Mistery Circle

2017-10

《 MAY AFAIR 》 - 2012.07.12 Thu

《 MAY AFAIR 》

 著者:ココット固いの助







《銃と雨と鉄の蝶》

「名前バンジー。だけどジャンプは関係ない。僕の国に、それは、ない」

バンジーは初めて出会う人に必ずそんな風に話した。

名前とバンジージャンプの因果関係について説明するのが面倒だからだ。

バンジーは今日初めて会った彼女にも、そう答えて笑った。

以前仲間に誘われて行ったパブのフィリピーナも魅力した微笑みだった。

初めて彼女を見た時に彼は自分の左の二の腕に彫られた刺青を見た。

褐色の肌に蒼黒いインクで描かれた、大きな蛇に巻きつかれた女性。

彼女は刺青の女に面影が似ていた。

「親からの手紙はきちんと読むもんだぞ」

朝の、いつもの、変わらない職場と副工場長の口癖。

副工場はとてもいい人だ。

面倒見がよく道端の小さな道祖神の石像みたいに、いつもニコニコ笑っている。

工場の社員にもバンジーのような外国人の季節労働者にも気安く声をかける。

副工場長の事を悪く言う人間はいない。けれどカバは嫌われていた。

カバというあだ名の工場長は副工場長より年が二周りほど若いのだが何故か副工場長よりも役職が上だ。

バンジーの故郷では年配者であればある程敬われ立場も上になる。

バンジーには何故カバがこの職場で一番偉いのか分からない。

しかし、それは故郷の島を出てアメリカに渡り度々目にして来た光景でもあった。

工場長は朝の朝礼で皆にハッパをかけて大きな腹を揺すり先頭に立って体操をする。

そして1日の仕事を終えたかのように、満足気に大きな尻を振りながら事務所に消えて行く。

それ以外バンジーは顔を合わせる事はないし彼が嫌われる理由も分からなかった。

最近では仕事にも慣れた。

たとえ工場長の姿を見かけなくても彼が工場内に来た事はすぐに分かる。

バンジー達が働いているラインのスピードが少しだけ早くなるのだ。

「カバがラインのスピードを上げやがった」

と誰かが舌打ちするのをバンジーはこれまで幾度となく耳にした。

バンジーはいつも通り自分の持ち場のラインに入る。

停止した稼働前のベルトコンベアには牛の胃袋を思わせる、鋳造されたトラックのエンジンの鋳型が乗っている。

赤い砂煙の大地に立つ王朝の遺跡郡。

それぞれ異なる寺院の仏塔が折り重なるシルエット。

バンジーは思い出す。

砂を固めて作られたエンジンのラジエタ-の波溝は、13世紀モンゴル人の侵攻を受けて滅びた島の平原に眠る遺跡に刻まれた紋様に似ていた。

バンジーは手早くそれを両手で持ち上げ、斜めのボード上に置く。鋳型は既に冷えていた。


四角いアルミの缶に入った砂で固めた棒をデップと呼ばれる鋳型の側面の穴に差し込み、鑢で切り落とす。

1つ1つ丁寧に。全部で四つの穴を埋め凸が少しでもあれば表面をサンドペーパーで削る。

ベルトに乗った鋳型を三つ程仕上げた頃にラインがようやく動き出す。

後は昼休みまで同じ作業の繰り返しである。

バンジーはこの仕事が気に入っていた。

何も考えなくても時間は進む。

気がつけば昼休みで夕方になれば家に帰れる。

真面目に働いていれば月末には以前の仕事の2倍近い給料が入るし休まなければ皆勤手当ても出る。

仕事にも慣れたし他の外国人と日本人の間に立つような煩わしさもない。

不満は何もなかった。

危険防止のヘルメットと防塵用のマスクと作業着に軍手、足には安全靴。すぐ近くでは砂を溶かす灼熱の溶鉱炉は夕方の太陽のように燃えている。

薄いトタン屋根とモルタルの外壁と鉄骨で作られた工場。

気温が上がり始める今の季節から地獄だと皆が言う。

確かに広すぎて伽藍のような空間にエアコンを設置しても大した効果は望めない。

目に見えない砂塵は空気中を漂い足元にも作業台にも知らぬ間に粒砂は積もる。

常に鋳造された鋳型に残った砂を誰かがエアーで吹き払うからだ。

盛夏になると工場内の気温は50℃を越える。

バンジーの故郷の島と同じだ。

5月になると雨季がやって来て気温は30℃を軽く越える。

雨季は10月まで続く。

島全体が季節風と高気圧のカ-テンに包まれるからだ。

けれど、ここは湿気が無く、むしろ彼には快適に思えた。

頭がのぼせないよう風を送る蛇腹状のスポット送風機もある。

工場の稼働音はコンベアの流れる音と砂を吹き払うエアーの音、ラインの終着点で鋼の網に複数の鋳型が詰め込まれワイヤーで天井から吊るされて何処かに運ばれて行く時の滑車が軋む音。

音と熱と砂とで工場内は満たされていた。

昼休みの作業終了のサイレンが鳴ると工場の機械は全て稼働を停止する。

工場内の電源は一端全て落とされるため周囲は薄暗くなり静寂が訪れる。

葢を閉められる前の溶鉱炉だけが赤光を放ち周囲を照らしている。

バンジーはヘルメットと防塵マスクを脱いで作業台に置くと屋外にある社員食堂に向かう。

構内ではヘルメットの着用は義務づけられているがカバにさえ見つからなければ誰も文句は言わなかった。

工場と違い社員食堂は常に人の話声に満ちていた。

社員もアルバイトも期間工員も同じ作業服を来ているので見分けはつかない。

肌の色が違うバンジーたち外国人労働者も皆彼らと同じテーブルについて食事や談笑する姿が、ここでは見慣れた風景だ。

バンジーは食事を手早く済ませると、また工場内の自分の持ち場に戻る。

バンジーが所属している第3鋳造班のバラックの休憩所は工場の入り口付近にあって食後は皆そこに集まって午後の作業開始までタモリさんの出てるテレビを見たり自販機で買った飲み物を飲んだりして過す。

別にそこが居づらい訳ではなかった。

何か煩わしい事がある訳ではない。

ただ1年近く働いていると話す事もあまりなく。そこに誰が居ても居なくても関係ないのだ。

バンジーたち期間工員の給料は高校や中学から入った社員よりずっといい。

だから上の人間の目を盗んで声をかけられる。

「今度いいとこ知ってるから行こうぜ」

と酒や風俗に誘う社員もいる。

勿論たかり目的でだ。

特にチビで痩せた木下という若い社員は頻繁にバンジーを誘うので困る。

目玉ばかり大きくてヘルメットが学童の帽子みたいなこの男は見たまま皆から目玉とか蛙などと呼ばれていた。

他の外国人労働者から、よくない話も聞かされていたのでバンジーは、あまり若い社員達とは関わりになりたくなかった。

声をかけられたら愛想良くしたし仕事は勤勉に勤めていたので特に問題はなかった。

その木下でさえ工場長や副工場長と顔を合わせる休憩所ではそんな話はして来ない。

それよりバンジーは昼休み自分の持ち場で休むのが好きだった。

工場内には休む場所などない。バンジーはいつも電源を落としたベルトコンベアの上に仰向けになって休んだ。

薄暗い工場の中でラインの上に吊るされた黄色い電灯傘が薄闇にぼんやりと整然と浮かんでいるのを眺めるのが好きだった。

「白熱灯の電球は残り少なくてな、節電や明るさを考えたらLEDがいいんだけどな」

なんて誰かが話していた。

「工場は朝も夜中もフル稼働だから代えてる暇がないんだとさ」

バンジーは傘のついたこの逆さまのメルヘンのキノコみたいな電灯が好きだった。副工場長に。

「仕事をしてて何か不満や不備はないか?」

「フビ何?」

「変えて欲しい事とかないか、という意味だ」

バンジーは理解して「電灯変えるな」と言った。

言われた副工場長は当惑して「何故だ?」と聞いて来た。聞かれたバンジーも答えに困った。

「好きだから、です」

副工場長は少し考えてから。

「バンジーお前は風情が分かるやつだな」

そう言って笑った。

「フゼイ…何?」

「ム-ディってやつかな?」

副工場長は肩を竦めた。

バンジーには、さっぱり意味が分からない。

自分も副工場長も比較的穏やかな性格の人間であり気分屋とは無縁に思えたからだ。

仕事が終わると風呂に入る。

浴場は工場の西棟の更衣室に併設されており大浴場とは言えないまでも寮の風呂よりは大きかった。

薄暗い更衣室のロッカーが並ぶ部屋から、さらに暗い階段を降りて浴場に向かう。

外に出ると急に視界が明るくなる。

風呂は旧式のボイラーが今も現役で炊かれていて従業員なら何時でも好きな時に利用出来た。

浴場も脱衣場も天井がやたら高く昭和の銭湯のようだがバンジーは昭和の時代を知らなかった。

飲み物を販売するための冷蔵庫やよしみで貼られた映画や演劇のボスタ-やマッサージ機がないというだけで浴場は随分閑散として殺風景に見えた事だろう。

ただ1日の仕事を終えた労働者が体に染み着いた汚れを落とすだけの場所。

それでもバンジーは風呂に入るのが嫌いではなかった。

特に何か話す訳ではないが皆一緒に入浴する。

バンジーが国を出て最初に働いたラスベガスの職場では違っていた。

誰もそうだとは明確に言わないが白人が使う施設とバンジーのようなアジア系の人間が使える場所は分けられていた。

別にうっかりそこに立ち入る事があっても誰かの耳うちや舌打ちを聞いたら次からそこに行かなければいい。

ただ、それだけの話だ。

ラスベガスの街は美しい。

まるで幼い頃に宣教師に聞いたオズのエメラルドの都のようだ。

初めて街に着いた時は夜だった。

ライトアップされたホテルの夜景や噴水。

昼は居並ぶように高さを競い合うホテルのビル郡は静かに眠る遺跡を連想させた。

この街で働く人々は美しい、とバンジーは思う。

ダンサーやカジノで働く人々は皆が皆立派な身なりをして背筋を伸ばして彼の前を通り過ぎる。

公認された高級娼婦たちはモデルや役がつかないブロードウェイの舞台女優であったり、かけだしの映画女優であったりもした。

彼女たちはたった一晩でバンジーの半年分の給料を稼ぐのだと仕事仲間の1人が彼に教えてくれた。

バンジーは従兄弟の紹介で故郷の島を離れてラスベガスにやって来た。

華やかな夢のような暮らしを期待していた訳ではなかった。

バンジーが生まれる遥か前。島は英国領であった。

「今よりはその時代の方が良かった」

年寄りたちは口を揃えて言う。

元々は王朝が支配する単一民族であった。

ある日突然現れた侵略者たち。見たこともない巨大な鉄の軍艦に大砲にタ-ビンを積んだエンジン。

圧倒的な武力は月日も明けぬうちに、それまで何世紀も続いた王朝を滅ぼした。

太古の昔から島は周囲を峻険な山脈に囲まれ中央を流れる大河ナガ-は肥沃な国土を育んだ。

昔から水耕栽培が盛んで主食は日本人と同じ米。

識字率も高く固有の文化や信仰する土着の神々もいた。

豊かな土地を巡りかつては争いもあったが民族は王朝により統治された後平野や密林や山間部へと住み分け、国土は彼らが暮らすのに充分な自然の恵みをもたらした。

物々交換による交易も海外への産出品の輸出も当時は確立されていたと聞く。

英国軍は山間部に住む少数民族を住処から追い払うと他の民族に彼らだけを劣等民族として差別するように教えた。

密林に住む部族には銃を与え島の自警を命じた。

平野で暮らす部族は島に上陸した英国の属国であったインド人や華僑によって管理された。

それでも「その時代が最悪だったとは思わない」と老人たちは言う。

「紅茶だけは美味くなった」

やがて英国の占領時代が終わり暫定的内閣の樹立。

バンジーが国を出るまで続いた鎖国的社会主義政府は国民の暮らしを逼迫させた。

英国人から渡された銃により武装する事を覚えた密林の部族は政変を起こし軍事政権はこれを打倒し続けた。

軍事政権は民族間の交流と政府が定めた農作物以外の農業を禁止した。

民族間の交流には塞き。英国人が蒔いた憎しみの種が育ち。半世紀近く不当な差別を受けて来た山間部の少数民族…彼らは既に反政府勢力として政府を脅かす存在となり各地で闘争をくり広げた。

農作物の管理制限は国が進めるマリファナの生産と輸出を推進させるためである。

国際法の抵触に当たるとする国連の勧告を無視しづつけた結果、貿易の道も絶たれ国土は疲弊した。

外貨獲得のため…早い話出稼ぎに出るため。

バンジーのような若者が島を離れるのは必然的な事であった。

バンジーは今日本の地方都市にある自動車工場の風呂場のタイルの上を裸で歩いている。

元々白かったタイルは長年労働者の体から流れ落ちた薬品か油か分からない物で苔むしたような緑色に染まっていた。

丸くて深い浴槽の湯の底に溜まった藻色の緑。故郷の密林の水浴びした湧き出る泉の水底の流れに棚引く水草を思い出させる。

湯の熱さにも慣れた。

顔を上げると天井付近にある楠んでひび割れた磨りガラスの窓が目に入る。

まだ陽は高く浴場は明るかった。

ラスベガスで明確な人種差別を受けた記憶はバンジーにはない。

バンジ-が働いていたレストランはホテルの中にあった。

歴史や伝統や格式があるホテルではなかったようだ。

元々は巨体な骨つきのフライドチキンを露出の多い衣装を着た胸の大きなブロンドのロ-ラースケートを履いた娘が客の目の前まで運んで来てくれる。

極めて通俗的なレストラン・チェーンがラスベガスに進出したホテル。

「GMは嫌なやつだから気をつけろよ」

レストランに先乗りしていた従兄弟に言われた。

しかしディナーのラッシュが来る前に目の前に山のように積まれた骨付きの鶏肉を水道の水で洗い、ラッシュが始まればチップのように積まれた皿やシルバーが彼を待っていた。

GMの事など頭からすぐに消え失せてしまった。

評判の悪いというGMは最初から彼らのような人間に関心など持っていなかった。

関心があるとすれば、さぼらず無駄口をきかず仕事をしているか。それだけだった。

開店ともなれば料理を片手にロ-ラ-スケートで店内を駆け回る金髪の女の子たち。彼女たちは間違いなく店の看板でもあり主役と言ってもよかった。

時々仕事をしながら見とれてしまう事さえあった。

開店前にGMの前にずらりと整列した女の子たちはロ-ラスケートは履いていなかった。

ただテ-ブルの前に座ったGMの前で、彼女たちは代わる代わる皿に盛られた豆を食べていた。

手を使わず笑顔を絶やす事なく。

GMはその様子を満足気に眺めていた。

奇妙な光景だった。

ラスベガスにいた時に覚えているのはそれくらいだ。

従兄弟はバンジーに親切に丁寧に仕事を教えてくれた。

従兄弟が住むコンドミニアム風のアパートは外国人労働者ばかりがルームシェアして暮らしていた。

従兄弟はバンジーに「中国人や韓国人と親しくするのは別に構わんが。仕事は彼らに流されるな」

そう忠告した。

その理由は彼らと同じ洗い場で働いてみるとすぐに理解出来た。

彼らは仕事中鶏のようにのべつまくなし互いに顔を突き合わせ喋っていた。

手はその間止まったままなので従業員に度々注意を受けた。

その時だけは神妙にしているが従業員の姿が見えなくなると再び喋り始める。その繰り返しだった。

「洗い物が汚いぞ」とシルバーの入った籠を突き返されると母国語一辺倒で英語が分からないふりをした。

退勤15分前には仕事を止めタイムカ-ドの時計が退勤時間になるまで待った。

4日も5日も仕事に現れなくなり辞めたのかと思えば何事もなかったかのように職場に現れる。

彼らはすぐにクビになったり辞めたりしたが残っている中国人はすぐ仲間を呼ぶので顔が変わるだけで人数は一向に減らない。

従兄弟は職場では皆にバンジーと呼ばれていた。

ギータルリン…ではなく、彼はここではバンジーと呼ばれていた。

外国人労働者の中ではリ-ダ-的存在、ならば地元ではルーヂ-の名前が加えられてもおかしくない。

中国人や韓国人や黒人のグループが彼を自分たちのリ-ダ-と認めていたかどうかは問題ではなかった。

少なくとも施設の経営に関わり権限を持つ米国人の社員は彼をそ

のような位置付けと考えていた。

必要な指示は彼を通じて出されたし彼は英語も中国語も韓国語も使い分けた。

母国語ですっとぼける以前に外国人労働者は日常彼と話し仕事を覚えたのだから、ごまかしはきかない。

職場でクビの通達を行うのも彼の仕事だった。

幼い頃から彼は子供たちのリ-ダ的存在で皆彼を慕っていた。

陽気で面倒見がよくて後をついて行けばなんとかなる。

何か楽しい事が先に待っているような気にさせる。

昔故郷では子供たちが密林に入るのは固く禁止されていた。

密林の奥地には武装した部族や野盗や反政府ゲリラたちに出くわす危険があった。

大人たちでさえ他の地域に移動が制限されていた時代ギ-タル・
リンは村の子供たちを率いて密林に入った。

密林を抜け河を渡った先の平原にある遺跡群を目指す冒険だった。

整備された公道を通れば官警に見つかるおそれがあったからだ。村に戻った時大人たちの前で散々殴られたのは彼1人だけだった。

彼は自分が首謀者で他の子供たちを唆したのは自分だと大人たちの前に進み出たからだ。

殴られ膝をついた彼はいかにも哀れな姿に周囲の目には映った。でも彼は歯を食いしばり俯きながら笑っていた。

かんかんに怒って躍りを踊る大人を真っ直ぐに見ていた。まだ幼いバンジーと目が会った時の彼の表情を忘れない。

心に染み入るような笑顔だった。

あの遺跡に辿り着いた子供たちだけが知っている。

遺跡の石に密かに刻みつけられた勇気ある子供たちの名前を。

だからバンジーは彼に「ラスベガスに来ないか?」という内容の短い手紙が彼から届いた時それまで稼いだ金を旅券に替える決意をしたのだ。

誰もこの国では彼の名前をちゃんと発音しない。

覚える気すらないようだ。

bra sam kin newjack…様々な呼び名で呼ばれた。

全てが従兄弟とペア扱いだった。

それぐらい従兄弟にぴったりと張りついていたからだろう。

そのうちにJr.で統一し始めた矢先。従兄弟は彼に言った。

「俺はここを辞めてビジネスを始めたいんだ」

彼は自分と同じ外国人労働者に格安の値段で中古車を販売するビジネスのビジョンがあると彼に話した。

「アメリカには大量に俺たちみたいな外国人労働者がいる。それ以上に車も溢れている。景気がいい国には自然と外国人の労働者が集まるもんだ。景気がよくて物価が高い、中古車も安くない国に俺は行こうと思う。そこで金を稼いで外国人労働者に車を安く売るんだ」

従兄弟のビジョンは彼には素晴らしく素敵に思えた。

彼の社交性は故郷でもラスベガスでも抜きん出ている。

後は資金さえ調達出来れば彼は必ず成功するように思われた。

「もう少し資金をためなくちゃならんから。ニューヨークに出て暫く滞在する」

ニューヨークは物価が高いから早々に引き払うつもりらしい。
彼は連絡先を教えてくれた。

「お前は器用だし働き者だ。俺がやったようにやれば給料もすぐに上がる。中国人や韓国人には無理だ。やつらに手綱を渡すなよ」

子供の頃からそうするように従兄弟は彼の鼻先を軽く摘まんだ。

「直ぐ仕事を辞めてラスベガスを発ってもよかったんだが」

彼には彼なりに職場に愛着もあってのだろう。

学校を出た自分と同じ年下の若者が出稼ぎに島を出なくてはならない事情も彼は知っていた。

仕事の口利きのような事も彼はしていた。

「久しぶりにお前の顔も見たかったしな」

そう言って笑った。子供の時の笑顔そのままだった。

別に自分から望んだ訳ではないが従兄弟のように職場で働くうち彼の呼び名はバンジーになっていた。

元々雇う方に見分けがしっかりついていたのかどうかも疑わしい。

ヘマをして尊敬する従兄弟の名前を汚す訳には行かないという思いだけは常にあった。

だから毎日懸命に働いた。

「人が怠けていたら、お前は2倍働くんだ」

従兄弟にも父親にも昔言われた言葉だった。

バンジーの父親も母親も昔から熱心な仏教徒だった。

働けば働くほど職場でのバンジーの立場や待遇は向上した。しかしホテル自体の経営は悪化の一途を辿ったようだ。


インターネットの動画サイトに隠し撮りされた店のGMの女性従業員に対する傍若無人ぶりが掲載された。

女性保護団体が抗議のデモを起こしたり…ただでさえこのレストランチェーンは白人女性に毛嫌いされていたのだ。

有力な大企業が次々とラスベガスのホテル経営に乗りだす一方で美しい娼婦たちも街から姿を消した。

深刻な不景気というアメリカの世相も反映していた。

「なぜ自分の仕事が減って休みが増えたのか?」

と質問したが従業員は面倒くさそうに。

「新聞を読めば書いてある」と答えただけだった。

英語は随分話せるようになったし理解も出来るようになった。

けれどバンジーは英語で書かれた新聞は読む事が出来なかった。

他の外国人労働者が職場から次々姿を消しても自分はクビにならないのは、ありがたい事だった。

外国人労働者の仕事だった洗い場は白人の社員が兼任するようになった。

収入が減ってしまい故郷に送れるお金も僅かになった。

それでも国の母親からは短い文面でお礼の手紙は届いた。

働き始めて1年が過ぎた頃従兄弟からメールが届いた。

「今俺は東京にいる」

手紙は実に簡潔で、彼は今東京にいてビジネスの資金集めとネットワーク作りに専心している、との事だった。

『ラスベガスの店の状況はネットで調べて知っている。そこにいても埒があかねえなら東京に来ないか?こっちは家賃も物価も高いが稼ぎは悪かねえ…仕事も住むところもこっちで用意出来る』

成田空港に降り立つと従兄弟がタ-ミナルで手を降って迎えてくれた。

従兄弟は奇妙な髪型をしていたので「それは何だ?」と聞くと「デヴィッド・ベッカムだ」と答えた。

電車に乗って赤羽駅のホ-ムでおりて従兄弟の暮らすアパートに着いたのは夕方だった。

アパートに風呂はなくトイレは共同、外国人ばかりが暮らすアパートは家賃が2万5千円との事だった。

「お前ラスベガスで俺の後を継いでバンジーになったのか!?じゃあお前が辞めた後も第3第4のバンジーがいるかもなあ。いや…まてよ…俺に仕事教えたフィリピン人もバンジーだったか…まあそんな事はどうでもいい」

ビールと一緒に従兄弟が買って来た豆も白い燻製のイカも旨かった。

ビールはどこの国でもやはり苦くて好きになれなかった。



「ここが銭湯だ。日本人は皆一緒に風呂に入るんだ。但し女は別だ…そういう場所がいいなら大金が必要だぞ」

その夜ギ-タルリンに案内されて町内を散策とた。

しばらく見ない間に従兄弟はすっかり日本文化に溶け込んでいるようだ。

銭湯の横に人が1人れる位のボックスがある。

「それは簡易シャワーだ」

従弟が教えてくれた。

「1回100円で使える。経済的でいいが、もたもたしてると3分で止まっちまう。気をつけろ」

従兄弟が言うには日本人はとても清潔を好む人種だから、こちらも常に身綺麗にしていろと。

常に清潔。

それが日本で上手くやるヒケツだと。

特にバンジーが明日から従兄弟と働くレストランは50年近く続く伝統ある店、外国人労働者とは言え礼儀や清潔さが大切なのだ、と教えてくれた。

2万500円は死んだ大統領何ドル分で100円は何セントか考えていたバンジーは覚える事の多さに当惑した。

ボックスの扉が突然開いてパキスタン人とおぼしき長身の男が出て来た。

頭から気持ち良さ気に湯気が立っていた。

従兄弟は彼に挨拶した。

「お隣さんだ」

続いて、ずんぐりした女が顔を出した。3人、4人、5人目の男は壁に張りついていたせいか頭にシャンプーの泡が残っている。

「何人入れるの?」

「いや基本は1人だ…」

バンジーが住み始めて暫くはコインシャワーは設置されていたが治安と衛生士の問題とかで撤去されてしまった。

「あのパキスタン人たちは体を洗う場所を奪われ今どうしているのだろう」

風呂に入りシャワーを浴びる時バンジーはふと思い出す。

JR高田馬場駅のホ-ムの階段を降りて東口の改札を出る。

表通りにはアメリカでは見慣れないファ-ストフードの店や書店ビル、アイスクリームを売る店が軒を連ねる。

異国で初めて目にするものや見た事のあるものが混在する街、それが東京を訪れたバンジーの印象だった。

不安と安心の中で見る景色というのは異国を訪れた人間なら誰しも等しく感じるものなのだろうか。

当然日本人ばかり歩いているのが目につく。

見かける外国人の姿は少ない。

「こっちだ」

従兄弟に促されて歩く。駅の構内はデパートのように広いが人の数も多い。サンドイッチを売るデリカの前を通った時。

「立ち食いの焼きそばの方が安くてうまかったのに」
従兄弟が呟いた。

東口前の交差点から南へ大通りを真っ直ぐ300メートル程歩く。人通りも次第に少なくなり老舗の店舗や住宅街が視界に入るようになる。繁華街から少しだけ離れた場所に目指す店はあった。

創業以来使っている古い木の看板には漢字で店名が彫られていた。勿論バンジーには一文字も読む事が出来ない。

白いシャツ、グレーのベストに黒のスカートの制服姿の女性が2人レジの前に立っている。

店の入り口に飾られた額縁には高価な絵画ではなく創業当時から店で客用に作ったマッチの空箱。

モダンガ-ルとかビルの夜景、黒猫やワインのボトルやグラスが飾られていた。

「高そうな店だな」とバンジーは思った。レストランなのに少し入り難い雰囲気を店は醸し出していた。

暫く見とれていると従兄弟がバンジーに。

「従業員は裏から入るんだ」

そう言って先に歩き始めた。

店の施設は3棟。

二階建てのレストランと併設されたマンションの一室。

少し離れた場所に事務所があった。

マンションの一室は従業員のための休憩所。

調理場の扉を開けるとすぐ近くに鉄の階段があり2階にある2DKの部屋に続いている。

レストランの2階からなら扉を開けて目の前が休憩所だ。

男性従業員はそこで仕事着に着替え女性は事務所の中の更衣室で。休憩所で支配人が来るのを待つ間に従兄弟がバンジーに教えてくれた。

奥の道路側に面した部屋にはテレビがついたままになっていて画面には時代劇の映像が流れていた。

白いコックコ-トに黒いズボンの男達が6、7人畳の間で雑魚寝していた。

「黄門様はやっぱりこの爺さんに限るな」

1人だけ起きてテレビの前に寝そべる男が呟いた。

こちらを振り向く。

「なんだ小沢来てたのか?」

従兄弟の顔を見て言った。

バンジーはオザワという人が後ろにいるかと思っ振り向いたが誰もいなかった。

「宮内は…いねえのか!じゃギ-タルでいいやっと!」

立ち上がり髪を手櫛で直すと横にあった大きなコック帽を被り立ち上がった。

浅黒い顔に分厚い唇の中年男はバンジーの故郷の市場辺りに沢山いそうな雰囲気がした。

「痛!」

目の前に寝ている誰かの背中を踏みつけても構わず男はこちらに向かって歩いて来る。そこ俐で悲鳴が上がる。

「シェフの坂さん。キッチンのボスだ」

「お前がギ-タルの言ってた従兄弟か?働きものなんだってな」

目の前に立ったシェフは人懐こい顔で笑った。

「シェフの坂です。よろしく!」

「バンジー」

「バンジーってバンジージャンプのあれか?」

「違います」

従兄弟が言った。

「そうか、日本語は少しは出来るのか?」

「私がこれから教えます」

「そうか、しっかり面倒みてやるんだぞ」

従兄弟は頷いた。

「こいつ、頭いい。お金を家に送るために日本に来ました」

バンジーは従兄弟とシェフの会話は全く理解出来なかった。

しかし従兄弟の言葉にシェフの顔が少し緩んだ気がして安心した。

「ここは怠け者には辛い職場だが働くやつにはいい店だと伝えて来れ」

従兄弟はその通り。伝えた。

「ガンバリマス」

バンジーは従兄弟に習った日本語で答えた。

「ヨロシクオネガイシマス」

入り口の扉が開く音がしてカン高い声で「腹へった-」と騒ぐ男の声がした。シェフは舌打ちすると急に不機嫌そうな顔になると「じゃあ下で」と背中を向けた。

「ああ、それからギ-タル」

従兄弟が手にしていた自販機で買って缶コーヒ-を指差して言った。

「レストランで働いてんだからよ。コーヒーぐらい店で飲め。言ったら出してくれるからよ」

従兄弟はシェフの言葉に頷き缶をポケットにしまった。

「でも仕事前に貰いに行くのはダメだ」

バンジーに耳打ちした。

男性社員やアルバイトが着る黒服ではなく宮内は普通のスーツ姿で2人の前に現れた。

「従兄弟のバンジー」

どことなく従兄弟の笑顔がぎこちない。どうやら従兄弟は彼の事が苦手らしい。

「履歴書」

値踏みするように宮内はバンジーを見ると素っ気なく言った。

「履歴書持って来たか?」

従兄弟は万事そつなくアメ横で正月に買ったセカンドバッグから封筒を取りだした。

宮内はそれを受け止ると一度一瞥しただけでテ-ブルの上に置いた。

「住所と連絡先が分かればそれでいい」

年齢は坂シェフより5つくらい下だろうか。

細身で背が高く髪はきれいに刈りこまれていたが顔は浅黒くて脂ぎっていた。

他の人より随分揉み上げが長い人だとバンジーは印象を持った。薄いフレ-ムの眼鏡から覗く眼には独特の高圧さがあった。

「ラスベガスにいた時のGMに雰囲気が似た人」

初対面でそんな印象を持ったが後で従兄弟が。

「彼が店のGM…日本では支配人だ」

そう教えてくれた。

「宮内さんは評判悪い人。でも真面目に働いていれば問題ない、どこの国でも同じ」

「…バンジー、店の約束遅刻2回、無断欠勤は即クビUnder Stand?」

流暢な発音だった。

聞けば英国に留学の経験があるという。

社長と支配人の父親は昔から懇意の間柄で最初からこの店で働く事を前提に英国に留学したのだという話を後に聞いた。

シェフもこの店一筋で入社は同期らしい。

「シェフが顔黒いのはスキーが趣味だから。宮内さん元から、お腹は元々黒い」

仕事に慣れた頃従業員のおばちゃんが教えてくれた。

シェフのあだ名が長助で支配人のあだ名がルパンなのは最後まで意味が分からなかった。

ルパンぐらいは知っているつもりでいた。

食事用のテ-ブル横にある湯飲みが仕舞われた食器棚。

その上に置かれたプラスチック書類ケ-スの中から金属の菓子箱を取り出してバンジーの目の前に置いた。

箱の中身は名札だった。

中曽根 田中 福田に麻相…全てが漢字2文字か3文字で書かれていてバンジーには読む事が出来ない。

「好きなの選んでいいよ」

シンクから自分の箸を見つけると宮内は自分で飯をよそって食べ始めた。

バンジーが札を1つ取ると。

「今日から君阿相君ね」

箸でバンジーを指差して言った。

「小沢君、後で仕事着…辞めた毛だか陽のが奥にかかってるはずだから」

どうやらこの店では外国人は日本人の名前を名乗らなければいけないらしい。

内線が鳴った。

「んだよ」

宮内は箸を置いて電話に出た。

「くだらねえな」

奥で背中を向けているシェフの声がした。

外国人の客がここまでの道順を知りたいと電話があった…とレジからの内線だった。

やがて室内に電話で道案内をする宮内の流暢だがやや硬い英語を話す声が室内に響いた。

自分や従兄弟の話す英語とは随分感じが違うなとバンジーは思った。

「配膳会から来た者ですが」

小太りの中年男性が部屋に入って来た。

食事に水を差された宮内は不機嫌そうに。

「聞いてるよ、制服は?」

「用意してありますがフルタイムなんで、こちらでも何着かお借り出来たら幸いです」

宮内は唸ると彼を見て。

「なんだ太ってんのか!?制服あるかなあ」頭を掻いて、しかし自分で制服を探し始めた。

テ-ブルの上に置かれたままのバンジーの履歴書は誰かが溢した醤油のせいで黒い染みが浮き出していた。

挨拶はとても大切。

従兄弟の言葉を裏付けるかのように5時前に起き出して来た男たちは次々にバンジーに声をかけた。

とても人数が多くて覚えきれないが。バンジーと従兄弟は仕事着に着替えるとマンションを出て鉄の階段を音を立てて降りた。

「休憩ありがとうございました!!」

口々に威勢のいい声で調理場に入ると自分の持ち場に散って行く。

昼間の営業の後のアイドルタイムも店は営業していたがキッチンにはゴミ1つ落ちていなかった。

バンジーと従兄弟のギ-タルリンの職場は国が変わってもやっぱり洗浄機が熱い湯気を吐き出す洗い場で。

その風景は何故かバンジーを安心させた。

格式あるレストランで「自分は仕事が勤まるだろうか」という不安に苛まれたりもしたが。ここのキッチンにアマチュアのアルバイトは1人もいない。

難しい調理の仕事は彼らが全てこなすのだろう。

またシンクにためた皿や器をスポンジやタワシで擦り洗浄機に入れる。中身がたまって冷えた生ゴミの袋をゴミ庫に運ぶ。

そんな日々の始まりだった。

「新入りか?」

背の低い丸顔の髭反り後の濃い男がバンジーと従兄弟の前にやって来た。

「斎藤さん」

従兄弟が紹介してくれた。

「現場のボス」

「ボスじゃねえよ!シェフは坂さんでセカンドは網代だ。ちゃんと教えとけ、間違うと大変だぞ」

「でも現場のボス斎藤さん。みんな言ってる。斎藤さん良い人」

「本当に口ばっか上手になりやがってよう」

斎藤さんは相好を崩した。

「斎藤さん偉大。独身貴族。家にスケベ椅子ある」

「スケベイス、何?」

「てめえ、ギ-タル誰に聞いたか言いやがれ!」

斎藤さんにヘッドロックをかけられた従兄弟は嬉しそうに太股を叩いた。

さっきの宮内への態度と違い「本当にこの人が好きなんだ」とバンジーは思った。

斎藤さんと同じくらい背の低い青年を斎藤さんは手招きした。

呼ばれた男はカウンターに積み上げられた皿にテリ-ヌやサ-モンのオ-ドブルを盛り付けていた。

目尻が下がった顔は平素でも笑っているように見える。

「このでっちづらが谷だ。オ-ドバーやってるから洗い場に一番近い。わからねえ事や困った事はこいつに聞け。一番洗い場に近けえからよ」

「でっち面も…後で従兄弟に聞いて見よう」とバンジーは心の中で思った。

「…斎藤さん。ディナーミ-ティング始めますから」

長身の男が目の前を通り過ぎる。彫りの深い図鑑で見たモアイのような顔をしていた。斎藤さんより、ずっと若い。でも立場は斎藤さんより上だ。

バンジーが働く社会では往々にしてある事だった。

ディナー前のミ-ティング。

従兄弟は洗い場にいた短いパーマをあてた矢島という猿みたいなオバサンに捕まっていた。

「朝来たら洗いものがそのまんまだったよ」

「ヤジ、うるせえよ。昨日はギ-タル非番だっての」

「あの人たち言っても全然だから言ってんの!!」

「ヤジうるせえ」

「ヤジ黙れ」

笑いながら若い調理師たちが洗い場の前を通り過ぎる。ヤジは覚えた。要注意人物らしい。

ホ-ルでは昼間の一枚布の白から白と赤に交差したクロスがテ-ブルにかけられ。

店のロゴが入ったマットの上にオ-ドブルにス-プ、ポワソン、アントレ、デザートのための食器が丁寧に並べられていた。

「バンジーもミ-ティング出るぞ。新人紹介だ」

デシャップの前でシェフに肩を叩かれて歩く。従兄弟のギ-タルはそのまま洗い場に入って働き始めた。

洗い場の前の壁に取り付けられたバケットを入れる小さな籠と俎。壁に向かって1人古いパンを刻む女の子がいた。オニオングラタンス-プに使うバケットを切っていた女の子にシェフは「ス-ザン、ミ-ティングだぞ」と声をかけた。

「え~面倒くさい」

ス-ザンと呼ばれた女の子はパンナイフを置くと手についたパン屑をスカートを叩いて払った。

大きな魅力的な口元から笑顔が溢れる。

きりりとした眉と利発そうな大きな瞳をした女性にバンジーは目を奪われた。

肌の色はバンジーとは違い日本人と変わらない。

制服は調理場の人間に支給されるものとは違いホ-ル用だった。胸に【松本】と名札をつけていた。

「スーザン、おはよう」

夜なのにおはよう。おはようぐらい分かる。宮内は何だか、でれでれした声でスーザンと呼ばれる女性の前に現れた。

さっきと全然態度が違うのは別に、この国に限った事ではない。それ位ス-ザンと呼ばれた女性は美しかった。

支配人の粘っこい目線や食事の誘いを仄めかすような会話も驚くほど流暢な日本語で巧みにいなしていた。

バンジーや従兄弟のギ-タルウィンの使うカタコトの日本語とは発音からして全然違っていた。

スーザンは日本人スタッフの女性と一緒に接客業務もレジもこなす唯1人の外国人だった。

インドネシアでは姓を持つ人は少ない。

愛称のような短い名前が1つあるだけ。

それでもスーザンはインドネシア特有の名前ではなく西洋人的な名前を持っていた。

彼女がインドネシアでも比較的富裕層の進歩的な家庭に生まれ育た事が窺える。

聞けば父は貿易商を営んでいて家にはお手伝いさんが3人もいるらしい。

「日本語を勉強したくて日本に来たけどインドネシアでは日本までの飛行機代と学費だけでも大変な金額なの」とバンジーに教えてくれた。

「宮内!ミ-ティング」

シェフに水を注された宮内は不機嫌そうに言った。

「バンジーだっけ…別にいいでしょ彼は」

シェフは憮然とした。

「私も外国人だからミテ-ィング出なくていい?」

「スーザンは出なくちゃだめ!!」

赤ちゃんみたいな声て宮内が言ったのでバンジーはとても驚いた。

「じゃあ行こ」

バンジーと宮内の手を取りス-ザンは歩き出した。

「店かよ!」

シェフは舌打ちした。

「坂さんも宮内さんも話長いよ。ミ-ティング嫌いだよ」




ス-ザンはバンジーにとって常に姉のような存在だった。

彼女はいつも背筋がぴんとのびた姿勢で他の同年代の女の子よりも幾分落ち着いた低い声で話した。

少しだけ掠れた声色と生来のさばさばした性格には誰もが親しみを覚えずにはいられなかった。

ギータルリンとは同い年で性格もどこかしら似ていた。

2人共念の入った働き者で日本に来ても働かない外国人労働者を嫌っていた。

「新しい部屋に引っ越しがしたいけどゴミの分別とかしなかったり。ルールを守らない外国人がいるから部屋を貸してもらえないの」

そう、よく愚痴を溢していた。

店には他にも中国人が2人雇われていた。

しかしラスベガスにいた連中と同様仕事ぶりは酷かった。

彼らは洗い物を濯いだりスポンジで擦る事をせず、そのまま洗浄機に放り込むので汚れは全く落ちなかった。

洗浄機にかけたシルバーを拭くのはホ-ルの仕事なので、よくスーザンと中国人は揉めていた。

彼女が文句を言うと中国人は母国語で首を振り、けして洗い直しに応じない。

するとスーザンは英語でギータルリンに「ちゃんとやるように言って」と注文をつけギータルリンは彼らにそれを伝える。

スーザンは本当は中国語で彼らが自分の事を口汚く罵しっている事を理解していた。

そうでない時も支配人や店の悪口を言ったり後輩の中国人に「こんな仕事適当でいいんだ」と話しているのも理解していた。

ただ分からないふりをして支配人やシェフにそれをそのまま伝えていた。

いくら新しい外国人を雇い入れてもギータルリン以外仕事が一向に向上しない理由は明白だった。

「だからバンジーが1人前になったら洗い場は貴方とギータルリン2人になる予定だから頑張ってね」

スーザンはバンジーに悪戯っぽく笑った。

「私もギータルリンも口ばかり達者な怠け者は嫌いなの」

言われるまでもなく中国や韓国の景気が上向くと彼らはこぞって帰国して行った。

時々店に小さな子供を連れた家族連れのお客様が来ると彼女は紙ナプキンで女の子や動物を拵えて子供に渡していた。

スーザンに限らず店の人たちは皆バンジーに概ね好意的であった。

洗い場の仕事をすっかり覚えてしまうと斎藤さんは野菜を刻んだりハンバーグ用赤身の牛肉を濾し機にかけたり、といった仕事をバンジーに任せるようになった。

仕込み終えた野菜を目の前に置いても知らん顔をする若い調理師も中にはいた。けれど大概誰かがそれを見つると「てめえ偉くなったじゃねえか」と耳を捻る。

ここは、そういう職場だった。

新人が入れば歓迎会が開かれる。

誰かが辞めれば送別会が開かれる。レストランは常に人の出入りが激しい場所だ。

けれどそれは日本人スタッフに限った事でギータルリンはけしてそうした席に顔を出さない。

彼が行かないのだからバンジーも行かない。スーザンは店の飲み会にも誘われ、よく顔を出しているようだった。

ブライベ-トでスーザンと遊んだり食事をしたりする事は1度もなかった。

ギータルリンは普段同郷の人間や知り合いの外国人に仕事を紹介したり酒を飲んだり休日も、なかなか忙しいようだった。

「以前何かの本で読んだんだ。他所の国に住んで溶け込む方法ってやつさ」

畳に寝転びながら彼がバンジーに話をした事がある。

彼は家では大概裸で過ごした。均整のとれた骨格には無駄な贅肉はなく、棲処で優雅に寛ぐ彪を思わせた。

いつも床に散らばった紙幣が体に張りついていた。

彼は稼いだ金を床に敷き詰めて横になるような金持ちでも享楽主義者でもなかった。

ただ金の管理に無頓着なだけだった。

床に落ちた金を拾って歩くのはバンジーの仕事だった。

彼はバンジーを信用しきっていて集めた金を数え直すような事をしなかった。

「その国の、2流の本を読めって事さ。2流の本に2流のコミック、テレビに映画…2流の娼婦。いや…娼婦でなくてもいい。恋人を作るのが一番なんだろうな…やっぱり」

バンジーは拾った金を大切に揃えると畳の下にとりあえずしまった。初めての給料で丈夫そうな麻の袋を買ってプレゼントした。

彼は微笑んで礼を言うと「中身も袋もお前が管理してくれ」と言った。

「いずれ事業を始めたらそうなる。この国で信用出来るのはバンジーお前だけだ」

「俺みたいなやつの側にはお前みたいな人間が必要なんだよ、兄弟」彼の部屋には何時も彼の好みの伽羅沈香の香油の香りで満たされていた。

密林に足を踏み入れた時の濃密な熱帯植物が醸す香りは従兄弟のギータルの体に今も残っているような気がした。

今ここにいる自分とそれらが扇風機しかない部屋で混じり合うこの部屋にいるとバンジーは心が自然と安らいだ。

スーザンが店を辞める時、送別会は閉店後の店で開かれた。ス-ザンはその日普段着ないような、故郷から両親が送ってくれた色

鮮やかなサジュと呼ばれる細身の民族衣装を身に纏っていた。

レゴンの踊り子のような派手な化粧と衣装ではない。

頭に飾られた紫のスレダンにどんな意味合いがあるのかバンジーは知らない。それでも、その夜の彼女はどんな原色の色彩にも見劣りする事はなかった。

スーザンの隣には彼女の婚約者だという若い日本人の男性が座っていた。彼の名字は松本さんと紹介された。

スーザンは彼に寄り添って皆に「松本さん」と呼ばれ幸せそうに微笑みを浮かべていた。

今まで見た中で一番綺麗な姿だとバンジーは思った。

お菓子目当てに日曜日に通った教会で見た聖母マリア様の微笑みよりもス-ザンの口元に浮かぶ微笑みは美しいとバンジーは思った。

「お別れに」と彼女はバンジーにグレーの生地に曲乗り自転車のシルエットが沢山描かれたカ-テンをくれた。

「引っ越すつもりで用意してたけど一度も使わかった。よければ使って」

その時はもう店にギータルリンはいなかった。

彼は自分の目的を実現するために、いつも高収入の仕事を追い求めていたからだ。

日本に来て最初の給料を国に送った時すぐに母親から礼の手紙が来た。

少ない金額でも、いつも変わらない感謝の言葉とギータルリンへのお礼。

「俺の事も書いてあるのか?」

ギータルリンが手紙を覗いた時にはバンジーは手紙を全部読み終えた訳ではなかった。

読み終えていたら、どうしただろう。手紙を彼の目の前から隠しただろうか。

手紙には「最近村の娘のあの子が結婚したよ」…と近況報告があった。

娘の名前をギータルリンは見たのだろう。

その夜彼はふらりと何処かへ出掛けると、そのまま一晩帰らなかった。

翌日けろりとして帰宅すると夕方2人で店に出掛けて働いた。

「もっと金になる仕事を見つけた。東京からは離れるが住み込みで寮もあるし家賃もかからねえ」

そう言って彼は仕事を辞め部屋を出て行った。

「いい仕事なら、お前も呼ぶからな」

「家賃は一月分先に払っておいたから」と言い残して。

1年後メールが届いた。

「刺青があっても宗教上の理由と言えば大丈夫だ!大宮の駅ビルで集団面接があるから、こっちの工場を希望すればいい」

バンジーは面接に合格し東京を離れた。

着いてすぐ寮にも入ったし翌日から鋳造班勤務になった。

しかし寮にも工場にもギータルリンはいなかった。

彼はバンジーが来る5日前に仕事を辞めていた。

日本に来て働いた。

今も働いている。

ギ-タルリンはいなくなってしまった。

母親からの手紙なら今月も届いた。

いつも沢山のお金ありがとう。

お前が送ってくれるお金のおかげで弟や妹たちも無事に学校を卒業する事が出来ました。

全部のお金は使わず残してあります。

沢山お金がありすぎたら、お父さんも皆も働かなくなってしまう気がするから。

最近こちらにも、お前のいる日本の紡績工場が出来て、お父さんや弟たちもそこで働いています。

新しい政府が出来て暫く混乱が続いたけれど…こちらも随分生活が良くなりました。

こちらに帰れば仕事もきっとあるはずです。

もう、お金は送らなくていいですから。

お前も国に帰って幸せな家庭を持って欲しいと私は願っています。

どうか1日も早く…

返事はまだ書いていなかった。

来年労働ビザが切れる。

契約は半年毎に更新だから問題はない。お金も充分に貯まった。

湯船に浸かりながらバンジーは思う。

ギ-タルリンは今何処にいて何をしているのだろう。それだけが気がかりだ。

湯の中で双頭の黒い蜥蜴が泳いでいる。

バンジーの右の二の腕に掘られた刺青。

胴と胴とが繋がったシンメトリ-の蜥蜴。

1つの体に2つの頭を持つ蜥蜴は神秘の力が宿る証。

災厄から身を守る強力な護符の璽として故郷では広く知られていた。

けれど異国の地に自分を招いて働く機会を与えてくれたのは従兄弟のギータルウィンに他ならない。

バンジーが東京から電車を乗り継いで今の職場にやって来るまで従兄弟のギータルリンは確かにそこにいた。

ラスベガスや日本の職場にいた時と変わらない彼の残像は今も微かに工場の誰かの記憶に残っている。

今までの仕事と違い彼は人と話す間もなく大きなハンマーを手にリペットを打ち続けた。

バンジーが職場で割り当てられた仕事よりも肉体的にはキツイ仕事だったかも知れない。けれど毎日休む事も仕事に遅れる事もなく彼は働き続けた。

「ギータル儲かってるか?」

「仕事いっぱい!お金少し」

いつも、そんな風に陽気に答えていた。

「東京に従兄弟が働いているんだ」

バンジーの事を何時も気にかけては口にしていた。

「内気なやつだから、こっちに来たら俺が色々教えてやらないとな」

ギータルリンの契約期間は一端は終わるはずだった。

彼は一年間働いてためた給料の他に皆勤手当てや慰労金を手にしてここを辞めてビジネスを始めてもよかったはずだ。

バンジーは子供の時先頭に立って藪笹や泥や蜂を手で払いのけながら前に進んだ。

そのけして広くもないしランニングシャツに背骨のあとが浮いた背中を今でもはっきりと思い出す事が出来る。

身を毟られた魚の背骨。

村の皆が集まる公会堂で見た古い映画。

巨大なカジキを追い求める老漁師を描いたモノクロの映画を子供の時に見た。

老人が3日3日晩格闘の末追い求めた獲物を仕留めた時大人から子供まで歓声を上げたものだ。

しかしその後の結末には皆が落胆の溜め息を漏らした。

疲れたような顔で寄合場を出る大人達に混じりバンジーはギ-タルリンの姿を探した。

彼は結末を見て呆れて先に帰ってしまったのか、その夜彼の姿を見つける事は出来なかった。

ギ-タルリンはその日非番だった。

食券で寮で食事を済ませた後は1日何もする事がなかった。

管理人室の前を通ると見慣れた寮長の顔があった。

昔は会社の偉い人だったのかもしれない。

いつも白いシャツに紺のカ-ディガン黒いズボンという服装で。見た目は日本のお土産物の置物の狸にそっくりだった。

「来週従兄弟バンジー来る。宜しくお願いします」

ギ-タルリンは寮長に頭を下げた。

「分かった!分かってるよギ-タル…そうくれぐれも何度もお願いするな」

寮長は苦笑しながら言った。

寮の部屋は基本的に2人部屋。

ギ-タルリンは同郷の人間もなく部屋を1人で使用していた。

部屋は8畳のフロ-リングで簡素な洋服箪笥と備え付けのエアコン以外何もなかった。

「従兄弟とてもシャイ。他の人と同じ部屋ダメ」

「分かった!分かったよ!」

たまった洗濯物を抱えて薄暗い洗濯場に行くと同じ職場に村岸という男が洗濯機を回していた。

彼は片手を上げてギ-タルに挨拶した。5つ年上で役職こそないが現場の責任者的立原の人間だった。

ギ-タルリンが最初に仕事を習ったのも彼だ。

「今日非番か?」

「はい」

ギータルリンは休日でもなるべく村岸のような男に出会さないようにしていた。

1度仕事を覚えてしまえばラインで仕事をしている事もあり他人とはあまり口をきかない。

村岸がよく上司と口喧嘩している光景は目にした事はある。

しかしそれはギータルリンにはまるで関係のない事だった。

他の外国人労働者からは「あいつはすぐ期間工にたかるから気をつけろ」

そう釘を刺されていた。

「こんなとこで洗濯している位なら夕方一杯付き合え」

村岸は言った。

「たまには奢るから。お前仕事頑張ってるからな」

別に本当に村岸が酒を奢ってくれるなんて鵜呑みにした訳ではなかった。

ただギ-タルは任期明けまで無遅刻無欠勤で働き続け残業も月の半分以上こなした。

事業を始める資金も充分稼げた。

後は従兄弟のバンジーに金を稼ぐ段取りをつけて任期まで働くだけだ。

一杯飲みたい気分だった。

村岸と酒を飲んでも飲み代を払う余裕はあった。

その日の夜12時過ぎにギータルリンは寮に戻った。

結局村岸にはたかられたが大した金額ではなかった。

帰宅している事を管理人室に知らせるための木の札を掛けようとして彼は目を疑った。

自分の部屋のところに戸塚という見知らぬ名札がかかっていた。

管理人に確かめたかったが既に帰宅したようで管理人室の電気は消えていた。

エレベーターで3階にある自分の部屋のドアのノブを回した。

出掛けに閉めたはずの扉は鍵がかかっていなかった。

部屋の照明を点けると出掛けた時と同じ何もない部屋が視界に入る。

ただ部屋の中央にある小さなテ-ブルの上には自分の物ではない鍵が1つ置かれていた。

バンジーに貰った麻袋に入れた金は箪笥の下の引き出しの衣類の一番奥に入れてある。ギ-タルリンは銀行を信用しない。

島に居た時初めて市場で働いた金を銀行に預けた。

銀行は政府と共に倒産して働いた金は一銭も戻らなかったからだ。

箪笥の中の金は袋ごと消えていた。


「ゴミ箱にマスかいたティッシュとか落ちてねえだろうな?」

制服を着た警官は部屋にあるゴミ箱をあさりながら言った。

他に制服が2人に私服の中年の男が1人。

早口でギ-タルリンに質問した。

理解出来る言葉にだけ彼は頷いた。

寮長も部屋に呼ばれ本当に置物の狸になったまま部屋の隅に立ち固まっていた。

「じゃあその戸塚って若い男が入寮して来て空き部屋がなかったから、このギータさんの…」

「ギータルリン」

「ギールウィンさんと同室にしたって訳?」

「来週には1部屋空きますから、とりあえずって事で」

「それって防犯上どうな訳?」

「いや、しかし、基本的に会社では寮を無料で提供してる訳で、金銭の管理というのは個人でお願いしてる訳ですから」

「なるほど…会社に責任はないと」

「貰った給料紛失しても確か会社から補償されるんじゃなかったっけ?」

「正社員じゃありませんし」

「まあ、なんにしてもだ、ギータルさん、盗まれるべくして盗まれた金ってのは警察でも困るんだよね」

「ヌスマレルベキシテ?」

「不注意にも程があるって事!」

「不注意」という日本語を聞くと自分がやってはいけない事をしたのかと思う。少なくとも仕事ではそうだ。

「スミマセン」

彼の声は小さ過ぎて誰にも聞き取れなかった。

「高校中退して、成田の飛行場の集配やってたのか…あれいい金になるんだよな」

「見たとこ小僧だし、誰か悪い連中に入れ知恵されたかな?」

そんな言葉が頭の上を飛び交うのをぼんやり聞いていた。

若い警察がひらひらさせている履歴書の写真は童顔に下膨れの似合わないパーマの子供だった。

「誰か入れ知恵したやつがいるな…期間工は金になるからな。いずれにしろチンピラのガキだろ」

ドアノブや箪笥の取手の表面で叩かれるアルミニウム粉末。それとは違うカ-ボン溶液を浸した朱肉。

「あんたの指紋も取るから」

目の前に置かれた紙に拇印を捺せと促されギ-タルはおそるおそる人差し指を伸ばした。

「違う!そっちじゃないって」

強引に掌を上から掴まれ朱肉と書類に親指を押しつけられた。

「これで悪さは出来ないってね…あんた就労ビザとか切れてねえだろうな?」

よこされたティッシュで指を拭きながらギ-タルリンは私服の警官の顔を見て愛想笑いをするのを止めた。

翌週警察署に呼ばれたギ-タルリンは同じ警官と再会した。

事務机に半身を乗り出した警官は防犯上の説教じみた事を小一時間話した後で頭を掻きながら言った。

「こっちも探してんだが見つからねえんだ」

疑わしそうな視線をこちらに向けると。

「若いもんの中には『酔っ払って落としたんじゃないスか?』なんて言うやつもいてな」

この国に来てギ-タルリンは久しく口にしていない故郷の言葉を呟いた。

「は?なんて」

「ダイジョウブデス」

ギ-タルリンは微笑んだ。

また1つ信用出来ないものが増えただけ。

そう呟いただけだ。

「『自分で見つけて殺す』…そう言ってたな」

ギ-タルリンと同じ部所で働いていたブラジル人の1人がバンジーに言った。

「『見つかるわけないよ』って言ったんだけどね」

職場は以前ギ-タルリンが働いていた時と何ら変わらないように見えた。

けれど親しげに優しい声をかける人間は随分増えた。

暫くギ-タルリンの話で職場は持ちきりだった。

日頃ラインに追われ顔を見せない弱者の妬みや悪意、それは確かに身近にあったようだ。気がつけば漣のように踝まで押し寄せていた。

ギ-タルリンは任期が終わる当日まで働いた。

その月の給料と手当を受け取ると寮を出て行った。

寮長に「従兄弟をお願いします」と頭を下げて。

何処に行くとも誰にも告げなかった。

バンジーは東京で働いていた時のギ-タルリンの知り合いの外国人にも連絡したが彼が何処にいるかは分からないままだ。

ギ-タルリンが殺すと言えば必ず金を盗んだ男を見つけ出して殺すかもしれない。

何時だって彼は言葉にした事は必ず実行した。

今のところギ-タルリンが日本人の若者を殺したという話はテレビのニュースでも連絡をくれると言った外国人仲間からも聞かれない。それが救いだった。

携帯は何度かけても繋がらずメールも返信は届かない。

ギ-タルリンがいれば仕事の任期が終わったら稼いだ金を分けて故郷に帰ってもいいとバンジーは思っていた。

別にこの国にいてこれ以上何がしたい訳でもない。

母親の言う通り国の政情が安定し仕事にも困らないならば、それにこした事はない、とバンジーは思った。

湯船から上がり脱衣場で私服に着替える。


自動車工場の正門前に出ると広い敷地に工場で生産された大型トラックが整然と並べられている。

ここではトラックは製造される。

しかしコンテナだけは別の工場で取り付けされるため置かれたトラック群は黒い骨だけの魚のように見えた。

バンジーは眠るように出荷を待つ骨トラックたちの前を通り過ぎ工場の外に出た。

自動車工場を出ても、そこは県道を挟んで製紙工場や巨大な煙突が建ち並ぶ。建物からはみ出し壁を這う捻れた金管楽器のようなパイプに囲まれた工場街だった。

工場と工場の隙間を行き来する隘路を抜けて駅前にある大手のレンタルビデオ店の前に出る。

レンタルビデオ店と隣のファミレスのは金網で仕切られていた。

商店街のシャッターは閉じていて郊外型の大型量販店やコンビニばかりが目につく地方都市。

レンタルビデオ店の閑散とした駐車場を横切ると途中金網が切れた場所に単線の私鉄無人駅につきあたる。

駅名にはバンジーの勤める工場の名前。-前駅とあるが駅から工場まで歩いて10分はある。

バンジーは気にした事はない。

誰も利用しない小綺麗なNTTの電話ボックスの前にあるみすぼらしい駅の待ち合い所とホ-ム。

いつもバンジーはここで寮に帰るため電車を待つ。

送電線に等間隔で並ぶ鉄冊は線路の果てまで続いていて遠くに行けば行くほど、ごちゃごちゃ重なって見えた。

まるで何処か知らない場所に繋がる不思議な扉の入り口のようだ。
待ち合い所に隣接して建てられた携帯の電波塔や夜になると赤いシグナルを灯す工場の煙突。

一両だけここを通るオレンジに塗られた電車は蛙に似ていた。

ここで電車を待つ時間がバンジーは好きだった。

子供の頃に空想した何処か知らない未来の町、そこからまた知らない世界が線路の向こうに広がっている気がした。

「あなたは何処から来たのですか?」

5月の空はまだ暮れる気配はなかった。

「暑いわね」

待ち合い所の木のベンチにはウェディングドレス姿の若い女が座っていた。

そこだけが日陰でほんのりと薄暗く女の白い顔と肌が浮かび上がって見えた。傍らに置かれたショ-トバレルのショットガン。

壁には黒いスプレーで誰かが無造作にかいた妃の文字。

右上がりに跳ねていた。

そして彼女の花嫁衣装は血に塗れていた。

バンジーは右の二の腕に彫られた刺青に目をやる。

彼女は蛇に巻かれた刺青の女に面影が似ている気がした。

まだ暮れない5月の空の下。

田舎駅の風景に花嫁はひどくそぐわない。

「座ったら」

彼女はお化けでも幽霊でもない。

バンジーの左腕の蜥蜴は魔除けの刺青だ。

頭が2つある蜥蜴は故郷では強い生命と呪の証とされている。

干からびた剥製であっても高値で取引された。

子供の頃はギータルリンや仲間と大いに探し、

野や畑を歩き回ったものだが奇形の蜥蜴など早々見つかるものではないと諦めた。

もっともギ-タルリンは蜥蜴を殺しては胴体をくっつけた物を日干しして市場で売ろうとした。

しかしあまりに大量に作り過ぎて大人たちにはすぐばれた。

というか、そうした模造品を売っている怖い大人たちの逆鱗に触れ危険な目に合ったりもした。

バンジーの住む家の中や森や畑には昔から親類や家族以外にお化けが沢山いた。

粗末な白壁や隅っこの虫食いだらけの木の柱やマリファナ畑の葉や茎の隙間からゆらゆら体を揺らしながらバンジーの事を見ていた。

大概は遠くからこちらを見ているだけだがバンジーには充分に恐ろしい存在だった。

時には寝ているバンジーを揺さぶり鼻の頭をかじるものもいたからだ。

バンジーは幼い頃からそうしたものの影に怯え常に神経を尖らせ睡眠も充分に取れなかった。

他所の子供に比べ明らかに成長著しくない息子を心配した母親は息子を連れて国が定めた境界線を越えて別の種族の居住区を訪ねた。

そこで彫ってもらった蜥蜴の刺青。

墨を体に入れた時の恐怖の記憶は遠ざかり今蜥蜴は成長した彼の腕で随分胴体ものびのびになった姿で張り付いている。

刺青を入れてから、お化けの類いを見る事はなくなった

。刺青は近所の子供たちから尊敬を集めたし彼は社交的で健康な子供に育った。

蛇に巻かれた女の刺青は市場で流行り始めた刺青の専門店で彫ったものだ。

本来呪術的なものである刺青を彫れるのは一部種族に限られていた。

しかしバンジーが成長した頃にはファッションで刺青を入れる若者が増えた。

市場には様々な特技に長けた部族が集まり店を出すようになり部族間の境界線は曖昧になりつつあった。

バンジーに刺青を入れてくれた若者は店で占いもしており子供の時バンジーに蜥蜴の刺青を入れてくれた老人の孫にあたる青年だった。

青年は特別希望もなく店を訪れたバンジーに紙にイラストを描いて渡した。

蛇に巻きつかれた女性の意味は【美しい女性が生涯自分の側にいてくれる】という意味合いがある。

バンジーはイラストの女性がたいそう気にいったので彼に頼む事にした。

「貴方お名前は?」

バンジーが隣に腰掛けるとすぐに女の声が訊ねた。

「見たところ日本の人ではないみたいだけど」

汚れた作業服姿では観光客にも見えなかっただろう。

「僕の名前はバンジー」

だけどジャンプは関係ない。僕の国に、それは、ない。

バンジーは初めて出会う人に必ずそんな風に話す。

しかし名前とバンジージャンプの因果関係について、いちいち説明するのは面倒だとは思わなかった。

「変わったお名前ね。ジャンプじゃなければどんな意味があるっていうの?」

バンジーは首を傾げた。バンジーの名前の意味は分からない。

「みんなそう呼びました」

「あだ名?」

「あだ名」

ルワンダとブルンジに住んでいるバンツー民族のメンバーを総称して十羽一からげにしてバンジーと欧米人は呼ぶ。

アイスランド、アゼルバイジャン、アラブ首長国連邦、アルジェリア、アルバニア、アルメニア、イエメン、イラン、インド、ウガンダ、エチオピア、エリトリア、オマーン、ガイアナ、ガーナ共和国、カーボヴェルデ、カタール、ガボン、カメルーン、ガンビア、カンボジア、朝鮮民主主義人民共和国、ギニア、ギニアビサウ、キプロス、キリバス、キルギス共和国、クウェート、グルジア、グレナダ、ケニア、コートジボワール、コンゴ共和国、コンゴ民主共和国、コロンビア、サウジアラビア、シエラレオネ、ジブチ、ジャマイカ、シリア、シンガポール、スーダン、スリナム、スリランカ、スワジランド、赤道ギニア、セネガル

野蛮人という意味だ。

バンジーは自分の名前の意味を知らない。

なんとなく想像はつくものの、それは生きて行く上でさほども重要な意味を持たない。

むしろ大切なのは周囲の人間が親しみを込めて、その名前を呼ぶ事だ。かつてギ-タルリンもラスベガスの職場ではバンジーだったしギ-タルリンが来る前には別のバンジーが存在した。

名前は利便性以外の何もバンジーにもたらさない。バンジーはそう考えていた。

「お国にいた時の名前は?お友達は貴方の事を何と呼ぶの?ご両親がつけてくれた大切な名前があるはずよ」

覗き込む彼女の瞳はとても大きくて。

黒よりも白の部分が大半をしめている。

睫毛は鬱蒼とした夜の密林の入り口に生えた木立に群生する野生の茨。

彼女は瞬きを忘れたように大きな瞳でバンジーを見つめた。

「セイン・ルイン」

バンジーは自分の名前を呟いた。久しく口にしていない故郷の言葉だった。

セインという言葉を聞けば国の人間ならばすぐに分かる事が一つある。

セの行で始まる人は水曜日に生まれた人だ。

ルインは青年。バンジーが初めて市場で働き始めた時皆がそう呼んだ。

学校に入れば学校での名前が生まれる。

親戚や近所の人が呼ぶ名前も、すべてが彼の名前になる。

だからバンジーの名前を紙に書いたならおそろしく長い名前の列を連ねなくてはならない。

バンジーは学校にいた時の名前は嫌いだし自分の好きな名前だけ彼女に伝えた。

「素敵!そっちの方がずっと素敵!私これから貴方の事をバンジーじゃなくてセインと呼ぶ事にする」

生まれて初めて自分の名前を誉められた。バンジーは耳の後ろが少し痒くなる気がした。

「私の名前はメイ!」

彼女は白い歯を見せて笑う。

「5月生まれだからメイなの。五月と書いてメイ…水曜日生まれのセインと同じね」

少し考えてバンジーは理解した。

「同じ」

バンジーは親指を立て笑った。

「同じ!うちのママはトトロが大好きなの!!」

バンジーはトトロは知らなかった。

「あそこに見えるのが私の家よ」

彼女が指差した方向をバンジーは見た。

町の西の小高い丘の上に立つ教会風の結婚式場。

工場街に立ち込めるスモッグ。

その淀んだ空気の中お伽噺に出て来る西洋のお城のように、その建物はあった。

そこが彼女が昔住んでいた家で今からそこに向かう途中だとバンジーに話した。

「血がたくさん…怪我してる。大丈夫?」

バンジーが彼女を気遣うと彼女は白い歯を見せて笑った。

「ああ、これ私の血じゅないよ。私は大丈夫どこも怪我なんてしてないから」

そう言って傍らにあった銃を膝元に引き寄せると誰に言うでもなく呟いた。

「私の夫…ハズバンドになる人が今日撃たれて死んだの、私の兄で皐ってやつに」

きつく結んだ唇から歯軋りするように犬歯が覗く。

憎しみに醜く歪む彼女の横顔でさえバンジーには美しく思えた。

「私と同じ目に合わせてやるの。私から奪った報いにね」

彼女が目の前に掲げた銃はひどく彼女に似つかわしくない、バンジーはそんな気がして言った。

「殺すの?カタキウチ?」

彼女は首を横に振る。

「殺さないわ」

彼女はバンジーの顔を見上げ薄く笑って見せた。

「殺してあげるの私を」

「アナタをアナタがナゼ殺すのですか?」

バンジーはわけがわからずに聞いた。

「アナタが恋人のカタキをとらずにアナタを自分で殺す、それ分からない」

バンジーは混乱した。

「皐は私の将来を約束した大切な人の命を奪って逃げた。皐は私の事を昔から深く愛していた。私が皐だけを愛さずに他の人を愛したから皐は彼を殺した。だから私は皐の一番愛する女を目の前で殺さなくてはいけないの…彼が彼にしたように銃で!」

「多分ね」

彼女は甘い声で囁いた。

「皐は私に撃たれたいと願っている。皐は私だから彼の事は何でもわかる…そうしてずっと私のものになろうとするつもりよ」

「でも、そうはいかない!おあいにく様!!これから先1人ぼっちで罪の意識に苛まれ生きて行くのはあいつの方なの!!」

「綺麗な人死んではいけない」

「優しい子供生まれなくなります」

「私は、綺麗でも、優しくも」

「僕はカナシクなります。もしもアナタが死んだなら」

「今日あったばかりなのに向こうの人は随分手が早いのね」

バンジーは彼女の頬を一筋流れる涙を指先で拭おうとした。けれど彼女は自分でごしごしと涙を拭いた。

「私お母さんになれるかな」

彼女は呟いた。

バンジーは「きっとなれます」という気持ちをこめて頷く。

「ありがとう」

彼女は微笑んだ。

「私と皐にはお手本になる両親がいなかったの。悪い事をしてもしかる人がいなかった。セインさん、悪い事をしたら貴方のお母さんは貴方を殺さず何をしたか教えて」

バンジーは少し考えてからジェスチャーで拳骨を落とす真似を小さい子供を抱きしめる真似をして見せた。

「セインさんはいつもママにそんな風にキスしてもらってたのね」

彼女は目を細めた。

「恥ずかしです」

我に帰ったバンジーは俯いた。遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。彼女は気にする様子もなくバンジーに言った。

「貴方のお国の話が聞きたいな」

ベッドの中で絵本をねだる幼子のような瞳だった。

「私が私を殺すよりは今はそうしたいの」

バンジーは彼女の隣に腰掛けて話した。

少年時代のギ-タルリンや村の子供たちと密林を抜けて見に行った古の遺跡の話。

ラスベガスでの話。

ここの路線を通る夕焼けの色と同じ電車は故郷にいるとき水辺で捕まえて食べた蛙に正面がそっくりでバンジーはいつも電車が到着する度お腹が空くのだと…そんな他愛ない話ばかりした。

彼女が話した彼女の少女時代から今までの話はバンジーには理解出来ない事が多かった。

それでもバンジーは彼女の言葉に頷き一言も耳から溢すまいと記憶に焼きつけた。

1分でも1秒でも長く此処にいて彼女の話を聞いていたいと願った。

彼女の口から漏れる言葉がどのような恐ろしげなものであったとしても。

ラスベガスにいたロ-ラ-スケ-トの女の子たち。

姉のように優しかったス-ザン。

陽気に笑い酒を注いでくれたフィリピ-ナ。

目の前で花のように咲く女の子たちに今までバンジーは出会って来た。

けれど目の前にいる彼女。

美しい血塗れの花嫁。

町で一番背の高い製紙工場の煙突に赤いガイドランプのシグナルが灯る前のほんの短い時間。

彼は生まれて初めて彼女に本当の恋をした。

やがて夕暮れが近づくとサイレンが急き立てるように町中に鳴り響いた。


いつの間にか言葉は途切れた。

蒸し暑い空気の中沈黙だけが流れる。

淀んだ大気と夏草の香りに栗の木の匂いが混じり合う。

膝の上を這い回るのがもどかしくてバンジーは右手で蟻をはらった。

汚れた空気の中で見る夕焼けの太陽は故郷で見る夕陽とは違った意味で美しいとバンジーは思った。

頬杖をつく彼女は物憂げな表情でサイレンの音を聞いていた。

「さて、行かないと」

待ち合いのベンチから腰を上げるとバンジーに向かって彼女は言った。

「私の片割れがサツやマフィアの親父に捕まる前に私が確保してとっちめないと!」

「サツキはコロスのもシヌもダメ」

「わかったわかった」

彼女はバンジーに向かって掌をひらひらさせる。

「貴方の従兄弟も早く見つかるといいわね」

そう言ったまま彼女は空を見上げて沈黙した。

彼女の視線の先にはオリンピック聖火台みたいな鉄骨の携帯の電波塔があった。

「私、木登り得意だったんだ」

彼女は呟いた。

「僕もです」

バンジーがそう言うと彼女は初めて白い歯を見せて笑った。

「登る?」

バンジーが立ち上がりかけた時携帯端末の着信音が鳴った。

バンジーの着信音は初期設定で今流れているのはマ-ダ-ド-ルズというバンドの曲だった。

「-もし。国木田?遅い!いつもあんたは一歩遅いの!…で?今何処?私は工場前駅…そう私鉄の…検問があってそこまで行けない!?…そうわかった私がそこまで行くから車停めて待ってなさい!」

首からぶら下げたストラップの携帯端末を胸元から取り出すと彼女は噛みつくように電話の相手にそれだけ伝えた。

「本当に国木田だけに仕事が遅くて困っちゃう」

ふくれっ面で彼女はそう言うと「この格好はもうさすがにマズイか」腰に手を当てしばらく思案していたが。

「セインさんごめんね」

やおら着ていたウェンディングドレスをバンジーの目の前でもさもさ脱ぎ始めた。

バンジーは慌て顔を両手で覆った。

「別に気にしなくていいよ」

ドレスを脱いだ彼女は上下黒のブラトップとスパッツのような下着を身に着けていた。

贅肉のない彼女の体はアスリートのように見えた。

彼女は躊躇いなくウェンディーズドレスを側にあったゴミ箱用に置かれたアルミ缶に投げ捨てた。

「これも邪魔だ」

ブラウンヘアのウィッグを髪から剥ぎ取るように外し、これもゴミ箱に捨てる。

「じゃあねセインさん…会えてよかった」

脱いだピンヒ-ルは捨てずに両手でぶら下げたまま「これはお気に入りなの」と舌を出して笑った。

そのままホ-ムから線路の枕木に飛び降りる。

「またいつか会えるといいわね」

ヒ-ルをぶら下げた右手をバンジーに向かって振る。

「今度もし会えたら」

「僕とデ-トお願いします」

バンジーは無人のホ-ムで彼女に向かって叫んだ。

「あら」

彼女はホ-ムの下から目を細めた。

「こんな…結婚式に花婿に殺された女を口説くなんて悪い人ねセインさん」

「お願いします」

バンジーの瞳は真剣だった。

「そうね」

彼女の唇が呟いた。

「今度会えたら約束ね」

彼女の小指が指切りのかたちになるのをバンジーは見た。

今まで経験した事がないくらい胸が高鳴った。

遠くで踏み切りが降りる時になる警笛の音が聞こえた。

彼女はバンジーに手を振ると背中を向け夕暮れに染まる石と線路の間に敷かれた枕木の上を渡って行く。

やがて夕焼けと同じ色に塗装された502系の私鉄電車がホ-ムに滑り込んで来てもバンジーは列車に乗らずやり過ごした。

電車が去ったホ-ムから線路を見ても、もう既にそこに彼女の姿はなかった。


バンジーがそれから彼女の事を忘れた日は1日もなかった。

彼女の強烈な残像はバンジーにそれを許さなかった。

それでも、いつもと同じ日常いつもと同じ仕事に追われて終わる日々の暮らしにバンジーは戻った。

違った事があるとすれば第3鋳造班の休憩所で昼休みにいつも皆が見ているタモリさんの番組がいつの間にか終わっていた事だ。

皆口々に新しく始まった番組を「つまらない」とか「どうせすぐ終わる」とか悪口を言っていた。

けれども皆結局は昼休みはそこで画面に映る番組をぼんやりと眺めて休憩が終わるまでの時間を過ごす。

バンジーが食事を終えて休憩所の前を通り過ぎようとした時彼は彼女と再会した。

テレビの画面に映る彼女の写真。

あの時とは随分違って見えた。

化粧っ気もなくこちらを睨むようなふてぶてしい顔の写真。

しかし彼女に間違いはなかった。

戦前戦後史上女性としては最大の大量殺人事件の容疑者として彼女の写真はテレビで報道されていた。

彼女は自らの結婚式の披露宴の席で新郎と自分の父親をショットガンで射殺…そのうち来賓招待客総勢46名を市内の結婚式場の披露宴の大広間にて全員射殺。

父親と新郎の殺害に使用されたショットがン以外にも凶器として機関銃が使われた模様で…

耳を疑うような言葉や文字が画面から溢れ出す。

すべてが性急でヒステリック。

熱狂を帯びてさえ伝えられる報道。

それを目の当たりにしたバンジーはその全てを完璧に理解出来た
訳ではなかった。

しかし、これは違う。何かがおかしいと感じた。

彼女は夫となる男性を結婚式で殺された被害者の筈だ。

「私お母さんになれるかな」

彼女の言葉と頬を伝う涙が脳裏を過る。

彼女の人生を覆う黒雲から時より見せた悲しげな笑顔。

バンジーは忘れなかった。

けれど午後の作業開始のサイレンが工場に響き渡ると同じ作業着を着た人の群れに押されラインにつく。

工場のラインは汲めどつくせね河川の流れのように止まる事をしらない。

バンジーはその流れの中で1日を終える。

仕事終わりには工場の浴場で体を洗い。

私鉄で二駅先の寮に戻り仕事着を洗濯場で洗って乾燥機にかけて眠る。故郷の島に帰るまでそんな日々が続く。

それで構わない。疑問すら抱く事はなかった。

彼女に出逢うまでは。

バンジーの生活の変化に気づいた者は最初は誰もいなかった。

バンジーは寮を出た。

工場のすぐ近くにある安いアパートを一部屋借りた。

別に誰も気にも止めなかったし理由を訊ねる者もいない。

ただ不動産屋で「保証人をつけて頂かないと部屋をお貸し出来ません」

そう言われたので初めて副工場長に相談した。

バンジーは理由を話さなかったが工場長は。

「彼女でも出来たのか?まあお前なら信用出来るが」

そう言って部屋を借りる手助けをしてくれた。

バンジーは何度も何度も頭を下げ工場長に礼を言った。

近日の菓子屋で買った菓子折まで渡し礼を言うので副工場長もそれ以上理由を問う事はなかった。

ゴミの分別もきちんと守ったし夜中遅く騒ぐ事もない。

近隣の住人や大家さんにも挨拶する青年は問題ない無害な住人だった。

アパートを借りた初日バンジーを訪ねて来たのは揃いも揃って人相のあまりよろしくない新聞の勧誘員たちだった。

バンジーは差しだされた契約書に全てサインした。

あまりバンジーが簡単に新聞を取ってくれたので日頃ごねられたり玄関で門前払いに慣れた勧誘員たちはかえって戸惑った。

簡素なガスも通っていない流し台には大量の洗濯洗剤や石鹸が置かれた。

当分それらは買わずに済みそうな量だった。

翌日から届く新聞にバンジーは全て目を通した。

地方新聞の他に経済新聞やスポーツ新聞も購読した。

朝仕事に行く時は必ずスポーツ新聞を持って出かけた。

休憩室にバンジーがスポーツ新聞を持ち込むので第3鋳造班の仕事仲間からは「ただで読める」と好評だった。

しかし新聞に書いてある事を事細かにバンジーが質問するのは些か煙たがられた。

「それはだな…こういう事なんだよバンジー」

意外に教え好きの資質を発揮したのはカバ工場長だった。

工場長はスポーツ新聞に書かれている三面記事の内容や漢字などの表記、日本人なら誰でも分かるような表現や言い回しについてバンジーの質問に辛抱強く答えた。

「なにか熱意のようなものを感じるな」

「仕事でもあれだけ熱心に技術指導してりゃ慕われるのに」

「それは副工場長が全部やっちまうから…寂しいんだろ」

「それ、もういりませんか?」

従業員が読み終わって回し読みされた漫画週刊紙もバンジーは部屋に持って帰って読んだ。

漫画は吹き出しに会話文が書かれていて新聞よりも読みやすかった。

「なんだか働いて帰るだけのロボットみたいだったやつが随分人間らしくなったもんだ」

同僚たちはバンジーの変化についてそんな風に話した。

もっとも最近では軽口で仲間を笑わす事も増えたバンジーを悪く思うものは誰もいない。

仕事はいつも通り勤勉に勤めていたからだ。

午前の仕事が終わり作業台にヘルメットと軍手を置いていつも通り食堂へ向かう。

「よおバンジー」

稼働を止め電源を落とした工場内の暗がりから姿を見せたのは社員の木下だった。

作業着の上着は羽織らずいつも作業ズボンとTシャツに少々大きすぎするヘルメットを斜めに被っている。

何度「作業中は規定の服を着るように」と上から注意されても「このくそ暑い中でそんなもの着てられっかよ」と言う事を聞かない。

いつも挑発的で反抗的な目をした男だった。

「今から昼か?」

当たり前の事を聞きながらバンジーに近づくと作業台の上にスポーツ新聞を投げてよこした。

作業台のスタンドの灯りの下に裸同然の女の写真と刺激的な文字が躍る。

バンジーが休憩所に持ち込むスポーツ新聞は家庭用にとの配慮から、こうした風俗関連やエロテイックな記事は削除されている。

「最近こういうの読むんだろ?」

木下が口元を歪めて笑いかける。

「たまには、こうゆうとこもいいもんだぜ。どうだ今夜あたり?」

木下の右手がバンジーの肩を掴む。

「バンジーさんの奢りでよ」

バンジーは木下の言葉に沈黙したまま黙って裸の女の記事に目を落としていた。

木下が舌打ちして肩から手を話す。

「まったく真面目だなバンジーさんは!お前ら俺たちより断然稼いでんだからたまにはいいじゃねえかよ」

吐き捨てるように、そう言い残し木下は背中を向けた。

いつもの事だった。

「木下さん」

バンジーに声をかけられ木下は驚いたように振り向いた。

「たまには、いいですね」

バンジーは笑顔でそう言った。

「たまにはいいです」

「ほんとかよ!?」

暗がりの中で木下の目玉がさらに大きく輝いて見えた。

「じゃ…後輩の佐藤も一緒でいいかな?…その、バンジーさんの奢りで」

バンジーは頷いた。

「はい、僕の奢り、いいですよ」

それからは事ある毎にバンジーは木下たち同僚と連れだって繁華街にある飲み屋や風俗店に繰り出した。

バンジーはいつも酒には少し口をつけるだけで同僚が店の女の子たちと戯れるのを見ていた。

間仕切りのあるだだ広い店のソファーに腰かけるとバンジーについた女の子は笑顔で彼の唇に自分の唇を重ねて、座ったままの彼の顔に裸の胸を押しつけた。

女の体や胸から濃密で鼻を擽る甘い香りがした。

しかしバンジーは女の手が彼の下半身のファスナーに伸びてそれ以上何かしようとすると手で制して。

「もう疲れました」

「お酒沢山飲み過ぎたね」

そんな時でもバンジーの笑顔は風俗の女の子を魅了した。

「大丈夫、私に任せて」

女の子は床に膝をついてあれこれやり始めた。

「私上手いんだから」

「大丈夫、いいから座って」

バンジーは女の子を横に座らせて言うのだ。

「僕お話出来るのが嬉しいです」

「変わった人ね」

女の子は濡れティッシュで口元を拭きながら首を傾げた。

けれどその後は交代の時間が来ても度々席に戻ってバンジーの話に付き合ってくれた。

「なんだ、バンジーまた勃たなかったのか?あの娘No.1だってのにもったいねえ」

「はい、僕勃ちませんでした。残念です」

「勃たなくなるまで飲むからだよ、お前それでも外人か」

木下とバンジーはそんな軽口を叩きながら店を出た。

木下が図々しく連れて来た佐藤という若い男は風俗店に入る前に飲み食いだけして帰った。

気の弱そうな若者で先輩の木下の前でやたらぺこぺこと頭を下げて腰が低い。

木下が上に逆らって作業着を着ないので舎弟のような佐藤も仕事中はいつもTシャツだった。

「あいつ新婚さんだからよ」

恐縮しながら帰って佐藤の背中を見送りながら木下が呟いた。

最後にもう一軒と辿り着いた木下の行き付けのスナック。

木下はカウンターに焼酎をあおる。

「わかるかバンジーあいつの嫁…事務のミクちゃんは俺が1年近く用もねえのに事務所や駐車場うろうろして「きもい人」なんて女子社員に陰口叩かれながら、ようやく仲良しになれたのによう」

「わかります」

「それを後輩だからって紹介した途端に俺の知らねえ間に…バンジーお前に好きな女を犯された男の気持ちがわかるか!?」

「何?好きな女犯された!?」

バンジーはカウンターを力まかせに叩いた」

「ブチコロスネ」

酩酊したバンジーの脳裏を過るのは白いウェディングドレスの裾と哀しげな彼女の横顔だった。

あの日出会った彼女と彼女の流した涙や言葉。

何処から来て何処に行ったのだろうか。

「木下さん、好きな女犯されたら殺していいのよ。今から佐藤殺りに行くね」

バンジーの剣幕に見せにいた数人の客たちは一瞬驚いたようにこちらを見た。

しかし「酔っぱらいの戯言か」と顔を背け、すぐに酒を飲んだり談笑し始めた。

「バンジー…その…言葉のアヤだ」

「ミクじゃなくてアヤ?」

「お前わざと間違えてねえか?」

バンジーは不思議そうな顔で木下を見た。

「スミマセン今のはわざと間違えました」

「今となっちゃ横恋慕なんだけど最初に彼女に目をつけたのは俺なんだ。あいつだって知ってて…いや、最初から俺とミクちゃんは何もなかったんだ」

「ナラシカタナイネ」

「外人はシビアだな」

木下は「それでも俺は先輩として…結婚式には上司として祝儀まで…」

カウンターに向かってぐちぐちと愚痴を溢した。

「20年も連れ添った亭主に若い女と逃げられてごらんよ」

2つ空いたカウンター席の中年の女がビールの入った細いグラスに手に呟いた。

溶けかけた雪だるまみたいに膨らんだ体と弛みきった顔を見たら「仕方ないよ」と誰もが言いたくなるが余計な言葉は誰も言わない。

カウンターで客の注文に忙しく応えるふりをしてマスターは女の巻くくだに相づちだけ返す。

「こんなんばっかりだぜ」

木下がげっぷしながら吐き捨てる。

「でもよう、俺だってたまには金たまのしわのばしたくなる時もあってさ。俺たちの安月給じゃとてもとても…今日はバンジーさんのおかげだよ!」

充血してとろんとした大目玉を見開いてバンジーの肩を組む。

「キンタマのびたか?」

「ああ…ありがとうな」

カウンターの中年女は先ほどからじっと木下の方を見つめている。

ご機嫌な様子の木下は女と視線がかち合うと急に酔いが覚めたように首を振り。

「そろそろ、お開きにするかな」とバンジーに言った。

「そう言えばバンジー…お前の従兄弟の話だけどな」

店を出る頃になって木下はそんな話をバンジーに切り出した。

「お前とは仕事場でもあんまり話す機会がなくてしなかったが」

ギタールリンが金を盗まれた晩一緒に飲んでいた村岸という男。

「あいつ俺の同期なんだ」
木下は言った。

「まあ、金持ってる契約社員や期間工にたかりまくって酒を飲むって以外特別な悪ってわけじゃねえ…俺から見れば小者もいいとこだが」

木下は右手でリペットを打つ真似をして見せる。

「別にあいつが部屋を開けさせて金を盗ませたとか…そんな話じゃねえんだが」

木下の話にバンジーは真剣に耳を傾けた。

「『あの日は酒で気が大きくなっててさ-俺が普段知らねえような場所に案内してやるよ…なんて、それで帰りが少々遅くなっちまった…悪い事したと思ってるよ』なんて話…やつから聞いたんだ…ま大した話じゃねえが」

戦後の焼け跡から復興と共に広がり始め現在に至る大規模な工業地帯。

昔から必ず、そこで働く労働者の懐目当ての歓楽街というものは存在した。

バンジーの働く工業都市にも駅前から少し歩けばそうした場所に行き合う事が出来る。

かつては労働者相手に客引きしていた歓楽街も全国的に有名になると他県からの客が街の駅を降りるようになり軒を広げるようになった。

そんな、夜中でも煌々と灯りが消えぬ場所から僅かに数百メートル歩いた市街地のような場所をバンジーと木下は歩いていた。遠くに繁華街やマンションの灯りが見える。

舗装されていない砂利道や何の目的で建てられたのか定かでないバラック小屋。

至る所に有刺鉄線が張られた空き地と廃屋になった3階4階建てのビルが散在する。

繁華街や飲み屋通りの過密もなければ道を歩く人の姿もない。廃構地帯を吹きわたる夜風は酔った頭を冷すには丁度いい。

閑散とした砂利道を通ると暫く歩くと住宅街のような場所に出る。

一見すると何の変てつもない民家が建ち並ぶようでいて、そこにある家々は皆古い昭和の時代の瓦屋根の建築だった。

夜半を過ぎた時刻であるから当然と言えば当然だが人の暮らしの気配はない。

この場所だけが時間の流れから取り残されてしまったようにバンジーには思えた。

薄汚れた埃のように積もる灰色の闇が町全体を覆っているように思えた。

昼間訪れたらまた印象も違っていたに違いない。

バンジーは昔の日本建築に詳しいわけではないし郷愁もない。

もしも昭和の時代の家並みに記憶のある日本人がここを訪れたなら懐かしさよりもまず違和感を感じたに違いない。

ある有名がカメラマンは以前この町を訪れ建物や路地を撮影して歩いた。

彼が出版した写真集にはこんな一文が添えられていた。

「もしもこの町を訪れる事があっても、けして指指したり大声をあげたりしないで。ただ黙って風のように通り過ぎてほしい」

「なんで赤線ていうのか俺は知らねえけどよ」

木下がバンジーに説明した。

「ここは元々そういう町なんだって話だぜ」

赤線とは日本で1958年3月以前に公認で売春が行われていた地域の俗称だ。

かつてこの国は客に飲食を提供する届けを提出すれば店での売春行為は容認されていた。

昔の古い地図に赤い線で囲われた地域が赤線。

青い線で囲われた地域は非公認で売春を行う青線である。

この町にある一見すると何の変てつもない2階建ての民家も横から見れば妙に奥行きや窓が沢山ある。

瓦屋根の日本建築にはそぐわないペンキで白く塗られたベランダや飾り窓。すべてが客を呼び込むための店である印だ。

家の扉は大概が引き戸になっていて昔はその扉が少しだけ開いていて通りから覗けるようになっていた。

玄関には洋装和装の女たちが正座して客が来るのを待っている。

気にとまった女がいれば玄関から中に入り女と2階へ上がる。

これは大概届けを出さない青線だが通りには寂れ果てたカフェのような建物や飲み屋の廃屋もある。

通常町内では民家と酒を出すような店は混在しないものだ。

ここは赤線地帯でも青線地帯でもあった場所であると過去の廃屋たちは物語っていた。

多少なりとも穿った物の見方をしたがる人間ならばこの、うら寂れた町の物悲しさと過去にこの町に行着いた女たちの運命や悲しみをいっしょくたに考えたりしたかも知れない。

ただバンジーは、こんな寂しい場所でギ-タルリンは何をしてたのか?そう思わざるを得なかった。

「俺が地元の工業高通ってた時もまだやってる店があるって聞いたぜ」

赤線ではGHQによる公娼廃止指令から売春防止法の施行があった1946年から1958年までの間に半ば公認で売春が行われていた。

1946年1月、GHQは民主化改革の一環として、日本政府に公娼制度の廃止を要求し、これに基づき戦前からの取締法令が廃止された。女性の自由意志による売春自体は禁止できないとしても、女性を前借金で拘束する人身売買を禁止しようとしたものである。

人身売買事件などが大きな問題になったのは1950年代以降である。

1952年の衆議院行政監察特別委員会で人身売買事件が問題になり、3月4日には厚生事務次官が「赤線区域と申しまするものはないに越したことはないけれども、今日としてはやむを得ない」と証言し、黙認していることを認めた。

1956年制定された売春防止法の完全施行を控え、1958年3月までに赤線内のカフェなどは一斉に廃業した。

しかしこの区域は変わらず営業を続けた。関西地方にある赤線と呼ばれる店は料亭や料理屋等々の条例に沿った風俗店に看板を掛け替えた。

しかしこの区域はそのままの姿で商いを続けた。

もとより高級な料亭や旅館など目当てに訪れる客はこの町にはいなかった。

かつての赤い線で囲われた地域は時代の流れと共に寂れるにまかせて行く中で女たちも駅の付近に新設された歓楽街へと流れた。


国に指令を出したGHQにしろ行政にしろ人身売買でなく一定の区域から出る事なくあくまでも女性の自由意思で売春が行われる事は「必要悪として致し方ない」というスタンスであったため、このような場所は平成の時代でもそのまま営業を続けていた。

「一応ソ-プ以外で日本では本番ってのは禁止されてるわけだ…でもこんな場所が今の今まで法の目を逃れてたのは多分俺が思うに日本の偉い人、総理大臣とか、ここで筆下ろしした思い出の場所に違いねえって俺は睨んでるんだ」

「フデオロシ」

「まあ、何だかお前見てるとなんかほっとけなくてよう。俺と同じ匂いがするって言うか…別に何にも匂わねえから嗅がなくていい!」

借金で首が回らなくなり家を捨てて逃げ出した家族の台所のように何もかもがそのままで所在なく、かと言って持ち去る金目の物が転がっているわけでもない。

「大方やつもお前の従兄弟に『俺はちょっとそこらの遊びなれたやつと違うんだぜ』みたいなとこ見せたかったんじゃねえのかな」

かつての色町の甘やかな噂や空気は何年時間が経っても消えずに男を呼び寄せるものなのか。

「ここに来れば安く女が買えるとか…目の覚めるようないい女が客待ちしてたなんて噂がないわけじゃないんだ。俺地元だからさ…たまにそういう噂聞くんだよな」

木下はバンジーに言った。

「もしかしたら幽霊かもな、さっさと帰ろうぜ。ここにいたって酔いが覚めるだけだ」

バンジーは木下の後について元来た道を歩き始めた。

「兄さんたち女の子ならいるよ」

薄暗い電信柱の影から一目で老婆とわかる女が現れた。

タイミングが良すぎる。

先ほどから電柱の影に隠れて2人の様子を伺っていたようだ。

女を探しに来た客と判断して慌てて飛び出したのだろう。

「今時ポン引きのババアかよ」

木下は大きな目玉をさらに大きくして言った。

「私ゃババアだけど、いい娘なら知ってるよ。兄さん方何なら紹介するがね」

腎症か糖尿の気でもあるのか老婆の瞳は光がなく灰色だった。

若い頃悪い薬でもやり過ぎたつけなのか笑いかけた口内の歯という歯がすべて抜け落ちていた。

みすぼらしいなりだが首元や鶏のような指にありったけの安物のビ-ズのような光り物を見につけていた。

バンジ-にはその姿は恐ろしい呪術師か西洋の魔女のように映った。

「本当にいい娘がいるのか?」

木下は疑わしそうに老婆に言った。

今時こんな怪しげな老婆の誘いにのる男などいない、とバンジーでさえ思った。

「いるさ宿代込みでこれでどうかね」

老婆は片手を上げた。

「高いな」

木下は首を横に振る。

「女はそんなに安くないとおもうがね」

老婆は指を2つ仕舞う。

「まあ、それなら」

「じゃあついて来な」

バンジーと木下を先導するように歩き出す。

「まあ、こんなのもいいじゃねえか。人生は冒険だぜバンジー」

そう言ってウィンクしながら木下はバンジーの背中を軽く叩いた。

「よお婆さん、さっきから同じ場所ぐるぐる回ってねえか?」

木下の言葉通り老婆につれ回された2人は先程から何度も同じ道を迂回し同じ通りに出た。

バンジーは先程から見覚えのある電信柱を何本数えたかと自分の指を折る。

まるで精霊にでも化かされたようだ。

「ようってば婆さん。いいかげんに…」

さすがに焦れて立ち止まった木下ににじり寄ると老婆は歯の抜けた口端をつり上げ笑った。

「兄さん、私じゃだめかね?」

「な…」

木下は絶句した。

「ババア、笑えねえ冗談だぜ」

「私だってなかなかのもんさ。

あんた男前だから1本でいいから…何なら2人一緒でも」

「ふ…ふざけんな!」

木下が子供みたいに地団駄を踏む。

地団駄を踏むという表現は最近新聞で読んだが…こういう事を言うのかとバンジーは思った。

「日本語ムツカシイネ」

「てめえ、俺を誰だと思ってやがる!?この界隈で木下さんって言ったら…」

「木下さん話し方どチンピラ」

老婆と木下が通りで揉め始めたのでバンジーは止めに入ろうとした。

しかし老婆はそんな客あしらいも馴れたかのように「なら仕方ないね」とため息をついて背中を向けて、すたすたと歩き出した。

「ちょっと待っといで」

そう言って暗がりに姿を消した。

「待つかよババア!」

「大の男ががつがつするんじゃないよ!」

そんな老婆の捨て台詞と背中が暗闇の中に吸い込まれるのを2人は呆気にとられ眺めていた。

やがて老婆は今度は2人連れで現れた。

「さあ女の子連れて来たよ」

婆さんが2人に増えたわけじゃあるまいかと木下は暗がりで目を凝らした。





「しなくていいの?」

場末という言葉が似合うラブホテルの窓際に設えた藤の椅子に凭れながら女の痩せた影がバンジーに訪ねる。

ベッドに腰かけたバンジーは黙って女の言葉に頷いた。

「無口なのね」

煙草の煙と一緒に吐いた女の言葉はそれきり途切れてノイズのゆうな空調の音だけが部屋の中に流れる。

イヤリングやネックレスを外す時の衣擦れの音。

「話だけでもお金はもらうけど、いい?」

部屋に入る前に女はバンジーにそう念をおした。

「いくらかでも持って帰らないと私がピンはねしたって煩いのよ、あの婆さん」

部屋の明かりは消したままにしておいた。

「明るいとこだと年がばれるから」

女の表情は暗がりの中でも目の前に現れた時と同様微笑んでいるように思えた。

女は終始その顔に微笑みを浮かべていた。

老婆に連れられて夜目も鮮やかな赤いドレスに身を包んでバンジーと木の下の前に現れた時からずっと微笑みを絶さない。

もしかしたら老婆が散々2人を連れ歩きあげくの果てに自分を売り込んだりして見せたのは彼女なりの計算だったのかも知れない。

何度も連れ回し客を焦らし疲れさせたっぷり失望させた後彼女を見せれば客はまず彼女を見て安心し断らない。

そんな計算があったのかも知れない。

しかしバンジーはそんな事は考えなかった。

街灯の下に立つ彼女を見て「聖母マリア様のようだ」とその美しさに胸を打たれた。

木下は少し違っていたようで老婆が女を連れて路地から姿を現した時。

「おお」

というため息が思わず口から漏れバンジーの脇腹を肘で軽く小突くと。

「噂ってのはやっぱり検証してみるもんだよな。すげえ美人じゃねえか…」

しかしそんな木下の高揚ぶりは女がいよいよ側に来て立ち止まると、あからさまな落胆の顔に変わった。

女は街灯の下でみると少々年を取り過ぎのように見えた。

体は鎖骨が浮き出してスレンダーというよりは鶏のように痩せていたし鮮やかに見えたドレスは今時誰も着ないボディコンシャスで顔や目尻の皺も興をそぐものだった。

「そっちの目玉のお兄さん、それじゃこんだけで」

老婆は満面の笑みで指を5本立てた。

「ふざけんな元値に戻ってるじゃねえか」

木下は小声で呟いた。

「兄さんいいのかい?後悔するよ」

「いや、俺はロリコン趣味なんでね」

「じゃあ、そっちの外人さんだね」

老婆は客を逃すまいと食い下がる。

「そうだな」

木下は顔を上げて目を見開いた。

「今日の主賓はバンジーさんだからよ!お前が行け…なあに」

木下がバンジーの耳元で囁く。

「こ~ゆうのは何事も経験だからよ。経験持ってる女のがいいんだって」

バンジーは木下の言葉に静かに首を振った」

「ちょっと!」

老婆が慌てて2人の会話に割って入ろうとした時女が初めて口を開いた。

「私、外国の人には好かれないみたいね」

老婆が同意するように忌々しげに唸る。

「外国人の客なんてあるのかい?」

木下の質問に女が言った。

「ちょうど同じような2人連れで以前あったわ」

思い出すように女は唇に手をあて街灯の電球を見た。

「楽器みたいな名前の外人さんだから覚えてるの」

「その人名前何ですか?」

バンジーが女に詰め寄ると女は言った。

「ギター!確かギターなんとかって…」

バンジーがさらに問いたげにしている様子を見て老婆が言った。

「こっちも商売なんでね」

「なんでも無料ってわけには行かないよ」

「ギ-タルリンはどうしましたか?」

「せんない話、かな」

暗闇の色に女の吐き出す紫が混じる。

客が代わる度に取り替えられるのりのきいたシ-ツの匂いだけが清潔に感じる。

「彼、逃げたの」

木の下がバンジーに勧めた時のようにギ-タルリンも女を勧められた。

ギ-タルリンは微笑みながら差しのべられた女に背を向けて逃げた。全速力で。

「ちょっと好きだったかも…あんなに真っ直ぐで曇りがないっていうか…あなたもそうね。私が育った子供時代にあんな目の子はいなかったな」

「スミマセン」

以外な女の言葉にバンジーは当惑した。

この国では困った時にはスミマセンがまず先に出る。

女の乾いた笑いが聞こえた。

「別に…もっと酷い客とかとんでもない変態とかいるの。でもねえ…あの人好きな女でもいるのか、それとも女を知らないのか色々後から考えちゃって…『この仕事ももう終わりかな』なんて柄にもなく考えちゃった…話はこれで終わりよ」
藤椅子の女の影がこちらに向き直る。

「まだ時間はあるけど?」

「お話出来ますか?」

「またお話?」

「お話すると日本語覚えます上手になります」

「覚えてどうするの?」

「知りたい言葉知りたい事沢山あります」

「日本人の恋人がいれば簡単なのにね」

バンジーは無言で俯いた。

「そうなの」

女がポツリと言った。

「あの婆さんに散々つれ回されてうんざりしたでしょう?」

女の声が急に明るい調子に変わる。

「あの人何?ちょと怖い…partner?」

「いい発音!」

女がpartnerに反応して笑い声をあげる。

「She is my mother…あってるかしら?私無学だから」

「mother…多分それ違うね」

「そうね」

「腐れ縁みたいなものでね。腐れ縁、わからないか…あの人昔からあそこの置き屋で働いてて素行が悪くて若い時分に店を追い出されてから路上の売り専門で年とってからもポン引き…色んな男とも商売の娘とも関わって来たの」

悪い薬に手も出したし片親の顔も定かでない子を孕んではその度堕ろした。

「それがどういう気紛れか、どうせ気紛れに決まってるんだけどお腹に授かった子を堕さなかった。昔から男相手に股開くしか能のない女が…母親になんか、なれっこないのに」

結局育てられずに施設に子供は預けられた。

「預けたというか遺棄た…でまた気紛れ」

施設から娘を引き取るとその娘と暮らし始めた。

「あの町でね…でも結局悪い薬や男に貢ぐ悪癖は治らない…挙げ句に自分が稼げなくなると娘を路上に立たせるようになったって話。でもね…バンジーさんだったっけ?」」

女の言葉にバンジーは頷いた。

「娘だってバカじゃない…遠くを見れば安全で小綺麗な繁華街の灯りが見える。酷いピンはねはねばかりするロクデナシの側にいる理由なんてないの」

そうして老婆は今の今まで色んな娘と出会い今のような暮らしをしているのだと女はバンジーに言った。

「私もその中の1人…もうさすがにあんな場所に女を買いに来る客もいなけりゃ商いする女もいないってのに…まだいるの、あの婆さん」

「心配ですか?」

「まさか、『もういいかげんくたばった頃かな』と興味がてら見に来るだけ」

それでもやはり女は老婆の話を続けた。

「同じ場所を何度も連れ回されたでしょう?」

煙草の煙に女が噎せる。

「私思うんだ」

闇に少し慣れた目でバンジーは女の方をみるが表情まではわからない。

「あんな人でも迷うんじゃないかって」

女のシルエットは膝を抱いて自分の足の爪を見るようにしどけない。
「暗がりで待っていると『今日はしまいだよ。さあ家に帰ろう』なんて…そんな事は一度もなかったけど」

「あんな客も来ない場所に出て、もうすっかりボケちまってさ。でも性分は治らないもんだから、らちもない話さ」


表の駐車場に入って来る車のハイビ-ムが窓際の女の姿を照らした。

「お金持って帰らないと私の事叩こうとするんだ。けど拳も名前もさっぱりだ…痛くも痒くもないけどね」

女は再び微笑みをバンジーに向けて言った。

「いまわの際にも無理な話」

「こっちに来てバンジーさん」

女が酔ったような陽気な声で暗闇から手をのばす。

バンジーは言わるままにベッドから腰をあげる。

「座って頂戴」

バンジーが絨毯に両膝をつく。

すると女のか細い腕が彼の頭を抱きしめた。

遠くで線路の上を走る列車のか細い音が聞こえる。

終電の時効はとうに過ぎていた。

コンテナを牽引する貨物列車か或は車両整備のために車庫に入るための列車か。バンジーは電車の音を何処かで耳にする度に彼女の事を思い出した。

「好きな人がいるの?」

返事の代わりにバンジーは女の胸に顔を埋めた。

店で売られている安くて甘い香水は彼女の香りではない。

駅で出逢った五月の香りは柑橘の香りがした。

髪の匂いや石鹸や体の匂いや瓶の中に閉じ込めた香水は外の空気に触れ彼女たちだけが身に纏う女性の香りに変わる。

バンジーは彼女の芳香を好きだと思う。

「幸せな女もいるのね」

彼女が言った。

「時々こうして誰かに教えてもらわないと忘れそうになるの」

抱えていた腕の力が緩み見上げると彼女は言った。

「私ももうすぐ此処を出て行くの。だからもう会う事はないと思うけど」


部屋を出る時に明かりを点けた。バンジーが振返ると女は微笑み返してまた明かりを消した。





季節など感じる暇もなく時間だけが過ぎて行く。

島を出て以来毎日がそんな日々の繰り返しだった。

5月は目まぐるしくバンジーの前を通り過ぎた。

廃墟のような色街で女と出会った翌朝もバンジーは変わらず仕事に出た。

「バンジーさん昨日はお楽しみだったそうじゃねえか」

バンジーをからかう仕事仲間の中心には木下がいた。

「はい、お楽しみです。木下さんとおっぱいのパブ、それから…」

バンジーは涼しい顔で答えた。

「お…おい!バンジー!?」

近くに工場長や副工場もいたので木下が少し焦り気味に人差し指を立てる。

「なに?木下さん、まだ出世したいか?」

「お前…本当は性格悪いだろ…絶対悪いよな…」

「ミクちゃん残念」

「てめえ!」

木下がバンジーの頭に飛びついて羽交い締めにする。

仕事仲間は皆それを見て笑う。

工場長も副工場もしかめっ面をしていたが笑いを噛み殺していた。

バンジーは生まれて初めて洋服の青山で新しいス-ツを新調した。

ス-ツなんて一生袖を通す事はないと思っていた。

国木田が「裁判に出るには普段着よりも、そちらの方がいいでしょう」とアドバイスしてくれたからだ。

「こちらでス-ツはご用意致します」という国木田の申し出をバンジーは丁寧に断った。

バンジーの普段着は作業服だった。

バンジーは彼女の法廷での証人になるために県警を訪れた。

担当の警官は事務机を挟んで一応調書を取る格好をしていた。

時折品定めをするようにバンジーを上目遣いで見ていたが帰る時には「ご協力感謝致します」と言った。

バンジーは「証人になりたい」と言ったが警官は。

「何しろ沢山の情報が集まり錯綜している状態でして…こちらで精査した後に御協力をお願いする際には折り返し連絡差し上げます」

そう言ったきり警察からは何の連絡もなかった。

「まあ、警察は我々の敵ですからね。こっちが有利になるような証人なんて必要ないって事でしょう」

バンジーは毎日新聞を読む。

読んで分からない事は理解するまで質問する。

仕事場では色んな事に興味を持つ勉強熱心な外国人のイメージが既に定着していた。

勿論その中には彼女の記事に関する質問も含まれていた。

しかし、あまりに沢山の質問を繰り出す話題の中にそれは埋もれた。

「すみません、これは何の事が書いてありますか?」

「ああ…それは死亡欄てやつだな。亡くなった人の事を知らない人に報せるために遺族が載せるものだ」

「これは?」

「それは尋ね人の欄。行方不明になった人や連絡がつかない人を探すために金を払って新聞に載っけてもらうんだ」

バンジーは新聞の尋ね人の欄を利用する事にした。

行方がわからないギ-タルリンとそれから…。

ギ-タルリンが新聞を読んでいるところなど一度も見た事がない。

大丈夫だろうか?部屋で文面を考えている時携帯にメールの着信があった。

従兄弟からの久々のメールだった。




【クニキダさんという方へ。あの日僕はメイさんと会いました。彼女の話テレビと違います。彼女助けたい。連絡下さい】

バンジーの購読している全ての新聞の尋ね人の欄にこうした謎とも思えるメッセージが連日乗り続けた。

「こちらでも実は手を尽くしてバンジーさんの事はお探ししていました。しかし五月お嬢さんの話は雲を掴むようで…正直難儀していたんです」

喫茶店でバンジーの前に座った国木田という男は落ち着いた物腰と声で微笑んだ。

「お嬢さんのためにわざわざ御足労頂き感謝致します」

深々と頭を下げる彼はその堂に入った言動とは裏腹に意外に年齢は若いのかもしれない。そんな印象を与えた。

「この町は外国から働きに来てらっしゃる方が随分多い…今回バンジーさんをお探しして初めてその事に気がつきました」

いつも体の一部のようにかけているカレラのサングラス。

「なりに似合わず人見知りなもので、これがないと、どうもいけません」

彼の風貌は未だ青年の面影を残していた。

しかしサングラスのグラデーション越しに覗く鋭利な瞳は彼が堅気でない一角の人物である事を伝えている。

それを誤魔化すためのサングラスであろうか。

「昔からお嬢さんの家庭教師…兼お世話係をさせて頂いてます国木田です」

国木田の最初の挨拶はそうだった。

「私は組織の構成員でも何でもありませんから」

そう涼しい顔で笑う。彼はいつもブランドの既製品ではない仕立ての良いルイジの生地のオ-ダ-ス-ツを身に着けていた。

「まあ、私の事はいいんですが。ボランティアの執事…パートタイムの半ぐれってとこでしょうか」

何を言ってるのか。バンジーには国木田の言う事がさっぱりわからない。

「しかし私がお嬢さんに長年お仕えして来た事は間違いありません。私はお嬢さんの味方です」

バンジーには国木田の言葉は信用出来る気がした。

「お嬢さんをお助けしたいという気持ちは同じですよ、バンジーさん」

証人として法廷に出廷するに際しバンジーに国木田は様々なアドバイスをくれた。

注文をつけたと言った方が正しいだろうか。

「バンジーさんは、あの日お嬢さんと会って話された事をそのまま法廷で証言して頂いて構いません。私たちは貴方に虚偽の証言なんて求めてはいませんから…ただお嬢さんに都合が悪いとこちらで判断した話は避けて頂きたい。バンジーさんは検察ではなく私たちの証人ですから。そこだけはお忘れなく」

国木田はバッジこそないものの実は弁護士なのではないかと思われるほど法律や刑事裁判に対しての知識に長けた男だった。

それは五月の事件担当の弁護士に引き合わされた時も同様で実際どちらが本当の弁護士か分からなくなるほど国木田は弁護士に事細かく指示を出していた。

「暴力団新法ってやつがありましてね」

国木田はバンジーに説明した。

「今日日ヤクザ者どころかヤクザの身内ですら裁判もろくに受けられず実刑くらう場合が多いんです。ましてこっち側についてくれる優秀な弁護士なんていやしません」

国木田の言葉通り紹介された相葉という弁護士はかなりの高齢者で既に現役を退いた感が甚だしい。

どこから見ても敏腕な弁護士のイメージには程遠い。

おじいちゃんだ。

引退前に高額な報酬につられ弁護を引き受けた。

そんな様子が見てとれる頼りなさげな老人だった。

「お嬢さんが警察の聴取に対して自分の犯行だと自白している以上、こちらとしては心身喪失で無罪を勝ち取る以外手はないんです」

国木田は彼女の無罪を信じていないのだろうか…その点でバンジーには疑念があった。

「私らみたいな世界の人間なんて警察や世間から見れば虫けら同然です。何人死のうが関係ありません。むしろ関東の名だたる組の頭や幹部の大半が片付いてくれて喜んでいるのはあちらでしょう…でも検察は訴追が本分、お嬢さんに表彰状なんてくれません」

「なんとしてもお嬢さんの長期収監や有罪判決は避けなくてはなりません」

五月末。初公判が開かれる当日の朝。国木田は黒塗りの高級外車でバンジーを迎えに来た。

平日であったためバンジーはその日初めて仕事を休んだ。

裁判所に向かう途中国木田はふと思い直したように運転手に伝えた。

「車を元来た場所まで戻してくれ。バンジーさんのアパートまでだ」

元来た道を戻る車中で国木田はバンジーに言った。

「勝手言ってすみません。バンジーさんはやはりス-ツよりも作業着の方が良いと思われます」

「そういうものなのか」

とバンジーは思ったので特別反論もしなかった。

車中で2人は無言で過ごしたが国木田は一言。

「懐かしい」と呟いた。

「自分作業着が好きなんです」

「少しだけバンジーさんが羨ましく思います」

「着る?」

バンジーがそう言うと国木田は否定もせずただ口元に笑みを浮かべていた。

「親父が昔よく着ていたもので」

「そう」

束の間2人の間に温かな空気が流れた。

裁判所の正門前は、つめかけた報道人や裁判を傍聴しようと整理券を求めて並ぶ人々で溢れていた。

それとは裏腹に公判自体は開廷から実に事務的に淡々と進行した。

検察側からは検事が起訴状を読み上げ。

それに対して被告である彼女の名前が呼ばれた。

「起訴状に間違いはありませんか?」

との問いかけに彼女は全て「間違いありません」と答えた。

「被告は先程検察が述べた犯行の罪状について全て自身の犯行であると認めるのですね」

「多分」

「多分とは?」

「記憶がありません」

「記憶がないのに自ら犯行を認めるのですか?」

「家の倉庫から銃を持ち出し父親を殺そうと画策した記憶は確かにあります。そこから先は記憶がありません。しかし私は父親に銃を向け引き金に手をかけた、それだけは確かです」

「事件後警察に出頭した貴女の毛髪や尿検査からは禁止薬物…つまり覚醒剤が検出されましたが、貴女は日常的に違法な薬物を常用していたという検察側の起訴状に間違いはありませんか?」
「はい、ですが自分から望んでそうした訳ではありません」

「貴女に強制的に薬物を投与し続けた人間がいると…それは誰ですか?」

「父です」

「実の父親が娘にですか?」

「私は父の実子ではありません」

「貴女は実の親でない父親に殺意を抱くような扱いを受けていたと、それを証明出来る第三者の証人はいますか?」

「いません。多分私があの日すべて殺してしまったようですから」

弁護側からは何のオブジェクションも入らない。

裁判とは端的に言って自らが犯した罪に対する質疑応答の場である。しかし人は誰しも自分の犯した罪を認めようとはしない。

手練手管を用いて法の隙間を潜り抜け何とか本来罪に科せられるべき刑罰から逃れようとするものだ。

その意味に於いて、これは実に異様な裁判であった。

「被告は明確な殺意を持って自らの結婚式において未曾有の大量殺戮…もとい大量殺人の大罪を犯した。にも関わらず罪を逃れんとするために記憶の欠如、心身喪失を装う意図が見られます」

「ですが検察側から提出された診断書には明確な薬物反応が検出されております」

初めて相葉弁護士が意見を述べた。

「薬物の検出がそのまま心身の喪失と被告の責任能力の無さを証明出来るものではありません」

「今から彼女が事件の責任能力を問えない心身喪失状態であった事を証明出来る人物を証人として呼びたいと思います。証人喚問を!」

証人の要請に応じてバンジーは証言台に立った。

指示に従ってバンジーは自らの名前と出身地と現在の職業を答えた。

それまで静かだった傍聴人席でざわめきが起きた。

厳めしい顔をした判事はバンジーの名前とバンジージャンプの因果関係について質問する事はなかった。

久しぶりに再会した彼女はバンジーに背を向けた格好で被告人席に座っていた。

肩まである髪はゴム紐で結ばれ後ろで束ねられていた。洋服も無地のTシャツにスエットのようなパンツ姿であの時の面影はない。

証人にバンジーの名前を聞いた時彼女のか細い肩が少しだけ揺れ動いたような気がした。

しかし彼女がこちらを振り向く事はけしてなかった。

それでも彼女の横顔は誰の目にも美しいと思えた。

バンジーは飽かずに金貨を眺める子供のような気持ちになる。

彼女をずっと見ていたい思いにかられた。

けれど弁護士の質問に促され自らの役目へと戻る。

そうしてバンジーの証人喚問が始まる。

大勢の傍聴人や裁判官や検事が視線と彼の言葉に耳を傾ける中で。バンジーは質問に答え続ける。

彼女と出会った時の、彼女がバンジーにした話。

一言一句間違える事なくすべてを彼は記憶していた。

正確に言えば記憶した言語を後の学習により理解し再構築したのだが。バンジーが話し終えるのを待って弁護士はそれに冷静に注釈を加えた。

「いったいこれらの事実に何の意味があるのでしょう?」

「聞いての通り彼女が彼にした話には何の整合性もありません。謂わば支離滅裂荒唐無稽な夢のような…悪夢ですかな、お伽噺ではありませんか?」

「なんの得にもならないはずです…彼女にとって彼は素性も分からない通りすがりの外国人に過ぎないのですから。日本人ならともかく彼が彼女のために証言をしてくれる確率は一体何%でしょう?」

いつの間にか相葉弁護士の口調は熱をおびていた。

「事件に関心が高い日本人ならともかく…これは彼女が事件当日正常な判断が出来ない心身が喪失した状態であったと証明出来るものではありませんか」

判事の冷静沈着な声が彼女に問う。

「被告人、只今の証人の証言は事実ですか」

「間違いありません」

彼女は答えた。「事件当日被告は証人に出会ったのですね」

「それは記憶にあります」

被告人の彼女にではなく証人であるバンジーに矢継ぎ早に検察側からの質問が飛んだ。

「被告との関係は?」

「何故ここにいるのですか?」

「貴方は一体誰ですか?」

検事が問いたい質問の趣旨は明白であった。

素朴な疑問とも言える。

そこから導き出される答えを判事と陪審員及び傍聴人全員に印象づけたい意図がある、つまりは。

「こんなどこの馬の骨とも分からないような外国人労働者の証言に証拠としての価値があるのですか?」

バンジーは検察側の質問に丁寧に日本語で答えた。

「貴方は日本に語学や文化を学びに来られた留学生ですか?もしくはその経験がおありですか?」

「ありません。ただ働くために来ました」

バンジーは作業着を指差して答える。

「現在お仕事は何を?」

「工事で働いています」

仕事の内容について事細かい説明をした。

「それ以前は?」

「皿洗いを」

「日本に来る前は?」

「ラスベガスで皿洗い…鳥を洗ったりハンバーグ仕込みしました」

「何故日本に?」

殆んどの日本人が知らないバンジーの故郷の歴史や政情が流暢に語られ…検事は途中で「もう結構です!」と止めた。

「つまりお国の政治経済が不安定なため出稼ぎに来たと…中々関心な事です」

「家にお金送ります」

バンジーは力強く頷いた。

「実に彼はいい青年だ!」

入れ歯が飛び出そうな勢いで相葉弁護士は右手を挙げた。

「異議あり!…というわけではありませんが検察側の証人に対する質問は証人の人間性に対し疑念があると周囲に喚起させる意図が明白であり…」

「弁護人、それを異議申し立てと言うのではありませんか?」

裁判官の言葉に弁護士は鼻の頭にかいた汗をかいた。

「私も初めて彼に会った時は面食らいました『こんな必要最低限の日本語を話す程度の語学力しかない外国人の青年に法廷での証言が務まるのだろうか』と…しかし先程の彼の証言の内容を聞いて頂けば彼がいかに努力家であるかご理解頂けるかと」

「ここは日本語学校の発表会ではありませんよ!」

「至極真っ当なご意見でありますな」

検事から横槍が入るのを予想していたかのように弁護士はふるまった。

「ここに手紙の束があります」

くたびれた自前の鞄から弁護士は便箋の束を取り出して見せた。

「外国の文字と消印がある…これは証人の母親から証人に送られた手紙の束です」

「そのような物は事件の本筋とは関係ありません」


「証拠とは言ってない。参考程度にお考え下されば幸いかと」
相葉弁護士はちらりと判事の顔を伺う。そのまま「棄却」の声がかからないのを確認して話を続けた。

「証人に証人の母親から届いた手紙に何か本件に関わる意味合いがあるのですか?」

「証人が本件に於いて信用に足る人物である人間であるか否か…よりまず先に、ここにおられる皆さん方がこの親御さんからの手紙を読んで、どう思われるか問いたいのです」

「裁判長!これは裁判の遅延と論点の暈しと考えられます」

「法廷に於いて証人の証言信憑性を証明しようというのだ…どうか許可を願います」

「弁護人続けなさい。但し手短に…本件とあまりに関係ないと判断した場合即刻発言を止めるように」

相葉は頷いて便箋から中身を取り出して見せた。

「これは証人の母親が証人に宛てた手紙…というのは先程説明しました」

バンジーの母国語で書かれた手紙。それを指でつまんで皆に見せた。

「読めない」

相葉は顔をしかめた。

「おそらくここにいる何方にも読める方はいらっしゃらないでしょう。しかし世の中は便利な機能が発達したものです…検事殿はご存知でしたか、これ?」

「携帯に翻訳機能がある事くらい今時常識ですよ」

検察側は公判に臨むのに際して入念な下調べと準備を行った事に疑いはない。

勿論被告側の弁護に立つ相葉弁護士についてもだ。

資料では相葉弁護士は過去の裁判に於いてこのような動きをした判例は一度たりともなかった。

負けを承知の訴訟でも依頼主を焚き付け勝訴による報酬よりも手数料や相談料で胡口をしのいで生きて来た、謂わば3流4流の弁護士であったはすだ。

検察側は相葉弁護士の言動に警戒心を抱いた。

そもそも初動捜査の段階から不可解な事件であった。

盾という名前のピアノから次々と生まれる疑問符の調べ。

シンプルな「抗争」の二文字で片がつくと当初は誰もが考えていた。

例えば外国人マフィアによる外国人同士の犯罪。

被害者である関係者の遺体が上がったとしても警察は藪をつつかない。

法律や人権の外で生きる日本の暴力団どうしの殺人事件に於いてもそれは同じであった。

ただ犯人の検挙が為されればそれで警察の体面は保たれた。

事実被害者の暴力団会長の義理の娘とその新郎となる男の父親の暴力団組織は抗争関係にあった。

両家の婚姻は事実上手打ちの儀式の意味合いもあったのだろう。

両家の関係者が一同に集う披露宴の席を狙っての襲撃という線は充分に考えられる。

しかし居合わせた両組関係者の全員がその場で1人残らず殺害されているという事実。

それどころか披露宴に出席した他の組の暴力団幹部と関係者も含め全てが殺害された。

抗争というより暴力団を標的にしたテロと呼んだ方が正しいように思われた。

被告人である彼女は当初事件に巻き込まれ父親と新郎を射殺された花嫁であるという立場から事件の被害者であり唯一の生き証人であると警察は考えた。

しかし彼女は取り調べに対して、あっさりと「自分の犯行である」と自供した。

彼女の自供から彼女の境遇が明らかになり「父親を殺したい」と常々考えていたという殺人の動機も明確になった。

しかしそれで彼女が父親を殺害したという事件の説明は出来てもその場にいた人間を皆殺しにする理由にはならない。

口封じのためなら何故そのまま被害者のふりをせずに警察に出頭したのか。

彼女が衣服を捨てたと証言した駅のゴミ箱から発見されたシルクの手袋からも彼女自身の手からも硝煙反応は検出されなかった。時間の経過と反応が出にくい素材であるとの説明は可能である。

しかし彼女の髪や尿から検出された薬物。

彼女はこれは覚醒剤を投与されていたという事実を裏付となる。

父親と花婿は共にショットガンによる一撃で射殺されている。

現場に残されていた2つの凶器。

新郎と被告人の父親の頭を撃ち抜いたショットガンと披露宴に訪れた招待客を掃討するのに用いられたアサルトライフル。

県警により封鎖された現場にいち早く先乗りしたのは鑑識官の内藤であった。

弾道学の知識に長けたベテラン鑑識官である彼は銃弾の穿たれた痕跡を見ただで銃の種別はおろか入手経路のルートまで割り当てる。

まさに銃火機のプロであるが鑑識官であるが故に射撃の腕前は未知数。

本庁きっての鑑識課の重鎮である。

まず内藤は犯行時そのままに保存された現場と主賓席の遺体を見て言った。

「容疑者は若い女だって?そいつは元自衛官か何か?」

偶然居合わせた若い県警の刑事夕張は首を振った。

「猟銃の免許ぐらいは持ってるだろうな…射撃の経験は?」

「今のところそういった報告は上がってません」

「じゃ無理だな。警官ならわかるだろ?素人が訓練もなしに、いくら距離が短いとは言え一発で頭を撃ち抜くなんてな」

「被疑者の体からは覚醒剤が検出されていて」

「狙撃したやつは冷静沈着なスナイパ-…プロかどうかは分からんが銃の知識も技術も充分あるやつだ。拳銃もそうだがショットガンってやつは単純に引き金を引けばいいってもんじゃねえ、弾を撃つにはそれなりに行程が必要だ」

「ジャンキーの女には無理って事ですか?」

「日頃から銃の扱いが身に染み着いてるようなやつなら話は別だがね」

内藤は夕張の元から離れて2歩3歩と歩き出す。

「さっき犯行に使われた銃を見せてもらったが銃身を切り落としたタイプのやつだな」

ある地点まで進むと足を止め主賓席の中央に向かって銃を構える格好をする。

「珍しいタイプなんですか?」

「いやいや単純に軽量化を考えての事だ。しっかり狙いを定めて重心を安定させれば女でも撃てる」

「女性でも扱えるんですね」

「ああ…しかもこの銃は散弾式だ。万が一的が外れても散弾が標的付近で炸弾すれば致命症を追う可能性は高い…しかし」

空の銃を発射する構え。

「散弾は2つともガイシャの頭蓋に着弾し内部で破裂している…いい腕だ。散弾を使う意味がない…しかもその白タキの仏さんは正面からでなく、この斜め横から撃たれてるな。明確な意図と冷静な判断…何故だと思う」

「何故…なんですかね?」

「それ考えるのがそっちの仕事だろうが」

内藤はつかつかと主賓席の中央に歩み寄る。

空手にまだ銃を手にしている様子が何とく変だと夕張は思ったが黙っていた。

「で…隣の仏さんだが…こっちは目の前まで詰めよって、おそらく銃を突きつけ動きを制限した後至近距離でズドンだ。明確な意図を感じるね」

「初見でそこまで分かるんですか」

指先が壁に張り付いた血痕やそれ以外の頭部の一部を指す。

「こっちにはあるがこっちにはない…残骸を集めて詳しく調べりゃ分かるさ」

「さすが弾筋のプロ」

「人をオカマみたいに言うなよ。こんなの場数を踏んだ警官なら簡単に当たりがつくもんだ」

「分かりますよ!つまり犯人は明確な殺意を持って犯行に及んだ…あ…」

「まあ正気も正気ってとこだ」

「凶器も女性が扱える代物で、でも矛盾してますね」

夕張は黙った。どうやら思考の袋小路に入り込んだようだ。

「やっぱり現場の様子から見て幻覚見ていた時の供述をしているような女に犯行は無理って事ですか」

「こっちはちと難しいかな…第一被疑者は花嫁で新郎と父親の隣に座ってたんだろ?だったら…」

「小口径の拳銃で充分ですね」

「その通り。犯人には何か拘りがあったのかもな…で、問題はこっちだ」

鑑識官と刑事が振り向いた視界の先にある光景。

「これ、本当に同じ人間の仕業ですか?」

刑事の言葉がそのまま現場の惨状を物語っていた。

披露宴の大広間に設えたテ-プルと椅子は事件当日のまま誰も手を触れる事なく保存されている。

問題は広間の半分のスペースだった。

そこに居合わせたであろう式の招待客たち。かつては人間の姿をしていたものが今は夥しい無惨な肉塊となって折り重なる。

まるでテンペストだ。

暴風の渦に巻き込まれ、四肢を引きちぎられて、そのま壁に叩きつけられたとしか思えない。

「悪魔や魔女がやったとしか思えねえような所業ってのは大概人間の仕業さ…人間ってのはどこまでも残酷に出来てる生き物だからな」

「これ本当に同じ人間が…2重人格としか…」

「警官が滅多な事言うもんじゃねえよ」

「そうでした…確かサイコパスとか多重人格による犯罪ってのは日本の精神病理学では認められてないはずですよね」

「1人だよ」

「え?」

「狙撃者が誰であれ最初から1人だ」

そう言って広間の中央に向かって歩き出す。

「俺ならば」

銃を構えて全員を壁際に移動させる。

威嚇するために天井に向かって一発発砲するか。天井を見るがそれらしい痕跡は見当たらない。

誰かの足を吹き飛ばす。

それぐらいはやったかも。あそこに転がってる死体の山は皆損傷が激しく時間を要するにかもしれないが。

…とここまでは充分に冷静じゃねえか。

部屋の中央に立ち、シャツのポケットから金属のシガレットケ-スの蓋を開け中からタブレットを取り出す。

「ちょっと!内藤さん…それなんの薬ですか!?」

「薬でも飲まなきゃ、こんな真似普通の人間に出来るかよ」
タブレットを奥歯で噛み砕いて目を閉じる。

爆音と共に暗闇を銃弾が通り過ぎる。秩序も規則性も何もない横殴りの鉄の雨に人も椅子もテ-ブルも砕け散る。

止め金を破壊された天井のシャンデリが絨毯の上に硝子の破片を巻き散らす。

背後に花嫁衣装で自動小銃を構えた女が立っている。

そんな気がした。

「16Iに203か…正気じゃねえな」

譫言のように呟く内藤の肩を若い刑事の手が揺さぶっていた。

「…さん…内藤さん…しっかりして下さいよ」

「ああ…夕君か…久しぶり!ごめん俺ちょっと暑さでぼうっとしてたわ」

「今頃再会の挨拶ですか!?まったく現場と銃の事となると内藤さんは何もかも上の空なんだから」

「や~いくら俺でも君が夕君だって事くらい承知してるさ…しかし夕君久しぶりだなあ」

「相変わらずですね内藤さんは。その…僕の事夕君って言うのもいいかげん止めてもらえませんか!?」

「だって君本庁来た時婦警さんたち「夕君カッコいい」「夕君可愛い」って。きゃあきゃあ言われてたじゃないか?いやあ俺も出来る事なら俺も君みたいなハンサムに生まれたかったなあ」

「まあ僕は婦警さんよりメイド…いや、それより内藤さん、さっき飲んでた薬なんですが自分も警官の端くれとして質問しますが、まさか?」

そうは言いながら夕張にはそのタブレットに当たりはついていた。

「ただの向精神安定剤ってやつさ、お恥ずかしい話だが最近寝つきが悪くてな」内藤の言葉通り合法の向精神安定剤に間違いない。しかし外科手術の際患者に用いられ睡眠導入の効果もあり服用を間違えれば大変危険な代物だ。

「1年前に内藤さんと本庁で初めて出逢った時の例の『弾創なき銃撃事件』あれの影響ですか?」

「あれからもう1年になるのか」

「思い出すのもおぞましい嫌な事件でした」

「しかし夕張君!本庁に来た時は右も左も分からずおどおどしていた若僧と思ってた君が1年で随分逞しい面構えになったじゃねえか」

初めて出会った時からこの若い刑事はキャリア組やノンキャリアの若い警察官とはどこか違った雰囲気を醸し出していた。

現に先ほどから、とぼけたふりを装いながら自分から次々と必要な情報を引き出していた。

今の警察に必要なのはエリートの官僚や叩き上げの刑事とはまた違った感性を持った彼のような人材なのかも知れない。

内藤は目を細めた。

「内藤さん、そろそろ県警に詰めてる本丸の連中と鑑識がこっちに向かって来る時間ですよ」

「では退散するか…相変わらず情報収集が早いな夕君は」

「異業種からの転職ですから」

夕張は口元に不適な笑みを浮かべた。おそらくこれがこの男の本質なのだろう。

「久しぶりにこんな現場見たら喉が渇いちまったよ」

「近くの喫茶店にでも入りますか?どうせ僕たちここにいても、お邪魔虫扱いされるだけですから」

「出来れば冷凍庫できんきんに冷やした瓶に満たされ不凍液、綺麗な緑色の草が一輪入ったやつがいい」

渇いた喉を潤したいのは凍ったショットグラスに注がれたとろりとした魂だった。でないと、喉の渇きと背筋を走る寒気と指先の震えは消えない。

「昼間っから酒っすか?僕今肝臓ちょっとあれなんでノンアルでしかお付き合い出来ませんよ」

「それでも付き合ってくれるから夕君好きだ~」

「ちょっと!抱きつかないで!?内藤さんと飲むのはいいけどトカレフの話とか超長いからな~」

現場を後にする時内藤は振り返る。

出来れば壁や天井に穿たれ銃弾の痕と死者たち、そして今もそこで俺を見ているお前…肴にもう少し話がしたかった。

「内藤さん引き際ですよ」

夕張の背中を眺め内藤は頷いた。

右手の指先を上げて人差し指を押す真似をした。

「なんすか、それ?」

「殺虫剤」

「なんて不謹慎な」

夕張が入り口で声をかけた警備の警官はまだ戻ってはいなかった。

「お薬…また道化先生にもらわないと」

「道化先生?」

「俺のホ-ムドクターなんだけど精神病理学…特にペルソナ療法ってやつの権威なんだ」

「ペルソナですか…今回の事件に何か関係が?」

「いや、でもその先生治療中はいつもピエロの仮面着けてるんで素顔見た事ないんだ」

「内藤さん通ってるのって本当に病院?僕は断然メガテン派ですけどね~」

「事件当日の現場の様子は?夕君なら調べとかついちゃったりしてるよね?」

「当日式場は貸切ですよ。ヤクザって金もってるもんですね」

「当然関係者以外立ち入り禁止か・・密室殺人て訳か」

「あんまり難しくない・・難しく考えたらダメっすよ内藤さん」

「なんか疑者より君を取り調べた方が色々分かりそうな気がして来たよ・・ちょっとそこのバ-まで連行するか」

内藤は苦笑いした後夕張と連れ立って現場を後にした。


「ええとええと、ボタンじゃなくて指で…これをこうしてえ…えい!」

聞いてるだけで脱力しそうな声で相葉弁護士は携帯端末と格闘している。

『そんなに額に大汗をかいて…事前にPCからプリントアウトしとけばいいのに』

素人の傍聴人でさえそう思う。

良きにつけ悪きにつけ今法廷内で注目を集めているのは相葉弁護士だった。

検察側の検事は冷静に報告書のファイルに目を通す。

場の空気にはけして流されない。

検事の本分は判事に適正な判決を促し裁判を監視監督する事である。

検察の検事とは国家社会の治安維持に任ずることを目的とするものであり、検察権の行使に当たって常に厳正公平、不偏不党を旨とし、事件処理の過程では人権を尊重すべきことを基本とするもの。

彼は長きに渡り検察の人間として法廷に立ち続けた。検事として彼の法廷での心構えや立ち振舞いは彼の性格の一部となっていた。

最高裁の判決に於いて納得出来ねば控訴審請求も辞さず。

「それやらない事が出世のこつだよ」

そう先輩検事にアドバイスを受けたとしても心証主義に傾く事はない。それが彼の信条であり庁ではなく検事自体が起訴権を持つこのバッジと秋霜の徽章に誇りを持っていた。

「出来ました」

相葉弁護士が携帯端末を誇らしげに掲げる。

勿論そこに書かれている文面を法廷にいる人々が全員読む事は出来ない。が皆が興味深けに視線を向ける。

相葉弁護士が証言台の青年に端末を渡すと青年は片言でその文面を読み始めた。いったい何の茶番であるのかと検事は呆れ顔でそれを見ていた。

「いつも沢山のお金をありがとう。あなたの送ってくれるお金のおかげで弟や妹たちも…」

そもそもこの裁判には【厳格な証拠】というものが存在しない。

例えば容疑者の自白というのは刑事裁判に於いてあくまでも【証拠の1つ】でしかない。

残念ながら検察はこの1つの証拠と状況証拠の幾つかで容疑者の起訴に踏み切った。

過去幾度かあった功を焦った上層部からの圧力もあっての事だ。

確かに事件の生存者は彼女1人だし彼女の自供を裏付ける凶器も現場から発見された。

しかし犯行に使われた銃火機を彼女に扱う事が出来たのか?

出来る状況にあったか否かという反証は充分に成り立つ。

検事自らが彼女に行った事情聴取。

「彼女は白なのでは?」

という思いがないわけではなかった。

真実を知る証人は全て死亡という状況の中で暴力団関係者の身内である容疑者に有力な証人も弁護に手を挙げる有能な弁護士が現れる可能性もない。

証拠不充分でも起訴に追い込めば…という事件屋的な本性は自分にも検察にもあったのかも知れない。

事実警視庁が現在関心があるのはこの事件よりも事件により弱体化した広域暴力団組織の壊滅だ。

抗争の可能性も捨てきれず捜査の経過次第では別の容疑者が浮上する可能性は極めて高い。

印字された報告書の文字。

「白の中には黒が黒の中には白が必ず隠れている」

そんな思いがふと胸を過るがそんな心象は自分の役職にも裁判にも必要ないものだと検察官は正面を向く。

目の前に立っている青年は短い母親からの手紙の文面を読み終えたようだ。

青年は検事の目から見ても善意の証言者以外の何者でもない。

そんな佇まいだ。

司法立法行政、いずれにも正義は存在するし少なくとも自分はその執行者の1人でもある。

しかし今この法廷の中心に立つのは誰でもないこの青年だ。

「この青年は毎月稼いだ給料のほとんどを故郷の実家に送り続けているのです。仕事も日本に来た時から1日も休まず」

まるで孫をほめる好好爺のようだ。

相葉弁護士は青年に質問した。

「バンジーさん今日はお仕事はお休みですか?」

「休みではありませんが休みました」

「あなたは今まで仕事を1日も休んだ事はないと聞きますが休んでしまうと皆勤手当や慰労金が貰えなくなりますね」

バンジーは頷いた。そろそろ止めてもいいだろう…止めるべきだ。検事は手を挙げようと判事を見る。

判事の顔を眺め検事はふと思った。

「この方は確か落語や浄瑠璃がお好きだと噂で聞いたが」

判事の職にある者は自分の趣味趣向についてはあまり口にしないものであくまで噂だが。

判事や検察官だって人間だ。

プライベートで酒を飲みに出かける事だってある。

しかし職業柄馴染みの店でも自身の事はけして話さないものだ。

ちらりと相葉弁護士を見て「まさかそんな事はあるまい」胸の内で一笑した。

「なぜ貴方は1日も休む事なく今日まで勤勉に働いて来られたのに今日は彼女の証人になるために此処へ?」

「裁判長!」

バンジーは答えた。

「彼女は泣いていました」

「なぜ泣いていたんでしょう?」

「恋人を、夫になる人を殺されたと泣いていました」

「裁判長!事実から逸脱した質問です!質問と証言の無効と撤回を求めます」

「異議を認めます」

「質問を変えます。彼女はそれからどんな様子でしたか?」
変えてないじゃないか。
「殺した相手の前で死ぬと」

「ほう、それから」

「綺麗な顔でたくさん笑いました」

「それから?」

「裁判長!」

「木に登りたいと言いました。暑いから服を脱ぐと」

「最初の質問ですがバンジーさん、貴方はどうして彼女のために証人になろうとしたのですか?」

「彼女の話とテレビ新聞全然違っていました…あの日彼女は泣いていました」

「弁護人は先ほどから意図的に同じ質問を繰り返す傾向があります」

「弁護人は質問の内容を変えるか質問の繰り返しを止めるように」

「バンジーさん貴方は容疑者である彼女の証人になろうとしてまず何をしましたか?」

「警察に行きました」

「でも証人として呼ばれなかった…なぜかは問いませんが調べれば県警に記録が残っているはずです」

青年が事件の証人になる事を希望して県警を訪れた事は報告書には書かれていなかった。

「バンジーさんは検察側でも弁護側でもどちらでも良かった…彼女の無実さえ証明出来ればそれで良かった…そういう事ですね?」

「間違いありません」

とバンジーは答えた。

「僕は彼女が美しい人と思えたのでデ-トお願いしました」

「ほほう、彼女は貴方に何と答えましたか?」

「『今度もし会えたら』…約束しました」

厳粛なはずの法廷内で漣のような笑いが起きた。

俯いたままの彼女の表情はバンジーのいる場所からは窺い知る事は出来ない。

「静粛に」

判事が注意を促す。

「バンジーさん、それは困りますね。そんな司法取り引き紛いな発言は控えて頂きませんと」

相葉弁護士の言葉には誰も笑う者はいなかった。

そろそろ一審の二次について考えなくては。

検事は冷静に考えを巡らせた。

どうやらこちらの読み上げた起訴状について向こうからの反証は用意されていないらしい。

起訴状に対して反証が為されないならば罪状を粗認めたと見なされても仕方ない。

最初から心身喪失による責任能力なしの無罪狙いであるのかも知れないが。

過去10年における刑事裁判で心身喪失に於ける責任能力無しと訴えた裁判で認められたのが全体の4%程度に満たないという判例をあの弁護士は知っているなら話は別だが。

何れにせよ向こうが思惑通りに進められたと過信してくれている内にこちら側でも準備や地固めに費やす時間は充分ある。

検事は公判中に自分の腕時計を見るような事はしないが法廷内にある壁掛け時計に目をやる。

そろそろ水入りか。

そう思って検事は弁護人側の席に目をやる。

相葉弁護士は証人への質問を終えた後検察が提示した起訴状に目を走らせていた。

そうして随分年季の入った鼈甲縁の眼鏡の奥から検事の顔を見据えている。

くたびれた一張羅のジャケットを脱ぐとル-プタイとシャツにサスペンダ-で吊るしたズボンという姿で曲がった腰を伸ばす。

検察の提示する証拠の1つ彼女の供述は2つ。

1つはバンジーの先程の証言にあった供述。

その2つの証拠の真偽について問われた事件の容疑者である彼女は判事の問いかけに対して「間違いありません」とだけ答えた。

それきり彼女の瞳は暗く淀んだ淵のように虚ろに見えた。

聞かずともタイを緩める相葉弁護士の次の言葉が検事には理解出来る気がした。

両の拳で背中を叩く老人弁護士は凡そ厳格という言葉とは無縁で。

「叩けば色んな埃が舞って来そうだ」

と担当の高検事は思った。

法廷に於ける裁判の監督監視は検事である自分の役目あるという義務感と自負を今日まで忘れた事は一度もない。

けれどこの裁判には別のコンダクターが存在している。

傍聴人席を見渡して見たがそれらしい人物を今更特定出来る事など叶うはずがなかった。

「期待以上です」

裁判所のトイレの小便器の前に立った国木田は隣に並んで用をたすバンジーと相葉弁護士に感謝の言葉を述べた。

「きっと私たちの気持ちは五月お嬢さんにも届いたはずです」

いつの間に洋服を着替えたのだろう。

いつものス-ツ姿ではなく髪を下ろしシャツにジ-ンズという休日のサラリーマンのようなラフなスタイルだ。

国木田が傍聴人席にいたかどうかバンジーにはわからない。

あまりに緊張していたせいで周囲を見る余裕など、まったくなかったからだ。

この裁判に臨むにあたり国木田とバンジーと相葉弁護士は入念な打ち合わせをした。

その中で国木田が懸念事項の1つに挙げたのがバンジーの証人としての証言の信憑性だった。

「バンジーさんが法廷での証言者としていかに信用に足る人間であるか証明しないといけません」

「検察もその辺りは当然つついて来るでしょう」

相葉弁護士もその意見に同意した。

「せっかく私たちの…いやお嬢さんのために証言して下さるバンジーさんを傷つける事になります」

バンジーは「正しい事を判事の前で証言して傷つく事があるのだろうか」と思った。

「裁判とはそういう場ですよバンジーさん」

国木田は言った。

自分はただ日本に来て毎日毎日休まず働いた。

別に誰かに誉められたいと思った事もないしラインの中で同じ作業を繰り返す自分を誉めてくれたり感謝の言葉をくれる人間もいない。

それが当たり前だと思って生きて来た。

唯1人毎月感謝の言葉が書かれた手紙をくれるのは故郷の母だった。

自分にはそれしかないのだ。

バンジーは国木田にそう伝えた。

「私たちのような人間には望むべくもない事ですよバンジーさん」

証拠としての価値などなくても。それだけでバンジーは証言台に立つ証人として充分な資格があると国木田はバンジーに言うのだった。

「大切なお母様からの手紙を裁判の道具に…バンジーさん本当に申し訳なく思います」

国木田はトイレの中でバンジーに深々と頭を垂れた。バンジーは手を挙げそれを否定する。

「裁判はそういう所」

バンジーが微笑むと国木田は少し感窮まった声でバンジーの両手を掴んだ。

「すいません…手も洗わずに」

慌てて離そうとする国木田の両手に相葉弁護士の手が添えられる。

「国木田さんバンジーさん私にも感謝の言葉を言わせて下さい」

相葉弁護士は言った。

「私が今までして来た仕事はこのバッジに顔向け出来るようなもんじゃあなかった…誰がゴミの分別を守らないか責任があるか?そんな仕事ならまだましだ。

カラスや野犬が食い散らかしたゴミを漁るような案件…そんな仕事ばかりして来ました。初めて弁護士らしい活躍の場をこの年で…仲間に入れて頂いてありがとうございます!しかし…」

相葉弁護士の言葉にバンジーと国木田は顔を見あわせた。

相葉弁護士は煙草の脂で黄色く染まった入れ歯を見せて笑った。

「こ~ゆうのは始まる前とか少なくとも場所は選んでせにゃいかんと思いますわ」

トイレに用をたしに来た男たちは奇異な物を見る目で3人の男たちの様子を伺っている。

国木田、バンジー、相葉の3人は銘々が久しぶりに悪ガキどもが顔をつき合わせたかのように笑った。

勿論良い事ばかりある訳ではない。

仕事中に持ち場を離れて「事務所に来るように」と副工場長に言われた。

今まで持ち場のラインを離れた事のないバンジーは戸惑った。

副工場長は木下を呼ぶと「しばらくバンジーの代わりにラインに入ってくれ」と指示を出した。

副工場長が一旦止めさせたラインの電源が合図と共に再び流れ始める。

何事かと様子を伺っていた作業員たちも持ち場に戻りラインの稼働は再開された。

「なんだなんだバンジーさんにボーナスでも支給されんのか?今度一杯奢ってくれよ」

木下は鼻唄まじりにラインで作業を続ける。

「平気平気デップ埋めなんて木下さんなら寝てても出来るさ…逆によ、居眠り注意だ」

バンジーはそんな木下の言葉を聞いて少し寂しく思いながら持ち場を離れた。

「今日警察の人間が2人ここに来たよ」

いつも温厚な副工場長が強張った厳しい表情をしている。

事の重大さを物語っていた。

「お前の事を根掘り葉堀り聞かれたが、お前は例の、テレビとか新聞に載ってるヤクザ柄みの殺人事件の容疑者の弁護側の証人とかになってるそうじゃないか!?どういう事なんだ一体!?俺はそんな話寝耳に水だぞ!!」

「彼女、無実です」

「…そんな話をしてるんじゃない」

副工場は一瞬言葉に詰まったが感情を圧し殺した声で言った。

「警察に聞かれたが私たちは普段見ている通りのお前の働きぶりを話しておいたよ。帰り際に「ここでは暴力団関係の人間でも雇うんですかね」そう言われたが」

副工場長とは反対にカバ工場長は落ち着いた声色でバンジーに言った。いつも現場にはあまり出ない工場長のヘルメットは傷も汚れもなく綺麗なまま事務机の上に置かれている。

弛んだ輪郭の四角い顔と八の字に下がった眉毛は午後の日射しに溶けてしまいそうな雪だるまを連想させる。

散髪したばかりだろうか。必要以上に短く刈り込んだ髪は盆栽の松の枝のようだ。

「お前も記憶にあるだろうが採用が決まって仕事を始める前に皆身体検査をしたと思う」

工場長の言葉にバンジーは頷く。

「あれは単純に刺青を入れた暴力団関係者が職場に入り込まないようにチェックするためにあるんだ」

ギ-タルリンはバンジーにメールで「外国人は宗教上の理由と言えば大丈夫」と説明した。

「お前のような外国人や若い連中がファッション気分で入れる刺青とヤクザ連中が体に墨を彫るのは意味合いが違うだろう、それは俺にだって分かる。けど今は全部アウトなんだ」

「疑わしきは罰せよ。今は世の法律がそうなってるんだ」

やや落ち着きを取り戻した声で副工場長がバンジーに言った。

「関わりを持ったと疑いをもたれただけで会社も懲罰を受けるご時世だ」

工場長は自分のデスクの引き出しからタバコの紙箱を探り当てる。「最近お見合い結婚をしてタバコは止めたんだぜ」と木下が仲間に話していたのを思い出す。結局ライターがなくて火をつけるのは諦めたようだ。

「納期納期と皆を煽って煙たがられてる事だって俺は知ってるが、俺や藤田さんの仕事はそれだけじゃない」

タバコの紙箱を握り潰しゴミ箱に捨てる。

バンジーの傍らに立つ副工場長と目線が合う。

「ここで働くお前たち職場の人間を守るのも俺たちの大切な仕事だと思ってるんだ」

「プライベートな事には口を挟みたくはないが、お前が最近公休以外で休みを取るようになったのも、何かその事と関係があるんじゃないのか?」

「ヤクザ者とはつき合いがないが、ああゆう連中は本人にその気がなくても周りに悪い影響を及ぼすもんだ。そういう連中と関わりをもったばかりに身を滅ぼすはめになった従業員もいた。だからお前が心配なんだよバンジー」

「お前はまだまだ若い。一時頭に血が上って突っ走る事もある。でもそれは麻疹みたいなもので後には後悔しか残らないもんだ」

「お前が証人になってる女だって聞いたらヤクザの身内だって言うじゃないか?人の弱味につけ込んで人間を食い物にして生きて来た、そんな稼業の連中の金で生きてきた…お前が同情したり今更法の加護を求めたり、ましてお前が犠牲になる値打ちが本当にあるのか?」

厳しい言葉が2人から浴びせられた。

けれどバンジーは工場長と副工場長が自分のために親身になってくれている事を理解していた。

「まだ警察から上に話は来てないようだが」

「多分そうなったらお前は即刻クビだぞバンジー」

「本当はこんな気分の悪い話をする予定じゃなかったんだよ」

工場長は事務椅子に厚みのある体を投げ出した。

副工場に目配せして口元を少し緩める。副工場長は頷いてバンジーに言った。

「バンジーお前ここで正社員を目指してみる気持ちはないか?」

副工場長の話では現在は工場の業績は伸びていて会社は何年かぶりの黒字の月が続いている。

それでも人件費のコストを下げるために工場は正社員よりも派遣やパート社員の労働力に頼る割合が高い。

求人募集には正社員の中途採用も謳われてはいるものの採用率は極めて低い。

非正規雇用者の中の中途採用希望者のうち採用が認められるのは20人のうち1人いればいい方だった。

雇用希望者は各班の班長から勤務態度や作業実績や人間性を厳しく判定される事になる。

「その候補の中にお前も入ってるんだバンジー、副工場が『是非とも』と言うのでね。勿論俺も異論はないがね」」

「正社員希望者は皆必死で毎日仕事に励んでいるようだが目的があるから他の連中より気構えが違うのは当然だ。だけどお前はそういう連中と比べても遜色ない働きをしてくれてる、これは立派な事だと思う」

「勿論正社員になれば今貰ってるような給料は望めないし覚えなくちゃならん事も山ほどあるさ。けど補償だってあるし第一立場が全然違う」

「だけどそれだけじゃないんだよ、バンジー」

副工場長はバンジーの手に肩をのせ言った。

「これはお前の将来にきっと役立つ話だと思うんだ」

今現在バンジーが働き暮らしているこの国は近隣諸国の中国や韓国と政治的な問題を抱えている。

それがどれ程深刻な問題であるかは政治や報道の匙加減1つで左右され本当のところはこの国民の多くには分からない。

外国人労働者であるバンジーはさらに縁遠い話と思っていた。

しかし中国や韓国に進出したこの国の企業も実は件の国々とは多くの問題を抱えていた。

バンジーの働く工場の本社も同じである、と副工場長はバンジーに説明した。

「東南アジアのいくつかの国に工場や事業所を移転させる。それはもう決まっている事で土地の買収も済んで工場建設も着工が始まっているんだ」

副工場が教えてくれた新しい工場の建設予定地はバンジーの故郷の島ではなかった。

勿論そんな都合のいい話ではないが。

「少なくとも日本やアメリカに比べたらお前の故郷とは目と鼻の先だ」

高い飛行機代を支払わなくても船で数時間の距離にその国はあった。

「沢山の雇用が生まれお前の故郷から働きに来る人間もいるだろうな」

副工場長はバンジーに言うのだ。

「正社員になってここで必要な技能を身につけてから現地で責任者として働く…夢のある話じゃないか」

「最初からその話がしたかったんだ」と工場長はバンジーに笑いかけた。

「お前は英語も話せるし日本語も達者だし仕事熱心だ」

勿論それだけでは話にならない。

沢山の技能検定や資格を取得しなければ、そんな道は開けない…と工場長はバンジーに念を押した上で「お前この仕事が好きか?」と訊ねた。バンジーはその言葉に頷いた。

「お前なら頑張れると思うんだ」

工場長の言葉に副工場長も同意する。

「お前がやる気があるなら会社に推薦するしバックアップだってするさ」

バンジーにとっては夢のような話だった。

「悪い連中とは縁を切れるな?」

副工場はバンジーにそう言った。

「証言を取り下げるんだバンジー」

「それで警察も何も言っては来ないだろう」

2人の言葉は悪意や保身から出たものではなかった。

けれどバンジーは同じ言葉を繰り返す他はなかった。

「彼女は無実です」

バンジーは工場の正門を出て職場を後にする時深々と頭を下げた。

バンジーはアパートの近所にある大手チェーンのラーメン屋に職を求めた。

コンビニで求人誌を手に入れて自分で履歴書を書いて店に連絡をして採用された。

ラーメン一杯280円餃子一皿200円。

格安が売りの店には昼も夜もひっきりなしに客が訪れた。

水道の蛇口や洗浄機から漏れる湯気の中で堆くつまれた丼や皿をシンクにつけ込んでひたすら洗う。

そんな日々がまた始まる。

店には中国人や韓国人のアルバイトはいなかった。

アルバイトは皆バンジーより若い日本人の男の子たちばかりだ。

彼らは皆バンジーより後から入って来て洗い場を少しやって食器の仕舞い場所を覚えるとガス場や面上げの方へ回された。

店の仕事はとても簡単でス-プにしろ餃子にしろ冷凍された物が工場から運ばれて来る。

それに熱を加えてお客に出すだけだった。

日本人の若い男の子たちはすぐに仕事を覚えたが飽きるのも早く何か上の人間に注意されると忙しいのに時給が安い事を理由にすぐに辞めた。

バンジーは昼も夜も働いたが週に平日の1日だけは休みを取った。

ある日店の店長に呼ばれ「法律規制の問題があってパートは決まった時間以上働けない」と言われた。

「会社の保険に入れば問題ないんだが…夜まで働いたらタイムカ-ド退勤押して、もう一回出勤押してくれたらそれでいい」

そんな簡単な事で済むならばとバンジーは思った。

給料は以前より減ってしまったが労働時間を倍に増やせるなら問題はなかった。

ある日休憩の時間。

従業員がタバコ吸吸って吸殻を捨てる一斗缶が置かれた調理場の裏口で1人で缶コ-ヒ-を飲んでいた。

「うす」

調理場から料理長が出て来てジッポでタバコに火をつけた。働き始めて半年になるがあまり口を聞いた事はない。

他のパートの子からはヤンキー上がりとか言われてる若いがコワモテの料理長だった。

黙って仕事をしてるか怒鳴る姿しかバンジーには印象がない。

「包丁とか使えるのか?」
頭の上で声がした。

「焼きと麺どっちやりたい?」

バンジーは「どちらでも」と言う意味を込めて料理長に微笑んだ。

「ありますがとうございます」

慌ててそうつけ加えるのを忘れなかった。

仕事には最近郊外に出来たショッピングモ-ルで買った1万円の自転車で通っている。

アパートから仕事場まではやや距離があるし工場がある場所とは逆方向だ。

それでもバンジーは水曜日仕事が休みの日には彼女と初めて出会った駅から私鉄に乗る。

その日だけは裁判のために買って袖を通さなかったス-ツに身を包み。朝早くにアパートを出るので工場の人間や知り合いに出くわす事はなかった。

ベンチシ-トの1両電車に揺られ、ひなびた駅を3つほど過ぎると終点の駅に着く。そこからJRの列車に乗り換える。

工場の風景は町から町へ流れる倉庫や防災のための松林の風景に変わる。

そこから砂浜や海岸は見えないが列車が40分ほど線路を進みトンネルを抜ければ車窓に日本海の景色が広がる。

いつも決まった駅で降りて決まった店で花束を買う。

駅前の停留所で路線バスを待つ。

バンジーは自分が乗るバスの運行表にある停留所の名前を確かめる。そこには必ず彼女が今そこにいる病院の名前が記されていた。

深夜仕事からアパートに戻り安い鉄パイプのベッドに体を投げ出す。

近所のリサイクルショップで購入したベッドはもしかしなくても病院の払い下げかも知れないがバンジーは別に気にしない。眠れればそれで良かった。

週に1度は病院にいる彼女を訪ねるが本人に会えたためしは1度もない。

「すみません、お嬢さんはお会いになれません」

そうすまなそうに花束を受けとるのは国木田だった。

それは彼女に不起訴の判決が下りた今も変わらない。

「恩義あるバンジーさんに一度はお嬢さんの方からもお礼の言葉を、とは思うのですが。お嬢さんは今も人に会える状態ではありません」

次第に国木田本人とも交す言葉は少なくなった。

その夜バンジーはベッドの中で夢を見た。

それは昔からよく見る夢だった。

まだ自分が幼い頃従兄弟のギ-タルリンと近所の子供たちとで密林を抜けた先の西の平原地帯にある王朝の遺跡を目指した冒険だった。

いつも夢の中に出てくるのはギ-タルリンの汗染みと泥がついたランニングシャツの背中だった。

先ほどまでは枝で藪笹を払い毒ある蜘蛛や蛇を見つけると追い払って前に進んだ。

その幼いバンジーには逞しく思えた背中が故障した八ミリフィルムの1コマのように動かない。

彼は実はその時道に迷ってしまっていたのだ。

ギ-タルリンは闇雲に子供たちを先導して密林に踏み込んだわけではなかった。

実は事前に先乗りして密林の樹木の至る所に自分しかわからない標をつけていた。

突然のスコ-ルはこの時期は特別珍しい事ではなかった。

子供たちは大樹の木陰に身を潜め難を逃れた。

しかし森の中の道標は洗い流されるか地面に落ちるかして失われてしまった。

雨の音が止み勇ましく甲高い子供たちの声は沈黙し下生えの草花を踏みしめて進む足音は途絶えた。

途端に密林という空間は熱気と草いきれとそこに生息する生物たちの音で満たされる。

冒険者であったはずの自分たちが実は儚い贄であるかのような気づき。

心細く不安な気持に絡め取られるのに長く時間はかからなかった。

誰かがもし今ここでゲリラや野盗の足音を聞いたと言えばたちまち皆四散して、その場を逃げ出していたかも知れない。

子供たちの視線はギ-タルリンの背中に集まった。

皆が固唾を飲んで彼の次の言葉や行動を待っていた。

バンジーの目線から見上げる彼の背中と呼吸で上下する肩先はいつもより心なしか小さく震えているようにも見えた。

その時突然誰かが声を漏らした。

ふいに重苦しい沈黙が破られた。

それは恐怖や鳴き声といった類いのものではなく驚きと歓声が入り混じった子供たちの声だった。

バンジーの目の前をひらひらと蝶が一羽通り過ぎた。

ゼフィルスの群れが羽ばたきながら子供たちの目の前を浮遊していた。

雨が止むのを待って木立や葉の下に隠れていたのだろうか。

和名シジミチョウ科の1群の25種のうちの1種。

ゼフィルスの言葉の語源はギリシャ語の【西風】を意味する。

バンジーの故郷の島に生息するこの固有種の蝶は頂翅部から後翅部にかけて目の覚めるような鮮やかで美しいメタルグリーンの翅を持つ事から現地では【鉄の蝶】と呼ばれていた。

雨季が訪れる前のほんの短い期間にだけ密林でその姿を見る事が出来た。

目の前を通り過ぎる鉄の蝶の群れに遭遇した子供たちは歓喜の声を上げた。

【鉄の蝶は太古の王族の魂が姿を変えたものであり密林や海で迷った者を王族の住み処であった遺跡へと導いてくれる】

そんな昔話を島の子供たちは聞かされて育つ。迷い人を誘う蝶の話はこの国の者なら誰でも知っていた。

7世紀には南詔の侵攻に合い人民の多くは奴隷として大陸へと連れ去られた。

13世紀にモンゴル。16世紀にはムガル帝国に、王朝は幾度となく滅ぼされた。

それでも支配から逃れ大陸から海を渡り故郷の島へ帰還を果たした。度重なる外敵の侵攻の脅威にさらされながら王族の血筋は絶える事はなかった。

子供たちはそんなテクリニ族の血を受け継いだ末裔だった。

鉄の蝶に関する島の伝説は部族によって微妙に異なる。

森で最後まで侵略者たちと戦った兵士や王であったり逃げ延びて呪術師の手引きで身を隠した王女。

しかし皆一様に語り継がれた物語の骨子は迷い人を導く鉄の蝶はかつての王族の魂や肉体が蝶に姿を変えたものである、という事だ。

だから密林の鉄の蝶はかつての王朝の遺跡を目指して飛翔するのだと。

かつて島を訪れた西洋の学者たち。

例えばセントエルモの灯やヒギンズの、空で迷った飛行機乗りを導くパイロットたちの幽霊飛行機の一群、そうした神話や物語とは根幹が異なると指摘する。

この島は侵略者が訪れる遥か前に大陸から仏教徒が訪れ寺院を建設した。

謂わば仏教の聖地である。

古くから島民の暮らしに深く根差した仏教思想と輪廻転生の概念が王朝興亡の歴史と結びついた結果島の伝説となった。

文化人類学者はそのように分析した。

ゼフィルス蝶の生態を研究した結果昆虫学者はこう結論づける。

ゼフィルス蝶の成虫と幼虫とでは生息する環境が異なる事が既に確認されている。

ゼフィルス蝶の幼虫はナラやコナラといったブナ科の落葉樹の葉や新芽を餌として幼齢から5齢を重ね成長する。

この島の固有種であるゼフィルスの1種は常緑樹木が群生する密林の南西にあるブナの原生林で幼虫期を過ごし羽化した後成長は野草や花々の蜜を求め肥沃な密林地帯に移動する。

そうして島に雨季が近づく期節になると再び密林地帯を抜けた西南の方角に位置する。

ブナの原生林に産卵のため移動するのである。

幼虫のコロニ-であるブナの原生林にはタクリニ王朝の古代遺跡と原生林が育んだ小湖の存在が確認されている。

ゼフィルス蝶は人が誕生する以前から永年この生命のサイクルを続けてきたと推察される。

かつて密林に入り込んだ島民たちがこの時期ゼフィルス蝶の1群に遭遇したという可能性は否定出来ない。

もしも、あまりの蝶の美しさにその後を追う者がいたとすれば。

彼もしくは彼女らは密林の終わりの平原の先水辺に影を落とす古の王朝の遺跡を目の当たりにした事だろう。

「はたして伝説にはそんなカラクリがあるのだ」と英文字で書かれた書物がある事など子供たちは知るよしもない。

たとえ高名な学者が目の前で講釈したとしても島の人間は誰も耳を貸さないだろう。

それほど鉄の蝶の逸話は島の人間の心に深く根付いていた。

目の前に現れた蝶たちの乱舞を目の当たりにして子供たちは皆苦難から救われた気持ちになった。

寝物語に聞かされた御伽の再現に誰もが瞳を輝かせ高揚し、ため息を漏らした。先頭に立って皆を先導して来たギ-タルリンでさえ例外ではなかった。

彼は安堵したように息を吐くと皆に悟られぬように威厳を保ち手にしていた枝を飛び去る蝶の群れに差し向けた。

歩き出そうとしたギ-タルリンのシャツの裾を引く者がいた。

振り返ると幼い従兄弟が自分のシャツの端を掴んでいた。

「どうしたセイン?」

ギ-タルリンは従兄弟の最初の名前を呼んだ。

まだ幼く気弱な従兄弟を彼は実の兄弟以上に可愛がっていた。

「腹でも痛いのか?もう疲れたか?」

彼は優しく従兄弟に語りかけた。

ギ-タルリンは従兄弟の家で過す事が多い。

いつも夕方になると夕食を勧められるので夕飯は大概従兄弟の家で食べた。

従兄弟の家はいつも居心地が良く母親から「セインをお願いね」と頼まれた。

小さく気弱な性格の従兄弟はいつもギ-タルリンの後をついて歩いた。

矢印のように青いインクで彫られた双頭の蜥蜴。

子供たちの中で刺青を入れたのは従兄弟が最初だ。

従兄弟が密林を抜ける冒険について行くと言った時年長の子供たちはしたり顔で「足手纏いになるからだめだ」と言った。

渋る仲間にギ-タルリンは従兄弟の右腕のシャツを捲って見せた。

それを見た子供たちは何も言わなくなった。

刺青は大人の男としての証明でもあったからだ。

蜥蜴の刺青は方位磁石の針のように見えた。

従兄弟の少年は泣きそうな目で幾度も幾度も首を振り続けた。

後にバンジーと呼ばれる少年の祖父は部族の中でも取り分け長老で皆に尊敬されていた。

年齢と経験を重ねる度に島では名前が増えて行く。

今や祖父の名前はパブロフ・ピカソのフルネ-ムを遥かに凌ぐ長さで文字を並べたら島を半周出来る程であった。

最初につけられた名前はナガ-で土曜日と龍を現す名前だ。

しかしあまりに長寿であったために本人は最初につけられたナガ-という名前は忘れていた。

ナガ-爺さんの話は名前同様果てしなく長い。

中には面白い話もあるが説教ばかりが続く事もある。

マリファナや芥子の代わりに畑に植えた蕎麦の実で作った焼酎が爺さんのお気に入りだった。

「密林に入ってはいけない。野盗やゲリラ共は子供でも容赦なく殺す」

そんな話をされると却って行きたくなってたまらなくなるのがギ-タルリンの性分だった。

「密林以上に危険なのは森を抜けた水辺だ」

密林を拠点に活動するゲリラや野盗や武装した部族は住居やコロニ-を肥沃な水辺の土地に求めた。

島の中央を流れる龍に似たナガ-川。

流域には古代から文明が栄えた。

現在も密林に棲む者たちの中には政府に抗う者たちがいたが、それとは別に利便性のある水辺の土地を巡っての争いが続いていた。

ナガ-爺さんは話に出た川の名前から自分の最初の名を思い出し話はその頃の話に戻る。

バンジーは覚えていた。

「密林を抜けた水辺に近づくのは危険だ」

という爺さんの話を。

ギ-タルリンは自分の興味がある話しか覚えていないがバンジーは1度聞いた話は大概忘れない、そんな少年だった。

「そういや、そうだった」

ギ-タルリンは祖父の話を思い出した途端従兄弟の頭を撫でた。

「えらいぞセイン。もしかしたら、お前がこの冒険の一番の英雄かもな」

ギ-タルリンは蝶の群れを追う事を諦め真っ直ぐに密林を歩き出した。

密林は島全土を覆っているわけではない。真っ直ぐにひたすら歩けばいつかは終わる。

蝶を追いかけず前に進む。

他の子供たちに説明する時間は歩く道すがら充分にあった。

何よりギ-タルウィンの背中と歩みは有無を言わせぬ自信と頼もしさが戻っていた。

それが何より後ろを歩く少年には嬉しく誇らしかった。

かつて島に伝わる鉄の蝶の伝承を吟遊詩人は歌にした。

歌は幾つもの世紀を跨いで歌い継がれた。

しかしこの国の政府は王朝に纏わる固有名詞や物語を検閲し粗方削除してしまった。

学校の唱歌として歌われるこの歌を子供たちは好きではない。いかに人として正しく生きるべきか…そんな説教じみた事ばかり書かれた歌詞にうんざりするからだ。

それでも好きな一節が子供たちにはあった。


嵐の海で風に吹かれても

激しい雨に降られても

その翼に穴はあかない

世界の中心で

僕らを導く鉄の蝶

繰り返しその歌詞を歌いながら子供たちは密林を歩いた。

そうこうして歩くうち密林は終わり平原地帯へ出た。

密林を抜けて川沿いに歩くと其処俐に怪しげなテントの集落や枯葉のようなボ-トを舫い綱で繋いだ粗末な朽ち木の船着き場が目につくようになる。

近くで人声や銃声などを聞く事はなかった。

それでも子供たちは注意深くそれらから距離を置きながら北西に進路を進んだ。

そうして遂には目指した湖の先に広がる王朝の遺跡群に辿り着いた。

木立に囲まれた石造りの廃墟の都市。

それは太古の人々が暮らした統一王朝都市の姿をそのままを今世に遺し今は死のような静けさの中にあった。

街を見下ろす小高い丘陵の頂上を切り崩した場所に目指す王宮の神殿がある。

かつて此処は仏教の聖地であった。

10世紀にこの地を訪れた僧侶たちにより国王に仏教が伝えられて以来建築家でもあった僧侶たちの手により多くの伽藍や仏教施設が建造された。

海を渡りスリランカやタイやネパールから若き僧侶が学びのため訪れた。

しかし夜明けは瑠璃に夕刻には朱色に染まる白や煉瓦色の遺跡の多くは軍事政権により奇妙な色にペンキで塗り替えられた。

物見のための展望台が作られ取り壊された都市の跡地には造成半ばで放置されたゴルフ場予定地のフェンスの脇には看板が立っていた。

遺跡に混じり地面からそびえる道の無い高速道路の橋桁が何処までも続いている。

政府によって長く閉ざされたこの国の遺跡を訪れる者は誰1人いなかった。

夢の終わりはいつも冒険の終焉の地で途絶えた。

しかしその夜バンジーが見た夢は終わらなかった。

王宮に寄り添うように併設されたストゥ-パをバンジーは登る。

都市の遺跡の間には3000を越える数のストゥ-パが建ち並ぶ。

バンジーが今登る仏塔はその中でも取り分け高く天空をまで続いていた。
夢の中でその塔の壁に手をかけ登るバンジーはいつしか幼い子供ではなく青年の姿に変わっていた。

幾度かの朝が来て夜が明ける頃ようやく塔の頂上に手がかかる。頂上に巣を作っていた野生の鳩が一斉に空へと羽ばたくのが見えた。驚き手が滑りかけた時だった。

バンジーの目の前に真っ白なシルクの手袋の美しい指先が差し伸べられた。バンジーは思わず顔を上げる。

バンジーの目の前には右手を差し伸べ膝を折り曲げた姿勢で微笑む花嫁の姿があった。

そこは携帯の電波塔の上だった。下を見下ろすと。

16弦の舟の形をした木琴を抱えたギ-タルリンがこちらに向かって手を振る。

鉄琴や獣の皮を張った太鼓を手にした者もいる。

バンジーは島の男が祭礼の時に身につける巻きスカートを履いていた。

花嫁の手を取ると島に伝わる7つの音階が2人を踊らせる。

彼女の腰に手を伸ばして抱き寄せると彼女は弾けるような笑顔を彼に見せた。

ベッドで眠りにつくバンジーは夢の中にいた。

彼女が身に着けていたウエディングドレスが壁にかけたハンガーから体の上に被さるように落ちていた。

彼女の香水とドレスに染み着いた錆びた鉄の匂いが見せた夢であったのか。

白いウエディングドレスに包まれた青年は羽化の時を待つ蝶の姿に似ていた。

朝ウエディングと共に目覚めた。

起きて鏡に映る自分の姿を見る。ウエディングドレスを自分の胸にあてがって鏡の前に立つ。

巻きスカートが国民服なので特に抵抗はない。

自転車もこれで乗る。

高温多湿地帯にはむしろスカートがいい。

しかしウエディングドレス姿の自分は彼女とは似ても似つかなかった。なにもかもが変だった。


まるで工場のルーティンのよう。

休みの日に彼女の入院する病院に行き入り口で花束を受け取る国木田。これも端から見れば奇妙な光景ではあった。

「あいすみません」

頭を下げる国木田。いつもと変わらない光景。

しかしバンジーには国木田に聞いてみたい事が1つあった。

国木田はバンジーの質問にいつもと変わらぬ様子で答えた。

「私は皐ではありませんよ」

1つの季節が終わり新しい季節の始まりを告げるように何時しか雨が降りだしていた。

「そんな男は存在しません。お嬢さんはシャブ打たれてましたから…大方幻覚でも見たのでしょう」

「元々夢見がちな方でしたから」

俯き加減に微笑む国木田の横顔は「それも悪い事ではない」とでも言いたげな様子にバンジーの目には映る。

「恋愛もシャブの幻覚も覚めちまえば現実なんてせんないものですよ」

激しく地面を叩く雨粒が国木田の仕立ての良いス-ツや綺麗に整えられた髪を濡らす。

「お嬢さんはただの慰み物の人形に過ぎないんですよバンジーさん」

銃弾のように降り注ぐ雨の中バンジーは無言だった。

「あの事件では私とお嬢さんは謂わば共犯なんです。あれは私たち2人の作品です。私たちは貴方には到底お分かりにならない…そういう関係なんです」

哀れむような瞳がバンジーに向けられる。

「永遠に」

容赦ない雨に叩かれたコンクリートの路面からは乾いた土の匂いが立ち登る。

降りしきる雨は病院の棟も玄関前に駐車された職員の車もかき消すように勢いを増すばかりだった。

国木田が手に提げた薔薇の花束も水に挿した額縁の絵のように溶け出して。

この世界すべての輪郭が灰色にぼやけて曖昧に見える。

国木田が翳した銃口だけが揺るぎない真実のように黒く鈍く光を放つ。

「そろそろ御退場願えませんか?バンジーさん」

国木田は躊躇う事もなく引き金に指をかけた。

                   【notyet】





《 MAY AFAIIR 了 》





【 あとがき 】
弾道検査官と矛盾刑事



「弾道は俺の生き様そのままだ」

「内藤さんかっこいいっす(ゝω・)」

「弾道を辿れば事件の真相が見えて来る」

「いや~真言ですな~(*゜▽゜*)」

「弾丸が描く軌跡はホシの遺した動機のシュプール」

「フムフム(´・ω・`)」

「血と硝煙のアロマ…そして完膚なきまでに破壊された肉塊はロマンのインゴット」

「わ~い国家権力の中にいたらダメな人だ(*゜▽゜*)」

「あらためまして弾道捜査官の内藤です」

「フル-ティ刑事の夕張です!(`・ω・´)シャキーン 」

「あ~あ~どっかで銃撃事件とか起きねえっかな~日本は銃社会じゃねえから弾道捜査官旗揚げしたって活躍出来なくってさあ」

「旗揚げって…それでハロウィンの日に警視庁内でカボチャのマスク被ってモデルガンで警官撃ちまくったっていうね…(´・ω・`)」

「あ~【弾創無き銃撃事件】ね。県警から飛び石で本庁に来た夕君と俺が初めてコンビ組んだ事件だったね…昨日の事のように懐かしいよね~」

「そうそう。コンビ組んで捜査したら犯人内藤さんだったって言う…(´・ω・`)」

「だってさ~事件起きねえからさ~おのれが撃っちゃえ~って言ったのさ~」

「言ったのさ~って誰がですか(´∀`*)?」

「そこに立ってるカボチャの内藤君が…あれ見えてないかな!?」

「怖!現役で怖いんですけども!!(´д`)」

「今夕張君の頭の上に登って…ぷすす♪」

「や・あ・め・ろおおぉぉぉオ((((*゜▽゜*))))!?」

「まあカボチャの内藤君はともかく、あれから始末書山ほど書かされるし月いちでクリニックの診断提出しなきゃならないし箱庭とかロ-ルシャッハとかめんどくさいのいっぱいやらされてるんだ~」

「え~それぐらいですんだの~?銀玉で自決すれば良かったのに~。僕なんか県警からようやく本庁呼ばれたのに仲間だと思われて今交番勤務に格下げっすよ!ど~してくれるんっすか!?もうオコですよ(*`Д´*)!!」

「でも交番勤務なら自転車こぎ放題」

「まあ…それは…いいかな(´∀`*)(乗れるし」

「ところで俺たち本編にもちらっと出てんだけど…なんつ-かハジけてないよな~借りてきたネコつ~か他所行きつ~か~俺だってさ~こうアニメ見たいに両手広げて弾道流星群キタ━ヽ(∀゜ )人(゜∀゜)人( ゜∀)人(∀゜ )人(゜∀゜)人( ゜∀)ノ━!…みたいにやりたいわけだ」

「あ~それはですね~仕方ないっすよ。シリアスな話で脱線すると内藤さんに「内藤さんがおふざけが過ぎる」って内藤さん自身が注意されるって言うパラドックスが…(´・ω・`)」

「なるほど(複雑」

「ところで今回の事件ですが次回も僕たち登場するんすかね~(´∀`*)」

「さあ~俺たちが登場した場面って実は捜査に呼ばれてもいないしリハビリ中だし交番勤務の巡査が勝手に刑事みたいに現場で捜査してるって設定だから」

「僕犯人はやっぱ二重人格だと思いますよ(`・ω・´)」

「へ~夕張刑事にしたらベタな推理に落ち着いたね~」

「いや~僕だったらそんな結末にしないけど作者のレベル考えたらねえ(*゜▽゜*)」

「なんというメタ推理…夕張刑事は確か刑事をやる前は他の仕事してたって聞いたけど?」

「刑事やる前は探偵でした(´∀`*)」

「刑事辞めて探偵になるって話は聞いた事あるけど探偵から刑事って、すっげえ矛盾してないか?」

「そ~すか?探偵→刑事→人気作家って言う僕なりに描いた華麗な人生プランを順調に爆進中ですよ(*゜▽゜*)」

「夕張刑事は作家志望なのか…それで警察組織や探偵稼業に小説のリアリティを求めて今の職業を選んだわけなんだね!恐れ入ったよ!感心したね!」

「北条〇子が登場するラブでいかしたコメディですとか大絶賛執筆中なのです(`・ω・´)」

「…………………………」

「人気が出てからでは遅過ぎるくらいなんで新しいマンションも買う予定だしメイドさん3人のお部屋も必要かなあ…なんて(´∀`*)」

「お…おう」

「妾のペンネームは【ひおう夕張】真ん中にGO!GO!努々忘れるなかれ…わかる人にしかわからぬか…むしろ妾はそれでいいと思っておるぞノシ(`・ω・´)」

「今俺は無性にウオッカを浴びたい気分だぜ」

「ちゃ~んとご用意してますよ~それ!どぼどぼどぼってね(´∀`*)」

「わ~!?本当に頭からかけるなよ~!?」

Спасибо. Всёхорошо!(ゝω・)ノ
カチ!(ジッポを弾く音)


【 その他私信 】
最近はタバコも吸えるんで児童公園のベンチとかで原稿書いてます・・蚊にくわれる・・家ではまったく書かない・・・


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