Mistery Circle

2017-08

《Boogie-woogie Hearty Party!!! Disco arrange REMIX 》 - 2012.07.05 Thu

《Boogie-woogie Hearty Party!!! Disco arrange REMIX 》
 subtitle:《 乾流人シリーズ1・黄泉ナル殺意ト桃ノ花 》

 著者:瞬☆ザ・70’sグレイテストヒッツ(スーパー・サタデーナイトフィーバー)








 それは、気味が悪い程に寒く寂しい、真冬の夜の事だった。
 都内より高速道路を乗り継ぎ、述べ四時間弱。長野県H村山中。町中を過ぎた辺りから道はゆるやかに上り坂となって、いつまでもだらだらと続いている。
 行けども行けどもハイビームに照らされるその光景は、深き森とそれ以上に深いだろう暗闇ばかり。
 せり立つ木々の間から見え隠れするその空もまた、星どころか月さえも隠れる曇天の夜の空。私は愛車である旧式のビートルを操りながら、そんな陰鬱とした道を延々と進んでいた。
「なぁ、カス。こりゃあ、かつがれたんじゃあねぇのか。どう見てもこの道の終点はドン詰まりか、自殺の名所らしいダムの入り口とかだぜ」
 助手席に陣取る垂水譲也巡査部長は、聞き取り辛い低いダミ声で言う。
 彼ももう、五十の半ばぐらいだっただろうか。頂点が禿げ上がった頭に、もはや元には戻らないだろう目の下の大きな隈。良く肥えた体躯に、一年中真っ黒な地肌。まるで絵に描いたかのような、生粋の刑事である。
「よして下さいよ、垂水さん。ただでさえ薄気味悪いってぇのに、そう言う事言われたら余計に怖くなるじゃあないですか」
 私は昔馴染みのよしみで、軽口を叩いた。
 スピーカーから流れ出て来るポップミュージックが、とうとう耳障りなノイズに負け始める。
「電波も通りゃあしねぇんだな、ここは」
 垂水さんはそう言うと、根本まで吸い尽くした安煙草をダッシュボードの灰皿に押し付け、チューナーを操作する。
 いくつかの激しい騒音を乗り越え、ようやくどこかの放送へと繋がる。
 ――円周率を3.14として、円周の長さが16.2cmの円の直径を求める場合には――。
「勉強熱心ですねぇ。昇進試験でも受けるおつもりですか」
 皮肉を言うと、「うるせぇやい」と彼は笑って、わざとボリュームを大きくする。きっと、こんな訳の判らない単語を並べる教育番組であっても、なんの音も無いよりマシだと思ったのだろう。それは私も同感である。
 やはり、つい十数分前に辿り着いた、廃村の外れのバリケードの前で引き返すべきだったのだと、私は今更ながらに後悔した。
“警告。ここより私有地につき、立ち入りを禁ずる”
 そんな看板とバリケード。そして私がその先へと進もうと決意を固めたのは、そこに見える僅かなタイヤの轍跡のせいだった。
 本当にこの先に、“彼”はいるのだろうか。あの、超難問と呼ばれた、“ベルケルの哲学論”を、全て鮮やかな切り口で回答してしまったと言うあの天才が――。
「なぁ、これはやっぱりかつがれたんだろう。進むだけ無駄な気がするんだがなぁ」
「そうですね。でもこんな場所ではUターンする事すら出来ない。とりあえず空地が見付かるまで進みましょう」
「……しょうがねぇなぁ」
 どうやら、かつては“鬼軍曹”とまで揶揄された垂水さんも、こう言う雰囲気には弱いらしい。そっとドアにロックをかける所を横目で見付け、私は彼に見えないように密かに笑った。
 寂しい景色は更に続く。まだ当分、突き当りにも行き着く様子もないし、ひらけた場所にも辿り着かない。私はただその坂道に負けないよう、アクセルを踏み込むだけだった。
 そうだ、一つ申し遅れた事がある。私の名前は、粕谷琢磨(かすやたくま)。華の独身、四十二歳。あだ名はもうご存知の通り、“カス”である。
 職業は、目下の所二つある。一つ目は、売れていない上に名前すらも無名に近い程のミステリー小説家。そして二つ目は――あぁ、とりあえずやめておこう。この先でいずれ判る事だろうから。
 私はワイシャツの袖のボタンを外し、少しだけ腕まくりをする。道に、変化が訪れたのだ。
「なんだぁ、おい。やけに急坂になったじゃねぇか」
 道は、右へ左へと大きく曲がり始めた。どうやら峠へと差し掛かったらしい。
「とうとう完全に引き返せない所まで来ちゃいましたね」
「恨むよぉ、カス。これで幽霊屋敷なんかに辿り着いた日にゃあ、お前だけ置いて帰るからな」
「はは――まさか」
 私はそれを笑い飛ばした。まさか、幽霊屋敷よりも酷い場所へと行き着くとは想像もしないままに。
 長い長いつづら折りを抜け、十数分をかけて道はようやく平坦な角度へと近付いて行く。
 そしてそれは見えて来た。背の高い木々よりも遥かに高くそびえ立つ、鉄筋コンクリート製の建造物。闇夜に映える人工物の影。
 予想に反し、道と建物を隔てた門は、開いていた。
 車はそこに滑り込む。そしてその建物は、ビートルのハイビームの中ですら僅かしか照らす事が出来ない、圧倒的なスケールでそこに存在していた。
「なんだぁ、カス。これって――」
「えぇ、どうやら廃墟みたいですね。しかもこれはきっと……」
 ――病院? 私はその言葉を飲み込んだ。
 曇天の暗い夜空にそびえ立つ、巨大で無機質なシルエット。その下には相当に長い年月を放置されただろう、そんな荒れ果てた光景がぼんやりと浮かび上がっている。
 窓のガラスは砕け、外壁は所々で欠け落ち、割れたアスファルトの隙間からは雑草が伸び、乗り捨てられたのだろう旧式の車はタイヤが潰れ、日焼けでボディの塗料が煤けていた。
「帰ろう、カス。今すぐに」
「いや……しかし」
 受け取った情報に、今の所は嘘が無い。次第に疑いが確信に変わって来る。
 先日“彼”に、メールで連絡を取った所、そこには日時と場所の指定だけが書かれ、返信されて来た。そしてそれが今日。そしてこの時間。
 更に住所は間違いなくここであり、メッセージ欄には“本館四階、西側通路の二つ目の部屋でお待ちします”と、あったのだ。
 本館とは、何を指すのだろう? ついさっきまではその意味がまるで判らなかったが、今ならばなんとなく理解が出来そうな気がする。確かにこの建造物は、そう呼ぶに相応しいスケールがあるのだ。
 キーを戻し、エンジンを切る。そしてライトを消せば、そこは完全な闇と無音に変わる。
「おい……まさか行くとは言わねぇだろうな、カス」
「いえ、行きますよ。なんだか俄然、面白くなって来た」
 私はそう言って、後ろの席から懐中電灯を二つ取り出した。
「やっぱ俺もか?」
 その一つを手渡された垂水さんは、恨めしそうにそう呟く。
「嫌なら結構ですよ。私が戻るまで、ここで待っていて下さい」
 少しだけの沈黙。そして垂水さんは、「それも無茶だ」と返し、ドアのロックを外した。
 外へと降り立つ。寒風がびゅうと吹き付け、ヒーターで温まった筈の体温が一気に奪われて行く。
「さ、さ、さ、寒いな、カス」
 垂水さんもまた、歯をガチガチと鳴らしながら降りて来る。私は皮肉で「大丈夫ですか?」と聞いたが、垂水さんはそれを寒さの心配と受け取ったらしい。「なぁに、真冬の張り込みはもっと厳しい」と返して来た。
「なるほど。では、参りましょうか」
 私はそう言って、懐中電灯の電源をオンにする。強力で広範囲な光源が、その荒れ果てた廃墟を照らした。
 かつては正面玄関だったのだろう広い入り口が目の前に見えた。
 それを塞ぐように、朽ちて中身をぶちまけた土嚢と錆びて真っ赤に変色したバリケードが玄関を覆っているのだが、跨いでそこから侵入するのは造作もない事だった。
 私はコートの襟を立て、帽子を目深にかぶりなおして、砕けた硝子の散乱する玄関の方へと足を向けた。
 それなりに広い受け付けだった。但し、近代的な病院の受け付けには程遠く、簡素と言うよりも寂しさが上回るような作りの受け付けに見えた。
“鴉山総合病院”
 受け付けの看板の上部に、そう書かれてあった。
 後で調べてみるかと思いながら、私はその病院の案内図を探す。
 やがてそれも見付かった。大きく“8”の字を描いたかのような造りの本館があり、そこから枝分かれするかのようにいくつかの別館が繋がっている。
 確かに、“彼”が指示した場所はここだろう。例えそこに“彼”が待っていなくても、指定して来た場所がここである事は疑いようもなかった。
 四階、西側――と、私はその案内図を指差し、場所を追う。
 指が止まる。――あった。精神科病棟と書かれた場所がそれに該当していた。
「カス、あったのか?」
「えぇ、見付けましたよ。行ってみましょう」
 暗闇の中、「ちっ」と、垂水さんの舌打ちする音が響いた。私は苦笑を堪えながら、一番近い階段の方へと向かった。
 歩くたび、足の下でゴリッとも、バリッともつかない音が響いた。果たしてどれぐらいの時を放置されたのだろうか。建物内部には当時のままだろう設備やら調度品が残されていた。
「なんだか廃屋のように思えませんね。ちょっとだけ古くて掃除の行き届かない、普通の病院みたいだ」
「やめてくれよ。なんだかどこかからフラフラと……夢遊病な患者が出て来そうな気がする」
 垂水さんは本当は「幽霊が」と言いそうになり、それを自制したのだと悟る。可笑しいが、あまり笑っていられるような雰囲気ではない。
 どこを見ても窓も灯りもない閉鎖的な空間で死んだ空気を吸い続けていると、幽霊どころかゾンビの大群にでも襲われそうな気分になって来る。開けっ放しのままのドアのその向こう側が、やたらと恐怖心を煽っていた。
 カツンカツンと二人の足音が闇に轟く。ライトの灯りが何かの調度品にぶつかる度に、そこから生み出された巨大な影が怪物のような姿となって視界に映る。
 嫌な場所だ。思ってみても仕方がない。私と垂水さんは重い足を懸命に動かし、狭く冷え切った階段を四階まで上り切る。
 どうにも誰かに見られているような気がしてならない。物陰に隠れ、恐れおののいている私達二人をあざ笑っているかのような、そんなイメージ。
「西側は……こっちですね」
 そうして灯りを向けた先には鉄格子。ご丁寧にも、守衛が陣取っていたのだろう小さな待機所までもが設置されてある。
「カス……なんだここ?」
「きっと閉鎖病棟だったんでしょう。患者さんが逃げ出さないように拵えた、ね」
 廊下を歩く。格子戸の前に立ち、そっとその戸に手をかける。
 戸は難なく開いた。軽い軋み音を響かせて、その内側へと。
「行くのかよ、おい」
「そりゃあ行くでしょう。待ち合わせ場所は向こうなんですから」
「なぁ、おい。もしも……もしもだぞ。万が一ここの戸に鍵を掛けられたら……」
「閉じ込められるでしょうね。ごく当たり前のように」
「ふざけやがって」
 それは誰に吐いた台詞だったのか。結局は垂水さんも一緒になって、その格子戸をくぐった。
 左右に並ぶ、檻のような部屋の前を過ぎる。
 檻の隙間から手を伸ばし、部屋の中から私のコートの裾を掴もうとする患者達の姿を想像しつつ廊下を進む。
 突き当り、廊下を右へと折れると突然、それは見えた。
 向こうの部屋の入り口から漏れ出る人工的な淡い光。それが直線的な光源となって反対側の廊下の一画をその灯りで染めている。
 そして私はそれを見て――恐怖で震えた。垂水さんなど、驚きのあまり小さな悲鳴をあげたぐらいだ。
 そう、私達は不思議と、その人工的な灯りに恐怖した。安心ではない。恐怖なのだ。
 間違いなくそこに誰かがいる。その事実は安心感などではなく、ただひたすらの純粋な恐怖。なぜならば、こんな人里離れた山奥で、しかもこれだけ大きな病院の廃屋で。しかもこんな夜中に孤独のままそこにいると言う神経。そんな異常さに私と垂水さんは恐怖したのだ。
「カス、やめよう。あの部屋には近付かない方がいい。あれは――狂人の住処だ」
 そうですね――と、頷きそうになるのを必死で堪え、私は一歩を踏み出した。
 何故そんな事をしたのかは、良く判らない。もしかしたらただのヤケクソだったのかも知れないが、後になってみてふと思う。あれはもしかしたら――好奇心だったのではないかと。
「おい、カス!」
 ひそめた声で、垂水さんは怒鳴った。
 そして私は知らん顔をしながら、部屋へと近付いて行った。
 灯りは、細かい点滅を繰り返していた。淡く、無色な点滅が、絶えず廊下に瞬いている。
 息を飲み、覚悟を決め、そして私は覗いた。そしてそれは見えた。がらんどうで無機質な部屋の中、積み重なったテレビのモニターがノイジーな映像を垂れ流しているのを。
「……なんだ、こりゃあ?」
 私はそんな気の抜けた事を呟きながら、部屋の中へと進んで行った。
 それは大小様々な大きさのテレビ。しかも薄型ではない、地デジなど映ろう筈もない旧式のものばかり。そんなものが無造作、無秩序に積み重なり、揃って砂の嵐を映し出している。
「なんだよ、これ?」
 同じ台詞を吐きながら、部屋に垂水さんも入って来たようだ。ライトでテレビを照らしながら、「やっぱ狂人の仕業だな」と呟いた。
 確かに、同感だった。これが意図するものが判らない。なぜ、どうして、そして誰が? そんな想いが交錯する。その時だった――。
「――いらっしゃい。ようこそです」
 心底驚きながら、私は声のする方向へと振り向いた。垂水さんなど、「うわぁ」とも、「うひゃぁ」ともつかない奇声を上げて、飛び退るぐらいだった。
“彼”は、そこにいた。向こうの壁の際。私達とテレビの山と、そして“彼”。その三つがちょうど三角形を描くかのような位置に、足を組みながら彼は座っていた。
 椅子から立ち上がる。年齢は私よりも遥かに若く、二十代の半ば頃だろう。細身で背が高く、無表情な仮面を張り付けたかのような印象の、そんな男だった。
 黒のスラックスに、黒のタートルネック。丸い眼鏡に、べったりと撫で上げたオールバック。そして木製の細長いステッキ。それが、私と“彼”との最初の出逢いだった。
「君……は?」
「“ルジン”本人ですよ。粕谷探偵にご連絡を差し上げた――ね」
 私がその自己紹介にぽかんとしていると、背後で垂水さんが、「本当にいたのかい」と、小声でささやいた。
「あっ、そうだ。えぇと……紹介します。彼は東京都鱶洲警察署の――」
「垂水譲也巡査部長さんですね。僕は乾流人(いぬいるじん)。公僕の方には仇のような、無職の引き籠り人です。初めまして」
 その言葉には面食らった。なにしろ私は彼に対し、垂水さんの事はおろか、同席者の存在すらも事前に明かしていないからだ。
「どうして……?」
「どうして知っているのかって? 勘と推理ですよ。他人の職業を言い当てるなんて、造作もない事だ」
 言いながら指先で自らのこめかみを叩いて見せる。それを見ながら、あぁやはり“彼”だと、私は痛感した。
「あなたの名前は、粕谷琢磨さん――。職業小説家でいながら、副業として探偵事務所も開いている。しかしどちらも趣味的な仕事でしかなく、何ごとでも自ら気に入った話でなければ動かない」
「えぇ、確かにその通りです。だからこそ常に生活に困っている浮浪者寸前の身の上です」
「著作は、“蛇の鱗と盲目の稚魚”、そして“限りなく密室に近い21の小部屋”の二冊。どちらも素晴らしい出来の良質ミステリーです。何より僕はあの世界観が好きですね。今の世界より数千年後。陸地のほとんどが海の水に蝕まれ、住む場所すらも困る世界と言う設定でいながら、SFではなくミステリーで勝負している。なんて素晴らしいセンスなんだと感じざるを得ない」
「ありがとうございます。こんな場所で私の著作を知っている人と出逢うなんて思いもしませんでした」
「――だが、あなたが手掛けた事件の数々は、あなたの著作よりも素晴らしい。“本郷、首無し連続殺人事件”に、“田無市マンションOL殺人事件”に、“水元公園死体遺棄事件”。どの事件にも容疑者が上がっているにも関わらず、あなたはその全ての事件の内容を覆し、真犯人を特定するまでに至った。今の時代に、稀に見る敏腕探偵さんですねぇ」
「何故……それを!?」
 息を飲んだ。その情報はおおやけには公開されていない筈。極秘ではないものの、一般の人間には知る術のない情報の筈だった。
 だが流人はそれに答えず、両手を広げて首をすくませてみせるだけ。いちいちアクションが大袈裟な人間だなと私は思った。
「そこまで言えば充分でしょう。従って僕は、あなたが垂水巡査部長さんと一緒に来るだろうと言う事も充分に予測出来た。なにしろ、あなた方二人の名コンビ振りは巷でも有名ですからね」
「巷って、どこの巷なんだよ、おい」
 垂水さんが気色ばった声でそう言った。すると彼は、悪びれもせずに、「インターネットです」と答える。――ちょっと待て。それは全く勘でも推理でもないぞと、私は胸中でツッコんだ。
「まぁとにかく、こんな火の気の無い場所で立ち話もなんですから、リビングに移動しませんか。もし構わないならアルコールなどいかがです? ――さぁ、どうぞこちらへ」
 流人はそう言って歩き出す。私と垂水さんは、彼は一体何を言っているんだという顔で、それを見送る。
「どうしたんですか? 遠慮は要りませんよ、さぁ」
 部屋の入り口で振り返り、彼は言う。そして私と垂水さんは、事情が良く飲み込めないと言った表情でそれに従う。
 背後には砂の嵐のブラウン管。そして私が最後にその部屋を出たと同時に、プツンと全てのモニターが暗くなった。

 *

 白色の照明が瞬けば、そこに現れた空間に私と垂水さんは驚いた。
 壁と床、天井こそは他と同じで打ちっぱなしのコンクリートなのだが、そこには“人が住む”と言う生活感が溢れる空間があった。
 粗末だが丈夫そうな木製の椅子やテーブル。食器の並ぶ戸棚に、壁に掛かる数枚の絵画。部屋の隅に置かれたコントラバスに、観葉植物。反対側を見れば、居間とキッチンを隔てたカウンターテーブルがあるし、その向こうには両開きドアの大型冷蔵庫までもが見えた。
「あんたまさか、ここに暮らしているなんて言わんだろうな!」
 垂水さんが大声をあげると、「ここは僕の家ですよ?」と、会話をいくつか端折りつつ、流人は言った。
「驚いたなぁ」
 私は思わず素直な感想を口にした。
 電気は通っている。なにしろエアコンが作動していて、部屋は暖かい。そしてきっとガスも水道も使えるのだろう。そうなれば多少交通の便がよろしくなくとも、生活するに至っては何も問題は無い。
「建物の老朽化は大丈夫なのですか? ここに来るまでに、剥がれた壁や崩れた瓦礫など随分見て来たんですがね」
 私はソファーに腰掛けながら、流人に聞いた。
「ご心配なく。専門家の意見では、後二十年は余裕で持つそうです。ただ、天井のコンクリート片がバラバラと降って来るのには辟易しますね。もちろん住居に当てた部屋はそれも対策済みですが」
「やっぱり変わってる。おかしいよ、アンタ」
 垂水さんはそう言って、私の横に腰を下ろした。だがそう言われた方の流人はまるで気にする風でもなく、「おっしゃる通りですね」と、目を細めて笑った。
「良かったら何かお作りしましょうか。最近趣味でカクテル作りを始めましてね。ただ作っても試してくれる人がいないので寂しかった所なんです。――いやぁ、誰か来てくれて本当に良かった」
 弱いクセに酒好きの垂水さんはすぐに反応を見せたが、私はやんわりと、「今日は車なので」と断った。
「おや、泊まっていかれたらよろしいじゃないですか。もう相当に遅い時間だし」
「いや……さすがに初対面でそこまでは」
「遠慮しなくていいですよ。見ての通り、部屋はあふれんばかりに沢山ある。もし趣味が合うようでしたら、お好きなお部屋でくつろいでいただいて結構ですけど」
 ――尚更、結構。私は返事をしないまま、「アルコール抜きの奴を何か下さい」と、流人に告げた。

「それで、僕にはどんな用件で?」
 流人は氷を浮かべたコークハイを傾けながら聞いた。
「実はね……ちょっと私達では手におえないだろう事件が起きまして」
 私もまた、彼と同じカクテルを頂いた。もちろんウィスキー抜きのやつなのだが。
「あなた方でも手におえない? そんな筈はないでしょう」
「いや、本当なんだ。だから藁にもすがるつもりでここに来た。アンタならいいアドバイスをくれるんじゃないかって、カスの野郎が言うもんでね」
 お猪口一杯の日本酒で既に顔が真っ赤になった垂水さんは、少々呂律の回らない舌でそう告げる。
「ご冗談を。――全然訳がわからない。僕に犯罪捜査の何をアドバイス出来るとでも?」
 流人の言葉を「無茶は承知なんです」と私が押しとどめる。
「私達だって、あなたなら有益な推理をしてくれると期待して来た訳ではありません。――あぁ、いや、本音ではかなり期待しているんですけどね。ただそれ以上に、あなたならこの分野について詳しいのではないかと踏んでの事なんですよ」
「詳しい――とは? なんの事です?」
「“ベルケルの哲学論” あなたはあれに挑戦し、そして私はあなたのその回答に感心し、連絡を取った」
「あぁ、あれね。暇つぶしに怖ろしくひねくれた回答してやっただけですよ。特に意図した事じゃない」
「だが、素晴らしく模範な解答でもある。私はずっと溜め息を吐きながらあれを読んでいましたよ」
「なんじゃあ、カス。そのベッケルのなんちゃら論ってのはどんななんだ」
「ベルケルですよ、ベルケル。八十年程前に亡くなった、ベルケル・ロッソと言う哲学者の出した問題の事です。人の欲望と倫理観に訴え掛ける問題ばかりで、まともに回答すれば必ずどこかに矛盾点が現れると言う事で有名なんです」
「良くわからん。そう言うのはインテリ同志でやっててくれ」
「そうします。――でね、乾さん」
「待ってよ、粕谷さん。出来れば苗字で呼ばないで欲しい。ルジンでいいですよ、ルジンで」
「了解しました、ルジンさん。では単刀直入に質問しましょう。――人間には、“前世”と言うものがあると思いますか? そしてもう一つの質問もそれに類似していて、人間に“前世”と言うものがあったとして、その記憶を持って生まれ変わる事と言うのはあると思いますか?」
「うーん……出来れば“さん付け”もやめて欲しいんだよなぁ。なんかそう言うの呼ばれ慣れていないもので」
「オーケー、ルジン。じゃあついでに敬語もやめよう。お互いにね」
「いいね、それ。やはりあなたは話が早い。――で、質問の答えなんだけど、僕的にはどちらもノーだ」
「へぇ、それはどうして?」
「宗教的見解だよ。もしも前世を肯定したなら、自動的に輪廻転生を肯定した事になり、更に自動的に僕と言う人間は仏教徒って事になる。そして僕がたった一つだけ頑なに守っている事は、生涯無神論者で居続ける事。つまりはそう言う訳で、ノーと答える」
「いや、それは答えになっていない。君の言っている事は自らのポリシーに従ったまでの回答であり、君の意志による判断がどこにも含まれていない。私が聞きたいのは君自身の見解であり、君自身がなんの枷も無しに導き出した回答の方だ」
「手厳しいね、粕谷探偵。――判った、僕も腹を割って話そう。もちろん宗教と言う枠に縛られていない僕なりの回答でね」
「光栄だ」
「――だがやはり、僕の回答はノーだよ。前世なんてものは存在しないし、同時に存在していないものの記憶なんてありはしない」
「どうして? 何故、存在していないと言い切れる?」
「有り得ないからとしか言いようがないよ。だってもしも僕に前世と言うものがあったとして、その時に生きた僕と言うものと、今ある現世の僕は肉体と言うものがまるで違うものな訳だ。もしも同じ肉体だったとしたなら、前世とは呼ばないからね」
「まぁ、確かにそうだが」
「では、肉体が違うと言う前提で行くとして、それじゃあ一体何が共通しているの? 前世と現世でだよ。――つまりは、“魂”って事になる。前世の記憶は前世の魂の中にインプットされ、ハードだけが変わったと」
「うん」
「つまりそう言う訳だ。有り得ない」
「良くわからない。端折り過ぎだ。君は一体、何を否定しているんだい?」
「魂の在り処さ。――ある訳がない。人間の肉体の中に、“魂”と呼ぶ実体のないものが存在するなんて」
「なるほど、アンタがここに住める理由が良くわかるな」
 垂水さんが口を挟む。そして私もその言葉に同感であった。
「では君は、“魂”と言うものの存在に対し、否定派な訳だね」私はルジンに向かってそう言う。
「まぁ、話がどんどんズレるからそっちの論議はやめておくけど、それじゃあ君が前世と言うものを否定しているとして、今度は別の質問をしたいんだが、いいだろうか」
「いいよ、今度は何?」
 私は垂水さんに目配せする。そして彼が「うん」と頷いたのをきっかけに、私は話し始めた。
「まず、君が前世を信じようが信じまいが構わない。とある少女がいて、その少女は前世の記憶を持って生まれて来た」
「うん。それで?」
「彼女は前世の記憶を語り始めた。そしてその口述はことごとく当たった。誰もが全く、彼女の語る事を疑いはしていない」
「へぇ、面白いね。それはどんな?」
「――過去に起こした殺人さ。それも全て、彼女自身が行った前世での事だ」
「有り得ない。でも興味深い。続けて」
「その前にトイレはどこだ? 酒と寒さでもう限界だ」
 垂水さんが立ち上がる。流人は部屋の入り口を指差し、「そこを出て右。向かい側通路にある部屋の数えて三つ目だよ」と教えた。
「……気味悪ぃなぁ。小便と肝試しを同時にってのは、実に楽しくねぇなぁ」
 言いながらも渋々と、垂水さんは部屋を出て行く。そして部屋に残った私達は、話を続ける事にした。
「それで? 粕谷探偵は一体何を困っている訳?」
「色々さ。まず、例え殺したのがその少女の前の人生だったと立証されても、それを彼女自身の罪にするって事は難しい」
「そりゃあそうだね。あはははは、面白い」
「だけど、無視する訳にも行かない。一度迷宮入りした筈の事件が、再び動き出したんだからね」
「へぇ、それは俄然興味湧くね。やっぱり今夜は泊まって行きなよ。詳しい話を聞きたいし」
「話はいいけど、妙な寝室をあてがうのはやめてくれよ。こんな巨大な廃屋病院の手術室や霊安室で一夜を過ごすとか、考えただけでもおぞましい……」
 言った時だった。ダン! と激しい音がして、部屋のドアが開いた。
 驚いて見れば、それは蒼白な顔をした垂水さん。文字通り転げるようにして部屋へと踊り込んで来ると、ソファーにへたり込んで、「で、出た……」と、苦しげに喘ぎながら言葉を絞り出す。
「どうしたんですか、垂水さん?」
「出た……んだよ。いる……ホラ、そこに!」
 最後の方は、悲痛な叫びだった。
 目をこらす。垂水さんの指先は、部屋の壁を指している。そこには何も見えないが、確かに聞こえた。ひた、ひたと、固い床を踏むその足音を。
 ピンと来た。要するに垂水さんが指しているのは壁ではなく、その向こう側にある通路。そしてその足音の主とは――。
 ひた
 音が止んだ。今その音の主は、部屋のドアの外にいる。それだけは間違いようのない事実だった。
 ノブが回る。軽く軋みながらドアが開く。
「来た! おい、カスっ! 何とかしろよっ!」
 垂水さんはかつてただの一度も見た事がないぐらいの狼狽とパニックで、床にへたり込み叫んでいる。
 そして私も、身構えた。私は決して超常現象肯定派な人間ではないが、否定もしてはいない。まぁ簡単に言うと、興味の範囲外と言う奴だ。
 だが流石に今だけは、頭っからそれを信じてしまっているのだろう。開いたドアから覗く白い手に、私もまた垂水さんに負けないような悲鳴をあげていた。
「うわあああああっ!」
「ひゃあーーーっ!!!」
 そして、私は見た。部屋の外、暗がりに同化するかのようにして立っている髪の長い和服姿の女の影を。
 やがてぼんやりと私の意識が遠退き掛けた時、その暗がりの女は私を見ながらこう言った。
「あら珍しい。お客さんなのね?」
 ――はぁ?
「おはよう、ダキニ。珍しく随分と朝寝坊じゃないか」
 流人が言うと、その黒髪の女はそっと部屋の中へと入り込み、後ろ手でドアを閉めながら、「ちょっと夜更かし過ぎたせいね」と、髪をかき上げながら笑った。
 今までの恐怖が嘘のように吹っ飛んだ。それどころか私は、その彼女の美貌に見惚れた。
 整った顔立ちに、スラリと細身の体躯。着こなした黒地の和服がその長い黒髪に良く似合っていた。
 幽霊と言うものはかくも美しいものかと疑ったその時、流人はそっと立ち上がり、「姉の荼枳尼(だきに)です」と告げた。
「え、あ、お姉さん?」
 ソファーの手摺りを掴みながら、私は聞いた。
「えぇ、姉です。もっとも双子の姉なので、歳は同じだけど」
 なるほどと、私は思った。――確かに似ている。その無表情に近い感情の無さと、細い目などが特に。
「ずっと不思議な夢を見ていたから、一体何かと思ったわ。――でもこれで理解出来た。あれはきっと、お客さん達が持ち込んだヴィジョンね」
「へぇ、どんな夢だったの?」
 流人が聞くと、「人骨が三つも出て来た」と、荼枳尼と呼ばれたその女性は、答えた。
「一人の女の子が場所を告げると、そこからは必ず人骨が出て来る。古い、朽ちた骨よ。どれも皆、むごい殺され方をされた男性の遺体」
「なんだって!?」
 私は思わず声を荒げた。
「大体、合ってる?」
 流人が含んだ笑みを浮かべてそう聞いた。「合ってるもなにも……」私は答える。
「どこで知ったんですか、その話。それこそまだインターネットにさえも載っていない、関係者以外極秘な情報なのに」
「知ってるんじゃなくて、“視た”んですよ」
 彼女は笑った。ゾクリとする程に美しく、艶めかしい笑い方だった。
「“視た”――とは?」
「あぁ、それは後にしましょう。それよりもその事件の話だ。――今のは本当なんだね、粕谷探偵。統合すれば、一人の女の子が前世の記憶を取り戻し、そしてその過去に犯した自らの罪を語り、殺して埋めた遺体の数々を供述している――と」
「あぁ、まぁ、その通りなんだけど。だからこそ困っている訳さ。なにしろどの人骨も鑑定の結果、殺されてから十数年が経っている。そしてその殺人を行ったと自白しているのは、まだ中学生と言う幼い少女だ。もしもそれを信じるとしたら、その少女は赤ん坊か、生まれる前にその事件を起こしている」
「あっはっは。そりゃあ面白いね。大好きだよ、そう言うブラックなジョーク」
「ジョークじゃねぇよ。だがジョークで済ませられるんなら、それに越したことぁないけどな」
 ようやく立ち上がった垂水さんはそう言いながら、「今度こそ小便」と、部屋を出た。
「いい趣味の邸宅だねぇ。どこかの遊園地のアトラクションの中で暮らしているような気分だ」
 愚痴りながら遠ざかって行く垂水さんを見送りながら、荼枳尼さんは袖口で口元を覆い、ふふっと笑った。
「まぁ、そう言う訳で、警察側も大規模に動く事が出来ないんだ」私は話の続きを始めた。
「なにしろその少女の供述だけじゃあ、自白とは受け取れないからね」
「そりゃあそうだ。いくらなんでも矛盾があり過ぎる」
「だから、垂水さんと私がその捜査を引き継いだ。――いや、押し付けられたと言うべきか」
「それで困ってウチに来たっての? そんなの僕だって判らないよ」
「あら、私には“視えた”けど?」
 荼枳尼さんがそう口を挟むと、「いや、前言撤回。話を続けよう」と、流人は言った。
「まず、それを供述している少女からだ。どこに住む、どんな子なんだい?」
「東京の阿佐ヶ谷に住んでいて、都立の中学校に通っている十四歳の少女だ。名前は、瀬沼梢(せぬまこずえ)。家は母子家庭で、母の名前は愛子(あいこ)。母とその子との二人暮らし。成績は特に良い方でも悪い方でもない。生活自体は慎ましく、目立って酷い非行に走った事も無し……と」
「ごく普通の女子中学生って訳だ」
「そう。特筆すべき事は全く無い。もちろん、過去に殺されている数人の男性との接点もありゃしない。――とりあえず、現代の彼女としてはね」
「過去は、どう言う関係だったっての?」
「まだ教えてくれない。全員分の遺体を発見してから話すと言っている」
「ふぅん……」
 流人は頭の上で手を組み、ソファーに仰け反るようにして倒れ込む。
 一方の荼枳尼さんは、両手の掌の先を自らのこめかみにあてがい、黙り込んだ。そしてしばらくの沈黙が続いた。
 会話が途切れた途端、気味が悪い程の静寂が辺りを包む。そして私は思い出す。ここが廃屋の一室である事に。
「――大体、どんな事件なのか判ったわ」
 突然、静寂を破るようにして荼枳尼さんが言った。
「判ったって、何がです?」
「事件の内容ね。そしてどう言うトリックなのかも」
「……はぁ?」
 訳が判らない。どう言う意味で言ってるんだ? 思った所で今度は流人がさも面白くなさそうな顔をして、「受けよう」と、言い放った。
「粕谷探偵。僕はその依頼を受けよう。今後はその子と逢う場合、そして遺体の発見にも立ち会わせて欲しい」
 突然どうしたんだ? 思いながらも私は、「あぁ……そうするよ」と戸惑いながら答える。そしてそれを見た荼枳尼さんは、またしても和服の袖で口元を覆い、うふふと笑う。
 そこに、トイレから戻った垂水さんが部屋のドアを開けて入って来た。
「おぉ、さぶいなぁ。コンクリートの床や壁ってのは、底冷えする寒さだな」
 そう言って私の横へと座る垂水さんに、「流人が協力してくれるそうです」と告げると、「おぉ、そうか」と、まるでなんの感動も無さそうな声で返した。
「それより、ここには結構大勢の人間がたむろってんだな。俺ぁすっかり廃屋のつもりでいたが、最近はこう言う場所で暮らすのが流行ってんのかい? 流石にこんだけ賑やかだと、こう言う場所も怖くはないわなぁ」
 垂水さんは笑いながらお猪口をつまむと、残った酒を一気にぐいと呷った。
 流人と荼枳尼さんが、お互いに顔を見合わせる。そして流人がちょっとだけ眉を吊り上げて見せると、荼枳尼さんはゆっくりと頷き、そして垂水さんに向かって言った。
「申し訳ないのですが、ここには私と弟しか住んでおりませんよ」
「……あぁ、どう言うこった?」
「ですから、ここには私達二人しか住んでおりません。他の人間など、どこにもいない筈ですよ」
「え……いや、だって……トイレの行き帰りにあちこちに……ちゅーか、トイレにも二、三人程……」
「へぇ、珍しいね。ダキニ以外にも“視える”人っているもんなんだ。凄いねぇ」
 言われて垂水さんの表情が変わった。赤ら顔から、蒼白へと――だ。
 時計を見れば、既に午前の二時半。流人が呟く、「ちょうど丑三つ時だしねぇ」と言う台詞がやけに耳に残った。

 *

「発見しましたーっ!」
 地中よりそんな声が聞こえる。
 同時に、周囲からどよめきが上がる。
 東京都桧原村の、村道より大きく外れた山中。滅多に人も通らないだろうなと思える、未舗装の林道からも少し離れた場所だった。
 まず、腕か脚かの太い骨が。それからいくつかの細かいものが上がり、ようやく頭蓋骨が表へと出て来て、誰もが安堵とも落胆ともつかない溜め息を吐いた。
「なるほど。本当だねぇ」
 私の横でそんなのんきな台詞を呟くのは、今日の遺体発掘作業に立ち会った、乾流人。この前逢った時と全く同じ黒の上下で、更に黒のダウンジャケットを羽織っているせいで、全身が真っ黒に見える。
「あれが――彼女かな?」
 流人の視線の先には、複数の私服警察官に取り囲まれるようにしてやって来た、瀬沼梢の姿があった。
「ちょっと暗い感じがするけど、思ったより可愛い子だね」
「容姿はどうでもいいだろう」
 遠くで、「間違いありません」と、瀬沼梢が頷いたのが見えた。更に地中を指差して、まだ何かをボソボソと説明していた。
「おい、もっと掘れ!」
 誰かがそんな指示をする。そしてしばらくすると、地中からまた一つ何かが上がる。それは恐らく凶器となったものだろう、ナイロン製の袋の中に包まれるようにして収まった、包丁が発見された。
 瞬間、振り返り、そして彼女は微笑んだ。
 まるで悪魔の笑みだな。私は胸中でそんな事を思った。
「どうでもいいけど、彼女って拘束されるべき人間な訳?」
 再び警察官に取り囲まれて退場する瀬沼梢を眺めながら、流人は言った。
「いいや、拘束力は無いよ。――だが、かなり貴重な証言者だ。本人の希望もあって、警察が保護しているんだよ」
「へぇ、なるほどね」
 流人は、遺体の出た穴の方へと歩き出す。
 先日は気が付かなかったが、どうやら彼は右の足が悪いらしい。細身のステッキを使いながら、そちらの足を庇うようにして歩く。
「手を貸そうか?」
 親切で言ったのだが、「平気だよ」と一蹴し、彼は足元危ういその林の中をすいすいと進んで行く。
「こんにちわー、ちょっとお話しいいですかー?」
 流人が声を掛けたのは、案の定、陣頭指揮をしている垂水さんだった。
「あぁ? ……おう、アンタか」
 垂水さんはそんな流人の顔を見て、不機嫌そうな声で返す。
 もちろん彼は流人の事を歓迎はしていないが、嫌ってもいない。嫌っているなら返事もしない事を私は知っているからだ。
「今、遺体の下から包丁が掘り出されましたよね? やっぱりあれって、彼女の供述ですか?」
「あぁ、まぁ、そんな感じだな」
「この穴も、ピンポイントで当てた?」
「ピンポイント?」
 垂水さんが聞き返すので、「彼女の供述から、たった一回で遺体の場所を当てたのかって聞いてます」と、フォローする。
「あぁ、たった一回だ。迷う事なくこの場所を指して、見事に当てた」
「ふぅーん」
 流人は自らの唇を撫でながら、周囲を見回した。私も同じようにして周りを見回すが、どちらの方向を見ても陰鬱とした真冬の森林の姿があるだけだ。
「目印は?」
 流人が聞く。そしてオウム返しに、「目印ぃ!?」と、垂水さんが聞き返す。
「つまり、遺体の埋まっていた場所に目印らしきものはありましたかって聞いてます」
 私が再びフォローすると、「あぁ、そう言う意味ね」と、垂水さんは納得する。
「目印なら確かにあった。ホレ、そこに」
 そうして指差された先にあったのは、黒くぬめっているかのような大きな岩。その表面に、元は白い塗料だったのだろう大きな丸が描かれてあった。
「――これが?」
「そう、それが目印らしい。それと同じもんが林道の入り口にもあるぞ」
 言われて、私が動いた。林道に一番近かったのは私だからだ。
 落ち葉を踏み、枯れ枝を踏み、そして林道へと舞い戻ると、辺りを探る。
 それはすぐに見付かった。道の反対側に鎮座している岩の肌に、風化して色褪せた丸のペイントが施されているのを。
「あったー?」
 流人に呼ばれ、私は大きく頷く。すると流人は「丸の真ん前に立って」と、私に指示する。
「立ったぞ」
 そう返せば、向こうでは流人が私と同じ事をしていた。そう、彼は彼で向こう側の白い丸の前に立っていたのだ。そして――。
「あぁ……直線なのか」
 私は呟く。遺体が埋まっていた穴は、まさに私と流人との直線上にあった。
 私が近付くと、流人は岩の前から穴へと向かって歩き始めた所だった。
「一……二……三。あぁ、いや。女性ならばもっと歩幅は小さいな」
 言いながら岩の前へと戻り、再び歩き始める。そして流人が穴の前まで歩いて行って立ち止まれば、「五歩だ」と独り言を呟く。
「必要な情報なのかい?」
 聞けば流人は、「当たり前さ」と、当然のように返して来る。
 そしてそれをポケットから取り出した手帳とペン――私のものなのだが――にメモすると、今度は林道の方へと歩き出す。
「どこへ行くつもりなんだい」
「向こう」
 返事はするが、やたらと素っ気ない。仕方なく私は彼の後について行けば、今度は林道へと出た途端、流人は後ろ歩きを始めた。
「こんな場所でマイケル・ジャクソンの真似か?」
 私が聞くと、「それはどう言う意味だ?」と返って来る。
「つまり、ムーンウォークの練習かと聞いているんだが」
「月を歩く練習だって? どうにも君の話題は難解だな、粕谷探偵」
「ようやく理解出来たよ。君は恐ろしく世間の情報には疎いみたいだね」
 私も彼に付き合って、後ろ歩きをしながら並走を始める。
「あぁ……まぁそれは大体合っている。僕はインターネット以外での諜報活動はしていないからね」
「テレビは? 観ないのかい?」
「観ない。いやむしろ、テレビを情報源と認識する事自体が好きじゃない。言い出したらキリがないのでやめておくが、出来れば僕の前ではテレビ推進派な意見は出さないで欲しいね」
「訳が判らない。あんなに沢山積んであったのにかい?」
「あれはただ積んでいるだけだ。テレビと言う存在の利点は、受信を行わない前提でこそ話し合えるものだと――あぁ、本当にやめておこう。こう言う話題は実に下品で無益なものにしか思えないから」
「了解」
 そんな事を話している内に、ようやく流人の探していたものが見付かったらしい、一本の木の幹を指差して、「一つ目発見」とそう言った。
「何が?」
「あれさ、あれ。木の幹に付いたバツの目印」
「あぁ、確かに」
 確かにそれはあった。石かナイフか、恐らくはそんなもので傷を付けたのだろう、人間の肩の辺りの高さに大きな印が彫られている。但しその傷は黒ずんでいて、かなり年月を伺わせる。
「――古いね。恐らくは、当時に付けられたものに見える」
「うん、そんな感じがするね」
「もっと行こう」
 そして流人は再び後ろ歩きを始める。そしてようやくその奇行の意味が判った。つまりはそれと同じ目印を探す為、常に山側を向いて歩いていると言う訳らしい。
「君、足は大丈夫なのかい? 見た所、随分と庇って歩いているみたいだけど」
「平気さ。――あぁ、ホラ。二つ目発見」
 言われて私は流人の指差す方を見る。
「え?」
「意味、判る?」
「あぁ、なるほどねぇ」
 私もその傷の意味がようやく判った。そしてそれと同じ傷は、その後に二つ見付かった。
「どれも進行方向左側だね」
「確かにね」
 言った所で、道の上側から車が一台降りて来た。私と流人はそれを避け、車を通す。そして私は、後部座席に座る瀬沼梢の横顔を見送った。

 *

「ではこれ……梢に」
 そう言って差し出されたバッグを、「お預かりします」と、垂水さんは受け取った。
 そこは、瀬沼家の玄関口。瀬沼梢が母親と一緒に住んでいる自宅だった。
「では」
 そう言って立ち去ろうとした垂水さんに、「あの」と、瀬沼愛子は問い掛ける。
「はい、なんでしょう?」
 瀬沼愛子は見た目にも明るいとは言えない、染みついた陰気さを兼ね備えているような女性だった。
 着る服はそれなりに小奇麗で上品そうだったが、その中身から滲み出る“陰”は、どうにも隠す事は出来そうになかった。
「あの……梢はまだ帰れないのでしょうか」
 聞かれて垂水さんは、「まだしばらくは事情聴取と言う形で預からせて頂きます」と、嘘を言う。
「そうですか――」
 尚も何かを聞きたそうにしていたが、やがて諦め、「余計な事はしゃべらずに、早く帰って来れるようにしなさいと伝えて下さい」と、愛子は言った。
「承知しました」
 瀬沼愛子は、我々が立ち去るまでずっと玄関口でこちらを睨んでいた。
「全く……いつもあぁなんだよ」
 私が言うと、「そりゃあ、あんなもんでしょ」と、流人は素っ気なく返した。
 そして垂水さんを車に乗せたまま、私は自分のオフィスへと向かった。
 オフィスは、小汚く饐えた匂いの漂う繁華街の隅。日中はチンピラかヤクザ、朝帰りのホステスや酔っ払い。そして私のような胡散臭い人間しか出歩く事のないような場所にあった。
 それは六階建ての貸しビル。一階と二階が場末のスロット屋で、三、四、五階が飲み屋の連なる貸し物件。最上階は風俗店とサラ金。そして私のオフィスはそんなカオスの三階に位置しているのだが、別にスナックやらぼったくりバーと隣接している訳ではない。むしろ行きたくても、おいそれと行けない場所にオフィスは存在している。
 ビルの表を素通りして路地を曲がり、裏の狭く汚い管理人者駐車場を更に抜け、裏口のフェンスのドアを開けて非常階段を三階まで昇り、隣接したビルとの隙間の暗がりに隠れるようにしてそれはある。
 オフィスの名前は、滝本探偵事務所。――あぁ、私の苗字とオフィスの名前とが違うのは、あまり気にしないで欲しい。
 今は亡き、私の師匠である滝本昇がどういうコネでこれを借りたのかは知らないが、きっとその内容を知ったならばすぐにでも引っ越しを決めかねないようなせまっ苦しい、陰気な事務所である。
 流人などはそのオフィスの中を覗いて、「どこまでが玄関なの?」と聞くぐらいのものだった。

「最初の犠牲者は、櫻井通明。当時四十三歳、無職。平成の九年に突然行方が判らなくなり、捜索願も出されている」
「うんうん」
「――で、遺体が見付かったのが今から三週間前。町田市にある大型スーパーの駐車場の一角から発見される」
「へぇ、駐車場ねぇ」
「最初は誰も取り合わなかった。なにしろ相手は女子中学生だ。しかもアスファルトの敷き詰まった駐車場の下……って事は、そこを壊して掘り返さなきゃならないからね」
「あぁー、そうだろうねぇ」
「なんなんだお前は、その態度」
 堪らず垂水さんが口を挟む。だが流人は机に突っ伏したまま動こうともしない。
「いやぁ、久し振りに都会へ来ると疲れるんですよ。なんかもうぐったりで」
 とりあえず一連の事件の概要を流人に話して聞かせようとしたのだが、本人はどうにもこんな感じで気の抜けたものになっている。
「そんなに疲れるような事したかなぁ。ただ、現場検証に付き合っただけだろう」
 聞けば流人は、「しょうがないじゃない。普段なら寝ている時間に働いたんだから」と返して来る。
「何言ってんだお前。普段はいつ寝てるんだ」
 垂水さんが聞くと、「一般人と全く逆」と答える。
「夜に起き出し、翌日の昼頃に寝てるんだ。完全に昼夜逆転の生活なんだよ」
「なるほど。だから最初に逢った時も夜中だったし、姉の荼枳尼さんもあの時間に“おはよう”と言ったのか」
 聞くと流人は、「まぁ、そんな感じ」と答える。
「じゃあ、今日はやめとく? 続きは明日にしようか」
「いや、聞いてるから続けて」
 流人は外した眼鏡をテーブルの隅に置き、腕を枕に目まで瞑りながらそう返す。とても「続けて」と言う態度には思えない。
「じゃあとりあえず続けよう。二人目の名前は相葉久志、自称ミュージシャン。当時は三十四歳で、被害者の中では一番若い。彼の遺体は廃工場の敷地内にある、下水のマンホールの中に遺棄されていた」
「うんうん」
「そうして先日の三人目だ。松本康介、四十二歳、自営業。遺体は見たまんま――」
「あぁ、そいつはいいや」
「じゃあ、何か質問は?」
「一人目の櫻井って奴ね」流人は億劫そうに立てた指を持ち上げながら言った。
「そこの近く、埋められてた場所には大きな建物とかある? そして二人目の遺体があった廃工場って何作ってたの? そして三人の繋がりは? 友人? 知人? それとも面識無しの赤の他人?」
「いっぺんに言うなよ。とりあえず最初のからな――。えぇと」私は手帳を開く。
「大きな建物……か。曖昧過ぎて良く判らないけど、確かにまぁそれなりに高いのはあったなぁ。六階建てぐらいのマンションとか、駅近くの雑居ビルなんかもなかなか高かったし」
「そう言うレベルのものじゃなくてさぁ、なんかこうスカイツリーとか、凱旋門とか、そう言う規模で」
「君、なんか無茶苦茶言ってない?」
「じゃあ次。二人目の遺体が見付かった廃工場。前は何やってたの?」
「あぁ、それは判るね。えぇと――工業用機械だ。工業用の機械を作る、工業の工場だな」
「ややこしいね。それで、そこは創業何年ぐらい?」
「それは調べてないな。まぁ、必要なら調べるけど……なんでまたそんな事を?」
「古かった?」
 またしてもかなり端折った質問をする。私が、「何が?」と聞き返せば、「工場だよ」と返事をする。
「粕谷探偵の目から見て、どれぐらい古そうだった? 建屋は立派? 敷地はコンクリート敷き? 規模はどれぐらい?」
「えぇと……かなり古いね。イメージ的には会社の発展と同時に建て増し建て増しと、増設された感があったな。なんだか昭和の経済成長期みたいな建物に見えた。敷地は、一応はコンクリート敷きなんだけど、直に土の地面だった場所も多かったね。あれだけ大きな敷地なんだから、しょうがないと言えばしょうがないんだろうけど」
「良く判った」流人は言う。
「じゃあ、三人の繋がりは? どう言う関係?」
「それが今一つなんだが……」私は言い淀む。
「知り合いである事ぐらいしか定かではない。一緒に酒を飲んでいる姿を見掛けたって言う証言は得られたんだが、なんかもうそれ以上でもないしね。雰囲気としては、たまに会って話す程度の知人。そう見えたらしいよ」
「ふぅん……」
「だが、その三人に共通する部分はある。普段からの素行が良くない。仕事が不真面目――無職な奴もいるがね。つまりはどこにでもいるヨタものさ。苦労しないで遊んで暮らしたいって感じの連中ばかりだ」
「なーるほど」
 言いながら起きたかと思えば、流人は背伸びをして大きな欠伸をする。
「おい、カス。本当にこいつは役に立つのかい?」
 トマトジュースをちびりちびりとやりながら、垂水さんは愚痴った。
「ねぇねぇ、あの子とは逢えない? ちょっとだけ話聞きたいんだけど」
 流人は垂水さんに向かって聞く。
「あの子って、自称重要参考人か?」
「自称なのか。面白い子だねぇ。――で、その子なんだけど逢える?」
「聞いてみないと判らない。まぁ、難しいと思うけどな」
 そう言いながら垂水さんは携帯電話を取り出して、どこかへと繋げる。
 同時に私は、彼女――瀬沼梢の顔を思い浮かべる。大人びた、そしてどこか冷酷な眼差しで人を見るあの子供の事を。
「あぁ、俺だ。――いや、そうじゃないんだが」垂水さんは会話しながら、時々ちらりと私を見る。どうやら本音では、流人と瀬沼梢を会わせたくはないように見える。
「あぁ、そう。あの子と面会出来るかどうか聞きたかった……あぁいや、俺じゃあないんだ。だから無理なら無理でも……あ、聞いてくれる? そうか」
 相変わらず判りやすい人だなと私は思った。そして流人は全くどうでもよさそうに、寝たふりをしている。
「え……いいって? ホントにか? いや、あの子無理してるんじゃあ……あ、え、そうか。判った」
 残念ながら交渉は成功に終わったらしい。垂水さんは仏頂面で、「いいってよ」と流人に言うと、彼は彼で非常に面倒臭いと言った感じで、「あぁ、そうなの?」と返事をする。
 どうにもギスギスした関係だな。私はこれからの展開を案じ、深い溜め息を吐いた。

 *

「あら、探偵さん。こんにちは」
 イブニングドレス姿の瀬沼梢は、私の顔を見るなりそう言った。
 背は低いクセに、少しだけ仰け反って上から見下すような恰好で話す。いつもの彼女の癖だった。
 艶めかしく右手で髪をかき上げる。右の耳だけにぶら下がった大きな黒いピアスが、やけに派手に見える。
「今日の面会は、あなただったのね。そうならそうと言ってくれれば良かったのに。それならもうちょっと念入りに化粧するべきだったわ」
 ビジネスホテルの一室。警護に当たっている私服警察官以外に、大人三人が踏み込むには少々窮屈に感じられる程度の広さの部屋だった。
「君はまだ化粧をするには早いよ、梢ちゃん」
 私が言うと、「早い遅いの問題じゃないわ」と、ベッドに腰掛けながら微笑む。
「女にとっての化粧は、服を着替えるのと同じ事なのよ? もしもすっぴんのままで人と逢うと言うのなら、それは丸裸で逢うのと同じぐらい恥ずかしい事なの」
「ふぅん、でも残念ながら、男としてみればそっちの方が好きなんだけどね」
「あらそれってどっちの意味? すっぴん? それとも丸裸の方が好きなのかしら?」
「どっちか選べと言うのなら両方だね。邪魔なものが一切付いていない女性に敵うものなんかない」
「いい加減にしろ、カス。既に青少年保護条例違反だぞ」
「こりゃあすいません」
 私は垂水さんに会釈をしながら引っ込んだ。そして彼女に背を向けるようにして立っている警護の若い刑事に、「手を出したら犯罪だってさ」と、こっそり耳打ちする。
「――はい」
 顔を赤らめながら、消え入りそうな小さな声で若い刑事は言う。どうやら彼もまた、彼女の悪癖に相当手を焼いただろう想像がついた。
「ところで今日はどんなご用件? ――あら、なんだか今日は見た事のない方もいらっしゃるのね」
 梢が言うと、流人はステッキを突きながら彼女の前に進み出る。
「どうもこんにちは。粕谷探偵の助手をしております、ルジンと申します」
「ルジン? もしかして外国の方かしら?」
「えぇ、まぁ、もしかしたらそうかも知れませんね。どうぞお見知りおきを」
 そう言って流人は右手を差し出す。そして梢はそれを握り返しながら、「随分とお若い探偵助手さんですのね」と、笑った。それを見ながら私は、中学生に若いと言われるのもどうなんだろうと思った。
「もしかして、本日の取り調べはあなたが行うのかしら?」
 梢は脚を組み替えながら、挑発的な眼差しで流人に聞く。
「取り調べではありませんが、お話しを聞かせてもらえたらなとは思っておりますが」
 流人は向こうにある椅子を引っ張って来て、梢の方に椅子の背を向け、逆向きに座る。
「いいわね。私、取り調べ大好きなの。あなたはどんなふうに私を責め立てて来るのかしら」
「責めるだなんてとんでもない。僕はただ、今日びの女子中学生とお話しがしたいだけですよ」
「あらそう、若く見積もってくれて嬉しいわ。残念ながら、中身は結構なおばちゃんなんだけど」
 妙な空気だなと、私は苦笑いした。垂水さんなどはもっと嫌気がさしているらしく、何度も咳払いをしながら遠回しに流人をいさめていたが、全く通じていそうになかった。
「瀬沼、梢ちゃん……で、いいんですかね?」
 流人が聞くと、「まぁ、それでもいいんですが」と、梢は答える。
「出来れば“中身”の方で呼んでいただきたいのですがね。――近衛文香、と」
「へぇ、近衛さん……ですか。失礼ですが年齢は?」
「そうねぇ。空白の時間も数えたとして、今年で三十九かしら。嫌ねぇ、歳を取るのって」
 言いながら瀬沼梢は苦笑した。いつもの事だが、彼女は自分が“近衛文香”と言う女性の生まれ変わりだと主張してはばからない。
「へぇ、それじゃああなたはいつから近衛さんなんですか?」
「いつからって……多分ずっとよ。ただつい最近までそれを忘れていただけ。ようやく思い出したの。私は“近衛文香”だって」
 ちなみに“近衛文香”と言う女性は、確かに実在していた。ほとんど彼女の証言から割り出されたものだったが、間違いなく彼女が言っていた場所に住んでいた。――だがそれはもう既に十五年も前の話であり、そして近衛文香と言う人物が“まだ生きていた”時代の話ではあるのだが。
「じゃあちょっと意地悪な質問。――あなたが最近になって自分が近衛さんだったと思い出したとして、それまでにその身体の中にいた瀬沼梢ちゃんはどこに行っちゃったんですかね? もしかして思い出した瞬間に消滅しちゃったとか?」
「まさか!」瀬沼梢は笑った。
「生きてますよ。それもちゃぁんと私自身ですもの。――うぅん、なんて言ったらいいのかなぁ。瀬沼梢として生きて来た十四年間はまさしく瀬沼梢と言う独自の人格だったんだけど、それはあくまで私“近衛文香”と言う人間の人格の上に塗り重ねていた……って感じ? 今でもちゃんと瀬沼梢の意識はあるし、演じようと思えば中学生の振りだって出来るわ。だからね、今はどっちも私なの。近衛文香と瀬沼梢、どっちも併せて私と言う人格なのね」
「へええええ」
 わざとらしく流人は驚いてみせる。こいつって結構嫌な性格しているなと、私は思った。
「あら、もしかしてあなた信じていなかったりするのかしら?」
 瀬沼梢が反撃に転じると、流人はすかさず両手を挙げて、「とんでもありません」と誤魔化す。
「師匠から見せていただいた資料を見ても、あなたが嘘を言っているだろう部分なんか一つも無い。間違いなく、あなたが近衛文香さん本人だと確信出来ます」
「なるほど、よぉく判ったわ。結構意地悪ですのね、ルジンさんは」
「えっと……どこの部分を指して?」
「事前に資料を読んでいるのに、私にもう一度同じ質問をする事ですよ。もしかして何か失言するのを期待していたのかしら?」
「とんでもないです。いやぁ、まいったなぁ」
 流人はそう言いながら頭を掻く。へぇ、こいつでもこう言ううろたえ方はするんだなと感心しながら、私はそれを見ていた。
「それで……ようやく本題へと移りますが、よろしいでしょうか?」
「えぇ、どうぞ」
 瀬沼梢がさらりと返すと、流人は大真面目な表情で、「どうして彼等を殺したんです?」と質問した。
 だが、彼女は答えない。澄ました顔で流人を見つめるだけ。この辺りもいつもと同じ、この質問になるとどうしても彼女は答えてはくれないのだ。
「もしかして、言えない理由がある?」
「えぇ、そうかも知れませんねぇ」
「それはあなたの脅威に繋がるかな?」
「さぁ、どうでしょうね」
「でもあなたは、その一連の殺人事件の証言と引き換えに、身柄の安全を要求した。――これは普通に考えたら、あなたは何かから守って欲しい。そう思っての交換条件だったのでは?」
「面白いですねぇ。それもいいかも知れませんねぇ」
 流人は唇の端を歪め、肩をすくめた。どうやら彼も、彼女の事は苦手らしい。無言のまま椅子をガタガタと揺らし、ゆっくりと方向転換するようにソッポを向きはじめた。
「そうむくれないで下さいな、ルジンさん。――あぁ、それから粕谷さん」
 私? 突然に呼ばれ、私は自らの顔を指差した。
「今の件については、まだ話せない理由があるんです。全ての遺体が発見されたら、ちゃんとお話しします。なのでもう少しだけお待ちいただけますか」
「えぇ、まぁ、そう言う事なら」
 私が代わりに答える。流人は何も言わなかったが、垂水さんは私の背中を拳で叩き、無言の圧力を掛けて来た。勝手な承諾をするなと言う意味だろう。
「じゃあ、今日はここまでにしておこうか。近衛さん、失礼しましたね」
 垂水さんが立ち上がる。ついでに私のコートの襟まで掴んでいるせいで、私まで一緒になって立ち上がる。
「あら、もっとゆっくりしてくれればいいのに。どうせ私なんて外にも出られないし、退屈この上ないから、話し相手になってくれたら嬉しいんだけどなぁ」
「いやいや、目一杯ご遠慮させて頂きます。――おい、しっかり警護せいよ」
 最後の言葉は、見張り役の警察官に向かって放たれた言葉だった。
 流人もまた渋々と立ち上がる。ステッキを取りながらひょこひょこと私の後に付いて来て、部屋のドアを閉めた所で早速聞いて来た。
「なにかあったの、あの二人?」
「――いや、今の所は何も無さそうだけどね」
 私は苦笑しながらそう言った。
「あの娘っこ、警護の人間を片っ端からたぶらかそうとするんだよ。先日までいた警護の人間は、もうちょっとで手を出しそうって所で見付かって、警護から外された」
 垂水さんがそう言うと、「ありゃま、その人どうなったの?」と、流人は面白そうに聞く。
「自宅謹慎。多分、降格か懲戒免職だな。――なんでみんなビビってんだよ。あの娘っこの警護って仕事をな」
「とことん面白い子だねぇ」
 その通りだよ。おかげで私も彼女に逢う度に犯罪者にされそうになる……とは言わずにおいた。

 *

「おいルジン、そろそろ起きろ」
 私は事務所の中の住居部分であるロフトから、梯子を伝って降りながらそう言った。
 流人は応接室兼簡易ベッドでもある長椅子で、毛布に包まりながら寝ていた。私は彼にウィークリーマンションを勧めたのだが、どうやらそう言う場所に寝泊まりするつもりは全くないらしい。二日前にこちらへと移動して来て以来、ずっとここに住みついている。
 独りでさえ狭いのに、二人じゃあかなわないな。思いながらそっと梯子を降りると、椅子の後ろを迂回しながら、シャワー室兼用のトイレへと向かう。
 私は自分自身の事をかなりの鈍感だと思い込んではいたが、実際はそうでもなかったらしい。流人の真夜中の奇妙な行動に、寝不足気味な毎日が続いている。
 部屋へと戻るとエアコンの電源を入れ、コーヒーメーカーのポットに水を注ぐ。冷蔵庫に何かあるかと期待もせずに探れば、玉子が三つにしおれかけたキャベツが半玉。そして三つパックのベーコンの最後の一パックが見付かった。
 これで充分だなと思いながら、手早く調理を始める。玉子は私と同様、ハードボイルドに。キャベツは適当に手で引き千切り、電子レンジへ。そしてベーコンは生食用にした。
 トースターにパンを放り込む頃、珈琲のいい香りが漂い出して来る。うん、一日の朝はこうでなくちゃと思いながら食器を用意していると、うぅんと唸りながら流人がのそりと身を起こした。
「呆れたな。またその恰好のまま寝たのかい?」
 聞けば、いつもと同じ黒のタートルネックとスラックス姿の流人は、「何か問題でも?」と言わんばかりに首を傾げてみせる。
 こっちでの滞在は少し長引くかも知れないと事前に言っておいたにも関わらず、長野から電車を乗り継いでやって来た流人は、全くの手ぶらだった。――いや、ただ一つ、愛用のステッキだけは持ってはいたが。
 驚くべきはその持ち物の少なさだ。彼が身に付けているものの中で“持ち物”と呼べるものは、一枚のクレジットカードと数枚の紙幣が入っただけの薄っぺらい財布。そして喫煙者でもないのに持ち歩いているオイルライター。と、たったそれだけ。
「君は鍵も持たないのか?」と昨日、私が聞いた時にも、「あの住処に鍵は必要?」と切り返されて私は黙った。まぁそれぐらい、彼は変わり者だと言う事なのだろう。
 少しだけ焦げたトーストにバターを塗り、流人に手渡す。とりあえず大きな好き嫌いはないらしい。こちらに来てからと言うもの、彼は出されたものならば何も文句も言わずに食べた。――もっとも、何を食べてもそれを褒めもしないが。
「粕谷探偵。今日のご予定は?」
 聞かれて私は、「現場検証のつもりだが、どこか行きたい場所はあるかい?」と聞き返せば、「オーケー」と、またしてもどこか端折った感のある返事がかえる。
「ところで、君のお姉さんは大丈夫なのかい? 私が知る限りでは、君があそこにいない限り、あの廃屋には――おっと失礼。あの自宅には彼女一人だけと言う事になると思うんだが」
「あぁ、廃墟って呼んでくれていいよ。それで間違いはないし。それに彼女が一人でいる事に、なにか不安でもあるのかな? 僕にはその辺が良く判らないけど」
「いや、だって……あのだだっ広い寂しい場所に一人きりって事だろう? 一人でいる方も、一人にさせている方も、心配じゃないかなぁと」
「うぅん、余計に判らない。粕谷探偵も見た所この事務所に一人きりって感じだけど、それと何か違う部分でもあるのかい?」
「いや、全然違うだろう。ここは凄く狭いし、何より怖くない」
 最後の“怖くない”と言う部分は、少しだけトーンが落ちた。
「いや、同じじゃないかな。僕達だって住居に当てている部分はさほど大きくはない。それにここが怖いかどうかなんて、どこの何が基準なのかが判らない。僕にしてみれば知らない人が大勢うろつくこの辺りの方がずっと怖いように思えるけど」
「そうじゃなくてさ、ルジン。うぅん、何て言ったらいいんだろうか。――ちょっとだけ失礼な言い方になると思うが、そこは勘弁して欲しいんだけどさ」
「どうぞ、お気になさらず」
「君と彼女の住んでいる場所は、なんと言うか……人が大勢亡くなっているだろう場所じゃないか」
「――うん、それで?」
「人が多く亡くなっていると言う事は、やはりそれなりに人としては禁忌に近い場所でもあるとは――思えないかい?」
「そんな事を言ったら、世界中の医者や看護師を敵に回すと思うけどね。それに今いるこの場所だって、戦争の大空襲に巻き込まれて死体の山になっていたかも知れない」
「そうじゃなくて、あぁもう、なんて言ったら伝わるんだろう。大体、人が住まなくなって久しい廃屋ってものは、ただそれだけで呪われた場所のように……」
「思っちゃう訳だ? メルヘンだねぇ、粕谷探偵。君の小説の作風の原点は、君のそのジュブナイルな少年の心の中にあるんだろうね、きっと」
 やめた! 私は両手を広げて降参のポーズを取り、珈琲のマグカップを手に取った。
「ともかく、老婆心ながら心配させてもらうけど、日に一度ぐらいは家に電話を入れて様子を伺いなさい。お姉さんが突然の怪我や病気で動けなくなっているなんて事だってあるかも知れないんだから」
「あぁやだなぁ、粕谷探偵。僕はその“老婆心ながら”って言葉が大嫌いなんだ。そういう言葉を使って会話をする奴に限って、相手を格下に見ながら自分の勝手な判断を押し付けようとする――」
「いや、判った判った。今のは撤回する。でもとりあえず、電話ぐらい入れてくれよ。もしも彼女に何かあったら、私こそ責任を感じなければならない」
「粕谷探偵、責任は感じるものではなく、取るものですよ。それに――」
「それに、何?」
 私は憂鬱になりながら聞く。
「ウチには電話はないんですよ」
 カップの珈琲を一気に飲み干す。いつもと同じブレンドの筈なのに、何故か今日のはやけに苦く不味かった。

 *

 愛車のビートルを駆って町田市の外れまで辿り着いたのは、もう既に昼近い時刻だった。
 私が運転をしている間、流人はその助手席でずっと眠っていた。そりゃあそうだろう、昨夜もその前の夜も、彼は夜通しテレビを観ていたのだから。
 そう、私の寝不足の原因はそれだ。真っ暗な部屋の中で、延々流されていたテレビの音と光のせいなのだ。
 駐車場の隅、腹立たしげに車を停めると、「着いたぞ」と、少々大きな声で私は言った。
「うん……早いね。もっとゆっくりでも良かったのに」
 渋滞含めて二時間半も掛かったんだぞと、出掛かった言葉を飲み込んだ。私は車のエンジンを切って、勢い良くドアを開ける。流人は突然流れ込んで来た冷気に顔をしかめながら、渋々とリクライニングを上げていた。
「ここはどこ?」
「最初の遺体、櫻井通明と言う被害者が眠っていた場所さ」
 言いながら私はポケットから粒状のミントキャンディを取り出し、口に含む。ここでキザに煙草でも吹かせればいかにもハードボイルドな探偵が気取れるのだろうが、体質的に煙草は合わないらしい。何度か吸った試しはあるのだが、その度にむせ返りながら後悔するはめになるのだ。
「場所は……あぁ、あれだね」
 流人は勝手に解釈をして近寄って行く。だがもちろん間違ってはいない。なにしろこの無駄に広く大きい駐車場の中、ブルーシートに囲まれて立ち入り禁止のテープが張り巡らされている一画があるのだ。判らない方がおかしい。
「入っていいんだよね?」
「あぁ、許可は取って……」
 言い終わる前に流人は素手でテープを引き千切った。避けて入るとか出来ないものかなと思いながら付いて行くと、彼はブルーシートの端をめくってスルリと中へと滑り込む。
 私もその後へと続いて入って行けば、流人は私に背を向けながら、「うそつき」とボソリと呟いた。
「うそつきって、何が?」
「目印、あるじゃん。しかも掘り返した穴の真ん前に」
 あぁ、そう言えば先日、この現場近くに目立つものがないかと聞かれた記憶があった。
「いや、でも君は確か、“大きな建物”と言った筈だけど」
 私は言う。――そう、そこにあるのは大きな建物などではない。むしろこぢんまりとした一本の柳の木。幹の真ん中辺りにしめなわが張られている以外、特に変わった様子のない木だ。
「判ってないね、粕谷探偵。見るべきものはこの前の現場検証で理解してくれたものだと思ったのに」
 そう言って流人は再びブルーシートの端をめくる。そうしてまたボソリと、彼は何かを呟いた。
「――富士山だ。こんな場所から」
「え? あぁ、ホントだね。都心じゃああまり見られないけど、関東地方では富士山が見える場所は結構多いんだよ。そして見られる場所ってのは大抵、地名が富士見とかそう言う……」
「ちょっとどいて」
 流人は私を押しのける。そして急いで向こう側の柳の木へと向かうと、流人はその前に立って私に叫んだ。
「粕谷探偵。そこめくって!」
「え、めくってって?」
「シートだよ、シート! そこを大きくめくって、僕からも見えるようにして!」
 言われて私は急いでそれに従った。両手でシートの端をめくり上げ、彼の方から外が見えるようにする。
「やっぱり」
「えっ、やっぱりって?」
 言うと流人は私を指差す。
「私が……何か?」
 聞けば流人は何も答えず首を横に振る。そしてもう一度、私に向かって指を差す。二度も三度も、私を突くような振りで。
 あぁ――私ではなく――。
 後ろか? 思い付いて、私は振り向く。そして目に留まる真っ白な富士山の雄姿。そしてもう一度彼の方へと振り向けば――。
「あぁ、また一直線だ」
 私が言うと、流人は頷く。遺体が埋まっていた穴は、柳の木と富士山を直線で結んだその線上にあったのだ。
「ねぇ、粕谷探偵。この木って、大昔からここにあったのかな?」
 流人は木の前から穴へと向かって歩きながらそう聞いて来た。
「あぁ、多分ね。なんでもその木って、“幽霊柳”って呼ばれているらしくてさ。祟りとか呪いを恐れて今までに誰もそれを切ろうとはしなかったみたいだよ」
「なるほど、だからこんな駐車場の一画に、これだけがポツンと浮きながら存在していられた訳だ。――えぇと、木から七歩って所だな」
「前回の現場と同じだね。一体どう言う関係が?」
「さぁねぇ」
「もう君は判っているんだろう? 教えてくれたっていいじゃないか」
「いや、まだ推測でしかないよ。ただ、これで両方共“不可能ではない”って事が証明出来た訳だ」
「だから何が!?」
「さぁねぇ」
 流人は素っ気ない返事をしながら、私のめくっているブルーシートの端から出て行き、さっさと車に乗り込んでしまう。そして私は苛々としながらシートを元に戻し、そして流人の千切ったテープの端を結び上げ、車へと戻った。
「うわ、なんだこりゃ!」
 車のドアを開けた私は、そう怒鳴った。
 なにしろ、車の中には騒音が満ちていたからだ。
 ジュピピピピピ――ピュゥウウウゥゥ――ガグガグガガガ――
 そう、それは車に搭載しているラジオのノイズ。本当は合っていた筈のチューニングを、流人はわざと狂わせているのだろう。一番酷い騒音が流れ出る辺りでそれを止め、今度はボリュームを調整し出す。
「なにやってんだよ、ルジン!」
 私が騒音に負けないような大声でそう聞くと、「聞こえなーい」と彼はのんきな返事をかえす。
「止めてくれ! うるさくて敵わない!」
「じゃあちょっとだけ絞る」
 それは本当にちょっとだけだった。実際は充分に耳にうるさい。私は自分でボリュームを下げる。出来ればチューニングもどこかのFM放送に合わせたかったのだが、それだけはやめた。
「ちぇっ、それじゃあほとんど何も聞こえないじゃない」
「これぐらいで我慢しろよ。運転の支障になる」
「――了解」
 流人はふて腐れた返事をしながら、リクライニングを倒した。そしてその上にジャンパーを布団代わりに羽織るのを見て、またしても寝るつもりなのだなと私は悟る。
「なぁ、ルジン。寝る前に一つ教えてくれ」
「なぁに?」
「そのラジオのノイズさ。それは一体、君にとってどんな効果があるって言うんだ?」
「あぁ、これ? 簡単に言うとヒーリングって所かな。聞いてると心が休まるじゃん」
「いや、判らない。これは騒音だろう?」
「ノー! 騒音じゃない。無音に勝る静寂さ。仮に無音が秩序ある静寂だとしたら、これは無秩序の中に生まれる静寂なんだ」
「……はぁ」
「例えば僕が無音の中にいるとして、それが本当の静寂かと言えばそうじゃない。僕の中の心音は消す事が出来ないし、音が静かになればなるほど呼吸する音が響き出す。従って秩序ある無音なんて生み出せる筈がないし、もしもあったとしてもそれは非常にもろくて危ういものだ」
「……うぅん、そんなもんかなぁ」
「だが、無秩序の音から生まれる静寂は無敵だ。そこにどんな音を足そうとも、ただ静寂が増幅されるだけの事。――素晴らしいじゃないか。全てを飲み込む無音が文明の利器の中にある。これを利用しない手はない」
 なるほどね。それと同じ理屈で、真夜中に砂の嵐の映像を鑑賞し、騒音を垂れ流している訳か。私はようやく納得が行った。
 そう言えば彼と最初に逢った時も、彼はそんな映像を眺めていたではないか。あの時は垂水さんの言う通りに狂人かとも思ったが、実際はそうでもないらしい。それは彼独自の哲学に基づくリラックス方法だったのだ。
「でも、周囲の人間にとっては迷惑な音でしかないぜ」
 私が言うと、今度は何の反応も示さない。
 ちっ、もう寝やがった。思いながら私はイグニッションキーを押し回す。
 足元の更に前方から、ビートル独特の空冷式エンジンの音が響き出した。

 *

 次の現場は、埼玉県の和光市にあった。
 相葉久志と言う被害者の遺体が見付かった、廃工場である。
「どうだい? こう言う場所を見ると住みたくなって来ないか?」
 皮肉って私が聞くと、「へぇ、粕谷探偵は随分と変わった趣味なんだね」と切り返された。
 夕刻が近付いて来ていた。冬の日暮れは想像以上に早く、まだ午後の四時前だと言うのに廃屋の工場の建屋が、やけに長い影を紡ぎ出していた。
「こりゃあ懐中電灯を持って行った方がいいかなぁ」
 私が車の方を振り向きながらそう言うと、「すぐに済むから平気でしょ」と、流人は言った。
 問題の場所は、敷地のずっと奥。閉鎖されたまま錆び付いて動かなくなってかのような、真っ赤に染まった裏門の扉近くにそれはあった。
「あぁ、あれ?」
 フェンスで囲まれたその中心にあるマンホール。蓋は以前に来た時のまま、開きっ放しになっている。
「そう、あの中にあった」
 そう返しながら、私は周囲を見回した。二度ある事は三度ある。きっとまたどこかに直線であのマンホールを結ぶ、大きな目印がある筈だと――。
「何やってんの、粕谷探偵」
「あぁいや、なんでも……」
 言い掛けた所で、私は目を疑った。今度の流人は、目印など全く探していない。しかも探していないどころか、コンクリートの切れた剥き出しの土の上にしゃがみ込み、素手でその土をほじくり返しながら匂いを嗅いでいる。
「何やってんだ、ルジン?」
 言うと流人は掘った土を掌に乗せ、私の顔の前まで持って来る。
「まさかこれ、食えと……?」
「阿呆か君は。匂いを嗅いでみろと言ってるんだ」
 一言もいってないじゃないか。思いながら言われた通りにしてみるが、嗅いでみても何が何だかわからない。
「これが、何?」
「微かにするだろう? マシンオイルの匂いだよ」
「そりゃあするだろう。この前も言った筈だけど、工業用の機械を作っている工場だったんだ。オイルぐらい普通に使っていた筈だよ」
「いや、問題はそこじゃないんだけどね」
 そう言って流人は手に持った土を投げ出し、適当に手を払って、「じゃあ帰ろうか」とのんきに言った。
「えっ、もういいの?」
「充分だよ。もう現場には用事が無い」
 流人は言葉通り、さっさと現場を後にする。私はそれを追いながら、一体何が判ったと言うんだと首を傾げてみるが――。
「やっぱり何も判らないな」
 そう呟いて、流人の影を追う。少し向こうの方で、流人の突くカツカツと言うステッキの音が工場の中にこだましていた。

 *

 晩飯をドライブスルーで入れるファストフードで済ませ、家路を急いだ。
 空はすっかりと夜に変わり、隙間風の厳しい旧車を操りながら事務所の駐車場へと到着すると、普段私が停めている駐車スペースの真横――簡単に言うと、我が滝本探偵事務所のお客様専用駐車場に、無断駐車をしている車を見付けた。
 真っ赤な4WDのジープチェロキー。なんとなくいけ好かない若いコゾーの運転手姿を想像しつつ、私は猛然と腹が立って来た。
 手を伸ばし、ダッシュボードのドアを開ける。開いたドアが助手席で寝ている流人の膝にぶつかる。流人は流人で私がおそなえしたハンバーガー二つを腹の上から取りこぼしながら、「んあ?」とうめいていた。
「いいから寝てろよ。目的地はまだ遠い」
 いい加減な嘘を言うと、流人は全く疑問にも思っていないような寝ぼけまなこで、「了解」と呟きまた横を向く。
 そして私はその引き出しの中から雑紙と油性ペンを取り出して、殴り付けるようにしてこう書いた。
“無断駐車につき、罰金二十万円の支払いを要求する。滝本探偵事務所、粕谷”
 小さく千切ったガムテープをその四隅に貼り、車を降りる。冷え込みにブルっと身体を震わせながら車のドアをロックして、隣にある四輪駆動車の後部ガラスにその紙を貼った。
「これで良し」
 どうせ明日には丸めて捨てられているのがオチだろうと想像しながら、私は流人を置き去りに事務所マンションの階段を上がる。雑居ビル裏手の非常階段が、やたらと靴音を大きく響かせた。
 鍵を回し、ドアを開け、真っ暗な部屋の壁を手探りしながらスイッチを押す。
 薄暗い照明が灯る事務所の中、私はコートを脱ぎながら衝立の向こうのキッチンの方へと歩き出し――それに気付いた。
 目の前のソファーに腰掛けている、何者かの姿。こちらに背を向けその表情は判らないが、その長い黒髪が女性である事を教えてくれている。
「だっ……誰だ?」
 あぁ情けない。裏返った自らの声に軽蔑をくれてやりながら、私はそっと後ずさる。
「……ふ……ふふ」
 その人物からなのだろう、声が漏れた。笑い声とも泣き声ともつかない、そんな押し殺した声だった。
「どこから入った? もっ、目的は何だ?」
 今度は裏返らずに言えた。ちょっとだけ噛んだ事は置いておいて。
 すっと、そのシルエットが立ち上がる。そして私は息を飲む。長い黒髪に、紺色の和服。――見覚えは、あった。もしもそれが浮遊霊などではなく、実在する人間なのだとしたら。
「もしかして、荼枳尼さん?」
 聞けばその女性はくるりとこちらに振り返り、「ご名答でございます」と、袖で口元を隠しながら笑った。
「えっ、どうしてここに? いつから? しかもどうやって?」
「はい。弟の着替えを届けに、今日の夕方、車を運転してやって来ました」
 端的によどみなく答えて来る。但し肝心な部分だけはスッポリと抜け落ちている辺りが、なんとなく流人と共通する部分だなと感じた。
 ただもう、そう言う細かい疑問はどうでも良くなって来ていた。そう、もう一度彼女に逢えたからである。
 私はただひたすらに彼女のその容姿に見惚れ、どうしてこうも妖しいぐらいに綺麗なんだろうと思いながら、脱いだ帽子を壁に掛け――たつもりで、熱帯魚の泳ぐ水槽の中に落っことす。
「ごめんなさいね、勝手に上がり込んでしまって。外で待とうとも思ったんだけど、どうもこう言う都会は性に合わなくて」
「あぁ、いえいえ、お気になさらずに。むしろ勝手にエアコン入れておいてくれても良かったのに」
 言いながらリモコンを取り上げスイッチを押す。そしてCDプレイヤーが起動する。――いけない。なんだか今日は少し動揺気味だ。
「あっ、そうだ。一応これ、お返ししておきます」
 そう言って荼枳尼さんが私に手渡したものは、ここの事務所のドアの鍵。
 おかしい。私は今までどれだけ仲良くなった女性であっても、合鍵を渡すような真似をした事など、あまりなかった筈なのに。
「外の水道メーターボックスの中で見付けました。あそこはちょっと見付けやすいと思うので、もうちょっと別の場所に変えられたらどうです?」
「えっ!?」
 確かに、鍵を紛失した場合にそなえてそこに合鍵を隠しておいたのは間違いないが、そうそう簡単に見付かるような場所には置いてない筈。なにしろそのメーターボックスの中には物置代わりに色んなものが詰め込まれていて、スキー靴を退けて将棋盤を退けて、更にその下にある釣り道具セットの蓋を開け、そこから出ているテグスの一端を緩めると、壁伝いに通したテグスが天井に吊り下げた合鍵を自動的に降ろしてくれると言う仕組みなのだから。
「そう言えばあなたにはこの家の住所も教えてはいなかった筈なのですが」
 私はいぶかしみながらそう言うと、「ごめんなさい、勝手に“視”ちゃいました」と、返して来る。
「それだ。この前逢った時にもあなたは事件の概要を言い当てて、それを“視た”と表現した。――それは一体、どう言う事なんです?」
 私は興奮しながら聞くが、彼女の返答は、「さぁねぇ」だった。――あぁもう、この兄弟は。
「もしかしてあなた、普通の人には見えないようなものが見えちゃう人なんですか?」
 聞くと荼枳尼さんは両方の掌を組み、その上に自らの顎を乗せ、無言のまま微笑むだけだった。無反応には苛々するが、無条件にもその仕草だけは可愛い。
「なるほど、ここの住所を当てられたのも、この事務所の鍵を探せたのも、あなたにはそれを“視る”と言う力があるからだ。――あっ、もしかしたらルジンの着替えを持って来たのも、今朝の私達のやり取りが“視えて”いたから?」
「まさか。そこまで万能な訳はないです」
「そりゃあそうですよねぇ」
「でもお料理は得意そうですね。あるもので手早く食事を作れるなんて素晴らしいです」
 ――見てたんじゃないか。私は仏頂面をこしらえた。
「ねぇ、荼枳尼さん。それならあなた、この事件の全てはもう判っちゃってるって事ですよねぇ?」
「はぁ……まぁ一応は」
「ならどうして教えてくれないのです? 最初にポンと解答を与えてくれたなら、私達だってこんなに苦労なんかしていないのに」
「あら、解答が欲しかったんですか?」
 あらためて聞き返されて、私は少しだけ不安になりながら、「えぇ、まぁ」と返答する。
 だが荼枳尼さんは何も教えてはくれない。細い目を大きく開き、無表情のまま私を見つめるだけ。ちょっとその無言の圧力に耐えられなくなって来た頃に、ようやく彼女は口を開いた。
「粕谷さんは、そのお歳にしては随分と色々な経験をなさっているんですね。普通ならばとっくに世をはかなんで生から逃亡したり、自暴自棄な生活を選ぶだろう経験をしているにも関わらず、あなたは今もこうしてご自分の信念を曲げずに仕事をしている。本当に素晴らしい事です」
「え……あ……」
「でもそれは、過去に私と出逢って、未来のあなたの事を教えてもらったからですか? 未来のあなたはちゃんと立派な人になっていると聞いたからこそ、それに向かって努力したのですか?」
「いや……それは」
 違う。そう言いたかったのに、言葉に出来なかった。
「私が“視る”ものはどれも確実に存在した“事実の過去”なのだけれど、それを口にした途端、未来の一部が書き変わります。未来の一端を知ってしまった未来にね。今ある“現在”は、過去から未来に繋がる経由の時間でしかないのですよ。従って、私が“視る”ものは全て、本来は不要なものなのです。人が行う努力と言うものに、悪影響しか及ぼさないものだから」
「なるほど。確かにそうだ」
 彼女にこの事件の裏側の全てを聞いた所で、それが即刻、解決に繋がる訳ではない。地道に証拠を集め、それを提示が出来て初めて事件は解決となるのだから。
「申し訳ありません。目が覚めました」
 言うと荼枳尼さんは、「いいえ、こちらこそ」と笑う。素敵な人だとは思ったが、その袖の下で拳を握り、ガッツポーズをしたのを私は見逃さなかった。
「さぁ、それじゃあ渡すもの渡して帰りますね。これ……弟がどこにいるのか判りませんが、渡しておいていただけますか」
 そう言って荼枳尼さんは黒のスポーツバッグを私に手渡す。私はそれを受け取りながら、「もう遅いですよ?」と言えば、「大丈夫ですよ」と彼女は返す。
「いや、無理にとは言いませんが、せめて今夜はどちらかにお泊りになったら? ここからだとご自宅まではかなり遠いでしょう」
「そうですね。それじゃあお言葉に甘えさせて頂きます」
 そう言って取り出したのは、お揃いの赤いスポーツバッグ。ちゃんと泊まる用意をして出掛ける事は、未来を“視て”の事ではないのかなと、私はちょっと不機嫌になった。
 結局、私からは何も言っていないのに、彼女は完全にここに泊まる気になっていた。
 その晩、流人は朝まで車から戻っては来なかった。代わりに長椅子は姉の荼枳尼さんが使用した。
 いつも以上に、寝不足な夜となった。彼女が私を、寝かせてくれなかったのだ。
 いやもちろん、私達の間に何かがあった訳ではない。彼女の寝間着である白の長襦袢姿には年甲斐なくときめいたものだったが、真夜中に音声を消したテレビ――もちろん砂の嵐バージョンである――をその恰好で見ていられた日には、かなり鬼気迫るものが感じられた。
 どうしてこう、この兄弟は悪い部分で似ているのかなと。思いながらロフトの上で覗く彼女の姿は、テレビのモニターの灯りに照らされた幽霊のようで。もしもこれが実際に起こった怪奇現象だったなら、明日の朝にはこの事務所の賃貸契約は解除だなと考えながら、まんじりとした朝を迎えていた。

 *

「ねぇ、粕谷探偵。どうして僕はあの寒い車の中で寝ていたんだ?」
 翌朝の流人は、昨日の晩御飯だった筈のハンバーガーに、大量のトマトケチャップをかけながらそう聞いて来た。
「あぁ、あれは――君がどうしても起きなくてね。しょうがないから放っておいたんだ」
「オーケー、それは判った。それじゃあどうして、姉がこんな所にいる?」
「そりゃあ、あんな広くて陰気な場所に一人でいたら怖いもの。しょうがないじゃない」
 荼枳尼さんが言うと同時に、「ホラ見ろ!」と言う私の声と、ケチャップにむせ返る流人の咳とが重なった。
「ホラ見ろ、ホラ見ろ。ルジン、君の感性って言うものは特殊だから判らないかも知れないけれど、普通の人はこうなんだ。あんな廃墟に一人でこもってて、怖いと感じない方が変なんだ」
「いや待って、粕谷探偵。あの物件が気に入って購入したのはダキニの方だ。僕じゃない」
「え?」
 振り返ると、昨日とは打って変わってラフなパーカーとジーンズパンツと言う恰好の荼枳尼さんが、フライパンの上のフレンチトーストをひっくり返している所だった。
「ルジン、ちょっと聞きたい事があるんだけど」私は彼に近付き、小声で話し掛けた。
「君のお姉さん、君と同じで真夜中のテレビ拝見が趣味みたいなんだけど」
「あぁ、あれ? やってる事は同じかもだけど、僕のとは行動の意味が全然違うよ」
「違うって? 何が?」
「僕の場合は、昨日も言った筈だが“癒し”なんだ。精神を休ませる為のヒーリングだ」
「うん、それは聞いた」
「彼女の場合は“防御”だ。視覚と聴覚からノイズを取り入れる事によって、無駄な情報を遮断しているんだよ」
「情報って……なんの?」
「“人”のよ。寝ている時は私自身も無防備だから、どんどん人の思考が脳の中に流れ込んで来るの」
 いつの間にか荼枳尼さんは、皿に山盛りになったフレンチトーストと共に私の横に来ていた。
「まさか」
 私が言うと、「本当よ」と、荼枳尼さんは返す。
「特にこんな都心だと余計に、ね。物凄い量の情報がいっぺんに流れ込んで来るから、朝起きたらぐったりになっちゃうの。昨夜は音だけは消したけど、やっぱりモニターが点いていると嫌よね。迷惑掛けちゃってごめんなさい」
「いえいえとんでもない。彼なんか遠慮も無しに音声まで流してますから」
「――ちょっと、リュウ!」
「あぁ、ごめん。もうやめとくよ」
 流人は素直にそう謝り、熱い珈琲を啜った。
「さて、今日の予定はどうなってるんだい、粕谷探偵。もし何も入ってないなら、僕は寝るけど」
「残念だが起きていてくれ。今日は四人目の犠牲者の発掘作業だ。秩父の山奥まで行くぞ」
「そうかぁ、そりゃあ残念だ」
 本当に残念そうに言う。どうせ道中寝てばかりのくせにと思いながら。
「面白そうですねぇ。是非、私も連れて行っていただけません?」
 突然、荼枳尼さんがとんでもない事を言い出した。
「えぇと、あの……全然面白いものではありませんよ? それに発掘って言ったって、出て来るものは埴輪や土器なんかじゃなく……」
「白骨死体でしょう? 大丈夫ですよ」
「いや、だって……そんなショッキングなもの、見た事ないでしょうに」
「毎日見てんじゃない? 僕には見えないけど、ダキニが見る“霊”の数々は、結構悲惨なものだってあると思うし」
「え、あ、そうなんですか?」
 聞くと荼枳尼さんは嫌な顔一つせず、「えぇ」と微笑む。――全くなんてぇ人なんだ。
「それに……今日の現場は粕谷さんのよりも私の車の方がいいかも知れませんね。とにかく悪路みたいだし、午後には天気も雨みたいだから」
「はぁ、そうですか」
 そんな一瞬で“視て”しまうのかよと、ちょっとだけ怖くなりながら、ちなみにどんな車でいらっしゃったのですか――と、聞こうとして私は慌てた。昨夜見た、お客様駐車場に停めてあった一台の赤いジープチェロキー。
 なんとなくあれのような気がする。いや、多分あれのような気がする。いやいや、絶対あれの筈だ。
「あの、ちょっと新聞を取りに外へ――」
「新聞ならテーブルの上に置いておきましたよ」
 間髪入れずに荼枳尼さんが言う。
「あ、あぁ、そ、そうだ。ちょっと近くのコンビニに――」
「何かお買い物ですか?」
「えぇ、ちょっと、ね。お金を下ろしに」
「あら、おいくらですか? 良かったら先払いしますけど」
「えっ? 先払い……って?」
「二十万円でしたっけ? 罰金」
 あぁ、やっぱりそうだった。案の定、そうだった。
 私はがっくりとうなだれる。目の前では流人が、のんきそうな顔で五枚目のフレンチトーストを頬張っていた。

 *

 荼枳尼さんが言った通り、午後を跨いだ辺りから雨になった。
 寂しい場所だった。舗装もされていない細い山道がうねりながら延々と続き、やがて車も通れないだろうほどに狭くなった辺りで、捜索が行われていた。
 そして私は、荼枳尼さんのジープの後部ガラスに残ったガムテープの粘着痕を取るのに余念が無かった。ちまちまと指の爪でそれを剥がし、ハナクソを丸めて放るようなアクションを繰り返している。
 なにしろ、暇だったのだ。遺体は一向に見付かる気配もなく、ただ悪戯に時間と穴ばかりが増えて行く。
 流人と荼枳尼さんは車の中にいた。流人は全く何にも興味がないかのように、後部座席で居眠り。そして荼枳尼さんはカーラジオのノイズを聞きながら物思いにふけっている。
「なぁ、近衛さん。本当にこの辺りに埋まってるのかね」
 向こうで垂水さんが女物の傘を差しながら、声を張り上げている。
「えぇ、記憶では確かにこの辺りだったのですが……」
 その横で、垂水さんの傘に便乗しているのは、近衛文香――いや、瀬沼梢と言った方がいいのだろうか。長い毛皮のコートを羽織り、珍しくも自信の無い声でそう答えている。
 尤も、自信も無くなるだろう程、時間が掛かっているのは確かだった。
 今までならば百発百中のように遺体の場所を言い当てていた彼女が、既にもう二時間以上も捜査員の手を煩わせている。
 掘った穴はこれで七つ目。首を傾げつつ、あっちだこっちだと指示するのだが、遺体は一向に見付からない。
 今までとは何か違うな。私はそう思い始めていた。
 頭上の木々の間から降り続く雨は次第に強さを増し、足元の地面もまた、やけにもろくぬかるんでくる。
「よう、タルさん。本日の捜索はそろそろ打ち切りって事にしねぇかい」
 同僚なのだろう私服刑事が、垂水さんに話し掛けて来る。そして垂水さんもまた、「そうだなぁ」と煮え切らない返事をかえしている。
「もうちょっと待って下さい。間違いなく――間違いなく、この辺りに埋まっている筈ですから」
 悲壮な声で、瀬沼梢は言う。
 ――これは一体、どう言う事なのだろう。見付かる、見付からないと言うその結論に、やけに必死そうな感じに見えてしまうからだ。
「こっち! ねぇ、こっちを掘って! 確かこの辺りに埋めた筈なの」
 傘から抜け出し、瀬沼梢はスコップを持った捜査員達にそう声を掛ける。渋々と何人かがそれに従うが、なんとなくそこからも出て来そうな気配はなかった。
「寒いな。雪にならなきゃいいけど」
 私はコートの襟を立てながら言う。すると運転席の窓から顔を出した荼枳尼さんが、「粕谷さん、お茶でもどうです?」と、声を掛けてくれた。
「ありがとうございます。垂水さんも、いいですか?」
 聞けば荼枳尼さんは笑顔で頷いた。私は早速垂水さんの背中をつつき、荼枳尼さんの車を指差した。
「いや、ひでぇ降りになりそうだな」
 助手席に乗り込むなり、垂水さんは愚痴った。
 私は流人の寝ている後部座席に座った。もしかしたらこれは僕の車だとでも言いたげな主張なのか、私がそこに乗り込んでも、彼は身体を縮めるだけで一向に起き上がろうとはしない。
「あぁ、こりゃどうも。冷え切ってしまったから助かるなぁ」
 垂水さんはお茶の入った紙コップを受け取りながら、相好を崩す。やはり垂水さんでも、美人な彼女には弱いらしい。
「今日は中止ですか?」
 私が聞けば、「そうなるだろうな」と、垂水さんは言う。
「でも、雨は間もなく止みますよ」
 そこに口を挟んだのは荼枳尼さんだった。
「晴れるって、ホントに?」
「えぇ、もう十五分程降ったら止みますから。それまで待ったらどうでしょうか」
「でも、天気予報は午後からずっと雨って言ってたぜ」
 垂水さんは不服そうに言う。どうやら彼はまだ、彼女の“視える”能力は浸透していないらしい。
 突然そこに、脇腹に違和感。何事かと思って見れば、それは流人の足の先。
「なんだよ?」
「目印、無いの?」
 また端折った言い方して。思いながらも「無いね」と答えると、「あぁ、そう」と、またしても寝てしまう。――あぁもう、この偏屈野郎。
 曇った窓越しに、向こうで懸命に穴の中を覗き込んでいる瀬沼梢の姿を見付ける。
 ねぇ、君は一体、何がしたいんだい? そう思った時だった。
「私、当てちゃいましょうか?」
 荼枳尼さんが言った。「はぁ?」と、私と垂水さんの声が重なった。
「私、遺体の場所を当てちゃいますよ。だからさっさとそこを掘って終わりにしましょう。寒いし暗くなるしで、皆さんもいい加減嫌になってるでしょうから」
「いやでも、当てるって言ったって……」
 それが当たるんだよ垂水さん。と言うまでもなく、「あそこだ」と、荼枳尼さんは指差した。
「あの大きな杉の木の下。こっちから見ると大きな根っこが二つに分かれて伸びているでしょう? ちょうどその真ん中辺りですよ。しかもそんなに深く埋められてないから、すぐに見付かると思うし」
「――本当ですか?」
 えぇ、本当ですよ。私も手伝いますから確かめましょうか? そう言おうとした矢先、ガバっと身を起こした流人が、「率先して掘っちゃダメですよ」と、言い出した。
「あぁん? なんだ唐突に」
「だから、あなた方が率先して見付けちゃダメなんですってば。あくまでも彼女が『ここ』って主張して見付けなきゃ」
「だから何でだ? どうして彼女が見付けなきゃ意味がねぇんだ」
「いや、だって――」
 流人が遠い目をして彼女を見つめる。そして私もまた、彼が何を言いたかったのかが判った。――嘘を吐く事に、あんなに必死なんだものと。

 どう言う誘導をしたのかまでは判らないが、あのアドバイスの後、垂水さんと瀬沼梢は指摘した場所に立っていた。
 そして私達はそれを車の中で見ていた。
 雨の中、垂水さんは単身スコップを振るった。そして瀬沼梢は垂水さんの横に立ち、背伸びをしながら彼の頭上に傘を差し続けた。
 それは僅か十数分ぐらいのものだった。
「見付けたぞーっ!」
 暗い森林の中で、垂水さんの大声が響き渡った。
 同時に、頭上から一筋、太陽の光が射し込めた。

 *

「後、一人だそうだ」
 帰り道。垂水さんの奢りと言う事で立ち寄った、焼き肉屋での事だった。
「後一人かぁ。これでようやく、彼女も事件の背景をしゃべってくれますね」
 タン塩をひっくり返しながら私が言うと、「実はそう簡単じゃあねぇ」と、垂水さんは言った。
「最後の一人を見付ける前に、交換条件を出して来やがった」
「まぁ、条件って?」
 骨付きカルビにハサミを入れつつ、荼枳尼さんは聞いた。
「宝探しと、人探し。両方見付けてようやく、最後の一人の居場所を教えてやるとさ」
「いいねぇ、宝か。ファラオに呪われそうなレベルの奴だといいなぁ」
 クッパをおかずに白米を食べている流人が言う。もうこいつの思考回路だけは判らないと、私は顔を歪めた。
「それで? 宝と、人とは?」
「あぁ、それがまた妙な話でよ。宝探しは貸し金庫を開ける為の鍵の事で、人探しってぇのは瀬沼……じゃねぇや。近衛文香の娘の事だ」
「貸し金庫の鍵と、娘かぁ」
 こりゃまた意外な取り引きだなと私は思った。中学生女子が貸し金庫と言うものの存在を知っている事にも驚いたが、まさか自分の娘を探してくれと言い出すとまでは予想もしていなかったからだ。
「実際にいたんですか? 近衛文香の子供」
「さぁ。しっかりと戸籍を調べなきゃ判らんと思うが、もらった資料には子供の事など全く書かれてはいなかったなぁ」
「でもまぁ、いるいないに関わらず、探せって言う指令なんだから探さなきゃいけないんでしょうねぇ」
「尤も、探すのはそんなに手間じゃねぇ。貸し金庫の鍵の在り処は聞いてるし、娘の居場所の手掛かりもちゃんと教えてもらっている」
「なるほど。じゃあ明日にでも行動しましょうか」
 私は焼けたタン塩にちょっとだけレモンを振り、すかさず口に放り込む。あぁ、なんと素晴らしき至高の味。
「じゃあ、カス。――そっちは任せた」
 ほふほふと、石焼ビビンパを頬張りながら垂水さんは言う。
「え、なんですかそれ。なんなんですか、それ」
「お前、タン塩食っただろ」
「いやちょっと、なんでそう言う仕事を外部に押し付けちゃうんですか、ねぇ垂水さん」
「いやいや、食っただろうカス。お前それ、今食っただろう?」
 それ以上、意見は出来なかった。私は腹癒せに、垂水さんが頼んだ上ロースをまとめて網の上に乗せてやった。

 *

 近衛文香の実家は、山梨県の北部にあった。
 電車は無い。一日に数本のバスが往復する。人口の少ない、そんな過疎の町だった。
 早朝の濃い霧が行く手を阻む。さすがの荼枳尼さんでも、あまりスピードは出せない。
「不思議ですねぇ。さっきから同じ場所をぐるぐる回っているみたい」
 彼女は聞いている方が不安になりそうな事を、実に楽しげに言う。
「ねぇ、荼枳尼さん。あなた昨夜も寝てないでしょう。大丈夫なんですか?」
 聞くと彼女は、「寝ましたよ?」と、当たり前のように言う。
「あぁ、テレビの事ですか? ごめんなさいね、あぁしてないと眠れない体質で」
「いえ、もう慣れましたからそれはいいのですが」私は少しだけ言い淀む。
「あの……目は、開いてらっしゃいましたよ?」
「えぇ、恥ずかしながらそうみたいですね」
 荼枳尼さんは照れ臭そうに笑った。
「あれで寝ているんですか? 身を起こし、目を開けたままで?」
「そうですよ。昨夜もゆっくり休ませていただきました」
 不思議な人だなぁと、私はつくづく思った。
「じゃあ、彼も?」
 私は後部座席の流人を指差して言う。もちろん、目下熟睡中である。
「リュウちゃんは多分、起きてます。いつもあぁやって眠くなるまで考え事して、朝方眠り始めるみたいだから」
 なるほどねと、私は思った。
 昨夜は、流人と荼枳尼さんとで仲良く隣り合ってソファーに座りながら、延々朝まで砂の嵐を見続けていた。
 荼枳尼さんは足を投げ出し、流人は膝を抱え込んで丸くなりながら。朝が訪れるまでその恰好でいた。
 もしかしたらあの廃屋の病院の一室では、常にあんな夜を過ごしている二人がいるのかと思えば、きっとゾッとする光景に見えるに違いないと私は想像する。
「ねぇ荼枳尼さん、ちょっと一つ、質問していいですか?」
「はい、どうぞ」
「あなたは時々彼の事を“リュウ”と呼ぶ時がありますが、それはどうして?」
「あぁ――」荼枳尼さんはワイパーを動かしながら言う。
「昔のクセですね。彼は……言っちゃっていいのかしら。本当は“ルジン”ではなく、“リュウト”って名前なんです」
「えっ?」
「しかも“流れる人”ではなく、龍神様の、“龍”なんです。“龍の人”と書いて、リュウト。でもそれが気に入らなくて、今はルジンと名乗っているみたいですけど」
「なんでまた……」
「苗字で呼ばれるの、凄く嫌がっていたでしょう?」
「えぇ、まぁ」
「リュウちゃんは、自分の名前が嫌いなんです。上も、下もね。――きっと嫌な思い出ばかりだっただろうから」
「そうなんですか」
「実は私も、自分の苗字が好きじゃないんです。亜絲花(あしはな)って言うんですけどね」
「えぇっ?」兄弟で苗字が違う事に驚いた。
「もしかして荼枳尼さん、ご結婚されている……とか?」
「違いますよ、もう!」
 彼女は照れながら笑う。それを聞いて少しだけ、ホッとしたのは事実だった。
「お互い幼い頃に色々ありましてね。そのせいで、名前コンプレックスがあるんでしょうね。私もリュウちゃんも、苗字で呼ばれる事に抵抗があるんです」
「そうなんですか……」
 私はそれ以上、詮索はしないようにした。

 やがて、カーナビが示す一軒の家へと辿り着く。大きくもなければ極端に小さい訳でもない、いかにも取って付けたかのような田舎の平屋だ。
 表札に小さく、“近衛”とあった。間違いなく、そこが近衛文香の実家だった。
「少し早すぎたかな」
 呟けば、玄関のドアがからからと開いた。
 歳はもう六十半ばだろう、そんな老人男性だった。――近衛文吾。文香の父親である。
「朝早くすみません」
 私がそう言って車を降りると、「お気になさらずに」と、文吾は頭を下げた。かなりの歳には見えるが、まだその声には張りがあるように思えた。
 居間へと通され、お茶をご馳走になる。流人はまだ眠かったらしく、ブツブツとしばらく愚図っていた。
「遠路はるばるお越し下さって――」
 文吾の言葉を遮り、「とんでもない」と、私は返す。
「こちらこそ不躾なお願いで申し訳ございませんわ」
「いえ、ウチの文香のわがままに付き合って下さってるのでしょうから」
“ウチの”と言う部分が、やけに強調されて聞こえた。
「あの……近衛さんは、実際にあれが娘さんだとお思いに?」
「さぁてねぇ。実際はそう信じてやりたいと言った感じでしょうか」文吾は素直にそう答えた。
「でもその子は、赤の他人じゃあ知り得ない事を知っているんでしょう。そう言う事を聞くと、さすがにわたしも心のどこかが騒ぎますわねぇ」
「なるほど、そうでしょうね」
 私はお茶を一口啜る。囲炉裏に、掘り炬燵。黄ばんで曇った窓ガラスの向こうには、大量に吊るされた干し柿が見える。典型的な、田舎の家だ。
「近衛さん、瀬沼梢と言う子の顔写真は、見た事がありますか」
 聞くと文吾は、「えぇ、もちろん」と答える。
「その子、本当に一度もこの家に来た事はありませんか? ここ最近の話ではなく、過去何年か前とかでも」
「えぇ、それはもう何度もお話しした通りなんですが、一度たりとも来たこたぁないですわぁねぇ」
 なるほど。ではどうやって瀬沼梢は、この家の住所に限らず、家の間取りや自室の場所などを言い当てる事が出来たのか。
「逢ってみたいですか?」
 聞けば文吾は、黙ったまま首を振る。
「文香は死んだわな。もう生き返る筈もねぇ。あの子が文香の名前を語っているのは、どうしてもそうしなけりゃならない理由があるからでしょう。親としてあまりいい気はしねぇけど、それでもどっかから娘の名前が聞こえてくりゃあ、どうしても聞き耳ぐらいは立ててしまうわなぁ」
 遠い目をして文吾は言った。推し量るまでもない哀しみが満ちているかのようだった。
「あいつは暗い子でしたよ」誰に聞かせるでもなく話し始める。
「一人っ子のせいなのか、それとも生まれ持っての性格なのか、喋るっつぅても親とばかりで友達の一人もいなかったみてぇです。どっかに遊びに行くでもなし、誰かが遊びに来るでもなし、学校の事だってほとんど話さず、ずっと本ばっかり読んでる子でした。そんでもいつかは大人んなって東京で就職決めて、一人暮らし始めるってぇ聞いた時にはえらい成長したもんだなと思ったもんですが……僅か二年であんな事になってしまったぁ。来年の春には帰るとか言っておきながら、結局一回も帰って来ないまんまいなくなってしまいましたわ」
「失礼ですが――」私は口を挟む。
「お嬢さんの死因は、ご存じなんですよね?」
 聞けば文吾は、うんと頷く。知ってはいるのだ。文香が首をくくって死んだ事を。
「何か、思い当たるような事はありますか? 思い悩んでいたとか、追い詰められていたとか……」
「さぁなぁ」
 言ったきり文吾は黙ってしまった。
 どんな思いが胸の中を駆け巡っているのか。しばらくの沈黙の後、堪らず私は、「そろそろお部屋を見せて頂きたいのですが」と切り出した。

 通された部屋は、やけに狭い場所だった。
 まさに子供部屋。四畳半あるかないかぐらいの小さな部屋である。
「あいつが使っていた時のまんまです」
 文吾は言う。多分その通りなのだろう、机もタンスも、うっすらと埃が積み上げられていた。
「どうぞ、お気の済むまで見て行って下さい」
 そう言って文吾は引っ込むが、残された私達はどこからどうやって手を付けていいのかすら判らない。
「荼枳尼さん」
 苦し紛れに彼女の方を振り返るが、どうやら今回は何も教えてはくれないらしい。微笑みながら首を左右に振るだけだった。
「おそらくここにはないね」
 言ったのは流人だった。
 指先で椅子の上の埃をはらいながら、「お父さんの言ってる事が本当ならね」と、付け加えて。
「どう言う意味だ?」
「彼女はここから出て行ったっきり、結局二度と帰っては来なかった。それが本当だとするなら、鍵はここにはない。なにしろ貸し金庫の場所は都内であり、契約したのも彼女が向こうにいる時期だ」
「なるほど、一度もここに帰っていないなら、ある訳がないな」
 私は落胆した。
 なら、遺品の中にしか手掛かりはないな。思って私は文吾に聞いた。文香が亡くなった後、向こうの部屋の遺品はどうしたのかと。
「ほとんど処分しました」
 文吾は言う。
「何か、鍵はありませんでしたか。その残されたものの中に」
「あるにはあったけど、住んでいたアパートの鍵だけだったと思います。もちろんそれも返しちゃったがね」
「まだ少し、残った遺品はありますか?」
 聞けば、「持って来ましょう」と、文吾は立ち上がる。
 やがてどこからか持って来たそのダンボール箱は、想像以上に小さいものだった。中を見ればそれはもっと少なく、手鏡とコップ、茶碗に箸。そして数枚の皿。その下には彼女の服らしいものが二枚程畳まれて入れられているだけだった。
「これで全部ですか?」
「はい、そうですよ。もっともこれでも、比較的まともなものばかり選んで持って帰って来たものです。あの子の家にはろくなもんが置いてなかった。よっぽど貧乏していたんでしょう、買い置きの煎餅一枚すらありゃしなかった」
 返事が出来なかった。先程の質問で、彼が言い淀んだまま答えられなかった意味の一端を知った気分になった。
「申し訳ありませんが、中を拝見してもよろしいでしょうか」
「えぇ、どうぞ。見てって下さい」
 一つ一つ丁寧に遺品を取り出し、テーブルの上に並べる。そして折り畳まれた服を出し、それすらも広げて確かめる。――やはり、鍵は無い。
 ただ、その箱の一番下に、一冊のノートがあった。「見てもよろしいでしょうか?」と聞けば、文吾は少しだけためらった後、うんと頷いた。
 それは、日記だった。
 いや、日記と言うには少々変かも知れない。そのページのどこにも日付は記されていなかったからだ。
 ただ、それがエッセイやら小説の類でない事はあきらかだった。内容は、彼女自身の内情を吐露した、苦悶の叫びのようなものだったからだ。
 ――職場に馴染めない。今日もまた職長に呼び出されて怒られた。私には怒る意味がわからない。内容は、私に働く意欲がなさそうに見えると言うだけの事だった。
 ――今日も同じパート内で嫌がらせをされた。休憩が終わって帰って来ると、私の組み立てた製品だけが全部倒れてバラバラになっていた。職長に呼び出されて怒られている間、パートのみんなは笑って見ていた。悔しい。
 ざっと読むだけでも、いたたまれない程に暗く寂しい内容ばかりだった。
 ――土曜日の夜、町を歩く人達はみな楽しげに見える。だけど私は一人ぼっち、ただあのアパートに帰るだけ。そして寝て起きたらまた明日の仕事だ。
 ――辛い。凄く辛い。家に帰りたい。桃の花が満開に咲く、あの家に帰りたい。
 私はそれを閉じた。見てはいけないものを見てしまったかのように、激しい後悔が胸の中に渦巻いた。
「ありがとうございます。やはりありませんでした」
 そう告げると、「そうでしたか」と文吾は頷く。その彼の顔もまた、哀しい表情で満ちていた。
 そして私がまた一つ一つとその遺品を箱に戻していると、「あぁ、そうだ」と、文吾は言って立ち上がる。
 奥へと引っ込み、そして戻って来ると、その手には一通の封筒が握られていた。
「もしかしたらこれ、何かわかるかも知れませんわ」
 そう言って手渡したその封筒には、この家の住所と“近衛文香様”と言う宛名が書かれてあった。
 裏返して差出人を見る。そして驚く。その名前もまた、“近衛文香”だったからだ。
「――これは?」
「さぁてねぇ。あの子が亡くなる二カ月前ぐらいに、ひょっこり送られて来たもんですわ。自分に充てた手紙だったもんで中身は見てねぇんですが、その内に帰って来て自分で開けるんだろうと思って持ってたんですが、結局帰って来なかったもんだ、そのまんますっかり忘れてましたわ」
 手紙を受け取る。どこにでも売っているであろう茶封筒だったが、何故か見た目以上に重みを感じる。
「もし良かったら――」
「えぇ、どうぞ。開けてみて下さい」
 許可は下りた。私は慎重に封を剥がし、中身を確認する。
「どぉ?」
 横から顔を近付け、流人が中を覗く。だが、覗いても何もありはしなかった。ただ一つ、妙な形をした鍵のような金属体を除けば。
「これが?」
 私はそれを手に持ちそう聞けば、「多分ね」と、流人は答える。
「あの、近衛さん。申し訳ないのですが……」
「あぁ、どうぞお持ち下さい。どうせもう持ち主のないものでしょうから」
「ありがとうございます。でも、もしかしたらもう返せないかも知れないのですが」
 言うと文吾は、「どうせあの子がこれを必要としているのでしょう?」と返す。見た目よりもずっと理解力があり、話の早い人だなと思った。
「では、お預かりします」
 礼を言ってそれをポケットにしまうと、文吾は、「ちょっと待って」と、慌てて先程のダンボール箱を探る。
「良かったらこれもお持ち下さい。もしかしたら、何かの役に立つかも知れない」
 そう言って差し出したのは、さっき私が数ページほど読ませてもらった、近衛文香の日記用のノート。
「しかしこれは、娘さんの大切な形見で……」
「もちろんそうですし、叶うならその内に返していただきたい。でも――瀬沼と言いましたっけ、あの女の子。どうしてあの子がウチの娘だと名乗っているのかを調べるためには、こんなでも役に立つんじゃあねぇかなぁと思いましてね」
「――お預かりします」
 鍵とノート。その二つを受け取り、早々に家を出た。
 外へと出ると、既に霧は晴れていた。確かに日記に書かれているように、その家の周囲は桃の木で埋め尽くされていた。
 私は走り出す車の助手席で、そっとノートを開く。最後に書かれた日記から、順を追ってさかのぼりながら。
 ようやく判った。彼女の自殺の原因は、“孤独”だった。都内の片隅、彼女は懸命に行きながらもその孤独に耐えられなくなったのだろう。
 仕事を解雇され、それを親に告げられないまま追い詰まり、誰にも相談出来ず、そして誰にも愛されず――。
“次に生まれ変われたとしたら、私は私じゃない別の誰かになりたい。色んな男の人と付き合ってみたい。明るく行動的で、そして強い女になって生まれ変わりたい”
 その一文で、ノートは終わっていた。
「まるで違うな」
 私がそう呟くと、既に後部座席で丸くなっている流人は、「何が?」と聞いて来た。
「性格がさ。これを書いた近衛文香と、その生まれ変わりだと主張している瀬沼梢の性格がね。違い過ぎるんだ。それこそ他人である以上に大きく隔たっている」
 ――尤も梢は、その最後の一文にあるような性格ではあるが。
「他人なんだからしょうがないじゃない」
 流人は大きな欠伸を噛み殺しながら言う。
 私は、彼女の父である文吾の話と、ここに書かれてある文章の主である文香の一面でしか人柄を知り得ないが、瀬沼梢のあの性格を見る限りではまるで違う。それこそ――鏡で写したかのような正反対の如くに。

 *

 多田頼子と言う女性の行方は、思った以上に簡単に見付かった。
 瀬沼梢のもう一つの依頼である探し人。それが彼女、多田頼子であった。
 梢は自分の娘だと言い張ってはいたが、実際の梢と多田頼子の関係性はまだ判らない。共通点と言う面でもいまひとつ。僅かながら、年齢がそこそこ近いと言う程度だ。
 梢から聞いた通りに、新宿下落合にある児童養護施設を訪ねてみた所、その居場所は容易に判った。その施設からさほど離れていない某ワンルームマンションに住んでいた。
 家はつきとめた。一応はこれで依頼は完了の筈だった。
「仕事終了」
 そうやって垂水さんに電話を入れると、素っ気ない雰囲気で「まだまだ」と却下された。
「明日、多田頼子に逢いに行くそうだ。その時に貸し金庫の鍵を渡してくれとさ」
「その時って……もしかして私達も一緒って事ですか?」
「どうやらそのようだな。まぁ、俺も一緒だから、どこかで合流しよう」
 電話は切られた。そしてその日の残り少ない午後の時間は、荼枳尼さんの希望でショッピングへと出掛けた。
 購入したのはお揃いのスポーツウェアと、ヘッドマウントディスプレイ。そして折り畳み式の簡易ベッドになるソファー二組と、羽毛布団。その他生活用品。
 どうやら二人は本格的に事務所に泊まり込むつもりらしい。文句を言おうとは思ったが、「今夜はすき焼き」と言いながら国産牛肉を購入しているのを見てやめた。
 その晩は事件の話は忘れ、三人で語らい、そして飲んだ。私としても珍しく、相当に酩酊した。
 あぁ、こうして誰かと一緒に夜を過ごすのも楽しいものだなと、私は感じた。
 その夜は、久し振りにぐっすりと眠った。二人が、隣り合ったリクライニングのソファーに横になり、ヘッドマウントディスプレイを装着しながら寝ていたからだ。
 おそらくあの小さなモニターの内側では砂の嵐が流れ、ヘッドホン越しに耳障りなノイズが流れている事だろうと思いながら、私も眠りに就いた。

 翌朝、瀬沼梢の泊まるホテルへと向かうと、梢はノート型パソコンで何かを見ている最中だった。
「おはよう」
 声を掛けて中へと入ると、梢は急いでそれを閉じた。
「何か見られて困るようなものでも?」
 わざとそう聞くと、「あら、あなたは見られて困るようなサイトはご覧にならない?」と返された。
 今日の彼女は、カシミヤのセーターに豹柄のミニスカート。そこから覗く黒のタイツが悩ましい。
「ちょっとだけ背伸びな、最近の若者の恰好だね」
 言うと梢は、「少しだけ若ぶってみたの」と苦笑する。
「さぁ、それじゃあ出掛けましょうか」
 梢はクローゼットから黒いハーフコートを取り出し、それを羽織る。やはりと言うべきか、実在した近衛文香とは服のセンスからその性格までまるで別人だった。
 そして向かった先は、都内にある大手の某銀行。梢は大理石で出来たその床を、恐れもせずに突き進む。

「お預かり致します」
 恭しくそう言って、銀行員は手渡された鍵を取った。
 パネルの上部に差し込むと、モニターにキーボードが現れる。銀行員は、「暗証番号をどうぞ」と瀬沼梢に言うと、梢はまるで迷う事もなくタッチパネルを操作して行く。
 計、二十程の数字を打ち込むと、ロック解除の表示が出る。
「なんで番号が判るんだ?」
 聞くと流人は、「さぁねぇ」と答える。
 二分程待たされて、ようやく目の前のドアーが開く。そしてそこにあったのは、色気も素っ気もない札束の山そのものだった。
「なんだこりゃあ?」
 垂水さんがそう聞くと、「私の母の保険金です」と、梢は言った。
「保険金って……あの子、母子家庭じゃなかったっけ?」
「近衛文香の母って事じゃない? 昨日、仏間で母らしき遺影見たじゃない」
 流人が言う。なるほどと、私は思った。だが、どうして貸金庫で保管するのかが判らない。普通に預金すれば利子だって付くのに。
「おいおい、これ、いくらあんだよ」
 垂水さんの声色が違う。トーンが一段上がっている。
「多分、二千万ぐらい」
「二千万!?」
 もう一段階上がった。
「それでこれ、どうするんです?」
 私が聞くと、「娘に渡します」と、梢は言った。
「娘に?」
「えぇ、娘にです」
 梢はどうしても多田頼子が自分の娘だと言い張るらしい。
「なぁ、おい。あんた相続税とか知ってるのか?」
「なにそれ、私まだ学校で習ってないんですけど」
 現金をバッグに詰め、梢と垂水は部屋を出て行く。私達はそれを追いながら、小声で会話した。
「娘って……あの日記のどこにもそんな事は書いてなかったけどなぁ」
「まぁ、どこかで嘘もバレるでしょう」
 ふと気が付いて、私は荼枳尼さんの方へと向き直り、「このからくりも“視え”ているんですか?」と聞けば、彼女は微笑みながら「さぁねぇ」と答えた。

 多田頼子は、家にいた。
 玄関のインターホンを押すと、少しして眠たげな声で「だぁれ?」と出て来た。
 年齢は十七。普通ならば学校に行っている時間に自宅にいると言う事は、もはや学生と言う身分でもないのだろう。
 綺麗に染めた黄色に近い茶髪を後ろで束ね、右の耳だけに四つものピアスを付けている。タンクトップの隙間から見え隠れする胸の膨らみが悩ましい。
「お忙しい所恐縮です。今日は仕事はお休みですか?」
「仕事は夜からなんですけど。つーかあんた達、何者?」
 多田頼子は私達――特に、一番浮いているであろう瀬沼梢を見て、怪訝そうな顔でそう聞いた。
「えぇと……先に言っておいた方がいいのかな」
 そう言って垂水さんは刑事である身分証を出して見せた。
 すぐに多田頼子の顔色が変わる。同時に垂水は、「いやいやいや、あなたに何かあって来た訳じゃあないですからね」と、すかさずフォローした。
「じゃあ、なんの用事ですか?」
 聞かれて垂水は言い淀む。「いや、なんの用事かと言われると……」と、振り返って瀬沼梢の顔を見ると、それを継ぐようにして梢が話し出した。
「あなたのご両親の事について、お話しがあって来ました」
「――両親?」
「えぇ、ご両親」
 すると突然、多田頼子は馬鹿にしたかのような笑みを浮かべながら、「残念ね」と返した。
「私には両親はいないの。ついでに言えば騙して巻き上げる程度の貯金も無いわ。残念でしたね、詐欺師グループさん。お帰りになってもらっていいかしら?」
「待って」閉めようとするドアを、梢が止める。
「両親と言ったら、本当に両親なの。――判る? あなたのご両親。いないんじゃなくて、ただ知らないだけでしょう?」
 再び多田頼子の顔色が変わった。一度閉められかけたドアは開かれ、そして背後を振り返る。
「とりあえず入って……と言いたい所だけど、見ての通り物凄く狭いワンルームなの。悪いけど、すぐ行くから表で待っていてくれない? ここのマンションを出た真ん前にファミリーレストランがあるから。そこにいてくれる」
「判りました。待ってます」
 そしてドアは閉じられた。私達は、指定された場所で待つ以外方法は無さそうだった。

 平日の昼間だと言うのに、やけに賑やかな店内のファミリーレストランだった。
 子供が学校に行っていると言う解放からか、寄り集まった主婦らしき団体でどの席も一杯だった。
 喋り声が店内に響き渡り、そしてそれに負けじと向こうの壁に掛かったテレビモニターの音声が店の中を埋め尽くす。
「話すには向いていない場所だな」
 スティックシュガーを五本も入れたアメリカンコーヒーを飲む垂水さんが、苦々しい顔で言った。
「くつろげたらもっと長居されるでしょう」
 一人だけミックスグリル定食を注文し、黙々と食べている流人が口を挟む。そこにようやく、二十分遅れで多田頼子が姿を現した。
「ごめんなさい、お待たせして」
 そう言って席に着いた彼女は、先程とは随分印象が違い、やけに大人しく見える茶系のシックなジャケットとパンツルックだった。
「おねーちゃんホステスの割には落ち着いてるなぁ」
 垂水さんがそう言って茶化すと、「誰がホステスなんですか」と、多田頼子は怖い声を出した。
「だってさっき夜の仕事言ってたじゃねぇか」
「言いましたけど水商売じゃないです。仕事は夜間のビルの清掃員ですから。定時制の高校に通って、深夜から朝方まで仕事なんです。――って言うか、なんなんですかその職業差別。ホステスが落ち着いてる恰好していたらダメだとか、そう言う事を公僕の方がおっしゃっていいんですかね」
 言われて垂水さんは目を白黒させて言葉を詰まらせる。私はそこで、垂水さんは二度もホステスの女性に結婚詐欺に会っていて良い印象が無いんだ――とは、言い訳せずにおいた。
「それで? 私の両親がどうしたんですか? 一度も逢った事の無い人の話など聞いてもしょうがないと思いますけど、もしもどこかで入院していて、今更親の介護してくれなんて言われても目一杯お断りさせていただくつもりですからね」
「いや、そう言う訳でも――」
 言いながら垂水さんは横に座る瀬沼梢の顔を見ながら、助け舟を求める。
「では、私がご説明します」
 梢が言うと、多田頼子はいかにも「あなたが?」と言ったふうな表情で、彼女を見た。
「失礼しました。私の名前は瀬沼梢。あなたのお母さんの友人だった者です」
 梢はさらりと嘘を言ってのける。そして多田頼子は余計に妙な表情になる。あぁもう、嘘でも本当でも、少しは考えて言えばいいのにと私は思った。
「それで? どんなお話しですの、可愛いお友達さん」
 言われて梢はまるで気にした顔もせず、黙って紙袋を差し出した。例の二千万円が入っている、あの紙袋だ。
「なんです、これ」
「遺産です。あなたのご両親の死亡保険ですね」
 さすがに多田頼子も、その言葉には動揺を隠せなかったらしい。その大きな瞳を更に大きく見開くと、小さな声で、「死んだの?」と聞いた。
「えぇ、亡くなりました。誠に御愁傷様です」
「なんで? どうして? って言うか、あんたどうして私の親の事知ってるの」
「ですから……友人だったと」
「真面目に答えて。私の親ってどこの誰? なんで死んだの? いつ死んだの?」
「えぇと……どこから話せばいいのか」梢は少しだけ困りながら話し始める。
「あなたのお母さんの名前は、多田君枝。愛媛県生まれで、二十一歳の頃にあなたを産んだの。そしてその翌年、不慮の事故で――」
 なんだって? またしてもここに知らない名前が登場して来た。
「不慮って? なんで死んだの?」
「それは……」
 梢は言い淀む。だが多田頼子は尚も畳み掛けて来る。
「教えて。こんな場所で人の死因について聞かれて困る気持ちは判るし、それに少しだけ……良い死に方してないんだろうなってのも理解出来るの。でも私は本当の事が知りたい。あなたがどこの誰でもいいし、母とどんな繋がりがあるかって事もどうでもいい。私は私の、本当の過去が知りたいの」
 そして梢は沈黙する。かなり長い時間を黙ったままでいたが、やがて梢は頷いた。そして最初に発した言葉は、「自殺でした」だった。
「――自殺?」
「えぇ、自殺です。殺された彼氏――あぁ、あなたのお父さんに当たる方ですね。その男性の死を目の当たりにして、そして彼女も死にました。当時二歳になるあなただけを残して、自分の家であるアパートの中で首を吊って」
「……」
「あなたのお母さんとお父さんは、結婚はしていませんでした。――いえ、するつもりがなかった訳ではありません。間もなく籍を入れる、その矢先の事でした。そして両親をいっぺんに失ったあなたは、施設に預けられる事となった」
「辻褄は合うわね」
 多田頼子は、言った。そしてその頬に、一筋の涙が伝う。
 容姿から勝手にヤンキー風な性格を想像していたが、実際は全くそうではないらしい。
「ついでに教えて。お父さんの名前を。なんて人だったの?」
「二宮――孝之と言います。当時、三十歳。小さいながらも、雑貨店を営んでいた人でした」
 その時だった。頭上から、瀬沼梢が放ったその名前と全く同じ名前が私達へと降り注いで来たのは。
『臨時ニュースを申し上げます。先日、秩父の山中から発掘された遺体は、十五年前に行方が判らなくなったままでいた、雑貨店経営者である二宮孝之と言う男性のものであると判明しました。尚、この遺体の証言をしたと言う女子中学生ですが、その学生の証言を元に最近相次いで各所から遺体が発見されると言う事件が関東各地で起こっており、我がテレビ局ではその詳しい情報を現在――』
 その場の皆の顔が凍りついた。
 周囲の喧騒は止み、誰もがテレビのモニターに釘付けになる。
 荼枳尼さんは既にこの事は予想していたのか、ただ無表情のままで。そして流人は何を思うのか、多田頼子の顔を見ながらゆるりと自らの唇を指でなぞる。
「失礼します……」
 そう言って多田頼子は席を立ち、振り向きもせずに早足で店を出る。
 すぐに垂水さんがどこかに電話を掛ける。
「おい、これはどう言う事だ? 一体どこから情報が漏れた!?」
 小声ながらも、ドスの聞いた声だった。
 しばらく、誰も何も言わなかった。ただ、彼女が席を立った後、ちらりとテレビの方に視線を送りながら、瀬沼梢が微笑んだ。私はそんな一部始終を見ただけだった。

 *

「どう責任を取ってくれるおつもりですか」
 瀬沼愛子は、肩を震わせながらそう言った。
 そこは梢の住んでいる実家。こんな事件が起こる前までは母一人、娘一人の生活だった筈なのに、今では娘の梢は週に一度として帰って来る事がない。
「この度は誠に申し訳ない事で……」
 あの大きな体躯の垂水さんが、滑稽な程に小さくなりながら恐縮している。
 そしてその隣に座る流人は、まるで他人事であるかのように無関心を装っていた。
「絶対に……絶対にあの子を守ってくれるって約束したじゃないですか! なのに、なのにこれってどう言う事なんですか!?」
 リビングのテレビのモニターに、瀬沼梢が映っていた。
 目にはぼかしが入り音声は変えられてはいるが、きっと知り合いが見ればそれが彼女だと判るだろう。それほどに適当で大雑把な編集入りの映像だった。
『――今話題の、この中学三年生の女の子。二十年近く前に行方不明になった人の遺体をことごとく当てると言う神業で巷を賑わせているようですが』
『凄いですよねぇ。千里眼と言う奴なんですかねぇ』
『この子、まだ自分が生まれてもいない時代の遺体を探り当てちゃうんでしょ? そりゃあもう神の目としか言いようがないですよね』
 ひとしきり野次馬のようなコメンテーターの雑談が続き、そして掘り出された人々の顔写真が載る。
 それを見ながら瀬沼愛子は両手で顔を覆い、そして嗚咽を上げ始めた。
「なんてこと……なんてことなの……」
 上手い言葉が見付からない。まるで慰めようがなかった。
『――それがですね。彼女はとある女性の生まれ変わりだ。転生し、過去の記憶を持ったまま生まれて来たんだと、そう供述しているんですね』
 コメンテーター達の無責任な会話は続く。
『なるほど。つまり過去の自分がこの人々を殺し、そして埋めたと』
『そりゃあ当てられる筈だよねぇ。自分で埋めたってぇんなら、場所判るもんねぇ』
『でもこれ、罪には問われないんですよね。だって今の自分が殺した訳じゃあないんだから』
『それズルいなぁ。なんかズルいなぁ』
 プチッと音がして、テレビの画面が暗くなる。振り返ればリモコンを持った瀬沼愛子が怖い顔をして、その真っ暗なモニターを睨んでいた。
「では、そろそろ……」
 垂水が重そうな腰を上げる。
「そこに、梢の着替えが入ってます。それから、学校のプリントや授業のノートなんかも入ってるからって……言っておいて下さい」
 愛子が指差す。見れば大きなボストンバッグが置いてある。
「お預かりします」
 垂水がそれを持つ。流人は何も言わずひょこひょこと先に部屋を出て行く。そして私もその後に続こうとして、瀬沼愛子に呼び止められた。
「あの……」
「はい? なんでしょうか」
「梢は……本当に梢は、あの事件の全てを自分で言い当てたんですか?」
「えぇ」私は答える。
「間違いなく、全て自分で言い当てました。それは私が証言出来ます」
「――なんてこと」
 またしても愛子は自らの口元を手で覆い、泣き始めた。
 逢う度に暗い女性だなと、いつも私は思う。いくらも接する時間はありはしないが、それでもそれなりにその性格、人柄は読み取れる。彼女は人に甘え、人に依存しながら生きて来たタイプの人間に見えた。
「とりあえずお嬢さんは無事です。今は泊まる場所も変えましたし、問題は無い筈です」
「――よろしく、お願いします」
 そして私達は家を辞した。表では、車のアイドリングをしたまま待機していた荼枳尼さんがいた。
「大変でした」
 私が言うと、「そうみたいですね」と、彼女は言った。どうせ全て“視て”いたのだろう、私もそれ以上は話さずにいた。
「母は、どうでした?」
 声が聞こえた。振り返ると、後部座席の垂水さん、流人の更にその奥。荷台であるその場所から顔だけ覗かせ、瀬沼梢は私に聞いた。
「泣いてたよ。おおごとになってしまった事に、自分自身も責任を感じているんじゃないかな」
「そう……」
 梢は素っ気ない声でそう返す。
「ところで梢ちゃん、先日ホテルで逢った時、君はあのパソコンで何をしていたんだい?」
 私が聞くと、「どうしてそんな事を聞くの?」と、梢は聞き返す。
「どうしても気になるんだ。今まで君はパソコンで何をしていようが、隠そうとした事が無い。例えそこにアダルトな写真が載るサイトを閲覧していたとしてもね」
「うふふ、そうね」
「でもあの時の事だけは、どうにも違和感を覚えてしょうがないんだ。あれは一体、何をしていたんだい?」
「――当ててみて、探偵さん。正解したら、素直に答えるわ」
「そうか」そして私は言った。
「雑誌社か、テレビ局。そのどちらか――いや、スピードの速さならやはりテレビ局か。そこにアクセスし、君は君自身の情報を売った。今までの遺体発掘の際の物的証拠を添付して、ね」
 まさかと言う表情で、垂水さんは振り返る。流人は何も反応はない。多分その程度の事ならば、彼は既に気付いていた筈だろうから。
「ご名答。全て当たりよ。但しアクセスしたのはその時が初めてじゃないわ。もう何度も先方とは連絡を取っていて、ただタイミングを計っていただけなの。多田頼子――あの子と逢うそのタイミングで情報が世間に流れるようにね」
「なんで? どうして君は自分自身が困るような真似をするんだ? こっちは必死で情報を洩らすまいとして事件に関わって来たって言うのに、全ては水の泡だ。もうこれで君は、元の生活には戻りにくくなったんだぞ」
「別に構わないわ。だって全部私がやった事だし、世間で孤立して追い詰められたって、もう一度昔のように自殺すればいいだけの事じゃない?」
「自殺って、君ねぇ……」
「あら、自殺はそんなに怖いものじゃないわ。上手にぶら下がる事が出来たのなら、苦しむ暇さえなく死ねるもの」
 そう言って梢は笑った。私は首を振り、目頭を押さえた。
「なぁ、近衛さん。アンタどうしてそんな真似したんだい。ただ遺体を発掘するだけなら、我々に任せておけばいいだけの話だろうに」
「うん、そうね。でも最後の遺体だけは、あなた方の力だけじゃあどうにもならないわ。マスコミの力を借りてでも無理矢理に掘らなきゃあいけない場所にあるから」
「なんだって? ――どう言う意味だ、そりゃあ」
「U大使館よ。麻布にある、U大使館。そこのエントランスホールの真下にあるの。そんなの、警察だけの力でなんとかなるもの? むしろ警察のやり方だと、国際情勢だのなんだのとつまんない世間体で無かった事にする方が当たり前じゃなくて?」
 言えてると、私は思った。
 なるほど、もしも本当にそこに遺体が埋まっているのなら、マスコミと世間の野次馬を先導させ、「見たい」と言う欲望を盛り上げさせた方がずっと成功率が高い。もしも警察だけの力に頼ってしまっていたのなら、彼女の言う通り最後の発掘だけは断念したか、何十年も手続き手続きと書類上のやり取りだけで終わってしまっていただろう。そしてその警察側の人間である垂水さんもまたそれに納得したのか、「なるほどね」と言った顔で黙り込む。
「だけど、梢ちゃん。今度の発掘だけは、例え成功したって今まで通りには行かないぞ。いくら警察が徹底ガードした所で、君はどうしてもマスコミや世間の人々の注目の的になる。その覚悟は、出来ているんだろうね?」
「えぇ、出来てるわ。それに……あなたと約束した事、その時に行おうとも思ってるの」
「約束? 約束って、なんの?」
「あら、もう忘れたの? この事件の裏側の事よ。どうして私が彼等を殺し、そして埋めたか。その事を世間一般の人々が見ている前で、公表しようと思っているの」
「それは、やめときなよ近衛さん」垂水さんが口を挟む。
「そんな状況だと俺等でも百パーセント守り切る自信はねぇし、それに多分――世間はアンタの事を好意的な目で見てくれてはいないぜ。そんな場所で記者会見なんぞ開いたら、どんな危険があるかわかりゃしねぇ」
「そうね、でも私やるわ」
「いや、やめとけって言ってんだよ」
 垂水さんは怖い声を出して言う。だが梢もまるで怯む様子も見せず、「じゃあもう誰にもその件はしゃべらないわ」と言い返す。
「喋らないって……私にもかい?」
 聞けば梢は、「当たり前じゃない」と返す。
「それじゃあ遺体を見付けてハイさよならね。これで事件は無事終了。その後に私を訴えたいのならご自由にどうぞ。ただしどうやったって、有罪にするには難しいと思うけど」
 ――可愛くねぇなぁ、そう思った時だった。
「君は誰か、有罪にしたい人がいるね」ボソリと、流人が言った。
「君は懸命に世間の注目を自分に向けようとしている。そしてどんな危険な状況であれ、人が大勢見ている中で、何かを喋ろうとしている。――君の本心がどこにあろうと、それだけは判るよ」
「へぇ、素晴らしい推理ね。探偵助手さん。でもそれだけじゃあ、私が有罪にしたい人がいるって言う理屈には結び付かないんじゃない?」
「そうだね」
「じゃあどうしてそんな事を言ったの?」
「――勘さ。なんとなくね」
「へぇ、勘ね」
「うん、勘だよ。僕が君だったら、誰かを貶める為に同じ事をするだろうって思ったからね」
 そして沈黙。左右に流れ去る、冬の都会の景色がどこか寂しく見えた。

 *

 意外にも、U大使館のエントランスホールの解体許可はすぐに下りた。
 マスコミを通じてその話が広まっているせいもあるだろうし、そしてそのU国の国民性もあるのだろう。連絡を取ると同時に、「いつ掘りに来るの?」と真っ先に聞き返されたぐらいだったからだ。
 日は決まった。二月十五日。間もなく冬が終わりを告げる、そんな予感めいた風の吹く頃の時期だった。
 瀬沼梢も、「これが最後」と言っていた。つまりはこの遺体を掘り出す為の布石、それが今までの発掘作業だったのだろう。
 決して可能ではない筈の殺人をほのめかし、そしてそれを裏付けるようにして掘り返される遺体の数々。そしてその神秘性、異常性がマスコミを動かし、某国の大使館を巻き込ませた。
 それが彼女の計算通りなのだとしたら凄いものだ。我々もまた、彼女の掌の上で踊らされている駒の一つにすぎなかったのだから。

 最後の発掘を目前にしたある日の朝、和服姿に着替えた荼枳尼さんは荷物をまとめながら私にこう告げた。
「一足先に帰るって、リュウちゃんに言っておいてもらえます?」
 その当の本人は、彼女の真横でぐっすり寝ていた。
「え……帰っちゃうんですか?」私は慌ててそう聞いた。
「まだ事件も解決していないし、そして最後の遺体発掘だって……」
「でも、もう終わりでしょう。その日を最後に事件は終了するし、その時私はなにも手伝えそうにないから」
「しかし――」
「私、都会は苦手なんです。人の思考や思念が望みもしてないのにどんどん流れ込んで来ちゃって」
 なるほど。彼女があんな辺鄙な場所に引っ込んでいるのはその為だったと今更ながらに思い出す。
「楽しかったですよ、粕谷さん。久し振りに弟と楽しいゲームが出来ました」
「ゲーム? ゲームって?」
「さぁねぇ」荼枳尼さんは意地悪そうな笑顔で言葉を濁す。
「それじゃあこれ。駐車場の罰金と、私自身の滞在費です」
 結構厚めな封筒を差し出され、私は慌てて断りながら突っ返す。
「いえいえ、受け取れません。これは本当に受け取れません。むしろ色々と助けてもらっちゃって、こっちが謝礼しなきゃいけないぐらいだし――」
 でもそんな金銭的余裕はないし、用意しておく時間だってなかったしと、心の中だけで付け加える。
「なら余計に、これは置いて帰らせてもらいます。大丈夫ですよ、私もリュウもそんなにお金に困るような生活してないので」
 荼枳尼さんは頑とした口調でそう言って、封筒をテーブルの上に置いた。
「受け取り難かったら、これはそのままリュウちゃんに渡しておいて下さい。――協力要請料だって言ってね」
 あぁ、しまった。そう言えば流人にもギャラを渡さねばならなかったのだ。
 この人には全部読まれてるなと諦めながら、「申し訳ありません」と、頭を下げた。
 事務所を出て、車に乗り込むその直前に、彼女は私にこう言った。
「本来はこういった助言はしないのですが」と。
「明後日の最後の発掘の際、一つだけ気を付けて下さい。――甲冑が、あなたを襲います」
「はぁ? 甲冑――ですか?」
「あぁ、でも大丈夫ね。近衛文香があなたを守る。ごめんなさい、今のは忘れて」
 意味深な言葉を残し、彼女は車に乗り込む。エンジンを掛け、そしてパワーウインドゥを開ける。
「ねぇ、粕谷さん。それがどれだけ哀しくて最悪な結末だったとしても、それはあなたのせいじゃないわ。――だから」
「えぇ、大丈夫です」
 私は頷く。そんな事はもう慣れっこだ。そうじゃなきゃあ、探偵なんて仕事はやっていられない。
「良かった。粕谷さんは何て言うか……私とリュウには無い、“何か”を持っている人ですね」
「何かって?」
「さぁねぇ」そう言って彼女は笑う。
「でも、素敵ですよ。きっと私やリュウなんかじゃあ敵わないものを持っていると思うし」
 言って、荼枳尼さんは車をバックさせた。
 切り替えし、そしてギアをローに入れる。
「ねぇ、荼枳尼さん!」
 彼女は振り返る。そして「何ですか?」と聞く。
「もう一度……逢えますかね?」
 思わず、聞いてしまった。どうせ私の気持ちなど、全て彼女に読まれている筈である。歳の差など考えず、私が彼女に強い好意を持っている事など。
「えぇ、逢えますよ。多分――これからもずっと、腐れ縁のようにね」
 そう言って荼枳尼さんはサングラスを掛け、私に向かって微笑むと、凄い勢いで車を発進させた。
 白い排気ガスを残し、彼女の操る赤いジープチェロキーはあっと言う間に視界に小さくなり、そして向こうのカーブを曲がって消えてしまった。
 例えようのない寂しさを感じながら事務所へと戻れば、流人はまだぐっすりと眠っている。
「あぁ、ちくしょう。なんなんだ君達兄弟は!」
 腹立たしげにそう言って、テーブルの上に乗る封筒を手に取り流人に叩きつけようとして――やめた。
 そっと中を覗くと、一万円の札でかなりの枚数がそこにある。私はそっとそこから二枚だけを抜き出し、それから流人の寝顔に叩き付けた。

 *

 当日は、物々しい警備だった。
 事は国際問題にまで発展しかねないと予想され、大使館の周辺は機動隊によって守られた。
 そして敷地内は警察関係者と、建設業者とでごったがえしていた。
 大使館の庭には何台もの重機が運び込まれ、綺麗に敷き詰められた芝を踏み潰しながらキャタピラが走り回っていた。
「良し! 開始!」
 合図と同時に大使館の玄関口が壊される。それは少し派手過ぎだろうとは思ったが、どうやら大使館側の意向もあったようだ。「老朽化していたからちょうどいいってさ」と、垂水さんが苦笑いしながらそう答えた。
 お国柄だなぁと、私は思った。これが、「古いものこそが価値」なんて考えの国だったら大変だったなと想像しながら。
 玄関口が破壊され、そして床が剥き出しになった所で、今度はその床のタイルが剥がされ始める。
「ねぇ、今回もピンポイントで指示してくれる訳じゃないんだね」
 横に座る瀬沼梢にそう聞くと、「そうねぇ」と、彼女は頬杖を突きながらそう返した。
「当時、遺体を放り込んだ時って、あの辺は基礎工事でまだ液状のコンクリートのプールだったんですもの。適当に放り込んだのは覚えているけど、具体的な場所と聞かれたら答えようがないわ」
 なるほど。実際に彼女がやったかどうかは別にしても、ここだと場所を示すのは確かに難しいだろうと私にも思えた。
 周囲の高い建物から、こちらを目掛けてシャッターを切る幾人もの姿が見えた。
 このパパラッチ共めと悪態を吐きながら、なるべく梢を写さないよう、私と垂水さんは盾となって立ち塞がった。
 タイルが剥がされ、コンクリートが見え始めた辺りで重機は引っ込む。そこから先は手作業となる。ピックハンマーと呼ばれる建設用機器で、丹念に少しずつコンクリートを削って行くのだ。
「相当深くまで沈んだのなら、結構時間が掛かりそうだな」
「そうですね。長丁場は覚悟しましょう」
 そんな事を喋っている間に、流人はひょこひょこと私達の前を横切りながら上へと向かってカメラを構える。もちろんカメラは私のものだ。
「なにやってんだ、あいつ」
「さぁ? もしかしてあのパパラッチ共を撮り返しているんじゃないですか」
「本当に変な奴だなぁ」
 垂水さんが呟くと、その横で梢が、「ふふっ」と笑った。
 意外にも、発掘作業はそれほど時間が掛からなかった。
「出ましたーっ!」
 声が上がると同時に、周囲から一斉にフラッシュが焚かれる。
「さて、行こうか」
 聞くと梢は、「うん」と頷く。
 私と垂水さんに付き添われ、破壊尽くされたエントランスホールへと向かう。白い雪が積もったかのようなコンクリート片の中、確かにそれはあった。
「――大野公安。こいつが全ての元凶だったわ」
 ボソッと、梢はそう言った。
 それが一体何を意味しているのか。今はまだそれに気付けはしなかった。
 だが、全ての発掘は終わった。その雰囲気だけは伝わって来た。彼女の吐く深い深い溜め息が、それを教えてくれていた。
「それで? 本当にやんのか、記者会見」
「もちろんよ。ただそれだけの為に今日まで頑張って来たんだもの」
 梢は踵を返す。向かう先はここを出て少し先にある国際会議場。そこで梢は、記者会見を開く手筈になっていたのだ。
「ルジン、行くよ」
 私が声を掛けると、「了解」とカメラをしまい、垂水さんが手配しておいた防弾ガラスの窓が嵌めこまれた車へと乗り込んで来た。
 U大使館の門を出た途端に、報道陣のフラッシュの雨が降って来た。
 分厚い窓越しに、騒然とした声が響いて来る。どれも全て人の発する言葉だが、まとまるとどれも言葉としての意味を成さない。少しだけ、荼枳尼さんの気持ちが判ったような気がした。
「何か撮れたかい、ルジン」
 聞けば流人は潜むような小声でそっと、「あぁ、そこそこね」と、返して来た。
 そしてカメラを取り出すと、今しがた撮ったばかりのものであろう映像をいくつか私に見せた。
「ホラ、怪しい人影がちらほらと」
 指差す場所には、どう見ても報道関係者とは無縁そうな顔つきの男ばかり。
「――なんだ、これ?」
「さぁ、その内に判るんじゃない。それよりも問題はこっちだ」
 そうして見せられた問題の一枚。そこには――。
「なんだ、これ。どうして“彼女”がここに?」
 写っていたのは、多田頼子。黒いジャケットに黒いニットキャップをかぶり、極力目立たない様子でこちらを睨んでいた。
 聞くと流人はカメラを引っ込め、いつも通りな素っ気ない声で、「さぁねぇ」と答えるだけだった。

 *

 会場は、思った以上に広かった。
 壇上にスピーチ席は用意したものの、その後ろに並べた衝立も、壇の前にこしらえた簡易バリケードも、なかなかにして心許ないお粗末なものだった。
「無いとは思うが、詰め掛けた野次馬が暴動を起こしたら、俺等だけじゃあ止められないな」
 垂水さんがやけに弱気な事を言う。
「ねぇ、垂水さん。私も彼女に付き添っていいですかね」
 聞けば、「報酬対象外な仕事になるが、それでもいいなら頼むよ」と、垂水さんは私の肩を叩いた。
「なら僕も」
 それを聞いて驚いた。振り向けばやはりその声の主は流人。
「本気で?」
 聞けば流人は、「うん」と、いつもの無表情でそう告げた。
 結局、梢の両後ろに付き添うのは、私と流人の二人になった。それ以外は全て梢と客席を分ける警備に入る。そして垂水さんもそこにいた。
 ――そろそろだな。思いながら控室で梢の方を向けば、やはり彼女も緊張の色を隠せないまま、小刻みに震えていた。
「梢ちゃん、大丈夫。私達がちゃんと守るから」
 言うと梢は、無理な笑顔で微笑みながら、「お願いね」と、応えた。
 結局、壇上に上がるまで彼女が何を言い出すかはまるで教えてはくれなかった。
 そしてそのまま時間が来た。十四時ちょうど。私は控室のドアを開け、「さぁ、行きましょう」と、彼女をうながす。
 なんだかまるで死刑囚の気分だな。長く冷たい廊下を歩きながら、私は思った。一番背後を歩く流人の、コツコツと廊下を突く音がやけに耳に響いて来る。
 壇上へと出ると、一斉にフラッシュの嵐が私を出迎えた。
 まぶしさに目をしかめ、私はスピーチ席の前の椅子を引く。そして梢は、黙ってそこに座った。
 なんだか目の前の誰もが、殺意でもって出迎えているような気がした。私はいつでも彼女の前に飛び出せるよう、数歩だけ下がった場所でそれを見守る。
「――みなさん、こんにちは。この一連の事件の主犯であります、瀬沼梢です」
 その本人である方の名前で自己紹介をすると同時に、会場のあちこちから怒号のような非難の声があがった。
「ふざけんな!」
「まともな受け答えしろや、このガキ!」
 予期していた事とは言え、想像以上に手厳しい会見になりそうだなと私は思った。
「えぇと……皆さんのお気持ちは判りますが、私は、私自身として本当の事を話す以外に何も出来ないもので……」
「嘘つけ、このペテンが!」
 声と同時に、壇上に何かが放り込まれる。私は咄嗟に飛び出そうとしたが、それより先に私の目の前に誰かが立った。
 キンと音がして、手にしたステッキがそれを払った。同時に潰れたジュースのアルミ缶が、私の横に転がって来た。
 そしてそれは、流人だった。彼はすぐさまステッキを収めると、「大丈夫」と言った感じで私に向かって目を瞑って見せた。
 私も、「うん」と頷く。そして梢は、言葉を続ける。
「これから話す事は、全て本当の事です。私は……今から十五年程前にこの世を去った、とある一人の女でした」梢の声が会場に響き渡る。
「望んで生まれ変わった訳ではありません。ただ、気が付けば私は、生前の記憶が一瞬にしてよみがえった。そんな感じで、私は自分の転生を自覚しました」
「その生前の自分は、なんて名前だったんですか?」
 最前列にいる女性記者が、そう聞いた。
「申し訳ありませんが、今はそれを言う事が出来ません」
「何故ですか? あなたは罪を償おうとしてこんな会見を開いてるんじゃないんですか?」
「そうですが……名前を言う事によって、迷惑が掛かる人もいるので……」
「じゃあ俺達は迷惑の範疇じゃないのかよ! こんだけ大騒ぎさせておいて、大使館までぶっ壊しておいて、迷惑じゃないってのかよ!?」
 またしても別の人間が騒ぎ出す。垂水さんが、「うるさい、引っ込め!」と一喝するが、なかなかその昂ぶりは収まらない。
「私は……この男達に……」梢が、小声で呟くように切り出した。
「この男達に、レイプされたんです」
 ハッとなって彼女を見る。そしてそれまでうるさい程に野次を飛ばしていた連中が、嘘のように黙り込んだ。
「私は……私のしでかした事を棚にあげるつもりはありません。でも、どうして過去の私がこんな殺人を犯してしまったのか。それだけでも聞いてはいただけませんでしょうか」
 少しだけ、声が収まる。流れが変わったと、私は肌でそれを感じた。
「私が見付けた、この五人の遺体。櫻井通明、相葉久志、松本康介、二宮孝之、そして大野公安。私はこの五人に監禁され、三カ月もの間、代わる代わるレイプされ続けました。そして多分、後一カ月。いや、長くて二カ月ぐらいでしょうか。私が生き長らえていられたのは。レイプされ続けた挙句、私を待ち構えていたのは、単純な“死”でした」
 とうとう会場のどこからも、声が上がらなくなった。視線は全て梢の元に集まり、次に出て来るであろう言葉を待っていた。
「皆さんは想像が出来ますか? もしもあなたが若い女性を監禁し、そして愛玩状態にしていたら。最初は楽しい事でしょうけど、きっとその内、その玩具に飽きが来るでしょう。そうして飽きが来て、次第にその扱いに困って来たら? 捨てますか? 飽きたと言って捨てますか? ――そうじゃないでしょう? そんな事をしたら、次に監禁されるのは自分自身ですね。そう、監獄と言う牢屋の中に」
 聞いている、私の膝が震え始めた。次第に彼女が、“近衛文香”と言う役を演じているなどと言う下手な考えは消え去り、それが真実なのだと言う気持ちに変わり始めていた。
「実際、私はいつもそう脅されていました。この五人の男達は私の身体をもてあそびながら、“飽きさせるなよ”、“飽きられたら殺されるぞ”と言い続け、私を精神的に追い詰めました。
 そして私は我慢するしかなかった。与えられた残飯のような飯を喰らい、煙草の火を押し付けられ、暴力を振るわれながらもひたすらに耐え、彼等に奉仕して生き長らえるしかなかった。たった一日でもいい、生きていたいと願いながら……」
 先程、辛辣な質問をしていた、最前列でマイクを構えている女性記者などは、既に瞳を潤ませている。
「この監禁事件の首謀者は、一番最後に遺体が発見された大野公安と言う男です。彼が他の四人をそそのかし、マンションの一室を借り受けて私をそこに閉じ込めました。――調べてみて下さい、どの男も、ろくな定職に就かずに遊び歩いているだけだったと言う事が判る筈ですから」
「じゃあ……どうやってあなたはそこから逃げ出せたの?」
 女性記者に聞かれ、「一度だけ、彼等はヘマをやらかしたんです」と、梢は言った。
「あれは確か、相葉と言う一番若い男だったと思います。彼はいつも通りにひたすら私を弄んだ後、私の両手に手錠を――あぁ、ごめんなさい。私は常に錠と鎖で繋がれていたんですが――その錠をかけ忘れたまま、寝てしまったんです。
 心臓が高鳴りました。両手両足が自由で、しかも部屋の鍵までもが開いている。これでこの男が目を覚まさずに、そして他の男と鉢合わせしなければ、ここから脱出出来る――と。
 迷っている暇はありませんでした。どうせもう一カ月足らずで殺されてしまう運命ならと、私はその男の脱いだジャンパーコート一枚を羽織り、そして……逃げました。
 運良く、男は目を覚まさずに。そして誰とも逢う事なく外へと逃げ出せました。そして私は、生きて外の空気を吸う事が出来たのです」
「そして、警察へ――?」
 聞かれて梢は首を振る。いいえと言うふうに、横へ。
「警察には、行きませんでした。だって、行ってどうするんですか? 彼等を逮捕し、それで終わりなんですか?」
 ゾクリと、背中に戦慄が走る。――だから殺した。彼女は警察には行かず、その手で彼等に罪を与えた。そしてその結果が、あの遺体の数々と言う事だ。
「私は、彼等が与えてくれたその絶望を、今度はそのまま返品しようと考えました。そしてそれは実に造作ない事でもありました。なにしろ彼等は頭が悪く、次の一手が考えられない人達ばかりだったからです。
 これがもしも普通の人で、私が逃げ出した事に危険を感じ、皆で連絡を取り合いながら逃げようとする人だったなら、私もこう上手くは出来なかったと思います。
 だけど彼等はそれをしなかった。愚かな事に逃げ出した”イケニエ”の事は忘れ、そしてその過去は無かった事にして、誰もが他人の振りをして、逃げる事もしないまま連絡を絶った。――どうです、愚かでしょう? 知らない振りしていれば全ては終わると思っていたんですよ?
 ――うふふふ ――あはははははぁ
 自分達が忘れたって、私が忘れる筈なんかないのにねぇ」
 最後の方は、どこか壊れた笑いのように聞こえた。もう既にどこの誰も、彼女に対し罵詈雑言を吐こうとはしていなかった。むしろ誰もが、彼女の言葉に聞き耳を立てていた。
「私は彼等を殺しました。計画性も何もありません。突きとめた彼等の家へと乗り込んで、ただ殺すだけです。
 そっと忍んで、筋肉弛緩剤を混ぜたビールを冷蔵庫に潜ませるだけ。そして身動きが取れなくなった辺りで姿を現し、たっぷり絶望を味あわせながら殺すだけ。
 そう、彼等が私にしたみたいに、同じようにレイプしながらね。――でも、だぁれも起たなかったけど。あははははは」
 とても中学生の女子が言うような台詞だとは思えなかった。もしも芝居だけでやっているのだとしたら、それは物凄い演技力だと私は思った。
「そして全員を殺し、そして私も自ら命を断ちました。それで以上です。それが全てです」
 ガタンと椅子を引き、梢は立ち上がる。
 誰もが呆気に取られている間に、彼女は壇上から立ち去った。そして私はその後に続き、流人もまた私の横に並ぶように付いて来た。
 梢は私達を振り切るかのような勢いで歩いて行く。どうやら向かう先は控室ではなく、正面玄関のようだった。
「なぁ、ルジン。これで全て終わりか?」
 私は隣を歩く流人に向かって聞いてみる。
「何故聞く? 君こそこれで終わりだと思っているのか?」
「いいや、なんだかまるで何もかも終わってない気がする」
「そう思うのなら、そうなんじゃないのか」
「何をブツブツ言ってるのよ!」
 梢は突然そう叫び、そして私達の方へと振り向いた。
 そして驚く。その彼女の顔は、涙でメイクが流れてひどいものになっていた。
「どうしたんだい、君……」
「どうもしないわよ!」梢は叫んだ。
「ただ……全てが終わっただけ。私の人生も、そして“あの人”の人生も」
 ――あの人? それって一体――
 思った瞬間、目に入る光景。通路の左右に立ち並ぶ、西洋の甲冑のコレクション。
 槍を持ち、剣を持ち、面金を降ろした無機質な人型の鎧の数々。そして思い出す、荼枳尼さんの台詞。
 ――本来はこういった助言はしないのですが、一つだけ気を付けて下さい。――甲冑が、あなたを襲います。
 ぐらりと視界がゆらぐような錯覚があった。そして突然のスローモーション。甲冑の影から飛び出て来る幾人かの人影。
「哎呀(アイヤ)ーっ!」
 広い通路に叫び声がこだまする。現れたと思った途端、すかさずその人影は鋭利に光るナイフを振りかざして襲い掛かって来た。
「まずい!」
 どう考えても不利だった。ざっと見回せば相手は三人のヤバそうな男達。こちらは流人も数に含めて、男は二人。しかも梢を守らなくてはいけない。
 どうする? 背後を振り返っても、垂水さん達が追い付いて来る様子もない。
「いやあああああーっ!」
 梢が悲鳴をあげる。そして振り向く。既に男はそこにいた。そして振りかざしたナイフは、私の胸の真ん前にあった。
 ドンッ! 音と衝撃が走った。
 そして私は見た。自らのコートの胸に突き刺さった、大振りのナイフの存在を。
 ――あぁ、これで私は死ぬのかなぁ。思いながら膝を突き、冷たい床に倒れ込む。
「ねぇちょっと、探偵さん! しっかりして!」
 梢が年相応な声で私を呼んでいた。そして私は、「早く逃げろ」と、言い掛けた所で目を見張る。
 ヒュンと、風がうなった。
 そして背後に倒れ込み、背中で床を滑って行く暴漢。
 何が起こったのかと、思う暇もなかった。風がヒュンヒュンと二度、三度とうなり、男達が倒れて気を失う。そしてそこに立っているのは、ステッキを握った流人が一人。
「なぁ、おい、なんだそれ……?」
 聞けば流人はいつもの通りなのんきな顔で、「ステッキ」と、返す。
「そうじゃなくて、今君、何したの?」
「倒した。これでも僕は、フェンシングの日本チャンピオンだったんだけど」
 そりゃあ良かった。最後に聞いた台詞が、そんなつまらないもので。
 ――闇が訪れる。遠くで垂水さんが叫ぶ、「カスーっ!」と言う声が聞こえた。

 *

「お前少しオーバー過ぎやしねぇか」
 上半身裸になった私の左胸に、バンソーコーを貼り付けながら垂水さんは言った。
「しょうがないでしょう。自分では心臓に達するだろうレベルで刺さったように感じたんですから」
「それでも痛みとかで判るだろうに。なんだこの爪楊枝の先っちょが当たった程度の情けない傷は」
 バンソーコーを貼った上に垂水さんの平手が飛んで来た。
 ――パチン! 私は思わず、「痛い!」と叫ぶ。
「いてぇ訳ねぇだろ、こんな程度の刺し傷で!」
「痛かったのは垂水さんの手の方ですよ! 全くもう」
 気絶から覚め、私は先程と同じ国際会議場の一室で治療を受けていた。
 遠くでパトカーのサイレンの音が遠ざかって行く。きっと、暴漢を乗せたパトカーなのだろう。
「結局アレ、誰なんですか」
「さぁなぁ。どいつも金で雇われた中国系のチンピラなんだろうけど、雇い主まで辿り着くかね。なにしろ奴等は、”女だった”としか言ってなかったしな」
 もしも身元を明かさず雇ったのだとしたら、証拠を突きとめるのは難しいだろう。思いながらも、”女だった”と言うその言葉に、私は嫌な予感を覚えた。
「ねぇ、梢ちゃん」
 呼ぶと梢は顔の化粧を直しながら、こっちへと振り向いた。
「一つ、聞きたい事があるんだ」
「いいけど先に服を着てちょうだい。それじゃあ目のやり場に困るわ」
 言われて私はそそくさと服を着始める。シャツもジャケットも、どれにも胸元に穴が開いてしまっているのが実にみっともない。
 テーブルの上に、一冊のノートが置かれてあった。近衛文香が書いていた、日記のノートだ。
 ナイフは、そこに刺さった。ノートの厚みで、私は命拾いしたと言う訳だ。
 あの時の荼枳尼さんの言葉が耳の奥でよみがえる。近衛文香があなたを守ると言う、そんな言葉だ。
 確かに私は、近衛文香に守られた。ついでに言うと、荼枳尼さんにもだ。
 テーブルの上に置かれているのはノートだけではない。今朝、流人に突っ返された札束入りの封筒。それもまた一緒になって穴が開いている。つまりは私の命を救ったのは、近衛文香と荼枳尼さんと言う事になる。
 封筒の中には、三十八枚の一万円札。私が二枚抜いたばかりに、三十八枚になっている。もしもあの時その二枚さえも抜かなかったなら、この胸にチクリとした傷一つ付かなかっただろうと私は思った。
 彼女には敵わないなと私は思う。四十枚と言う札の束は、私の命の盾となる枚数だったのだ。
「さて、服は着たよ。話はいいかな?」
「えぇ、どうぞ」
「君は……今の暴漢達に心当たりがあるね? 誰が雇ったのかって事だ」
「――えぇ、まぁ」
「それは――」
 言葉を区切る。実に言いにくい話だったからだ。
「君の……お母さん。瀬沼愛子さん、だね」
「えぇ……」
 梢は頷いた。ゆっくりだが、確実に。
「君が警察に保護を願ったのは、彼女から身を守る為だった。君がお母さんの罪を暴くと同時に、君はお母さんから狙われると判った」
「そう……ね。そんな感じかな」
「話して、くれるかな。君がここまで嘘を言い続けた理由を」
 言うと梢は、「うぅん」と渋りながら、意地悪そうに微笑んだ。
「ねぇ、探偵さん。せっかくだから当ててみてよ。私はあなたがどんな推理を打ち立てるのか、それを聞いてみたいわ」
「ちょっと近衛さん、そう言う場合じゃないでしょうに」
 垂水さんがそんな小言を言い掛けた時だった。
「いいでしょう」
 そう言い返した。――私ではない。今まで向こうでずっと黙り込んでいた、流人の声だった。
「僕が本当の犯人の名前を挙げ、そして君が誰を追い詰めたかったか。それを当てたら、見せてくれるね? 瀬沼愛子の手記と遺書を」
 すると、梢の顔に驚きの表情が浮かんだ。だがそれはほんの一瞬の事で、またすぐに意地悪そうな笑みに戻れば、「いいよ」と、小さくそう呟いた。
 ――なんだって? 真犯人? 瀬沼愛子の手記とは? 一体彼は、何を言い出したんだ?
「では――」流人は言いながら、自らの唇をそっと指でなぞる。
「あの五つの死体の一つ、二宮孝之の遺体を除いた残り四つは、全て君のお母さん、瀬沼愛子が殺した」
 流人はそう言い切った。
 まさかと、私は思った。犯人の名前こそは私の答えと同一だったが、遺体の一つだけが違うと言う推理はなかったからだ。
「そしてその二宮孝之を殺したのは――多田君枝。そして君が追いつめたかったのも、そして君を殺そうと暴漢を雇ったのも、多田君枝と言う女性だった」
 そして梢は――頷いた。
「いや、ちょっと待って」私はたまらず口を挟む。
「私はさっき、君に聞いたよね。君を襲った連中を雇ったのは君のお母さんだよねって」
「えぇ、そうね」
「そして君は頷いた。でも今度はまた答えが違う。君はルジンに、犯人は多田君枝だと言っている」
「えぇ、その通りよ」
「どっちなんだ!?」
 聞けば流人はいつもと同じ無表情のまま、「どっちもさ」と、そう答えた。
「じゃあ逆に聞くが、君はどうやって瀬沼愛子が犯人だと推理したんだい? まさか勘と当てずっぽうな訳じゃあないんだろう?」
 言われて私は、「あぁ、まぁ、そうだねぇ」と、曖昧に誤魔化す。
 そして梢は右耳にぶら下がっている黒い大きなピアスを外しながら、目の前に置いたノートパソコンを起動させる。
「何が始まるんだ?」
 聞くと梢は、「全てのトリックが解明するものよ」と言い、外したピアスのカバーを取ってそれをUSBの端子部分に差し込んだ。
「それ……メモリーだったのか?」
「そうよ。これなら例え身ぐるみ全て剥がされても守り切る事が出来るわ」
 そう言って立ち上げたそのフォルダーのタイトルは、”瀬沼愛子”と言う名前だった。
「何、それ?」
「何って……今しがたあなたの助手さんが見せてくれって言ってた、瀬沼愛子の手記と遺書よ。これを見れば、私が”彼女”を演じる事が出来た理由が判るわ」
「演じる……って、誰を?」
「まだわかんないの!?」
 梢はまるで馬鹿を見るような目付きで私を睨む。そして流人が助け舟を出すように、「瀬沼愛子その人だよ」と、教えてくれた。
「え……と、どう言う意味?」
「だから、彼女が演じていたのは近衛文香じゃなかったって意味さ。彼女の役は、彼女の母親。瀬沼愛子だったって事」
 そして流人は垂水さんの方に振り向いて、「申し訳ありませんが、瀬沼愛子を呼び出してもらえませんか」と問い掛けた。
 訳が判らない。本当に訳が判らない。
 私はやけに無能な探偵の役だなぁと痛感じながら、事の成り行きを見守っているだけだった。

 *

「もう、ここでいいよ」
 ガード下の暗がりの中、流人は私の方へと振り返りながらそう告げた。
 やはり、彼との別れも突然にやって来た。どうにも似た者兄弟だなと思いながら、私はそこまで彼を送って来たのだ。
「見て行かないのか? もう間もなく記者会見が始まるぞ」
「いや、いいよ。そう言うものにはあまり興味が湧かないし」
「だが――謎のほとんど全ては君が解いた。説明は君がすべきだろうに」
「何を言ってんだよ」流人はそう言って、微かに笑った。
「僕は助手だよ。師匠の出番を奪うような真似は出来ない。それに、そう言う目立った事は嫌いでね。――だから、一人で頑張って来てよ名探偵。君ならばちゃんと、筋の通った説明が出来る筈だ」
 判ったと言うように、私は肩をすくめて見せた。
「なぁ、ルジン。別れる前に二つ聞きたい」
「いいよ。何?」
「一つ目。君の足って、実はどこも悪くないんじゃないか」
「なんの事だい? 僕は一度も足が悪いなんて言ってないぞ」
「でも、ステッキを突く時だけは、やけに窮屈そうに歩くじゃないか」
「そりゃあそうさ。ステッキはその為にあるものだろう?」
 判らない。こいつの思考だけは本当に良く判らない。
「じゃあ二つ目。君と荼枳尼さんの言うところの、“ゲーム”って一体なんの事だ? 荼枳尼さんも全く同じ事を言っていたけど、私にはまるでその意味が判らない」
「判らない事はないだろう、そのまんまの意味だよ。君が僕達に与えたこの事件を、ちゃんと解けるかどうかってゲームさ」
 ――おいおい、酷く悪趣味なゲームだな。思いながらも、二人共に最後までこの事件に付き合わないその意味がようやく判った。謎が解けた時点でゲームは終了しているのだ。
「つまりは、アレか。君達の興味は事件ではなく、その真相に行き着けるかどうかって部分だけにあったんだ」
「あぁ、そうだね。少なくとも姉の方はそうだろう」
「君は違うのか」
「僕はただ、挑発されたから乗っただけさ。どんなゲームであれ、姉に負けるのは面白くない」
 初めて逢った日の事を思い出す。荼枳尼さんがこの事件の全てを“視た”と言い、そしてそれまで億劫そうに聞いていた彼が突然、「受けよう」と言った時の事を。
 つまり、全ては彼女に負けたくない。ただそれだけの気持ちで、私と一緒に行動を共にしたのだ。
「でも、随分と割に合わないゲームだな。荼枳尼さんは最初から全てが判っちゃってるんだろう? それじゃあ決定的に君の方が不利じゃないか」
「そうだね。でもまだ一度として負けた事はない。僕が必ずイーブンにするからね」
 それはそれで凄い。神の視点に、頭脳だけで引き分けに行く。なんてぇ兄弟なんだと、私はつくづく怖く思った。
「さぁ、それじゃあ僕はもう行くよ」
 流人は言った。駅はもう既に、彼の背後に見えていた。
「何も……お礼が出来なかったけど」
「充分さ。君の作る料理はどれも美味しかったし、あの狭い事務所での生活も、刺激的で面白かったさ」
 これは褒められているのだろうか? 迷いながらも、「そりゃどうも」と、私は言った。
「そうだ、これ……」言いながら私は、コートのポケットから旧型のMDウォークマンを取り出した。
「これ、やるよ。中に入っている曲は私のオススメだ。ノイズを聴くよりずっといいぞ」
 そう言ってウォークマンを手渡すと、今度は流人も素直に受け取った。
「音楽は好きじゃないんだけどな」
「心配無い。“The Berzerker”と言うバンドの曲だ。必ず君も気に入るよ」
 流人は、「そうか」と言ってイヤホンを片耳だけ押し込んで、そして電源をオンにした。
「じゃあ、粕谷探偵。事件の終結を願う」
 流人はそう言って笑う。
「君も、気を付けて帰ってくれ」
 私は手を差し出す。流人はそれを片手で叩くようにタッチし、「じゃあ」と、背を向け立ち去った。
 彼には、「もう一度逢えるか?」とは、聞かずにおいた。荼枳尼さんの台詞ではないが、何故かこの先、彼とは腐れ縁になりそうな予感がしたからだ。
 私はしばらく、彼の背中を見送った。
 果たして彼があの曲を気に入ったのかどうかは知らないが、イヤホンを両耳に刺し、ステッキをクルクルと振り回しながら歩いているその姿は、そんなに嫌そうには見えなかった。

 *

 会場の裏側、衝立の隙間から向こうを覗く。
 関係者は皆、揃っている様子だった。ちゃんと梢の母である瀬沼愛子も。そして身を隠すように客席に潜んでいる多田頼子の姿もそこにあった。
「大丈夫かな?」
 私は振り返り、梢に聞く。
「えぇ、平気です」
 まだ少しだけ顔色が悪かったが、とりあえずは大丈夫そうに見えた。
「私の代わりに……申し訳ありません」
「いや、いいんだよ。君は良くここまで頑張った」
 そう言って彼女の肩に手を置く。そして私を見上げ微笑むその顔は、もう演技も何もない中学生の子供の顔だった。
「おい、カス。もう覚悟は決まったか?」
 やって来た垂水さんにそう聞かれ、「えぇ、平気そうですよ」と答えると、「ならこれ、お前にやるわ」と、マイクを手渡して来た。
「え、なんですこれ」
「覚悟の決まった奴がやれ。手柄は全てお前にくれてやる」
 そう言って垂水さんは、私の背中を叩く。――ひでぇ。覚悟って、梢ちゃんじゃなく私の事だったのかと今更ながらに気付く。
「それじゃあ、今度こそちゃんと梢ちゃんを守ってあげて下さいね」
 垂水さんにそんな嫌味を言うと、「判った。今度はこの命に賭けて」と、胸を逸らす。
 ――さぁ、それじゃあ行くか。思いながら袖口から顔を出せば、再びフラッシュの嵐に見舞われる。
 さっきのフラッシュは私ではなく梢の方に向かっていたが、今度は全て私の方へと向いている。そんな自覚があった。
「えぇと、ここより本事件の解説を務めさせていただきます、滝本探偵事務所の、粕谷琢磨と申します」
 緊張で声が裏返る。だがそんな緊張などお構いなしに、先程と同じようにして野次が飛ぶ。
「探偵って、なんで探偵なんだよ? こう言う場面は警察の仕事じゃねぇのか!?」
「今度こそ本当の話が聞けるんでしょうね? 生まれ変わりだ、転生だとか、そう言う馬鹿話じゃない本当の事をお聞かせ願えるんでしょうね?」
「いや、あの……ちょっと待って」
「さっきここの会場に来た救急車とパトカーは何? 一体何が起こったのか、それもちゃんと話してくれるの?」
 またしてもジュースの空き缶が投げ込まれそうな勢いだった。
 あぁもう、面倒臭いなぁ。思いながらも、「一応、全てお話しするつもりです」と私は答える。
「一応ってなんだ、一応って!?」
 そんな叫びは無視しながら、私は勝手に説明を始める事にした。
 壇上の背後に真っ白な衝立があるのをいい事に、私はポケットから取り出した太字の油性ペンで、そこに大きな文字を書いた。
“近衛文香”
 もしかしたらその会場の支配人か誰かだろうか。どこかで、「誰かあれ止めて!」と叫んでいたが、私は気にしない事にした。
 そして私は近衛文香と言う名前の横にイコールのマークを付け、更にその横に、“瀬沼梢”と名前を書く。
「先程、彼女――瀬沼梢が言い淀んだ場面がありましたね? なんでしたっけ。あなたの生前の名前は何でしたか、みたいな質問に対してだったかと記憶しているのですが」
 向こうで梢が、うんと頷く。そして私は続けた。
「その生前の名前は、“近衛文香”。えぇと――会場の中にいらっしゃる梢ちゃんのお母さん、確かこの人、あなたの友人だった人ですよね?」
 私は瀬沼愛子に向かってそう聞いた。だが愛子は何事が起きたのかと言った表情で、私を睨み返して来るだけだった。
「覚えていませんか。まぁ、そうかも知れませんね。あなたとは一時期、工場の組み立てのアルバイトで一緒だっただけの間柄だったみたいですから。――ただ、梢ちゃんはどう言う訳か、その女性の前世の記憶を持って生まれて来てしまった。事件はそこから始まります」
 そして今度はその右隣に、五人の人間の名前を書いた。櫻井、相葉、松本、二宮、大野。上から順に、遺体が見付かったように。
「梢ちゃんの言った通り、彼等が実際に“近衛文香”と言う女性を拉致監禁したのかはまだ判りません。まぁ、調べればその事実がどうだったかは恐らく辿れるでしょうけどね。
 ただ、これだけは断言出来ます。この五人を殺害し、そして遺体を埋めた。それをやってのけたのがここにいる十四歳の少女でない事だけは、ハッキリと判っています」
「そりゃあそうだろう! まだその子が生まれる前の事件なんだからな!」
「でも生まれ変わったんだろう? じゃあその子がやったって事になるじゃんよ」
「いや、待って」私は手を挙げ、意見を押しとどめた。
「どうでもいいんですが、皆さん本気で生まれ変わりなんて信じているんですか? もし本気なのでしたら、今からご説明する事は全て無意味だと思いますので、ここでご退出願います。私がこれから説明するのは、あくまでもこの事件のトリックの部分についてです。どうか、物理的、常識的に考えられる社会人の方だけお残り下さい」
 言うと誰もが黙る。どうにも低能で馬鹿ばかり集まってるなと、密かに私は思った。
「まず、仮に、“近衛文香”が実際に彼等によって、数カ月に渡り監禁されていたのが事実だったとしましょう。そして彼女が隙を見て、その監禁場所から逃げ出せたのも本当だとしましょう。――でも本当に女性が一人で五人もの男を殺し、そして死体を埋める事が出来たか。そこには甚だ疑問が残ります」
 そして私は近衛文香の名前の横に、“共犯者?”と言う文字を書き、それを矢印で引っ張った。
「私達はこの会見の直前に、その短時間で調べられるだけの事を調べてまいりました。そして発見した事実が一つ。近衛文香は、無免許だったと」
 どこからか小さく、「だからなんだ?」と言う声が上がった。
「いやいや、重要な問題です。例え近衛文香が男性並みな身体の大きさで、筋力もあったとしましょう。それでも、一人の遺体を担いで何キロもの道のりを歩き、死体を遺棄する。そんな芸当、やってのける事が出来ると思いますか?」
 今度は誰も何も言わない。
「彼女には共犯者がいたのです。そしてそれは男。しかも車があり、免許も持っている。困った近衛文香を助け、ターゲットを殺害し、遺体を埋めた。こう考えるのが自然で良いとは思いませんか?」
 そして私は誰の返事も待たず、今度は近衛文香の左横に、別の名前を書いた。
“多田君枝”
 振り向けばやはり、向こうに座る多田頼子が目を丸くしていた。
「近衛頼子には、仲の良い友人がいました」私は声を張り上げる。
「それがこの人、多田頼子です。元はお金持ちでいい所のお嬢様だったみたいですが、不慮の事故で両親をいっぺんに失い、それ以降は天涯孤独のまま一人で生きていたみたいです」
 そして今度はその多田君枝の名前の横から矢印を引っ張り、その先に大きな“?”を書いた。
「彼女には、彼氏がいました」私は言った。
「いや、彼氏と言うよりも婚約者と言った所でしょうか。なにしろ彼女には、子供までいた。――子供の名前は、“多田頼子”。まだ籍こそ入れてはいなかったが、しっかりとその両親に望まれて生まれて来た、そんな子供でした」
 私はあえて、多田頼子の顔を見ずにそう語った。ここから先は、ますます話し辛いものになるからだ。
「本当は、頼子が生まれる前に籍を入れるつもりだったのかも知れない。もしくは彼の事業が軌道に乗ってからと言う話だったのかも知れない。――だが不幸にも、彼は多田君枝ばかりに愛を注げない状況になってしまった。それは……」
 今度の矢印は、なるべく太いものにした。“彼”である“?”のマークと、近衛文香を矢印で結び、そしてペンの先でそれをトントンと叩いた。
「“彼”は、多田君枝の友人である近衛文香に、多くの時間を割くようになってしまった。――それは、男女間の仲? いいえ、もしかしたらそれもあったかも知れませんが、実際は彼女の手助けが主だったに違いない。そう、近衛文香の共犯者は、多田君枝の婚約者である“彼”だったのです」
 そして私は急いで場所を移動する。衝立の一番右側、被害者達五人の名前の横にである。
「そして“彼”は、近衛文香を助けてこの五人を殺した。いや、殺しを手伝ったと言うべきか」
 またしても私は、その衝立にペンを走らせる。五人の名前の上から引かれる矢印と、その先に書いた、“場所”と、“目印”と言う文字。
「どうして瀬沼梢は、見た事も逢った事もない、存在していた時間すらも違うこの五人の遺体の在り処を知り得たのか。それは実に簡単なトリックでした。単純に、教えてもらったのです。近衛文香、本人に」
 言うと梢は、うんと頷く。しかも力強く、間違いないと言うように。
「もちろん、近衛文香はとうの昔に亡くなっています。ですが、その魂は残っていた。自らが殺し、そして埋めて回った遺体の数々。きっとそれは性格によるものなのでしょう、生めた場所すら“掘り返せるように”と、目印を付けた。何十年と経ってもその目印が変わらないよう、なるべく不変そうなものを選んでね」
 まず最初に私は、“櫻井通明“から始めた。その名前の横に、”富士山と幽霊柳“と書きながら、「頭の良い女性だったみたいですねぇ」と、付け加えた。
「この櫻井通明が埋まっていた場所は、東京都町田市にある大型スーパーマーケットの駐車場の一画でした。ここには地元民ならば誰もが避ける、そんな木がありました。通称、幽霊柳。切ると祟られるとか呪われると言い伝えられる、しめなわの張られた御神木のような木でした。
 そしてその木から、晴れた日には良く見えるであろう富士山の方向を向き約七歩。――どうです? 柳の木も富士山も、よほどの事がなければ消し去る事なんか出来ない。そんな不変性を持っています」
 次は、“相葉久志“。”埼玉県和光市、廃工場のマンホール“と書き記す。
「彼の遺体が遺棄されていた場所は、なんの目印も無い場所でした。だけど目印なんて必要ありません。なにしろその工場自体が不変なものなのですから」
 下に、“土壌汚染”と書く。工業用オイルによる汚染、見積もり数億円と追記しながら。
「きっと彼女は知っていた筈だ。この工場には買い手が付かない事を。なにしろあれだけの広大な敷地で、そのほとんどが草木も生えないほどにオイルが染み込み、そして放置されていた。
 もしもあの土地を買ったものがいたとしても、最初にあの汚染された地面をなんとかしなければならない。その為に掛かる費用、産業廃棄物扱いで数億円。――誰が欲しがりますか、そんな土地。従ってあの廃工場は、放っておいても買われない。不変である以上、目印なんか要らない。スーパーの駐車場のように、元にあった建物が壊され、更地になる可能性が物凄く低かったからだ」
 そして次に、“松本康介“に移る。
「彼の遺体は、東京都桧原村の山中。目印は、バツの印の岩と岩」
 言いながらそれを書き込む。そしてついでに、“木々に刻まれた傷”と追記して。
「ここで彼女は、初めてミスらしいミスをおかしました。それは、この現場のバツ印の岩に辿り着くまでにあった、真新しい木々の傷です。――ねぇ、梢ちゃん?」
 聞いて梢は渋い顔をして頷く。
「この現場の目印もまた、限りなく不変に近かった。道を挟んで繋がった岩と岩の間。そこに目印があるにも関わらず、そこへと至る道の木々に真新しいナイフ傷。これが一体何を意味しているかと言えば、車でそこへと向かう途中で岩の場所を見過ごさないように事前に付けた、その傷だった」
 衝立に新しく、“現場”と書き、そしてその横に“事前検証”と書いた。
「彼女は我々を現場に案内するよりも先に、どの現場にも一度足を運んでいる。それは何故か? それは彼女が“近衛文香”本人ではないからだ。
 もし彼女が本当に近衛文香だったのなら、過去の記憶に従い、うろ覚えのまま現場を探した事だろう。だが彼女は、そうしなかった。何故かと言えば彼女はどの現場もまるで知らない。土地勘もなければ見た事すらない。ならば例えその場所を知っていたとしても、一回で辿り着ける可能性は物凄く低い。だからこそ彼女は、近衛文香たる人物になり切ろうとするあまり、事前に現場に足を運んだ。なるべく一回でその場所へと案内出来るよう、場所の確認をしていたんだ」
 そして私は、“木々に刻まれた傷”と言う記述を、丸で囲う。
「木々に刻まれた傷は、どれも一定の高さで進行方向左側に付いていた。要するに彼女は、その現場に足を運ぶならば間違いなく車だと確信していた。そして自分が乗るならば助手席側――つまりは左側。現場の岩を見落とさないよう、最近になって付けられた傷だった。
 そしてそこから何が判るかと言えば……彼女はどの現場においても、必ず遺体を見付けなければならなかった。もしも一回でもしくじれば、次は協力してもらえないかも知れないからだ」
「どうして?」
 誰かからの声に反応し、私はペンを“大野公安”の所で叩き付け、「どうしても、この男の所まで発掘したかった」と、大声で言った。
「皆さん、本日の一件でご存じの通り、最後の遺体は日本でありながらそうでない場所、U国の大使館の中にあった。――まぁ、当時はただの更地であって、基礎工事していただけの場所だったので知らなかったかも知れないですけどね。
 だが、今はそんなものが建っている。ここを掘り返すには、一筋縄では行かない事を知っている。それこそ今日のように、マスコミに手伝わせ、掘り返さない訳には行かないぞと言う状況に持ち込まなければいけなかった。ならばそれまでの経緯で、失敗は許されない。彼女こそが遺体を埋めた張本人であり、そして長い時を超えて蘇った人間であると信じ込ませたかった。その為に、彼女は事前の努力を重ねてミスを減らす苦労をした」
「しかし……なんの意味があると言うのですか。彼女がその“近衛文香”でないのだとしたら、全くの赤の他人じゃないですか。そんな嘘を吐いて、自分の立場を悪くしてまで、この事件を終わらせたいと言うその行動の意味が判らない」
 立ち上がった、男性記者がそう聞いた。そして私は彼を指差し、「そこです」と、告げた。
「実は私にもそれが判らなかった。どうしてこんな、何の得もない事を彼女は始めてしまったのか。そこだけが疑問でした。
 もしかしたらそれは彼女の中に芽生えた同情心か、正義だったのかも知れません。それが手記なのかそれとも音声テープなのかは知りませんが、彼女――瀬沼梢は、生前に近衛文香が残したそれを発見し、決心する。
 彼女が何をされたか。そして彼女が殺した男達は、どこに埋められたのか。それを全て頭の中に叩き込み、幾度も幾度もシミュレートを繰り返した挙句、行動に移した。
 だが、動機としては薄い。そんな真似をしたってもう亡くなった近衛文香は喜ぶ筈もないし、瀬沼梢と言う存在はこれから先も非常に生き難い立場になるだけ。全くなんのメリットも無い。じゃあ、どうして――?」
 彼女を見る。梢は何も言わない。
「君は、誰かを告発したかった」ゆっくりと、言葉を区切りながら言った。
「君がここまで苦労して、君と言う人間の人生を棒に振ってまで訴えたかった誰かがいた。そしてそれは半ば叶った。君の思惑通り、いやそれ以上に大きなミスをして近付いて来たからね」
 そして梢は頷いた。大きな、どこか安堵めいた肯定の行動だった。
「さて、皆さん。ここで一人、また新たな登場人物が出てまいります」
 私はそう告げ、“多田君枝”と言う名前のその下に、もう一人、別の名前を書き込んだ。
“瀬沼愛子”
 そう、瀬沼梢の母親である、今もこの会場にいて最前列に近い場所でこれを聞いているあの女性だ。
「先に、種明かしをします。ここから、“近衛文香”と言う女性の名前は消えます。実は最初からこの女性は、この事件になんの関わりもありません。彼女はただ単に、“瀬沼愛子”さんとほんの少しだけ同じ仕事をしていた。ただそれだけの関係です。実際はこの事件とは全くの無関係のまま、名前だけが使われていただけなのです。
 だが、この被害者達に監禁され、そしてその復讐として加害者に回った。今までその役だった近衛文香のモデルはいます。それが、この人。“瀬沼愛子”さんです。
 事件は全て、彼女から始まった。この五人の男達に蹂躙され、そしてその人生を狂わされた。そして復讐の鬼と化したのはこの女性。
 今までずっと狂言を続け、近衛文香を演じて来た瀬沼梢ちゃんのお母さん、瀬沼愛子さんがその元凶だったのです」
 向こうの席で、瀬沼愛子の目が見開かれる。そしてその顔色はどす黒く見える程に赤く染まった。
「だが――実在する瀬沼愛子さんは、実際は本人ではありません。実在した瀬沼愛子さんは、もうとっくに亡くなりました。
 さぁ、それではこの人物トリックの謎に迫りましょう。みなさん、覚悟はいいですか?」

 *

 その時、亜絲花荼枳尼は自宅である廃病院の一室で、それを聞いていた。
 ラジオから伝わる、事件現場の生中継。それを聞きながら、微笑んでいた所だった。
「頑張って。真相はもうすぐよ」
 荼枳尼は呟く。そしてラジオから、再び粕谷の声が流れ出した。

 その時、乾流人は地下鉄の電車の中にいた。
 粕谷にもらったウォークマンのイヤホンを両耳に刺し、チューナーをAMラジオに合わせ、その生中継を聞いていた。
「いい感じじゃない、名探偵」
 流人はそう言いながら、微かに微笑む。そしてそのまま目を瞑り、山手線三周目に突入した。

 *

「私は、こう推理します」
 もはや誰も野次を飛ばすものはいなくなった。
 私の歩く靴音ですら高く響く、そんな静寂の中で話は続いた。
「男達に犯され、そして間もなく殺されるだろう運命を辿りつつあった瀬沼愛子。だが一人の男の不注意のおかげで、そこから命からがら逃げ出す事が出来た。
 そして復讐を誓う彼女を助けたのが、多田君枝の彼である某男性。彼は懸命に瀬沼愛子を助け、その復讐を遂げさせた。
 だがそこに、不幸な誤解が生まれた。それは婚約者である多田君枝が、彼の不穏な動きに気が付いてしまった事。
 もしかしたら彼は、瀬沼愛子の手伝いをしている間、ずっと多田君枝をないがしろにしていたのかも知れない。殺人ほう助に全力を尽くすあまり、恋人である彼女を放っておく事が多くなってしまったのかも知れない。
 それを多田君枝は浮気か何かと勘違いし、そしてその怒りが加速して、彼を――殺してしまった」
 えぇっと、会場内がどよめいた。
「道理で彼だけ浮いていた筈です。どの死体遺棄現場でも迷う事なく場所を言い当てていた梢ちゃんが、彼の遺体だけはなかなか見つけられなかった。それは何故か――。それは恐らく、瀬沼愛子が残した手記に、彼の遺体の隠し場所だけなかったからです。
 だってそうでしょう。彼だけは瀬沼愛子ではなく、多田君枝が殺してしまったのだから」
 向こうで瀬沼愛子――と、名乗っていた女性が、蒼白な顔でそれを聞いていた。
「そしてヒントはもう一つあった。先程の会見で瀬沼梢ちゃんはこう言った。“どの男も、ろくな定職に就かずに遊び歩いているだけだった筈”と。
 だけど彼だけは違う。若いながらも雑貨店を経営し、それを軌道に乗せようとしていた。他の四人とはまるで違う世界に生きていた、そんな人だ。
 この被害者の四人目、“二宮孝之”。彼こそが多田君枝の婚約者であり、そして瀬沼愛子の殺人のほう助をし、この哀しい事件の第二の幕開けを作ったきっかけとなる人だったのです」
「ちょっと待ってくれ!」会場の奥から、声が上がる。
「じゃあ、なんだ。瀬沼愛子って言う人間は、結局生きているのか、死んでいるのか?」
「死んでいます」私ははっきりとそう告げた。
「本物の瀬沼愛子は、もう既にこの世にはいない人です。先程の瀬沼梢の演技のように、事件後、自ら命を断ちました。
 ――あぁ、訳が判らない? じゃあ、こう書きましょう」
 私は隣の衝立の前まで小走りに駆けて行って、そこに新しくこう書いた。
 まず最初に、“多田君枝”。そしてその下に、“娘・多田頼子”と。
 そしてその隣に、“瀬沼愛子”。そしてやはりその下に、“娘・瀬沼梢”と。
 それから私は、多田君枝の名前を丸で囲み、矢印で瀬沼愛子の名前に上に。そうしてから、多田君枝の名前を大きくバツ印で消した。
「今いる瀬沼愛子と言う存在は、実は多田君枝さんです。――入れ替わったんですよ、瀬沼愛子が死んだと同時にね」
 ここまで合ってる? 目でそう聞けば、瀬沼梢は小さく頷いた。
「場所は多分、多田君枝の自宅だっただろうと予想されます。久し振りに婚約者の家を訪ねた、二宮孝之。だがその背後から襲われたのか、彼は多分、血痕の残らない絞殺か何かで殺された。
 そして殺した方の多田君枝は、もう二歳にもなる娘の頼子を連れて家を出た。もしかしたらどこかへと逃げるつもりだったのかも知れません。
 そして今度はその多田君枝の家に、友人である瀬沼愛子がやって来た。そして彼女はそこで、二宮孝之の死体を見付ける。
 それから彼女は、そこで何を思ったか。もうこれは私個人の推測に域は出ないけれども、生き甲斐を失った。そんな気分だったんじゃないかなぁと、思っています。
 もうお判りでしょうけれど、瀬沼愛子には非摘出子がいます。それがそう、彼女――瀬沼梢です。恐らく父親は、この四人の男の誰か。そんな境遇の中で生まれた子供です。あぁ、大丈夫。彼女はそれを乗り越えて、ここにいるのですから。
 だが彼女は、ちゃんと自分の子供は愛していた。それが証拠に、生き甲斐を失い絶望の淵に立ったその瞬間でさえ、我が子を道連れにとは思わなかった。むしろその書き置きに、“梢をよろしく”とまで書いて置いておいたぐらいですからね。――ねぇ、君枝さん?」
 ハッとして、瀬沼愛子――いや、多田君枝は顔を上げる。
 彼女は小さく頷いたかのようにも見えたが、すぐにまた顔を伏せてうなだれた。
「瀬沼愛子は、二宮孝之の遺体の傍で死にました。多分、首でも吊ったのでしょう。
 そして今度はそこに、多田君枝が娘の頼子を連れて帰って来た。そして驚く。死体がもう一つ増えているのだから、当たり前でしょうね。
 そして残された愛子の遺書を見て、ようやく理解が出来た。何もかも自分の勘違いだったと。
 だがもう全てにおいて遅かった。君枝に残された道は、自首をするか逃亡するかのどちらかしかない。そうして彼女の選んだ選択は、“逃げる”事。但し普通に逃げたのでは必ず足が付く。そこで彼女が計画したのは、瀬沼愛子との入れ替わり。
 幸い彼女には運転免許があった。そして二宮の車を使い、彼の遺体を秩父の山中まで運び、遺棄した。
 そして自宅で首を吊っている愛子は、そのままにした。彼女の残した遺書と差し替えて、君枝は自らが書いた遺書をそこに残し、そして――我が子である頼子をそこに残し、梢を連れて瀬沼家へと帰る。
 いちかばちかの賭けだった筈だ。瀬沼愛子の死体が多田君枝の家の中で見付かり、それが多田君枝であると間違われたまま処理される、その可能性に賭けた。
 そして彼女はその賭けに勝った。そりゃあそうだろう、多田君枝の家の中で女性の自殺体が見付かり、索状痕(首吊り痕)に問題は無く、本人直筆の遺書があって、遺体の顔はパンパンに腫れ、それを他人と見分けられるだけの家族は誰もなく、しかもそこに残されていた二歳の娘は彼女の子供だと近所の人達が証言をしたら――それが他人だとは誰も疑わない。ごく普通に、“多田君枝、死因は自殺”とだけ書かれて処理される。後はただ、自分自身がボロを出さないよう、瀬沼愛子として暮らせばいいだけの話だった」
 ひどい――と、声が聞こえた。
 私はその声の主をあえて見ようとはしなかったが、多分それは多田頼子、本人だっただろうと思った。
「瀬沼さん。――いえ、多田君枝さん。あなたは二つ、大きなミスをしました」私は今度こそ彼女を見据え、そう告げた。
「一つは、差し替えた瀬沼愛子の遺書を、処分する事なく後生大事にしまっておいた事。そしてもう一つは、あなたが瀬沼愛子の家に住み続けながら、彼女の身の回りのものから危険なものを排除していかなかった事。
 もしかしたらそのどちらも、あなた自身の良心の呵責から来るものかも知れない。だがそれがきっかけで瀬沼梢は母の遺書を発見し、そして母が生前に残した過去のあやまちの全てを綴った手記を、家の中のどこからか見付けだしてしまった。
 そして――梢ちゃんは決心した。長い時間を費やし準備を整え、十四歳と言う若さで人生を投げ打つ覚悟をし、そしてあなたを告発する、その勇気を得るに至った。
 これが、この事件の裏側の全てです」
 ゆっくりと、垂水さんが前に進み出て、「多田さん」と小さな声で呼び掛けた。
「はい……」
 そして彼女は立ち上がる。蒼白な顔のままで。

 *

 ふぅと溜め息を吐いて、亜絲花荼枳尼はラジオの前で背伸びをした。
 そして名残惜しそうにラジオのスイッチを切ろうかとしたその瞬間――。

 ふんと鼻を鳴らして、乾流人は片方のイヤホンを外した。
「まぁ、合格点って所かな」
 そう呟きながら、足を組み替え目を瞑る。その瞬間――。

「待って下さい!」
 ラジオから、粕谷琢磨の叫びが流れ出た。

 *

 会場は騒然としていた。今まさに、多田君枝の腕に手錠が嵌められた瞬間だった。
「さぁ、行くか」
 言った所で、私は叫んだ。
「待って下さい!」
 垂水さんは振り返り、「なんだよ、カス」と、怪訝そうな顔をする。
「実はまだ、全部は終わってないんですよ」
 言うと垂水さんは、「何が!?」と気色ばむ。
「もう終わっただろう? これで全部だ。事件は解決だよ」
「えぇ、そうですね」私は彼に歩み寄り、そう返した。
「でもまだ、この事件の最深部にあるものだけは解決していません。事件はこれで終わりでしょうけど、もう少しだけ時間をもらえませんか?」
「なにがだよ……」
 言いながらも垂水さんは、チッと舌打ちしながら多田君枝から手を離した。
「実は私も、これで全て終わりだと思っていました」私は君枝に向かってそう言った。
「でも違った。まだ……あの子の本心が残っています。どうか聞いてもらえませんか、お母さん」
 言うと君枝は真っ赤な瞳で私を見上げ、「何を?」と聞いた。
「彼女――瀬沼梢は、あなたを告発したくてこんな芝居を打った。私はそう、解釈していました」
「いや実際そうなんだろうよ、カス。あいつだって言ってたじゃねぇか。これは純粋な、梢の恨みだって」
「違いますよ」私は頑としてそう告げた。
「ねぇ、梢ちゃん。――多分本人もそうだとは言わないだろうから、私が代わりに答えましょう。これは、彼女の愛情です。母を――そう、今までずっと母だと信じて疑わずに来た、彼女の本心からの愛情です。例え血は繋がっておらずとも、あなたを好きだった事には変わりない。だからこその最後の愛情がこれなんです」
「訳がわからないわ。これは、私への恨みでなくて何だって言うの?」
 君枝は嵌った手錠をじゃらじゃらと言わせて、そう聞いた。
「あなたが苦しんでいるの、気付いてたんです」私は言った。
「婚約者をその手で殺してしまった罪。そして自分の友人だった人を自殺に追い込んだ罪。そしてその友人の子供に嘘を吐き、自分の子だと言いくるめて育てて来た罪。そしてなにより――」
 私は多田頼子の方を向いた。そして彼女も気が付いたようだ。
 今そこにいる女性こそが、自分の母親であると言う事に。
「おかあさん……?」
 ビクっと身体を震わせ、君枝は反応した。
「あなたと娘さんを、逢わせたかったんですよ。嘘の無い、ごく普通の親子として」
「――梢」
 向こうで梢は、そっと目を伏せた。
 そして頼子は帽子を脱ぐと、「おかあさん!」と叫んで駆け出した。

 *

 ラジオのスイッチを切り、ソファーの上で寝転がり、「やられたなぁ」と、亜絲花荼枳尼は呟いた。
 時計の時刻は夜の八時。今夜は別の意味で眠れないだろうなと考えながら。

「ウソだろう?」
 乾流人はウォークマンのスイッチを切りながら、そう呟いた。
 考え得る限り、彼にとっての最初の敗北だった。
 目を瞑り、山手線五周目の旅へと挑戦しながら、流人は苦い顔をして天井を向いた。

 *

「本当にいいの?」
 聞けば瀬沼梢は、「しつこいわね」と、無理矢理にそれを押し付けた。
 それは、今までずっと隠されて来た瀬沼愛子の手記と遺書。もちろんUSBメモリーなどではない原本の方である。
 私は個人的な部分に関わるからとそれを辞退したのだが、「母は、あなたになら知ってもらいたいと思うの」とこじつけて、それを私に託したのだ。
「じゃあ、預かるよ。必要になったら、いつかまた取りに来て」
「うん。もう、必要無いと思うけどね」
 そう言って梢は背を向ける。私は堪らず、「ねぇ君、これからどうするんだい?」と聞けば、「どうでもいいじゃない」と、彼女は答えた。
「どうでも良くない。行く宛てはあるのかい?」
「それこそ余計な詮索よ。――大丈夫、私はこう見えても結構な歳だから」
 そう言って微笑む瀬沼梢を見て、「辛くなったらいつでも連絡しろよ」と、言わずにはおれなかった。
「そうね。気が向いたら電話するかも知れないわ。――尤も、そうそう気が向くとも思えないけど」
 憎たらしい事を言いながら、今度こそ瀬沼梢は立ち去った。
 そして私は、なんとなく寂しい気持ちでそれを見送った。
 彼女が小声でこっそりと、「ありがとう」と呟いた事は知らないままに。
 ――後日談だが、瀬沼愛子――いや、多田君枝の裁判がようやく始まった。
 彼女の犯した罪は、二宮孝之の殺害のみ。暴漢を雇った事などは、被害者が私なだけに不問にしてもらっていた。
 そう長い懲役にもならずに済みそうだとは、垂水さんからの情報である。
 多田頼子は、君枝が出来るのをいつまでも待つ覚悟の様子だと聞いた。
 どうでもいい事だか、この事件に関する世の中の噂はあっと言う間に廃れた。誰もが野次馬的に食い付いたのはいいが、結果は誰もが望んでもいない終わり方をしたせいだろう。ほとんど大きな話にも発展せず、世論から消え去った。

 あれから私は、再び孤独になった事務所の中で、前と変わらない生活を送っていた。
 垂水さんから頂戴した捜査依頼金は、溜め込んだ事務所の家賃であっと言う間に消え去った。
 荼枳尼さんから預かった、ナイフの穴の開いた札は使わずにおこうと心に決めていたのだが、生きて行く上で食うに困るほど哀しいものはない。今日もまた、長野方面に向かって手を合わせながら、封筒の中の一万円札を一枚、抜き出した。
 私は、二人が残して行ったリクライニングのソファーに寝そべり、ヘッドマウントディスプレイで“The Berzerker”を聴きながら、梢から預かった瀬沼愛子の手記を読む。
 私の――いや、そのほとんどは流人のものだが――推理と大筋では合っているものの、細かい部分はやはり本人の談でなければ判らないものだ。
 瀬沼愛子と二宮孝之はやはり男女の関係ではなかったものの、愛子にしてみればその生涯でたった一人、信じて愛していた男。それが良く判った。
 二宮孝之と言う男も、かなりお人好しで人情家だったのだろう。雑貨屋経営とは言うものの、雇った店員に騙されて二度も倒産仕掛けた事までもが書かれてあった。
 だが、だからこそ婚約者の友人と言うだけの関係の愛子に、殺人ほう助などと言う手助けまでもが出来たのだろう。理由が理由であったとしても、お人好し過ぎるその性格だけは嫌と言う程判った。
「お人好しな性格じゃあ、この世知辛い世の中、渡ってはいけないよ」
 私はまた一つ、自戒の言葉を作り上げた。これこそハードボイルドだと自惚れながら。
 そして今度は、文吾から預かった近衛文香の手記を取り上げる。
 結局彼女は、瀬沼愛子から貸し金庫の鍵を預かったと言う以外、なんの接点もない人物だった。
 彼女の書いた手記はひたすらに暗く、孤独で支配されていたものの、その中に唯一明るい話題がそれであった。
“これは信頼なのかどうかはわからないけど、今日私は、同僚のとある女性から鍵を預かった。大事な鍵だからこそ預けたいのだと言って私に渡した。戸惑ったけど、私はそれを受け取った。東京に来て初めて、私は大役を任されたような気分になった”
 けれどそれ以降、愛子に繋がるだろう部分は一ヵ所しか見付からない。
“彼女が仕事を辞め、一カ月が経った。未だに鍵は手元にある。どうしたら良いものだろう”と。
 そしてその鍵は、死を決意した近衛文香自身の手によって、実家へと送られた。
 自殺を覚悟してなお、愛子から預かった鍵だけは守ろうとしたのではないか。なんとなく私にはそう思えた。
“辛い。凄く辛い。家に帰りたい。桃の花が満開に咲く、あの家に帰りたい”
“次、生まれ変わったら、私は私じゃない別の誰かになりたい。こんな暗い性格じゃない、明るくて元気な誰かになりたい”
 文香の書いた、そんな一文が私の手を止める。
 ――なぁ、君はどうしてこんな世知辛い都会になんか出て来たんだい?
 ここに来れば、自分が変われるとでも思ったのかい? そう思って、君は変われたかい?
 せめて――このノートに綴られているように、違う誰かに生まれ変われていたらいいなと。私はそう思わずにはおれなかった。
 ノートを閉じる。いい加減、耳に流れ込むノイジーな曲に嫌気が刺し、ヘッドセットの電源を切る。
 そっと眠気が訪れる。あぁ、色々と疲れたなと思いながら、私はゆっくりと瞼を閉じた。
 そう言えば、どうして瀬沼梢は近衛文香などと言う見知らぬ他人の事を知り得たのだろう。愛子の残した手記にさえ、そんな名前など一言も出て来なかった筈なのに。

 *

 あれから一カ月が過ぎた。
 吹く風もようやく暖かくなり、厚着なおねぇちゃん達が春色の薄手な服に着替え始める頃――。
 何故か私と垂水巡査部長は、真夜中の峠の道を車で走っていた。
「なぁ、おい、カス。この道は間違っちゃいねぇか。どう見てもこの先は人の住まない悪霊の棲家行きな道だぜ」
「何言ってんですか。前にも一回、同じ道を通ってるでしょう」
「いやいや、あの時とは全然違うぜ、この道は。何しろこの禍々しい雰囲気はただ事じゃねぇ。あの道の向こうから火を吹く黒い馬に乗った死神がだなぁ……」
 言った瞬間、曲がりくねったカーブの向こうから、バイクが数台、物凄い勢いで向かって来た。
「うわっ、危ない!」
 私は咄嗟にブレーキを踏み、ハンドルを切った。そしてその慌てようは向こうも同じだったらしく、正面衝突しそうになった一台が、すんでの所で車を避けて横転した。
「おいっ、大丈夫か?」
 私と垂水さんが車を降りて声を掛けると、まだ少年らしいその子供は、「ひいいっ!」と悲鳴を上げ、バイクを起こして走り去った。
「何ごとだ?」
 聞かれて私は、「さぁ」と答えたもの、なんとなく予想は付いた。
 再び車を走らせしばらく行くと、ようやく懐かしい、ついでに物凄く気持ち悪い、あの廃屋の病院が見えて来た。
 車を停め、エンジンを切る。耳が痛いほどの静寂が襲って来る。
「おい、まさか、本気で行くつもりじゃあねぇだろうな」
「行きますよ。嫌なら垂水さん、ここで待っていて下さい」
「――出来るか、そんな真似」
 差し出した懐中電灯をひったくり、垂水さんはドアを蹴り開け外へと飛び出た。
 私もまた苦笑をしながら後に続く。ビームに照らされたその廃屋は、前に見た時よりもまずます凄味が増しているように感じられた。
「垂水さん、何階でしたっけ?」
「知らん。確か二階だったような気がする」
「四階、西側ですよ」
「判ってるなら聞くなよ」
 そんなやり取りをしながら、真夜中の病院を歩いた。
 廊下側に開けっ放しなままでいるドアの数々が、やけに恐怖感を倍増させてくれている。
 四階へと辿り着き、西側通路を目指す。途中で出て来る鉄格子の存在に、「なぁ、なんだこれ?」と、垂水さんは聞いて来る。
「だから閉鎖病棟だったんでしょうねって、何回聞いたら気が済むんです」
「まだ一回しか聞いてねぇよ!」
「二カ月前に聞いてますから。――あぁ、あった」
 廊下を曲がり、それを見付けた。
 部屋から漏れ出す、断続的な灯り。ただそれは、前に見たものとは少々違って、やけに明るくけばけばしい。
「おぉい、ルジン。いるのか?」
 そう言って部屋を覗けば案の定。テレビのモニターを眺めながら、ヘッドホンで何かを聴いている流人の姿が目に入る。
 私はそっと彼の背後に近付いて、そしていきなりそのヘッドホンを取り上げた。
「あぁ――? なんだ粕谷探偵か。驚いたな、どうしてここに?」
 流人は全く驚いた素振りも見せないまま、そんな事を言う。
「久し振りだなルジン。元気そうでなによりだよ」
 私は言った。
 彼と言う存在は私にとって非常に懐かしいものではあったが、そのヘッドホンから流れ出る“The Berzerker”の曲と、部屋の天井で瞬いている色とりどりのライトが、彼の変化を教えてくれていた。
「なぁルジン。ここに来る途中で悲鳴をあげて逃げ出す暴走族軍団と鉢合わせしたんだが」
「へぇ、面白いね。それは是非に僕も見たかった」
 言いながら流人は手元のキーボードを操作する。すると今までこの廃病院の各所を映し出していただろう映像は切り替わり、いつもと同じ砂の嵐に切り替わった。

「いや、悪いが断る。僕もそんなに暇じゃないんだ」
 流人はコークハイをテーブルに叩き付け、そう言った。
「そう言うなよルジン。とりあえず話だけでも――」
「聞く気は無い。とりあえず今夜の所はここに泊まっていいから、明日の朝には帰ってくれ」
 取りつく島もないような言い方だった。
「先に言っておくけど、俺は手術室と霊安室だけは勘弁な」
 垂水さんが日本酒のお猪口を片手にそう言うと、「前回と同じ事ばっか言うなよ」と流人は悪態を吐く。
「いや、前回それを言ったのは私だ」
「別にどっちでもいいよ。全く進歩がないな、君達は」
「それよりとにかくこれを見てくれ。先日、私が撮って来たスナップ写真だ」
「見る気なし」
「ほぉら、これなんて凄いぞ。家の軒に無数の人形がぶら下げられてある。そしてこっちなんかもっと凄い。まるでガーデニングしているかのように、地面に人形が植えられている」
「アングラ芸術の講義なら他所でやってくれ。ここでやられると非常に迷惑だ」
「島中、人形だらけなんだ。まるで人形だけで成り立っているような、そんな島だ」
「訳がわからない。君は僕に何を言いたい?」
「島から、人が消えたんだ」
「……」
「おっ、奴さん食い付いたな。いいかい、ルジンさんよ。この島ってぇのは小笠原諸島の一つで、古くから数十人程度の人間がつつましく暮らしていた小さな島でな」
「いや、待ってくれよ。僕はその話を聞きたい訳じゃないんだ。迷惑してるんだ、迷惑!」
「どうしたって言うんだ、ルジン。なんで急にそんなぶっきらぼうに……」
「そりゃああなたに負けちゃったからよ。悔しいのね、リュウちゃんは」
 突然、背後からの出現に、私と垂水さんはまたしても、「ひゃあ」とか、「うわぁ」とか、やたらと情けない声で怯え驚く。
「え、あ、あれ? 荼枳尼さん」
 年甲斐もなく、妙にときめいてしまう。相変わらず古風で美しい人だった。
「負けたって……何が?」
 聞くと流人は、「黙っててくれ、ダキニ!」と、怖い口調で吠えた。
「でも、今回も随分と面白そうね、この事件。それでお二人は、一体何に困っているのかしら?」
 そう言って荼枳尼さんはテーブルの上の写真を取り上げる。
「やめろよダキニ。今回は僕は手伝わないぞ」
「ふぅん……人形崇拝な宗教ねぇ。そしてある晩、忽然として島民全てが消え失せた……か。まるでホラーのようね」
「そう。だけどそこにはただ一人、その一部始終を目撃したであろう少女がいた」
「うん、それも“視えた”わ」
「その少女は、事もあろうに私達を名指しして来た。――そう、私と、ルジン。あの中継をどこかで見ていたんだろうね。彼等二人にしか真相は話さないと、そう言っている」
「ふぅん」笑いながら荼枳尼さんは言った。
「面白いですね。ぜひ私も、仲間に入れて欲しいわ」
 それは是非! と、言いそうになってやめた。背後で、テーブルに何かを叩き付ける音がしたからだ。
 恐る恐る振り返る。見れば、コークハイのグラスを掴んだ流人が、怖い顔で私を見上げていた。
「受けよう、粕谷探偵」
「――え?」
 流人は、言いながらそっと眼鏡を掛け直す。
「とりあえず、話を聞こうか」
 その顔は、いつもの鉄面皮のような無表情だった。
 垂水さんは面白そうにヒュウと口笛を吹き、そして私は散らばった写真を拾い集めながら、「さて、どこから話せばいいのかなぁ」と、腰を落ち着け語り始めた。



 【 エピローグ 】

 一人の少女が、歩いていた。
 大きなバッグを下げ、春色のスカートをなびかせながら、たった一人とぼとぼと。
 長い長い桃の花の道を抜け、一軒の古い家の前へと辿り着く。
 鍔の大きな帽子を上げ、少女はその家を仰ぎ見た。そしてそこから覗く瞳には、郷愁と同時に堪えきれない程の感情のこもった涙が、うっすらと滲んで見えた。
 カラリと、家の玄関の戸が開いた。そこから顔を出した老人男性は、その少女の姿に気が付いて――そして目を逸らした。
 老人は、手にした子供用の如雨露で庭先の花に水をやり、そしてそれが空になると同時に、また玄関の戸口に引っ込んだ。
「あ……あの」
 少女が、意を決したかのように口を開く。老人はそっと振り返り、少女を見た。
「なにか?」
「あの……失礼ですが、もし良かったら家の中を……」
「中を?」老人は険しい表情で向き直る。
「中を、なんだね」
「家の中を、見せていただいても……よろしいですか?」
 そして沈黙。老人はしばらく黙ったままでいたが、やがて小さく低い声で、「駄目だよ」と、そう言った。
「知らん人間を、中に入れる訳には行かねぇ。帰ってくれ」
 そして老人は、戸を閉めようとする。
「待って下さい!」
 少女は走り寄る。そして閉められようとする戸口にすがり、「待って……」と呟く。
「なんだね」
 老人――近衛文吾は振り向いた。
 だが、少女はもう何も言葉にはならなかった。文吾の背後に見える土間を眺めながら、ポロポロ、ポロポロと涙をこぼし始めたのだ。
「なんだね?」
 文吾は少し語気を荒げながら聞く。だが少女は何も言えないまま首を振るだけ。
 すると文吾は前に立ち、そっとその少女に向かって手を伸ばす。少女はびくっと首をすくませ目を瞑るが、文吾の手はその少女の頭の上にあった。
「帰って来たら、なんて言うんだ文香」
「……」
「“ただいま”じゃあないんか。二十年近くも音沙汰無しで、ただいまの一つも言わずに帰って来るんかお前は」
 文吾の無骨で大きな手が、少女の頭をくしゃくしゃと撫でつける。
 すると少女はか細いぐらいの小さな声で、「……ただいま」と呟いた。
 ざあっと周囲の木々を揺らしながら、二人の頭上で大きな風が吹き抜けた。風は散った桃の花びらを巻き上げて、少女の背後に優しく舞い降りる。
「おとうさん……ただいま。……おとうさん、ただいまぁ……」
 言いながら少女は嗚咽を上げる。
 文吾はようやく笑顔になると、「おかえり」とそう言って玄関の戸を開いた。





《 乾流人シリーズ1・黄泉ナル殺意ト桃ノ花 了 》





【 あとがき 】
もう何も書けません。
ホントにホントにごめんなサイ。
能力不足、痛感しました。ごめんなサイ。


瞬☆ザ・70’sグレイテストヒッツ(スーパー・サタデーナイトフィーバー)


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