Mistery Circle

2017-08

《 月下美人 》 - 2012.07.15 Sun

《《 2014 オススメMC 総合三位 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 星十作品 》》

Anniversary Mistery Circle Vol. 50掲載 

《 月下美人 》 

 著者:鎖衝






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 ――リュート・D・クロフォード。
 ロシア北部、ソレトレンツクの森にて。


 凍て付いた木々の遥か奥深くから、狼の上げる遠吠えが聞こえた。
 姿はない。まるで漆黒のような暗い闇だけが密集した針葉樹の間に垣間見えるだけだ。
 誰もが黙る。空はやけに薄暗く、木々を分け入るかのようなけもの道は、このキャリアカーがぎりぎり通れる程度の狭さで左右にうねりながら続いている。
 足元から、積もった雪を掻くキャタピラーの音が響いて来る。しばらくの沈黙の後、中断された話はようやく思い出されたかのように再開された。
「それからなぁ」すきっ歯のロレントが話し出す。周囲の視線が一斉に集まった。
「案外ディオラのやつもいい加減な女だったに違いないたぁ思うが、その間男の方は更に輪を掛けていい加減だったんだろうな。やっこさん、ようやく婚約者を追い出したはいいんだが、今度はその間男の方が見付からねぇんだ」
 言いながらロレントは、もうそろそろ空になりそうなビールの瓶を持ち上げ、下卑た笑いを見せる。
「好き者のディオラの奴ぁ懸命に男の名を呼び家の中を探して回るが、そいつは一向に見付からなねぇ。ベッドの下、浴室の中、クロゼットの中にもいやしねぇ」
「それでどうなったんだよ、そいつは」
 葉巻の煙を吐き出して、苦笑を洩らしながらヴァシリーの親父は聞いた。
「婚約者と一緒に北極海行きの船の上さぁ。船室でトランクを開いたら、間男の奴ぁ、中から女もののパンツを履いたまんま飛び出てきやがった」
 誰もが笑った。もう既に何百回となく聞いた筈の話なのに。笑い声と共に吐き出す息が一斉に白く濁り、視界がにわかに悪くなる。
 ゴツゴツと激しく揺れるクローラーキャリア(キャタピラ式の貨物トラック)の荷台の上から、陽の射さない暗い空へと向かって笑い声が轟いた。
 この地方は十二月から翌年一月の終わりにかけて一日中太陽の昇らない(昇っても薄暗い)季節へと差し掛かる。いわゆる白夜の反対、“極夜(きょくや)”と言う自然現象だ。
 僕達ウルクスの民は定住地を持たない。越冬地を求め、国境を越えながら広い大陸を移動して歩く。秋から春へと渡り住む遊牧の民だ。
 先日まで過ごしたホスクグルクの長い長い秋を経て、雪に追われるように遠くのモンゴル国境線を目指す。いくつもの山といくつもの谷。そしていくつもの町や村と、いくつもの小さな川を横切りクローラーキャリアの隊列は進む。
 今の時代、世界をめぐる情報の恩恵は誰にでも平等に与えられ、冷暖房の効いた住み心地の良い居住区に暮らし、車は当たり前のように宙を繰り、家の中には最先端テクノロジーの機器が溢れ返っていると言うのに、我々ウルクス一族は未だこうしてアナログ極まりない旧世代な生活を続けている。
 メガロポリスの摩天楼の代わりに、果てしなく広がる大平原。高層アパートメントの代わりに、大きな布を貼り合わせたグル(ゲルとも言う)。ハンバーガーの代わりに、焼いた野ネズミや自然の野草。テレヴィジョンの娯楽の代わりに、今こうして交わされているようなガキの頃から何度も何度も聞かされた与太話。
 滅多に文明に触れる機会は無くても、僕達は特に困る事はない。この移動だってゆうに一カ月を超える大移動にも関わらず、全くなんの苦労も感じてはいない。むしろ僕にとっては一年の中で最も楽しい時間ですらある。
 氷点下の空の下、幌さえも外した荷台の上で、朝も夜もなく腰を痛めながら揺られ続けているだけだと言うのに、誰もが笑顔を絶やさない。きっと皆も同じようにこの状況を楽しんでいるのではないだろうか。
 燃料と食料を補充に立ち寄る見知らぬ町も、次第に変わって行く風景と人の肌の色も。たった一本の酒やチョコレートバーを賭けて戦う一夜毎の馬鹿話合戦も全て、僕にとっては楽しい事この上ない娯楽だ。
 もちろん時には今ある生活とは違う都会的なものに憧れたりする事はあるが、それでもそれはほんの僅かな一過性の憧れと言うだけ。実際はこれ以上を望む事はないし、例え望んでも叶えられる術はないのが現状だ。
「おいおいロレント。どうでもいいがお前、そのディオラの浮気話は今回の移動でもう既に三回目じゃねぇか。新しい話はいっこもねぇのかよ」
 狩りの得意なオマリが、意地悪そうな声でそう聞く。するとロレントはすきっ歯の隙間から風のような笑い声を洩らしつつ、「まだ二回目だよ」と答えた。
「とっておきの新作はあるさぁ。だがそれはまぁだ今日じゃねぇ。勝負所を見極めとかねぇと失敗に終わるからな」
「もったいぶるなよ、どうせまたどっかのアバズレ女の話だろうが」
 再び笑いが起こった。だが今度の笑いは、嘲笑めいた笑いでもあった。
 ロレントはビールの瓶を振りかざし、唾を飛ばしながら食って掛かる。片やオマリは尚もロレントを挑発し、荷台の上の笑い声はますます大きくなる。
 僕は笑いを噛み殺しつつ、凍て付き冷たくなった瓶を傾ける。冷えた身体に冷えたビールは厳しかったが、喉を通り過ぎると同時にじんわりと腹の底が温かくなるのが感じられた。
「おい、ボラグ坊や。忍び笑いなんぞ洩らしてねぇで、お前も何か一つ話してみろよ」
 突然にオマリから話題を振られて僕は慌てる。しどろもどろになりながら、「僕には何もないよ」と答えた。
「相変わらずつまんねぇな、ボラグ。座の一つすら盛り上げる事が出来ねぇのかお前は」
「無理だよ、僕じゃあ……」
「これだから女っこの一人も知らねぇ小僧って奴ぁつまんねぇんだよな。おめぇのその引っ込み思案はどこから来るのか知ってるか? そいつぁ女の一人も口説けねぇ自信の無さから来てんだぜ」
 そしてまた下品な笑い声が高らかに響く。さっきまで怒っていたロレントまで、僕を指差して笑っていた。
 僕は一応笑顔は返したものの、内心は嫌な気持ちで一杯だった。――余計なお世話だバカ野郎。内心で毒づきながら、僕はもう一口ビールを呷った。
「おい、おめぇら。坊主に余計な事抜かしてんじゃねぇぞ」
 突然、荷台の運転席から低く鋭い声が聞こえた。我々の族長である、バガンの声だ。見れば運転席後部の窓が幾分開いている。どうやらバガンもまた、我々の話を聞いていたらしい。
 笑い声が止む。あのオマリでさえも僕から目を逸らしてそっぽを向く。誰であっても、僕の父、バガンの事は怖いのである。
 場に気まずい雰囲気が流れたが、それはほんの僅かな時間の事だった。すぐに酔いどれのオットーが話題を変える。
「なぁ、アンタはなんもねぇのかよ、そこの客人」
 呼ばれてすぐに、“彼”は自分の事だと気付いたようだ。無言のままずっと空を見上げていた“彼”は周囲の人の顔を見回し、帽子のつばを上げながら「あぁ、どうも」と苦笑した。
「私は特に何も。むしろ皆さんのお話しを聞いている方が新鮮で、ずっと楽しいもので」
「新鮮と来たもんだよ。こんなカビ生えた下世話噺ばっかりだってぇのに」
 ロレントの言葉に皆が沸く。再びその場の空気が和み始めた。
「大体おめぇさん、俺達の越冬地まで何しに行くんだね。目ぼしいものなんぞなんもありゃしねぇぞ。唯一金になるものと言えば、春の終わり頃に生えて来る奇妙な形の茸ぐれぇだ。あいつを中国人バイヤーに売り付けて稼ぐぐらいしかねぇ」
 ヴァシリーの親父が言うと、彼は笑いながら、「それもいいですね。冬虫夏草の生える場所があるんですか?」と、逆に聞き返して来た。
「おぉ、そうそう、そうだ。そんなむつかしい名前の茸だ。あんなの何がいいんだかなぁ、揚げて食っても旨くねぇってのに」
 聞いて彼はまた笑った。
「いえいえ、まさかそこまでお邪魔はしませんよ。用事が済んだら途中下車させていただきますから」
 彼がそう言うと、一瞬の間を置いて誰もが大笑いをした。
「途中下車? 途中下車だってぇ? 客人、アンタぁどこかおかしいのかね。もうここから先、越冬地に着くまでは町も村もねぇよ。アンタが乗り込んで来たボルサエヴォの町が最後さぁ。もうどこで降りたって、行く場所なんかありゃしねぇ。年が明けて雪と氷が溶ける頃まで、俺達と一緒に越冬地暮らしって事だ」
 ヴァシリーの親父の言葉に、彼は、「そりゃ困る」と、全く困った顔もしないまま答える。
「私はただ探し物を見付けに来ただけですので、ひと冬の居候はちょっと困るなぁ」
「探し物? そりゃなんだぁ一体。まさかこんな場所で何か落としたって話じゃああるまい」
「いえいえ、そうじゃあないんですけどね」彼は愉快そうに言う。
「なんでもこの辺りには、滅多に見付かる事のない珍しい花があるそうで。私はそれを探しに来たのですが」
「花ぁ? 花を探しに来ただって?」
「えぇ、そうです。なんでもこんな極夜で、極寒の季節にしか咲かない珍しい花らしく、ファントム・リリィ――あぁ、この地方では“月下美人”と呼ばれているんだそうですけど」
 またしても皆の大笑いが始まる。だが今度は、そこに僕の笑いも加わった。
「何か……変な事言いましたか?」
 彼は怪訝な顔をして聞く。そしてそれには、僕が答えた。
「その花はこの地方に伝わる童話の中だけのものだよ。愛しい子供を亡くした母親が三日三晩泣き通し、それを見て痛ましく感じた雪の精霊が少しでも慰めになればと咲かせた架空の花。残念だけど、さすがに物語の中のそれは見付けられないんじゃないかなぁ」
「へぇ、そう言うものだったんですか」
 彼の言葉にまた皆が沸く。ロレントなどは指をさしての馬鹿笑いだ。
「アンタ面白いなぁ。――名前、何て言ったっけ? ルート? シュートだっけ? 一体どこから来たんだよ」
「リュートです。リュート・D・クロフォード。米国人です」
「アメリカンか。こりゃあ新しい話のネタが拾えたな」
 言うと皆が口々に、そりゃ反則だと笑いながら咎めた。
 彼――リュートと名乗ったその男は、やけに風変りな印象の人間だった。
 毛皮を貼り合わせた長めのコートに、耳まで隠れる大きめの帽子。牛革のブーツの上にゲートルを巻き付けている所まで全て、我々と同じ遊牧民の衣装そのものだった。なにしろボルサエヴォの町で最初に彼から声を掛けられた時には、その町の住人だろうとさえ思った程なのだから。
 そういえば彼の操る言語もまた、我々との会話に困る部分が無い。多少のイントネィションの違いはあれど、普通にこうやって話す分にはまるで問題はなかった。
 更には一体どこでそれを習ったのかと聞きたい程に、我々の風習などにも詳しく、その帽子の下から覗く端正な白人の顔立ちさえ見なければ、僕達と同じ民族だと勘違いしてしまいそうな雰囲気であった。
 リュートは、ウォッカの小瓶を軽く呷りながら、皆と一緒になって笑っていた。
 本当に風変りな人だな。僕は彼を観察しながらそう考える。うさん臭いが憎めない。妙ではあるが、どこか人を惹き付ける魅力を持っている。変り者ではあるが、どこがどう変わっているのかが具体的に説明出来ない。そんな不思議な雰囲気を持っていた。
「でも、おめぇさん、そいつは嘘だろう? 本当はもっと別の目的があってここに来たんじゃあねぇのかい」
 ヴァシリーの親父がそう聞くと、「いえ、嘘ではないですよ」と、リュートは澄ました顔で答えた。
「もっとも、その為だけに来た訳でもありません。目的はいくつかあるのですが、その中の一つが“月下美人”を是非見てみたいと言うものでして」
「ご苦労なこった。だがおめぇさん、常識で考えたってこんな場所に花なんか咲くもんかぁね。俺も彼此六十年以上もこの森を通っているが、さすがにこんな陽の射さない氷点下の森の中、花どころかどんな植物にさえもお目に掛かった事ぁねぇよ」
「そりゃあそうでしょうね」リュートは笑った。
「有り得る話じゃあないだろうって思ってはいましたがね。それでもやはり、そのロマンに賭けてどうしても来てみたかった。なので、あっても無くても私は一向に構わないのですよ。ただ単に、訪問が目的の為の事なので」
「変な奴だな、あんたは」
 ロレントがまたしても嘲笑しながらはしゃぐ。失礼な事だとは思ったが、どうやらリュート当人はまるで気にしてない様子で、一緒になって大笑いをしていた。
「じゃあ何だね。他の目的ってのはどんなのか、是非に教えて欲しいもんだね」と、オマリ。
 するとリュートは、「あぁ、もう一つは既に叶いました」と、答えた。
「へぇ、叶ったのかい。今度は一体、何探しだい」
「探し物じゃないですよ。もう一つの目的は、今こうして皆さんと一緒に酒を酌み交わしている事です。――極夜の空の下で乾杯をする。これが私の一番の目的でしてね」
「なんの意味があるんだ」
 ロレントが叫んだ。
「意味はありますよ。理解はし難いかも知れませんが、私的にはこれがまた結構、洒落ていて粋な旅の目的なんですが」
「全然わかんねぇよ!」
 ロレントの言葉に、皆が苦笑する。するとリュートは、「充分、粋じゃあないですか」と、彼もまた苦笑を洩らしながら反論した。
「じゃあ皆さん、どうしてこのキャリアカーに幌を張っていないのですか? こんな陽も射さない暗い空の下、零度を下回る極寒の森の中、少しでも暖を取ろうと思うのならばなるべく外気を遮断するべきではないのですか?」
「それはまぁ……なぁ?」
 思いもよらぬ返答に、ロレントは言葉に詰まりながら周りを伺う。もちろん誰も助けようとはしていない。
「つまり、皆さんはこの状況を楽しんでいる。そう言う事ではないのですか? 例えどれほど寒かろうが、薄闇ばかりの寂しい森の景色だけだろうが、この世界と同化しながら旅を謳歌している。これが粋でないなら、何と表現すべきでしょう。少なくとも私は“今”が楽しくて仕方ありませんね」
 誰もが黙った。唯一反応したのは、恐らく族長のバガンだろう。運転席側の開いた窓から、低く唸ったような笑い声が聞こえて来た。
 その時誰かが小さな声で、「アゥラーラ」と呟いた。同時に皆が空を見上げた。リュートもまた、皆から一瞬遅れて同じ事をした。
「あぁ……」リュートが感嘆の声をあげる。
「オーロラだ。なんて贅沢なんだ」
 少しの間を置き、またしても笑い声が湧き上がる。
「アゥラーラが贅沢か! こりゃあいい!」
「アンタ本当に面白い人だな。アメリカンってぇ民族は、みんなそんな感じか?」
 言われてリュートは、「まさか」と笑う。
「どうやら私はどこの国に行っても変わり者に見られるらしいですね。――でも、これは本当に贅沢ですよ。普通に生きているだけなら、オーロラを見る機会なんて一生の間に一度も無い筈ですから」
「なるほど、他所の国じゃあそうなんだろうな」
 ヴァシリーの親父が言う。
 やがて沈黙が訪れた。誰もが口を閉ざし、空を眺めた。
 言われてみれば、確かにそれは贅沢な事なのかも知れないなと思った。僕もまた皆と同じように物心付く前から今と同じ生活をし、そしてアゥラーラもまた、ごくありふれた季節の風物詩的なものでしかない。だがそれを初めて体験する者にとっては、限りなく貴重なものなのだろう。
 面白いなと、僕は思った。僕自身がなんとなく感じて、なんとなく興味を惹かれているものの根本が何なのか。それを彼が、片っ端から“言葉”にしてくれている。そんな気分だった。
 なるほど、ようやく判った。この一カ月にも及ぶ長い長い移動の旅が、苦しくも楽しい理由を。何度も何度も同じ話を聞かされながら、それを面白がっている理由を。
 多分これがリュートの言う、“粋”であり、“贅沢な時間”なのだろう。
 我々の祖先から続くことわざに、「移住の民は、一度味わってしまったならばやめられない」と言うものがあるが、なんとなくこう言う部分を指して言っているのだろうなと、僕はぼんやりと考えた。
「続けようか」
 突然のヴァシリーの親父の言葉に、沈黙は破られた。
「続けるって、何を?」
「何をって……もちろん、今夜の賭けの事さ。さぁさぁ、次はどいつだい。話の続きを始めるぞ」
「次はお前か、オマリ」
 ロレントの言葉に、「よせやい、俺ぁついさっき、ウノラス鳥の求愛ダンスの話をしたばかりじゃあねぇか」と、それを拒んだ。
「じゃあ、オットー。お前だ」
 言われて、既に顔が真っ赤に染まっている酔いどれオットーが、「お、俺ぁパスだ」と、呂律の回らない口調でそう返した。
「なら……ボラグ。今度こそお前の番だな」
 視線が一斉に僕に集まる。そして僕もまたパスを宣言しようと手を挙げかかったその瞬間、皆はそれを拒ませまいとばかりに、盛大な拍手をし始める。
「やめてよ、僕は何も無いよ」
「無い事ぁないだろう。何でもいいから話せ話せ」
「この際だから、女の話じゃあなくても構わねぇぞ。面白けりゃなんでも許す」
「だから……僕は面白い話なんか何も無いって」
 言うが、誰も聞く耳は持たない。リュートでさえも愉快そうな顔をして、ウォッカの瓶を持ったまま拍手をしている始末だった。
 はぁと、白く濁る溜め息を吐き出しながら、肩をすくめた。
「じゃあ、何でもいいって言うんなら、童話でも語るよ?」
「童話だぁ? お前まさか、洟垂れのガキ共に読み聞かせするような話をしようってんじゃあねぇだろうな」
 ロレントの言葉に、「その通りさ」と、僕は答えた。
「誰もが小さい頃に聞いて育った、その童話さ。何でもいいって言っただろう? なら僕はその話をするよ」
 つまんねぇ、ふざけるなと、皆が言う中。一人だけ、「それは面白そうだ」と、言う声があがった。思った通り、それはリュートだった。
「この地方に伝わる童話ですか? それは是非に聞いてみたい」
「良かった。じゃあそうするよ」
 僕がそう返すと、「ボラグ、別にそれでも構わねぇが、一体何の話をしようとしてるんだい」と、ヴァシリーの親父は聞いた。
 言われて僕は両手を挙げた。最初に森を指し、そして今度は空を差し、僕は言った。
「“ワルワラの魔女”さ。丁度いいじゃない。この森で、そしてこんな空の下で、この話をしない手はないだろう?」
 それを聞いて、ホゥと頷きながらヴァシリーの親父は黙った。オマリも、オットーも、何も言わない。他の人間もそう。ただ一人、ロレントだけがつまらなそうな顔をしているだけで、何も声はあがらない。
「じゃあ、“ワルワラの魔女”にするよ? ――でも、僕自身十年以上も前に聞いた話だから、うまく思い出せないかも知れない。その時はみんな、助けてくれないかな」
「バカヤロウ、この部族で一番若いお前が思い出せないんなら、俺らなんかもっと思い出せないに決まってんだろう」
 オマリの言葉に皆が笑った。そして僕も一緒になって笑いながら、「じゃあ……」と、話し始めた。
「――むかぁし、むかしの、おおむかし。時代がまだ現代、近代をまたいで、“中世”なんて呼ばれていて、この地もまた旧ソヴィエト連邦の統治ですらなかった時代の頃の話。この辺り一帯の地方は、今と全く同じで、人外の秘境だった」
「おぉ、上手いねぇボラグ」
 ロレントが言う。誰もが「茶化すなよ」と、それをたしなめる。
「あるものと言えば、木と、草原と、山と丘。一年の半分以上は雪で覆われ、住むものと言ったなら野生の動物か、妖魔の類。そして人ならぬ人、都を追われた呪術師ぐらいしかいなかった。
 そしてここ、ソレトレンツクの森には、一人の恐ろしい呪術師がいた。名前を、ワルワラ――あぁ、“アゥラーラ”が訛った名前なんだけどさ。そんな名前を持った怖い魔女がいたんだ。
 ワルワラの魔女には、一人の息子がいた。街を追われる前、そこで出逢った男との間に出来た普通の子供さ。ワルワラはさんざ迷ったが、結局はその子供を連れてこの森へとやって来た。――きっと、可愛かったんだろうね。男には酷い振られ方したらしいけど、きっと子供だけは愛情を持って育てたかったんだろう」
「いい話だねぇ」
「いいから黙れってのに」
「あはははは。――そうして十数年の時が経ち、子供も大きくなり、自我に目覚める年頃となった。それまでは自分の母親以外を知らない息子だったんだけど、初めてそれ以外の人と接触する機会に恵まれた。
 それは、ジプシーと呼ばれる移動民族。僕等みたいな移住型とは違い、冬を避けて移り住む民族なんかじゃない。旅から旅へ、気ままに風のように移動を繰り返しているそんな民族さ。
 きっと息子は衝撃的だっただろうね。それまでは母親とたった二人だけの生活が世界の全てだったのに、突然そこに、“それ以外”の人間と触れあってしまったんだからさ。
 しかも運の悪い事に、その中には彼と同じ歳ぐらいだろう若い女性がいた。息子は一瞬で心を奪われた。彼女はやがて仲間と一緒にどこかへと行ってしまうと言う事は充分に判っているだけに、余計にその気持ちは募るばかり。――あぁ、僕の事はいいよ。今だけはからかわないでおいてくれないかな、ロレント。
 そしてワルワラの息子はジプシーの女に素直に心の内を告げた。やがて二人は恋仲となり、別れが来るその日までの夢中な日々を送った。
 さて、面白くないのはその母親であるワルワラだ。今までずっと二人きりで生きて来て、このままずっとその関係が続くと思っていたと言うのに、突然に割り込んで来たどこの誰とも判らないジプシーの女に息子を取られてしまったんだ。腹立たしい事この上ない。だけど息子も男だ。癪には触るが、引き離そうとしたって無駄なぐらい判っている。どうせ女はやがて息子の元を離れるだろうと思い、それまでの我慢と思っていたが――。
 そう、とうとう息子は決断してしまった。母親よりも、彼女の方を選んでしまったんだ。この森を離れ、彼女と一緒にジプシーとして旅立つと告げられたワルワラは、なんとかそれを阻止しようと目論んだ。どんな手段を使っても、息子を取られたくなかったんだ。
 そしてワルワラは一計を案じた。このソレトレンツクの森の中でもひときわ木々の密集の深い、“ナホトカの樹海”の中央部にある小さな泉――いや、水塊と言うべきか。そこに魔法をかけた。
 凍てつく厳冬の中、その泉の水は一瞬にして温かくなり、天然の温泉となった。そしてワルワラは更にその水に魔法をかけた。いや、魔法と言うより“呪い”と言うのかな。男には無害な、女にしかかからない呪いをその水の中に溶け込ませたんだ。
 ある日ワルワラは、息子にその温泉の事を教えた。彼女を連れて温泉にでも行って来なさいと。そしてその息子は罠とも知らずに、彼女をそこへといざなった。
 季節はまさに、今と同じような薄闇が続く極夜。衣服を脱ぎ捨て、裸になった二人がその湯に浸かった瞬間、森の中に息子の悲鳴がとどろいた。
 血相を変え家へと駆けこんで来た息子に、ワルワラは何ごとだと問いただした。すると息子は、温泉に入った途端、恋人が毛むくじゃらの醜い怪物になってしまったと告げた。
 ワルワラは言った。あの湯は、その者の正体を見破る効能を持つ湯だと。だが息子は信じない。彼女は決して怪物なんかじゃないと言い張る。
 だが、お前は何ともないだろう。それが証拠さ。人間であるお前はなんともないが、元から怪物だったその娘は、本来の姿を現さざるを得なかったんだと教えた。
 そして息子はその話を信じてしまった。だがもちろん、全ては嘘さ。ワルワラのかけた呪いはまさにそれ、女だけにしか効かない、変化の呪いさ。そうまでしても、ワルワラは息子を守りたかったんだ。
 やがてジプシー達一行は、戻らなくなってしまったその娘を諦め、再び旅に出た。
 これで全ては終わったと安堵したワルワラだったが、そう上手くは行かなかった。なんと息子は、その怪物となってしまった娘を連れて、二人で旅に出ると言い出したんだ。
 引き止めるワルワラ。だが息子の意志は驚く程に固かった。
 例え彼女が怪物だったとしても、僕は彼女を永遠に愛し続けると。一緒に旅をし、そして今度こそ元に戻らず、人間のままでいられる魔法を探すのだとワルワラに告げたんだ。
 結局、ワルワラは息子を繋ぎ止めておく事は出来なかった。
 旅立つ息子。それに寄り添う一匹の怪物。それがワルワラの見た、息子の最後だったらしい。そしてワルワラは、永遠に息子を失ってしまったんだ――」

 *

「……そんな話だったっけ?」
 ロレントが言った。
「おおまかには合ってる。だが俺が知ってるのとは違うなぁ。娘は怪物なんかじゃなくて、犬だか狸にされるってぇんじゃなかったっけ?」と、ヴァシリーの親父。
「いや、俺が聞いたのは更に違う。確かその温泉で大勢の男女が乱交会をやっていて、怪物にされてしまった女共が男達を食い荒らすって言う話だった」
「それは違うよオマリ。“白ひげ岩のトロル”って言う話と混じってる」
 僕が言うと、「そうだったか?」と、オマリは笑った。
「いやぁ、面白いですねぇ」リュートは拍手をしながら僕に言った。
「やっぱり来て良かった。こんな場所で、こんな状況で、この地にまつわる話をこうやって酒を楽しみながら聞ける。なんて素晴らしいんだろう。街の酒場なんかじゃあ絶対に不可能だろう、物凄い贅沢を味わっている気分ですよ」
「いや、そこまでは……」
 言いながら笑った。本当にこの人は、大袈裟かつ愉快な人だなと思いながら。
「それで? もう終わりじゃあないよな、ボラグ」
 オットーに言われ、僕は首を傾げながら、「どう言う意味?」と聞き返した。
「どう言う意味もねぇよ。その続きは話さねぇのかい」
「続き? ――いや、オットーも何か勘違いしてない? この話には続きはないよ」
「あるさぁ! 俺は知ってるぞ」
「へぇ、どんな?」
 聞き返すが、オットーは話さない。それどころか、「……どんなだったっけなぁ」と、逆に首を傾げる始末だ。
「どんなだったっけって、今さっき、俺は知ってるとか言い張ったばかりじゃない」
 僕が言うと、皆が一斉に笑った。すると赤ら顔のオットーは更に顔を赤く染め、「いや、そうじゃぁねぇよ!」と、声を張り上げる。
「知ってるってぇのは、その話には続きがあるってぇ事だ。そこだけはハッキリと覚えてる。――だが、その続き自体はもう知らねぇ」
「なんだよ、酔っ払い! それじゃあまるで意味無ぇじゃあねぇか!」
 ロレントは言う。またしても笑いが起こる。
「知ってるか? おめぇ、知ってるか? この話に続きがあるんだってよ。聞いたこたぁあるかい?」
 ロレントは意地悪く皆に次々と指を差して聞いて回るが、誰一人として「知ってる」と答える人はいない。それを見てオットーは、「本当にあるんだよ!」とむきになって叫ぶが、余計に皆の嘲笑を買うだけだった。
「終わり終わり。もうその件は終わりだ、オットー。さぁ、それじゃあ次だ! 今度の話し手は誰だ?」
 ヴァシリーの親父は周りを見渡しながら聞いた。だが、何故か誰も手を挙げない。
「じゃあ……お客人。あんたぁ何か一つ、語って聞かせてくれるかい」
 言われてリュートは、「私が?」と、自らの胸を指差して聞き返した。
「そうだよ、アンタだ。せっかくだから、俺達が今まで聞いた事のない異国の話でも聞かせてくれよ」
 言うが早いか皆が拍手を始めた。もちろん僕もまた、その中にいたのだが。
「いやいや、私は……。国も文化も違う人間です。皆さんがお気に召すでしょう話なんか思い付きませんよ」
「構わねぇよ。アンタが俺等の話を面白がってるんなら、俺等だってきっと同じさぁ。何でもいいから語ってくれや」
「そうですか」リュートは少し照れた顔をしながら言った。
「えぇと……じゃ、じゃあ、何か一つ話してみましょうか。――うぅん、でも何がいいかな。咄嗟には何も浮かばないなぁ」
「酔っ払いのたわごと程度でいいさぁ。アメリカの飲んべぇはどんな話するんだい」
「アメリカでは……ですか。あぁ、そう言えばマイアミにある行き着けのバーでも、賭けで盛り上がる時があるんですよね」
「ほぉ、どんな?」ロレントが食い付く。
「これよりもずっと単純ですよ。酔っ払い同士の会話の中で他愛もない意見の衝突があった場合、賭けが起こります。例えば、ビリーの家の逃げ出した犬は一週間以内に見付かるかどうかとか。ケリーの禁煙は、今度は何週間持つかどうかとか。向こうのスツールに一人で座っているブロンドの美女が待っている男ってのは、果たしてクズかエリートかとかね」
 場に、笑いが起こる。
「そしてその賭けを成立させるには、独特のルールがあるんです。まず賭けの胴主はそこの店の名物料理を注文しなけりゃいけない。――これがまた面白いルールでね。そこの店、あぁ、“シモンズ”って言う名前の店なんですが、そこには二大名物料理がありまして。一つはアメリカ中探したってこれほど美味いだろうものは滅多にないぞと言うホットドッグ。そしてもう一つは、本場の製法をきっちりと守って作った由緒正しきフィッシュ・アンド・チップス。まずはその、後者の方の料理を注文します」
「美味そうだな。見た事も聞いた事もねぇが、一度食ってみたいな」
「――うん、まぁ、いつか機会があったら是非に」何故かリュートは困り顔でそう答える。
「そうして料理を平らげて、そこに残る大きなバスケット。これを使います」
「何に使うんだよ」
「賭け札を入れる為のものですよ。バスケットの真ん中を仕切って、その左右に札を入れて行きます」
「なるほどね」
「札は、そこの店の安ワイン、“RED BIRD”のコルク栓を使います。これがまたえらく安くて不味い有名な地元ワインでね。フルボトル一本で四ドルなのに、賭けに乗るならこれを十四ドルで買わなきゃならない。そうしてその不味いワインを飲み干して、コルク栓に自分の名前を書き入れてバスケットの中に放り込めば賭けの成立です。――不思議ですよね。普段ならば絶対に誰も注文しない料理とワインが、賭けの度に掃けて行く。きっとこの賭けのルールを作った奴って言うのは、相当なサディストか変人か、ガチガチの英国紳士だったに違いない」
 リュートは笑顔で得意気に話し、そして指を打ち鳴らした。だが、本人の想像に反しているのだろう、周囲の人間は誰も笑わず彼は戸惑う。もちろん僕も笑わない。だって笑いどころが全然わからないのだから。
「あぁ、えぇと――」一つ、咳払い。
「ある晩、こんな賭けがありました。その日の夕方、ローカルの地元のニュース番組で、ちょっとしたハプニングがありましてね。番組途中で中継が入り、そしてまた画面が戻ったその瞬間、美人で有名な女性キャスターが隣にいる男性キャスターの頬を張ってるシーンが一瞬だけ映ったんですよ」
「へぇ、それで?」ロレントが嬉しそうにそう聞いた。
「賭けの内容は、痴情のもつれか、それとも仕事上の諍いか。一気に札は集まります」
「アンタはどっちに張ったんだよ」
「私は仕事上の方に一票を入れました。――で、結局賭けは私の負けでした」
「なんだぁ、それじゃあやっぱり男女間の揉め事か」
 ロレントが下卑た笑い顔でそう聞けば、リュートは、「残念ですが、それも違いました」と答える。
「正解は、男性キャスターのヘアーエクステンション(かつら)のズレに気付いた彼女が、急いでそれを直していると言うシーンって言う結論でね。賭けは親の総取り。全く酷い話です」
 場は、大笑い。僕も一緒になって、腹を抱えて笑った。
「面白いな。他にはなんか、笑える賭けはねぇのかい」
「色々ありますよ。むしろ賭けのない日の方が無いぐらいです。でもそんな話をしていたら、とてもじゃないが一晩じゃあ語り切れない」
「別にいいじゃねぇかよ。一晩で二晩でも、好きなだけ話してくれよ」
「だから私は途中で降りますってば」
 リュートは苦笑しながら言うが、またしても堂々巡りのように、「こんな場所で降りたって何も無ぇぞ」と、会話は振り出しに戻る。
「――じゃあ、もう一つだけ」リュートは人差し指を立て、そう告げた。
「これは同じ店で起こった、とある賭けの話です。まずこの話をするには、一人の男――フレデリック・ターナーと言う銀行員の話をしなければなりません」
 へぇと、ヴァシリーの親父は頷きながら、抜き出した新しい煙草に火を点けた。
「彼は、“NEセカンド・アベニュー”にある大手銀行のホープ的社員でね。その肩書き通り、真面目で実直が顔に出たかのような人だった。店に来る時も仕事帰りのまま、スーツの上下にアタッシュケース。髪は左右に揃えて分けて、黒の太いフレームの眼鏡が唯一の特徴と言う、まるでクラーク・ケントかブルース・ウェインを地で行ってるかのような……」
 言い掛けて、言葉を切った。そして気まずそうに周囲の目を伺うリュートに、僕は、「大丈夫」と、声を掛けた。
「その映画は知ってるよ。続けて」
 僕が言うと、「俺ぁ知らねぇ」と言う声がいくつか上がったが、リュートは敢えてそれを無視して話を再開した。
「彼は、その店では浮いている存在だった。いつもカウンターのスツールに一人で腰掛け、ほとんど誰とも会話をしないまま一杯だけビールを呷って帰る。ただそれだけ。それでも彼はその店の事は気に入っていたらしい。よほどの事がない限りほぼ毎日のように顔を見せていたから。
 でもある日突然に、彼は店に来なくなった。三日が過ぎ、一週間が過ぎ、そして一カ月が過ぎようとしていた頃、彼への賭けの話が持ち上がった。果たして彼が来なくなった理由は、病気なのか、それとも女かと」
「よし来た、俺ぁ後者だ」
 ロレントが間髪入れずに言う。すぐにオマリが、「お前が乗ってどうする」と横槍を入れた。
「それで? アンタはどっちに賭けたんだよ」と、ヴァシリーの親父。
「いえ、私は理由あってその賭けには乗っていません」
「理由って? ワインが品切れだったんかい?」
 ロレントは聞くが、「そうじゃないですよ」と、リュートは笑う。
「ちょっとね。タイミングが悪かったと言うか何と言うか、私が賭けに乗るには遅すぎたんですよ」
「なるほどね」
「それで、賭けはどっちに軍配が上がったの?」
 僕が聞くと、「ロレントさんの賭けた方ですね」と、リュートは言う。同時にロレントが、「よっしゃ!」と歓喜の声を上げた。
「彼が来なくなってから三カ月が過ぎ、そうしてようやく彼が店へと戻って来た時、誰もが驚いた。その隣には二十歳になったかならないかぐらいの若い女性が、彼にべったりと寄り添って立っていた。賭けに勝った連中は声を張り上げ、負けた連中は悔しそうな嘆き声。そして理由を知らないままのターナーは、戸惑いながら皆を眺めていたそうです」
「それで? それからどうなった?」
「彼は、『こんな可愛い彼女、一体どこで見付けて来たんだ』と皆に詰め寄られ、そうして渋々、事の顛末を話し出します。――さて、この話はここからが面白い」
 ほぉと、誰もが身を乗り出す。なにしろ僕等は、新しい話に飢えているのだ。語り手に面白いとまで言われたら、聞き耳を立てずにはいられない。
「ここからが不思議な話なんですよ。いや、不思議な出逢いとでも言った方がいいんでしょうか。とにかくターナーは彼女と出逢った。しかもそれは意外にも海外。出張先の、マラケシュの街のど真ん中。取引先との仕事も終え、帰りは翌朝にしようと近場のホテルを探していた時の事。街の喧噪と異国の夕暮れの明かり誘われて、ターナーはふらふらと大通りを歩いていたんです。
 そこで彼は、彼女と出逢う。バックパック一つだけを背負い、ぼんやりと通りを歩く彼女とすれ違った。それはまるで旅行者のようないでたちで、長いブーツにくたびれかかった白いシャツ。逆さまにかぶった帽子から流れ出る長いパーマネントの黒髪を揺らしながら、まるで散歩でもしているかのように彼女は歩いていたそうです。
 最初はただそれだけだった。すれ違い、振り向く。そして彼女もまたターナーに向かって振り返っていたのだろう、偶然目が合ったと言うだけ。そしてターナーは再び宿探しに向かう。
 やがて宿は見付かり、荷物を降ろし、さぁ晩御飯でもと考えていた時。ふと先程の女性の事を思い出す。年はまだ二十歳になったかどうかぐらい。旅行者のようだったが、果たしてどこの国のどんな民族かも判らない。ただ何か、強く印象に残る魅力を兼ね備えた女性だったと言う事だけは、良く判った。
 自分にほんの少しだけでも度胸があれば、“どちらからですか?”程度には声をかけられたかも知れないなと自嘲しながら宿を出る。外に出て、街の中心部へと向かう。空はいよいよ群青色へと染まり、街は色とりどりな異国情緒溢れる派手なネオンの灯りに包まれる。
 通りには屋台から立ち昇る湯気と煙と香辛料の匂いが充満し、まるでどこかの街の小さなカーニバルにでも巻き込まれたかのような高揚で、彼は歩いた。
 ――ふと、視界の隅で何かを捉える。振り返れば、向こうの辻を歩く一人の女性。くるぶしまである長いマキシスカートにサッシュのベルト。肩を大きく出したチューブトップの服を着た、いかにもこの街の風景から浮き出して見えるようなそんな女性の後ろ姿が、ちょうど人混みの中へと紛れ込む瞬間だった。
 一瞬で、先程の女性だと彼は気付いた。顔こそは見えないけれど、その背中に流れる長い黒髪がそれを物語っていた。
 ターナーは走った。それは衝動的な行動だったと本人自らが後に語っていました。通りを駆け、人混みをかき分け、懸命に周囲を見渡し彼女を探すがどこにもいない。そうして気付けば、いつの間にか彼女は向こうの辻を曲がる所。そしてターナーは再び走る。
 通りの角を曲がる。そして探す。今度は彼女は向こうの広場の噴水の前。向こうの通りの店の前。水路をまたぐ階段の前。ターナーは懸命に彼女を探し、そして追った。見知らぬ異国の街の中、帰り道すら怪しくなる程に右へ左へと振り回されながら、彼は彼女の後姿を追った――」
「ロマンだねぇ」ロレントは言う。
「いい所で邪魔するなよ」と、オマリ。
「それでその男は、彼女に追い付けたのかい?」
 ヴァシリーの親父がそう聞くと、「えぇ」と、リュートは頷いた。
「気が付けばターナーは、街の人々に囲まれるようにして、立ち呆けていた。――突然に我に返り、何をやってるんだ僕はと自らを責めながら途方に暮れていると、スッと目の前の人混みが左右に分かれた。そして彼女はそこにいた。顔を上げ、彼を見つめる。そしてターナーは彼女の前へと駈け寄ると――」
「どうなったんだよ?」
「手を取って、走ったそうです。何も言わず彼女の手を取り、再び異国の街を駆け抜けた。それで、この話は終わりです」
「終わりってなんだよ。俺ぁそこから先が聞きてぇぞ」
 ロレントが叫ぶと、皆は笑った。するとリュートもまた薄笑いを浮かべながら、「そこから先はご想像で」と返す。
「でもその翌日、マイアミへと帰る車の中、助手席には彼女の姿があった。――まぁ、そんな話を店で語ったんでしょうね、彼は。照れ臭そうな顔で、『生まれて初めてそんな真似しましたよ』と、皆の前で言ったそうです」
「言ったそうですって、アンタは聞いてなかったのかい」
「えぇ、まぁ。ちょっとタイミングが合わなくて聞きそびれましたね」
「またかよ!」
 皆が、どっと笑う。僕もまたつられて笑い、そして想像した。
 見知らぬ街を、見知らぬ女性の手を引き走るターナーの姿を。果たして彼は何を想い、何に突き動かされてそんな行動を取ったのだろうか。
 きっと理屈なんかじゃないのだろう。ただ、自分の素直な感情に従っただけ。僕にはそう思えて仕方が無かった。
 そんな時だった。突然に誰かが、「なんてこった!」と、素っ頓狂な声をあげた。どうやらその声の主はオットーだったらしい、既に酔い潰れて開いているのか閉じているのかもわからないぐらいの細い目で、空を仰いでいた。
「どうしたんだよ、酔っ払い」
 オマリが怖い口調でそう聞けば、オットーは震える手で空を指差す。
「ラィビト・クベータ!」
「おぉ、ラィビト・クベータ!」
 人々は口々にそう言い合い、同じようにして空を見上げる。そして僕もまた小声でラィビト・クベータの名を呼び、合わせた掌を胸の前で押し抱いた。
 誰もが敬いと感謝の言葉を口にする中、ただ一人、リュートだけが口を半開きにし、その現象を呆けて見ていた。
 ラィビト・クベータとは確か彼の国の言葉では、“Mock sun(幻日)”と言っただろうか。太陽を中心として大きな光の輪を持ち、その左右に幻の太陽が二つ見えると言う、珍しい自然現象だ。こればかりは僕達ですら珍しがる現象なのだから、リュートが言葉を失ってぼんやりとしているのは、とても仕方がない事なのだろう。
 後続の車から、女性達の奏でるハークオゥブ・ショキシュアの詠唱が始まる。それに続いて僕達男性陣が輪唱で応えた。やがてその詠唱は一つの大きな歌となり、ラィビト・クベータが照らすその空へと響き渡った。
「――凄い。なんて、なんて素晴らしいんだ」
 リュートの呟きが漏れる。僕達は歌いながらその言葉を聞き、ほんの少しだけ微笑んだ。
 詠唱はしばらくの間続いた。やがてその歌の中にひときわ高いチャナラムの音色が混じる頃、自然に詠唱は静かに終わった。辺りはまた再び、車があげるキャタピラーの駆動音だけとなる。
「どうだい、お客人。我らが神は美しいだろう」
 ヴァシリーの親父がさも得意そうにそう聞くと、リュートは、「美しいだなんて!」と、両手を広げた。
「美しいで済まされるような美しさじゃありませんよ。あれはまるで……そう、あれは奇跡だ。まさに神の降臨だ。オーロラと幻日。その両方が同時に見られるなんて、私はどんな幸運でこんな奇跡の空に下に巡り合えたんだろう。しかも皆さんの詠唱を聴きながらの奇跡だ。あぁ……来て良かった。本当にここに来て良かった。こんな贅沢な奇跡がここで私を待っていたなんて、とても想像すら出来ませんでした」
 言いながらリュートは空を仰ぎつつ鼻を啜った。ロレントはそれを見て、「大袈裟だよ」と笑ったが、その顔はまんざらでもなさそうだった。
 そうしてしばらく無言のままでラィビト・クベータを見ていたリュートだったが、突然、「あぁ! ファントム・リリィだ!」と叫んだのには驚かされた。
「どうした、お客人」
「あれ! あれですよ、“月下美人”って言うのは! 残念ながらこれは幻月ではありませんが、まぁどちらでも同じようなものです。――厳冬に咲く花。いやむしろ厳冬の中でしか起こらない現象があれなのだから、もしかしたら伝説が指し示しているのは、“幻日”の事ではないでしょうか」
「あれ……って、ラィビト・クベータがかい?」
「そうですよ。どなたか、童話の中の月下美人がどんなものか、覚えている方はいらっしゃいますか?」
 聞かれて僕は手をあげる。見回せば、同じようにしている人は誰もいない。
「ではボラグさん。ご説明をお願い致します」
「え、えぇと……」僕は言い淀む。予期せぬ問いに、戸惑ったのだ。
「確か、茎も葉も花びらも透き通る程に真っ白で、暗闇に映えるかのようにぼおっと白く光って咲く花で、その容姿から付いた名前が“幽霊草”――つまり、ファントム・リリィって事ですね。真ん中に大きく一輪、その左右に小さく一輪ずつ。計三輪で咲く、極寒の季節だけの花……だったと記憶してるんですけど」
「素晴らしい! 良くそこまで記憶していましたね」
「そりゃあ……僕も今のあなたのように、その存在を信じていた時代はありましたから」
 言うとすかさず、皆が笑う。
「では、その二つの類似点、共通点は?」
 リュートは重ねて僕に聞いた。
「えぇと、極寒の季節と言う部分。それから三輪と言う部分。――ぐらいですか?」
「いえ、まだまだありますよ。片や“幻”で、片や“幽霊”だ。暗闇で白く光ると言う部分においても共通性があるし、場所だって限定されている。ここでしか見られないと言う点において、これは実に大きな共通点だ」
「まぁ、確かに……」
「それに、なんて言いましたっけ? ラビット・クベータでしたっけ? あの現象は」
「ラィビト・クベータ。ロシア語と我々の民族の言葉が混じり合って出来てる名前さぁ」
 ヴァシリーの親父が言う。
「へぇ、ではその言葉の意味は? もしかしたらその中に、“花”の名が含まれてはおりませんか?」
「あぁ――」ヴァシリーの親父は頷く。
「そのまんまさ。“白と光の花の神”だ」
「やっぱり!」
 リュートが歓喜の声をあげたその瞬間、車はほとんど急ブレーキのようにして停まった。
 前方で、バンとドアの閉まる音。そして誰かが歩いているだろう足音が、高い荷台を回り込むようにして後方へと近付いて来る。
「あの……もしかして私、なにか変な事でも口走っちゃいましたかね?」
 リュートは不安そうな顔でそう聞く。だが、それに答えるものは誰もいない。何故ならばその足音の主が僕の父である族長バガンのものである事は、誰もが気付いているからだ。
 ぐらりと車が揺れる。そして荷台の後部から大きな腕が覗けば、父バガンはその熊のような巨体で乗り込んで来た。
 怯えるリュートをよそに、父は遠慮も無しに荷台の床へと座り込む。そして父はオマリを睨み、「運転代わってくれ」と、低くうなるような声でそう告げた。
「へ、へぇ」
 強気なオマリも父の前ではおとなしく、素直に従う。軽やかに荷台から飛び降りれば、運転席へと飛び乗る音がした。
「ボラグ、お前も向こうに乗れ」
 父が言う。そして僕はハイと言い掛け、その言葉を飲み込んだ。
「どうして? 僕もここで話を聞いていたいよ」
 言うと父は、いつもの恐い目付きで僕を睨む。一瞬、怒鳴られるかなとも覚悟したが、ヴァシリーの親父が、「まぁまぁ」と父の腕を叩きつつなだめてくれたおかげで、「好きにしろ」と、かろうじて許しが出た。
「酒」
 父が言うと、すかさずロレントが箱からウィスケの酒瓶を取り出す。そして父はそれを受け取り、ストレートのまま大きく呷った。
「あの……私何か、失礼な事でもしてしまいましたか?」
 リュートがおどおどとそう聞くと、父は溜め息のような深い息を吐きながら、「いや、何も」と答えた。
「運転席で聞いてると面白くてな。俺も参加したくてこっちに来た。それだけだ、お客人。気にせず続きをやってくれ」
 瞬時に、周囲の空気から緊張が消える。リュートもまた肩の力が抜けたかのように、荷台の壁に背もたれた。
「いや、ありがたいんですけど、私の主張はもう終わりです。ただ、幻日と月下美人には共通性が多いと言いたかっただけで、結局はなんの確信も持てない事でしかないんです」
「そうか」父は言う。そしてまた一口、ウィスケを呷った。
「じゃあ今度は、俺が語っていいだろうか」
 えぇと、声が上がる。父にしてはやけに珍しい行動だからだ。
「なんだお前ら。俺がこの賭けに参加しちゃあ何かマズい事でもあるのか」
「いや、そうじゃないけど、一体何を語ろうとしてるの?」
 僕が返事をかえすと、父は低い声でぼそりと、「ワルワラの魔女さ」と、そう答えた。
「でもそれはさっき……」
「さっき話したのとは違う、もう一つのワルワラの魔女の話さ。オットーの奴が言ってただろう。お前の話したものには続きがあるって」
 あぁと、皆が呟く。オットーは赤ら顔をくしゃくしゃにしながら、父を見て笑っていた。
「だが続きって言ったって、そんな特別なもんじゃねぇ」父は言う。
「きっとお前らみんな知ってる話だ。ただそれが、ワルワラの魔女の話だって認識してねぇだけなんだ」
「――どう言う事?」
「まぁ聞け」父は僕の問いを遮る。
「愛しい息子を失った魔女は、それから三年もの間泣き通しだった。メシは食わず、夜も寝ず、ひとときも休まないまま延々と泣き続けた」
「そりゃあ無茶じゃねぇかい、おやっさん」
「いいんだよ、魔女なんだから。――そうして三年泣き続けた魔女は、生まれて初めて神に祈った。クラッパープ・クベータ。“黒と氷の闇の神”。アンタらの国じゃあ、悪魔と呼ばれているだろう神にだ」

 *

「願いはすぐに聞き届けられたらしい」父は言う。
「“この闇の花が咲いている間だけ”と言う限定で、魔女は強力な呪いを手に入れた。そして魔女は空を駆った。どこかの地にいるだろう愛しい息子を求め、魔女はひたすら子供を探し回った」
「――見付かったの?」
 聞けば父は、「あぁ」と頷く。
「息子は遠い遠い、“日の没する地の王国“にいた。傍らに、怪物と成り果てた恋人を連れてな。そして魔女はその地に降り立ち、姿を変えた。その地で古くから”まじない商“を営んでいる呪術師に変身し、息子へと近付いた」
 誰もが無言のまま父の話を聞いている。特にリュートなどは、食い付かんばかりにして耳を傾けていた。
「魔女は言った。その怪物を元の姿に戻す方法を知っていると。そして息子はその方法を銀貨数枚を支払って聞き出し、再び故郷へと舞い戻った。
 数年振りに訪れる我が家。だがそこにはもう、母親であるワルワラの姿はなかった。息子はすぐに彼女を連れ、ナホトカの樹海の奥にある水塊へと向かった。
 月夜の晩だった。そして目の前には闇に光る白い花。そのつぼみが今にも咲きそうになっている。――そう、“月下美人”だ。その花の咲く時、物の怪の姿は人へと変わると教えられたんだ」
「じゃあワルワラは、またしても自分の息子に嘘を言ったってぇ事か?」
 ロレントがそう聞くと、「まぁ、そうなるが」と、父は言った。
「だが、今度の嘘はあながち嘘とは言い切れない。魔女が邪神から授かった呪いってぇのは、どんな怪物であれ妖怪であれ、人に変えてしまうと言う呪いだ」
「え、それじゃあワルワラは……」
「そう、魔女は息子の為に呪い返しの秘術を使ったんだ。我が身を犠牲にしてな」
「犠牲? 犠牲って?」
「呪ってぇのは、その呪いを打ち消す時にこそ最大の力が必要となる。ホレ、良く聞くだろう。呪った相手から呪いを返された人間は倍苦しむってな。それと同じだ。魔女は自らが使った呪いを反転する為に、持っている全ての力と共にその肉体さえも失う事となった。――自分自身がその水塊に飛び込み、呪いそのものとなって水へと混ざった。そうして怪物……つまり、人ではないものだな。そんな姿のものが“クラッパープ・クベータ(黒と氷の闇の神)”が顔を覗かせている間にその水へと浸かると、その水の性質は反対の効果を発揮する。怪物から、人へと……な」
 話は終わった。誰もが何も言わない。しばらくの沈黙の後、酔いどれのオットーが、「なるほどなぁ」と口火を切る。
「ガキの頃に聞いた、“月下美人”の話が、魔女の話の続きだったんかい」
「いやぁ、俺ぁ知らんかったぞ。生まれて初めて、今聞いた」
「あぁ、それは僕もだ。どうして誰も教えてくれなかったんだろう」
 言うと誰もが、「みんな知らねぇんだ、しょうがない」と笑う。
「それにしてもおやっさん、そんな昔話、よう覚えてたなぁ」
 ヴァシリーの親父がそう聞くと、「そうだなぁ」と、父は笑う。
「こう言う話は伝承だからな。知ってる奴が伝えて行かんと、どっかで途絶える。いい機会じゃねぇか、みんなで覚えてる童話で続きをやれよ」
「そりゃあいい!」
 真っ先にロレントが声をあげるが、「お前、なんか一つでも覚えてるのかよ」と聞かれ、ロレントはすきっ歯の間から舌を出して顔を歪めた。
 皆がてんでに片鱗だけしか思い出せない童話の話題で盛り上がる中、ただ一人、リュートだけが考え事に沈み込んでいた。そうして父はしばらく彼を眺めていたが、また一口強い酒を傾けた後、やおら話を切り出した。
「お客人。あんたぁ、もっと別の目的があってここに来たね」
 リュートは物思いから覚め、ハッとした顔で父を見た。
「あんたぁ、まだ何か隠してるね。きっと、月下美人が見たいとか、こんな辺鄙な場所で酒が飲みたいとか、そう言うのも嘘じゃねぇ。それも目的なんだろうと判る。――だが、取って置きの目的はまだ明かしてないなぁ」
 言われてリュートは苦笑しながら、「参りました」と、両手を広げてみせた。
「確かにその通りです。私にはもう一つだけ、この旅の目的がありまして。まぁ……話してもしょうがないだろう事なので黙っておこうと思っていたのですが」
「それだよ!」父は声を張り上げた。
「そう言う話が面白いんだ。そう言う、他人にはなかなか言い出せない珍妙な話こそが面白いんだ。そして絶対にあんたぁそう言うものを持って来たと思ってた。さぁ、話してもらおうか、お客人。ようやくこの座も最高潮だな、おい!」
 言いながら父は、横に座るロレントの背中を強く叩く。ロレントは顔をしかめながらも、「うひゃひゃ」と妙な声で笑った。
「いや、でも……つまらない話ですよ? むしろそれを話したが為に、ますます私自身が変人扱いされるような」
「変人! 歓迎じゃあねぇか!」父は笑った。
「俺らも今まで随分と色んな旅人と出逢って来たが、やはりいつまでも印象に残るのは変わった奴だ。とりわけ、『何考えてんだコイツ』って思わせるような、そんな奴が一番面白いし、何年経っても忘れやしねぇ。だからあんたも、遠慮せずに語ってくれや。あんたぁが変人であればある程、俺達の間では伝説になる。そう、これから何百年後に、今と同じこの空の下で語り継がれたあんたぁの伝説が、またどこかの誰かに受け継がれるとも限らねぇ」
「いやいや、そんな御大層なものじゃあないですよ」リュートは笑う。
「でも……そうですね。せっかくだし話してみましょうか。実に下らない、この旅の目的を」
 ひゅうと、ロレントが口笛を鳴らす。荷台と運転席を繋ぐ小さな窓は、運転するオマリの手によって大きく開かれた。
「では、馬鹿の一つ覚え……あぁいや、こちらではオシロ山羊のタルツィー草好きとか言うんでしたっけ。まぁそんな感じで、今度の話も“シモンズ”のバーでの話です」
 いいぞと、またかよと、賛否両論な野次が飛ぶ。だがリュートはまるで意に介さず、話を続けた。
「ある晩の事、私は溜まりに溜まった原稿をようやく全て片付けて、久し振りにシモンズへと出掛けて行ったんですよ。
 いや、その晩は久し振りに酩酊する程に飲みました。解放感も加わって、かなり気が大きくなっていたんでしょうね。よせばいいのにビールの後からスコッチにまで手を出した。そうして真っ直ぐに歩けない程に酔った後、私はトイレに行こうとして千鳥足のままその店の奥にある棚へと体当たりをしてしまいましてね。
 いやもう痛かったのなんのって、全体重を乗せた状態で右ひざを殴打……あぁ、それはまぁこの際どうでもいい事なんですが。その時、見付けてしまったんですね。棚の奥深くにしまわれた、コルク栓が山と積まれたバスケットを」
「へぇ、なんの賭けなんだよ」
「そこです。そのバスケットには他の物とは少し違い、名前が付けられていました。“T&V”ってね。――もうそれだけは他のものとは全然違う。バスケットの入れ物はかなり古そうだし、賭けのタイトルは付いてるし、なによりその賭け率の多さに驚きます。だって積まれたコルク栓がこぼれそうなぐらい……あぁ、いや、私が体当たりしたせいでいくらかこぼれていたんですけど。
 ――さて、これは一体なんの賭けか。私は、まともに立って歩けない程の泥酔状態で考えた。すぐにカウンターに取って返してバーテンダーに聞いたのですが、その若い店員は知らないと言う。自分は五年前からここにいるが、もうその頃にはそこにあったと言うんです。
 私は俄然、興味が湧きました。だってそうでしょう。その店での賭けはどれも長くて一週間か二週間だ。なのに何故かその賭けだけは最低でも五年は続いている。私はすぐに、店の中にいる常連達にその賭けの内容を聞いてまわった。だが不思議と、誰もその賭けの事を知らない。今初めてそれを知ったと言う人までいる。
 結局その晩は誰にもその真相を聞けず終いでしたが、ようやくそれを知っていると言う人に出逢えたのは、それから三日間続けて通ってからの事でした。
 その晩、偶然にも店の先代オーナーって人が遊びに来ていましてね。歳は六十か、七十か。同い年ぐらいの友人二人を従えてね。結構な年輩の方でしたが、元気そうなご老人達でした。そしてその方々が良く知っていました。その謎な賭けの箱の事をね。それで私がその事について問うたんですが、結局その老人達が語ってくれるには一人に対し二杯ずつ奢らなくてはいけないと言う条件が付いてしまいましてね……。
 それでもまぁ聞き出す事は出来たのですが、これがまた奇妙と言うかなんと言うか」
「奇妙って何だよ。怖い話になるんかい?」
 ロレントが聞くと、「いえいえ、そう言う訳じゃないんですが」と、リュートが返す。
「奇妙な一致です。これはただの偶然なのか、それとも何かの関連性があるのか」
「何と一致してんだい」
「先程の、族長さんのお話しです。何故か不思議と、どこか似通っている部分が多いんですよねぇ」
「へぇ」父が言う。相変わらずの不機嫌そうな顔だが、どこか楽しんでいるようにも見える。
「そりゃあ面白そうだな。早く続きをやってくれよ、お客人」
「では――。そのご老人達の会話から」リュートは再び話し始める。
「その賭けの話は、今から十七年前へとさかのぼります。――そうですね、まさしく異例な賭け事です。賭けた人だって、賭け金の回収なんかとうに諦めているに違いない程の長さですね。
 だが、現代においてまだその賭けは続いている。未だその話は伝承のようにして店の中に流れ続け、それを聞いた人はそのロマンに賭けるかのようにしてまた一つ、また一つとコルクの山を積み上げているのだそうです。しかもそのコルクの山は全て、とある片側にしか賭けられていないと言う、そんな賭け。そしてもう片方は、その賭けの賭け主。つまりは、一票対大勢と言うそんな賭けなんです。――ねぇ、不思議でしょう?
 さてそれでは、その賭けの内容に話を移しましょうか。まずその賭け主である、とある男性なのですが、彼は自らの人生と命を賭けて探し物をする旅へと出ました。それがおそらくはここ、ソレトレンツクの森の中。そうですね、今の私と立場は同じ、この辺鄙な森の中に一縷の望みを賭けて、無茶な探し物を見付けに来たのですよ」
「それが……ファントム・リリィ?」
 僕は聞く。
「いえ、残念ながら違います。さすがにその彼も、そして私も、そんな眉唾な花がこの極寒の地にあるとは思ってませんよ」
「じゃあ、何を?」
「もっと現実的なロマンですよ。例えば、ある晩、忽然として消えてしまった愛する女性――とかね」
「……」
「老人達は言いました。彼のその目は本気だったと。そしてそれ以降、彼の姿を見たものは誰もいない。きっと彼はかの地へとおもむき、そしてその信念のままに消えて行ったのだろうとね。
 その彼の名前は、フレデリック・ターナー。賭けの名前もそのまんまです。“T&V”。つまり、“ターナー&ヴェロニカ”。マラケシュの街の中で出逢い、そして愛した女性ヴェロニカを追い、彼はこの地へと向かったのです。彼女はきっと、故郷であるこの森へと帰ったのだろうと信じてね」

 *

 ごうと一声、天空で風がうなった。
 木々が揺れ、ぴゅうと寂しげな音が響き渡る。巻き上がった雪の粉が、容赦なく僕達の顔を叩く。遥か遠くで、狼だろう遠吠えが聞こえた。
「風が出て来たな」
 父が呟く。見上げればいつの間にかクラッパープの神が近付いていたらしい。空は翳り陽は見えなくなっている。誰ともなしに荷台の上で立ち上がり、幌を引き出し張り巡らす。そして後続の車もそれに続いた。
 幌を閉め、天井にランタンを一つ吊るす。簡易的だが悪くはない。しっかりと風を防ぐ、夜の寝床の出来上がりだ。
「中断させたな、お客人。気が逸れたかも知れないが、さっきの話を続けてもらえないだろうか」
 父は再び腰を下ろし、そう聞いた。
「えぇ、もちろん。皆さんが飽きていなければね」
「そんな奴ぁ誰もいねぇよ。むしろこっちは、聞き耳立てて待ってるぐらいだ」
 オットーが言う。そしてリュートは笑いながら話へと戻った。
「賭けは、彼の意志でした」リュートは言う。
「彼女――ヴェロニカを見付けて連れ帰る事が出来るか否か。そして彼は皆に頼みます。もしも僕を応援してくれるなら、“見付けられない”と言う側に賭けてくれと。
 そしていつか必ず僕は、彼女をここに連れ戻す。その時僕は初めて、“見付けられる”方へと賭ける。賭けは僕の一人勝ちだけど、その時は皆にその金で奢るよと。だから頼む、僕をここから送り出してくれとね」
「――なるほど、だから一対大勢って訳なのか」
「そうですね。きっとターナーも自信がなかったんでしょう。だからこそ誰かの後押しが必要だった。それがきっと、その賭けなんでしょう」
「ちょっと待てよ。アンタそれ、十七年前の賭けだって言ってなかったか?」
 ロレントの言葉に、「えぇ、そうですよ」と、リュートは素直に頷く。
「なんか時代がごっちゃになってるじゃねぇかよ。これよりちょっと前に出て来たターナーって野郎は、今話したターナーってのとは全くの別人かい?」
「いえいえ、同じ人ですよ」
「なら、おかしいだろう! アンタはその男が店に来なくなった理由で賭けをしているってぇのに、なんでそいつの事を知らねぇみてぇに話してんだい。聞いてるこっちは訳がわからねぇよ」
「気付けよ、ロレント」運転席から、オマリが言う。
「このダンナは、実際に賭けてはいないだろう。ちゃんと、“タイミングが合わなくて、乗ってねぇ”って言ったんだ」
「そうそう。つまりは賭けるには遅過ぎたんだよね。――十七年程」
 僕が言うと、「ご名答」と、リュートは嬉しそうに言った。
「話が前後して申し訳ありません。一つ前にしたターナーの話は、今する話の後から聞いたものです。彼女に去られる前に、こんな熱烈な物語があったんだよと言う感じで」
「ややこしいなぁ」
 ロレントは難しい顔をしながら呟いた。
「誰もが……信じていたそうです。ターナーとヴェロニカは、いつまでも仲良く共に暮らして行くものだと」リュートは話を再開した。
「実際に仲は良かったらしい。二人の間には言葉や文化を含めた様々な面で大きな隔たりがあったらしいけど、それすらも跳ね除けるぐらいに二人の関係は上手く行っていた。従って、二人がそのまま結婚を果たし共に老いて行くものだと信じて疑いはしなかった。
 だけど、ある日突然、その関係は破られた。それもヴェロニカによる一方的な意思によって。――つまり、いなくなってしまったんですね。夜の内に忽然と」
「何があったんだ?」
「判りません」リュートは言う。
「ただ、いなくなっていたらしいです。幾何かの荷物と、いくらかの貯金を持って、彼女は消えた。――多分、ターナーを騙そうとしての事ではないでしょう。金品のほとんどは手付かずのままだったらしいから。
 ある晩、店に来てターナーは何も言わずカウンターで強い酒を注文し、孤独に静かに泣いていたそうです。そしてその傍らには誰もいない。皆が察したようです。二人の間に何かが起こった事を。
 そしてターナーはたっぷり二週間を考え込み、そして決断した。彼女を探す事を。
 仕事を辞め、残った貯金を掻き集め、彼女の手掛かりを調べる事に没頭した。彼女が話した言葉の断片を思い出し、彼女の生まれ故郷を突き止める事に時間を費やした。
 彼女が時々洩らすロシア語の事や、故郷の家から見える山々の名前。そしてその近くにあったのだろう土地の特徴。極夜と言う自然現象や、オーロラが見える季節の事。親や兄弟の話に、どうして家を飛び出してここまで来てしまったのかと言う話さえ全て記憶の糸を手繰り寄せつつ、ターナーは場所を特定した。それが――」
「それが、ここか」
 ヴァシリーの親父の言葉に、「えぇ、多分」と、リュートは頷いた。
「多分って、どう言うこったい」
「私はターナーと直接の面識はありません。なので、彼がここに来たと言う確証はどこにもないのです。ただ多分――ここだろうと言う想像だけで来た訳でして」
「想像だけで来たのかい。物凄い行動力だなぁ、おい」
 ロレントが大笑いをした。
「でも多分、彼が見当付けたのもこの辺りですよ。幸いな事にターナーの住んでいるアパートメントはまだありました。それでまぁ、知り合いに頼んでその部屋の中を探させてもらったのですが、彼が残したその資料をなぞって行くと、どうしても指し示すのはこの森になるのです」
「馬鹿みてぇな話だなぁ!」ロレントは叫んだ。
「それでアンタぁ、なんの得があるんだい。その男が消えた場所を探してどうなるんだい。場所が合ってるかどうかも判らない上に、全くなんの利益もねぇと来た。一体何でそんな酔狂するんだよ、なぁ? 俺等からすりゃ、愚の骨頂だ! 先進国の人間が暇と金に任せて遊ぶ、宝探しゲームみてぇなもんじゃあねぇか!」
「そう言われても仕方ないかも知れませんねぇ」リュートは笑う。
「やめねぇか、ロレント」と、同時に父が言った。
「すまねぇな、お客人。こいつぁ話に夢中になって来ると、すぐにこうやって話を否定したがるクセがあってな。悪気はねぇんだ。ただちょっとだけ思慮が足りねぇもんで」
「いえいえ、大丈夫ですよ。私の中の良い友人も、まさにそんな性格でしてね」
「変な奴だな、そいつぁ」
 ロレントが言う。ようやく場に、なごやかな笑いが戻った。
「それで? 話の続きだ、お客人」
「あぁはい、では続けましょうか」リュートは言った。
「さて、先程も話しました、今の話と族長さんが語ってくれたワルワラの魔女の話の相互性です」
「どこに似てる部分があるんだよ」
 ヴァシリーの親父に聞かれ、「色々とあるじゃないですか」と、リュートは答えた。
「発作にも似た激しい男女の恋に、悲しい別れ。登場する女性はどちらも放浪者で、どこの国の人間かも判らない。しかも舞台はどちらもこの森の中。話がマラケシュと言う街から始まり、この森へと帰結するのもそっくりだ」
「マラケシュ? おやっさんが言ったのは、“日の没する地の王国“だぞ。そんな名前の街じゃねぇ」
「同じだよ、ヴァス」父は呟く。
「マラケシュと、“日の没する地の王国“は同じ場所にある。それはどちらも、”モロッコ“と言う国だ。大昔にその国は、“日の没する地“と呼ばれていたんだ」
「……本当かよ」
「まじないや魔力と言うものが最後まで伝承されて来た場所だ。おかしくねぇよ、呪術なんてぇものに頼ろうとする人間がそこに行き着くにはな」
「そうですね。ターナーがそこでヴェロニカに出逢ったのも、もしかしたら偶然のすれ違いなんかじゃなかったのかも知れない」
 リュートがそう言うと、ロレントがすかさず、「何故?」と聞く。
「そのヴェロニカってぇ女は、別に怪物だった訳じゃあねぇんだろう?」
「そうですけどね。――うぅん、そこはもう、何と言ったらいいものか」
「なんだよ、だらしねぇな。アンタぁ、ちゃんとモノ考えてしゃべってんのかい」
「少し黙ってろ、ロレント」父がたしなめる。
「お客人、気にせず続けてくれ。コイツの事ぁ無視して構わねぇ」
「あぁ、はい。――では」リュートは苦笑する。
「確かにヴェロニカは怪物ではなかった。でも、気になりませんか? 彼女がターナーに語った自分の生まれ故郷の断片が、どうしてこの森へと行き着いてしまうのか。とてもとても、人が暮らせるだろう場所じゃない。見渡す限り、過去から現在に至るまで人が移り住んだと言う歴史も何もない。しかし、彼女が話したその故郷は、どうあってもこの森の中を指し示してしまう」
「なんかの間違いじゃあねぇのかい」
「いえ、間違いじゃないと思います」リュートは言う。
「もしも、そう、もしもですが。ヴェロニカが一片の嘘もなくその故郷を語っているとしたならば、確かに場所はここなんです。狐と蜈蚣の山――つまりはノヴォヤンスクとグラノスラーツクの山を南から見て、鼻先から陽が上がると、ターナーの残した資料には書いてあった。
 更には周囲の木々の形状、降雪の度合い、皆さんが言うアゥラーラやラィビト・クベータ等の自然現象。その他の様々な細かい話を分析し、当てはまらないだろう場所を省いて行けば、どうしても残るのはここだけになる。――何故? どうして人の住まないこんな地を、ヴェロニカは知っている? だがターナーが彼女の足取りを追うのならば、どうしてもこの地を訪ねるしかない」
「いい加減な事、抜かしてただけなんじゃねぇのかい」
「いえ、それも違うと思います」リュートは続ける。
「でたらめな嘘なんだとしたら、この地はあまりにも出来過ぎた偶然の一致になります。有り得ないんですよ……幻日と環水平アークが同時に見られる場所なんて、世界中のどこを探してもここ以外にはどこにも存在する筈がない」
「何だって? カンスーヘイ……?」
「環水平アークです。皆さんは見た事ありませんか? 太陽と同じ方向に出来る、虹色の帯を」
「おぉ、“ボフッ・タローガ(神の道)”か?」
「それが環水平アークと一致しているかは判りませんが、とにかくその現象が、幻日と同時に見られるなんて場所は、今の時代においてはここ以外には有り得ないのです」
「じゃあ、それも嘘だったら?」
 ロレントが意地の悪い笑みを浮かべながら聞く。
「嘘だったら……しょうがないですね。ターナーも私も騙されたってだけの事です」
 その言葉を最後に、しばらくの沈黙が訪れた。
 誰もが何も話さない。無駄話の多いロレントですら、黙りこくって酒を舐めている。
 ふと父が、非常に聞き取り辛い小声で、「メッサノ」と呟いた。敏感に、皆が小さく反応する。
「つまりあんたは……そのターナーって男を探しにここに来たって事か?」
 父はおもむろにリュートに聞いた。そしてリュートは意外にも、「いいえ」と返答した。
「ならどうして? その男以外に、探すべきものなどあるのか?」
「そうですねぇ。探し物と言うか……確かめておきたい事。そんな感じのものです」
「確かめる? 一体何を?」
「それは――」言い掛けて、一瞬ためらう。
「賭けの行方って所ですかね。結局彼は何も見付ける事は叶わなかった。それを確かめ、賭けを終了させようと思っていたんです」
「なるほど、そりゃあいい。実に無粋な話だとは思うがね」
 父が言うと、「本当に暇な奴だな、アンタは」と、ロレントがまたちょっかいを出した。
「あはははは、確かに私は無粋で暇な人間ですね。でも何故かそうせずにはおれない、そう言う人種なもので……申し訳ありませんが」
「なんの仕事をしている?」
「考古学をちょっとだけ」
「――変な奴だ」
 ロレントが言うと、今度は父が、「それで? お客人はその賭けを終わらせたらそれで満足な訳か?」と聞く。
「まぁ……目下の所は」
「そうか」
 父は言い、そしてまた沈黙となる。僕にはその先程からの沈黙の意味がまるで判らなかったが、どうやらそれは父達の知る過去に関係するらしい。父はようやくそれを話す決心をしたのか、リュートに向かい、ぼそりと話し出す。
「お客人、もしかしたら俺達ぁそのターナーとか言う男を知っているかもしれん」
「おやっさん」
 咄嗟にヴァシリーの親父が止めに入る。だが父は、「いいから」と、それを制止した。
「驚いたよ。あの男と何から何まで、語る事が同じだ。最初にボルサエヴォの町であんたに声掛けられた瞬間、俺ぁあの男の事を思い出した。しかもその男もアメリカ人だと言ってたし、その割には俺等の言語を巧みに喋り、その習慣にも明るかった」
「……本当ですか?」
 リュートが放心したかのような表情でそう聞くと、「あぁ、本当だ」と、父は返す。
「そいつもあんたと同じで、ウォッカの小瓶を持っていた。そして語る話も、俺達の知らねぇ街のどこかのバーの事。同じようにその店での賭けの話から始まって、いつしか逃げられた女の話へと移って行った」
「そ、それで……どうなったんです?」
「どうなったと思う?」父はリュートの顔を覗き込むようにして言った。
「奴ぁあんたと全く同じ、このソレトレンツクの森の中、ナホトカの樹海の前で降ろしてくれとそう言った。――俺ぁ聞いたよ。そんな場所で降りたって、あんたの探している女なんぞ見付からないぞってな。だが男は頑として言う。それでもいいと。――だが、俺ぁ判った。あぁこいつは嘘を言ってるってな。本当の目的は女なんかじゃねぇ、こいつは一番最初に冗談のように語った、“月下美人”を探してるんだってな」
「まさか。いくらなんでも、こんな真冬の極寒の地に花が咲くなんて、ターナーだって思っている筈が無い」
「そうかな」父は顎髭を揉みながら続けた。幾分声に、苛立ちが含まれているような気がした。
「もし本当にその花がここにあるんだとしたら? そしてその男は、それを確信していたんだとしたら? 俺は最初から何もかも信じていなかったさ。――こんな森の奥深く、人どころか動物や妖魔でさえも滅多に来ないだろう場所に女を探しに来たって? そんな馬鹿な話があるもんかい。俺達ぁすぐに判ったよ。こいつぁ俺達の宝、“月下美人”を盗みに来たんだってぇなぁ」
 最後の方はまさに、殺気のような声だった。
 ふと気付くと、皆は既にその傍らに刀や銃を引き寄せていた。まさに、今すぐにでもリュートを殺せるような雰囲気で。
「ちょ、ちょっと待って下さい皆さん。私は本当に……」
「それで、どうなったと思う?」父はリュートの言葉を遮るようにして言う。
「あんたぁ聞きたがっていたな。その男がどうなったかをだ。――いいぜ、教えてやるよ。もうそろそろ見えて来る筈だからな」
「あぁ、そろそろだ。奴が眠ってるのも、ちょうどこの辺りだ」
 ヴァシリーの親父までもが、下卑た笑い顔でそう続く。
「ちょっと、父さん……」
「さぁ、どうするお客人。知りたいのかい? それとも知るのは怖いかい? まぁどのみち、あんたぁ身をもって知らなきゃあいけなくなるんだがねぇ」
「もうやめてよ、父さん!」
 僕が叫ぶと、父は仰け反り、床へと倒れ込みながら笑い出す。
「うひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」
 同時に皆が、同じようにして弾けるように笑い出した。
「あぁ、もう……悪趣味なんだから」
 言うとリュートは僕を見て、「何ごとですか?」と聞いた。
「かつがれたんですよ。さっき聞こえませんでしたか? “メッサノ”って」
「あぁ、そう言えば」
「あれは、“騙せ”って言う合図ですよ。我々の車に乗ったら必ず受ける、非常に悪趣味な冗談です」
 言うとリュートは両手で顔を覆い、「やられた」と呟いた。同時にまた再び、盛大な笑い声が幌の中にこだました。
「すまねぇ! すまねぇな、お客人! ここまで脅かすつもりはなかったんだがな。なんだか成り行きでこんなに酷い騙し方になっちまった。カンベン、カンベン。許してくれよ」
 父は笑いながらそう言って、リュートの肩を叩いた。するとリュートは小さく両手を持ち上げながら、「物凄いスリルでしたよ」と、苦笑した。
「でも、ちょっとだけ残念です。怖くはあったけど、なんとかターナーの行方には行き着いたと、内心小躍りしたんですがね。結局はそれも嘘だった」
 言われて父は、「はっはぁ」と、呼吸困難におちいりながら笑い、そして告げた。
「嘘じゃねぇよ、お客人。脅したのは悪かったが内容に嘘はねぇ。――この車に乗ったんだよ、その男は。今のあんたと同じように、我々の悪趣味な洗礼を受けながらね」
「まさか……」
「本当さぁ。かなぁりの昔、それこそアンタの言う十七年前ぐらいの昔かねぇ」
 ヴァシリーの親父が続く。
「嘘……ですよね?」
「嘘じゃねぇって」父は言う。
「さっきのは何から何まで本当だよ。奴ぁまだこの森の中で彷徨ってる。惚れた女を探し、魂となって、十何年もの長い時間、この深い木々の間を彷徨い歩いているんだ」

 *

 ボソッと、頭上で鈍い音が響いた。
 木々から落ちた雪が、幌を直撃したのだろう。少ししてズズズと、車の真横へと滑り落ちて行く音がする。
「まだコイツが生まれる前の話だ」父は僕の頭を軽く撫でながら、話し始めた。
「奴ぁ開口一番、“月下美人を探しに来ました”なんてぇ嘘を言った。――そりゃあ無理もねぇよ。アメリカくんだりから海と空を経由して、ほぼ反対側に近いこんな場所まで女一人を追い掛けてやって来たんだ。頭がおかしいと思われるより、嘘を言った方が早いと思ったんだろうな。
 で、俺達ぁすっかり騙された。奴が本当の事を言ってねぇってのは判ったんだが、奴ぁ最後までそれを口にする事ぁなかった。ただ頑なに、“ナホトカで降ろして欲しい”と言うだけだった」
「なるほど。結局、私がそれを暴露してしまった訳だ」
「その通り」父はリュートを指差した。
「だが、話してくれたって良かったのになと、俺はぼんやりそう思ったね。いい話じゃあねぇかい、出来れば俺だって、そいつの残した賭けに乗りたかったってぐらいのもんだ」
「だなぁ。こう言うのが“粋”ってぇもんなのかね」
 ロレントが言葉を次ぐ。
「じゃあ、本当にターナーはそこで降りた……?」
「あぁ。名前こそは名乗らなかったが、間違いなくその男はナホトカで降りたよ。誰もが必死で止めたんだがな。奴ぁ頑固にも、“僕は別に、ここで野垂れ死んでも構わないんだ”と言い切って、笑いながら降りて行ったよ」
「……」
「今と同じ、夜のとばりが降りて来る時刻だった。俺等でも怖がるだろう、真っ暗闇な森の中へと、単身消えて行ったよ」
「それで?」
「それっきりさぁ!」ロレントが言った。
「どうなったのかなんて、誰も知らねぇ。だが普通なら生きてなんぞ行けねぇわな。多分この森の奥深くで、骨と魂になって立ち呆けているんじゃあねぇの」
「――なるほど」
 言ってリュートは考え込む。指を唇にあてがい、なぞるようにしながら。
「“ナホトカ”ちゅうのはな。我々の言葉で、“男を惑わす”ってぇ意味なんだ。実際、この森に惑わされた男は結構多い。我々の一族でも何人も、この森に飲まれたってぇ話だしな」
 オットーが言う。聞いてリュートは、「本当ですか?」と聞き返す。
「本当さ。俺の爺様が、実際にその一部始終を見たらしい」と、父。
「亡くなった爺様がまだガキの時分だったって言うから、もうかれこれ六十年以上も前の事だろうな。森から現れた女にぞっこん惚れ込み、そいつに付いて行って帰って来なくなった若い男がいるんだとよ」
「森から? 女性が?」
「あぁ、黒髪の白人で、物凄い美人だったらしい。そいつが真夜中、ちょうどこの辺りを通り掛かった時、半裸の恰好で森から出て来たんだとさ。
 誰もが、まともじゃない、あれは幽霊か悪魔だって言い張る中、その若い男はどうあっても彼女を連れて行くと主張し、無理矢理に車に乗せちまった。――だが不思議と、その女は幽霊でもなんでもねぇ、普通の女だった。結局その女ぁ、一族と一緒に越冬地で暮らし始めちまったらしいんだが、冬が終わって雪が消える事、忽然として姿を消した。そしてその女と恋仲になってしまった若い男は、女を探して再びナホトカの森へと向かって行き――」
「帰って来なくなった?」
「その通り」父は言う。
「なんかぁどれもこれも、ほとんど同じ話ばかりさぁ。俺ぁ爺様の話は半信半疑で聞いてたもんだが、そのターナーってぇ男の話を聞いて確信したよ。どうやらこの森には本当に、“ナホトカ(男を惑わす)”な女の怪物が存在してるんだと」
「まさか」
「いるんじゃあねぇのかなぁ」ロレントが言った。
「怪物じゃあねぇとしてもよ。人の住まないこの森に、本当に何物かが住んでたりとかするんじゃあねぇのかなぁ」
 突然、ピピピピピ――と、奇妙な電子音が鳴り響いた。するとリュートは慌てて服の内側から小型の電子機器を取り出した。
「どうしたんだよ?」
 聞かれてリュートは、「あぁ、この辺だ」と答える。
「申し訳ありませんが、そろそろおいとまさせて頂きます。大変楽しい旅でした」
「おい、まさか――」
「えぇ、ここで降ろして頂けると助かるのですが」
 リュートは言う。その表情は明るかったが、どうやら冗談を言っている様子でないように思えた。

 *

「風……やんでる」
 車の荷台から降りた僕がそう言うと、後から降りて来たリュートは、僕の話など聞いてすらいなかったのか、空を仰ぎながら「凄い」と絶句していた。
「凄いって、何が?」
「何がって……もちろんこの星空が」
「はぁ」
 星空が――何だろう? 思った所で父が降り立ち、「凄いだろう」と声を掛けた。
「この辺りも随分と大気汚染物質の濃度が高くなったらしく、大昔に比べりゃ見える星の数も減ったんだろうが、それでも都会とは雲泥の差だろう」
「そうですね。向こうの空に慣れた人間がこれを見てしまったら、空が怖く感じてしまうのも無理はありません」
 父とリュートはそんな話をしながら笑い合う。
「何故? どうして空が怖いの?」
 聞くとリュートは、「空が近くに感じるからさ」と、ますます訳の判らない事を言う。
「ボラグ。いつか君がここを離れてどこか遠くの街へと旅をしたら、その意味が判るんじゃないかなぁ」
「旅? 今だって充分に旅の連続だよ。意地悪言わないで、何がどう怖いのか具体的に教えておくれよ」
 言ったがリュートは取り合わない。ただ、ハハハと笑うだけ。最後は僕に握手を求めて終わりだった。
「アンタ、本気で行くつもりなら、これ持って行きな」
 オマリが愛用の銃の中の一つである、使い込んだ旧式の散弾銃をリュートに差し出す。だがリュートはそれを丁寧に断り、そして父バガンと一緒に森の方へと歩いて行った。
 父と彼とが何を話しているのかは判らない。ただほんの少しの長い時間を森の方へと向きながら話し、そして今度はこちらを向いた。
「なんの話だろうなぁ」
 ロレントが言う。
「さぁね。後で聞いてみようか」
 僕は言う。――尤も、父は結局後々までその事を僕に話してはくれなかった。
 そして話は終わったのか、リュートは僕達の方へと向いて脱いだ帽子を高々とあげ、「ごきげんよう、良い旅を!」と叫び、そして後はもうこちらを振り向きもしないで森の闇へと溶け込んで行ってしまった。
「本当に行っちまったなぁ」
「――そうだね」
 ヴァシリーの親父に生返事をかえし、僕はいつまでも彼の消えた闇の中を凝視し続ける。
 やがて車へと戻って来た父は、僕達の尻を引っ叩きながら、「行くぞ」と、号令を掛けた。
 再びまた何の変哲もないいつもの顔触れで車に揺られ始めると、誰ともなく、「もしかしたらあの男も、どこぞの女を探しに行ったのかね」と、噂し始めた。
「そうじゃあねぇあだろ。あの男の指にゃあ、指輪があったぜ」
 ロレントが言うと、「お前はそう言う方面だけはやたらとしっかりしてるな」と、ヴァシリーの親父が笑った。
「今のはどう言う意味?」
 僕が聞くと、ロレントは渋い顔をしながら、「ボラグ。おめぇは本当にまだガキだなぁ」と、返した。
「意味がわかんない。僕はただ、指輪の有無がどう関係して来るのかを聞いただけで」
「だからそう言う所がガキだって言うんだよ。俺の言葉ん中から察しろ」
「無茶言うな!」
 僕が叫ぶと、皆は笑った。父も一緒だった。
「しかし、面白い奴だったなぁ。何てぇ言ったっけ? ジュードだっけ? ギュートだっけ? しばらくはアイツの話題で退屈せずに済みそうだな」
「リュートだよ」僕は訂正した。
「退屈せずにって……今までずっとみんなで聞いてたんだから、今更彼の事でするような話なんてある訳ないじゃない」
 言うとまた皆が、「ガキだなぁ」と大笑いする。
「ボラグ、お前いつまでもそんなじゃあ、話は楽しめないぞ。あの男が今日ここでどんな話をしたかなんてぇのはどうでもいいんだ。要はアイツがどれだけ面白い男で、どんな経緯でここに来て、どこに去って行ったかが重要なんだ」
 父に言われ、僕は考え、「良くわからないよ」と答える。
 するとまた、皆は大笑い。僕は少しだけ腹が立って、「馬鹿にすんなよ!」と怒鳴れば、「してねぇよ」と、オットーは笑った。
「ただ、楽しんでるだけさぁ。あの男の話に笑い、今度はお前の話に笑い、それでいいんじゃねぇか。お前はお前で、ちゃんと俺達を楽しませてくれる話をしてくれる」
「……やっぱり良くわかんない」
「いいんだ、それで」ヴァシリーの親父が言う。
「話なんてぇのは、誰がどう言ったとか、どう語ったとか、そう言う中身なんてぇものはどうでもいいんだ。要は、アイツがどれだけ面白い男だったかを、俺等が伝えて行く。そこに面白味があるんじゃあねぇか」
「ふぅん」僕は考える。
「そんなもんかなぁ」
「そんなもんだ。少なくとも、伝承話なんてぇもんはどれもこれも皆、同じようなもんなんだ」
 じゃあ、大昔には本当にワルワラの魔女はいたの? 聞こうとしてやめた。どうせまた皆に笑われるのがオチだと悟ったからだ。
「さぁ、それじゃあ多いに話そうじゃないか。“雪の探検者ギュート”の物語だ」
「なんだそれ。“幻夜の冒険家ギュート”の方が恰好良くねぇか?」
 ギュートじゃなくて、リュートだよ。それに彼は多分、考古学者だ。
 でも、敢えて訂正せずにおいた。なんとなく、彼等が言う“伝承”の面白さが判ったような気がしたからだ。
 皆は語る。あった事、無かった事。彼が発した言葉に大きな尾ひれを付けながら、それを全く違う物語にしてしまう。
 いつしか彼と言う人間も、我々の民族に伝わる童話の一部になるのだろうか。思いながら僕は笑った。――確かに楽しい。今夜は僕も、自分の中だけの彼の物語でも紡いでみようかと考えながら。
 向こうで父が笑っていた。僕を見ながら、ウィスケの瓶を傾けながら。
 そしてリュートとはこの後の人生で再び逢う事は二度となかったけれど、それでも彼との出逢いは僕にとっては相当の意味を持つ事となる、大きな事件を運んで来た。
 だがそれは、その時の僕にはまだ知るよしもない、ちょっと先の未来の出来事だった。

 *

 遠くで何かが光ったような気がした。
 だがすぐに蓬髪の男は、森を駆ける小動物か何かの眼光だろうと考え、興味を失ったかのように視線を戻す。
 継ぎ接ぎした毛皮の衣服を身にまとうその男は、凍て付き、氷のように固くなった雪の上に直接座り込んでいた。
 男の膝の上に、一匹の獣が横たわっていた。
 痩せ衰え、毛並さえもまばらな、一匹の老狼。目はうつろで、もはや何も見えていないかのように頼りない。
 半開きの口からは舌が大きく垂れ下がり、涎が滴っている。吐き出す息は深く弱く、凍る大気が僅かに白く濁る程度だった。
 男は手を伸ばし、その老狼の首筋を優しく撫でる。すると狼はそれに気付いたのか、僅かばかり視線を傾け男を見るが、すぐにまた力なく宙をさまよう。そんな仕草を見つめる男の瞳には、例えようもない哀しみと愛おしさが入り混じっていた。
 目の前には、暗く静かな水塊が広がっていた。若干水温が高いのだろうか、水面からは絶えず濃い湯気が立ち昇り、周囲に白い天然のスクリーンを作り出している。
 遠くで、狼だろう遠吠えが響いた。何故かその夜に限りその声はやけに高く、そしていつまでもいつまでも絶えないままに続いている。
 森に、何かあったのだろうか。一瞬だけそんな事を思いはしたが、すぐにそんな興味も失せる。きっとその男の心の中には、抱き締めた老狼の事しかないのだろう。そっと瞳を閉じたその表情は、絶望にも似た諦めが広がっていた。
 そうしてどれぐらいの時間が経ったのだろうか、遠くから微かに、足音らしきものが近付いて来ているのを男は感じた。
 だが男は、その物音に対し構える事もなく座り込んでいる。その何者かに視線をやる事すらしない。それほどまでに、男は憔悴しきっていたのだ。
 やがて足音は極限まで近付き、暗闇の中でもその姿が見えるだろう場所まで来て尚、男は振り向く事をしなかった。
 だが――
「私がまだ子供だった頃、ほんの一時期だけ、日本と言う国の雪深い地方で暮らしていた事がありましてね」
 突然、陽気に声を掛けられた。男は慌てて振り向けば、暗闇の中、見知らぬ男性が横の岩場に腰掛けて、同じように水面を見つめていた。
「あの頃の事を思い出しましたよ。いやぁ、懐かしい」
「誰だい、君は」
 蓬髪の男がそう聞くと、その謎の男は、「リュート・D・クロフォードと申します」と、名乗った。
「私は昔から雪景色を見ると、実に奇妙な思考になる人間でしてね」リュートはお構いなしに続ける。
「何もかも真っ白に塗り潰された世界を眺めていると、急にふと何かに呼ばれているような気分になるんです。何かがどこかで私の来るのを待っている。そんな気持ちになるんですよ。
 そうして私はふらりと外へと出て行く。全くあてどもなく、なんの確信も無くね。
 まだ誰の足跡もない街の通りを抜けて、静かにまた雪に埋もれて行くタイヤの轍を追い、橋を越え、林道を進み、なんにもない筈の森の奥へと分け入って行くんです。もちろんそこには何にもないんですけど、それでもやはり呼ばれている感覚だけは抜けきらない。
 冬が来る度、雪が降る度によみがえる、私の悪癖です。――でも意外に、何も無くない場合もあった。いてくれて助かりましたよ、ターナーさん」
 リュートと名乗ったその男性は、陽気な声でそう言った。蓬髪の男――フレデリック・ターナーは、久し振りに聞く母国の言葉に戸惑いながらも、その相手の姿を注意深く観察しようと目を凝らす。だが生憎、幽玄なほどの月明かりではその表情を見て取る事は難しく、ターナーは目を細めるぐらいしか出来なかった。
「驚いたな。僕の名前を知ってるなんて、君は一体、どこの知り合いだい?」
 ターナーはふざけてそう聞くが、相手の男は至極真面目に、「歩いても数分のご近所ですよ」と答える。
「あなたの所から南へと下り、“24th ストリート”の辻を東に曲がった所に住んでおります。アップルパイが美味いので知られる、ウェンディの店の真ん前のアパートメントですよ」
 聞いてターナーは、「へぇ、懐かしいな」と、力なく笑った。
「それで今日はなんの用事だい? 宗教とニュースペーパーの勧誘以外の話なら歓迎するよ」
「残念。実は日曜のミサに誘おうと思って来たのですが」
 軽口を叩きながら、リュートは近くにある岩の上の雪をはらい、そこに腰掛けた。
 ターナーはリュートを見上げ、「来てくれたのは実に嬉しいんだが……」と、小声で語る。
「今しばらく、静かにしておいてもらえないだろうか。多分今日が、“彼女”との最後の夜だと思うんだ」
 言いながらターナーは、今にも消え入りそうな深い呼吸をする狼の首筋を、もう一度優しく撫でた。
 一見して、今夜が峠だろう事はリュートにも判った。そしてリュートはその説明に納得したのか、なんの返事もしないまま無言で夜空を見上げた。
 満天の星空にひときわ大きく、満ちた月が昇っていた。リュートはそれを眺めながら何を想うのか、その顔に月の光を受けながら静かに目を閉じた。
 しばしの沈黙が訪れる。リュートはしきりに自らの唇を指先でなぞっている。そうしてお互い無言のまま小一時間も経った頃だろうか、突然リュートが呟くような静かな声で、「ターナーさん、この辺りで真冬に咲く花を見掛けた事はありますか?」と聞いた。
 ターナーはリュートの方を向き、無言で首を横に振った。
「――なら、やはりあれだ」
 言いながらリュートは月を指差し、そして今度は小型の端末を取り出して何かを探し始める。
 懸命に指を弾き、リュートはついにそれを見付け、軽く舌打ちをする。
「ダメだ。この気温じゃあ到底足りない」
 呟けばその隣でターナーが、「何が?」と問うた。
「幻月ですよ。この地方の言葉で言えば、“クラッパープ・クベータ(黒と氷の闇の神)”。この空に月の花が顔を覗かせる時だけ奇跡が起こる。だけどその条件を満たすには、どうしても気温が高過ぎるんだ」
 言ったその瞬間だった。森のどこかでひときわ高く、狼の遠吠えが上がった。
 そしてそれをきっかけに、また一つ、また一つと遠吠えの共鳴が始まる。やがてそれは森の中の合唱のように、リュート達のいる場所を中心として響き渡り始めた。
 チリチリと肌が痛んだ。何ごとかと顔を上げれば、その夜空の星が散り始めたかのように、空気が瞬いていた。
「――まさか! 信じられない。月夜のダイヤモンド・ダストだ」
 リュートは急いでフードをかぶる。隣ではターナーも同じようにして、厚手の布を顔に巻き付けた。
「行ける。もっと……もっと気温が下がれば」
 言いながら月を見上げるリュートの前で、その月はぼんやりとぼやけ始める。凍て付く空気の中で空を凝視し続けるのはかなりの苦痛ではあったが、その甲斐あってか、いつしかその両隣に幻の月を従えた幻月が出来上がった。
「凄い。……なんて綺麗な夜空なんだ」
 ターナーもまた空を見上げて、静かに呟く。リュートは腰掛けた岩から飛び降りれば、そっとターナーの背後へと回り、その肩に手を置いた。
「さぁ、彼女を手伝いましょうか」
「……?」
「彼女はこの姿で、僅か十七年間を生きただけだ。まだまだ――この人生を終わらせるには早い年齢です」
「君は一体、何を言って……」
 突然、ターナーに抱かれた老狼は、最後の気力とばかりに手足をばた付かせた。見れば僅かにだが、その瞳にも気力が戻っている。
「どう……したんだい?」
「きっと、気付いているんでしょう」リュートは言う。
「早く。身体をこの水に浸けてあげて下さい。――奇跡を、信じましょう。童話と伝承の中に生きた、この奇跡の存在を」
「君が何を言っているのか良く判らないんだが」ターナーは言葉を返す。
「この泉の水には幾度となく触れている。むしろこの泉の水の恩恵あればこそ、僕達はここで暮らしていけているんだ。なのに今更――」
「確かに今更ですね。ですが、当たり前に慣れているからこそ気付けない事もあると思いませんか?」
「……」
「かつてあなたの前に現れた美しい女性は、どう言う経緯でその姿を保てたのでしょうか」
「君は一体、どこまでを知っているんだい」
「何も知りませんよ」リュートは笑った。
「ただ、奇跡に対しての偏見を持てない変人からの助言ってだけです。一回だけ付き合ってみましょうよ。少なくとも彼女はすでに、何かに気付いている様子だ」
「……」
 老狼は何かを引っ掻くかのように、前足を何度も何度も宙に彷徨わせる。
 ターナーはしばらく無言で老狼を見つめた後、小さく「そうだな」と頷いた。
「僕も昔、奇跡ってものを信じてここまでやって来たんだ。そう言う思考は、そんなに変なものじゃないと思ってる」
 言いながらターナーは、狼のか細い身体を抱き締めながら立ち上がる。すると狼もようやく安心したのか、静かに目を閉じ、抗うのを止めた。
 ぼんやりと月明かりが泉の水面を照らす。凍り付いた空気もまたその月明かりを受け、きらきらと煌めいて見えた。
 ターナーは恐る恐る一歩目を踏み出す。足は膝の上まで沈んだ。リュートは後ろからその姿を眺めながら、ふと何を思ったか小型端末を取り出しカメラモードへと切り替える。
「奇跡が起こるには最高のシチュエーションだな」
 嬉しそうに呟きながら、泉の中央へと向かうそのシルエットをファインダーの真ん中へと持って行く。狼の肢体を抱き締めたターナーの姿がレンズ越しに見えた。
 ――まるで月明かりが二人の為のスポットライトのようだ。そんな事を思いながら、リュートの指先がシャッターに近付いた時。
「な、なんだ?」リュートは小型端末を取り落しそうになりながら周囲を見渡した。
「……冗談だろう。一体どこまでが事実で、どこからが法螺話なんだよ」
 リュートは慌てた。まさに彼のその周囲には、まるで予期していなかった事が起き始めていたからだ。
 珍しくもうろたえながらターナーの方へと振り返ると、今度こそリュートは端末を放り投げながら両手で頭を抱えた。
「しまった。またしてもタイミングが遅かった!」
 叫ぶリュート。
 森のどこからか、ひょぉぉぉぉと、妙に甲高い音が一節、聞こえて来た。
 それはさながら老婆のあげる笑い声のようであり、もしくは木々の間を吹き抜ける風の音にも聞こえた。

 *

「リュート、判ってるんだろうな? 俺が一体どれだけの距離を移動して、ここまで来たのか」
 ドアを乱暴に閉めつつ、スーツ姿の大男は人差し指を激しく振りながら、車の窓にそう聞いた。
 日中の暑さがまだ冷めやらない、汗ばむほどの気温の夕暮れだった。一歩遅れて運転席のドアから降り立ったリュートは上半身裸のままで、「やはりマイアミはいいな」と、背伸びをした。
「聞いてるのか、リュート!」
「聞いてるさぁ、マルコ。あんまりカリカリするなよ、ますます暑苦しいぞ」
 言ってリュートは、指先でサングラスを押し上げる。地元と言う意識のせいか、サンダルに七分丈のジーンズパンツと言う、非常にラフな格好だった。そしてその片手には一体何を持っているのか、新聞紙に包まった大きめな荷物を小脇に挟んでいる。
「おいリュート、なんだその言いぐさは! 少しは申し訳なさそうな顔でもして、礼なり詫びなりするのが普通じゃねぇのか!?」
「わかったわかった。申し訳ないね、マルコ。とりあえず旅の成功を祝って君に最上のワインをご馳走したいんだ。いい加減、機嫌直して中に入ってくれないかな」
 言いながらリュートは、片手で店のドアを押し開ける。そのドアの真上の看板には、“SIMMONS”とあった。
 マルコはまだ何か言いたそうに口をパクパクとさせていたが、「美味いワインか?」と聞けば、リュートは人差し指を立てながら、「当然」と、得意そうに返した。
 店の中は、独特の喧噪だった。リュートは勝手知ったる要領で店の中を突っ切りカウンターへと向かえば、顔見知りなのだろう客の一人がリュートを見付け、「おぉ、凱旋帰国か?」と、声を掛けた。
 同時に、店の中の視線が一斉にリュートに集まる。さすがのリュートもそれには驚き、「何ごと?」と、肩をすくめながら聞く。
「よう、どうだったんだ? 見付かったのか、色男は」
「奴さん、結局いなかったんだろう? 早く結果を教えてくれよ!」
 口々に、人は囃し立てる。リュートは両手を挙げ、ちょっと待ってくれと言ったポーズでカウンターに歩み寄る。
「……なんで全員知ってる?」
 サングラスをずらしながら若いバーテンダーにそう聞けば、「みんな暇だからね」と、今一つ論点の違った返事をしつつ、苦笑した。
 カウンターの隅には、先代オーナーを含む老人達の姿。当然、皆が薄笑いを浮かべながらリュートを見ている。
「なんなんだ、リュート」
 マルコは聞くが、「説明は後にしてくれ」とリュートは告げ、「“RED BIRD”!」と言いながらカウンターに十六ドルの紙幣を置き、「それと、ペプシ」と、注文した。
 やがてカウンターの上に置かれたのは、フルボトルのワインと、瓶のままの冷えたペプシ。それから、山のようにコルクが積まれたバスケットが三つ。
「何故増えてる?」
 バスケットを指差しながら老人達にそう問えば、その三人は口々に、「暇だからね」と、揃わない声でそう言った。
 リュートはしかめっ面でペプシを一気に呷ると、今度はワインのコルクを引き抜いて、ボトルはマルコに。コルク栓には自らの名前を書いて、その山の一部に積み上げた。
 そうして誰もが注目をしている中、リュートはジーンズパンツのポケットからもう一つ、“Turner”と書かれたコルク栓を取り出すと、そのまま山の一部へと積むように見せ掛けて――カウンターの向こうに放り投げた。
「賭け主のターナーから伝言がある。皆、十七年も待たせて済まなかった。今日は全て僕の奢りだから、思う存分飲んでくれ……ってさ」
 店内は一瞬にして割れんばかりの歓喜の声に包まれた。賭けの内容を知る者も、ターナーの名前すらも知らない者も、誰もがグラスを持ち上げ盛大な乾杯を始めた。
「何ごとなんだよ」
 渋い顔でワインを傾けるマルコに、「美味いか?」と、リュートは聞く。
「聞くなよ。フランス人は事ワインにかけては、褒める以外は出来ないんだ」
「そりゃあ気の毒に。言っておくが中身はカリフォルニアワインだぞ」
 言うとマルコはますます渋い顔になり、瓶の中を覗き込む。リュートはカウンターに背を向けて寄り掛かると、先代オーナーである老人が、「逢ったのか?」と問うて来た。
「えぇ、もちろん」
「そうか」と一言区切り、「元気だったか?」と、再び尋ねた。
「えぇ、もちろん」
 面倒臭そうに一字一句同じ台詞を返すと、老人は満足そうに頷いて、「そうかそうか」と、仲間内の会話へと戻った。
「終わったなぁ」
 言いながらペプシの瓶を傾ける。その横でマルコが、「いい加減、全部話せ」と、リュートを突いた。
「あぁ、もちろん。さて、どこまで端折っていい?」
「ふざけるな、全部話せと言っている」
「了解。――えぇと、事の発端は先々月の事になるんだが、俺が北極圏で君が南極圏で、同時に極夜と白夜を楽しみながら乾杯しようって持ち掛けたのは、実は裏があってさ」
「そこはいい。飛ばせ」
「なんだよ、面倒だな。それじゃあ俺が、ロシアの片田舎の店でウォッカを購入している間に車が盗難にあったって辺りから行こうか」
「それもどうでもいいんだが、結局、盗まれた車はどうなった」
「あったさ。盗まれたって言うより、警察署に移動されていたってだけの話だった」
「なんでまたレッカー移動になった」
「どうやら俺が、公道のド真ん中に駐車していたせいらしい。言い訳になるが、雪のおかげで道路の標識が全然判らなかったんだよ」
「何でもいいが、そのお前の車はどこなんだ? まさかまだ向こうの警察署にあるって言う訳じゃないだろうな」
「いや、そうじゃないんだが……まぁそれは置いておいて」
「なんだよ、隠し事か。それじゃあとりあえず、森の謎から語ってもらおうか。俺が一番に知りたいのは、ナホトカって言う森の秘密だ。結局、過去から今に至るまでそこでは何が起きていたんだ」
 聞かれてリュートは、「判らない」と答える。
「判らないじゃなねぇだろ。話せ」
「いや、話せと言われても実際に何も判らないんだ。ただ、自分的な想像と確実に起こった事実だけは話せるがね」
「じゃあそれでいい。話せ」
「どうでもいいがマルコ、そのワインは美味いか?」
「だから、フランス人にワインの良し悪しを聞くな。性格悪いぞ」
「では、どこから話そうかな。自分的にはやはり、ヴェロニカの事について説明したいんだが」
「――まぁいい。続けて」
 マルコは呆れたように手を広げながら言った。
「ヴェロニカは多分……嘘は言ってなかった」リュートは言う。
「彼女にとってはあの森こそが故郷で、あの地以外は童話か口伝えの物語にしか聞く事の出来ない想像の世界だった」
「いや待て」マルコが話を遮る。
「もっと肝心な部分から行こう。結局そのヴェロニカって女は……何者だったんだ?」
 聞かれてリュートはペプシの瓶を持ったまま、無言で肩をすくめる。
「なんだよ、それは」
「判らないって意味さ」
「判らないって話はないだろ。お前は確かに、死にぞこないの老狼を抱いたターナーと逢ったとそう言ったな」
「あぁ、言ったね」
「どうしてそこから先をはぐらかす。お前は一部始終を見て知っているんだろう?」
「いや……申し訳ないんだが、見てない」
「見てないって、その場にいてか?」
「あぁ、その通り。その場にいながら肝心の部分だけは見事に見逃した」
「……」
 今度はマルコが、無言で肩をすくめる番だった。
「多分彼女は、ワルワラの息子と怪物に変えられてしまった彼女との逃避行の話を、口伝えの昔話で聞いていたんではないかと俺は予想している。だからこそ“日の没する地の王国“に足を運んだのだろうし、そこで出逢った男を伴侶として選んだのも頷ける」
「そこが良く判らないんだが」マルコは言う。
「なんでヴェロニカはターナーを捨てて故郷へと帰ったんだ? 上手く行っていたんなら、逃げ帰る必要なんてなかった筈だろう」
「そこは、それ。お互い独身と言う身の上が、その目を曇らせているんじゃあないんだろうか」
「訳わかんない事言うな。何が言いたい」
「良するに、彼女に子供が出来た、と」
「……なんだって?」
「ヴェロニカは自分が妊娠したのを知った。だが、そこで産むのはためらわれる。そうなるともう、頼るのは故郷しかない。――これは例の族長から聞いた話なんだが、昔にも似たようなケースで、森で拾った女性がある日忽然と消えてしまった事があるらしい。その理由も、子供が出来た事だと考えれば自然に納得が出来る」
「いや、待て」マルコが口を挟む。
「俺には納得が出来ないな。どうして故郷で産まなければならない? その理由は?」
「さぁね。もしかしたら生まれる子供の方に問題があるのかも知れない」
「……」
「実はね。俺も半信半疑だったんだ」リュートは独白するように語る。
「あの森まで行って何が判るんだと。どうせ何もかも空振りに終わって帰って来るもんだと思ってた」
「まぁ、その件を事前に話してもらっていたら俺も止めたな」
「それでもう全部諦めて、単なる小旅行って気分で行った訳なんだが、そこで一人の少年に出逢った。ノマド(移動遊牧民族)に属する、族長の息子でな。名前を“ボラグ”と言った」
「なんでそう関係の無い方向に行くんだよ」
「いいから聞けよ。――なんて言うか、綺麗な少年だった。赤毛で真っ白な肌で、やけに整った顔の素朴そうな少年だった」
「お前いつから少年趣味になったんだ? もしかしてユナと何かあったのか?」
「そうじゃない。黙って聞けって。――とにかく、その少年だけは周囲から浮いて見えた。どれだけ同じ恰好をしてみても、周りに同化出来ない程の綺麗さで」
「他の連中は汚かったって話か?」
「なんでお前はそう極論になるんだ。綺麗、汚いの話じゃない。簡単に言うとだな、その少年だけは一目で他の仲間と違う血だって事が判った。他の連中は皆、あきらかにモンゴロイドの血族だと判るのに、その少年だけはどう見てもネグロイドとコーカソイドの混血の顔立ちだった。そして彼の父親を見て確信した。あぁ、この子は彼等の純粋な子孫じゃないって」
「へぇ……それで?」
「そのおかげだよ、俺がそのナホトカの森で降りてみようと決意したのは。まだ全てが想像の中でしかなかった事が、彼等と逢った事で一気に繋がったんだ。幻日に、オーロラに、彼等の伝える童話の中に、全てに真実のヒントがあった。そして最終的に俺を行動に移させてくれたのは、やはりその少年の存在だった。――もう一度言うが、彼の名前は“ボラグ”。それはモンゴルの言葉で、“泉”を指すんだ」
「泉……。お前が辿り着いた、例の水塊か」
「そう、俺はそれで直感した。失礼とは思ったが、彼の父親である族長にそれを聞いてみた。もしかしたら怒るかもとは思ったが、意外にも族長は素直に語ってくれたよ。あの子はこの森の奥の泉で拾った子供だと。――いや、拾ったと言うより、その泉からやって来たと言う女性から預けられたと言った方がいいのかな」
「泉からやって来たって? なんだそりゃ? どんどん話はややこしくなって来るな」
「あまり深く考えずに聞けよ。とにかく族長は、とある真冬の晩に、その森の近くで出逢った得体の知れない女から子供を預かる。最初は断ったらしいが、とにかくその女性はしつこく食い下がった。“この子は、人として生まれて来てしまったから育てられない”とね」
「……」
「族長にもそれが何の事なのかさっぱり判らなかったそうだ。――だが、彼はその子を引き受けてしまった。“泉”の意味を持つ、母親の付けた名前と共に。もちろんその事は、彼等全員が知っている事実さ。だが誰もその事について深く追求しようとはしていない。彼等にとって、あの少年は族長の息子であり、それで充分なんだ。童話が語る過去の事実や、森の奥に存在しているかも知れない泉の事だって、それが本当かどうかなんてどうでもいい事。大事なのはただ、自分達の生活を守る事と、伝統を絶やさぬ事のみ。事実はただ酒盛りの際の肴程度で、面白おかしく脚色されて語られるだけでいい話なんだよ」
「……なるほど、面白いな。俺達とはまるっきり対極に位置するような考え方だが、嫌いじゃない」
「だよなぁ。俺もそう思ったよ。彼等は風流に生きる民族なんだなって」リュートは言う。
「族長も、いつかは本人にも話すつもりらしいよ。生い立ちも、そして母親の事も。――尤もそれが、いつの未来になる事かは判らないけどね」
「そうか。……だが残念だな。いくら真実を告げられようとも、その子は親には逢えないだろうに」
 マルコが言うと、リュートは「どうかな」と笑う。
 言いながらリュートは、マルコからワインのボトルを奪い、一気に呷った。そしてそれを叩き付けるようにしてカウンターに置くと、はばかる事なく、「やはり不味い!」と言い切った。
「そうかぁ? 俺ぁもう飲み慣れて来たのかな、結構美味いと思うぞ」
 マルコが言い返すと、「いや、不味い」と繰り返し、「もう一本くれ」と、バーテンダーに頼んだ。
「リュート、お前、車をどうするつもりだ?」
「置いて行く。ここからアパートメントまでは歩いて帰る。なぁに、千鳥足で歩いてもほんの二十分程度だ」
「俺まで二十分も歩かせるつもりか!?」
「四十時間近く運転したついでだ、それぐらいいいだろう」
 言いながらリュートは、残ったワインを飲み干す。マルコはしかめっ面を作りながら、「二本にしてくれ」と、バーテンダーに告げた。
「それで、どうなったんだ?」
 マルコは器用にコルク栓を引き抜きながら聞いた。
「どうなったんだって、何が? 少々質問が曖昧過ぎないか?」
「いや、お前こそいい加減過ぎるだろう。なんなんださっきから、肝心な部分だけ避けて話してないか?」
「そのつもりはない。無いが、聞きようによってはそう思えるかも知れないな。なにしろ俺自身、未だに理解出来ている部分が少ないんだ」
 リュートはそう言って、栓の抜けたボトルをひったくる。マルコは渋々、もう一本を手に取った。
「だが、一つだけ判った事はある」リュートは言った。
「どんな奇跡も、それを信じて行動した者にだけ与えられる恩恵だって事さ。もちろんどっちか一つでは駄目だ。信じているだけならただの憧れだ。行動だけならただの考えなしだ。両方あってこその恩恵なんだ。今回の一件で、俺はそれを痛感したよ」
「良く判らない例えだな」
「うぅん、つまり――。きっとそこにあると信じて行動したからこそ俺は、森の奥に泉を見付けたって事さ」
「そりゃ違うだろう。きっとお前は周囲の地熱を端子で調べていた筈だ」
 言われてリュートはバツが悪いのか、無言のままそっぽを向いた。
「ところでリュート、その包み紙は何なんだ。ここに来るまで待てと言っていたクセに、全然中を見せる気配がないじゃないか」
「あぁ、これ……」思い出したかのように、リュートはそれを傍らに引き寄せる。
「大した事のないものだよ。たまたま泉の近くで見付けた、珍しい花さ」
 そう言って包みを開けば、中からはガラス容器に包まれた白く透明な植物が出て来た。不思議な事にその植物は、一見して花にも見えながら、羊歯(シダ)類にも見え、茸のような菌類の特徴も見られる妙なものだった。
「なんだよ、おい……それってまさか」
「そう、これがその“ファントム・リリィ(月下美人)”。もうちょっと待っててみな、ちょうどこの店の薄暗い灯りで花弁が開く筈だから」
「いや、待て。嘘を吐けリュート。これは絶対に偽物だ。これはお前が作ったジョークアイテムだ」
「なんで? 本物だよ?」
 リュートは含み笑いをしながら答える。
「いや、有り得る訳がないだろう。しかもなんだこれは。氷か? 雪か? なんでそんなものの上に咲いている。植物である以上、不可能な生態系じゃないのか」
「そう言うなよ。どれだけ不可能でも、実際にここにあるんだ」
「いやいや、俺は信じないぞ。大体、お前、実際にそんな奇跡のような花があったとして、なんでこんなに簡単に無節操に取って来られる。摘んだら最後、後はもう萎れるだけだろう? なら、本物なら摘めない筈だ。したがってこれは偽物だ」
「そう言うなよ、珍しくても結構沢山咲いていたんだ。一本ぐらいいいじゃないか」
「いや、良くはないだろう。だがこれは違う。絶対に違う。大体何だ、夜に花が開くって? 光合成もしない上に、色素さえ無い。もうこれは植物と言うものをまるで理解していない愚か者が作った芸術品の類だろう」
「へぇ、なら一応君も、これを美しいとは思ってる訳だ」
「論点が違うぞリュート。まさかとは思うがお前は、これを作る為だけにロシアの片田舎まで遊びに行った訳じゃああるまいな」
「相変わらず面白いな、マルコ。君はいつも奇跡に近付くと、徹底した否定派になる」
「“派”じゃない。俺は本気で否定しているんだ」
 マルコは勢い良くワインを傾ける。
「いいね。それじゃあ今夜も、徹底して論議を戦わそうじゃないか」
 リュートは厭味ったらしく、マルコのボトルに自分のボトルをぶつけた。
「良し、なら賭けようか」マルコは怒った表情で言う。
「もちろん、この店のルールに従ってな」
 言いながらカウンターの上に転がるコルク栓二つを手に取る。
「いいとも。最初から勝ちの判った賭け程、美味いものはないね」
 リュートはその挑発に乗る。
 そして二人はそのコルク栓に自らの名前を書き入れると、「良し、それじゃあこっちが肯定派な」と、リュートは花の左側に栓を置く。するとマルコはその逆側に栓を置き――そしてそのまま左側へと滑らせ、リュートの栓の隣に付けた。
「まずは植物の講義から行こう。悪いがこればかりは、お前よりも俺の方が詳しいぞ」
 マルコの言葉に、「好きにしろ」と、リュートは呆れ顔で答えた。
 ――カランカラン
 ふいに二人の背後で、店のドアの開く音が聞こえた。
 振り返るリュート。ドアの横に立つ男女。そして長い髪を後ろで束ねた中年の男性は、誰かを探すかのようにして店内をきょろきょろと見渡した。
 そっと片手をあげるリュート。そしてそんな彼を見付けた長髪の男は、嬉しそうな表情でリュートに歩み寄れば、すくうようにして何かを投げ付けた。
 片手でそれを受け取るリュート。手を開けば、そこにはリュート愛用の車のキーがあった。
 男はリュートに、「あらためて紹介したい人がいるんだ」と告げ、ドアの近くで躊躇している女性に手招きをした。そしてリュートもまた、隣で怪訝な顔をしているマルコの背を叩き、「君のうんちくを聞くのは後にしておこう」と告げた。
「しょうがねぇなぁ」
 マルコは愚痴りながら飲み掛けのワインのボトルをカウンターに置き、ふと何かに気付いたかのように、ガラス容器の中の花をしげしげと見つめた。そうして、「リュート」と声を掛けながら振り返るが、既にリュートの姿はそこにない。
 マルコは苛々とした表情でその花を指差した後、乱暴に自らの鼻を指でこすると、諦めたかのようにリュートの後を追い掛けた。
 店の中央では、またにわかに新たな喧噪が巻き起こりつつあった。
 それを見ながらカウンターの端に陣取る老人達は、「どうやら今夜は、不味いワインがやけに売れそうだな」と笑い合う。
 ほんの少しだけ開いた立てつけの悪いドアの隙間から、外の空気が流れ込む。
 湿気を含んだ熱帯夜の風に、僅かばかりの涼しげな空気と、遠い遠い異国の地の香りが混ざり合う、そんな真夏の夜の事だった。





《 月下美人 了 》





【 作者コメント 】
 え~、どうもどうも。この度は何か賞を頂いたそうで。
 誠にどうもありがとうございます。
 さてさて、せっかくなので何か書きましょうかねぇ。
 えーと、このリュートシリーズのこの作品。実は大昔、NHKか何かの番組で実際に観た番組がモデルになっているんですねぇ。
 この作品の冒頭に暗い森の写真が貼っておりますが、まさにその写真のまんま。雪の積もったくら~い森の中を静かにひた走るクローラーキャリアの隊列。そして幌も張らずに荷台に揺られ続けるモンゴロイド系の遊牧民達。
 座る足の下にはこれでもかと詰め込んだ食糧とお酒。そして彼等はこれまた静かに静かになにやら聞き慣れない異国の言葉で会話を続けながら、夜の空けない空の下で旅をします。
 私はあれを観て、なんて凄いんだろうと本気で感心をしました。
 実際に彼等と一緒に旅をしろと言われたらちょっと無理っぽい気はしますが、それでも一晩ぐらいなら一緒にあの荷台で揺られてみたいぞと! 思う程に強烈な思い出でした。
 さてそれから何年の月日が経ったのでしょう。あの時のあの気持ちのまま、この作品を書けたかな、なんて。
 きっとこれを書いている時、私もその荷台の上で、皆と一緒に一夜限りの賭けをしていたのかも知れませんね。今では楽しかった記憶しかありません。
 そして本日、こうして賞を頂けた事、ひたすら光栄に思います。どうもありがとうございました。
 来年もまた、参加させて下さいませ。


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