Mistery Circle

2017-10

《 クラシック 》 - 2011.04.01 Fri

第三回オススメMC  ☆☆☆☆☆☆☆(星七つ作品)



Vol. 38 《 クラシック 》 

著者:幸坂かゆり
 




 

「約束よ。指切り、指切り」強引に指切りをさせられていた。
一体何事だ、と涼は呆れるようにその光景を見る。
目の前で指切りげんまんをしているのは定年を過ぎたばかりの父親、夏彦と結婚相手なのだが、その結婚相手の女性、陽子は二十二歳で夏彦の息子である涼と同い年だった。

それはまだ夏の浅い六月下旬、突然の報告だった。
「数年前から交際している人と籍を入れたんだ。彼女を家に迎え入れたいと思ってる。お前にも会わせたい」
「親父、まだ結婚なんて考えてたのか?しかももう籍を入れただって?何だよそれ」
遠慮のない涼の言葉に夏彦は少し俯いて頭に手をやった。
一人暮らしをしている涼は仕事が多忙な中、急に電話をかけてきた夏彦に何かあったのかと急いで実家に駆けつけたのだ。その理由が結婚だとは。もう年だし、今さら結婚なんてしなくてもいいじゃないか、と涼は思った。
そして、その思いを更に強く感じたのは、夏彦に連れられ、部屋に入って来た陽子があまりにも年若かったからだ。息子である涼と同い年。何だってわざわざ、と涼は我ながら理不尽な思考だと百も承知の上で思う。

涼の母親は彼が生まれて間もない頃、既に離婚をしていたので涼は母親についてほとんど記憶していない。
円満に別れたと聞かされていたがもちろん知る由もない。協議離婚を済ませてから、父親である夏彦が涼を引き取り、一緒に暮らしていた。涼の母親は若かったが、夏彦が父親になったのは四十代に入ってからだった。なので、二十二歳の涼は傍から見ると息子ではなく孫に見える。時には好奇の目で見る人間もいて、嫌な気持ちになる時もあった。
今回の結婚を深く考える事をしなかった涼だが、陽子を見た今となっては後悔している。そのうち、近所でも知られるようになるだろうし、最初は涼の恋人だと間違われるだろうから、そこから説明しなければならない事を考えると、本当に面倒でうんざりする。
それでなくても夏彦は高齢なのだから、陽子を見て変にロリコンだとか言う誤解を受けてはたまらないと思った。

しかし、なぜ若い陽子がそんな高齢の男との結婚を承知したのか納得がいかず、涼は考え込んだ。もしや、保険金目当てか、夏彦がロリコンなのではなく陽子がファザコンなのか、それとも夏彦がこれからの介護に専門として雇ったのか、ひょっとすると結婚詐欺なのでは、と、涼は疑心暗鬼になってしまう。
父親のどこが気に入ったのですか、と涼は問いかけた。
夏彦さんとは笑う所や怒る所が一緒なんです、と、陽子は微笑む。

陽子は健康的な色の白さを持ち、美しかった。その白い肌に薄化粧で整えると、色の白さは更に際立った。いつも染めていない肩ほどの長さの黒髪を一つにきゅっと結んでいて、そのため、地味な印象も受け、涼より年上に見えるが、肌はつやつやとしており、姿勢正しく、陽子の佇まいは古い日本の絵画のように静けさを纏っていた。



七月に入り、夏の陽射しも強くなってきた頃、涼は土日の休みにこの忌々しい二人から食事に呼ばれた。
酒も入るから泊まっていけ、と夏彦が言う。最初は戸惑ったが高齢の父親が変な女に騙されていないか見分けるきっかけにでもなれば、とおかしな理由をつけ、承諾した。
正午になり、涼は一応手土産にケーキなんぞを買って持っていった。久しぶりに見る実家の玄関前の庭では、既に陽子がおり、打ち水をしていた。
「こんにちは、涼くん。暑いわねえ」
りょうくん、だと!?一瞬、怒りのような気恥ずかしさのようなものがこみ上げたが、その気持ちを押し込めた。母親気取りになっている訳ではないだろうな、と素っ気なく「どうも」とだけ返事をし、これ、とだけ言って、ケーキの箱を陽子の目の前に差し出した。
「わあ、ありがとう。洋菓子、大好きよ。三人でいただきましょう」
陽子は箱を覗き込み、笑顔になる。
しかし二人の間にはどこかぎくしゃくとしたものは拭い切れなかった。そのせいもあり、涼は憮然とした表情のまま、乱暴に玄関の引き戸を開けた。
玄関を閉め、靴脱ぎに腰掛け、靴を脱いで家に上がると、廊下がまっすぐに続いていた。廊下を進むと、右手に茶の間へのドアがあった。茶の間の中央には夏彦が若い頃から大切にしているステレオセットが置いてある。レコードプレイヤーの下にAMとFMのラジオ、カセットテープの再生と録音機能がついており、その下の収納スペースには夏彦が好きで集めてきたレコードがぎっしりと並んでいた。CDを聴く機材はステレオの重厚さに比べるとちんまりしていた。夏彦はレコードに針を乗せる瞬間をこよなく愛しているのだと言っていた。その見慣れた茶の間へのドアを開けると、夏彦が長椅子に腰掛けてテレビを見ていた。

「よお、よく来たな。座れ座れ」
「新婚のジャマをするほど野暮じゃないからね」
「何だ、生意気だな。いつの間にそんな台詞、口にするようになったんだ」
夏彦は笑う。陽子が、がらがらと玄関を開けて入ってきた。
「涼くん、ゆっくりして行けるのよね」
「ああ、はい。まあ・・・」
何で同じ年の女に敬語なんか使っているんだ、と思わず心の中で舌打ちをする。
「今日ね、お豆腐を買う時にビニールの袋に入れたんだけど、穴が開いてるよって夏彦さんが教えてくれたから二重にしたの。二枚も袋を持って帰って注意されないかしらって恐々。そしたらね、バーコードがお豆腐を読み取らなかったのよ。本当にどきどきしちゃった。それで、ばれたらどうしようって思いながら夏彦さんを見たら肩が笑ってるの。注意される訳ないって知っていて私を騙したのよ。まったくひどい人よね。笑っちゃったわ」
夏彦と陽子はその時を思い出していたのか、笑い合った。
こいつら、本気で同じ思考の持ち主なのか、と涼は呆れた。朗らかな二人の姿を見て苛立ち、いてもたってもいられなくなってトイレに立った。涼は、もしも自分がこれ以上居心地悪くなったらすぐにでも帰ってやる、俺を見て少しはでれでれする事に反省をしろ、いい年しやがって、と心の中で悪態をついた。それでも涼が気にしていた近所づきあいは誤解を受ける事もなく、丁寧にこなしているようなので、そこだけは安心できた。

夕飯は庭で採れた野菜の盛大なサラダ、高野豆腐と豆とひじきの煮付け、茹で海老、カリカリに焼いたにんにくのスライスと山わさびを載せた、まぐろのステーキなどが食卓に並んだ。涼はうまそうな匂いに思わず腹が鳴るのを隠せない。
「どうぞ」
陽子がにこやかに冷たいビールと共に勧める。夏彦と一緒だと陽子から緊張感は伝わってこなかった。
「どうも・・・」
まろやかなデザインのすりガラスで作られたグラスに陽子はビールを注いだ。同じく、夏彦の分も。夏彦は陽子にも同じように注ぐ。陽子は両手でグラスを持ち上げ、嬉しそうに「ありがとう」と礼を言った。
「じゃ、久しぶりに家族が揃ったって事で、乾杯」
夏彦がグラスを掲げる。陽子がそれに続いて「乾杯」と言い、涼のグラスにかちん、とぶつけたので、涼も仕方なく会釈だけした。
しかし、暑い日の夕暮れ時、美味しい食事が並ぶ中でのビールは格別だった。
「うまいっ」
思わず口に出した涼は、はっとしたが、二人は勿論そんな事を気にかけてはいない。
「本当においしい。どうぞ、お料理もたくさん食べてね」
陽子は取り皿をかちゃかちゃと夏彦と涼の前に置いた。
グラスはすぐに汗をかき、薄い麻布でできたコースターに染み込んで行く。茶の間の大きな窓ガラスは全開にしていたが、外からの風はなく、扇風機の風でレースカーテンが揺れていた。夏の湿気で木の香りがいつにも増して強く感じる。

この家は夏彦が三十代の頃に建てたのだと言う。古さは目立っていたが、そこをうまく利用していた。和室には洋風なドレスを纏う球体関節人形が飾ってあり、ロッキング・チェアが置いてあった。その上に華奢で鮮やかな色の布がかけてあり、無国籍な印象になっていた。洋室には敢えて古い木材の家具を配置し、どの部屋にも白檀が香り、和洋折衷で独特の美しさがあった。時折入ってくる風は心地良く、庭の緑が目に鮮やかだった。田舎の風景だ、と涼は思う。

料理は絶品だった。
「どこかで習っていたんですか?」
まだ敬語を使い、陽子に話しかけてみた。
「いいえ、すべて自己流よ。それから母に教わったもの。お口に合って良かった」
陽子も変わらず、友達口調で話した。
結局、涼は緊張も手伝い、五杯もビールを飲んでしまい、今は座布団を枕にして茶の間の隅っこに横になっていた。仕事の疲れもあったので、すぐに酔いが回ってしまったのだ。涼の体には陽子がかけてくれたブランケットがかかっていた。
しかし、完全に寝ている訳ではなく、時折ちらちらと薄目を開けては二人の様子を窺っていた。陽子は空いた食器を台所に片付け、鼻歌を歌いながら台所に運び、夏彦はテレビに目をやっていた。
「陽子さん、ビールもう一杯持って来てくれる?」
「はーい」
ようこさん!?涼はまたしても驚愕する。『さん』付けかよ!陽子が夏彦にそう言うのなら判るが、年下の女房に『さん』を付けるなんて。涼はまた不条理だと思う気持ちに支配された。
しばらくして洗い物を終えた陽子が髪を解き、夏彦の隣に腰を下ろした。
「お疲れさん。陽子さんも一杯やろう」
「うん。喜んで」

二人は仲良くビールを飲みながらテレビに目を向けていた。クイズ番組らしく、二人で答えを言い合っては「当たった」だの「違った」だのと、子どものようにはしゃいでいる。
夏彦は確かに、身なりはきちんとしていた。今は靴下こそ脱いではいるものの、シャツは胸を少し開ける程度でだらだらしていなかったし、年齢の割には程良い腰周りを保ち、肉が腹の上に乗るような事もなかった。白髪ではあったが、白というより銀色に見まごうほどに、輝いていた。息子ながら外国人のようだ、と時折思う。まあ、年寄りにしてはハンサムな部類に入るだろう。しかし、だからと言って陽子のような若い女性が夏彦と一緒になる理由としては足りないと思う気持ちは変わらないのだが。
何しろ相手は還暦を過ぎていて、いつどんな事が起こるのかもわからない。陽子は、ゆくゆくは訪れるであろう夏彦の死を考えた事があるのだろうか?受け止める事ができるのか?世話をきちんとできるのか?涼は不安に思う。
そして夜は更け、そのまま二階にあるかつての自分の部屋に泊まった。

次の日の朝、涼は不思議な気持ちで目を覚ました。
思わずきょろきょろとあたりを見渡すと、夕べは気づかなかったが、とても片付いている。涼が出てからは客間としてでも使用しているのだろうか。
茶褐色をした艶のある木目の階段は歩くと、ぎしぎし音を立てるのは変わらないが、障子は真新しく貼り返られており、すっと開くと、六畳の和室があり、その上に布団を敷いている。
そこが涼の部屋だった。幼い頃、涼はこの部屋が嫌で、早く一人暮らしがしたかった。実家というものを感じさせない、自分自身の住む部屋が欲しかった。この家を出る事にいくつか理由はあったが、古臭いと言うのもあった。
しかし、今は行き届いていてレトロな雰囲気さえ漂う。涼がいた頃にはなかった白木で縁取られた大きな姿見や、すぐ傍に同素材で作られた見た事のない小さなテーブルとベンチ椅子があった。陽子が持ち込んだ花嫁道具だろうか。壁は真っ白に掃除され、大きな窓ガラスも磨き抜かれている。テーブルの上には庭の花が小さく活けてあリ、夏の匂いがそこにあった。涼は布団を出て、窓を開けてみた。
下を見ると洗濯物を干す陽子の姿があり、その横には夏彦がいて何やら話しかけていて二人で、ははは、と声を出して笑っていた。本当によく笑う二人だ。
何となく面白くなくて涼はすぐに窓を閉めた。もう帰ろう、しばらく来ないぞ、と心に決めた。

「おはよう」
陽子が明るく挨拶し、涼はただ会釈した。
「朝ご飯、できてるわよ」
台所では既に味噌汁の匂いが漂っている。
「料理も上手いんですね」
「あら、ありがとう」
陽子は涼の言い方が気にかかったのか、ちらと振り返ったがすぐに鍋に視線を戻した。
暇(いとま)の挨拶をしようと思った矢先だったのだが、帰ると言い出せなくなり、その上、夏彦が追い打ちをかけるような提案をして来た。
「二人とも、夕方、花火しよう。買ってきた」
「あら!いいわね」
子どもかよ、と思ったが、きちんと断る事もできず、曖昧なままで夕方を待つ事にした。いくら二人に対して素直になれない涼でも、これほど機嫌を良くしている人間の気分を害すような行動を起こす勇気はない。

朝食はシンプルだった。
豆腐とわかめと玉ねぎの味噌汁、焼き鮭、玉子焼き、えのき茸の酢の物、白菜のお浸し、そして白いご飯。夏彦は昔から白いご飯が大好きで、夏彦の茶碗は小さなボウルと同じくらいの大きさをしていた。陽子の作ったあっさりした献立はすっきりと腹に収まリ、夏彦は満足して「ご馳走様」と言っていつもの仕草で手を合わせた。
涼は相変わらず会釈するのみで、まだどうやって断ろうか、と考えていた。

夏彦は花火のために昼前に早々と風呂を済ませ、灰色のシャツに少しだけ色褪せたジーンズを履き、髪を乾かそうとしていた。
「涼、お前もひとっ風呂浴びて来い」
「うん」
さすがに真夏の暑さでべったりと汗をかいた体は気持ち悪かった。夏彦がドライヤーをかけ始めたので、涼も風呂に行こうと、バスタオルを用意した。
風呂に続く廊下からは台所が見え、そこに洗い物をする陽子がいて、涼を見つけた。
「ごゆっくりー」
陽子の言葉に涼は思わず足を止めた。
振り返ると、陽子は涼が振り返ったのも気づかず、鼻歌を歌いながら洗い物を続けている。涼は上から下まで陽子をじっと見る。

黒髪を一つに結び、薄い一部袖のブラウスにタータンチェックのふんわりした膝までのスカートを身に着けていた。いかにも新妻らしい格好に見える。涼は陽子の背後に近づき、話しかけた。
「いくつか聞いていいですか」
「うわ、びっくりした!もうお風呂に行ったのかと思った。何?」
「親父とあっちの方ってどうなってるんですか?」
涼自身も自分の質問に驚いた。なぜこんな事を訊いているのだろうと思った。
「あっちの方?」
「夜の方です」
「あら・・・。聞くの?無粋な人ね。性の関係はないわ。でも抱きしめ方が上手よ。とても素敵なの」
陽子は目を逸らしながらも、淡々と、どちらかと言うと元気に答えた。
「そうか、ないんだ。俺、ずっとあなたと父の関係について懐疑的なんです。正直今も。まさか保険金狙いとかじゃないですよね」
陽子は水を止め、布巾で手を拭いながら涼の方に向き直った。
「違うわよ」
ぶしつけな質問にさすがに陽子も少しきつい目を向けた。
「もしも保険金目当てだったらもっと慎重になるでしょう。私みたいな性格では無理だと思うわね」
「でも決定打があった訳でしょう。結婚しようって思う事の」
「そうね・・・」
陽子は顎に手を添えて考える。
「この先、どんな事があっても私の名前を忘れないって言ってくれたのが大きいかな。恋人同士として、友人として、それから、細胞レベルでって。指切りして約束してくれたの」
その言葉に涼は思わず口をつぐむ。バカじゃねえの?ままごとかよ、と思った。
「でも、爺さんだぜ?若い男でもそれくらいの約束してくれる奴、いるんじゃない?」
涼の言葉は明らかに言いがかりだった。バカにしている。陽子もむっとする。
「爺さん爺さんって言うけど、夏彦さんは紳士よ。ううん、姿だけで言っているんじゃない。時にはステテコでその辺をうろつく事だってあるけど、あの人の優しさは変わらない。ご近所に挨拶を欠かさないし、悪口も決して口にしないわ。その一言と指切りという行動がたまらなく嬉しかったのよ」
勿論、そんな事は判っていた。判っていながらも言葉を投げかけてしまう。
「恋に落ちるのに年齢は関係ないって事?」
「そういう事ね」
陽子は顔を少しだけ引きつらせながらも努めて笑顔で返したが、涼は口の奥で笑った。
「・・・なにが可笑しいの?」
「そこら辺の高校生の言ってる事と同じですよ、それ」
「だからなに?涼くん、さっきから何が言いたいの?」
「これから母親面するつもりですか?」
「まさか。今さら私をお母さんだなんて呼べないでしょう」
「まあね。ああ、俺の母親、料理上手でしたよ。親父もそこに惚れていたんだろうね。あなたに母親の面影を見たのかな」
「そう、素敵な奥様だったのね」
「妬かないの?」
「前の奥様の話でしょう?その時はまだ私、夏彦さんと出会ってないもの。人の恋愛に足を突っ込むのはやってはいけない事だと思ってるわ」
陽子は『いい子』だ。しかし、そこがまた涼を苛立たせる。
「でも、外見がどんな人だったのかは、少しだけ気になるかな」
否定の言葉が陽子の口から出た時、涼は一瞬、歪んだ希望を持った。しかし陽子は無理して笑顔を作った。そんな態度を取られれば取られるほど、涼はますます意地悪な気持ちになる。
「美人でしたよ。近所でも評判だったらしいです」
「・・・そう」
さすがに気分を害しただろう。涼は俯いた陽子を凝視した。しかし、陽子はすぐに視線を上げて涼をまっすぐ見つめた。
「気が済んだ?他に言いたい事は?なかったら早くお風呂に行ってらっしゃい」

陽子の言葉に涼は頭に血が上った。どうしようもなく暴力的な衝動に駆られ、陽子の腕を強く掴んだ。
「痛っ!」
「こんな時まで澄ましてるのかよ。どんなにいい子ぶったって、親父はどうせあんたより先に逝くんだぜ?」
陽子は掴まれた手を必死で振りほどこうとしていて、眉間に皺が寄り、その顔は涼には見せた事のない怒りの表情だった。
「父親に向かってそんな事言ってはだめよ。夏彦さんはあなたの悪口を絶対に言わないわ」
「俺は親父と違う!あんたを見てると苛々するんだよ!」
涼は声を荒げた。陽子は真っ赤な顔で歯を食いしばって手の痛さに耐えていた。どうしてこんな時まで親父の事を庇うんだ。なぜ俺を罵倒しないんだ。涼はたまらずに陽子の頬を殴った。陽子は小さく悲鳴を上げた。
しかし、次の瞬間、涼はなぜか唐突に陽子の唇を塞いだ。
陽子は驚いて身を硬くした。涼も思いがけない自分の行動に驚き、すぐに唇を離したが、陽子は「いやいや」をするように顔を左右に振リ、その仕草もまた子どものように見えて苛立ち、また涼の気持ちが荒ぶった。声を出さないでいる陽子の心中は判っていた。夏彦に気づかれたくないのだ。そんな陽子を台所に押し付け、涼は自分の足で陽子の足の間に割って入った。露になった太ももの筋肉は美しく均整が取れていて、若さそのものだった。
この体に何もしないなんて。陽子も抱擁以外何も望まないなんて。親父もこの女もバカだ。涼は心の中で毒づいた。
まだ夏彦のドライヤーの音が遠くの部屋から聞こえている。
激しく取っ組み合い、陽子の髪が崩れて、さらりと肩に広がると、不意にシャンプーの香りがした。その残り香は、涼と同じものだった。
思わず、涼の手がひるんだ一瞬の隙を突いて、陽子は涼の頭を、ばしん、とぶった。
それと時を同じくして、ドライヤーの音も止まった。

その場に静寂ができて、涼と陽子の体にやっと距離が空いた。二人とも、息が上がり、口を聞けなかった。しかし陽子は澄んだ目で涼をじっと見ていた。涼は陽子のその目を見た途端、涙が溢れた。何て思いがけない事が続くのだろうと涼は思いながら、見ないでくれ、と陽子に懇願した。そのまま冷蔵庫に、どん、とぶつかり、ずるずると床に崩れ落ちながら両手で顔を覆った。陽子は涼の涙に動揺したが、深呼吸をして体中の力が抜けたようにその場にうなだれる涼のすぐそばに屈み、その指先で涼の涙を拭おうとした。
「いいよ」
ぶっきらぼうに陽子の指を振り払う涼の手には、先ほどのような力はなく弱々しかった。
陽子を振り払った事で、涼の気持ちはみるみる内に冷静さを取り戻し、さざ波のように穏やかになっていたが、同時に顔から火を噴くような恥ずかしさが襲い、情けなくて顔を上げられずにいた。
あんなふうに苛立った事と陽子に欲情した事は、それぞれ独立した気持ちではなかった。何だか判らない内に、父親が男になり、父親でなくなるような焦り、そして突然家に来た陽子の存在によって、自分自身が記憶から消されるのではないか、という不安にずっと怯えていた。
憎悪と欲望は表裏一体をなす。
本当は自分こそが、顔も憶えていない母親の面影らしきものを陽子に見て、わがままを言いたくなっただけなのかも知れないのに。陽子なら、八つ当たりしても受け止めてくれる気がしていただけだった。ただのガキの甘えだと心の中で嘆きながら、涼はいつまでも止まらない涙を袖で拭いながらひたすら恥じる。
陽子は服と髪を整え、新ためて涼の前に屈む。
「涼くんがたった今、私にした事は暴力的だったけれど、一度はぶつからなくてはいけないと思ってた。涼くんの視線、私いつも怖かったわ」
涼は陽子の顔を見る。今まで見た事のない表情をしていた。多分、夏彦には見せているであろう、飾らない、しかし笑みもない顔。先ほどのような怒りは、もう見えなかった。真剣に涼を見据えるその表情は、夏彦とぶつかり合ったリ、笑って許し合ったりする時の表情なのだろうか。
「俺もそうです。あなたが怖かった」
「急には仲良くなれないよね」
陽子の言葉に涼は目を伏せて頷いた。
別に義理の親子になったからって、仲良くなんてならなくたって良いのに、敢えて陽子はその言葉を使う。もう出会ってしまった。すべては始まってしまったのだ。二人の確執は二人が何とかしなくてはならないのだ。

ふと、茶の間から音楽が聴こえてきた。
「あ、夏彦さん、レコードかけてる」
柔らかなピアノの音色に耳を傾けると同時に、呑気なものだ、と涼は思ったが、あんな嵐のような状況の中、陽子が必死に隠そうとしていた行動に効き目があったようで、そのレコードの音に本音では安心していた。
「親父が若い頃から聴いてる曲なんだ。知ってた?」
「知らなかった。大好きなのね」
「うん」
二人は同時に沈黙した。
「ねえ、腫れてる?」
「え?」
「ほっぺた」
あまりにも普通の調子で陽子が言うので、涼は一瞬、何を言われたのか判らなかった。しかし、はっとして、すぐに陽子の頬の様子を見た。片方の頬がほんのりと赤くなっている。
「・・・ほとんどわからないよ。傷もないし。ちょっと赤いけど冷やしたら目立たなくなるかも・・・」
涼は小さな声で言いながら、熱を持った陽子の頬に、ほんの少し触れた。
「じゃ、冷やす」
「うん」
涼は、思いついてすぐさま冷凍庫を開け、氷をいくつかビニール袋に入れた。更に上からタオルを巻き、陽子に渡した。
「それじゃ、お風呂に行って来て。お互いに気持ちを整えましょう。さっきの事は秘密。知らない方がいい事ってあるわよね」
涼は黙って頷き、先ほどの荒々しい想いは既に遥か遠くに去った、と感じる。
「ごめんなさい」
涼は一言だけ言って、陽子に頭を下げた。
「うん」
陽子もまた静かに頷いた。
その姿を一瞥して涼は風呂場へ向かった。

その場に残された陽子は涼が手渡した氷の袋が入ったタオルを頬に乗せた。痺れていて感覚が鈍っていたが、きっと後から痛みがやってくるだろう。
風呂場から水音が聞こえ、茶の間からの音楽と混ざり合った。その音を聴きながら少しだけ陽子は放心したように、ゆっくりとため息をついた。

「陽子さん」
不意に夏彦が呼んだ。
「あ、はい」
「忙しいかい?アイスコーヒーでも飲まないかい?」
「ええ、そうね」
陽子は鏡で一度顔を見て頬を隠すように前髪を撫でつけ、夏彦の許へと走った。
もうすぐ暮れかける陽の中で、レコードを持つ夏彦の穏やかな横顔が逆光で輝いて見えた。陽子は泣き出しそうになる。泣いてもいいだろうか、と考える。
「夏彦さん」
夏彦は、ゆっくりと陽子の顔を見る。陽子は夏彦の腕の中へとそっと体を滑り込ませる。
「どうしたの?」
「甘えてるの。夫婦だもの」
「そうだね。存分に甘えなさい」
夏彦は陽子をそっと抱き寄せる。陽子の頬が火照り出し、ずきずきと痛み出すのを感じた。けれど裏腹に陽子の髪をそっと梳くように撫でる夏彦の指が心地良い。
夏彦の指がふと止まった。
「どうしたの、頬が腫れてるよ」
陽子はびくっと体が動いた。
「あ、・・・さっき冷蔵庫のドアにぶつけたの。ドジだわ」
「危ないなあ。気をつけるんだよ」
咄嗟に出た嘘の理由を夏彦は信用したようだった。夏彦は優しく頬を撫でる。
「はい。今度から気をつける。心配かけてごめんなさい」
「でも今度がないようにしなくちゃ、陽子さん」
「そうね。夏彦さん、約束しましょう。指切り」
陽子と夏彦は微笑み合う。いとおしむようにゆっくりと絡まる小指と小指。
涼は二人をそっと覗いて見ていた。幾度か見たその光景を、涼は額縁に入った絵画のように頭の中に刻みつけたいと思った。なぜだか。

花火に適した天気のまま、陽は暮れた。
夏彦がトイレに立った時、涼が陽子に話しかけた。陽子は線香花火についたセロハンテープをはがしていたので、顔は涼の方を向かなかった。
「あのさ」
「なに?」
「俺、さっき母親の事、美人だとか言ったけど、あれ嘘だから。料理上手とか言ったのも」
「そんな事気にしてないわよ」
「本当は憶えてないんだ。まだ物心もつく前の出来事だったから」
「そう」
「正直、あなたがいてくれて良かったと今は思ってる。年を取った親父がこの先一人だったらって考えたら、文句は言えないし。一応ありがとうって言っておく」
陽子は頷き、また涼の目をまっすぐに見て言葉を受け止める。
「・・・後さ、俺、今あなたと親父の事をあんまり素直に見られないんだけど、自分のせいだから。さっきあなたにあんな事したから罰が当たってるんだと思うんだ。俺、あなたに頭をぶたれなかったらどうしていいのか判らなかった。俺が一番子どもだ。最低だな」
涼は自分で自分の言葉を聞く内に本当に情けなくなってきた。
陽子は労わるように、しかし思いがけない力で強く涼の肩を抱き寄せ、語気を強める。
「そんな事思わなくていいの。そんな言葉であなた自身を悪い方向に追い込まないで。大人だとか子どもだとかは理由にならない。そしてもちろんあなたのせいでもない。だから罰なんて当たらない。それに、私達だって決して時間は長くないのよ。急いでいる訳ではないけれど、悲しい思考で時間の無駄遣いはしたくない」
そう言って、陽子は涼の肩から手を放し、屈んで線香花火に火をつけた。

本音を言い合って、心は少しでも近づけただろうか。すべては判り合えなくても、昼までは確実に存在していたぎこちなさが今の二人にはなかった。
言葉は花火のように儚くて、この先の事なんて、決して誰にも判らない。

陽子の線香花火が燃え尽きた。火薬の残らないそれは土の上に落ちる事なく、一瞬明るい炎になり、淡く消えていった。
「あ、すごい。最後までできた!」
涼と陽子は思わず顔を見合わせ、微笑んでいた。戻ってきた夏彦にも、もちろん陽子は報告に行く。

愛しているから、一緒にいたいと思う。それがどんなに陳腐だと言われようが、真実だと思う。その人がたとえこの先、どれほど大きな病に犯されようと、最期まで面倒を見る。そう決意する事のどこがおかしいのだろう、と、陽子は思う。誓いのための約束がたまたま結婚という形だった。
それだけでも陽子は嬉しかったのに、夏彦は指切りまでしてくれたのだから。それこそ、いい年をした大人が。



その後。

実家に遊びに来た涼は、陽子が柔らかい陽射しの中で夏彦の向かいに座り、洗濯物を畳んでいる姿を見るとはなく見ている。
二人とも、相変わらず他愛無い話をしては笑っていた。笑いの共通する箇所は本当に同じらしい。笑いながら器用に指を動かし、散らばった布地を次々と整え、自分の隣に積み上げてゆく。
その細い指先を見て、涼はふと自分の手を見た。
もう遠い日の記憶になろうとしているが、陽子は手という器官を指切りという人肌の温もりに使い、自分は殴るという暴力に使った事を思うと苦い気持ちになる。

同じ手であるはずなのに、と、涼は自分の手の甲を見る度に、じんじんとしたあの日の痛みを思い出す。陽子の赤くなった頬を思い出す。その手を握り締め、思いがけない強さを持っていた自分の力を新ためて戒める。
あの日の自分はもう既に子どもではなく、自分の手が人を傷つける凶器になるなんて思いもせず、痛みを与えてしまう事すら知らなかった。その事を涼は深く悔やむ。
決して忘れてはいけないと思う。
あんなに感情に溺れ、理性を失い、人を殴ったなんて、成人して始めての経験だったのだ。



《 クラシック 了 》




゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜



【 作者コメント 】



ほぼ病み上がりみたいな書き始めでした(笑)
けれど、今読むと割とヒロインがしっかりしていて、
物語を進めていてくれました。ありがたい。
未だ、読み返すとむせ返るような暑さだった今夏を思い出します。
先に書いた、ヒロインの「しっかりさ」とけんか腰になる相手とのやり取りのために、
頭がぼーっとするような「夏」の暑さは必要でした。
しゃきっとする「秋」と対をなす形で。
おかげで今読み返したところ、
季節の香りを閉じ込められて良かったな、と思います。
未来のための大切な思い出になりました。

この作品を選んで下さった方、心からどうもありがとうございます。
その方のためにもこの作品の悪口を私はもう書かない!(笑)
お気に召してくださるのは書いたものにとって望みであり、励みになります。
正直、こういう機会がなければ少し拗ねています。(ぶっちゃけー!)

選出してくださった方の「目」を想像しつつ、受け止め、
心から、感謝の意を表したいと思います。



『L'oiseau Blue』

 幸坂かゆり


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