Mistery Circle

2017-07

《 緊縛の果実 - Lilith is inside - 》 - 2012.07.06 Fri

『箴言』二章十八、十九節
 彼女の家は死へ落ち込んで行き
 その道は死霊の国へ向かっている。
 彼女のもとに行く者はだれも戻って来ない。
 命の道に帰りつくことはできない。

『死海文書4Q184』
 彼女の門は死への門であり
 その家の玄関を 彼女は冥界へと向かわせる。
 そこに行く者はだれも戻って来ない。
 彼女に取り憑かれた者は穴へと落ち込む。


【 リリス (Lilith)】
 メソポタミアにおける女の妖怪。寝ている男性の夢へと入り込み、性的な誘いをする。
ジョン・コリアの作品、『Lilith』(1892年)には、体に大蛇を巻きつけて恍惚の表情を浮かべるリリスが描かれている。
 イブが作り出される前に、アダムと共に土で作り出され、アダムの妻となった存在とも伝えられている。


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《 緊縛の果実 - Lilith is inside - 》

 著者: 麗九楼







 ――リュート・D・クロフォード。
 米国、マサチューセッツ州にて。


 私は、彼女を見ていた。
 そして彼女も、深い緑に染まった細い瞳で私を見つめていた。
 言葉は何も要らない。交す必要性すら感じない。彼女は衣服をまとわぬ裸体のままで、片手に小さく青い林檎を持ちながら、横目で私を誘惑していた。
 染み一つ浮かぶ事のない真っ白な肌。小さな乳房に未発達な腰。すらりと伸びる手足は細く、発展の途上にある女性以前の、ティーンエイジな“少女”に見える。
 ――こっちへおいで、リリン。
 手を差し伸べ、無言のままそんなジェスチャーをすると、彼女もまた無言でそれに従う。
 両手足、そしてその白く細い首に巻かれた金属製の“枷”が、ちゃらちゃらと乾いた音を立てる。革張りのソファーに寝転がる私に覆い被さるようにして、その軽くて冷たい少女の肢体がもたれ掛って来る。
 彼女は手にした林檎にキスをして、それを私の目の前へと差し出す。そして私はそれを要らないとばかりに撥ね退けると、彼女の首に嵌った枷を引っ張るようにして、細いチェーンを引き寄せた。
 長いブロンズの髪が私の頬をくすぐる。そして彼女は片手でその髪をかき上げながら、私の唇を求めて来た。
 瞬間、胸の奥で例えようもない熱い何かが込み上げて来る。
 もはや一人で立ち上がる事も、歩く事すらも辛くなってしまった老体だと言うのに、何故なのだろうこの懐かしき高揚は。
 少女の身体の重さを全身で受け止め、息が止まりそうになる程の熱いキスで舌を絡め合い、そのか細い肢体を両手で抱き締める。
 ――リリン。その、宝石の如き大切な少女の名前だ。
 リリンのキスは常に長い。その小さく薄い舌の先は私の体内の奥にある魂までも絡め取ろうとするかのように、くちゅくちゅと淫靡な音をさせながら口内を暴れ回った。
 緑の瞳が、挑発的に私を睨んでいた。キスの際に目を閉じないのも、彼女の癖の一つだった。
 首筋に塗られた“Succubus(サッカバス)”と言う名の香水が、私の呼吸を尚も困難にさせてくれる。私はむせ返りながら、それでも彼女とのキスを拒もうとはしない。
 何故か? ――もしもそんな行為で私が死ぬのならば、それこそ本望であるからだ。
 もはや彼女が与えてくれる快楽と苦痛は、私の服従欲を満たすものでしかない。それが彼女から私に与えられるものであるなら、死ですら甘美な栄光に代わる。
 私は彼女を支配し、そしてその見返りとして服従の愉しみを受け取る。
 この限りなく短い人生の最期に相応しい、最高にして最上級のゲームがそれだった。
 少女の腕が伸び、私の下腹部をまさぐる。もはや生殖と言う行為において完全に機能を止めてしまった私の生殖器ではあるが、それでも彼女に触れられさえすればそれなりに心地が良い。彼女にされるがままになりながら、突き出る吐息で私は仰け反る。
 彼女の舌が私の唇を離れ、首筋を這い、乳首の周辺を舐め回す。そして私はうっとりと目を閉じ、思いを馳せる。
 ――これが最後の行為になるのだろうか。それとも私はまだ生き延び、もう一度彼女に愛される事になるのだろうか。
 どちらでも良かった。どちらであっても、私の望みには変わりがないからだ。
 彼女の指先が私の一番の性感帯へと辿り着く。そしてその指先は悪意を持ちながら、爪を立て、その悦楽の箇所を苛めに掛かる。
 あぁ――痛い。嬉しい。痛い。素晴らしい。
 殺してくれ。私を――可能な限り緩慢に、快楽でいたぶり殺してくれ。
 思った瞬間、無粋な電子音が部屋の中に響き渡る。
「ちっ」
 私が不満な声を上げると同時に、リリンは私の腕の中からするりと抜け出る。私は彼女に「向こうに行ってなさい」とばかりに手で合図をすれば、床に落ちた小さな青い林檎を拾い上げて、リリンは寝室のドアの向こうへと消えて行ってしまった。
「――なんだ?」
 私が聞くと、天井の各部分に仕込まれたスピーカーから、「ドクター・マックスウェル」と、私を呼ぶ声が響いた。
「その声はコナー君だね。――なんの用事だ、一体」
 すると部屋の壁の一面が白色化して、モニターへと切り替わる。そしてそこに、髪をきっちりと左右に分けたスーツ姿の若い男性が映し出される。顧問弁護士である、コナー・ヒューズである。
「あっ……あぁ、失礼。おくつろぎの所を……」
「構わないよ。君さえ不愉快に思わなければね」
 言いながら私は全裸のままそれを隠そうともしない。もちろん恥ずかしいとすら思ってはいない。――当然だろう、余命いくらもない老人の裸体に、どんな価値があると言うのか。私はソファーにだらしなく寝そべったまま、飲み掛けのワインのグラスを手に取った。
「それで? 用件は手短に頼むよ」
 苛立ちを隠しもしないでそう言えば、コナーは焦りの表情を浮かべながら、「それでは」と、モニターの中で綴じられた紙片をめくり始めた。
「えぇと、今回はドクター・マックスウェル氏の遺産相続の最終確認です。事前にそちらにも資料はお渡ししている筈ですが……」
「あぁ、読んだよ」
 面倒臭そうに告げると、「今、そちらの手元には?」と、更に面倒な事を聞いて来る。
「読んだからいいと言っている。今更資料を復唱してどうしろと言うんだね君は」
「あぁ、いえ。もしかしたら私の書いた文面に誤りでもあったとしたらと――」
「誤りは無かったし、書類の全てはもう既に暗記している。問題があるのならさっさと言いたまえ」
「――はい、失礼しました」
 コナーはハンカチで額の汗を拭いながら、「それでは、内容の確認だけに留めさせていただきます」と告げた。
「えぇと、私コナー・ヒューズは、ウォーレン・マックスウェル氏の遺書作成に辺り――」
「くどいぞ!」私は声を荒げた。コナーが向こうで肩をすくめたのが見えた。
「私にはもう時間が無いとしつこいぐらいに君に伝えた筈だな? 煩わしい事全て省略し、私の遺産の全ては州の考古学研究所に寄付をすると伝えた筈だ。それ以上何か取り交わさなくてはならない手続き等があるのかね? もしもあるならそれだけを伝えればいい事ではないのかね。君があまりにも無能ならば、今すぐにでも契約は破棄して別の弁護士を早急に探さなくてはならなくなるのだが」
「申し訳ございません、ドクター!」コナーの声が裏返る。
「今回の件はただ単に全ての書類が整ったと言うだけの報告で――」
「ならば読み返す必要性がどこにある! 有効的な時間の使い方を勉強し直せ、この若造が!」
 私は怒りのまま指を打ち鳴らす。同時にモニターは真っ暗になり、そしてやがて普通のグレイの壁紙へと戻る。
「ブレンダ! いるかね、ブレンダ!」
 天井へと向けてそう叫ぶと、すぐに応えが返る。顔こそは見た事がないのだが、実に事務的で端的な話し方をする女性で、私のケアマネージャーとしては最高の人物だった。
「はい、ドクター。何か御用ですか」
「今来た通話主の男は、二度とここに繋げるな。もしどうしても話をしなければならない必要性があるなら、全て君が代理として聞いておいてくれ。もう私にあの男と話をさせないように」
 私は下に向けた指先を激しく振りながらそう伝える。
「かしこまりました」
 そして通話は途切れる。いつもながら感心する程の端的さだ。
 私はグラスを傾け残ったワインを一気に喉へと流し込むと、自堕落な恰好のままそっとソファーを降りた。
 ――足が震えた。ソファーの手摺りを握る腕にも、ほとんど力が入らない。
 いよいよだな。残りは後、一日か、二日か。――こうなってみて初めて判る。人間とは、抗う事なく死を受け入れさえすれば、自然に命尽きるタイミングも知る事が出来るものなのだと。
 きぃ、と音がして、寝室のドアが開いた。そしてそこから覗く表情は、間違いようもない愛するリリンのものだった。
「リリンや、おいで。私を手伝ってはくれんかね」
 言うとリリンは急いでドアを抜け出して、私の元へと駈け寄って来る。
 彼女が私の手を握る。途端に身体に力が戻る。いつもながら一体これはどう言う理屈なのだろう。私の身体と精神は、彼女と共にある場合に限り急激に若返るような気がする。
 手を引かれたまま、寝室へと移動する。ほの暗い部屋の中、彼女の愛用する“Succubus”の香りが熟れた果実酒のような強い芳香で充満している。
 ――くらり 眩暈に似た欲望が私を襲う。
 リリンは私を置いてベッドへと上ると、両脚を大きく開きながら艶めかしい目付きで私を挑発する。
 支配する者、される者。命令する者、従う者。
 私はその幼き支配者の前にひざまずき、そして愛おしく押し抱いた右足の甲にキスをして、そしてその指の間に舌先を這わせ始めた。
「Ah……Ohhhhhh……」
 リリンの、雌の獣の如き甘い吐息が漏れ始める。
 あぁ、悦ばせたい。彼女をもっともっと、オーガズムの波で溺れさせたい。何もかもがもが快楽過ぎて変になってしまいそうだ。
 いつしか舌の先は彼女の腿の内側を這い、そして陰部へと導かれる。青く生々しい果実のような香りが私の鼻孔を包み込み、私はその薄い茂みの中へと顔を埋めた。

 *

 深海の暗い海の底を、一匹の巨大な蝙蝠が飛んでいた。
 いや、それは泳ぐと言った方が正しいのだろうか。それとも飛ぶで合っているのだろうか。光も届かない暗い海底で、それ以上の黒い翼を広げて泳ぐ蝙蝠。
 ぞぞぞぞぞぞ――と、不快な音を轟かせ、蝙蝠は広げた羽で海底を削り取るかのようにして、這い飛んだ。
 緩慢に、そして確実に。どんな巨大な貨物船でさえ敵わないだろう大きく黒い蝙蝠は、私の足の底よりもずっとずっと下の方で、暗黒の水底を這って進んで行った。

 ――嫌な夢だな。私は目を開いた途端、そんな感想を呟いた。
 気が付けば、眠る前と全く同じ寝室のベッドの中だった。痺れた左腕にはリリンがいて、健やかな寝息を立てている。
 こんなに幸せだと言うのに、どうして私は起きてしまったのだ。思いながら耳を澄ませば、いつもの不快な電子音。リビングよりも若干音が小さいのは、寝室だからと言う配慮のおかげだろう。従って私の目覚めもそれに比例して緩慢だったのだが。
「何だ?」
 そう呟けば、「お客様でございます」と、ブレンダの声がする。
「いない」
「かしこまりました」
 会話が途切れる。
 彼女との会話は楽でいいが、果たして彼女はその客人に対してどんな言い訳をしているのかを考えて可笑しくなる。
 だが、こんな不自由な場所に閉じ籠っておいて、「いない」と言ういい訳はないだろうな。思いながらくっくと笑うと、再びの電子音。
「何だ」
「お客様がどうしてもお取次ぎ願いたいと」
 ブレンダは言う。
「バカンスに出たと伝えろ。赤ワインの瓶を一本持って、スペインまで牛を追いに行ったとな」
 言いながら私は笑ったが、ブレンダからはなんの反応もない。
「どうしてもお逢いしたいそうです。ドクターには“師弟関係にある人間からだ”と伝えろと言われました」
「師弟関係?」
 考えを巡らすまでもない。私の生徒ならば数え切れない程いるが、私とそんな関係にあるのは世界中のどこを探してもたった一人しか存在しない。
「一応名前を聞きたまえ。リュート・D・コンフォードと名乗ったなら通話に応じよう」
「クロフォードです、博士。その間違いは通算何回目ですかね」
 懐かしい声が聞こえた。私は堪らず、「ほっほぅ」と笑った。
「私の記憶では数える程しかないが、君のその非難だけは一万回ぐらい聞いた気がするよ」
「大袈裟ですよ博士。これでも私は、五回に四回は黙認していましたがね」
 相変わらず面白い奴だ。私はベッドで起き上がり、「今どこにいるんだ?」と聞いた。
「“ご自宅”の前ですよ。ブレンダさんに珈琲をご馳走になっています」
「よし、逢おう。――ブレンダ、彼を“応接室”に通しなさい」
「かしこまりました」
 再びの沈黙。果たして今は何時なのかなと考えながら、敢えてこの“家”の中には時計と言うものを置いていない事を思い出す。
 しょうもない。人間とは実にしょうもない生き物だ。既に生きる事をやめて、時間の概念からも抜け出ようと決心した筈なのに、いざ時計の無い生活を送ると時間ばかりが気になって仕方がない。
 そう言えば私がまだ大学にいた頃、そんな話をした事があったなと思い出した。
 人間にとっての“絶対”とは“死を迎える事”と言う説があるが、それはあまり正確ではないと。人間にとっての唯一の絶対は、“時間の概念”だ。死と言う存在すらも、時間の経過の中に生まれる生物の営みの結果でしかない。
 時々、会話の中に“絶対”と言う言葉を多用したがる人間がいるが、きっとその人の中では時間と言う成分が多く含まれているに違いない。そして私は、そう言う人間を軽蔑している。少なくとも私は、“絶対”と言う言葉は使いたくないと。
 そう言えば、私がそんな事を語った際、彼は静かにこう言い返した。――正論だが、それは哲学の分野ではないかと。時間に厳しい人間を軽蔑するのは構わないが、時間の流れを否定しに掛かったら私達の存在そのものが否定されかねないよねと、今まさに発掘したての古代人の人骨を持ち上げながら、彼――リュート・D・クロフォードは笑いながらそう言った。
 昔から生意気な奴だった。思いながら微笑むと、そっと横から伸びて来た細い指が私の頬を撫でた。
「起きたのか、リリン」
 こくりと、彼女は頷いた。
 私は手を伸ばし、彼女の柔らかい髪を撫で上げる。すると彼女はまるで猫の子供のように、うっとりと目を瞑りながらその行為を受け入れる。
 何故なのだろう。私は今までの人生の中で幾人ものパートナー(恋人)と巡り合い、付き合いを経て、別れを繰り返して来た。そしてその経験はそんなに少なくもないと思っているし、自分自身の飽きっぽさも理解はしているのだが、この子に限っては今までのどのパートナーとも違う、そんな特別さを感じていた。
 その子を知れば知る程に、私はのめり込んで行く。
 それは依存か中毒か。私はこの子に服従を誓わなければいられない。そこまでの盲目的欲求があるのだ。
「リリン、私はこれから人と逢わなければならないのでここからいなくなるが、すぐに戻って来る。それまで眠っていなさい」
 言うとリリンは頭をもたげ、キスの代わりに私の右耳を強く噛んだ。
 意外にもそれは、やけに痛かった。一瞬、噛み千切られてしまうのではないかと思った程の痛みだった。
 そしてその痛みを感じると同時に、ズクンと胸の奥で何かが疼く。
 あぁ、叶うならば本当に噛み千切ってくれたら良かったのに。思いながら、「ごめんよ、すぐに戻る」と、もう一度その頭を撫で上げ、そしてベッドを降りた。
 一瞬迷いはしたが、結局私は衣服を着て行く事にした。近くのソファーの上に投げ出してあるガウンを拾い、それを羽織る。そして懸命に立って歩いて車椅子へと辿り着く。
 部屋を出る前にリリンの方へと振り向いてみたが、どうやら彼女は毛布にくるまりそのまま眠ってしまったらしい。私はなるべく音を立てないようにして寝室を出て行った。

 少々肌寒く感じる廊下の中、私の操る電動式車椅子のモーター音だけが低く鈍く響いていた。
 顔を見て話をするだけならばリビングでも充分だったが、なるべくならばリリンには他の人間を見せたくない。そんな意図あっての行動だった。
 いずれ彼女とは永久に二人きりになると言う運命で決定している。だがそれに至る経緯には万全を期した方がいい。例え誰であれ、私達の障害に成り得ないとは限らないのだから。
 やがて廊下は突き当たり、一枚の大きなドアの前へと行き着く。そして私がそのドアの前で手をかざせば、ドアは軋み音一つさせずにゆっくりと内側に向かって開いた。
 部屋は驚くほどに殺風景なものだった。床も壁も天井も、白一色の長細い部屋。そして木製の大きなテーブルが一つ、向かい側の壁に半分だけ埋まって備え付けられていた。
 私はテーブルの端に車椅子を寄せ、一つパチンと指を打ち鳴らす。瞬時に四方の壁と床と天井がモニターに変わり、英国調の家具が並ぶ落ち着いた雰囲気の部屋へと変貌する。
 半分だけ壁に埋まったテーブルのもう一端が、モニターの向こう側に表示される。そして更にその向こう側、私の遠い真正面に“彼”はいた。黒のジャケットにボウタイを締めたウィングシャツ。片手で黒の帽子をもてあそびながら、もう片方の手でカップを持ち上げ珈琲を啜る若き紳士――リュート・D・クロフォードである。
「何年振りかね、リュート君」
 思わず嘘のない笑みをもらしながら私は聞いていた。
「まだ二年も経っていませんよ、博士。お元気そうでなによりです」
「相変わらず食えないジョークだね、リュート」私は笑った。
「元気どころか見ての通りの死にぞこないさ。私は間もなくくたばる。それもそんなに遠い話じゃない、長くてももう一週間はもたないだろう」
「なるほど、だからそんなに楽しそうなのですね」
 言われて私は、「確かに!」と叫び、力なく震える声で高らかに笑った。
「それにしても君が訪ねて来てくれるとは実に嬉しい事だ。私のこの人生の最期に逢ったのが君であるならば、これは光栄この上ない」
「よして下さいよ。本当にそうなった場合、私の寝覚めが悪いじゃないですか」
 あっはっはと、私は笑った。
「ところでリュート、君は今どこで何をしているんだ? 何を対象にしている? まさか研究をやめたりした訳ではないだろうな? 噂ではルポライターの仕事も始めたと聞いたがそれは本当か?」
「いっぺんに聞かないで下さい、博士」彼はカップを置きながら苦笑を洩らした。
「今はマイアミに住所を移しました。もちろん研究は続けていますよ。目下の所、中国のシャイヨンハオの遺跡の近くで発見されたコンロン文明が一番の興味対象なのですが――」
「あぁ、それは急がないといかんな。もしも本当に世界遺産の話が通ってしまったら発掘も何も出来なくなってしまう」
「そうなんですよ。なので遺産登録差し止めの運動に加わったりもしているのですが、そうすると今度は文化部から圧力がかかる。面倒な話です」
「そりゃあ頭の痛い事だな」
「ちなみにルポライターの仕事は、そう言う圧力と戦う為の方策の一つです。この世界じゃあ書いたもの勝ちみたいなルールがありますからね。妨害にはもってこいです。そうやって色んな方向から戦っています」
「結構じゃないか。私はそう言う姿勢は嫌いじゃない。――ところで」
 言い掛けて私は、突然に見舞われた激しい眩暈に言葉を失った。
「大丈夫ですか、博士」
「――あ、あぁ、もう平気だ」私は二、三度、深い呼吸をしてから彼の方に向き直る。
「ちょっと空気が変わると眩暈がしてな。――すまなかった」
「いえ、気分がすぐれないのなら出直しますが」
「平気だと言っただろう。それにもう次は無い。君と逢えるのはこれが本当に最後になる」
「……」
「――ところで、婚約者はどうした? 前に逢った時、君は確かそんな話をしていた筈だ」
「えぇ、まぁ。残念ながら色々ありまして、まだ婚約中なままです」
「そうか。君は少々プレイボーイ過ぎる傾向があるからな。仕方がない」
 笑いながらそう言うと、「そう言う理由じゃないですよ」と、リュートもまた苦笑を浮かべていた。
「それならいいが、あれからしばらくジョアンナが塞ぎ込んでいたぞ。君自身がどう思おうと勝手だが、君はただそうやって生きているだけで色んな女性を泣かせている事をそろそろ自覚すべきだな」
「やめて下さいよ人聞き悪い。彼女とはそう言う仲だった訳じゃありません」
「だがジョアンナは君を一男性として、相当に好いていた」私は身を乗り出してそう言った。
「彼女は君の一番の生徒でありながら、君を男として見ていたよ。――そして君はその気持ちには気付かない振りをしていた」
 そしてジョアンナは、傷心のまま私の女になった。――とは、言わずにおく事にした。
「彼女は……ジョアンナはどうしてます? 今も元気で研究は続けているのですか?」
「知らないのか?」私は彼の言葉に驚いた。
「――亡くなったよ。もう三カ月も前の事になるかな」
「そうだったんですか。いや、全く知りませんでした」
 リュートは嘘ではないだろう表情でそう言った。
「酷い教師だな。まぁ尤も、君も色々と忙しい身だろうからな」私はそこで皮肉を挟む。
「ところで、ジョアンナの事ではないとすると、君はどうしてここに来たのかな? 私には君の用件が全く予測出来ない」
「相変わらず痛烈なジョークですね。人が人に逢いに行くのに用件と予測が必要ですか?」
「君は必要ではないのかね? 人生僅か二十億秒程度しかないと言うのに、無駄な時間を無駄な用件に費やしたいのかね!?」
 叫ぶとリュートは笑いながら帽子を手に取り、それを撫でながらぼそりと言った。
「リリスの件で来ました」と。
「――何だと?」
「リリスの件でお伺いしました。そしてあなたはそれを充分に予測していた筈ですが」
 返事はしなかった。代わりに私は彼を睨んだ。
 ひたすらの軽蔑と嫌悪をもって。
「博士、こちらにリリスはおりますね? 隠されても無駄です。あなたが最後に取り掛かった研究と発掘、そしてその後にあなたが取ったこの奇妙な行動、全てがそれを物語っております。――リリスはあなたの傍にいる筈だ」
「知らん」
 私が言うと、「知らない訳がない」と、彼はそれを突っぱねる。
「もしかしたらリリス――ではなく、“リリン”とでも呼んでいるのですか、博士? それならば余計にあなたの奇行に説明が付く」
「黙れリュート。君は私に随分と横柄な口を利くようになったものだな」
「あなたの身を案じての事です。お怒りは充分に承知しております」
「身を案じて? ――ハッ、面白い事を言う若造だ」私は笑った。
「とにかく君との話はここで終わりだ。もう帰りたまえ。そして君は君で、その恐ろしくつまらない平和な人生を細々と楽しむがいい」
 そう言ってモニターを消そうと手を挙げた瞬間だった。
「博士、あなたはご自分の主張を自ら反故にしようとしていますね」
 鳴らし掛けた指が止まる。
「――なんの事かね」
「あの話ですよ。えぇと……なんだっけ。人の持つ物は全てレンタル品だと言う」
「あぁ、あれか。確かアレンチド修道院の地下墓地から発見した銀細工を、クリストファー君がうっかりと壊してしまった時の事だ」
「そうですね。あの時は皆、博士がどんな怒鳴り声を上げるのかと戦々恐々としていましたっけ」
「懐かしいな。あの頃はみんな若かった」
「そう、博士も同じように若かった。だがあなたは誰よりも人生を達観していたし、誰よりも聡明で偉大だった。あなたは我々の予想に反し、形あるものはいずれ壊れると言って、そしてクリスを慰めた」
「あぁ、そうだったな。あの見事なまでの細工が破壊されてしまった事は残念だが、あの時の言葉は嘘じゃないよ。どんなものであれ壊れるし――」
「そして“物”を自らの所有物だと思ってしまう事は最大の愚考だとおっしゃいましたね。人は自らが購入した物、貰った物を、“永久に自分の物”だと錯覚してしまう。だがそれは違う。実際にそれは、自らの命が尽きるまで“借りている物”だ。死んでなお自身の持ち物として取っておけるものなど何一つとして無い」
「そう。この世にある“物”は全てレンタル品だ。永久に自分の所有物であるものなど皆無なのだよ」
 私は笑った。そしてリュートもまた、前と変わらぬ笑みで私を見た。
「私が何を言いたいのか判ってくれますね、博士?」
「いいや、全く判らないよリュート君」
 そしてそのまま沈黙が訪れた。
 リュートは再びカップを持ち上げ、そっと珈琲を啜る。
 私はそんな彼を見ているだけ。やがて彼はやけに緩慢な動作でカップを置き、そして言った。
「あなたは“リリス”を自らの所有物にしようとしている。この世に“絶対”と呼べるものなど二つとして無いと説いたあなたにしては、やけに愚かな行動ではないですか?」
「確かにね」私は返した。
「だがこればかりは“絶対”に属するかも知れない存在なのでね。君のその批判こそ、私には愚かに思えるよ」
「有り得ません。あなたのその考えはひたすらに幻想的なだけで、どこにも確実性が伺えない」
「君はいつから数学者になったのかね。幻想を捨てた考古学などなんの意味がある?」
「自らの命で遊ばないで下さい、博士」
「私が証明してみせるよ、リュート君。時間以外の“絶対”が存在していた事をね」
「今までに誰も証明する事が出来なかったのに?」
「“無い”と証明出来た事も無いだろう。君は思考まで随分と衰えたな」
 言うと彼は盛大に溜め息を吐き出し、会話の続きを放棄した。
「どうでもいいのですが博士、霊的な存在を物理的に束縛出来る方法でも発明されたのですか?」
「抜かりないよリュート君。もう既に彼女の身体は、“ヴォーパルの輪”で支配されている。どこに行こうと、何をしようと、彼女はもう私だけの“物”だ」
「……」
「残念だったな、プレイボーイ。君でも落とせない女性がいるって言う事実はどんなものだい? ――彼女は素晴らしいよ、リュート。今まで私は幾人もの女を抱いては来たが、あそこまで官能的で脳を痺れさせてくれる存在はいなかった。どんなに技を磨いた娼婦でも、どんなに強烈な幻覚を見せてくれる麻薬でも、どこまでも禁忌なアブノーマルなプレイでも、彼女を超えるであろうものは何も無い。もしも君が彼女を抱けたなら、君だって同じ感想をもらす筈だよ。彼女を超える悦楽はこの世に有り得ないとね」
「……」
「私は彼女を、“枷”と“鎖”で支配している。そして彼女もまた、私を“愛”で支配している。彼女が私に与える支配は非常に複雑で理解が困難なものだが、私が彼女に与える支配は極めて簡単だ。永久に私の“モノ”である事。ただそれだけだ。そして私は彼女の支配下でひたすらに快楽と言う名の苦痛を味わう。――“絶対”なる、“永久の中”でだ。素晴らしくはないかね。これこそが完全たる究極の愛情だ」
「いいや、狂気だ」リュートは言った。
「そしてそれは愛情ではない。愛憎(あいぞう)だ。あなたは彼女を愛してはいないし、彼女もまたあなたを愛している訳ではない。彼女はその本能のままにあなたを誑かして黄泉へと連れ込もうとしているだけだし、あなたはあなたでそれを利用し、美味い部分だけを吸い上げて楽しんでいるだけの事だ」
「なんとでもいいたまえ。もう既に君の戯言は、負け犬の遠吠えにしか聞こえない」
 私はそう言いながら車椅子を操作し、後ろへと下げた。
「だが、私の思考が狂気たる部分だけは認めよう。確かに私は狂っている」顔を背けつつ私は言った。
「言うなればこれは、昆虫と食虫植物のような関係だ。彼女は私に蜜を与え、私を喰らおうとする食虫花。そして私はその芳醇な匂いに誘われた憐れな虫だ。だが一つだけ私達がその関係と違う部分を指摘するなら、それは私の壊れた思考だと言えよう。なにしろ私は自ら望んでその食虫花に食われようとしているのだし、そしてその状況を楽しんでいる。なにしろ私は、彼女に喰らい尽くされる心配のない人間だ。安全が確約された恐怖とは、なんと甘美で愉快なものか」
「博士、目を覚まして下さい。リリスを支配する事なんか出来る筈がないし、安全が確約されているなんて幻想だし、人間の浅はかな思い上がりでしかない」
「彼女は私を溶かせない。私は彼女の体内で、ふんだんに毒を混ぜ込んだ蜜の海の中でもがく一匹の蠅だ。――あぁ、なんと言う禁忌か。なんと言う悦楽か。私はその全身に彼女の蜜と毒を受け、永久に彼女の体内でもがき苦しみ続けるのだ」
「リリスを渡して下さい、博士!」
「この現世ですらあんなに快楽なのだ。もしも――そう、もしもこんな不自由でない気楽なままの精神体のままで彼女に愛されたとしたならば、これ以上どれだけの快楽が私を待ち受けているのか……」
「博士、もしも聞く耳を持てないと言うならば、強硬な手段でもあなたとリリスを引き離しますよ」
「やってみるがいい、若造。ここがどんな場所なのか知っていて言うならばな」
「……」
「私が君のいる場所と同じ、寂れた屋敷の中にいるのだと思っていたら大間違いだぞ。場所はそこから三マイルも先、砂地の地中の奥深くの核シェルター。堅固な壁が幾重にもなり、そしてその最初の門は鋼材が混ぜ込まれた樹脂で派手なぐらいに覆われている。――やるつもりならやってみるがいい。世界中のどんな兵器であれ重機であれ、全ては無力に等しい。私の元へと辿り着くには相当な時間と苦労が必要だぞ」
 リュートはそれを聞き、肩をすくませ、「ふぅ」と溜め息を吐いた。
「リュート君、制限時間は長くて二日……いや、三日か。早ければ今夜にも私は黄泉路へと下っているだろう。もちろん、君の目当てのリリンと一緒にな」
「博士……あれは向こうの世界へと案内させるようなものではない。あなたはそれを充分に理解している筈だ」
「理解しているからこその結論だ。君こそ今まで一体どんな調査をして来たのかね。――知っているよ、私に内緒で君もリリンを追い掛けていた事を」
「……」
「情けないじゃないか、こんな老いぼれに先を越され、その上何の手土産も持たずに彼女を譲ってくれと言う。しかも終いには“彼女はあなたの手におえない”と来たもんだ。――もう君は、私との競争に負けたのだよ。いい加減、いさぎよく諦めたらどうかね」
「そうは行かないんですよ」
 どこか哀しそうな目で、彼は言った。
 少しだけ、ほんの少しだけ私は彼の言葉に動かされた。
 だがそれは一瞬だけの気の迷い。どう抗おうと、リリンの持つあの魅力に勝てる訳が無い。私はリュートに、「ではさらばだ」と告げ、再び腕を持ち上げた。
「また来ますよ、博士」
「それは何年後かね。その時は、私のマミー(ミイラ)と逢いたまえ」
 パチンと、私の指が鳴る。同時にモニターは全て消え去り、元通り四方がアイボリー調の殺風景な部屋と変わった。
「さらばだよ、リュート君。大いに私を恨んでくれ」
 そして私は車椅子を操り、部屋を出た。
 出た瞬間にもう私の脳からは今までの会話の事など全て消え去り、ただひたすらに純粋に、リリンを欲する一匹の獣と化した。
「リリン……あぁ、リリン。今行くぞ。お前の元へと行くぞ」
 キュルキュルと、車椅子のあげる奇妙なモーター音が響く。寝室へと向かうその廊下は狭く長く、急いた心にやけにもどかしく感じられた。

 *

 部屋を出て行くその後ろ姿を見送り、リュートは重い腰を上げた。
「相当入れ込んでるな」
 苦い顔をしながら小さく呟き、リュートは胸ポケットから小型のセルラーフォンを取り出す。
 操作をし、それを耳にあてがうと、ややあって相手に繋がる。
「あぁもしもし、僕だけど。――その後、どう?」聞くと少しの沈黙の後、「H2リゼルグ酸?」と、少々大きな声で聞き返した。
「ホウオウ……アサガオだって? オーケー、いい情報だね。それじゃあ引き続きそれを調べておいて欲しいんだけど――」
 告げておいてから、「その前に」と、リュートは人差し指を立てながら言った。
「ウォーレン・マックスウェル博士についてもう一度、細かい部分まで調べてもらえないかな」
 そこで言葉を区切る。そしてリュートは、もう誰もいない反対側の部屋を見つめ――。
「彼の“死因”について、もっと詳しい情報をお願いしたいんだ」

 *

 ドアを開けると、むせ返るような濃密な匂いが流れ出て来た。
 私はその香水の匂いを自らの肺に目一杯送り込みながら、彼女を目で探した。
「リリン?」
 彼女はそこにいた。リビングのソファーに身を横たえながら、祈りをささげているかのように両手を胸の前で合わせている。
 目を開き、こちらを向く少女。その合わせた手の中からは、小さな青い林檎が現れた。
 リリンはソファーの上で膝を立て、その股間が全てあらわになるような扇情的な恰好で座り直す。艶めかしい、誘うような細い目で私を睨み、持ち上げた林檎に舌を這わせる。
 長く細い舌先で、その林檎を下から上へと蛇行しながら舐め上げる。そして私はその行為を間近で見ながら、まるでそれが私自身の性器であるかのような錯覚を感じ、ゾクゾクとした快楽が身体の中を走り抜けた。
「リリン」
 呼ぶと彼女は唇をすぼめ、大きな音を立てて林檎にキスをすると、静かにソファーから降りて来た。
 リリンはその林檎を私に手渡す。私が震える手でそれを受け取ると、リリンは私の足元にひざまずき、ガウンの裾を押し広げる。
 細くしなやかな彼女の掌が、私の脚の内側をくすぐって行く。
 リリンの頭部が私の脚の間へと割って入り込み、そしてその厭らしき舌先が私の性器へと達した時、堪らず私は獣の如きうめきを洩らした。
「おぉ……リリン……おうぉぉぉぉぉ……」
 局部を中心として、身体中に快楽が波紋のように広がり出す。私は、齧ろうとした小さな林檎を取り落としながら、両手でリリンの頭を鷲掴みにし、そしてその快感のまま荒く撫で回す。
 果てるのはほんの僅かな時間の事だった。
 全身を銛で貫かれたかのように仰け反りながら、私はリリンの愛撫に絶頂を迎えた。
 だがリリンは一向にその愛撫をやめる気配を見せず、私の性器に吸い付かんばかりにして強く舌先を当てて来る。
「あぁ、リリン……あぁ……」
 息が出来なかった。胸の鼓動でさえ、あり得ないばかりのペースで早鳴っていた。
 今度こそ、今度こそリリンは私を死の淵へといざなってくれるのだろうか。
「リリン……頼む。早く……」
 ――早く殺してくれ。
 思うと同時に、私は二度目のオーガズムを迎えた。
 身体はとっくに抵抗をやめ、彼女の執拗な愛撫に任せたっきりになっている。
 車椅子に座ったまま、天井を仰ぐ私の視界が白くぼやけた。多分、眼球が裏返ったのだろう。
 果たしてこれは、死か、失神か。
 どちらでも全く構わなかった。前者ならば私の望みそのものだし、後者ならば再びこのような彼女の拷問によって苦しめばいいだけの事だ。
 なんと言う極上の苦痛なのだろう。私は薄れゆく混濁した意識の中で、なんの曇りもない純粋な歓びだけを感じていた。

 *

 ぞぞぞぞぞぞ――と、耳障りな音が響き渡っていた。
 それはさながら地鳴りのようでもあった。音と共に振動が、大地を通して身体に伝わって来る。
 見上げれば遥か頭上で何者かがうごめいているのが判る。――が、それが一体何なのかが皆目見当付かない。
 一面の空を覆い尽くす程の巨大なもの。懸命に首を振りながらようやく大体の形が理解出来た頃、それが一匹の蜈蚣(むかで)だと言う事に気付く。
 何千、何万、何億と言う数の歩肢をあやつり、大地を這う巨大な蜈蚣。そして私はその地に塵のようにへたり込みながら、遥か頭上を通り過ぎて行く異形の姿を見送っていた。

 ――嫌な夢だな。泥のような眠気から覚めると同時に、私はそんな事を思った。
 残念ながら、まだ現世のようだ。そう心で呟きながら、小さな溜め息を吐き出す。
 隣では白いシーツに包まりながら眠っているリリンの姿がある。――おぉ、なんと言う可愛らしい寝顔だと思いながらそっと手を伸ばし――瞬間、頭痛に顔をしかめた。
 びゅん、びゅんと、音が鳴る程に目まぐるしく記憶の中の映像群がよみがえっては消えて行く。そして私の中のメモリーが、一つの映像の所で止まる。
 白いシーツに包まるリリンの姿。その映像が目の前のリリンとだぶり、そしてぴたりと重なり合う。その瞬間、また一つ大きな頭痛が私を苦しめ、両手でその痛む頭を抱えるようにしてベッドの上を転がれば、サイドボードの上に乗る小さな瓶を取り上げて、震える指でその栓を抜く。
 甘ったるい、官能的な香りが瓶の淵から匂い立つ。“Succubus(サッカバス)”――淫魔の香りだ。
 かつてはこのわざとらしくも下品な安っぽい匂いに辟易していた時代もあったが、いつしか私は女に溺れ、淫行の虜になった頃から、この匂いを好むようになっていた。
 果たして――私にこの香りの魅力を教えてくれたのは誰だっただろうか。ふと、その人の顔を思い出しそうになるが、再び込み上げる頭の痛みに影のようなその姿は雲散霧消した。
「Grooooooooom」
 気が付けばいつの間にか、リリンは私の横にいた。
「おはよう、ハニー」
 そう言って私が彼女の頬にキスをすれば、リリンは躊躇する事なく摺り寄った私の耳に歯を立てる。
 痛みが、まだ自分は生きているのだと言う事を確信させてくれる。
「リリン、リリン。落ち着きなさい、どうしたのだ、これ」
 不思議と鼻息がやけに荒い。噛む力も尋常ではなく、痛みで自然に目に涙があふれそうになるぐらいだ。
 死ぬ事については全く恐怖は感じないのだが、事、痛覚については精神とは別だ。私はなんとかしてリリスをなだめ、その身を引き剥がす。
「Gyooouryuqyuiaaaaa……」
 まるで爬虫類かなにかを連想させるような唸り声を上げ、リリスは私にしがみついて来る。小柄で華奢な割には、やけに力強い。
 私の身体に馬乗りになるようにして、激しいキスを求めて来る。唇からねじこまれた彼女の舌が、ぬめぬめと私の舌の上を通り越し、喉の奥まで押し込まれる。
 息が苦しい。いや、息が出来ないと言った方が正しいのか。リリスの舌は一体どこまで伸びるのか、喉の奥の気道さえも塞がってしまうかのような深いキスで私を苦しめる。
「んんっ……」
 口を塞がれたまま、くぐもった声を上げる。身体をよじるが、すでにもう身動きは取れない。リリスの両手両足は完全に私の身体に絡み付き、離れようと言う意志すらも感じられない。
 満たされない肺があえぐ。ぞくりと恐怖と絶望が背筋の上を走り抜ける。
 大きく目を見開く。終わりだ。もうこれで本当に最後だ。思った瞬間、力んでいた身体中の力は抜け、彼女の全てを受け入れようとばかりに弛緩する。
 ぐぅと喉が鳴り、緩慢に意識が遠退き始める。目を瞑り、全てを諦める覚悟が整った頃、部屋の中に電子音が鳴り響く。
 その瞬間、再びずるりとリリスの舌が喉の奥から引き抜かれる。お互いの唇を繋ぎ合せるように唾液の筋がだらりと伸び、そして切れる。
 リリスの身のこなしは早かった。私が、ひゅうと息をして咳き込む頃には、既に寝室のドアを開けて滑り込んでいた。
 身を丸め、しばらくむせた咳を繰り返した後、「……誰だ?」と、私は短く聞いた。
「博士、私です。リュート……」
「出て行け!」私は精一杯の余力で叫ぶ。
「まだ帰ってなかったのか、お前は。どれだけ執着しても無駄なものは無駄なのだぞ、リュート。いい加減もう諦めて、別のものを追い掛けた方が懸命だと思わないのかね」
「お言葉ですが」リュートは答える。
「この前お逢いした時から、もう既に三日が経っておりますよ博士。なにか記憶違いでもしておられますか?」
 ――なんだって? もう三日? 何の冗談かと私は思った。
 時間が判らないよう部屋の全てから時計の類をとっぱらったのはいいが、おかげで時間の経過が全く把握出来ていない。
 だが三日間もの長い時間を記憶に留める事なく、実感すらもないままに過ごしたとも考えられない。私はあえてこの話題を、リュートの狂言だと思う事にした。
「なんだね、リュート。もう私達の間に語るべき話題など無いと思うのだがね」
「博士には無くとも、私にはあるのですよ。――ちょっとの間、お逢い出来ませんか」
「無理だ。私はもう君には逢いたくない。帰ってくれたまえ」
「そう言わずに」
「くどいぞ!」
 叫ぶと、少しの沈黙の後、リュートは「良いのですか?」と、訳の判らない質問をして来た。
「――何がだね」
「お逢い出来ないのなら、こちらも強硬な手段に出るしかなくなるのですが」
 言われて私は絶句した。そしてゆっくりと笑いがこみあげ、そして私は天井に向かって盛大に笑った。
「愉快だ! 本当に愉快だな君は! ユニークで滑稽だよリュート君。君は今、一体どんな脅しをしたのかね。――強硬? 強硬な手段に出るって? そりゃあいい、君の言う強硬な手段とやら、是非に見せてもらいたいものだ。だが先に言っておくぞ。このシェルター内にいる限り、電力から酸素の循環まで全てこの中だけで賄える。君はその辺りの事は理解出来ているのかね。そちらで電源のプラグを抜けばこちらが困るだろう程度の認識で脅迫しているのではあるまいな」
「えぇ、ちゃんと状況を認識しておりますよ、博士」
「なら君は、核シェルター相手に何をしようとしているのかね。君が一体何を企んでいるのかまでは判らないが、どんな行動も私への抑止力には成り得ないと知るべきではないかな、リュート君」
「えぇ――それでも私には手を出せるのですよ。こちらの手札には、ジョーカーのカードがありますからね」
「面白い!」私は叫んだ。
「なら逢おう。今度こそ手持ちのカードで最後の勝負だ。十分後に、応接室で」
 そう言って私は、車椅子へと乗り込んだ。
 今度はガウンを羽織る事もせず、裸体のままで。閉めきった寝室のドアに向かい、「ちょっと出て来るよ、リリン」と声を掛け、私は部屋を出た。
 長い廊下を抜け、応接室のドアを開ける。部屋は既にモニターに変わっていた。
 前回同様、長いテーブルの向こう側に彼はいた。私の姿を見付け、手にした帽子を胸に当てて軽い会釈をしてみせた。
「こんな恰好ですまんね。もう既に私自身がどう見えるかなど、構っている気分にもなれないんだ」
「えぇ、こちらも構いませんよ。少々目のやり場に困りますけどね」
 そう言って笑う彼の背後に、なにやら見慣れないものが置いてあるのを見付ける。パイプの脚のストレッチャーと、覆い被さる白いシーツ。何者かがそこに寝ている事だけは、シーツの膨らみで明白だった。
「それは何かね、リュート君」
「あぁ、これですか?」彼は背後へと振り返り、ストレッチャーを指した。
「さて、なんでしょうね。あなたへの切り札になればと思って用意したものなのですが」
「良くわからんな。一体私は、なんの死体を見せられるんだね」
「いやいや、これが死体とも限りませんよ。もしかしたら空中を浮遊する水着の美女かも知れない」
「面倒な会話はやめたまえ。早く本題に入りなさい」
 言うとリュートは肩をすくめながら苦笑し、「では」と、話し始めた。
「博士は覚えているでしょうか。昔、私にしてくれたメソポタミアの蛇の話です」
「蛇? 冥界の遣いと言う奴か?」
「そうそう、それです。蛇と言う生き物だけには、現実世界で言う“魂”と言うものが存在していないと、古代メソポタミア文明では語り継がれて来たと言う」
「あぁ、その話で盛り上がった事があったな。ウラルトゥの田舎のバーで、君と一緒にぬるくて不味いバドワイザーを飲んでいた時だ」
「えぇ、あれは実に不味かった。でも二杯目に頼んだスタウトはなかなかでしたね」
「そうそう、恥ずかしながら私はあれで冷たくなくても美味いビアがあるんだと初めて知った。あの時の研究旅行は失敗だったが、発見と言う意味では大成功だったように思えたよ。――尤も、米国製のビールには実に失望したがね」
 私は笑った。リュートもまた、懐かしそうな顔で笑みをもらしていた。
「蛇には、魂が無い。魂は冥界にあり、肉体の滅びは死ではないとあなたは言った」
「あぁ、そう言ったな。面白い信仰だ。蛇は神であったり悪魔であったりと、随分色んなとらわれかたをしている」
「それはやはり、宗教的な部分での意味合いが大きいのでしょうね」
「その通りだ。蛇はエバをそそのかして林檎を食わせ――いや、それは比喩だな。“性的な関係を結ぶ”が、正しい表現だ。そしてエバは蛇の子を産み、蛇は神話化された。その蛇の正体がなんであれ、エバは最初に蛇と交わったのだ」
「だからこそ蛇は神でもあり、忌むものでもある」
「そう。蛇は実に多種な象徴でもある。死と再生であったり、永遠であったり、豊穣、王権、生命力であったりする。だがその逆もあり、裏切り、退廃、嫉妬、怠惰、不死などなど、良くない意味でも広く使われる。だがこうして両極端な顔を持つシンボルであるが故に、強い信仰の対象とも成り得ているのだ」
「そんな背景があって、蛇には“魂”が無いと信じられて来たのでしょうかね。本当の魂は冥界にあり、現世の肉体には何も宿っていない。従って肉体の死は、本当の意味での死ではないと言う」
「そこが不死であり、死と再生の象徴なのかも知れないな。いずれ間違いなく死に至る生命体にとっては、憧れであり脅威にもなる。蛇はあらゆる魂を黄泉へといざなう。そして――」
「黄泉から魂を連れ戻す事さえも出来る」
「有り得ない話だが、そう信じられて来たようだな。実に興味深い」私は笑った。
「それで――? この話は一体どこへと向かっている? いつ君の切り札が飛び出して来るのだ? まさかとは思うが、ただの時間稼ぎではないだろうな」
「いや、さすがは博士、察しがいい。おっしゃる通り、これはただの時間稼ぎです」
「――何?」
「実は切り札とは、そのまんま時間稼ぎの事でしてね。あなたとこうしてしばらくの時間をここで会話しているだけで、私の作戦は成功するのですよ」
「なら話はここで打ち切ろう。今度こそ本当にさようならだなリュート。元気で暮らせ」
 そう言って私が車椅子をバックしようとした時だった。
「博士、あなたはジョアンナを殺しましたね」
「……」
 レバーを握った手が止まる。
「彼女が亡くなったのは、あなたと一緒に向かったTAAF(フランス領南方・南極地域)の島の古代墓地。そこで彼女は不幸にも毒蛇に噛まれたと、そう聞きました」
「その通りだよ。そこまで調べておいて、どうして彼女の死が私のせいだと言う理屈になる?」
「蛇に噛まれた――。それは事実のようでした」リュートは私の言葉を無視し、続けた。
「“Hypno devil snake”。彼女の足に噛み付いた蛇の名前です。強烈な神経毒を持っている為、その名が付いたようですね。まさに眠りの悪魔です。毒は緩慢に強烈に、獲物を失神させて意識を奪い取る」
「なら死因はその蛇で間違いないだろう」
「いいえ、残念ながら――」リュートは言いながら指先で自らの唇をなぞった。相も変わらない、困った時や考え事をしている時の彼特有の癖だ。
「あの蛇の毒では人を殺せません。毒はただ、獲物を泥のように眠らせるだけです。もっとも、眠った場所が危険であったり過酷な状況下だった場合には死の可能性もありますが、でもそれは毒による直接の死因じゃない。言うなれば二次災害だ。蛇の毒は、人を眠らせる以上の毒ではないのです」
 ――なんだって? それは私も初耳だった。
「彼女は蛇の毒にやられた。そして眠った。ただそれだけです。だがあなたは、彼女は亡くなったと言う。確かに古代墓地より生きて戻ったのはあなた――博士だけのようですが、果たして彼女の身に起こった事の真実は、どんなものだったのでしょうね」
 ふと、意識が遠退く気配がした。そして始まるフラッシュバック。
 棺―― 歓喜の声―― 突然の地鳴り―― そして落石―― 倒れる石柱―― 悲鳴―― 悲鳴―― 悲鳴――
「どうされました、博士」
「……」
「何か、思い出された事でも?」
「……うるさい、頭が重いだけだ」
 そして想いを振り払う。違う、今のは現実にあった事ではない。いつかどこかの夜で見た、悪夢のワンシーンと言うだけだ。思いながらも不安な胸の動悸は収まらない。
「あなたがジョアンナを亡きものにしようとしたのは、もしかしたら突発的な何かだったのでは? 殺すつもりなどなかったのに、その時の状況下ではそれが一番都合が良かったから。――違いますか、博士。少なくともあなた達二人は、嘘偽りなく愛し合っていた筈ですから」
「知っていたのか?」
 私はさすがに衝撃を受けた。リュートがそれを知っているとは思ってもいなかったからだ。
「えぇ、知っていましたよ。それこそずっと前から。まだあなた方が付き合う以前からね」
「彼女が……そう言ったのか?」
「そうです。彼女から相談を受けていましたからね。ウォーレン博士と付き合いたいと、ある日彼女は、私にそう告げた」
「なるほど」私は震える手でそっと自らの頭を撫でた。
「恨まないでくれよ、リュート。パートナーとして私を選んだのは彼女の方からだ。決して私からモーションをかけた訳じゃない。いくら私が好色家だと言っても、孫ほども歳の違う弟子の弟子を熱心に口説こうとはしないよ」
「判ってますよ博士。経緯は全て知っていますし、恨みなんかどこにもありません。師弟関係で恋愛沙汰になる事なんか全然珍しい事ではないし、歳の差だって恥じ入る部分なんか見当たりません。気にする事など何もないかと」
「ではなんの恨み言かね。私は彼女を殺した覚えなどないよ」
「えぇ、そうでしょうね。あなたは彼女を殺してはいません。ただ必然的に、そう言う展開になったと言うだけで」
「ますます訳がわからないな。君は一体、何を言いたいんだね」
「そろそろ、その甘美な悪夢から目を覚ますべき頃ですよ博士」
 そう言ってリュートは立ち上がる。そしてその背後に置かれてあるストレッチャーに歩み寄り、白いシーツに手をかけた。
 ぐぅと、喉が鳴った。既にその話の流れから、想像はついていた。
 シーツの陰影から垣間見える柔らかな起伏。そこに横たわるものが女性の肉体である事は最初から判っていた――。
「ジョ……アンナ?」
 呟きと同時にシーツは取り払われた。
 そして、戦慄。目を瞑り、仰向けに眠る裸体の女性。小柄で細身で短いブロンズの髪。小さな乳房と、そして土気色の肌。
「ジョアンナ!」
 私は叫ぶ。そしてそれから徐々に、私の認識の甘さを思い知った。
「違う……違う……それはジョアンナじゃない。それは……リリン!」
 リュートは振り向く。そして彼は私を睨み、こう言った。
「私の勝ちですね。もうあなたの手元に、リリスはおりませんよ」
 弾かれたように立ち上がる。車椅子を後ろ足で蹴り飛ばすように走り出すと、部屋のドアに体当たりせんばかりな勢いで部屋で飛び出した。
 長い廊下を駆け、部屋へと飛び込む。「リリン!」と叫びながら、次々と部屋を巡る。
 居間、寝室、書斎――どこにもいない。
「リリン!」
 浴室、トイレ、クローゼット、そして再び寝室へと駆け戻り、ベッドのシーツを剥ぎ取り、下を覗き込み、部屋のどこにも彼女がいない事を知る。
「リリン……どこに?」
 ぜいぜいと息を切らしながら立ち上がる。――ふと、視界の隅に何かをとらえた。
「リリン!」
 僅か一瞬、壁に掛かった鏡の中に、リリンの姿を見た。
 振り返る。そしてまた部屋の隅の鏡の中に、彼女の姿。私はリリンの名を叫びながら部屋を出る。そして彼女の姿を追うように居間へと向かえば、そこでも彼女は私から逃げるかのように、鏡の中で姿をくらませる。
「リリン……あぁ、リリン」
 もはや彼女の実態は部屋のどこにも無かった。まるで鏡がその二つの世界を分け隔てているかのように、部屋のあちこちに置かれた鏡の中に、私を覗く彼女の視線だけがあった。
 正面のサイドボードの上、リリンの愛用していた香水と、小さな青林檎があった。
 私は息を吐き出しながら、その場でへたり込む。汗が、とめどなく滴り落ちるのを感じた。
 ぎぃ――と、背後のドアが開く音がした。
「……リリン」
 力なく振り向けば、それはリリンなどではなく、この場にいよう筈の無い人物の姿。
「博士、悪夢は覚めましたか?」
「リュート……」
 そのスーツ姿の紳士は私の横を通り過ぎ、狭い部屋の中を横切ると、ソファーの上のガウンを取り上げそれを私の背中へと羽織らせた。
「どこから来たんだリュート」
「御覧の通り、部屋のドアをあけてやって参りました」
 ふざけおって。思いはしたが、口には出さなかった。もはや私は疲れ切っていたのだ。
「もう死なせてくれ、リュート。生きている事に飽いた」
「我儘ばかり言わないで下さい博士。さぁ、立って」
 やめろと制止する間もなかった。リュートが私を軽々と持ち上げて立たせると、目の前にある大きな鏡に二人の姿が映った。
「私は……やけに疲れ切った顔をしているな」
「そりゃそうでしょう。文字通り“憑かれて”いたんですから」
「つまらん事を言う」
 そしてリュートは私をいざないソファーへと座らせると、彼は私の横へと腰掛け、そっと優しく私の肩を抱いてくれた。
「本当に疲れたよ。私は一体、どうしてしまったのかね」
 彼の大きな肩に頭を預け、私は聞いた。
「“悪夢”ですよ。博士はよろしくない悪夢を何カ月にも亘って見続けていた。――でももう大丈夫。あなたの目は覚めました。もうあなたを脅かす夢魔は現れない」
「リリンは……? 君は一体どうやってリリンをここから連れ出した?」
「連れ出してなんかいませんよ。私はただ、ここの部屋の全ての空気を清浄化しただけです。切り札とは、それ。室内の空気の入れ替えと、それに費やす時間が必要だった」
「空気が変わると、どうなると言うんだ」
「効果が……薄れます。あなたの身体の中に巣食う、毒素のね」
「――あれか? リリンの使っていた香水、“Succubus”」
「そう、あれがあなたに強烈な幻覚を見せていた。まるでそこに本当に、リリスと言う淫魔がいるかのような」
「そうか」
 言いながら私はそっと目を瞑る。隣からは、リュートの身体に染みついたシガレットの香りが漂った。
「リリンは……本当はいなかったんだね」
「えぇ、おりませんでした。全てはあなた自身が作り上げた妄想です」
 では、あの淫行の数々もまた幻覚だったと言うのか。
 あれほどに愛したのに。あれほどにのめり込んでいたのに。――残念ではあるが、どこかほっとしている気持ちもあった。
「じゃあ、私はいつから彼になり切っていたの? どうして彼と言う人格にならなければいけなかったの?」
「さぁ? ――でも多分、君が博士の死を目の当たりにしたから。そして彼の事を本気で愛していたから。殺したくないと言う気持ちが、そうさせたんじゃないかな」
 目を開ける。向こうの壁の大きな姿見に、リュートと私――ジョアンナ・ブランデルの姿が映っていた。

 *

「ジョアンナ、君はTAAFの古代墓地で蛇に噛まれた所までは覚えている?」
「えぇ、でもそこから先はあんまり……。ただ先生が非常に興奮した声で、私を迎えに来たのは覚えている。そして朦朧としながら、彼に掴まり奥を目指した事も」
「なるほどね、マックスウェル博士らしいよ。いくら毒性が薄い蛇だったとしても、弱った恋人よりも発掘の方に夢中だったと言う訳か」
「恋人とか言わないで。あなたにそう言われると、なんだか腹立たしいわ」
「あぁ、ごめん。厭味でもなんでもないのに」
 言いながらリュートは私の髪を撫でる。代わりに私は彼の膝に手を置いて、「彼は死んだの?」と、そう聞いた。
「あぁ。隠してもしょうがないから正直に言うけど、彼はあの墓地で亡くなった。――それは多分、君も見て知っている筈だ。ただ記憶がそれを拒んでいる。君の幻覚の世界で自分自身であるジョアンナを殺してしまったように、君は彼の死を記憶の中で拒んでいるんだ」
「なるほどね。知っているからこその、現実への拒否反応か。じゃあやっぱり、この部屋が鏡だらけなのもその対処療法って事なの?」
「そうさ。君が君である事を認識させる為にこんな部屋にした。おかげで君は、更にひどい幻覚を見てしまう事になったけどね」
 もはやその部屋は、リリンと一緒に過ごしたかつての瀟洒な部屋ではなくなっていた。それもまた幻覚が見せたまぼろしだったのだろうか、部屋は驚くほどに殺風景で、周囲は気味が悪くなるほどに大小の鏡で埋め尽くされていた。
「ここはどこ?」
「精神科の特殊な隔離病棟の一室さ。もちろん核シェルターなんかじゃない。ドアからの出入りが可能な普通の病室だ」
「私は――自分自身の姿を鏡で見ながら、それをリリンの姿だと勘違いしていたのね」
「きっとそうだろうね。それに君本人も間違っただろう、さっきのマミーの姿」
「えぇ、似ていたわ、私に。――あれは、“凍土の処女”ね?」
「そう、マックスウェル博士が亡くなる直前に発見した奇跡の遺体さ。彼の学説は正しかった。確かに“凍土の処女”は彼が記したその場所に千八百年もの間、眠っていた。どう言う手法で処理したのかは判らないが、まるで生きていた頃とまるで変わらないだろう肉体のままで、石棺の中にあった。――あのマミーは学術的にも非常に素晴らしいサンプルだよ。もしかしたらあの遺体一つで、あの周辺の歴史は覆るかも知れないだろうレベルのものさ」
「そうか……だんだん思い出して来たわ」
 私と彼は、隠し通路を見付け、正しい順路で正しい“王女の間”へと辿り着いた。そして彼は朦朧とする私を置き去りにしたまま、あの王女の遺体を見付けて大喜びをしていた。
 私にはそれが悔しかった。腹立たしかった。それはまるで、彼が私を捨ててあのマミーの方を選んだみたいな嫉妬で――。
「博士は、あの“凍土の処女”が納められた棺に押し潰されて死んでいた。多分、彼はあれで本望だったんじゃないかな。遺体の写真を見たけど、苦しんだ様子がまるでなかった。むしろそれは王女に抱かれ命果てる喜びのようで……」
 言いながら、しまったと言う表情でリュートは私を見た。私は、「別にいいわよ」と答え、苦笑した。
「私だって考古学者の端くれですもの、生活や色恋沙汰すらうっちゃって研究に走る男達の姿なんて、もう見慣れたわ」
 それでも好きなんだからしょうがない。マックスウェル博士も。そして、あなたも――とは言わずにおいた。
「君のおかげで、あの香水は製造中止になったよ」リュートは私の心の内など知らないまま、愉快そうにそう言った。
「蛇の毒は、強烈な眠気を引き起こす作用があった。そしてあの香水は常習者に仄かな幻覚作用をもたらす事が判った。――どちらもただ、それだけだ。蛇の毒は三カ月から半年近くまでその効果が続くと言われているが、まぁそれはこの際置いておいて」
 リュートは胸ポケットから取り出した紙片を広げ、私に見せた。
「“テキドフドロアスデヒド”。あの蛇の毒の主成分。そして香水の中には、“H2リゼルグ酸”が含まれていた。北極海の小さな島に咲く、“ホウオウアサガオ”と言う花に含まれる成分だ。どちらも単体では先に言った通りの効果しかないものの、何故かこの二つが同時に生物の体内に取り込まれると、脳細胞自体が騙されてしまうほどのリアルな幻覚を見てしまう。それこそ五感の全てが幻覚の全てを“現実”として受け入れてしまう程の効果で。更にはその幻覚は途切れる事なく続く。蛇の毒が抜けきるまで。もしくはH2リゼルグ酸の摂取が途切れるまで――ね」
「あぁ、それであなたは“匂い”の方を断ったのね」
「そう、どのみち蛇の毒もそろそろ切れる頃だったけどね。君が三日間もの空白の時間を自覚出来なかったのは、そのせいなんだよ」
「でも、不思議ね。どうして今日までその二つの成分が組み合わさらずにいたのかしら」
「地球の北の外れと南の外れに位置する小さな島の中にしか存在しないもの同士なんだ。その組み合わせを試そうなんて考える人間がいなかっただけの話だろうよ」
「それにしても、良くその二つの組み合わせが原因だって突き止められたものね」
「そりゃあ大変だったよ」リュートは笑った。
「疑えそうなもの全てを試した。君がこうなる以前に触れたもの、食べたもの、全てを試してこの二つに行き着いたんだ。おかげでカレッジの学生の数人が、まさに君と同じ症状になって困ってる」
「まさかあなた、大学の生徒で試したの?」
 慌ててそう聞くと、「もちろん志願者のみだけどね」と、悪気のない顔で答える。
「摂取自体が少量なので症状も比較的軽いけど、二人共お望み通りの世界へと行き着けて実に幸せそうだよ。一人は未発掘の文明をイスラエルの運河から発見したし、もう一人は人類の祖先に直結したバクテリアを発見してノーベル賞を受賞している。出来ればしばらくは幸せなままでいて欲しいなとも思ってしまうぐらい、満ち足りた表情をしているよ」
「これだから夢の無い学生はつまらないのよ。もっと大きなスケールの願望とか持てないのかしら」
「おやおや、酷い事を言うね。どちらも学術に熱心ないい生徒じゃないか。例え幻覚でも、ハリウッドスターになって我儘三昧をするような生徒ばかりだったら困りものだよ」
「あら、私はそう言う人の方がいいわ。知識欲ばかりの男なんてつまらないもの」
 そう言ってさりげなくキスのモーションに入ったつもりだったが、それより先にリュートは立ち上がる。
「それじゃあ僕なんか、つまらない男の最高峰かも知れないね」
 笑うリュートに、「ねぇ、先生!」と、私は怒鳴る。
「心配してくれたのは嬉しいけど、いつになったらここから出られるの? 私の幻覚症状はもう現れないんでしょう?」
「そうだね。きっとすぐ出られるさ」リュートはカツカツと足音を響かせ、サイドボードへと歩み寄る。
「もうこれさえ取り上げちゃえば、何も問題無い」
 そう言ってリュートは深緑のパフュームの小瓶をつまみ上げ、胸ポケットにしまい込んだ。
「それ、お気に入りの香りだったんだけどなぁ」
「新しい彼氏に違うものを買ってもらいなさい」
「ちぇっ」
 ――あなたがくれたものだからこそ、愛用していたんじゃないの。私は心でそう愚痴った。
「とりあえず早い所、栄養のあるものを食べて元の健康的な君に戻る事だね。歩く事も困難なぐらいに痩せ細ったんだ。無理せずもう少しだけここにいればいいと思うよ」
 リュートはそう言いながら、小瓶の横に置いてあった小さな青い林檎を取り上げる。
「あっ……」
 咄嗟に、声が出た。だがそれを止める暇無く、リュートはその青い林檎にかぶりついた。
「うん? どうした」
 口をもぐもぐさせながら彼は言う。私は、「いえ、なんでも」と言葉を濁し、何ごともなかったかのように振る舞った。
「じゃあ、僕は行くよ。借りて来た“凍土の処女”も早い所返さなきゃいけないし」
「ねぇ、リュート。また近い内に逢えるかしら?」
「あぁ、なるべく逢いに来るよ。――フィアンセにバレない頻度でね」
 言って彼は、軽いキスを私にくれた。重なった唇越しに、瑞々しい青い果実の香りがした。
「本当に考古学好きの男って朴念仁だわ。キスの最中ぐらい他の女の話題なんかしなくてもいいじゃない」
「おや、マックスウェル博士もそうだったのかい?」
「いいえ、彼はキスの最中もマミーの事ばかり。次の男は、文学者か哲学者にしておくわ」
「そりゃあいい。キスの一つにも、いちいち意味を欲しがる事に苛立たないのならね」
 リュートは笑った。そして私もそれに釣られ、笑った。
 私が初めて恋をして、そしてそれが叶わなかった、ほろ苦い想い出の男の笑顔だった。

 *

 ストレッチャーを押し、長い廊下を進んでいると、途中でやけにだらしない恰好の小太りな中年女性と出逢った。
「やぁ、ブレンダ!」
 叫ぶと女性は緩慢な動きでリュートの方へと振り返り、無愛想な表情で、「何?」と聞く。
「悪いがこれ、正面玄関で待っている生徒達に渡してもらえないかな」
「生徒? 生徒って何?」
「行けば判るよ。みんな薄汚れた白衣を着ている。“クロフォード先生から”って言えば黙って受け取ってくれるよ」
「面倒ね」
「頼むよ」
 そう言って彼女に一ドル硬貨を手渡す。そして彼女は鼻息だけでオーケーと返事をした。
 のんびりとストレッチャーを押して歩いて行く彼女を見送り、リュートは次の廊下を右に曲がった。途中でふと何かを思い出したか、もう姿の見えないブレンダに向かい、「くれぐれもシーツはめくらないでくれたまえ!」と叫んだ。
 そして彼女の悲鳴が廊下に響き渡ったのは、それから十数秒の後の事だった。
 病院の裏手の駐車場へと出ると、黒い作業着を着た若い男性が陽の落ちた中で、銀杏の葉を懸命に掻き集めている所に出くわした。
「やぁ、コナー君。随分とお世話になったね」
 声を掛けると、男は顔を上げた。ここの病院の数少ない有能なスタッフの一人、コナー・ヒューズだった。
「いえいえ、とんでもない。良かったですよ、ジョアンナさんの退院の見通しがついて」
「長い間、芝居を続けてくれていたんだってね」
「それが僕の仕事ですからね。やれと言われたら牧師だってギャングだってやります。もし必要ならば、火星人の役ですら受けて立ちます」
 コナーはそう言って笑う。すると同時に彼のポケットの中のセルラーフォンが鳴り出す。
「はい――。えぇ、はい。了解しました、すぐ参ります」
「またお呼びかい?」
「えぇ、今度は不治の病に侵された女性の恋人役です。これがまた面倒な役でね、本人はまるまると太っているのに、僕はそれを見ながら『そんなに痩せちゃって』と涙を浮かべなきゃいけないんですから」
 言いながらコナーは、くっくと可笑しそうに笑う。
「コナー君、何度も念を押すようで申し訳ないが……」
「えぇ、判ってますよ。あの部屋での事は絶対にナイショでね」
「君も充分に妙な光景を見たとは思うけど、頼むよ」
「いえいえ、あんなの妙な内にも入りませんよ。こんな施設で働いていて、いちいち妙な現象に驚いていたらキリがありません。大丈夫、映像は全部消したし、一連の記憶も墓まで持って行きますよ」
 コナーはそう言って唇の片側を吊り上げ笑ってみせると、箒を肩に担いで裏口のドアへと姿を消した。
 ――さて、終わらせるかな。思いながらリュートは、もはや芯だけになった林檎を植え込みの向こうへと投げ捨てると、近くに停めてある赤いフォードの前まで歩いて行った。
 ドアを開け、愛車の後部座席からコルクで栓をした黒色のワインの瓶を取り出す。瓶の中には何やら液体ではなさそうな、黒くどろりとした物体が沈み込んでいた。リュートはそれを片手に、病院裏手の坂道を下った。
 長い林道を抜け、やがてひらけた場所に出る。
 そこは、砂浜だった。穏やかな波の海が広がる、満月の砂浜。リュートは波打ち際にほど近い場所まで歩いて行くと、手に持った瓶をかたわらに放り投げた。
「いい月だ。こう言う晩こそ、奇跡に出逢うには相応しい」
 リュートはそっとシガレットケースを抜き出すと、一本を口に咥えて愛用のオイルライターで火を点す。
 片手をスラックスのポケットに突っ込みながらしばらく空を仰ぎ、紫煙をくゆらし続けた。やがて、そのポケットの中にある片腕が何かを取り出した。それは月光に照らされながらもはっきりと輪郭の判る、青く小さな林檎だった。
「僕の勝ちだよ、リリス」
 言いながら、ふぅと林檎に煙を吐きかけると、その表面に小さな陰影が二つ出来、そして小さな腕となってリュートの指に掴み掛かった。
「――なるほど、淫魔と呼ばれるだけの事はあるね。そうやって指に触られる程度でさえ、例えようもない淫らな感情が湧き出て来る」
 リュートはそれを放った。サクリと音がして、小さな林檎は砂の上へと落ちた。
「どうしても理解出来なかったんだ」リュートは林檎の前にしゃがみこむ。
「あの“凍土の処女”は、しっかり女と言う名前が付けられているにもかかわらず、女ではなかった。顔も姿も小さな乳房さえも少女の形はしていたが、その股間部分には男性と女性を区別するどちらの生殖器も付いてはいなかった。つまりは雌雄の区別が無い奇形児だった訳だ」
 リュートは尚も、落ちた林檎に語り掛け続ける。
「僕はすぐに判った。あの“凍土の処女”はリリスではないと。あれはただの人身御供だ。君を惑わせ、そこに繋ぎ止める為だけに人柱となった気の毒な生け贄だと。そしてそれは君を最初に見付けたマックスウェル博士も気付いた筈だ。“凍土の処女”の傍らに転がる青林檎を見付け、そして確信したんだ。自分の研究は間違っていなかった。これこそが、探し求めていた“リリス”そのものだと」
「Gyuaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!」
 林檎がうなった。見ればそこには両腕だけではなく小さな子供のような顔が浮かび上がり、苦悶の表情でリュートに何かを訴え掛けていた。
「“ヴォーパル”とは、黄泉のモノ、霊的なものを防ぎ繋ぎ止める事が出来る唯一の金属だと語られている。だがその金属はどんなものかも判らないまま、鉄や銅が精製される更に以前から語り継がれていた。従ってその不確かな存在の金属を研究する学者達は、とある学説を唱えた。――もしかしたらヴォーパルとは金属ではないのかも知れないと」
 林檎から生えた二本の腕が、異様なほどに伸び出した。腕はリュートを掴もうとするが、それはぎりぎりの所で届かず、虚しく空を切るだけだった。
「そして博士は知ったんだ。石棺が倒れ下敷きとなり、命を落とすその直前に。ヴォーパル――霊的な存在を繋ぎ止める事が出来る果実。その中にこそ、リリス、君がいると言う事を」
「Zyugyalooooow……Ugoaaaaaaaaaaa」
「きっと最初に君を封印した人もまた、ヴォーパルが何であるかを知っていたのだろう。――いや、本当は誰でもが知っていてもおかしくはない事なんだ。毒蛇にそそのかされ禁断の林檎を口にしてしまったエバの話さえも、林檎という言葉のキーワードが禁忌と自我の解放を教えてくれている。この果実は拘束でもあり、それを口にする事によって解放が成される呪いのようなものなんだ」
 その時、懸命に伸ばしたリリスの片腕が、リュートのネクタイの端を掴んだ。そしてその表情は、勝利を確信したかのような厭らしい笑みへと変わる。
「危ない場面は幾度もあった。ジョアンナが林檎を口にしそうなシーンの事だ。もしもこの“ヴォーパル”の縛めが一部で欠けてしまったなら、彼女でさえどうなった事か……。そう、君が“凍土の処女”を黄泉路へと連れて行けなかったのも、ジョアンナと何度も何度も交わりながらも魂を抜き取る事が出来なかったのも、その二人が“男”ではなかったからこそだ。残念ながら、君は二度も騙されたんだ。ジョアンナの心は男のものだったから、君も気付けなかったんだろう?」
 リュートの腕が、傍らに置かれた瓶の口を掴む。
「もしかしたら君は淫魔でありながら人間の“男”と言う種族を知らないのかも知れないね。ひょっとしたら君にこそ、“凍土の処女”と言う名前が相応しいのかも知れない」
 瓶のコルク栓を抜く。そして瓶は逆さまに振られる。底に溜まったどろりとした黒い物体が、うねうねと動き始める。
 もはやリリスの両腕は、リュートの首に掴み掛らんばかりに迫っていた。
 大きく開かれた口から細く長い舌が伸び、その先端から粘液質の涎が滴り落ちていた。
「残念だリリス。君はもしかしたらこの地球上に残る、種族の最後の一人だったのかも知れない。君達も以前はこの世界にもごく自然に存在していた夢魔の一人だった。だがいつしかその存在は駆逐され、伝説へと取って代わった。――そう、この“黄泉路の案内人”によってね」
 ボトリと大きく鈍い音を立て、それは砂の地面へと降り立った。それはこの近辺の国々では見る事もない、細い肢体を持つ鮮やかな緑色の蛇だった。
 蛇はリリスを見付けるや否や、その長い身体でぐるりと周囲を取り囲み、同色の小さな林檎ごと巻き付き始めた。そこから伸びた腕や首は絡め取られるかのように、蜷局(とぐろ)の内側へと消えて行く。
「Juryuwwaaaaa……Gyoguaaaaaaaaaa……」
「お帰り。本当に残念だけど、ここは君がいて良い世界ではない。――君の力は本当に脅威だよ。人の欲望を徹底して叶えさせ、そして自ら魂を差し出させてしまう。死ですら恍惚な快楽であると教え込んでね」
 蛇の腹と腹の隙間から、尚も足掻こうとするかのようにリリスの腕が突き出された。
 それを握り返そうとリュートは手を出し掛けたが、思いとどまり、その場ですくと立ち上がる。
「さよなら。同じ親から生まれながらも、この地上に僕達人類しか生き残れなかった事だけは悔しく思うよ」
 ――尤も、その人類ですらいつまで滅亡せずにいられるのかなとは、口に出さず。
 今やリリスは完全に蛇の体内に取り込まれていた。包まれ、巻き付かれ、そしてその蛇の身体ごとずぶずぶと砂の中へとめり込んだ。とどめとばかりに鎌首を持ち上げた蛇が蜷局の中心に牙を立て、僅かばかりの小さなうめきを上げながら、リリスは蛇の身体ごと砂に沈んだ。
 後は何も残らない。ただ一つ、何の変哲もない小さな青い林檎ばかりが転がっているだけ。静かな波の音が、やけに遠くに聞こえた。
「千八百年前の林檎か。これこそ奇跡だな」
 嬉しそうな顔をして、リュートはそれを拾いあげる。
 そしてそれを胸に抱き、空を仰ぐ。一体どこの誰を想うのか、その表情は穏やかな笑みに満ちていた。
 星は天に満ち、月は尚もその頭上にて明るさを増す。足元に転がる空の瓶は月の光を閉じ込めているかのように、仄かに静かに照り輝いていた。





《 緊縛の果実 - Lilith is inside – 了 》





【 あとがき 】
こんにちは。初めまして? 麗九楼です。
初めましての割に、リュート・D・クロフォード、第六作目です。
Tumblrに流れて来た記事に、「持ち物なんて全てレンタル品だ」って言うのがありまして。それにいたく感動して、こんな作品を書く事となりました。
現在、リュート七作目を執筆中です。八作目、九作目も、そろそろアイディアがまとまりそうです。
来年こそは、書く事に集中出来るよう頑張りたいと思っております。
どうもでしたー。


 麗九楼



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