Mistery Circle

2017-07

《 World ruler 》 - 2012.07.09 Mon

《 World ruler 》

 著者:Clown




 僕は、言葉で生きてきた。それが今、言葉で死のうとしている。
 連日連夜、各種媒体を通して流れ続ける有象無象の言葉達は、僕の首を真綿で締め付けるかのように、じっくりと、じっとりと殺しに来る。華々しく飾られた、毒々しい言葉の数々。おぞましい程にスキャンダラスで、気の触れる程ヴァイオレンスな彼ら・彼女らの言葉が、僕という存在を社会から抹消していく。
 数多の言葉を紡ぎ続け、数多の賞賛をこの身に浴び続け、世界への道すら開けていたというのに。たった一度の過ちが、僕から全てを奪い去った。生まれ落ちた負の感情と言う怪物は連鎖を重ね、波紋を広げ、さらに新たな怪物達を呼び起こす。怪物達はより強力に、より強大になり、ついには僕を食い殺し、後から来た怪物達がその屍肉をすらついばんでいく。
 社会における僕という存在は、死んだ。今の僕は、肉体として生存しているだけの、ただの動物だ。そのうち言葉に塗られた猛毒が僕の精神も蝕み始め、箍(たが)の外れた心の奥から最後の怪物が現れるだろう。そして、僕の肉体も殺される。内から這い寄る怪物の意のままに。
 凍える程の風が、摩天楼に吹きすさぶ。僕は両手を広げ、空を仰いだ。僕は、言葉で生きてきた。でも、言葉に殺されはしない。僕を殺すのは、殺していいのは、僕だけだ。
 踵が、重力から解き放たれた。僕の体は、梢から切り離された枯れ葉のように、逆巻く風に煽られて宙を舞う。僕は叫ぶ。普段は使わないような下品な言葉で、精一杯叫ぶ。ざまぁみろ、僕はお前達の言葉では死なない。僕自身の意思で死ぬんだ。そう叫んで、僕は初めて気付く。
 そうか、結局僕は、言葉に駆り立てられて死ぬのか。
 風が鼓膜を叩き、ぐんぐんと体は引き寄せられていく。世界の法則に従い、当然の帰結を目指して僕の時間が加速する。視界が細る。世界が回る。そして、冷たいコンクリートの大地が、僕の頭を砕





W o r l d  r u l e r






「ま、結論から言うと、君はバカだねー」
 目の前に立つ白いワンピースの少女がくるくる回りながら僕を貶める。栗色の髪をショートボブにまとめた少女は、ぱっちりとした目に小さく薄い唇をしており、どことなく猫を連想させる。
「あぁそうだよ、悪かったな」
 僕は憮然とした表情で開き直ると、ひんやりとしたコンクリートを見下ろした。
 黒いコンクリートが更にどす黒く染まり、その中心には表面積が多少膨れあがった人間の死体が転がっている。頭部はスイカのように割れて中身も一部はみだしており、顔面は黒く浮腫んで人相も判別付かないが、僕はその身元を良く知っていた。
 小さい頃から言葉を書き続け、若くして名誉ある文学賞を受賞し、各国語に翻訳された著書が世界に向けて発刊される。清楚で従順な婚約者もおり、まさに将来を約束された希代の文豪……になるはずだった男。
 作家仲間から勧められた脱法ハーブを興味本位で使用したところをゴシップ記者にすっぱ抜かれ、三流週刊誌からワイドショーまで連日連夜ひっきりなしに叩かれた。様々な悪事を捏造され、日の高いうちは記者達の所為で外に出ることも出来ず、海外出版の話も取り消されて、婚約者とも破談となった。
 これは、僕だ。ついさっきまで、僕だったものだ。
「一度の過ちで全てを失い、自分自身も失った大馬鹿者だ」
「そうだねー」
「いや、ちょっとはフォローとかしろよ」
 屈託無く笑いながら肯定する少女に、ため息を漏らす僕。そもそも僕はこの少女の正体を知らない。死んだ僕を迎えに来た死神のようなものだろうか。それにしてはデリカシーというか、色々なものが足りていない印象だが。それに、死神と言えば黒装束がお決まりの衣装のはずだが。
「駄目よ、ミライ。あまりいじめては」
 そこへ、また別の女性が現れた。こちらも真っ白のワンピースを着ているが、目の前の少女よりも背が高く、落ち着いて見える。腰まで届きそうなストレートのロングヘア、垂れ気味の目にすらっとした鼻筋、少し大きめで弾力のありそうな唇と、こちらはおっとりとした大型犬の雰囲気だ。
「だってー、それ以外に言い様がないんだもの。カコだってそう思うでしょ?」
「それはそうだけど」
「なんだ、死んでも悪口言われるのか、僕は」
 釈然としない気持ちで抗議する僕に、カコとミライなんて言う出来すぎた名前の二人は愛想笑いを浮かべた。
「で、結局君たちは何者なんだ? 僕を笑いものにしに来ただけじゃないだろう」
 少しの間を置いて、僕は核心に迫った。彼女たちは僕が死んでから……正確には僕の魂と思われるこの半透明な体が、僕の死体から羽化した蝶のように剥がれ出た時から当たり前のようにそばにいた。名前だけの簡単な自己紹介の後に死んだときの状況を聞かれて、よく分からないまま素直に答えたら、開口一番貶められた。訳が分からない。
 僕の質問に、二人はどう答えたものか悩むように首をひねった。全く同じポーズをする二人が何処か可笑しい。ややあって、カコの方が口を開いた。
「私たちは、世界を調律する者。世界に起きたほころびを見つけ、修繕する役割を担っています」
「世界を調律?」
「そうです」
 急に話が世界レベルになって、僕は何とも言えない顔をした。生きてる頃にこんな話をされたら間違いなく無言で立ち去る程にうさんくさい話だが、今は自分自身も相当うさんくさい存在なので何も言えない。自分の作品でも死後の世界を扱ったものはあるが、事実は小説よりもカルトじみているらしい。
 僕が口を半開きにしてるのを良いことに、ミライが「ほら、バカだから理解できてないよ」などと失礼なことを言うので、ひとまず頭を叩いておく。涙目で抗議するミライを全力で無視し、僕はカコの話の続きを促した。
「調律と言っても、先にも行ったとおり、私たちに出来ることは世界に起きたほころびを直すことで、ほころびが起きないように先回りすることは出来ません。ですから、修繕屋、と言った方がより正確ですね」
 なるほど、と相づちしつつ、僕は彼女達の目的とその中にあった単語から一つの推測を投げかける。
「で、君たちがここにいるって事は、僕がその世界のほころびになるのかな? それとも、僕が死んだという事実がほころびなのかな」
 その問いかけに、二人は目を丸くした。
「カコ、バカなのにちゃんと理解したよ」
「えぇ、そうね」
「お前ら、いいかげんにしろ」
 執拗なまでのバカ設定推しにストップをかける。このままでは一向に話が進みそうにない。ミライはふて腐れたように口を尖らせたが、カコは悪のりが過ぎたと思ったのかばつが悪そうな顔をした。
 コホン、と控えめな咳払いをして、カコが僕の質問に答える。
「本来なら、あなたはここで死ぬはずではありませんでした。さらなるほころびを生むため、死ななかった本来の時間軸の行く末について話すことは出来ませんが、少なくとも、あなたの死は、ここよりも先になるはずでした」
「死ぬはずじゃ無かった? でも、現に僕はさっき死んだ。バカなことをしたとは今になって思うけど、死の直前までは確かに僕自身の考えで死を選んだんだ」
「それこそが、ほころびなのです」
「?」
 僕の頭に今度こそ疑問符が飛んだ。僕が自分の考えで死ぬことがほころび? それはつまり、本来なら僕には自死を考えるような思考回路は無かったという事なのだろうか。それとも、自死を考えるに至る一連の出来事全てが間違っていた?
 思考が渦を巻く中に、ミライの声が割り込んできた。
「君はシュレディンガーの猫って知ってる?」
「シュレディンガー……あの、箱の中の猫の生き死には、箱を空けて観察しないと分からないってやつか?」
「そう、それ。観察者がいない限り、箱の中の猫は生きている猫と死んでいる猫、二つの状態の猫が重なり合ってるって事なんだよねー」
 ワンピースの裾を過剰にひらひらさせながら、ミライ。何故唐突にそんな話が出てきたのかと思ったが、カコが話を引き継いだ。
「この世界にあるものは皆、そういったたくさんの状態が重なり合って出来ています。誰かが観察しない限り、一つの状態に決定されることはありません」
「誰かって?」
「セカイです」
「?」
 再び混乱の嵐がやってくる。世界が世界を観察する、とはどういうことか。と言うより、世界が観察者そのものなら、それはもう重なり合った状態なんて誰も維持できないのでは無いのか?
 その考えを否定するように、カコは微笑んで続けた。
「セカイというのは、私たちがそう呼んでいる超越した観察者のことです。あなた方の言葉で言えば、神、と言い換えても良いかも知れません」
「神?」
 またうさんくさい言葉が出てきた。とはいえ、魂の存在や世界の調律なんて話が現実味を帯びてきているのだから、神くらい存在してもおかしくないのかも知れない。
「本来なら、セカイは何もしません。セカイが観察するのは、何かが終わるその一瞬。最後の瞬間だけです。そこに何かの干渉を加えたり、意味も無く観察を続けたりはしません」
「本来なら?」
「そうです。でも、あなたは違った」
 カコの声のトーンが、ほんの僅かに下がった。少しの沈黙が支配する。言いにくいことなのか、それとも言葉を整理しているのか、カコはしばらく視線を彷徨わせていたが、そんな彼女の目の前にひょこっとミライが割り込んだ。
「君は、ずっと観察されてたんだよ、セカイに」
「……どういうことだ」
 無いはずの僕の心臓が脈打った気がした。カコは、セカイが観察するのは何かが終わるその一瞬だけだと言った。つまり、人であればその最後の瞬間、死が決定されるそのときだけという事だ。それまでは重ね合わせの状態、つまり生きている状態と死んでいる状態の二つの可能性をもっているという事になる。
 不思議な話だが、多分セカイが干渉を加えない、と言う話は、ほとんどの生命の生き死にについて関知していないという事と同義なのだろう。僕らは勝手に生きて勝手に死ぬ。その生き死には、僕ら自身が観察しているから成り立っている世界であって、超越した観察者たるセカイにとっては、そんな個々の生き死には、ぶっちゃけて言えば「どうでもいい」から観察していない。セカイにとって、観察していない生命は僕らの観察結果がどうであろうと「重なり合ったまま」なのだ。
 だけど、セカイが一度観察してしまえば、セカイの元に一つの状態が決定される。重なり合いとは、言い換えれば可能性のことだ。セカイが観察することで、その可能性が消滅するとすれば。
 つまり、僕の可能性は、ずっと一つに絞られていた?
 僕の考えを肯定するように、カコが首肯した。
「あなたはセカイによって観察され、全ての重ね合わせが消滅しました。本来なら観察されるのは最後の瞬間であるはずですが、あなたが観察された時点ではあなたに死ぬ可能性はほとんどありませんでした。だから『生きているあなた』が選択されました」
「そのままセカイが目を反らせば、君はその瞬間からまた無限の重ね合わせの状態に戻るはずだったんだけどねー。セカイがずっと観察を続けた結果、君は一つの状態に固定されてしまったんだー」
 カコの深刻な口調と、ミライの脳天気な声が、僕の頭の中でごちゃ混ぜになった。つまり、僕はこの結末に辿り着くように、ある時点から固定されてしまったと言うことだ。
「どうしてそんなことに……? セカイとやらは、僕に恨みでもあるのか?」
 僕の言葉に、カコもミライも答えない。答えられない、というよりは答えられる結論が無いという事なのだろう。僕にとっては十分超常的な彼女たちにすら超越者と呼ばれるような存在のことだ。誰かがそれの意図を推し量ることなどまさに無駄なのだろう。
「それと、君は確か僕が死ぬのはここより先だって言ったよな? それは何故分かる?」
 カコに向けてそう言うと、カコはほんの少し相好を崩して解説した。
「それは、私たちが観察者でもあるからです。セカイのように進行している現在を観察するのでは無く、過去の一点、そして未来の一点を観察しています」
「それってつまり」
「はい。生命の生まれた一点と、息絶えた一点です」
 なるほど、彼女たちの名前の由来がそこにあるようだ。つまり彼女たちは生命が生まれる点と、死ぬ点を知っている。それに外れたものを探し出し、何らかの方法でそれを正しい流れに持って行こうとしているのだ。
 しかし、一度死んでしまったものをどうやって戻すのだろう。それを口にすると、ミライはあっけらかんと答えた。
「簡単だよー。君が死ななかったことにすれば良いのだー」
「……は? どうやって」
「君が死ぬ前のポイントに戻るか、君が死ななかった可能性のどこかのポイントまで先送りにすれば良いんだよー」
 軽いノリで重大なことを言うミライ。それはつまり、僕が自死に追いやられる前まで時間を戻せると言うことか? 更に、僕が自死を選ばなかった可能性の先まで時間を送ることすら出来ると言う。
 本当にそんなことが可能なのだろうか。何より、今いる僕の記憶はどうなる。この記憶を保持しないまま過去に戻ったところで、同じ選択を選ぶ可能性は十分ある。セカイとやらが僕を観察し続けているならなおさらだ。僕はまた潰れたトマトを演じなければならない。
 もっと分からないのは、僕が死なない未来への先送りだ。可能性の重ね合わせが無限にある以上、どんな未来が待っているかは予測不能だ。どんなものか想像も出来ないが、死ぬより辛い未来だってあるかも知れない。そこに行き着いたとして、本来辿りつくはずだった未来の一点に収束できるとはとても思えない。
 そんな不安を知ってか、カコは微笑みながら言った。
「私たちは調律者です。同じほころびを作るような真似はいたしません。いずれを選ぶにせよ、私たちがサポートさせていただきます」
「感謝するよーに!」
 ミライの胸を張った言葉が若干台無し感を醸し出すが、それなら試してみても良いのかも知れない。僕の消された可能性を、取り戻せるのなら。
「分かった。試してみるよ」
 僕の言葉に、二人は顔を見合わせて頷いた。
「それでは、過去と未来、どちらを選びますか?」
 カコが問う。死に向かう前の過去と、死を迎えなかった未来。未来を見てみたいという気持ちにも駆られたが、それだと空白の時間が多少なりとも出来てしまって、不自然な気がする。それなら、まずは過去に行ってやり直した方がわかりやすい。
「よし、それじゃ過去へ」
「わかりました」
 カコが、僕の額に手を当てる。体温とは別の、じんわりと温かな感覚が僕を支配する。まるで何かに包まれているかのような安心感が広がり、僕は、眠りに落ちた。


 ……ここは、何処だ?
 僕はふらつく頭で周囲を見渡した。座っているのはハーマンミラー社のアーロンチェア。デビュー当時に奮発して買った愛用の椅子だ。強化ガラス製の机の上には十七インチのノートパソコン。書きかけの文章は頼まれたコラムのものだ。傍らにはメモ帳と安いボールペン。仕事用のスマホ。カップにつがれたコーヒーからは湯気が立っている。カーテンを閉め切っていると言うことは、今は夜なのだろう。
 間違いない、ここは僕のマンションの、僕の書斎だ。
 少し頭の中を整理してみる。先ほどまでの事はちゃんと覚えている。ビルの屋上から飛び降りた僕は死んで、カコとミライという二人の不思議な女性と出会い、自分の死がその時点で起こりうるものでは無いことを聞かされた。そしてそれがセカイという超越存在によって成されたことも。
 やり直しか、やり過ごしか。どちらかを選択できると聞いて、僕はやり直しを選んだ。やり過ごした先の未来が不確定だと言うこともあったし、ターニングポイントが明確ならそれを変えてやれば未来は容易に書き換えられると感じたからだ。
 卓上のカレンダーを見る。今は一月二十日。間違いない、この日は作家仲間が脱法ハーブを持ってくる日だ。確か夜間の訪問だったはずだから、ちょうど分岐点の直前に戻ってきたことになるようだ。
 一瞬ここまでの出来事が全て夢だったのでは無いかと疑ったりもしたが、すぐに否定した。何よりもリアルな死の感覚を、今でも覚えている。考えなければならないのは、どうやってここを乗り切るかだ。
 最も簡単なのは、居留守を使うことだ。彼は前もってアポイントを取ってやって来たわけではなかった。ここで居留守を使い、その後も彼との付き合いを少しずつ遠ざけていけば、リスクは徐々に下がるはずだ。安易だが、それが最も効率が良さそうに思える。
「そうですね、それが良いと思います」
「やっぱりそうだよな。……って、うわ!」
 思わず返事しておいて、僕は飛び上がる程驚いた。いつの間にか、僕の横に女性が立っていたからだ。よく見ると、それはさっきまで一緒にいたカコだった。先ほどまでと同じように白いワンピース姿の彼女は、こちらの様子を不思議そうに見ている。
「あら、驚かせてしまいましたか?」
「そりゃ驚くよ……君たちは死んだ状態じゃ無いと見えないんじゃないのか?」
「そんなことはありませんよ。それに、言いましたよ。私たちがサポートさせていただきます、と」
 確かにそう言っていたが、まさか本人がやってくるとは思ってもいなかった。
「まぁ、その方が心強いか。それにしても、ここに戻るのは君たちが指定したのか?」
「正確には違います。ここがあなたの因果の最も強い場所だったので、最も復元可能性が高い場所だった、と言えば分かるでしょうか」
「なるほど、パソコンのオートバックアップみたいなもんか」
 現実の時間にもそれが適用できるとは驚きだが、驚いてばかりもいられない。まずは僕が在宅してるという痕跡を絶たなければ。
 僕はノートパソコンを閉じ、卓上ライトを消した。音を立てないように書斎を横断し、他に電気の付いた部屋が無いかを確認する。エアコンの類いも全てオフにした。寒いだろうが、室外機はベランダ側にある。回っているのが見えれば、居留守がばれるかもしれない。後は、寝室にでも行ってじっと息を潜めていれば、例え彼がロビーのオートロックをすり抜けて部屋の前まで来ても、彼と接触することはないだろう。
 作業の間、カコは部屋の隅でじっとしていた。何か手伝ってくれるものかと期待したが、当てが外れた。後で聞いたところによると、アドバイスくらいは出来るが、世界に干渉するとそれが引き金になって別のほころびを生じさせる可能性があるらしい。
 僕は入念に部屋中を確認すると、寝室に身を潜めた。カコもついてきてやはり寝室の片隅にじっと立っている。改めて見るとはっとする程の美人だが、黙って立ってられると少々不気味でもある。
 不意に、チャイムの音が鳴った。来た。正確な時間は覚えてないが、多分彼が来たのはこれくらいの時間のはずだ。物音を立てないように、じっとやり過ごす。時間をおいてもう一度チャイムが鳴ったが、これも無視する。しばらくそうしていたが、五分以上経っても次のチャイムが鳴らないので、ゆっくりと寝室から這い出た。
 流石にもう諦めて帰っただろう。そう思いながらも、警戒を緩めずそっと部屋を出る。一体何をやってるんだろうと苦笑しながらも、足音を殺して歩く。実際、今後の自分の命に関わることなのだから、慎重にもなる。
「これで、死亡フラグは回避できたかな?」
「フラグ? 何のことですか?」
「いや、何でも無い」
 首を傾げるカコをそのままに、僕は書斎に向かう。今日はそのまま寝てしまっても良かったのだが、確か書きかけの原稿は早めに仕上げないと行けなかったもののはずだ。ノートパソコンの液晶も相当な輝度のため、慎重にカバーを開けて設定から輝度を落とす。これだけ終えてしまったら、今日はもう寝よう。
 しばらくパソコンのキーを打つ音だけが部屋に響く。カコは物珍しそうに僕の書斎を眺めて回っていたが、彼女の特性なのか存在感が希薄なためうろうろしていてもあまり気にならない。しばらくカチャカチャやっていたがあまり捗らないため、コーヒーでも入れようと席を立つ。
 ちょうどそのとき。
 カチャリ、と玄関の方で音がした。立ち上がった姿勢のまま、僕はそちらを振り向く。書斎はベランダ側にあり、玄関はちょうど反対側になる。緊張した面持ちのまま、僕はゆっくりとドアの前まで歩み寄り、音を立てないようにそっと開いた。
 リビングは書斎よりもひんやりとしている。そっと横切って壁際から廊下の向こう側を覗いてみたが、異常は見られない。その先の玄関も、しっかりと閉じられたままだった。だけど、何か引っかかる。かすかに感じられる、この鼻腔を刺激するようなにおいは何だ?
 一瞬、頭の中に一つの可能性が浮かび上がり、僕は音を殺すのも忘れて廊下に飛び出した。玄関の方では無く、その隣にあるもう一つの部屋を目指す。リビングから繋がる寝室・書斎とは別に玄関側にあるもう一つの部屋。資料などを置いてある部屋だが、そこは廊下と面し、窓もある。僕は勢いよくドアを開け、部屋を覗き込んだ。
 冷たい風が、窓から吹き込んでくる。正確には、窓に開けられた小さな穴から。鼻腔を刺すにおいが急激にきつくなり、僕は思わず鼻を抑える。ざっと見渡すと、床にはてらてらと輝く液体。そして、窓の穴から投げ込まれたものは。
「ま……」
 まずい、と思った時にはもう遅かった。ぼん、という音を立てて、小さな火種から床にまかれた灯油と思われる液体に一瞬で引火する。揮発性の高い液体は既に部屋に充満しており、あっという間に部屋は炎で満たされた。僕は反射的に部屋から離れようとしたが、一歩間に合わなかったようだ。
「くそ……くそッ」
 服に引火し、僕は慌てて服を脱ぎ捨てる。体中に針を刺されたような激痛が走る。体に火が付くことは無かったが、恐らく酷い火傷になっているだろう。だが、そんなことを気にしている場合じゃ無い。ここから逃げなければ、僕の命は引き返す前よりも短くなってしまう。
 カコは信じられないものを見るような目でその光景を見ていた。多分、彼女にとっても想定外の出来事なのだろう。彼女の言を信じるなら、僕の死ぬ地点はここでも無い。だが、このままでは多分僕は死ぬ。いや、死なないまでも、以前と同じ生活を続けることは出来ないだろう。あるいは、そうして細々と生き延びるという可能性が、消された可能性の一つだったのかも知れないが。
 カコが何事かを僕に向けて言ったようだが、僕には聞こえなかった。鼓膜が焼けてしまったのかも知れない。酸素が足りない所為か、酷く息苦しい。僕は走って書斎の窓を開けた。冷たい空気が一気に入り込み、焼けただれた僕の体を容赦なく突き刺す。激痛にもだえながらも、僕は隣家へ続く非常用の隔板を蹴破ろうとした。だが、一見簡単に破れそうな隔板はびくともせず、そこに立ちはだかる。
「くそ、開け! 開け!」
 焦りの声が響く。隣人はいないようで、隔板を蹴る音にも反応が無い。反対側の隔板も同様に硬く、一体何のための非常用隔板なのかと問いたくなる。全身でぶつかってみても一向に破れる様子の無い隔板をにらみ、僕はベランダから顔を出した。
 地上二十階。ここから落ちれば、まず助からない。火は、既に書斎の半分以上を侵食している。隔晩は開かない。仮に開いたとして、隣家が留守ならそこから先に避難することも出来ない。更に先の隔板を蹴破れば助かる? その保証は、何処にも無い。
 このまま焼けてしまうまで待つくらいなら、いっそ。
 一瞬視界に入ったカコの顔が、酷く悲しそうな顔をしていた。こんなはずでは無かった。そう言っているようにも見えた。でも、現実はこうだ。僕にあった無限の重なりあわせの一つが、この結果につながった。
 いや、それを、セカイが観察した、という事か。
 僕はそれ以上考えることを辞めた。自分でも拍子抜けする程あっさりと、僕の体がベランダを飛び越える。そう言えば、最初に死んだときも、酷くあっさりと足が地から離れた。まるでこうするのが自然だったかのように。だとすれば、僕はどんな可能性を辿っても、結局はこうして宙を舞うことになったのでは無いか?
 様々な思考が一瞬で流れ去り、僕は再び黒い大地に叩きつけられた。まるでテレビの電源が落ちるように、唐突に、僕の思考が、終わる。
 ……。
 …………。
 ………………。
 ……予想されたことではあったが。
 やっぱり僕は半透明になっており、目の前には愛想笑いのカコがいた。足下を見ると、体積そのまま表面積の膨れあがった僕がいる。今度は横向きの回転が掛かっていた所為か、右腕が衝撃でちぎれて向こうの方へ飛んで言ってしまっていた。
「私が付いていながら……ごめんなさい」
「いや、まぁ……ねぇ」
 謝られたところで、どうなるわけでもない。僕は事前に一つの可能性を知っていた。それを避けたら、別の可能性にシフトして死んだ。それだけの話だ。ただし、実際はそう簡単な話でもなさそうだが。
「セカイの観察は、多分あなたの選択の何処かで始まっています。でも、それが何処かはっきり分からないのです。あなたが来訪者を迎えないと選択したときなのか、原稿の続きを書き始めようとしたときなのか、それとももっと前からなのか」
「それじゃどうしようもないな」
 僕は諦め調子で言った。結局、セカイが僕の観察を開始してしまえば、僕の可能性は消滅し、一本道に乗せられてしまう。しかも、高確率で生存するはずの可能性をわざわざ摘み取って死の道しか残さないのだからたちが悪い。そもそも、それは観察と言うよりは最早介入に近いのでは無いのか。
「あれ、また死んでるー」
「またとか言うな」
 そこへ軽い調子のミライがやってくる。空中から突然現れたように見えたが、まぁ今更驚きもない。
「しかし、流石にこれ以上死ぬのはイヤだな。即死とは言え、気持ちの良いもんじゃない」
「そう、ですよね……」
 カコは遠慮がちに言う。多分、彼女たちの役割上は僕を本来死ぬべきところに誘導したいのだろう。しかし、セカイとやらが観察している以上、僕の可能性は固定され、何らかの形で死ぬ方向に誘導されてしまう。いや、まだ二回目だからそうと決まったわけでは無いが、確率は高い。
 そんな諦めムードを、何故かミライが激しく非難した。
「そんなすぐ諦めちゃダメー! もっとちゃんとやってくれなきゃ困るー!」
「いや、そう言われても……」
 体を左右に振ってイヤイヤポーズをするミライに、僕もどう反応していいやら分からなくなる。彼女たちの思う通りにしてあげたいのは山々だし、僕だって本来の道があるならそちらに進みたい。だけど、このままただ戻ってもまた死ぬだけな予感しかしない。
 少し考えたが、三度目の正直という事もある、と思い直し、もう一度リトライしてみる旨をカコに話した。同時に、二度あることは、という言葉も思い浮かんだが、そちらは敢えて無視しておく。
 良いのですか、とカコは少し驚いていたが、僕もこのまま大人しく引き下がるのは少し癪に障る。セカイとやらがどれほど超常的な存在でも、勝手に人の人生をいじられるのはたまったものではない。
 僕は覚悟を決め、もう一度過去に戻してもらうことにした。カコの手が僕の額に触れ、僕は再び眠りに落ちる。


 結果から言うと、僕はやはり死んだ。
 今回はわざと作家仲間を招き入れ、脱法ハーブを勧められても断る方向で動いた。すると、それまでニコニコしていたそいつがいきなり逆上し、隠し持っていたナイフで斬りかかってきたのだ。最初の傷自体はたいしたことが無かったのだが、結局ベランダまで追い詰められ、再びそこから飛び降りる羽目になった。最早走馬燈すら出る間もなく、僕は幽体離脱することとなる。
 流石にこうなると容易にもう一回と言うことは出来なかった。例え無限コンティニューが出来るとしても、これ以上死に続ければ僕の精神が持たない。よしんば何度目かで無事に生き延びたとしても、その経験を背負ってまっとうに生きていくのは難しいように思う。
「なら、次は未来に行ってみようよ! 未来なら上手くいくかも!」
「未来なぁ……」
 逡巡する僕の横で、ミライがしきりに最初に死んだ時点よりも後の時間に飛ぶことを勧めてくる。確かに未来に行けば少なくとも今回の脱法ハーブ関連の件は終わっている可能性がある。ただし、それ以上に悲惨な未来が待っているとも限らない。そもそも、事件が収束していない未来の可能性だってあるのだ。それなら過去に戻るのと大差ない。
 僕の葛藤を見かねたのか、カコはそっと僕の手を取った。微笑んでゆっくりと首を横に振る。辛かったら、ここで降りても構いません。そっとそう呟く。確かに、それが一番楽だ。どんな結末が待っているかも分からないこの先に、僕は進まない権利も得たのだから。
 だが、そんな僕とカコを、ミライがまたしても叱咤した。
「そんなのダメ! だって、まだ私たちは」
「ミライ」
 それを、カコが険しい顔でたしなめる。その表情に、僕は一瞬どきっとした。既視感、とでも言うのだろうか。彼女の表情に、朧気ながら見覚えがある。勿論、そんなはずがあるはずも無いのだが、何故かそんな気がしたのだ。
 カコに怒られたミライはまだ何か言いたそうな顔をしていたが、渋々といった感じで引き下がった。何となく恨みがましい目でこちらを見ているが、その表情も僕は何処かで見覚えがあるような気がしていた。時間にすればそれほど長くは無い彼女たちとの付き合いだが、少し情が移ったのかも知れない。
 僕は数秒考えて、迷いを吹っ切った。折角出来ることを、一度もやらずに終えるのも勿体ない。それに、上手くいけばこの経験を生かして、更に良い未来を築いていけるかも知れない。さっきの考えとは相反するけれど、無理にでもそう納得させる。
「良し。一度だけ行って見るよ。自分でも未練がましいとは思うけど、折角だから未来も見てみたい。それでダメなら、今度こそ諦める。それで、良いかな」
 その言葉に、ミライは嬉しそうな顔をした。カコはまだ気遣わしげな表情だったが、かすかに安堵したような、そんな色が混じっている。
 未来に行くにあたっては、今度はミライが僕の額に手を当てた。カコと同じ暖かみのある掌を感じ、僕は心地よい眠りに落ちる。
 その刹那、誰かの視線を一瞬感じたような気がした。


「……ここは……」
 目を覚ました僕は、ぼやけた頭で周囲を見渡した。同時に、少し戸惑いが生じる。
 僕が座っていたのは、いつものアーロンチェアだった。過去に飛んだときと同じように書斎の強化ガラス製のテーブルの上にはパソコンが明かりをともしており、傍らにはメモ帳と安いボールペン。仕事用のスマホ。違うのはお供に置かれていた飲み物がグラスに入ったウイスキーで、パソコン画面に映し出された内容が僕の全く見覚えの無い文章だと言うことだ。
 卓上カレンダーの日付は、五月五日。こどもの日だ。僕が最初に自殺したのが四月二日だから、確かに未来に来ているらしい。パソコンに表示された時刻は二十三時。ここでこうやって仕事をしてると言うことは、脱法ハーブに手を出してすっぱ抜かれたり、襲われて重傷を負ったりはしてないと言うことだ。
 そこまで考えたとき、不意に書斎のドアがノックされた。続いて「入っても良いですか?」と言う柔らかな声。僕は飛び跳ねそうな心臓を無理矢理押さえ込みながら、平静を装って「いいよ」と答えた。
 そっとドアを開けて入ってきたのは、僕の婚約者だった。寝間着姿の彼女を見るのは久々だったが、もしかしたらこの頃の僕は同棲しているのだろうか。
「遅くまでお仕事なのですね」
「あ、あぁ。まぁね」
 今ここに来たばかりのため、歯切れの悪い返答しか返せない僕。彼女は特に不審がる様子も無く、そのまま僕の隣まで来ると、グラスの中身を見て言う。
「新しく作ってきましょうか」
「いや、もうそろそろ切り上げるし、良いよ。ありがとう」
 相変わらず細かな気遣いが出来る人だ。僕はしばらく彼女と話をして、先に床に入るという彼女を見送った。
 その中で、いくつか分かったことがある。
 どうやら僕らは既に結婚しているらしい。結婚記念日は四月二日、偶然にも僕が飛び降りたあの日だ。しかも彼女の腹の中には、僕と彼女の子供までいる。この可能性の先にある僕は、どうやらかなり積極的だったようだ。
 僕の作品は無事に海外に向けて出版され、一定の評価を得ているらしい。それについては今僕が開けているメールにも書かれている。以前から担当してくれている編集者の喜びのメールだ。
 そして、これも今インターネットで確認したが、僕に脱法ハーブを勧めたあの作家は、他の傷害事件の容疑者として捕まったらしい。障害は大分取り除かれている。後は、このまま何事も起こらなければ。
「どう? いけそう?」
「うぉ! ……あのなぁ。急に声をかけるなよ……」
 突然現れたミライの声に、思わず小さな悲鳴が出てしまった。多分寝室までは聞こえてないだろうが、こちらの心臓に悪い。彼女も若干悪いことをしたと思ったのか、少し声を潜めて話しだした。
「予想通りの未来だった?」
「まぁ、理想通りと言えるかな。まだ来たばかりだからどうなるか分からないけど」
「そうだねー」
 この未来は、怖いくらいに理想通りに進んだ未来だ。遡った過去が二回とも悲惨な結末を迎えていることを考えると、この先にどんな落とし穴が待っているかと身構えてしまう。
 取り敢えずは今がどんな状況になっているかを慎重に把握していかないと行けない。僕が今どんな仕事をしているか、どういった人間関係が出来ているか、社会情勢はどうなっているのかなど、少しずつ空白期間を穴埋めしておかないと、今後の活動に支障を来す。
「さしあたって、ネットで拾える情報は拾えるだけ拾っておこう。僕が脱法ハーブの件に巻き込まれるところから歴史が変わっているとしたら、三ヶ月以上の空白期間がある」
「マメだねー」
「物事を円滑に進めるためには、準備が大事なんだよ」
 仕事関連の話はすぐに把握できた。僕は前回の原稿から先は簡単なコラムや短編小説を手がける以外の仕事は請け負っていない。結婚のこともあって仕事をセーブしたのだろう。名刺類もチェックしたが、新しく誰かと出会ったりはしていないようだ。実はこれが一番厄介だと思っていたので、ほっとした。社会情勢は流石に三ヶ月程度では大した変化はないようだった。某省庁の人間が汚職で更迭されたりしているようだが、その程度は変化とも言えない。
 後はこれらを踏まえて上手くやれば、三ヶ月のブランクは徐々に埋められるだろう。とにかくぼろを出さないように、慎重にやっていけば良い。
「さて、僕はそろそろ寝るけど、ミライはどうするんだ?」
 僕が問いかけると、ミライは小首を傾げて言う。
「私は寝なくても大丈夫だよ? 次の時間までひとっ飛びなんだから」
「なんだかよく分からんが、便利だな」
 どうやらあまり心配する必要はなさそうだ。僕は書斎にミライを残し、今や妻となった彼女の眠る寝室へと向かった。
 次の日から、スケジュール帳に書かれた仕事を忠実にこなす作業が始まった。当然今の僕には覚えの無い仕事や雑用・面会などが多数あり、色々と考えている時間はすぐに消失した。特に人と会うときはなるべく無難な会話から始め、相手の話す内容との辻褄を合わせるのに神経を使い、酷く疲れる。だけど、それも三日を過ぎると段々慣れてきた。
 一週間後、担当編集者との打ち合わせを終え、僕は久々に夜遅く帰路についた。過去に戻ったときとは大違いの順風満帆な生活。ミライとも何度か顔を合わせて近況を話したが、この時間をそのまま進めていけば彼女たちの言う本来の時間軸を辿るのでは無いかと思えてくる。
 ミライもこれ以上は付き添う必要が無いと思ったのか、昨日から姿を現していない。何となく寂しい気もしたが、本来は彼女たちと会うはずも無かったのだから、これで良いのだろう。
 街灯の明かりを頼りに、夜道を行く。都心のマンションではあるが、駅から離れているため少し歩かなければならない。今度自転車でも買おうか、そんなことを思いながら歩いていると、少し前の電柱の後ろから人影が現れた。
 人影は、酷くみすぼらしい格好をしていた。今時ぼろきれのような服を着て、裸足で歩いている。男性と思われるその人物の髪や髭は伸び放題に伸びていて、人相は分かりづらいが、全体の肉付きは身なりに反して良さそうで、あまり高齢ではなさそうに見える。
 浮浪者だろうか。この辺はそれなりに治安もよく、滅多にみないのだが、全くいないわけでもない。あまり近寄らないに越したことはないだろう。あまり視線を向けないように、やや迂回してやり過ごした。少し言ったところでちらりと後ろを振り返ったが、彼はまだぼんやりとそこに立っている。何となく薄気味悪いものを感じながら、僕は早足で家に帰った。
 家に帰り着くと、妻が夕飯を温め直して待っていてくれた。空腹だった僕は早速食事を始める。ビーフシチューをすすりながら今日の新聞に目を通していると、玄関のチャイムが鳴った。こんな夜更けに誰が……と思ったが、途端に肌が粟立つような、不快な感覚が僕を襲った。これは、予感だ。既視感(デジヤヴ)、と言っても良い。ほんの少し前に、遡った過去で経験した悪夢を思い出す。いや、現実を。
 妻が玄関の方へと向かう足音がする。まずい、と思うとほぼ同時に僕は立ち上がって駆けだしていた。廊下の先で、妻が玄関を開けようとしているのが見える。ダメだ、そう叫んだが、既に遅かった。玄関の扉は開けられ、そこから黒い影が、延びる。
 一瞬だった。勢いよく開け放たれ、恐らく驚いた顔をしていたであろう妻の首から、真っ赤な潮流がほとばしる。そのまま崩れ落ちる彼女の向こう側に、それはいた。
 髪も髭も伸びたままの、ぼろきれを纏った男。生気の感じられない表情の中で、腐り落ちそうなほど澱んだ色の眼球が、こちらを見ている。
 さっき道端にいた浮浪者。いや、僕はその顔を知っている。
 あの男だ。脱法ハーブを僕に勧め、地獄に突き落としたあの男。過去の世界で僕を殺したあの男。逮捕されたと報道されていたはずの男が、何故ここにいる?
 妻に駆け寄りたい衝動をギリギリで抑え、僕は書斎に向けて走った。書斎には過去の経験から用意した護身用のスタンガンが隠してある。ナイフを持った相手に有効打を与えられるかどうかは賭けだが、丸腰で相手をするよりは余程勝率が高い。
 書斎に辿り着き、隠してあったスタンガンを手に取った。男は表情同様まるでゾンビのようにのろのろとこちらに歩いてくる。スタンガンを男に向け、威嚇するようにちらつかせるが、男はそれを見もせずに真っ直ぐこちらに視線を向けた。
 その歩みが、止まる。
 一歩踏み出せばスタンガンを当てることも出来るが、条件は向こうも同等だ。しばらく無言の対峙が続く。時計の針がこつこつと刻む音だけが続き、そして緊張の所為かそれも次第に聞こえなくなっていく。
 最初に口を開いたのは、目の前の男だった。
「……なぜ、おまえがここにいる」
「!? なぜ……だと?」
 それは僕のセリフだ、と心の中で続ける。逮捕されたはずのお前が、何故ここにいるんだ。しかし、彼は僕の思惑を知ってか知らずか、思いも寄らない言葉を吐いた。
「……また、ころさないと」
「!!」
 動揺が全身を支配する一瞬の間に、男の体が半歩前に動いた。まずい、と思う暇も無かった。僕の腹部から、痛みが放射状に広がる。遅れて血が噴き出し、床を塗らした。視界がぐらりと揺れ、体が傾いていく。
 力を振り絞って見上げた先には、男の顔があった。その顔は、確かに僕を貶めた作家仲間の男なのだが、何故か彼の名前が思い出せない。それだけではなく、彼が作家仲間であると言うこと以外の情報が酷く曖昧になっている。
 薄れていく意識の中で、ぼそりと呟く彼の言葉が、僕にはやけにしっかりと響いた。
「これで……やり直せる……」
 そして、僕は。


「ごめんね……ごめんね……」
「いや、まぁ謝られても」
 毎度のように僕の魂が抜け出ると、ミライが目の前で泣きじゃくっていた。ちょっと前まで不遜と言っても良いような態度だったのに、急にしおらしくなられると少し対応に困る。
 結局、未来でも僕は死ぬ運命を辿った。正確には、殺される運命を。
 僕の中でバラバラになっていた物事や疑問に思っていた事柄が、一つにまとまりつつあった。
 恐らくは、これはセカイという名の観察者が起こした一連の出来事『ではない』。最初に戻った過去の放火については推測の域を出ないが、多分あれも含めて今回までの僕殺し全てが一人の人物によって行われている。その人物から、「また殺す」「やり直す」という言葉が出たことから、少なくとも彼が僕と同じように、あるいは全く別の方法で時間を移動し、僕を殺すというイベントを繰り返していると推測される。
 そして、何故彼がそんなことをしているのかという疑問の鍵は、きっと彼女たちが握っている。
 いつの間にか現れていたカコと、ようやく泣き止んだミライに、僕はほとんど確信を持って問いかけた。
「……君たちは、僕に嘘をついたね」
「……!!」
「……」
 ミライはその言葉にびくりと体を震わせた。カコは黙ったままだったが、その瞳には動揺の色が僅かに浮かんでいる。最早確定的だろう。彼女たちは、自らを『世界を調律する者』と言った。或いはそれは正しいのかも知れない。だけど、彼女たちがその後に説明した内容は多分かなりの部分がでたらめだ。
「セカイ、というのは、神のような超越した何かじゃない。少なくとも君たちと同じか、または僕と同じような時間を移動できる人間だ。違うかい」
 ミライは、また目に涙をためている。カコは、こちらを見つめたまま口を開かない。僕はそれを肯定と受け取り、先を続ける。
「セカイは、僕の作家仲間であるはずのあの男だ。彼が僕の近くにやってきて、僕を直接的に、または間接的に殺そうとする。そして、表現するならそれがほころびになる」
 カコの視線が、揺らがなくなった。何かを決意した表情だ。
 僕は、最後の推測を口にする。
「……彼は、未来の人間だ。どういう理由かは知らないけれど、僕をこのタイミングで殺すことで、未来を変えようとしている。何かを『やり直』そうとしている」
 彼が何者であるかは、実際は全く分からないに等しい。僕は彼を『作家仲間』と認識していたが、よく考えたら僕は彼の名前も、経歴も、何も知らない。『作家仲間』という漠然としたカテゴリーと顔以外は、何も分からない。そして、それをこれまで一度も不自然だと思わなかった。
 そう思わされていた、または、そう思うくらい過去からこちらの生活圏に侵入していたという事か。
 カコは、否定しない。つまり、そういうことなのだ。
「なぁ、何故、君たちは僕を救おうとしてくれるんだ? 本当に、世界を調律するなんて言う壮大な話なのか? それとも」
 そこまで言いかけて、僕は彼女たちの変化に気付いた。それは、少し注意を逸らせば分からなくなってしまいそうなほどの違和感。だけど、気付いてしまえばあまりにも不自然な事象。
 今まではっきりとしていた彼女たちの輪郭が、ほんの僅かに透き通っている。透き通る、という表現が正確かどうかは分からないが、彼女たちの輪郭と、周囲の背景がほんの僅かに重なり合っているのだ。
 目の錯覚かと思ったが、僕の視線を受けて自分たちの姿を見た彼女たちにも動揺の色が浮かんだことから、正しい認識であったらしい。特にミライは明らかに怯えたような目をしている。
「カコ、このままじゃ私たち……」
「分かっているわ、ミライ」
 二人顔を合わせると、やがて神妙な顔つきで僕の方を見た。
「……私たちの口から、本当のことを話すことは出来ません。そして、私たちに残された機会も、恐らくあと僅かです」
「どういうことだ?」
 僕の問いに、カコは困ったような顔をした。それも、話すことが出来ない事柄なのか。しかし、そこへミライが口を出した。
「可能性が消えるの。君の。そして、私たちの」
「可能性が、消える?」
「私たちの話は、全部が嘘なわけじゃない。全ては可能性の重ね合わせ。君の可能性が潰えれば、私たちの可能性も潰えてしまう」
 また、よく分からなくなった。何故僕の可能性が無くなることが、彼女たちの可能性を無くすことになる? 僕一人の可能性がそこまで大きく波及するのは何故だ?
 そして、改めて思う。彼女たちは、『本当は』何者なのか。
 考えても、きっと答えは出ないのだろう。分かったことは、僕の運命をねじ曲げようとする男がいること。そして、その運命を変えようとしてくれる彼女たちもまた、僕の運命に引きずられてしまうと言うこと。
 近くにいたと錯覚させられていた人間に運命を弄ばれるのにも腹は立つが、それよりも自分一人の運命で済む話では無いと言うことが示唆されたのが最も大きい。これで、僕の取り得るべき道は決まってしまった。
「……もう一度、さっきの未来からやり直そう」
「!!」
「……よろしいのですか?」
 ミライがぱっと顔を上げ、カコが気遣わしげな視線をこちらに送ってくる。だけど、僕の腹はもう決まった。後どれくらい彼女たちの力が及ぶのかは分からないが、最後まで足掻いてみる気になった。
 少しでも可能性が残っているのであれば、それに賭ける。
「確認しておきたいんだけど、もう一度未来に飛んでも、同じ未来になっているとは限らないんだな?」
「はい。様々な可能性の一つに飛ぶだけなので、同じ未来になるとは限りません」
「良し、分かった。やってくれ」
 最初に未来に飛んだ時と同じように、ミライが僕の額に手をやる。今までとは打って変わって自信なさげに伸ばされた手を半ば強引に掴むと、僕は目を閉じた。


 二回目の未来は、孤独だった。
 座り慣れたアーロンチェア。強化ガラス製のテーブルと鎮座するパソコン。メモ帳と安いボールペン。仕事用のスマホ。卓上カレンダーの日付は、五月四日。パソコンに表示された時刻は零時。僕以外に動くものの音がしない部屋。
 この可能性の僕は、結婚していないようだった。書斎からリビングダイニング、寝室、廊下を経て物置と化した部屋も僕が自殺する前の内容とほとんど一緒だ。前の未来みたいに彼女がここに嫁いできた形跡はない。開かれたスマホのメールには彼女からのメッセージも頻繁に来ているようだったから、別れたというわけではないらしい。
 僕の作品は、今回も無事に海外に向けて出版されていた。担当編集者の喜びのメールが一字一句前の未来と同じなのが何処か可笑しい。仕事関連のメールを検索すると、受けた仕事の量は前の未来よりも増えていた。結婚していない分、仕事にリソースを割り振っているのだろう。
 インターネットを開き、様々な情報に目を通す。この未来では、あの作家仲間は……いや、僕の可能性を閉ざそうとする『セカイ』は、逮捕されていない。まぁ、逮捕されていようといまいと、恐らくはまた僕を狙って来るだろう。一時も油断は出来ない。
「カコ、ミライ。いるのか?」
 問いかけに応じ、彼女たちは姿を現した……が、その姿は最早目に見えて薄くなっている。透き通って背後のものが見える程度となったカコが、苦笑交じりに口を開いた。
「多分、私たちがお役に立てることはもうありません。これが、最後の可能性みたいです」
「そっか……」
 無限の可能性、と言っても、文字通りの無限なんてあるわけがない。僕が選び取れる可能性には限りがある。もしかしたら、今もあのセカイによって僕の可能性は潰され続けているのかも知れない。それがゼロになる前に、僕がやらなければならないこと。
 セカイを見つけ、彼の可能性を奪うこと。
 彼がどんな理由で僕を付け狙うのかは分からないし、知ったところでどうなるわけでも無い。結論は非常にシンプルだ。この可能性の線上から、彼の存在を排除する。
 僕は前の未来と同じように、現在の可能性にある情報を洗い直し、普通の生活が送れるように心がけた。彼女とまだ結婚していなかったのは、ある意味幸いだった。一緒にいればまた彼女を殺してしまう羽目になるかも知れない。向こうの両親からはいつ結婚するのかやきもきされているようだったが、何とか誠意を見せて待ってもらった。彼との決着が付くまで、僕はなるべく一人でいる必要がある。
 それから一週間。僕は周囲に違和感を抱かれないように生活を続けた。前回はちょうどこれくらいのタイミングで彼が姿を現した。自然、警戒心が強まる。僕は前回用意したスタンガンの他に、小ぶりのナイフも購入していた。所謂バタフライナイフのようなものではなく、台所で使うような果物ナイフだ。持ち歩くのは流石に勇気が要ったが、そんなことを言ってられる状況でもない。実際、僕は三度も直接殺されているのだから。
 八日目の夜。編集者との打ち合わせを終え、僕は帰路につく。もう春だというのに風の冷たい夜だ。昼間はうっすらと汗ばむ程の陽気だったはずなのに、今はかじかむ手をズボンのポケットから出せないでいる。
「こんなに寒くなるならジャケットを鞄に入れておけば良かった」
 愚痴ったところでジャケットが出てくるわけでも無いので、僕は早足で家に向かう。街灯に照らされた道を歩きながら、僕はふと前の未来の事を思い出していた。
 そうだ。日付的には、今日が僕の殺された日だ。
 最初に過去に戻ったとき、カコが言っていた。因果の強い場所があると。過去において、僕の因果が最も強い場所は、僕がセカイに脱法ハーブを勧められる日だった。では、未来においては?
 そこまで考えたとき、目の前で何かが動いた。僕は咄嗟に鞄に手を入れる。果物ナイフの柄を右手で確かめると、僕はそのまま前方を凝視した。電柱の影に隠れていたそれは、僕が動かないのを確認してか、ゆっくりと路地に姿を現した。
 そこにいたのは、僕の可能性を潰し続ける男──セカイ。
 街灯に照らされた彼は、グレーのスーツを着ていた。逮捕されなかった所為か、前の未来とは違う清潔そうな身なりだ。だが、生気の無い顔と混濁した眼球に変わりは無い。ぼんやりとそこに立ち、彼は虚ろな目でこちらを見ている。僕のことを、まるで道ばたに落ちている石ころでも見るかのように。
 彼の手には、前の未来で妻と僕を殺したのと同じ形のナイフが握られている。或いは、全く同じものかも知れない。にじみ出る殺意を隠そうともせず、彼はゆっくりとこちらに歩を進める。
「……まただ……またお前がいる……」
「……悪かったな、しつこくて」
 セカイの呟きに、僕は皮肉っぽく言葉を返した。果物ナイフを握る手が、じっとりと汗ばむ。大声で助けを呼んでも良かったが、逃げられても困る。彼がいる限り、僕の可能性は閉ざされ続けるのだ。今ここで、彼を、彼の可能性を閉ざさなければ。
 そのとき、唐突にミライの声が聞こえてきた。
「ダメ! 今セカイに手を出しちゃダメだよ!」
「何故だ!? これ以上あいつを野放しにする必要は無いだろう?」
「今手を出したら、それこそセカイの思うつぼになっちゃう! だから、今は逃げて!」
 必死で訴えるミライの声に、僕の意思が揺らぐ。ここで彼を消してしまわなければ、いつまた狙われるか分からない。けれど、ミライは僕の可能性の行き着く先を知っている。彼女がこれだけ言うのだから、今ここで彼に手を出すのは得策では無いのかも知れない。
 だけど。
「……向こうは、そうさせてはくれないみたいだ」
「!!」
 手にしたナイフを構え、セカイが僕に向けて突進してくる。僕はついにナイフを鞄から抜いた。ここで背を向けても追いつかれたら終わりだ。やるしかない。
 セカイは僕に肉薄すると、構えたナイフを横薙ぎにした。正確に僕の首を狙って振り抜かれたそれを、僕は何とかかわす。バランスを崩しかけたところへ更に切っ先が迫るが、それも何とかかわせた。僕はもう一度態勢を立て直すと、改めて彼と対峙する。
 息も切らせず立つ彼に対して、僕は既に汗だくだ。日頃の運動不足がたたったか、などと考えながら、何とかナイフを構える。深夜で人通りが少ないとは言え、これ以上争えば警察に通報されるかも知れない。そうなったらそれこそ終わりだ。
 そこまで考えて、僕はミライが反対した理由をやっと理解した。もしここで彼を殺してしまったら、どちらにせよ僕はまともな生活を送れなくなってしまう。殺さないまでも、こんな騒動を誰かに見つかればただでは済まない。そして、抵抗しなければ当然殺される。ここは、どう転んでもセカイに有利になる舞台だ。
 僕はすっかり動転した。このままではいけないことは分かっている。分かっていても、どうすることも出来ない。どうすれば良い。どうすれば。
 そのとき、理解不能な出来事が目の前で起こった。こちらを見ていたセカイが、唐突に右手のナイフを自分の左腕に突き立てたのだ。血が吹き、セカイが一瞬苦悶の表情を浮かべる。そしてその直後、セカイは今までの生気のなさが嘘のように大声で叫んだ。
「ギャアアア! こ、殺される!」
「!?」
 思考が混乱する。僕を陥れるために、わざとナイフを自分に刺したのか? でも、あのナイフは彼のもので、僕は一切手を触れていない。自演だとすぐばれるのに、何故そんなことを?
 僕は慌てて自分のナイフを鞄に仕舞い込み、周囲を見渡した。既に野次馬とおぼしき人影が遠くに見え始めている。僕はセカイをそこに残し、立ち去ろうとした。しかし、思った以上に人の集まり方が早い。そそくさと逃げ出したが、すぐに数人の男達に捕まえられた。
「大人しくしてろ!」
「違う! あいつが勝手に自分の腕を刺したんだ!」
 僕の言い分は、しかし彼らには届かなかった。誰かが警察に通報し、僕はその到着まで彼らに捕らえられたままとなり、警察到着後は傷害の現行犯逮捕と言う名目で身柄を拘束され、そのまま拘置所へ送られた。
 セカイに刺さったナイフから僕の指紋しか検出されなかったと知らされたのは、数日後のことだった。様々な尋問と責め苦、そして結局可能性を潰してしまった喪失感から、僕はそのことに対して何の感情も生み出せなかった。
 カコとミライは、もういない。声すらも聞こえない。どうやら、もう可能性は使い果たしたらしい。これで、本当に終わり。僕のこれからは、きっとこんな風に惨めなまま過ぎていくのだろう。
 セカイはとても、彼女達の手に負えるものではなかった。そして、僕の手にも。
 もう、疲れた。
 様々な手続きが僕の知覚できないところで過ぎ去っていき、僕は刑務所に送られた。もう、何もする気力が無かった。何かに抗うことも、何かにすがることも、もう、何も。
 支給された簡素な服を脱いで扉に引っかけ、僕は首をくくった。これで、本当に最後だ。僕に残された全ての可能性を断ち切り、僕は、闇の中へと、落ちた。


 ようやく、全ての可能性を潰した。
 これで、やり直せる。
 これで再び、表舞台に立てるのだ。
 長く、昏い道のりを、もう繰り返さなくて済むのだ。
 さぁ、もう一度始めよう。
 この手に、再び栄光をつかもう。
 潰えた可能性の空席を、今。

「そうはさせない」
「!! ……バカな」

 目の前に、あり得ない人物が現れる。そんなはずは無い。そんなはずは無いんだ。可能性は全て潰した。あの忌々しい娘どもが消滅するのも確認した。もう二度と現れるはずが無いんだ。もう二度と繰り返すはずが無いんだ。なのに。

「何故お前がまだここにいるんだ──『僕』ッ!!」


 セカイが叫ぶのを、僕は冷静に聞いていた。何故今まで気付かなかったのだろう。答えは、いろいろなところに散らばっていて、そして一番大きな答えは、ずっとそばにいたというのに。
 きっと、脳が正確に認識できなかったのだろう。あり得ない事象に対して、脳が事実誤認を引き起こした、と言うところか。それはそうだ。普通なら絶対にあり得ないものが目の前にいるのだから。
 セカイ。僕たちがセカイと呼んでいたもの。
 それは、僕だ。僕の、可能性の一つだ。
「何故だ……全ての可能性を潰したはずだ……僕以外の『僕の可能性』が、残っているはずが無い!!」
「僕もそう思っていたさ。でも、違ったんだよ。やっぱり可能性は無限大だったんだ」
「!?」
 愕然とした表情を浮かべるもう一人の僕。僕が選び取れる可能性には、確かに限りがある。恐らく、目の前の僕もそう考えていたのだろう。全ての僕の可能性が潰えれば、最後に残った可能性である彼が、唯一の僕になれる。それが成されて初めて、彼は何かをやり直せるのだろう。いや、正確にはやり直せると信じているのだ。
 でも、それは不可能なことだ。何故なら、彼がやり直そうとするたびに、そこから何かを選び取る可能性のある僕が生まれるから。そしてその中に、必ず今までの僕のような可能性が現れるから。
 それはつまり、無限大の可能性。
「こんな事くらいで私たちは消えたりしないんだよー!」
「少しドキドキしましたけれど」
 僕の両隣に、カコとミライが現れる。彼女たちもまた、僕の可能性の復元と同時に復活し、絶望に首をくくった僕を優しく引き剥がしてくれた。
「さぁ、もう終わりにしよう。いくら僕の可能性を潰しても、もう一度何かをやり直すことなんて出来ないんだ」
「……イヤだ。僕にもお前のように栄光をつかむ可能性があったんだ! それを手にするまで、僕は何度でもやり直す!」
 そう言って再び僕に向けてナイフを取り出すセカイ。しかし、その輪郭が少しずつぼやけ始めたのを見て、彼は悲鳴のような声をあげた。彼は、繰り返しすぎたのだ。繰り返す過程で様々な可能性が潰え、そして生まれた結果、彼に辿り着くはずだった可能性は少しずつ少しずつ棄却されていった。彼は、自ら選択されない可能性として存在を希薄化させてしまったのだ。
 彼に至る可能性を、他の可能性の僕は選択しない。だから。
「これで、さよならだ」
「……!! ……!! ……!!」
 彼の体が、少しずつ光の粒子に分解されていく。振り翳したナイフの切っ先も、僕に触れる前に崩れて光の灰となる。最後まで残った顔が僕に向けて何かを叫んだが、それが声になる前に全てが崩れ去った。
 後には、僕とカコ、そしてミライだけが残った。
 僕はふっと深い息を吐くと、その場に膝をついた。今度こそ精神力を使い果たした。これ以上殺されそうになるのはごめんだ。
 カコとミライは、そんな僕を見て笑った。笑いながら、涙を流していた。彼女たちもまた、僕の消滅とともに消える運命だったから。僕の可能性が、彼女たちの可能性でもあったから。
 そんな彼女たちとも、しばしのお別れだ。
「ありがとう、カコ、ミライ。君たちのお陰で、僕はまだ、僕の可能性を進めそうだ」
「いえ。私たちも嬉しいです」
「君のお陰で、私たちも消えずに済んだよー!」
 それぞれに、別れの言葉を述べる。そして、カコとミライの二人の手が、僕の額に伸びた。二人分の掌の感触が、僕の額に触れる。そして、僕は何度目かの深く、暖かい眠りに落ちた。
 朧気な、二人分の言葉を聞きながら。

「さよなら、────────」


 僕は、そわそわとした気分を抑えながら、じっと椅子に座っていた。隣では四歳になったばかりの娘がさっき目を覚まし、ここに来る前に買ってあげたお人形をぺこぺこ動かして遊んでいる。僕が思わず貧乏揺すりを始めると、「パパ、落ち着きなさい」とたしなめられた。
 分娩室に入って約十時間。妻は今も頑固者の次女と格闘しているようだ。生まれる前からやれ逆子だ、やれ切迫早産だと散々手を焼かされたが、どうやら生まれるその瞬間まで手を焼かせるつもりらしい。
 僕もそろそろ眠さが限界に来ている。十分くらい仮眠を取ろうか……そんな考えが浮かんできたとき、分娩室から待ち望んでいた小さな声が聞こえてきた。
「お父さん、生まれましたよ」
 分娩室から出てきた看護師さんに促され、僕と娘は部屋に入った。ベッドの上では、びっしりと大汗をかいた妻が、小さなバスタオルの包みを抱いてにっこりと笑っている。
 僕たちが近づくと、妻は泣き笑いの表情になって僕たちに包みを見せてくれた。中には、生まれたばかりの次女。まだ胎脂と液体まみれで、顔も生まれたばかり特有のくしゃっとした顔だけど、それでも、十分に可愛らしい。
 正式に長女となった娘が、おずおずと次女の顔に触れる。次女はくすぐったそうに顔を背けると、大きなあくびをした。僕と妻はそれを見て笑うと、それぞれ同じように彼女の顔を撫でた。
「名前、もう決まりましたか」
「うん。もう、決めてあるよ」
 妻の言葉に、僕は優しく頷く。彼女の名前は、もう決まっている。無限にある可能性の中で、ただ一つ、決定された事象。僕の可能性の、可愛らしい観察者達。
「それじゃあ、一緒に呼んであげようか、『カコ』」
「うん!」
 ここから、再び無限の可能性とともに、歩む。



「こんにちは、『ミライ』」





【 あとがき 】
 多分自分的MC史上最長の作品になっていると思われます(’Д`;)
 今回は実験的に、わざと最後を決めずに書き始めました。プロット無しはほぼいつもですが、そんな時でも結末だけはある程度決めてから書き始めます(それも二転三転することもありますが……)。今回は全くの着地点予測なし。どこに落ち着くか、自分でもはらはらしながら書いてました。
 その結果、こんなに長くなってしまいました。良いんです。何とか形になったので。
 始めた当初は言霊を使った大舌戦みたいになる可能性もあったんですが、早々に諦めました。面倒くさいので。その後、死後の世界、タイムリープ、未来分岐などの色んな要素がちょっとずつ取り入れられ、ちょっとずつ軌道修正されていきました。お題の〆がホントに厄介だったんですが、それも今となっては良いターニングポイントになったと思います。

 さて、突然ですが、ここからしばらくMCを休養します。今年は前年以上にイベント参加と公募投稿を企てているのですが、それに加えて本職の方で忙しくなりそうで……具体的には、英語論文を書けと言われてます(’Д`;) そのため、MCに割ける時間は今以上になくなってしまうので、ひとまず休止宣言しておいた方が良さそうだと。
 と言うわけで、しばらくお休みを頂きますが、勿論作品投稿があるたびにちょいちょい覗きに来ますので、またそのときはよろしくお願いします。


道化師の部屋・ターミナル  Clown
http://clownsroom.tumblr.com/

● COMMENT ●

管理人の皆様編集お疲れ様でした。日々感謝であります。掲載作品読了であります。Clownさんの作品の台詞「ま、結論から言うと、君はバカだねー」で一気に作品世界に引き込まれてしまいました。

読んでいて「カコとミライは主人公の子供たちなのかな」とか頭を過る事はありましたがすぐ忘れて夢中で読みました。大切なのは2人の少女が魅力的で主人公がむかえる結末がこの2人のいない未来やハッピーエンドなど考えらないという事。

死んでしまおうか…なんて思った時(主人公は冒頭で死んでしまいますが)

「ま、結論から言うと、君はバカだねー」

君はバカだね…言ってくれる人がいたら(*^^*)

すごく潤沢に言葉が溢れる作品ですが長さやダレというものを一切感じる事まで最後まで楽しませて頂きました。素敵な作品ありがとうございます。

今回作品を書くにあたり僕は「天国なんて見た人がいないから本当にあるのかなんて分からない。けど地獄なら手をのばせばすぐ近くにある」そんなスタンスで作品を書いていました(君…

「それは違います」

なずなさんの作品を読んでいるとそんな声が聞こえてくるような。

ええナイチンゲールの歌声みたいにです(*^^*)

天国や地獄とかなんとか言う前に人にある心の優しさとか哀しさとか温かさを世界観として積むぐ事の出来る…今回も比類なき作家さんであるなあと実感しました。「どうやったらこんなの書けるのかな」じゃなくて「こんな作品僕には書けません」と思わせてしまうとこが凄いです(*^^*)

幸坂かゆり様。たとえばこんな場面はいかがでしょうか?

いつも回り道をして通る、さるお金持ちのお屋敷の窓。いつもお屋敷の窓からはピアノを弾く1人の美しい少女の姿が見えます。あるいは少年、あるいは若者。いずれにせよ貧しく卑しい身分の僕は暫し足を止めてピアノを弾く美しい少女と聞いた事もない異国の調べに耳を傾けるのでした。

しかし僕の心を掴んで離さないのは曲よりも少女の美しい姿よりも。

流麗な調べとは裏腹に少女の時より見せる表情と唇は何か…とんでもない言葉を呟いていた。

僕の幸坂さんの作品に対するイメージはそんな感じです。今回の作品の主人公のような気持ちで読み終えた作品の余韻に浸っております。

「幸坂さんは作品を書いていて他人とシンクロする事がある」と書いておられるたので読み始め単純脳の私は「ブラフマンの埋葬かな」なんて思いましたが全然違ってました…といかどうでもよくなりました。物語は全然違うけど好きな短編小説でブコウスキ-の「町で一番の美女」という作品の持つ空気感に近い作品かもと…つまりはすごく僕この作品が好きです(*^^*)
次回作早く読みたい作家さんです。素敵な作品ありがとうございます。

知さんの作品やっぱり短いです…もう少し読みたいです。ぜひいつか完全版をお願いします。すごく好きな設定の作品なので…と言いつつお題に選んだ本実はちゃんと読んでな…(黙れ


ヒャッホ-!!水着イベントで尊敬する氷桜先生とシンクロしたぜ-!!!!…と言っても海行ってないや自分の作品(´Д`)

ミクシイなど拝見してると今回の作品は難産だったようで。僕自身読ませて頂いた感想は待ち望んでいましたというのを抜きにして贔屓の引き倒しも取っ払った上で。

時間かけた分だけ面白い作品だと思いました。

キャラクターの書き分けも見事だし物語性も以前より前に出て来てる気がしました。

読んでて悔しくなるようなでも笑ってしまうキラ-フレ-ズも登場しますし(*^^*)

氷桜先生の作品の爆発的な面白さにはいつものけ反る思いがしますが。

今回の作品はロックなんかのCDに例えたら多分アルバム志向なんだろうなと僕は解釈しています。

シングルのヒット曲が沢山入った作品というより作品自体の質が高い作品。面白い場面や笑える台詞が沢山入った先生の作品も好きですが、この作品は話自体が面白く読めた気がします(*^^*)

信玄のキャラは確かに書くのが難しそうですがやはり他のキャラクターとは異彩を放っているので脇にまわると何かいい味が出そうです。

しばらく先生の読めないのは残念ですが次回作も楽しみです(*^^*)

いや…これ以上あんまり面白くならないで下さい…背中すら見えなくなってしまいますからカンベンシテ(+_+)




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