Mistery Circle

2017-11

《 9月の月(さかなの目5) 》 - 2012.07.12 Thu

《 9月の月(さかなの目5) 》

 著者:すずはらなずな







─もちろん、負けることもあるわ。だけど、それもいいじゃない。負けたって。


お母さんがそんな風に言うようになったのはいつからだろう。
負けず嫌いで完璧主義、そんなイメージだったお母さん。
ずっと出来の良い娘だったとも思わない。だからといって追い詰められたような気持ちになった記憶も無いし、卑屈になったことも無い、と思う。
お母さんの子育ては見事だなと感心する。「母さんはすごいぞ。素晴らしい母親だ」お父さんが事あるごとに手放しで褒めていたように。

なのに、だ。
最近のお母さんはふわふわと笑いながら「負けたっていいじゃない」、そんなことを言う。
合唱コンクールで競り合って優勝できなかった時も 審判の判定への抗議を認めてもらえず悔しい思いをした球技大会の日も。
慰められているのとは違う、お母さんはただ「勝ち負け」に興味がなくなったのだろうと思う。
解っているつもりでも何だか、娘の自分への興味が薄くなったような気がして、千波は更に複雑な気持ちになるのだ。

千波が涙を見せなかったのは みんなと違って悔しくなかったからというわけじゃない。だけど唇かんで涙をこらえていた、というのも本当じゃない。
ただ、皆が大泣きしていても 自分だけ涙が出なかった、それだけだ。どう説明することもできない。ただ、それだけ。それ以上のものでもそれ以下でもない。
千波はそう思っている。

そんな千波の様子を見ていた若い女の担任が、三者懇談でお母さんに言った。
─色々我慢させすぎているということはありませんか?感情の起伏だって私は大切だと思います。このままだと千波さんの気持ちが心配です。
お忙しくて以前よりお話する時間や触れ合う時間が減ったとは思われませんか?

それは お父さんが出て行ったままという千波の家の事情を 幾分知った上での担任の言葉だったろう。
どんな返事をするのかと横目で見ているとお母さんは、にっこり笑って言ったのだ。
「いいじゃないですか、泣かなくたって。負けたっていい、そう家では教えています」
担任はあきれたような不審がるような顔になるし、千波は何だか自分の悔しかった気持ちが全くどこかへ放り出されてしまったような気になった。

「あれは無いよ、まるで私が家で、負けても何ともなかったって言ってたみたいじゃない」
二人並んで帰る道、千波はお母さんを責めた。
「今更 千波がどんな子なのか 解らないような担任じゃあ 困るな。何だかちょっとムカついたし」
中学生と同じような言葉を使って お母さんは子供みたいにぺろっと舌を出して笑った。
そのあと クラスメイトみたいなノリで、先生のその日の服装がダサかった、あのコーディネイトは無いよねとか 廊下で通りかかった男子のことなどを 面白そうに聞いてきた。
今日のお母さんは変なテンションの高さだ。
色々なことを笑い話にしながら それでも千波は何だかひどく落ち着かないものを感じるのだ。そうだ、お母さんは今まで 先生への批判を娘の前でするような人では絶対になかった。


お父さんが毎日ちゃんと帰ってこなくなった日から数えたら、もう何年になるだろう。




─お前のオヤジ、「土星公園」で見たぞ。

隣に住む幼馴染、達也がずっと以前にそう言った。お父さんは千波の話ばかりした、と言った。
それを聞いても千波は自分がお父さんに会いたいのか会いたくないのかも本当のところ解らない。会ったとしても何から話せばいいのかわからない。
その時自分は笑うんだろうか、冷たい目で一瞥して、そっぽ向くんだろうか。想像もつかなかった。それでも中学の時は学校からの帰り道、足は勝手に「土星公園」の方へ向いた。
高校生になって自転車通学になり 通学の方向も違う。公園の傍を通って帰ることも無い。

3年は夏休みに入って ほとんど強制参加の「受験対策講座」がある。
友達はもう一時間選択した授業があったので 千波はひとり先に帰る。じりじりと肌に日光が突き刺さる暑い昼下がりだった。
こんな時間に帰るくらいなら もう一時間でも二時間でも講習を受ければよかったと真剣に思う。
図書館に寄るとかぶらぶら買い物するとか涼み方もあったけれど、その日は気がつけばそこに向かって自転車を漕いでいた。

土星を模した遊具が中央にある「土星公園」。千波が小さい頃よく連れて来てもらったところだ。
お父さんは遊具でも子供同士の遊びでも何でも やたら一緒にやりたがり、お母さんは公園の隅の「木星」の遊具の辺りが定位置だった。
『離れて見守ることが子育ての基本』なんて母さんが言うのはだな、熱心に読んでるあの育児本の受け売りだぜ、一緒に遊びたいくせにに母さん無理しちゃってさ
…お父さんが千波に耳打ちする。来て間もない内にもう、自販機で勝手に炭酸のジュースを買ってきては お父さんはお母さんに怒られていたっけ。
「大人になったら 好きなだけ炭酸を飲むんだって、子供のころから決めてたんだ」
お父さんはいつもそう言って お母さんに睨まれながらも 自分の分を2本と千波の分を買ってきた。。
お母さんが家から持ってきた水筒のお茶は程よく冷えていて美味しかったけれど、千波はお父さんの買って来る炭酸も楽しみだった。

そんなことをぼんやり思い出しながら自転車を走らせていると、交差点を渡った先 公園から出てくる男の人の姿が見えた。
「嘘…」
幻でも見たかと思う。
でも あれは確かに、間違いない。お父さんだ。自販機からこちらに向かって笑いながらやってくる。手には3本、炭酸を持って。
何で居るんだ。何でこっち向いて笑ってるんだ。何で…。
トクン、トクン心臓が鳴る。どうしよう、どうしよう、ペダルを踏む足が震える。速度を落としたら交差点の信号が赤に変わった。

通り過ぎる沢山の車の間から お父さんの姿を探した。でも、お父さんが笑いながら近寄って行ったのは 公園に横付けされた一台の白い車だ。
笑顔を向けた先が自分では無かったことが解って、汗が一気に引く気がした。動悸はまだ余韻を残していた。
助手席のドアを開けてお父さんが乗り込む。 
─ああ。暑い暑い、はい炭酸、こっちは俺のね、2本。
乗り込んだ車の中でお父さんが誰かにそう言って 1本を相手に渡す様が目に浮かぶ。でも横断歩道の先のその車の運転席に居るのが誰なのか見えない。

千波の前、信号が青になる前に その車は公園の前の道を更に向こうに向かって走り始め、遠ざかって行った。


同じような形の白い車を探してしまう。乗っている人を確認してしまう。
もうあの人のことなんかどうでもいいや、そう思っているはずなのに 公園の近くを回って帰る日が増えた。
一体私は何やってるんだろう。喉の渇きを覚えて 千波は自販機に小銭を入れた。
炭酸とお茶と水で迷っているうち、いきなり日に焼けた骨ばった指が 炭酸のボタンを押した。


「何やってんの?こんなとこで」
振り向いた千波の後にいたのは 父ではなく達也だった。
「千波、顔 怖えっ、そんな顔しなくても金出すし。どれ欲しかった?よしよし、買ってあげますから」
隣に住んでいるとはいえ、高校も違いあまり顔を合わすこともない。久しぶりのくせに 相変わらずのへらへらして調子のいいヤツだ。
差し出された烏龍茶のボトルを受け取りカゴに入れると 日陰に向かって黙って自転車を押した。

「まさかオヤジさん探してたりする?」
ごくりと炭酸を飲み込む時動く喉仏。隣にいる達也が、ふと知らない人のようにも思える。ベンチに腰掛けていきなりの言葉に返事に詰まった。
「何だよ、図星か」
ニヤッと笑った顔に幼稚園の頃の達也がいた。
「白い車に乗ってた。この前ここで見た」
途切れがちにぼそぼそと千波は話す。烏龍茶のボトルを頬に当てほてりを冷ます。
「そっか…元気なんだ」
千波のお父さんの話をしながらも 達也は達也で何だか他のことを考えているみたいだ。

沈黙していると セミの声が耳につく。暑さが増す。
達也は空になった缶をコツコツと爪で弾いている。何の曲だっけ、思い出そうとしていると 達也が口を開いた。
「『威風堂々』だって。どういう趣味してんだか。葬式に」
メロディーがリズムに当てはまる。あ、中学の卒業式で証書授与の時掛ってた曲だ、千波は納得しながらも 達也のそのあと言葉も聞き逃さなかった。
「葬式って?」
達也は黙って曲の続きを弾き続けている。返事が無くても構わない、達也が話したくないことなのかも知れない、と思った時
「父親が死んだ」
達也がぽそりと言った。
「お父さん?」
千波が知っている限り達也の家はずっと母子二人だった。事情は知らない。ただ、今まで話した中で達也が父親の顔を知らず会ったこともない、ということだけは 解っていた。

「そういう内容の電話って どんなに『うん』とか『はい』だけの返事でも 何となく解っちゃうんだよね」
「おばさんに電話が?」
「昔の仕事仲間から掛ってきたんだってことと 誰かが死んだ話なのはすぐに解った。お袋はほどんど返事もしなかったけどさ」
明るくていつも元気なおばさん。久しぶりの友達からの電話でほぼ無言だなんて よっぽどのことだろう。達也が言う意味はよく解る。
黙っていると 達也はそのまま続ける。

「行かない、って言ってた。でも日程や場所は聞かされたみたいでさ。そのあと無意味に部屋を行ったり来たりしたあげくスケジュール帳出してきて 何か書きつけた。ペンを出して書くだけの動作が、やたらぎこちなくてさ」
達也は足元の砂を蹴っている。じりじり熱い砂の上、小さなアリが浅く削られたところを慌てて横切って行く。
「生きてたってことにまず吃驚だよな。どこの誰かも息子が知らないままでさ」
どんな事情かは知らないけれど おばさんなりの決意があったんだろう。達也も無理に聞き出そうとはしないで来たんだ。
達也の家。喧嘩する声もよく聞こえたけどそれ以上に笑い声がよく響いてきた。
「『威風堂々』掛ってたって…」
行ったんだ、お葬式、その言葉を千波は慌てて飲み込んだ。おばさんは「行かない」って言ったって、さっき言ったよね。

「一度くらい顔見たいじゃん。死顔じゃなく遺影でいい。これでもやっぱ父親ってものに興味があったみたいだ」
誰か他の人のことでも話しているみたいに達也は続ける。
「何だか大層な葬式だった。偉そうな人がいっぱいいて 式場の入り口の柱の陰からじゃ 遺影だってよく見えなかったし」
「おばさんは?」
達也はぼんやりと遠くを見ている。
「ああ、暑っつい」
茶色の髪が被さった達也の耳のあたりから 汗が一筋流れる。長い沈黙の後 達也は続ける。
「俺が後をつけてたはずなのに、後ろから肩叩いてきやがんの。『気は済んだ?さっ 何か美味いもの食って帰ろっか』なんて言ってさ」
でも 帰り道は会話がやたら空回りしてずっと気まずくて おばさんが無理しているのが解ったと達也は言った。
喪服で出てきたにも関わらず 達也の母は葬祭場の建物にさえ入っていないようだった。

「何となくね、訳ありなのは解ってた。でも、ドラマとかニュースとかでよくある大人の男女の事情みたいなの、お袋に全然合わない気がしててさ」
誰にどんな事情があるかなんて 本当に解らない。千波のうちの出来事だって他のうちの人には解らないだろう。
お父さんとお母さんがどんなに仲良しだったのか 何が始まりでどんな風になってお父さんが私たちから遠ざかってしまったのか。
本当のところ、なんて 娘の自分にだって未だに解らないんだ。
「お母さんとお父さんにもそういう「男女の事情」があるのだろうか、そう思うと千波の心がざわりと震える。
一度夕食時にうちにやって来た若い女性を思い出す。顔は忘れた。けれど奇麗なネイルの色だけは記憶に鮮やかだ。
お母さんの得意の魚料理を「魚は目が怖いから苦手」と箸さえつけなかったあの女のひと。
「オヤジさんに会いたい?」
達也が立ち上がり ズボンの砂を払いながら唐突に言った。
「え?」
「酒屋の配達の車。ここでよく休憩してる」
「達也も見たことあるの?」
それ以上何も言わず、さっさと前を歩いて達也は自転車に乗る。
「暑いから帰るぞ。オレ夕方からバイトあるし」
自分の飲み終えた炭酸の缶をいきなり投げて寄こすので 千波は慌ててキャッチした。
「何で 達也の分まで」と 上目使いで抗議を示すと
「聞いてくれてありがとな。会いたきゃ 会っとけよ」
生きているうちに、そういう意味なんだろう、きっと。 それだけ言うと滑らかに達也の自転車は走り出し 加速して遠ざかって行った。
缶を投げて寄こしながら達也がぽそりと言ったのがお父さんの居る、その酒屋の店名だということに千波が気づいたのは 達也の姿が見えなくなってからだった。


白い木枠の扉には「いらっしゃいませ」と書いた小さな札が掛っている。丸い文字とうさぎの絵が、いかにも子供の手作り風だ。ショーウィンドには地味なお酒のポスターと古臭いぬいぐるみと安っぽい造花。
いまどきこんな店でお酒や米をわざわざ買いに来る人なんているんだろうか。
見回してもあの業務用の車も見当たらない。拍子抜けするようなほっとするような気持ちで千波は少し離れた舗道の脇のガードレールに腰掛けた。

しばらくしてドアが開き、エプロン姿の中年の女性が老女の脇を支えながら出て来た。慌てて他の方向に顔を向ける。会話は聞こえないけれど老女がなじみの客であることと、エプロン姿の女性の接客がとても親切で感じが良いことは十分解った。そっと女性の様子を窺う。美人でもない、若くも無い。きっとネイルなんかしていないだろうし、魚なんか平気でさばける人かもしれない。

お父さんに会いたかったってわけじゃないからね。断じて 会いたかったわけじゃない。もちろん探りに来たわけじゃない。誰と暮らしていようと興味なんかない。
誰に問われているわけでもないし つまらない言い訳だと解っていながら 頭の中でそんな言葉がぐるぐると回り続ける。
帰ろうかな、もういいや、帰ってしまおう。そう思って一歩踏み出したところだった。

カランカランとドアベルを鳴らし 店の中から小さな女の子と、それを追うように小学生くらいの女の子が駆け出して来た。
「おかえりー。おとうたん!」
小さい方の子の舌足らずなその言葉の先に 横断歩道を渡ってこちらに向かう男の人が見えた。慌てても身を隠す場所もない。千波は店の前の舗道で視線をどこにしたらいいのか解らないまま立ちすくむ。にこにこ笑いながら姉妹に手を振って近づてくるのは間違いない、千波の「お父さん」だった。

千波の横を走り抜け「おとうたん」に飛びつく幼い女の子。後を追う年長の女の子が千波の方をちらと見た。
「『おとうたん』じゃないよ、リク、『と・お・る・さん』」
千波を意識してなのかどうかは解らない、ゆっくりと横断歩道近くまで歩きながら彼女は妹の言葉を正す。
「いいもんねーっ。いいって言ったもん、おとうたん」
男の背中に飛びついておんぶをせがみながら妹の方が言い、「いいじゃん、いいじゃん、なぁ リク」無精ひげの男が笑う。

千波の前を通りかかり 千波の姿を認めた途端、男の笑顔が固まり、ぽかんと口が開いたままになった。
間抜けだよね、相変わらず。軽くてどうしようもなくて 本当に。千波は不思議と余裕が出来た気がして、すっくと背筋を伸ばしまっすぐに相手を見る。
「だあれ?だあれ?」
小さい女の子が背中の上から男に問いかける。姉の方は視線をわざとらしく逸らす。
「ああ…えっと…ごめん リク、お姉ちゃんと一緒に先に帰ってて。そうだ、アイス買ってあるから食べてていいぞ」
アイス、アイス、と、背中から降ろされても気にせずはしゃいで帰って行く妹と 二人の様子を気にしながら知らぬふりを続ける姉を見送った後 お父さんは千波の方に向き直った。何から言えばいいのか きっと解らないんだろう、居心地悪そうな様子で 意味も無くポケットをごそごそ探ったり 頭を掻いたかと思えば、いきなり靴の先の汚れを指でこすったりする。

「あ、千波も、千波もアイスいるか?」
─馬鹿じゃね、こいつ。久しぶりの娘にこんなところ見られていきなりアイスかよ。
高校生の普通に言う言葉でも 口に出したらきっとお父さんは目を丸くするだろう。千波だってもう、あの「お父さん大好き」で行儀のよい小学生じゃない。
「『おとうたん』なんだ」
「ああ、あの子ね、リクっていうんだ。えっとな そうそう父親が早くに亡くなってさ かわいそうなんだ」
だから?だから何?あんたは私の「お父さん」を放棄してあの子たちの「おとうたん」になるの?
「一緒にいたら千波の小っちゃい頃思い出すんだなぁ。千波の方がうん、もっと可愛かったけど。いや、あ、あいつらには内緒でお願いな」
何だそれ。あたしに気を使ってるつもり?
千波は返事をせずに無表情で見つめ返してやる。
あせればあせるほど不毛な言葉を重ね続ける。この人ってそういう人だ。
それでも言葉に詰まって 少しの沈黙があった後 やっと落ち着いた声で
「会いに来てくれたのか?いきなりで驚いた。」
「通りかかっただけ」ぶっきらぼうに答えると お父さんはまた自信なげな表情を見せる。
「喫茶店でも入るか?ここじゃ暑いし。あ、ハンバーガー屋もあるぞ」
「ここでいいよ」
「まあ そういわず。奢るぞ何でも好きなもの」
そう言いながら 先に歩き出すので 千波も仕方なしについて行き 数軒先の小さな喫茶店に入った。

「酒屋のとおるさん」で「リクちゃんの『おとうたん』」を、辺りの人も皆知っているらしい。
喫茶店のマスターや若い店員に慣れた様子で声を掛け、聞かれる前から「これ、オレの娘。可愛いでしょ」なんて言う。
千波がぶすっとしたままでいたら、勝手にクリームソーダとアイスコーヒーを頼んだ。
「好きな方、取っていいから」


「で、?」
「ああ…」
「何?」
「うん」
無意味な、会話ともいえない言葉が続く。帰っちゃおうかな、もういい…千波が思った時 わざわざマスターがオーダーした二つのグラスを運んできた。
「千波ちゃん?とおるさんの自慢の娘さんだね。ゆっくりして行ってくださいね」
逃げずにちゃんと話しなさい、そう言っているような高齢のマスターの視線を感じ、千波はもう一度椅子に深く腰を下ろす。

「リクちゃんたち?あの子たちお父さんいないの?」
「うん。あの子が生まれてすぐに亡くなってな、由美子さん…あの子たちのお母さんな、女手ひとつであの店やって子供たち育ててきた」
アイスコーヒーの方を自分の方に引き寄せ ストローを差し入れながら 千波は続きを待った。
「重い米やらケースの酒瓶やらを一人で車に乗せてるのを見かけてさ、手伝ったのが最初で…」
「そのまま、居座った?」
クリームソーダを引き寄せながら お父さんは千波の言葉を受ける。
「まぁ、そうとも言う、かな。はは」
少し笑ってから 千波が笑わないのでそろそろとその笑いを引っ込める。ダサい。ダサくて面倒くさい。
「偉いひとなんだぜ…親の代から続いた酒屋をつぶしたくないって色々工夫してさ、農家との契約取り付けて無農薬野菜も配達したり お年寄りにボランティア同然の買い物代行もするし…」
怒られた子供が言い訳するみたいにぼそぼそとそのひとを褒め 黙ったままの千波の顔をちらちら見ながらストローを袋から取り出してわざとらしく咳払いする。
「えっと…母さん、元気か?」


アイスコーヒーの氷をつつきながら千波は今どんな風に自分がしたいのか 何を言いたいのか解らなくなる。
いつから感情を素直に出すことをしなくなったのだろう。そもそも「素直な感情」なんてどこにあるんだろう。
「負けたくない」「負けたら悔しい」そんな気持ちを お母さんがどこかに置いてきたのと同じに 自分の本当の気持ちさえよく解らなくなっている。
「お母さんと私なら大丈夫。ずっと元気だよ」
皮肉や嫌みじゃなく、そう言える。お父さんに会いたくて寂しかった日々も もう忘れた。

「すまなかったな。本当に」
ソーダの上のアイスクリームを小さく掬って口に運び 俯いたままでお父さんは言う。
無駄にもぐもぐするのは 続く言葉を探しているのをごまかすためだ。
「何が?」
「その…さ、えっと、あの…離婚とか、そういうの全部」
本当に大人げないというか こんな風に話し始める父親ってどうなんだ、と千波は思う。そして あの日を思い出す。

中学の卒業前、「母さんも『卒業』していいかな」そう言いながら お母さんは一枚の紙切れを引き出しから出して来た。
「離婚届、お父さんにサインもらって来た」
意味をすぐには解りかね お母さんの顔をぼぉっと眺める千波の頭に お母さんはそっと手を載せた
穏やかで優しい瞳の奥に お母さんの決意が見える。「いやだ」って言ったってお母さんはもう決めてるくせに。
「どこに居るのか知ってたの?」

そう遠くない場所にある店で 住み込みで働いていると人から聞いたのだ、とお母さんは言った。
本当はずっと探してたのかもしれない。
「やっと 落ち着いて仕事してるみたいだし。」
そう、お母さんが決めたならいいよ、千波にはそれしか言えなかった。「落ち着いて」の意味がこういうことだとは想像もしなかった。

「『おとうたん』…なんだ?」
「ああ、リク…リクちゃんね、あれは違うんだ、その、『とおるさん』がなんだかああなっちゃって…」
トオルサン、トールタン、えっと何だ その… お父さんが一人でぶつぶつ言っているのが ぼんやり遠くに聞こえる。
クーラーが効いた喫茶店内にいるのに 急に何だか暑くて 暑くてたまらなくなる。目の前がぐらぐらと揺れた。
千波のっ様子がおかしいことに気が付いたのは 目の前のお父さんではなく、マスターだ。
「お嬢さん、気分悪いんじゃないですか?」千波の傍まで来て顔色を見、待っててねと言ってマスターはすぐ引き返すと、冷たいタオルを持ってきてくれた。
「ありがとう、すみません」とタオルを受け取り 千波は目に当てる。ぼんやり見ているだけのお父さんが何だかひどく情けなかった。


テーブルにタオルを置いて額を付けて突っ伏していると 今どこにいて前に誰が座っているのかなんて どうでもいいことのように思える。
最初は「大丈夫か」「どうしたんだ、貧血か」など 遅まきながら声を掛けてきたお父さんも 千波が答えないままでいるとおとなしくなった。
喫茶店の時計の音 小さく流れるBGMのピアノ曲、奥の席のカップルの小声のおしゃべり、外を通る車の音、皿を洗う水の音。
お父さんの咳払いとその後の小さなため息。
千波はゆっくりと顔を起す。もう大丈夫だ、もう大丈夫だ、何度も自分に言い聞かす。何が「大丈夫」なのか解らなても。


家まで車で送るからと言いながら、後を付いて歩くお父さんに何度も何度も断り続け ちょうど来たバスに乗った。

また 会いに来てくれるな?お父さんはずっとずっと千波の「お父さん」だからな。
大きくなったよな、あんなに小っさかったのになぁ、もう高校生か、今何センチなんだ?
千波の小さい頃は可愛かったなぁ、いや今も可愛いけどさ。可愛いっていうか 奇麗になった。うん。
生まれてすぐの時からさ、結婚式のことなんか考えただけで お父さん泣きそうになったんだ、ああもう今でも泣きそう。
あ、でももう呼んでもらえないものなんだろうか 母さんは嫌がるかな、ダメかなやっぱ…。

相手が黙っていても そのままでいることができない人なんだろう、お父さんは一人、しゃべり続けていた。
それらの言葉は軽く聞こえても案外本音だとは思う。子煩悩な人。いつまでも子供みたいな人。子供の自分より子供みたいな人。
卒業式をこっそり見に来ていたことだって知っている。どこの席に座っていたのか覚えている。号泣していたことだって千波は見逃さなかった。
来たかったら結婚式だってこのひとは呼ばなくたって来るだろう。だけど今の千波には将来自分が結婚することさえ 想像もできない。




お母さんとの静かな夕食の時間。お母さんはこの頃テレビをつけてもいいと言うようになった。
別に観たいものがあるわけじゃないけれど 何となくチャンネルを選ぶ。食事をしながら眺めるテレビの内容についての他愛ない会話も、普通になった。
お父さんは「由美子さん」とあの子たちと、テーブルを囲んでいるのだろうか。子供たちはそれぞれ今日あったことをにぎやかにく話すのだろうか。そんなことも何だか昔観たテレビのドラマのワンシーンのように目に浮かぶ。
「お母さん あのさ」
「うん?」
「おとうさんに会ってきた」
「そう」
「お母さんは…お父さんがいたのがあの店だったから?あの家族のところにいたから?」
─離婚を決めたの?気持ちに踏ん切りがついたの?「負けたっていい」と思ったの?
続きを言えずにいても お母さんは解ったのだろうか、穏やかな微笑みを千波に返し、こくりと肯いてみせた。

あの子たちの結婚式で号泣するお父さんを想像する。ちゃんとその時までどこへもいかず、あの子たちのところにいられるだろうか。下の子が今みたいに甘えてくれなくなっても ずっと傍に居て 逃げないで 気持ちの揺れを受け止めてやれるんだろうか。
自分のときはどうなんだろう。結婚式に呼ぶなんてできるのかな。まだ何も解らない。
答えはどこにあるのだろう。

「千波の顔はお父さん似だよな、ほぉら耳も鼻の形もそっくりだ」
千波を膝にのせ、確かめるようにそれぞれのパーツを摘まんでは 嬉しそうにそう言ったお父さんの声を まだ覚えている。
「うそぉ、ちなみはおかあさんに にてるんだもん」
小さな千波が振り返ってわざと膨れて見せると 
「え、じゃあ おつきさまに聞いてみよう」夜空を見上げてお父さんはそう言った。
「ほらほら、お月さまもおとうさんの言うとおりだって言ってるぞ」
「言ってないよぉ」
「ちゃんと見ろ、千波。お月さまは『まる』だっってさ」
おだんごの載ったお盆を持って 後でお母さんが笑っていた。
お月見。あれはちょうど今ごろ、月の奇麗な晩だった。

自分の部屋に戻っても もうお父さんへ「送信しないメール」を打つこともない。
お父さんとの思い出の数は増えることをやめ、少しずつ全てが遠い記憶になっていく。でも、時折想うことだけは、やめることはできないだろう、と思う。
気が付けばもう、深夜一時。空に浮かぶ明るい月を見上げながら、千波は自分の耳と鼻をなぞり、頬をそっと撫でてみる。





《 9月の月(さかなの目5) 了 》





【 あとがき 】
2008年にこの「さかなの目」の短編を1作書いた後 何かのお題に合わせぽちぽちと千波の周囲の話しをシリーズで4作書きました。…ってことはこの家族に私は8年も関わっているわけで 改めて時のたつのは早いなぁ、私は何をしてるんだと思ってみたり。この記念企画を聞いた時、そろそろいい機会だしちゃんと「お父さん」と決着付けて 前に進む家族を描きたいと思った次第です。お題が何であろうと。
付けたし付けたしして仕上げたラストが何となくハマった気がした時は にんまりしました。だからお題で書く物語がすきなんだなぁ、なんて。

お題をいただいてから延々だらだらしていたけれど 書いていた時間と見直した時間は短いです。後で絶対どこか書きなおしたくなる、気がする。


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