Mistery Circle

2017-09

《 実録・南千住抗争挽歌 夜盗達のPrelude 》 - 2012.07.04 Wed

《 実録・南千住抗争挽歌 夜盗達のPrelude 》
 subtitle:《 五分遅れで見掛けた人へ 》

 著者:瞬☆ザ・アフロモヒカーナ(スーパーDQN)






 そう、あれは遠い昔の想い出だけど、私にとってはつい昨日の事のよう――

 ふと、懐かしい曲だなと、煙草を吹かしながら俺は思った。
 開いた自動ドアの隙間から、店内のBGMが風のように流れて目の前を過ぎ去って行く。
 夕方六時の地下鉄、東京メトロ。降りる場所とは程遠いM町駅のホームを眺め、俺はキオスクの店の前で五分遅れの電車を待っている所だった。
 懐かしいとは思ったが、一体いつ頃の誰の曲かさえも思い出せない。そんないい加減な記憶のまま、店の外の灰皿に煙草を押し付けた時。
 ぐらり。地面が揺れた。
 その揺れは思いの外激しく、俺は思わず通勤用の鞄を放り出しながら、何か掴まるものはないかと辺りを見回しながらしゃがみ込む。
 何か、妙な感じがした。ただの揺れだけではない、自らの眩暈のような、立ちくらんだ時のような不安定さ。そして視界が多重にぼやけるような感覚。同時に駅構内のアナウンスが流れ始めた。
 ただ今の地震により、一時運行を停止致します――
 チッ、ツイてないな。この分だと藍璃(あいり)の乗っている電車も途中で停止しているに違いない。
 だが、予想に反して電車はまもなくホームへと滑り込むようにしてやって来た。
 多分、あれに乗っている筈なんだけどな。思いながら俺はスーツの胸ポケットから携帯電話を取り出して、すかさず藍璃の番号で呼び出しをかける。
 乗客達が、にわかに騒然となっていた。中には地上へと逃げ出そうとホームを走る人までがいた。
 だが、近年相次ぐ小規模な地震に慣れっこになっているのか、人々の大半はまるで何もなかったかのように落ち着きを取り戻している。
 そんな中、停車した電車のドアは静かに開いた。
『もし……し。……哉?』
 同時に、電話から藍璃の声が聞こえて来た。
「もしもし。今、どこにいるの?」
 聞けば藍璃は、『良く……えないんだけど』と、酷いノイズ混じりな声で聞き返して来る。
「こっちもだよ! 君の声が上手く聞き取れない!」
 少しだけ大きな声でそう告げる。向こうで、ドアから乗客達が次々と吐き出されて来る様子が見える。
『……ね、……町駅。ちょうど今降り……来た所なんだけど』
「え? どこだって? 良く聞こえない」
『……M町駅……の前まで来たけど……』
「M町? 俺も今そこにいるよ。二番線のホームのキオスクの前に立ってる」
『……スク? ……ってるんだけどさぁ』
 そこで通話が途切れた。俺は苛々としながらもう一度同じ番号へと掛け直す。
 ややあって、通話が再び繋がる。
『もしもし、俊哉? あのね……』
 ――ただ今の地震により、当駅に停車中の全ての車両は一時運転を見合わせております。乗客の皆様方には大変ご迷惑をお掛け致しますが――
 天井から降る駅のアナウンスがうるさい。俺は懸命に声を張り上げて藍璃と会話を試みるが、アナウンスに邪魔されて藍璃の声はまるで耳に届いて来ない。
『……しも今、キオスクの前に……てるんだけど』
「――えっ?」
 返事をしながら俺は、急いでその周囲を見回す。だが、藍璃らしき姿は見当たらない。
「いや、藍璃。どこにも見当たらないよ。場所が違うんじゃない?」
『……哉? 良く聞こえない……』
「だからぁ、場所が違うんじゃないのかって。俺は今、M町駅の五番線ホームのキオスクの前! そこには君はいない!」
『ちゃんと……にいるよ? 俊哉こそ……てるんじゃないの?』
 上手く通じない電話に苛立ちながら、俺はもう一度その周囲を見回し、そして店の横やその少し離れた周辺にまで視点を伸ばす。
 間違いなく藍璃はいない。それなりに人で混雑はしているが、俺が他の人と藍璃とを見間違う筈がなかった。
「藍璃、ちょっと落ち着いて辺りを見てみて。君はなんか勘違いしてるよ」
『……てないよ。俊……そ、降りる駅……ってんじゃないの?』
「いいや、俺は合ってる。間違えてるのは君の方。もしかしたら、一つ前のK町駅で降りたんじゃない?」
 言いながら俺は、店のガラス窓に手をついた。
 だが運の悪い事に、それは窓などではなく自動ドアの片側で、そしてそれはちょうど中から出て来た客によって左右に開いた所だった。
「あっ、すいません」
 よろけて、危うくぶつかりそうになった赤いコートの女性に俺は謝る。
「ちょっとぉ、気を付けてよね」
 コートの女性が言う。同時に電話機の向こうから、『ごめんなさい』と、藍璃の声が聞こえて来た。
「いや、君の事じゃないよ」
 俺は言う。すると藍璃は、『私も、俊哉に言った……ないよ』と言い返し、そしてそこで通話が途切れた。
 調子悪いな。見れば携帯電話のアンテナは僅かに一本だけの表示になっている。
 俺はそれを高くかざして左右に振ってみた。藍璃と一緒に買ったお揃いのハートのストラップが、携帯にぶつかりかちゃかちゃと乾いた音を立てる。
 ふと気が付けば、先程の赤いコートの女性が少し先の方で振り返り、俺の事を見ていた。
「あの……なにか?」
 声を掛けるとその女性は、軽く首を傾けて、そして後ろを向いて立ち去った。
 なんなんだろう? 思いながら俺は、再び藍璃の番号へと掛け直す。そしてその通話が、『もしもし?』と、藍璃に繋がったと同時に、また天井のスピーカーが会話を邪魔した。
 ――先程まで運行を見合わせておりました地下鉄T西線、安全の点検が終了次第、運行を再開致します。――繰り返します――
 どうでもいいよ、そんな事! 俺は腹立たしげにそのアナウンスを聞きながら、鞄を小脇にかかえて耳を手でふさいだ。
『……ってよ、俊哉』
「えっ? なんだって、藍璃?」
『だからぁ、……なく、M町駅のキオス……だってば。そっちも……ってよ、俊……』
「藍璃……? ちょっと、ねぇ、藍璃!?」
 声は途切れた。そしてアナウンスも止む。
 突然、周囲に静寂が訪れたかと思った瞬間、再び雑多なノイズが辺りを埋め尽くす。
 俺は妙に不安になりながら後ろを振り返り、もう一度あらためて藍璃の姿をそこに探すが、やはり彼女はどこにも見当たらなかった。

 俺と藍璃の住む自宅アパートは、西K駅を降りて徒歩十五分の場所にあった。
 とっぷりと日の暮れた寒い川沿いの道をとぼとぼと歩き、既に十回以上は送ったであろうメールを懲りずに送信する。
“今どこ? 晩飯、どうする?”
 返事が来ない苛立ちよりも、不安と心配の方がよほど上だった。
 電車がすぐに復旧を果たしたおかげで帰りの足の心配はなかったが、戻って来ない返事の方に悪い想像が働いた。
 大丈夫。ちゃんと通話は出来ていたんだし。思った頃、向こうにスーパーマーケットの灯りが見えた。アパートに程近い、一番良く利用する店だった。
 スーパーの前でもう一度だけ携帯電話の表示を確認し、メールも電話も来ていない事を確かめた上で中へと入る。
 お互いに食事をだぶって買ってしまった時の事を考えて、惣菜はなるべく安いものをなるべく少なく籠へと放った。
 割り引かれたサラダと唐揚げ。そして冷えた缶ビールを一本購入し、袋に詰めながらもう一度携帯を見る。だがやはり、藍璃からの連絡はまだ来ない。
 アパートの近くまで来て、俺は思い切って電話を掛けた。
 そして驚く。向こうから流れて来るガイダンスは、藍璃の携帯電話の電源が切られていると言うメッセージだった。
 ――あいつ、どこで何をしているんだろう?
 思いながらアパートの階段を上り、二階の奥のドアノブに鍵を差し込む。
 電気を点けると、部屋の中にも藍璃の姿はなかった。もちろん、帰って来ている形跡も無い。俺は一つ大きな溜め息を吐き、鞄をソファーの上へと投げ捨てた。
 ジャージの上下へと着替え、ビールのプルタブを引きながらキッチンへと立つ。
 レンジフードの換気扇のスイッチを入れ、そしてそこで煙草の火を点けた。このアパートの部屋の中で唯一煙草を吸っていい場所、それがここ。煙草を吸わない藍璃との、約束事である。
 やっぱ待ち合わせなんかするんじゃなかったなぁ。煙を吐き出しながら、思い返しては後悔をする。
 藍璃は、俺の乗っているものより一本遅れの電車に乗っていた。帰宅途中、メールが届いたのだ。今、地下鉄に乗っていると。
 お互いにメールのやり取りをしながら、“じゃあ、俺もそっちの電車に乗ろうか?”と返事をし、M町で降りた。そしてそこに地震が来た。それが事の発端だ。
 別に、お互いに同じ家に住んでいながら待ち合わせなんかしなくてもと、今更ながらに思い返す。
 きっかけはこんなにつまらない事なのに、結局今はこんな感じでいさかいめいた雰囲気になっている。
 随分と馬鹿馬鹿しい事しちゃったなと思いつつ、ビールを三分の一程空けた辺りで煙草の火を灰皿でもみ消し、居間へと戻った。
 そして、俺は驚いた。
「あれ……。いつの間に?」
 テレビが点いているのである。俺自身、点けた覚えはなかったのに。
 座椅子へと腰を下ろし、飲み掛けのビールを傾ける。テーブルの上の携帯電話を取り上げて表示を見るが、やはり藍璃からは何の連絡も来ていない。
 何やってんだ、あいつ。点いたテレビから流れて来るバラエティ番組の芸人達の声が、やけに耳障りに感じた。
 リモコンを取り上げ、チャンネルを変える。いくつか飛ばして行くと、洋物の映画を流しているチャンネルに行き当たった。
 冒頭から観ていないけどこれでいいや。そうして映画の内容などまるで頭に入って来ないまま、藍璃の帰りを待ち続けた。
 そうしてどれぐらい経ったのだろう。ふと気が付けば、部屋に小さな異変があった。
 テーブルの隅に置かれた水色のマグカップ。普段、藍璃の使っているカップだ。それが忽然とそこに現れたのである。
 ――あれ? いつからここにあった? 思いながら手を伸ばし、それを引き寄せる。
 中身は空。但し、心なしかカップ自体が温かく感じる。
 妙な事もあるものだ。俺はそのカップを持ってキッチンへと戻り、シンクの中へとそれを置く。その時ふと、とある匂いに気付いた。
 それは、いつも藍璃が使っているコロンの香り。シトラス系の、落ち着いた香りのものだ。それがまるで、今まさに俺の横を通ったかのようなイメージで香って来たのだ。
「えっ!?」
 その香りにつられて振り向いて、さらに俺は驚いた。
 キッチンの横の小さな玄関。そこに、藍璃の靴がある。もちろんそれは、いつも藍璃が使っている通勤用のものだ。それがここにあると言う事は、藍璃は既に家の中にいると言う事になる。
「藍璃……いるのか?」
 呟くようにそう聞きながら、俺は居間へと戻った。
 よくよく見れば、向こうの壁には藍璃の着ているコートとマフラーが掛かっている。手提げの鞄もその横にあった。
 ――いつの間に帰っていたんだ? 思いながら俺は、まず寝室へと向かった。
 寝室と言っても、この狭いアパートメントの中だ。それは居間から続くドア一枚向こうにある部屋である。
「藍璃、開けるぞ」
 一応、断ってからそれを開けた。
 真っ暗な部屋の中、微かに藍璃のコロンの香りがした。手探りで壁のスイッチを点けるが、予想に反してそこに藍璃の姿は無かった。
 じゃあ、トイレだろうか。次にそちらへと向かうが、やはりトイレの照明も灯ってはいない。念の為と中を覗いてはみたが、誰の姿も無い。
 そして次に向かったのは浴室。だがやはりそこにも藍璃はいない。結局彼女は、この家のどこにもいなかった。
 果たしてこれはどう言う事か。もしかしたら藍璃は、俺の気付かぬままに家へと帰り、そしてまた出掛けてしまったとでも言うのだろうか。
 狐に化かされたような気分のまま再び座椅子へと戻る。携帯電話を覗くが、やはりこちらも進展のないまま。
 一体、どう言う事だよ? 思いながらテーブルの上で片肘つけば、いつの間にか向こうで流れているテレビのチャンネルがバラエティ番組へと戻っていた。
「何……これ?」
 リモコンをいじった記憶は無い。さらには、シンクへと持って行った筈のマグカップに湯気の立ち昇る珈琲を淹れ、再びテーブルへと置いた記憶などもっと無い。
「藍璃! いるのか!?」
 大きな声でそう叫び、俺は立ち上がる。これはもう完全に藍璃のイタズラだと思ったのだ。
 今度は念入りに探した。ベッドの毛布を剥ぎ、その下を覗き込み、クローゼットを開け、居間の押し入れまでも開いて見た。
 結果、この家のどこにも藍璃はいない。そう言う答えに行き着き、俺は途方に暮れる事になった。
 気が付けばいつの間にか壁に掛かった藍璃のコートが消えている。玄関へと向かえば、先程確かに見た筈の靴までもが無くなっている。
 俺の頭、おかしくなったんだろうか?
 火の点いていない煙草を口に咥え、席へと戻れば、テレビはいつの間にか消えていた。
 その晩、深夜の零時を過ぎても藍璃は戻って来なかった。
 電話は十回程かけた。もちろん全てつながらなかった。メールは恐らく、五十回は送っただろう。こちらも同じく、返事は来ない。
 久し振りに一人で寝るベッドは広々として、窮屈さが無かった。だが同時に、例えようもなく不安で寂しくもあった。
 壁際が俺で、反対側が藍璃。背中を丸めて横向きに寝る藍璃の背中を覆うようにして寝るのが、俺達のいつものスタイルだった。
 だが、今夜に限って藍璃はいない。左手に掛かる重みも、静かな寝息も聞こえては来ない。状況が普段と違うせいか、眠気もなかなかやっては来なかった。
 そしてうつらうつらと浅い眠りのままどれぐらい時間が経ったのだろうか。ふと気付けば閉まったドアの隙間から、居間の灯りが漏れているのに気付く。
「藍璃?」
 俺はベッドから転げるようにして降り、そしてドアを開ける。だがそれは、その晩の寂しさをさらに募らせるだけの結果に終わった。
 誰もいない居間の電気を消し、ベッドへと戻る。深夜と言う時刻を遥かに過ぎた、早朝に近い頃の事だった。

 *

 翌朝、着信メールの表示を見て飛び起きる。急いでそれを開けば、残念な事にそれは藍璃からのものではなく、俺達の共通の友人である安藤沙耶からのものだった。
“今日のお昼、電話します”
 どう言う用件なんだろう。別に昼じゃなくて今くれればいいのにと思いながら、俺はお湯を沸かしにキッチンへと向かった。
 寝不足のせいか、少し頭が重い。インスタントの粉末珈琲を淹れ、煙草を吹かす。すると少しずつ身体が覚醒し始めて来るような気がした。
 だが、多少気が楽にはなった。藍璃が家に戻って来ないと言う状況で、沙耶からメールが入っていると言う事は、どう考えても関係性が無いとは言えない。きっと藍璃は、沙耶の家にでも泊まったのだろうと考えられたからだ。
 なにしろ藍璃が家出した事は今回が初めてではない。
 付き合い始めて半年で同棲。そしてその同棲生活も半年近くとなりながらも都合二回、俺との喧嘩で沙耶の家へと引き籠った過去がある。
 ならば前回、前々回と同様、少し時間を置いてから迎えに行けばいいだけの事だ。そう考えて、気が楽になったのだ。
 だが一つ、心配事があった。今回の藍璃の、家出の原因が良く判らないと言う事だ。
 彼女は一体、俺の何に怒っているのだろう。
 待ち合わせが上手く行かなかった事? 駅を間違えた事を責めた件? それとももっと別の要因だろうか。
 口喧嘩をして出て行かれたなら、対処の仕方も判る。だが怒らせた原因が判らなければ、こっちは謝り様もない。
 とにかく、全ては沙耶を通して聞くしかないか。思いながら俺は、空になったコーヒーカップを軽く洗って水切り籠へと載せた。その横に伏せて置いてある、藍璃のカップにはわざと気付かないふりをしながら。

『ねぇ、俊哉クン。今度は一体、何を怒っている訳?』
 開口一番、電話にて沙耶にそう聞かれた。
 昼休み、職場である六階のオフィスでの事だった。
「怒ってるって、どう言う意味? 藍璃が何かそう言う事言ってるの?」
 既に沙耶の家に藍璃がいると決めつけての質問だった。
 だが意外にも予想は的中していたようだ。『そうは言ってないけど、何を怒らせたのかって考えてはいるようだったよ』と、返事が来たからだ。
「なぁんにも怒ってはいないよ。むしろ心配して眠れなかったって伝えて」
 言うと沙耶は、『ふぅん』と、気のない返事をした。
『とにかく、今日はしっかりと話し合って誤解といてね。私も朝まで付き合わされるのはもうゴメンだから』
「あぁ、判った判った。だから藍璃にも、ちゃんとウチ帰れって言っておいてね」
『なにそれ、全然笑えない』
 その後も沙耶はいくつか遠回しな皮肉を投げかけておきながら、電話を切った。
 多少不愉快さの残る電話ではあったが、それでも藍璃との間の橋渡しをしてくれたと考えればどうと言う事はなかった。
 気が緩んだせいか、その日の午後はやけに眠くて実に困る事となった。
 どうにか定時までに仕事を終えると、俺は急いで家路へと着き、駅前の洋菓子屋でケーキを購入した。
 藍璃の好きな栗のモンブランと、俺の好きなティラミス。その二つを買って、家へと帰った。
 アパートへと着き、ソファーに寝転びメールを打った。
 昨日の事は気にしないで帰って来い――かな。いや、それだと少し偉そうに聞こえるな。
 じゃあ、昨日はごめん――かな。いやいや、俺は別になんにも悪い事してないぞと。
 色々と悩んだ末、ケーキ買ったからねと短い文を打ち、そのまま送った。そして藍璃が来るまでと思いながら、俺はその場でうたた寝をし始めた。
 やけに心地良い、静かな眠りだった。

 ――気が付けば、窓の外はもう既に真っ暗になっていた。
 俺は慌てて身を起こす。藍璃はまだ帰っていないのか、姿は見当たらない。
 携帯を確認する。メールが一通来ていると言う表示があった。
 今度こそ藍璃のメールだ。そう確信しながらそれを開けば、確かに藍璃からのものではあった。センターから来るメール受信拒否の通知だった。ケーキを買ったと送ったメールが、そのまま送り返されて来ていたのだ。
 一体なにごとなんだよ。ふて腐れた声で俺は愚痴る。
 時刻は夜の八時半。俺はのろのろと立ち上がって自分専用の座椅子へとすわる。
 そして、驚いた。そこには間違いなく、藍璃がここに帰って来ていると言う痕跡があったからだ。
 ケーキが一つ減っていた。藍璃の為に買って来た栗のモンブランの方だ。
 そして半分だけ中身の減った珈琲のマグカップ。良く見ればコートが壁に掛かっているし、バッグもいつもの場所にある。
「藍璃! いるんだろう!?」
 ――返事は無い。俺は立ち上がり、昨日と同じ要領で部屋の中を探し始める。
 寝室、ベッドの下、クローゼットの中、押入れにトイレに、そして浴室。今日は念入りに浴槽の蓋を開け、そしてキッチンの戸棚の中までも確認した。
「なんでいないんだよ。――靴まであるのに!」
 俺は叫ぶ。誰もいない部屋の中、声は虚しく響き渡った。

 *

 翌朝、枕元で鳴り響く電話の音で目が覚めた。
 表示を見れば、“安藤沙耶”と出ている。俺は寝ぼけまなこのまま通話のボタンを押した。
『ねぇ、今どこにいる訳?』
 聞かれて俺は戸惑った。聞くまでもないだろうと思える程当たり前な質問に、逆に困ったのだ。
「さぁ、どこでしょうねぇ?」
 おどけてしゃべる声もまた、寝起きまんまな潰れた声だった。
『ふざけないで。あなた一体、どうしたい訳?』
「え、なにが? 沙耶、もしかして何か怒ってる?」
 わざとそう聞けば、意外にも沙耶は、『怒ってる!』と言い返して来た。
「何を? 俺、なんかしたっけ?」
『どうして藍璃と仲直りしようとしなかったの? 無視とか帰宅拒否とか、子供染みた嫌がらせしないでよね』
 ――え? 何を言ってるんだ、彼女は。
「ちょっと待って。沙耶の言ってる意味が良く判らないんだけどさぁ」
『何がどう判らないのよ。単純明快に“家帰れ”って言ってるだけなんだけど』
 ――マジわかんねぇ。
「あのさぁ、今俺、家にいるんだけど」
『あぁ、そう。それは一体どこの家?』
 取りつく島が無いような話し方だった。
「いや、君だって来た事あるだろう。あの狭いながらも汚いアパート」
『もう……ちょっと、茶化さないで。私、真剣に聞いてるんだけど』
「こっちもふざけて言ってないし。今もちゃんと家に……」
 会話が途切れたのは、一方的に通話が切られたからだ。
 一体彼女は何をカリカリしているのだろう。黙って電話を切るなんて、今までだってただの一度もした事などなかった筈なのに。
 嫌な気分のまま身支度を整え、家を出た。
 玄関のドアを閉め、ドアノブに鍵を差し込む。その時ふと、藍璃のコロンの香りが横を通り過ぎたような気がしたが、やはりどこにも彼女の姿は見当たらない。
 通勤途中、沙耶からメールが届いた。内容はそっけなく、“藍璃にメールしてあげて”と書かれているだけだった。
 メールなら昨日から病的なぐらい送ってるっての。愚痴りながら携帯をポケットにしまう。
 会社に着き、すぐにトイレに立つ。一応、沙耶の言う通りにメールを送るつもりだったのだ。
 だがやはり、昨夜と同じ。メールは届かずセンターから送り返されるだけ。
“着信拒否、解除してくれって言っといて”
 沙耶にそう返し、仕事へと戻る。
 どうにも仕事が手に付かなかった。なんとも言えない、漠然とした不安で一杯だった。
 一体、藍璃と沙耶は結託をして何をやっているのだろうか。
 ただ俺を困らせるだけなら、もっと他の方法でもいい筈だ。むしろそんな遠回しなやり方で非難をしなくても、あの二人ならば直接言葉をぶつけてくる筈。どうにもこのまどろっこしさが似合っておらず、奇妙な不安を煽り立てている。
 昼休み、“着信拒否はそっちでしょう”と言う沙耶からのメールに、“違う。藍璃の方だ”と俺は返す。
 すぐに返事が来る。“あなたがそんなにガキだったとは思わなかった”と。
 俺は、“ガキは君達二人の方だ”とまで打ち込んでおいて、それを消した。代わりに、“とにかく逢って話がしたいと伝えて下さい”と入れ、送信する。
 俺って結構、大人じゃん。自己満足気味に納得しながら、その日の午後を終えた。

 金曜日の夕方の街は、どことなく空気が浮ついて感じられた。
 道行く人々もどこか陽気で、仕事からようやく解放された高揚か、繁華街の立ち並ぶダウンタウンへと流れて行く人の姿も多く見受けられる。
 もしもこれがいつも通りの金曜日なら、俺と藍璃もまた、外食コースかレンタルの映画を借りてのカウチポテトかのコースで家に帰っていた事だろう。
 ――こりゃあ、今夜はちょっとそう言う流れにはならないだろうな。
 苦い気分で俺は、地下鉄の駅へと向かった。
 いくらなんでも今夜は帰って来るだろう。もしも来ないつもりなら、沙耶の家まで迎えに行く覚悟まで持っていた。
 アパートに着き、俺はシャワーを使おうと浴室へと向かった。
 シャワーを浴びながら、隣か階下か近くからだろう、カレーの匂いが漂って来るのを感じた。
 あぁ、そう言えば今夜の飯はどうしよう。最近は藍璃がいないせいで飯を抜く事が多いなと思いながら浴室を出る。
 カレーの匂いが、居間にまで漂っていた。
 あれ、どこか窓を閉め忘れていたかな。思いながらキッチンへと向かえば、不思議な事にその匂いの元はそこだった。
 寸胴の鍋に作られた、まだ出来たての熱いカレー。そしてシンクの横には大皿に盛られたサラダまでもがある。
 ようやく帰って来たか。思いながら俺は、ニヤけながら居間の方へと振り向いた。
「藍璃」
 ――返事はなかった。
 半裸のまま、俺は部屋を探した。ほとんど毎日の日課のようになっている、家探しのコースだ。
 そして、藍璃はやはりいなかった。なんだか近くにいるような気配だけはあるのだが、どこを探しても本人だけがいないのだ。
 電話が鳴る。俺は急いで携帯電話を取り上げて、通話のボタンを押す。
「もしもし」
『俊哉クン? もしかして今夜も帰らないつもり?』
 相手は沙耶だった。俺はその質問には答えないまま、「藍璃は一体、何を怒ってるんだ?」と、そう聞いた。
『怒ってるって? そりゃあいい加減、あなたがそう言う態度崩さない限り怒るんじゃあないかなぁ』
「なぁ、沙耶。厭味は後にして聞いてくれ。どうも藍璃のやつ、一回家に帰って来ていたみたいなんだ。でもカレー作ってまた出て行った。どうも俺の顔を見たくないらしい」
『……どう言う意味?』
「だからそのまんまの意味だよ。帰っては来たんだけど、俺が風呂から出る前に出て行った」
『そう……。判った、ちょっと藍璃に電話してみる』
 通話が切れる。そしてまた掛かって来たのは、俺が服を着ている時だった。
 沙耶は電話に出るなりヒステリックな声で、『いい加減にしてよね!』と怒鳴る。
「え、なにが?」
『なにがじゃあないわよ! 何その女々しさ満点の嫌がらせ。もう家に戻りたくないとか、他に女が出来たとか言うんなら、藍璃に向かってちゃんとそう言えばいいじゃない!』
「いや、あの……何を言ってるのか全然判らないんだけど」
『あなた昨夜は帰って来ていたんでしょ? ケーキが買ってあったってそう聞いたし』
 ――どうしてそれを知ってる? やっぱり藍璃は一度、家に立ち寄ってると言う事か?
『でもすぐにどこか行っちゃったって言ってたけどね。……珍しくあの子、ずっと泣きっぱなしよ。あなたがいつまでもそうなら、私が強引に別れさせちゃうからね』
 そして電話はまた一方的に切られた。
 それで判った事が一つ。まず、どう言う理由か藍璃は、沙耶に向かって大きな嘘を言っている事。
 あたかも家に戻らないのは俺の方で、藍璃はずっと待ちわびていると言う設定らしい。
“じゃあ一回、家に見に来てよ”
 沙耶に向けてそうメールを打って、送信。俺はふて腐れて、座り込む。
 また、いつの間にかテレビが点いていた。金曜日の夜に放送される、いつも藍璃と二人で楽しみに観ているドラマが始まっていた。
 過去の全ての記憶を失ってしまった主人公の女の子。どう言う経緯で事故を起こし、入院していたのかも判らないまま、全く面識のない家族に引き取られ、ここがあなたの家だと教えられて暮らしを始めると言う物語。
 だが、その家族の不自然さと断片的に取り戻して行く記憶が、“自分は騙されている”と感じ、家から逃げ出そうとする辺りまで話は進んでいた。
 お互い凄く楽しみにしていたドラマなのに、その片側がいないだけで話にまるで興味を持てない。ずっと目で見て耳で聴いていると言うのに、内容が全く頭に入って来ない。
 煙草のケースを引き寄せ、一本くわえて火を点ける。ふーっと吐いた煙が居間の天井めがけて立ち昇った。
 俺って、あいつがいないとメシも食わないし、テレビも観れないのか。
 そしてルールも守れないなと思いつつ、灰皿を取りにキッチンへと向かう。ついでにそこで皿に御飯を盛り、冷め掛かって来たカレーをよそった。
 寝る間際、居間のテーブルに書き置きを残した。
“カレー、美味かったです。ありがとう”と。
 その翌朝、遅く起きて来て驚いた。“どういたしまして”と、藍璃からの書き置きの返事があったからだ。

 *

「だからそれは全部、藍璃の作った嘘の筋書きだってば。騙されてるんだよ、沙耶も俺も」
 土曜日の朝。掛かって来た電話で、沙耶と押し問答になった。
 まるでオウム返しな感じの嘘だった。藍璃はずっと家にいる。帰って来ないのは俺の方。電話もメールも着信拒否で、話し合いにすら応じない――と。
『じゃあそれ、全部あなたの方の言い分だっていいたい訳?』
「ハイ、そうですよ。俺は仕事が終わってもどこにも寄らず、真っ直ぐ家に帰ってますけどね」
『――訳わかんない。もしかしてあんた達二人で、私を騙したりしてない?』
「そんな事してなんのメリットがあるのさ。とにかく一回、マジで見に来てよ。そうしたら藍璃の嘘が一発で判るからさ」
 言うと沙耶はしばらく考え込んだ上で、『そうね』と答えた。
『私も今日はオフだし、一回顔見に行くわ。藍璃も相当へこんでるみたいだし、ちょっと心配だもんね』
 あくまでも沙耶は、俺の方が嘘を吐いていると言う事にしたいらしい。
「じゃあ今日は俺も、どこにも行かずにここにいるから。――宜しく」
 電話を切った後、少しぐらいは体裁良くしておくかとばかりに、家の片付けを始めた。
 とは言っても簡単に掃除機をかけ、あちこちに散らばる雑誌を拾い集め、部屋に下がる洗濯物を仕舞い込むだけの事だ。
 そうしてバタバタとやっていると、ふと雑誌の間から何枚かの写真が落ちて来た。見ればそれは、去年の暮れに撮ったウチの会社の忘年会の写真だった。
 どれもこれも、俺の写りが悪い。酔っているから仕方の無い事なのだが、それが嫌で藍璃には見せず雑誌に挟んでおいたのを思い出した。
 捨てようかどうしようか悩んだ挙句、寝室の引き出しに放り込む事にした。そこには既に、アルバムに挟むまでもない、始末に困るお互いの写真が何枚か入っているからである。
 引き出しを開け、その一番上に写真の束を押し込む。そしてそれを閉め――また再び開けた。さっき開けた瞬間に、今までに見た事のない写真が載っているのに気付いたからだ。
 俺の写真を退けると、それは出て来た。恐らくは藍璃の勤めている職場の写真だろう。白を基調にした壁に、色とりどりの化粧水の瓶が並んでいた。
 ――どこか、不自然だった。一枚ずつそれをめくって見て行くが、余計にその不自然さは際立って感じられた。
 どの写真にも、藍璃の姿だけが写っていないのだ。
 もしかしたら写して回ったのが藍璃だったのだろうか。いや、それはないだろう。彼女のカメラマンとしての腕前は酷いものだったし、自ら進んでそんな役を買って出るほど図々しくもない。
 なんで自分が写っていないのに、こんなもの貰って来るんだろうか? 考えながら、一つの仮説を思い付く。
 ――もしかしたらこの中に、彼女が帰って来ない理由が写っている?
 彼女の会社は雑貨と化粧品を扱う職場なのだが、意外にも男性スタッフは多くいる。しかもどの男も、それなりにお洒落で見栄えがいいと聞いている。
 突然、胸の奥が熱くなるのを感じた。単純に嫉妬なのだろう。俺は男が写っている写真だけを選り分けて取り出す。
 もしかしたら藍璃は、ずっとその男の家に泊まっているのだろうか。
 その可能性は大きい。なにしろ沙耶との会話だけを考えても、彼女の家に泊まっているとは考えにくく思えるからだ。
 どれだ? 一体どの男だ?
 丹念に一枚一枚を眺めて行く。二枚に一枚は男の姿が写ってはいるが、見れば見るほどどれも怪しく、どれも違うもののように思えてしまう。これがそうだと断定出来るほど、被写体に一貫性が感じられないからだ。
 気が付けば、寝室の床一杯に写真が散らばっていた。
 これじゃあ片付けどころか余計に散らかしているだけじゃないか。思いながらようやく冷静になり、今度は写真を拾い集める作業に取り掛かる。
 いやいや、あり得ない。藍璃が帰って来ないのは、絶対に沙耶との合意の上での嫌がらせだ。思いながらようやく片付けが終わる頃、玄関のドアを叩く音が聞こえた。
 気が付けば、かなりの時間が経っていた。向こうから沙耶のものらしき声で、「藍璃、いる?」と聞こえて来る。
 マズいな。思いながら急いで残りの写真を掻き集め、「今行く!」と叫ぶ。
 引き出しを閉め、寝室のドアも閉め、これで問題無いなと思った辺りで玄関のドアが開いた。
「毎度ー! 三河屋でーす!」
 陽気な沙耶の声が部屋に響く。――あれ? 彼女はどうやって玄関のドアを開けたのだ? ドアは常に施錠されている筈なのに。
「えっ、ううん。タクシーで来た。ここ来るのにいくつ乗り継がなきゃいけないのかって考えたら、車の方が絶対に早いもん」
 独り言をいいながら沙耶は勝手に靴を脱ぎ、部屋へと入って来る。そして寝室の前に立つ俺を見付けて、「あっ! やっぱり!」と声を上げた。
「やられたぁ! 何このオチ! あー、もう、心配して損した。なんとなくこう言うジョークかなぁっては思っていたんだけどね。あんた達には完全にヤられましたわ」
 言いながら沙耶は苦笑する。俺にはまるで、彼女の言ってる事が理解出来ていない。
「ごめんねぇ、俊哉クン。あんだけキツく言っちゃって。代わりに私が騙された件については不問にしておいてあげるからさ」
 沙耶は自分勝手に独り言を続けながら、お土産なのだろうドーナツの箱をあらぬ方向へと差し出した。
 訳がわからない。思った瞬間だった。
 空中で、ドーナツの箱が消えた。まるで手品か何かのように。
「沙耶……?」
「あ、うん。私はチョコファッションで。つーかそれ以外は要らないし」
 そして、沙耶の笑う視線の先に、再びドーナツの箱は現れた。しかも蓋が開かれた状態で。
「ねぇ俊哉クン、ハンガー貸してもらえる? もうタクシーの中、暖房効き過ぎてて暑くて暑くて」
「あぁ……うん」
 沙耶がコートを脱ぐ。俺は壁に掛かったハンガーの一つを手に取り、沙耶のコートを受け取ろうと手を伸ばした――その時だった。
「やだ……何?」
 沙耶は俺の手を見て後ずさる。
「どうしたの?」
 俺は聞く。一歩前へと踏み出す。沙耶はその場で崩れるようにへたり込む。
 沙耶の目が大きく見開かれる。まるで悲鳴を飲み込もうとするかのように両手で口を押える。
 しばらく、その状態が続いた。沙耶の驚愕は本気のようで、俺もまたその気配に押され何も出来なかったのだ。
 そして沙耶はのろのろと視線を上げ、俺を見た。そして今度は俺の少し右横へと視線を移し、そしてまた俺の方へと返る。
 両手が差し出された。引っ張り起こせと言うつもりなのだろう。俺がその両手をつかもうと手を伸ばせば、「違う! 俊哉クンはこっち!」と、右手を振った。
「藍璃はこっちね。――さぁ、掴んで」
 藍璃? どう言う意味だろうか。俺は言われるままに沙耶の右手を掴み、そして引っ張った。
 立ち上がった沙耶は、俺の手を離さないとばかりに強く握り締める。但し視線は、俺の顔を向いてはいない。
「藍璃、良く聞いて。確かにあなたは嘘は言ってなかった」
 空中に向けて、彼女は語る。
「でも、彼も嘘は言ってなかった。――俊哉クン、ちゃんとここにいるよ」
 俺は、沙耶の伸ばした左手の先を視線で追うが、やはりそこには誰の存在も無かった。

「なぁ、沙耶。なにがどうなってるのか、俺には全然わからないんだけどさ」
 お土産のドーナツをかじりながら、俺は聞いた。
「あぁ、もう! 二人いっぺんに違う事しゃべらないでくれる? あたしは二宮金次郎じゃないんだから」
「それって聖徳太子の事?」
 俺がそうツっこむと、「うわぁ、そう言う所だけ二人同時」と、沙耶は返す。
 どう言う意味なのだろうか。沙耶の言葉だけを聞いていると、この部屋にはまるで“もう一人”が存在して、会話をしているように思える。
 だがもちろん、“もう一人”などどこにもいない。いるのはテーブルを挟んだ反対側、沙耶の姿が見えるだけだ。
「あぁ、はいはい。じゃあ藍璃からどうぞ」
 沙耶は両手でマグカップを握り締めながら言う。
「え――うんうん。まぁ、幽霊とかじゃあないみたいね。ちゃんと触れるし、ドーナツも食べてるし」
 沙耶の視線は俺にあった。どうやら幽霊だとか何だとかは、俺に対して言われている事らしい。
「さぁ、そこまでは判らないなぁ。――でもね、私には二人共見えてるのよ。だからどっちかが特殊とかじゃなくて、お互いに特殊みたいよ」
「ちょっと待って、沙耶。本当に藍璃はここにいるのか? 君の冗談とかじゃあなくて?」
「だからいっぺんに喋らないでってば!」
「あぁ、ごめん」
「とにかく、俊哉クンはちゃんとここにいるから。他に女が出来て出て行っちゃったとかじゃあ無さそうだから」
 沙耶の言葉を信じるとするなら、どうも彼女は藍璃をメインに会話をしているらしい。断片的に、どんな内容なのかが判る。
 でも、信じられない。見えずともそこに藍璃がいるなどと言われても、到底うなずけるものではない。
「うぅん――。でもいるんだよね。信用は出来ないかも知れないけど」
 俺の心の中を読まれたかのような返事に一瞬ドキっとするが、どうも見えていない藍璃も同じ質問をしているらしい。返事はむこうに向かっているようだった。
「でもホラ、見えていないんならお互いにこの家の中で不思議な事とか起こらなかった? 例えば目の前で食器が滑るように空中を飛んで来て、テーブルに着地するとか。服だけが歩いてトイレに向かったとか」
 それはない。だが確かに、藍璃が今しがたまでそこにいただろう気配は感じられた。
「じゃあさ、今そこにあるマグカップさぁ、どうなるのか見ていていれない」
 言いながら沙耶は、俺にカップを持ち上げろと合図して来る。そして俺は素直に従う。
「え……ホント? ふぅん、どう言う原理なのかなぁ。不思議だなぁ」
 沙耶は一人で頷いている。俺には全く説明もなにもしてくれない。
「なぁ、沙耶。本当にそこに藍璃がいるのなら、ちょっと話がしたいんだけど。――伝えてくれないかな」
「いいよ。どうぞ」
「じゃあ……」
 いきなり言葉に詰まる。話はしたいのに、まるで何も思い浮かばない。
「“元気?”って聞いてくれる?」
「それ、つまんなくない?」
「いいから、聞いてよ」
「藍璃。“愛してるよ”って、俊哉クンから」
「ちょっと待って! それは言ってない!」
 俺は慌てるが、「“うん、私も愛してる”って、藍璃から」と言われ、俺は黙った。
 だが沙耶が小声で「ごめんごめん」と付け足している所を見れば、なんとなくそれも嘘だったように感じられる。
「他には?」
 聞かれて俺はしばらく考え込み、「“無事で良かった。凄く心配した“」と伝える。
 今度はちゃんと、そのまま藍璃に伝えてくれた。
 それから二言、三言、当たり障りのない会話が沙耶経由で続き、もう言う事がなくなってしまった。
 やはり他人を介しての会話では、言いたい事の一割すらも言えないのが判ってしまったからだ。
「あー、もう。しょうがないな」
 沙耶は嘆きつつ、バッグから一冊のノートブックを取り出した。まだ買ったばかりなのだろう、真新しい折り目の無いノートブックだ。
「ハイ、書いて」
 俺の前に、ペンもろとも差し出される。
「え……何を?」
「何を? じゃなくて、言いたい事を書いて藍璃に渡せばいいじゃない。言葉でしゃべれないのなら、筆談でやれって事」
 そう言って沙耶は一ページ目を開いて、書けと俺に強要して来る。
 ――なんだろう。照れなのだろうか、それとも何も言いたい事がないのだろうか。ペンを握ってもまるで何も書けそうにない。
「もう、イライラするなぁ。じゃあ先に藍璃から! ハイ、何か書いて!」
 俺から取り上げたノートは、誰もいない場所へと向かって差し出される。
 沙耶は今度は何も言わずにそれを黙って見ていたが、俺には何がなんだかさっぱり判らない。
 なにしろペンが空中を飛んで何かを書き始める様子もなければ、ノートの上に文字が現れる様子も全く無い。まるで沙耶の一人芝居のようにしか見えていないからだ。
 しばらくして沙耶は、「うん、いいじゃない」と満足そうにノートを眺め、俺へと渡して来た。
 これってもしかして、沙耶と藍璃の悪ふざけがまだ続いていると言う事だろうか。思いながらノートを開いて驚いた。そこにはちゃんと、手書きの文字が書き綴られていたからだ。

“私はここにいます 藍璃”

 その瞬間、全ての疑いと不安が、ストンと胸の奥底に落っこちたような気分になった。
 ――いるんだ。間違いなく、藍璃はここにいるんだ。
 開かれたページの真ん中に、小さく書かれた僅か一行だけの文字。
 良く見慣れた、藍璃のクセのある字だった。
 俺は急いで次のページをめくり、ペンを取った。

“俺もここにいるよ 俊哉”

 そしてそのノートを、誰もいない空間へと向けて差し出す。相手がそれを読めるよう、ページをそちらへと向けて。
 果たしてそこで藍璃がそれを読んでいるのかどうか。
 俺にはまるで何も見えないし、反応も伺えない。ただ――なんとなくそこに藍璃がいるんだと感じながら、衝動的に手を伸ばした。目の前の空間に、藍璃の掌があるような気がしたからだ。
 だが、手は何も触れない。何もつかめない。藍璃の存在は何も確かめられない。伸ばした手は虚しく空を掻くだけだった。
「違う」
 突然、声がした。それを見ていた、沙耶の声だった。
「そこじゃない……ここ」
 沙耶の右手が俺の腕を掴む。そしてもう一方の左手は、藍璃のものだろう腕を掴んだ。
 そしてそのテーブルの上、沙耶はその場所へと導いてくれた。相変わらず俺の掌は何も掴めはしなかったが、なんとなくその手がぼおっと温かくなるような錯覚を感じた。
「藍璃――」
 思わず名前が、口からついて出る。
 返事は来ない。代わりにどこからか、唸り声とも苦痛にあえぐ声ともつかない妙な声が聞こえて来た。
「うぇ……ええぇぇぇぇ……」
 見れば何故か、俺の腕を掴んでいる沙耶が泣いていた。
 ただボロボロと、大粒の涙を流しながら俺達の腕を握り締めてくれていた。

 *

 その日の夜から、俺達の奇妙な生活が始まった。
 交換メールならぬ、交換ノート。まるで一昔前の学生カップルのような初々しい交際である。
 最初は書くと言う事に凄く抵抗を感じ、気恥ずかしさも手伝ってほとんど何も書けはしなかったが、次第にそれにも慣れて来た。要は、普通に聞きたい事、話したい事を書き連ねるだけでいいのだから。
“晩御飯、何がいい? 最近、まともな食事してないよね?”
“いいや、昨日のカレーは美味かったよ。ただ、サラダのドレッシングに塩とマヨネーズってのはちょっと淋しかった”
 思わず、書くと言う事に夢中になっている自分がいた。
 こんなに文字を書いたのは何年振りだろうとさえ思った。
 どうやらそれは藍璃も同じ気持ちらしく、ページ数を重ねる毎にその文字数もやけに多くなって行く。
“キリがないからちょっと買い物行って来るね。俊は、お米の方をお願い。 ※明日の朝の分まで炊いておく事!”
“ラジャー! 夜道、気を付けて”
 そう綴り、ペンを置いた。
 急に部屋の静けさが気になった。ふと我に返り、一人きりである事を実感させられた。
 ――いや、ちゃんとここに藍璃もいるんだ。無理にそう思おうとするが、虚しい程の孤独感だけはどうしても拭えない。
 藍璃は出掛けたのだろうか。それすらも様子が見えない。
 ノートを開くが、それっきり更新される気配もない。
 急に、不安に襲われる。俺にはリアルタイムで藍璃の姿を確認する事が出来ないのだ。
 迷いは少なかった。すぐにジャンパーコートを羽織って、外へと飛び出る。
 向かう先はどこだろう。いつも一緒に行くスーパーマーケットか。それとも更に近い場所にあるコンビニエンスストアか。それとも反対側の国道沿いまで出て、弁当を買いに行ったのか。
 馬鹿だった。せめて行き先ぐらい聞けば良かった。
 いや、それよりも藍璃に行かせた事自体が間違いだった。
 俺が行けば良かったじゃないか。思いながら俺は夜道を駆け出した。
 当てもないまま、確信もないまま、俺は走った。走ると同時に、不安が胸の中で倍増して来る。想像は悪い方向ばかりに向かう。
 手始めにコンビニエンスストアへと飛び込んだ。そして店内を見渡すが、藍璃の姿はどこにもない。
 ――いや、見える筈がないのか。ようやく気が付き、激しい疲労を感じる。向こうで遠慮がちに「いらっしゃいませ」と声を掛けて来る若い店員さんの声が痛い。
 結局、俺には単独で藍璃を探す事は不可能だった。そうは頭で理解が出来ても、探さない訳にも行かない。俺はジャンパーを脱ぎ捨て額から汗を流し、懸命に、そして手当たり次第に藍璃の行きそうな場所を回った。
 そうしてどれぐらい時間が経ったのだろう。ふと、ポケットの内側で鳴り響く携帯電話の着信音に気付き、俺は足を止めた。
「もしもし」
 息絶え絶えに電話へと出れば、『俊哉クン、今家にいる?』と、沙耶の声。
「いや、今は外に――」
『どこにいるのよ? 藍璃、凄く心配してるけど』
 あぁ、しまった。藍璃が無事だった事の喜びと共に、自分自身の愚かさに落胆した。
「俺ってどこまでも抜けてる男だね」
 言うと沙耶は言葉の理由も聞かないまま、『そうねぇ』と同意する。
『とにかく、家に帰って。俊哉クンは間もなく帰りますって、私から言っておくから』
「了解。ありがとう」
 通話を終え、俺はがっくりと肩を落としながら岐路に付く。
 今後はもう少し落ち着いて、無駄のないように行動しよう。俺は一人、そう誓った。

 アパートへと帰り着くと、既に夕食の準備は出来ていた。
 ただ、ご飯だけが炊けていなかった――。
“ごめん。外に出てた”
 そう書いて、ノートを閉じる。
 五分待ってノートを開くと、“どこ行ってたのよ。心配したよ”と、藍璃の字。
“藍璃の事が心配になって、探しに出たんだ。――探せる訳なんかないのにね”
“そうなんだ。ありがとう”
 そして語尾に付く、“(笑)”の文字。
 あぁ、良かった。本当に良かった。俺は全身から、瞬時に力が抜けて行くのが判った。
“ごはん、炊くの忘れててごめん”
“いいよ。その代り、炊けるまでお話し付き合って”
 そしてそんな調子のまま、夜は更けた。
 俺の間抜けた捜索話もまた、会話に花を咲かせる良いエピソードになった。

 *

 それからの二人の生活は、差し迫って困った事はなかった。
 もちろんあれからまだ二日しか経っていないのだから、これから先に何も無いとは言える筈はないのだが。
 交換ノートは、ますます頻度が増して行った。この分だと一カ月も持たずに一冊が埋まってしまうのではないかと言う程のペースだった。
 そしてその交換ノートを書くに当たって、ルールと言うべきようなものが出来上がった。
 それは、自分が文面を更新したと一目で判るよう、相手に伝えるサインを送る事。
 簡単に説明すれば、ノートに文字を書き入れた後、まずはそのノートを閉じる。そしてそのノートの右側にペンを置けば、俺が書いたと言う印。そしてペンが左側に置かれていたら、藍璃が書いたと言う印。
 そんな簡単なサインである。
 だが、実際にやってみるとこれはかなり実用的なルールだった。
 今までは相手が書いたかどうかはいちいちノートを開いて見なければならなかった。
 だがこうしてペンの位置でサインを決めておけば、その必要性はなくなる。一目でその内容状況が判るからだ。
 一体俺達にはどんな隔たりが出来てしまっているのか。不思議な事に、お互いの個人に関わるような部分については、徹底して接点が無くなっている事に気付く。携帯電話での通話や、メールなどが最たるものになるのだが。
 他には、藍璃が触れているであろう全ての物が俺には見えないし触れる事が出来ない。従って、衣服だけが歩き食器が宙を舞うような光景は全く無い。
 そして更に不思議な事に、藍璃が俺の目の前に物を置いたとしても、俺にはそれをすぐに気付く事が出来ない。一回視線を外すか、深い瞬きをして初めて、それが現れるのである。
 まさに、ペンがそうだった。じっとそのノートとペンを眺めていても、ペンは移動はしない。だが、藍璃が内容を更新してペンの場所を変えたとして、俺がそのノートから一旦視線を外してから戻ってみると、一瞬にしてペンは移動を果たしているのだ。
 俺と藍璃に、何が起こっているのかまでは判らない。
 ただ、慣れるしかないのだ。元に戻す術を知らない限り。

 小さな事件が起こった。
 アパートのドアが叩かれ、ごめんくださいと声がした。
 誰だろうと玄関に立ち、ドアノブのロックを外す。開けると、見知らぬ中年の女性が立っていた。
「こんにちはー。失礼ですが、今ご加入してます保険はどちらですか?」
 あぁ、保険の勧誘か。面倒だな。
 思った瞬間、その女性は俺の胸元辺りをしげしげと眺め、それから――。
「いやあぁぁぁぁぁーっ!!!」
 悲鳴を上げて逃げ出した。
 俺はすぐに理解した。ドアを閉め、そしてノートを開く。
“今、君、玄関先に顔出したでしょ?”
 そう書けば、“失敗しちゃった。凄く驚いてたね”と返事が来る。
“どんなふうに見えていたんだろうね。ちょっと気の毒”
“幽霊アパートとか呼ばれるのも近いかもねぇ”
 そして俺は笑う。きっと藍璃もまた、俺の横で笑っているのだろう。姿こそは見えないけれど。
 だが、その程度の事件ならば実に些細な事だった。目撃者が一人であるなら、気のせいと言うぐらいで済む話だから。
 しかしこれが複数であれば、そうは行かない。
 次の事件は会社の帰り、駅前の本屋での事だった。
 俺はその時、一階の雑誌の売り場にいた。オートバイのカタログを立ち読みしていたのである。
 いい加減にパラパラとページを見送りながら、興味を惹く記事を見付けられずに本を棚へと戻す。
 そして店を出ようと他の客達の合間を縫って歩いている時、目に留まる映画の雑誌。表紙には、先日亡くなったばかりの俳優の顔写真が載ってある。
 あぁ、そう言えば彼は、藍璃の好きな俳優だったな。思いながらそれを手に取ろうかと思った時だった。
「ママ……あの人、変」
 どこかで、小さい女の子だろうそんな声が聞こえた。
 まさかそれが自分に向けての声だとは思わなかった。従って俺は、なんの注意も払ってはいなかったのだ。
 にわかに向こう側が騒がしくなる。雑誌を戻し、振り向いて驚く。店の中にいる何人かの人達の視線が、全て俺に向かっていた。
 いや、俺に――と言うより、“俺達に”だろう。
 理由はすぐに判った。きっと藍璃もまた、この店の中、俺の近くにいるのだ。
 俺は全ての人の視線にわざと気付かない振りをして、努めて平静を装い外へと出た。
 ――無事に藍璃も抜け出せただろうか。俺は通りの反対側へと出ると、すぐに沙耶へと電話を掛けた。
『もしもし、何かあった?』
 沙耶はすぐに察してそう聞いてくれる。俺は今あった事を手短に話すと、彼女はすぐに藍璃へと連絡を取ってくれた。
『大丈夫みたいよ。まさか同じ店にあなたまでいるとは思わなかったって、あの子も苦笑していたわ』
 ――なら良かった。思いながらも、しばらくはあの店には行けないなと、残念にも感じていた。
 アパートへと帰り、俺はノートにこう綴った。
“外へ出るにも、ルール決めないと危ないかもね”
 書いていて、少しだけ胸が痛んだ。一緒にすらいられないのに、今後は一緒に同じ場所にすら行けないと言っているのだから。
 朝は、家を出るのに五分ずらして出勤する事にした。
 夜は沙耶に協力してもらう事にした。メールにて帰りの時間を教え合うのだ。
 不思議な事に、沙耶を通じて転送されたメールだけはお互いに届いた。一度別の場所に送られたものは、その呪いからは解放されるのだろうか。

“食事、出来たよ”
 そんな文面を見て、一旦テーブルから目を離す。
 戻せば目の前に食事が出来ている。相変わらず不思議な光景だったが、次第にそれにも慣れた。
 あれからの俺達は、お互いが触れ合えない状況に順応して行った。
 外で他人に不審に思われないようにする為の方法さえ思い付けば、特に大きな不便は無かった。
 会話も、相変わらず弾んだ。
 前に一緒にいた時よりもずっと、話す事が多くなったような気がした。
 静かな部屋の中で、自分が書くペンの走る音だけが聞こえる。
“今まで話した事なかったけどさ。俺、高校時代はバスケット部のキャプテンやってたんだぜ”
“へぇ、すごいね。私はスポーツ、全然ダメだったからなぁ”
 どんな些細な話でも、面白かった。
 ベランダの小さなプランターに咲いた花の話題でも。
 通勤途中で見掛ける、奇妙な恰好の中年男性の話でも。
 なんだか、覚えている事、知っている事、感じた事、全てをそこに書いておかなければいけないんじゃないかと思えてしまう程、俺達は色んな話をそこに書き連ねた。
 そして特に、金曜日の夜に放送されているドラマの話題については、お互いにかなり熱がこもった。
 物語もようやく佳境に入ったのだろう。今週は記憶を失った主人公の女性が、兄と一緒に家を脱走する話だった。
“これ絶対に、本当の兄じゃないよね”
“うん。この兄、絶対にこの女性に恋愛感情持ってるもん”
 敢えて、見損なった先週の話題については触れなかった。なんとなく、漂う空気に些細な言動一つで取り返しの付かない事態になりそうな、そんな予感がしたからだ。
 きっと藍璃も、同じように感じているのだろう。
 いくら慣れたとは言え、こんな異常な状況のままでこの先ずっと一緒に暮らして行くのは難しいと言う事を。

 ある日俺は、何気なく眺めていた携帯電話の中の写真の幾枚かに、不自然なものを発見する。
 ――あれ? こんな写真、撮ったっけ?
 思いながら見直すが、どうにも記憶が無い。
 ただ、そこに映る風景には見覚えがある。去年のクリスマスの夜に遊園地で撮った、イルミネイションの風景だ。
 そして気付いた。この写真を撮った記憶が無いのではない。撮った筈の写真と大きく食い違ってしまっているからなのだと。
 その写真の中央に写っていた筈の、藍璃の姿。それだけがスッポリと抜け落ちてしまっているのだ。
 記憶が前後する。もしかして――と、俺は寝室へと飛び込み、引き出しを開ける。
 この前、藍璃の浮気を疑って掛かった職場の写真。それを手に取り、一枚一枚見直して行く。
 不自然な“空間”は、そのほぼ全てに見付かった。
 ピースサインを出して微笑む二人の女性社員。その真ん中に空いた、不自然な空間。
 何人かで写っているその中で、まるで誰かの肩に手を置いているかのようなポーズの女性の姿の写真。
 きっとそのどれにも、藍璃が写っていたのだ。
 どの写真にも、藍璃が写っていなかったのではない。そこから藍璃だけが消えてしまっているのだ。
 俺は慌てて引き出しから全ての写真を引っ張り出す。
 写りが良くないからとアルバムに収められなかった写真や、ダブって現像してしまった写真。そして職場や飲み会などで撮られた不本意な写真等。
 そのどれにも、藍璃の姿だけが無かった。
 俺は恐る恐る、アルバムを手に取る。俺と藍璃とが付き合い始めてから撮られた写真ばかり収まる、そんなアルバム。
 俺は意を決してそれを開く。
「あぁ……」
 溜め息のような、嗚咽のような声が俺の喉から漏れ出した。
 やはり、そこにも藍璃はいなかった。どのページのどの写真にも、写っているのは俺がメインの写真ばかり。一緒に撮った筈の写真からも、藍璃の姿だけが消えている。
 ――背筋が、ヒヤリとした。
 例えようもない不安と絶望が込み上げて来る。
 俺に、藍璃の姿が見えないんじゃない。俺の世界から、藍璃だけが消えている?
 ふと気付く。居間から何か音がする。行ってみると、テレビの電源が点いていた。
 テーブルの上に放り出された数枚の写真。――もしかしたら、俺が見ていた横から何枚かを抜いて行ったのか。俺だけが写っているそんな写真が置いてある。
 テレビの中に映し出されているのは、一年近く前、藍璃と付き合い始めて間もなくの頃に録ったホームビデオの映像。相模湖でキャンプをした時のものだった。
 果てしなく風景だけが映っていた。そしてその風景に向かって楽しげに喋りかける俺の声だけが入っていた。
 きっと今、藍璃もそれを観ているのだろう。そしてきっと彼女もまた、カメラに向かって自分自身が楽しげに、独り言を喋っている映像を眺めているに違いない。
『大丈夫、大丈夫。すっごく可愛いから、こっち向いて』
 映像の中の俺が、笑いながらそう語り掛けていた。その向こうには、小川の流れだけがあった。
 暗い部屋の中、テレビの灯りだけが妙に明るく寒々しい。
 一体俺達は、どんな世界へと迷い込んでしまったのだろうか。
 俺の世界には、藍璃の存在だけが無い。そして藍璃の世界には、俺の存在だけが無い。
 こんなに大きく違っているのに、その二つは見事に融合して同じ時間が流れている。
 ひどく残酷で、恐ろしいほど救いがたい。
 俺は座椅子にすわりながら大きく仰け反り、壁に頭を付けるようにして目を閉じた。

 ――懐かしい夢を見た。
 きっと去年の春の事だったと思う。学生の頃の友人達と一緒に行った、夜桜の花見の席。
 立てないほどに酔っぱらった俺。そしてそれを介抱してくれた藍璃。その時の再現のような、そんな夢。
 藍璃は寝そべる俺の頭を取って、膝枕をしてくれた。
 そうだ、あの時だったと思う。彼女と言う存在に、特別な感情を抱いたのは。
“藍璃。俺と付き合ってくれない?”
 俺は言う。そして彼女は笑う。
 紫色に近いライトアップされた艶やかな桜と月夜をバックに、俺の顔を覗き込む藍璃の笑顔があった。
 何故かその藍璃の笑顔は白く透き通っているかのように抜け落ちていて、笑うその唇だけが妙に浮いている。
 声すらも聞こえない。何か言っている筈なのに、藍璃の声だけが聞こえて来ない。
 あんなに好きだったのに。あんなに愛していたのに――。

 気が付けばそこは、真っ暗な部屋の中だった。
 藍璃はもう寝たのか。俺はそっと立ち上がり、居間の電気を点ける。
 テーブルの上には、二冊のノートが置かれてあった。今まで使っていたものと、買って来たばかりのような真新しいものの二冊だ。
 古い方のノートの最後のページをめくれば、“次は俊哉からね”と、そんな一文でノートは終わっていた。
 新しいノートの一ページ目を開きながら、さて何を書けばいいのかと思い悩む。
 いつもならば何も考える必要などないのだが、最初の一枚目と言う存在が、妙にプレッシャーを与えてくれる。
 やけに静かな夜だった。向こうの環七沿いの通りを駆け抜けて行く、遠いバイクの騒音ですら静けさの一つに思えるぐらいの静寂。
 自然に、ペンが走った。
“この世界は、生きるに値しないほどに寂しく、つまらない”
 何を書いているのだろう。自分自身ですら悩む程に難解で、そして素直な言葉だった。
“だけど、君がいてくれればほんのちょっとだけマシな世界。生きていても、さほど嫌じゃない世界。
 ――だけど今、君はいない。傍にいてくれているとは感じられるけど、どうしても君には触れられない“
 そして次の行に、“記憶の中の君ですら、何故か自然に薄れて行くような――”と書き掛けて、そしてそのページを破った。
 くしゃくしゃに丸めてゴミ箱へと放り、そして次のページに新しい文字を綴る。
“俺はここにいるよ 俊哉”
 一冊目の最初のページに書かれてある、藍璃の言葉の真似だった。
 そしてペンを右に置き、居間の電気を消した。

 吹く風に春が感じられるようになった頃。関東でもようやく、桜の開花宣言が聞こえ始めて来た。
 そろそろ冬服も入れ替えかなと思いながら洗濯物をたたんでいた所に、沙耶からの電話が入る。
『ねぇ、桜見に行かない?』
 そんな沙耶の申し出に、「ありがと」と言いながら、俺はそれを断った。
「藍璃を連れて行ってくれよ。気晴らしにちょうどいい感じだし」
『なに言ってるのよ。三人で行こうよって話なんだけど』
「はぁ?」さすがに俺は聞き返す。
「君だって知ってるだろう。俺と藍璃は一緒に外には出られないんだけど」
『私がいれば平気じゃない? ちゃんとエスコートするし、私の声なら二人同時に聞こえるんでしょう?』
 ――なるほど、確かに沙耶がいればそれも可能かも知れない。俺は思った。
「でも……なにかと大変だと思うけど」
『大丈夫だって。私を信じて』
 もちろん信じてはいる。ただ少し、不安なだけだ。
「まぁ、藍璃がいいって言うなら、俺もそれでいいよ」
『全くあんた達って言う事が似てるよねぇ。藍璃も、俊哉がいいって言うならとか言ってたし』
 聞いて苦笑する。俺も藍璃も、気が強い割には主体性が足りない部分があるからだ。
『じゃあ、今週末の土曜日ね。場所はK臨海公園でいい?』
「あぁ、それでいいよ」
 そう言って、電話を切った。
 不安だが、楽しみでもあった。K臨海公園は、俺が藍璃に告白をした場所でもあったからだ。

 *

 花見の当日は、晴天に恵まれた。
 藍璃は早朝から弁当を作っていたらしく、テーブルの上にはお重のご馳走が次々と詰められて行く場面が見受けられた。
“やったね。お稲荷さんだ”
“たくさん作ったから、めいっぱい食べてね”
 弁当を作る合間で、返事がかえる。俺は藍璃の邪魔にならないよう、朝の返事はひかえめにしておいた。
 沙耶がアパートに到着したのは、それから間もなくだった。
「おっ、ご両人仲良く頑張ってますな?」
 言いながらドアを開けるのだが、こちらは仲良くしようのないのが現実で、苦笑せざるを得なかった。
 アパートを出る。沙耶が先導して、俺はその背後に続いた。
 どうやら藍璃は、沙耶の隣に歩いているらしい。ひっきりなしに、沙耶が話し掛けているのが見えた。
 外を吹く風はまだ少し冷たかったが、それでも日中はそこそこに暑くなりそうな、そんな気配があった。
 俺達はバスから電車へと乗り継ぎ、ようやくお目当てのK臨海公園へと到着した。
 人出が物凄かったが、かろうじて空いているスペースはあった。
 なるべく奥まった場所にある木陰の場所を探し出し、そこに陣取った。
 なんだか妙な気分ではあった。なにしろ、三人でいると言うのに俺に見えるのは沙耶一人だけ。こうしていると、まるで沙耶と二人きりで花見に来たみたいな気がして、少々困った。
 さっそく弁当を広げ、俺の横にはいつものノートも置かれる。但し今日は沙耶が会話の橋渡しをしてくれているので、ノートはあまり活躍しそうもなかった。
 次第に会話は藍璃と沙耶との共通の話題へと移って行き、俺は自然に蚊帳の外となってしまった。
 気を利かせ、俺は黙る事にした。
 のけぞり、頭上の桜を仰ぎながらビールを呷っていると、突然沙耶が、「ねぇ、この後、俊哉クンはどうするの?」と、実に答えにくい事を聞いて来た。
「どうするって……どうもこうもしようがないじゃん。今のままの生活を続けるだけで……」
 言うと沙耶はしばらくぽかんと口を開けて黙っていたが、その内、堪え切れないようにして吹き出した。
「あはははは。そう言う意味じゃないよ。近くに水族館があるんだけど、見に行くかって話だよ」
 俺は笑った。きっと隣では、藍璃も一緒に笑っている事だろう。

 午後になって家族連れが多くなって来た頃を見計らい、俺達はその場を退散した。
 ほろ酔い気分で歩く公園は、なかなかに気持ちのいいものだった。
 俺はわざと道を外れて小高くなっている場所を選び、歩いた。すると下でそれを見ていた沙耶は、「やっぱあんた達似てるわ」と笑っていた。
 俺は背後を振り向く。どうやら藍璃も、同じ場所を辿っているらしい。沙耶の視線が、それを教えてくれていた。
 ふと、俺は手を伸ばす。なんだか今なら、藍璃の手をつかめそうな気がして。
「待って!」
 下で沙耶が叫んだ。
 何事かと思って彼女を見れば、バッグから携帯電話を取り出してこちらへと向ける所だった。
「藍璃。もうちょっと左……あぁ、あんたから見たら右か」
 思わず、写らないよと言い掛けて、やめた。
 俺は沙耶の言うなりに、左手を横に伸ばして何もない空間を握り締めた。
 ちょっとだけ横を向いて、そして――俺は笑った。そこには何も見えないけれど、何故か隣で藍璃が微笑んでいるような気がして、俺も一緒になって笑った。
「いいね、それ。そのまま、そのまま」
 下で、沙耶がそう言いながらシャッターを切った。
 それが俺達二人の最後の写真となるとは、まるで知らないままで。

 帰りは、全員が別々の帰宅となった。
 先に俺が電車へと乗り、藍璃はその五分後の電車へと乗る手筈となった。
 そして別ルートの沙耶は、俺と藍璃に手を振りながら、駅のホームの向こう側へと消えた。
 吊り革につかまりながら、流れ過ぎて行く地下鉄の窓の向こう側を眺める。飛び去るかの如くに、壁に埋め込まれた常夜灯の明かりが目の前を過ぎる。
 こうして見ると、地下鉄の電車と言うものはやたらと狭いトンネルの中を猛スピードで走っているのが判る。
 結構怖いものなんだな。思った辺りで、電車は駅のホームへと滑り込む。
 ――次は、M町。M町。
 アナウンスが流れる。見れば向こうに、キオスクの店の灯り。
 あの時の事をぼんやりと思い出しながら、なんとなく俺はそこで降りなきゃいけないような気がして、ドアが開くと同時に外へと飛び出た。
 去って行く電車を見送りながら、いつかの少し昔のように、俺はキオスクの店の前の喫煙コーナーで煙草を一本抜き取った。
 その一本を吸い終わる頃、藍璃の乗っている筈の電車がやって来た。
 俺は呆けながら、電車の内部を見つめる。大勢の人の顔がそこに見えるが、なんだかどれも藍璃の姿で、どれもそうじゃないようでいて、実に歯がゆい。
 電車が停まり、人が降りて来る。ただ立ち止まっているだけの俺の横をすり抜けて、人はどこかへと歩き去って行く。
 ――五分遅れで見掛けた人へ。
 俺の大事な人は、やはり俺と同じように、誰かを探していましたか?
 電車のドアが閉まり、のろのろと発車する。そして俺は、その電車をいつまでもいつまでも見送っていた。

 *

 アパートへと戻ると、既にノートは開いてあった。
“遅かったね。俊哉の方が先に乗っていたのに”
 俺は苦笑しながら返事を書いた。
“珍しく乗り換えを間違えたんだ”
“ふぅん。そうなんだ”
 俺は座って、テレビのリモコンを操作する。
 土曜の夕方、面白そうな番組は見当たらない。
 携帯の着信音が鳴り出す。見ればそれは沙耶からのメール。
 何事かと思ってそれを開けば、そこには“今日はどうもありがとう”と言うメッセージと共に、今日写したばかりの桜の木の下の写真が添付されていた。
 スクロールして、その写真を見る。
 どこか少しだけ、期待していた自分が愚かだった。
 土手の上、片手を横に微笑んでいる俺が一人だけ。その横には、誰の姿も無い。
 ――だんだん、君の顔が思い出せなくなって来たよ、藍璃。
 俺は携帯を閉じながらそう呟いた。
 もしかしたらちょうど今、藍璃もそれを見ていたのだろうか。いつの間にかテーブルの上に、ハートの片割れのストラップが付いた藍璃の携帯電話が置かれていた。
 妙に寂しい夕暮れだった。
 ノートは、俺が書いた一文を最後に、何も更新されていない。
 俺は座椅子にもたれかかり、目を閉じた。気だるい眠気が襲って来たのは、すぐだった。

 ――何か、夢を見ていたような気がした。
 だが、その全てはまるで思い出せない。夢は突然の予期せぬ現実の音に、掻き消されてしまったからだ。
 俺の携帯が鳴っていた。テーブルの上で、ガタガタと振動をしながら。
「もしもし」
 出るとそれは、沙耶からだった。
『ごめんね俊哉クン。何度もメールしたんだけど、全然返事来なかったからさ』
「いや、ごめん。俺もちょっと寝ていたみたいで……」
『ねぇ、そっち何か変わった事無い?』
 矢継ぎ早な会話だった。「変わった事って?」と聞き返せば、『何でもいいから変わった事よ!』と言い返される。
「良くわかんないよ。沙耶は一体、何を言いたいの?」
『藍璃からもメールの返事が来なくなったの』
 ――藍璃からも? 見えてはいないが、もしかしたら彼女もまた寝ているのだろうか。
「俺からじゃあ見えないけれど、別に変じゃあないんじゃない? 彼女の携帯もテーブルの上に載ったままだし」
『そう……? でも、何かなぁ。あの子から来た最後のメールが、なんか引っ掛かって』
 そう言っている途中に、けたたましい車のクラクションが電話の向こうから聞こえて来た。
「何その気になるメールって。――それより沙耶、今どこにいるの?」
『うん、今そっち向かってる。藍璃の顔見たら帰るから』
 ――まめな性格だな。俺は思いながら、携帯片手にノートを開く。
 あれ? なんで? 俺は一人、首をひねった。
 ペンはノートの右側。俺が最後に書いたと言う印なのに、内容は藍璃の書いた文が最新の状態だった。
“楽しかったよ、俊哉。今日はとっても楽しかった”
 そんな一文が目に入る。
“あなたに恋をしてから、早くも一年経ったんだね。あの時は急でびっくりしたけど、本当は凄く嬉しかった。俊哉が私と同じ気持ちでいてくれたんだもん”
『なんかねぇ、あの子のメールがやけに想い出話ばっかりなのよ。あたしと知り合った時の事とか、短大での授業の事とか――』
“俊哉と付き合い始めてすぐに、私、決心したんだ。また来年もあの桜を一緒に見に行くんだって。――今日、叶ったけどね”
『なんか想い出の一つを語る度に、“沙耶、ありがとう”って書いてるのよ。ちょっと、奇妙な感じしない?』
“ありがとう。本当に本当に、心からありがとう。俊哉にはもう、上手く言葉に出せないぐらいのありがとうで一杯”
 俺の胸の中で、例えようのないどす黒い不安が立ち昇って来るのを感じた。
 藍璃の文は数ページにも渡って書かれており、その最後の辺りに書かれている一文に目が留まる。
“私も同じ気持ち。俊哉が思っているのと全く同じ。――だんだんあなたの顔が思い出せなくなって来てる。笑った顔も、怒った顔も、なんだかジグソーパズルのピースみたいに断片的で……”
 手が震えた。そして俺はそのノートの、一番最初のページをめくる。
 そして――あった。俺が書いて、破り捨てた筈の一ページ目。くしゃくしゃに丸めたものを丁寧に伸ばし、そしてそれをそこに張り付けたのだろう。紙片の片側がテープでとまっていた。
『ねぇ、俊哉クン。聞いてる? ちょっと部屋の様子とか見てくれない? あ、ノートは? 何か書いてたりしない?』
 沙耶の言葉に返事をしないまま、俺はアパートの部屋中を走り回った。
 寝室、トイレ、そして浴室――。
 俺はそこで、息を飲んだ。湯気の立ち昇る浴槽に、真っ赤な鮮血の色が浮かび上がっているのを見付けて。
「藍璃ーーーっ!!!」
 俺は携帯電話を放り投げ、浴槽にしがみついた。
 手を伸ばし、湯をかき分ける。だがそのどこにも藍璃の姿は無い。間違いなくそこにいると判っているのに、俺の手は全く何もつかめない。
 無力だった。心の底から、無力さを痛感した。
 助けられない。俺には彼女を助けられない。俺は這うようにして落ちた携帯電話を拾い上げれば、まだ通話が繋がっているのを確かめもせずにそれを切り、119番をプッシュした。
「どう言った状況ですか? 怪我の程度を教えて下さい」
 電話口の対応一つにすら手間取った。――どう言う状況? そんなの俺にも判らないよ。
「とにかく、浴槽が血まみれなんです! 早く来て下さい! ――早く!」
 説明しろとしつこく食い下がる相手に、「早く来てくれ」の一点張りで返答する。
 それでもなんとか、救急車は出してもらえる様子だった。
 茫然と座り込んでいると、遠くで聞こえるサイレンが次第にこちらへと近付いて来ているのが判った。
 アパートの前でサイレンが止まる。俺はのろのろと起き上がり、玄関のドアを開ける。
「ここ……ここです。早く……」
 自分でも情けない程、声が震えてかすれていた。
 担架を担いだ二人の男性が、部屋の中へと入って来る。俺は二人を浴室へと案内する。
「手首だな。脇の下固定。手首も固定」
 その会話を聞いて、すぐに理解をした。藍璃は、手を切ったのだ。
「旦那さん、何か羽織るものでも用意してもらえますか」
 男の一人が、大きな声でそう告げる。俺はどういったものがいいのかさんざ迷いながら、カーディガンや前開きのシャツなどをタンスから引っ張り出す。
「服、掛けてあげて下さい」
 言われるのだが、正直どこに藍璃がいるのかがまるで判らない。
「今、担架の上ですか?」
 聞けば男は、「見れば判るでしょう」と、冷たくあしらった。
 ――見えないんだよ! 言っても判らないだろうけど、俺には彼女が見えないんだよ!
 怒鳴りたい気持ちをぐっと堪え、俺は何も無い担架の上にカーディガンをかけた。
 裸体なのだろう藍璃の身体を拭いてやりたかったが、それも出来ない。カーディガンはまるでそこに何も無いかのように、ぺしゃりと平らに広がった。
「俊哉クン!」
 声が聞こえた。振り返れば、血相を変えて飛び込んで来る沙耶の姿。
 ――あぁ、本当に君って存在はありがたいな。俺は泣きそうになりながら、沙耶の姿を見上げた。
「大丈夫。後はあたしがやるから、俊哉クンは外出ていて」
 押しやるようにして俺を浴室から出て行かせようとする。俺は素直にそれに従う。
 居間では救急隊員の二人が、受け入れ先の病院を電話で探している。何故か俺を見る二人の視線がやけに冷たく感じられる。
 状況説明も出来ない。一緒になって彼女を助けようともしない。きっと二人には、最低な男として目に映っている事だろう。
 最低な上、徹底して無力で無能な事ぐらい、俺自身で良く判ってるよ。
 そう、自虐的な事を思わずにはいられなかった。
 ――やがて受け入れ先が決まったのか、救急車に空っぽの担架が乗せられた。
「あたしが行って来る。俊哉クンはここにいて」
 頷くしかなかった。行っても俺には何も出来ない。
 サイレンの音が鳴り響き、そして遠ざかる。俺はただ、それを見送るだけ。
 俺は浴室へと戻って、浴槽の栓を抜く。赤く濁った湯が、ゆっくりと排出されて行く。
 底に、鈍く光るカミソリが一つ、転がっていた。
 視界が妙にだぶった。俺は孤独にしゃくりあげながら、そのカミソリをそっと拾い上げる。
 藍璃は、ここまで追い詰まっていたんだ。
 ――ごめん。本当にごめん。――ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。
 もうそれ以外、何も言えなかった。そして俺は呪った。自分を――そして、俺達二人を引き裂いたこの世界を。

『大丈夫よ。全然大した事無い。なんかあの子、のぼせて鼻血が出ちゃったみたいね』
 しばらくしてから掛かって来た電話で、沙耶はそんな嘘を言う。
 申し訳ないな。俺は思った。沙耶はきっと、俺に気を使ってそんな嘘を言っているのだろうから。
「そっかぁ、良かった」
 俺もわざとその嘘に乗る。沙耶を問い詰めても、意味の無い事は良く判っていた。
『今夜一晩は病院にいなきゃいけないんだけど、翌日の検査で退院出来るっぽいよ』
「判った。じゃあ明日、俺もそっちへ行く」
『いや……来なくていいよ』沙耶は、きっぱりとした口調でそう言った。
『退院出来たら、藍璃はあたしん家に連れて行く。ちょっと落ち着くまで、一緒にいる事にしたから』
「そう……」
 仕方がなかった。
 どうせ俺がそばにいても、藍璃には何もしてあげられない。

 翌日は、何もしない、何も出来ない無益な日曜日となった。
 ノートに書かれた、“お帰り”と言う俺の書いた文字だけが、妙に浮いて見えた。
 夜、藍璃の身の回りの物を取りに来たと、沙耶が家へとやって来た。
 大きな旅行用のトランク一杯に、着替えやら生理用品、保険書や化粧品などを詰め込んで、ろくに話もせずに沙耶は帰った。
「藍璃、大丈夫?」
 そんな言葉にさえ、「大丈夫よ」と、作った笑顔で言う沙耶の表情が痛ましかった。
そして、俺の孤独な生活が始まった。藍璃のいない日々は非常に虚しく、何をするにも怠惰に感じられる。
 テーブルの上のノートは、右側にペンが置かれたまま動く気配を見せない。次第にそれに目をやる事にすら苦痛になって来る。
 唯一の救いは、一日に数回届く、沙耶からのメールだった。
 短く簡単なものだったが、そのおかげで俺と藍璃はまだつながっていられるんだと感じる事が出来た。

 とある金曜日の夕方。
 川の向こう岸から散って飛んで来る桜の花びらを眺めながら、俺は家へと帰った。
 意外にも、真っ暗な筈のアパートには電気が灯っていた。俺はすぐに気が付いて、「藍璃?」と、大きな声をあげながら玄関をくぐる。
 だが、そこにいたのは沙耶だった。
 部屋は妙に散らかった状態で、そこにポツンと沙耶が一人で立っていた。
「どうしたの?」
 聞けば沙耶は、「話があるの」と答えた。その表情は、やけに真剣だった。
「いいよ、何?」
 そう言って俺は座る。沙耶は俺の真向かいに座る。
「ハイ、藍璃」
 そう言って沙耶は、俺の右隣りに向けてノートを滑らせた。
「えっ、藍璃もいるの?」
 聞けば沙耶は、無言のまま頷いた。
 しばらくして、俺の元へと渡されたノートの一番最後には一言、“別れて下さい”と、藍璃の字で書かれてあった。
「え――。何?」
 書いてある文字は読めるのに、意味が全く判らなかった。
「そのままの意味よ」
 沙耶は言う。やけに冷めた口調で。
「いや……だって、どうして?」
「きっと今、藍璃が直接話すと思う」
 それっきり、沙耶は黙った。
 やがて、ノートにはまた新しい文字が綴られた。
“つらい。――大好きだから余計につらい。もう俊哉と逢えないまま間接的に一緒にいても、苦痛でしかないの”
 愕然とした。そこまではっきりと、藍璃がこの関係を終わりにさせようとしているその事実に。
“いつかまたあなたに触れられるって言う確証があるなら、私はきっと何年でも我慢出来る。でも多分、もうそんな事は無い。――俊哉にも判るでしょう? あなたのいる世界にはもう、私はいないの。見えていないだけじゃない。存在そのものが無くなっているの”
 判らなくはなかった。写真や個人情報の消失がそれだろう。
「俊哉クン、判ってあげて。藍璃も自分が壊れてしまうぐらいに悩んだ末の決断なの。あなたが嫌いでそう言ってるんじゃないって事、理解してね」
 頷きはしたが、納得は出来なかった。心の準備など、全くしていなかったからだ。
「時間が……欲しいんだけど」
「時間が欲しいんだって、藍璃」
 しばらくの沈黙。時々沙耶が、「うん、うん」と頷く声だけが聞こえる。
「――いいけど、でもここは出て行くって言ってる」
 それについては、何も言う事が出来なかった。
 部屋の惨状を見れば判る。既に出て行く準備をしていたのだから。
 もうすでに藍璃の中では別れる決心が固まっているのだろう。これで藍璃に触れる事が出来るのならば力ずくでも止めただろが、今の俺にはそれすらも無理だ。
「いっぺんには全部運べないし片付けられないから、何度かに分けて来るって。それまではちょっと散らかしちゃうけど、ごめんねって」
 言われて俺は、無言で頷いた。
「俊哉クンのいない、平日の昼に来るから心配するなってさ。――え、藍璃、もう行くの?」
 沙耶は慌てて立ち上がる。
「ねぇ、藍璃!」俺はたまらず叫んだ。
「沙耶……藍璃に言って。俺は、君がここにいなけりゃ生きて行けないって」
 沙耶はそれを聞いて一瞬固まったが、すぐに哀しそうな笑顔で首を横に振った。
「藍璃は、あなたと全く逆なの。――判ってあげて」
 それだけ告げて、藍璃と沙耶は出て行った。
 昨日まで感じていた藍璃が戻って来るまでの孤独感とは違い、部屋の中には喪失感しか残ってはいなかった。
 本気だろうかと言う疑問と、間違いなく本気だろうと言う確信が胸の中でせめぎあう。
 テーブルの上にはノートすら無い。会話は終わりと言う事なのだろう。
 俺は何も出来ないまま、ぼんやりと夜を迎えた。
 壁の時計を見ると、間もなく夜の九時。――あぁ、いつものドラマの時間だなと思いながら、のろのろとリモコンを操作してテレビを点ける。
 目の前のテレビの内容が、全く頭に入って来ない。映像も、声すらもわずらわしい。
 気が付けば、あっと言う間に一時間が過ぎていた。そして次週から放送される新番組の予告を観てようやく、今見ていたドラマが終わってしまったのだと知る。
「ねぇ、藍璃。今のお話しのあらすじ、後で教えて。俺……ちょっと眠ってたみたいだったから」
 返事はない。俺は苦笑しながら、煙草を一本口に咥えた。

 *

 そして、完全に孤独な俺の生活は始まった。
 いや、もしかしたらまだ完全な孤独には至っていなかったのかも知れない。約束通り、俺のいない昼間を見計らって藍璃が来ていたのだろう。着実に部屋は片付けられ、そして物も減って行った。
 物持ちがいいだけなのか、それとも自分の痕跡を残したくなかったのか。藍璃は自分の使っていた物は何もかも全て持って行くつもりらしい。雑に仕舞い込んだ写真どころか、愛用のマグカップに、使い途中の歯ブラシすらも家の中から消えていた。
 毎日、ちょっとづつ藍璃の存在が薄くなって行く。
 俺は見かねて置き手紙を残して会社に行くが、手紙はただそこから消えるだけで返事は一向に来る気配はなかった。
 ある晩。俺は不思議な夢を見た。
 夢なのか、それとも現実なのかも判別出来ないような、非常に曖昧な感じの夢。
 寝ている俺の背中に寄り添う人の感触。人の温もり。
 ――あぁ、藍璃。帰って来たんだな。
 思いながらもそれは夢だと自覚している。自覚していながらも、その夢は一向に覚める様子が無い。
 藍璃は俺の背中にしがみつき、頬をすり寄せ、抱き締める。
 俺はすぐにでも彼女の方へと振り向き抱き寄せようとするのだが、身体は一向に動かない。ただただもどかしいままな、そんな夢を見た。
 起きて気付いた。――確証はないが、きっと藍璃はここにいたんだと俺は思った。
 同じベッドの上で、同じ布団の中にくるまって、藍璃は最後の夜を過ごしたんだなと。
 それが証拠に、居間のテーブルの上にはノートがあった。
 一冊だけ。俺と藍璃とで始めた、最初のノートだけがそこに置かれてあった。
 持ち上げ開けば、そこから鍵が滑り落ち、テーブルの上で乾いた音を立てる。
 結局、俺からの返事は待たれる事なく終わってしまったと言う事らしい。
 それ以降、藍璃がこの部屋へと入り込んだ形跡は、二度と見られる事はなかった。

 *

 あれから、三カ月が過ぎた。
 最初の頃は毎日届いていた沙耶からのメールも、こちらからしつこく催促しなければ返事すらも来ない状態となっていた。
 それでも時々、“彼女は元気だから”とか、“仕事に復帰したよ”とか、そう言う近況を聞くだけでも充分に俺は安心が出来た。
 気が付けば、季節は真夏となっていた。
 とある、うだるような暑さの日中を過ぎ涼しげな風の吹く週末の夕方、俺は“久し振りに三人で逢わないか?”と、沙耶にメールを入れた。
 返事は、すぐにやって来た。
 しかも、メールではなく電話で。
『もしもし、俊哉クン? お久し振り』
「あぁ、久し振り。沙耶も元気でやってる?」
 俺がそう聞くと、沙耶は間髪入れずに『ごめんね』と告げた。
「ごめんって、なにが?」
『うん……あのね。あなたとの連絡、これで最後にして欲しくって』
「え――なんで? じゃあ、藍璃との連絡は?」
 焦りながらそう聞けば、『それも含めて、これで終わりにして欲しい』と、沙耶は言う。
「訳わかんないよ。俺、何か怒らせた?」
『違う……なんかもう、私自身が耐えられないの。あなたに嘘ばかり吐いてる自分にね』
「どう言う意味……?」
 しばらくの無言。そして、少しだけ声を震わせた沙耶の声が、小さく呟くのが聞こえた。
『本当にごめんね。あなたからのメールや電話は、彼女には一切伝えてないの。だから、藍璃からの返事も全部嘘。あたしが適当にでっちあげて、あなたに伝えているだけ』
「なにそれ……どうして」
『察してよ』沙耶は、小さいながらも断固とした声でそう言った。
『もう藍璃は、あなたを必要としていないの。あなたを忘れて、あなたじゃない人と立ち直ろうとしているの。――だから余計に言えなかった。ごめん』
「……」
 開けた窓の遥か遠くから、電車の走るレール音が聞こえて来た。
 オレンジ色の西日が寝室からこぼれて来る、そんな夕暮れ時の事だった。
『恨んでくれていいよ。あたし、あなたに対しては酷い事ばかりしている自覚もあるし。――でも、あたしにはあなたよりも藍璃の方が大切なの。助けてあげたいって思うのは、あの子の方なの』
「うん――そうだね」俺は自然にそう呟いた。
「君は間違っていないよ。――ありがとう。これからも藍璃の事を守ってやってくれるかい」
『うん、もちろん。――じゃあ、あなたも元気で』
 俺からの「さよなら」は待たずに、通話は切られた。
 そして俺はその決断が鈍らない内に、携帯電話のアドレスを操作して、二つの名前を消去した。
 沙耶と、そして俺の最愛の人の名前を。
 きっとその名前を思い出す度、胸の奥のどこかが酷く痛むだろうその名前を。
 もう一度、アドレスを見直す事もしないまま、俺はそれを消した。
 そして携帯を床へと放り出し、あれからずっとテーブルの上に置きっ放しになっていた一冊のノートを取り上げる。
 いっそこれも――。思いながら両手でそれを掴むが、結局それだけは破り捨てる事は出来なかった。
 そっと、震える手でノートを開く。
 一ページ目の、空白だらけの真ん中に記された文字。
“私はここにいます”
 どきっとした。前は確かにその一文だけだった筈なのに。
 いつの間にかもう一行、その下に言葉が追加されていた。

“私の心だけは、ずっとここにあります”

 ――不覚にも、俺はそのノートの顔を埋め、その場で崩れ落ちた。
 窓から飛び込んで来た八月の熱い風が、藍璃の最後の残り香を漂わせて俺の横を通り過ぎて行った。

 *

 それからの俺は、至って平凡に生きて来たような気がする。
 特に酷く落ち込むような事も、喪失感で飯が食えなくなるような事もなかった。
 藍璃の事を思い出し、苦しまなかったかと言えば嘘にはなるが、自分が思っている以上に俺は鈍感だったらしい。ここ数年間は、ただがむしゃらに仕事に打ち込んだ以外、取り立てて変化したような事は無い。
 風のうわさで、藍璃が製薬会社の人と結婚をしたと聞いた。
 もちろん式には呼ばれる事はなかったし、うわさで聞いた時点で、既に一年も昔の話だったのだから。
 俺は今まで住んだアパートから、ローンで買ったマンションへと引っ越しを決めた。
 その際に、例のノートも思い切って処分した。
 大切なものではあったが、そこにあっても開く事はしなかったし、触れる事すらもためらうのだから、あっても意味はないだろうと考えたのだ。
 残された藍璃との想い出は、相変わらず携帯電話にぶら下がっている片割れのハートマークのストラップだけ。
 別に処分を渋った訳ではない。捨てる必要性も感じなかったと言うだけの事だ。
 そうしてそれから更に、数年の歳月が過ぎ去った。
 時々、吹く風に藍璃の事を思い出す事があったが、それも僅か一瞬の事。振り向いて、また前を向けば彼女の記憶は脳の片隅へと消えていた。

 *

 そう、あれは遠い昔の想い出だけど、私にとってはつい昨日の事のよう――

 ふと、懐かしい曲だなと、煙草を吹かしながら俺は思った。
 開いた自動ドアの隙間から、店内のBGMが風のように流れて目の前を過ぎ去って行く。
 夕方六時の地下鉄、東京メトロ。降りる場所とは程遠いM町駅のホームを眺め、俺はキオスクの店の前で五分遅れの電車を待っている所だった。
 懐かしいとは思ったが、一体いつ頃の誰の曲かさえも思い出せない。そんないい加減な記憶のまま、店の外の灰皿に煙草を押し付けた時――。
「お待たせ」
 どこからか、声が聞こえた。
 きょろきょろと周囲を見回せば、してやったりと言った悪戯な笑顔で、舞香は時刻表の看板の後ろから顔を覗かせた。
「あれ? おかしいな。君は確かもう一本後の電車に……」
「あれは嘘。残念でした」
 舞香は目が細くなるほどに微笑みながら、俺に向かって首を傾げてみせる。
 じわりと、心が熱くなる。どうしようもなく可愛く見える、舞香の愛らしい仕草だった。
「ねぇ、舞香。あの曲……知ってる? 今、あの店の中で流れている曲」
 判る訳がないと知っているのに、つい俺は聞いてしまった。
「知ってるよ。“五分遅れで見掛けた人へ”でしょ。私もこの曲好き」
「なんで知ってるのさ。かなり古い曲なんだぜ」
 俺は、一回り以上も年下の彼女に向かってそう問い掛ける。すると舞香は、「あぁ、そう言えばカヴァー曲だって言ってたねぇ、これ」と、すんなり納得の行く回答が戻って来た。
 そう言えば、そんな曲もあったっけ。思っていると舞香は店の中を眺めながら、「ちょっと欲しいものがあるから行って来るね」と、立ち去って行ってしまった。
 見れば向こうにはホームへと滑り込んで来る電車の姿。
 もう一本次のにするか。思いながら俺が、新しい煙草を抜き取ろうとした次の瞬間だった――。
 ぐらり。地面が揺れた。
 その揺れは思いの外激しく、俺は思わず取り出した煙草のケースを放り出しながら、何か掴まるものはないかと辺りを見回しながらしゃがみ込む。
 何か、妙な胸騒ぎがした。
 ただの揺れだけではない、自らの眩暈のような、立ちくらんだ時のような不安定さ。そして視界が多重にぼやけるような感覚。そして湧き上がる、フラッシュバックのような鮮明な忌まわしき想い出――。
「舞香!」
 俺は叫んだ。立ち上がり、振り向きながら、まるで絶叫のような大きな声で。
 ――いない。ついさっきまでここにいた筈の舞香の姿がどこにも無い。
 まさか。思った所でひょっこりと、店の中の雑誌のコーナーの影から姿を現す舞香。
 どうやら今の揺れでしゃがみこんでいたのかも知れない。舞香はガラスの向こう側で、心配無いよとでも言いたげに軽く手を振って見せた。
「良かった……」
 思わず溜め息と同時に、そんな呟きが漏れる。
 それと同時に、胸ポケットの中の携帯電話が鳴り出し、そして構内には電車の運行停止のアナウンスが鳴り響く。
 ――ただ今発生しました地震により、電車の運行を一時停止致します。
携帯電話を取り出せば、それはどうやら地震速報のメールだったらしい。俺のに限らず、周囲の人々も皆、同じ行動を取っていたからだ。
 メールを開く。――東京都心、震度二と表示されている。
 結構激しく揺れたように思えたが、実際はそうでもなかったようだ。俺は安堵して携帯電話を閉じた。
 その時だった。斜向かいに立っていた小さな女の子が、片腕を上げて俺を見ているのに気付いた。
 まだ小学校の低学年ぐらいだろうか。髪を両側で結んだ、紺のワンピースを着た可愛い女の子。その女の子が手を挙げながら不思議そうに俺を眺めているのだ。
「どうかしたの?」
 思わず俺は、声をかけた。
 すると女の子は下げているもう一方の腕を伸ばし、俺の持っている携帯電話を指差した。
「おんなじ」
 女の子はそう言った。
 意味がわからなかった。だが確かに、指先は俺の携帯電話を指している。
「これ? これがどうかした?」
 俺は女の子の前にしゃがみこみ、そう聞いた。
 そしてようやく女の子の言っている事が理解出来た。同じと言っているのは俺の携帯電話などではなく、そこにぶら下がっているハートの片割れのストラップの事を言っているのだと。女の子は指先でそのストラップを突きながら、何度も、「ホラ、おんなじ」と繰り返した。
 だが、何と同じなのだろう。思った所で女の子は、上げている腕の方へと顔をあげ、「ねぇママ、同じでしょう?」と、そう言ったのだ。
 ――ママ?
 女の子の視線の先には、何も無い。だが女の子は間違いなく、その視線の先に“誰か”を見ていた。
 ざわりと、背中の産毛が起き上がるような。
 そんな驚きと衝撃が、一瞬にして俺の身体の中を駆け巡った。
「ねぇママ、そうでしょう? ママのと同じでしょう? ねぇ」
 果たしてそのママは、その子の指差す“見えない物”を眺めながら、どんな返答をしているのだろうか。
 女の子は満足そうに頷きながら、「うん!」と元気な返事をかえしていた。
「ねぇ、お嬢ちゃん」
 思わず俺は、声をかける。
 聞きたい事は山ほどあって、それでいながら何も無い筈なのに。
「ママは……優しい? ちゃんと君を可愛がってくれている?」
 聞けば、「すぐ怒るし、こわいよ」と、笑いながらそう言った。
 とても安心していられる、そう言う育ち方をした笑い顔だった。
 俺はストラップを携帯から外すと、それを女の子へと手渡した。
 もう既に塗料はボロボロに剥げ落ち、見るからにみすぼらしいストラップだったけれど、女の子は嫌がりもせずにそれを受け取り、本心からだろう笑顔で「ありがとう」とそう言った。
「ねぇねぇ、ママ。ホラおんなじ。合わせると、ちゃんとハートのマークになるよ」
 女の子は空中に何かを掴む。
 何も見えはしないが、ぼんやりとそこに空想の姿を思い浮かべる。
 俺はそっと手を伸ばし、女の子の頭を撫でた。いつかの誰かを連想させる、短く柔らかいストレートの黒髪だった。
「ねぇ、ママにありがとうって――」
 言い掛けた所で、背後から声が掛かる。
「俊君! お待たせ!」
 そう言って駆け寄る舞香は、俺と女の子の顔を交互に見ながら、「お知り合い?」と、そう聞いた。
 俺は曖昧に頷きながら立ち上がる。すると女の子は小さく二、三度、うんうんと頷いた後、「ママも、ありがとうって」と、俺に告げた。
 ――ズキンと、懐かしくもほろ苦い、あの胸の苦痛がよみがえる。
「うん、行こう」
 女の子は向こうへとむきなおると、またその片手を空中へと挙げ、まるで誰かの手を握り締めるようにして歩き去る。
 ちらりと、それが見えた。
 女の子の手に握られた、一組のストラップ。
 ギザギザに割れた、二つの破片のハートのマーク。それが女の子の手に握られながら、ちゃらちゃらと音をさせながら揺れてぶつかっていた。
「綺麗な人ね。――もしかして、俊君の元カノとかだったりする?」
 舞香の皮肉を聞き流し、俺は聞いた。
「ねぇ、あの子のママってどんな人?」
「どんな人って……見ての通りじゃない?」
「判らないんだ。――俺には全く」
「わかんないって……私にも良くわかんないよ。でも、なんか素敵な人ね」
「そうか」
 ふと、向こうで彼女が俺の方へと振り向いたような気がした。
 手をつなぐ女の子はその場で立ち止まり、またさっきのように、うんうんと頷いているのが見える。
 ――ねぇ、もう一度私に振り向いて ねぇ、もう一度だけ名前を呼んで 私があなたを見失ってしまう前に――
 遠くから、曲が聴こえる。ハスキーな、掠れた女性の歌声で。
 五分遅れで見掛けた人へ。――彼女は今もちゃんと、幸せな笑顔でいますか?
「なぁ、舞香」
「うん……なぁに?」
 じわりと、世界が滲んだ。
 ――先程まで運行を見合わせておりました地下鉄T西線、安全の点検が終了次第、運行を再開致します。――繰り返します――
 向こうで女の子が、両手の掌をほほに当てて俺に向かって何かを叫んでいたが、構内を流れるアナウンスがその子の声を邪魔していた。
「俺も……ちゃんと笑顔でいられてるかな」
 女の子が何を言っていたのかはまるで判らなかったが、俺は懸命に顔をゆがませて微笑むと、大きくうんと頷いて手を振った。





《 五分遅れで見掛けた人へ 了 》





【 あとがき 】
ちぃーっす! 瞬☆ザ・アフロモヒカーナっす!
ギンギラギンにさりげなく、全開バリバリ伝説っす!
飛んでるっす! ナウいっす! 朝から永ちゃんになりすますっす!

今回はMCに参加させていただいて光栄っす!
この話は赤とんぼ追い掛けながら盗んだバイクで走り出し、夜明けの湾岸道路をミッドナイツランナウェイでナイフみたいに尖ってた頃にツッパリハイスクールロケンローだったっす!

むかぁし、南千住で修羅と呼ばれて恐れられた片岡銀二の実録話を、青二才のチンピラ、保蔵の視点から描いた抗争録を書こうと思ったんすけど、いかんせん実力不足でちょっぴり毛色の違った物語に仕上がりましたっす。
残念っす。まだまだ自分も、中途半端なワカゾーっす。
読んで下さって、どうもでしたー!

あ、そうそう。
“五分遅れで見掛けた人へ”と言う曲は、実在するっす。(EPOっス!)
でも作中で入れた歌詞は全然別モンっす。
そこんとこ、世・露・屍・駆!!!


瞬☆ザ・アフロモヒカーナ(スーパーDQN)

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