Mistery Circle

2017-07

《 温室、彼の居た。 》 - 2012.07.06 Fri

《 温室、彼の居た。 》

 著者:手島要






「『いや、ですから,何故君はさっきからブラウスの前をはだけようとしているのか、ってことを訊いているんです』…よ。真面目な顔で聞き返されたら こっちの方が吃驚しちゃう」
きゃあっと歓声が上がる。教室の後ろ、周りの目も気にせず大きな声で笑いながらお喋りしているのは 香織さんたちのグループだ。
「いやだ、悪趣味ね。賭けだなんて言いながら 瀬崎先生の反応を見て面白がっているだけなんだから」
聖良(せいら)が眉をひそめる。香織さんは成績優秀だし、同じグループの奇麗で大人っぽい雰囲気のひとたちだって 決してそんな真似をしてまで 試験のヤマを教わる必要などない。そんなことは解っている。
「あんなことしたって 瀬崎先生は反応なんかなさらないわ」
いつもながら丁寧なお嬢様口調のまま聖良があまり自信たっぷりに言い切るので 思わず顔を上げて聖良の目を見てしまった。
「どうしてかって、聞きたい?羽根?」
(ちなみにあたしの名は「ハネ」だ。ちょっと変わっているけれど結構気に入っている)
どうせ聖良の取り巻きの人たちが聖良に聞かせる噂話の類だ。当たらずとも遠からず、かもしれないけれど それをここで話題にするのは避けたかった。
「いい。噂話は好きじゃないし…そう、第一 瀬崎になんて興味が無い」

あたしが瀬崎のいる学校に入学したのは偶然なんかじゃない。でも、瀬崎に興味があるのでは決して、ない。
あたしが知りたかったのは あの少年の生きた日々。そして彼のいた学校の裏手にある池で命を落としたその訳。相手をとりこにして 誰よりも一番大事な存在になって、そして居なくなってなお、相手に纏わり繋ぎとめて止まない、そんな少年の。
あたしが欲してやまないものを、得たくても得られないものを全て持っていながら 未来の時間を失ったあたしのの「兄」。まだ彼を知る人の中にその存在を宿し その心を絡め取り、ゆるゆると締め付ける。彼のことを思うたび、胸が苦しい。
何の自殺の理由も見当たらないと誰もが言った。雨上がりのぬかるんだ土で足を滑らせた事故だったということになった。でも、どうして彼がそんな学校の裏手に行くことがあったのかは誰も知らなかったのだ。

羽根のことはずっと知っていた。羽根は気が付いていないだけだ。
初等部3年生になった私はお母様にもう一人で登下校すると宣言した。お母様はネイルの出来を確認し、新しい香水の香りを確かめながら、「そんなのお母様心配だわ。聖良さんはまだまだ赤ちゃんだもの」と、そう心配でもなさそうな顔で言った。本当のところお母様はご自身の遊び時間が増えるのが嬉しいのだ。
小学3年生は「赤ちゃん」なんかではない。お母様は何にも解っていない。
私が迎えに来てほしくない理由はあのひとに会うために他ならない。
お母様のお好きなどんなスタアよりずっと美しく、お母様のお付き合いなさるどんな男の人より優しくはかなげな感じが 私の理想そのままだった。小学生だってちゃんと美しいものや神聖なものを見分けることができるのだ。私には自信があった。
女子大生の家庭教師の先生がこっそり見せてくれた本に出て来る、美しい少年たちのひとりが実際にそこに居る、通学の道で初めて彼を見た時は心臓がどうにかなるんじゃないかと思った。胸が痛くなるくらい締め付けられた。何度も登下校で会うようにして いつも目を見てちゃんと会釈する。私は奇麗な女の子だから気が付いてもらえるはずだ、確信していた。彼に覚えてもらい、優しく微笑みかけてもらう。やっと口をきけた日の気持ちを私は忘れない。少しずつ親しくなっていくのが嬉しかった。
たとえ私が彼からみたらおよそ恋愛の対象にもならない 小さな子供だったとしても。

私は会えば近づいて、子供らしい言葉で一言二言話しかけるようにした。少しずつ私と彼の間は近づいていた。なのに 仲良くなればなるほど彼の口から出るのはいつも「羽根」。訳あって一緒には暮らしていないけれど私と同じ学年の妹がいるという。私と話していながら彼の目には私は映っていない、そんな時がある。
悔しかったのだ。酷く傷ついたのだ。憎らしかったのだ。
そしてその子が公立の小学校らしく私服に赤い貧相なランドセルを背負った姿で こそこそと彼の学校の敷地に忍び込んでいくのを見たのだった。
高校から編入してきた羽根に私はすぐに気が付いた。解りやすい名前、彼と似ているところのない容姿。
ただ声だけが吃驚するほど似ていた。私は羽根に近づいた。


Tというのが母の学生時代の恩師だというのは先に聞いていたが ある日漏れ聞いた母と祖母の会話から、それだけの仲では無かったということをあたしは知った。子供の理解できる範囲内ではあったけれど、それでもいつもずっと上の空のような母の心を占めているのが あたしでないことをはっきりと納得するには十分だった。
Tは結構有名な大学教授で。朝のニュースショーに コメンテーターとして出ている。父も母も決して選ぶことの無いそのチャンネルを 二人がいない隙に、あたしは見ることにしていた。
そして教授の近況などの差し挟まれた会話の中でやっと Tの息子が通う中学を私は「突き止めた」のだ。
教授のクソ真面目な顔があたしの頭の中に嫌な残像を残し 「息子」という言葉が消えない耳鳴りみたいにあたしの身体に響き続けていた。ベランダに洗濯物を干しに 母がリビングに入ってきたので 慌ててチャンネルを変えた。
とりあえず行ってみよう。
小学生だったあたしに考え付くことは単純だ。あたしはその有名私立中学の校門に足しげく通い 通りすぎる生徒たちの会話に耳をそばだて やって来る生徒の胸の名札を逐一チェックした。
辺りを行き来する姉妹校の初等部の子たちは紺の洒落た制服に黒のランドセルだったから 赤いランドセルを背負った目つきの悪い怪しい小学生は随分と目立ったことだろう。皆何だろうという目をして通り過ぎて行った。
やっと見つけた。
「張り込み」を始めた日から何カ月経っただろう。自分の母に良く似た面ざしの彼を見た時 すぐにそれと解った。陶器のような白い肌、色素の薄い茶色の目と柔らかそうな髪。華奢な肢体。父に似たあたしには、無いものばかりをその少年は持っていた。
夏休み前、三者懇談の日だったのだろうか。日傘を挿して一緒に歩く彼の「母親」の顔立ちは、彼とは全く違うタイプのものだ。黒髪のショートヘア、一重切れ長の目、きりっとした知的な感じ。うちの母よりも一回り以上は年上という感じの女性だった。一つの日傘で陰を作りながら寄り添い、時折言葉を交わしながら歩くふたりは 裕福できちんとした良い家庭の 仲の良い母子に見えた。
じりじりと暑い日の続く7年前の夏だった。


その日の朝は羽根と一緒になった。初等部の子供たちが同じ坂を上っていく。
「いいなぁ。子供は。あの頃が一番良かった気がするよ」
羽根がしみじみ言うので思わず横顔を見る。あの頃だってご家庭の事情が色々あって、あなたお気楽だった訳じゃなかったんじゃないの?言いたい気持ちをおさえ、あまり興味の無い顔で聞き流す。
元気な女の子が体操服の袋を振り回して遊んでいる。手を離れて足元に飛んできたのを羽根が拾い、笑って少女に手渡した。私が押し黙っているのを不思議そうに羽根が見る。
「どうかした?聖良。顔色が悪い」
「あの子たち、お行儀が悪いわ。こういう時はきちんと注意した方がいいわよ」
声に棘があるのを誤魔化すように先を急ぐふりをした。体操服の袋。小学生の私のあの一日を嫌でも思い出す。あの日のことは 誰も知らない。もちろん羽根も。
羽根と一緒に踏み入れた教室内 今日の雰囲気は異様なものだった。

いつも大きな声で話をしている香織さんたちのグループが静かで、それは彼女らの興味深いことはメールやラインなどで静かに語りつくされたことを示し、他の生徒の反応を窺うようなねばついた視線が教室内に行き交っていた。他の女子グループも俯きがちに押し黙り重苦しい空気が満ちていた。
ネットを開くまでもなく、いつもの掲示板の書き込みは私の「崇拝者」たちが全て教えてくれる。どこの学校とも誰とも決して確定できないよう書き込むのを暗黙のルールに いつからかずっと生徒の中で読み継がれているネットの掲示板だ。書き込みの内容はかなり際どいもので 女子生徒がひと気の無い理科室で生物教師にセクハラされている様子が克明に描写されていた。
「ありえないわ。きっとまた あのひとたちの嫌がらせよ」
私は品よく顔をゆがめ悲しそうな顔を作って 例のグループの方を目で示した。羽根はこういう時も慎重で、公平で「正しい」ことを言う。今はただ軽々しい言葉は言いたくない、というように形の良い顎に手を当てて考える様子をした。

姉妹校の私立中学からここの高等部に赴任してきたの生物教師の瀬崎について 私はまるで預言者にでもなったような顔をして羽根に告げたことがある。瀬崎信介は心に誓った相手がいる。その気持ちの固さは尋常じゃない…あなただけに言うわね、そう前置きしてその先を私は羽根の耳元で囁いた。
「普通の・・・・結婚とか考えられるような…お相手ではないと思うの」
わたしのカンは当たるのよ。間違いない…私は 瀬崎と彼のことなんて何も知らないような顔をして羽根にそう言った。
この学校では若い男の先生だというだけで珍しかったので 一部生徒たちは勝手に王子様に仕立て、他の生徒は粗さがしをして貶した。後者だって本当に嫌っているんだか怪しいものだ。羽根が、そしてその後を追って私が温室で見た、あの頃の瀬崎に比べて今の彼は全然輝きを失っているというのに。
「酷いわよね、読むに堪えないわ」
「うん、想像力には感心するけど文章力が無い」
スクロールして掲示板を読み続ける羽根を そんなものを読む何んて信じられないわ、という風に眉をひそめて見る。書き込みはどんどんエスカレートし お決まりのようなエロチックな表現や でたらめな擬音や喘ぎ声まで入っている。こんなものが生徒間で読まれていると学校に知れたら大問題になるだろう。
万一これが瀬崎先生と誰かのことだと思われたとしても 責めを受けるのは文章の書き手や事の真偽じゃなく
「上品なこの学校の生徒」にこんなことを読み書きさせるきっかけを与えた教師の方となる。この学校のしそうなことだ。
「瀬崎先生 これ読まれているのかしら」
私が言うと 
「解らない。でも、瀬崎はそんなことしないと思う。まさか聖良は信じてないよね?」
「ええ、ありえないと思うわ。こんな・・・」汚らわしい。私は出かかった言葉を飲み込んだ。
あの美しい彼と少しでも関わった男が、あんな女子生徒と何かあるなんて許せはしない。怒りに手が震え、身体は逆に冷たくなっていき、気分が悪くなる。顔色が悪くなったのを羽根が勘違いして言葉を掛ける。
「目の毒だわね。聖良はもうこれ以上読んじゃいけないよ」
潤んだ目を向け「純情な聖良」をアピールすると 羽根は私の頬を両手で挟み額にいつもの軽いキスをしてくれた。親愛のキスやハグはうちの家庭では普通なのよ、そんな私の嘘を羽根は信じ、私が要求すると初めはぎこちなく、だんだん慣れてかなり自然に、してくれるようになった。
目を閉じて額に残った感触と羽根の「声」だけを繰り返し感じ取る。狂おしい思いが体中を徐々に熱くした。


スマートフォンで例の掲示板を開いてみた。
「品の無い書き込みが続いていますね。残念です。 彼は潔白です。なぜなら セクハラを訴えている貴女、貴女になど彼は全く眼中に無いからです」
「セクハラどころか 貴女のような女性徒に何の性的興味をお持ちではありませんよ」
あたしが弁護するまでもなく 誰かの「まっとうな」書き込みが追加されていた。
きっと聖良だ。こういう時一番に声を上げるのが 聖良だと思った。
この学園に中途で入る人数は少ない。1学年3組程度で過ごした生徒たちは全員良くお互いを知っていて、高校から入って来る者は異物だ。そんな異物のあたしに聖良は優くしてくれた。お嬢様の中でも家柄も特に良く一目置かれた存在の聖良があたしを受け容れたことで あたしの立場は随分と居心地の良いものになっていた。

「ごめん、今日は…」
校門を出たところで聖良に声を掛けた。聖良は奇麗な顔を少し悲しそうに歪め いたわるような微笑みと共に解ったというように肯いた。育ちの良い彼女のこと、友人の家庭の事情を踏み込んで聞くことなどしない。地域の学校でもないここでは 誰もあたしの家のことなど知らないのが好都合でもあった。
「お兄様のお墓参りね。羽根にいつも大事にされて きっと喜んでおられるわ」
聖良はそう言うと 細い白い手を胸の高さで小さく振り、「では、また明日。ごきげんよう」と駅方向に歩きだす。お迎えの車を出そうとする親を説得しての電車通学は小学校の3年生からだと聞いている。聖良の後ろ姿を見送ってから 横手の細道を通り、破れたフェンスの隙間から学校に入る。手入れのされていない鬱蒼とした茂みの先に小さい明りの灯った窓が見えた。サビの浮いた外階段を上がった所、非常ドアは鍵が掛かっておらず、そこから入ったすぐのところに生物準備室がある。そっとドアを開けると デスクに向かう瀬崎の細い背中が見えた。
「先生?」
瀬崎は振り返らずに 肯く。
「『お帰り』。どうした?浮かない声を出して」
「掲示板見たんでしょ」
「ああ」
ドアを後手で閉める。古びたドアは無音の空間にキイと幽かにきしむような音を立てた。
「ほんと、いつ来てもまるで納骨堂だ。生きたものがいないみたいだ」
実験器具や標本 資料の束 古い本。何より瀬崎の背中から伝わる生きたものを拒否するような冷たさ。
瀬崎のデスクのパソコンはちょうどあの先日の掲示板の、下劣極まりない創作小説を映し出していた。
「気にならないの?誰が書いたかとか」
「どうせ例のお嬢さんたちだろう。気にもならないよ。うちの多くの学生たちが読んでいるとはいえ うちの学校のことという確証もない。日本に生物教師なんて何人もいるんだ。個人を特定もできない。私が気にしなければいいだけだ」
「あんな女子にからかわれるなんて。情けないったらないや」
「すまない」
「何にもやってないのに謝ることはないよ」
「カケル・・・・」
「うん?」
あたしは羽根だよ、カケルじゃない、といういつもの言葉を呑みこんでそのまま相手をする。
「ごめん」
「何が」
中学生の兄と瀬崎、二人の会話がこんな風だったかは知らない。小学生だったあたしはあの日から 彼の姿を探して放課後の中学校の敷地に忍び込むようになり裏庭の空気の淀んだ温室に兄と瀬崎の姿を見つけたのだった。声はほとんど聞き取れず、まるで無声映画でも見ているようだった。
ランドセルを背負ったまま茂みの後ろに身を隠し 母に良く似た美しい兄、いつまでも母の気持ちを捉えて離さない「カケル」の姿を飽きず眺めた。その存在に対する嫉妬なのか憧れなのか自分でもよく解らない。それでも兄を見続けたい気持ちは抑えきれなかった。瀬崎と彼の躊躇いがちに会話する様子、触れそうで触れず、近寄りそうで近寄らない距離、「カケル」を後ろから見つめる瀬崎の視線は 酷く切なかった。若い瀬崎もまた整った顔立ちの青年だった。きっとこれ以上は見てはいけない、これは二人だけのものだ…そう思いながらも温室の彼らを追う日々は続いたのだ。
少なくともあの頃の瀬崎は兄よりずっと「大人」で、兄が瀬崎に頼っているように見えた。なのに。
「僕はダメだ。本当に 情けない…」
泣きだしそうな教師の声に 茶番はもう沢山だ。叫びたくなる時がある。
「もう、行く」
一度も振り返らない瀬崎の、目の前のパソコン画面の黒には スカートの制服姿のあたしが映り込んでいたはずだった。苛立ちを隠せないまま外階段を駆け降りる。ガタンガタンと金属の階段は嫌な音を響かせた。手すりの腐食したところが当たり、指にチクリと痛みが走る。
死んだ兄と自分の声が(皮肉なことに声だけが)似ていると気づいたのは彼から掛かってきた過去一回きりの電話だった。
「ごめん。僕の存在ははキミを傷つけてる?」

教授と自分の子供に名付けるとしたら、と若い学生だった母は考えていたそうだ。男の子だったら「翔(カケル)」女の子だったら「羽根」。でも生まれた彼は 母の手から教授夫妻に奪い取られ別の名前を授けられたのだという。


「聖良さんはあの書き込みをどう思う?」
羽根に話しかける前に 取り巻きのお馬鹿さんたちが私に聞く。
飽きっぽい彼女たちの興味は珍しく
続いているようで 朝一番の話題は新しい書き込みのことだった。
「どんなことが書いてあったの?」
私が聞いてやると 彼女らは口ぐちに目にした文字に感情を勝手に入れて読みあげた。
「前のと別の人よね。ちゃんとした意見だった」
「あら、何だか少し意地悪な感じがしたけれど」
「そう?あれくらい言ったっていいわよ、ねぇ聖良さん」
彼女らのテンションは一段と高い。頬を紅潮させ目が輝いているのが可笑しい。
「たちの悪い書き込みも止まったし、わたしは良かったと思うわ、ねぇ 聖良さん?」
「えっ、ああ…そうね。まあ…」
「もう、聖良さんってば。俗なものになんかどうせ関心がないんだから」
私のノリの悪さに少し
気を悪くしたのが彼女らのひとりは解り易く頬を膨らませ 他の者は自分も実はそんなに興味なんかなかったという様子を慌てて繕って 移動教室に向かって速足で歩きだした。


放課後ネットを確認し あの数行の後空白だった所にリアルタイムで投稿してくる新しい文章にあたしは目を奪われた。
「白い滑らかな手を後ろから絡めながら彼は言った。『じっとしてて』。
 古びた温室の中にも夕焼けの色がひたひたと沁み込んでくる。グラウンドから、運動部の掛け声が遠く響いていた。校舎と植え込みの隙間から見える運動部の生徒のしなやかで機敏な動きに見惚れるのを咎めるように後ろから回された両の手は私の目をふさいだ。 
『先生がもし…これからもずっと僕以外の誰をも愛さず そう、僕以外の誰のことも一生想わないでいる、と約束して下さるのであれば…』
 細い指が目からゆっくり下り私の唇に触れ ゆっくりとなぞる。ああ…と吐息が漏れる。彼は語調を変え苦しそうに呟いた。
『僕がこの世から居なくなってもきっと、姿を変えてでも絶対に、先生に逢いに来ますから』」
誰だ、こんなことを書くのは?また誰かの創作だっていうのか。根拠の無い想像なのか。酷く混乱する。その先 数度に分けて同じ文体の書き込みが続く。少年と教師らしき男の秘めやかな関わり。そして少年の造形ははまさしく「兄」だ。しかも場所は「温室」。酷く混乱した。動悸が激しく打ち、手が震えた。何故、こんな…?

「…お帰り」
パソコンに向かう後ろ姿はこの頃更に猫背に、目つきが日増しに病的にうつろになる瀬崎に 背筋がざわりと凍りつく。何年も掛けて 瀬崎はゆっくりと病んでいく。冷え切った生物準備室は暗いのに灯りもつけず、パソコンの画面の光だけが部屋を照らしていた。
「お帰りでもないし、『カケル』でもない」
瀬崎は答えない。まるで瀬崎の後に瀬崎の望まないもの全てを遮断する見えない壁でもあるみたいだ。
「あたしはカケルじゃない。解ってる?解ってるくせに。いい加減にしたら?」
瀬崎の背中は微動だにしない。聞こえているのか心配になる。
「あたしの声を聞いてカケルを想うのも もううんざりだ。あんたに付き合ってたって兄の何も見えてこない」
あたしが瀬崎を通してでも知りたかったのは兄なのだ。彼の亡き今、瀬崎を追ったところで何も得られなかった。瀬崎はただの抜け殻だ。白衣の背中が小刻みに震える。あたしがずっと気に掛けていた兄の相手はこんなヤツだったのかと今さらながらがっかりする。
「いつまでも思い出に浸ってたって 彼は帰ってこない。あんたと「カケル」の繋がりが本当のところどんなだったかなんて知らない。今さらどうだっていいんだ」
「どうだって、いい・・か」
瀬崎はくすりと笑い、振り向いて冷たい視線をあたしに向けた。
「どうだっていい…?なのにこんなことを書くのか。君は「姿を変えて逢いに来た」ふりでもしてたのか?僕のことも彼のこともこうやってでっちあげで弄んで… 何が楽しい?」
瀬崎はあたしがこの小説まがいを書いていると思っているのか。瀬崎の声が静かな怒りで震えている。
「その前の書き込みも、最初の女性徒の話の方も、そうだ全部君なんだろう?何のつもりだ?そんなに僕が憎い?」
あたしが何でそんな文章を書かないといけない?こいつそこまで狂っているのか。瀬崎のあまりの思考の飛躍に愕然とした。
「これ読んで きっと明日はまた生徒たちが反応する。カケルが…君の兄さんがどんどん汚されていく」
瀬崎がゆっくりと背筋を伸ばし椅子を回転させて こちらを向いた。
「僕は…僕はカケルとの時間をこんなところに晒して欲しくない。しかも、こんなのは事実じゃない。」
「触れることもできなかったのに・・・って?」
そうだ、あの温室で、延ばしかけた手を瀬崎は何度引っ込めたことだろう、あたしは知っている。
「同じ声をして僕に近づいて来た君が悪いんだ。放っておいてくれれば良かったんだ」
どんな強い言葉を発しても、抑揚も無く、目はよどみ 顔色も更に悪い。ここ数日掲示板の書き込みに 少なからず心を騒がせたことが窺われる。
「そう、結局彼の悩みも何も解決してやることなんてできなかった。少しでも触れあったと思ったのは僕の勝手な思い込みで…」
頭を抱えてデスクに伏す瀬崎は弱々しくて見るに堪えない。
「彼をこの世に引きとめることもできず、ぐずぐずと生きている詰まらない大人だと どうせ君も笑っていたんだろう。」
あの温室で、瀬崎は確かに時折切ない目をしていたけれど、語らっていた二人は静かで穏やかで 幸福そうにも見えた。彼の悩み?引きとめることもできず?瀬崎は何を言っているんだ?
「違う、そんなことない。引きとめるって、まさか、先生は兄のこと…」
けして言わないと決めていた言葉が口から滑り出しそうになる。
─ごめん。僕の存在ははキミを傷つけてる? 
あたしはあたしで、兄の一度きりの電話の言葉が記憶の底にずっとくすぶって消えなかったのだ。
そんなことないよ、あたしもお兄ちゃんが気になってずっと見ていたよ、お兄ちゃんがいるってあたし、何だかちょっと嬉しいんだよ…正直に言えば良かったのかもしれない、何度もその時のことを思い出す。ただ動揺するだけで 一言も答えることもせずガチャンと電話を切った。あの頃のあたしにはそれが精一杯だったのだ。あなたが生れたのは悪いことなんかじゃない。誰もあなたを責めたりしない、そう言ってあげれば良かったのに。

『自殺だと思ってるわけ?』
瀬崎の背の後でパソコンの画面に文字が更新された。画面の文字に目が釘付けになる。何だ、これは?
『違う。あなたたちなんか何にも解ってない』
画面にはあまりにもリアルタイムにあたしたちに向けたと思われる文字が現れていた。
「誰?何?近くにいるの?」
周囲を見回した。すりガラスの向こうで人影が揺れた。

開かれたドアの先に驚いた顔の羽根、奥のデスクの方には青ざめた顔の瀬崎先生が 私を見つめている。
「何で 聖良が?」
二人の驚いた顔に十分に満足を感じながら 私はゆっくりと準備室の中に進み出た。今まで 私を除け者にして自分たちこそ彼のことを知っている、みたいな顔で その声を使ってごっこ遊びをしていた。
─私が何も知らないと思っていたの?
言いたいことは沢山あった。
「私の小説について 羽根がどんな評価を下すのか知りたかったの」
「聖良?」
「あの下らないでっち上げ記事でも あれだけ話題になったんだもの。私が思うもっと美しいものを書いてみせただけだわ」
羽根が理解できないという顔で私を見る。瀬崎先生の間の抜けた表情が可笑しかった。
「『カケル』なんてもともといないのよ。あの人の名は別にちゃんとあった。その名で私、呼んだもの。」
「知ってたの?聖良は兄のこと」
「兄?そうね、可愛い『妹の羽根』。彼はずっとあなたを想ってた。隠れて覗いてなんかいないですぐに名乗り出たら良かったのに。」
誰よりも私が一番彼を見ていたのだ。彼を知っていたのだ。語り始めたら身体が熱くなる。
「羽根も馬鹿だわね。先生もよ。温室でこそこそ悩み相談?何にも解決しないじゃない。それにかこつけて傍に居て 結局触れることだってできなかったくせに。」
二人は言葉を失ったまま 私を見つめる。いい気味だ。
「羽根と仲良くしてくれって あの人は言ったのよ。あたしと羽根なんか何の接点もなかったのに。学校だって違ったのに。」
「聖良?」
羽根が私の話を遮ろうとする。何の権利もないくせに。私は続ける。
「知るわけないわ、同じ年齢だってだけなのよ。なのに、何?」
「聖良、良く解らない。どういうことなの?初めからちゃんと話して」
羽根が私の腕をつかんで ぐいと引きよせた。目がまっすぐ私を覗きこむ。
真っすぐすぎる視線が痛くて 私は顔をそむける、まだ あなたたちは知らないことがある。羽根の手を振り切った。
「だから言ったのよ、体操服の袋が落ちちゃったの、って。ほら、あの池なんですって。」
タイソウフクノフクロがオチチャッテ…タイソウフクノ…タイソウフクノ…あの日からずっと私の頭から離れないあの時の私の台詞。彼と話した最後の言葉。
「カケルはそれを探しに、行ったのか?」
瀬崎も私を見つめる。久しぶりに生きた人の目をしている。
「池のほとりまで降りたのは見届けたのよ。一番に構って欲しかった。私を見てくれない彼への意地悪のつもりだった。」
ずっと誰にも言わなかったことだ。誰にも言えなかったことだ。泣いているつもりは無かったのに私の頬を伝っているのは何だろう。ぐらりと周囲がゆがむような感じがしてその場に崩れ落ちた。
「…無いものを探す親切な彼を置いて 私はその場を後にしたわ。そうよ、少し意地悪しただけのつもりだった。それなのに…」
そう、それなのに雨上がりの土は見た目より滑り易かったのだ。
泣くつもりなんてなかったのに堪えたら喉が震える。床に就いた手の甲にぱたりと涙が落ちた。
「ずっと」
羽根が私の肩に手を掛けた。びくんとする私に、屈んで話しかける羽根の声は優しかった。
「ずっと 気にしてたんだ。聖良」
羽根は私と向き合うようにしゃがみ込み もう一方の手も私の肩に載せ
「ずっとひとりで気にしてたんだ。」
コツンとおでこを合わせてくると、羽根は私を引き寄せて抱きしめ、長い沈黙の後絞り出すような声で言った。
「辛かったね」
彼とそっくりな声。少年の声のままで逝ってしまったその彼の声が耳元で囁く。でも、それは羽根の声だ。
優しい唇が額に触れる。
「辛かったね」声はもう一度繰り返した。

瀬崎を意識したような書き込みの続いた事件も いつの間にか皆の興味を離れ、また静かで退屈な学園生活が続いている。相変わらず香織さんのグループは教師相手に色々な悪ふざけを続けているみたいだけれど 瀬崎も少しはまともな大人の対応ができるようになりつつあるようだ。
あれからあたしは時々聖良を誘って兄の墓参りに行く。あたしが知っている兄と聖良の知っている彼、そして瀬崎の話を合わせていくと、少しだけ本当に居た彼に近づけるみたいで嬉しい。
あたしにハグとキスを要求する聖良はきっと、寂しい子なんだろうなと、ずっと思っていた。聖良がそれを必要とするなら、あたしはそうしてやりたいと いつも思っている。

暗い部屋の中、パソコンの画面から青い光が周囲を照らす。
誰かを傷つけたり、誰かを励ましたり守ったり、そんな新しい文字がまた浮かび上がってくる。





《 温室、彼の居た。 了 》





【 あとがき 】
 BLのつもりだったのに文章を削ったらほぼ無くなってしまいました。百合っぽい女子校の話も好きです。もっと創り込みたかったけど何も浮かんでこない時間が長すぎて(倒) いっそ喘ぎ声だけで一作 書いてみたかった(嘘)

【 独り言】
 何かもうぐだぐだですみません。


 手島要



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