Mistery Circle

2017-10

《 傘男 》 - 2012.07.14 Sat

《 傘男 》

 著者:ココット固いの助








夜空の月が満ちてやがて欠ける。

いわばこれはそんなひと時の短い月日の物語だ。

もしも、そんな話に題名をつけるとしたならば…俺はPCの画面のテキストに文字を打ち込んだ。

まどろみ、飢えた月、パラソルの下

「ルルルルルルルルルルルル…と受話器が鳴ったのでやって来た」

「受話器は鳴らないと思います」

「トゥルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルル…」

痩せて少し尖った顎が夜空を向いたかと思えば呼び出し音のような遠吠えを上げる。

このままだと節がついて歌にでもなりそうだと俺は片手で遮る。

「いや…言い方とか声のト-ンじゃなくて…今は真夜中なんでもう少し声控え目でお願いします」

これから死のうとする人間の言葉かよ!と心の中で俺は自分に軽く突っ込んだ。

「お前を殺す」

「ええ、それだけは確かです。殺して頂いて構いませんから」

「殺す…のである」

目の前の殺し屋?は両手をわなわな震わせて職務に前向きな意欲を見せる。

「そういう話をするために今夜は僕を呼び出したんでしょう。今すぐに僕を殺したいですか?」

「別に」

あれ?そっぽを向かれた。

歌だか遠吠えだかわからないが本人ご機嫌な深夜のハウリングを遮られて殺し屋様は気分を害したのだろうか。

「なんで急に淡白な感じになるのかなあ」

噛み合わない。ちぐはぐな会話が闇に溶ける。

けど、そんな事は俺にはどうでもいい。

殺し屋と意気投合してどうすんだって話だ。

これから飲みに行くわけじゃあるまいし。

今夜と言わず俺は死ぬのだから。

公園のベンチには宵闇の色が粗くマスキングされたペンキのように張り付き、周囲からは少しだけ湿った芝生の匂いがした。

殺し屋の視線の先を目で追えばその先に仲秋の名月。

そして満天の星空が俺の虚ろで空洞な心にも侵み入るような気がする。

そんな夜だ。

自転車を転がして辿り着いた、人気のないこの公園のベンチが俺の人生の終着駅なのか。少しだけ肌寒い。

けれど、こんな綺麗な星の夜ならそれも悪くはない、と俺は思う。

「異性と二人で連れ立ってどこかへ行くことをデートと定義するという話を聞いたことがありますが」

先程から背後に立つ、この男は死出の終列車の発車を告げに来た車掌だろうか。

俺の視界から星が消え失せ代わりに黒傘をさした漆黒のテイル姿の男の無表情な白い仮面の顔が覗いた。

傘の仮面男にもベンチの少年のような体型のやつにも俺は初見のはずだった。けれど、この黒黒ずくめの方にはどこか見覚えがある。

確か以前に俺はこの男を見かけた事がある、という記憶があった。

しかしそれは今、さしたる問題ではない気がした。

白磁の仮面は神話の女神のように穏やかな微笑みだけを浮かべていた。これはデスマスクというやつなのか?

俺は男の仮面を見上げて言ったのだ。

「デ-トの約束はしていない。君らはビジネスの話をするために俺をここに呼び出したんじゃないのか」

「だそうだ」

男は肩をすくめて僕の隣に座った上下灰色のスエット姿のやつに声をかける。

フ-ドを目深に被ったもう1人の男は俯いたままで今はポケットに手を突っ込んだまま無言だ。

「どうやら彼は君を見てもその姿じゃいまいちときめかないらしいね。ではフ-ドをとってみてはどうかな?」

ときめきなんて今更求めてやしない。

随分場違いな事を言うやつもいたものだ。

俺は舌打ちした。

「俺が求めてるのは…」

そう言いかけて俺は思わず言葉を飲み込んだ。

月と重なる太陽の隙間から零れ出す光のケイジのようだ。

風もない街灯の下で無数の金糸が閃いた。

金色の髪と瞳がこちらを見つめていた。

「どうですか?彼女美しいでしょう」

そう俺に言った男も既に仮面を外していた。

男が外した仮面にベンチの少女はよく似ていた。

今は3つの顔が同時に俺を見つめている。

昔読んだ小説に出て来るジャズの名曲のタイトルが一瞬頭を過る。

あれは確かストレンジ・フル-ツ。

耳の奥でサックスの音が歪む。

本当は聞いた事なんてないのに。

艶消しの瞳も髪も暗色だが青白い顔をしたこの男は異邦人に間違いない。そんな風貌だった。

男の顔は少女にも今まで被っていた仮面にも少しも似てはいなかった。

俺はその時思った「ただ安らかに眠るように倒れて死にたいだけなのに…死ぬという事は一体全体こんなにも面倒な事なのか?」と。

空気も無ければ水もない。

鳥も通わぬ月に似た冷酷な現実。

それを目の当たりにして死に至る。

そんな結論を出すまで、それほど長い時間ではなかったような気がする。

しかし俺なりに苦しみぬいた時間は実際の月日の長さとは比例しない。

世の中に出て1人で生きて行く事はなまら容易い事ではないと思い知ったんだ。俺俺俺…もううんざりだ。サヨナラ俺ってな。

絶望の中でもがいた末に死に手が触れた。

触れたのは死の階に続く蔓草だった。

誰にも会わず部屋の中で1人、ひたすら死に関する文献を読み漁り辿り着いた。

暗殺請け負いのサイト。

それもまた現実から剥離したネットの匿名の誰かが立ち上げたビ-ム教みたいなジョ-クやフィクションのように思えた。

けどそれは今自分が見苦しく息をして無様に排泄を繰り返しながら暮らすこのゲロ世界の苦さとは違っていて、どこか清櫃で厳粛な甘美さを漂わせていた。

指示されるままに殺したい人間とその理由を欄に打ち込む時、キ-を叩く指先が小刻みに震えた。

畏れではない。

確かに俺は高揚していたのだ。

何日も絶食した後食べ物を口にした時に血管の隅々にまで滋養が流れるのを感じた事があるだろうか?

その時の俺はまさにそんなかんじだった。

だけど液晶の画面に時折映る自分の顔は見たくない。

消えてしまえばいいと切に願う。

スクロールする度目の前に現れる設問に次々答えた。

まるで心を許した誰かに独白をしているような気分。

個人情報の登録を済ませ最後に暗殺代行業者の標的となる人物の名を打ち込んだ。

その時の晴れやかさ!

解き放たれた爽やかな気持ちを俺は今も忘れない。

唯野彰。

標的の名前。くそなだけの最低な人生を生きる男。

俺の名前だ。

しかし殺して欲しい男の名前を入力した直後にPCの画面は突然落ちた。目の前からようやく掴みかけた蔦が消え失せた。

まるで蜘蛛の糸が目の前で切れて奈落に落ちるカンダタ。そんな気がしたんだ。

端から見ていれば滑稽なくらい俺は半狂乱になって慌てふためき、落ちたPCの電源を入れ直した。

PCは何事もなかったかのように清々しいOSの起動音とともに立ち上がりパスワードを要求する画面が目の前に現れた。

俺はさっきまで自分が除いていた暗殺請け負いサイトの履歴を探した。

けれどそのサイトの履歴やアドレスはとうとう見つける事は出来なかった。

まるで幻覚でも見ていたかのように辿り着く事が出来ない。

俺は再び絶望した。

夜が明ける前の最も暗い時刻。

俺はベッドの中に身を投げ出すようにして倒れ込んだ。

すべて灯りを消した部屋でも漆黒の闇というわけではない。

天上には先程までPCの液晶を眺めていたせいで無数の粗いの光の粒が浮遊していたし目を閉じても瞼の奥に残像は残った。

壁に取り付けられた天井照明のタッチパネルは緑の光、HDDにケ-ブルを繋いだマルチタップのスイッチはオレンジでテレビとレコーダーのOFFランプは赤…

薄闇に浮遊する光の粒子…厳密に言うと粒子じゃないが。海ホタル…夜の浜辺を歩いた経験は俺にはなくて。

したがって海ホタルも見た事はない。

俺の生まれた県に海がないわけではない。

けど俺が生まれた町は海から遠い。

夜の海はおそらく暗くてさぞや恐ろしいものだろう。

つい何でも情景を言葉に変換しようとする習慣が自然と身に染みついているようだ。

これでも俺は一応作家志望…端くれとまでも行かないが…作家志望だった。

今や海の藻屑や浜辺に打ち上げられた鍋の蓋同然のガラクタに過ぎぬ哀れな男だ。

いや男ですらないかも知れない。

「ちくしょう。何で俺だけ」

滲み出る涙と、そんな呟きが信じ難い。

俺がそんな事言うなんて。

しかしこれが今の俺。天上に向かって呪いのような言葉ばかり吐いている。現実の唯野彰の姿に他ならない。

夜の海辺を歩いた事はないけれど海のすぐ近くまでは行った記憶がある。

品川埠頭の近くの海浜公園を歩いた。

俺と善と奈緒ちゃんの3人で。

ほんのつい最近、3ヶ月前の話だった。

大学生になってすぐ知り合った善如寺誠と鏡沢奈緒。

2人とは大学のサ-クル内で知りあった間柄で善如実こと善と俺はその頃からの親友で奈緒ちゃんは…今は俺の元カノという事になる。

大学入学初日。

その日は確か空は曇っていて午後からは雨の予報だった。

構内を1人、まだ友人もなく、うろついている俺に最初に声をかけて来たのは山口泰こと山さんであった。

桜並木のある大学の正門からはずらりと様々なサ-クルや同好会の先輩たちが思い思いの手書きのボスタ-や看板を掲げて新入生の勧誘にやっきになっていた。

高校時代では認可されないような怪しげな名前のサ-クルも中にはあった。

一浪はしたけど志望の大学に無事入学出来た俺は本当に自分の力で自由を勝ち取れたような気分に少し酔っていた。

「いやいやいや君新入生だよね?」

顎や口のまわりに卑猥な無精髭。色つきのメガネ。

みすぼらしいTシャツに擦りきれたデニム。

身長こそ低いが逞しい胸板と贈答用のハムみたいな二の腕と太股。どっから見ても先輩キャラ、それも道場や部室に靴やライターを投げ込んで突然入って来るような体育会系OB剥き出しの男。

それが流氷の詩人山口泰の俺の第一印象だった。

昔から絵に描いたような病弱で繊細な文学青年気質の俺には絶対そぐわぬタイプにその時思えた。

絶対運動部の勧誘(しかもかなりハ-ド格闘技系の)に間違いなかった。絶対に関わりたくない。

ついて行ったら大学生活灰色確定だ。

「あの、僕昔から体弱くて、積ん読病読が当たり前のバリバリ文系なんで…好きな本も童話とかメルヘンとかファンタジ-が大好物の先輩みたいな硬派な方から見ればさそがしキモい…」

自分で言ってなんだが口からでまかせではない。

俺は本好きで昔から童話やファンタジーが大好きだった。

元々この大学を志望した理由だって過去にこの大学からは多くの偉大な文学者や童話作家を排出している歴史があった。

特に童話サ-クルは有名で現在活躍している新進気鋭の作家や重鎮達もこのサ-クルや文学部の出身だ。

俺は幼い頃から童話や児童文学に親しみ時々公募にも応募していた。

結果は佳作止まりだったけれど。

高校の同級生にまじり受験生として過ごす日々の中で「夢なんて特にない」なんて仲間うちでは気取っていたけど。

本当は俺の夢は童話作家になる事だったんだ。

だからこの大学に入るのは俺の憧れで童話サ-クルに入るのは一浪してでも叶えたい夢、その大切な第一歩だったんだ。

「奇遇だべさ」

無精髭で一見恐持てで浅黒い顔は東南アジアの何処かの国の白タクの運転手みたいな怪しい風貌だが。

俺はその時気づいたんだ。

茶色の色メガネの奥の瞳は睫毛がとても長くずいぶんと優しげだって事を。

「俺はまさにその童話サ-クルの勧誘してるのさ」

「ええ!?」

「嘘だろ…そのなりで」

そんな言葉が口から思わず溢れそうになる。

「我が大学の童話サ-クルへようこそ!!」

童話サ-クルへの勧誘は俺にとって願ってもない事だった。

しかし優しげな文学少女…いや女子大生の先輩とか、ねえ?

こんなレプンカムイの子孫みたいな猛々しい武闍派風の先輩の後をついて行って大丈夫だろうか?

そこにファンタジェンとか本当ににあるの?

「サ-クルに入れば童話も書き放題!ふわふわな女の子も選り取りみどりだよ~お兄さん損させないよ~」

そう言って俺の手を掴む。

隆起した二の腕筋肉の瘤が逞しい。

実は、ぽんびきとかダフ屋じゃねえのか…この人。

「我輩たちも御同伴して宜しい可?」

「お供したいで御座る」

なんだこれはアングラ劇場の桃太郎か?

俺たち2人の背後で声がしたので振り向くと見た目双子のような男2人がこちらをじとりとした目で見ていた。

手にした書類は俺が大学構内で貰った新入生のためのオリエンテーションの書類と同じものだ。

だから彼らも俺と同様大学一年生という事になる。

その書類を手にした学生を目当てに構内では今、サ-クルの勧誘活動が盛んに行われているのだ。

外観はまるで同じ。けれどよく見ると微妙に違っている。

双子ではないようだ。

2人とも長髪の黒髪に眼鏡だが1人は上下同じデニム地風のシャツとパンツ。

デニム風というのはあくまでも風であってパンツはシマムラあたりで買ったと思われる履き心地抜群と噂の、のびのびジ-ンズである。

白いスニーカーと腰にぐるりとガンベルトのように巻きつけたポシエット。

「拙者は正田清と申す」

アニメとかじゃなくて本当に世の中にいるんだ…こういう人。

「古き良き時代小説とSF小説をこよなく愛す武士。以後お見知りおきを」

武士と書いてもののふ。出来ればお見知りおきたくない。

それでも正田清という男には多少なりとも人間味が感じられた。

どこか牧歌的というか素朴な雰囲気があり顔は森のドングリみたいだ。

あと、何かに似てるんだがその時は思い出せなかった。

自らもののふを名乗るだけあってか正田清はバリトンの実にいい声をしていた。

小説家ではなくプロ声優でも目指した方が彼の将来は開けたかもしれないと今も思う。

一方「我輩の名前は高橋龍也である」そう言って前に進み出た男は尋常ではない雰囲気を醸し出していた。

外見や身長は隣にいる正田清と大差はない。

痩せ型で最近の若者にしたらやや小柄な方だろう。

しかしその痩せ方が何だか異様に病的に見えてしまうのは何故だろう。

「我輩はH・Pラブクラフトを神と崇めオ-ガススト・ダ-レスとコリンウィルソンに限りない憎しみを抱く者である」

何を言ってるかこの時点でもうわからない。

わからな過ぎて我輩という言葉に突っ込みを入れる気も失せる。

「高橋君!高橋君!ダ-レスもウィルソンもこの世の人ではないから意趣返しは無理ってもんですぞ!」

「そうか!では奴等の墓に唾でもかけに行こうかね」

2人揃って何がおかしいのかケタケタ笑い始める。

笑いのツボがまるで分からないし理解すらしたくない。

「そこの君!今の話に興味があるかね?」
なんて嫌な誘い水だ。

「ありません」

俺は高橋という男の言葉に食い気味に即答した。

「まあ、いいさ。同じサ-クルの仲間になったらゆっくり話そうじゃないか」

人の話全然聞いてねえし。

見たところ高橋という男見た目は正田清と五十歩百歩で大差なく、どちらもダサイ。

けれど芥子色に格子柄のシャツにしろ黒のコ-ルテンのズボンにしろ量販店で買い揃えた品物ではないと後にわかった。

手にした古い鞄にしろブランド品ではないがしっかりした手縫いの本革の上品だった。

正田清にしろ高橋龍也にしろ服なんかどうでもいいというスタンスは今も昔も変わらない。

ただ高橋龍也にはそこはとなく家が裕福な者であるという雰囲気が漂っていた。

母親が良かれと買い揃えた服をそのまま疑いなく着て歩いているような。

そして2人ともシャツはしっかりとズボンにインしていた。

大学に入りたての俺たちのような年齢の男ならば多少なりとも女の子にもてたいとか恋人が欲しいと思うものだろう。

あまり派手にきめて周りから浮いてしまうのは勿論嫌だ。

けどせめて清潔にして安い服でもセンス良く着て女子には嫌われたくない。

ところがこの2人は「女なんかどうでもいい。着たい服をきるぜ」という捨てきりやポリシーがあるわけでもなく。

大学一年生にありがちな浮き足や背伸びした感じもまったくなく。むしろ落ち着きはらった様子で自信満々な佇まいで。

大学在学中4年間で遂に1人の彼女も出来なかった。

孤高な人々なのだろう。

ぶっちゃけ関わりあっても何の得にもならない事は明白だった。

「君たちオカルト研究会のサ-クルだったら、あっちで勧誘していたよ」

傍にいた先輩が満面の笑みを浮かべて明後日の方向を指さした。

「失礼でござるな!僕たちは純粋に文学サ-クル志望なのに!」

正田清はそう言って頬を饅頭みたいにふくらませた。

何というか…怒りの表現が二次元的にしてもチ-プが過ぎる。

「我輩はそちらと掛け持ちでも構わんが」

いや専任で。むしろ研究対象になってしまえ。

「俺は山口って言うんだ。実家は北海道の紋別市だけど親父は公務員だから中学までは色んな土地を回ったんだ。北海道と沖縄が一番長かったかな」

自己紹介の時自分の氏素性を話す人は何か信用出来る気がするのは何故だろう。

あまり過剰なお国自慢はやだけどね。

山口先輩は横にいる2人を不可視な存在と決めたようだ。

昔から山さんの北海道時代の話を聞くのが俺は好きだった。

文芸サ-クルに身を置くような人間は大概は読者家だ。

童話サ-クルの女の子に変な幻想を抱いてナンパ狙いで入って来るチャラい男も中にはいた。

けど大抵会話するうちにメッキが剥がれて居づらくなって辞めてしまう。

東京の大学には日本中から学生が集まって来るけど文芸サ-クル意外とみんな訛りとかなくて1年目から標準語で話すんだ。

子供の頃から本好きの人間は標準語が自然と身についてしまうものだから。

ただ山さんだけは皆と違っていて北の言葉と沖縄のイントネーションが混じる言葉使いそのまんまで仲間と話した。

「俺…唯野彰って言います」

「国は何処さ」

国って言葉も古めかしくて好きだった。

「拙者埼玉の農家の長男」

「我輩は甲府の豪族の生まれで今は小田原市に転居して…」

「したっけ唯野氏ちょっとサ-クルの部室覗いてみるかい?」

それが今日まで続く俺と俺の盟友山さんとの出会いだった。

出会った日から俺と山さんこと山口恭の関係は親友というより頼れる兄貴とか先生のそれに近い。

俺はいつも山さんの事を尊敬していたし憧れてもいたんだ。

いつも俺や皆の前を先陣をきって進む姿を俺は見ていた。

「じゃ行くかい」

山さんは俺の手を引いて足早に歩き出した。

好きなものは好き嫌いなものは嫌い。

彼はなにかにつけその姿勢は徹底していた。

山さんはサ-クルの中で学年問わず誰よりもプロ志向が強くあらゆる児童書は勿論児童文学の研究書や評論までも読破していて日本文学にも蔵しが深かった。

ただSFとオカルトと類いは大嫌いであった。

基本的に体育会系。

文武両道で幼い頃は柔道の有段者である父親に柔道を徹底的に教え込まれた。

少年時代父親の赴任先である沖縄では父親が指南していた自衛隊の基地で自衛隊員たちに銃剣術を遊びの中で習った。

中学2年の時に転校した紋別市の剣道部では手合わせしてくれた顧問の面打ちを軽くかわして腕を掴んで床に投げ伏せその場で関節をきめた。

激昂した顧問の教師に腹を何度も蹴られて「この野良犬が!」と罵られた。

中学時代の彼のあだ名は「野良犬」だった。

高校時代剣道で道内を制しインターハイの常連となり高校卒業後は仙台の体育大に推薦で入学した。

将来は体育の教師になる夢もあったという。

酔っぱらって山さんがほろりと漏らした事がある。

「俺のルーツは小鹿物語だ…あと台所のマリア様かなあ。あんな話いつか書きえな」

親も故郷の友達も知らない事だった。

地元ではバイクを転がしたりパンクバンドをやったりする荒くれ者で通っていたが。

本当は夜中にしんみりフォークギターを弾くのが好きだった。

中学時代から詩を読むのが好きで1人部屋で様々な詩を読み耽るうちに辿り着いたのが童謡の世界だった。

当時道内の新聞で新進気鋭の童謡詩人でもあり童話作家でもある宮崎国雄氏はコラムを連載していた。

埋もれた昔の童謡や詩人の発掘や研究家でもあった宮崎先生は俺たちの大学の客員教授でもある。

唱歌ではない童謡の書き手の発掘と育成は宮崎先生のライフワ-クであり山さんは先生のコラム内で不定期に募集していた童謡詩募集に熱心に作品を送り続けその熱意と才能が認められ研究員というか弟子となる事が許された。

まず短い童謡の創作から始めて文章と発想を磨き童話作家を育成するというが宮崎先生の理念で…そんな話を山さんの口から聞いたのは大分後になってからの話だ。

体育大を半年で中退して東京に出て肉体労働のバイトをして学費を貯めた。

それでも大学に入るには金が足りなかったので故郷に舞い戻り父親に事情を説明して土下座して頼んだ。

「親父には「クソ虫」って言われたよ。「クソ虫が人間になるまで戻って来るな」って。だから北海道は俺の本当の故郷だけど人間になるまでは帰れねえさ」

そんな話を聞くにつけ俺はいつも山さんには逆立ちしても敵わない、ような気がしていた。

「人が多いからぶつからねえようにな!」

山さんが俺の手を引いて縁日のような学生でごった返すキャンパスの歩道を先導して歩いた。

今でもはっきりとその日の光景は瞼の奥に焼きついている。

本当の意味での俺の大学生活や世の中で言う青春というやつが、その時走り始めた気がするんだ。

「拙者たちも文学サ-クルに」

「正ちゃん我輩息切れと目眩が…ちょっと肩を貸してくれないかね」

腐れ縁も多分この日から始まったのだ。

「百歩譲って女の子なら許す!」というのが山さんの本質だ。

酒好きで女好きで豪快で誰より仲間を大切にする男…この日山さんが俺の手を強引に引かなければ。

あのサ-クルに入らなければ俺の人生は今と変わっていただろうか。

山さんに正ちゃんに高橋君に善や奈緒ちゃんや郁美さんに出会ったりしなければ俺は死なずに済んだのかも知れない。

その時の俺はまだまだ世間知らずで甘ちゃんで「手を引いたり引かれたり何か逃走的な事態に陥るなら可愛い女の子がいいのにな」なんて事を人混みに酔いながら薄らぼんやり考えていた。

その夢は後に叶う予兆であったのか。

振り向くとメガネの変人2人がぴたりとこちらをついて来る。

今思えば俺はよくよく変な者に追われる宿命なのかも知れない。

「そこの校舎の角曲がったら早足でまくぞ!」

「いや先輩一応勧誘してるんだから。場所だけでも教えてあげたら、どうですか?」

「うるせえ!本気の本気ならてめえの足で探せってんだ!第一あんなの連れてったら先輩方に俺の信用がた落ちじゃねえか」

「俺はいいんすか?」

久しぶりに走った。なので息を切らしながら俺は聞いた。

「お前の瞳は本気のメルヘン野郎だ!俺の目に狂いはねえ!!」

いや、この人も頭が充分おかしいって。なんだよ本気のメルヘン野郎って。

「とにかくさ」

山さんは息も切らさず俺に向かってニカッと笑った。

「書きたいんだろ?誰にも邪魔されずに、お前だけの世界に1つだけのお前の童話」

俺の手はいつしか山さんの手を離れて自分の足で走っていた。

「いつか世界中の子供たちが読むかもしれねえべさ」

「俺だけの童話を世界中の子供たちが」

「でかい夢だ」

俺は強く頷いた。

「歓迎するさ。俺たちのサ-クルへ」

芽生えた夢に向かって。俺はその時走り出した。

もはや世界中の誰にも俺を止められない。そんな気がした。

いつの間にか桜落としの雨。

雨粒が色褪せた煉瓦を忽ち雀色にアスファルトを消し炭の色に染めた。振り出した雨を避けて一斉に校舎内に避難する学生達。人混みの中で色とりどりの傘が花のように開く。

雨は思いのほか冷たかった。

けれど俺たちは走りながら着ていたシャツが濡れて肌に張り付くのも厭わずに悲鳴のような歓声を上げて笑っていた。

その時は雨に濡れた桜花と土埃と人の匂いが混じり合い辺り一面に立ち込めていた。
西棟校舎の裏側にあるモルタル造り蒲鉾屋根のサ-クル部室。

アルミの製の扉を山口先輩が開ける。

取り付けられたドアノブも曇り硝子も、どっぷりと年季が入っていてガタガタだった。

扉を開けた途端に目の前に飛び込んで来る景色。

「傘持って来なかったよ」

「すぐ止むかなあ」

帰りどっか寄ってく?」

「サ-クル入部希望者の方はこちらの机に順番に並んで用紙に必要事項を書いて下さいね。それと出来れば自己ピーア-ルも」

「新歓コンパの日時と場所はこちらに貼り出してあるので参加出来る方はぜひ!」

先輩たちがきびきびと新入生たちを仕切っていた。

やはり女子が多いな…俺は室内の熱気や人の多さよりもそちらに気圧される気がした。

「山口君」

部室に入るなり黒のジャケット姿の先輩とおぼしき女性が声をかけて来た。

「いやいやいや宮前先輩お疲れ様です…どうですか?就活は順調ですか?」

「今日3次面接なの」

「大手の出版社となると面接も3次まであるんですか?いやいやアイドルや女優のオ-ディションなみじゃないですか」

「昔から出版社は狭き門なのよ。日本中に文系の大学生なんて掃いて捨てるほどいるんだからね」

「いや~ゆるくないわ」

「大手の企業なら今時普通だよ。不況だし…山口君たちだって言ってる間にすぐだよ」

「先輩やっぱり児童書籍部門がある出版社志望ですよね」

「そうね、福武とか今もあったらよかったのに…」

「児童書から撤退して社名も変わって…いい本沢山あったのに」

「子供の頃から全部集めたの。今も実家の部屋に置いてある」

そんな先輩同士の会話を横で俺は聞いていた。

「それはSF界で言うところのサンリオSF文庫のようなものでござるな」

「我輩も国書刊行会の定本なら…大切に…すまん正ちゃん…我輩走りすぎて吐きそう…背中を…」

しっかり追尾されていた。こいつら結構根性あるのかも。

狭い部室の壁一面にサインペンやマジックで書かれた落書きに自然と目を奪われた。

様々な童話やファンタジ-のキャラクターのイラストや作品の台詞や名文、はては「締め切り間に合わね~」といった嘆き自作と思われる謎のポエムまで…落書きは混沌とした曼陀羅のようだ。

「飢えていたのは俺たちだけじゃなかったんだ」

立ち竦む勇敢なネズミたち。懐かしいな、これ。

見ているだけで何だか胸の中にふつふつと勇気がわいて来る。

自分が特別な場所に来たような、まるで冒険の扉の前に立つ勇者になれたような気分にさせてくれる。

他愛ない学生たちの落書きなのに。

一際壁の真ん中で目を惹くイラストがあった。

横たわる釈迦むにのような姿勢で寝そべり部室の学生たちに優しげな視線を投げかける姿。

「これ、ヨクサルですよね」

俺は壁の前に立ち呟いた。

「うまいなあ…原作のタッチそのままだ」

「合格」

先ほどまで山口先輩と何だか先輩っぽい大人びた会話をしていた宮前先輩が俺の肩に手をのせて微笑んだ。

文学少女がそのまま成長して大人の女性になるとこんな風になるのかな。俺は先輩の笑顔に少しどぎまぎした。

「それ私が書いたの」

先輩は愛し子を撫でるように指先で絵の輪郭をなぞった。

「私の初恋の彼なの」

「綺麗な先輩がいるなあと思ったら、今俺そっこ-で失恋しました」

ヨクサルが相手では勝ち目がない。

先輩の前では普段出ないような軽口も出る。

宮前先輩は初対面からそんな雰囲気のある人だった。

「君は口がうまいな~ヨクサル知ってるだけで大合格なのに!我が童話サ-クルへようこそ!!部長の宮前です、よろしくね」

「唯野彰です」

「我輩は高橋龍也」

「正田清でごさる」

「俺は山口泰」

それは、さっき聞いた。

俺の目の前にボールペンを差しだした男が言った。

「俺は善如寺誠」

彼はその時も俺に人懐こい笑顔を見せて言ったんだ。

「サ-クル入ったのはいいけどさ、女の子ばっかでどうしようと思ってたんだ」

「こっちこそ…」

善良でまともそうな男がいて助かった…という言葉を俺は飲み込んだ。

「小説とか好きでこのサ-クル入ったんだよね」

「まあ、そうだね」

「俺はリチャ-ド・スタークの悪党パ-カ-シリーズの大大大ファンなんだ。ハ-ドボイルド小説が三度の飯より大好物!浪人中もそればっか読んでたんだ」

なら入るサ-クルを間違えてる気がするが。

そんな事は口が裂けても言えない。

ここで彼に逃げられては後に残った面子があまり濃すぎるからだ。

俺が善如寺からペンを受け取りサ-クルの参加用紙に必要事項を記入するまで彼は俺を待っていてくれた。

「暇なら茶でもしてく?」

そう気さくに俺に声をかけてくれた。

「それより俺たちも何かお手伝い出来る事はありますか?」

そんな俺の言葉に宮前先輩は優しく微笑んで言った。

「私もそのつもりで顔を出したんだけど大丈夫みたい」

今までの部長としての教育や仕切りが余程良かったのだろう。

2年生3年生の先輩方はきびきびと動き手伝いなど必要なさそうに見えた。

「まあ今日は初日だし新入生の仕事はないわね。これから課題だのなんだの忙しくなるから今日はゆっくり休んで」

宮前先輩はその場にいる俺たちに言った。

「伝統的に男子が少ないサ-クルだから、これからはあなたちが積極的になって、もり立ててね」

お世辞でもそんな言葉を聞くと嬉しくなる。

「山口君新入生なのに部員集めまで協力してくれてありがとうね」

「なんて事ないさ」

へ…今なんっつた?

「山口君て…俺たちと同じ1年生なの?」

「もしかして、ため?」

「そうだ」

「我輩も」

「拙者も」

人外には聞いてない。

「俺遅れて来たルーキ-だから」

宮前先輩の話によれば山口君と宮前先輩は共に宮崎先生の門下生で先生の執筆している童謡や児童文学雑誌の常連の投稿者でもあり出会う前から知り合いだった。

「東京に出て来て大学に入る前から先生の勉強会に山口君は出てたしね」

「大学合格が決まってから先乗りしてサ-クル手伝ってたんだ」

「山さん!この書類邪魔なんだけど…どうしたら」

「ああそれ、とりあえずあとでファイルするからそこのロッカー放り来んで」

「ありがと」

先輩方もそんな調子だ。

「さてと頼りになる後輩君たちも集まったみたいだし。私はこれから面接行ってくるか」

宮前先輩は腕時計に目をやると皆に一声かけて入り口に向かって歩き出した。

「本当楽しみだな…あと1年大学残ってみんなの作品じっくり読んでみたいよ」

「先輩なら留年歓迎です!」

「先輩卒業しないで下さい」

「お前ら縁起でもない事言うなよ!」

「新歓コンパにはぜひ」

山口の言葉に頷いて。

「なんとか内定と…あと卒論やっつけて…必ず行くわ」

「ト-ルキンとCSルイス…どっちかに絞れました?」

「厳密に言うと指輪とナルニアだけどね」

「興味深い題材ですからね」

「特に目新しいってわけじゃないけど資料集め始めて『これは大変!聖書読まなくちゃ!?」と思って読破するまでが大変だった」

指輪物語の作者であるト-ルキンとナルニア国物語の作者であるCSルイスは共に同じ大学で教鞭を取り小説の出版を目指して切磋琢磨琢磨し合う仲であった…それぐらいは小説の後書きに書いてある。

神学者であったルイス。

ト-ルキン深い神学の知識を持つルイスに度々助言を求めた。

後にト-ルキンが書き上げた指輪物語とルイスには深い溝が生まれ対立するようになった。

神学者のルイスが読めはすぐに分かるほど指輪物語はキリスト教社会に於ける批判と疑惑が書かれていたからだ。

「そこだけスポット当てるとワイドショー的というかね…だけど最初無神論者だったのはルイスの方でト-ルキンがルイスをキリスト教に目覚めさせたの…面白いでしょ?」

それは俺には初耳だった。もっと先輩の話聞いてみたいなと傍らで俺は思った。

「お言葉ですが宮前先輩『聖書を読破した』とは聞き捨てなりませんな!クリスチャンの我輩ですらまだ聖書は半分しか読破してません」

クリチャンの我輩…には今更突っ込まないが先輩に対して失礼だぞ高橋。

「高橋君だっけ…クリスチャンなんだ?一応私も聖書は最後まで読んだよ」

こほん…となんかむかつく咳払いをして高橋は言った。

「読破とはその書物を一言一句熟読し書かれている内容を完全に理解する事を言うもんです。教義に関して宗教家は一生をかけてそれをするものです」

「そうね…高橋君の言う通りね。ごめんなさい」

あやまらせちゃったよ…先輩に。なんだかその場の空気が気まずい。

「高橋君は実家がクリチャンの家系なの?」

「いや、我輩の実家は先祖代々蛇神を祀る信仰をしていて」

「蛇神ってヤマタノオロチみたいな!?」

「詳しいはわからないのですが我輩それが嫌で高校の時教会に駆け込んでクリスチャンになりました」

「面白い!面白いね高橋君!!」

「家には昔から神様の御使いの蛇が放してあって正月には餅の代わりに蛇を食べます」

「餅の代わりに蛇?神様食べちゃうんだ!?」

宮前先輩は大きな黒い瞳をさらに大きく輝かせて高橋を見た。

好奇心いっぱいで一時もじっとしてられない子供みたいだ。

「それが嫌で改宗したのです」

「だから高橋は顔が蛇に似てるんだね!楳図先生の漫画みたいに」

先輩の一言で場の空気が和んだ。

「いいな~サ-クルはやっぱこうでなくちゃね」

「先輩そろそろ時間では?」

山口君が気を遣って宮前先輩は我に返ったようだ。

「じゃあ厳しい現実の荒波に揉まれて来るか!」

そう言って先輩は教室を出て行った。

「勉強会で先輩の作品楽しみにしています」

「あ、そうだ!それも書かなくちゃ…じゃあババアは退散するね」

「それほどババアってわけでは…」

「高橋君!し!でござる」

宮前先輩が卒業して大学とサ-クルを去った後も先輩の残したヨクサルのイラストは残った。

先輩がいかにいいまとめ役でサ-クルの中心であったかは言うまでもない。

皆がお題や課題や自分の作品に煮詰まると、そっと壁に描かれたヨクサルに触れるのだ。

すると不思議とアイデアや文章が浮かぶのだと。そんな逸話が今も受け継がれている。

「あの人なあ…高校の時から天才だって協会でも有名だったんだ」

そう山口君が俺に教えてくれた。

「宮崎先生の勉強会でも読む度へこむような作品ばっか書いてくるし」

そんな先輩の作品でさえ未だに出版されてはいない。

何回かは新人賞の最終選考には残っているから時間の問題だろうと山口君は言っていたが。

どんなジャンルであろうとプロ作家になるのは生半可な事ではない。

サ-クルの壁に書かれ作品のキャラクターも海外の作品やアニメからのものが目立ち最近の作家のものなんてほとんどない。

厳しい世界なのだ。

山口恭の言葉を借りれば「ゆるくない」という事だろう。

とりあえず部室に用がなくなった俺たちは外に出る事にした。

山口はそこにいた全員に聞いた。

「家はみんな遠いのかい?」

高橋龍也は実家は現在小田原にあると答えた。

正田清は大学寮住まいで田無。

善如寺誠は品川にある実家のマンションからでやはり結構遠い。

「俺は野方!唯野氏は?」

「俺は下落合で氷川神社のそば…」

大学の近くに安くて手頃なアパートが借りれたのはなかなかラッキーだったと思う。

それを聞いて山口はにんまり笑った。

「じゃ近いからそこ行くか?今後の事もあるし」

今後の事って何だよ!? まだ初対面だぞ!?

ト-ルキンの書いた指輪物語に登場する魔法使いガンダルフはその前章にあたるホビットの冒険にも登場する。

争いを好まず一生を清潔な穴蔵の中で暮らす小人のホビット属のビルボバキンズの前に突然現れ好きなだけ飲み食いした後無理矢理冒険の旅に連れ出すのだ。

で俺の場合も大体その通りになった。

「ちょっと待ってくれ!いくら何でも俺たち初対面でそんな…」

いつの間にか自宅までの道案内をさせられている。

何か嫌な気がして振り向くと高橋がペンで電柱に邪悪な印をつけていた。

「…いや、これから道に迷わないようにと思って」

実際大学生がスタートして思った事だ。

RPGにでも喩えたら分かりやすいだろう。

山口恭こと山さん。

彼はガンダルフのようだが本質は魔法使いではなく戦士だ。

猪突猛進で勇敢な彼は大学でもよく授業を止めて教授や講師を捕まえては質問攻めにしていた。

教授や講師というのは大概は学生の質問には慣れっこで質問の答えはいくつか用意して教壇に立つものだ。

しかし彼はその質問が返る事を熟知していて答えの矛盾を問い質す。

解答者の著者も関連書籍も読み漁っていたので余計たちが悪く見えた。

しかし俺は思う彼は常に自分が支払ったものに対する対価を一つでも得ようとしていただけだと。

彼に比べたら他の学生が大学に入った事に満足して学生の本分を忘れているだけだ。

実力や熱意を認められてとは言え、よく定期的に地方で教員をやりながら同人活動をされてる作家志望の会員や古株の作家や専門家がずらりと名を連ねる協会や宮崎先生の勉強会や研究会に自分の原稿を持って行けるものだと俺は思う。

山さんがそうした集まりに出席した日は大概口数少なく機嫌も悪い。

「宮崎先生の勉強会とか協会の集まりってどんな感じ?」

誰かが山さんに質問した事がある。山さんは笑って「高橋君ちのお庭みたいなとこだ」と答えた。

蛇の巣って事だろう。

高橋龍也は見かけからして魔法使い。ただし味方にダメージを与える。

正田清は寡黙な侍だが刀は多分竹みつ。

善…善如寺誠は間違いなく芸人だ。

遊び人でもよいが、大体そんな感じ。

いつも飄々として豪快に笑う。

「ついに買ってしまったよ」

ハメットやチャンドラ-の文庫を嬉しそうに見せる。玩具を手にした子供みたいだ。

「大いなる眠り…長いお別れ…チャンドラ-の小説は題名もそうだけど作品や文書から死の匂いがするね」

なんて好きな煙草に火をつけるのも忘れてページを捲っていた。

面白い事を見つけるのが大好きで年中高橋君や正田清をいじり倒していた。

時には俺や山さんもネタにされたが大概周りが爆笑になるので悪い気はしない。それが善の人柄だろう。

とても素ではお近づきになりたくないオ-ラを放つ高橋君のような人でも善の手で面白くされサ-クルでは人気物になっていた。

俺と善は特に気が合って学校外でも休日などよく遊ぶ仲だった。

善の勧めるリチャ-ド・スタークという作家は俺には最後まで馴染めなかった。

「この間観た映画さァ善に借りたラドラムの【暗殺者】が原作だと思うんだけどね」

「マットディモン!のやつね…どうだった?」

「いや設定が随分変わっててて途中まで気がつかなかったよ。だってあれロシアの元工作員って設定だろ?」

「マット・ディモン!…だから仕方ない」

「お前なんださっきからマット・ディモン!発音無駄に良すぎだ!ふざけんな!!」

「マット…ディモン~(ごめんなさい)」

「でもさラドラムの暗殺者記憶も何もかも失ってるのに襲われて反撃する時だけ変なロシア語の気合いで反撃するとこ俺ツボなんだよねえ」

「そこは笑うとこじゃない!ラドラムに謝れ」

「善ちゃんは普段ふざけてんのにそこだけ急に真面目になるよね~」

当時同じサ-クル仲間で俺とつき合い始めたばかりの鏡沢奈緒は俺たちのやり取りを見て笑っていた。

俺たちは奇遇にも全員が一浪経験していてサ-クル内では【一浪組】と身も蓋もない言い方をされていたが。

それでも長い時間を過ごすうちにお互いに理解し合い融和して行ったような気がするんだ。

どうせ苦労して高い金払って大学に入っても酒やタバコ覚えたりマ-ジャンばかりしてるんだろ?

30年も前から言われてる話だがその通りだ。

俺は酒もタバコも大学に通うようになって覚えた。

マ-ジャンだって時々やった。

けど仲間に触発されて本も読み漁ったし原稿も沢山書いた。

それが何だ?と言われればそれまでだがそれが俺たちのやりたい事だった。

毎回サ-クルで無作為に出される3題噺などのお題に悪戦苦闘しながら原稿を書き年度末にはそれぞれの部員の自信作を集めたサ-クル本の編集と製本作業に追われた。

コミケに出してもおそらく見向きもされない善良かつ健全なる童話集…とは一部の作家には当てはまらなかったが。

気がつけば金を節約するために印刷所でバイトしたおかげで写植や校正やレタリングの技術も身についていた。

「正田清さんの作品なんですが…未来の地球は深刻な食料不足という設定で、地球から食料を確保するために農業地帯に移民した人々が人類の命運を握る神々となって君臨しているというお話ですよね?地球から月まで伸びるタワーを登り主人公が食料をもらいに行くというストーリーで」

「月を居住可能に出来る科学力があるなら何もタワー作らなくても」

「それで塔の大気圏上にいるセンチネル・ア老人と何か哲学的な問答があって失意のうちに地球に期間するという…これ私ちょっと分かんないんですが」

「どこがでござるか?」

「いや…全体的に全部かな」

実に残念かつ壮大なスペースオペラだった。

「高橋龍也さんの作品なんですが…これ漢文ですか?ひらがなが1つもないと読みづらいですね」

「失敬!ルビをふるのを忘れた!?」

ここは童話サ-クルなんだけどね。

誰が何と言わず折れず傷つかず自信に満ち溢れたこの2人はある意味すごいと俺は思った。

そんな2人の作品を誰より楽しんでいたのは善だった。

真面目な作品発表の寸評の場でも善は高橋君や正ちゃんの作品にばか受けして爆笑する度進行を勤める先輩に注意された。

ついでに隣にいる俺まで不真面目な人間とレッテルを貼られ大変迷惑した。

しかし善が寸評の時色んな作品に過剰な反応を見せるので皆が「これはこれでいいんじゃないか?」と高橋君や正ちゃんの作品を見るようになった。児童文学作品としては明らか零点だが…らしさは出ていると。

同席している山さんは児童文学に関しては常に厳しく早くも寸評の鬼ぶりを発揮していたが、ある時期から俺たち(特に高橋、正田、善)の作品に関して辛辣な事を言わなくなった。

「善如寺君の作品なんですが」

殺せ…殺せ…男たちのざわめきに迎えられ彼は街の広場に立つ。

広場の乾いた風に紛れ時計台が正午の鐘を鳴らす。

手にしたいくつものナイフが閃き。

やがて時計台の鐘は弔鐘に変わる。

男が立ち去る。

おびただしい追跡者たちのむくろだけを残して。〈了〉

「これは児童文学じゃないですよね?」

「可愛くないです」

「こわいです」

善は机を叩いて立ち上がる。

「俺は完璧な【マルタの鷹】のような、けしてぶれない一人称の視点を目指してるんだ!!」

いや、ぶれてるから。童話書こうぜ、みんな。

指輪物語とかRPGにみんなを例えたけど俺はこいつらから見れば何の取り柄もないヒューマンだなと、つくづく思った。

「ああ!チクショウ!やってらんねえぜ!!」

酷評の後で善は居酒屋で荒れた。

高橋君や正ちゃんの作品には爆笑するくせに自分の作品の酷評には忽ちガラスのハ-トをさらけ出す。

善はそんな男だった。

「今日は機嫌悪い人が2人いてはる」

もう一人は勉強会帰りの山さんだ。また嫌な思いでもしたのだろう。酎ハイのグラスを持つ表情が暗いし酒も進まない。

そんな2人を肴に日本酒をくいくいあおる。

酒豪の子リスのような女の子が吉野郁美ちゃんだ。

郁美ちゃんは同じサ-クルの同級生で現在は山さんの彼女だ。

小柄で可愛さと利発さが同居した彼女は入学当初から既に大勢の男子学生に注目されていた。

「童話サ-クルなんて女の子がいて選り取りみどりじゃないか?お前うまい事やったよな」

なんて他の同級生に言われたりしたが。

俺たちは入学当初から仲間に特殊過ぎるオ-ラを発生する奴等がいて女子が寄って来ない非モテ部員だった。

山さんは彼氏がいない先輩や同級生にとにかくモテた。

なんでも「他の学生にはない大人っぽさとか色気がある」らしい。

山さんは俺たちよりも世間に出て色々経験してるみたいだから。

それは素直に頷ける。

郁美ちゃんとは新迎コンパの時居酒屋で席が隣になった。

とても可愛い子だったので俺も話がしたかった。

色んな話をするうちに同級生という事もあり好きな音楽の話になった。

「私中学の時ジ・アカルカイック・ガ-デンの大ファンでこっちでライブに行くのがめちゃめちゃ楽しみなんだ」

「そのバンドなら俺も知ってる!?アルカイック・ガ-デンいいバンドだよね」

「もし良かったらコンサート一緒に…」

言いかけて彼女はじとりとした目で俺を睨んだ。

「あの…俺何か気に障る事言ったかな?」

「ジ」

「ジ?」

「ジ・アルカイック・ガ-デン言わなあかんよ!ジアカとかG・A・Gとか略すやつもパチもんのファンやで!」

怒られた。

そんな事をしてるうちに山さんが来て郁美ちゃんはかっさらわれた。

というかこの2人は話をしているうちに何か運命的というか最初からウマが合うような何かがあったんだと思う。

みんな場の雰囲気もあって結構その日は酔っ払っていた。

そんな女子の中で郁美ちゃんだけは来た時と同じようにカクテルをすいすい口にしていた。

「郁美ちゃんお酒強いね~国はどこ?」

いつもの調子で山さんが聞いた。

「那智勝浦」

と郁美ちゃんは答えた。

「那智勝浦じゃそんなお洒落なカクテル飲んでんの?ひょっとして君不良かい?」

山さんの言葉に彼女は首を振って答えた。

「お父さんの晩酌の相手はいつも日本酒だよ…だけどこんな場所だと世間体があるからこれ飲んでんの」

郁美ちゃんの父親で兼業で漁師もしているらしい。

「そんなの気にせず好きなお酒飲みなよ」

山さんに言われた彼女は店員さんを呼んで「すいません。磯自慢を冷やで3つお願いします」と告げた。

「え…もしかして俺の分も頼んでくれた…?」

俺は生まれてこの方日本酒なんて口にした事がなかった。

「うちのお父さん日本酒をよく飲むんだけど『温かい方の日本酒はいまいち』ってよく話してた。これはその中でもいいお酒だよ」

「へえ、そうなんだ」

俺は素直に感心した。

「何言ってんの!?唯野君の生まれ故郷のお酒だよ。さあ!ぐっと飲んで!開けたらオススメのお酒を順番に注文するの」

順番どころか一杯で腰が立たなくなった俺は郁美ちゃんと山さんに息子のように介抱された。

この2人お開きになるまで果てしなく飲んでいた。

最後は山さんが軽くぐらついていたのを見て「俺の手におえる女じゃないとその時悟った。

童話サ-クルに在籍する女の子の書く童話は大概ふわふわして甘甘な作品が多かった。

その中で郁美ちゃんの作品は突出していた。

文章に無駄がなくてセンスが良くてキャラも立っていれば最後に必ずエスプリが効いた洒落たオチが用意されていた。

面白い人や個性がある人は世の中は実は沢山いる。

けれど自分のパ-ソナリティを作品に反映出来る人は限られている。

彼女にはきっと才能があった。

高校時代は漫研にいたというから話作りの上手さはそこから来ているのかも知れない。

他人の才能に敏感な山さんが彼女に注目しないわけがなかった。

2人がつき合うようになったのは俺からすれば必然だった。

学校帰り大学の近くにある古本屋街の1つにある日ふらりと立ち寄った。

そこに見慣れた髪型の彼女が山さんと入って来た。

彼女の髪はかなりボリュームがある天然パーマでエンデの童話に出て来るモモみたいだった。

最初はニューウェーブ系のバンドにでもかぶれてるのかとも思えたが髪は黒いままだし。

彼女が友人に自分の髪について話してるのを聞いた事がある。

「高校の時から色々やったんだけど全然お手上げ。ストレートにすると私の輪郭じゃオニギリさんみたいになっちゃうしね」

「海風にあたりすぎたか。声も酒やけみたいだしな」

山さんはそんな風にからかいながらいつも彼女の事を愛しそうな目で見ていた。


たまたま入った古本屋に彼女と山さんが入って来た時遠慮がちにシャツの袖を掴んだ彼女を見て俺は2人に気づかれないようにそっと店を出た。

「ちょっと彰君煙草ちょうだい」

テ-ブルにあった俺の煙草に鏡沢奈緒が手を伸ばす。

「なんだよ!この間やめるって言ったばかりじゃん」

「ずっと我慢してたんだ」

そう言って箱から煙草を3本取りだして火をつけた。
「へへへ」

こいつ本当にバカだな。

この堪え性のない女の子が俺の彼女だ。

横で高橋君が露骨に嫌そうな顔で睨んでいる。

これも見慣れた光景だった。

山さんと郁美ちゃんに潰された新歓コンパの夜。俺は居酒屋の座敷の畳の上でのびていた。

視線の先に高橋君と何だかやたら盛り上がってる女の子の姿が目に入った。

いかにも童話サ-クルにいそうな、ふわふわのお嬢様ワンピースのセミロングの可愛い子だった。

「へえ高橋君やるじゃん」

痺れた頭でそんな風に思った。

しかしよく見ると女の子が興奮した様子で振り回している指先には火のついた煙草があって。

どうやら2人は口論しているらしい。

「女性がそんな風に煙草を吸うのはいかがなものかと思いますがね!」

「なんで!?私は子供の頃からマ-ク・トウェインに憧れてるの!ハックだってトムだって子供だけだ煙草吸ってるよ!!」

「ルパンが好きだから泥棒になる人なんていません。貴女も~むちゃくちゃだ」

「それに女性がって言ったけど男ならいいわけ!?答えなさいよKKK」

「女性は将来子供を生まなくてはならない大切な体なんですよ」

「生まなくてはならない?大丈夫!大丈夫!高橋君だっけ?私高橋君みたいな男の子供なんて絶対生まないから!!」

「我が輩も即刻願いさげであります」

敬礼とか。まじでむかつくなあ、この男。

高橋君はクリスチャンだからな。

横にいる善が2人の様子を見て腹を抱えて笑っている。

正ちゃんは空蝉の術でも使ったのが人に紛れてどこにいるか分からない。

彼女みたいな、がさつな女は俺は実は苦手だ。

吉野郁美ちゃんとか、あそこの席にいるあの娘とか宮前先輩とか知的なタイプが好みなんだ。

高校時代煙草を吸ってる女の子なんて沢山いた。

今だってこの中にも何人かはいるだろう。

だけど今日は新歓コンパだしみんな人目を気にしてネコかぶってるだけなんだ。

俺は彼女の吸ってる煙草の銘柄が気になった。

洒落たメンソールじゃなくて彼女の煙草はハイライトだった。

初めて彼女を見た時から俺は彼女に一目惚れだった。

本当に彼女の事が好きだった。

あまりに好き過ぎてサ-クルでも彼女とだけ上手く話せなかった。

俺の態度があまりに露骨なのですぐに彼女にも周囲にも俺の気持ちはまるわかりだったと思う。

そのうち自然と彼女は俺を避けるようになった。

だから俺は告白とかする前に彼女にふられたようなかんじになった。

しばらくは悲しくて辛くてやるせない日が続いた。

けれど大学一年生というのサ-クル活動も含めて何かと忙しく過ぎた。

慌ただしさや大学に慣れるまでの日々が心の隙間を埋めてくれたんだ。

大学での生活や都会の環境に馴染むようになった頃俺たちは学祭の季節を迎えていた。

サ-クルでの展示や出版物や出し物製作に追われると仲間との距離も必然的に近くなる。

俺と奈緒ちゃんもそうだった。

自然と話をするようになり軽口をたたく仲になっていた。

話をすればするほど俺は彼女の快活で物怖じしない性格に惹かれていった。

学祭も無事に終わりサ-クルの課題の作品の提出し終えたある日。

その日は授業もなく時間がぽっかりと空いた。

家に帰ってやりかけのゲームでもするか書店に立ち寄るか俺にはその日特に予定はなかった。

「これから2時間かけて家に帰っても中途半端でする事ないよ」

彼女はため息まじりに俺に愚痴を溢した。

彼女は厚木にある実家から電車を乗り継いで大学に通っていた。

彼女の実家は厚木で鉄工所を営んでいた。

一応お嬢様で社長令嬢には違いない。

時々彼女は仕立ての良い金持ち風の服装で大学に現れ、そうかと思えばTシャツやデニムのようなラフなスタイルが続く事もある。

彼女の母親が裁縫が趣味で娘のためによく洋服を作るのだと聞いて納得した。

彼女は普段は身軽でラフな服装を好んで着たいようであった。

「でもお母さんがせっかく作ってくれたから一度は袖を通さないといけないと思って」

そんな優しい一面もあったが子供の頃から手がつけらないほど活発で鉄工所や野山を駆け回ってばかりの娘を少しでも女の子らしく育てようとして「それが今でも続いてるってわけ。いいかげん諦めて欲しいんだけど」

「本当にトムとかハックみたいな女の子だったんだね」

何気なく俺がそんな言葉を口にすると彼女は本当に子供のような笑顔を俺に見せてくれた。

そんな彼女がその日俺に言ったんだ。

「今日これから唯野君ち遊びに行ってもいいかな?」

まだ告白もしていなかった。いずれしようと思っていたけど。

また以前のような他所他所しい空気になるのが嫌で俺は躊躇していたんだ。

けど彼女の物言いがあまりに素直であっけらかんとしていたので俺も普通な口調で「いいよ、ちらかってるけどな」そう答える事が出来たんだ。

「では我が輩たちも」

「お供するで御座る」

一寸の喜びすら噛みしめる時も与えてはくれないのか、こいつらは。

彼女が初めて部屋に来てくれた記念すべき日は魑魅魍魎どもが跋扈する宴に変わった。

「ゲームでもしようか?」

俺が皆にそう言うと。

「テレビゲームかい?我が輩は遠慮しとくよ。あまりに健康的とは言えないからね」

病魔交響曲みたいなやつが何を言いやがる。

「ドラゴン・クエストとか面白いのに」

「うちにも何本かあるよ」

「ドラコンクエストって大層なタイトルじゃないか?名前負けの眉唾物じゃないのかね~」

俺の部屋の隅っこの床で膝を抱えて座る奈緒ちゃん。

その1カットだけでご飯が何杯もいける。感動ものだ。

だけどこいつが一言喋るだけで景色がすべて高橋色に染まってしまう…なぜだ。

「正ちゃんて顔がスライムに似てるね」

テレビに映るゲームの画面を見て彼女はそう言った。

俺が出会った時正田清の顔を見て「何かに似てる」と思ったのはまさにそれ。

何だかそんな他愛な事でも俺は嬉しくなってしまう。

正ちゃんは黙って頷いて飲み物を口に運んでいた。

「これは…なんて面白い!楽しいゲームだね」

振り向いた時の輝くような笑顔が今も脳裏に焼きついて時々夢に出るぐらいだ。

「私そろそろ電車なくなるから帰るね」

そう言って奈緒ちゃんは立ち上がる。

「駅まで送るよ」

俺は慌てて立ち上がる。

「高橋君も小田原でしょ電車なくなるよ」

「我が輩今日はお泊まりする」

お泊まりがなんて嫌な言葉に変わる魔法だ。

「正ちゃんは?」

「拙者ドラクエの順番待ちで御座る」

なんて辛抱強い侍だ。

「私一人で平気だよ」

「いや、この辺街灯も暗いし」

「寒くなって来たね」

そう言って彼女はコ-トの襟を立てた。

「今日は来てくれてありがとう」

本当に素直な心がそう彼女に伝えていた。

「今日はありがと!楽しかった!」

部屋の中の2人を覗いて笑う。

俺は「また来てくれる?」そんな言葉をいいかけたけど止めた。

ドア越しに彼女の柔らかい頬にキスをした。

「あ」

「そういうこと」

「わかった」

短い言葉のやり取り。だけどそれで充分な気がした。

「我が輩ちょっと小腹が空いた」

うるせえ。千円やるから少し黙ってくれ。

部屋に戻ると正ちゃんは黙って難しい顔をしていた。

今日はずっとこんな調子だ。

機嫌でも悪いのか…もしかして、さっきの見られたとか。

「あの…正ちゃん」

正ちゃんは組んでいた両腕をほどくと俺に助けを求めた。

「喋らないから」

「あ…ありがとう」

「喋らないから…スライムの物真似は無理で御座る」

ずっと物真似してたのか。

翌日俺は奈緒ちゃんに告白した。

俺はただの人間から鏡沢奈緒の彼氏になった。



居酒屋で煮詰まる山さんと荒れる善を尻目に俺はその日携帯の画面を眺め密かににやけていた。

携帯の受信箱にはサ-クル仲間の女の子たちから届いたメールが数件届いていた。

作品読みました。

いつもほのぼのした雰囲気がとても好きです。

唯野君の作品のファンです。

出て来るキャラクターがみんな可愛くて大好きです。…etc

やはり自分の作品をほめられる事くらい嬉しい事はない。

それもサ-クルの女の子たちから。

嬉しくて何回も同じ文面を読み返してしまう俺だった。

そんな時続けて着信が2件あった。

呪われてあれ。

介錯つかまつる。

顔を上げると嫌な眼鏡の奥から4つの瞳がこちらを睨んでいる。

「君はいいな、顔に似合わない童話が書けて」

「いや拙者は唯野氏の作品いいと思うで御座るよ。毒がなくて平和そのもので雉も鳴かずば射たれまい的な世界観で天晴れ天下太平洋で御座る」

酷評じゃねえかよ。て言うか男の嫉妬怖すぎだろ。

「唯野君て女の子のファン多いよね~」

酔った口調で郁美ちゃんが俺の肩に肘をのせる。

あんた、それっぽっちの酒でそんな風になった事ないよなあ。

「どれ貸してみろ」

奈緒ちゃんが俺の手から素早く携帯を奪う。

「何すんだ!? 俺のプライバシー」

「当然の権利だ!お前にプライバシーなんてあるわけないだろ」

「じゃ奈緒の携帯もこっちよこせ!」

「スケベ」

そんなスケベな情報が満載なのかよ、お前の携帯。

「唯野君て一年生にもファンがいてさ~この間も『先輩!どうやったら童話とか先輩みたいに上手く書けるんですか?』なんて質問されてたし~」

邪悪な子リスが酔った芝居して俺を追い込むの止めてもらえませんか?

「誰だ?そいつ誰だ?こん中に名前あるか?」

「じゃ今度僕がゆっくり教えてあげるよ…とか何とか~」

話は自分の作品の中だけでだけ好きなだけ、ふくらませてよ。

お願いだから。

「若い芽は早めに摘んどかないとね!」

「摘まれてたまるか!!」

山さんが突然卓を叩く、真似だけした。

溢れるとお酒がもったいないから。

「善の作品も唯野氏の作品も郁美ちゃんも奈緒ちゃんも正ちゃんも、みんないい!好きなものどんどん書いて、それでいいんだ!!」

「あの我が輩は?」

「彰、誰だ?」

「一方俺はダメだ。全然ダメなんだ。権威とか何とかそんなもんにへつらって気に入られようとして俺の作品はつまらない!」

「山さんの作品は完成度がすごく高くて俺たちとはレベルが違うよ」

俺は正直な気持ちを伝えてた。

「誰?言いなさい」

「だが、つまらない。面白味が、遊びがない。海でお魚が尻尾でシェイシェイお掃除してますなんて作品、喜ぶのは棺桶に片足突っ込んだ年寄りだけだあ」

「ぷぷぷ」

「高橋君そこは吹くとこじゃないよ」

「無礼で御座るよ」

「善ちゃん、お腹痛いの?吐きそう?」

「私が優しいうちに」

「決めた!」

「決めたって山さん何を?」

「俺はしばらく作品は書かねえ。その代わりに目一杯遊ぶ!遊んで遊んで遊びまくる!遊びたいやつは俺について来い!!」

「郁美ちゃん、山口がこんな事言ってるけど」

「ま、いいんじゃない?もうすぐ夏休みだし」

それはともかく帰る間中奈緒ちゃんが俺に絡んで困った。

「WHO! ARE! YOU?」

お前はモハメッド・アリかつ-の。

みぞおちにいいのが一発入った




「オラオラ!そんなんで冷たいビールにありつけるなんて思うなよ!!」

公園で野球帽にバットとボールを手にした山さんが鬼の形相で叫ぶ。

炎天下の中での千本ノックは本当にきつかった。

遊ぶと言っても山さんは一皮剥けば超体育会系。

どうしたって退廃的な方向には進まないらしい。

「動かざる者飲むべからす!汗の1つもかかんと酒飲むやつはロクデナシだあ!!」

子供たちやみんなの憩いの場を占拠して昼間っから野球している大学生は別の意味でロクデナシだが。

おかげで俺たちは3ヶ月後町内の強豪野球チ-ムに挑戦状を叩きつけ見事勝利した。

海に山に貧乏旅行に気のみ気のまま赴くままに俺たちは出かけて行った。

「うちの地元の厚木市にはミッシシッピ・リバーみたいな川があるんだよ」

という奈緒ちゃんの言葉を信じて厚木まで出かけ鉄橋の見える河原でキャンプした。

ミッシシッピ川とまではいかないが俺たちはそれなりに楽しんだ。

台風が上陸している事は知らず増水した河川の水量がミッシシッピなみに溢れ出して俺たちは命からがら逃げ出した。

危うく盆とかに海に出かけて遭難事故にあって命を落とす愚かな若者として報道されるところだった。

暴風を避けて逃げ込んだ神社の軒下で雨宿りをしていたら床から這い出して来たドワ-フみたいなホ-ムレスに「静かにしろ」と般若心経を目の前で唱えられた。

神社なのになぜお題目なのか?というのは永遠の謎だ。

「人生やこの世界は謎や不思議に満ちている」とその時思った。

外で寝たり。酒を飲んで騒いだり。

誰にでもある貧しい青春の思い出だ。

別れもまた同じように俺たちの身の周りに溢れていた。

なにも俺たちだけが特別なドラマや映画の主人公やヒロインじゃないって事だ。

別にそんなに悲しむ事じゃない。

俺と奈緒ちゃんはつき合い始めた頃はほんの少しの間だけ、つき合っている事を仲間に秘密にしていた。

お互いを大切に思い始めて過ごす時間を秘密にしておきたかった。

「唯野君!我が輩大枚叩いてドラクエ旧作全部買い揃えたよ」

「ああ高橋君は自分への投資はまったく惜しまないね」

「今日お邪魔していいかな?」

「今日はバイトあるから」

「なら部屋の鍵だけでも」

「今度!ハ-ドごと貸すから!それじゃ…」

別の場所で待ち合わせして2人だけで過ごした。

俺の部屋で彼女の事を抱きしめた。

髪の毛のシャンプーの甘い香りとか年相応のフレグランスとか。

口紅にだってマニキュアにだって唇を寄せれば微かな香りがある。

彼女だけにある香り。

それはジャコウに似ていた。

人工的な製品の匂いではない仄かなケモノのような香り。

それが彼女本来の体臭で、俺はそれが好きだった。

我を忘れて時が経つのも忘れ俺は彼女に夢中になった。

自分の香りは自分ではわからないものらしい。

体臭があるというだけで気にする女性もいるだろう。

それでも俺はベッドの中で彼女に「奈緒の体の匂いが好きだ」と言った。
彼女は笑って「どこの匂い?」と聞き返した。

「輝くような子供時代の物語をもしその作家が書いたとしたら。けしてその話の続きを書いてはならない。そうマ-ク・トウェインは言ったのね」

「うん」

「でもその後彼は書いたの。その後のトム・ソ-ヤがどうなったか。読みたくなかった。とても悲しくてひどい話。どうしてなんだろう。どうして書いたりしたんだろうね」

当時彼女は俺にとってかけがえのない存在だった。

それは間違いない。

けれど彼女の素晴らしいところや魅力は作品にまったく反映されていない。
ふわふわで甘甘をただただ凡庸の衣でくるんだような砂糖菓子。

彼女には才能がなかった。

彼女に対して後ろめたい記憶が今俺にあるとすれば、それを一度も彼女に伝えてやれなかった事。それだけが心残りだ。

2人がつき合った2度目の記念日が来る前に俺は彼女と別れた。

彼女の方から「好き人が出来たから」そう告げられて別れた。

彼女の匂いだとか、ベッドの中での、とりとめない話。

他の男とも同じようにと思う事もあった。

そんな事考えても病むだけだと頭の中では分かっていたけど。

サ-クル内とか仲間うちでは俺は彼女の事を奈緒ちゃんと呼んでいた。

2人きりの時は奈緒。彼女がそう望んだからだ。

別れた後も彼女はサ-クルに残ったし俺たちは今までと変わらないように過ごした。

でも彼女の名前を呼ぶ時だけ少し心が風に煽られて傾く船のマストみたいに軋んだ。

もう2度と奈緒と呼ぶ事はないんだ、そう思うからだ。

それでも彼女の事が好きだった。

彼女を傷つけるような真似はしたくなかったから、俺はそのように日々を過ごした。

別に死ぬような事でない。悲しいけど。

まだ俺にはうちこめる夢中になれるものが残っていたからだ。

世の中は不況で少子化が進んでいると言われるこの時代。

就職難の文字が日々新聞の見出しを飾っていた。

3年になると周りもそろそろざわつき始める。

早い時期から会社回りをする大学生が増えたという世間の風に煽られるように学生たちはリクルートス-ツを買い込んで街に出る。

俺たちの童話サ-クルも勿論例外ではない。

企業巡りをする学生が増えたせいで、けして広くない部室にもやたらと空席が目立つようになった。

「おちおち童話なんか書いてる場合じゃないってのもわかるけどさ」

山さんは部室を見回して言った。

「小説書いてますとか言うやつに限って必ず言うんだわ。『今は書けないけど必ずそのうち書きますよ!』とかなんとかね」

4年制の有名大学だからってこのご時世に、のほほんと大学生活を謳歌してるやつはアホだ。滅びればいい。

学生である以上俺もそう思う。

そっちが正義である事は間違いない。

「で唯野氏。君の本はいつ出来るの?」

「来月には見本が届くと思う」

「いやいや楽しみだね~」

華々しい学生作家デビューなんて甘い夢物語が世の中に早々あるはずがない。

そんな夢は最初から見ない。

恋が砕け散ったあの日から俺は心の隙間を創作一筋に生きる事で埋める事にした。

オリジナルの作品を何作品も書いた。アルバイトして金も貯めた。

そうして遂に童話集を自費出版する事に決めた。

「立派だと思うよ」

「最近高橋君とか正ちゃんとか善を見かけないのだけど」

「3年以上あいつら作品見て来けど、まあどこへ出しても恥ずかしい。箸にも棒にもかからねえってのはこの事だ。3年かけてそれがよくわかっただけでも良しとするべか」

現在山さんはサ-クルの部長。

そして俺は副部長。

時代の波に逆らう男が2人ここにいた。

おかげで迫り来る就職戦線の荒波からは2人とも完全に孤立していた。



実際奈緒ちゃんと別れたのは俺には相当なダメ-ジで、致命傷になりかねない、まさに痛恨の一撃だった。

なぜ俺じゃだめなのか?

何がいけなかったのか問いただしたい自分がいた。

しかし男としてそんなみっともない真似は出来ない。

個人的な理由でサ-クル内の雰囲気を悪くするのもだめだ。

俺は以前に増して童話作品の創作に打ち込むようになった。

サ-クルの運営にも積極的に参加するようになった。

俺は自分が価値のある人間だと証明したかったんだ。

もしかしたら、へなちょこでダメな男になるのが怖くてただ臆病な風に吹かれていただけかも知れない。

しかし事の顛末がどうであれ背中を押され前に進むのは悪い事じゃない。そう自分にいい聞かせた。

以前より真剣に深く創作に向き合うようになった。

すると文章は飛躍的に向上した。

以前の雰囲気や情緒に頼る部分は削ぎ完全削ぎ落とされた。

「もう文章はアマチュアレベルじゃないな」

プライベートでも山さんによく原稿を読んでもらった。

俺と奈緒ちゃんが別れた事を俺は別に他の誰かに話たりはしなかった。

口を開くと忽ち愚痴や彼女に対する恨みごとや醜いものが溢れてしまいそうな気がしたからだ。

しかしそんな事は自然と周りに伝わるものだ。

奈緒ちゃんが他の誰かに話たとしても俺はその場所に一秒たりとも身を置きたくはなかった。

ある日山さんに誘われて2人で酒を飲みに出かけた。

「うちにおいでよ」

誘われたので彼のアパートを訪ねた。来年には取り壊しが決まっている古い木造のアパートだった。

「この部屋、俺が住む前には漫画家の卵の人が住んでて『その人はプロになって部屋を出たの。だから頑張りなさいよ』って大家さんが言ってくれた。縁起のいい部屋さ」

部屋の明かりはついていて扉を開けると郁美ちゃんが台所から顔を出した。

「よ」

「夜分遅くにごめん」

「唯野君なに飲む?」

冷蔵庫を開けようとした郁美ちゃんに山さんは優しく言った。

「君もう今夜は帰ったら?」

郁美ちゃんは頷いて部屋のテ-ブルに置いたバックを拾うと「じゃ、また」と部屋を出て行った。

「なんか悪いよ」

「いや別に毎日来てんだし構わないさ」

山さんは笑って言った。

「あの子はそんな事じゃヘソ曲げたりしねえから」

床に腰を下ろして2人で缶ビ-ルを開けた。

「いやいや唯野氏今日も1日お疲れさん。どう、君疲れてない?」

山さんの部屋は無駄なものが1つもない。

壁に立てかけられたギター。音楽を聞くための古びたコンポ。

沢山の書物が目をひくが床に平積みしたりせずきちんと整理されて棚にしまわれている。

あとはキッチンに小型冷蔵庫が1つあるだけだ。

「テレビ買うか迷ったんだ」

山さんの部屋にはテレビがない。

この六畳の部屋を一目見れば山さんがどんな人間か理解出来た。

「東京に出て来た時はテレビ買う金なんてなくて布団もないんで寝袋で寝てた。ラジオばっかし聞いてたらラジオにのめり込んだ。まあテレビがあれば今頃はテレビばっか見てると思うよ」

山さんは俺に言うんだ。

「人間てのは何かに依存してないと生きてけないのかもなあ」

棚に綺麗に並べられたCDは大半がケルト音楽だった。

「昔はパンクとか好きだった。パンクバンドでギター弾いてるうちにフォークのアコギの音が好きになって…今はそれが一番しっくり来るんだ」

壁のギターのネックに手を伸ばすと膝に子犬を抱えるようギターを置いて玄を爪弾いた。

「東京に出て来る時結局持って来れたのはこのギターと寝袋と着替えの入ったバックだけ。寝袋があれば公園でも寝れる」

「山さんはすごいと思うよ」

山さんは首を横に振る。

「いやいやいや唯野氏だって頑張ってる。唯野氏には敵わない。だけどだけど唯野氏は色々気張って頑張り過ぎの歌…」

ギターを爪弾いきながら妙な曲を口ずさみ始める。

「俺なんかまだまだ山さんに比べたら全然話にならないくらい子供で、もっと色々しっかりしないと」

「そんな唯野君の事がみんな好きで…だけど俺はちょっとだけ~心配だあ」

夜中にギターを弾いて歌なんか歌うもんだから上の階の住人が迷惑がって床を踏み鳴らした。

「うるせえ!ちょっとぐらい我慢しろ!!」

山さんは天井に向かって怒鳴り返した。

「今友達が来てんだ」

ずっと胸つかえていた言葉がある。

胸の中に閉じ込めて錠前をかけた。

そんな言葉がぽろぽろと溢れ落ちた。

奈緒ちゃんの事だったり今の自分の気持ち。次から次へと溢れて来る。

「まあ、いい女ってのはなかなかいないもんだ」

「山さんぐらい女にもてたら話は別だけどね」

「北海道にいた時、高校時代に初めてつき合った彼女とは高2の時に別れた。「好きな人が出来た」とかなんとかお決まりの理由で…だけどその好きな人と腕組んで毎日そいつらの家と反対方向の俺んちの前をぐるっと通るんだ…なぜかね。彼女、家にもしょっちゅう遊びに来てたから、うちの母親がそれ見て「あれなに?」って俺に聞くんだ。意味がわからねえし「女の母ちゃんにもわからねえか?なら俺にわかるわけがねえ」って言ったんだ」

「で今の大学入る前にとんでもねえブスとつき合ったんだが。ブスだから今まで男なんていなかったんだろうな。金がない俺に色々おごってくれたからすごく助かった。でも空前絶後のブスだから大学入る時「俺は金より夢を選ぶ」と言って別れたんだ」

「東京に出て来たばかりで金も住むところもなく公園で寝袋で寝てた時、どうにも空腹で死ぬ寸前だった。ついつい寿司奢ってくれるって言う金持ち風の婆さんについて行った。いよいよ寿司を口に入れようとした瞬間「私あっちもすごいよ」そう囁きかけて来たんだ。餓死かババアとセックスかの選択を俺は迫られたんだ。断ったらこの新鮮な寿司が食えねえ…って俺はその時思ったんだ。こづかいもくれるって言うし。年聞いたら、さば読んだ上で俺の母親より10も上で…」

そこまでしないといい女というものには巡り逢えないものなのか。

なんだか俺は自分が少し幸せに思えて来た。

「まあ鏡沢奈緒よりいい女に会えるさ唯野氏は」

「郁美ちゃんはどうなの?」

「見ての通りいい女だ。俺にはもったいねえ」

俺が山さんの部屋を訪れた時山さんは彼女の郁美ちゃんを躊躇う事なく帰した。

俺の事を気遣って。山さんは男の中の男と俺は思う。

「でも悪くねかった」

「何が?」

「その婆さん言葉通り本当にすんごいテクニックの持ち主でさあ…いやあ、あれには俺たまげた!

何事も経験だと笑う。

こんな最低な話郁美ちゃんの前で出来るわけないだろ。

「心配するな同じ女に二度ふられるなんてマヌケが人生そうあるもんじゃねえし」

「山さん俺奈緒ちゃんに2回ふられた」

「じゃ3回目もあるかもな」

「それは…さすがにないわ」

山さんの言葉に首をふりながら俺は笑っていた。

その頃にはもう涙も乾いていた。


そうして俺の4年間の大学生活は瞬く間に過ぎた。

今にして思えば輝いていたとは言い難いが混沌としてそれなりに充実もしていた。

卒業後山さんは品川にある幼稚園や保育園向けの絵本を作る出版社で社員としではなくアルバイトとして働いている。

師匠の宮崎先生の紹介で「正社員よりアルバイトの方が執筆に時間も多く取れる上に良い作品が出来たらすぐに絵本にしてもらえるから」という配慮があったからだ。

吉野郁美ちゃんは都内の不動産会社に就職が決まり現在でも山さんとは交際中だ。

正田清は全国にチェーンがある大型書店に、善はケ-ブルテレビの社長をしているという父親の系列会社に就職した。

もっぱら今は端末に打ち込み作業ばかりの毎日だと話していた。

奈緒ちゃんは地元の厚木市にある大手保険会社の代理店で働いている。

高橋龍也は今何をしてるかさっぱり分からない。

俺は都内の旅行書籍を扱う出版社に就職が決まった。

皆が皆集まった時と同じようにまたそれぞれ別の場所へと散って行った。

卒業式の日サ-クルの部室で卒業を祝った。

皆で泣いたり笑ったりした。

俺たちはサ-クルの壁に思い思いの言葉を綴った。

不確かな記憶だが壁の落書きの中に傘男がいた気がする。

しかも1人ではなく2人。

傘をさして優しな笑みを浮かべる男が1人と傘に顔が隠れて顔か見えないもう1人の男。

確かに最初からあの男はそこにいたのだ。

誰も気にも留める事はなく俺たちは壁のヨクサルに別れを告げた。

俺が出版の仕事を就職先に選んだのには理由があった。

一念発起してバイト代を貯金して自分の作品集を出版しようとしたのは、たまたま読んでいた公募雑誌に自費出版を専門に扱う会社の広告を見つけたからだ。

学生の俺でもバイトすれば本が出版出来る金額である事を知り山さんに相談した。

「それは、またとない経験になるし第一そこらのアマチュアとは本気度が全然違う。それだけで君の立派な名刺になるよ」

俺にはサ-クルの課題を離れ書いたオリジナルの作品がいくつかあった。

【子ギツネとほうき星】

その作品が俺の大学生活で最も素直に書く事が出来た作品で自信作でもあった。

予算の関係もあって自費出版する作品はそれと残り短編童話が2本。

俺は原稿が完成すると雑誌に掲載された出版社の電話に連絡を入れた。

「町田の駅についたら私どもの携帯にご連絡頂けますか」

そう言われ指定された改札を出てそこから携帯で指定された番号に連絡を入れた。

すぐに目の前に長身痩躯の男性がに走って現れた。

男性は出版社の名前を告げると早速俺に名刺を差し出した。

「穂積と申します」

名刺には会社の名称と男性の名前だけ。

なんの肩書きも役職も書かれてはいなかった。

編集者と言われれば確かにそう見えるが穂積さんはどこか教員や牧師を思わせる佇まいの人だった。

駅前の駐車場に停めた自前の古びた四駆で町田駅を離れ住宅街の民家やマンションが建ち並ぶ一角へと車は向かった。

案内されたのは4階建てのマンションの一室だった。

当然4階建てのマンションなのでエレベーターはついていなかった。

言われるままに玄関で靴を脱いで中に通される。

そこはなんの変てつもない1LDKの1室だった。

けれど部屋には事務机が2つ窓際に並べられコピー機やバソコンや事務用品が揃ったオフィスになっていた。

穂積さんはデスクで作業中の若い女性に「エアコンつけて」と言葉をかけた。

黒髪で紫の生地の花柄のワンピースを着た女性は服装からして大人びたフェミニンなかんじがして社員には見えなかった。

2つある事務机にはそれぞれ専用の小型扇風機が置かれていて普段来客がある時以外は節約のためエアコンは使用していないのかと思わせた。

「うちでレイアウトや表紙の装丁やデザインをやってもらってる杉下です」

穂積さんに紹介された彼女は笑顔で「よろしくお願いします」と頭を下げた。

そしてそのままエアコンのリモコンのボタンを押すとキッチンのある方に消えた。

穂積さんは促されるまま俺に部屋の中央にあるソファーに腰を下ろした。

穂積さんは書棚から何冊かの書籍を数冊選んで俺の前に置いた。

「うちで過去にお客様の以来を受けてお預かりした原稿を書籍化したものです。もしよろしければ」

どの本も書店に並んでいる書物と比べても遜色ない立派な装丁の本ばかりだった。

「小説ばかりではなく自分史や歴史に関する本を出版したい方など依頼は様々ですが私どもはなるべくリ-ズナブルな値段で「本を出版したいという」方のお力になれればと数年前にこの会社を立ち上げました」

「どうぞ」

杉下さんが目の前にグラスに入った冷たいお茶を勧めてくれる。

「どれも立派な本ばかりですね」

「出版までの流れはこのようになっています」

プリントアウトされた用紙に俺は目を通す。

「メールなどでお客様と密に連絡を取り合いまして必ずご満足頂ける本に仕上げたいと思っています。一生に一度の出版というお客様もいらっしゃいます。そこは他社にはうちは負けないと自負しています」

話を聞いている途中でも彼の人柄や本に関する思いは充分伝わって来た。

「今回出版されたいという原稿は小説ですか」

「童話です」

「拝見させて頂いてよろしいでしょうか?」

俺は言われるまま原稿の入った封筒を手渡した。

彼は真剣な面持ちで渡された原稿に目を通した。

原稿を読み終わるまで無言の沈黙が続いた。

「もう随分長く書かれているんでしか?」

「今は大学生ですが作品は高校時代から」

何度か頷いた後彼は俺に言ったんだ。

「最低百部から刷らせて頂かないとうちの方での採算は取れないんですが…この枚数ですと使う紙質にもよりますが」

すぐに見積りを出してくれたが金額の数字は明らかに予算をオ-バしていた。

ロ-ンが組めれば…もう少しバイトすれば…そんな風に頭の中で電卓をはじく俺はもう心の中でここで本を出したいと心に決めていた。

「最初に読ませて頂いたキツネが主人公のお話がとても良かったです」

「ありがとうございます」

「もし本を作られるのであれば、この作品をメインにして題名もこちらがいいかと。あと他の2作品も完成度が高い。東北の田舎の工房で奥さんと別れた男性が1人ガラス工芸品を作るお話。動き出して男性に話しかける硝子のウサギの描写が素晴らしい。ひきこもりで不登校の女の子の部屋が魔性の者と通じてしまう話も一風変わっていて他の話とは違っていてすごく面白いです」

穂積さんは俺の作品の感想をそんな風に述べた。

「原稿をお客様から拝見して『ここをこのようにされたら』と意見を述べさせて頂く事もあります。けれどこの原稿にはそれがない。実に良く書かれているなと感心致しました」

勿論俺は彼らにとってお客でありリップサ-ビスというのは勿論わかっていた。

それでも俺は友人知人以外で本の出版の携わる人に作品を評価してもらえた事が何より嬉しかった。

穂積さん杉下さんに俺の原稿を渡した。

杉下さんは無言で俺ね原稿に目を通しながら時折口元に微笑みを浮かべていた。

「どうかな?君やってみたいでしょ?」

杉下さん原稿を彼に返すと黙って頷いた。

「唯野さん、どうでしょうか?まずは百部刷って唯野さんにはその半分の五十部お渡しする…というのは。使用する紙も絵本らしく上質な物をご用意しますが」

「それは、どういう事ですか?」

「百部刷ったうちの五十はうちで買い取りいたします。それなら上質な本が作れる上に唯野さんにお支払い頂く金額は見積りした金額の半分で済みます」

それは勿論俺にとっては願ってもない申し出だった。

穂積さんは俺にその理由を説明してくれた。

「童話というジャンルの作品の依頼は実は唯野さんが初めてです。私は唯野さんの作品を拝読させて頂いて思ったんです『うちは絵本のような素敵な本も作れますよ』世間に宣伝したいんです。勿論版権は唯野さんにありますから、この作品を公募に出されたりするのも自由です。そうした場合うちは販売を取り止めます。もしも、さらに増刷される事も可能です」

穂積さんはさらに付け加え。

「私独立する前は大手の出版社に勤務していました。根っから編集者です。だから気に入った作品に出会うのが何より生き甲斐で…だからどうして私の手でこの原稿を本にしたいのです」
2ヶ月後俺の手元に届いた完成品の童話集。

杉下さんが手掛けた本の装丁は暖色のややオレンジがかかった赤色の表紙で、まるでクリスマスの贈り物を包んだ包装のように素敵な出来映えだった。

月に映る箒に腰かけた魔女と子ギツネのシルエットが描かれていた。

今読むと中身の作品は未熟で恥ずかしい。

けれど本には一つ一つ黒の帯が巻かれわくわくするような紹介文が書かれていた。

俺が出版できた世界で唯一の本。

山さんの好意で児童文芸誌にも掲載させてもらえた。

どこかの出版社から連絡があったとかそんな事は一切なかったけど。

今も俺の本棚に置いてある。

知り合いに配っても残った分は段ボールの箱に仕舞われたまま部屋の隅に置いてある。

その後穂積さんの会社を訪ねる事はなかった。

けれど俺はその経験から「本の出版や書き手に携わる仕事って素晴らしいなと」

心からそう思えるようになったんだ。

結局俺が卒業した年は児童向けの書籍を扱う出版社の新卒の募集はなかった。

俺が就職したのは旅行書籍を扱う出版社だった。

入社初日から研修バッジを胸につけた俺は入社の挨拶もそこそこにオフィスの自分のデスクに案内された。

「新人の唯野彰君だ。こちら2年目の萩野谷さんね…じゃ萩野谷さん新人君の面倒よろしくね!」

「新人の唯野彰です。宜しくお願いします!」

俺はデスクの前で煙草をくわえながらPCのキ-を叩く先輩女性社員に挨拶をした。

「ったく!いつまでもつやら…」

確か2年目と聞いたが「ヤサグレ感が半端ねえな」それが萩野谷美花先輩と会った時の俺の第一印象だった。

こちらを見ようともせず入力作業を続けるその横顔は確かに美人。

しかしどこか刺々しくてソバ-ジュの髪を使い古したパンストで後ろで束ね、服装に至っては忙し過ぎてお洒落や体裁なんかどうでもいいみたいに見える。

今時誰も着ないような煤けたハ-ドロックカフェのTシャツなんかを平気で会社に着て来るような人だった。

「あの、座ってもいいですか?」

「さっきお前の席だって言われなかったか?仕事する気あるなら座れ」

俺は恐る恐る事務用の椅子に腰を下ろした。

長い沈黙が流れた。

「あの…」

「ここ色んな意味でキツイぞ。自信がねえなら早々退職した方が身のため。私も教えては辞め教えては辞められるのでウンザリしてるさ」

「いや、それは先輩のキャラに問題があるんじゃないですか?」

勿論そんな事新人の分際で会社の先輩に向かって言えるはずがない。

「さてと」

萩野谷先輩は短くなった煙草をスカルの灰皿に押し付けるとこちらに椅子を回した。

随分小柄な女性だった。

顔立ちは少し日本人離れしていてアメリカ人の女の子みたいだ。

鼻のまわりにソバカスがある、

やはり美人だがなんか迫力がある。

小柄だけど、この人見た目も言動もやたらと濃い。

「どう思う?新人」

萩野谷先輩は自分自身を指差して俺に訊ねた。

「これ、どう思う?」

ちょっと首を傾げた仕草。俺は素直に答えた。

「どうって…普通に可愛いですよ先輩」

途端に先輩の白い顔が茹で蛸みたいに見る見る赤くなった。

「ば…ばか!そんな事を聞いてるんじゃない!だいたいなんだ先輩に対して普通に可愛いって!?」

「すいません超絶可愛いです」

先輩はうんうん首を振って自分の着ているTシャツを指差した。

なんか黒地にユニオンジャック…なんかわけがわからないアルファベットが羅列されている。

一言で言って超だせえ。

「なんすか、それ。NWOBHMって」

先輩は軽蔑したよう目で蔑むように俺を見た。

「そんな事も分からないのか貴様は!そんな浅学でよく大学に入れたもんだ。少なくともそんなんじゃ私の後輩は務まらないと思えよ」

「それは一体どういう意味なんですか?」

「教えてやろう。これはニュー・ウェーブ・オブ・ブリティッシュ・ヘビー・メタルの略で1980年に英国で起きた近代メタルの起源となる重要かつ歴史的なム-ブメントなのだ」

わかるか!?そんなもん!!

だいいち旅行書籍の編集に1ミリの関係もねえ。

どうやら一緒に机を並べて仕事をするうちに萩野谷先輩は無類のロックマニアで端から見ると頭がおかしいんじゃないかと思えるようなデザインのロック関係のTシャツをこよなく愛する女性であると分かった。

別に俺は自費で本を出した出版社にいた杉下さんのような女性と仕事が出来る事を夢見てこの仕事を選らんだ訳じゃない。

しかし前途は多難である事は入社1日目で身にしみる事となった。

それは萩野谷先輩が残念は美人だからというだけの事ではけしてない。

萩野谷先輩は俺に親切に忠告してくれたのだ。


「唯野、最初に言っておくがここはかなり給料もボ-ナスもいい。けど土日は休みが欲しいとか夜はあまり残業したくないとか彼女や友達と遊ぶ時間が欲しいとか…そんなんだったらこの仕事はやめておけ。悪い事は言わない」

「先輩、仕事する前からそんな事言わないで下さい!俺頑張りますから!!」

俺の言葉を聞いて萩野谷先輩は「そうか、ならいいが」と液晶画面に目をやった。

「とりあえず俺はまず何をしたら」

萩野谷先輩は後ろの資料室と書かれたドアを顎でしゃくる。

ドアの向こうを足で蹴るような物音が先ほどから響いていた。

「開けてやれ唯野」

先輩に言われて俺はドアを開けた。

「センキュ-!おっとゴメンよ新人君、ちょっと前通してくれ」

チ-フの菅野さんがウェディングケ-キぐらいの高さまで積み上げたファイルを両腕に抱えて資料室から出て来た。

「はいよ!美花ちゃんお仕事よろしくねっと」

萩野谷先輩の机が忽ちファイルの山に占領される。

「新人教育任されたんで、こいつの机にもとりあえず、よろしく」

「はいよ!唯野君だっけ頑張れよ!」

俺の机の上にもファイルが山積みされた。

「先輩これは?」

「うちの会社で雇ってる調査員が日本中の温泉地や旅館を巡って集めたリポートだ。これを元に旅行記事のデ-タベースを作成する。社内のパソコン検索するだけですぐに記事におこせるように資料を作るのが今の私の仕事だ。今から唯野にもそのやり方を覚えてもらう」

「これ全部…いつまでにですか?」

萩野谷先輩は返事をする代わりに資料室の開いたままのドアの先に目をやる。

書棚に収まりきれないファイルや資料が段ボールに放り込まれたまま山積みになって放置されていた。

まるで製紙工場の倉庫にはる資源ゴミの雑誌の山のようだ。

「まあ今作ってるデ-タベースは来年の初年度版の雑誌や書籍に使う予定だから、まだまだ余裕がないわけじゃない。けど新しいデ-タはすぐ使いたいものだからな」

今年も来年もないって事か。

「まあとにかく急がないと情報は日々更新されて送られて来るものだ。このままでは資料室のキャパも限界を越えて私たちの仕事場の確保すら危ういという事態にもなりかねない」

そう言いながらも先輩は資料を開いて既に画面に文字を打ち出し始めている。

「唯野、お前日本に温泉と呼ばれるものが一体いくつあるか知ってるか?」

「すいません…不勉強で知りません」

萩野谷先輩は別に叱るわけでもなく淡々と言った。

「いや別にお前を試したりしてるわけじゃないんだ。私も以前気になって検索した事があってさ」

「よっと!美花ちゃん前ごめんねえ」

「日本温泉総合研究所の調べによると「現在日本にある温泉は3千以上」と記載されていた。この以上というのが曲者でな」

「唯野君足元失礼!」

「名湯がある事で知られる湯布院だけで温泉の数は2千7百を越えるんだ。それだけで世界1」

途中で面倒くさくなって数えるの止めたな…日本総合温泉研究所。

「私たちが仕事で取り扱うのは宿のある温泉ばかりじゃない。ケモノしか棲まない路線バスも通っていない山奥の秘湯もあれば源泉を仕様してないスパのような宿もある。それらを全部ひっくるめると」

「一体いくつあるんですか」

「さあ、なんか鬱で死にたくなりそうだから数えるの止めた」

先輩懸命な判断ですよ、それ。

「ところで」

先ほどから菅野さんが資料室を出たり入ったりしながら俺たち2人の前資料を積んで行く。

「先輩、これ俺には墓石に見えて来ました」

「死にたくなかったら1枚でも多く片づける事だ」

萩野谷先輩は俺に言うのだ。

「これは別に私自ら体を張った新人いびりではけしてないからな」

「そうそう新人なら誰でも通る道だよ唯野君。もう置く場所ないから取り敢えずこれ持ってて」

菅野チ-フは笑顔で俺に資料を渡した。

「そして私は今もそれを続けている」

先輩その情報いらないです。

「まあ菅野チ-フぐらいになればね」

「週4で家に帰れるし」

「帰っても×3でマイホームに1人だけどね」

やめて。新人の俺に、そんな未来に夢も希望もない話するの。

「仕事が終わんなかったら家に持って帰ってもいいぞ。基本午後に出社しても誰も文句なんて言わない。自分のノルマと締め切りさえ守れるならな」

菅野チ-フが俺に耳打ちした。

「ノルマや締め切りが早く終わるとすぐ次が来るから、ぎりぎりに仕上げるのがこつなの」

「なんか【キャッチ22】みたいなシステムですね」

「チ-フそんな事教えたらこいつ即沈没して2度と浮いて来ませんよ!」

フレックス制とかなんとか言うと聞こえいいが。

「違う!多分これは絶対に違う!」

「それから唯野…私1つ言い忘れたが」

「はあ、なんすか?」

「うち国内だけでなく世界のリゾート関連の書籍もやってるから」

「資料室は隣の部屋」

菅野チ-フは「忘れるとこでした」と手を叩きながら第2資料室の扉を開けた

それから俺の毎日は昨日を振り返る余裕もなくて。

「いいか唯野まずはこのファイルに書かれた温泉の含有成分や泉質効能地域の特色・旅館の名物料理を300字以内にまとめるんだ。写真のスペースはここ…レイアウトは後で教えるからとにかく書いたら見せてみろ」

「なんだ?この気取った文章は!?必要事項が抜けてるうえに旅行ライター気取りか?てにをはからやり直せ!!」

「このTシャツはSADISTだ!一回見たら覚えろ」

来る日も来る日も行った事もないような温泉地の記事を書き倒す毎日。

それでも。

「ちょっと萩野谷!この原稿何?あんた何年やったら仕事覚えるの!?」

「先輩…すみません。今の原稿俺が書いたやつですよね」

「後輩の原稿チェックも私の仕事のうちだ気にすんな」

少しでもその先に明るい光が見えているならば。

俺は前だけ向いて先に進みたい。そう思っていた。

「そんな顔してるんならコ-匕-でもいれてくれ唯野…お前の分とみんなの分な!」

萩野谷先輩は言うのだ。

「みんな年末進行でぴりぴりしてんだ。去年の新入社員は「お茶入れろ」と言われて「なんで私が!」ってふてくさ顔だったから…今年のやつは一味違うなってみんな思うはずだ」

ようやく仕事が一段落しかけたのは暮れも押し詰まった冬の夜の事で先輩は帰りに俺にラ-メンを奢ってくれた。

「なんで先輩は今の会社に入ったんですか?」

「本当は洋楽のロック専門誌の編集部に入りたかっんだが新卒採用に受からなかった。あっちのミュージシャンに電話でインタビュー出来るぐらいの語学力は身につけたくて大学も英文科選んだんだが…今でも英語の勉強は続けてるよ。学校はさすがに通えないけど」

猫舌らしい先輩は吹きながら麺を啜る。

「私は子供の頃からこんな外見だから小さい頃から学校で「外人」と言っていじめられたんだ」

今だったらきっと同世代の女性が先輩を見たら羨ましいと思うに違いない。

けれど子供は残酷だから周りと違っている者に対して敏感だ。

「私の両親は日本人だし先祖に外国人がいたなんて話は聞いた事がない。でもそれなりに傷ついたし中学に通う頃には学校に通うのも人とあって話すのも嫌になってた…今で言う引きこもりとかコミュ症ってやつだ」

家に引きこもって学校にも行かず毎日を過ごしていた過去があったなんて今の萩野谷先輩からは想像も出来なかった。

「それでもそこ…まあ家だけどそこが私のすべてで天国だなんて多分私は思っていなかった。私は多分そっから出たいと思ってきっかけになるものを探していたんだと思う」

夜中に何気なくつけたテレビの画面に彼女は衝撃を受けて、その場に釘付けになった。

粗いモノクロの映像の中で何のギミックもなくただ猛々しく演奏する海外のバンドに彼女は魅入られ。

「慌ててバンドの名前を紙に書いて彼らの事を検索しまくった。彼らの出ている洋楽誌はすべてチェックしてインタビューも隈無く読んだ…それが私の原点だ」

「スキルを磨いて中途採用でもロックに関わる仕事がしたいな。出来れば雑誌の立ち上げも…海外の特派員になって自分が惚れ込んだバンドの黎明期から密着してバンドと自分の名前が入った本を出せたら幸せだ」

どんな場所に居たって希望の光が一筋でもあれば人は前を向いて進めるものだ。

俺は先輩の話を聞きながらそんな風に思えた。

「先輩が中学生の時に出会ったバンドは今も」

「今でもバリバリ現役活動中だ」

「もし先輩がそのバンドのメンバーのインタビュー記事を書く日が来たら…」

先輩は丼の上に箸を置くと俺に言った。

「唯野ビール飲もうか」

「それと餃子も頼んでいいぞ!」

入社して1年はあっという間に過ぎた。

本当に寝てるんだ起きてるんだわからないような仕事に背中を押される毎日。

「唯野うちの会社待遇はあれだが福利厚生はなかなかだな。仮眠室もシャワーとかも完備されてるし」

「先輩それ世間ではタコ部屋って言うんです」

それでも俺は通勤の時間を利用して携帯端末に原稿を書き続けた。

疲れて目眩がしそうな時でも指先で打ち込み文字や出来上がった文章には今までにない強さが感じられた。

自分で言うのも何だけど。俺には学生時代には持てなかった自信が芽生えていた。

俺は「いつか書く」んじゃなくて今もこうして書いているんだ。

誰かに…出来れば大勢の人に俺の書いたものを読んで欲しい。

泣いたり笑ったり感動してもらえたら最高だ。

端末からPCのテキストに移した原稿を俺は幾つかの公募に出した。

「今度こそいけるはずた」

俺は心の何処かでそう確信していた。

それは、ある日の初夏の午後の事だった。

俺は会社のオフィスがあるビルのエレベーターを降りた。

すぐにTシャツ姿の萩野谷先輩の姿が目に入る。

「どうしたんですか?先輩会社開いてないとか」

先輩は壁に持たれて煙草に火をつけた。

「だめですよ先輩!廊下は禁煙!スプリンクラーが作動しますって!?」

「いいだろ別に…お前これ見てお行儀だの何だの言ってられっか」

先輩が指差したオフィスの入り口の扉には【関係者各位】と書かれた貼り紙があった。

「どうやら、うちの会社倒産しちまったみたいだ」


「どうゆう事なんですか!?いきなり倒産て!?」

俺は債務者に詰め寄る債権者のように先輩に聞いた。

「社長は副社長は何処ですか!?」

「金持ってばっくれたらしい」

「だって仕事だってあんなに忙しかったし年末の収支だって黒字だって」

「社長も副社長も昔は敏腕編集でならした人でライターになって独立して折からの旅行ブ-ムに乗って金が儲かったら飲食店やら不動産やら放漫経営に手を出した挙げ句…気がついた時には手遅れ。餅屋が餅屋の本分を忘れた結果がこれって訳だ」

簡潔に倒産に至るまでの理由を説明されてしまった。

俺は言葉がない。

「このビルだって自社ビルだって言うから」

「もう違う。そのうち債権者が押し掛けて来るだろう。だから今煙草吸ってる」

「俺にも一本下さい」

先輩から煙草を受け取ると俺は火をつけた。

「先輩は知ってたんすか?」

俺は天井に向かって煙を吐きながら先輩に聞いた。

先輩は首を一度横に振ると言った。

「上の人たちは薄々感づいてる人もいたみたいだが私たちは末端だからな」

「他の人たちは?菅野チ-フとか…」

「さっきまでいたよ。お前の事も心配してたぞ。とりあえず知り合いの編集者に声かけてくれるって」

「そうですか…でも俺は」

言いかけた俺の顔を先輩は見た。

「俺はもっと先輩と仕事がしたかったです」

「なら私の仕事はとりあえず成功だ」

そう言って先輩は俺にぬるくなっか缶コ-匕-を手渡した。

「いつも奢ってもらってばかりで俺は」

「なら今度会ったら何か奢ってくれ」

俺は先輩の言葉に頷いた。

「菅野さん『独り身でよかった』って言ってた。唯野お前も仕事以外でやりたい事があるんだろ?転機ってのは好むと好まざるに関わらずやって来るらしいな。私も自分のやりたい事目指してみるさ」

先輩は最後まで先輩らしく、この後何処に行ってどんな手続きをすればいいか俺に教えてくれた。

「公募の結果わかったら知らせてくれよ」


「お前の本いつか読めるの楽しみにしてるからさ」

立ち去りかけて萩野谷先輩な何かを思い出したように口を一文字に結ぶと俺に聞いた。

壁にぴったりと背中をつけて俺にバンドのロゴを見せまいと懸命だ。

「これ…な~んだ?」

「ネクロデス」

俺は即答して見せた。

「ならお前は大丈夫だ」

先輩は初めて溢れるような笑顔を俺に見せた。

公募の結果はすべて落選だった。けれど惨敗じゃない。

自信作は最終選考まで勝ち残ったんだ。

0か1しかない世界でもまだ俺は戦える。

真っ暗闇じゃなくて、まだ進む道の明かりは俺には見えている気がしたんだ。

「ピンチはチャンスだ唯野氏」

山さんはそう言って俺を励ましてくれた。

「お金や生活費は大丈夫け?」

「この一年仕事仕事で無駄遣いする暇なんて殆んどなかったよ!失業保険も申請したしね!また次の公募目指して原稿書きながら仕事探すさ」

「唯野氏この一年で逞しくなったなあ」

俺たちはアパートで互いの顔を見て爆笑した。

日本で一番前向きで明るい失業者とフリ-タ-だ。

世間ではこれを人間のクズと呼ぶのかもしれない。

考えて見れば俺の短い人生はオンやオフ静と激がやたらと激しい気がする。先が思いやられる。

しかし今は俺の生活に喧騒は止んで静寂が戻った。

夏休み外で遊ぶ子供たちの声が聞こえる。

「夏休みだからって遊んでばかりいたらダメよ!」

向かいのマンションから子供を叱る母親の声を耳にすると、いいしれぬ背徳感に苛まれるが、これもかつてない経験だと自分自信にいい聞かせ俺は昼も夜も読みまくり書きまくった。

大学を卒業して2度目の夏。季節は8月半ばになろうとしていた。

忙しくて引っ越しする間もなかったアパートで俺は創作に耽る喜びに浸っていた。

無駄なものは一切研ぎ澄まされアイデアは湯水の如く頭の中から溢れて来る。

今度こそ今度こそ、すげえ作品が書けそうだ。

もう少しもう少しで手が届く、その先にも。

こんな時間が永遠に続けばいいと俺は思った。

あまりに集中し過ぎていたせいか俺は深夜に誰かが自分の部屋をノックしているのにも気がつかなかった。

「彰…彰君いるの?」

久しくその声も聞いていなかったし名前で呼ばれる事も最近はない。

「奈緒…奈緒じゃないか?こんな時間に一体…」

扉を開けた時俺は戸口に立っていた鏡沢奈緒…かつての俺の恋人の姿を見て絶句した。

「懐かしくて涙が出そう。この部屋も街も」

涙が出そうになったのは俺も同じだ。事情は何一つ分からない。連絡だって取ってなかった。

今俺の目の前にいる彼女は痩せて頬がこけて服装も泥がついて薄汚れていた。

「部屋上がってもいい?出来ればお水を」

彼女は俺の腕の中に倒れ込むように玄関でよろけた。

彼女の体を抱き止めると今まで心の奥底深くに閉じ込めていた思いが堰をきったように奔流となって流れ出した。

死んでなんかいなかった。

俺の彼女に対する思いは今も昔のままだとその時改めて思い知らされたんだ。

彼女を部屋に招き入れた俺はとりあえず浴室を使うように勧めた。

「厚木から線路づたいに歩いて来ちゃった」

厚木からここまで歩いて来たのか!?

「お金も何も持たないで出て来たから夜中暴走族みたいな人たちに追いかけられてすごく怖かった」

部屋の隅っこで膝を抱えて喋る仕種とか口調は同じでも声も体もか細くて。

あんなに生命感があってうるさいくらいだったのに。

トムとかハックの女の子版みたいなキャラだった筈だ。

俺は浴室のバスタブに湯を張ると彼女に湯船で足を伸ばす事を勧めた。

冷蔵庫の中を見たが大した食い物は入ってない。

「ちょっとコンビニに食料買って来る」

「え~いらないよ~せっかく私痩せたのに」

馬鹿いうなよ!そんなガリガリに痩せて…死んじまうぞ!?

結局俺が自転車を飛ばしたコンビニで手当たり次第に買い込んだオニギリやサンドイッチや菓子類に彼女は一切手をつけなかった。

ペットボトルのお茶を少しだけ飲んで。

俺の煙草を一本だけ吸った。

「銘柄変わらないんだね」

彼女に聞きたい事は山ほどあった。

けれど少し話をしただけ彼女は余程疲労が溜まっていたせいか座ったまま目を閉じた。

「そんなとこで寝るなよ…夏でも風邪ひくぞ」

俺は彼女を自分のベッドに寝かせると部屋の明かりを消した。

彼女はまだ一言二言俺に他愛ない言葉を投げかけて来た。

けれどすぐに軽い寝息をたてて眠りについた。

ようやく安堵したのは俺の方。

しばらくして部屋の外に出ると携帯から山さんに電話を入れた。

朝彼女が起きる前に俺はコンビニで買った卵でオムレツを作り出来合いのサラダを皿に盛ってパンと一緒にテ-ブルに並べた。

「いらないって言ったのに」

彼女は眠そうに目をこすりながらベッドから起き出して来た。

俺が用意した朝食にはほんの少し手をつけただけでベッドで夕方まで死んだように眠り続けた。


「我が童話サ-クル花の一浪組ここ唯野君ちに全員終結~はい!皆さん拍手拍手!!」

「言っとくけど私浪人してないからね」

「ほんと嫌だったよね…その呼ばれ方」

山さんが声をかけてくれたおかげでかつての仲間全員が俺の部屋に顔を揃えた」

「まあ一年足らずじゃ皆変わらないのは当然かね」

おい高橋…お前が腰かけてる段ボールには俺の大切な大切な童話集が。

「正ちゃんは相変わらずスライムだね」

「………………」

顔真似が上手くなってる。

「やっぱ~いいな~このメンツ!うるせ~けど」

久しぶりに会った善もビール片手に顔をほころばせる。

昨夜も朝も憔悴して元気がなかった奈緒ちゃんも久しぶりに仲間に囲まれて生気を取り戻した感じだ。

「高橋君は今何をしてるの?」

「私は今癌や万病に効果がある健康薬品の販売を…今サンプルがあるんで」

鞄開けなくていい。

「正ちゃんは相変わらず本屋さん?」

「僕は今も変わらないね」

「あれ2人とも我輩とか拙者って言わないな」

「それは私たちも今や社会人だからいつまでも我輩とか言ってられないさ。失業中の誰かさんと違って!」

くそ…こいつら汚ねえぞ!?

「みんな大人なんだからあんまり人の部屋で騒いだらダメだよ」

さすが郁美ちゃんは言う事がまとも素敵だ。

「まあ文句が来たら『友達が来てんだ!』って言ってやるさ」

俺は皆に言った。

「とりあえず再会を祝して乾杯するべさ」

「…ごめん俺ビール先飲んじゃった!」

俺の部屋なのに誰1人聞いてねえし。





「さて男どもだけ雁首揃えて何の相談かって話だか、あんまり面白くねえ話だ」

郁美ちゃんと奈緒ちゃんは2人で買い物に出かけた。

正確に言うと山さんが行かせた、というのが正しい。

着の身着のまま着替えも持たず出て来たという話を聞いて郁美ちゃんは分の洋服やズボンを紙袋に入れて持って来てくれた。

郁美ちゃんは奈緒より小柄で痩せていたが今ならサイズも合うだろう。

こうゆうのは男は全然気が回らなくてダメだと思う。

後は下着とか生理用品。

郁美ちゃんの存在が今は本当に俺にとっては有り難く思えた。

「うちの子と奈緒ちゃんは大学辞めても時々メールのやり取りしてたみたいだな。俺たちラインとかやらないしラインとかだと話せない事もあるだろう」

山さんの話によれば就職してから一年奈緒ちゃんは同じ職場に勤める男と交際した後に婚約までしていたらしい。

俺にとっては驚きもあったし胸の奥が少しひりつくような確かに愉快な話ではなかった。

それでも後々彼女が婚約したり結婚して幸せならば良かったし自分なりに過去の清算も出来ただろう。

あんな彼女の姿を目の当たりにさえしなければ。

「相手の男は確か鍋川とかいったな秋田とか東北に多い姓だな親類筋がいたらごめんな。俺は虫がすかねえ」

婚約して同じ部屋で同棲生活を始めたのはいいが。

「そのうちに余所に女を作って戻って来なくなった。可哀想に食事も喉通らなくなってあんな風に」

その場にいた誰もが無言で山さんの話を聞いていた。

「まあ奔放で何かとはっちゃけたとこがある子だけど俺たちの仲間だ」

山さんはちらりと俺の顔を見た。

「過去はどうあれ…なあ唯野氏」

「過去なんてどうでも」

俺は自分自身に言い聞かせるように言った。

「問題は奈緒…あの子が今は酷くうちひしがれてるって事なんだと思う」

「俺としては昔の焼けぼっくいに火的な展開になると話は安心な方へ向かうんだが」

「それは今する話じゃない」

「そうだな、それはちょっと欲張り過ぎた。気を悪くしないでくれ、だけど唯野氏。行き場が無いあの子は、お前の部屋のドアを叩いたのは事実なんだぜ」

「うちに来ればみんなに会えるからだと思うよ」

俺はそこに並んだ連中の顔を見て少し笑った。

「まあこのメンツじゃ俺のとこ来るのは当然だけどね」

「なんと」

「失礼な!」

場の空気が緩んだ。

「ま、そういう事にしといてだな、唯野氏。奈緒ちゃんは元彼のお前に預けるがいいか?」

「あっちが逃げ出さなきゃ俺はかまわないさ」

「したっけ!俺たちは俺たちに出来る事するべ」

山さんは俺たち全員の顔を見まして言った。

「ない頭でいくら考えようとしても無駄だ。俺たちに出来るのは昔から遊ぶ事だけだ」

俺たちにはもう長い夏休みもなければ学生でもない。

だから集まるのは仕事が終わった夜や休日に限られる。

行ける範囲も限られている。

でも彼女が昔を懐かしんでここに来たなら・・俺たちは昔のようにつるんで精一杯ばかをやって、彼女の笑顔を取り戻してやるだけだ。

そうして俺たち迷うことなく全力でそれをやったんだ。

夜中眠ろうかと思っていると突然誰かが扉を叩く音がした。

ドアを開けると正ちゃんが口を真一文字に結んだ顔で立っていた。

黙って俺にコンビニの袋を渡すと「仕事の帰りに寄っただけだ。邪魔はしない」そう言って帰ろうとする。

「上がって行きなよ」

俺がそう言うと何だか険しい顔でドアを睨むと「また来る」と言って帰って行った。

今更だけど正ちゃんはもしかしたらと思った。

だとしたら彼は本物の侍みたいだと俺は思った。

また扉を叩く音がする。

「ああ我輩だけど君新しいドラクエは買ったかな?」

「買ってない」

俺は扉を閉めようとしたが片足をドアの隙間に突っ込まれて閉められない。

訪問販売でおかしなスキル身につけやがって。

「FFでもテイルズでも構わないんだが!」

間口が広がってるし。働いてんなら買えよ。

翌日は奈緒ちゃんは郁美ちゃんの部屋にお泊まりに出かけた。

女の子同士なら気がねなく話せる事もあるだろう。

俺は部屋で今までと同じように1人になった。

部屋が広く感じたし明らかに以前とは違う彼女のいた空気が残っていた。

彼女のいない部屋はより強く彼女の存在を俺に語りかけているようで寂しくもあった。

PCの電源は入れたままにしてあるが液晶画面は待機モ-ドのままになっていた。

「書きかけの原稿に少しでも手をつけようか」

そう思ったが色んな事があり過ぎて俺はかなり疲れていたらしい。

そのまま床に大の字になって深い眠りに俺は落ちた。

翌日の午後になってから善が奈緒ちゃんと一緒に帰って来た。

俺の部屋に直接来るつもりが駅で彼女と鉢合わせしたのだと言う。

平日だったが善は「有給を取ったのでこれから俺の地元で飯でも食わないか?給料出たんだ」といつもの人懐こい笑顔を俺たちに向けた。

俺たちはアパートを出て善の実家にある品川駅まで電車に乗った。

夕飯を食べて品川の港付近をふらふら3人で歩くうち結構遅い時間になった。

夜の海浜公園は人影もなくひっそりと静まりかえっていて3人でなければ少し怖いくらいの雰囲気があった。

「今日はよく歩いたな」

そんな話をしながら屋根つきの円形のベンチに3人で腰かけた。

波の音は聞こえていたか?沖を通る船の灯りは見えていたか?俺にはそうして記憶がまるで残ってはいない。

「昔の話だけどそんなに昔じゃない」

善がベンチに両手を投げ出すようにして俺にした話以外は俺の耳にも目にも何も入らなくなってしまったからだ。

「唯野君、俺奈緒ちゃんとつき合ってたんだ」

俺は自分の耳を疑った。

「いつの話だ?」

「唯野君が奈緒ちゃんと別れた後…告白したのはその前だけど」

「かぶっていた時期もあったんだよ」

俺の背後で奈緒ちゃんの声がした。

「3年になってすぐ告白して卒業する前に別れたんだ」

「私の方から別れようって善ちゃんに言ったの」

「あの時は俺が子供過ぎてダメだったけど俺奈緒ちゃんの事を忘れた事一度もなくて、ずっと好きだったんだ」

それは俺だってそうだ。ずっと今でも彼女の事が好きだ。多分善お前よりずっと俺の方が、ずっとだ。

「私もずっと善ちゃんの事が忘れられなくて…今日郁美ちゃんの家に泊まった帰りに2人で話し合ったの善ちゃん言ってくれたの『もう一回やり直そう』って」

ちょっと…ちょっと待ってくれ。俺は自分の感情を抑えようと必死だった。

「なら…なぜ来た?」

「え」

「じゃあなぜ善のとこじゃなくて俺のとこに来たんだ」

「だって善ちゃんの家は実家だし迷惑はかけられないし」

「俺ならよかったわけか」

もうその辺にしとけ…惨めな気持ちになるだけだ。

「迷惑だった?」

彼女は悪びれる様子もなく俺にそう聞いた。

「ああ迷惑だったよ」

俺の口がはっきりそう答えた。こんな事になるなら。

「善は俺の気持ちは勿論知ってたよな」

俺と善は親友だと長い間思っていた。

だから奈緒ちゃんとつき合った事も別れた時の事も善には胸の内を打ち明けた。

落ち込む俺を励ましてくれた事もあった。

だけど善は俺に何も話さなかった。

「みんなが家に集まって奈緒ちゃんの事心配して色々やってる時お前は何してた?俺の家に奈緒ちゃんが寝泊まりしててお前はどう思った?」

「でも彰君は私に何も」

当たり前だばか野郎。あんな状態のお前に何が出来るって言うだ。

俺は思考する事を投げ出した。

そうして口をついて出た言葉に隷属する事にした。

「善俺はお前のしてる事納得いかねえわ」

善は無言のままだった。

「立てよ」

俺が歩き出すと善は無言のまま俺の後について歩いた。俺が立ち止まると善も歩みを止めた。

「殴ればいいさ」

善は表情を変える事なくそう言った。

その言葉で俺の人間性とか抑制の糸が音を立てて切れた。

「無抵抗のやつ殴れるかよバカ!」

口をついて出たのは極めて人道的な台詞だった。

「そんなんで女1人守れると思ってんのか!さっさとかかって来やがれ!!」

かつ非論理的な言動。

俺1人倒したからと言って世間や悪から女を守れる道理などない。しかし俺はその時彼女にとって善にとってそうあるべき存在であると自分で勝手に思っていたのである。

善は…俺たちの仲間うちでも最も笑いのセンスに長けた男だと今も信じて疑わない。

あの時善が俺に対してやった事は善の冗談の中では最高の部類に入る。

ただ惜しむらくは俺にそれを笑って受け止める器量がなかった事だ。

いっそ最初から最後まで冗談なら本当に最高だった。

けど現実はそう上手くいかないみたいだ。

「いいの?」

善が蒼ざめた顔で言う。

「来ないならこっちから…がは!?」

言い終る間もなく俺は顎の下に強烈な一撃を食らった。

「言ってなかったっけ?俺高校の時ボクシング部」

そんな話は全然聞いてねえ。

俺は口の中に溜まった血を吐き出すと善の顔に拳を振り上げた。

「お前知らねえ事ばっかしだな!!」

俺のパンチはスェ-とかなんとかのボクシングのテクニックにいなされて虚しく空を切るばかり。

一方善のパンチは右左と的確に俺の顔面を捉えた。

善がボクシング経験者だって事はよくわかった。

一方俺は喧嘩の経験すらほとんどない。

だけど俺はこいつの前で膝をついて倒れるのだけはごめんだった。

俺は倒れない。こいつに俺は倒せない。

そう呪文のように心の中で唱え前に前に出た。

こいつに俺は倒せない。一方俺の拳はこいつには当たらない。

どうする?

善は俺の顔しか殴って来ない。だけど俺の拳も当たらない。当たらないなら…

「どうする?」

俺は善が降り下ろした拳を掌でしっかりと掴んでいた。

「どうすんだよ?善ちゃん」

俺は右手の拳を握りしめると力まかせに思い切り善のこめかみのあたりに打ち下ろした。

気分は最低だった。

それで俺と善の形勢は逆転した。俺はやつを地面に引き倒し馬乗りになって殴り続けた。

息が切れてすぐに荒くなる。まるで処女と童貞の初めてのセッション。

ただ、はあはあ言うだけ。いや汚いオカマの組んず解れつだ。

俺の頭の中でどうにもケダモノになりきれない部分がテレビで見た動物のメスの取り合いを連想させる。

いっそ2人ともケモノに生まれたらよかったんだ。

人間はケモノのようにいかない。俺には勝ったところで既に敗者の席が用意されてる筋書きだ。

力だけの世界であったらよかった。

そしたら奈緒ちゃん俺はこの場で勝ち名乗りの遠吠えを上げて、こいつの見てる前で君を思う存分欲望の命ずるままに犯しまくってやれるのにな。

ふと背後に目をやると彼女はデンマークの人魚姫みたいに遠くの海を見ながら夜空に向けて煙草の煙を吹かしていたんだ。

悲しくなって虚しかった。

人間の皮膚は気持ち悪いくらい殴っても殴ってもぶよぶよしてて手応えがない。

「もういい」

俺は善の体から離れると立ち上がって彼女のいるベンチに腰かけた。

暫くして善ものそのそ起き出して俺の隣に腰かけた。

何か話したかも知れないが記憶にない

ただ3人でまんじりともせずに公園で夜が明けるのを待っていた。

「先に行ってくれ。俺もう少ししたら行くから」

夜が明けた時俺は善と彼女にそう告げた。

「だめだよ!心配なんだから!」

触れたら手が切れそうな薄っぺらい情けだと俺は思った。

「一緒に駅まで」

伸ばした彼女の手を俺は降り払った。彼女がどんな顔をしてるかなんて知らない。

俺は気にもならなかった。

「じゃ俺行くわ」

俺は立ち上がって駅のある方角を目指して歩き出す。

夜が明けて太陽が出たら俺のシャツは善の血と泥で汚れていた。

結局2人は俺の後をのろのろついて来る。

考えうる限り最も愚かな人間の行進に思えた。

海が次第に遠くなり造成中のたたっ広い土手の下の河川敷のような場所に出た。

テニスコートや野球場の工場中らしく放置された重機が散在する。

唯一芝が敷かれた公園の前で俺たちは足を止めた。

名前も知らない枝振りのしっかりした木の枝にネクタイを引っ掛けて男が1人首を吊って死んでいた。

死んでいると遠目にはっきり見てとれるのは男の首の辺りが奇妙な角度にぽっきりと折れていたから。

生きてる人間の首の角度じゃなかった。

ワイシャツにス-ツパンツ姿の男の前には出勤や通学時間前にもかかわらず沢山の人だかりが出来ていた。

全員が手に手に棒のような物を手にした群衆は死体の周りをぐるりと取り囲みしきり指差しなどしながら話しこんでいる。

手にした棒で死体を引き下ろそうとしているようにも見えた。

そのうち群れの中の誰かがこちらに気づいて手を降りながら芝生の上を歩いて来る。

やって来た1人の男のなりを見てようやく俺は彼らが何の集まりなのか理解した。

「首吊りだ!首吊り!」

「見りゃ若え身空で何で死んじまうかねえ」

早朝ゲートボールに集まった老人たちだった。

「女によさせてもらえなったんだよ、ありゃあきっとな!だから死んじまったんだ」

太った老婆が歯の抜けた口で引き笑いをすると誰もがつられるようにして笑う。

「おまんこさせてもらえねえで普通死ぬかあ?」

「俺は死なねえ」

「弱いんだよ」

「情けねえこった」

どの老人の顔を見ても木の上の遺体から生気でも吸いとったように上気して瞳は子供のように輝いていた。

申し訳程度に口の中に張りついた金歯を見せて笑っていた老婆が俺を見て怪訝な顔をする。

「こんな朝早くあんたらここで何してる?」

「その服どうした?泥と血まみれじゃねえか!?」

「わかった!わかったで!お前らあの男の仲間だね!?」

「俺たちは迷惑しとるんだ!さっさと下ろして持って帰れ!!」

俺たちはいつの間にか集まった老人たちに周りを取り囲まれ謂れのない罵声を浴びせられた。

「まるで指輪物語に出て来るゴブリンみたいだ」

俺はその時思った。

奈緒ちゃん君が教えてくれたマ-ク・トゥエインの話、やっぱり君は正しいよ。彼は偉大な作家なのに間違えた。

書いちゃいけないんだよ。

輝く日々の続きなんて。追いかけたらだめなんだ過去なんて。

なのに君はどうして僕のとこなんかに来てしまったんだろう。

ト-ルキンの指輪物語が盟友であるルイスを激怒させたのには訳がある。

彼はただ書いたんだ。平面な地続きの世界を。

神も悪魔も生も死もみんな同じ地続きのこの世界に存在すると。

たとえば俺が今見ている世界。

暴徒と化したゲートボールの老人たちに囲まれ罵声を浴びる俺たちの先には木にぶら下がった死体があって。

それを下から眺めてる黒い服と黒の傘をさした男。

遠くに海があって太陽が隠れた雲の隙間から伸びた光の帯を海が映している。

扮装地域で失われる大勢の人の命とか食料不足で死んで行く子供たちの話はたまにニュースで見るけれど。

俺は今ここにこうしている世界の事しかわらない。

だけど「ここが地獄なんだ」と俺にはその時思えたんだ。

「なるほど!それで貴方様は死のうとして死にきれずに私どもに暗殺をご依頼頂いたと」

「まあ概ねそんなところだ」

「申し遅れました。私の名前はモ-ト・セフと申します。国によってはrを発音したりしなかったり。ビ-ルが大量消費される国てばモルトと呼ばれます」

男は俺に一枚の羊皮紙を差し出した。

「こちらが契約書になります」

「随分古風だな」

俺は渡されたペンを引ったくると署名欄に自分の名前を書き入れた。

「これはラテン語の文字か?見たところ金額は書いてないようだが俺はたいそうな金額は支払えないが」

「お金は頂きませんよ。代わりに別の対価で払って頂きますので」

「さしずめ死神が魂を要求するようなものか?」

「私は死神ではありません。少なくとも貴方が考えるような…それともう1つ、よろしいですか?」

俺はモ-トという男の顔を改めて仰ぎ見た。

「対価に魂をと申されましたが貴方の魂に一体どれ程の価値があると?」

俺は傘男の言葉に絶句した。

「今から契約成立に基づく説明をいくつかさせて頂きます。よろしくて?」

俺は頷いた。

「因みに私の名前はモ-ト・セフですが、ここにいるこの子の元セフレという意味ではございませんので」

「違うよ」

「それでは貴方様と私たちの契約成立の証を」

男の手にしていた黒い傘が目の前で見る見るうちに角笛に姿を変える。

夜の公園に街に響き渡る禍々しくも勇壮なら調べ。

殺したい者と殺されたい者そして殺させたい者の物語の幕開けを告げる。

しかしそれは今は話せない。

それは俺にとって少しだけ悲しみを伴う物語でもあるからだ。





《 傘男 了 》





【 あとがき 】
申し訳ありません。平謝り。土下座なんでもする所存です・・皆様にふかく謹んでお詫びします。作中に出てくる高橋は実在します。今回数合わせで出したらどんどん前に来るので大変でした・・

【 その他私信 】
自分のせいとはいえ5日ほど寝てないので今から冬眠します・・


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