Mistery Circle

2017-09

《 天眼石のタリスマン 》 - 2012.07.12 Thu

《 天眼石のタリスマン 》

 著者:李九龍






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 ざあと、ひとしきり強い風と共に横殴りの雨がフロントガラスに叩きつけられる。
 四季の無い国オランダ。一年を通し絶えず雨の降り続く場所テッセル島。その小さな島の中心街であるデンブルグの街並みを抜け、ポントの大通りからローゼンデイク・ストリートを左折し、南下する一台の車があった。
 真っ赤な米国車、フォード。空を駆るサーフェイサー(反重力装置搭載のホバー車)タイプであるにも関わらず、その道中を楽しむかの如く、車は濡れた路面の上を滑るように走っていた。
 時刻はちょうど午後の一時。遥かな西の方角で、暗い空がにわかに光る。――稲光だろうか。ハンドルを操りながら、その男――リュート・D・クロフォードはいかにも可笑しそうに唇の端をゆがめながら笑みをもらした。
 やがて車はウェスタースラグの細い森林道を右へと曲がり、曇天の空よりも暗く濃い深緑の中を突き進む。
 もしもその光景を地元民が目撃したならば、きっと誰もが眉をしかめて気の毒がる言葉の一つでも呟いたに違いない。何故ならばその森林道の先に続く場所はたった一ヵ所。知っている者ならば決して誰も近付かないであろう土地、荒廃とした森の奥の一軒の館、ウィッシュバーグ家の幽霊屋敷であるからだ。
 両脇から伸び放題に伸びた雑草の群れが走る車のボディを撫でる。立ち並ぶ木々の密集度は更に濃くなり、道もまた中途半端な場所から未舗装の砂利敷きとなったにも関わらず、踏み込むアクセルに迷いはない。どう見ても、間違ってその道へと分け入ってしまった様子ではなかった。
 途中に見える、“WARNING(警告)”と書かれた進入禁止の看板にすら気を止めず、車は進む。やがて道は終点へと辿り着き、にわかに広くひらけた。
 ひっきりなしに窓を掻くワイパーの向こうに、雨に煙るウィッシュバーグ家が見えた。両脇に高い尖塔を備えた、屋敷と言うよりも古城に近い風貌の家だった。
 元は赤レンガを積んで建てられたのだろう外壁は見る影もなく、幾重にも取り巻いた色濃い緑の蔦が屋根の周辺まで伸びている。かろうじてその脅威から逃げおおせている尖塔部分だけが、元の屋敷の風貌を想像させてくれていた。
「いい雰囲気だね。まるでホラー映画のオープニングだ」
 言いながらリュートは、開放したまま蔦に絡め取られて固まっている格子戸の中へと車を乗り入れさせ、勝手知ったる要領で、適当に庭の片隅でエンジンを停止させた。
 狭いシートの中でスーツの上にレインコートを羽織ると、愛用のブリムダウン帽を頭に載せ、脇に小さな箱と花束を抱えてドアを開けた。
 途端、ぶうぅぅぅぅんと、頭上のどこかで妙な音が聞こえた。空いている方の手で帽子を押さえつつ宙を見上げ、辺りの様子を伺う。しかし空には何も見付からない。
「今日はやけに酷い降りだ」
 小さく呟きながら、リュートは小走りに庭のアーチの方へと駆けた。そこもまた絡まった蔦が密集し、空と歩道とを天然の屋根が隔てている。リュートはかろうじて雨をしのぎながら、屋敷の玄関口へと急いだ。
 金属製のハンドルを持ち上げ、重そうな木製のドアをノックする。同時にまた、頭上からぶうぅぅぅぅんと、巨大な甲虫の上げる羽音のようなノイズが聞こえて来る。
 急いで振り向き、空を仰ぐ。後方数メートル程の上空に一ヵ所、雨を避けて弾く小さな空間が浮かんでいるのが見えた。
 やけに不思議な光景だった。全く何も無い空間である筈なのに、どう言う理屈かバスケットボール程度の小さな球体が浮かんでいるかのように、その場所だけが雨を弾いて揺れている。
「へぇ、客観的に見ると、あんな感じなのか」
 意味深な言葉を吐きながら、リュートはその空間に向かって手を挙げて見せた。
 謎の空間は、一瞬にして掻き消えた。後はもう何もない、ただただ雨の降りしきる荒れた庭地だけ。リュートは肩をすくめて振り返り、そしてまたもや妙なものを見付けた。左の尖塔の下の窓からこちらを見降ろすベージュのドレスの少女。腰よりも長く伸ばしたブロンドの髪が一束、肩からはらりと落ちるのが見えた。
 ――本日は早くもご登場か。思いながら今度はそちらへと向かって手を挙げる。同時に、「何をしておいでですか」と、暗く陰気な声が傍らから聞こえた。
「やぁ、こんにちはジャンセンさん。ご無沙汰しております」
 リュートは言う。いつの間にその玄関ドアは開いたのか、半開きになったドアの陰から中年の男性がリュートを眺めていた。
 相変わらず鴉(からす)のようないでたちだなと、密かにリュートは思った。やせぎすで肌は血色が悪く、長い黒髪を後ろへと流し、漆黒の丸い色眼鏡を掛けた四十代半ばほどの男性で、いつも黒を基調にした服装を好んで着ている。ここの屋敷の主を除けば、“たった一人だけ”の生きた住人である。
 リュートは握手を求めて手を差し出すが、いつも通りにジャンセンはそれを無視して、「ようこそ」と、うやうやしく頭を下げる。
「突然で申し訳ありません。実は今日は、なんの約束も取ってないのですが――」
 言いにくそうにリュートが告げると、「そんなもの必要ありませんよ」と、ジャンセンは言う。
「どうぞ、お入り下さい」
 ドアが大きく開かれる。リュートはもう一度塔の窓を見上げたが、そこにはすでに少女の姿はなかった。リュートは玄関の方へと向き直り、帽子を脱いで一礼をし、「では失礼して」と、玄関をくぐった。
 玄関脇に置かれた燭台の炎がゆらりと揺れる。ドアが閉まると同時に、その炎を中心として深い闇が広がっていた。
「この雨のせいか本日はいつも以上に暗いので、お足元にご注意願います」
 闇に溶け込みそうな低い声で、ジャンセンは告げる。
「いえ、ご心配なく」
 リュートはレインコートと帽子をジャンセンに預け、ぐるりと周囲を見回した。瞬く灯りの中、旧西暦以前のようにすら見えるアール・デコ建築なシックな内装が垣間見える。
 宙を見上げる。廊下に面した窓や、天井近くにある明かり取りの窓さえも伸びた蔦で覆われてしまっているのだろう、その隙間から見える空の明かりがまるで星空に見えてしまう程に心許ない。昼間ですら陽が射す事のないと言う、この家の最大の特徴である。
「さぁ、参りましょう。旦那様がお待ちしております」
 ジャンセンが燭台を取り、そう告げた。
「お待ちしてる……か。何の連絡もせずにここに来たって言うのに、妙な話ですね」
「――妙、とは? あなたも旦那様の特技は充分に御存じの筈でしょう」
「いえいえ、もちろん知ってますよ。ただ何と言うか……事前に来訪を告げてもいないのに待たれていると言うのは、当事者としてやけに不思議な気分になるものです」
「なるほど、ところで――」ジャンセンは特に興味も示さないかのように話題を変えた。
「先程は玄関先で何を?」
「何を――とは?」
「南側の方へと向いて、あなたは手を挙げておりました。何かあったのですか」
「あぁ、例のあれですよ。このお屋敷の“お嬢様”が、向こうの尖塔の窓にいらっしゃったのでね」
「またですか」ジャンセンは呆れるように言った。
「信じていない訳ではないのですが、どうにも彼女は、私達の前には現れてくれませんのでね」
「不思議ですね。きっと相当の恥ずかしがり屋なのでしょう」
 言って、リュートは笑う。だがジャンセンはただ黙々と、螺旋の階段を先導するだけだった。
 やがて辿り着いたのは、三階の客間の続く通路。屋根が近いせいか、強い風が吹き荒れ屋根を打つ雨の音が、耳鳴りのように小さく絶えず続いている。
「主人は今日はどちらに?」
「西館、来客側の書庫に早朝からこもっております。どうやら図書の整理が行き過ぎて、大掃除になっているのやも知れません」
「なんでまた今日に限って」
 言いながらリュートは笑うが、「じっとしていられなかったのでしょう」と、ジャンセンは抑揚のない声で返した。
 長い廊下の左右に、ゲスト用の部屋のドアがずらりと並ぶ。果たしてこのドアの向こうの部屋は、一体いつ使われるのだろうとリュートは疑問に感じた。
 途中、南側尖塔へと続く階段の昇り口があった。リュートはその前で立ち止まり、ふと上を見上げる。そこにぽっかりと、蔦の脅威の届かない窓が暗闇の中に浮かび上がっているのが見えた。
「“彼女”は、あそこから覗いてました」
 まるで説明の足らないままリュートが言うと、「なるほど」と、ジャンセンはただ一瞥をくれただけだった。
 書庫は、廊下の突き当りを左に折れた先にあった。中途半端に開放されたままのドアの隙間から、何かの機械らしき妙な駆動音が聞こえて来た。リュートはジャンセンに花束と小箱を渡してから、開いたドアをノックした。
「入りたまえ。これで今夜のパーティの招待客は全員揃ったぞ」
 電子音の混じった、野太い男の声が聞こえた。リュートは苦笑を堪えながら、「相変わらずの虚言家だな」とぼやきながら、ドアの隙間へと滑り込んだ。
「やぁリュート、久し振りだね。あんまり久し振り過ぎて、後もうちょっと遅かったら君の顔を完全に忘れ切ってる所だった」
 高い場所から声が降って来た。見上げれば、図書の棚と棚の間に奇妙な恰好の“何か”がいた。その“何か”は、やけに自然に緩慢に、するするとその“脚”を縮めてリュートと同じ高さへと降りて来る。
「ヴルジュ、今度のそれは一体なんだ?」
 聞けばその楕円形をした樹脂製の物体は、「君には何に見える?」と、逆に問い返して来る。
「うぅん、蜘蛛か、蟹か、それとも冥王星の生命体か。とりあえず言える事は、君らしい素敵なセンスのナイトガウンだと言う事ぐらいかな」
 言われてその物体は笑い声を発しながら、本体から生えたいくつもの“触手”をゆるゆるとくねらせ収縮させて行く。しまいには本体を支えて立ち上がる四本の脚だけを残し、すっかりと収納されてしまった。
「とりあえず罵り合いは後にして、まずは握手をしようじゃないか」
「それは光栄だが、一体どの“手”を選べばいいんだい?」
「冗談が過ぎるぞ、リュート」
 その声と同時に、本体の前面にあった半透明の窓が上に跳ね上がり、中から人の顔が覗いた。
「いつもの事だが左手で申し訳ないね」
 右耳から伸びたインカム越しに彼は言う。伸ばされた腕は細くて長く、そしてその中を走っているであろう血管の筋さえも浮き出て見える程に真っ白だった。
「構わないよ、ヴルジュ。――本当に久し振りだね。元気だったかい」
 リュートはその手を握り返し、そっと右手もその上に重ねた。
 ヴルジュと呼ばれたその人物は、伸ばした腕と違う事なく同じぐらいに痩せ細り、病的なまでに皺だらけな、老人のような肌をしていた。
 毛髪の一本すらも無い頭部はまだ幼児であろうかと言う程に小さく、頬はこけ、唇は紫に染まり、ただその眼球だけがやけに大きくはみ出て見えた。だがその表情は穏やかそのもので、口元には笑みが浮かび、眼には友人を愛おしむ光が満ち溢れていた。
 だが、そんな彼を人間らしく見せていたのは、その頭と左腕のみであった。折れそうなまでに細く華奢な首から下には、一目見ただけでは何が何なのか理解も及ばないであろうものがあった。
 それを端的に説明したならば、まさに“肉塊”とでも呼ぶべきであろうか。元は人の肉体であっただろうそれは、恐ろしく複雑に絡み合い、捻じくれ、混ざり、乱雑に再配置したかのような様相をしていた。そうしてどこが上か下かも判らないような体躯の一部分から、人の形をした首と左腕が生えている。彼の持つ肢体は、まさにそんな感じのものであった。
 一応その身体は、服と呼べない事もないだろう布で覆われていて全容までもは判らないが、その至る場所からでたらめに突き出ている人間型の身体のパーツが、彼がどの程度の奇形であるかを物語っている。
 そしてヴルジュは、これまた異常と呼べるぐらいに小さな人間だった。そのいびつな身体と手を頭を足しても、ようやく立って歩けるようになったかぐらいの子供程度な大きさの背丈しかなく、そんな小さな人間がぴたりと収まるであろう小さな収納機の中へと乗り込み、不自由な手足の代わりに動く触手を駆使し、図書の整理をこなしていたのだ。
「――相変わらず君は美しいな」
 リュートの言葉にヴルジュは、「またか」と苦笑した。
「君は私を見るといつもそう言うが、当事者としてみれば酷い皮肉か侮辱にしか聞こえないぞ、リュート」
「皮肉にしか聞こえないのならばそれは申し訳ない。だが僕の言葉を否定するのだけは勘弁してくれ。僕は決して、冗談で言っている訳じゃないからね」
「――判った。じゃあ、礼は言わないが感謝だけはしておこう」
 そう言ってヴルジュはリュートの手を離すと、またしても器用に機械の触手を駆使しながら先導して歩いて行く。リュートはそれを追いながら、「ヴルジュ、最近は外に出たか?」と、どこか咎めるような口調でそう聞いた。
「もちろんさ。今日は朝の内にストックホルムの宮殿を見に行って来た。昨日はベンガル湾に浮かぶアンダマン島から水平線に沈む夕日を見たし、その前の日は南太平洋の海の上をサンドイッチ片手にのんびりと散歩さ」
「そう言う外出じゃない。君自身の足で外に出たのかと聞いている」
「悪いが私の玩具の足の片方は背中の辺りにあるし、もう片方は足なのか尻尾なのかすらも判らない出来損ないさ。これでどうやって歩けと言うんだね」
「君こそ冗談が過ぎるぞヴルジュ。自分の身体を自虐的に言うのはよせ」
「ハハハ、悪かった悪かった。君がいつもうるさく言うからさ。――ホラ見ろ。散歩こそは出ていないが、ちゃんと君の言う通りにして自室を地下から窓のある上階の部屋にした」
 言いながらヴルジュは伸ばした触手の先端で、器用に隣室へと繋がる木製の重いドアのノブを回した。
 ドアが開く。暗闇の空間がその向こうに見える。途端、むせかえる程の濃密な香の匂いと、生暖かい湿った風が書庫の方へと流れ込んで来た。
「ヴルジュ。いくら窓のある部屋に移ったとしても、これだけ真っ暗にしていたら前と全く変わらないじゃないか」
 先に部屋の中へと踏み込んで行ったリュートは、急いで窓の遮光カーテンを開け放つ。そうして薄い光の中に現れたその部屋は、まるで東洋のどこかの国の“まじない師”のような、知らない人には用途の判断が判らないであろう奇妙なもので溢れ返っていた。
「そう言うな。暗闇こそは、瞑想の条件の中では最も重要な存在の一つなんだぞ」
 ヴルジュは言いながら、触手の力を借りて機械のシートから降り、いつも愛用している木製の大きな椅子へと座る。椅子の背もたれの部分には、その愛用者の趣味なのかどうかは判らないが、大きな目玉を模した石が、座る者を取り巻くように並べて嵌めこまれており、いかにもその部屋に似合う珍妙なスタイルの椅子であった。
 触手の機械は主人を降ろすと、勝手に歩行して部屋の隅まで移動し、そして停止した。
「どう言うシステムの歩行器なんだ?」
 不思議そうな顔をしながらリュートが問えば、耳に添えたインカムを操作しながら、「あれは私の“能力”によって動いている。だから私にしか動かせないんだよ」と、ヴルジュは興味もなさげにそう返した。
「能力か。そう言えばさっき、玄関の外で君の“目”を見たよ。あぁ言う状況で見たのは初めてだから驚いたなぁ。あれはただこちらからだけ見えるものじゃない。視覚の対象となる者にも、物理的にその存在が判るようだ」
「へぇ、それはどんな?」
「雨粒が“目”を避けていた。まるで透明なボールが空中に飛んでいるみたいだったぞ」
「そうなのか。それは私も初耳だ。今後は雨の中で“目”を飛ばすのはやめておこうか」
「それがいい。特にこの屋敷周辺で飛ばすのは遠慮すべきだね」
 がちゃりと音がして、部屋のドアが開いた。そこにはキャスターワゴンを押しながら入って来るジャンセンの姿があった。
「ジャン! お客さんがいる時ぐらい、ノックはするものだよ」
 ヴルジュの肩の辺りに装着されている拡声器のスピーカーから、少々怒気のはらんだ声が聞こえた。
「それはそれは失礼を。クロフォード様と言えば、既に身内のような存在の方かと勝手に思い込んでおりましたもので」
 ジャンセンは少しも悪びれた様子もなく言う。そして二人の座る席の前に、お茶とケーキの載った皿を並べ始めた。
「確かに彼と――それからヴェルグルのニルスは私にとって最高の友人ではあるけどね。それでもゲストの時は礼儀をはらいなさい。今みたいな態度は、みっともありませんよ」
 ヴルジュが尚も小言を並べると、「以後、気を付けます」と、ジャンセンは言った。
「でも旦那様、一応何度かノックはしたのですけれどもね。まるで返事がなかったものですから、勝手に開けた次第でして」
「そうか、それなら仕方がない。私達も話に夢中になっていたからね」
 ヴルジュはそう言って笑った。そしてジャンセンもまた、彼を見ながら苦笑する。
「そう言えば旦那様、先程クロフォード様がまたご覧になったようですよ。例の、ベージュの“お嬢様”を」
「またかい」ヴルジュはそれを聞いて顔をしかめた。
「ゲスト相手だと機嫌良く出て来ると言うのに、どうして私達の前では恥ずかしがるんだろうねぇ」
 ヴルジュはフォークを手に取り、そう言った。
「やはり僕以外にも見えている人はいるんだね?」
 リュートが聞くと、「あぁ、ここに来る人ほぼ全員ね」と、ヴルジュは答えた。
「それがこの家の“幽霊屋敷”たる所以さ。時には屋敷の中を徘徊する姿を見掛ける者もいる。尤も、まだお目に掛かっていない私にしてみれば、どれも眉唾な話なんだけどね」
「えぇと……彼は? 君との会話には良く出て来る、ヴェルグルのニルス氏も同じ?」
「あぁ、彼か。――いや、そう言えば確かに彼も見ていない。なぁ、ジャン」
「そうですね」
 ジャンセンはそれを受けて、小さく頷く。
「そうか、不思議だねぇ。どう言う訳か、あなた達二人とそのニルス氏だけは“お嬢様”の姿が見えない」
 言って、リュートは薄く微笑む。
「なんだいリュート、その意味深な笑い顔は」
「いやいや、何も」
 リュートはお茶のカップを取り、そして啜った。
「何もじゃないよ。言いたまえ」
「本当に何もないよ。ただ君は、いつも事あるごとに彼の名前を口にするなと思っただけさ」
「――そうかな。まぁ、どうでもいいが」
 ヴルジュは不機嫌な表情でそう言って、小さく切り取ったケーキの欠片を口に運んだ。
「ところでヴルジュ、凄く気になる事が一つあるんだが」
「なんだい」
「先程、玄関先でお逢いした雨に浮かぶ“目”の事さ。あの“目”は一体、いつ頃に飛ばしたものなんだ?」
「あぁ、あれか。確か、先月。いやもうちょっと前だったかな」
「いいえ、今年の一月の頃ですよ旦那様。もう三カ月前になります」
 ジャンセンが言うと、「もうそんなに前の事か?」と、ヴルジュは聞いた。
「間違いありませんよ。四月のこの日にクロフォード様がおいでになるから、ローストビーフと赤ワインの用意をしておけとおっしゃったではないですか」
「あぁそうだ。それで君と喧嘩になった」
「そりゃあそうですよ。三カ月も向こうの話なのに、今から肉の買い付けに行けと馬鹿な事を言うから」
「馬鹿とはなんだ、ジャン。私はただ、前準備に対する余裕の期間をだな……」
「いや、口論は後で」リュートが割って入った。
「聞いてくれ、ヴルジュ。僕が気になったのは、十数分前に玄関先にいた僕と、三カ月前に玄関先を浮遊していた君の“目”が、物理的にお互いを認識し合えたと言う事さ。――考えると非常に不思議な事だとは思えないかい? 君が持つ、“時間をも超越する千里眼”の能力は本物だろう。だが僕は今日に至るまで、それは確率が非常に高い“予知”の一つだとばかり思っていた。君が今日の事を知った三カ月前、実際に僕がここに来ると言う確率はかなり百パーセントに近いと言う“予知”みたいなね」
「おいおいリュート。君は一体、何度私と一緒にその能力を体験しているんだね」
「いや、ちゃんと理解しているよヴルジュ。君のその能力が“予知”等ではない事ぐらい良く判ってる」
「じゃあ何故、今更そんな下らない話をするんだ」
「タイムパラドックスからの見地で考えているだけさ。もし今日僕がなんらかの理由でここに来れなかった場合、結果的に僕と君の“目”は、あの場所で出逢ってはいなかった。――では、三カ月前に君が玄関先で見た“僕”と言うものは一体なに?」
「リュート、結果論で考えろ。君も知っての通り、私が過去や未来で見たものに対し、今まで矛盾が生じた事など一度も無い」
「確かにそうだね。今までにそんな矛盾が生じた事は無かった。だから不思議だと言っているんだ。君の能力で未来を見た場合、数あるいくつもの未来の中から一番そこに行き着くであろう可能性の高い一つへと行き着く、分岐型の結果ではない。今日、君の“目”をこの肌で感じた瞬間、それを痛感したよ」
「だからなんだね、リュート」ヴルジュは不機嫌そうな表情で、頬杖をつきながら聞いた。
「結局何が言いたいんだい。まさか君は私の能力に疑いを持っている訳ではないだろうね」
「逆だよヴルジュ。君の能力に疑うべき点が見付からないと言う部分に、大きな疑問を感じているんだ」
「疑問? なんの?」
「つまり……だ。君の能力が仮に“絶対”だとした場合、タイムパラドックスと言う言葉の存在自体が危うくなる。もしかしたら未来と言うものは分岐したものではなく、決して曲がらない一本の道でしかないのでは――なんてね」
「そんな事は……考えた事もなかったな」ヴルジュは宙を見据えて言った。
「だが、そうだな。今の所、未来を見た事によって生じた矛盾は一度も無い。だが私は、あまり未来を見る事は好きじゃない。と言うより恐怖に近い感情が湧く。あぁ、これは禁忌に近付いているなと」
「へぇ、でも、今日の僕の訪問は既に見ていた」
「この家の周辺に関わる事ぐらいだよ。どんな客が来るのかぐらい、事前に見ておいても損はないだろう」
「確かにね」
「だがやはり、それすらも恐怖を感じる事はある。もしかしたら私自身も気付いているのかも知れないね。私が見る時間を飛び越えての未来と、その流れに逆らわずに辿り着く未来との間にズレが生じた場合、一体どんな恐ろしい事が起きるか」
「少なくとも、今日の未来にズレが起こった場合、今ここにケーキと花束は存在しなかった」
 リュートは、ジャンセンが花瓶へと移し替えているパステル色の花の束を見てそう言った。
「あの花は……この部屋の様子にはやけに不釣り合いに見えるんだが」
「あれは君にじゃない。ここの“お嬢様”にと持って来たんだ」
「なるほど。照れ屋な彼女に代わって、お礼を言うよ」
「さて、ヴルジュ。そろそろ話の本題に入りたいんだが」
「おや、今日は何かあってここに来たのかい?」
 ヴルジュは片方の目を吊り上げ、意地悪な笑みを浮かべながらそう聞いた。
「あぁ、実は今日は、君のその力を少々お借りしたくて来たのだが」
「言い直したまえリュート。君は私の能力を利用する目的以外でここに来た試しがないじゃないか」
「いや、それはひどいな。僕だって君と話をしたくて来る場合もある」
「そうだったか? どうにもそれに該当する過去は見当たらないのだが」
 ヴルジュは宙を指差し、何かを数えるようにしながらそう言った。
「見てもいないくせに言わないでくれ」リュートは苦笑する。
「だが、君はどう思っているかは知らないが、僕はこれでも君と言う人物には非常に興味を持っているんだ。別に能力目当てでここに来ているだけではないよ」
「有り難いが、それが学術的見地からの興味でない事だけを祈るよ」
 言いながらヴルジュはフォークを持ったままの手で、向こうにある小さな机を指差した。すぐにジャンセンがそれに気付き、机の前まで移動する。その机の上には大小様々な幾種類もの結晶石が所狭しと無造作に並べられていた。
「本日は何になさいますか」
「あぁ……何がいいかな。何でもいいんだが、迷うな」ヴルジュは渋い顔をする。
「シトリンか、ローズクォーツか。いやスピネルもいいかな。――どうする、リュート?」
「好きにすればいいじゃないか。結局どれを使っても一緒なんだろう?」
「酷く荒っぽい事を言うね。悪いが石なら何でもいいって訳じゃないよ。もしかしたら君は、大理石の床のタイルを担ぎながら世界を巡ってもいいとか考える人間だったりするのかい?」
「結構じゃないか。何なら規模を大きく、オーストラリアのエアーズロックを使用しても構わない」
「――うん、初めて知ったが、どうやら君と私とでは美的センスが徹底して違っているようだ。ジャン、いつもの“それ”を」
 ヴルジュは指差す。するとジャンセンはその山の中から一つ、大きな丸い石を取り上げた。
「これで御座いますか?」
「あぁ、それを頼む」
 ヴルジュとリュートが向かい合って座る、その前のテーブルに石は置かれた。グレープフルーツ大の、目玉のような模様の入った黒っぽい石。“天眼石(アイアゲート)”と呼ばれる結晶石である。
「結局いつものそれか。君はやけにこの石が好きだね。椅子の背もたれに飾られたのもこの石だ」
「あぁ、そうだね。確かに私のお気に入りだが――」ヴルジュは石の表面を愛おしそうに撫でながら言う。
「この椅子に石を飾ったのはヴェルグルのニルスさ。どう言うつもりかは知らないが、時々やって来ては一つずつこの石を足して行く。おかげで私も、この石には随分と興味を持つようになってしまった」
「なるほど」
 リュートはただ一言、そう返しただけだった。
「さて」ヴルジュは、リュートを見上げる。
「今回は一体、何を調べたいのかまでは知らないが、いつも通りに要求は等価交換と行こう。君からの依頼だけはプライベートなままでいたいものでね」
「もちろん」リュートは返す。
「遠慮なくそちらも要求してくれ。僕に出来る事ならば何でもしよう。少なくとも、君が引き受けている一般の仕事の報酬は、到底僕には払えないだろう額だからね」
「厭味だな。私がそんなにべらぼうな報酬を請求して仕事していると思ってるのかい?」
「さぁね。いくらで仕事を引き受けているかは知らないが、結構儲けている事ぐらいは噂で聞いてるぞ」
「どこの噂さ。――まぁ、おかげで我儘な事しながらも暮らして行ける程には稼がせてもらっているよ」
「そりゃあそうだろう。とりあえずこの業界では独占企業だ」
「零細だがね。じゃあ、交換条件だ。今回は何をしてもらおうかな」
「是非、お手柔らかに頼むよ」
 おどけながらリュートは両手を挙げて見せる。
「良し、ではこうしよう。今日君はディナーに付き合う。これでどうだ?」
「もちろんさ。最初からそのつもりで来た。むしろ今夜は久し振りに夜通し語り明かそうかって気分だったんだがね」
「決まりだな、リュート。私も君に聞いて欲しい話があった」ヴルジュは小さく、指を鳴らした。
「では早速、面倒な仕事を片付けよう。さぁ、今日は一体どこへ飛ぶ? 知ってはいるだろうが、距離とさかのぼる時間が長ければ長い程、長居は出来ないぞ。もしも白亜紀を見たいとか言うなら、僅か数秒で“心象(ヴィジョン)”は終わりだ」
「そんなに遠い所は望まないよ。僕が見たいのはほんの三十年程前だ」
「三十年だって? 随分と控えめだな。果たしてその辺りで滅んだ文明や遺跡はあったかね」
「いや、そう言うものを見たい訳じゃない。ほんのちょっとだけ、昔話の世界を覗いてみたいだけだよ」
「いいとも、では行こう。――まず先に、“誓い”からだ」
「またやるのかい? 言われなくてもルール違反はしないよ」
「駄目だ、これは義務だ。君だけに言う事じゃない、私自身の戒めでもある」
 そう言ってヴルジュは左手の掌を差し出す。そしてリュートは自らの右手をそれに触れ、鏡合わせのような恰好になった。
「一つ。覗いた過去、未来は、決して悪用しない事」
「誓う」
 リュートはヴルジュの瞳を睨み返しながら言った。
「二つ。知り得た事実を曲げるような行為はしない事。全てを受け入れ、以降は干渉をしない事」
「誓うよ」
「三つ。覗いた過去、未来は、決して口外しない事」
「誓う」
「四つ。”心象(ヴィジョン)“は一つの真実へと至るまで、いかなる事情があっても中断を許さない。本当の結末へと辿り着くまで”接触(コンタクト)“を終わらせる事はしない」
「誓う……が」
「が? なんだね」
「いつも思うんだが、その四つ目はどうなんだい? どうしても必要な誓いなのかい?」
「やけにおかしい事を言うね、リュート。考古学者としての君の信条としては、こう言う部分に私以上のこだわりを持つものでは?」
「確かにそうだが」リュートは言う。
「僕としては、君がそれを信条とする事の方に興味をそそられるね。君の仕事はそこまで熱心じゃなければいけないものなのかい?」
「当たり前だ。――当たり前だよ、リュート」
 ヴルジュは乱暴に手を解きながら、呆れ果てたような口調で言う。
「君は私の仕事を何だと思っているんだい? 遊び半分、適当な責任感でやってるとでも思っているのかい? 言っておくが、私の出した答え一つでどれだけ多くの犠牲が出るか判らないような依頼だって山ほどあるんだぞ。もしも私が軽はずみに……」
「いや、そう言う意味で言った訳じゃないよ、ヴルジュ」リュートは慌てながら言い訳をする。
「僕は君の責任感の強さを追求したいんじゃない。ただ……何と言ったらいいのかな。僕の興味だけで覗く過去の事実に対し、君がそこまでこだわる必要性はあるのかと言う意味さ」
「上手く言い逃れたなリュート」ヴルジュは依然、不機嫌そうな顔で言う。
「どうでもいいが、私としては仕事でも個人の趣味の範囲でも、同じレベルの責任感を持っているよ。どうせ今の世界に現実にある過去の事実なんて、本当の事実なんかじゃない。それはただ事実のひとかけらだったり、人の都合で捻じ曲げられた嘘の過去だったりもする。きっとその過去にあった事実なんて、千の書物と万の伝承を聞いた所で、真実には行き着かないものだろうさ。――ならば、これこそが真実と言うものを垣間見れる私の能力は、簡単な責任感で知るべきではないと思っている。それが例え望まない真実だったとしても、想像していたロマンとは遠く掛け離れた物語だったとしても、それを知ろうとした人間はその結果に責任を持たなければいけないと心から思う。それが仕事だろうが趣味だろうが関係は無い。手垢の付かない、捏造の加わらない真実を知ろうとしたならば、何がなんでもそうあるべきだと私は思っている」
「素晴らしい。素晴らしいよ、ヴルジュ」
 言いながらリュートは拍手をする。
「ふざけるなリュート。君だって私と同じ分類の人間だろう」
 ヴルジュはリュートの鼻先に指を突き付ける。
「あぁ、もちろんさ」リュートは軽く両手を挙げてみせた。
「聞いていて恥ずかしくなるぐらいに君と同じ意見さ。まるで僕の胸の中をそっくりそのまま朗読されたような気分だった」
「なら、なぜそんな下らない質問をする」
「わざとだ、申し訳ない」
「だから、何故?」
「君の心構えを知りたかった」
 リュートは笑いながらそう言った。
「心構え? どうしてそんなものを知りたがる」
「これから覗いて欲しいものは、それ相当の心構えが必要だからさ。――だが、安心したよ。君がそう言ってくれるなら、僕としてもかなり安心して頼める気がする」
「へぇ……今回はかなりヤバい話なのかな」
「あぁ、そうだね。かなり、ね」
 告げるとヴルジュは、そっとジャンセンの方を向く。
「どうやら私は下がった方が良さそうですね」
 言うとリュートは、「いえいえ、大丈夫ですよ」とそれを止める。
「むしろいてくれた方がいいかも知れない。出た結果によっては、ジャンセンさんの助けが必要となる可能性もある」
 聞いてジャンセンは、不思議そうな顔をする。同時にヴルジュが、「何故?」と、問うた。
「まぁ、それほどに難解な“旅行”になると思うんだよ」
「全く訳がわからない。ただ“覗く”だけだろう? それによって現実の何かが変わる恐れがあるのかい?」
「あぁ、きっと相当な変化が訪れる。そんな予感――いや、確信があるよ」
「へぇ、いよいよ楽しくなって来たな。では聞こうか」
 言われてリュートは胸のポケットから一冊の本を取り出した。それは相当に古いものらしく、革の表紙はぼろぼろに剥げ落ち、重なったページは黄色を通り越して薄い茶色に変色している。
「おいおい、凄いなリュート。もしも私の記憶に間違いがなければ、その本の表紙は“古ラテン語”で書かれているように見えるぞ」
「凄いねヴルジュ。その通りだよ」
「ちょっと待て、君は確か三十年程前を覗いてくれとそう言った筈だが。これが今更、旧西暦も飛び越えた過去を覗けと言うならば、今夜一晩では到底見る事なんか叶わないぞ」
「そうは言わない。ただ、古代の頃から今に至るまでにずっとどこかで眠っていただろう“とある物”を見て欲しいだけなんだ。それがそう、今から三十年程前にさかのぼりさえすれば、その手掛かりが掴める筈なのでね」
「判らないな。君がそれほどまでに興味を持っているものが、つい最近まで存在していたのかい?」
「あぁもちろん。――ホラあった、これを見てくれよヴルジュ」
 言って差し出した本のページには、古代のラテン文字で“Caleidoscopio 0-Dimensiva”と穿たれてあった。そしてその下には時代を匂わせる稚拙な線で描かれた、おどろおどろしい化け物の図が載っている。
「“零次元の万華鏡”だ。君も一度は耳にした事があるだろう。この世にて失われて久しき、神々の遺産の一つだ」
 聞いた途端、スッとヴルジュの目の色が変わった。そうして、徹底した侮蔑の表情で、「悪いが」と、差し出された本を押し戻す。
「この依頼は請けないよ。今のは何も聞かなかった事にしよう、リュート。これからの私達の友情の為にも……ね」
「ちょっと待ってくれ」冷静な口調でリュートは返す。
「どうして嫌だと言うんだい。君の言う誓いは全て守るよ。どうか協力してくれないか」
「駄目だ。答えはノーだ、リュート」
「だからどうして?」
「どうしてって――言わせたいのかい、私に」
「あぁ、聞きたいね。是非に僕が納得するノーの理由を教えてくれたまえ」
「納得って……」ヴルジュは左手で顔を覆いながら、言葉に詰まる。
「説明のしようがないね。とにかくこれはやめておけ。手を引くんだ、リュート。君はもっと健全なものに興味を持つべきだ」
「だからどうして。君らしくもないぞ、なんの理由も明かさずに一方的な拒否をするなんて」
「なら一つだけ言わせてもらうが」ヴルジュは一つ、大きな溜め息を吐く。
「それほどに“零次元の万華鏡”の事を知りたいと言うのなら、君の恋人にでも頼んで日本からジャパニーズ・コミックを片っ端から取り寄せるんだな。そうすれば千に一冊ぐらいは、そんな時代錯誤の不思議アイテムを題材にした馬鹿馬鹿しい話とも出逢えるだろうさ」
「あぁ、なるほど。それはつまり……」
「そう、それはつまり、“時間の無駄”だって事さ」
 リュートは苦笑いをしながら肩をすくめ、無言のまま首を振る。
「なぁリュート、良く考えてみたまえ」ヴルジュは尚も言う。
「確かに昔にはそんな摩訶不思議な空想や物語が人気を誇っていた時代もあっただろう。しかし今の時代にそんなものの存在はゴシップ誌のネタにすらならないし、夢物語が好きな幼い子供ですら興味を持たないものとなってしまっている。――さて、それは何故か? 君だって判っているだろう。もはやそんな手垢の付いた魔法の世界になど、なんの魅力も無いんだよ。既に科学力と言う素晴らしき魔法の力が、そんな空想を遥かに追い越しているのを皆が知っているからさ」
「なるほど、では君は、そんな古びた過去の奇跡になど価値は無いと?」
「無いね。断言しよう」
「良し、なら僕はそれに反言しよう。“零次元の万華鏡”は存在するし、大いなる価値もあると」
「へぇ」ヴルジュの目が更に細まる。
「がっかりだねぇ、リュート。どうやら私は、少々君の事を買いかぶっていたようだ。過去の真実を探求するロマンと、子供の夢物語との混同すらも区別出来ない人間だったとは、今の今まで思いもしていなかったよ」
「なんとでも言ってくれ、ヴルジュ。だが、“零次元の万華鏡”は確かに存在するんだ。もしかしたら今の時代では科学力の方がずっと有効なものかも知れないが、それでも無価値ではない。むしろ人の手の届かないであろう奇跡に、限りなく近付けるかも知れない可能性すらあるんだ」
「――本気で言っているのかい?」
 ヴルジュは身を乗り出し、そう聞いた。
「もちろんさ。僕はその事に気付いてからと言うもの、興奮のあまり夜もろくに寝付けずにいたぐらいなんだ。頼むから協力してくれ」
 ふぅと息を吐き出し、ヴルジュは天井を仰ぐ。そして二、三度、指先でテーブルの上をコツコツと叩いた後、「判った」と小さく呟いた。
「だが、せめてその根拠を教えてくれ。私は変わらずこの件には乗り気ではないし、“存在しない“と言う意見も曲げるつもりはない。だが君がそこまで言うならば協力をしない事はない。しかしせめて、その話の元ぐらい事前に教えてはくれないだろうかね」
「いいとも」
 リュートはそう言って、再び古びた本をテーブルの中央に押し出した。
「これが、何だね。タランチュラのなりそこないみたいなモンスターに、何か秘密があると言うのかい?」
「そこじゃない。その下さ」言ってリュートは絵の一部を指差す。
「“万華鏡(カレイドスコープ)”。実はこれが最近、とある場所で見付かった」
 指差す先には、インクで黒く塗り潰された円形状の筒があった。そして得体の知れない化け物は、まさにその上にと覆い被さるかのようにまたがっていた。
「――ますます訳が判らないな。その万華鏡が見付かったと言うのなら、もはや何も探す必要はないじゃないか」
「確かにそうなんだが、どうやらその万華鏡単体では何の意味も成さない様なんだ」
「何故?」
「判らない。しかし、もしかしたら……だが」リュートは今度は、化け物の方を指差した。
「“守護者(ガーディアン)”。これが何かの“鍵”になっているのかも知れない。この存在抜きで見付かった万華鏡自体には、何の力も無かったんだ」
「――偽物だったんだろう?」
「その可能性もある。だから君に調べて欲しかった」
「つまらない仕事だね。これは間違いなく、失望して終わる話だぞ」
「それでも頼む。どうしても僕は知りたいんだ」
「――判った。ではどこから始める? その万華鏡が見付かった場所からさかのぼるか?」
「いや、そこからじゃなくていい。万華鏡を見付けた人物が、その在り処を教えてくれた。まずはその話が本当なのかどうかを調べたい」
「なら早く済ませよう。座標は判っているんだろうな、リュート」
 言いながらヴルジュは、天眼石の上に左手を置く。
「あぁ、もちろんさ。北緯79°50、東緯16°49。スヴァールバル諸島の雪山の上――」
 呟きながらリュートは、ヴルジュの手の上に自らの掌を重ねた。同時にぶうぅぅぅぅんと大きな羽虫が飛んでいるような振動音。視界が一気に白色に感光したかと思うと、僅かの一瞬で世界はテーブルを挟んだ二人だけとなり、そしてその二人の遥か眼下に、白一色の大雪山のパノラマが広がった。
「おぉ――」
 と言ったきり、リュートは言葉に詰まる。
「どうした? もしかしたら高い場所は怖かったりするのかい?」
 ヴルジュが意地悪そうな顔でそう聞くと、「いいや」と、リュートは答えた。
「ただ感動しているだけさ。――地球はなんと美しいんだろうってね」
「あぁ、確かにね」
 ヴルジュは呟く。そうして二人はしばらくの間、雲一つ無い晴天の下の雪山の風景を無言のままで楽しんだ。
「なぁ、ヴルジュ。今まで一度も聞いた事がなかったんだが、改めて一つだけ質問させてもらってもいいかい?」
 まぶしいぐらいの太陽を背景に、リュートは聞いた。
「なんだい、唐突に。つまらん質問以外ならいいぞ」
「さて、つまるかどうかは判らないが――君は、いくら儲けたらこの仕事から足を洗うつもりなんだい?」
「嫌な質問だな、リュート。かなり心外だよ」
「もしかして、質問を間違えたかい?」
「あぁ、そうだね。君はこう質問すべきだった。“君は金儲けの為にこの仕事をしているのかい?”ってね。そしてその質問はおおいにノーだ」
「へぇ、では何故?」
「探し物さ。途方もないほどの大きな海に流された小瓶を探しているんだ」
「良くわからないな。この仕事を続けていれば、いつかは見付かる?」
「――かも知れない。だが別に見付からなくてもいい」
「どっちだよ」
「どっちでもないし、どっちでもある。さぁ、下らない質問は終わりだ。そろそろ行こうかリュート。時間はどれぐらいさかのぼればいい?」
 言われてリュートは、「了解」と頷く。
「時代は新暦二百八十三。二十三日のオーガスト、午前十一時。場所はこのままでいい」
「了解」
 ぶぅん―― より一層の大きな振動音の後、視界の中の時間が逆行を始める。
 太陽が登り、そして逆側の山へと沈み、満天の星空と月明かり。一瞬にしてそんな光景が見られたかと思うと、今度はその一連の流れがハイスピードで流れ始め、やがては目で追う事すらも不可能なぐらいの高速となり、僅か数秒を待たずして二人は三十年もの時間を飛び越えた。
「さて、君が仕入れて来た情報はどれぐらいあてになるものなのかな」
 そんなヴルジュの軽口には付き合わず、リュートは「少し下降してくれないか」と告げた。
「“眼”は貸すから、自分で動かせリュート。君ならばもう慣れたものだろう」
「――やってみよう」
 視界が徐々に下がり始めた。それはいくらかぎこちない動きだったが、それでも充分に目的は果たしていた。
「面白いな。これが神の視点ってやつなのかな」
「そんな大層なものじゃないだろう。ただ“視る”事だけに特化した超常能力に過ぎん」
「だが君はいつも、有りのままの過去と真実を見せてくれている。それは決して人が持てるレベルの能力なんかじゃないよ」
 言いながらリュートは視界を一度大きく下げた後、今度はそびえ立つ急な斜面の雪山の肌を、舐めるようにして昇らせた。そうして視界はスノーボードが高く跳ねるかのように、空中へと飛び出す。
 真正面に、眼が痛むぐらいに光り輝く太陽があった。ヴルジュは顔をしかめながら、「楽しそうだな、リュート」と咎める。
「あぁ、楽しいよヴルジュ。このまま天に召されても構わないぐらいだ」
 そして視界は高い位置で何度か回転した後、とある一点を目指し大きなカーブを描きながら滑り落ちて行った。
 遥か向こうに見える真白き山。峰と峰を繋ぐ尾根。その中央部辺りに見える小さき黒い点。視界が物凄い勢いでその黒き点へと近付けば、それは尾根を歩く二人の登山者の姿となり目に映る。
「あれか、リュート」
「多分ね」
 前を歩く一人はきっと男性だろう、黄色とオレンジ色の防寒スーツに身を包み、大きなザックを背負い先を急ぐ。そして後ろを歩くもう一人は女性なのだろう、揃いのスーツを着ながらもその姿は若干小さく、歩く足元も危うく見えた。
 リュートはその二人の頭上を二、三度軽く旋回した後、ゆっくりと下降しながら真横から近付いて行く。
「あれは誰だ? どこぞの冒険家か何かか?」
「いいや、僕の同業者だ。――尤も、今の時点まではね」
「今の時点って、この頃はまだ君も生まれてはいないだろう」
「確かにそうだ」
 前を歩く男の僅か数メートルまで近付けば、どうやら男は“眼”が奏でる振動音に気付いたか、顔を覆う黒いゴーグルを外し、マスクさえも引き下ろした。
「――あれ? あの男、どこかで見た記憶があるぞ」
 ヴルジュが言う。同時に男が背後を振り返り、もう一人の同行者に声を掛けた。だがしかし、その声はリュート達には聞こえない。どうやらヴルジュの操る“眼”は、視る事以外は何も出来ないらしかった。
「あぁ、多分知っていると思うよ。彼はアレクシス・ガードナー。またの名を、“プロフェッサー・ガードナー”と言う」
「……」
「どうした、ヴルジュ」
「もういい、一旦打ち切ろう」
 ぶんと言う音と共に、視界は再びヴルジュの自室へと戻った。二人から少し離れた場所に、ジャンセンが険しい顔をしながら立っていた。
「何事だよヴルジュ。どうして”心象(ヴィジョン)“を中断する? これはルール違反じゃないのかい」
「――あぁ、確かにそうだね」
 ヴルジュは面白くなさそうな表情で、頬杖をつきながらそう返した。
「戻ろう。もう一度さっきの場所からだ」
「もう嫌だよ、リュート。君は私を馬鹿にしている」
「何を言ってるんだよヴルジュ。僕は何も……」
「いいや、している」ヴルジュは怒気をはらんだ声で言う。
「何事だ、は私の台詞だ。今日の君は一体どうしたと言うんだ。最初は私の能力に疑問を持つかのような事を言い、その次は“零次元の万華鏡”を探すだなどと頭のイカれた事を言い出す。そうして今度は、稀代のペテン師“賞金首のガードナー”の動向を探れと来たもんだ。これで不機嫌にならなかったら、私はまるで神のようだよ」
 言われてリュートは笑った。しかも、さも可笑しそうに。
「何故笑う、リュート」
「いや失礼。怒るとは思っていたんだ、最初から」
「――わざとか? ふざけているのか?」
「いいや、ヴルジュ。確かにわざとだが、決してふざけてはいない。君が怒るのはなんとなく判っていたが、僕は終始大真面目だ」
「なるほど良くわかった。君は大真面目に私をからかいにやって来た。――そう言う事だな?」
「そうじゃないよ、ヴルジュ。頼むからしばらくの間は感情をどこかに置いて、僕の探究心に付き合ってくれないかな」
 はぁと大きな溜め息を吐き、「気が乗らないな」と、ヴルジュは宙を見上げる。
「どうして? どの辺りが嫌なんだい?」
「全部さ。特に、下世話な詐欺師なんかが登場する辺りは生理的に嫌悪するね」
「詐欺師とは随分にひどい」リュートは苦笑を洩らす。
「ちなみに君はアレクシス・ガードナーと言う人物について、どこまでを知っているんだい? まさかとは思うが、巷に流れる噂ばかりで彼を毛嫌いしている訳じゃないよね」
「噂程度で充分じゃあないのかい。自分には予知能力があると主張し、色んな人達から金銭を巻き上げた。挙句にそのペテン振りがバレて指名手配のお尋ね者。そして最後には国外に逃亡するも首に賞金を掛けられた上、中東の某国にて捕まりそのまま公開処刑だ。なんとも自分自身の予知に対しては随分と無頓着なプロフェッサーだったものだね」
「まぁ、その噂は概ね合ってるね」
「なら、私が彼を毛嫌いするには充分な理由ではないかな」
「――同じ預言者として、許せない?」
「同じにするな。私にとっては今の君の言葉の方が許せないぞ」
 苛立ちながら、ヴルジュは指先でテーブルをせわしなく叩いた。
「さて困った。この一件に関しては、どうしても彼の過去を探らずにはいられないんだ。なんとか大目に見てはもらえないものかい」
「どうしても判らないんだが……」ヴルジュは身を乗り出した。
「とにかく話せよ、リュート。何がどうあって、その詐欺師を調べなくてはならないのか、全て洗いざらい話してからにしようじゃないか」
「なら、話して納得してくれたら、もう一度翔んでくれるかい?」
「あぁ……納得したらね」
「なら、最初から話そうか」言いながらリュートは、椅子の背もたれに身を預ける。
「実はね、もう半年程前の事になるのだが、そのアレクシス・ガードナー氏の子供だと言う女性と面会する機会があってね」
「また女性関係かい、リュート。相変わらず旺盛だね」
「そうじゃないよヴルジュ。彼女とは……そうだなぁ、取り引き相手とでも言った方がいいのかな」
「取り引き? 何の」
「人探しさ。自分の妹を探して欲しいとの依頼だった」
「そんなの警察に頼め……とは、言わないよな。君は」
「もちろん。断る理由がまるでなかったからね」
「なるほど、彼女はそんなに美人だったかい」
「あぁ、凄い美人だった。とりあえずそこは、この話に関係なさそうな部分だけどね」
「関係無い、か。まぁとりあえずそうしておこう」ヴルジュは笑う。
「それで、その報酬は? まさか彼女の美貌に免じ無料って話なのかい?」
「まさか。報酬は一万ユーロと……万華鏡についての秘密を教えると、持ち掛けられた」
「後者はどうでもいいな」
「いや、僕にとっては前者の方がどうでもいい。そう言う訳で、僕は一も二もなく飛び付いた。そして彼女は事もあろうに報酬を先払いしてくれると言い出した。もちろん、万華鏡の秘密の方のね」
「そうか、どうやらその詐欺の手合いは親譲りって感じだな」
「そう言うなヴルジュ。まぁとにかくそう言う訳で、僕はその当の本人にもお逢いして来たんだよ。そう、君が毛嫌いするプロフェッサー・ガードナー氏とね」
「へぇ、それはそれは」ヴルジュはとことん呆れた顔をする。
「それでその亡霊は何と言ってた? それともホルマリン漬けのゾンビーだったかい? もしくテルミンのような形の受信機越しにマイクとスピーカーでご対面?」
「そのどれでもないよ。ちゃんと息をした、初老の紳士だった」
「そりゃあいい。さて次は、どんな手口で君の銀行口座をこじ開けようとして来るのかね」
「いや、本当に本物のガードナー氏だよ。どうして君は素直に話を聞いてくれないかな」
「あぁ、あぁ、判った。黙って聞こう。――ジャン、どれでもいい、ワインを一本開けてくれたまえ」
「これから翔ぶのに飲むつもりかい? 飲酒運転だぞ」
「これがシラフで聞ける話か、リュート。彼は自国からも他国からも嫌われ、追放され、挙句に裁判も無しで公開処刑された人間だぞ。そんな人間がどうやって今、この世に生きてごく普通に生活しているってんだ」
「それは――」リュートの目が宙を彷徨う。
「生きてるんだからしょうがない。処刑と公表された事実は、真実ではなかったと言う事だね」
「やはり飲もう。ジャン、今手に取ったそれでいい。開けてくれ」
 ヴルジュは指を鳴らす。するとジャンセンは、ボトルと共にワイングラスを一つだけ持って来た。
「リュートの分は?」
「必要ですか?」
「いや、僕は結構」
 そんな会話の後、ヴルジュの前にだけワインの注がれたグラスが置かれた。
「ガードナー氏は、物静かで落ち着いた雰囲気の紳士だったよ」リュートは語り出した。
「耳に心地良い低く重い声でね。彼は教えてくれた。ある日を境に、私の能力は枯渇してしまったと」
「何の能力だ? まさか予言の能力だとか言わないよな? そんなもの最初から無――」
「いいから聞いてくれよヴルジュ」リュートは笑う。
「彼はね、とある約束のもとに手放してしまったんだ。命と同等とも思える程の奇跡、“零次元の万華鏡”をね。そうして彼は、“予言”と言うその類稀なる能力を失った。――だが、彼は後悔はしていなかったよ。むしろそれで良かったんだとさえ言って、笑っていた」
「そりゃあそうだろう。とんでもない詐欺師だと皆から罵られ、首に賞金までかけられて国を追われたんだ。それでなおかつまだ生き延びていて、自由に暮らしているってんなら、そりゃあ笑える話だろうさ」
「なるほど、君はとことん信じていないね?」
「当たり前だ。そう言う君は信じて聞いていたのかい?」
「いいや、全く。彼が嘘を言っているのは判ってた」
「ようやく会話が噛み合ったな。それでその根拠は?」
「彼には最初からそんな能力は無かった。ついでに言うと、“万華鏡”の存在だって眉唾ものさ」
 そう言ってリュートは、胸のポケットから写真を数枚取り出した。
「これは何?」
「三十年前の写真さ。ここに彼が写っているだろう。まさに、彼が“予言”を行っている光景だ」
 指を差す。若干だけ色褪せの始まった写真の中央に、テーブルを挟んで向かい合う男女二人の姿がある。そしてその一方は、見間違う事なく“プロフェッサー”と呼ばれていた頃のガードナーだった。
「つまらない光景だねぇ。どうせ禍々しくも大仰めいたペテンを行っていたんだろう。なら、なんでこんな殺風景な部屋でやるんだい。もっとこうゴテゴテとグロテスクな飾りをぶら下げ、威圧感を与えるような作りにしなきゃあ客はシラけるぞ」
「こんな感じの部屋にしろって事かい?」
「そうそう、こう言う雰囲気ならば客は一割程度しか疑わない」
 言って、ヴルジュは笑う。
 だが確かにそのガードナーの写真は、お世辞にも立派な部屋で撮られたものだとは言い難かった。花もなければ調度品の一つもない。殺風景な寂しい部屋にぽつんと箱のようなテーブルを置き、椅子もたったの二脚だけ。ガードナーと客の女性とが向かい合い、その客の背後には幾人かの傍聴者が立っているだけだ。
「もう一枚、見てもらおう」
 リュートは次の写真を差し出す。
「……なんだこれは?」
 ヴルジュはそれを見て首を傾げる。無理もない、それはドアのように蓋が開いた、ただの木製の箱の写真でしかなかったからだ。
「リュート、見てくれはいいが、それで一体何を言いたい」
「気付いてくれよヴルジュ。これは、これだ」
 言ってリュートは先程の写真と、箱の写真とを、指で差し比べる。そしてヴルジュは、「あぁ」と頷いた。リュートの片方の指が差したのは、ガードナーと客との間に挟まるクロスを張っただけのテーブルだった。つまりは二枚目のものは、テーブルの拡大写真だったのだ。
「それは判った。だが、そのテーブルの中の空洞だけは良く意味が判らない」
「あぁ、これは僕も今一つ意味が判らなかった」リュートは言う。
「実はこのテーブルのあった場所――元はガードナー氏の仕事場だったみたいだが、そこを彼に逢う前に訪ねていたんだ。運のいい事にガードナー氏がここを引き払った当時の状態のまま、結構綺麗に保存されていた。この箱型のテーブルもまた当時のままでね。おかげで大きなヒントも、ちゃんと残されていた」
 そう言ってリュートは、三枚目と四枚目の写真を取り出す。
 三枚目には、その箱のドア部分の拡大。四枚目は、箱の内側を拡大した写真だった。
「これが?」
 首を傾げるヴルジュに、「良く見て」と、リュートは写真を渡した。
「ドアの上の辺りに、小さな四角の窓があるだろう。ちょうど拳が入るかどうかぐらいの穴だ」
「あぁ、あるね」
「そしてさっきの写真だ」リュートは、ガードナーが写っている一枚目の写真を差し出す。
「良く見てくれ。ガードナー氏の右腕は客である女性の左手を握っているが、もう片方は――」
「なるほど、その穴の中に入れているかのようにも見えるな」
「そしてもう一枚だ」次の写真を手渡す。
「今度はその箱の内側だ。その床に当たる部分に、何か黒っぽい染みみたいなものが見えないかい」
「確かにね」
「事前にその染みを調べてみた。するとどうやらそれは、人の体液だと言う分析結果が出た」
「――体液だって?」
「そう、しかも少量の血液が混じっていた」
「……」
「箱は、子供ならば充分に入り込める程の大きさがあった。もちろん大人であっても、巨漢な男性でなければ窮屈ながら入れるぐらいだろう。――さて、これは一体何を示すのか。ガードナー氏が予言を行う際には必ずこの箱――いや、テーブルを使用していたと言う事実も判明している。では、この箱は何に使われていた?」
「人を……入れていたと言うのが妥当だろうけど、その行為自体がまるで判らない」
「その通りさ。まるで意味がわからない」
「随分と意見が合うな。それで君は、どう解釈したんだい」
「わからないと言っただろう。では次に行こう」
 指を鳴らし、写真を片付ける。そして次に取り出したのは、幾枚かの新聞の切り抜きらしいスクラップのコピーだった。
「何でも出て来るねリュート。もしもそこに鳩を用意しているなら、気の毒だから早く出してあげてくれ」
「茶化さないで見てくれ。君の嫌いなガードナー氏の話題ばかりを集めて来たんだ」
 ――天才預言者、落雷の場所と日時を的中させる。犠牲者はゼロ。
 ――ガードナー氏、航空機テロを未然に防ぐ。犯行グループ行動と同時に逮捕。
 ――プロフェッサーまたしてもお手柄。海難事故の漂流者、全員を保護。
「なんだい、これは……?」
「彼の手柄のほんの一部さ。調べればもっと出て来る筈だよ」
「全くわからないな。これだけ見たら、彼が詐欺師だと言う証拠に行き着くには程遠い」
「いや、程遠いと言うよりも、無いんだよ。少なくとも、僕が調べた限りでは彼が予言を外したと言う結果は一つも出て来なかった」
「何を言ってるんだ君は。彼がインチキ予言をはたらいて大勢の人に糾弾され、訴訟問題にまで発展した経緯については何も調べなかったのかい?」
「当然調べたさ。数多くある彼のインチキ予言も、可能な限り全て調べた」
「それで君が弾き出した結果が、彼の詐欺まがいな予言は一つも無い……になるのか?」
「その通り。それが僕の結論だ」
「リュート、君はどうも……」
「出なかったんだ。彼が本当に嘘の予言をしていたと言う証拠が、全く出なかったんだ」
「……」
「彼が実際に行ったとされる予言のほぼ全ては、調べれば調べる程、情報源へと近付いた。いつ、どこで、誰が、なんの件について予言を依頼したのか。そうして出た回答はどれもこれも正解を言い当てていた」
「――へぇ」
「だが、人々が彼をペテン呼ばわりした際に並べられた外れの予言は、調べれば調べるほど情報源から遠ざかる。どうしても途中で行き詰まり、本当に予言が外れたのかと言うよりは、本当に彼がそんな予言をしたのかと言う部分にまで疑問が及んだ」
「それはどう言う事だい?」
「でっちあげられたんだよ。彼の預言者としての功績は全て、“嘘だった”と言う事にされ、事実は隠蔽されて捏造で塗り固められた。しかもそれは国をあげての一大プロジェクトみたいな感じでね」
「――冗談だろう?」
「冗談かどうかを判断するのなら、君なら簡単に出来る事だろう。尤も、今の僕の関心はそこにはないので、もしも興味があるのなら後日ゆっくり自分一人でやってくれ」
「いいだろう、暇ならばな」ヴルジュは言う。
「だが、それでもやはり判らない。どうしてたかが一預言者ふぜいを、そこまで大規模な嘘で追い詰める? 彼はそこまで性質の悪い事でもやったのかい?」
「いや……逆なんじゃないかな。彼は国から追い詰められ、逃亡した訳じゃない。とある理由によって安全な場所にかくまわれた――が、僕の見解なんだけどね」
「どんな理由で?」
「さぁてね。推測でものを言っていいのならば語るけど?」
「構わないよ、教えてくれ」
「う……ん。それは多分、彼が最後に手掛けた予言のせいじゃないかなと思ってる」
「最後? 最後とは何だ?」
「実際は最後ではないのかも知れないが、彼が手がけた大きな予言としてはまさに最後だ。――大統領暗殺の予言だよ」
「へぇ……それは聞いた事がなかったな」
「あまり表沙汰にはなってないからね」リュートは言う。
「だが、そこからだ。彼が国を追われ、首に賞金をかけられ、稀代の詐欺師と呼ばれるようになったのは」
「嘘だったのか? その大統領暗殺の予言は」
「その通り。彼は最後の最後で、国ごと大統領をあざむいた。――誰もが素直に騙されたらしい。何しろその頃には彼も、相当に名の通った預言者となっていたからね」
「どうしてそんな真似をした? やはり彼は馬鹿なのかい?」
「そうだろうね。僕もそうとしか考えられない。何の事情があったにせよ、国を敵に回す程の大嘘を吐くだなんて正気の沙汰じゃないね」
「だが、余計にわからなくなったぞ。君はさっき、“彼は国に保護された”と、推測話をした筈なのだが、その結末だと全くそこに行き着かない。それはどう言う事だ?」
「それは――そうだな。話すよりも“視て”もらった方が早いんじゃないかと思うんだが」
「ふぅん、何を? 彼が“エイティ・アデプタム教団“の狂信者一派に掴まり、三日間にも及ぶリンチの末、絞首刑になったシーンでも見るつもりかい?」
「それでもいいが、多分そんな事実はどこにも出て来ない。現に彼は無傷で生きているからね」
「だからそれは偽者で……まぁいい。じゃあどこを見たい?」
 少々苛立ちながら、ヴルジュは言った。
「もう一度、さっきの雪山を」
「――いいだろう、行こう」
 二人は天眼石(アイアゲート)に手を置く。同時にまた、ぶぅぅぅぅぅんと振動音を奏でながら、心象(ヴィジョン)が始まる。場面は先程中断した時と全く同じ、真っ白に染まる尾根の風景からだった。
「奴らを追えばいいのかい?」
「――いや、追っていたら時間が掛かりそうだ。先回りをしよう。場所は知っている」
 リュートは“眼”を操り、彼等二人の遥か上空を追い越し、そしてその先に待ち構えている大きなクレバスへと辿り着く。
「どこへ行こうとしているんだ、リュート」
 心配そうな声でヴルジュが尋ねると、「もちろんこの下さ」と平気な声でリュートは答え、亀裂を滑り落ちるようにして降りて行く。
 鋭角な斜面の亀裂。白の一色だった世界が淡い青へと変わり、やがて視界は漆黒の闇へと変貌して行く。
「暗いな。灯りは点けられないのかい、ヴルジュ」
「“視る”以外は何一つとして関われないと、何度言ったら判るんだリュート」
「わざとだ、済まないヴルジュ。とりあえずここでいい、今度は少しだけ時間を早送りしてくれないか」
「それは構わないが……もしかして、ガードナーがここに落ちて来るとでも?」
「その通り」
 やがて待つ事数分、「何かが落ちて来た気配がするね」とヴルジュが言うと、その暗闇の中にまばゆい灯りがともった。見ればそこには、発煙筒を片手に臆病そうな表情で上を見上げるカティ・ガードナー夫人の姿があった。
「落ちては来たが、もう片方のガードナーの方だったな」
「あぁ、そのようだ」
 リュートは笑う。そしてヴルジュは、「知っていたんだろう」と言う軽蔑した目付きでリュートを見た。
 カティは裂け目の上の方へと向かって、何かを叫んでいた。もちろん二人の耳には、音は一切聴こえて来ない。もしかしたら上でアレクシスが何かを指示しているのかも知れない、カティは発煙筒で周囲を照らすと、その辺りの様子を伺い始めた。
「おや? リュート、向こうに何かが……」
 ヴルジュは言う。そして同時にカティもそれに気付いたらしい、氷の壁の一画に張り出したゴツゴツとした岩盤に、どの暗闇よりも深く暗い洞窟が一つ、不気味に穿たれていたのだ。
 カティは恐る恐るザックからハンドライトを取り出すと、その穴の方へと向けて灯りを照射する。そして強力なLEDの光が内部を照らすと――。
「――誰かいた」
「えっ?」
 ヴルジュは驚いた声を出す。そしてその横で、声こそは聞こえないがカティも同じように、恐怖で何かを叫んでいるらしかった。
「君には見えなかったかい?」
 リュートが聞けば、ヴルジュは「いいや」と首を横に振る。
「今、確かにあそこにいたんだ。少し時間を戻して見てみるかい?」
「いや結構。それより、彼女が移動するらしいぞ。どうするんだ?」
 見れば確かに、カティはその洞窟に吸い寄せられるようにして歩き出した。ヴルジュは、「旦那が来るまで待てばいいのに」と、呆れた声で言う。
「――行こうか」
 リュートは言う。ヴルジュは、しょうがないなと言った感じで、頬を吊り上げてみせた。
 カティは懸命に足場を探し、洞窟の入り口付近まで辿り着く。そして何かを追うようにして、その穴の中へと踏み込んで行った。
「彼女はどうして平気なんだ? 気味悪くないのかい、こんな場所」
「いやいや、君の部屋と比べてそんなに変わりはないだろう」
「それにしても……彼女には迷いが無い。あれはどう言う事だ?」
「あぁ、もしかしたら」リュートは微笑みながら、自らの唇を左手の指でなぞった。それは、彼が何かを考えている時の癖のようなものであった。
「彼女は何かに呼ばれているのかも知れないね。僕達には声や音は聞こえないから不思議に見えるけど、彼女にしてみればそう大して不思議でもないのかも知れない」
「呼ばれてるって……怖い事言うなよ、リュート。こんな不気味な場所で、誰に呼ばれたら入って行こうとか思うんだい」
「不気味かい? ――まぁ、彼女は一度、子供を亡くしているらしいからね。もしかしたらそんな弱みな部分を突かれているのかも知れないし」
「子供に? そんな馬鹿な」
「いやいや、あながち間違ってもいなさそうだよ。ほら見てごらん、彼女は時折、穴の奥へと向かって何かを叫んでいるような真似をしている」
「確かにね……でも一体、何がそんな真似を?」
 その時だった。リュートは、カティが照らす光の向こう側を指差し、「あれだよ」と告げる。だが――。
「……どれだい? 良くわからないぞ、リュート」
「えっ?」
 今度はリュートが驚く番だった。そしてまた自らの唇をなぞりつつ、無言で考えに耽る。そうして――。
「なるほどね。ようやく繋がったよ」
 そんなリュートの独白に、「何がさ?」と、ヴルジュは不機嫌そうに聞いた。
「説明は後だ。どうやら彼女は行き着いたらしいぞ」
 言いながら彼女の背後へと近付く。洞窟はそこで行き止まり、小さな祠のような場所で終わっていた。
「なんだい、あれは?」
「見ていれば判ると思うよ」
 次第に炎が小さくなって行く発煙筒の灯りの中、それはぼんやりと照らし出された。
 丸く小さな、磨かれた球。炎の灯りの中にあり、赤く染まって浮かび上がる球。リュートはそれを眺めながら、触れたその手がびくんと大きく反応したのが判った。
 カティがそれに手を伸ばす。灯りに照らされ、禍々しく伸びた球の“影”がゆらりと揺らめいた。
「駄目だ……触るな!」
 思わず、ヴルジュの口からそんな言葉が漏れた。それとほぼ同時に、“影”は飛び跳ねた。
 カティはすかさず手を引っ込める。しかしその反応は一歩遅く、得体の知れないその“影”は、カティの差し出した掌へと飛び移った。
 無音のままの悲鳴が、闇の中の洞窟に響き渡る。手にしていた発煙筒とハンドライトが、無造作に投げ出された。カティは懸命に手を振り、その“影”を振り落とそうと努力はするが、もはやその“影”はどこにも見当たらない。
「今のは?」
 ヴルジュが聞くと、「さぁ?」と、リュートは答える。
「さぁ、じゃないよ。あれは……あれはまさに、君が見せたあの本に載っている、“守護者(ガーディアン)”の姿そのものじゃないか!」
「……確かにね。僕にもそう見えた」
「そう見えた、じゃないよ。ならあれは……あれは……」
 やがて闇の向こうにもう一つ、仄かな灯りが現れた。どうやらそれは後を追って駆け付けたガードナー氏のようで、ランタン型のハンドライトを提げつつ、カティの元へと辿り着く。
 二言、三言、リュート達には聞こえない会話の後、カティは祠の方を指す。そして――。
「あぁ……」
 落胆とも、絶望ともつかないヴルジュの溜め息が漏れる。
 ガードナーが手を伸ばす。そうして掴み上げたその球は、ハンドライトの灯りの中で今度こそはっきりとその輪郭を見せた。
 成人男性の手の中にすっぽりと収まる程度の大きさの、丸い球。それはさながら“眼球”を想像させるかのような模様を持ち、暗闇の中でリュート達を見降ろすようにして輝いていた。
「天眼石(アイアゲート)だ――」
「あぁ、そうだね」
 ぶんと、音が跳ね、再び心象(ヴィジョン)が中断された。だが今度は、リュートは何も言わなかった。
 しばらくの沈黙が訪れた。いつの間にそこにいたのだろう、ジャンセンがヴルジュの背後から寄り添うようにして立っていた。
 ヴルジュは伸ばした手で愛おしそうに天眼石を撫でまわしていたが、やがてそれに飽いたのか指先で一つそれを弾き、「ねぇ、リュート」と、静かな声で語り掛けた。
「なんだい?」
「聞いてくれないかな、さっきの質問の答えだ」
「質問? なんの?」
「君の下らない質問さ。“君は金儲けの為にこの仕事をしているのかい?”って奴さ」
「あぁ、そして答えはノーだった。君の目的は、途方もないほどの大きな海に流された小瓶を探す事」
「その通り」ヴルジュは力なく言った。
「そしてその小瓶とは……私の“過去”だ」
 突然、その言葉に呼応するかのように、部屋が白く感光した。窓から射す、稲光のせいだ。同時にざぁと風雨が唸り、叩き付けるように降る雨粒が激しく窓を震わせた。
「――過去? 過去、とは?」
 リュートの問いに、「過去は、過去だよ」と、ヴルジュは少々腹立たしげに答えた。
「私は知りたいんだ。私の国を、私の親を、私の家と、私の家族、そして私はどうして捨てられたのかを……」
「ヴルジュ、君は――」
「視えないんだよ、私は……自分自身の過去だけは。でも、こうやって名を売り、私の容姿を含めた噂が広まってさえ行けば――いつか、いつかは私の両親の耳にもそれが伝わるものだと思っていた」
「……」
「私の噂を聞き付けて、そして私が裕福な暮らしをしていると知ったならば、きっとその両親は私を訪ねて来てくれるものだと信じていた。私が私の過去を探すには、もうそれ以外の手立てはなかった。例えるならばそれは、大海へと流れ出たガラスの小瓶さ。途方もないぐらいに広い海のどこかに漂う、小さな小さな存在さ」
「君はそこまでして両親を……?」
「あぁ、そうさ。逢いたいよ。どんな手を使ってでも、どんな苦労をしてでも私は私の親に逢いたい。そして――絶望を味わわせたかった!」
 最後の方は、怒気をはらんだ罵声にすら聞こえた。
「なんで産んだ。どうして捨てた。私がこんな姿で、恥を忍びながらも生き長らえているのは、ただひたすらの親への憎しみと殺意だけだ。私はこの手で、馬鹿な親達を殺してやりたかった。金や名誉の餌に釣られ、いつかやって来るであろうそいつ達を、私の受けた苦しみを数倍にして返してやりたかった。――だが」
 バンと、ヴルジュの細い腕がテーブルを叩く。同時に天眼石が転げ落ち、それを咄嗟にリュートが受け止めた。
「私は……私は結局、何も持ってやしなかった。こんな醜い姿で生まれついたのは、こんな特殊な能力があるからこその釣り合いなのだと今の今まで自分を慰め生きて来た。だが……それも違った。私には何の能力もなければ、なんの才能も無かった。ただひたすらに惨めで無力で不気味なだけの、うぬぼれた愚か者だった。過去と未来の見通せる能力などこの石がもたらす恩恵でしかないし、信じた友は私の無能さを暴き立て、私を助けてくれる恩人は憐みの目で私を見るし、そして……そして結局、親は私の元へとはやって来ない」
「ヴルジュ」
「恨めしい。恨めしいよ、リュート。君のように自由で、行動的で、愛する人も信じられる友人もいる君と言う人間が妬ましい。――どうして私は生まれた? どうして私はここまで苦しむ為だけに生まれ出た? どうせ、どうせ私を捨てるなら、生まれたその瞬間に“怪物”とでも罵って、殺してくれれば良かったのに……」
 いつしかヴルジュの主張は涙声に変わっていた。機能するたった一つの腕で顔を覆い、むせぶようにして泣いていた。
 リュートはあえて声を掛けないように、ヴルジュを見守っていた。そしてそんなヴルジュの背後に寄り添うジャンセンもまた、同じように黙したまま彼を見降ろしていた。
「どうして……どうしてこんな石などを私に預けた。何の繋がりがあって、どんな恨みがあって私にこれを渡した。少なくとも、これさえなければ私だって、愚かな夢など見ずに済んだと言うのに」
「いや、ヴルジュ、まだその石が万華鏡だと決まった訳では……」
「慰めはいいよ、リュート」静かな声だった。
「“万華鏡”と言う名前と、あの挿絵のおかげで、きっと誰もが筒状のものを連想しただろうな。だが実際は違った。筒のように見えたのは球から伸びた影の部分だ。面白い暗示だな、確かにあの球の影の部分には守護する者がうずくまっていた。もう何も言わなくていいよ、私のこの予言の力は、あのガードナーと言う男が私にこれを譲ってくれたからこその力だ。――これは返そう、あの男に。そして私は本来の自分に戻ろう」
「本気か、ヴルジュ」
「もちろん本気さ。勢いやタテマエで言ってる訳じゃない」
「そうか――。なら」リュートは言った。
「最後にもう一度、翔んでくれないか。知りたいんだ、どうしても」
「知りたいって……何を?」
「あの箱の秘密さ。どうしてガードナー氏は、あんな謎のテーブルを使用していたのか、知りたくはないかい?」
 聞かれてヴルジュは、涙をこすりながらも苦笑を見せた。
「君は本当にマイペースな人間だな、リュート。私の苦悩を知りながらも、自分の興味の方が上なのか」
「いや、そう言う訳じゃあないが……まぁ、そう思われてもしょうがないね」
「ねぇリュート、教えてくれないかな。君は覗かなくても知っているんだろう、ガードナーがどうして私にこの石を譲ったのかを」
「あぁ、まぁ……ね」
「どうしてだい? どんな繋がりがあって、この石は私の元へと来た?」
「彼は――娘を守ろうとしたんだ」
 リュートは観念したかのように、そう呟いた。
「娘? あぁ、君の依頼者か」
「何度も言うようだが、ガードナー氏の予言は常に正確で、外れがなかった。そして、彼はその調子で大統領暗殺の予言までしてしまった。もちろんその事で、時の大統領は命拾いをした訳なのだが」
「……なんて事を。未来を変えてしまったのか」
「その通り。従って、大統領が亡くなると言う未来は書き換わった。――君には判るよね、この重大さが」
「判るさ。それはやってはいけない事だ。最大のタブーだ。人は神ではないんだ、神のシナリオに手を掛けるなんて、とんでもない話だ」
「うん、その通り。彼は禁忌を破ってしまった」
「――全く、その程度の事も判らずにこの石を使っていたと言うのか。やはり彼は、ペテン師同然な男のようだな」
「いや、そうでもないよ。もちろん彼も、その危険性については承知していたさ。君がどう感じていようと、彼はそんなに頭の悪い男じゃない。どんな予言であれ、避けられない事実に対して先に覚悟を与えておく程度の助言しかしていないみたいだしね」
「ならどうして?」
「これもあくまでも推測でしかないが……」リュートはまたしても唇をなぞり始めた。
「“視え“たんじゃないかな。大統領暗殺の、さらにその後までも。――そう、彼が語った、”空白の未来“が訪れるその瞬間まで」
「空白? 空白とはなんだ?」
「“視えなくなった未来“と言い直した方がいいかな。”視る“事が叶わない領域の事さ」
「視えなくなった……って? 彼の視る未来には、限界があったって事か?」
「そう、とある一件を境に、それ以降の未来はまるで視えなくなっていたそうだ」
「まぁ、それはこの際それはどうでもいい。それで、大統領暗殺のその後とは?」
「だから、暗殺直前にどうやってそれを食い止めて、その結果、未来がどう変わるのかまで――の一部始終だよ」
「暗殺を食い止めた結果……だって? おいおい、そこまで視たのならば、それは普通に行き着く未来って事だ。別に何も書き換わってはいない。彼は何も禁忌を犯してはいないじゃないか」
「そう、彼は禁忌には触れてない。だが、もしも僕の推測通りだとしたならば、彼はまさに大統領相手にペテンを演じた事になる。予言と言う能力を悪用し、彼はもらうべきではない代価を手に入れた事になる」
「じゃあやはり奴は、嘘の予言で大統領を……いや、国民までをも騙したって訳か?」
「結果的にはそうだけどね」リュートはそのヴルジュの質問に、苦笑を返した。
「何度もしつこいぐらいに言わせてもらうが、これは本当に僕の頭の中だけの推測だ。彼――ガードナー氏は、本当に大統領暗殺の未来が視えていたのだと思う。そうして考えた。視えたとしてもそれを阻止するのは禁忌になる。だがこれは国の一大事だ、何とかしなくてはともう一度同じ場面を繰り返して視た。そこで彼は知ったんだ。自分自身さえもその暗殺阻止に加担し、それを食い止める事に一役を買っていた事をね。つまりは、彼が行動する事によって未来が書き換わるんじゃない。彼が大統領を助けて暗殺が失敗に終わると言う部分までもが、視えた未来の結末だったんだ」
「じゃあ彼は、視た通りに行動して大統領を救ったと?」
「僕の考えではそんな感じだ。従って彼は嘘を言いながらも、同時に本当の事を言っている。大統領暗殺の予言は本当の事であり、必ず訪れる未来だった。だが彼はそれを利用し、大統領をペテンにかけた。捻じ曲げてはいけない未来を捻じ曲げるのだから、それ相当の代価を欲しいとね」
「本来ならば、救われて当然の結果なのに、そこまでは話さなかったと言う事か」
「そう、彼は自分の娘の為に、国ごと全てを騙したんだ」
「それで? 彼がそうしてまで手に入れた報酬は?」
「それが、思った以上に安いものさ」リュートは溜め息を吐き出しながら言った。
「彼が望んだものは、彼自身の安全な未来さ。富も名誉も何も要らないから、私に安全かつ新しい人生を用意してくれと、そう願った」
「新しい人生だって? どうやって?」
「だから……彼は殺されたのさ。アレクシス・ガードナーは誰もが知る程大々的に、公開処刑をされた。おかげでもう、彼――プロフェッサーは、未来永劫誰からも命を狙われなくなる言う事になる」
「なるほど、死人を殺そうとする奴はいない。つまり彼はそうする事によって、全く新しい別の人間の人生を送れると言う事か」
「その通り。そしてきっと大統領も、一も二もなくそれを承諾したと思うよ。――筋書きはこうさ。大統領の命を狙った“エイティ・アデプタム教団”は、それを事前に知って阻止をしたアレクシス・ガードナー氏の方に矛先を向ける。同時にガードナーはいくつもの予言の嘘を暴き立てられ、国を追われる身となった。そうして逃亡した先の国外で彼は教団に掴まり、処刑されたと。これで全て、一件落着さ」
「だが実際は、彼の予言の嘘などなかったし、処刑された事実も無い。うまい事、彼は全てから逃げおおせた訳か」
「その通り」
 リュートがそう言った途端、「いや、待て!」と、ヴルジュは叫んだ。
「一体何に? 彼は一体何をして、何に追われて新しい人生を望んだ? 聞く限りでは、彼は全く追われるであろう相手もその理由も見付からない。なのに彼は何を恐れて、何から逃げようとしていたんだい?」
「それはきっと……先程少しだけ話した、“空白の未来”の事だと思うよ。彼はそれを恐れていた。視えない未来に、一体何があるのか」
「未来から逃げようとしたのか。やはり愚かな男だな」
「そうだね。人は過去からも、未来からも逃げられない」
「……今のは何か厭味か、リュート?」
「いいや、何も他意は無いよ」
「それで、その未来と言うのはいつの事なんだい? 彼はまだそれから逃げようとしているのかい?」
「いや、もうその時期は過ぎた。結局、“視えない”と言う原因は、もうその辺りから彼の力が無くなる事を意味していた訳だ」
「あぁ、そうか。彼がこの石を手放した時期が、その“空白”か」
「……」
「だがやはりまだ判らない。視えない未来に恐れを抱いた事までは判ったが、それで今度は、自分の娘を守ろうとするのはどう繋がるんだい?」
「それは――。実際に視ようか?」リュートは提案する。
「もうここからは僕が説明するよりも、ずっと早いと思うよ。翔んでもらえないかな、ヴルジュ」
「いいが……気が乗らないな」
「どうして?」
「この石だよ。もうこれは私のものじゃないと思った途端、嫌気がさしてね」
「返さなきゃいいじゃないか」
 言ってリュートが笑うと、「そうはいかない」と、ヴルジュは不機嫌そうに返した。
「私は、本来あるべき自分に戻るつもりだよ。そうなったら今のこの生活は大きく変わるだろうし、きっと君も来てはくれなくなるだろうけど」
「そう言う事は言うなよ、ヴルジュ」
「もういいや、この話はもう終わりだ」
「ヴルジュ」
「うるさい。では翔ぼう。まずはどこに行けばいい?」
「――新暦二百九十二年。十一日、オクトーバー、午後の二時。場所は、ここだ」
 そう言って差し出したのは先程の写真。ガードナーが依頼者の手を握り、中央で写っている例のものだった。
「住所はその裏に書いてある。翔べるかい?」
「オーケーだ、さっさと終わらそう」
 二人が天眼石に手を置く。同時にまた、ぶぅぅぅぅぅんと言う振動音。
「ちなみにこれは何の日なんだ、リュート」
「あぁ、ガードナー氏が大統領の暗殺を未然に防いだその三日後だ」
「何かあるのか?」
「もちろん。それが彼の言う、“空白の未来”に当たる日だ」
「ふぅん……それは我々には見えるのかね」
「さぁて、視てみない事には判らないけどね」
 心象(ヴィジョン)が始まる。殺風景で、やけに天井の高い屋敷の部屋の一室。眼下にガードナーを見降ろすようにして、二人はそこに現れた。
「おいおい、まさにこの写真の通りの光景じゃないか。客である女性にも見覚えがある」
「そのようだね。僕達と同じような恰好で予言――いや、“心象(ヴィジョン)”を視ていると言った方がいいのかな」
「視て……いるのか? どうにもちょっとおかしいぞ。もしも本当に私達と同じようにして“心象(ヴィジョン)”が始まっているのだとしたら、客はもっと動揺する筈だと思うんだがね」
「なるほどね。じゃあ客だけには、“視えて”いないのかも知れないね」
「あぁ、しかももっとおかしい事がある。――彼は、“石”を触っていない」
 ヴルジュが言ったと同時に、部屋が白く光った。見ればどうやら部屋の隅で、誰かが写真を撮ったようだった。
「へぇ、あれがこの写真になるのか。面白いねぇ」
「どうでもいいよ。それで、空白はどの辺りで始まるんだ?」
 ヴルジュが呟くと、突然何かに気付いたかのようにして、ガードナーが宙を見上げるのが見えた。
「もしかして、この音に気付いたかな?」
「そうらしいね。きっと何度も聞いた音だろうから、敏感なんじゃないかな」
「何度もって……過去に一度、雪山で聞いただけだろう?」
 その時だった。ガードナーは掴んだ客の手を振り払い、椅子を倒して立ち上がった。
「何が起きた?」
 ヴルジュの問いに、「しっ、黙って」と、リュートは人差し指を唇に当てる。
 どうやらガードナーは何かを叫び、予言を取りやめ客達を追い払っているかのように見えた。
 ドアが開かれ、驚愕の顔付きで客や傍観者達が三々五々と散って行く。そして先程写真を撮った男性もまた部屋から追い出され、そこに残ったのはガードナー独りだけとなった。
「リュート、やっぱりだ。石が無い。どこにも石が無いんだ」
「本当だね。あるべき筈のものが見当たらない」
 リュートは何を思うか、どこか楽しそうにそう言った。
 ガードナーは宙を見上げ、尚も孤独に何かを叫ぶ。どうやらそれはリュートとヴルジュに向けてのメッセージらしいのだが、生憎声は聞こえないばかりか、彼はやたらと見当違いな場所に向かって手を振り上げていた。
「どうするんだ? まだ続けて視るのか?」
「あぁ、多分もう少しで事態は動くと思うんだ」
 そしてひとしきり何かを叫んだ後、ガードナーは急いでテーブルに駆け寄った。
 テーブルクロスを剥ぎ取り、手荒に乱暴にドアのロックを外し、そして――。
「おい、まさか……」
「あぁ、思った通りだ。やはり、“人”だった」
 転げるようにして、開いたドアから女性が一人、姿を現した。
「あれは、夫人か? 何て言ったっけ? カティ……あぁ、カティ・ガードナーか。彼女は一体、あんな所で何をしていた?」
 ヴルジュの問いにリュートは答えず、ただ黙って一点を差し、「破水した様子だね」と呟いた。
「破水? ――そう言えばお腹が大きいな。産気付いたのか?」
「そのようだね。どうやらあの中に彼女がいる事を、ガードナー氏は知られたくなかったらしい」
「どうでもいいが、あの箱の中の汚れが何なのかはこれで判ったわけだ。尤も、それが大した進展とも思えないけどね」
「そうとも言えないかもよ。逆に考えるんだ、ヴルジュ。どうして夫人は、あの箱の中にいなければならなかったんだい?」
「そんな事知るか。私に推理させたって、彼女が夫の予言の手助けをしていたってな程度しか思い浮かべる事は出来ないよ」
「いい勘じゃないか。僕もそう思ったよ」
「――馬鹿にしているのか、リュート。彼女にどんな手助けが出来ると言うんだ?」
「さぁねぇ。少なくとも、あの箱に開いた小さな窓から、何かを夫に触らせる事ぐらいなら出来たかと思うけど」
「――“石”か!?」そう言ってヴルジュは目を凝らす。
「いや、無いぞ。やはり石はどこにも無い。どうして? “心象(ヴィジョン)”を視る為には必要不可欠なものが、どうしてここには無い!?」
「うん、僕には判らないな」
 リュートは笑う。
「嘘を言え、リュート。君はもうほとんど全てを知っていてそんな軽口を叩いているんだろう? どうしていつもいつも、そんな感じで解答をはぐらかす?」
「判らないものは判らないよ。――あぁ、どうやら二人は車で移動するらしい。追い掛けるぞ、ヴルジュ」
 二人の後をつけ、裏口から外へと向かう。外は今にも降り出しそうな曇り空。リュートとヴルジュは空からそれを見降ろしながら、発進した車を追い掛け始めた。
「ペテン師であっても、人の夫であり、人の親……か。羨ましいな」
 呟くヴルジュ。リュートは何も答えない。
 やがて天からぽつりぽつりと、雨が降り始めて来た。次第に雨量は増して行き、遠くに霞むビルディングの暗い影の向こうに、鮮烈な稲光が見え隠れし始めた。
「まるで現実の天気と同じだね」
 リュートは言う。
「――あぁ、確かにね」と、ヴルジュ。
「なぁ、教えてくれリュート。ガードナー氏は、あの窓から一体何に触れていたんだい? そしてどうして夫人はあの中にいなければならなかったんだい? もう君には予想は付いているんだろう?」
「まぁ、そこそこはね」
 信号を無視し、器用に車を避けながら交差点へと突っ込むガードナーの車を、心配そうに見守りつつリュートは言った。
「僕が思うには、あの窓から触れていたのは夫人の掌じゃないかなと。それならば君の疑問二つ、同時に満足するんじゃないかい?」
「いや、ならば何故、彼女の掌でなければならない? 石は? 石の存在は一体どこへ?」
 車は、濡れた路面を水しぶき上げながら激走する。リュート達は尚もそれを追う。やがて車はメインストレートを折れ、裏の通りの狭い道へと進入する。
「ヴルジュ、先程と同じだ。逆から考えるんだ。石はどう見てもあの場所には無かった。ならばあの石は、実際には無くても構わないものだとは思えないかい? 実際にガードナー氏が必要としたものは、夫人の方ではないのだろうかと思わないかい?」
「判らないぞ、リュート」ヴルジュは声を荒げた。
「ならばどうして彼は私にこの石を託した? どうして彼はその能力を無くした? そして夫人に……夫人には一体、どんな役目があると言うんだ? 一つの答えを聞く度に、更に多くの疑問が湧き出て来るのはどう言う訳なんだ?」
「――後にしよう。どうやら着いたようだよ」
 車は一軒の個人病院の前で停まる。事前に連絡は受けていたらしく、その玄関先には白衣の医師と看護師の姿があった。
 傘を差し、夫人を迎え入れる。ガードナー氏を最後に、病院のドアは閉まる。
「どうするんだい、リュート。出産にも立ち会うつもりかい?」
「いや、そこは飛ばそう。時間を少し早送りしてから覗いてみようか」
 そうして時間を翔び、玄関をすり抜けたその先に、病室のドアの前に佇むガードナー氏の姿。
「産まれたのかい?」
「どうやらその様子だね。ちょうど、彼が中に招かれる所だ」
 二人は、後に続いた。
 分娩室の手前で、白衣の医師がガードナーに何かを話し掛ける。内容はまるで判らないが、その真剣な表情に事の深刻さがうかがえる。
「……何があったんだい?」
「きっと見ていれば判るさ」
 二人は小さなベッドへと歩み寄る。白いタオルケットに包まれた小さな新生児。女性看護師がそれをそっと、ガードナーに手渡す。
「凄いな、生命の神秘だ。お世辞にも可愛いとは言えないが、あんなに小さくても生きてるんだ。素晴らしい事だな」
「――あぁ、確かに」
「なんだいリュート、気の無い返事だな。あれはいずれ、君の依頼者になる人だろう? 何を嫌な顔しているんだい」
「まぁ、確かにそうなんだが……」
 ガードナーは重い足取りで、妻が待っているだろう白いカーテンの方へと向かった。
 閉じられたカーテンを開く。ベッドには、身を起こし、疲れた顔をした夫人の姿。
 夫人の顔に笑みが差す。我が子を抱かせろとばかりに、ゆっくりと手を伸ばす。そうしてその子を胸に抱き、夫人は一筋の涙を流した。
「――羨ましいな」
 ヴルジュの呟きに、「何が?」と、リュートは聞いた。
「何がって、全てさ。きっと私には永久に縁の無い世界だ。羨ましいし、妬ましいに決まっている」
「……」
 ふと、ガードナーの横に白衣の医師が立った。そして夫人に何かの説明を始めると、次第に夫人の表情が曇り始めた。
 夫人は説明の間、幾度も医師と赤子の顔を見比べるように視線を移動させ、そしてしまいには口を押えて泣き出した。
「何だ? 何があったんだ、リュート」
 ヴルジュは叫ぶ。夫人は何かを呟きながら、大きな黒い痣のある左手で赤子の頬を撫でていた。
「間もなく、この子は亡くなる」
 リュートは、重い声でそう告げた。
「――なんだって?」
「亡くなる、と言った。それもそう長い事じゃない。きっと後、数十分と生きてはいられない事だろう」
「どうして? 何故!?」
「今に判るよ。ほら、見てごらん」
 指を差す。そこには赤子を包んだタオルケットを脱がせる夫人の姿。やがて赤子はすっかりと全てを剥ぎ取られ、裸となっていた。
「何が? どこがおかしい? どこにこの子が亡くなる要素があると言うんだ?」
 尚もヴルジュは、声を荒げて問う。そして、やがてそれは現れた。
 医師の手が、赤子の身体を横に傾ける。右手の下側、脇腹から背中へとかけたその辺りに、それはあった。
「――腕、か?」
「あぁ、そうだね」
「あ……あれはなんだ? その上に見える、あの……あの……」
 夫人が掌で顔を覆う。ガードナーもまたその横で、見たくないかのように顔を背けた。
 そこにあったのは、“もう一つの赤子の顔”であった。
 赤子の背中に現れた、小さな腕と人面瘡(じんめんそう)。それはさながら、顔の表面と腕の一本だけを残し、壁に塗り込められた人のようにも見えた。
「これは、結合双生児と言う奴か?」
 ヴルジュの言葉に、「そうだね」と、リュートは頷く。
「気の毒な事だ。この夫婦は昔に一度子供を亡くし、そして今また、産まれたばかりの子供を亡くそうとしている」
「何故だ? 二頭体の子供なんて時々生まれて来るじゃないか。しかも結構大きくなるまでその状態のままで」
「あぁ、そうだね。でもこの子のケースはちょっと特殊でね。――この背中側の子は、最初から命が存在していなかった。産まれる前から死んだ状態だったんだ」
「……なんだって?」
「そして運の悪い事に、片側の子は生きていると言うのに、死産だった子の為に臓器のいくつかが活動を停めてしまった。従って、生きているこの子もまた、間もなく死を迎える事となる」
「――なんて事だ」
 見れば既に赤子の息は細く、今にもその活動を停めようとしているかのようにさえ見える。
 カティは涙を拭った手で赤子の頭をさすり、頬をさすり、そして小さな掌を握り締める。それはさながら、別れを告げる為の儀式にさえ感じられた。
「なぁリュート、私にはもう判らないよ。どうして今ここで死ぬ赤子が、その未来で君と出逢う? この話はあまりにも複雑過ぎて、私の脳内では全く繋がる気配が無い」
「いや、繋がるさ」リュートは、どこか愉快そうな響きのある声でそう告げた。
「さぁ、注目しようじゃないか。実は今、僕達はとんでもない奇跡の前にいるんだよ。これは途轍もなく幸福で、光栄な事だと思わないかい?」
「奇跡? 何がどうだって言うんだい、リュート。本当に君って奴は訳が判らない事ばかり――」
「シッ!」
 リュートが人差し指を唇に当てる。そして、その“奇跡”は起きた。
 子供の背中から突き出ている、更に小さな左腕。カティはその手に触れ、そしてまた一つ大きな涙をこぼした。
 刹那、そのカティの左手の甲にあった大きな黒い痣が、そのまま“黒い影”となって浮き出たかのように具現化すると、その何本もの触手を駆使して素早く“影”は移動する。
 カティの左の腕から、突き出た背中の左の腕へ――と。
 手を引き、飛び退くカティ。同時にヴルジュが声を上げた。
「あれは……“守護者(ガーディアン)”!」
 その蜘蛛の化け物のような“黒い影”は、左の腕を伝って背中に浮き出た赤子の顔の上へと飛び乗る。そうして皆が見ているその前で、“黒い影”は死んだ赤子の唇をこじ開けて――。
「!!!」
 ヴルジュが自らの口を押え、声にならない悲鳴を上げた。“黒い影”は、スルリとその赤子の口の中へと潜り込み、そして静かに唇は閉じられた。
「リュ……リュート」
「心配ないよ。黙って見ていてごらん」
 途端、異変は起きた。背中に浮き出た赤子の顔に、静かに赤味が差したかと思えば、その目がゆっくりと開き始める。そして――。
「うそ……だろう? 一体何が起きている!?」
 赤子は、自らの意志で動き始めた。
 小さな左腕は宙を掻くように足掻き、そして瘤に見えたその顔は今やはっきりと見てとれる程に浮き上がり、外へと向けて伸び出した。
 やがてそこに首が現れ、肩が現れ、突き出た左腕がそこに繋がる。そう、その赤子は、もう一人の自分の身体から抜け出ようとしていたのだ。
 そしてもう一人の赤子にも、変化が現れた。先程まで息の絶え絶えだった筈の唇が大きく開き、顔を真っ赤にして泣き始める。もちろんリュートとヴルジュの耳に伝わりはしないが、その必死さは場の空気を通して伝わって来るようだった。
「馬鹿な……有り得ない。有り得ないよ、リュート。生物としての、いや物理の法則すら無視をした無茶苦茶さじゃないか!」
「そうだね。これを“人間”としての領域で見たら、あまりにも荒唐無稽な話だろうね」
「何をのんきな事を言っているんだ。今、私達が見ているのは過去に起きた本当の出来事の筈だろう?」
「そうだね。それが何か?」
「何か……じゃないよ。君はまさか、この全てをありのまま受け入れるつもりかい?」
 目の前で、赤子は今にも分離しようかと言う勢いで動いていた。やがて背中から抜け出ようとしているその赤子もまた、顔を真っ赤にして顰め、泣き始めた。
「受け入れるもなにも、これは事実だよヴルジュ」
「しかし……しかしこんな事、有り得る筈がない」
「どうして? 僕から見たら、君の持つこの能力だって同じぐらいのレベルで奇跡だと思うんだけどね」
「いや、一緒にしないでくれ。これは決して私が持つ能力なんかではなく……」
 言い掛けた所で、ヴルジュは言葉を飲んだ。
 今まさに、皆が見ているその前で、一つの身体が二つに分離を果たしたのだ。
 それは僅か一瞬の出来事だった。そして誰もが予測出来なかっただろう結果だった。
 抜け出て来た赤子は、胸から下が無かった。肩が現れ、胸が現れ、そして更にそこから下半身が出現するだろうと見ていた皆の前で、その赤子はその期待を裏切るかのようにして、中途半端のままに分離を終わらせたのだ。
 その異常なまでの体躯の赤子は、もぞもぞと身体を揺らしながら尚も自らを成形するかのように細かい蠕動を繰り返し、やがていくつかの人体の一部をでたらめな位置に生やした後、その動きを止めた。
「リュート……」
「……」
「なぁ、リュート。あれは……まさかとは思うが……」
「あぁ、そうだね。あれはきっと間違いなく君だ」
 異形な姿のその赤子は、生きている事を誇示しているかの如く、懸命に泣いた。未熟な腕で宙を掻き、顔を真っ赤にさせて泣き続けていた。
 それを見ながらヴルジュは何を思うのか、自らの喉の辺りを押さえながら黙り込む。
「――どこか苦しいのかい、ヴルジュ」
 リュートが聞くと、「あぁ、そんな気分だ」とヴルジュは答えた。
「ようやく全ての辻褄が合った気がするよ。要するに、彼女の左腕から抜け出て私の体内へと入り込んだ“守護者(ガーディアン)”のおかげで、私は生き長らえている。そう言う事なんだな?」
「いや……違うと思うけどね」
「何が違う? 君だって見ただろう、あの黒い蜘蛛のようなモンスターの姿を!」
「見たけど、やはり僕の意見は全然違う」
「何がどう違うって言うんだ!」
「何度も言うようだが、背中側から飛び出していたあの赤子は、既に死んでいた。最初から生命の無い子供だったんだ。だから君がそうして生きていると言う事は、前提がまるで違う」
「何がだ。要するに“守護者(ガーディアン)”の力で私は生き返った。そう言う事だろう?」
「だから、違うんだって。君は根本的に大きな間違いをしている。どうして君は、あの蜘蛛のような異形を“守護者(ガーディアン)”だと思い込んでいるんだい?」
「――違うと言うのか? じゃああれは一体……」
 その時だった。二人が見ているその目の前で、カティがそっと腕を伸ばす。そしてカティは、寝ている“二人の子供”の片側、赤子のヴルジュの方を抱き上げて、そして今度こそ大粒の涙を流し始めた。
「凄いね。彼女は一番最初に、君を抱き締めた」
「……」
 カティは何かを呟く。声となってそれを聞き取る事は無理だったが、その唇が何を呟くのかは見て判った。それは何度も何度も繰り返される、「Dank u.(ありがとう)」だった。
「そろそろ認めるんだ、ヴルジュ。君は決して、望まれず産まれた訳でも、捨てられた訳でもないんだよ。むしろ君の予想とはまるで逆だ。君の両親は君を愛するあまり、全てを捨ててまで君を守った。それが真実なんだ」
「何故? 私は……私はただのモンスターではないのか? あの異形が憑りついた、人でない怪物じゃあないのかい!?」
 聞いてリュートは首を振る。限りなく優しい笑顔で、静かに首を横に振る。
「まだ判らないのかい。君は――君こそが、“Caleidoscopio 0-Dimensiva(零次元の万華鏡)”さ。古代の神々が創り出した、今尚この世界に残る奇跡の一つ。それが、君なんだ」

 *

 ぶぅんと一つ、大きな音を立てて“心象(ヴィジョン)”が終わる。
 いつの間に淹れたのだろう、二人の目の前には香りの良い珈琲がソーサーに載って置かれていた。
「――ありがとう、ジャン」
 言うとジャンセンは静かに、「どういたしまして」とうつむき加減に微笑んだ。
 外は、既に雨が上がったのだろう。開けたカーテン越しに、夕焼けに近い朱色の陽の光が室内を染め上げていた。
「今日は疲れたよ、リュート」
 言われてリュートは、「そりゃあそうだろうね」と、適当な言葉を返した。
 しばらくは、無言のままで珈琲を啜る二人だったが、ヴルジュは突然思い出したかのように口を開いた。
「君は……私が女だと言う事には気付いていたのかい?」
 聞かれてリュートは、驚いたかのような表情で、「むしろ気付かれていなかったとでも言うつもりかい?」と言い返した。
「いつから気付いていたんだ。こっちはなるべく気を使っていたと言うのに」
「いつからって――最初からさ。まさか隠しているつもりになっていたとは、思いもしなかったよ」
「嫌な奴だな」ヴルジュは笑う。
「私はこれでも、女としての最低限のプライドはあったんだよ。こんな醜い姿のまま女でいる事は、どうしても許せなかった」
「だから隠した? 声を変え、男のような口調で喋り、わざと短気を装って――かい?」
「短気なのは持ち前の性格だよ」ヴルジュは言った。
「でも……だからか。いつも私を見ては“美しい”と世辞を言うのは。どうしてもそれが不思議でならなかったが、ようやくその理由が判ったよ。やはり君は、天然で無節操なプレイボーイだな。女に対しての口の上手さは折り紙付きだ」
「よしてくれ。そう言う意味じゃないぞ」リュートは言い返す。
「純粋に、奇跡たる君の存在に美しさを感じていたんだ。だってそうだろう? この世の中で、“人類”と言うものを生成させたのは、神を除けば世界中で君、たった一人だけなんだ。そんな奇跡を目の当たりにして美しさを感じずにいられる程、僕は鈍感ではないと自負しているしね」
「ハハッ、君の口説きのテクニック、片鱗だけでも感じる事が出来て光栄だよ」
「ヴルジュ、真面目に聞けよ」
「聞いてるさ。ところで……私の姉である彼女は元気にしているのかい? 彼女は本気で、私に逢いたがっているのかい?」
「当たり前だよ。もちろん逢いたがっているのは彼女だけじゃない。君の両親はそれ以上さ」
「そうですね。いつも旦那様の事を聞きたがり、電話を掛けて来られます」
 そこにジャンセンが口を挟んだ。
「電話って……誰が?」
「もちろん、アレクシス・ガードナー氏。お父様からですよ」
 聞いてヴルジュは口を半開きにさせる。そしてジャンセンは尚も畳み掛けるかのように、「週に一度は連絡を取って来られますよ」と、笑った。
「体調はどうだとか、どんな仕事をしているんだとか、機嫌はいいのか悪いのか等々、どんな些細な事でも聞きたがります。きっとご心配なさっているんでしょうね」
「――初耳だぞ、ジャンセン。まさか君が私の両親を知っているだなんて、考えもしなかった」
「左様ですか。どうやら私は、あなたよりは芝居が上手いらしい」
 同時にリュートが笑った。そしてヴルジュは、更に不機嫌な顔付きとなった。
「気に掛けているのなら――逢いに来ればいいだろうに」
 ヴルジュが言うと、「そうも行かないでしょう」と、ジャンセンは返す。
「あなたと言う存在を完全に隠し切る為とは言え、まだ幼いあなたと離れて暮らす決心をしたのですから。きっと向こうにしてみれば、自分らの都合で離れてみたり逢ってみたりは失礼だと思っているのでしょう」
「下らない意地だな。本当はもう忘れかけているんじゃないのかい」
「そんな訳はないでしょう。ならばどうして毎年、あなたの誕生日にその“石”が届くのですか」
 言われてヴルジュは振り返る。座る椅子の背もたれの縁に嵌められた何十個もの天眼石。それを見て、小さな溜め息を吐き出した。
 そうしてヴルジュは左手で天眼石をもてあそびながら、「結局、これは一体なんなんだ」と、リュートに聞く。
「それは多分、“憑代(よりしろ)”みたいなものなんじゃないかなぁ」
「憑代? 憑代とはなんだ?」
「君にとってのお守りみたいなものさ。無くても困らないが、あれば落ち着く程度の、そう言う類のものだと思うよ」
「なるほど。じゃあ我々は勝手に、これが万華鏡だと勘違いしていた訳か」
「その通りだね」
「いや、ちょっと待てリュート。なら、“守護者(ガーディアン)”とはなんだ? 結局、そんな存在はただの一度も現れなかったじゃないか」
「そうかい?」
 リュートは意味深な笑みをもらす。
「そうかいじゃないよ、君は何が“守護者(ガーディアン)”なのか判っているのか?」
「あぁ、もちろん。それに“守護者”ならさっきから何度も登場しているんだけどね」
 言われてヴルジュは考え込むような表情となったが、すぐに、「わからないな」と呟いた。
「判らなくて当然さ。君にはまるで見えてなかったからね。“心象(ヴィジョン)”の最中、あの山の裂け目の洞窟の中や、カティが運ばれた病室の中等、守護者の姿は常に君の傍にあった。――ただ見えないだけさ。君と、そして君に対して脅威の心配がなさそうな人にはね」
 言われてジャンセンが何かに気付いたかのように顔を上げた。ヴルジュにはそれが何か判ってはいないらしく、再び険しい顔となった。
「どうやら僕はまだ、君の脅威となる心配のある人間らしいね。でも、素晴らしいじゃないか。君の両親と一緒で、見えずとも君を守り続けている」
「……」
「知ってるかい、ヴルジュ」リュートが続ける。
「北欧の神話に、“運命”をつかさどる女神がいる。過去を占い、人の運命に指針を与えると言うそんな女神だ。――名前を、“ウルズ”と言う」
「――ウルズ?」
 リュートは優しく微笑みながら、「君の名前は、お父さんが付けたんだよ」と、付け加えた。
 ヴルジュは少しの沈黙の後、「ハッ」と一言笑い、腕を振った。
「もういい、この話はこれで終わりにしよう」
「ヴルジュ」
 諌めようとばかりに立ち上がるリュートを上げた左腕で制し、ヴルジュは言った。
「リュート。申し訳ないが今夜の約束はキャンセルにしてくれないか。どうにも今日は、楽しいディナーにはなりそうにもないのでね」
「ヴルジュ……」
「感傷的なのは好きじゃないんだ」ヴルジュは苦笑交じりにそう言った。
「どう考えたって、今夜話す事と言ったらこの話題ばかりになるだろう。悪いが私は、友人とのディナーは楽しくないと許せない性質でね」
「面倒臭い性質だな」
 言うとヴルジュは、「神なんて皆そんなものだろう」と笑った。
「確かにね」
 リュートも笑う。
「それに……やらなきゃいけない事もあるんだ」
 ヴルジュは呟く。
「これをやろう、リュート」ヴルジュは何を思ったか、リュートの前に愛用の天眼石を押し出した。
「君が探し求めていたものとは若干違うが、それでも充分に価値のある物には違いない」
「いや……ヴルジュ、これは……」
「いいから持って行きたまえ。もう私には必要無い」
「しかし……」
「私にとって必要なものは、既にある」ヴルジュは笑う。
「早く埋めておきたいんだ。私が勝手に掘ってしまっていただろう溝の全てを。――判ってくれるだろう、リュート」
「あぁ、判るさ。今はとても、僕と言う人間が邪魔だと言う事もね」
「理解してくれているなら宜しい。――また逢おう、友よ」
 そう言って差し出した天眼石を、今度こそリュートはしっかりと受け取る。そして軽くヴルジュの手を握り、そして部屋を出て行こうとした。
「そうだ、ヴルジュ!」突然、リュートは振り向く。
「君がその容姿を気に入っていないのは判った。なら、今一度挑戦してみたらどうなんだい? 君は自らのその細胞を変化させ、生成させる事が可能な筈じゃないか。今からでも、自分が望む姿へと変われるかも知れない」
 言うとヴルジュは自らの身体を見降ろし、そして告げた。
「いや、やめておくよ。今はまだこのままでいい。少なくともこんな私を、綺麗だと言ってくれた友人と――」
 一度、言葉を切り、そしてヴルジュは、「最愛なる人の為にね」と、そう言った。
 指を鳴らし、「オーケー」とウインクをして、リュートは部屋のドアを開ける。そしてそれに続き、ジャンセンが見送りに出て行った。
 誰もいなくなった部屋の中、ヴルジュはそっと自らの目を押さえ、そして静かに泣き出した。果たしてその胸中に何を潜めているのだろうか。静かに、ただ静かにヴルジュは声を殺して泣くだけだった。

 *

「クロフォード様」
 呼び止められてリュートは振り向く。暗い廊下の中、僅かばかりの距離を置いてリュートとジャンセンは向き合った。
「あぁ、ジャンセンさん。お気遣いなく。一人で帰れますので、見送りは結構ですよ」
「しかし……」
「いてあげて下さい」リュートは言った。
「今はあなたの力が必要です。いてあげて下さい、彼女が立ち直るまで」
「あなたは――」ジャンセンは苦笑交じりに話し出した。
「あなたは一体、どこからどこまでを知っておいでなのですか。少なくとも私が知っている事、そして彼女が知っている事、更には彼女ですら覗けないそんな過去すらも知り得ている。どうして……どうやってそんな情報を、あなたは仕入れる事が出来るのですか」
 ハハハと笑い、そしてリュートは、「“好奇心の猫”ですからね」と、なんの説明にもなっていない言葉を返した。
 そっと、ジャンセンの腕が伸びる。彼はリュートに向けて自らの右手を伸ばした後、「握手……していただけますか」と、そう聞いた。
「光栄です」
 リュートはそれを握り返し、そして一言、「彼女をよろしく」と、ジャンセンに告げた。
「では」と、去って行く後ろ姿を見送りながら、「足元にお気を付けて」と、ジャンセンは声を掛ける。だがリュートはそれに返事をする事もせず、ただ軽く親指を立ててみせながら長い長い廊下の暗がりに溶け込んで行ってしまった。
「本当に、どこまでを知っているやら」
 小さな声で悪態を吐き、ジャンセンは笑いながらドアを開ける。そうして部屋へと戻ると、腕に顔を埋めて咽び泣いているヴルジュの姿があった。
「どうした、ヴルジュ」
 聞けばヴルジュは真っ赤な目をしながら、「ニルス」と、ジャンセンをそう呼んだ。
 乱暴にジャンセンの袖を引き、その胸の中に顔を埋めるようにして抱き付くヴルジュ。そうしてしばらくの間をそうやって過ごす二人だったが、やがてヴルジュの方から彼を離せば、「いつから君は、私の秘密を知っていた?」と、聞いた。
「それは……ずっと前から。まだ私が、子供の頃からだね」
「――嫌な奴だね、君は」
 そう言ってヴルジュは、「石を取ってくれ」と、ジャンセンに命じた。
「どれを?」
「どれでもいいさ。なんなら石でなくても構わない」
「なら、いいのがある」
 ジャンセンは指を立てながら、厳重に包装された箱を部屋の隅から持って来た。
「なんだい、それは」
「琥珀だよ」
 ジャンセンは言う。
「琥珀? 君にしては随分とマイナーな石を出して来るもんだな」
「そう言うなよ、きっと気に入る」
 そう言って箱から取り出したその巨大な琥珀には、“異形”が詰まっていた。
「――それは?」
「蜘蛛だよ。多分、古代の土蜘蛛の一種だろう。ここまで大きく、ここまで綺麗に現存する蜘蛛の琥珀なんてそうそう見付からないぞ」
 言って、それをヴルジュの目の前に置く。するとヴルジュは、「良かった」と、小さく呟いた。
「良かった? 何が?」
「君とはセンスが合うからさ」
 ヴルジュは笑う。そしてジャンセンもまた――。
「さて、僕は引っ込もうかな。少々忙しくなりそうだ」
 そう言って部屋を出て行こうとするジャンセンに、「あぁ、私もだ」と、ヴルジュは琥珀に手をかざしながらそう告げた。
 いつの間にか夜が訪れていたのだろう、部屋には静かに闇が立ち込めていた。
 部屋の灯りを点けようと手を伸ばしたジャンセンだったが、ふとヴルジュを振り返り、結局は何もしないまま部屋を出た。
 ぶぅぅぅぅぅん―― 振動音が唸り出す。机の上の琥珀が、やがて仄かに輝き始めた。

 ドアを閉め、ジャンセンは胸ポケットからセルラーフォンを取り出すと、すぐに慣れた手付きでどこかへと通話を繋げる。
 暗い廊下の中、「ハロゥ」と、ジャンセンの声。
「えぇ――えぇ。ハイ。元気にしてますよ――彼女も」
 果たしてその相手は誰なのか、その声はやけに安堵した、優しい声に聞こえた。

 リュートが玄関のドアを抜けると、既に外は夜だった。
「道理で暗い訳だ」
 愛用の帽子をかぶり、レインコートを片手にドアを閉める。
 ふと見上げれば、右手に蒼白き小さな月。尖塔の屋根に掛かる、綺麗な真円の月。リュートは帽子の鍔を上げながらそれを眺め微笑むと、突然、尖塔の下の窓がぼうっと金色色に光り出す。
「……!」
 言葉にならない驚きがあった。そこに映し出されたシルエットは、まさしくこの屋敷の幽霊たるベージュのドレスの少女の姿。
 ――遠目にもその少女が、こちらを向いて笑っているのがリュートには判った。
 ふと少女は、両手でスカートの裾を掴み、ダンスの前のような礼をする。そしてリュートはそれを受け、帽子を胸に英国式の礼を返した。
 顔を上げると、既に少女の姿は無かった。ただ、蒼い月に照らされる尖塔の影だけが、寂しげに浮かんでいるだけだった。



 《 エピローグ 》

「滑稽だ」
 ぼそりと呟く夫の背中を見詰め、カティは息を切らせながらも、「何がですか」と問い掛けた。
「何がって……」男が振り向く。
「何もかもだよ。――私は今、ここで何をしているんだ? こんなに雄大で素晴らしい景色を目の前にしながら、なんて馬鹿げた目的で、馬鹿な行動をしている?」
「あら、馬鹿げているんですか?」
 カティはそう言いながら、ゴーグルを外した。
「もちろんさ。特に馬鹿げているのは、事もあろうにこの私自身なんだがね」
 そう言って、男もゴーグルを外す。そこから現れたのは、端正な顔立ちの若かりしアレクシス・ガードナーだった。
 スヴァールバル諸島、とある雪山の尾根の上。二人は、そんな場所にいた。
「だから、何が滑稽なんですか」
 尚もカティが苦笑を洩らしながらそう聞けば、「私の愚かさを自嘲しているんだよ」と、アレクシスは言った。
「私は何をしにここに来たんだい? この素晴らしき世界の美しさを確認する為か? それともこの諸島の徒歩による完全制覇? もちろん、そのどちらでもない。愚かにも私は、この雪山のどこかへと眠っているであろう神々の遺産を探しに来たらしい。――あぁ、なんと言う愚考か。なんと言う滑稽さか。学問と探究心は感動すらも麻痺させる、毒薬のような存在だ」
 言い終わる前に、カティは両手で自らの口を押え、大笑いをし始めた。
「何を笑っているんだい」
 後ろを振り返り、アレクシスは聞いた。
「いえ……なんか」
「なんか、なんだね?」
「なんか、あなたの子供はきっと、あなたみたいな大人になるんじゃないかって思っただけよ」
「――私みたいな?」アレクシスは険しい表情となった。
「それは気の毒だ。いつか出逢えるであろう我が子供が、思い付きと好奇心だけで行動し、こんな辺鄙な場所まで奇跡を探し求めて来るようなろくでもない学者とならない内に、早く私は引退をすべきだと、たった今気付かされたよ。――ちょうどいい機会だ。今回のこの調査で新たな発見が何もなかったなら、早々に転職を考えよう」
「あら、あなたは考古学から足を洗うおつもりですか?」
「もちろん」歩き出しながら、アレクシスは言った。
「今のこの世の中、必要とすべきは過去ではなく、未来にあるのではないか。私はいつからかこんな妄想に憑りつかれてしまっていてね。――もちろん過去も大事さ。だが大事であるべきは過去の真実などではなく、過去から学ぶ教訓ではないだろうか。と、まぁ、こんな具合なんだ。考古学者としては落第点な主張だろう」
 言うとカティは更に笑う。笑いながらも、「そうですね」と、返事をかえした。
「でも、だからこそあなたは、“今何が大事か”を気付けるのね。素晴らしい事だわ」
「――そうだろうか」
「えぇ、素晴らしいわ」
 アレクシスはふと立ち止まり、尾根から南の地平を眺める。そしてカティはその横に立ち、そっと夫の手を取った。
「――やはり滑稽だな」
 再びぼそりと、アレクシスは呟いた。
「またですか。一体何が滑稽だと言うの?」と、カティが聞けば、「私がだよ」と、アレクシスは言った。
「“失われた神の遺産”など、こんな雄大なる世界の奇跡に比べたら実に些細な代物だろうに、どうして私はたかがそんなものの為にこんな苦労をする? ――見付かる訳がないだろう。こんな雪に覆われた諸島のどこかに眠るであろうほんの小さな“万華鏡”など、砂漠に落とした砂の一粒にしか過ぎん。――なんて、なんて愚かな事をしているんだろう、私は」
「あら、見付からないと断定するなんて、あなたらしくもない」
「――どうして?」
「いつも言っているじゃないですか。奇跡は待ち望んでいる者の前に現れるんじゃない。それを信じて、それを探し求める者の前にこそ現れるんだって」
「確かに、そうは言ったがね……」
 その時だった。頭上、どこかの遥か遠くで、ぶぅぅぅぅぅんと言う振動音。
「……また来たな」
「えぇ、そのようですね」
 二人は顔を見上げ、その音の在り処を探る。しかし空はただ晴天なままで、何一つとしておかしな部分は見当たらない。
「あれは何の音だと思う、カティ」
「さぁ、何の音なんでしょうねぇ」
「私が思うに――」アレクシスはゴーグルを降ろし、こう言った。
「何か大事な物を守っている者が、私達を排除しようとして近付いて来ている音ではないかなと」
「まぁ」と、カティは笑う。
「私は逆よ。どこかの誰かが、私達をいざなっているんじゃないかしら」
「こんな人も住まない雪山でかい? それはそれは、考えるにかなりロマンティックだな。――それで、その招待者の名前はなんだい?」
「さぁ?」
「さぁって……中途半端な推理だね」
 話している内にその音は二人のいる位置ぐらいまで降りて来て、今度はその周りをぐるぐると旋回し始めた。
「確かに拒否されているようには思えないな。もちろん歓迎されているようにも思えないが」
「手を振ってみましょうか。何か反応するかも知れない」
「手を振るって、どこに向かって?」
「音が正面に来るわ。――ホラ、今よ」
 言われてアレクシスは右手を挙げる。同時にカティもまた、左手を振った。
「今、笑ったわ」と、カティ。
「笑った? 何が?」
「あの音の主よ。なんか――笑ったのが判ったの」
「冗談だろう?」
 音がすっと移動を始め、アレクシス達が進む方向へと向かって行った。
「まさかとは思うが……本当に案内するつもりじゃないだろうな」
「きっとそうよ。さぁ、早く行きましょう」
 カティがアレクシスの背中を押す。そしてアレクシスは慌てて歩き始めた。
 凍てつく空気はただでさえも露出した肌を痛め付けて来ようとするのだが、広い空は尚も晴天で、この雪と氷の大地が嘘であるかのように心地良い陽射しが降り注ぐ、そんな午後だった。
「カティ」アレクシスは前を歩きながら、妻の名を呼ぶ。
「私は――あの音の存在が何者なのか判ったぞ」
「あら、私も判ったわ」
「へぇ、気が合うな。やはり君も、あれこそが“神”だと思ったのかい?」
「……ちょっと違うわ」
 カティは笑った。
「じゃあ、何?」
「さぁ?」
「何だよ、教えてくれよ」
 アレクシスは尚も問い掛けるが、カティはその夫の背を追いながら、ただ楽しそうに笑い続けるだけだった。



kowloon2.jpg




《 天眼石のタリスマン 了 》





【 あとがき 】
ウィッシュバーグ家に続くテッセル島の道路名なんだが、これはちゃんと実在している。
もし良かったら、グーグルのストリートビューで確かめてくれ。もちろんその場所に、幽霊屋敷は無いんだけどさ。
とりあえず、MC50回おめでとう。叶うなら100回目の記念もお目に掛かりたいものだ。


 李九龍

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