Mistery Circle

2017-05

《 うさぎ姫、戦場へ還る。 》 - 2011.09.01 Thu

《 うさぎ姫、戦場へ還る。 》

著者:Clown




 顔を上げた視界の向こうに、見慣れた人影が佇んでいた。
 懐かしさに思わず目尻が下がったけれど、ふとおかしな事に気付いて、私はもう一度目に力を込める。
 そうだ。そんなはずは無い。
 ここに、あの人がいるはずは無いんだ。
 私は身構えた。あの人影が本当にあの人なら、きっと今の私を見て落胆するだろう。夢も、希望も、想いの力も見失った私を見て、侮蔑の言葉すら吐くかも知れない。
 空っぽの私。
 ただ、生きているだけの私。
 とっくに捨て去ったはずの後悔が、鎌首をもたげたのが見えた気がした。どれほど見ないふりをしようとしても、忘れようとつとめても、ソレはじわりじわりと私の心を蝕んでいく。
 だから、自分に言い聞かせ続けた。私は選んだのだと。挑戦的で不安定な戦場を捨て、退屈で安定した社会を、自ら選んで受け入れたのだと。後悔(おまえ)が入る隙は、もう無いのだと。
 私はもう一度、目の前の人影を見つめた。何故か霞がかって全体の表情は分からなかったが、その口元がわずかに動いたのは分かった。声は、聞こえない。だけど、不思議と何を言っているかは理解できた。
 いつも、あの人が口癖のように言っていた、あの言葉。
 ことあるごとに、私に勇気をくれた、あの言葉。
 そして、目の前の霞が一瞬晴れ渡り、

 あの人の、変わらぬ笑顔が、見えた。






「月宮(つきみや)先輩、珍しいですね。仕事中に居眠りなんて」
「……悪かったね、怠惰な先輩で」
「やだなぁ、そんなつもりで言ったんじゃないですよぅ」

 我ながらぶっきらぼうな返事に苦笑いしながら手を振る後輩を見送り、私は居眠りの罰と称して課された書類の束を順番にファイリングしていった。どうでも良さそうな広報関連の書類を眺めながら、ため息をつく。
 懐かしい人の夢だった。
 手早く書類にホチキスを止めながら、私はさっきの夢の内容を反芻する。五年前なら夢の内容だけで興奮して、朝からあの人に会いたくてうずうずしてただろう。もしかしたら、その場で携帯電話のボタンを押していたかも知れない。
 その行為は、最早叶わないのだけれども。
 三回忌には、出席しなかった。戦場を抜けて安定を選んだ私に、最早あの人と同じ場所に立つことは許されないと感じたからだ。
 あの人がいたライブという戦場に、ベースという武器を携えて出陣していた私は、もういない。私に音楽という生き方を教えてくれたあの人に背いて、私は音楽を捨て、普通の社会人としての道を選んだ。今の会社に内定したとき、あの人は笑って見送ってくれたが、心の底では恨んでいたかも知れない。そんな思いが拭えない私自身への、それは言い訳に過ぎないのかも知れないけれど。
 最後の書類をファイルに綴じ、私は山となった紙束を命じた上司の机に投棄してオフィスを後にした。今日は今年最後の営業日。ロッカーから愛用のレザーコートを引っ張り出し、同僚達が口々に交わす「良いお年を」の決まり文句に適当に愛想を振りまきながら、足早に社屋から外に出る。
 寒いはずだ、とコートを着込みながら見渡す路面には、雪がうっすら積もっていた。天気予報の雪だるまマークもたまには信用するもんだな、と心の中で独りごち、帰りの駅に向かう。
 オフィス街を抜けると、年末ムードの漂う百貨店から追い出されるように人の群れが吐き出されていた。閉店後は今年最後の追い込みのために万端の準備を整えるのだろう。横目で見た店の内部では店員達が慌ただしく動き回っている。
 今年も終わりか、と思うと同時、振り返っても取り立てて思い出の無い一年に寂しさとも諦めともつかないため息が出た。安定した生活の代償に、私は何かを残すと言う行為を失ってしまったらしい。ただ生活のためだけに働き、後には何も残らない。
 まるで、穴の開いたバケツのようだ。あふれるほどの水を汲めるのに、決していっぱいになることは無い。次々に汲まないと、すぐに空っぽになってしまう。汲んで、空になって、汲んで、空になって。その繰り返しで、私の人生は成り立っている。
 水を汲み続けるだけの、単調な人生。
 ただ生きているだけの、歯車の人生。
 たかだか四半世紀ちょっとしか生きていない人間が、その中のたった数年を評して言うのも滑稽な話かも知れないが、それくらい今の私には生きている実感が無い。音楽をやっていた頃は、生きている時間にどれだけのものを詰め込めるか、思案する暇も無いほど沢山のものを抱えていた。それこそ、あっという間にあふれるバケツの大きさをもどかしく思うほどに。
 あの頃に、戻れたら良いのに。
 そんなことを思わず考えてしまったとき、何気なくあげた視線の先に何処かで見た様な顔を見つけた。見間違えかとも思ったが、同じように顔を上げた向こうの人影もこちらに気付いて大きく手を振ってきた。

「ウサギ先輩ー! お久しぶりです-!」
「ちょ……街中でまた大声を……」

 手を振りながらニコニコ顔でやってくる後輩に頭を抱えながらも、私は取り敢えず手を振りかえそうとしたが、人の群れから出てきた彼女の姿を見てその手が萎えた。
 赤いダウンジャケットにこれも真っ赤なマフラーとふわふわのついた白い耳当て。上半身の防寒は完璧なのに、下は白のミニスカートと黒のニーハイソックスのみという、寒々しい出で立ちの彼女は、苦笑いの私に気付いたものか「いやー、オシャレも大変ですよー」などとはにかんで見せた。突っ込みどころはそこだけでも無かったが、敢えて触れないでおく。

「まぁ、相変わらずだな、キツネ」
「えへへ、ウサギ先輩はすっかりオフィスレディーって感じっすね。眼鏡も知的な感じで萌えっすよ」
「どういう感想だ」

 二つほど年の離れた後輩、狐崎ゆうりは以前と変わらないお調子者ぶりで私の横にちょこんと並んだ。頭一つくらい背の低い彼女と並ぶと、顔立ちが近いことも相まってか年の離れた姉妹に見えるらしい。何となくそのことを思い出して、私は久々にくすぐったいような気分になった。
 バイト帰りだという彼女は、貰ったばかりの給与袋を目の前でぴらぴらと嬉しそうに揺らすと、「現金払いって良いっすよね~」などと言いながら袋にほおずりした。今時手渡しなんてどういうバイト先だと思いながら、彼女が勢いに乗って話し始めたバイト話を適当に聞き流しながら駅前の商店街を歩いて行く。
 平凡な商店街も、今は活気づいていた。年末商戦、と言うほどのものでは無いにせよ、売り上げのラストスパートはこのタイミングを置いて他に無いと言わんばかりに、通常の閉店時間を無視して商売を続けている。
 煌々と輝くアーケード灯の下、朗々と響く呼び込みの声は耳に痛い。閉店間際のタイムセール、飲み会帰りを狙うカラオケ。少し横道を覗けば、キャバクラやホストの客引きが目を光らせてうろうろし、興味本位で覗いた人間を片っ端から引きずり込んでいく。

「先輩、どっか入りません? 久しぶりに飲みましょうよー」
「しまった。身内にも客引きがいたか」
「えー、先輩ひどいー」

 むくれっ面をしながらも楽しそうに笑う後輩を見て断り切れなかった私は、キツネに手を引かれるまま商店街のアーケードを抜けた。
 いつの間にか降り始めた雪の中、大通りの交差点を渡りしばらく進むと、懐かしい風景が目の前に広がる。大きな銀行の前を通り、葉が落ちてすっかり寂しくなった街路樹の立ち並ぶ路地を抜けると、その先に一際明るい電飾が見えてきた。
 煉瓦調の外壁から覗くショーウインドウには、派手な衣装と厳めしいギター。電飾で囲まれた看板には、巨大なギターのモチーフが描かれている。
 ハードロック・カフェ。
 以前は飽きること無く通い詰めたこの場所も、音楽を辞めて以来一度も来ていない。後ろめたい、と言うわけでも無いが、何となく足を向けづらくなったのは確かだ。特に、あの人が亡くなってからは。
 少しの躊躇いを感じながらも、キツネに促されるまま店内に入った。広めの店内は、やや暗めの照明に彩られている。並べられた丸テーブルの間を抜けると、窓側のソファー席に座った。
 落ち着き無くきょろきょろするキツネを余所に、私はメニューを片手に軽く店内を見渡した。飾られた衣装や楽器の種類はいくつか入れ替わっているものの、店内の雰囲気は昔と変わらない。相変わらず大音量で流れるロックの低音が机をビリビリと震わせ、壁に掛けられたテレビでは古いバンドのライブビデオが流れている。
 店員に声をかけて適当なドリンクを注文すると、しばらく無駄話に花を咲かせた。

「最近どうしてるんすか~? なかなか会いませんね~」
「まぁ、平日と土曜日は夜まで仕事だからな。そっちは?」
「ん~、相変わらずバイト生活っすね~。なかなか職探しもキビしいっすから」

 笑いながら話すキツネだが、それなりに苦労はしているのだろう。以前は身につけていたピアスやネックレスが、今は見当たらない。私の目線に気付いたのか、彼女の表情が苦笑いに変わった。

「あんまり派手にしてると、面接で嫌味言われるんすよ。穴が見えないように、髪で隠すようにしてるんです」

 多分、それだけではないのだろう。服装も見た目は派手だが、そのほとんどが量販店で買えそうなものばかりだ。学生時代に持っていたブランドものの鞄も、今は見受けられない。

「大変なんだな」
「仕方ないっすけどね。大学出てから、まともに職探ししてなかったですし」

 それは、私も同じだった。大学を卒業したのもほとんど奇跡に近かったのに、今の職にありつけたのはまさに奇跡だ。
 そうだ。確かに、奇跡のような出来事だったはずだ。それなのに、私はその奇跡に感謝することもなく、代わり映えのない日々を嘆いてみたりしている。

「先輩はどうっすか? 今の仕事、楽しいっすか?」

 その言葉に、さっきまでの私の思考を見透かされているのではないかとドキッとした。同時に、今の自分の境遇について改めて思索を這わせる。
 辛うじて採用された中規模企業で働き始めて約四年。覚えてしまえばルーチンワークの仕事の中で、自分の仕事を淡々とこなすだけの日々に、いつしか私は疑問を抱き始めていた。いや、疑問と言うほど明確な形のものではなく、ただ漠然と、もやの様に頭をかすめていくに過ぎないような、そんな思い。
 私は、果たして自分で生きているのだろうか。

「……どうしたんすか、先輩?」
「あ……いや、何でもない」

 思わず呆けてしまった私を、キツネが覗き込んでいた。何とか驚きを表情に出さずに取り繕ったが、彼女はまだ心配そうな顔をしている。
 そこへ、店員がドリンクを運んできた。彼女の興味はすぐにそちらに移り、私はほっと胸をなで下ろす。目の前に置かれたシャンディーガフを待ってましたとばかりに流し込むキツネを微笑ましく見ながら、ソルティードッグをちびりと舐める。グラスの縁に塗られた塩が舌をチクリと刺したが、それよりもさっきのキツネの言葉の方が痛い。
 仕事を楽しいと思えたことなんて、一度もない。まともに生活する為には、まともな仕事をしないといけない。そんな周囲の言葉に翻弄されるまま、私は音楽を捨てて安定を求めた。
 そして、かろうじて引っかかった就職先。
 確かに生活はまともに出来ている。人並みに食事も出来て、人並みにオシャレもして、少しは貯金も出来た。でも、その先に見えてくるのは、ずっと同じ風景の繰り返し。何の起伏もなく、何の分岐もなく、ただただ同じ道を歩いて行くだけの風景。
 楽しい。久しく忘れていた言葉。でも、それは忘れさせられていたんじゃない。自分から、求めなかっただけだ。
 向いであっという間にグラスを空けたキツネは、「いや~、仕事の後のアルコールは最高っすね~」などと吐きながら、通りがかった店員におかわりの催促をしている。その表情が、私が無意識のうちに放棄してきたものを、少しだけ思い出させた。

「……キツネは、楽しいか?」

 私の問いに、彼女は一瞬きょとんとしたが、ややあって笑顔で答えた。

「まぁまぁ、苦しい中にも楽しみあり、って感じっすね」

 例えば先輩と飲むアルコール(これ)とか、などと調子の良いことを言って、キツネはやってきた二杯目のグラスに口を付けた。その勢いの良さにつられるように、私も手持ちのソルティードッグをぐいっと一気に煽る。
 流れていた曲がフェードアウトして次の曲が始まると、キツネは何かに気付いたように天井を仰いだ。僅かに遅れて、私も天井を見上げる。
 スピーカーから流れてきたのは、Motley CrueのLive Wireだ。荒々しく刻まれるギターの音色に、叩き付けられるドラム、跳ねるベース。そして絡みつくようなボーカルが渾然と突進する。もう20年以上も昔の曲なのに、今でも強く自己主張するその曲は、私たちにとって、決して忘れられない曲だ。

「始まりの曲、っすね」
「……」

 そう、始まりの曲。
 私とキツネが初めて出会ったのは、この曲がきっかけだった。

「……先輩、もうバンドやらないんすか?」

 私が、私たちが、バンドを組むきっかけになった曲。
 高校一年の時、音楽部にいた私は、二つ上の先輩からライブに誘われた。当時ロックにそれほど興味がなかった私だったが、色んな音楽を聴いておいた方が良いと顧問の先生にも勧められて、先輩を含めて数人の団体でライブに行くことになった。
 その時、先輩の従姉妹のキツネに出会った。まだ中学一年だった彼女だが、先輩の影響を受けた為かロックについては彼女の方が造詣が深かった。今とは違い、どちらかというと大人しめな印象の彼女は、口数も少なく、道中は余り喋ることはなかったのだけど。
 海外のバンドと言うことだけを聞かされていた私だったが、そこで見たのがMotley Crueだった。そして爆音で演奏されるLive Wire。私とキツネはすっかり心を奪われた。世界にはこんなにも突き抜けた、カッコイイ音楽を作る人達がいるんだと。
 それからすぐに、私は彼らのCDを買いあさり、とうとう自分でも楽器を演奏し始めた。音楽部に在籍しながら軽音楽部にも入部し、最近ベースが抜けたというガールズバンドにこれ幸いと加入した。この時のメンバーとはすぐに別れたが、その後先輩のツテを通じて学外で別のバンドを結成することになった。そこには、キーボードを携えたキツネの姿もあった。

「私が抜けた後も、凄い人気だったじゃないっすか~。それなのに突然解散しちゃったから、ちょっと気になってたんすよ~」

 ギターにドラム、それにキツネのキーボードとベース兼ボーカルの私の四人構成だったバンド『Angelique』は、女子四人組みと言うこともあってか早いうちから注目を浴び始めた。初めのうちは小さなライブハウスで不定期にライブをやっていたが、人気が出てくると定期的にライブをやるようになり、多いときには数百人規模の観客を動員したこともある。
 その後、キツネが家の事情で脱退せざるを得なくなったが、別のキーボードが加入してもその人気が衰えることもなかった。だが、ある日を境にぷっつりとライブが行われなくなる。
 
 それは──私の所為だ。
 
 両親に促されて一応大学には進学していた私は、その頃から大学生活が嫌になっていた。卒業までの単位は何とか足りる目処が付いていたが、卒業を待たずに大学を辞めて、本気で音楽一本の生活に切り替えようと考えていた。
 それを両親に話した途端、猛反発を喰らった。
 大学の単位を何とか取れているからこそ許容されていたらしいバンド活動には、真っ向からと言わないまでもほとんど完全に否定された。音楽でまともな生活が出来る人間なんて、ほんの一握りだ。そんなギャンブルめいた仕事なんて、まっとうな仕事とは言えない。そう言われ、私は目の前が真っ暗になった。
 逆らおうと思えば、いくらでも出来たはずだった。実際、同じバンドのギタリストは私よりも年上で、大学を辞めてからバイトだけで生活している人だった。その人はルームシェアも申し出てくれていたし、その気になれば家を飛び出して一人でやることも出来たと思う。
 だけど、その時の私はそんなことを考える余裕もなくなっていた。家族だけでなく親戚からも音楽活動に難色を示されたことで、臆病風に吹かれたのかもしれない。そうやって周りを見渡してみれば、確かに誰もが就職活動にいそしんでいて、それが私の焦りに拍車をかけた。

 そして、遅れた就活にもかかわらず奇跡的な内定を得た私は、バンドを辞めた。

 他のメンバーには、内定が決まった後に事情を正直に話した。キツネの代わりに加入したキーボードの子には最後まで食い下がられたが、結局は半ば強引に諦めて貰った。代わりのベースやボーカルを探して存続させるつもりは、メンバーの誰にも無かったらしい。そのままバンドは、自然解散した。
 あの人──私にロックを紹介してくれた先輩にも、内定が下ったその日のうちにバンドをやめることを告げていた。バンドのマネジメントも引き受けてくれていた彼にそれを告げるのは何よりも心苦しかったが、彼は真っ直ぐに私の言葉を受け止めてくれた。そして、いつもの調子でこう言ってくれた。
「自分の生きたいように生きれば、それで良い」
 そしてそれが、私が聞いた彼の最後の言葉にもなった。
 それから一ヶ月もしない間に、突然の訃報を受けた。バイクと車の交通事故。ほとんど即死の状態だったらしく、知らせを受けて駆けつけたときには、既に息を引き取った後だった。彼の遺体を目の前にしても実感が湧かず、その日は一日呆然としていたことを覚えている。彼の死を意識して初めて泣いたのは、四十九日を迎えたときだった。
 次の年、私は大学を無事に卒業し、そのまま今の会社に就職した。メンバーとは彼の一回忌に一度だけ会ったが、皆それぞれ独自に音楽を続けている様子だった。互いの連絡先もそのときに更新したが、結局その後は一度も連絡を取っていない。あれから三年以上が経つ今、きっとそれぞれの道を歩んでいるのだと思う。

「……私は、私の都合で一つのバンドを潰したんだ。今更、もう一度バンドをやるなんて出来ないよ」

 ようやっと口をついて出たのは、自嘲と悔恨の混ざり合った苦い言葉だけだった。ずっと私を支配していた、後悔と未練の鎖。就職して仕事を続けている間に、それもすり減って消えてしまったと思っていたけど、今日の夢で全くそんなことはなかったと思い知らされた。
 叶うなら、もう一度、戻りたい。
 でも、それとは裏腹に滑り出したのは、臆病だったあの頃と何も変わらない言葉。

「私は、就職を選んだんだ。もう戻れない」
「そんなことないっす!」

 突然、キツネが立ち上がって吼えた。まばらにいた客の視線がこちらを伺うように集中して私は慌てたが、彼女はそれも目に入らぬ様子で続けた。

「先輩は音楽が嫌いになったんすか? ロックが嫌いになったんすか? 違うんすよね? だったら、何度でも戻れるはずっす!」

 息を荒くして立ち尽くすキツネだったが、ややあってようやく周囲の視線に気付いたのか「すいません……」と小さく謝罪して席に着いた。
 恐らく、自分と重ね合わせているのだろう。キツネは、自営業だった両親の経営が傾いた為、やむなくバンドを辞めて働かざるを得なくなった。幸いその後持ち直したようだったが、いつ同じようなことになるか分からない状況で、バンド活動に復帰することは困難だった。
 だから、その言葉は彼女の願望でもあるのだと思うのだ。音楽が、ロックが好きなら、何度でもそこへ戻れる。ロックの世界へ。あの時の衝撃と感動を、少しでも誰かと分かち合う為に。

「だから、戻れないなんて言わないでくださいよ、先輩……」
「キツネ……」

 ほとんど泣き出しそうな彼女をなだめながら、私は自分の言葉を後悔した。戻れない、なんて言葉は、ただの言い訳に過ぎない。私は怖かったのだ。今の何の面白みもない生活でも、失ってしまうのは怖い。それは保証のない、命綱もない状態で荒波に放り出されることと同義だ。勿論、趣味でバンドをやることは出来る。でも、本気で音楽でやっていこうとしていた彼女たちに対して、それはあまりに失礼なことだと思ったのだ。
 いや、それすらも言い訳だ。
 私は、逃げたかっただけだ。自分がやってきた音楽に、もう一度向き合う事から、ただ目をそらして生きていただけ。両親や親戚に認めてもらえなかったことのショックを、他に転嫁して忘れていたかっただけ。
 生きたいように、生きる。
 あの人の言葉が、今頃になって棘のように私の心を突き刺した。
 少し落ち着いたものの、まだ憔悴したような様子のキツネを連れ、私たちは店を後にした。拾ったタクシーに彼女を乗せて運転手に五千円を握らせ、彼女の家まで送らせる。私は雪の止んだ空を見上げると、明かりが消えてすっかり暗くなった路地を、駅に向けて歩き始めた。
 もうすぐ日付も変わろうとする中、街はしんと静まりかえっている。私は雪で湿ったアスファルトを踏みしめながら、バンドをやっていたときのことを思い返していた。
 手探りで始めたバンド活動。初めてライブハウスを借り、集まった観客はたった六人だったけど、それでも心から嬉しかったあの時。少しずつ観客が増え、あるライブハウスのオーナーから定期ライブを開かないかと言われたときの歓喜。小さなホールだけど、何百人という観客のなかで演奏出来たときの感動。
 そして、その中には、いつも四人の笑顔があった。

 生きたいように、精一杯、生きていた。

 不安でいっぱいで、いつもドキドキしていて、でも楽しかったからずっとやってこれた。一曲一曲にそのときの思いを込めて、皆の前で披露して、それを共有できたときの嬉しさを、今でも昨日のことのように鮮明に思い出せる。
 家に辿り着いた私は、靴とコートを脱ぎ捨てると、仕事鞄をソファに放り投げてそのままクローゼットに向かった。観音開きの扉をゆっくりとあけると、隅に追い遣られていた革のケースを取り出す。丁寧に開けると、中から真紅のエレキベースが姿を現した。
 バンドが軌道に乗ってから、ずっと愛用していたベース。自分の名前を形にした特注のうさぎ型ヘッドの付いたそれは、弦こそ伸びてしまっているものの、本体はしまったときのままのぴかぴかの状態だった。
 ケースから取り出すと、私はストラップをつけて肩から提げてみた。ずっと使っていなかったのに、まるで昨日まで使っていたかのようにしっくりくる重み。アンプも繋がっていないし、伸びた弦では音を出すことは出来ないが、指をあてると今にもあの時の音が蘇るようだった。
 ベースを置き、気付いたら、私は携帯を開いていた。会社の名簿で埋め尽くされてたアドレス帳を開き、その中から目当ての三つのメールアドレスを見つけ出す。
 そして、一通のメールを、全員に向けて送信した。
 それは、おそらく一生のうちで最初で最後の現実逃避。
 いや、現実とようやく向き合うことの出来る、最初で最後の挑戦状。
 生きたいように、生きる。懐かしい日々に戻ることは出来ないけれど、その続きを始めることは、いつだって出来たはずだ。それを、今から始めよう。打ちのめされるかも知れない。後悔するかも知れない。だけど、求めなければ、向こうからは何もやってこない。
 あのときの楽しさも、嬉しさも、自ら求めてこそ、掴み取れた。
 やがて、ちょうど三通分のメールが返ってきた。夜も遅いのに全員から返信があったことに驚きつつ、私はそれらを開封する。そこに書かれていた共通の言葉を見て、私は思わず吹き出した。

「再び戦場へようこそ!」

 夢の中で見たあの人が、笑顔でゆっくりと頷いた。


《 うさぎ姫、戦場へ還る。 了 》


【 あとがき 】
 正月用に書き下ろした短編にどうしても未練があったので、これを機に書き直しました。
 というわけで、新作じゃないです、スイマセン○∠\_
 まだ書き足りない感はあるのだけれど、もっと自分で書きたかった形になったような気がします。
 バンドの話はまたやりたいんだけど、いかんせん用語が分からなくて('Д';)

 次回はお休みいただきます。
 また参加させていただく時まで、しばしMixiやtwitterに潜むことにします(笑)。


『 道化師の部屋 』 Clown

● COMMENT ●


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック:

http://misterycirclenovels.blog.fc2.com/tb.php/205-d6b8c9af
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

《 それも一つの愛のカタチ。 》 «  | BLOG TOP |  » 《 Agony 》

プロフィール

MC運営委員会

Author:MC運営委員会
このブログの八割は、カボチャで構成されております。

カテゴリ

Mistery Circle(メインカテゴリ) (37)
寸評 (27)
MCルール説明 (1)
お知らせ (34)
参加受付 (21)
出題 (32)
メールフォーム (3)
内藤クンのおもちゃの部屋 (8)
天野さんの秘密の部屋 (8)
Ms.伍長の黙示録の部屋 (0)
伊闇かなでの開かずの部屋 (4)
未分類 (26)
亞季 (2)
いつき (1)
伊闇かなで (2)
空蝉八尋 (4)
黒猫ルドラ (10)
ココット固いの助 (20)
桜井 (1)
桜朔夜 (1)
鎖衝 (11)
知 (21)
しどー (10)
瞬 (3)
白乙 (12)
すぅ (13)
すずはらなずな (27)
田川ミメイ (2)
辻マリ (14)
夏海 (3)
七穂 (1)
氷桜夕雅 (28)
ひとみん (4)
松永夏馬 (12)
望月 (8)
幸坂かゆり (19)
李九龍 (12)
りん (3)
ろく (1)
Clown (12)
MOJO (1)
pink sand (9)
rudo (8)
×丸 (3)
MC参加者に聞け (7)
Mistery Circle ヒストリー (1)

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

リンク

このブログをリンクに追加する

検索フォーム