Mistery Circle

2017-10

《 私のつばさ 》 - 2012.07.09 Mon

《 私のつばさ 》

 著者:ココット固いの助







けっして感じた事のない寒い夜。

昔いた事があると思っているどこか。

記憶の世界に降り積る忘却の雪の中に建つ私の家。

夜目覚めても懐かしくも帰りたいとも思わない私の原風景。

夜中に1人ベッドの中で目覚めた私は思う。

ただ「夢で良かった」と胸をなでおろすだけだ。



何処にいても壁に染み込んだ消毒薬の匂いがした。

私は嫌いではない。

むしろ好ましいとさえ思う。

様々な肉体を蝕む疾患や痛みから逃れようとして辿り着く病室は流木だ。

それは何も消毒薬に限った事ではない。

パタパタと気忙しく駆け回る看護師の足音や未だ治療も受けていないのに怯えて泣きわめく子供の声。

午後のリハビリ室に向かう老婆を乗せた車椅子の車輪が軋む音。

それらすべてが「私は今難を逃れここにいる」という安堵感を与えてくれる。

ずっと雑居病棟でよかったのに。

誰の気遣いか配慮かは知らないが私は顔のギブスが取れる頃個室に移された。

頬骨に少しのひびと首も幾分ずれていた。

唇にも少し裂傷があると聞いた。

もっとも私はここに来てから鏡を見ていないので自分の風体がどんな有り様なのか知らない。

ただNY市警御用達のジュラルミン製の警棒で来る日も来る日も父親に体を打ちのめされた結果私はここにいる。結果。

私Amazonが嫌い。

正確に言うとあの届け物の箱に印字されたマ-ク。

私はあのにやにやした印を見る度に震え上がった。

あの箱の中には私を痛めつけるため辱しめを与えるための道具しか入っていなかった。

(問い1)「言ってわからない娘にはどうすればいいのかな」

(答)考えるまでもない。

夢か現実か朦朧とした意識の中で箱を被った父は笑っていた。

火花を散らす筆箱。

私の両足を開いて固定する革の紐や手錠。

開いた足の奥の奥まで。

父の言う【母親と同じ原罪】とか言うものを見つけ摘出するための道具。

押し広げ 固定し 中を覗き ライトで照らす私の空洞。

標本のための虫ピン。

病院のような私の家に唯一足りないものがあるとすれば消毒薬の匂いだった。

にやにや箱の中身は実に多彩だった。

個室は嫌いだ。

消毒薬の香りもしないしビジネスホテルみたいだし。

1日中静かだし。

聞こえるのは過去の私の幽かな悲鳴だけ。

目を閉じても同じ。

映るのは過去の残像。

見なけりゃよかったグロい映画とか。

相部屋ならば、誰も私に話かけたりしない。

だって私は喋る事も動く事も覚束ない。

だからみんな気遣って、そっとしておいてくれるのが嬉しいの。

夜中に咳き込んで何度も何度もナ-ス・コ-ルのボタンを押すおばさんとか。

軽い脳梗塞で倒れて病室に運ばれた女の人は「入院と治療が必要。でないと深刻な麻痺が残る」と医師や看護師の説得を無視して翌朝退院した。

「子供が3人まだ小さいんです」

そう言い残して。

何故か私は安心する。

私だけじゃないんだって…ここに来て初めて思った。

初めてここに来た時私は意識がほとんどなかった。

自分で家を抜け出し隣の家のインターホンを押したとこまではなんとなく記憶がある。

死は深い深い眠りに落ちるのに似ている。

心地よかった。

暗い海の底に落ちて。

私はただ闇の一部になりたかった。

闇は暗くて何処までも広くてただ暗いだけだから。

声が聞こえた。

「死なないで」

確かにそう言った。

死なないで 死なないで 死なないで お願い お願い お願いだから 戻って来て

喉が張り裂けるような叫び声。

お母さん?

こっちに来てじゃないの?

第一お母さんはあっちに行ってないし。

あっちじゃなくて、どっかに行ってしまったけど。

溜め息…何にしろ私はピンボ-ルみたいだ。

こんな野良犬の死骸みたいにぼろぼろで毎日「薄汚い」とか言われる自分でも呼んでくれる母の声。

導かれるように私は目を開けた。

病室に母の姿はなかった。

側にいたのは若い看護師さんで彼女は私に微笑んだ。

「おしっこがしたい」と私言った。

「ここでしなくちゃだめですか」

うっかり家だと脳が間違える。

まだ私は朦朧としていた。

「いいえトイレに行きましょう」

看護師が目をふせる。

まじで天使みたい。

彼氏とかいるのかな?

「さあ、手を貸しますから」

車椅子が用意される。

「嘘つき!!嘘つき!!助けてくれるって言ったじゃない!?助けて…助けてくれるって…」

壁の中から聞こえるのは幻聴だろうか。

意識の底で聞いた母の声と同じ女の叫び。

看護師の手を借りて私は車椅子に腰を下ろし病室を出る。

消灯時間をとうに過ぎた深夜の病棟の廊下。

天井の非常口を示す緑の表示だけが妙に明るい。

非常口の扉を出た先に広がる世界の恐ろしさを私はこの年齢で既に知っていた。

Ⅰ組の男女がこちらに背中を向けトイレの先にあるエレベーターに向かって歩いて行く。

女は肩を落とし男の肩に凭れるようにして歩く。

男は女の首を抱えるようにして歩く。

男の背中には人形のように手足をだらんとさせた赤ん坊が背負われていた。

赤ん坊は隙あらば男の背中から解離され地面に落ちようとしている木偶のように見えた。

私と看護師は立ち止まり彼らが振り向く事なくエレベーターの眩い光の中に消えるのを待った。

背中の赤ん坊は深夜病院に緊急搬送された。

当直の医師は適切な処置を施したが赤ん坊は助からなかった。

私が夢の中で聞いた母の声は赤ん坊の母親のものだったと後に知った。

背負われているのが私ならよかった。

私が死んで赤ん坊が助かればよかったという意味ではないよ。

息もなく背負われて家に帰る赤ん坊が私ならよかった。

まだ何も始まらない前に。

だってあの子が大きくなったらお母さんはいなくなるかも知れない。

あの子のお父さんはあの子を毎日殴るかも知れない。

そうならない可能性が1つもないと誰が言えるだろう。

何も始まらないのは幸せな事なのだと私は思う。

始まってからでは何もかもが取り返しがつかない。

だから私は可愛そうだなんて思えなかった。

何も感じなかった。

ただ、その夜の事はいつまでも覚えていた。

理由は今でも分からない。

きっと意味なんかない。

薬の作用だろうか…瞼がとても重たかった。

病院の個室での1日は何もしない。

何もない1日だ。

私の傷ついた肉体は再生する。

そのために与えられた個室の中で私の意思に反して。

季節は流れ雲や月のかたちや空の色も変わる。

けれど私は部屋のブラインドは閉じたままにしていた。

午前の回診の時担当医や看護師が「窓を開けましょうか?」と訪ねるが私は首を横に振る。

それが数少ない治療者と私のコミュニケーションだった。

私はおし黙り私の意思に反して再生する肉体を密かに呪う。

傷口は瘡蓋で塞がれ固定されたギブスと皮膚に包まれた骨の亀裂は綺麗に閉じた。

青紫の皮膚の内側の細胞は分裂を繰り返し私が寝ている間に痕跡を消して新しい皮膚と入れ代わろうとする。

部屋の空気が常に清浄であるのはきっと私が寝ている間に誰かが昼の空気や夜の空気を外から取り入れているに違いない。

唯一取り替えがきかないのは私の脳と記憶だけ。

午後になるとカウンセラーの篠原という若い女の人がやって来るようになった。

この病院の専属の職員なのか外部の人間なのか私は知らない。

高性能の空気清浄機でも除去できそうもない。

見た目茶髪でミニのタイトもこれ見よがしのビッチ感満載の私の嫌いなタイプの女。

初めて彼女がこの部屋を訪ねた時も彼女は自分の名前と役職が書かれた名札を私に見せて「じゃあ明日からよろしく」そう言って部屋を出て行った。

私は変化を好まない。

好まないというか望まない。

私の心身が良好と見なされた場合、遅かれ早かれ私はここを出る事になるだろう。

未成年である私はまた父のような誰か大人に身を委ね暮らす事になる。

概ねそれは、ろくな事じゃないと心とか本能と呼ばれるものが私に告げていた。

私は篠原というカウンセラーを無視する事に決めた。

彼女の質問や言葉には一切耳を貸さない。

漸く伸ばせるようになった膝を抱え私は俯いたまま。

時には布団を被ったまま彼女との時間をやり過ごす事にした。

篠原は最初こそカウンセラー然とした立ち振舞いで私に接触を試みた。

私は無視を決め込んだ。

お姉さんキャラや友達キャラなど…私が彼女の仕事に協力する気がないと悟ったのかしまいには、外れの合コンに来た女子に落ちついた。

見舞い客用のパイプ椅子に足を組んで腰を下ろし携帯のアプリの画面を眺めて過ごす。

部屋に入ると携帯端末のアラ-ムをセットしてスヌーズが鳴ると次の訪問日を告げ部屋を出て行く。

火曜日と木曜日と土曜日。毎日でないのが救いだった。

アプリのゲームの音が最初は煩わしかったが、そのうち彼女の舌打ちも溜め息もエアコンの音同様気にならなくなった。

時には彼女は文庫本やコミック、年相応の女性が読むファッション雑誌など熱心に眺めていた。

「こんなんでお金がもらえるんだなあ」

私はぼんやり考えた。

それきり思考は繋がらず彼女にも彼女が手にする何にも興味は及ばなかった。

ずっと後になって思う。

猛暑の陽射しの中でも真冬の冷たい風の中でも外で働く農家の人とか。

コンクリートを剥がした地面を掘り返したり鉄筋を担いだり。

深夜までPCの前に座って眠気や疲れと戦いながら仕事をする大人たち。

自分が死んでも止まらないラインの製品を組み立てる人もいる。

カウンセラーの篠原はそういう大人たちと同様に自分の仕事に必死で取り組んでいたのだと。

今にして思う。

もしも私が小さな池の底に身を潜めた魚ならば。

彼女は見えない釣り糸に釣り針をつけ、じっと辛抱強く待ち続ける釣り人だった。

煌びやかな星屑のような外界の撒き餌を撒き散らし私を誘う。

漸く見つけた私の塒から私を誘い出し。

私を釣り上げた後にこう言うつもりだ。

「お前は水底の魚でもないし人魚のお姫さま様でもない人間なんだよ」

いや違う。

彼女は釣り上げようと思っていない。

私が息苦しくて人恋しくなって水面から顔を出すのを待っている。

我と我が身の過去を語り泣いたり喚いたり呪ったり錯乱したり…私どうしたらいいんですか先生?

彼女が2流のカウンセラーなら私に親身になってアドバイスするだろう。

1流なら相づちをうつだけで何も言わない。

彼女はテストの解答をもっている。

最適ではなく演算され最適化された模範解答だ。

司法裁判の弁護士。占い師。そして心理カウンセラー。

胡散臭いが共通語ではなく彼らの仕事は膨大な人間の統計によって成り立っているという事だ。

占い師は未来を、弁護士は最適な判決を時に依頼者のために歪める。

カウンセラーは伝えない。

世界中にいる何万何千何億という私と境遇が似た少女の臨床デ-タ-を元に私が歩むべき最適な道を私自身に見つけさせる。

それが彼女の仕事だ。

学校で先生に習った事はすぐ忘れる。

好きな人にした事やされた事や大切な言葉は忘れない。

私が見つけた私の生き方は私の宝物だから。

そのように誘導する。

私あなたの手練手管はお見通しなの。

携帯やPCを取り上げられる前に検索した事があるの。

にやにや箱のサイトから取り寄せて読んだ事があるの。

カウセリングの本。

もし私が父を殺したら、どうなるのか興味があったから。

将来どんな人間になりたい?

そうなるためには何が必要?

自分はいらない人間?

ひどい扱いを受けて当然?

あなたの父親のした事を許せる?

許す事は遠い?

では悲しみや弱さについてどう思う?

肉親ではなく、あなたを含めたこの世界の人間についてどう思う?

寛容って言葉知っている?

前に進むために。

なりたい自分になるために。

あなたがしなくてはいけない事。

今は遠くてもいい。

でも忘れないで。

愛をこめるという言葉。

こめられた愛は必ず芽をふく日が来るけれど。

憎しみの種も同じ。

せっかく芽をふいた愛もすべて憎しみや悲しみがからしてしまう。

憎しみは種を撒き散らし不の連鎖はあなたを縛る。

思い出して。

どんな人にも優しくされた思い出や記憶があるはずなの。

生まれた時。

あなたが誰かを生んだ時最初呟く言葉。

芽吹く思い。

それが、かつてのあなたにもあったはず。

それが答え?

目の前にあったのは黒いレゴのブロックだけだ。

黒しかない。

家をつくろうが女の子や花や羽のある天使を作ろうが全部黒のピース。

将来なりたいものなんて分からない。

カウセラ-なんてどうかしら?

少なくとも、ここにいる篠原さんよりはましな仕事が出来そうだけど。

でも私はここに居たい。

ここじゃなくても別に構わないけど。

やっぱりカウセラ-は無理。

訪ねたくも訪ねて欲しくもない。

格子があっても気にしない。

私は私の家が欲しい。

おかしな話だと私はほくそ笑む。

私が1人で住む家になぜ私を閉じ込める格子が今更必要なのか。

家でなくても構わない。

私の部屋で構わない。

父親をこの手で殺した私にはもう帰る家はない。

殺意は文化包丁であったか否か。

私の指先は冷静に文化包丁を避け刃先の尖った包丁を選んだ。

誰か言及するだろうか?

「現在の刑事裁判では殺意の有無の立証が重要な鍵となります」

テレビで何かの事件を弁護士が解説していた。

馬鹿馬鹿しい。

殺意なんて性欲と同じように何処にだってある。

「あなたは父親に長年に渡り性的な関係を強要されたと証言していましたが。肉体的な快感を覚えた事は…ありましたか?」

肉体的反射というのを快感と呼んでよいのなら。

本当の快感というのは肉体的にどうこうではないと私は知っている。

「レトルトのカレ-じゃなくて家のカレ-が食べたい」

私は父親に言った。

母がいなくなってから家の食事はレトルトばかりだから。

夕方になるとエプロンをした父がカレ-を皿に盛って部屋に入って来た。

「水加減とか難しいな…しゃばしゃばになってしまった」

父は照れくさそうに笑ってスプーンで私の口にカレ-を運んだ。

拘束を解いてくれないのはいつもの事だしカレ-の中の野菜は火が通ってなくて生煮えだった。

しかし私は満足してカレ-を食べた。

包丁が台所にまだあると確認出来ればそれで良かった。

母の持ち物や思い出の品は父が粗方処分してしまったと私は知っていたからだ。

夜8時になると父は私の拘束を解いて浴室に私を連れて行く。

私の部屋にある目覚まし時計は電池が切れて久しい。

動いている時は決まってその時間に入浴した。

それがわが家の習慣で父は風呂場で私の体を隅々まで洗う。

「女の子は常に清潔にしてなくちゃいかん」

ほら、足を開いて!…とか何とか言いながら。

最近は私の頼み通り髪もきちんとトリ-トメントしてくれるのは少し笑えた。

父は浴室に向かう時必ず私の手を繋ぐ。

私たちはいつも連れだって二階の階段を降りた。

最近は足の具合がおもわしくないので肩をかしてくれた。

父が私の体にシャワーの湯をかける時体のあちこちにある傷が染みて私は顔をしかめる。

そんな時父は涙を流して私に詫びた。

「こんな事は二度としない」

したくないと。石鹸泡にまみれた私の薄い胸や椅子の上で開いた私の腿の奥にあるあそこを父の手がまさぐる。

どうして私の体の一部にあるものは、こうも受け入れ難いと思うものまで易々と受け入れてしまうのだろう。

「やはりレトルトばかりじゃ栄養が片寄るよなあ」

階段を降りる時私は服を着ていない。

そんな私の体を眺め父が呟く。

私は元々沢山食べても肉が体につかない体質らしい。

痩せこけあばらが浮いた体の中で秋の薄みたいに細く薄い陰毛だけが揺れている。

「母さんと同じだ」

父の手がそこに触れる。

殺意なんて何処にでも落ちている。

私の裸足の足が父の背中を蹴る。

想像していたのとは違っていた。

もっと派手に階段を転がり落ちるものだと思っていた。

私に背中を蹴られた父は「あっ」という短い言葉を立て階段の途中で倒れた。少しだけ滑り落ちた、けど途中で止まった。

父も私と同じ痩せ形の体系をしているが成人した男の体というのは案外重いものだとこの時知った。

父は人が転倒する時誰もが自然にそうするように、利き腕で我が身を庇った。

普段は気がつかないが階段の先端というのは案外鋭利なものだ。

腕をついた父の二の腕の一点に一瞬だが全体重がかかると父の腕の肉は苦もなく、ざっくりと切れた。

骨折したのか裂傷が骨まで届くものであったか私には分からない。

「つっ」

という呻き声を漏らしたまま父は腕を抑え暫くその場を動かなかった。

父の右腕のシャツが鮮血に染まる。

すごい痛そう。可哀想。

胸の中でふわりとタンポポの綿毛みたいに言葉だけが浮き上がる。

しかし私は目をくれる事なく裸のまま階段を駆け降りた。

最後の3段は飛び降りた。

爪先で降りたので衝撃は少ない。

けれどひび割れた骨と打ちのめされた肉の痛みに悲鳴をあげそうになる。

4M先に玄関の扉が見える。

左の廊下を曲がれば1階のトイレ。

その隣が浴室。

狭い廊下を抜けるとキッチンがある。

階段からキッチンまで3M。

私は躊躇わず左の廊下に走り込む。

ほらね殺意はある。

「裸で外に飛び出すのは、どうしても躊躇われた」

乙女心という事にしておいてくれないか。

勿論その時はそんな事を考える余裕はなかった。

キッチンに抜ける廊下は狭い。

目の前には冷蔵庫があってさらに狭い。

冷蔵庫の横に食器棚とXの型のスリッパラックが置いてある。

ラックには埃の毛玉を沢山のせた色とりどりの可愛い子供向けスリッパが5足クリスマスツリーみたいに掛けられている。

お誕生会で家にお友達を呼んだ時に百均で揃えたやつだ。

あれ以来1度も使われる事なく放置されたまま。

父曰く「通る時非常に邪魔だ」

私は難なくそこをすり抜けた。

冷蔵庫の扉にはナッツを抱えたチップとデ-ルのキッチンメモ。

真ん中にナッツのかたちの迷路。

今は何も書かれていない。

ペンも何処に行ってしまった。

ベタベタと貼り付けられたアンパンマンのマグネット。

ガチャガチャの景品だ。

買い物に行く度それが欲しくて母に200円をねだった。

「シ-ルをあちこち貼られるよりはまし」

と母は私200円をくれた。

「同じのが出ても一回だけよ」

私はキッチンで無造作に貼り付けられたアンパンマンのキャラクターを眺めるのが好きだった。

今は黄ばんで汚く汚れてしまっていた。

シンクの上のまな板には肉切り用の先の尖った包丁と文化包丁が玉ねぎの皮や野菜や肉の切れ端と共に無造作に置いてある。

私は躊躇わずに手を伸ばす。

料理好きの母ならまな板も包丁も野菜と肉用に使い分けていた。

包丁を掴みかけた私の首筋をぬるりと生暖かい掌が鷲掴みにする。

私の指先は包丁の柄を掴む事なく強い力で体の向きを変えられる。

父の声が私の名前を呼んだ。

世界がぐるりと反転する。

なぜかロシアの民族衣装を着てコサックダンスをしているばいきんまん。

ドキンちゃんはランドセルに黄色い帽子、キュ-トな笑顔で振り向きポーズだ。

アンパンマンは空を飛んでるのと手品で花束を出してるやつと…こんな場面あったっけ?

それと…私の指先がマグネットで張り付いたストップウオッチに触れる。

黒い縁取の数字が表示されていない計測機。

その先には耳掻き位のステンレスの鋭い針がついている。

中心温度計。

揚げ物とかロ-ストビーフに射して中の温度を計るやつだ。
母がよく唐揚げに射してるのを見て私もそれをやりたいとねだった。

「揚げ物の最中は危ない」からと母は使わせてはくれなかった。

私は食卓にあがった料理に次々針を射してはデジタルの数字が変わるのを見るのが好きだった。

「お母さんと同じでお料理が好きなのね」

私を見つめる母が好きだった。

温度計には以前は半透明のボールペン状の鞘があった。

おそらくチップとデ-ルのペンと一緒に父と母が争った時床に落ちて、そのままどこかに行ってしまったのだろう。

父と母はある時期から言い争いが絶えなくなって。

私はそれが悲しくて怖くていつも2階でいさかいが収まるのを泣きながら祈った。

父が激しく怒鳴ると母は「助けて!殺される!助けて!!」その後に必ず私の名前を呼んだ。

母が家にいる時は日常だった。

ある晩階下での物音が静かになった私は恐る恐る階段を降りた。

父が母を背中に背負い何処かに向かう姿が見えた。

「母さん、ちょっと病気みたいなんで病院に行って来る…留守番頼むな」

髪が額に垂れた父が疲れた笑顔を私に向けた。

私はそれ以来母に会っていない。

ただ両親の帰りを待つ間2人とも2度と戻らない気がして、とても怖かった。

帰って来た父の膝にすがり泣いた事を今でも、はっきりと記憶している。

父のズボンの膝は湿った枯れ草や土の匂いがした。

硬質なステンレスの冷たい感触と尖った先端が今は嬉しかった。

私は躊躇う事なくそれを父の胸に突き刺した。

殺意なら、ちゃんとここにいる。

私夢を見たの。

私は夢の中では赤ずきんちゃんに出て来るような狼だった。

大きくて全身真っ黒で爪も歯も尖ってギザギザの三日月みたいなシルエットの狼。

全身に夜の力をみなぎらせた狼。

私狼になりたかった。

将来の夢?

私がなりたいのは躊躇いなく喉笛を噛み裂く野生の獣、狼だ。

王子様のキスなんていらない。

私はこの人の心臓や首の動脈から溢れた血の飛沫を全身に浴びて、生まれたばかりの赤ん坊みたいに。

もう一度生まれる。

けれど現実は儘ならない。

私は狼ではないし。

父はうまく階段を転がらないし。

せめて包丁…それも手に届かず。

血飛沫は噴水のように吹き出す事はなく父のシャツを深紅に染めただけ。

少し遅れて音が聞こえた。

知らず知らず私は吼えていた。それだけは狼みたい。

隔膜や喉を震わせ私は吼えた。

吼えながらステンレスの針を父の胸元に深く深く突き刺したのだった。

父はよろめく私を抱き止めようとして両手を前に差しだし驚いたような笑顔のようなよくわからない顔で膝から崩れ落ちた。

ほんと、きもいわ、こいつ。

私は父の顔を蹴った。

キッチンから居間を通って玄関に出た。

初夏だというのにまだコタツが出してある。

畳の床に洗濯したばかりの私と父の衣類が畳み掛けて置いてある。

父は柔軟剤を使う事を知らないので、せっかくお洗濯してもシャツもブラウスもごわごわして着心地が悪い。

教えてあげたくても父は死んだ。私が殺した。

コタツの脇に置かれた洗濯カゴと衣類。

それが私が見た最後の家の風景。

玄関のステップで躓いていい方の足も挫いた。

元々何ヵ所かはヒビが入っていたから足が縺れた。

それよりも夜だ。

私は血にまみれた肺の空気を吐き出す。

忽ち清浄な夜の気で体中が満たされる。

夜は私をとりこにした。

私はついうっかり名も知らぬ夜空の星ぼしに見とれ玄関のステップで足を踏み外してしまったのだ。

秘密にしておこう。

この日の夜空の美しさは私が見つけた宝物である事を。

家の玄関の扉が閉じる。

にやにや箱の葢がいまいましげに舌打ちしながら閉じる。

私は砂利の敷かれた道で素足が傷つけられる痛さも感じる事なく裸で路上に飛び出した。






私は今満たされている。

今の私を満たすもの。それが何であろうと構わない。

他人には関係ない。

擬似体験では分かり得ない。

そこにいるカウセラ-様などとは共有出来るはずもない。

私は今ここにこうしている事こそが幸せなのだと思う。

少なくとも今までよりは今の方が幸せだ。

それを無理矢理私の人生に割り込んで来て変化させようとする彼女は私からすればやはり外敵なのだろう。

そして彼女の望みは何1つ叶わない。

それは彼女にとってどれ程の重みを持つ不運なのか?

今までの私の絶望的な日々と彼女の不運は秤にかけるまでもない事だ。

私にとってはすべては事後。事後の事なのだ。


今日もアラ-ムが鳴る。

篠原は文庫本を閉じた。

そしていつもと同じように病室を出て行く。

何も成果が得られぬまま。

彼女は何時かここを訪れなくなる。

私の事もすぐに忘れるだろう。別にそれで構わない。

それが私が彼女に望む唯一の事だ。

挫折も彼女自身のキャリアに傷がつく事もないだろう。

本当の意味彼女を必要としている人たちの分だけ彼女の仕事に需要はあるはずだから。

日々雪のように降りかかる仕事と雑事に追われ私の姿は消えて行く。

「沈黙は金か」

篠原は呟いた。

「沈黙は金…その後に続く言葉をあなたは知っている?」

私は答えない。ただ沈黙を返すだけ。

「沈黙は金 雄弁は銀…これは英国の思想家の言葉が語源と言われてるの。だけどね当時世界では金より銀の方が価値があった…私は時に沈黙を守る事も雄弁に語る事も大切な事だと解釈してるの」

篠原はちらりと私を見たが私は彼女と目線を合わせない。

閉めたブラインドの隙間から覗く光のストライプがキレイ。

暗がりにいるから僅かなお日様の光が眩しくて宙に舞う埃さえも天使の光と思える。

ずっと温かい陽の中を歩いている人にはわからない事だ。

それでも私はいつもと違い部屋を出て行こうとしない彼女に多少戸惑いを感じていた。

「沈黙は青い雪」

篠原は閉じていた文庫を開いてそこに書かれた言葉を諳じた。


沈黙は 青い雪のやうに やさしく 私を襲ひ

私は 射とめられた小さい野獣のように 眠りの中に 身をたふす 

「今そこでそうしているあなたを見てると昔読んだ懐かしい詩を思い出したの」

わからないが「それは素敵だ」と私は思った。

「続きが聞きたい?よかったら本を置いて行くけど」

私にはそれで充分に完璧。

続きなんてあり得ない。

だから私は何も答えない。

「そうね…あなたは知りたい事があれば自分で調べる」

アラ-ムは何回かのスヌーズを繰り返し沈黙した。

「今は誰もいないあなたの家と、あなたの部屋も調べさせてもらった」

彼女はヘビースモーカーなのかス-ツのポケットからタバコを取り出した。

さすがにここでは火を着けたりしない。

犬みたいにタバコを鼻先に翳してくんくん匂いを嗅いでいる。

重症だ。治療が必要ね。

「『はじめましてカウセラ-の篠原です』そうあなたに言ったけど…それ以前に私は病院に搬送されてベッドで眠るあなたに会っていた」

別に…そういう事だってあるだろう。

わざわざ今言う事でもあるまい。

「私警察官でもあるの」

私は彼女の顔を見た。

「ていうか、そっちが本職」

警察官が私のもとを一度も訪れないのはおかしいと思っていたけど。

「大学で精神病理学を学んだ変わり種だからね私は。こういう女性柄みのデリケートなヤマにはよく派遣されるのよ」

外れ合コンに来てふてくされる風の女は刑事だった。

「もっともカウンセラーなんて大学を出てなくても自分で名乗ればなれるもんだけどね」

私が父を刺して父が死に警察が遺体を見つけ…事件発生。

警察が捜査を始め私のもとを訪れる。

考えなくても予想出来る事だ。

「あなたの父親は現在も生きているわ」

彼女の言葉に私の心はざわついた。

「あなたにとって良い報せ…見たところそんな顔には見えないけど、私にはそう思える」

父は死ななかった。

「あなたが刺した凶器の温度計は心臓まで到達しなかった」

そうか。死ななかったんだ、あの人。

「あなたが家を飛び出して押したお隣の家のインターホン、実は故障していたの」

とどかなかったんだ。

「なのにあなたの家に救急車が駆けつけたのは、お父さんが助かりたくて自分で電話したの。あなたが発見されたのはずっと後」

指でライターの蓋を弾く金属音。

タバコに火をつける音がする。

彼女の赤い唇が、す-っと紫煙を吐き出す。

「あなたの父親は「自分で間違って刺した」と供述していたけど警察は馬鹿じゃない。傷口の形状や刃物の侵入角度、調べれば自傷かどうかなんて即分かる話よ。鑑識なめんなって話よ」

後に父は供述を翻した。

「娘は精神を患っており。私は錯乱した娘を止めようとしただけです。謂わばこれは」

家族の問題です。

「となると事件は何も起きてない事になるわね。加害者がいても被害者が家族で訴えない場合警察は何も出来ない。犯罪が成り立たないの…殺人事件でもない限りは」

つまりは。

「父親の供述を真に受ければ退院した後あなたの身柄は保護者である父親の元に還される」

見た事あるブランドの吸殻ケ-スに無造作に火のついたタバコを押し込んだ。

「ま、そうならないために私がここにいるんだけどね」

その日の篠原は雄弁だった。

「あなたの体の有り様を見たら当然加害疑者は父親の方だし、それに」

ああ、この女はやっぱり警官なんだ。そう思わせる鋭い一瞥。

「行方不明になってる、あなたのお母さんの件もあるしね」

母は私が子供の頃父と折り合いが悪く頻繁に家を空けるようになっていた。

ご近所でも評判になっていたし家出人として警察に処理されてもおかしくない。事実そうなった。

「前々から実家の御両親や友人から捜査の依頼はあったけど。今回の事件がきっかけになったのは間違いない。まあ…事件が起きないと上は動かないのが昔からの事なんだけど」

篠原は言った。

「私精神科医にもカウセラ-にも向いてないなあ…そう、今も昔も全然だめだ」

確かに彼女は喋り過ぎだ。だけど今日初めて私に必要な事を喋ってくれた。

「あなたの父親にもカウセラ-がつくと思う」

父にカウンセラーが?

「本職も本職の臨床経験豊富な優秀な人がね」

「私は無理無理」

彼女は首を振る。

「あなたカウンセラーの仕事がただ闇雲に相槌をうってればいいと思ってる?カウンセラーが患者に対して相槌をうつタイミングはね「私はあなたの考えに同意します」って意味なの…たとえ相手が殺人鬼であろうと。「それは理解出来る。私自身の内にもあるものだ」と。計り知れない精神的なダメージよね…私病室のベッドで眠るあなたを見た時に思ったの」

彼女の言葉と振る舞いは確かにカウンセラーとして失格だった。

「『こんな事をするやつは死ねばいい』…そう思ったの」

「出来る事ならこの子は目を覚まさないでいる方が幸せなのに」

眠る私の髪に触れた。

篠原の、あの時と同じように。

「なんで私が警官になったか聞いてくれたりしないわけね」

篠原は頭を掻いた。

「まあドラマでもあるまいしね」

目を覚まさないで。

目を覚ました時この子は辛い現実と向き合う事になる。

この子だけじゃなくて私自身も。

それが恐ろしくもあり彼女の心は震えた。

指先から心の震えが伝わったように瞼がそっと開いた。

誰も知らない森の奥に眠る宝石のような碧い瞳が怯えた顔の白衣の女を映しだす。

米国に留学中の彼女が最初に臨床の実習で出会った少女。

名前はデイジ-。

デイジ-・バズ・ソ-は勿論本名ではない。

彼女が自分で自分につけた通り名だった。

ア-カ-ソン州ボストン山脈の麓にある田舎町で代々家族経営で製材業を営む家に彼女は1人娘として生まれた。

年齢は当時6歳になったばかりだった。

物心がついた時からよく喋り快活で感受性の強い女の子だったらしい。

デイジ-は母親が好きな花の名前からつけられた。

彼女は自分の名前が母の好きな花からつけられたと知ると無性にその花が見たくなった。

両親は朝から自宅から半マイル先の作業場で働いていた。

幼い頃から彼女の面倒をみたり遊び相手をしてくれたのは祖母だった。

デイジ-は祖母に「自分と名前と同じ花が見てみたい」と頼んだ。

「デイジ-って花はね、あんたみたいに1年中元気に咲いてるってわけじゃないんだよ。あんたと違って夏の暑さには弱いみたいでね」

季節は盛夏で午後になる前にデイジ-は祖母にアイスを3回もねだっていた。

「9月に種を蒔けば12月には花が咲くのが見られるはずさ」

祖母は花の名の暴君が納得しない事は承知していた。

少なくとも3回目のアイスをこの子に与えて母親に文句を言われるよりはましだ。

祖母は炎天下の中近所の家を訪ね歩き植物図鑑を一冊借りて来てくれた。

孫はアイスの事は忘れていなかったが夢中で自分の名前と同じ花を探した。

「なにこれ?バズ(丸のこ)じゃない」

夜露に濡れる赤い薔薇や黒い茨、雪のように白い鳥の羽のような百合の花を勝手に想像していた。

図鑑の写真のデイジ-は父の製材工場で蜂みたいにぶんぶん唸りながら材木を切断していく丸鋸にそっくりな花だった。

デイジ-は大いに憤慨しそして気にいった。

両親の働く作業場への立ち入りは禁じられていた。

けれど祖母と連れだって昼食や差し入れを持って行く時デイジ-は高速で回転する丸鋸を見るのが大好きだった。

自分の名前と同じ花と似た丸鋸に大いなる運命を感じた彼女は自分の事を【丸のこデイジ-】と呼んだ。

周囲の家族や友達は最初皆当惑したがすぐに慣れた。

デイジ-・バズは彼女の住む世界を照らす太陽だった。

夜になり太陽が月に隠れ彼女の瞳が眠りにつくまで彼女は羽音をたてそこら中を動きまわり皆を笑わせた。

初めて会う人にはなぜ自分がデイジ-バズ・ソ-なのか熱心に話した。

誰もが彼女の微笑みに魅了された事だろう。

今より背がのびて胸が膨らみ鼻のまわりのそばかすが消える頃には大勢の男の子たちの憧憬の眼差しを一身に集め彼女はその屍の山を踏み潰して歩く。

そんな未来さえ予感させた。

篠原が初めて会ったデイジ-・バズにはそんな数ヵ月前の彼女の姿は微塵も存在しなかった。

病室のベッドで眠る彼女は戦禍にみまわれた瓦礫の廃墟で焼け残った人形に見えた。

いや、泥まみれの人形は彼女の枕元に寄り添い平素と変わらぬ笑みを浮かべていた。

絶え間無い爆撃や兵士の隊列に蹂躙され尽くした世界の姿こそが現在のデイジ-だった。

「これはカルテではなくて検死書ではないか」

初めて搬送時のカルテを見せられた時の篠原の素直な感想だった。

生きているのが不思議だった。

まるで大型トラックに激突したように頭蓋と左の顔面部の骨は砕けていた。全身に30数か所にも及ぶ創傷と骨折。

数人がかりで男たちに力まかせに何度も床や壁に打ち付けられたためだ。

間違いなく被疑者は被害者に対して愉しみながらこの行為を行っていた。

左大腿部の骨折と股関節の脱却。

未成熟な彼女の子宮は破裂して、彼女は今後子供を妊娠出産する事は永久に不可能だ。

左顔面に埋め込まれた金属のプレートは成長と共に成人するまで何度も取り替えなければならない。

それが彼女の身の上に起きた全てであり。

成長と共に彼女が受け入れなくてはならない現実だった。

夏の日に祖母とこっそり食べたアイスクリームみたいに彼女の幸せな日常は溶けて消えた。

デイジ-が両親にしかられた時祖母は決まって孫を車に乗せ郊外のス-パ-マ-ケットに連れて行った。

そこで何かデイジ-の好きなお菓子を買ってくれた。

デイジ-は大して落ち込んでなくても、そんなふりをしてお菓子をせしめる事があった。

勿論祖母も孫の事は誰より理解していた。

ただ孫にお菓子を買い与えたいだけだった。

その日もそうだった。

買い物をしている間デイジ-は1人で「トイレに行く」と言って祖母の元を離れた。

レジに並んだ祖母が「ついて行くよ」と言うと「もう子供じゃない」と言う。最近はそんな感じだった。

売り場面積を少しでも確保したい大型ス-パ-のトイレは店内から少し離れた場所にあった。

「ついて行くべきだった」

「私の責任だ」

そんな言葉を祖母は一切口にしなかった。

ただ2日後に郊外の廃墟で持ち主に発見された孫娘に病院で対面し医師の説明を孫の両親と聞いた。

病院から1人帰宅した祖母は自室で首を吊った。

遺書はなかった。

デイジ-が入院して治療を受けていた数ヵ月の間に両親は祖母の葬儀を済ませ。不動産屋に自宅と工場を売りに出した。

娘のために出来る事は毎日泣き暮らす事と世間の風評から娘を守る事だけだった。

既にデイジ-バズ・ソ-の事件は全米のタブロイド紙を中心に大きなニュースになっていた。

篠原真琴はボストンの大学に大学4年生の時に編入した。

「世界で有数の精神科医であり大学の教授でもある彼の元で学ぶといい」

という父親の計らいで渡米した。

彼女の曾祖父は名門私立医大の創始者であった。

祖父が理事長を勤める大学病院の1人娘として彼女は生まれた。

上に兄が2人いて共に現在は大学病院でドクターとして責任ある地位についている。

医師になるには恵まれた裕福な環境で篠原は育った。

医学の道に進むのに対して篠原は重圧も抵抗も感じた事はなかった。

3人の兄妹の中で彼女が一番優秀である事は家族全員が認めていた。

「真琴が男だったら俺たちの出る幕はなかった」

一番上の兄の言葉をよく耳にした。

彼女が大学病院の後継ぎになる事はまずない。

上の兄2人に余程の事でもない限り。

そうした意味でも篠原は自分が恵まれていると思っていた。

母親は元看護師で結婚後は家庭に入りいつも兄妹の傍らにいてくれた。

今も昔も優しい母である。

母は楽器は演奏しないがアイリッシュ・ダンスを踊る。

プロと呼んでも差し支えない腕前だ。

父親はピアノを弾き子供たちは皆幼い頃から直々にピアノの手解きを受けた。

長男は弦楽器に造詣が深いし次男は医大を出た後暫くは大手の楽器メーカーで働いていた。

ケルトが好きな母と父を結びつけたのは音楽だった。

篠原家では代々「指先の鍛練になる」という理由で楽器の演奏を推奨していた。

篠原真琴の家庭は鍛練云々は別にして音楽好きの一家だった。

週末には家族揃ってクラッシックのコンサートに出かけたしリビングでは楽器を持ちより頻繁に演奏会が開かれた。

「浮き世離れしてるわね」

友人にはそう言われた事もあるが家ではそれが普通だった。

父にピアノを習う時鍵盤の上を滑らかに跳ねる繊細な指先を見るのが好きだった。

いや、本当は恐ろしかった。

自分自身の本質を質せば【怖れ】という言葉に行き着く。

常々そんな事を心の片隅に思い描いていた。

「父や兄たちのように楽器が弾けなかったらどうしよう。

兄たちのように優秀な成績が取れなかったら」

【怖れ】は常に傍らにいて子犬のように寄り添っていた。

それが彼女の前に進む原動力となっていたのは間違いない。

日常朝食の席で取り交わされる父と兄たちのクランケについての会話。

彼らは人の生殺与奪を握る神のようにト-ストをかじりコーヒーを啜りながら話した。

篠原にはそれが恐ろしかった。

自分も何時かそのように人の生死に関わるようになるのだろうか。

こうも無頓着に。

それが恐ろしかった。

本当は医師よりミュージシャンになりたかった。

篠原家は自らが経営するエスカレータ-式の付属学校に安易に子供たちを入学させなかった。

それは篠原家代々というより両親の教育方針だった。

高校はミッション系の女子高でそこでは聖歌隊に入りバイオリンも習った。

父が時より聞いているクリフ・リチャ-ドや兄たちのデイブ・ギルモアやピータ-・ガブリエルのCDに夢中になった。

ト-リ-・エイモスのようなミュージシャンに彼女はなりたかった。

こっそり宅録したデモに写真をそえて複数のレコード会社に送ったが返事は1度も来なかった。

自分の歌う姿を動画をサイトに載せる事も考えたが家の体面とか色々つまらない事ばかり考えた挙げ句止めた。

所詮その程度の憧れだったと今では解釈している。

精神科医なら…それも研究者の道を歩むなら。

それが進路に対して彼女が出した結論だった。

もともと興味ある分野であったし臨床で人の生死に関わる可能性も少ない。

研究者なら尚更だ。

篠原家は娘の進路に対しこれ以上ないサポートをしてくれた。

客員扱いではあったが篠原はダスクタ-ヴ教授の研究室にインターンとして招かれた。

ダスクタ-ヴという名前はスウェーデン表記で彼はスウェディツシュ系アメリカ人であり欧米やドイツでは発音はグスタフが一般的である。

グスタフというのは渾名で教授がかつてユングについて素晴らしい講義を行ったことから起因すると誤解している学生もいた。

その道を志す者であれば望むべくもない環境に彼女は身を置いた。

傍らの子犬は相変わらず彼女の側にいたが彼女は既にそれを力に変える術を心えている、つもりだった。

グスタフ教授は英国生まれではないが皆にサーと呼ばれ崇拝されていた。

彼の元には様々な国から優秀な人材が騎士のよう勢揃いしていた。

教授の研究室は学会は勿論FBIや一般大手企業で功績を上げた人材を次々に排出していた。

OBが在籍する企業や団体から寄せられる研究資金も潤沢だった。

それだけでも日本における精神病理学とは日進月歩の差を感じた。

【神の救いの手】に選ばれし者たち。

誰もが教授の元で学べる事に名誉と誇りを持ち先達に追いつこうとする意欲に満ちていた。

学問を通じて思い描く将来の明確なビジョンが彼らにの瞳には宿っていた。

「自分はどうなのだろう」

篠原は思わずにいられなかった。

彼らのような熱意に満ちた学問の探求者の集団にあって疎外感を感じずにはいられない。

そんな日々が続いた。

確かに学術的に興味深い分野である事は間違いない。

しかし私と彼らとは明らかに志すものが違う。

私はここにいても良いのだろうか?

この大学の研究室のIDは私よりも優秀な熱意ある志願者が手にするべきものではないのか?

そんな問いかけに、ますます肥大化した子犬は答えてはくれない。

彼女自身が口を塞いでいたからだ。

無意識に日本から来た若き精神科医の卵という仮面を彼女は被った。

実際彼女は優秀な研究員であり続けた。

研究室の人間も彼女を同胞と認めてくれていた。

たったの1年…彼女はそう思っていた。

もしも研究室の中で彼女の本質を「黒羊」と見抜いた者がいるとすれば恩師である教授自身であった。

研修の一環であるが教授の助手として指名を受けたのは彼女だった。

教授に連れられ訪れた大学病院の一室。

病室のベッドに横たわるデイジ-・バズ。

彼女が向き合う事を避けて来たものは眠る少女の姿で目の前に現れた。

「私にこの子をどうしろっていうの?」

心の呟きすら震えていた。

デイジ-・バスは彼女にとって【怖れ】そのものであった。

自分は愚かで臆病でも専門家の卵を名乗る大人だから…彼女がこれから向かう未来は予見できた。

彼女を襲った犯人グループは目撃者の証言で既に州警察に身柄を拘束されていた。

犯罪の立件のために、これから面通しや聴取も行われるだろう。

耐えられるだろうか?彼女ではなく私自身が。

そんな彼女の思惑など関係なくデイジ-・バズは眠りから目覚めた。

既にバイタル測定器は彼女の体から取り外しされ。

頭を固定していたギブスも外れたが頭部のネット状の包帯と左目の眼帯が痛々しい。

デイジ-・バズは微睡んだ瞳で不思議そうに篠原を見た。

無理もない。

目覚めたら黒髪で白衣の東洋人の女が不安げに立っているのだから。

「日本から来た、あなたのお医者様よ」

気を遣って母親がデイジ-に説明してくれた。

デイジ-は暫く考えを巡らせるように黙り込んでいた。

しかし口の右端を吊り上げにやりと笑う。

シ-ツが持ち上がるとその先端から細すぎる白い足首が覗く。

篠原はつき出された彼女の足を見て当惑した。

おいでおいでするように小さな足の指が動く。

ようやく理解した。そして篠原はデイジ-・バズの右足首と握手した。

「よろしくね。デイジ-」

奇妙な光景だったが傍らで母親が涙を堪えていた。

デイジ-・バズが束の間半年前の彼女に戻ったのはこの時が最後だった

それ以前も以後も彼女は沈黙を守り自分だけの世界に隠れてしまった。

誰の呼びかけにも答えず事件の詳細について答える事はけしてない。

無理もない事だか成人男性に対して過敏な反応を見せるため彼女の周りには女性職員だけがケアに当たった。

「やあ、デイジ-・バズ」

篠原と彼女の母親の間から小柄なグスタフ教授が顔を出す。

デイジ-は教授の顔を見ると怯えたようにシ-ツに顔を埋めた。

成人男性に対して彼女は異常に恐怖心を抱く。

自分以上に臨床デ-タ-を読み込んでいるはずなのに。

教授はセオリーも何も関係なく彼女に話しかけた。

「デイジ-、おばあちゃんは好きかな?」

教授の質問にデイジ-はシ-ツで口を被ったまま頷いた。

「では、おじいちゃんはどうかな?」

デイジ-は曖昧な表情のまま俯いている。

彼女は祖父の顔を知らない。

彼女が生まれる前に肺癌が元で亡くなっていた。

「私はおばちゃんではないが、この子のおじいちゃんなんだ」

白衣のポケットから取り出した写真にはブロンドの可愛いらしい赤子を抱いた教授の姿があった。

デイジ-は一瞬赤ん坊の写真に目を奪われた。

しかし教授と目が合うとすぐに視線を膝元にそらす。

教授は写真をポケットにしまうとデイジ-に言った。

「おばちゃんも素敵だがおじいちゃんもなかなかだよ」

「おじいちゃんが必要な時はぜひ一緒に遊んでおくれ」

彼女の返事を待たず教授は病室を出た。

「あとはご婦人方でよろしく」

「サ-・グスタフ」

「実のところ私はその呼び名が好きではない。子供の頃『軍人みたいだ』と言われてからかわれた…トラウマでね。私に対してその呼び名を使う学生諸君には額に不可の印を押してやりたくなるのだ」

「教授は確か独身のはずですが」

「教え子の娘と撮った写真だが何か問題が?」

「クランケを騙すなんて詐欺だと思います」

「なるほど…精神科医と詐欺の相違点について君の見解が聞きたいものだ」

「明白です。答えるまでもありません」

「なるほど。では共通点は?」

「共通点…ですか?」

「それは患者であれ、ほどよいカモであれ対峙者に対して自己の存在を信じて疑わない事だよ、事実」

「事実何ですか?」

「私はどっから見ても完全無欠のおじいちゃんだ。もしや君には私がブラッド・ピットに見えているのではないかね?」

「見えてません」

「よろしい!君は正常だ。仕事に励みたまえ」

病院の廊下で教授と軽口や冗談を言いたい訳ではない。

「どうして私ですか?」

彼女は担当直入に聞いた。

「どうして?君ではいけない理由が私には見当たらないのだが」

品の良い老人という風貌以外特長のない教授は彼女に問い返す。

すっかり灰色をおびた眉の下の穏やかな瞳。

刻深な知識と知性を湛えた静かな海原を臨む窓。

彼は老人ではない。

彼の目は永遠に老いとは無縁の世界に続いている。

彼は自分の患者と接する時必ずこんな眼差しを向けるのだろうか。

クランケも教え子も近隣の者たちも彼にとっては患者であり学問の対象であるのかも知れない。

気押される気がして彼女は口ごもる。

「私には…荷が重すぎるクランケかと…研究室には他に優秀で適任な女性が…例えばロザリ-は児童心理学専攻で将来はそちらの道を熱望して…彼女なら!」

俯いた彼女の足元で子犬が見上げている。

教授は頷いた。

「情熱、熱望、野心、欲望…私の研究室の扉を叩くものには何れかでも持っていて欲しいものだ」

「はい…ですから私は」

子犬が「早く家に帰ろう」と彼女の白衣の裾を引っ張る。

「マコト」

名前を呼ばれて彼女は教授を見る。

名を呼ばれ「顔を上げなさい」そう言われた気がした。

「君は子供と遊ぶのに野心や欲望や義務感が必要だと思うかね?」

「いえ」

「だから私は君に頼むんだよ。どうか、あの子の遊び相手になって欲しい」

「遊び相手ですか?」

「そう。期限は10日だ」

人の記憶は曖昧だ。

特に痛みや恐怖を少しでも和らげるために忘却は時に記憶さえもねじ曲げる。

ましてデイジ-・バズは幼い。

州警察はグスタフ教授に一刻も早く証言と面通しが出来る状態にと…教授と行動を共にした自分もそれは充分理解していた。

なのに教授が自分に与えた役目は。

「私にベビーシッタ-の役をしろと?」

「そうだ。もっとも、なにくれとなく世話をやけとは言ってないがね。彼女が望まないなら君は何もしなくていい」

教授の意図は分からなかった。

「彼女の身に起きた事は実に痛ましく憂慮すべき事だ。誰もがあの可愛い少女の姿を目の当たりにしたら憤りや悲しみ深い同情心を抱く」

勿論私自身もそうだ。

「彼女を取り巻く空気は彼女に必要ないものだ。彼女がいないところで皆がそうすればいい。それこそが彼女を苛むものと大概の大人たちは知らない」

彼女の瞳に映る自身の姿を篠原真琴は思い浮かべた。

「分類学上生物学的に見ても彼女は子供だ」

当たり前の事だが教授の言葉には何故か重みがあった。

「君は彼女の側にいて遊び相手になってあげなさい」

頷く他はなかった。

何も期待されていない。

何も出来ない自分と見透かされ上での要請に彼女の心は鉛のように沈みただ頷くより他はなかった。

病室でのデイジ-・バズは起床していても脱け殻のように見えた。

空調のきいた温かく陽当たりの良い病院の個室で今にも日射しの中に消えてしまいそうな春霞のように見えた。

篠原が近くにいても気にも止めず傍らにはいつも一緒の女の子の人形が置いてある。

いつもデイジーのお気に入りで片時も側を離れずにいた。一部始終を見つめていた人形。

時よりそれを目の前に翳して話しかけるような仕草をする。

しかし彼女は言葉を発しない。

ショックによる失語状態や精神剥離…勿論彼女の体験を考えれば充分に考えられる症状だ。

しかし彼女が沈黙を続ける理由は他にある。

彼女は舌を切り取られていた。

彼女を襲った男たちが自分たちの事を彼女が口にしないように。

生きたまま彼女の舌を切り落としたのだ。

夜中に夢を見て叫び声をあげたとしても。

揺り返す記憶の波が彼女を呑み込む時があっても彼女の叫び声は彼女にしか聞こえない。

傍らには誰かが置いたスケッチブックとクレヨンがある。

彼女は時より手にして何か書こうとするが、すぐに思い直して止めた。

お気に入りの絵本を手にしても片目だと疲れるのか、すぐに眠ってしまう。

「読んであげた方がいいのかな」

そう思うが篠原に与えられた時間の大半を彼女は眠る事も多かった。

何も知らない幼子の眠り。

篠原真琴はデイジ-・バズの傍らに座り彼女の汗ばんだ額と髪を撫でる。

何も知らないという事は偉大な事だ。

偉大な眠り…大きな眠り…この国では死を表す言葉だ。

知るという事は多かれ少なかれ苦しみを背負う事と同じだと篠原は考える。

デイジ-バズはいつか知る。

恋を知る。

自分が親になれない事も知るだろう。

話す事が出来ない理由を。

大好きな祖母が目の前から消えたわけを。

グスタフ教授はいつまで彼女の傍らにいるのだろう。

彼女はいつかス-パ-マ-ケットに行くだろうか?

篠原の指先が無意識にデイジ-・バズの首筋に伸びる。

私はやはり音楽家にも精神科医にもカウンセラー何者にもなれない。

まして永遠に続く苦しみや悲しみから、あなたを救う方法と知りながら私は罪人の咎を負うことに畏れを抱く。

波の粒がデイジ-・バズのやわらかな頬や筋肉のない腕に落ちた。

ふいに小さな掌が彼女の頬に触れた。

彼女は黒い髪に関心があるのかしきりに腕を伸ばして髪に触れたがる。

指先が彼女の涙を拭う。

「あなたの髪も素敵よ。そっくりそのまま取り替えたいくらいに」

抱きしめたデイジ-・バズの体は枯れ枝のように衰弱していたが押しあてられた彼女の口から漏れた空気は温かい。

「外の世界は怖いねデイジ-・バズ。私も同じだよ」

聞き慣れぬ異国の言葉に少女は戸惑っていた。

しかし構わないと篠原真琴は思う。

これは私自身に呟いた言葉だから。

記憶の中でデイジ-・バズと過ごした10日間は今も忘れない。

時間が許す限り彼女と遊んだ。

篠原真琴はデイジ-のために故郷の歌を歌った。

彼女も篠原について歌おうとしたが止めてしまう。

涙が出そうになるけど彼女は歌った。

途中から歌をハミングに変えた。

ハミングは重なり合い病室に流れた。

デイジ-・バズは今でもあの歌を覚えているだろうか。

篠原真琴が初めて人に聞かせた彼女の曲を。

研修の終わりは呆気なく訪れた。

篠原真琴は関係者の任を解かれた。

関係者でない以上気軽に彼女を見舞う事は出来ない。

勿論デイジ-・バズにもそれは伝えた。

彼女はそれに沈黙で答えた。

研修の終わりは大学への在籍期間の終わりを意味していた。

デイジ-・バズの精神的ケアはグスタフ教授に引き継がれた。

帰国の日篠原真琴は教授の計らいでデイジ-・バズを見舞った。

母親の話では彼女は起床しているはずだった。

しかし彼女が病室に招かれ母親が「マコトが来た」と伝えてもデイジ-はシ-ツを被って壁際を向いたままだった。

「こんな中途半端な大人の私だから彼女も怒って会ってはくれないだろう」

結局は彼女を傷つけただけかも知れない。

無力感に苛まれ彼女はデイジ-に「日本に帰るね」と伝えた。

「また会えるから」

そんな言葉が言えるほど彼女は自分が大人だとは思わなかった。

「さよならデイジ-・バズ。私行くね」

荷物を抱えた彼女はドアのノブに手をかけた。

ふと視線を感じて振り返るとデイジ-は起きてこちらを見ていた。

そしてシ-ツの下から取り出したスケッチブックを開いて見せた。

ほとんど空白の用紙にはそう書いてあった。

彼女とデイジ-しか知り得ぬ言葉。

偉大なるグスタフ教授でさえ辿り着けぬかも知れない。

デイジ-・バズが彼女に伝えたかった言葉。

それが溺れる海で彼女が掴んだ流木だった。

子栗鼠のように忽ち潜り込んだシ-ツが小刻みに震えていた。

聞こえている。

ちゃんと私聞こえているよ。

私はもう耳を塞いだりしない。

デイジ-私いつかあなたに会いに来るよ。

どんな暗い場所も怖いことも目を瞑らず飛び込めるように私はなるつもり。

何度でも何度でも、あんたの前に現れて必ず助ける。

胸を張ってあんたに会える自分に今はなりたいの。







「私はいくらあんたが沈黙を守っても退くわけにはいかないの」

篠原が私を見据えて言った。

「出来れば私に力を貸して欲しいの。いつかあんただって、きっと…」

「リハビリの時間ですよ」

篠原の言葉は顔を覗かせた看護師の言葉に遮られた。

「次は火曜日に」

後ろ手に手をひらひらさせる篠原は明らかに煙草の煙を誤魔化しているつもりらしい。

睨み付ける看護師の顔を涼しい顔でやり過ごし篠原は病室を出た。

私は看護師の手を断り松葉杖をついて病室を出る。

今日からリハビリが始まる。

ギプスに包まれ皹割れていた足の骨は見事な回復を見せた。

足の筋肉は随分弱ってしまったが。

相変わらず私は回復する我が身の肉体の驚異に呪いの言葉を吐き続ける。

病室を出た時ふと目が止まる。

車椅子の高さでは気がつかないものだと私は思った。

トイレ以外で車椅子にもめったに乗らなかったしその時も床ばかり見ていた気がする。

私は病室の前にかかったプラスチック製の名札を見た。

そこには私の名前がフルネ-ムで書かれていた。

「どうかしたか?」

篠原と看護師が怪訝な顔で私を見た。

私は何も答えない。

ただ彼女たちに気づかれないように自分の名前を指先でそっと撫でてみた。




ある日この世界に生まれた。

私にそれと知らず贈られた呪いの言葉。

私は私の名前を呟いた。

そして少しだけど微笑んだ。





《 私のつばさ 了 》





【 あとがき 】
駅のベンチで書いた書いた作品でそこ以外では書かなかった。休日もわざわざそこに出かけて書いていました。


【 その他私信 】
どこまで続く最悪の職場環境・・なんでずっと作品書いてます。あと1つだせるかな・・


ココット固いの助
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