Mistery Circle

2017-10

《 無幻回廊 》 - 2012.07.15 Sun

《《 2014 オススメMC 総合三位 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 星十作品 》》

Mistery Circle Vol. 55 掲載 





Glasgow Scotland ―― October


「シリル、今日のお前の運勢は最悪だぞ」
 と、友人のジョセフ・ハリスンがゴシック誌のつまらない星占いを眺めながらそう忠告してくれたように、文字通りその日の僕はどうしようもなく最低だった。
 なんでここまで取って付けたかのような酷い一日が用意されていたのだろう。溜め息を吐きながら、ひと気のない真夜中の歩道を独り歩く。
 朝は恋人であるエレンとの喧嘩から始まり、講義の遅刻に教授からの小言。昼食のハンバーガーには、抜いておいてくれと何度も念を押したピクルスが挟まり、ホットミルクティーだと思って飲んだカップの中身はまさかのブレンド珈琲と言う始末。
 そして学園祭の準備の慌ただしさに加え、提出期限を目前に控えた論文制作の為、カレッジの図書館に入り浸ったままにこんな時刻の帰宅である。
 頭上には珍しく赤き新月――ブラッディ・ムーン――がのぼり、頬撫でる風はいくぶん冷たさを増したか思わず首を引っ込めたくなってしまう程に寒い。
 空を見上げつつ、小声で不満を口にする。ふと背後に誰かが立ったような気配がして振り向くが、もちろん誰もいる筈はなかった。
 走る車の灯りすらもまばらな真夜中の歩道を、再びとぼとぼと歩き出す。本当に今日はなんて酷い一日だったんだ。呟きながら、ストックウェル・ブレイス・ストリートを横切りつつ、セント・イノック駅の地下鉄入り口を目指した。
 ――そう、確かにその日の僕の運勢は最悪だった。だがそれももう終わり。時刻は間もなく午前零時を迎えようと言う頃。全ては過去形で終了させてしまえる一日の筈だった。
 だが、本当に最悪である僕の運勢はこの後に待ち構えていた。
 今から話す体験は、その夜、僕――シリル・ディクソン――の身の上に起きた不可思議な出来事の一部始終である。



《 無幻回廊 》

 著者:李九龍







ab-IMG_0593.jpg
photo LIFE , camera DAYS





 プルルルルル――と構内に電子音が鳴り響き、ホームに電車が近付いて来ている事を告げた。
 冷えたベンチに腰掛けながらホームを見渡す。人の影は自分を除いて誰もいない。僕は右耳から外れ掛けたイヤホンを指で押し戻しながら、プレイヤーのチューナーを操作する。イヤホン越しに曲が始まると同時に、オートドライブ(自動制御装置に依る無人運転車)の電車が目の前へと滑り込んで来た。僕は静かに立ち上がり、ドアが開くのを待った。
 やがて電車は、僕独りだけを乗せて発車した。吊り革に掴まり、僕はその振動と同化する。車両の真ん中に立って前の車両を覗き込めば、ジョイント部にて妙な具合に折れながら、果てしなくずっと前方へと連なる空いたままの車両が視界に入った。
 振り向き、背後を覗く。前と同じように、後方にもまた無人なままの車両が連続しているのが見える。
 ――まるで合わせ鏡のようだな。僕はどこかその異世界風な光景に胸が逸り、思わず曲の歌詞を口ずさむ。
 瞬間、車内の照明が二、三度またたき、ふと窓の外で何かがこちらを覗いたような感覚に襲われ、暗闇の窓に目を凝らす。だがそこには地下線路を囲うトンネルの地肌だろう壁が、闇と共に延々と続いているだけ。一体今のは何だったのだろうと首を傾げると、今度は背後でイヤホン越しに何かの羽音のようなものが聞こえたような気がした。
 咄嗟に振り向くが、やはり何もいない。気味が悪いなと何気なく横を向けば、窓ガラスには僕の姿と――。
「うわぁっ!」
 飛び退き、振り返る。――誰もいない。ただひたすらに無人なままの車両が続いているだけ。
 おかしいな、今一瞬だけ、僕の背後に誰か別の人の姿が見えたような気がしたんだけど。
 息を落ち着かせ、再び吊り革に掴まる。――真夜中の地下鉄って、こんなに寂しいものだったんだな。改めて僕はそう思った。
 手繰り寄せたプレイヤーの画面で時刻を確認すれば、ジャストの零時零分。こりゃあ明日の講義は相当に眠いものになるなと思いつつ、僕はがら空きのままの座席に腰を下ろす。車内を満たすヒーターの暖かな風が、いつしか僕をまどろみに誘い込んでいた。

 *

 ハッとして飛び起きると、そこは先程とまるで変わる事のない無人の車内の光景だった。
 慌てて財布やザックを確認するが、どちらも盗まれた形跡はない。いやむしろ見渡す限り無人の車両なのだ。この状況で何かが紛失してしまうのならば、強盗やスリよりも更に怖い。
 いつの間にか終わってしまっていた音楽プレイヤーの画面を覗き込む。どう言う訳かプレイヤーは、再生のマークを表示させたままフリーズしていた。
 時刻は先程と同じく零時丁度を示したまま止まっている。――役に立たないなと小声で愚痴りながら電源を落とし、イヤホンを無造作に丸めた。
 心なしか、うたた寝する前よりも若干肌寒く、車内の照明が薄暗く感じられた。なんとなくではあるが、周囲には薄い空色を思わせる暗さが漂っていた。
 今はどの辺りだろうか。ほんの二十分も電車に揺られていれば地元カーキンティロックの町の筈である。眠気に任せて乗り過ごしていなければいいのだがと憂えていると、電車は鈍い軋みを轟かせてどこぞの駅のホームへと到着した。
 目を凝らす。構内の薄汚れた標識には、“Buchanan Street SPT Subway(地下鉄ブキャナン・ストリート駅)”と穿たれている。
 ――ブキャナン・ストリートだって? 僕は思わず首を傾げた。
 なにしろ、そんな駅名は僕の記憶に無い。聞き覚えすらも無い。ブキャナン・ストリートと言う通りは確かにドルーリー・レーン劇場の近くに存在はしているが、その近辺を貫く地下鉄の名前にそんな駅名は無かった筈。では一体ここはどこなのだろう。
 開いたドアから外を覗けば、そこはやけに古びた感じの駅の構内。やたらと年代物なホームだなと思いつつ、車内に吹き込んで来る秋の風に身を縮めた。
 構内には照明は点いているものの何故か全体的に薄暗く、蒼白い光にぼおっと浮き上がって見える。――やけに不気味だなと思いながら早くドアが閉まるのを祈るのだが、どう言う訳かなかなか発車する様子が無い。
 落ち着かないな。天井を眺めながらそんな事を考えていると、車両の前の方からゴツンと妙な重い音が聞こえた。目を細め、そちらの方向へと視線を移す。すると遥か遠くの先頭車両の辺りに人の影が見えた。
 瞬間、ゾッとした。向こうの端に見える黒い長いコートの男の姿。つい先程までは確かに誰もいなかった筈なのに。
 僕は弾かれたかのように電車を飛び降りる。同時にぷしゅうとエアーの抜ける音がして、ゆるりと背後でドアが閉まった。
 ――結局、降りてしまったな。軽い後悔を感じながら、ホームの案内板を見る。すると先程までいた筈のセント・イノックの駅は一つ手前に表示されていた。
 それを見て僕は安心する。なんだ、反対方向へと向かう電車を待っていればそれで問題解決じゃないか。胸をなでおろし、向いにある反対側のホームへと向かう。
 しかし今夜はやけに寂しい夜だな。そこもまた無人である事を確認しつつ、僕は空いたベンチの一つに腰を下ろした。何故かベンチはざらりとした手触りで、やけに埃っぽかった。
 空調の音だろうか、頭上の暗闇からうおおおおおと、うねるような風の音が絶えず続いている。右手側を見れば、地上へと向かっているのだろう昇りの階段が目に入るのだが、その先は闇へと紛れて何も見えない。
 一瞬、その階段を見つめながらここを出ようかとも考えた。ブキャナン・ストリートならば地理にも明るいしそこから別の駅へと歩いても行ける自信はあったのだが、その向こうに広がる暗闇を見てしまうとやけに心が委縮する。単純に、その闇が怖く感じられるのだ。
 結局僕は浮かしかけた腰を再び下ろした。――嫌な夜だ。呟きながら、ベンチにもたれ掛かる。
 遠くから何かが聞こえた。それはまるで人の話し声のようでありながら、うめき声のようにも聞こえる。ようするに、全ては得体の知れないノイズの群れでしかないのだが。
 聞こえて来た方向へと目をやれば、それは闇の中に開かれた更なる漆黒。地下鉄を走るトンネルの向こう側だ。もしかしたら遠くにある隣の駅の雑音なのだろうか。思いながら、早く僕もそちら側へと向かいたいなと思った矢先、逆側から電車のものだろう振動音が伝わって来たのを感じた。
 助かった。思いながら、滑り込むようにしてやって来た電車に乗り込めば、どう言う訳か先程まで乗っていた車両よりも更に薄暗く、そしてやけに古めかしく見えた。もしかしたら自分自身の眼が悪くなったのかとも疑ったのだが、どうにもそれだけではなさそうな程に、視界はどんよりとした濃い霧の中に沈んでいる。
 気味が悪い。と、思っているのも僅かな事だった。すぐに電車は次の駅――つまりは、元いた場所であるセント・イノック――に、着いた筈だった。
 確認もせずにホームのタイルを踏み、そして気付いた。――違う。ここは……どこだ!?
 慌てて振り返るが、遅かった。僕の目の前でドアは閉まり、そして静かに電車は動き始めていた。
 違う。ここはセント・イノックじゃない。まるで見た事も降りた事もない、記憶にすらない知らない駅だ。だが引き返すには既に遅い。電車の最後尾は、レール音を轟かせて今まさに向こう側のトンネルの中へと吸い込まれるようにして消えて行く所だった。
 ――どうしようか。思いながら視線を走らせ周囲を伺う。そこは先程停まった駅とは違い、片側の単線となったホームで、一度上へとのぼらなければ乗り換えが出来ないタイプのものだった。
 だがしかし、どう言う訳か上へとのぼるべき階段の存在が見当たらない。ただのっぺりとした変化のないホームが、端から端まで続いているだけ。
「なんだこの駅は……」
 呟きながら円形の支柱へと近付けば、そこには――。

“St Enoch SPT Subway(地下鉄セント・イノック駅)”

 ――なんだって? 僕は震える指でその標識に触れ、それが現実のものであるかを確認する。
「ありえない……」
 思った言葉が口をついて出る。だが確かにそれは現実であった。ようするに僕は、普段から当たり前のようにして使用している“いつもの駅”に辿り着き、そしてそこが僕にとって、“全く知らない駅”であると言う現実。
 一体、今僕の身に何が起こっているんだ? 思いながら振り向けば――。
「!」
 言葉にならない悲鳴があがる。さっきまで……そう、つい今さっきまで誰もいなかった筈の向こう側のベンチに座る人の影。長く黒いコートに帽子をかぶった男の姿がそこにあった。
 心臓が跳ね上がったかのように唐突に高鳴り出す。突然のパニックに行動を見失う。後ろ向きに転びそうになり、慌てて支柱に掴まる。そして更に運の悪い事に、どうやら向こうの男も僕を見付けてしまったようだ。闇へと同化してその表情こそは判らないが、男は確かに首をこちらへと傾けて、僕を睨んでいる様子だった。
 どうしようか。悩んでいる間に、男は行動を起こしていた。僕の方へと手を挙げて、そして――。
「……?」
 ――来い、って意味か? 僕は呟く。男は確かに僕の方へと掌を向けて、招くような動作を繰り返している。
「だ、誰だお前は!?」
 僕は叫んだ。声は壁や天井へと跳ね返り、冷たい空気の中で凛として響いた。
 男は言葉が通じたのか、手招きをやめて肩をすくめた。そして一瞬の間を置いて、「怪しい者じゃないよ」と、静かに響く柔らかな声でそう答えた。
 これだけ怪しい状況で、何が怪しくないと言うのだろうか。だがそれでも、その相手とは同じ言語で会話が出来ると言う事だけは可能なようだ。僕はその男からなるべく距離を保ち、離れた場所にあるベンチの一つに腰掛けた。
 やけに静かな空間だった。絶えず耳鳴りのようなノイズは付きまとっているが、逆のその平坦なる雑音が余計に静寂さを掻き立てているかのようなイメージがあった。
 コートの男は僕が座るのを待ち構えていたかのようにして、「寒い所だね」と、そう言った。
「――寒いって、何が?」
「何がって……ここがさ」
 言語は通じているが、会話になりゃしないなと思った。
 ちらりと横目で男を盗み見る。相変わらずその表情は闇に紛れて判別付かないが、声の張りやらその容姿、服装等から、さほど歳の行った年齢ではないだろうなと伺い知れる。
 男は首元にマフラーを羽織り、コートの下はどうやらスーツのようだった。
 身なりはそれなりに良さそうではあるが、何故か妙にその服装センスに違和感を覚えた。何がどう変と説明は出来ないのだが、どうにもまるで見慣れたスタイルでは無さそうな気がするのだ。
「あんた……この辺りの人じゃないね?」
 僕が聞けば、「そうだね」と男は答え、それから立て続けに、「いや、そうでもないかな」と答えた。やはりどうにも会話と言うものが成り立たない。
「あんた、ここで一体何をしてるんだい?」
 聞けば男は、「座ってる」と答える。僕は大概面倒臭くなり、「なるほどね」と答えて会話を打ち切る事にした。
 再びその空間に静寂が戻る。するとそれはそれでやけに居心地が悪く、今度は何か話しをしたくなって来る。
 腹の一番奥底辺りが痙攣を始めた。同時にタイルを踏んでいる足もまた微かに揺れ始め、噛んだ歯が小さくカチカチと音を立てている。
 ――寒い。そう、寒さのせいだ。僕はそう自分に言い聞かせる。こんな場所で臆病さを認めてしまったら、気が狂ってしまいそうな予感がしたからだ。
 横目で男の方を向く。すると男は僕が視線を向ける前からだろう、顔がこちらを向いていた。
 どくんと心臓が跳ね上がる。男は僕の視線に気付いたか、顔を背けて再び正面を向いた。シルエットでしか判らないのだが、その横顔は微かに笑っているように見えた。
「な、何?」
 聞けば男は一呼吸置いて、「何が?」と問い返す。
「何が可笑しいんだよ」
 声を荒げてそう聞いた。するとまた男は、「寒いのかい?」と、これまた会話の最初に戻ってしまいそうな、ちぐはぐな返事を寄越す。
「そうだよ、寒いよ。あんたは寒くないのか?」
 言うと男は、「そうだねぇ」と、のんびりした口調で返して来る。
「確かに寒い。――いや、むしろちょうどいいかな。私としてはこれぐらいの寒さが一番落ち着く」
「へぇ、そう」
 そしてまた、沈黙。薄気味悪い男だなぁと、僕は胸中でそう思った。
 それから何分程経ったのだろうか、やがて遠くからレールを踏む振動音が聞こえて来た。
 正直、良かったとさえ感じた。向かう先がどの方向であれ、とにかく電車に乗ってしまおうと決意していた。既に家に帰るのは諦めた。とりあえずこの奇妙な男から離れたい。とにかくこの訳の判らない空間から外へと出たい。今はただそれだけが望みだった。
 電車が停まる。ドアが開く。そして僕は立ち上がる。
「乗るのかい?」
 背後で男がそう聞いたが、僕は返事もせずに飛び乗った。
 一瞬、付いて来られたらどうしようかとも思ったが、幸いな事に男は変わらずベンチに腰掛けたままだった。
 車窓越しに男が片手を挙げ、振っているのが見えた。僕はそれを無視してシートに座り、目を背けた。
 ドアが閉まり、電車が動き出し、男の姿が視界から遠ざかって行く頃になって初めて、僕は安堵の溜め息を洩らす。――助かった――とさえ、呟く程に。
 車両の暗さは更に濃くなっていた。まるで半透明の青いセロファンを通して見ている世界のようだ。二つ向こうの車両は照明が切れ掛かっているのだろうか、絶えず小刻みな点滅を繰り返し、僕をますます不安にさせてくれている。
 首を左右へと向け、目を凝らす。やはりこの電車にも人の姿が無い。
 さすがにこれはおかしいと感じた。いくら深夜だとは言え、誰の姿もないと言う事は有り得るのだろうか。これは友人ジョセフから聞いた話だが、深夜の地下鉄はホームレスや不良少年。もしくは二人だけの世界に入ってしまってるアベックだけが乗り込む奇妙な空間だと聞いた事がある。だがしかし、この車両にはそんな人種どころか全く誰の姿も見当たらないのだ。
 底知れぬ不安と恐怖が、あらためて僕の背に凭れ掛かって来る。僕はもしかしたら、とんでもなく間違った場所に入り込んで――。
 ゆるりと、電車の速度が落ちた。やがて電車は次の駅へと差し掛かり、そして停車した。
「ひゅう……」
 無意識に、喉が鳴った。停止した車両の窓から見える真正面、そこのベンチに佇む男の姿。
「嘘……だろう?」
 男は顔を上げ、そして僕を見付けた。
 間違いなかった。一つ手前の駅で会ったコートの男だ。なにしろ男は先程と寸分違わぬ恰好のまま、ゆっくりと手を挙げ、僕に向かって振ったからだ。
 今度こそ、僕は自分の臆病を認めた。――いや、恐怖のあまり叫び出しそうになる寸前まで行っていた。歯はうるさい程にガチガチと鳴り、腹部は蠕動しているかのように激しく痙攣をしている。
 早く――早く発車してくれ。動けないままでいる僕は、ただそれだけを祈るしかなかった。
 それはそれは長い時間だった。恐らくは僅か二分足らずな時間であっただろうが、それでも僕にとっては一時間にも相当するぐらいの長さだった。
 僕はその男から目を離す事が出来なかった。もしも視線を外したら最後、いつの間にか男が隣の席に座っている――そんな想像で、勝手に追い詰まっていたのだ。
 ようやくエアー音と共にドアが閉まり始めた瞬間、ドッと汗が吹き出した。それでも視線は変わらず男の方にあり、そしてきっとあの男もまた僕を見つめ返しているのが判った。
 無人の電車が僕を乗せ、ようやく先程の駅のホームが見えなくなった頃、僕はきつく目を閉じ震える溜め息を無理矢理に吐き出した。
 落ち着け、落ち着け、落ち着け――何度も何度も繰り返し、そして僕は決意する。とにかく次の駅へと停まったならば、すぐに外へと飛び出して警察署へと飛び込もう。例えあの男が追って来なくとも、嘘八百並べて朝まで警察署の中で過ごそう。――大丈夫、大丈夫、大丈夫。きっと僕は無事に明日の朝日を迎えられる。
 ジャンパーの袖で額の汗を拭う。両手で膝を叩き、「走れるか?」と、問い掛ける。
 心配無い、もうすぐ終わりだ。思いながら、減速しはじめた車両の中で次の駅を眺めれば――。
 目が釘付けになる。遠くに見える黒い点がまるで不吉なコートの男に見えるようで。そして次第にそれは僕の視界の中で大きくなり、やがてそれが僕のいる車両の真ん前で静止する時、うつむいていた男はそっと顔を上げて――僕を見た。
 ――ぁぁぁぁぁぁぁ――
 どこか遠くで、人のあげる悲鳴が聞こえた。
 その叫びは次第に大きく近くなり、そして僕の耳の中の声と重なると同時に、足を滑らせながら駆け出した。
 駆けた先は電車の中の後部車両。誰もいない空間を、転びそうになりながら走り抜ける。そうしながらも視線は外を向いていた。――階段を。外へと向かう階段を渇望しながら。
 だが、無い。どこを見ても探しても、その目的となる階段そのものが存在していない。結局車両の一番最後まで来ても、ホームの端にそれを見付ける事は叶わなかった。
「どうして……どうして無いんだ……?」
 もしかしたら方向を間違えたのか。先頭車両へと向かえばその端にあったのだろうか。
 恐る恐る、開いたドアから顔を出す。遠くのベンチに男の姿がある。――突如、男は僕の方へと振り返った。僕は急いで顔を引っ込めると、今度は車両の先頭へと向かって駆け出した。
 発車までに間に合うだろうか。一つ前の駅ではドアが早く閉まるのを祈っていたのが、今度はまだ閉じないでくれと言う祈りに変わっている。
 走りながらも視線は常に男のいる方向へと向いていた。いつなんどき男が車両へと乗り込んで来るか判らないぞと言う覚悟を感じながらも、僕は懸命に走る。そうしてようやく車窓の向こう側に男の座るベンチが見えて来た頃、無情にもドアはするりと閉まった。
 ――間に合わなかった! 歯を食いしばり外を覗けば、相変わらず表情の見えない顔で男は僕を覗いていた。
 電車は走り出す。僕とコートの男は、窓越しに擦れ違いながら遠ざかった。
 ハァ、ハァと、荒い息を吐き出しながらシートに座る。そして僕は子供の頃からのクセである右手親指の爪をかじりつつ考えた。
 きっと、いる。きっと次の駅でも、あの男はいる。どう言うトリックでそんな真似が出来るのかは知らないが――。
 いや、トリックなんかじゃない。僕はようやく一つの結論へと行き着いた。
 思い出せば、あの男はいつの間にかずっと僕の傍にいた。最初に乗った無人の車両に現れた影は確かにあの男と同じ長いコートだったし、そう言えば最初の異変があった時にほんの僅かの瞬間だけ車窓に映し出された姿も、帽子をかぶった男の姿だった筈だ。
 そうか――いや、間違いなくそうだ。あの男はずっと僕の後をつけて来ている。そして僕をこんな奇妙な世界へと送り込んだのもきっとあの男のせいだ。
 そう、これはトリックなんかじゃない。これは――呪いだ。そしてそう、あの男こそが――。
 次の駅へと辿り着く。そしてまた電車は、僕とコートの男を一番の近距離に着けるかのようにして真正面に停止する。
 正直、怖い。だがそれでも、先程までの鮮烈な恐怖ではなくなっていた。もしかしたらどこか諦めにでも似た決意が固まったのだろうか。僕は窓越しにコートの男を睨んだ。
 スッと、男の手が挙がる。そして初めて会った時のように、軽く優雅に手招きをした。
 ――いいだろう、行ってやるよ。幾分、震える足で立ち上がる。そしてゆっくりと電車を降りれば、そのタイミングでドアは閉まった。
 冷え切った、静かなホームの上で僕は男と対峙した。相変わらず男の表情は帽子の影で見えない。
「あんた……一体、誰?」
 最初と全く同じ質問をした。男は軽く首を横に傾けただけで返事はしない。
「何が目的? 僕を一体、どうしようってつもり?」
 無言。だがしかし、彼ははっきりと僕にも聞こえるように鼻で笑ってみせた。
「何が可笑しい」僕は気色ばむ。
「あんたは――悪魔だろう?」
 喉につかえながらも、僕は言った。
 男はそれを聞いて顔を上げる。ようやく――そう、ようやくそこに男の両目が現れた。
 しばらくぽかんとした顔で僕を見上げていた彼だが、ようやく自分が何を言われたのかに気付いたのか。右手で帽子を掴み、それを目深にかぶり直すと、突然声を張り上げて笑い出した。
「なっ、なんだよ」
 僕が慌てると、男は尚も大きな声で、腹を抱えながら笑う。全く予期しなかったリアクションに戸惑うばかりだった。
「いや――いいね。悪魔か。私も今まで随分と色んなニックネームをもらったが、さすがに“悪魔”と言われたのは初めてだ。これは実に愉快な話のネタになりそうだ」
「……違うのか?」
 聞きながらも、なんとなく理解はした。どうやら僕は相当に大きな間違いをしでかした事を。
「いや、構わないよ」男は尚も笑いやまないままに言った。
「“悪魔”で全然構わない。それに君がそう言いたい気持ちも良く判るしね」
 面倒臭くなり、僕もまた彼に並んでベンチに腰掛けた。但し先程とはちょっとだけ違い、一つ席を置いたその隣にだ。
「結局、あんたは誰なの?」
 三度目の、同じ質問だった。すると男はようやく真面目に返答する気になったらしい。
「米国人だよ」と、帽子をかぶりなおしながらそう言った。
「米国人? どうしてこんな場所に?」
 僕がそう聞いたのが失敗だった。男は全く言い淀みもせず、「チョコレートスコーンを食べに来たんだ」と、答えたからだ。
「チョコ……スコーン?」
「あぁ、そうさ。チョコレート・スコーン。なんでもここグラスゴーには、“ラウダース”と言う有名なバーがあるらしくってね。そこで食べさせてくれるスコーンとミートパイが最高らしいと聞いたものでね」
 鼻から息を吐き出し、皮肉になりそうな返事を喉の辺りで止める。そうだった、この男とは最初から会話の疎通が上手く行かなかったんだなと思い出す。
「それで……結局あんたはここで……」
「君の名前を聞いていいかな?」
 僕から切り出した話を打ちきり、彼は聞いた。
「シリル。――シリル・ディクソン」
「シリルか。恰好いい名前だね」
「どうでもいいよ、そんな事」僕は少々苛立ちながら答えた。
「それで? そのチョコレート・スコーンが好きな米国人さんは、どうしてこんな場所に座ってるんだい?」
 聞けば間髪入れずに、「わからない」と、彼は答えた。
「わからない……って、どうして?」
「わからないものは、わからない。君だってそうじゃないのかな、シリル君」
「“君”はよせ。気持ち悪い」
「了解、シリル。じゃあ言い方を変えようかな。君はここがどこなのか判っているのかい?」
「……いいや」
「問題は案外、複雑かつ単純だよ。ここがどこなのかは判るんだが、どうしてここに来てしまったのかがまるで理解出来ない」
「……」
 突然、男は思い出したかのように帽子を脱いだ。そこから現れたのは、綺麗に髪を後ろへと撫で上げた掘りの深い白人男性の顔だった。
 歳の頃は三十代も半ばぐらいだろうか。“猫”のようなしなやかな動物を連想させる、そんなイメージの男である。
 男は好奇心満ち溢れた目で僕を見詰め、「リュートだ」と、そう告げた。
「リュート・D・クロフォード。マイアミの大学で考古学の研究をやっている」
 革の手袋を脱ぎ、右手を差し出した。そして僕はド惑いながらその手を握り、「あ、あぁ、どうも」と、しどろもどろな返事をした。

 *

 うおおおおおと、唸り声が聞こえた。
 僕が頭上を見上げると、「風の音だね」と、隣でリュートがささやいた。
「風?」
「そう、風。このトンネルの中を吹き抜けて行く風の音だよ」
 リュートもまた顔を上げ、何も無い暗闇の空間を仰いだ。
「新西暦……以前の地下鉄、ねぇ」
 僕は天井を見上げつつ、そう呟いた。
 言われてみれば確かに、普段使っている駅のホームとは違い、やけに古めかしく年代を感じさせる作りになっている。
「むかぁし昔の大昔、ここグラスゴーには主要地域をぐるりと一周する地下鉄が一本、走っていたんだ」
 リュートの言葉に、「一本?」と聞き返した。
「そう、一本だけ。今はもうブリッジ・ストリート駅を中心に蜘蛛の巣状に様々な地下鉄が広がってるけどね。昔は本当にたった一本だけが都市の地下を巡っていたんだよ」
「へぇ……考えられないな」
 僕は素直にそう返す。リュートはそれを聞いて、小さく笑った。
「じゃあ、リュート。いくつか前の駅で見たセント・イノック駅の表示は、間違いじゃなかったって事かい?」
 聞けばリュートは、「多分ね」と頷いた。
「きっとそれは君が知ってるセント・イノックの駅ではなかっただろうけど、場所は確かに合っている筈だよ。――但し、普通には行けないだろう場所にあるホームだろうけどね」
「普通じゃないって、どう言う事だよ」
「そのまんまの意味さ。多分今は、どんな構内通路を使っても行けないようになってるんじゃないかなぁ」
「それじゃあわかんないよ。要するにここは、この世のものじゃない“消えてしまった世界”って話か? ならどうして僕と君はそこに行き着いたんだ?」
 聞けばリュートはまたしても、無言のままで肩をすくめて見せた。要するに、“私にもわからない”と言いたいのだろう。
「なぁ、リュート。僕達は今、どうなってるんだ?」
「――どうなってる、とは? 随分曖昧な質問だね」
「だから……今のこの状況が、だよ。僕には全くわからないんだ。今いるこの場所や、僕達に降り掛かってる数々の異常な事実が、ここはまるで別の次元であるかのような錯覚をさせてくれている」
「あぁ」リュートは呟き、「その通りなんじゃないかな」と、付け足した。
「その通りって、何がだよ?」
「だから、君が言った通りの事。そのまんまの事態が今、起こってるんじゃないのかなって返事したつもりなんだけど」
「そのまんまの事って……ここが別次元って事?」
「あぁ、そうだね。別次元って言うか、異次元と言うか、とにかく現実の世界とは少々異なる特殊な場所である事だけは間違いないようだ」
「マジかよ……ちくしょう」
 僕は両手で頭を押さえこみ、髪をくしゃくしゃに掻いた。
「なぁ、リュート。これってやっぱり何かの呪いなのか? それとも魔法? 悪魔の仕業!?」
 聞けばリュートは、あははと笑い、「君は結構、オカルト好きだね」と茶化す。
「違うと言うのかい?」
「いや、違うとも言い切れないけど……私にはそんなにご大袈裟なものにも思えないんだがね」
「何を言ってんだ、これは充分に呪いだよ。――リュート、あんたは自分の身の上に何が起こっているのか理解しているのかい? いいか、良く聞け。僕はさっき別の場所にいるあんたを見たんだ。しかもそれは一人じゃない。幾人もいた。あんたにはまるで自覚は無いかも知れないが、あんたのドッペルゲンガー(分身)がこの異世界のあちこちに存在しているんだぞ!」
 声を荒げる。だがしかしリュートはそれをどこまで信じて聞いているのか、「ふぅん」と面白そうに返事するだけだった。
「ふぅんって……それだけかい?」
「うん? ――まぁ」
「あぁ、もう!」
 再び僕は頭を掻きむしる。片やリュートは笑みを洩らしながら指先で唇を撫でているだけだった。
 僕がふて腐れて沈黙を決め込んでいると、ようやくリュートは、「一つ聞いていいかな」と、のん気な声で言う。
「何を?」
「シリル。君が別の場所で私を見たって言うのは、ここに来る手前の駅のホームの上で――って話かな?」
「あ、あぁ、その通りだよ」
「もしかして、私と最初に話を交わした駅からずっと、どの駅にも私がいた?」
「……まさか」僕は言い淀む。
「どの駅にもいたあんたの姿って、全部あんた本人なのかい?」
 聞けばリュートは、「多分ね」と笑った。
「やっぱりあんたは悪魔か?」
 言うとリュートは、「それはひどいね」と返しながら、「そんな理屈が通るのなら、君だって充分に悪魔じゃないか」と笑った。
「僕が? どうして?」
「君は行く先々の駅で私を見掛け、大層驚いたかも知れないが……」言いながらリュートは胸のポケットからシガレットケースを取り出した。
「実の所、私は最初の場所から一歩も動いてはいないよ。君と別れてからずっとこのベンチに座ったっきりさ」
 カチリ、音がしてオイルライターの火が灯る。
「まさか……だって、どの駅のホームもこことは全然違う作りなんだぜ」
「でも、私は本当に動いてはいない」リュートは、ふぅっと煙草の煙を吐き出した。
「むしろ私の方が気味悪く感じていたぐらいだよ。だって、ここに停まる電車の全てに君の姿が見えるんだ。それこそ悪魔的だとは思わないかい?」
「全てに……僕が?」
 まさか。信じられない。なら――僕が電車の中から見たリュートは全て彼自身そのもので、彼もまた同じ気分で僕を見ていたって事か?
「それに、君が悪魔的だと思える部分がもう一つある」リュートは人差し指を一本、立てて見せた。
「どうやらこの空間は君を主体に変化しているらしい。――シリル、君はあそこの壁に歯科医の看板が掛かっているのが見えるかい?」
「え、あぁ。あの、クーパー・デンタルクリニックって奴か」
「オーケー、じゃああっちの壁に見える照明の傘はどんな形?」
「良くわかんないよ。何かの花の形ってんじゃダメなのか?」
「オーケー、それで充分さ。とりあえず私達は今、同じ空間にいて同じ視界を共有している同志って事が判った」
「――何が言いたいんだ、リュート」
 苛立ちながらそう聞けば、「大事な事だよ」と、リュートは笑う。
「もう一度言うが、私は君と最初に出逢った時からずっと立ち上がりもせずに同じベンチに座っていた」
「うん、それで?」
「――だが、いつの間にか私のいるこのホームの風景だけは刻一刻と変化して行った」
「なんだって?」
「それも、君を乗せた電車がここに到着する度にさ。これがどう言う事か判るかい?」
「いや……いまひとつ良くわからない」
「要するに」リュートは自らの眼を指差した。
「君が見た風景に、私のいた場所が同調し変化しているんだ」
「なん、だって……?」
「つまりこう言う事さ。君はAと言う駅から出発してB駅に向かっているが、私はずっとA駅から動いてはいない。そして君はB駅に着くのだが、そこには何故か私がいる。実際は不可能な話だが、この世界ではそれが事実だ。仕方なしにその無茶苦茶な理屈を認めるとしたならば、A駅はイコールでB駅でなければならない」
「なるほどね。でも実際は、A駅とB駅は同じ駅ではなかったのだから……」
「そう、その矛盾を解決するには私を瞬間移動させるか、もしくは――」
「空間をループさせて、再びA駅へと到着させる、か。だがそこには当然矛盾が生じて来る。従って、僕が見た風景にあんたも付き合わされているって話か。――ややこしいな」
「理屈で考えるからややこしいんだよ。ここではこれが常識だと思わなきゃ」
「いや、良く判ったよ。とりあえずここでは物理の法則等は考えるだけ無駄だって事だけはね」
「素晴らしいな、シリル。一歩成長したね」
「悪いが僕の専攻は電子工学だ。どうして考古学者に物理を学ばなきゃならないんだい?」
 リュートは手に持った帽子を顔に当てて、あははははと高らかに笑った。僕はそれを見て苦笑を洩らしつつ、こんな奇妙な場所なのに、それ以上に奇妙な人間に会ってしまったものだなと心の中で皮肉った。
「でも、とりあえず今の説明であんたの言わんとしていた事は判ったよ。一体誰が何の目的で僕達をこんな目に合わせているのかまでは判らないが、下手をしたら僕達二人が同時に見ているものが、同じものではないと言う可能性も出て来ているって事なんだね」
「ご名答。まだ五感の全てを試してはいないけれども、少なくとも視覚だけは信用しきれないって事だ」
「じゃあやはり……ここは魔術か何かで作られた、“有り得ない世界”って事か」
 立ち上がり、僕は背後の壁を触った。冷え切った煉瓦の固い感触が、到底“偽物”とは思えないリアルさで指先に伝わって来る。
「まさか、それこそ有り得ないよ」リュートは、静かにそう言った。
「例えここが魔術や呪いのかかった空間だったとしても、何もかもがもが“その力で生み出された世界”ではない。君はどうやら電子工学なんかを学びながらも、科学とは無縁なものまでをも信じているタイプみたいだね」
「――あぁ、悪いかい? その件では良く友人にも馬鹿にされてるけどね」
「とんでもない! 素敵な趣味じゃないか。言うなれば君と私とは同士だ」
「へぇ、同士な割に魔術は否定かい?」
「あぁ、そうだね。大いに否定だ。私は魔術や呪いの類の有無を聞かれたら迷う事なく“有る”と答えるが、果たしてそれが万能かどうかを聞かれたら間違いなくノーって答える人間さ」
「ふぅん……どうして?」
「廃れたからさ」彼は言い切った。
「もしその魔術とやらが万能で、“完全なる無”から“有”を創り上げる事が出来たとしたならば、この世界にサイエンスと言うものなど必要にはならなかったんじゃないかな。科学ですら“完全なる無”から“有”は生み出せないけど、私達が知っている魔術の類なんて、まさにその眉唾の極致のようなパワーを持って伝えられているよね」
「確かにね。ステッキ一つで城が建っちゃうなんてのは、もはやアニメーションか映画の世界なんだろうけど」
 笑いながら言うと、「その通り」と、リュートは振り返り、壁を拳で叩いた。
「見ての通り叩けばこの通り音が出るし、手が痛い。ここにあるものは全て、人の手に依り、物理の法則に従って作られたごく普通の建造物さ。何もかもをオカルティズムのせいにするのは非常にナンセンスだと思わないかい?」
「なるほど、リュートは僕とは違ってかなり本気で魔術や呪いの存在を肯定している人間だって事だけは良く判った」
 言うとリュートは、「ありがとう」と返して、指に挟んだ煙草に火を点す。
「じゃあ、どう言う事なんだいリュート。今いるここは、異世界なんかじゃなくてごく普通の現実世界って事なのかい?」
 聞けばリュートは、「そうは言ってない」と、煙を吐き出しながら言った。
「ここは確かに普通ではない空間だよ。目に見えるこの風景は全て現実に有り得るものばかりだけど、確かに何か“異常”な力場の存在は感じられる。――例えばそこ」
 指差した先には、ホームのタイルの上に並ばった数字の刻印がある。
「あれが、何?」
「良く見てごらんよ。妙だとは思わないかい?」
 目を凝らす。そうしてようやくその数字の順番の異変に気が付いた。
「無いね。“16”と言う数字のタイルだけが無い。“15”の次はどう言う訳か、一つ飛んで“17”になっている」
「その通り。もしも並び間違いでないのならば、故意にそこのタイルだけを消している――とは考えられない?」
「いや、その考えは良く判らないな。どうしてタイルの一つだけを消す? そこになにか意味はあるのかい?」
「もちろん。充分にあるさ」
 言ってリュートは立ち上がる。煙草を口に咥え、帽子をかぶりなおしながら。
 そして彼はホームの先にある“17”のタイルの前に立ち、僕を手招きした。
「見てご覧よ」
 横に立つと、リュートは壁の一画を指差した。そして見付けた。壁の天井付近に取り付けられた、“Way Out(出口)”と書かれた矢印の看板を。
「どう言う事だ?」
 疑問が口をついて出る。見当たらないのだ。その矢印の方向に視線を向けても、出口どころかなんの窪みも無いままの煉瓦の壁が続いているだけなのだ。
「ここに――」リュートは歩いて、“15”と“17”の数字の真ん中に立つ。
「きっとここにあったんだ。“16”の数字のタイルと、出入り口の通路がね」
 リュートは真っ直ぐに手を持ち上げ、向こう側の壁を指す。そしてその指先に挟んだ煙草を口に咥えて、オイルライターで火を点した。
「じゃあ……もしかしたら……」
 僕は壁から視線を外し、その真正面に立つ自分の足元を確認する。だがそこに、不自然な繋ぎ目はまるで見当たらない。僕が自分自身の立っている場所を通り越し、背後を振り向いた辺りで、「君が想像している事は合っている」と、リュートが同意する言葉をくれた。
「どうやらこの世界は、“ひずみ”が存在しているらしい。空間と空間を継ぎ接ぎして、都合のいいように作り替えられているんだ」
「誰が? どうやって?」
 聞けばリュートはおどけた表情で肩をすくめ、鼻から煙を吐き出してみせた。
「判らないよ。何もかも」
「のん気だなぁ」僕は苛立ちながら言った。
「リュート、あんたは焦ってないのかい? どう考えたってこの状況ってのは、僕達をここから出すまいとしている奴の仕業だろう? ただでさえ現実の法則がまるで通用しない世界なんだ。もう少し真剣にここを出ようって考えないのかい?」
 聞けばリュートは、「うぅん」と唸って唇を撫でた。
「残念だけど、私は全く焦っていない。――大体、君とは前提がまるで違っているからね。不安も何もないよ」
「前提? どんな前提だって言うんだ?」
「うん――私は特に、進んでここから出ようとは思っていない」
 しばらくの間を置いて、僕は、「はぁ!?」と返事をした。
「出ようと思ってないって……えぇ?」
 上手く言葉にならない質問をしていると、更にリュートは、「ここは居心地がいいからね」と、訳の判らない事を言い出す。
「シリル、君は気付いているかい? ここは空間だけではなく、時間の流れすらも非常識だって言う事を」
 そう言ってリュートは――指に挟んだ真新しい煙草に、オイルライターで火を点す。
「リュート……あんたさっきから妙な事していないか? 一口煙草を吸っては、新しい煙草を取り出して……」
「気付いたかい?」
 言ってリュートは煙を吐き出し、そしてその火の点いた煙草を左右に数回振ってみれば――。
「消え……た?」
 いや、火が消えたどころではない。今しがたまで火が点いていただろう痕跡もないほどに、それは真新しい煙草に生まれ変わっていた。
「おかげでまるで吸った気がしない。燃えて無くならない事だけは嬉しいんだけどね」
 そう言ってまた胸のポケットからシガレットケースを取り出すと、その束の中に煙草をしまって蓋を閉じた。
「どう言うトリックなんだ、リュート?」
 聞けば、「トリックなんか無いよ」と、それをしまいながら言う。
「ここに来てからと言うもの、ずっとこんな調子さ。どうやらこの空間では、“消費”と言うものが禁止されているらしい。おかげで全く腹も減らない」
「嘘だろう?」
「嘘じゃないよ。空腹にならないどころか、疲れもしないし眠くもならない。言い換えればこれは、私達自身もまた“非常識”なこの世界の一つとなっているんだ。つまり――」
 上に向かって指を差す。見上げた先にはデジタルタイプの電光時計。時刻は、“23:59:59”と、“00:00:00”を、行ったり来たりの繰り返し。
「時間が、止まっている……のか?」
「それは正しくないね」リュートは僕の横に立ち、言った。
「ループしているってのが一番しっくり来るんじゃないかな。時間の流れを堰き止めるなんて芸当は、神であってもそうそう出来るものじゃない」
「なんだそれ。あんたは神に逢った事でもあるのかい?」
 皮肉れば、「もちろん」と、リュートは即答する。
「私はこれでも敬虔なクリスチャンなんだ。おかげで神とは日曜毎にお逢いしている」
「なるほど、あんたがどれほど不真面目な人間か良く判る発言だ」
 リュートは、ハハハと笑ってベンチへと戻る。そして僕もその後に続き、先程と同じ場所に腰を下ろした。
「それで? どうしてあんたはここから出たくないって言ってるんだい?」
 聞けばリュートは、「出たくないとは言ってないよ」と返す。
「もう、本当にあんたとは会話が噛み合わないな。ついさっき、“出たくない”って言ったばかりだろう? 何故そうとぼける!?」
「とぼけてないし、言ってない。私は、“進んで出るつもりはない”と、そう言ったんだ」
「同じじゃないか」
「同じじゃないさ。君が言ったのは出る事の拒否で、私が言うのは出る事の億劫さだ」
「億劫でどうするんだ! あんたこのままじゃあ、ここで朽ち果ててくたばるんだぞ?」
「それはないよ」さも愉快そうにリュートは言う。
「むしろ逆だ。ここにいれば死とは無縁だ。空腹にはならないし睡眠も不要。絶えず時間が巻き戻るせいで老化の作用も無いだろう。――と言う事は、ここにいる限り不老不死って事じゃないか!」
 呆れてものが言えなかった。
「だがもちろん、出る事を拒むつもりもないよ」リュートは続ける。
「居心地は良くても、さすがにそろそろこの辛気臭い地下牢に飽きては来た頃だった。で、そのタイミングでここに君がやって来た」
「……僕が来たからってどうなる?」
「きっかけだよ」リュートは笑う。
「私だってどうやってここから出ようかと考えなかった訳じゃない。だがどうやっても脱出する手立てはなかったし、別にここにいても特に困る事はないなと言う安心感から行動を起こす事を億劫がっていたんだ。だがようやくここを出ようと思えるきっかけがやって来た。嬉しい話じゃないか」
「なんであんたはそうのん気な……」
 言い掛けた時だった。コツン、コツンと、どこからか異音が聞こえて来る。
 目でそれを探せば、少し離れた場所にある白色の照明のシェードに大きな蛾がぶつかっているのが見えた。
「素晴らしい。これでこの世界に迷い込んだのが、三人になった」
「三人って……あれはただの虫じゃないか」
「そうだね、ただの虫だ」リュートは帽子の鍔を上げる。
「でも、この“奇跡”のような空間へとやって来れた貴重な存在の一人だ。これはもう充分に私達の仲間だとは思えないかい?」
「残念だけど、僕は文系ではないんでね。事実や結果に対し、詩的な理屈を付けるような人間じゃないんだ」
「なるほど、どうやら君と私ではあまり趣味が合わないようだね」
「さっきは同士だって言ったクセに?」
 パタタタタ――と羽音をさせて、蛾はどこかへと飛び去って行った。僕はそれを見送りながら、「あんたはいつからここにいたの?」と、リュートに聞いた。
「さて……時計が使えないから何とも言えないけれど、体内時計に頼ったなら多分、四日か五日はここにいるような気がするね」
「そんなに? 一人で怖くはなかったのかい?」
「怖くはないさ」リュートは笑う。
「一度ぐらいは“異世界”という場所に行ってみたいとは思っていたからね。充分に堪能したよ」
「堪能って……あんた本気で言っているのか?」
「本気さ。なかなか面白かったよ。なにしろここにいれば時間の経過と言うものを心配せずに、ずっと考えごとをしていられるしね。溜まりっぱなしで手付かずな論文や、副業にしている原稿の内容だって存分に練り込める為の暇がある。他にも色々と考えるに時間が必要なものはあったし、言うなればここに来れた事は私にとっては願ってもない絶好のバカンスだった」
「まぁいいや」僕は面倒になってその話題を打ち切った。
「ねぇ、リュート。少し話を戻すが、先程あんたは、“どうやっても脱出する手立てはなかった”と言っていたよね? 一応はここから出る為の努力はしたと見ていいのかな?」
「まぁ、先程君が言ったように、非常に不真面目な努力だったがね」
 僕はその皮肉に、鼻を鳴らして抗議する。するとリュートもまた、唇を引き締めて無言の圧力をかけて来た。
「――で? 具体的にはどんな事をしたの?」
「どうもこうもないさ。選択肢は限られているんだ、君と同じで来た電車に乗るか、着いた駅で降りる。この二つだけだね」
「それで? 何か判った?」
「あぁ、実に素晴らしい発見があった。全くなんの物理的法則も見出せないと言うね――」
「やっぱりデタラメな場所なのかい?」
 覚悟を決めてそう聞けば、「恐ろしい程にデタラメだよ」と、返って来る。
「やって来る電車はどれも今の時代には使われていない車両ばかりだし、到着時刻だってきっとバラバラだろうし。それに向かう駅はもっと酷い。確かにどれも廃線となったグラスゴーの地下鉄駅なんだろうけど、地上へ出る為の手段は無いし、なにより――」
「……なにより?」
「順番通りに止まらないんだ。次にどの駅へと止まるのかが、全く見当が付かない動き方をする」
「どうして?」
「いや、私に聞かれても困る。誰が意図してこんな世界になっているのかが判らないんだし」
 ――誰が意図して?
 そうだ、例えこれが呪いであろうが禁術の類であろうが、こんな空間が出来上がっていると言う事実には、必ず“誰か”の目的と作為があるに違いないのだ。
「リュート、君は誰かから強烈に恨まれていたり……とか、心当たりはないかい?」
「はて?」リュートは首を傾げる。
「無くもないが、今のこの状況に何か関連性でも?」
「いや、やめておこう。馬鹿馬鹿しい。それよりも、他にここを出る為の手段とか何かないのかい? 例えば二人掛かりで向こうの壁に穴を掘る――とかさ」
 良い答えなど期待もせずにそう聞いたが、意外にもリュートは、「あるよ」と即答する。
「ある? あるって!? じゃあどうして今まで試さなかったんだよ」
「しょうがないじゃないか。今しがたひらめいたアイディアなんだよ」
「へぇ、どんな?」
「それはね――」
 彼が言い掛けた所で、遠くから近付いて来る電車の音。
 僕は、「どうする?」とばかりにリュートの方を向けば、彼は迷う事なく、「乗ろう」と言った。
「でも、乗ったって行き先はデタラメなんだろう?」
「いや、今回ばかりはそうとは限らない」
 言うが早いか、リュートは立ち上がる。
「限らないって、どうして判る?」
 聞けばリュートはにやりと笑って、「君のおかげで法則性が見付かった」と告げた。
「法則性だって? 一体どうやって? 僕のおかげって言ったって、あんたと僕はついさっき会ったばかりじゃないか」
「あぁ、そうだね。でも充分過ぎる程のヒントをくれた。――さぁ、乗ろう」
 言いながらリュートはさっさと歩いて行ってしまう。そして僕はその後を追い掛ける。
「ねぇリュート。それって一体、どんなヒントなんだい?」
「乗ってから教えるよ。そんな事よりも、私はもっと重要な事を君に聞きたいんだが」
「――いいけど、どんな事?」
 リュートはゆっくりと微笑むと、「この辺りに、“ラウダース”って言う名前のバーは無いかい?」と聞いた。
「かなり真剣に探したんだけど、なかなか見付からなくてね」
 電車が停まる。僕はその質問に対し、鼻を鳴らして返事をした。

 *

「シリル。君はずっとここに住んでるのかい?」
 走り出した電車に揺られつつ、リュートはそんな質問をした。
「ここって、グラスゴーにって事?」と、僕は聞き返す。
「それならイエスだ。生まれも育ちもずっとカーキンティロックさ。結構、閑静でいい街なんだぜ」
「あぁ、知ってる」僕の席の真正面に座りながら、リュートは言った。
「あそこはいい街だ。特に街並みの美しさが素晴らしい。ただなんとなく、ぶらりと散歩をしているだけでも充分に楽しい所だね」
「へぇ、行った事あるのかい?」
「あぁ、エディンバラに半年程住んでいた事があるからね」
「エディンバラ? どうして?」
「どうしてって……私だって、元々はこの国に籍を置く人間だよ」
「そうなのか」道理で地理に明るい訳だと理解した。
「でもどうして米国に? マイアミって言ったら年中高温多湿で有名な場所じゃないか」
「暑い所が好きなんだ」
 そう言ってリュートは笑った。
 本当に変な人だな。最初会った時には、これぐらいの寒さが一番落ち着くとか言っていたくせに。
「ところで、さっき言ってた法則性って何だい? 一体何に気付いたの?」
 聞けばリュートは立てた人差し指を唇に当て、“静かに”と言うような仕草をした。見れば電車は次に駅へと到着しようとしている所だった。
 僕は車窓に顔を近付け目を凝らす。見れば減速しながら流れ行く背景の中に、“Shields Road(シールズロード)”と言う文字を見付ける。
「やはりそうか」
 いつの間に隣に来ていたのか、リュートが僕の横から顔を覗かせ、同じように外を眺めていた。
「そうかって、何がさ?」
「――法則だよ」
 またしても肝心要な部分を省きながら返事をかえし、再び彼は正面の席へと戻った。
「だから、法則ってどんなだよ」
 多少、苛立ちを隠せないままそう聞けば、「こんな、古い都市伝説を知ってるかい?」と、リュートは語り始めた。
「どこで生まれたのかは知らないけれど、むかぁし“異次元へと入り込む為の法則”とか言うのが流行った時期があったらしくてね。小さい頃に私もそれを知り、試してみた事があったんだよ」
「へぇ……どんな?」
 適当に相槌を打つ。だがリュートはそんな事は気にも止めずに話を続ける。
「なんかね、詳しい所はうろ覚えなんだけど、深夜に一人でエレベーターに乗り、とある法則に従ってフロアのボタンを押して行くと、最後には異世界へと辿り着けるって言うものなんだ。私はそれを知った瞬間、興奮していても立ってもいられなくなったものだったよ。何しろ、異世界へと行けるんだよ? しかも物凄く簡単な方法で」
「ふぅん……で、その好奇心旺盛なリュート少年は、果たして異世界へと行けたのかい?」
 厭味ったらしくそう聞けば、「残念だが無理だった」と、彼は苦笑した。
「そうそう簡単に行けるものじゃなかったね。それこそ日を改め、何が悪かったのかを吟味し、そして都合六回も試してみたけど無理だった。結局はガセな噂程度でしかなかったんだなと落胆したものだったよ」
 落胆かよ。この人、本当に行けたのならきっと今の状況のように満喫するんだろうなぁと思いながらも、つくづく変な人だと再確認する。
「でも……そうだね。もしかしたら今一歩の所までは行っていたのかも知れないな。いつかもう一度試してみようとは思っていたんだが、結局あれ以来実行していない事を思い出した」
「今一歩って、どう言う意味で?」
「そのままの意味だよ。多分あれは、正解の道のりには乗っていたんだと思う」リュートはどこか懐かしげな顔で言った。
「私が聞いて知った手順はこうだった。まずは十階以上ある建物のエレベーターに乗り込み、二階、五階、十階、三階、五階、九階――と、その順番でボタンを押して階を移動する。その際、必ず一人で実行しなければならない。その手順途中で誰かが乗り込んで来ても駄目だ。そうして上に下にと一見して意味の無い移動を繰り返し、最後に五階を押してそこのフロアに停まれば、髪の長い黒服の女性が乗り込んで来る。するとその女性は一階のボタンを押すが、何故かエレベーターは上昇して行く」
「そして異世界へ通じるフロアへと出る――とか?」
「その通り。だけどその噂通りに実行しても、結局何も起こらない」
「じゃあどうして正解だったとか言えるんだよ」
「手順が間違ってる事に気付いたのさ」リュートはどこか誇らしげにそう言った。
「私はまず、押すボタンの順番に疑問を持った。果たしてこの並びに、何か法則性はあるのかってね」
「……あったのかい?」
「あぁ、見つけたよ。これは“素数”の並びだった」
「素数? ――いや待てよ。素数なら、二、三、五、七と言う順番だ。リュートが言ったのは、二、五、十と言う順番じゃなかったか?」
「そうだね。少々違う」
「いや少々どころじゃないだろう。そんなの数学者じゃなくても判る」
「そうかな? むしろ数学者だったら簡単に気付いたかも知れないよ。二、五、十、三と言う並びは、素数をインクリメンタル値(相対値)でプラス、マイナスして行った数だったんだ」
「インクリメンタル? ……良く判らないんだけど」
「簡単に言うと、数を増分して行くって事さ。素数の並びは、二、三、五、七だけど、それを相対値で並ばせれば、二の次は三をプラスして五。そして次は五をプラスして十だ。基本的に次の数をプラスして行くんだけど、前提として“十階以上ある建物”と言う制約がある事を考えれば、十以上の数になる場合にはマイナスを足して行く」
「なるほど。そうすると、二、五、十、三の順番になるのか」
「そう。そう言う法則で数を並べて行くと、確かに噂で聞き知った数の並びに一致する。但し、途中までは……ね」
「どう言う事だよ。どこからか違っていたってのかい?」
「そうだね。私が聞いたのは、二、五、十、三、五、九、一、十、五の順番だった。だけど相対値で並べてみれば、二、五、十、三、五、九、一、十一、六だ。最後の二つだけ一つずれている」
「どうして?」
「さぁね。もしかしたらその噂を流した人が住んでいたアパートメントが十階までしかなかったか――」
「情けないな、それ」
「もしくは、それを実際に行動に移してしまうだろう人を救う為に、少しだけ嘘を混ぜたか――のどちらかだったのではと思っている」
 ごくり。唾を飲み込む。
「リュート……もしかしてその、あんたが見付けたその数の並びで再び実行したのかい?」
 聞けばリュートは涼しい顔で、「もちろん」と答える。
「多分いい線行っていた。最後の最後、“六階”のボタンを押す所まではね」
「――そこで失敗したの?」
「失敗と言うか……まぁ、失敗の分類なんだろうね。十一階から六階へと向かう途中で人が乗り込んで来たんだ」
「なんだそりゃ。完全に失敗じゃないか」
 言うとリュートは、ハハハと笑う。
「まぁそんな事を思い出しながら、今回も何か法則性がないのかなって探ってみたんだよ。ホームへと停まる車両や、向かう先にある駅名とかね」
「それでどうだったの?」
「全然さ。随分と観察したけれど、結論として“法則性無し”としか言いようがなかったね。車両も駅も、完全にランダムさ。まともなものは何一つとして無かった」
「じゃあ全く駄目って事じゃないか」
「そうだね。私一人ではどうしようもなかっただろう」
「どう言う意味? まさかとは思うけど、僕に何か妙な期待とかしている訳じゃないよね?」
「いやいや、期待もなにも」リュートは笑う。
「君のおかげでようやくその、“法則性”が見えて来たんだ。君はこの空間の中において、非常に重要な意味を持っている人間のようだね」
「ハッ、何を言って――」
「ジョークで言ってる訳じゃないよ」リュートは急に真顔になる。
「先程も言ったが、私がいた駅のホームの風景は、君の到着と共にその姿を刻一刻と変化させて行った。ただそれだけを考えても、君と言う存在にこの空間が注いでいるエネルギーがどれほどのものかは容易に想像出来る。更には、君と一緒にいるだけでこんな秩序が出来上がる。これは実に素晴らしい前進だとは思わないかい、シリル」
「だから、あんたが一体何を言っているのかがまるで判らないよ、リュート。僕はここにいるだけでどんな秩序が出来上がると言うんだい」
「そうか、君はこれに気付けないのか」言いながらリュートは立ち上がり、再び僕の横へとやって来る。
「見たまえ、もう間もなく次の駅へと停まる。そして今度の駅名はきっと、“West Street(ウエスト・ストリート)”と書かれている筈だ」
 車両が減速を始める。そして目に入る駅の案内表示には、確かに“West Street”の文字があった。
「リュート、どうして判った?」
「言ったじゃないか。ここは大昔に存在していたグラスゴーの地下鉄そのものだ。そして今、その地下鉄は君と言う存在のおかげかどうかは判らないが、ようやく昔ながらの姿を取り戻しつつあるんだ」
「まさか秩序って――」
「そう、その通りさ。私一人ではめちゃくちゃな順序だったものが、今はかつての路線図の通りの駅へと辿り着く。ついに法則性が見付かったんだよ」
「しかし、リュート」僕は思わず不安を口にした。
「いくら法則が生まれたからと言ったって、ここはもう既にこの世には無い地下鉄なんだろう? そんなものが判ったからと言って、簡単に出て行けるようなものじゃないじゃないか」
「まぁ、確かにそうなんだろうけどね」リュートは笑う。
「でも、この地下鉄そのものが、“この世に無い”とは一言もいってなかった筈だけど? どうして君はもう、ここが存在しないと思い込んでいるんだい?」
「え……だって。その地下鉄は旧西暦の時代のものだって……」
「でも、“無い”とは限らないじゃない」
「そんな。まさかあんたは、これは実在している現実だと?」
「あぁ」リュートは頷く。
「思っているよ。いや、確信に近いかな。ここはグラスゴーの地下に掘られた複雑な迷路状の路線のどこか片隅に存在している、“忘れ去られた場所”じゃないかなと考えている。先にも言ったが、ここがどれほど常識を逸した不条理な場所であったとしても、全て何もかもを呪いか魔術の類で作り上げている事なんて出来やしないんだ。きっとこの場所は、現実にあるどこかの場所の一つだよ」
 車両は駅へと到着し、そしてまた静かに動き出す。僕達はしばらく沈黙したまま揺られていたが、リュートがぼそりと「次は“Bridge Street(ブリッジ・ストリート)”」と呟けば、間違いなくその駅へと到着する。
「リュート、法則性が見付かったのは判った。でもまだここから出られるには程遠い感じだね」
「本当だね」
 そう言ってリュートは笑う。見れば腹が立つ程に冷静で、しかもその状況を楽しんでいるのだろう、嬉しそうな表情で。
「もう一度聞くが、リュート――あんたはここを出たいとは思ってないのかい?」
 聞けばリュートは肩をすくませ、「答えは同じだ。思ってないよ」とおどけて見せる。
「もしかしたらあんたは、現実社会で生きる事に疲れ果ててしまった人間か、自殺志願者か何かかい?」
「そう見える?」
「――見えない」
「じゃあそうなんだろうさ」
 あぁ、面倒臭い。本当に妙な男だなと、苛々しながら僕は頭を掻いた。その瞬間だった――。
 ガコン! 大きな衝撃音がした。それに続き、今度はごおおおおおと唸り声を上げながら対向する電車が擦れ違って走り抜けて行く音が車両の中に響き渡った。
 僕は慌てて振り返る。それは確かに、対向して行く別の車両の姿だった。
 ――じんわりと、胸の中に疑問が広がる。どうして? この閉鎖的な空間に、もう一台の電車を走らせる意味などあるのか?
 向き直り、リュートを見る。すると彼はあの陽気さはどこかへと吹っ飛んだか。面白い程に目を丸くして硬直していた。
「どう……したんだい、リュート?」
 聞けばリュートは、「私がいた」と、妙な言葉を返した。
「“私がいた”? どう言う意味?」
「そのまんまさ。擦れ違った向こうの車両に私が乗っていた。一瞬だけ、私と目が合った。もちろんそこには、シリル――君の後ろ姿も見えた」
「……」
 お互いに言葉を失ったまま、次の駅へと到着する。見ればそこは振り出しに戻ったかのように、“St Enoch SPT Subway(地下鉄セント・イノック駅)”の表示。
「どうする、リュート。ここで降りるかい?」
 するとリュートは車窓の外に目を凝らし、「いや、このまま乗っていよう」と答えた。
「このままって、もう一周するつもりかい?」
「あぁ、そうだね。何か判るまで何周でもしようじゃないか。特に急ぐ訳でもないし」
 僕としては急ぎたいんだけどね。とは言わずにいた。
 やがて電車は走り出す。窓の外に満ちる闇が、更にその濃さを増したような気がした。

 *

「想像した通りな場所だね、ここは」
 僕がぼそりと呟くと、「何がだい?」と、リュートが聞いた。
「“異世界”と言う場所がだよ。だぁれもいないし、どこまで行っても何にも行き着かない。ひたすら暗くて寂しい上に、静かな狂気さえ感じられる。もしもそんな世界があったなら――と想像した事があったけど、ここはまさに思った通りの場所だった」
「へぇ、君はそんなイメージだったんだ」
 リュートは面白そうに言う。
「あんたは違うのかい」
 聞けば、「そうだねぇ」と、笑う。
「私はもっと、おどろおどろしいイメージだったなぁ。そこはさながら生物の臓器の内側みたいな感じでね。床も壁も肉癖のようなグロテスクさで絶えず蠢いているのさ。そして黒いタキシードを着た異形がどこからかやって来て、どこの国の言葉でもない言語で話し掛け、私を暗闇の地下通路へといざなうんだ」
「少しだけ、ラブ・クラフトが混じってるな」
「おや、君も読むのかい? やはり趣味が合うな」
 どっちだよ。合うと言ってみたり合わないと言ってみたり。
「リュート、悪いがこう言う場所でそう言う話はやめておこうよ。不吉な事が起きそうで仕方がなくなる」
「おや、不吉かい?」
 リュートは笑う。同時に車両が減速したのを身体で感じた。
「次はなんて駅だい?」
 聞けばリュートは、「“Buchanan Street(ブキャナン・ストリート)”」と答える。
「ブキャナン・ストリートか。僕がここに迷い込んだ際、最初に降りたのがその駅だったな」
「へぇ、その駅で降りたのかい? 奇遇だね、私はその駅で初めて乗り込んだんだが」
「乗り込んだ? もしかしてあの時、一瞬だけ見掛けた影ってもしかして――」
「なんて事だ!」
 突然リュートが立ち上がる。そして車窓の外に目を向けながら、「シリル、見てくれ」と僕を呼ぶ。そして彼が指差す方向を見てみれば――。

“Bridge Street(ブリッジ・ストリート駅)”

「えっ、どう言う事?」
 疑問が湧き出る。おかしい、その駅はついさっき通過して来た筈の駅の名前だ。
「変だね。走る方向はずっと同じだったのに」
 言うがリュートは何も返さず、黙ってその駅のホームを眺めているだけだ。
 やがて電車は動き出す。それに合わせてようやくリュートも腰を下ろした。
「どう言う事だい、リュート」
 聞くが彼はまたしても唇をなぞり出し――どうやら考え込む際の癖らしい――しばらくの間を置いた後、「良くわからないね」と、呟いた。
 無言のまま次の駅へと到着すると、今度は“West Street(ウエスト・ストリート駅)”。
「……逆行しているね」
「そうだねぇ」
 そうして一体どれぐらい無言のまま電車に揺られ続けたのか。何駅も何駅も通り過ぎ、そして見覚えのあるホームが近付いて来た頃、リュートはようやく、「あれを見てくれ」と、声を上げた。
 それは最後にいた駅のホーム。“Partick(パーティック駅)”のホームだった。
「――見たけど、どうかした?」
「気付かないかい?」
 そしてリュートは振り向いて考え込む。
「一回、ここで降りようか」
 言うが早いかリュートは急いで飛び降りる。そして僕もそれに倣った。
 電車が走り去って行く。そしてまた再び、空気の流れる音だけが遠く響く静寂な空間となった。
「さっきと同じ所に座ろうか」
 言いながらリュートは歩き出す。やがて僕達は先程と同じ場所へと落ち着いた。
「何か判る?」
 聞かれて僕はひとしきり周囲を観察した後、「いや、何も」と答えた。
「じゃあ、シリル。向こうの壁に掛かっている広告の看板が見えるかい?」
 言われて、彼の指差す方向を見る。そこにはやたらと古そうな時代の、腕時計の広告看板があった。
「あれが何?」
 と、そこまで言ってようやく気付いた。僕は慌ててその周囲にある広告看板全てに視線を送るが、どこにもそれらしきものは見付からない。
「……無い。あの時見た、歯科医の看板がどこにも無い」
「ご名答」
 リュートは煙草に火を点けながらそう言った。
「――どうして? これもまた、ねじれた空間の成せるわざかい?」
「いいや、違うと思うけどね」リュートは煙を吐き出す。
「そっくりだけど、多分ここのホームはさっきとは違う場所だね。殺風景だからよくよく観察しないと判らないかもだけど」
「いや、でも、違うってどうしてさ。相変わらずあんたの言ってる事が全然理解出来ない」
「君が複雑に考え過ぎてるんだよ。ここは外回りの方のパーティック駅さ。そしてさっきまでいたのが、内回り側のパーティック駅」
「なんだって!?」自然に声が高くなる。
「どうやって内回りから外回りに変更出来るんだよ。僕達が乗っていた車両は、ずっと一方方向にしか走ってなかった筈だぞ」
「そこはそれ」リュートは煙草に火を点ける。
「ねじれた空間の成せるわざなんじゃない?」
 いい加減な事を言って、リュートは煙を吐き出した。そして僕が見ているその前で、煙草の火は自然に消えて、そして新品同様に生まれ変わる。
「――巻き戻っているのかい? 電車まで」
「うぅん……そうかも知れないし、そうじゃないのかも知れないし」
「ハッキリ言ってくれよ。あんたはどう考えてるんだ」
 聞けばリュートはなんの躊躇いもなく、「引き返しているんだと思う」と、答えた。
「巻き戻る、ではなく引き返す。私はそう睨んでいる。それが証拠に今いるここだって逆回りだろう? 先程通過して来たアイランドタイプ(島式の相互通行)のホームを見て判ったんだ。おや、向こう側のホームの光景には見覚えがあるなってね」
「進路を変える事なくそんな真似をやってのけたってのかい? どうでもいいけど、なんの為にそんな手の込んだ悪戯をするのさ」
「さぁてね。果たしてこれは誰の仕業で、なんの目的があっての事なのか」
 またしても煙草に飽きたのか、リュートはケースを取り出しそれをしまった。
「ただ、ね。もう一周する頃にはおおよその事は判る気がする」リュートは続ける。
「とりあえず乗ろうじゃないか。ちょうど向こうから電車の音が近付いて来たみたいだしね」
「判るって……本当に?」
「気がするってだけだよ」
 笑いながら歩いて行ってしまうリュートを追い掛けながら、いい加減な人だなと小声で愚痴った。
 ホームの端へと立つと、向こうから流れて来る風と共に、またしても人のあげる呻き声のような気持ち悪い音が響いて来た。良くまぁこんな薄気味悪い場所に一人だけでいられたものだなと思いながらリュートを見れば、その視線に気が付いたのか、彼もまた僕を見つめた。
「どうしたの?」
 聞かれて僕は、「いや……」と口ごもる。
「ねぇリュート。あんたが昔やったって言う異世界へと向かうエレベーターの法則ってさ、
いつかまた試してみたいって言ってたけど、本当はもうどうでもいいんだろう?」
 話題を変えて振ってみると、意外にもリュートは、「いいや?」と返して来る。
「全然どうでもいいとは思ってないよ。むしろどうしてそう言う風に思えたんだい?」
「どうしてって……本気で興味があるんなら、失敗したってすぐに再挑戦する筈だろう」
「いや、ちょっとだけ前提が間違ってるなぁ。私は別に失敗していない」
「またそんな事を言う。僕はあんたがどう言ったのかちゃんと覚えてるぞ。“失敗の分類”だって自分自身で言っていた」
「待ってくれよシリル。分類ってだけじゃないか。完全に失敗したとは言ってない」
「途中で他の人が乗ってしまった時点で失敗って話だったじゃないか。そしてあんたは、最後に六階へと向かう途中で人が乗り込んで来たとそう言った」
「あぁ、そうだね」減速して目の前に停まる電車のドアを見つめながら、リュートは細く笑った。
「確かに途中で人が乗り込んで来た。髪の長い、黒いスーツ姿の女性がね」
「え……まさか」
「そしてその女性は噂通り、一階のボタンを押した。だけど……期待に反してエレベーターはボタン通りに下へと向かって行った」
「なんだ、結局失敗だったんじゃないか」
「そうだね。その女性が、“異形”だった事を除けば――ね」
「なんだって?」
 ドアが開く。リュートは躊躇う事なく乗り込む。
「異形って、どう言う事さ? あんたはスーツ姿の女性って言ってたじゃないか」
「うん、そう言った」ドアが閉まる。
「普通の女性だったよ。ただ、顔だけが異質だった。まぁ、どれほどに異質だったかは説明が難しいんだけどね。とにかくこの世界にある何ものにも形容出来ない、非常識なまでの異質さがあったよ」
「どうして……」
 と言い掛けて言葉を飲み込んだ。同時に電車が走り出した。
「多分だけど、あれはほぼ成功していたんだと思うよ」リュートは吊り革に掴まりながら、そう続けた。
「エレベーターが下へと向かって行く中、その女性は振り向いて私にこう言ったんだ。“あなたが覗くにはまだ早い世界ですよ”とね。そしてエレベーターは一階へと着き、降りる直前に私はその女性にこう聞いたんだ。“まだ早いのなら、いつまで待てばいいの?”と」
「――そうしたら?」
「覚えてない」
「はぁ!?」
「覚えてないんだ。恥ずかしい事に。ただ気が付いたら、自分の家の部屋にいた。どうやらエレベーターから降りる辺りからの記憶がまるまる抜け落ちているらしいね」
「本当に?」
「嘘は言ってないさ」彼は笑った。
「でも、おかげで異世界と言う存在はあると判ったし、何よりそこへと向かう為の扉は閉ざされていないと言う事も判った。それだけでも充分過ぎる程の収穫だったとは思わないかい?」
「思わなくはないけど」
「ないけど?」
「あんたは本気で行ってみたいと思ってるの? そんな形容も出来ない程の異形がうようよといるであろう世界に」
「もちろんさ」間髪入れずに彼は答える。
「行ってみたくて仕方がないね。例え一方通行で戻れない世界だったとしてもね」
「呆れるね」僕はシートに腰掛けた。
「あんたには帰らなきゃならない所が無いのかい? もしくは待っててくれる人がいないとか。――仕事は? 大学の講師なんかやっているんだから、中途半端で放り投げるってのはマズいんじゃないの?」
「……」
 リュートはちょっとの間考え込み、そして、「論点が違うよ」と僕に言った。
「私が異世界に行きたい事と、帰らなきゃいけない場所の有無についてはまるで話が噛み合っていない。大体において君は、“異世界”と“戻れない場所”をイコールとした前提だ。行った事もなければ見た事もない場所が、どうして帰る事の出来ない場所だと判る?」
「いや待てよ。一方通行って表現したのはあんただし、噛み合わないのは話じゃなくて僕達の性格の方じゃないのかい?」
「……」
「……」
「そうとも言うね」
「だろう?」
 なんだか時代の違う人間としゃべってる気分だった。むしろ彼こそ異世界の人間なんじゃないかとさえ思う程に。
 しばらくは到着する駅の確認をするだけで、お互いに無言のまま電車に揺られ続けた。やがてリュートがぽつりと、「恋人と喧嘩したんだ」と漏らしたのをきっかけに、再び会話が始まった。
「奇遇だね。実は僕も今朝、彼女と口論になったんだ」
「素晴らしい。お互いに孤独な身の上だったって言う共通点を見付けた」
「いや、僕は別れてはいないよ。ただ口論になったってだけだ」
「私もそうさ。別れ話なんかしていない」
「……」
「……」
「そう言えば、ここに迷い込む直前に赤い月を見た。――ブラッディ・ムーン。何かが起こりそうな予感がする程の、真っ赤な月だった」
「あぁ、それは僕も見た。あれを眺めながら不満を口にしたせいかな。こんな場所に行き着いてしまったのは」
「……」
「……なんだよ?」
「それはあるかも知れないね。実は私も全く同じ、月を眺めながら愚痴をこぼした」
「じゃあ何か? まさかこの空間は、月がしでかした事って話かい?」
「まさか。そんなの有り得ない」
「リュート、あんたは少し、会話に矛盾があり過ぎる」
「良く言われるよ。どうやら私の脳は、少々飛躍が過ぎるらしい。私自身としては順を追った会話をしているつもりなんだが、どうにも説明不足に取られがちでね」
「無駄な説明は多そうだけどね」
「それも良く言われる」
「それで? 月に向かって愚痴をこぼせばどうしてこんな場所に行き着くんだい?」
「さぁてね。とりあえず何かのきっかけにはなったのかも知れないけれど」
「もう、本当に良くわかんねぇなぁ」僕は頭を掻いた。
「じゃあ結局、ここって一体どんな場所な訳? そしてなんの目的……」
 言い掛けた時だった。
 ―― ぁ ぁ ぁ ぁ ぁ ぁ ぁ ――
 どこか遠くで、人のあげる悲鳴が聞こえた。
 その叫びは次第に大きく近くなり、やがてその声の主だろう姿が向こうの車両に現れる頃――。
「うわああああああっ!」
 僕は悲鳴をあげて飛び退いた。吹き通しとなった車両と車両の繋ぎ目から見えたものは、おぞましくも不可解な得体の知れない“異形”だった。
 液体なのか気体なのかすらも判別出来そうにない蒼白く濁った半透明なその物体は、「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」と、不愉快かつ緩慢なうめきを洩らしつつ、人型を真似して作ったかのような脚を、だぶだぶと懸命に前へと動かし僕達の方へとやって来た。
「うわぁーっ! リュートっ!」
 僕は彼に助けを求めつつ、シートの上へと飛び退り、窓にへばりついた。
 だが、見ればリュートは微動だにしていない。先程から変わらずシートに腰掛けたままのんびりとしている。もしかしたら彼には見えてないのかもとも思ったが、その視線はしっかりとその異形を見つめていた。
「シリル、大丈夫だよ。あいつは襲っては来ない」
「どうして判る!?」
「前にも会ったからさ。多分あいつらは、私達の事にすら気付いていないと思うよ」
 リュートが喋っている間に、“そいつ”は確かにこちらに気付いていないかのように、だぶだぶとした足取りで目の前を通過して行った。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛――」
 それはさながら、スローモーションで動いている映像のようだった。異形は駆けているかのような恰好で、ゆっくりゆっくりと緩慢に遠ざかって行く。
「あ、あれは一体、何!?」
 シートからずり落ちるようにしながらそう聞けば、「さぁ?」と、リュートは首を傾げる。
「あれが異世界の生物ってものなのか?」
「どうだろうね」
「あんなの見ておいて、なんであんたはそう平静でいられる訳?」
 尚も問い詰めると、「うぅん」と返答に詰まりながら、「聞いてみたら?」と、僕の右横を指差す。
 ふと、視線を移す。そこには酷く近距離な場所に腰掛ける“異形”。
「あ゛く゛い゛た゛た゛あ゛い゛あ゛」
 異形は、顔も何も無いその顔で僕の方を向き、そんな言葉で話し掛けた。
「あああああああああああーっ!!!」
 恥も外聞も無い。プライドも意地も無い。僕はそのまま尻もちをつきながら、床を這うようにして逃げ出した。
「シリル、シリル。もういないよ」
 リュートの言葉に振り向けば、その視線のずっとずっと先、遥か向こうの車両に見える黒づくめのコートの男の姿。
 思い出した。あの男の影に怯えて、乗っていた車両から飛び降りた事を。そして僕がこの、現実にはあり得ない妙な世界へと迷い込んでしまった事を。
「リュ、リュート……あの男」
 僕は男を指差す。そしてリュートもその男を見るが、やはり彼は全く動じない。
「ねぇ、リュート!」
「……妙だな」
「妙って、何がだよ……うわぁっ!」
 またもや悲鳴をあげる。背後で何か呟き声が聞こえたなと振り返れば、そこにも異形の姿。
「リュート、これは一体、何が起きてる?」
 這って彼へと近寄れば、「判らないよ」と、彼は冷静な声で言う。
「ただちょっと、活発化して来た感はあるね。これは一体、何を指すんだろう?」
 話しているそばから異形は閉じたドアからするりと外へと通り抜けて行く。そしていつの間に来ていたのだろう、全てが闇であるかのような真っ黒なコートの男はこちらを振り向きもせずに黙ってその前を横切って行った。
 その瞬間、僕は気付いてしまった。――このコートに見覚えがある、と。
 そうしてその男が通り過ぎた後に、“彼”と目が合った。全く動揺もせずに、冷静にシートに座り込んでいるその彼、リュートと。
 じわりと、座り込んだ床から冷気と共に底知れぬ不安感が這い上がって来る。
 もしかしたら僕は、何かとんでもない勘違いでもしていたのではないのだろうか。――そうだ、リュートだ。確かに彼だ。僕がこの世界に迷い込む以前からちらちらとあちこちで見掛けていたあの黒い姿の男はまさしく彼そのものだったし、何より今通り過ぎて行った闇のようなコートの男は、完全にリュートの“影”そのものだった。
 どうして僕は彼を信じた? どうして今までずっと行動を共にして来た? 思えば最初から最後まで常に一貫して、一番怪しかったのはこの男じゃないか。
 そして……そして、そう。僕は気付いてしまった。とうとう僕は、決定的な事に気付いてしまった。指先だけを組み、前かがみになってシートに腰掛ける彼の足元。そこには、“あるべきもの”が無かった。
 影――そう、影だ。ようやく、この男と出会ってからずっと気に掛かっていた違和感の原因に気が付いた。彼に本来あるべきもの、“影”が無かった。普通ならばその足元にうずくまっているであろう、“影”が無かった。
 そうか――そうだ。こいつだ。この狂った世界を創り上げたのも、僕をここに放り込み出られなくしたのも、間違いないこいつだ。どうして……どうして僕は今の今までそれに気付けなかったのだろう。
 いつの間にか、リュートは二人になっていた。
 薄笑いを浮かべてこちらを見降ろすリュートと、その隣に同じ恰好で座る黒い影と。
「どうかした? シリル」
『シリルか。恰好いい名前だね」
 リュートと、影の声が同時に重なった。
 いつの間にか次の駅へと着いたのだろう、僕の背後でドアが開く。
 とにかく逃げなきゃ。その一心で尻もちをついたまま後ずさりすると――。
『この辺りに、“ラウダース”って言う名前のバーは無いかい?』
 今度の声は、背後から聞こえた。のろのろと仰け反りながら見上げれば、“影”が僕を見降ろしていた。
「ひぃ……」
 空気が抜けたかのような悲鳴を吐き出すと共に、ふいに目の前が暗くなった。そう、まるでその影が、僕に覆い被さって来たかのように。

 *

 ――ポンコツ寸前な映写機が、カタタタタン、タン、タンと年代的な音を立ててスロー再生な映像を垂れ流していた。
 プロジェクターのスピードが上手く合わないのか、映像はひどく荒い上に所々で縁が写り込んでいる。
 スクリーンには、奇妙なものが再生されていた。それは原色の塗料を厚く塗りたくったのであろう、粗雑だがやけに存在感と野性味あふれる木彫りの人形だった。
 恐ろしくディフォルメされた大きな男の顔。胴体は丸い棒にごてごてと装飾品をあしらい、背中には鳥のものだろういくつもの羽が飾り付けられていた。
 まるで見覚えが無いのに、妙に心に引っ掛かる。そんな不思議な人形だった。
 ――あれ、なんだっけ? 僕はこの人形の事について、何かをしようとしていたんだっけ? 思うがどうにも考えはまとまらない。もどかしい程にそれは近く、遠く、そして曖昧であった。
 カタタタタン、タン、タン、タン――映写機が音を立てる。そして酷い振動と共に映像は終わる。僕の夢はそこで終わり、夢よりも曖昧な現実へと引き戻される。

「気が付いた?」
 声がした。僕は、「ひっ」と間抜けた悲鳴をあげながら、シートの上で飛び起きた。
「リュート!」
 叫ぶと同時にリュートは人差し指を唇に当て、軽くウインクして見せた。
「心配しないで。私は別に異世界の人間でもないし、君をここに放り込んだ張本人でもないよ」
 まるで夢の前の自分の心を見透かされてしまったかのような返答だった。
「しかし――」
 喋りかけた途端、頭上の照明が二、三度、瞬いた。
 どこから迷い込んだのか、小さな蛾が一匹、切れ掛けの照明のカバーにぶつかり、こつんこつんと音を立てる。
 窓から外を覗けば、電車はどこかトンネルの中を走行中らしい事が判る。どうやら先程気を失う直前のまま、ここに乗っている様子だ。
「リュート、あんたは一体誰なんだ?」
 無言。頭上ではとうとう照明の一本が消えてしまったらしい、周囲は一気に暗さを増す。リュートもまた最初に会った時のように、その表情は闇に翳り何も見えなくなってしまった。
「私は――ただの米国人旅行者さ。たまたまこの街に立ち寄っただけのね」
「嘘だ」
 リュートの言葉に、間髪入れずに僕は返事をかえした。
「どうして嘘だと?」
「……勘だよ」
 自分で言っておきながら、なんだそのまるで根拠のない断言はと、少し苛立つ。だがリュートはそれを馬鹿にするでもなく、「なるほど」と、頷いた。
「勘……ね。いい判断だ。理屈でどうにもならない時など、直感や自分の素直な感情に任せると上手く行く場合が多い。それは決して悪い事じゃない」
「そうか、肯定してくれて嬉しいよ。尤も、いい加減僕をここから出してくれたならもっと嬉しいんだけどね」
「そうだねぇ」リュートは顔を上げ、天井を仰いだ。
「なんとなく……出口らしき方向は判ったしね。そろそろ出てもいい頃かも知れないね」
 他人事のように言ってやがる。思わず文句を口にし掛けた所で、またしても向こうの車両から、だぶだぶとした不定形の異形が現れた。
「あ゛ん゛い゛ん゛っえ゛あ゛あ゛の゛う゛い゛あ゛あ゛い゛あ゛」
「リュート! いい加減、もうやめてくれ!」
 叫ぶと、リュートは「無茶な。私にはどうしようも出来ないよ」と、笑う。
「無茶な事はないだろう。これは全部、あんたの仕業じゃないのか?」
「まさか、私は何もしてないよ。それに……そんなに怖がる事はないだろう。これは怪物でもなんでもなくて、過去の君自身の姿なんだよ」
 ――はぁ? 僕自身だって? 何がどう間違ったら、このアメーバのような物体が僕になるんだ。思った所で逆の方向からやって来たもう一体の異形が、僕達の近くまで来て立ち止まり――。
「う゛あ゛あ゛」
 低い声でそう叫び、そして背後を振り返るようなポーズをした後、頭上の吊り革へと掴まった。
 ――あれ? これって、なんかどこかで見たかのような記憶が――。
 目を瞑る。記憶の中の僕は、突然の出来事に飛び退き、そして振り返った。――誰もいない。ただひたすらに無人なままの車両が続いているだけだ。
 おかしいな、今一瞬だけ、僕の背後に誰か別の人の姿が見えたような気がしたんだけどなぁ。なんて思いながら、息を落ち着かせて再び吊り革に掴まる。――真夜中の地下鉄って、こんなに寂しいものだったんだな。そんな事を考えながら。
「あれは……まさか」
「そう、君だよ」
 悲鳴を上げて走り抜けて行く異形。目の前の誰かに向かって文句を並べる異形。そして尻もちをつきながら後ずさる異形の姿がそこにあった。
「まさか……まさか……」
「どう言う訳か君の“分身”はかなりスローペースで動いてるんだね。でももう判るだろう。あの分身の行動は全て、ここに至るまでに君が起こした行動の再現だって事は」
 確かに、記憶にはあった。――だがどうして? どうして僕の姿が別の何かの形となって再現されている?
「騙されないぞ」僕は意を決してそう言った。
「もう騙されないぞリュート。あんたが僕をここに誘い込んでどんな得があるのかまでは知らないが、これだけは良く判った。あんたの言う事を信用して付いて行く限り、僕はここから永久に出られないって部分だけはね」
「……」
「僕は次の駅で降りる。そして今度は自力でここを出る方法を探すよ。あんたはあんたで、次の獲物を探せばいい。どうせそれだけ妙な魔術を使うんだ、他の人間を迷い込ませる事ぐらい簡単な事なんだろう?」
 言うとリュートは両手を広げ、「困ったね」と、呟いた。
「どうしてそんなに信用無くなっちゃったかな。もしかしたらあの黒いコート姿の異形が、私にそっくりだからかい? それとも私に影が無いから……かな?」
「――あんたそれ、自覚はしていたのか?」
「自覚? もちろんしていたさ。最初は自分自身でも目の錯覚かと疑ったけど、君を見てようやく確信した。ここではこれが普通なんだとね」
「……?」
「シリル、君こそ自覚が無いんじゃないのかな? 自分の足元を良く見てごらん」
「え……」
 ぐらり。眩暈がした。
 それは無かった。僕の足元に、あるべきもの――そう、“影”が無かった。
 リュートと同じように。僕自身にも、それは無かったのだ。
「君は、私の分身たるコートの男にも不信感を抱いていたね。それは君の分身と違って明瞭な姿だからかい? それとも喋る言葉がちゃんと聞き取れるから? それとも動くスピードが速いからかい? ――悪いけど、ここが私達にとっての常識とはまるで違う認識で出来上がっている以上、どれを取っても私の分身こそが“特別”なんて結論は付けられないんだよ。むしろ君の分身の方がよほど特別だったとしたら? もしかしたらこの世界において、“鍵”となっているのは君の方かも知れないんだよ」
「そんな……」
「それに、あまり早計に行動を分かつのもやめた方がいい。何度も言うが、君がいてこそ成り立っている法則もあるんだ。もしここでまた私達二人がはぐれたら、帰れる為の道筋すら消失してしまうかも知れない」
「……」
 二の句が継げなかった。
 相変わらず彼の存在は僕にとって信用に足るべきものではなかったけれど、それでもやはり彼は僕のいる空間の人間であると言う事だけは間違いなさそうだった。
「リュート、ごめんよ。なんか僕はあなたに失礼な事ばかり言っている気がする」
 言うとリュートは、「いいさ」と笑い、「次の駅で降りよう」と、立ち上がる。
「降りる? どうして」
「何となく判って来たのさ」言いながら僕の背後の窓を指差した。
「君も見ていてごらん。私の計算ではもう間もなくなんだけど――」
 言った瞬間、「ガコン!」と、大きな衝撃音がして、それに続き今度はごおおおおおと唸り声を上げながら、対向する電車が擦れ違い走り抜けて行く様子が見えた。
「リュート!」
「良く見ておくんだ、シリル。きっと僅か一瞬だ」
 そしてその言葉通り、“その一瞬”は見えた。
 擦れ違う二人の影。それはこちらと全く同じポーズのままこちらを睨む、僕とリュートの姿。
 そして僕は、向こうの僕と目が合った。きっとそれは僅か一秒にも満たない短い時間だったにも関わらず、視線は間違いなくお互いを捉えていた。
 ――どうして? どうして向こうにも僕が?
 思った瞬間、それは消えていた。僕達の乗る車両と擦れ違うのと同時に、向こうの車両は闇の中へと飲み込まれ、掻き消えて行く。
「リュート、何が起こってる?」
 聞いた瞬間には、もはや今まで起こっていた事の全てが冗談だったかのようになにもかもが終わっていた。
「うん、仮説でいいなら話すけど」
「なんでもいい、教えてくれ」
「要するに、この路線は無限ループを繰り返しているんだと思うよ」
「無限……ループ?」
「しかも普通のループじゃない。裏と表がとある一点で捻じれたままに繋がった、“メビウスの輪”で形成されているんだと思う」
「メビウスの輪? あの、こんな帯状の奴がこうぐるっと……」
「そう、そんな奴だ。だからこそこの線路はその繋ぎ目の部分に差し掛かると、そこから反対側方向へと折り返しが始まる。――と言うより、入れ替わると言った方が正しいのかな。今擦れ違ったあの車両と、そっくりそのまま入れ替わってるって感じでね」
「入れ替わるって……全く付いて行けないなリュート。じゃあ向こうに乗っていたもう一人の僕達って、一体何者なんだよ」
「あれも私達さ。“分身”ではない、同空間に同時間の軸で存在する、“もう一つ”の本物って事さ」
「余計に判らないよ。本物は僕達だろう? なんで向こうも本物なんだ? あんたの理屈で言ったなら、この空間には僕達以外にも本物が沢山いるって事になる」
「そうは言ってない」リュートは笑った。
「でも確かに向こうも本物さ。あれは交差する時空を境に、お互いを反対側から見ていただけの事さ。鏡写しとはちょっと本質が違うけど、まぁ似たようなものだと思ってくれればいい」
「鏡写し……ね」
 なにか妙に、胸のどこかに引っ掛かる言葉だった。但し、何がどう引っ掛かってるのかはまるで判らないのだが。
「さぁ、シリル。ここで降りよう。私の読みが正しければ、間もなくこの世界の出口が見えて来るぞ」
 言うと同時に電車が減速を始める。
「出口って……本当に?」
「いや、だから、読みが正しかったらと前置きした筈だが」
「自信はあるんだろう?」
「いや……」
「無いの?」
 聞けばリュートは帽子の鍔を上げ、ただ笑って見せるだけだった。
「――悪かったよ、リュート」
 言うと、「何がだい?」と、リュートは聞き返す。
「あんたを疑った事さ。申し訳ない。あんたは本当に、単なる変人なアメリカンだ。間違いない」
「根拠は?」
 電車が停まる。ドアが開く。
「勘――かな」
「勘、ね」不機嫌な顔をしながらリュートは言う。
「勘ほど、感情的でいい加減で無責任な判断は無いと思うんだけどな」
「あんたは本当に、話が矛盾する人だね」
「どうして? 君達若者は、こう言う喋り方をするものじゃないか」
 文句を並べながら降りるリュートに、僕は、「しないよ」と返してその後を追った。

 *

 うおおおおおと、頭上に風の唸りが聞こえた。
「振り出しに戻ったね」
 言うとリュートは、「物語って言うものは、大抵そんなものじゃない?」と、やけに抽象的な返事をする。
 そこは、セント・イノック。僕がこの空間に迷い込んだ最初の駅であり、同時にリュートと最初の出会った場所だ。
「さて――名残惜しいね。叶うならもっとこの世界を堪能したかった」
「そう言う事ばかり言うから異世界の人間っぽく思われるんだよ、リュート」
「なるほど、私が友人達から宇宙人のように扱われるのはそのせいかな」
 リュートは、ホームの端に立つ。そしてポケットから取り出したペンライトを点け、電車が過ぎ去って行った方のトンネルの内部を照らした。
「頼りないけど、無いよりマシだね」
 言いながらリュートは、何を考えてるのかホームから線路へと飛び降りた。
「何やってんだよ」
 聞くが彼はまるで答えず、「さぁ、行こう」と僕を誘う。
「行こうって、どこへ?」
「向こうさ。しばらく歩く事になると思うけど」
「歩くって……あの中をかい?」
「もちろんさ。帰りたいんだろう?」
 渋々、僕も飛び降りた。そしてリュートに、「本当に帰れるんだね?」と念を押すが、「約束する」と、彼は悪戯な顔で適当な返事をするだけ。
 ――風が、思いのほか強く吹き抜けて来た。ごりごりと鈍い音のする玉砂利を踏みながら、僕達は暗闇の穴の中へと踏み入った。
「足元を照らす程度しか望めないね」
 僕の前を行くリュートが、親切にも僕の前方を照らしてくれていた。
「本当にこっちに出口があるのかい?」
 聞けば、「うん、多分ね」と、リュート。
「その根拠は? “勘”は除いて」
「それを取り除かれたら説明出来ない」
 そう言って笑う。
「でも、何かそれらしいものでも見付けたんだよね? だからここに来たんだろう?」
「いいや」そしてまたリュートは笑った。ただ、その表情は闇に隠れてまるで見えない。
「別に何も無いよ。ここじゃないかなってのは本当にただの“勘”さ。もしも私がこの空間を作ったのだとしたならば、きっとこの辺りに出入り口を開けておくんじゃないかなって思っただけさ」
「――それだけ?」
「あぁ、それだけ」
 思わず後悔した。どうしてこんな変人をついつい信用してしまうかなぁと。
 振り返れば、先程までいたセント・イノックの駅のホームの灯りは遥か遠くになっていた。これほどまでの暗闇では、一人引き返すと言う訳にも行かない。
 ふと、嫌な予感がした。もしも――そう、もしもだが。リュートは本当は、“こっち側”の人間だったら? そしてこの闇に乗じて、その本来の姿へと変貌していたら?
 先程は彼を疑った事を反省し、謝ったが、どう言う訳かまたしてもそんな妙な思考が湧いて来る。それはもしかして闇の成せるわざなのか。表情が見えないままに声だけが聞こえると言う状況は、不安この上なかった。
「誰かが……呼んでいる」
 ぼそりと、リュートが言った。瞬間、その言葉に心臓が縮み上がる。
「呼んでるって、何が? 僕には何も聞こえないけど」
「あぁ、いや、ごめん。私が言っているのは、声に聞こえるタイプのものじゃないんだ」
「じゃ、じゃあ何が聞こえるってのさ」
 うわずりながら聞けば、リュートは澄ました声で、「根拠かな」と、またしても意味の判らない事を言い出した。
「相変わらずこの空間は、“誰”が創り出したのかまでは判らない。だけど、その誰かがこの方向で私達を待っているだろう事は判る。だから私は、ここに来たんだ」
「待っているって? 何故判る?」
「この辺りの空気がやけに濃密だからさ」リュートは続ける。
「実は君が失神している間に、電車は実に二往復もしていたんだ。尤も君は失神する直前と直後がほぼ同じような場所だったからこそあまり気になってないんだろうけど、実際はまるまる一往復分、君は寝ていたんだよ」
「……」
 そんなに失神、失神、言わなくてもいいじゃないか。思ったが、恥ずかしいのであえて言わずにおいた。
「でも、おかげで気付いた。どうやらあの異形達は、セント・イノック駅が近付くとやけに活発に出現すると言う事を。特に、ブキャナン・ストリート駅から向かってセント・イノック駅に近付いた時が一番激しい。要するに、そこに何かがあると言う事を教えてくれている訳さ」
「教えてくれている? 誰が?」
「だから、“誰”かはまだ判らないってのに。でも、その存在に呼ばれているんだろうと言う事には察しがついた。どうやらその存在は口から言葉にして伝える術は持ち合わせていないらしい。したがって、自分に出来得る行動で、私達に伝えようとした。それが――あの異形たる私達の分身さ」
「あれで? 一体何を伝えるっての?」
「それも判らないよ。でも私はその一連の行動に、“気付いてくれ”と言うメッセージを見付けた。だからこうして向かっているのさ。電車に乗っているだけじゃあ、決して行き着けないような場所にね」
「ふぅん」僕は半ば呆れながら返事をする。
「何をどう感じればあの異形達から“気付いてくれ”って言うメッセージを受け取れるのかは判らないけど、まさかそれも、“勘”で済ますつもりじゃあないだろうね」
「――」
 返事は無い。見えはしないが、暗闇に中で肩をすくめているリュートを想像した。
 やがて、右斜め前方がぼんやりと明るくなって来たのを感じた。風に乗って、どこからか甲高い電子音までもが聞こえて来る。
「リュート!」
「あぁ、やっぱりね。もう間もなく、この世界の出口だ」
「本当に帰れるのかい?」
「うん、きっと大丈夫だと思う。後はもうひたすら真っ直ぐ、音と光を頼りに歩いて行けばいい」
 そう言って、リュートは僕にペンライトを押し付けた。
「リュート……?」
「さぁ、行って。ここから先は君一人だ。大丈夫、すぐに着くさ」
「待って、何を言ってるんだい? あんたは……あんたは一緒に行かないのかい、リュート」
「あぁ」カチリと音がして、炎が灯る。
「私は行かない。まだやり残している事があるんでね」
 ぼんやりと、オイルライターの灯りの中に、彼の顔が浮かび上がった。
「やり残してるって、何をだよ? ふざけてないで帰ろうよ、リュート!」
 堪らず叫ぶと、「知りたいんだ」と、リュートは呟いた。
「もちろん帰りたい気持ちはあるけどね。でも私はそれ以上に知りたい。どうしてこんな空間がここに出来てしまったのか。そして一体誰がそれを作ったのか。そして――」
 ごくりと、僕の喉が鳴る。
「誰がこの先に待ち構えているのかをね。私はどうしてもそれを見届けたい」
「――それで帰れなくなってもかい?」
「あぁ、そうだね。例え帰れなくなっても」
「あんたにとっては――」言葉を切り、そして僕は聞いた。
「“知る”と言う事は、自分の生命よりも重い事なのかい?」
 暗闇の炎の灯りの中、リュートはくすりと小さく笑った。
「当然さ。私にとって、それは天秤に掛けられるようなものじゃない。何も知らず、何も考えずに人生を長く生きる事にどんな意味があると言うんだい? もし自分自身に痛烈に知りたいと願う何かがあったとして、それが命を賭して授けられる知識なのだとしたならば、それはそれは非常に価値のあるものだとは思わないかい? 知り得て満足を感じながら滅びるのならば、それはきっと幸福な人生の最期だと思うけどね」
 聞いて、僕は笑った。もちろん、呆れから来る笑いだ。
「あんたの行動力には付き合い切れないよリュート。――でも、その考えはクールだね。手放しで賛同は出来ないけれど、それでも充分に恰好いいと思えるよ」
「ありがとう」
「でも、ごめん。僕には無理だ。知りたいと思う気持ちよりもずっとずっと重く、“怖い”があるんだ。あんたと一緒に行ってみたいって気持ちもなくはないけど、それでもやはり帰れると言う選択肢が見付かった今、僕は――帰りたい。どうしようもなく帰りたいんだ」
 リュートは無言のまま微笑んだ。そして差し出された右手を僕は握り返し、「気を付けて」と、そう言った。
「いつの日にかまた逢えたら、今度こそゆっくりと語り明かそう」
「――判った。じゃあその日まで、このペンライトは借りておくよ」
 そして僕は、その場に彼を置いて立ち去った。途中気になって何度か振り返ったが、二度目に見た時にはもう既に、彼の姿はライターの炎ごと闇の中へと掻き消えていた。
 僕は歩いた。か細いライトの灯りだけを頼りにとぼとぼと。
 次第に明るくなって行く視界の中、絶えず鳴り響いていた風の音はいつしかトンネル内に反響するノイズに取って代わり、煌々と明るい照明と、けたたましい電子音。そしてホーム上にて電車を待つ人々の姿が目に飛び込んで来た。
 ホームを自力で這い上がり、足元を見る。そこには見間違う事すら不可能な程にはっきりと、自分の“影”がうずくまっていた。そうして僕もまたそのホームの上で電車待ちの一人となると、次第に何もかもがイミティションな嘘の世界のように思えて来る。
 目を瞑り、溜め息を吐き出す。そして再び目を開いて見た世界は、やけに派手で煌びやかなものだった。
 ――帰って来た。そんな安堵が押し寄せる頃、なんだかさっきまでの出来事が酷く幼稚で滑稽な、夢の中の話のように思えて来る。
 僕は本当に向こうの世界にいたのだろうか。あの時に逢った、リュートと言う男は実在した人間だったのだろうか。そっと取り出したプレイヤーのモニターを確認すると、時刻は零時七分。酷く長い時間に思えたのに、こちらの世界では僅か七分間の出来事でしかなかったらしい。
「やぁ、シリル」
 突然、声を掛けられて咄嗟に振り向く。「リュート?」と、小声で呟きながら。そこには、“夢なんかじゃないぞ”と、教えてくれる彼が立っているような気がして――。
「随分遅いんだな。こんな時間に帰るだなんて、あまり感心出来ないぞ」
 そこにいたのは、リュートとは似ても掠ってすらもいない、小太りで頭髪の薄い大学のコランド助教授だった。
「あ、あぁ……すみません。学園祭の支度と論文に追われていて」
「なるほど、わからんでもないが、あまり遅くならんようにな」
 話している間に、ホームへと電車が滑り込んで来る。
 ドアが開く。コランド助教授が乗り込む。僕が二の足を踏んでいると、「乗らないのかい?」と、怪訝そうな顔で聞かれた。
「の、乗ります」
 飛び込んだのと同時にドアが閉まる。そして深夜の電車は僕を乗せ、まるで何事も無かったかのようにカーキンティロック駅へと到着した。

 僕は今でも時々、あの夜の事を思い出す。思い出す度に、あれは夢だったのか現実だったのかと問い返す。
 想い出はいつも鮮明でありながら、あの夜のままに不確かでぼやけて見えていた。
 ――そう、あれからもう四十年もの歳月が過ぎた。あの一件は既に、遠い過去の昔となってしまった。
 あれからの僕はと言うと、カレッジを二年留年した後に卒業し、そのまま大学院へと進み、未だにそこに在籍し続けている。若い頃にぼんやりと思い描いた通りな、平々凡々とした人生を歩んで来たと言う訳だ。
 家は、レノックス・タウンに買った。今は二人の娘も外へと嫁ぎ、一緒に老いた妻と共に、今もそこに住んでいる。なんとも馬鹿馬鹿しい話ではあるが、僕はあれからもずっと、同じ地下鉄の路線を利用し、同じ大学へと通い続けているのだ。
 変わった事と言えば、大学での専攻を電子工学から歴史哲学へと変更した事か。自分でも一体何をしているんだと随分呆れたものだったが、今ではそれも良かったと思っている。これは一体誰の影響なのかは知らないが、どうやらこの分野は僕には合っていたらしい。今ではこの世界で、それなりにも名前が知られるようにはなったのだから。
 とりあえずは、そこそこに満足は出来る人生だったとは思っている。ただ一つだけ、あの晩の不可思議な出来事が一体何だったのかと言う謎さえ除けばの話ではあるが。
 そう、あれは全てが謎だった。もしも本当にあれが夢ではなかったとしたならば、とんでもない事実に遭遇した夜だった。
 特に――そう、特に。あの晩に出逢った米国の紳士、リュート・D・クロフォードと言う人物こそが、最大の謎ではあったのだが。
 果たして本当に、“リュート”なる人物は実在していたのか。もしかしたらあの世界共々、私の脳が作り出した滑稽な夢物語だったのではないだろうか。
 今ではもうそれを確かめる術は無いのだが、もしも叶うならば、今一度彼には逢ってみたいものだったと思うばかりである。

 とある晩。学生達の卒業論文を読むのに思った以上に時間が掛かり、深夜近くの帰宅となった時の事。またいつもの癖で、ふとあの晩の事を思い出した。
 とりとめなく想い出に耽りながらとぼとぼと深夜の道を歩き、寂しいなぁと小声で呟いてみる。――思えば僕は小さい頃から、“孤独な状況”と言うものが苦手だった。他人に対して積極的ではないし、社交的な人間でもなかったが、やはり誰かが近くにいなければ強い不安を感じる。とりわけ今のように、周囲を見ても誰もいないと言う状況には非常に大きな不安を感じてしまうのだ。
 そう言えばあの晩もこんな感じではなかっただろうか。前を見ても後ろを見ても誰の姿も見えず、強い不安を感じながら真夜中の道を歩いていたのではなかっただろうか。そして――。
 見上げた空に、赤い月が浮かんでいた。
 ハッとした。そう言えばあの日の晩も、こうして赤い月を見上げた事を思い出す。そうして視線を戻せば、少し前の歩道には白くぶんやりと光り浮かび上がる若い男の姿。
 あれは――僕? 見覚えは、あった。それはまるで昔のアルバムを眺める自分自身の心境で。
 過去の残像の僕はあの時と同じように空を見上げ、そして何かを呟いた。その直後、残像の僕は何かに気付いたかのように背後を振り返る。――瞬間、ほんの僅かなたった一瞬、黒いコートの男の姿が、片手で帽子を押さえながらその真横を通り過ぎて行ったのを見た。
 そして残像はおぼろげになり、掻き消えた。――あれは一体、何? 考えるが、まるで判らない。だが確かにあの時も、同じ行動を取った事だけは覚えている。
 パタタタタ――と、頭上で何かが羽ばたき飛び去る音が聞こえた。こんな真夜中に、何の鳥が? 思い見上げるが、まるで何も見当たらない。
 妙な夜だ。僕は呟き、駅へと急いだ。
 ジャンパーの襟を立て、寒さをしのぎながらホームへと立つ。取り出したタブレット(小型端末)で時刻を確認すれば、もう間もなく零時になろうとする頃だった。
 寂しい夜だな。思いながらふと気付けば――。
 誰もいない?
 右を見る。誰の姿も無い。左を見る。やはり誰の姿も無い。
 何事だ? 思い、振り返るが、のぼる階段の向こうは闇よりも深い闇が壁のように立ちはだかっている。
 ゾクリと、得体の知れない悪寒が込み上げる。
 まるで――そう、それはまるであの日の夜の再現だった。あの時、あの瞬間の匂いとまるで同じだった。
 遠くから低い地鳴りのような音で電車が近付いて来る。頭上では、うねる風がうおおおおおと、何かの咆哮のように鳴き声を立てている。
 ジャンパーのポケットからもう一度タブレットを取り出した。そして僕の背後で電車が停止するのと同時に、時刻は“00:00”を指してフリーズした。
“僕”と言う人間が、再び“何か”に呼ばれている事を、痺れた頭で確信する。そしてあの日の夜はやはり幻や夢などではなく、有り得た現実の一端だった事を自覚する。同時に、まだその一連の出来事はまるで終わっていなかった事も。
 いつまでも、その車両のドアは開きっ放しのままだった。
 そして僕は知っていた。僕がそこに乗らない限り、ドアは永久に閉まらないと言う事を。
 足を踏み出す。やがて電車は僕を乗せて走り出す。誰も乗らない無人の車両は、僕一人を連れ再び無限の回廊へと向かって暗闇のトンネルを突き進む。
 大丈夫――大丈夫だ。あの夜の時と同じ手順で進めば必ず出られる。僕は自分にそう言い聞かせながら、“Buchanan Street SPT Subway(地下鉄ブキャナン・ストリート駅)”と言う標識が下がった古惚けた駅のホームに降り立つ。
 あの時と全く同じだった。あの時の僕も、今と全く同じ場所に立ちすくんでいた。思い横を見れば、またしてもぼんやりと浮かび上がる過去の残像の僕の姿。
 なんて不安そうな顔をしてるんだ。僕は自分の事ながら、過去の自分の表情を盗み見ながらつい笑ってしまった。
 もしかしたらあの時のリュートも、今の僕と同じように、面白がりながら僕を見ていたのだろうか。思った途端、残像は掻き消えた。
 遠くから、反対方向へと向かう電車の音が近付いて来る。僕はその方向を眺めながら、リュートの事を思い出した。
 今度こそ、僕はリュートのようにならなければ。そして過去の残像は、僕自身が現世へと連れ帰らなければ。そんな決心を胸に抱き、停まる電車のドアへと滑り込む。
 もうここにはリュートはいない。もしいたとしても、既に四十年もの歳月が過ぎている事を考えれば、彼は既に僕よりも遥かに老人だ。もう僕は、僕自身の思考と決断に頼る以外方法は無いのだ。
 ゆるり、電車は動き出す。吊り革に掴まり、ぼんやりと何も見えない車窓の外を眺める。
 じわじわと、過去の出来事がよみがえる。どう言う訳か、四十年もの昔の事がつい先程の事のように鮮やかに細部まで、記憶の中で再生されて行く。何故か不思議と、あの晩には気付けなかった“事実”の破片までをも――。
 なんだ? なんだこの記憶は? まるで知らない事の筈なのに、何故か良く知っているような気がする。
 これはなんだ? 僕の記憶は、僕に何を見せようとしている? 何故、どうしてあの時の僕はその瞬間の事を気に留めなかった? どうして? ――どうして!?
 その瞬間だった。まさに僕がそんなとりとめない自問自答を繰り返しているその瞬間だった。
「リュート!」
 思わず、僕は叫んだ。通り過ぎる車窓の外の闇の中、オイルライターの薄明かりに浮かび上がる、煙草を咥えた彼の横顔。
 間違いなかった。見間違える筈がなかった。まるで彼にだけ時間と言う呪いが下されているかのように、あの時と全く同じ姿形のまま、彼は今しがた通り過ぎたトンネルの闇の中にいた。
 電車が減速する。僕はもどかしいままにドアに手を置き、早く開けと心で念じる。
 停車すると同時に、僕は外へと転げるように飛び出した。そして肌身離さず持ち歩いていた借りたままのペンライトを胸ポケットから取り出せば、スイッチをオンにしながらホームの向こうへと飛び降りた。
 いる! 彼は間違いなくあの闇の向こうにいる!
 それは例えようもない確信に近い“勘”だった。僕は玉砂利を踏みしめ、なんの恐怖も感じないままに線路の上を走り出した。
 待っていてくれ、リュート。もうしばらくそこにいてくれ。もう一度、もう一度だけあんたに逢いたいんだ。あの時、僕を家へと帰してくれた君に礼が言いたいんだ。
 すぐに息があがる。駆ける足が痛み出す。だがやはりこの空間には時間と言う概念が存在していないのだろう。疲労も痛みも限界には達しないまま、僕は駆けた。その暗闇の中を。頼りない一筋の灯りのみで。
 ザッ、ザッ、ザッ―― ハァ、ハァ、ハァ――
 二つの音ばかりが、その闇を支配する。そうしてその音が耳に慣れ始めた頃、少し先の空間で、仄かに明るい炎が灯る。
 不思議そうな顔で、彼がこちらを見つめていた。そして僕は、彼の元へと走り寄る。そして後数歩と言う所で立ち止まり、両膝に手をつき僕は息を整えた。不思議な事に、疲れは僅か一瞬で引いて行く。
「あの――」
 言い掛けた所で、目の前に煙草のケースを差し出された。
「良かったらどうぞ。孤独に吸うのも味気ないものでね」と、相変わらずのとぼけた口調で彼は言う。
「え……あぁ、どうも」
 そして僕も僕だ。彼に勧められるままに一本を抜き出し、今度は差し出されたままにライターの炎でその先端に火を点す。
 ふぅ――と、一口を吐き出した所で、じわりと煙草の火が消えた。そしてそれは彼も同じだったらしく、あの時と同じようにして再びライターをカチリと鳴らした。
 ぼんやりと浮かび上がる、彼――リュート・D・クロフォードの懐かしき表情。僕は感極まり、思わず彼に、「リュート」と、声を掛けた。
「――誰?」
 今更かよと悪態を吐きたくなる程鈍感に、彼はライターの灯りで僕を照らした。そして、まるで覚えがないのだろう僕の顔を眺め、もう一度声をあらためながら、「どちら様?」と聞き返した。
「呆れるな」僕は真っ先にそう返した。
「先に聞きたいんだが、こんな状況で真っ暗闇の中から誰のものとも判らない謎の足音が聞こえて来たとして、君はいつも今みたいに煙草を差し出すのかい? まず最初に、その“誰か”の正体を見極めようとするのが普通なんじゃあないのかい?」
 するとリュートは至極冷静に、「前提が違うね」と返す。
「まず最初に、今あるこの状況事態が普通ではないんだから、例え私の知る対処法の全てを試した所でそれが上手く通用するとは限らない。それに君の足音は私がいる僅か数歩手前で立ち止まった。要するに君は私と言う存在をこの暗闇の中で認識した上で接触して来たと言う事だ。そんな状況なら、例えば君に悪意があったとしても私には回避する為の手段が著しく乏しいと言う事になる。更に言うと、“君はいつも今みたいに”と言ったが、私にとってこんな状況は初めてなんだ。上手い対処が見付かる訳がない」
「屁理屈ばかり。――で、君は煙草を差し出したと?」
「いい判断じゃあないか。少なくともその相手が、“煙草”と言うものがどんなものであるのかぐらいは知っていると言う事が判る」
「だが、煙草の有害性についてまで知っているとは限らない」
「その通りだが、おかげで極端な事ばかり主張する嫌煙家でないと言う事も判った」
「相変わらず変な奴だ」僕はもらった煙草をポケットにしまい込み、そう言った。
「久し振りだね、リュート。もう一度再会出来るとは思っていなかったんで物凄く感傷的になって走って来たんだが、君のその悪癖だらけな口調のせいでそんな気分はどこかへと吹っ飛んでしまった。――僕だよ、リュート。シリル・ディクソンだ。あの晩も、同じようにしてここで逢ったね」
 言うとリュートはしばらく無言で僕の顔を見つめた後、非常に驚いた表情で、「なんて事だ!」と叫んだ。
 無理もない。あれから四十年もの時間が経っているのだから。彼もまた僕の変わり果てた姿を見て驚いたものだとばかり思っていたが――。
「素晴らしい! シリル、君を探す手間が省けた。さぁ、一緒に来てくれ。ついさっきまで君無しでどう対処していいものなのかずっと迷っていたんだ。まさかこんなに簡単に見つけられるとは思ってもいなかった」
 予想もしない返答に、逆に僕の方が戸惑った。
「付いて来いって、一体どこへ? 君は何をしようとしているんだ、リュート」
「何って……」炎の灯りの中、リュートは笑う。
「ようやく見付けたんだよ、この世界の“解除方法”をね」
「解除って……まさか、リュート。君……」
 そうしてようやく僕は気付いた。どうしてリュートだけは以前のままの若い姿でいられるのかを。
 僕にとっては長い長い四十年だった。だが――。
「リュート、君はずっと――」
「うん? どうかした?」
「君はあれからずっと、ここにいたのかい?」
 聞くが、答えが怖かった。だが予想した通り、「もちろん」と、彼は答える。
 喉まで出掛かった言葉を無理に飲み込む。――リュート、君は全く何もわかっちゃいないね、と。

 ザッ、ザッ、ザッ――と、目を凝らしても見えない暗闇の足の下で砂利が鳴る。
 頼りないペンライトの灯りは、僅か数ヤード先しか照らさない。そんな中をリュートはさも楽しい散歩のごとく、陽気に話しながら先導する。
「――要するにね、自分達が持っている常識を尺度として考えようとするから無理があったんだよ。逆にこちら側の尺度でものを考えてみたら? 思いながらそれを実行してみたらね」
「リュート……」
「やっぱりそれでも無理だった。全然お手上げさ。全く何がなんだかわからない」
「リュート!」
「どうしたのさ、怖い声を出して」
「いい加減説明してくれよ。この世界を“解除する”と言ったからには、この世界をある程度は理解したって事なんだろう?」
「いや、理解なんかしてないさ。ただどうしてここが出来上がったのか、誰がここを作ったのかが判ったって言う程度でしかないね」
「充分じゃないか。なら説明してくれないか。誰が、どうやって、なんの目的でここを作ったって言うんだい?」
「あぁ、えぇと……」リュートは突然立ち止まり、宙を見上げた。
「説明は構わないんだが、どういった順番で話せば一番効率がいいんだろう。なにしろ一つ一つはやたらと単純なんだけど、それらが複雑に絡み合っていてね。もしかしたら説明するよりは君に実際に見てもらった方が早いんじゃないかとも思うんだ」
「見るって、何を? 大体、僕に何が出来るって言うのさ?」
「出来るさ。むしろ君じゃなければ無理な事ばかりなんだ」
「良く判らないな」僕は言う。
「前に逢った時もそうだったけど、リュートは何か僕を特別視してないかい? 君がどう思っているのかまでは判らないけど、僕自身はいたって普通の人間だ。何一つとして特別な能力なんか持っていない」
「持っていなくても」リュートは人差し指を立ててみせた。
「この空間の連鎖を“終わらせる”事は出来る。それは君じゃなくちゃ駄目なんだ、シリル」
「――どうして?」
「どうしてって……この世界を創り上げたのは、“君”なんだよ、シリル」
「……」
「やはり気付いてなかったね。例え君にこの空間を創ると言う能力はなくても、それを可能にする“モノ”にきっかけと動機を与えたのは君なんだ。だからこそ、私は君を探していた。君がこの世界に“終焉”を告げない限り、永遠にこの空間の連鎖は終わらない。――ここまでは判るかな、シリル」
「言ってる事の意味は判るが……」僕は唾を飲み込み、そう言った。
「だが、どうやって? 僕が一体何をした? しつこいようだが、僕にはそんな事をしようとする意志は無いし、そんな能力も無い。もちろん方法だって知らないし、呪術に詳しい友人がいる訳でもない。全く訳が判らないよ、リュート」
「意志が無くとも、そんな特殊な友人がいなくとも――」
 リュートは語りながらコートの前をはだけてその内ポケットにねじ込まれた物を僕に見せた。
「見覚えはあるかな? きっと僅かコンマ何秒かの出来事だったから気付かなかったかもだけどね」
 そこに見えたものは、いつかの夢の中に見た木彫りの人形だった。
「これ……」
「知ってるのかい?」
「知ってるって言うか、夢の中に現れた。酷く粗雑でノイズだらけの画像の中で、こいつがスッと真横に通り過ぎて行くのを見た」
「うん、それは素晴らしい。実に模範的解答だ」言いながらリュートはそれを取り出す。
「これは、“アンラ・マニュ”と呼ばれるアイドル(偶像)さ。今はもう廃れ切ってしまったけど、アラブから発生したと言われる古き宗教の信仰対象となった神の像だ。いやいや、実に素晴らしいね。まさか木製の偶像がこんな時代にここにあるだなんて、まさに奇跡に近いレベルだ」
「いや、そんな説明を聞きたい訳じゃない。僕が知りたいのは、それがこの空間にどう関わって来るのかって言う部分だ」
「うん、なるほど」そう言ってリュートは再びそれをしまう。
「まぁ簡単に言うと、君はこの偶像に向かって“呪い”をかけた。そうしてこの空間は閉ざされた。偶然の事とは言え、とんでもなく低い確率の出来事が一つ、ここで起こった」
「いや、リュート。僕はそんな事はしていない」
「しているんだよ。気付いていないだけで」
「……」
「さぁ、先を急ごう」
 やがて僕達は、次の駅――“St Enoch SPT Subway(セント・イノック)”へと到着した。もちろん僕が普段使っている方とは違う、“こちら側”の世界のセント・イノック駅である。
 リュートは僕を引っ張り上げ、そして“いつもの”ベンチに腰掛ける。まるでそこが彼自身の所有物であるかのような、最初に出逢った時に座っていたベンチにである。
「久し振りだね。まさかまたここに戻って来るとは思わなかったよ」
 言うとリュートは煙草を咥え、「そうだね」と、頷いた。
 そしてリュートがその先端に火を点すと同時に、電車の近付く音が聞こえて来る。
「乗るよ、シリル」
 そう言って彼は立ち上がる。そして、「やっぱり味気ないな」と言いながら煙草をケースにしまう。相変わらずだなと、僕はそれを見ながら彼の背後で笑った。
「さて、説明と同時に“解除”の儀式でも始めようか」
 車両へと乗り込むと、早速リュートは“アンラ・マニュ”の偶像を取り出しながら、そう告げた。
 彼は一体僕に何を伝えたいのか。その偶像を車窓にくっつけると、車両の流れに乗せるかのように横へとずらして見せた。
「夢で見たのはこんな感じ?」
「――あぁ」言われてみれば確かにそんな感じだった。
「どうして判る?」
 聞けば一体誰の真似なのか、「“勘”だよ」と笑う。
「これは君とあのトンネルの中で別れた後に、その先の緊急避難所の横穴の中で見付けた」
「避難所?」
「トンネルの中等で時々見掛けるじゃない。万が一あの中で災害とか事故とかあった場合に、逃げ込める為の場所さ」
「そこに……これがあったって事?」
「そうだよ。祭壇の一番上に飾られていた。高さにしたらちょうど、この車窓から眺める人の目の位置辺りかな」
「……」
「きっと地上ではおおっぴらにやって行けない宗教だったんだろうね。それでこんな閉鎖されたアンダーグラウンドで密教的に活動していたんじゃないかな。――だけど時の流れの中でとうとう信者も絶えてしまった。そして祭壇も偶像も打ち捨てられた。哀しいものだね、時のうつろいと言うものは」
「ここが人の入り込めない場所だったからこそか?」
「そうだね。だけど私達は迷い込んでしまった」言いながらリュートはまた、偶像を窓へと貼り付ける。
「僅か一瞬の事だった。暗闇ばかりが続くこのトンネルの中で、君はこの偶像と視線――尤も偶像に目があったと仮定してだけどね――が、合った。そして君は事もあろうに、偶像に向かって呪いの言葉を吐いた。“この空間を閉じよ”とね」
「言ってない!」
 僕は叫ぶが、「言ったんだよ」と、リュートは笑う。
「何度も言うが、君自身がそれに気付けてないだけなんだよ。呪詛(スペル)なんてものは、何も決して難しいものじゃない。ただ、“縛る言葉”を口にするだけでいいのさ。あの晩の君のように、曲の歌詞に乗せてそれを口ずさむとかね」
 瞬間、ハッとした。もう「言ってない」とは間違っても言えなかった。思い出したのだ、あの晩、あの場所で聴いていたミュージックの事を。それはマイナーだが根強いファンの多いメタル系のバンドの曲で、その内容はどこの国のものかも判らないエキゾチックな単語で埋め尽くされていた。
 もしも――そう、もしもあの時、僕が呟いた言葉がその呪詛に当たるのなら。それは確かに僕がおろした引き金のようなものだ。
「だが、どうして? なんで君が知ってるんだ、リュート。あの時のあの瞬間には、君はいない筈……」
『お゛う゛あ゛ぅえ゛あ゛い゛あ゛あ゛……』
 背後で声がした。振り向けばそこには、蒼白く濁る半透明な異形の姿。
「もしかして――」
「その通り。私は別にその場にいずとも、君の分身たる過去の姿がそれを教えてくれているんだよ」
 良く聞けば次第にその聞き辛い声が、ちゃんとした声となって再生されて行く。
『い゛う゛あ゛……え゛……いつ、は、ほ゛く゛お、けさ゛、かのじょと゛、ごうろん゛に、あっあ゛んあ゛……』
 ――奇遇だね。実は僕も今朝、彼女と口論になったんだ。
 いつの間にか僕の横には、真っ白姿の過去の僕がいて、はにかんだ表情でそう語って掻き消えた。
「覚えているかい、シリル。あの時の曲を。そしてその時に口ずさんだそのフレーズを」
「あ、あぁ……大丈夫だよ。ちゃんと思い出せる。それがどんな意味なのかは、未だに知らないままだけどね」
「なら、行こう。役者は揃った」
 リュートは片手をコートのポケットへと突っ込み、そしてもう片手で偶像を持ち上げると、僕の立つ真正面の窓へとそれを掲げる。
 パタタタタ――と、羽音がして、一匹の蛾が照明のフードに体当たりをしている。
 そして僕は偶像を見つめた。それから一度、深い瞬きをした後、目を開いて僕はこう呟いた。
「فتح نافذة ضوء في قلب لإغلاق العالم المغلق وخط الأفق الذي جنبا إلى جنب مع الفنلندي كيمي」
 ――どこか遠くで、ドンッと激しい音が響いた。そしてその音が次第に反響して行くかのように、前の車両から順に車窓が激しく震え出す。
 ダダダダダダダダダダ――
 そして一呼吸遅れてこの車両の窓の全てが割れんばかりの激しい音で衝撃を奏でると、ドップラー効果のように音は遠ざかって行った。
「お、終わったのかい?」
 聞けばリュートは、「――いや、これから始まるんだよ」と、嬉しそうに言う。
 するとリュートが掲げている偶像の後ろの窓が、溢れんばかりの光を放ち、輝き始めた。僕はたまらず振り返ると、その向かい合った窓も同じように光り出している。
 パタタタタタ―― 頭上を飛ぶ蛾の羽音がやけに近く、強く聞こえる。見上げればいつの間にそれは育ってしまったのだろう。蛾は、大きな蝙蝠のような羽で宙を飛び、そして――。
「リュート!」
 それはまさにリュートに体当たりせんばかりの勢いで向かって行ったかと思うと、偶像の真横をすり抜けて光る窓の中へと飛び込んだ。
 今度こそ、窓は激しい音を立てて砕け散った。パーンと言う甲高い音と同時に、ズンと言う低く重い音が響き渡り、そして砕けた窓の破片は床へと散らばり――そして雪のように溶けて消えた。
 いつの間に尻もちをついていたのだろう、僕は両手で頭を押さえ、リュートを見上げながら、「今度こそ終わった?」と聞けば、相変わらず偶像を窓の辺りに掲げたまま、「多分ね」と笑った。
 やがて車両は鈍い音を立てて減速を始めた。そしてリュートは僕の手を取り引き起こしながら、「終点だ」と、呟いた。
 ドアが閉まる。足元を見降ろしながら、「影が戻った」とリュートが嬉しそうに呟く。そして、僕達を置き去りに遠ざかって行く電車の灯りを見つめながら、僕は、「さっきのは?」と、リュートに聞いてみた。
「“モスマン”って、聞いた事があるかい?」
 言われて、「あぁ、例の都市伝説か。なんだか最近、この周辺では良く噂されてるね」と答えれば、「きっとあれがその原因だよ」と、リュートはさも当たり前のように返す。
「まさか! あれが――モスマン?」
 聞けばリュートは、「うん」とばかりに頷く。
「まぁそれも、人間が勝手に付けた名前なんだろうけどね。後で良く調べたら判ると思うけど、そのモンスターの発生時期は君があの地下から帰った頃から頻発していると思うよ」
「まさか……あれも僕のせいだって言うのかい?」
「うん、間違いなくそうだろうね。君は呪詛の力によって一方の世界を遮断し、そしてもう一方の世界を解放した。だからこそあんな複雑な空間が、実際に存在する地下の路線上に形成されてしまったんだ。判るかい? 君が先程唱えた呪詛は、アラビア語で、“世界と心の目を閉じよ、そして貴方と合わせた視線で光の窓を開け放て”と言う意味だ」
「……?」
「君はあの晩、三つの奇跡を同時に引き起こしたんだよ」
 煙草を口に咥えたリュートは、ライターの火を点けようとしながら、“No Smoking”の文字を見付け慌ててそれをしまう。
「一つは、“アンラ・マニュ”への呪詛により、地下の廃線を外界から遮断した。そしてもう一つは、君も見ただろう深夜零時の“合わせ鏡”だ。あれによって開けてはいけない世界の扉を開いた。閉ざされた世界が鏡写しのようなループ状になったのはそのせいなんだろうね」
「合わせ鏡なんて……どこにも鏡なんか無かった筈なのに」
「向かい合った車窓がその役目を果たしてしまったんだ」リュートは続ける。
「この偶像が君の呪詛を受け取ったと同時に、窓が妙な光り方をしただろう? あれが窓を鏡面化させてしまったんだと思う。そして呪詛は更なる効果を合わせた鏡に与えてしまった。それにより開かれた異質の空間からあの“蛾”が飛び出て、そして戻れなくなった。あれはただ、鏡から出でて向かい合った鏡の中へと移動するだけの存在だったと言うのに、一瞬にして消えてしまった鏡の為に、この空間を彷徨い続けるはめとなってしまったんだ」
 ――そうか。“あれ”は、僕と共にこの地上へと出て、四十年もの間を迷子のようにして過ごしていたのか。
 記憶を辿れば思い当たるふしはある。ここグラスゴー周辺に現れる怪生物の噂がある時期から絶えなかった事を。
「じゃあ、その二つの偶然が、あの空間を生み出していたって事なのかい?」
「その通り。尤も、厳密には、“三つ”なんだけどね」
「三つ? じゃあもう一つは?」
「最初に、君をあの地下世界へといざなった存在さ」
 言いながらリュートはホームの天井を指差す。
「……そこに何が?」
「もっと上だよ。さぁ、外に出よう。私もしばらく外界の空気は吸ってないんで、少々息苦しさを感じていた所だ」
 地下鉄の階段を登り、再びセント・イノックの街へと出た。そしてリュートは両手を広げて伸びをすると、「やはり外の世界は素晴らしい」と呟きながら深呼吸をした。
 そして、僕は気付いた。――そうか、月か。三つ目の偶然は、あの月がもたらしたものか。思いながら僕は、赤い月――ブラッディ・ムーンを見上げた。
「気付いたかい? そう、多分その通り。君はこの地下鉄の駅へと向かう途中であの赤い月を見上げて何かを呟いたね。内容までは知らないが、きっとその言葉がこの赤い月に作用してしまったんじゃないかなって、私は思うよ」
「――やはり君は見ていたのかい? 僕があの月に向かって、“この平凡過ぎる人生は暇でしょうがない”って愚痴った所を」
「なるほど、そんな事を思っていたのか。それじゃあ私とまるで逆だな」
「……まさかとは思うが、リュートも同じ事をしていたのか? あの月に向かって?」
「あぁ、祈ったさ。“忙し過ぎて困る。ほんの少しでいいから孤独な時間が欲しい”ってね」
 そして僕達は、顔を見合わせて笑った。ひとしきり笑った後、僕は意を決して彼にこう告げた。
「申し訳ない、リュート」
「――何が?」
「きっかけはどうであれ、君は僕が作った世界に巻き込まれる形となった。知らなかった事とは言え、僕は君に取り返しのつかない事をしてしまった。心からお詫びしたい」
「うん」リュートは怪訝そうな顔で頷く。
「何をそう謝りたいのか知らないが、私は私で充分に楽しんだよ。こうして思わぬ手土産も出来たしね」
 言いながらアンラ・マニュの像を見せる。
「そうじゃないよ、リュート!」思わず声が大きくなった。
「君はまだ事の重大さに気付いていない。僕を良く見てくれ。あの時の僕とは全く似ても似つかない容貌になっただろう? ――判ってるのかい? 君には時間の概念が無かったから理解してないのかも知れないが、前に僕達が逢った時から、既に四十年もの時間が流れているんだ。僕はもうあれから、四十歳も年齢を重ねたんだ。ここまで言えばもう判るだろう? 君はもう二度と、自分がいた世界には帰れない。時代は君を置き去りにしたまま流れ去った。例え君が元いた場所へと帰ったとしても、今ではもう誰も君を待ってはしないよ。この時代に、君が帰れる場所なんかどこにも無いんだ」
 僕は一気にまくし立てた。そしてそれを聞いていた筈のリュートはまるで驚く様子も見せず、ただ夜空を見上げて、白い息を吐くばかりだった。
「……リュート?」
「シリル、今は何年? 出来れば正確な日時を教えて欲しいんだけど」
 言われて僕は、ポケットから小型のタブレットを取り出す。そしてその表示を時計に変えてリュートへと見せると――。
「素晴らしい!」
「……何が?」
「何がって、このタブレットさ。これはつい先日、世界中で一斉発売されたSONY製の新型じゃないか。君はさっそく買ったのかい?」
「え……いや。――どうして君がそれを知ってる?」
「そりゃあ――」言いながらリュートは、スーツの胸ポケットから何かを取り出した。
「私も同じものを買ったからさ」
 そう言って見せたものは、僕のと全く同じ新型のタブレット端末。僕はそれを見て、「どうして?」と詰め寄れば、リュートはそれに電源を入れて僕に見せた。
「確かに君は、四十年と言う長い時間を経て来たのかも知れない」言いながら彼は、時計を表示させる。
「でも私にとっては」言いながら時刻を指差し、「あれからまだ僅か十二分と言う時間が過ぎただけでしかない」
「――まさか」
「本当さ。残念ながら私にとっての目下の悩みは、今夜と言う暇な時間をどこでそう過ごすかと言う部分だけさ」
 リュートの語る言葉が頭の中で再現された。この空間では時間さえも非常識だと言う台詞を。
「なるほど、色々と合点行ったよ。君の服装センスがどうにもちぐはぐな事や、会話のルールがやけに噛み合わない事なんかがね」
「そりゃあそうだろう。君がいた世界と私がいた世界とでは四十年もの開きがあるんだ。色々と違和感があってもなんの不思議もない」
「やれやれ、まさか君が僕よりもずっと若い人間だったとはね」
 そう言って僕が肩をすくめると、「こっちも妙な気分だよ。この件についてあまり深く考えるのはよそう」と、リュートは笑った。
「それにしても」リュートは寒そうにコートの襟を立てる。
「興味深い一夜だった。僅か十二分の出来事とは言え、貴重な体験をさせてもらったよ」
「いい加減だな」言いながら僕はペンライトを取り出して、彼へと差し出した。
「暇なんだったら付き合えよ、リュート。君にとっては“たったの十二分”だろうけど、僕にとっては平凡かつ波瀾万丈な四十年だったんだ。おかげで君には話したい事が山ほどある」
「いいね、シリル。この辺に、朝まで飲める店はあるのかい?」
「あるさ」
 言いながら僕は、コートのポケットの中で折れ曲がった煙草を取り出して口に咥えた。
 見上げた空には相変わらず、不吉な輝きの赤き月。思わず何かを呟きそうになって、僕は慌てて首を振る。
「どうした、シリル?」
 火の灯ったオイルライターを差し出すリュートに、「なんでもない」と答え、火を貰う。
「行こうか」僕はリュートの背を叩く。
「“ラウダース”って言う、最近出来たばかりの店なんだが、チョコレート・スコーンとミートパイが美味いと評判なんだ。――どうだい?」
 リュートもまた新しい煙草を一本口に咥え、火を点す。そしてゆっくりと煙を吐き出しながら、「いいね」と、彼は笑った。
「実はそう言う感じの店を探していたんだ」
「そうか、やけに気が合うな」
 二つの靴音が、歩道の石畳の上に冷たく響く。
 遥か頭上で微かに、何かが羽ばたき、飛び去って行く音が聞こえたような気がした。





《 無幻回廊 了 》





【 作者コメント 】
とうとうこのシリーズも九作目となった。
出来れば十作目は原点に帰って、“満月茶会”の第一夜でも書きたかったのだが、どうにもそうは行かないっぽい気がする。
ちなみにこの原稿を書くに当たって、アイディアの補助してくれた某望月女史に感謝。
暗闇を覗き込んでの偶然的な合わせ鏡の部分等は、もっちーなが考え出してくれた部分だ。
あ、そう言えばなんか同時に鎖衝名義のリュート作品も選ばれた様子で。誠に痛み入る。
来年も一つよろしく。


 李九龍 kowloon_Lee

● COMMENT ●


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック:

http://misterycirclenovels.blog.fc2.com/tb.php/334-5001196a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

《 World ruler 》 «  | BLOG TOP |  » ナイスキャラクター賞のくだらないコント

プロフィール

MC運営委員会

Author:MC運営委員会
このブログの八割は、カボチャで構成されております。

カテゴリ

Mistery Circle(メインカテゴリ) (40)
寸評 (30)
MCルール説明 (1)
お知らせ (36)
参加受付 (24)
出題 (35)
メールフォーム (3)
内藤クンのおもちゃの部屋 (9)
天野さんの秘密の部屋 (8)
Ms.伍長の黙示録の部屋 (0)
伊闇かなでの開かずの部屋 (4)
未分類 (28)
亞季 (2)
いつき (1)
伊闇かなで (3)
空蝉八尋 (4)
黒猫ルドラ (13)
ココット固いの助 (22)
桜井 (1)
桜朔夜 (1)
鎖衝 (11)
知 (21)
しどー (13)
瞬 (3)
白乙 (12)
すぅ (13)
すずはらなずな (30)
田川ミメイ (2)
辻マリ (14)
夏海 (3)
七穂 (1)
氷桜夕雅 (32)
ひとみん (4)
松永夏馬 (12)
望月 (8)
幸坂かゆり (21)
李九龍 (13)
りん (3)
ろく (1)
Clown (12)
MOJO (1)
pink sand (9)
rudo (8)
×丸 (4)
MC参加者に聞け (7)
Mistery Circle ヒストリー (1)

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

リンク

このブログをリンクに追加する

検索フォーム