Mistery Circle

2017-10

《 MAY AF∀IR 》 - 2012.07.12 Thu

《 MAY AF∀IR 》

 著者:六曜日








【5月の花嫁】

もしも罪に始まりかあるとするならば。

私が母を土に埋めていた事に他ならない。

いや正確に言うと埋めていたのは母から届く手紙だった。

お前に「私たちは親にすてられた孤独な子供ではない」と教えればそれで良かったのだろうか。

けれどそれが私にはどうしてもできない事だった。






「なぜ6月の花嫁は幸せになれるか君は知ってる?」

彼の囁きが私の耳を擽る。その度に私の体の芯をあつくした。

私はそうされるのが好きだった。

髪を撫でられるのは風に髪を鋤かれるのとは違う。

私にそれを初めて教えてくれたのは彼が最初ではないけれど。

たとえ彼が私にする事は神代七代の時代から恋人ならば当たり前のありふれた事でも。

私には新しい。悦びをくれた。

海の底に沈んだ私の貝殻を砕く。

そうして私が本当は人に触れて欲しくないと思う敏感で猥雑な器官に躊躇いなく触れるのだ。

体の隅々にある毛穴が開くような。

それでいて私には堪らなく心地よい時間。皐とは違う。

当たり前の事だけれど彼は皐とは何もかもが違っていた。

私は目を閉じる。

暗い海の底で砕かれ私の剥き出しにされた薇が静かに音もなく燃えるのを私は感じていた。

「西洋では6月の女神はJONOなんだ。ヘラ-の別名…ゼウスの正妻さ」

ヘラ-は結婚と出産を司る女性を祝福する女神。

ならば心強い後ろ楯。安心して幸せになりなさいと女神は花嫁たちに微笑む。

「5月の女神はMAIA。豊穣と収穫を司る女神だ」

なぜ雨ばかり降る6月に女たちは花嫁になりたがるのか昔はとても不思議だった。

夏は暑いし冬は寒い。

「常識でしょ?結婚するなら断然私は私や皐が生まれた5月にするべきだとおもうの」

「西洋でも5月は過ごしやすいとてもよい若者の季節。特に西欧では収穫の季節を迎えるんだ…だから」

彼の説明に私は頷く。

「収穫の女神MAIAはその大切な時期に結婚する花嫁を許さない」

知っている事だった。皐が私に教えてくれた。

「それでも私は5月に式を上げたいわ。私が生まれた月だもの」

私は彼の肩先に髪をあずけ寄り添う。私と皐が生まれた月だもの。

「君がそういうなら」

皐が耳元で囁く。

「僕たち5月に結婚しよう」

彼が私に微笑む。

「君が生まれた月だから」

「僕たちきっと幸せになれるさ」

私は頷く。

「君をきっと幸せにしてみせる」

「僕と君が生まれた月だから」

私の家の客間の床は趣味の悪い市松模様の柄で。

私は昔から嫌いだった。

今私たちが腰掛けている翡翠色の英国製のソファーにもそぐわない。

見ていると頭が痛くなるの。

ソファーの前には虎皮が敷かれていたり。

その前はダルメシアンの特等席だった。

ダルメシアンがいた頃はましだった。

父親が狩猟に懲り始めた頃の話だ。

やがて犬は皮も残さず首輪だけ置いて何処かに行ってしまった。

父親が狩に飽きたからだ。

私は密かにダルメシアンの首輪を屋敷の外に埋めた。

私は幼い頃からここで皐と暮らしている。

ここは街を見下ろす小高い丘の上に立つ偽物の教会。

偽物の教会というかチャペルのある結婚式場だ。

もはや新郎新婦が式をあげる事は二度とない廃墟。

私と皐は子供の頃からここで暮らしている。

ある日突然皐がダルメシアンみたいにどこかに行ってしまうなんて思いもしなかった。

私の父はマフィアで盗賊。

欲しいと思ったものは人を殺してでも手に入れる男

。死んでも離さないなら掴んだ手首ごと切り落として懐に入れる。そんな男だ。

私たちが町を見下ろす丘の上の結婚式場に住むようになったのも父が所有者から奪ったからに他ならない。

まだそこが結婚式場であった頃私は幼い少女だった。

白いレ-スの飾りがついたドレスと紫のサテンのリボンを髪に結んだ私は父に連れられて知り合いの結婚式に参加した。

特注の子供用のピカピカの燕尾服と首に蝶ネクタイを結んだ双子の兄皐と新郎新婦入場の際花嫁の後ろについてウェンディングドレスの長い裾をもって歩く役を仰せつかったからだ。

私と同じ顔をした皐月。髪は短く前の日に散髪されていたけれど緊張で顔が強ばっていて私はそれを見るのが楽しかった。

随分無理をして衣装に押し込められた花嫁の背中を眺めながら私はいつか同じドレスを着て皐と絨毯の上を歩く日を思い描いた。

もしかしたら、この大役を終えた後皐は私にプロポーズするかも知れない。そんな予感に胸が騒いだ。

けれど皐は待合室のソファーにぐったりと白いソックスと窮屈そうなエナメルの靴に押し込められた足を投げ出しドリンク場に用意されたオレンジジュ-スで失われた糖分を補給するのに夢中で…私はがっかりした。

首から外されたネクタイは死んだ蝶のようにガラスのテ-ブルの上にあった。

「僕たち結婚しよう」

皐が私の髪を撫で何も身につけていない裸の胸に私を抱きしめたのは、それからずっと先の話だ。

私が父親に「こんなお家に住んでみたい」と言ったから。

丘の上の結婚式場は私と皐の住む家になった。

皐の事もそう。

あの頃の私は願い事をすれば何でも叶うものだと信じて疑う事はなかった。

父の手により何者かの手から奪われた結婚式場。

そこは父が合法非合法に関わらず他人から奪った所謂戦利品の倉庫の役割を担っていた。

高価な骨董品の壺や西洋の絵画が無秩序にところ狭しと置かれたり飾られていた。

その殆んどが債務のかたに取られたもので父の手下のような男たちによって管理されていた。

誰かに鑑賞され愛でられるためでなく、いつか換金される目的で。

父は美術品や調度品の類いには一切興味がなく。

それらに将来利益を生む価値があると分かればそれで満足だった。

父は生まれついての略奪者あった。

一度手に入れてしまえば興味を失うが手下がそれをくすねたりしないように戦利品のリストはしっかりと側近に作らせ管理させていた。

「その戦利品のリストにはもしかしたら僕たち2人の名前も載っていたりして」

悪戯っぽく笑う皐の笑顔はいつまでも子供の頃の面影を残していた。

私たち2人は周囲を私有地を意味する鉄条網で囲まれた丘の上に立つ結婚式場で育った。

厳密に言えば私たち2人ではなく父の手下が何人か私たちの面倒をみるために常駐していた。

2人分の食事を作るには広すぎるキッチンにはお抱えの料理人が住み込みで働いていた。

けれどボスの子供である私たちに対して皆腫れ物に触るように距離を置いて近づこうとはしなかった。

子供というのは往々にして無邪気で無責任で機嫌を損ねやすい。要するに彼らにはボスのガキ共は手に余る。

下手に私たちに近づいてトラブルを起こし父の機嫌を損ねる事を皆が怖れていた。

父は父で普段私たちの棲みかにはあまり寄りつかず何人かいる他人から奪った愛人の元にいるか生来の生業である略奪や違法行為に勤勉に勤しんでいた。

母は私や皐が幼い頃別の若い男と家を出たきり行方が分からなかった。

母の思いでの品は手紙1つ残ってはいない。

広い結婚式場の中の薔薇窓が設えられた教会や荒れ果て枯れた噴水とガゼボのある庭園が私たちの遊び場だった。

私も皐もお互いがそこにいれば、それで満足だった。

私は遊ばなくなった古い毛糸の髪の私の人形や皐のロボットやバッキンガム宮殿の騎兵風の衣装を着た兵士をフェンスの張り巡らされた丘陵地に次々と埋めた。

まるで魔法使いにでもなったような気分ではなうたを歌いながら、でたらめな呪文を唱えながら埋めた。

それは私たちを衛る兵隊で誰かが無断で私たちの棲みかに入り込んだ時散々な酷い目に合わせてくれるはずだった。

雑草や枯れ草の種を小袋に集めて住まいの周りに蒔いて水をやるのも幼い私の大切な仕事の1つだった。

建物の中にある私と皐の秘密の場所。

図書室で読んだ古い物語。それが私の心をとらえて離さなかったからだ。

忌み嫌われる御屋敷に住む美しい2人の姉妹。

近隣に住む人たちは何故か姉妹と2人が住む家を嫌い怖れていた。

お話のほとんどは忘れてしまった。

けれど最後2人の姉妹は力を合わせて家の窓という窓を板で打ち付けてしまう。

玄関の扉も外からけして開かぬように中から釘をうち姉妹は畑の野菜を夜にこっそりと収穫する。

やがて時が経ち家中に蔦や植物が覆い、そこに屋敷があった事も忘れて。ただ、その場所にだけは近づいたり子供を遊びには行かせない。

姉妹は屋敷の中でいつまでも幸せに暮らした。

時々通る人を中から見て楽しそうに笑いながら。

私はせっせと種を蒔き水をくれたがお話のようにはならなくて落胆した。

野草の種は私たちの棲みかを覆いつくすほどにはならなったけれど世間の人たちがそこに立ち入る事はけしてなかった。

その頃の私たちのお決まりは本の森と私たちが呼ぶ部屋だった。

元々図書室などが結婚式場に併設されていた訳ではなく高価なアンティークの本棚もそこに無作為に並べられた古書の類いも父が他人から奪ったものの1つだ。

押収された家財の中に高価な本棚があり雇われた目利きが価値があると言ったから集められた書籍類が無秩序に本棚に押し込められ誰にも読まれる事なく眠る部屋。

書籍は数ある父の戦利品の中でもとりわけ価値が低いものであった。

名品と呼ばれる骨董品や絵画の価値に比べ印刷された書籍の紙幣価値はその十分の1にも満たない。

さすがに父の略奪品の中に太古の文字で書かれた石板の類いはなかった。

目利きはその書籍の価値を口泡を飛ばし熱弁をふるったが彼らの説く本そのものの価値は父にとっては一山いくらのを高価なちり紙を掴まされに過ぎない。

この場所でそれらの気の毒な書物たちの価値を知るものがいるとすれば、それは私の双子の兄である皐1人だけだった。

彼は幼い頃から本の森に入り浸りそこで文字の読み書きを覚えた。

生まれつき私より体が弱い皐は大半の時間をそこで過ごした。

私は昔から本というものと相性が悪く少しページを捲って文字を読むだけで頭が痛くなる。

私たち2人は髪に飾った髪留めや髪の長さや洋服以外では他人には判別出来ないくらいよく似ていたが、そこだけは明確に違っていた。

屋敷に雑草が隠れる事はなかったが豊かな本の森の果実は皐に思考や感性の種を巻いた。

皐はいつもその場所と繋がっていて記憶中の皐の匂いは乾いた書物たちの紙の匂いと同じ。

私はそれが好きだった。

いつも扉を開けると皐と皐の座る木の椅子と机が私を出迎えてくれる。その部屋が私たちの隠れ場所だった。

彼は幼い頃から司書であり書籍部屋の管理人であった。

私とほぼ同じ時間に生まれたにも関わらず書物に落書きしようとしたり乱雑に扱うと私は必ず優しくたしなめられた。

私は皐にそうされるのが好きで、わざと本のページを破いたりして皐を困らせた。

年を追う毎に皐は書物たちと親和の度合いを深めた。理解の証に彼は無秩序だった本棚を整理し作家別種類別に書物を並び替えて行った。

父は書籍部屋に入り浸る私たちの話を聞いて実は喜んでいたらしい。

「皐ぼっちゃんは勉強熱心で」と部下に持ち上げられるとめったに笑わない父が相好を崩すと部下たちは知っていた。

男の子なのに体が弱い皐。

男の子は元々弱いという記憶も知識もない父は皐の事を憂慮していたが「頭が良いなら法律家か政治家にでもなってくれたら」そう漠然と考えていたに違いない。

「いずれにしろ自分と自分の組織に利益や便宜をもたらす人間になる事」

それだけを父は皐に望んでいた。

『勉強バリヤ』と皐は呼んでいた。

小難しい書物が整然とならぶ部屋に興味を示したり近寄ろうとする大人はいなかった。

私は漆塗りされた扉に黄色のクレヨンで蜘蛛の線画を描いた。

扉いっぱいに広がる8本の脚が思いのほか均等に描けた事に私は心から満足した。

「ナスカの地上絵みたいだ」

いつか絵を眺めて皐が私に言った事がある。

「おまじないよ」

私は皐にそう答えた。

描かれた蜘蛛は巣を張り巡らし主である私と皐以外誰も通さない。当時の私はそんな風に空想の糸を口からはいて金色の蜘蛛の巣を張り巡らしたのだ。

「悪者の秘密基地みたいに見える」

そんな風に油断気に口をぽかんとあけた皐を見るのが好きだった。

私はきまってそういう時には皐の私より幾分尖って少年らしい面影をおびて来た頬に無理矢理の口づけをするのが習わしだった。

歳月の流れと共に彼は私のされるままにしていたり照れたり露骨に拒で見せて私を泣かせたりした。

けれども同じかたちをした2つの小さなの唇はいつしかその違いを確かめようとするようにお互いを求めた。

それは私たち2人にとってはごく自然な事であり父親や他人には隠し通さなくてはならない後ろめたさを秘めた秘密だった。

季節の移り変わりと共に変わり行く私と皐の肉体。

きっかけは私が皐の前に広げて見せる西洋の画家の裸婦の素描や絡み合う男女の姿態であったかも知れない。

私の住む世界には価値あるものは皐しかなかった。

皐にとっても、私たちはお互いに変わり行く姿を見て離れ離れになる事を怖れたのかも知れない。

私と皐と蜂蜜の瓶の中の骨。それが私たちが宝物の中に密かに隠した秘密の宝物だった。

皐が本の森で熱心に本のページを捲る間私は表に出て熱心に土を掘り返す。皐が本の世界に本当に集中している時私は彼の周りを飛び回り煩くされる。

皐は優しいから露骨に私に「あっちに行けよ」みたいな事は言わない。

けれど本のページを繰りながら唸ったり眉間に皺を寄せたり「少し待って」と私の鼻先に掌を翳したり。

私はそうされるのが好きではない。

皐にないがしろにされる事はこの世で最も耐え難い事だった。

そうした時間の大半を私は怒りの言葉を呟きながら地面を掘り返した。

傍らには私と皐の護りとなるために引き立てられた哀れな者たちが静かな動かない瞳で空を見つめていた。

皐に今日の仕事を報告すると彼は決まって読みかけの本を栞で挟んで閉じて私の頭を撫でてくれた。私はそうされるのが何より好きだった。

ある日の午後私は掘り返した地面の中から白い動物の骨を見つけた。

昨夜一晩降り続いた雨のせいで土は黒々と湿っていた。

名も知れぬ雑草の根が園芸用の赤錆たスコップで掘り返した土の壁のいたるところからはみ出していた。

その中に埋もれた白い動物の骨。

最初は蛹になるために白く透明に透き通った芋虫のように見えた。

私は恐る恐る指先で骨の先を摘まんだ。

骨は冷たくて規則正しい節が並び節の部分には濡れた土がこびりついていた。

私はレ-スのスカートの端を摘まむと泥を丁寧に拭った。

それでも泥は着いたままなので私は急いで近くの水道に行き骨を洗った。

骨が溶けてしまわないか、どきどきした。

そうしている間も私は皐に私の素晴らしい穴堀の成果を報告したくてたまらなかった。

皐は手にしていた古いカビ臭い本なんか放り出し驚きと畏怖を湛えた瞳で私を見るに違いない。

実践的フィールドワ-ク千時間の研究や推論よりも歴史はたった1つの発見により覆る。

実存主義の輝かしい勝利。

水道の水で現れた骨は「それは完璧だ」と私に語りかけた。

で実際その通りになった。

私は鼻高々で鼻息荒く皐に経緯をまくしたてたが皐はなんのオブジェクションモなく頷いた。

彼も私の発見した骨を見て静かに、だけど興奮を隠せない様子だった。

「人間の骨みたいだ」

皐はそう言いながら早くも目線が本棚にある人体の組成に関する書物を探し始めている。

「違うったら!魔女よ!大魔女!昔この地を根城にしていた悪い魔女が封印されていたの!証拠だってちゃんとあるんだから!!」

「証拠って」

「この建物が立派な証拠じゃない!?強力な魔女の力を封印するためにわざわざここに教会を建てたの!皐は本ばかり読んでるくせにそんな事も分からないなんて!?」

「ここ、教会じゃなくて元々は結婚式場だろ」

「だから、教会に見立てた封印なのよ!魔女は悪い者だから幸せが集まる場所では力が発揮出来ないの」

「なるほど」

少なくと私は私が見つけた骨が人間や動物のものであるなどという、つまらない皐の検証は全力で阻止する事が出来た。

骨はキッチンで貰った蜂蜜の瓶に大切に仕舞われ猫足のデザインは秀逸だがおよそ収納性に欠けるアンティークの文机に仕舞われた。

本の森に1つだけある皐の机はそれを待ちわびていたように私には思える。すべてが完璧に思えた。

人間、鼠の脊髄、それと女神の骸?少なくとも永遠に花嫁を祝福するヘラ-ではなかった。

私たち2人はやがて1つから2つに引き裂かれてしまう運命だったのだから、

骨の入った底の四角い瓶は揺するといつも乾いた音を鳴らした。きれいな金色の光沢があった蓋はいつしか赤錆が目立つようになったけれど。

瓶の耳元で骨を鳴らすと皐は本の空想の世界から目覚めて私に微笑んでくれた。私にはそれだけで充分に魔法の瓶で。

私はそれが好きだった。

私が信じる魔法。魔法使いの骨、そして皐。

そんな私たちを快く思わない神様。

そんなものがあるとすれば、それは一冊の古書だった。

「それだけは触るな」と父親から固く念を押されていた。

本の森の一番奥に置かれた無骨な岩のような金庫にその書籍は奉られるように仕舞われていた。

「注連縄でもつけたらいいんじゃないの?」

皐が皮肉混じりに言った事がある。

勿論私たちは金庫の鍵のありかなどとうに知っていて「開けてはいけない」と言われる物の存在など認めようとせずに中を確かめた。

漢詩で綴られた書物は当時の私たちは何1つそこから読みとく事は出来なかった。

「あれは神道とか…陰陽道陽明学に纏わる本じゃないかなと思うんだ」

神道、陽明学、陰陽道…いずれも私たちの住む世界とは無縁の代物であり皐もそれに理解や興味をしめす年齢には達していなかった。もっとも今でさえ興味があるとは思えない。

しかしその書籍は父が子供たちの手に触れぬよう厳重に金庫にしまい込むほどに他の本とは格段に価値が違っていた。

それは皇室に於ける祭礼や年中の行事や儀式の基範や理について記された書物であった。

本来は宮内庁の、私たち民間の人間が知り得ぬ場所に厳重に管理されていなければいけない代物。なぜそれが父の盗品倉である私たちの家にあるのか。

理由を聞けば実にお粗末で下世話な顛末という道を辿りこの本はやって来た。

【巨星堕ちて狐野を走る】

かつて裏社会ではそんな風に囁きが交わされた。

当時父は行きつけの都内にある高級クラブのホステスに入れあげ

彼女を愛人にするために店を強引な手口で買い上げた。

女を愛人にする代わりに高級なクラブを一軒買い与えたのである。

政界の要人や財界人著名人が通う、その店を手に入れるには父なりにかなり旨味があったのだろう。

父の恫喝を交えた強引な買収に対して勿論顧客である有力者達と昔から懇意であった経営者もそれなりの抵抗は試みた。

しかし、それ以前に父の愛人が自らが経営者となるための根回しや行動は早かった。

店のホステスとして勤め始めた頃から女はスポーツ新聞から経済新聞まで購読し毎日くまなく目を通した。

一流と呼ばれる人間が見て好ましいと思われるような所作を身につけるため茶の湯や日舞や書道、本来苦手な料理の教室にも通い稼いだ金を注ぎ込んだ。

職場にも店の女の子が喜びそうなブランドの菓子を持っていったし若い子の相談事も聞いた。

けれど、ただ相づちをうつだけで元の経営者や店のママの悪口はけして口にしなかった。

控え室でよく彼女はイヤホンをして同僚に「何を聞いてるの?」と聞かれると彼女は微笑んで「志ん生」と答えた。

彼女は聞き上手ではあったが客の前でも同僚の前でもけして出過ぎた口を挟まなかった。

店の中で女は取り立てて美貌が際立っていたわけではなかったが商才や干知に長け、殊更金の臭いには鼻が利いた。

一度啖呵をきれば男勝りで店の客に対しては聞き上手「男尊女卑はいたしかたない」と年輩の男たちを持ち上げ喜ばせる事も忘れない。

女は父と同じ穴の貉であり素性は知らずとも過去に泥水をすすって生きて来た。

父が彼女を気に入って手元に置いておきたがる理由は理解出来た。

父は政界の要人や財界人との深いパイプを持ちたがった。

皐の件といい父は自らの組織の合法化を夢みていたふしがある。

しかし父の愛人はそれをたしなめ店に顔すら出さぬように諭したという。

強面の部下たちでさえ目を合わせるのも怖れる父に対して随分豪気な女もいたものだと私は思う。

女の前で酒で弛んだ男の口は如何なる大立者であろうが小物であろうが大差ない。

女は如才なく耳にしたそれらの裏情報を父に話し父はそれなりに旨味を手にしたのだろう。

ある日女は上客である大物政治家から1人の老人を紹介された。

杖に頼らなくては歩く事すらおぼつかぬただの老人。

身に着けている私服も質素で自分で選んだとも思えない。

およそ金の臭いのしない「学者」と聞いてようやく合点がいった。大勢の弟子たちに「先生」と呼ばれるその老人がその夜の主賓であった。

「君は知らないかも知れないが、この方は陽明学という立派な学問の大家であらせらる。

戦後の日本の政治や文化に大きな足跡と影響を与えた方なんだ」

鼻息も荒くそう紹介された。

「このような仕事をしているため浅学で申し訳ありません」

女は恭しく老人に頭を下げそれ以上余計な口を挟まなかった。

「死にかけの水戸黄門みたいなものかな」と心の中で呟いた。

聞けば老人はたいそうに立派な功績を遺された御仁であるらしい。

しかし今は先頃妻に先立たれ失意の底にあり、お顔の色も優れず。

「せめて華やかな場所で好きなお酒でもたしなんで元気をだして頂こう」

弟子たちが寄り集まり相談した結果今宵の宴の席と相成った訳だ。

「先生は部類の酒好きでな」

「一番いい酒を持って来い」と促されたが老人は「別に安い酒でも構わをんよ」と嗄れた声で呟いた。

「安酒ほど口当たりよく甘くなるので敵わんが」

「この世に先生でも敵わぬものがありますか?」

「酒には昔から敵わん」

まるで笑い方も忘れたような引き笑い。

「先生は天皇陛下の御祐筆も勤められた御方だが…ここだけの話御公務の際にも」

なみなみと注がれたグラスの琥珀色を見た時生気のない灰色に光が戻るのを女は見ていた。

酒が注がれる間しきりに袖で口を拭う仕草も。

唇が乾いてひび割れているのは年のせいばかりとは言えない。軽いアル中なのかも知れない、と女は思った。

「行動一致…最近は弟子にもそう言われ酒は止められていてな」

そう言って老人はなみなみ注がれたグラスに口をつけた。

老人は85歳。

大正の時代に生まれた。

日本でも五指に入る宗廟の名家の四男として生まれ。

幼い頃から父に四書五経の奉読を授けられた。

帝大在学中は漢学、皇漢学の研究に没頭し、その明晰な頭脳と鋭い洞察力は帝大教授たちでさえ一目置く存在であったという。

常に紋付き袴で運転手つきの高級な外車で颯爽と大学に通った。

大学時代から研究と研鑽の毎日を続ける彼は人の交わりは希薄だった。

大学卒業後数ヵ月だけ文部省に勤務し退職。

大正デモクラシ-の風が吹く時世の中で発表された彼の著作「日本人精神の在り方」や彼の説く「日本精神に基づく国政の改変」軍人や華族や官界に熱狂的な心酔者を生んだ。

彼の思想は大陸から渡った漢学から何時しか「この国と人のあるべき姿」を説く「人間学」名を変えた。

彼の私塾からは多くの思想家や政治家の他過激な思想に走る運動家も輩出した。

彼と袂別った弟子たちの中には思想を説くばかりで何一つ国のために動こうとしない彼に業を煮やし彼を揶揄する者もいた。

ただ生涯を思想家であり研究者として過ごした。

「思想とは時には鉾にも盾にもなりうるものだが真理の道を説く者はそのどちらにも、傀儡や道具であってはならぬのだ」

老人の言葉を聞き弟子たちは我が意を得たりと感銘の言葉を漏らした。が傍らで酒を勧める女の心には響かない。



当節流行りの劇画や映画でもついぞ見かけはしない台詞だと胸の内鼻で笑っていた。

彼の説く人間学は保守派が過半数以上の議席を占めてきたこの国の政府の中にあってはいつしか「帝王学」と呼ばれ崇拝された。

氏の陽明の学問の知識から派生した易経は他の辻占いとは一線をきす文字通りの神託であり戦後歴代総理の指南役と呼ばれ勉強会に出席出来る事は1つのブランドとなった。

如何なる政治的な闘争にも思想的な運動にも参加しなかった。

それが思想家としての彼の現在の地位を後押しした。

歴史上の偉人と呼ぶ者もいれば小人と評価する者もいた。

「戦後GHQに身柄を拘束された私は東京裁判で戦犯となり処刑される段取りになっていると聞いた」

しかし実際には彼だけがその科から逃れた。

彼が何時開戦の時期や是非を軍の上層部や時の天皇に問われそれに答え、彼の口から漏れた愛国論がプロバガンダや流言となり日本国内に吹き荒れたか…彼をA級の戦犯として処刑台に送る理由は米国政府には充分にあった。

「李さんの墓には今でも足を向けて寝られない…本当に生前はよくしてくれた」

李という人物は彼と親好が篤い華僑の大使で戦後本国を通じ彼を東京裁判の被告にしないよう本国を通じ米国に呼びかけた人物として知られていたる。

おかげで彼は戦犯とならず今日まで生き延びる事が出来た。

女は老人に関する資料を集め、その周辺の人物に関する本を読み漁った。

彼の著者は現在でも手にする事が可能だがかび臭い匂いがする精神論には興味がなかった。

彼が恩人であると手を合わせる李という男は戦後この国を跳梁した大陸からのスパイであった。

政界に多くの信奉者を持つ彼は情報源として有益であった。

ただそれだけの話だ。

漢学の泰斗として名を馳せ、希代の論客であり偉大な思想家として国の舵取りには必ず助言を求められた…かつては彼の一言一句には紛れもなく言霊が宿っていたのだろう。

しかし今は同じ昔話を何度も繰り返すような斑呆けの1人の老人に過ぎない。

人々にとって矛であり盾であり傀儡であった時代もとうに過ぎた。
脳も肉体も抜けた空蝉のように干からびただ死を待つのみ。女は老人に酒を注ぎながら思う。

「どんなに偉い頭を授かった人もボケには敵わないものだ」と。

干からびた口から語られるかつての名声や歴史の舞台、それらは女にとっては戯言や妄言以外の意味を為さない。

ただ傍らで黙って微笑みを浮かべるだけ。死後も老人が邸に遺すであろう資産の話は聞き逃しはしなかった。

幸いなことに女を老人はたいそう気にいったようだ。

「貴女のような大和撫子のような女性はもうこの国にはいないのだろう」

「そんな言葉をかけて下さるのは先生だけです。もう私も四十…あだ花とも呼んでもらえません」

グラスに酒を注ぎながら女の指先はそっと老人の手に触れた。周囲の者に気取らぬように、実に巧みな仕草だった。

そうして老人は終始機嫌よく最後は弟子たちに脇を抱えられるようにして店を出た。

「また、いつでもいらして下さい」

女はそう声をかけるのを忘れなかった。

「いつでも気がねなく」

女は店の入り口で老人に手を振った。

「また、あのおじいさん1人で来たんですね」

控え室の鏡の前で髪を解く女に店の女の子が声をかける。

新人の娘で他のホステスや店員に「ママがなんであんなしみったれた年寄りに上客扱いするのか聞いてこい」とせっつかれたためだ。

女は一番安い酒で閉店までねばろうとする老人に高価な酒を浴びるほど飲ませた。

「家では充分に好きなお酒も飲ませてもらえないのでしょう」

老人の邸に電話をかけバイヤーで迎えの車をよこした。

「お金の事は心配しないで、ここは私のお店ですから」

ホステスとしても店の経営者としてもやってはいけない事だった。

第一店の看板である女が四六時中閉店まで老人に寄り添っていては他の客にも心象が悪いと皆が陰口をたたいていた。

「あんなおじいさんの戦争の話とか聞いてて面白いんですか?」

鏡の前で化粧を直しながら女は答えた。

「亡くなった父に似ているの」

「ああ…そういう事ですか」

「お酒が好きだった、けど家が貧しくて生前は好きなお酒も飲ませてやれなかった」

「そういう事なら」

そういう事なら私も今こんな場所でこんな事はしていない、女は思う。

「面白いか面白くないかって言えば全然面白くない」

鏡に映る女が微笑む。

「わくわくするような面白い男ってなかなかいないものよ」

女の手が化粧台に置いたままの志ん生のCDに手が伸びる。どちらかと言えば【王子の狐】のような考えおちよりも【二階ぞめき】のような花魁女郎若旦那が入り乱れる派手な狂言回しがある噺の方が好みだった。

「あの人占いでも有名な方らしいから今度よかったら占ってもらったら?」

「本当ですか?私占い大好きです!!ママはあの方と親しくされていて占いとかしてもらわないんですか?」

女は鏡を見て笑う。

「やっぱり面白いわね、あの人」

「なにが、ですか?」

「昔からよく言うじゃない。論語読みの何とかかんとかって」

「何とかかんとかって…なんすか?」

考えおちでもあるまいに。

第一そんなのは自分の性分に合わない。でも、おちをつけるのは愛人でも論語読みでもなく私。

そう思うと楽しくなってきた。

「お寿司でも食べに行く?」

上機嫌で女は若いホステスに言った。


後の顛末はいつもの父の仕事と変わらない。

墓場に近き老いらくの、恋は怖るる何ものもなし。

老人にとってはそうであっても彼を老師と崇め奉る周囲の人間には一笑にふす事など出来ようはずがなかった。

女は老人を酒漬けにし、その肉体でろうらくした。

店だけでなく愛人に買い与えられたマンションに老人を招き入れて。

女の愛人の所有する高級外車が邸から愛人を連れ去った時親族や弟子たちは異変に気づき慌てふためいたがその時は既に遅かった。

車のナンバーから所有者をつきとめ何とか老人を奪還する事には成功した。

女のとその愛人から老師を引き離すために別邸にその身柄を移した。

その翌年老人は別邸で死亡した。

女と老人は出逢って半年、それ以後二度と会う事はなかった。

そうしていつものように黒服を着た男たちが邸のインターホンを押す。

勿論親族や弟子たちは門を開こうとせず門前払いをくわせようとした。

男たちを従えた女はカメラのレンズに映るように一枚の紙切れを差しだした。

債務の内訳書でも手形でもなく婚姻誓約書。女が老人にサインさせた。

「文京区のお役所はこれで私を正妻と認めてくれた。婚姻届けは受理されたんだよ」

女はインターホンに向かって言った。

「私はこの邸の主である男の正妻なんだよ」

かつて昭和の時代を代表するような文豪はこの邸の主と出逢い深い感銘を受けた後陽明学に傾倒した。

文豪は若くして世を去ったが師である彼若き文豪の師を悼み。

「もう少し早く先師王陽明に彼が出逢えていれば」

その言葉を遺した。

開かれた邸の門を潜り男たちは老師所有の歴史ある掛け軸や書を車に積み込んだ。

しかしそれらは行き掛けの駄賃に過ぎない。

酒に綻んだ口元から寝物語に聞いた女の耳は本当の老人の宝物のありかを熟知していた。

邸の書庫に仕舞われた漢籍の数々、それこそが女が目指す宝物であった。

虫の死骸に集る蟻のように次々運び出される宝物。

威嚇や怒号罵り合う男たちに混ざり1人華やかな色のスカートを引き摺りながら女は書庫の中から古びた何冊かの書籍を手に取る。

国立図書館にも蔵書がないと言われた老人の漢籍。

この国の王室の催事とのかたちを為すための、老人の死語は国立図書館の禁書目録になを連ねいくつかは皇室からの賜り物であるが故に返還され人目に触れる事はない。

とうにそうされてもおかしくはなかったが今もこうしてここにある謂わば国の宝。

老人が漢籍そのものであった。女は思う。

勿論この本に綴られている言葉の意味など何一つ理解出来ないが。

どんなに偉いさんの頭でもよる年波から来るボケには抗えない。

しかし魂はどうか?若い頃に憧れ魂を焦がす学問との共鳴をこの老人は果たした。

狂おしいほどに焦がれる世界との同化を人は望むも時が経ち老いさらばえた後に忘れてしまう。

女が出逢った時老人は欲望や生への執着だけが残る亡骸のような醜い存在に成り果てていた。

それでも女はそのひび割れた口から聞く事が出来たのだ。

男の魂の在処というやつを。

この界隈にある店は何もかもが過剰な高級さを売りにしている。

例えばあたりめや茎ワカメなど場末のスナックでも客に出されるつまみの数々は綺麗なビニ-ルにスティック状に包装されて中身は何も変わらないのに法外な値をつける。

男たちの好きなものは昔から変わらない。

そんな物に高い金を出す男の気が知れないと女は思う。

けれどそんな店の品物の中で女が好きな食べ物が一つだけあった。
小さな袋に入った星型のラムネと金平糖が一緒に入った菓子。

仕事が終わるとそれを口に含みながら落語を聞く。

それが何よりの楽しみだった。

女はイヤホンを耳にあてる。そうするのと聞こえてくる。

楽しくなる。

魂をかたちに、それが出来る男は幸いである。

それだけで耳を傾ける価値があるのだと。

人生というのは落語で言うところの、さげ場、その繰り返し。

さげがなければやまもないが、こうもさげばかり永遠に続く浮き世では自分でやまを拵えてみたくなるものだ。


父の愛人である女が老人の末期につけておちが如何なるものであったか私は空想するしかない。


女の心情の多くは私の空想によるもので女の人となりも名前すらも今は忘れた。

皐を失ってからの私は多くの時間を空想し皐の愛した書籍の文字を指でたどったり(そうするのは本を読む時の私のくせで、常にそうしていなければ迷子になった。

もっともそれも長くは続かないのだが)私と皐が離れるきっかけを拵えた女と同化したり。

女は私と皐の間を裂いた、それなりの毒婦や人物としての厚みを備えていなければ気が済まなかった。

女は毒婦であり、此処では私自身の空想によりその応身が保たれた魔女であり私が扉に描いた蜘蛛の巣を張り巡らしたが私のそれより強力で異質なものであった。

同情に私と皐も同じ存在であるとある時期まで信じて疑わなかった。

私たち2人は変わりゆくお互いの肉体に微かな不安を抱き興味や好奇心の赴くままに隅々まで互いの体を見比べ触れ合う事で性愛の悦びを知る事となった。

それが人の道に外れる事だとは露ほども疑わず。

いやそれよりもお互いの肉体を貪り一つになる快楽はすべてを凌駕した。

魔法の蜘蛛巣はある日突然に何の予告もなしに破られた。

理由は私たちのあずかり知らぬ場所で金庫に眠る漢籍に買い手がついたからだ。

漢籍は部屋に入って来た父の指示で丁寧に梱包され化粧箱に仕舞われ手筈通り密輸船の船倉に仕舞われ海を渡った。

かつて旅をして来たのとは違う航路を辿り先師の眠る大陸へと還った。

老人の魂はそこに還れたかは分からない。

ただ今はその国の国立図書館館に寄贈品として大切に保管されている。

父が部屋に入った時私と皐は一糸纏わぬ裸のままで生まれる前と同じ姿で胸をつき合わせ言葉にならない言葉をお互いの顔に吹きかけていた。

私たちは重ねていた肉体を引き離されて気を失うまで父親に殴打され革靴の踵で踏みつけられた。

私もひどく拳で殴られはしたがそれは皐の受けた制裁の非ではなかったように思う。

私たちはそうして父の手で長く続いた2人の秘密の場所を追われた。


いかにも月並みな言い方をすれば、そうして私たちは長年暮らし住み慣れた楽園を追われた。

此処より他に生きる場所があるとは思えなかった私は忽ち絶望した。

皐は他県の全寮制の高校へ、私は地元の高校で寮生活を送る事となった。私たちはそういう年齢になっていた。

相変わらず父は私たちと暮らそうとはしなかったし私と皐の事には誰も触れようとはしなかった。

丘の上の結婚式場を出てから皐と会う事は一度もなかった。

私たちは携帯も持っていなくてお互いの連絡先も知らされていなかった。

私は密かに持ち出した骨の入った瓶を新しい部屋の机の奥にしまった。

皐に逢いたくて人知れず泣く日々が続いた。

そんな夜に私は1人で瓶を鳴らす。そうしたら皐はいつもそこにいて、顔を上げて私に微笑んでくれるはずだった。


私の魂は今何処にある?

皐は…お前は今何処にいる?私の愛する男の命を目の前で奪い何処に逃げた?

私の婚約者の彼とは大学の時に知りあった。

私は私立の女子高からそのまま附属大に進学した。

彼は同じ大学の法科に籍を置く学生だった。

そこそこ有名な女子大であったが私が進学した年から共学になった。

名門とは言っても少子化が進むこのご時世では存続のために何処の大学も学生の確保に必死だった。

彼はキャンバスの何処かにいた私を見つけると猛烈にアプローチして来た。

私は最初煩くて無視を決めこんだ。

しかし彼は揺るぎなくいつも「君を見たらそうするのが当然なんだ」という姿勢を崩さなかった。

彼は皐とは何もかもが違っていたが彼と話をするのは楽しかった。

私の彼に対する蟠りや彼を貶めようとする心。

それはつまり私が新しいものを密かに求めているという罪深さからくる反鐘であると彼は私に気づかせた。

私は新しい家や父や母や友人や肉体や性器や世界を心の何処かで渇望しているのだ、と。

彼は法学部に通う学生が皆そうであるように将来は法律家を目指していた。

大学の特待生制度を利用して入学し授業のない日は大学とは別の司法試験を目指す人々の通う学校にも通っていた。

「まあ私塾のようなもので授業料も安いんだ」

彼の父親は既に他界していた。その世界では知られた清貧な弁護士であったという。

彼は父親の親友であった弁護士の元で学び事務所でアルバイトもさせてもらっていた。

「他に法科が有名な大学は沢山あったでしょうに、わざわざこの大学を選んだの?」

私が質問すると彼は屈託なく笑って。

「別に法律を学ぶのに大学の名前は関係ないし、奨学金も出してもらえて司法試験に向けてのバックアップもしてもらえるなら申し分ない環境だろ?それに元女子大なら可愛い女の子にも出逢える」

「単純ね」

「でも間違ってなかった」

呆れる私を彼は抱きしめた。

「もう充分に僕は間違ってなかった」

彼と過ごす時間は特別で、すぐに私の日常になった。

彼が尊敬する父親と過ごし背中を見て育った少年時代。

毎日野球に明け暮れて泥や汗にまみれていた時代。

それは私や皐の子供の頃と随分違っていて、私はそんな思い出話に耳を傾けるのが好きだった。皐と同じくらい物知りでも彼の知識や言葉は広い世界に向けて開け放たれた扉のようで。

私も何時かそこに行ける気がして。彼の瞳を覗く度に胸が騒いだ。

彼の父親が弱者を助けるため身を削った法律の世界に飛び込み学ぶ。そうして私たちが住む世界の法をより深く学ぶ事で自身の住む世界を変える事が出来ると彼は信じていた。

父の支配する城で同じ道に進む事を嘱望されていた皐とは随分違う…ふと寂しく思う事があった。

皐と私は逢う事がなかった。皐は父の意に沿う道から外れてしまった。

時より父の部下が話しているのを耳にした。

寮生活を送る高校でも皐は素行が悪く度々問題を起こしては学校を退学させられそうになった。

皐の周りには常に金目当てのたちの悪い取り巻きがいて…元々体があまり丈夫でない彼は違法な薬物や酒に手を出して病院に運ばれた。

それでも父親の計らいで高校も卒業できて進学先も決まっていた。

しかし卒業前に皐は何処かに飛び出したきり行方が分からない。

私は皐に会いたいと思った。けれど父の部下たちがうっかり漏らすような噂話を聞く以外に皐の事は皆が口を閉ざし話そうとはしなかった。

皐は今何処にいて何をしているのだろう。

私の事を恨んでいるのだろうか。

彼の体に抱かれた時に思う。

皐にも私のように誰かとの出逢いがあれば。

優しく身も心も包んでくれる腕があればと。

私は彼の胸に顔を埋める。

そうであって欲しくないという気持ち。

「つまらない女になったね」

そう皐に言われた気がした。

私の知らない皐が私を蔑む姿と冷たい瞳が脳裡を過る。

皐が姿を消した時私を訪ねて来るような気がした。

けれど彼は私の目の前に姿を現さないまま、時間だけが流れた。

大学の卒業を待たずに彼は2回目の挑戦で司法試験に合格した。

異例の事だと学長は翌年の入学式の時彼を壇上に立たせて彼の功績を讃えた。

「資格が取れただけでまだ僕は何もしていないさ」

彼は涼しい顔をして言ったが顔中に嬉しさが滲み出ていた。

私も胸の中が誇らしい気持ちで溢れた。

暗がりに陽がさすような気持ち。

いつも彼は私の手を引いてそこに連れて行ってくれた。人生にはそういう場所が輝くような時間があるのだと彼は私に教えてくれた。

けれどそんな時間でさえも私の心はすぐに翳る。

いつも長くは続かない。

彼の歩き出した道に私という存在はいてはならないのだとすぐに理解した。

私の父親は闇社会に君臨する王様のような存在で私はその血を分けた娘。

籍を抜いても父親との関係は永遠に続く。

私と一緒にいる事は今後彼の人生に取り返しのつかない致命的な打撃を与える事は明白だった。

私はある日彼に別れを告げた。別れを切り出したのではなく、はっきりと。

それは私の決意の現れであり彼に対する愛の証であった。

午後の学生街にある私たちのお気に入りのアンティークという名前の喫茶店。

趣味の良い調度品で飾られた店ではない。

ゴミ捨て場から拾って来たような扇風機やブラウン管のテレビや赤錆びた蚊取り線香の看板が無造作に置かれたゴミ屋敷のような店。飲み物も今時コ-ヒ-と紅茶とジュ-スと書かれた木板がレジ前に掛けてあるだけ。

盛夏になると【暑いのでしばらく休業いたします】という張り紙で客を追い返す。

私は何故かそこにいると心が安らいだ。

中途半端に懐かしい歌謡曲が流れる店で私が切り出した別れ。

私がどんな素性の人間で父親がどんな人物か、それが彼にとってどれ程の災厄をもたらすものであるか、私は彼に訴えた。

「今まで黙っていてごめんなさい」

彼は昔の映画に出てくる遊園地のコ-ヒ-カップみたいなひび割れた器に口をつけながら私の顔を覗き込んだ。

「黙ってないで何か言って」

私が彼に言うと彼はカップを皿に置いてこう言った。

「そんな真剣な目で話をする君を見るのは初めてだ」

私は次の言葉を接げる事が出来ない。

「今日はとくをした」

彼が私に微笑む。

「君に出逢ってから僕は本当にいい事ばかり続く…怖いくらいだ。君はどう?」

私は黙って頷いた。

「週末に君のお父さんに会いに行こう」

そう彼が私に言った。それがどんな意味であるか今更分からない私ではなかった。

「週末でなくても構わない。お父さんの都合がつく時間と日にちを君から聞いておいてくれないか?」

彼が私の瞳を真っ直ぐに見て言った。

私の決意など彼の真剣な眼差しに比べたら陽に霞む川辺の陽炎のように霧散した。

私がウェディングドレスに身を包み彼の横に座る。

そんな日まで日々は実に呆気なく過ぎた。

世間一般で子供や親にとって欠かせない行事がある。

入学式や卒業式…私たちの誕生日にすら父親は顔を見せた事がない。

万事抜かりなく部下が父親に報告をする。

「来週はお嬢さんの」

父の言葉はいつも決まっていた。

「金は足りているか」

「俺に恥をかかせるな」

それだけだ。

それで尻に先鞭を打たれた部下たちは躍起になって一度しか袖を通さない洋服や全然似ていない私と皐の顔が描かれた巨大なケ-キや硯みたいな万年筆…私たちが全然美味しいと思えない鳥の肝臓や外国の茸の盛られた料理の皿を競い合って目の前に積み上げた。

父は父にしか分からない理由で部下の前で私たちと触れ合う姿をけして見せようとしなかった。

そんな父が自宅の屋敷の趣味の悪いソファに何を思ったのか紋付き袴姿で腰を下ろし座っている。

「お嬢さんとおつきあいさせて頂いています」

自己紹介の後彼がそうきり出した後も神妙な顔で「うむ」と一言頷くだけだった。

恫喝一つあるわけでも拳銃を突きつけるわけでもない。

いつもの雷を鳴らすような怒鳴り声もなく借りて来た猫のように大人しい。こんな父親の姿を見るのは生まれて初めての事だった。

私たち二人にとって幸いだった事に、父はゴルフのラウンドの途中に腰を痛めた。

ぎっくり腰をやってしまい邸での静養と通院を余儀なくされたのだ。父の様子を部下から聞いていた私たちは見舞いを口実に本宅へと押しかけたのだった。

「五月さん…お嬢さんと真剣におつきあいさせて頂いています」

彼が緊張した面持ちで自分の名前と私と同じ大学に通う学生である事を父に伝えた。

年頃の娘がいる家庭ならば別に大して珍しくもない日常の一コマ。

その場にいる人間が何と思おうがなし崩しに流れていく日常に過ぎない。

しかし私にはこの景色に馴染めずにいた。

私と皐が共に暮らしたあの建物よりもさらに輪をかけて悪趣味な邸と父親。

それよりも何より今は此処にいない皐。

父が一度でも皐と私の秘密に触れたなら、すべては破綻する。

父がそうしたいならそうするだろう。

私の父親はそういう人間だった。私はそれが何より恐ろしくて父の顔も彼の顔すらも見る事が出来ずにいた。

「君の事は調べさせてもらった」

静かな口調で話す父の声を聞いて私は顔を上げる。

「失礼な事とは知りながら、しかしこれは私にとってはかけがえのない一人娘でな。まあ親バカのする事と思って許して欲しい」

「いえ」

さらに小さな声で彼が呟く。

「なにぶんにも学生の身分なので調べても何もありませんが」

「それでも娘の父親というのは、いつもいつも初めてで慣れぬ事ばかりなんだ。私のような人生を生きる人間には、特に。君も親になれば分かるはずだ」

父は私の顔を見て言った。

「妊娠してるのか?」

父らしい物言いだとは思ったが私は素直に首をった。

「そうか、驚かされる事には慣れていない。そうした事があれば事前に報告をくれ。これでも一応はお前の父親だからな」

「では…私たちのつきあいを認めて下さるのですか?」

私が父に聞くよりも早く彼が父に尋ねた。

父親がどんな人間か私に散々聞かされ、あまつさえ会う事も止められていた彼には父の言葉は想定外だったに違いない。

「止めるも何もない」

傍らに松葉杖を置いた父は首を振る。

「私は昔からこれに父親らしい事は何一つしていない。今更父親面をして反対する義理もない」

「そうだろう?」

という眼差しで父は私を見た。父を父らしいと思えたのはその時が生まれて初めてだった。

「君も既に娘から聞かされて知っているだろう。私は君たちと違い真っ当な人生を歩んで来たわけではない。誰が見てもヤクザ者だし、そういう連中としのぎを削り生きて来た。家族の命を危険に晒す事も。だから私は」

父は私の顔を見て言った。

「父親らしい事はおろか一緒に住む事も危険な時期もあった。お前たちには本当にすまない事をしたと思っている」

「いえ」

私は俯いて頷く事しか出来なかった。

「せめて、これの兄には私の歩いた道ではなく陽の当たる道をと願ったりもしたが上手くは行かないものだ。もっとも父親がこれでは因果と呼ばれても仕方ない」

父は彼を見て言った。

「君の身辺を調べさせてもらったが法律家を志望しているとか?」

「出来れば父と同じ弁護士に。まだ学生の身分ですが司法試験にも合格しました」

「お父上が生きておられればさぞかし喜ばれた事だろう。

私も自分の息子に同じ夢を見た時期があった。

結局それは叶わなかったが。娘が結婚の相手にと連れて来た君が同じ道を志している人とは、正直驚きを隠せないでいる」

私の心が俄に翳る。

彼の言葉や父の姿が遠いものに感じられた。

「僕でお力になれる事があれば」

「君は私のようなヤクザ者の男でも父親と呼んでくれるのかね?」

「父を助けて仕事をするのが幼い頃からの僕の夢でした」

彼の顔を見た。

いつもの屈託のない無邪気な笑顔とは違う微笑みで彼は私を見た。

「これでいいんだ」

彼の横顔は決意を秘めたように私にそう訴えていた。

彼の唇が静かに綻んで口にしたの「家族」という言葉だった。

「僕たちは家族になるのですから」

何かがおかしい。

それは、此処に今いない皐の席。そこに彼が座る事を意味していた。

父親が求めた皐のあるべき場所に彼が座る。

皐は今何処で何をしていて、どんな気持ちで私たちのこの報せを聞くのだろう。

皐は私たちの結婚式に来てくれるのだろうか。

いつも哀しい事があると皐は黙って私を後ろから抱きしめてくれた。今も彼のか細い腕のぬくもりを覚えている。

人など守れるはずもない、か細い腕だけど私を守ろうとして差しのべられたぬくもりを今でも覚えている。皐は現れない。

きっと私の事を怒っているに違いないと私は思った。

邸を出た彼に何か言いかけた私に私の婚約者は少しだけほろ酔い加減の口調で言った。

「君は何も心配しなくていいんだ」

「僕が君を守るから」

邸の塀の中から見える一際背の高い黒松。

その中天に朧気な月を眺めるように彼の言葉わ私の胸の中で遠くに霞んで聞こえた。

式を一月前に控えた私たちは二人連れだって丘の上にある結婚式場を訪ねた。

建物は老朽化が進み荒れ果て今や完全な廃墟と化していた。

建物の中に保管されていた、あの居心地悪そうにしていた美術品の数々も運びだされ今年中には取り壊され更地になる予定らしい。

チャペルのガ-デンの敷き石の煉瓦も噴水も今は丈の高い野草がのび放題になるのにまかせている。

建物全体が叢に覆われ隠れてしまうような、私が少女の頃に見た夢を思い出させるような風景だった。

「君はこんなところで育ったんだね」

もはや異容なお化け屋敷のような外観に様変わりした建物のア-チを潜り抜ける時に彼らは呟いた。

「おかしいでしょ?こんなに人が住んでいたなんて」

私の言葉に彼は首を振ると言った。

「やっぱり君は特別なお姫様なんだって出会った時から思っていたよ」

私がお城に住むお姫様なら皐は王子様だ。私たちは昔そのように暮らしていた。けれど王子様はお姫様を1人残して何処かに消えてしまった。

「足元に気をつけて」

彼が私の肩を抱いてくれた。

あの頃とは違う。

覚束無いピンヒ-ルに包まれた私の足元を彼が気遣う。

けれど私は此処に来ると、どうもいけない。

私が彼に「此処に来たい」と我が儘を言って連れて来てもらったにも拘わらず。ついつい皐の事ばかりが頭に浮かんで。

彼の顔が他人に見えて仕方ない。

客間に唯一残されたソファに腰をおろし私は彼に請われるままに懐かしい思い出を話していた。

母に捨てられ孤独な二人の双子たち。

孤独だけど輝かしい驚きに満ちた子供時代の思い出話。

彼は私の時折髪を撫でながら遠い外国のお伽噺に耳を傾けるように目を細めた。

偽りの言葉がすらすらと口元から溢れるのを私の耳は聞いている。

こんなにも流暢に言葉を操る私は信じ難いと私は耳を疑う。

此処にいるのは私ではなく皐ではないかと思ってしまう。

あの日遠くにやられ行方も教えてもらえなかった皐。

それは本当は私ではなかったか。そんなばかげた思いが胸を過る。

たすけて。

皐私をたすけて。

胸の呟きに私は耳を塞ぐ事が出来ない。

消えない。篭の中で羽をぶつけて鳥が暴れる。

叫び声はいつかけたたましく瓶の内側を叩く骨が鳴らす音に変わっていた。


披露宴の当日。

宴も闌の最中私は夫となる彼の左隣に座った。隣には父が、母の姿はそこになく皐もいない。

招待状は…出したのか。

ちゃんと皐に…父に問うも「あいつは今調子が悪くてな」そう気持ち悪く言葉を濁すだけだった。

皐は招待されなかったのだろう。

顔も薄れた母親と同じく、この場にそぐわぬ招かれざる客として。

しかし皐は現れた。

いったい何処で調達したのか、ふざけた蟋蟀のような燕尾服に身を包み。

もしも彼が私と同じウェディングドレスを着ていたら私と見分けがついただろうか。彼の黒髪は肩までのび頬はあの頃より更に痩けて尖っていた。

私と同じ頭蓋骨に比べやたらと大きな眼球はぎょろぎょろとして今にも床に溢れ落ちてしまいそうに見えた。

皐は私に笑顔を向けるでもなく、ただ黙って上座のある中央に進む。

そうして右手に引き摺るようにして持っていたショットガンを真っ直ぐにこちらに向け躊躇う事なく引き金を引いた。

ショットガンや武器の類いならば私の家なら容易く手に入れる事が出来た。

廃屋の地下室にも実家にも父親の事務所にも。

私たちは子供の頃から鍵のしまい場所も熟知していて持ち出そうと思えば、それは実に簡単な事であったのだ。

皐が銃身を此方に向けて銃弾を発砲する瞬間、まず先に反応したのは彼だった。

彼は何事か叫びながら椅子から立ち上がり私を庇おうとしてくれた。

けれど皐の構える銃口がその先に見据えていたのは私でも父親でもなく彼の眉間だった。

逆に席から立ち上がった事で彼はお誂えむきの標的となった。

銃声が鳴り止む前に見上げた私の顔や髪やドレスにかつて彼だったものが血の雨とともに降り注いだ。

銃弾は散弾となって彼の頭蓋骨の中で炸裂し骨や脳や眼球をゼラチンのように粉々にした。

私は無意識のうちに砕かれた彼を手を差しのべ掌の中に掬おうとしていた。

しかし溢れ脳漿も砕けた歯も一塊の肉塊となって髪にこびりつき銃弾の威力と共に背後の壁にへばりついた。

彼だったものは椅子に座り直し永遠に沈黙した。

皐は私には目もくれず床に銃を投げ背を向けその針を後にした。

周囲は悲鳴と嘔吐する者で阿鼻叫喚の地獄に変わる。

私はどのくらい虚空を眺めて茫然としていたかわからない。

しかしやがて自らの髪やドレスの肩にこびりついていたものを払い席を立った。

門出の衣装を染めた鮮血は私の心と同じように、いつしかどす黒い色に変わる。

私はウェディングドレス姿のまま床に落ちた銃を拾い上げた。

皐、私はお前を愛していた。今も変わらずに。

お前が私の前から姿を消した後もずっとお前を愛していたのに。

お前のいない空洞を埋めようと私なりに必死だった。

私が手にした新しい未来、微笑み、口づけ、性器、家族。

それは願っていたお前とのものとは違って完全とは言えない歪で居心地が悪いものであったかも知れない。

私がこの先幸せであるかどうか未来の約束や保証なんて何もない。

お前はいとも簡単に銃弾一つでそれを打ち砕いた。

私は花婿の椅子の背凭れに身をあずけ永遠沈黙した彼だったものに目をやる。

彼が私にくれなかったものが一つだけある。

それは今しがた皐が私の目の前に置いていった。

死と憎しみに他ならない。

私は皐を追って5月の目映い陽光が射すガ-デンのア-チを潜り抜ける。右手にショットガンを抱えたまま。

わざと銃を私の目の前に置いていったのでしょ?

どこに居ても私に見つけて欲しかった。

そうでしょ皐?

私が味わったこの気持ち、あんたにも教えてあげる。

この銃で。

私と同じ目に合わせてあげる。

だって私たちはいつも2人で1人なんだから。

私は皐が私を待つ廃墟へと向かった。


罪に始まりがあるとすれば私が母親から不定期に届けられた手紙を土の中に埋め始めた頃からかもしれない。

私は手紙を読まなかったし皐にも読ませようとしなかった。

あれは私と同じ年齢にもかかわらず母親を恋しがる。

そんな時私は大概不機嫌になるので皐も私の前では母や手紙の事は言わなくなった。

私は私以外に皐の目や心が奪われる事が許せなかったのだ。

そうして私は母親からの手紙を他の哀れな呪詛の道具と成り果てた玩具たちと一緒に地面の中に埋め続けた。

丸めて棄てられた手紙は腐る事もなく暗い地面の中で固い石灰のような白骨に変わる。

小さな墓掘りの魔女であった私が掘りあてた骨はきっと5月の女神の遺骨に違いない。

愚かな娘、そうとは知らず自らの墓穴を掘るがいいと嘲笑う。

罪深い恋人たちに裁きを降すその日まで鳴り止む事はけしてないだろう。





《 MAY AF∀IR 了 》





【 あとがき 】
ええっと・・タイトルはもう一個の作品と区別するためにAひっくり返しただけで深い意味はないっす。

もともと同じ作品ですし。

ただ長さ考えると「誰が読むんだこれ」という尺なんでお話の中から取り出しました。

全体の流れの中で中間部に位置するお話であります。

で最後のⅢまだ書いてるっていう・・いい加減区切らないと次の原稿落とすので・・スミマセン。記念MCなんで参加者の皆さんを俳優として起用したいと思いまして。

しかし僕の作品て女性の扱いが悪いんで躊躇・・弁護士役に知さんをと相葉弁護士の最初の名前は友道弁護士でしたが・・「これは酷い」と出来上ったキャラを見て断念。

最初からおじいちゃん設定だったのであまりご本人と遠いキャラは止めようと思いました。

他はいいのか・・という話ですが。内藤捜査官は少しレオンのゲ-リ-オ-ルドマンのイメ-ジで(あくまでイメ-ジ

いつも好きな曲の歌詞の一文から話を起こす事が多いのですが・今回もそう。まあこれは分かる方がいたらいたで嬉しいっす。not yetで終わったのもそんなかんじで・・。なんとか原稿遅送れてとりあえず一安心・・


【 その他私信 】
結婚話なんで六曜日で行こうかと・・でも後書きでキャラ作るのがしんどい・・


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