺は尚も食い下がる。
「ここの職員が引き受けちゃいけないなんて、マニュアルのどこにも書いていないでしょう? それにこの書類は正当な手続きで書かれたものだ。ちゃんとハンコだって押してある。一体なんの問題が……」
「あるよ」甲田さんは言った。
「君の仕事はなんだい? 犬や猫を保護して、それを守る為のものかい? ――違うだろう。君だって既に“死神”の一人だ。どれだけ本来の目的を誤魔化したって、君はもう動物達に恐れられるそんな存在なんだよ」
「でもそんなの、猫を飼えない理由になんか……」
「猫はもう、君を選ばないよ」穏やかだが、力強くて刺さる言葉だった。
「もう君の身体にも、動物の血の匂いと、死の匂いが染みついている。これからはもっともっとそうなるだろう。それでどうやって猫を飼う? 恐怖と暴力で支配したい訳じゃないだろう? 君の心がどんなでも、動物が安心出来るであろう匂いは発してないんだ」
「……」
「それに、どうしてその猫一匹だけを特別視するんだい? 本物の死神が、今までにたった一人でも特別に死を与えなかった事はあるかい? ――ないだろう。“死”は誰にでも平等に訪れる。そしてここの施設はある意味、一つの世界だ。倫理観は必要無い。ここに来た動物は、飼い主が現れない限り、その寿命が尽きる場所なんだ」
「だから俺がその飼い主になりたいんですよ! 言ってる意味が判ってますか?」
「判ってるさぁ。だからこそ、止めてるんだ」甲田さんは続ける。
「例えば君が本当にその子猫を引き取るとする。そうしたら、どうだい? きっと君はこれから先も、同じケースの場合には必ずその動物を引き取るだろう?」
 ――違う。とは言えなかった。
「そうして君は、君にはなつかない動物達と一緒に、非常にぎこちない暮らしをする。――さて、それがどれだけ長く続くのかな。それにその動物達は、君が欲しくて飼った動物じゃない。ただの一方的な同情だけでしょう。それは自然な付き合いかな」
「……」
「“死神”が死を選り好みしちゃあ駄目でしょう。助けたいんなら、全てを助けなきゃ。それが無理なら何も助けちゃいけない。全てか、ゼロだよ。動物達を一定期間保護し、その後には殺処分する。それがどれだけ異常な仕事なのかを感じるのは人間として当然だけど、少なくとも今度は君が“動物を捨てる立場”になっちゃあいかんよ」
 俺は捨てません。――とは、断言出来なかった。実際、今住んでいるアパートはペット可ではないし、秘密で飼っても俺がいない間に鳴き声でバレないとも限らない。ましてや、甲田さんの言う通り、俺自身が動物に好かれるとも思ってはいない。確かに俺の身体には、動物の死の匂いが染み込んでいる事だろうから。
「それでも……助けたいんです」
 絞り出すような、最後の言葉だった。いや、嘆願と言うべきだろうか。俺の本心からの言葉だった。
「うん」甲田さんは頷いた。
「気持ちは判るよ。――でも俺は、ただの一度もそんな情けを掛けた事は無い」
「でもそれは……」
「甲田さんが今までの四十数年間、一度も君と同じ気持ちを持たなかったとでも思うのかい?」
言ったのは久島さんだった。見れば事務所にいる全員が、立ち上がって俺の方を見ていた。そうしてようやく気付く。先日の俺と甲田さんの諍いの際の、皆の沈黙が。そしてこんなやり取りは、誰もが一度は通った道なのだと。
 壁の時計を見れば、既に定刻である処分の時間を過ぎていた。だが、甲田さんは動く気配を見せない。いや、誰一人として動く気配を見せない。きっとその場にいる全員は、俺がなんらかの納得をしない限り、動かないのだろうと思った。
 誰もがやる気を持たないのではない。誰もが仕事に無関心な訳ではない。鈍感でもなければ、動物が嫌いな訳でもない。ただほんの少し、他の部署の人達よりも、“諦めるべき部分”が多いだけなのだ。
 心が、静まって行くのが判った。
選択は俺の中だけにしかなかった。“人”としてここを去るか。“死神”である事を受け入れるかだ。
そして俺は、そっとその手を差し出した。
「鍵、下さい」
俺は言った。すると甲田さんは作業服の胸ポケットから、使い込んだ小さな鍵を取り出した。
「出来るのかい?」
 聞かれて俺は、黙って頷いた。そしてその鍵を受け取った。
冷えた廊下を孤独に歩きながら、改めて様々な事に気付く。どうしてたった一人、“動物が嫌い”と回答した俺がここに配属になったのか。そして甲田さんがどうして、“死”の“神”の“長”であるのか。そして彼が動物達を擬人化した人形を作るのも、そして彼が定年後もこうして誰もが一番嫌がるであろう仕事を引き受けているのも。ようやくぼんやりと判り掛けて来た所だった。
 いつか俺も一人でここに入る事になるのだろうかと思っていた、処置室の固いドアの前に立つ。犬の房と、猫の房。それぞれの房から、動物達が俺を見ていた。そしてその中には、伸び上がってアクリル板を引っ掻くミウの姿もあった。
 犬の房の“追い込み”用のスイッチを操作すれば、部屋の片側にぽっかりと穴が開き、後は自動的、強制的に犬達をそちら側へと追い込めるようになっている。だが猫は別だ。人間の手で一匹ずつ処置室へと追い込まなければならない。俺は処置室から通じる通路から猫の房へと入り、大きな麻袋の中に一匹ずつ、猫を放り込んで行く。
 何もかも一緒くたである。そこに狸がいようとも、兎や鼬がいようとも。最後は全て一緒。全部一つの袋の中に放り込み、そして処置室送りだ。
 俺は逃げ惑う猫達を懸命に追い、そして一匹ずつを捕まえて行く。数は何匹もいないのだが、それでもかなりの労力を要する作業だ。そうして全ての猫を捕まえて、そして最後の一匹――部屋の片隅でこっちに尻を向けて丸くなっているミウを抱き上げる。
 今日は威嚇もしなかった。ミウはひたすら震えて、そして――涙を流して泣いていた。
 あぁ、猫も泣くんだ。俺はそんな状況の中で、そんなつまらない事に気を取られていた。
 ミウは軽く、そして驚く程に小さかった。数日前に抱き上げた時よりずっと、これがこの猫の魂の大きさなのかと疑ってしまうぐらい、小さい小さい身体であった。

 安楽死だなど、一体どこの無責任な人間が言った言葉なのだろうか。実際の殺処分の様子は、まさに阿鼻叫喚のような光景である。
 密閉された狭い部屋の中、無理矢理に押し込めた動物達の頭上に炭酸ガスを散布する。そして酸素が奪われて、動物達は窒息して死に至る。
 ――そこで動物達は、眠るようにして天国へといざなわれます。そんな謳い文句をどこかで見た記憶がある。果たしてそれは、この実情を知らずに書いたものなのか。それともその光景を実際に目の当りにした上で、敢えてそんな言葉で誤魔化したのか。本物の処置室の中は、追い込み通路の棘で身体中から血を流した犬達や、ぎゅうぎゅう詰めにされて麻袋の中で断末魔の悲鳴をあげる猫達が、目を剥き出し、そして舌をあらん限りに突き出させ、苦悶の表情で息絶える。そんな場所なのである。
 ガスの散布は十分間と定められている。そしてガスの中和が始まると同時に、部屋の床が大きく開いて動物達の死骸はその床下へと落ちる。後はその下を走るベルトコンベアーに運ばれて、火葬の為の焼却炉へと送られる。
 但しその死骸の山の中には、まだ死ねなかったものや、息を吹き返してしまったもの等もいる。基本、動物達は呼吸が浅くて短い。人間とは違って呼吸が深くない分、その十分間の地獄を生き延びてしまったりするからだ。そしてその比率はそれほど少なくもない。つまりそうやって生き延びてしまった動物は、次には生きたまま高熱で焼かれると言う二度目の責め苦が待っているのである。
 かつては飼い主の元で可愛がられていただろうものや、自由に野原を飛び回っていただろうものも、全ては人と言う動物の我儘だけでこんな末路へと追いやられる。
 果たして人間と言うものは、どれだけ偉い動物なのだろうか。俺は自らの中に流れるヒトの血に辟易としながらレバーを戻せば、ガラスの向こうで音もなく床が二つに割れて、動物達はその深淵の中へと落下して行った。
 ――焼却炉は、充分に時間を置いて冷やしても、流れ出て来る空気は熱い。真冬ならばまだいいのだが、これが夏場だと身体中から汗がこぼれ落ちて来たりする。その日は先輩である佐藤さんに頼み込み、一人で骨の回収に当たった。
 泣き顔を見られたくはなかったからだ。俺は目だけが覗けるように顔中へと巻いたタオルを懸命に噛み、その声を押し殺した。
 ミウの骨は、見付からなかった。見分けが付かなかったのだ。ただ一ヵ所に積み上がった猫であろう骨の山を見て、俺は何度も何度も、「ごめんな」と繰り返していた。
 手を合わせるのは、なんか違うと思っていた。それはきっと懺悔になってしまうから。心の中で、「許されてたまるか」と響き渡る自分自身の声を聞きながら、俺は必死にその骨を拾い集め、袋の中へと放り込んで行った。
 涙は次から次へとあふれ出て、何も出来なかった事の悔しさと自分自身の不甲斐なさで、最後に骨を収めた麻袋の口を結わえた後、俺は焼却炉の上に突っ伏すようにして声を上げながら泣いていた。しばらくそうしていた筈なのだが、誰も様子を見に来なかったのは、きっと“死神”達なりの優しさ違いなかった。

「来たぞ」
 佐藤先輩からそれを聞いたのは、その日の午後、早い時間だった。
 まさか来るとは思わなかった。――橘少年だ。その見慣れた顔が事務所の中へと現れた時、俺の顔は音がするぐらいに強張った。彼との約束を守れなかった事を、今更ながらに後悔し始めていた。
「こんにち……は」
 少年は事務所の入り口から俺の顔を見付け……そして彼もまたその表情を曇らせた。完全に何かを悟った顔だった。
「やぁ、こんにちは」
 そこに割って入ったのは、甲田さんだった。甲田さんは少年の背中を軽く叩き、その横にあるソファーへといざなう。そして、「お茶二つね」と佐藤先輩に向かって声を掛けておいて、目配せで俺を呼んでいた。
 ――きっとこれから先、何度も通る事になるだろう道だ。俺は決心をして立ち上がる。その向こうで甲田さんの、「申し訳ない」と言う声が聞こえた。俺は重い足取りでその席へと着くと、一体それは何を指すのだろうか、甲田さんは俺が昨夜同意書と一緒にテーブルの上へと置いた例の“ビラ”を、少年の前に差し出していた。
「本当にすまない。君には何も知らせなくて」
 何を言い出すのかと思った。甲田さんが発した言葉は、あまりにも意外なものだった。
「あの子は昨晩、貰われて行ったよ。このビラを持って訪ねて来た、若い女性だった。君に知らせようとも思ったんだが、なにぶん遅い時間だったんでね。今になっての報告で申し訳ない」
 そうして次に差し出したのは、綺麗な女性の字で書かれた動物引き取りの同意書だった。その書類の欄の一部に、“ミウ”と書かれていたのが見えた。
「何しろ場合が場合なんでね。彼女が本当にしっかり飼ってくれる人なのかまでは判断出来なかったんだが、今日と言う日を迎えるよりはいいだろうと思って引き渡した。――でもきっと大丈夫だよ。彼女は今までに何度か猫を飼った事はあるそうだし、大人しく、優しそうな人だった」
 そして甲田さんは、「後は彼女に直接聞いてみればいいよ」と言って、その同意書に書かれた電話番号をメモする。そしてそれを少年に手渡せば、ようやく少年は安堵した笑顔になって、「ありがとう」と言った。
「ホレ、あの子を手渡したのはお前だろう。お前もちゃんと謝れ」
 言われて俺は頭を下げた。「約束守れなくてごめん」とそう言えば、少年は、「いいよ」と、そう言った。
「ありがとう、兄ちゃん」
 ようやく見る事が出来た、彼自身の本当の笑顔だった。俺は懸命に口の内側を噛み締めた。痛いを通り越し、きっと口の中が切れた事だろう。だがそれでも、込み上げる感情を抑える事が出来なかった。俺は、「すいません、時間なんで」と言って、逃げるようにして立ち上がる。
 少年の横を通り過ぎる時、俺は彼の頭に手を置いて、「もう拾うなよ」と言い残し、部屋で出た。背後で、「うん」と声が聞こえた頃には、もう俺の涙腺は緩みきっていた。

 屋上から少年の後ろ姿を見送りながら、きっとあの子とはもう二度と逢う事はないんだろうなと、ぼんやり考えていた。
 別に逢いたい訳でもない。むしろ逢わなくていいのなら、それに越した事はない。いつか偉くなって、こんな施設取り壊してしまうぐらいな人間になってくれよ。そんな自虐的な事を思っていると、突然に肩を叩かれた。振り返ってみればそれは、甲田さんだった。
「ちゃんと“死神”の仕事、出来たじゃないか」
 言われて俺は、「えぇ」と答える。
「いつか本格的に、あなたの仕事を取り上げてみせますよ」
「そりゃあ嬉しいな。俺ももう歳だし、早く引退したいしねぇ」
「そんな事……」
 そんな事言わずに、長くいて下さいよ。その言葉は、結局喉を通らなかった。
「ねぇ、甲田さん」
「なんだい」
「さっき少年に手渡した電話番号、誰のなんですか?」
 聞けば甲田さんは大笑いをしながら、「孫娘のやつだな」と言った。
「どうせあの少年だって、電話なんか掛けんだろう。いつも困ればああやって孫に頼んで同意書書いてもらってんだ。だけど今まで一度も電話が来た試しはないってよ」
 聞いて俺は、なるほどと感心をした。いつでも掛けれる――は、いつになっても掛けないものなのだろう。ただそこにあれば安心が出来るだけの、そんな存在に取り替わるのだろう。
「ホレ、これやる」
 突然、そう言って甲田さんが差し出したのは、虎縞模様の子猫の人形。ほぼ丸に近い、丸まったままの子猫の人形。もしかしたら甲田さんが塗ったのか、その人形はただの白ではなく、ちゃんと模様の一つ一つまでもが筆で塗装されていた。
「ありがとうございます」
 言って、受け取ったその人形は、ミウのその軽さよりももっと軽い、手のひらサイズの立像だった。
「ねぇ、甲田さん。いつもこんな人形作ってますけど、これって家に飾っていたりするんですか?」
 聞けば甲田さんは、「まぁねぇ」と曖昧な返事をしながら階下へと向かう階段へと向かっていた。
 その時俺は、いつか甲田さんの家に行ってみようと考えた。一体彼の家にはどんな世界が広がっているのか。ただそれを考えるだけでも今日の暇な午後を潰すには充分だとすら思っていた。

 俺の異動願いは、それから一週間後に受理された。
 いつにもましておおらかな大杉所長は、「君がいなくなるのは寂しいね」と、いくらも接点が無かった筈なのに、見え透いた社交辞令を並べた。
 異動届の欄には、配属先は書かれていなかった。代わりに三つの異動先希望欄が設けてあった。俺はその晩ずっとその希望地を考えていたのだが、結局空欄のまま朝が来てしまった。
 人間には、ほんの少しの休息と喜び。そして確かであると感じられる安心が必要である。
 あの時、甲田さんが橘少年に手渡したものは、もしかしたら軽はずみな“嘘”なんかではなくて、少年の背に絡み付いた苦悩を取り除く“安堵”だったのではないだろうか。
 夕暮れの街。いつかの記憶の残る通りの片隅で、懸命にビラを配る二人の少女の姿が目に入った。それは双子の姉妹なのだろうか。一見すれば全く同じ子供のようなその二人は、精一杯の声を張り上げて、「子犬、もらってくれませんか」と叫んでいた。
 緩むペダル。差し出されるビラ。但しその内容は、照らす夕日の光に包まれて、何も見えない。
「ごめん。お兄ちゃん、飼ってあげられないんだ」
 そう言って、俺もまた懸命に微笑んだ。果たしてそれがあの少女達にどう映ったのかまでは知らないが。
 最近、俺の仕事が少しだけ増えた。七日目を過ぎた動物達の追い込み係だ。甲田さんは何故か急に俺に対して厳しくなり、怒鳴る回数も日に日に増えた。動物達の悲鳴を聞く事に関しては今もまだ全く慣れはしないのだが、きっとそれに慣れる事は一生無いんだろうなと諦めを持つようにもなって来た。
 土手の道を走る。ペダルを踏む足がやけに軽い。オレンジの明かりと、黒いシルエットに沈む対岸の町並みがやけに素敵に見えた。俺は自転車のかごに積んだ大量のコロッケが冷めないようにと、懸命に走る。
 異動の届はまだ提出してはいない。希望欄は未だ空白で、その片隅に虎縞の子猫の人形を置き、今も俺の部屋のテーブルの上に放られたままになっている。



《 死神達の週末 了 》



【 あとがき 】
どうも。鎖衝(さつき)です。
とある処理施設の方が、こんな事を言っていました。
犬を捨てに来た子供と母親がいて、子供は捨てないでと大泣きしていたらしいのですが、母親は、「いつまでも一緒にいられるから」と言って、その施設の前で犬を抱っこさせて子供と記念写真を撮ったそうなんです。
もしかしたらそれで子供は騙せるかも知れません。相当におバカな子供だったらね。
でも、犬にしてみたら? 死を目前に控えた記念撮影ですよ。そんな写真で犬の死を美談になんかされてたまるかって話ですよね。
実際に動物を殺している係員の方は、休憩室に心を置いて行くんだそうです。ここから先、仕事に出たら俺は機械なんだって言い聞かせて。
殺したくもない動物を、殺さなきゃいけない人達もいるんです。もしもあなたが中途半端な気持ちで動物を飼いたいとか思っているのなら、それはやめた方が懸命です。一匹の動物の天寿がまっとうされるまで飼うとしたなら。それは相当の覚悟と根気が要りますからね。

『上昇既流』 鎖衝

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