Mistery Circle

2017-05

《 深く長いため息 》 - 2012.07.15 Sun

《《 2014 オススメMC 総合三位 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 星十作品 》》

Anniversary Mistery Circle Vol. 50掲載 

《 深く長いため息 》  

 著者:幸坂かゆり







「あれは私がここに来て、数年後のことだったかな…」
この病院で“ベテラン”の患者である老人はいつものように語り始める。
ああ、また始まったか、と看護師は思う。朝、この血圧を測る数分。なぜ黙っていられないのか、と看護師はうんざりした気持ちになる。

「夏のある日、突然、外で大きな音がしたから驚いて窓に行ったんだ。そう、ここの窓だよ。窓辺の下には煙を上げた車があった。傍らにはその車から投げ出されたらしい若い男と女が倒れていた。頭と足が寄り添う形で逆さまになったまま。それでも互いを抱き寄せるようにして。それはそれは美しくて、ロミオとジュリエットのようだった。あんなに美しい最期は理想的だ。本当に素晴らしいと思った」
「他人の事故をそんなふうに…」
「君にはわからないだろうか。あの事故は起こるべくして起こったものだ」
一生わからなくて結構よ、と、看護師は吐き捨てるように言った。老人は早口のような看護師の言葉を聞き取れなかった。
「そのふたりの内情は、当人にしかわかりませんよ。シェイクスピアに喩えたけれど、あれだって酷い話よ。芸術という言葉を剥がしてしまえば、血なまぐさい大人の勝手な闘争を子どもの悲恋物語にすりかえているだけ。互いに死んだことも知らずに、かわいそうなふたりの恋する男と女。それだけよ。現実は作り物なんかよりもずっと辛い。死亡事故を起こるべくして起こった、などと言ってはいけないですわ」
顔を老人に向ける。老人は既に眠っていた。ああ、またこの話を聞かされるのかしら。看護師は血圧測定器を片付け、小さくため息をつく。
「何かありましたらナースコールを押して下さいね」
いつものように機械的に眠っているというのに老人に向かって言う。
「そのボタンを押せなかったらどうしたらいい?」
なんだ。起きていたのか。さあね、と看護師は心の中で毒づく。叫んでみたらいいじゃない。お得意の語り癖のように。

看護師もあの事故はよく憶えている。ここは小さな町だし、心中事件ということも理由のひとつだし、自分とそれほど年齢の変わらないふたりが起こした事故だというのも衝撃だった。看護師も当時、野次馬のひとりとして見てしまった。ふたりに外傷はなく、老人の言うように美しかった。しかし圧倒的に悲劇だったのだ。もしも事故がふたりを分かつことがなかったら、現実をどんな人生でも生きて、楽しいことだってあったかも知れない。それなのにあんな道を選んでしまったのだ。哀しすぎる。経緯は当人にしかわからないこと。なのに、老人はそこから逃げてファンタジーしか見ていない。哀れなひと。老人の話す言葉は結局、奇麗事でしかない。その言葉も投げるだけで、相手に手を差し伸べる親切さもない。ただ自分は知っている、と言うだけ。ムダな知識。老人には妻も子どももいた。しかし若い頃から頑固で、なのに淋しがりで、妻も子も、ただ旅行に行く、と話を出しただけでものすごい剣幕で怒鳴り、反対した。子どもが成人し、都会へ勉強に行きたいと言ったときも自分を捨てるのか、とまた怒鳴り、結局、こうして老いてから離婚を言い出された。そんな妻や子どもに対しても、自分を捨てていった、薄情な家族だった、と言う。しかし看護師は思う。自分から孤独になることを選んでいるかのようだ、と。何を言っても否定するあの老人には理解してもらおうとは思わないけれど。自らの若かった頃の夢や希望に飲まれていて、そこから出ようとしない。そして、美談へと捻じ曲げた物語を話し過ぎて、時折息も切れるのだ。

12月中旬に入り、寒くなってきた真夜中、急患で老婦人が運ばれてきた。心臓発作を起こしたらしく、しばらく入院が決まった。容態が落ち着いた頃合いを見計らって、医師と看護師はこれからの治療について婦人に話した。婦人は理解しているが、ただ頷くだけだった。婦人は暗く口数が少ない。それでも、と、看護師は思う。あの老人とは大違い。手のかからない素晴らしい患者さまだわ、と、口には出さずに。しかし、よく観察していると口数が少ないと言うよりも心を閉ざしているようだった。婦人はいつも俯き、灰色の髪ではあったが、手や首の肌の張りを見るとそれほど年老いてもいない。検査によると心臓疾患を抱えていて、今回入院に至った発作の原因もそのせいだ。しかし付き添いがいなかった。身寄りがないから、と、婦人は言う。そこから、また固く心を閉ざす。無理はさせないよう心がけ、体力作りのため、院内の散歩を薦めた。もしかしたら気も紛れるかも知れない。看護師は声をかけた。
「そうですね。少しでしたら…」
婦人は小さな声で看護師に返事をする。

この病院施設にはよく陽の当たる中庭がある。コの形になり、周りをガラス窓が囲んだ造りになっていた。外は寒いけれど、院内からはその中庭が陽射しを受けて暖かそうに映る。看護師は婦人をしっかり防寒させ、車椅子に乗せてゆっくりと中庭を見て回った。婦人はそこに、うっすら積もった雪を見た。
「いつ降ったのかしら」
「12月に入ってから毎日、少しずつ降っています。多分すぐに溶けて、根雪になるにはもう少しかかると思います。」
婦人は、そう、と一言だけ返した。
看護師は婦人の表情を覗き見する。婦人の体の周りには憂鬱がまとわりついていた。
ほんの数十分で散歩を終え、病室に戻った。婦人は車椅子を降り、ベッドに入ったが、横にはならず、カーテンを引いてくださる?と、看護師に要求した。婦人は陽の光を望んでいなかった。婦人の憂鬱が伝染ったように、看護師は少しばかり不安になった。

看護師が夜勤の日のことだった。
コーヒーを飲みながら休憩をとっていると、同僚の看護師が横に来て座った。
「あの奥様は心の病よ」
看護師は思わず彼女を見る。
「心臓疾患だとドクターと話したわ」
「表向きはね。明け方、救急で運ばれてきたとき、私が担当したのだけど、発見したご近所の人に話を聞くと、随分前に一粒種の娘さんを事故で亡くしたそうよ。彼氏と一緒に。その彼氏は助かったみたいだけれど、娘さんだけ命を落としたの。その日から変化があったようなの。それまでは冷たいくらいの完璧主義者で、服にはいつもきっちりアイロンが当てられていて、市内での集まりも休むことなく出席していたんですって。けれど娘さんを亡くしてからはあまり見かけなくなって、真冬のように冷えたあの日、ご近所の人が奥様の家に灯りがともらないのを不審に思って、家を訪ねたらしいの。そしたら、おそらく入浴後だったのか髪が湿った状態で、ほとんど下着のような薄着のまま、氷のように凍えそうな部屋で、ストーブもつけずに床に座り込んでいたんですって。そのまま、意識が遠のきかけていたのよ」
「発作が起きたんでしょう?」
「救急車が来たときは、意識があったのよ。そして一度乗るのを拒否したそうよ。奥様は普段から度が過ぎるくらいに礼節を弁えている人だったから、誰かの手をわずらわせるのが嫌だったみたい。ふらついているのに手も借りずに救急車に乗ったそうよ。ご近所の人に言わせると、その顔は観念したふうだったって」

婦人の身の上話を偶然耳にしてしまった。
亡くなった娘。事故で。それも彼氏と一緒に。もしや、あの悲劇的な事故と関連があるのでは。何の根拠もなく看護師は思ったが、まさか、と首を横に振り、思考を打ち消した。そのとき、看護師の携帯電話にメールが入った。一人暮らしをしている息子からだ。
『母さん、今忙しいかな。ごめん』
息子は、いつもこの文面から始まる。
『この間話したけど恋人と旅行に行くこと、決定したから伝えておく。何かあったら連絡して』
簡素な内容でメールは終わっていた。息子の恋人。旅行。看護師の気持ちが妙にざわつく。同僚看護師の話のせいだ。息子に恋人がいることは以前から知っている。会ったことはないが、息子に聞くと優しい女性だと言う。ふたりで旅行に行く計画を立てているという話も聞いていた。バスや電車を乗り継いで、12月31日から元旦にかけて。息子はもう成人しているし、元旦だからって家族一緒に過ごさなければならない、なんて思ってはいなかった。だが、看護師は老人やら同僚看護師の話やらで、不安になってきた。息子の恋人は一体どういう人なのだろう。息子は内向的でおとなしい子だったから、むしろ恋人ができたことについては安堵していた。しかしもしも相手がエキセントリックな性格だったら。外は強い風が吹いていて、不意にガタガタと窓を鳴らす。看護師は、びくりと反応した。今日夜勤を終えたら息子に会いに行こう。不安のままで過ごすのは嫌だ。

その日の朝、看護師は突然、息子が住むアパルトマンを連絡もなしに訪ねた。
「母さん!?どうしたの、こんな朝早く!」
息子は早朝のドアフォンに驚き、急いでスウェットだけを履いた姿で、突然の母親の訪問に戸惑っていた。ドアを開けた息子の腕越しに見えたベッドには、恋人が下着で寝ていたらしく、息子の声で事態を把握して、慌てて衣服を探していた。母親である看護師は我に返った。息子の言うとおりだ。どうしてこんな無礼なことをしてしまったのだろう。いくら息子が心配になったからと言って電話の一本も入れず、突然訪問するなんて。母親だから、なんて理由にはならない。起きてきた恋人はその辺にあった服をやっと見つけ、急いで身につけると息子の隣に立った。素顔で、頬がピンク色に上気していた。
「おはようございます。あの、こんにちは。初めまして!」
早朝でもあり、動揺もしていたせいか、言葉を替えつつも、挨拶しか口にしていない恋人の瑞々しい声が微笑ましく、同時にすまなく思った。
「ごめんなさいね。突然押しかけてしまって。夜勤明けで、その…最近おかしな夢が続いたものだから不安になってしまって」
子どものような言い訳だ。看護師は少々バツの悪さを感じ、苦笑した。しかし息子の恋人はその言葉に人懐こい微笑みを返し、握手をして、せっかちな母親を喜んで迎え入れた。母親は突然の訪問だったことをひたすら謝罪し、お茶を一杯飲んで帰った。息子は、送るよ、と、言ってくれたが断った。次はきちんと連絡入れてくれよな、と、お小言ももらった。

真冬が近い。寒さでコートの襟を立てて歩き出した看護師は、唐突に息子の恋人の微笑み方を思い出す。何となく看護師本人に似ていた。厳密には、看護師の若い頃に。少し下がった目尻、笑うと口角の上がるふっくらとした唇。しかし圧倒的に自分とは何かが違う。印象が悪いのではなく、それが何なのか思いあたらないまま、家路に向かう電車の駅にたどり着いた。

看護師と婦人の散歩は毎日続いていた。
あくまでも運動不足やストレス解消のためで、婦人の心の闇を探ろうとはしなかった。ただ移り変わる季節の様子や冬にも咲く花々のことなど、当たり障りのない話題を選んでは話しかけた。時間も決めているため、段々と婦人は落ち着きを取り戻し、僅かに看護師に向けて、笑顔が向けられるようになった。立場上のこともあるが、人間として余計なことを話さないという大事さを、看護師は身に沁みるように思った。息子のアパルトマンを突然訪ねたときも、お節介を口にしなくて良かった、と思う。すべては順調に進んでいた。午後に入り、婦人が昼寝を始めた。看護師は他の患者たちを見て回る。できるなら他の患者たちのときも寝ている時間を見計らって行きたいものだ、と、思わなくもない。

その発端のような、あのベテラン患者である老人の病室にも行かなければならなかった。
婦人に接しているように優しい態度が必要なときもある。しかし、いちいち昔話に付き合うことはない。話を聞いて欲しいのならそういう役目のプロフェッショナルがいるのだから。看護師が老人の病室に顔を出した。と、同時に、老人はいきなり起き上がろうとしてバランスを崩し、ベッドから転落しそうになった。看護師は慌てて走っていき、老人の体を支えた。
「危ないじゃない!一体どうしたんですか」
看護師は少々きつ目に老人に言った。
「申し訳ない。聞きたいことがあって。気持ちが急いてしまった」
「とにかく落ち着いて。ベッドに戻ってください」
「あのご婦人は誰かね」
「はい?」
眉間に皺を寄せて、看護師が聞き返した。
「君が車椅子を押していた、あの白髪のご婦人だよ」
「…守秘義務がありますので、お教えするわけには行きませんわ」
老人の唇が震えていた。
「どうなさいましたの?具合が悪いんですか?」
「あの人は…あの事故の時の母親に似ている。かなり老け込んではいるが…」
看護師は、思わずはっとする。
「どういうご関係?」
「関係などない。いや持てなかった。一方的に婦人に恋していた。私は一方的にロミオだった。あの事故に、私は自分を投影していたんだ。事故のあと、あの場に泣き崩れ、毎日花束を捧げに来るあの人に私は恋していた。だからあの人だ。間違えるはずがない」
老人は顔を覆いながら、泣き出した。
「君の言うとおり、他人の事故をあれこれ分析なぞして美化してはいけないと思う。しかし、こうして物語を作らなければ、私はとっくにどうにかなっていた」
看護士は老人の感情的な告白に戸惑った。
「婦人に会わせてもらえないだろうか」
老人は乞う。
「けれど…会ってどうなさるおつもり?婦人は心臓疾患を抱えているんです。そして、やっと落ち着いてきている。事故の話をして発作を起こしたら、あなたの責任にもなるんですよ」
老人は感情任せに言っていたが、俯き、黙った。看護師は自分の立場上、感情は一切排除し、仕事に徹することに専念した。

しかし、意外なところから話が広がってしまった。若い看護師たちが話を聞きつけたのだ。

あの人が心中事故のときの母親よ。
どちらの母親?
女の子の方。

それは患者の間にも広がっていき、いつものように散歩すると、婦人は遠慮のない視線に晒されてしまった。若い看護師たちについてはそれこそベテランの看護師や医師からの厳しい苦言で、表向きだけでも態度が改まったが、肝心の婦人の心が。せっかくここまでうまく信頼関係を築いてきたと言うのに。ずっと間近で婦人の様子を見ていた看護師はため息をつく。婦人の病室に赴くとカーテンできっちり仕切られていた。誰が外から覗いても表情がうかがい知れないように。看護師はドアを閉めて、自分しかいないことを告げて婦人に話しかけた。
「私どもの教育のせいです。本当に申し訳ございません」
「いいのよ。謝らないで。白い目を向けられるような態度を取ってしまったのだもの」
殊の外、婦人の声は落ち着いていた。
「それに、白い目ばかりでもなかったの。そこに驚いているわ」
看護師は夫人に目を向けた。婦人は凛としていた。
「ひどくお節介でおしゃべりな男性がいるようね。私に会いたいだなんて言う殊勝な人が」
婦人は穏やかに話した。あの老人の噂まで耳に届いてしまっていたのだ。
「もう老いて行くだけ。互いに孤独な身なのでしょうね」
一言そう添えて、婦人は老人と会うことを承諾した。

看護師はすぐ医師に相談し、老人にいくつかの注意事項を話した。絶対に看護師が複数付き添いの下で。面会前と面会後、血圧はしっかり測るように。わかっているとは思うけれど、絶対に娘さんの死について、ロミオとジュリエットに喩える話をしてはいけない、と、強く言い聞かせた。時間も決められた。そして、今回のようなことは例外であって、今後は認めない、と看護師にも釘を刺した。

用意された部屋で、婦人は車椅子に乗って待っていた。老人は、老いつつある風貌でも背筋を伸ばしている婦人の姿を前にして、車椅子の前に思わず跪いた。婦人は複雑な面持ちをして、老人を見た。
「ただ言いたいだけだから、こんな老人の話は流してくれて構わない」
そう前置きをし、老人は、あれほど止めたのに、ロミオとジュリエットに見立てた事故の話を何よりも早く話した。看護師は驚き、興奮して老人に向かって叫ぶ。
「話すなって言われたばかりじゃないの!」
看護師は老人を婦人から引き剥がした。あまりにも激しい制止振りに、看護師も周りに止められる中、老人は婦人に恋をしていたことまで話した。看護師にとっては何度も聞いた話だが、非現実な想像はなく、極力事実に基づいて努力して話しているのがわかった。婦人は体も動かさず、じっと聞いていて、老人の目は真剣だった。もちろん、看護師だって止めるのに必死だったが、ふたりの間に静寂があり、看護師も抑える手を緩めた。老人は、あの日、事故のあった場所で、髪を振り乱して泣く婦人の姿を克明に話す。婦人は何度か早い瞬きをしながら黙って聞いた。
「どんなに辛かっただろう、と思う。私はあなたのそんな姿にいつも何でもいいから、言葉を投げかけたかった。しかし、何も慰める言葉なんか出てこなかった。けれど当然だ。私があなたに声をかけるには、私は幸せ過ぎたのだ」
「申し訳ないけれど」
冷静な声で婦人は言う。
「あなたの仰る事故と私は何の関連もございませんわ」
その言葉に、そこにいた誰もが驚いた。看護師ですら。心のどこかで、あの事故のときの母親だと信じて疑わなかったのだ。
「だから、そんなふうに思ってもらう資格などありません。ご自分を幸せに思うことは大切な心です。幸せならそれを感じたままで良いと思います。過ぎることなんてありませんわ。皮肉でも何でもなく。なかなかそんなふうには生きられませんもの。どうか、ご加護はあなたに」
婦人はそこまで言うと哀しげに微笑み、もうよろしいかしら、と老人に言う。
老人はまだ、夢の中にいるようにぼんやりとしていたが、婦人が手を差し出し握手を促したので、はっとした。
「どちらにしても、私たちは生かされている以上、生きて行くしかないだけですわ。お互いに」
婦人は老人に言う。老人は婦人の手を力強く握った。
「今度、落ち着いたらでいい。おいしいお茶でも一緒にどうですか」
老人は柄にもなく、顔を赤くして言った。
「喜んで」
場は、一気に柔かな空気に塗り替えられた。中には小さな声で、やれやれ、などと呟く者もいた。しかし看護師には、たった今、この瞬間だけ、老人が恋する若い青年のように見えた。ふたりは挨拶をして別れた。

騒動が治まったあと、病室に戻り、看護師とふたりきりになった婦人は、先ほど老人には話さなかったことを話した。
「あのときの事故の様子をロミオとジュリエットに喩えられたのは、とても残酷だったわね」
「やっぱり…」
そこまで言って看護師は思わず自分の口を押さえた。
「よろしいのよ。みんなそう思っていたでしょう。でも本当のことを言わないでいる権利は、私にだってあるはず」
「もちろんです。仰るとおりですわ」
看護師は、不思議と胸のつかえのようなものが降りてゆくような気がした。

「…けれどね。あの方の喩え、とても理解ができるの。私の夫は年下だった。幸せな恋愛の末、結婚して娘が生まれた。けれど私の夫は年下の愛人を作って出て行ったの。とてつもない裏切りだと思った。何度も謝罪を受けたけれど、とても惨めだった。周りは好奇の目で私を見ていた。私のような時代の人間は特にそう。誰かを愛する思いが純粋だったとしても、女の方が年上の場合、破談になった途端、嘲笑されるの。気づいたら私はプライドの塊になっていた。美しく花開く娘を見ているのが耐えられなくなった。娘は歩くだけで誰もが振り向いた。それこそ先ほどのご老人のような男すらもね。娘は若く、美しかった。私は自分の老いに焦燥を感じるようになった。夫を憎み、その血を分けた娘の恋愛なんて許せなかった。私は、娘に酷いことを課していたのよ。それはもう…虐待と呼ばれる類のものだった。娘がいなくなってしまってからも、しばらく自分の行動に原因があったと思えずにいた。けれど娘の死で判ったのよ。嫉妬は悲しみを生み、度を越すと人の心まで殺してしまうと。私が娘を殺したようなもの。私はずっと後悔と謝罪で生きているわ。娘の相手の男の子はどこかで生きていると耳にしたけれど、どんな人生を送っているのかしら、と時々思うわ。

今は少しだけ冷静になった。もう、自分に嘘をつけるほど余裕も体力も何もかもなくなってきたからかしら。もちろん、私はこのことで一生苦しむでしょう。そうね。死ぬ間際まで。でもそれでいいの。今なら幽霊になってでもいいから出てきて欲しいくらいよ。今まであの子を苦しめた私を、頭のおかしな母親だと罵ってくれれば、どれほどましか、とすら思うわ。ああ…。長々と話してしまってごめんなさい。どんな言葉も陳腐なものになるってわかっているのに。どんなに話しても行き着く先はいつもたったひとつなの。なぜ言えなかったのだろう、と。たった一言でも、娘に、愛していると」
そう言って、婦人は静かに泣く。
看護師は、唇を噛んで婦人の話にじっと耳を傾けていた。

もうすぐ冬は本格的にやってくる。けれど、春は来る。婦人が娘を亡くした悲しみは決して葬られない。代わりもいない。だからと言って、老いながら後悔を足かせのように引きずり、心の傷と言う焼きごての烙印を、たったひとりで背負ってゆくなんて婦人には重過ぎる。何よりも、あのふたりの事故の原因がすべてたったひとり、婦人にある、と責めてしまうにはあまりにも詳細が不確かなのだ。誰にもふたりの真実は判らない。誰にも責められないことだと看護師は思う。


看護師は仕事を終え、自分の家に戻った。灯りとストーブをつけ、荷物を置いてコートを脱ぎ、2脚あるダイニングの椅子の背にコートをかけ、もうひとつの椅子に座った。今日は心を揺さぶられることが多かった。
看護師は母親としての自分のことも思い返してみる。

息子を育てていくことに必死だった。夫に先立たれ、看護師として見習いから入り、今のような地位につくまでさまざまなことがあった。苛められたこともある。どんなに泣きたくても息子の前で泣くのは、自分の子育て理念が憚られるようでできなかった。精一杯の我慢をしていたが、息子は聞き分けの良い大人しい子に育ってくれた。しかし思う。きっと息子は、母親が隠す苦しみを雰囲気で感じ取っていたのではないだろうか。しかし、まだ表す言葉が発達していなかったため、飲み込んでしまっていたのではないか。丸ごと。ああ、私こそ。看護師は思わず顔を覆う。婦人は言っていた。罵ってくれたらどれほどましか。小さかった息子の瞳を思い出す。いつも自分の顔を見つめていた幼い瞳。看護師の心はぐらぐらと揺れる。母親として。

12月31日。看護師の息子と恋人は、予定通りに旅行に出かけた。
息子はバスに乗る直前、看護師である母親に電話を入れた。
「珍しいわね、出がけに電話してくるなんて」
「彼女がしなさいってうるさいんだ」
息子は恥ずかしそうに言う。母親はあの恋人の姿を思い浮かべる。もちろん、初対面で裸のプライバシーを覗いてしまった、という罪悪感や自分への恥ずかしさはしばらく拭えなかったが、あの時、恋人が、話をするのを拒まない女性だとわかり、心のどこかで安心できる存在になっていた。聞けば、優しい息子の性格を知るが故に、今回の旅行も強引に思えたが、計画を立てる際、恋人は絶対に自分だけの意見を押し付けたりせず、息子と一緒に考え、ゆっくり進めていくことを大切にしてくれたと言う。
「彼女によろしく言っておいて。気をつけて。楽しんでね」
「ありがとう」
息子の声は、微笑みを含み、優しい声だった。

旅行は、感動にまかせ、流れるように進んだ。ふたりは終始柔かく手を繋ぎ、色んなものを見た。涙も笑顔も、自然なままふたりの記憶に取り込まれていった。恋人は、小さな素敵なことを見つける天才だった。けれどそんな素敵な天才を見つけた彼にだって、見る目があったのだ。

ふたりは年が明ける瞬間に、海でシャンパンを開ける予定を立てていた。今は、その海に向かう電車の中だ。気を悪くしないで欲しい、と恋人に断ってから彼は言う。
「君は、少し見かけが母親と似てる」
恋人は微笑む。
「私もこの間、あなたのお母さんを見て思ってたわ」
彼は、幼い頃の話なんだけど、と、恋人に話をする。恋人は話を促す。

「僕は母親の愛を熱望していた。母親は僕が幼い頃から仕事をしていて、家を空ける事が多く、家にいる日は仕事のための勉強をしていた。家計を守る意味では当然だと理解していたけれど、僕は淋しさの経験を積んでいなかった。毎日が暗闇のようにしか思えなかった。母親はいつも俯く姿で、僕を見てくれない。ある日、疲れたのかテーブルに突っ伏して日記に凭れ、眠っていた。無防備な素足の親指を内側に折り曲げていて、目の端に幾筋かの涙の痕があった。僕は何も言えずに傍らにいるしかできなかった。

ある日、僕は熱を出した。母親は仕事を切り上げてきたみたいで、いつもはいない時間に家にいた。そして料理を作り始めた。まな板に乗せた野菜を、包丁でリズミカルに切っていく音が聞こえた。僕はベッドで眠る振りをして、母親を見ていた。髪をひとつに纏め、しっかりと下を向き、眼差しは食材しか見ていなかった。切っては鍋に、切っては鍋に。時折、液体を入れる。劇的に良い香りが部屋中に立ち込める。料理が一段落したらしく、鍋を弱火にすると、母親は僕の元に来た。僕は慌てて目を閉じ、毛布をかぶった。母親は僕の額に手をあてた。少しだけ野菜の香りのする大きな手。僕は思わず泣きべそをかいた。母親は苦しいの?大丈夫よ、と言って、僕の顔を見た。僕は頷いて必死に笑顔を作った。しかしその涙は苦しさではなく、母親のその手と言葉が自分だけに向けられたことへの嬉しさからだった。その後、料理を食べた。消化が良さそうなきめ細やかな味だった。母親はそれを、ひとりで仕上げたんだって思うと不思議な気持ちになった。どうして人間って批判されると意地になったり、しょげたりするのに、そのままの愛情を受けるとためらってしまうんだろう、と思ったよ」

恋人は彼の目をしっかり見て話を聴いていた。
彼はその姿を見て思う。この人はいつもそうだ。恋人は、いつも彼がためらっていた愛情を、受け止めていい、それはあなたのものだから、と瞳で語ってくれていたように思う。
「ごめん、甘えん坊でいやになるよ」
「そんなことない。話してくれてありがとう」
「なぜ君は、いつもそんなに僕の話を否定せずに聴いてくれるの?」
「否定?なぜそんなものをしなくちゃいけないの?」
彼は逆に問いかけられてしまい、慌てた。その彼の心を見透かしたように恋人は少し考えて自分の考えを彼に話した。
「明らかにからかったり、茶化したり、否定ばかりする人には容赦しないわよ。実際にそういう人に出会ったこともある。不愉快だったから言い返して喧嘩になった。でもその人と同じ立ち位置にいるようで気分が悪かった。自分がかわいそうになったの。だからその人からは不愉快さを学んだことにしてお別れした。けれど私だって不愉快に思わせていた誰かがいたかもしれない。ううん。絶対にいる。でも自分のわかる範囲でしか考えられない。嫌いだと思ったやつをつかまえて、わざわざとっちめたりはしないけど、距離は置くことにした。そして、大切な人の話はいつだって真剣に聴くって決めた。そして私自身もわかってもらう努力を惜しまないって思ってる。知ってもらうことを諦めたら、それですべてが終わりになってしまうもの」
彼は、身振り手振りを加え、丁寧に話そうとする恋人の手を取り、力を込めて握った。


電車は海でふたりを降ろし、夜の海で年が明けた。
冷たい風に、ふたりは悲鳴をあげてはしゃぎながら、目的であるシャンパンを開けた。泡は波のように勢いよく弾ける。新年を祝い、ふたりは笑ってキスを交わす。そこに居合わせた、同じように新年を祝う人たちは彼らを温かい目で見守る。同じようにカップルもいれば、少しだけ悲しげな目をした独り身の男性もいた。

少しだけ時間がずれたけれど、母親に電話をしろ、と恋人がせっつく。彼は酔いも手伝い、迷わずに電話をかけた。
「母さん、ハッピーニューイヤー!ごめん。これだけ言いたかったんだ。仕事中?」
「いいえ、今日は偶然にもお休みなのよ。ハッピー・ニュー・イヤー」
電話の遠くから恋人が同じようにハッピーニューイヤー!と叫んでいる。
可愛い無邪気な声。思わず微笑みがこぼれる。潮風がうるさくて、今にも通話が切れてしまいそうだ。母親は大声で叫ぶように言う。
「風邪を引かないようにね!あなたも、一緒にいるお嬢さんも!」
「ありがとう。母さん」
「ああ、それから」
「なに?」
「愛してるわ!」
母親は息子の返事も聞かず、乱暴に受話器を元に戻した。
鼓動が早かった。聴こえただろうか。電話を切ると、部屋の中は急に静寂に包まれた。ふっと短い息を吐き、紅茶を淹れてダイニングに腰を下ろした。ありがとう。いつも何気なく息子はこの言葉を使う。この短い言葉は何て心を温め、満足させてくれるのだろう。ふと母親は思う。自分ひとりだけで人生の辛さや悲しみを抱えてきたように思っていたけれど、自分は息子のその優しさに、知らないうちに甘えていたのかもしれない。不意に、息子の恋人の顔が浮かんだ。自分と似た顔。しかし圧倒的に違う部分があると思ったあの顔。今ならわかる気がする。あの子の澄んだ泉のような瞳の色。愛を受け入れ、伝えられる力を持つ老成された深い瞳の色。それは努力を厭わない者だけが持つ。その瞳を思い、泣き出しそうになる。愛を教えてもらう相手に年齢など関係はない。窓の外に、誰かが打ち上げた花火が一瞬だけ煌めきを放ち、母親の顔を照らした。母親の頬にも煌めきがあった。

ふたりは儀式のようなパーティーを終え、夕食をすませ、帰りの電車に乗り込んだ。
すっかり疲れてしまい、気がつくとふたりとも、互いに寄りかかり、眠っていた。しばらく時間が経ち、彼は、ふと目覚めた。耳から聞こえる音があまりにも遠くに思えたので、ペットボトルの水を一口飲んだ。その瞬間、眠る恋人にまで聞こえてしまうのではと思うほど、頭の中が破裂したような、静寂というざわめきが響き出した。彼は窓に顔を向けた。そこに等間隔に流れる光とは別に、すりガラスのような淡い光を見つけた。何だろう、と覗き込むと光も微妙に揺れ動く。涙かと錯覚したけれど違った。それは隣で眠る恋人の唇。そのふっくらとした唇はシャンパンと電車の暖かさで火照っており、光に反射して窓に映ると、仄かな光を放っていた。涙と見紛うくらい、繊細な光だった。感情が溢れた。彼は今、愛を手にしている。

トンネルは、すぐに抜ける。
もうすぐ夜が明け、太陽が昇り、光が射し、降り注ぐ。看護師である母親のいる町にも、年寄りにも、赤ん坊にも、病院にも、墓場にも、息子と恋人にも、そしてひとりきりでも、何人でいても、誰にでも、平等に。生きる権利と同様に。そして彼はふたたび目を閉じ、温かな眠りにしばし身を委ねる。暗いトンネルを背景に、窓は明るい鏡となって彼の顔を映し出していた。





《 深く長いため息 了 》





【 作者コメント 】
まずは、票を入れてくださった読者の方、
心を込めて御礼申し上げます。
昨年のことも鮮明に憶えております。
私の作品に7つの星を見つけて、涙が噴き出したんです。

そして、書けたことに対する自分自身への言葉ですが、
すべて2014年に書けた作品である、ということが嬉しい。
昨年は1作だったはずなので、どれだけ書けなかったのかと思います。
もちろん書けなかった要因はあったけれど、今にして思えば、
すべては言い訳であったようにも思えてなりません。
書かずにはいられない私の物語は、もしかすると似たり寄ったりになるかも知れない。
けれど、すべてたったひとつの物語に到達するために書いているんじゃないかな、
と、ふと思うこともあります。

そして、完成したものをこうして評価していただけると、
自信に繋がりますし、大げさですが生きる糧になります。
奇しくも「深く長いため息」の老人のセリフ、
「~こうして物語を作らなければ、私はとっくにどうにかなっていた」
と、いう箇所は、読み返すと上に書いた私の想いそのもののように感じます。

色んな登場人物がいて物語を動かしてくれて、
時には書き手である自分すら知らない答えにまで導いてくれる。
そして、物語を読んでくださる皆様のお力、本当に本当に感謝いたします。
次回はナイスキャラクター賞も狙います(オイ

新ためまして、
Mistery Circleという場、管理人の皆様、
そしていつも一緒に歩んでくださる作家の皆様に愛を込めて。
今年もお疲れさまでした。
来年も素敵な作品を読ませてください。



kayuri Yukisaka Website 幸坂かゆり
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