Mistery Circle

2017-07

《 繭と蝶 》 - 2012.07.16 Mon

《 繭と蝶 》

 著者:李九龍






 梅雨が明けたばかりの、初夏の日差しの中での事だった。
 目の前に現れたその小道は、両側からせり立つ木々の枝で深く覆われ、細い砂利の道にまだらな陽の光を落としていた。
 私はその小道の前に立ち、ぼんやりとその道の先を眺めていた。だが道は、一体どこまでそうやって続いているのか。上空を舞う風で煽られ、枝葉の影が揺れて見える以外、小道の果ては暗く翳ったままその正体を見せようとはしていなかった。
 だが、私は知っていた。この道を行けばどこへと辿り着くのかを。
 初めて訪れたこの町は、気持ち悪いぐらいに私にとって懐かしく、そして初めて見た筈のこの小道でさえ、全て私の記憶にそう古くはない。
 何度も何度も、訪れた町。数え切れない程に通った、この小道。
 何もかもが懐かしく、何もかもが優しく、町は私を迎え入れてくれているような錯覚を感じたまま、その小道の前で立ち呆けていると――。
 ふわり、頭上の蝉達の声が止む。
 あぁ、“闇”が来るわ。私がそう告げると同時に、周囲がざわりと色濃く変化して行った。


 私は身体を揺り動かされる感覚と、芳樹が呼ぶ声とで目が覚めた。
 気が付けばそこは、暗闇に沈む寝室だった。強く息を吸い込み、私の喉がひゅうと鳴る。
「大丈夫?」
 芳樹がベッドの上で半分だけ身を起こした格好のままそう言った。私が、「うん」と返事をすれば、芳樹はくすりと笑いながら、「おはよう。随分とうなされてたな」と、私の頭をくしゃくしゃと強く撫でた。
 彼はおはようとは言ったが、世界はまだ夜の中にあった。
 都内のマンションの一室。レースのカーテンだけを閉めた窓から、終電なのだろうか、高架を走る中央線の灯りが流れる。聞き慣れたいびつなレール音と共に、芳樹の首に掛かったヘッドホンからシャカシャカと耳障りな曲が小さく流れて来る。
 部屋の隅でコンポのイコライザの灯りが、忙しなく上下している。そしてその下に表示されているデジタルの数字が、零時半と言う時刻を教えてくれていた。
 カチリと音がして、暗闇の中でオレンジ色の光が点る。一瞬だけそこに、芳樹の横顔が見えた。
 フーッと音をさせ、芳樹が煙草の煙を吐き出す。何度ここで吸うなと言っても直らない、芳樹の悪癖だ。
「それやめてって言ってるでしょ」
 言うと芳樹は「一本だけ」と、静かな声でそう言った。
「ミチ、なんの夢見てたんだ?」
 彼は私を、“ミチ”と呼ぶ。――小野美千代。それが私の本名だ。
 聞かれて私は初めて、ここは現実なんだと言う想いに安心を抱く。私は芳樹の手を暗闇の中で探し当てながら、「怖い夢」と、そう答えた。
「小さい頃から何度も見てるの。いつもほとんど同じ夢」
「何度も? お前がうなされてるの見るの、俺は初めてだけど」
「いつもいつも怖い夢になる訳じゃないの。同じ夢なのに、たまに凄く怖い結末で終わる時があるのよ。何か、凄く怖いものに追い掛けられる夢――」
「へぇ……」
「なんでなんだろうね。死ぬ程怖い目に逢った事なんか一度も無いのに」
 言いながら、彼が伸ばして来た手を取り指を絡める。芳樹の太くて長い指に絡め取られながら、私はようやく胸の動悸が治まって行くのを感じた。
 芳樹の声は私の耳に心地良い。彼と初めて逢った時からそれは強く感じていた。言葉使いは悪く口調も軽く感じられはするが、それでも彼の声は不思議と私を落ち着かせた。
 それはもしかしたら私が一番苦手とするヒステリックで粗暴な口調から一番遠い位置にあるような声だからかも知れない。
 芳樹は語彙も少なくあまり話し上手ではないが、彼自身のミュージシャンと言う創造的なセンスがそうさせるのだろうか、いつも言葉の一つ一つがスッと胸に収まるような快楽を感じさせてくれる。
「それってどんな夢なの。結末以外が同じって」
 聞かれて私は、「うん……」と、話す事に乗り気ではない返事をした。
「家に帰る夢。町を抜けて、長い小路を抜けて、そして家に帰るの。そんな夢ね」
「――家?」
「うん。笑っちゃうでしょう? ある筈もない自分の家に帰る夢」
「ふぅん……そうか」
 言って芳樹は黙り込む。恐らくは私に気を使っての事なのだろう。
 芳樹も私の生い立ちは知っている。私は物心付く以前から、“家”と言うものが無かった。
 生まれてすぐ親に捨てられたのだろう、私にとっての“家”とは、今借りているこのマンション以前は、孤児の為の施設だけが全てだった。
「古い日本家屋なの。平屋の大きな家。――きっとどこかの田舎なんだろうね。そこには母が一人、私を待ってるの。そして私はその家に帰る……」
「お母さんも出て来るの?」
「うん。おぼろげになんだけどね。でも現実には逢った事も見た事もないような人なの。でも夢の中ではそこにいるの。そしていつも家の中で私を待っていてくれる。だから私はそこに帰るの」
 ――話しながら、胸が痛んだ。
 私には判っていた。家も、そしてその見知らぬ母の存在も。全ては施設で暮らしていた私が寂しさのあまりに作り上げた勝手な妄想だと言う事を。
 町も家も、きっといつか施設のテレビで観たのだろう何かの番組のワンシーンが心に焼き付いているだけ。きっと私の親はどこかにいて、いつか私を探しに来てくれる。そんなありもしない心の支えを勝手に作り上げて期待していたからこその事なのだろう。
 それが証拠に、私が施設から離れて独立を果たし、芳樹と半同棲のような暮らしを始めてからは、滅多な事ではその夢を見る事がなくなっていた。
 それはきっと、そんな妄想に頼る必要性が無くなったからだろう。私には既に、今ある暮らしの方が大切になってしまっているからだ。
「俺には親なんて鬱陶しいだけなんだがな」
 芳樹はそう言って笑う。私も一緒になって笑いながら彼の腕を引っ張れば、芳樹は屈み込んで私にキスをする。唇越しに、彼の吸うメンソールの煙草の匂いが私にも伝わって来た。
 芳樹が親を鬱陶しがっているのは本当だろう。彼の実家は古くからの酒屋をコンビニに改装したお店で、芳樹もまたその実家で店員をしている。本当は禁止されているだろう彼の金髪の頭も、その家の子供だからと言う我儘が通っているだけの事。
 芳樹が私のマンションに入り浸っているのも、彼なりのストレスがあるのだろうと察している。だから私も、彼の素行に対しては何も言わない。私自身、束縛とストレスだらけの幼少時代を経て来ているのだから。
「そう言やさぁ、それに良く似た話、知ってるぞ」
 唇を離して、芳樹は言う。
「何それ?」
 私が聞くと、「外国の怪談」と、芳樹は言った。
「とある女が毎晩同じ夢を見るんだってさ。金持ちが住んでいるような、外国の大きな家でさ。そこに毎晩帰って行くって夢の話」
 聞きながら私は笑ってしまった。芳樹のその幼い表現力にである。
「何笑ってんだよ、ミチ」
「あぁ、ごめん。芳樹が外国の大きな家とか言うもんだから」
「何で? 何かおかしかった?」
「ううん、芳樹らしくていいわ」
 言って私は芳樹の首に手を回し、もう一度キスをねだった。
 芳樹は煙草を灰皿に押し付け、今度は本気なキスで迫って来た。私は彼に身を預けつつ、その重さに満足を感じていた。
「うん、バカ……」
 声が漏れる。いつしか声は、喘ぎに変わる。
 夜は深々と更けて行く。結局、芳樹との情事で疲れ果てて眠る私は、その晩は何も見ないままだった。

「小野ちゃん。悪いけどやっぱ、君に行ってもらうしかなさそうだねぇ」
 若くして相当に恰幅が良く見える課長の霧島は、寒いぐらいに冷房の効いた部屋の中、玉のような汗を浮かべた額をハンカチで押さえながらそう言った。
 再度、その霧島の持つ書類は、私の机の上へと戻って来た。私は面倒臭そうにその書類を横目で睨むと、キーボードを打つ手を止めて、書かれている内容を流し読む。
 ――N県K町。三十二歳、女性。要介護認定のレベル五。私はそこまで読むと、私の横に立つ霧島に向かってこう聞いた。
「これはもう介護施設に預けちゃった方が早いんじゃないんですか?」
 言うと霧島は、汗で湿ったワイシャツをべったりと肌に張り付かせ、「いやいや」と、笑った。
「親一人、子一人だそうだからね。どうしても自宅での療養を望んでるだよ」
「それでも、何でウチなんですか。もっと近い場所で探せばいいのに」
 言って私は、書類の一点を指差した。それは、ここから二県も離れた場所にある地方の住所が書き記されている依頼者の情報欄。それはすなわち、仕事を請ける場合は必然的に、通いは不可能と言う事だった。
「嫌ですよ。今のアパート引き払ってまで仕事請けたくなんかありません」
 私はそう言って、再度その書類を霧島に突き返した。だが霧島は、「そう言わずに」と苦笑をしながら、突き返された書類を私の机の上で押し戻す。
「小野ちゃん、これどうしてもウチで請けなきゃならない仕事なんだよね」
「じゃあ他の人に当たって下さい。私は引越し前提な仕事なんて出来ません」
「引越しなんかしなくていいんだ」霧島は、中腰になりながら小声でそう言った。
「長くて三ヶ月。それ以降は、向こうの管轄に戻す約束になっている。もちろん向こうでの生活費は、全てこちらで負担する。山間の小さな町だから、夏の間の避暑地としては最高だと思うんだけどなぁ」
「……」
「留守の間のアパート代も、こっちで持つ」
「……なんでそう、私を行かせたいんですか?」
「時給、倍額にしておくから」
「理由を教えて下さい!」
 私は、頑として言った。すると霧島は、困った笑顔を浮かべてこう返事をした。
「求めているのは、看護士の資格を持った介護人なんだよね」
 聞いて全てに納得が行った。恐らくその要介護者は、栄養剤等の点滴が必要とされる状態なのだろう。
 ――つまりは、自宅での延命か。私はそう心で呟くと、もう一度その書類を手に取った。
 書類の裏にはその女性が必要とする過去の栄養剤の処方箋の写しが貼り付けられていた。そしてもう一度表の記述に目を通せば、十歳の頃に交通事故で頭を打って以来、意識が戻らないと、そうあった。
 何だか面倒そうな雰囲気ね。私はそんな事を思いながら、手にした書類をバッグの中へと押し込んだ。
「引き受けてくれるの、小野ちゃん」
 霧島課長は、一瞬にして晴れ晴れとした表情となり、私に聞いた。
「とりあえず考えてみます。三ヶ月とは言え、アパートを留守にする事になるんですから」
 言うと霧島は、「わかった」と言いながら、自分の席の方へと早足で歩き去って行った。
「良い返事を待ってるよ!」
 霧島は言うが、もはや彼の中では私に決定したものとなっているのではと思い、不安な気持ちになる。
 すると、私の横の席に座る同僚の永沢が、「もう課長の中じゃ、小野さんに決定しているみたいね」と、私と全く同じ感想を言う。
「まさかそこまで短絡じゃないでしょう」
 私が言うと、「どうだか」と、永沢は小さく向こうを指差した。
 指差した先には、受話器を持って電話をしている霧島の姿。そして相手が出るや否や、霧島は喜びの表情で、「適任者が見付かりました!」と、声を張り上げていた。
「彼氏はどうするのよ。ちゃんと説得出来るの?」
 苦笑しながら聞く永沢の声に、「やるしかないじゃない」と、私もまた苦笑を浮かべながらそう返事をした。

 それから僅か五日後。私は単身、信州へと向かう電車の中にいた。
 話は案外、簡単にまとまった。最初は芳樹が真っ向反対するものだとばかり思っていたが、話し始める前に差し出したアパートの合鍵が功を奏したか、芳樹はすんなりとそれを受け取り、「帰りを待ってる」と、承諾してくれた。
 説得は楽に終わりはしたが、私の中ではかなりの落胆でもあった。心の中では芳樹の猛反対を受けて、渋々と霧島に断りの返事をすると言うシナリオを思い描いていたのだが、どうやら彼には独りで羽を伸ばす事の方が大事らしい、結局はどうぞどうぞと追い出されるようにして、話はまとまってしまったのだ。
 私は中央本線の八王子駅で降りると、S駅行きの特急へと乗り換える。すると途端に空気が都会から地方へと変わってしまったかのような雰囲気を感じる。列車は乗る人もまばらで、私は遠慮無しにボストンバッグごと空いている席に着き、冷房の効いた車内の中で発車の時刻を待った。
 長い時間を待ち列車が動き出すと、私は不思議と気分が高揚していくのが判った。電車にはそれこそ毎日のように乗ってはいるが、こうして外の景色を眺めながらの列車の旅は、本当に久し振りの事だったからだ。
「まるで蝶にでもなった気分ね」
 私は周囲に人がいないのを良い事に、そんな言葉を呟いた。
 だが実際に、私はそんな気分でもあった。仕事とは言え今はのんびり気ままな旅行の雰囲気。この自由で解放的な状況は、まさに風に浮かれ飛ぶような感じだと思えたからだ。
 同時に、住み込みでの仕事じゃなかったら、近くに三ヶ月だけ家を借りて週末には芳樹と一緒に過ごすのも悪くはなかったなと、私は不埒でのん気な事を考える。
 そしてその束の間、私は普段の仕事では考えられないぐらいに穏やかな気分で、流れて行く車窓の景色を楽しみながら時間を過ごした。 
 相模湖を抜け、勝沼を過ぎ、酒折、甲府、そして長坂の田舎の景色を眺めつつ、やがて列車は山梨の県境を抜ける。外から差し込む夏の日差しは痛い程だったが、車内の冷房と単調な振動で、いつしか私は窓辺に肘を付いたまま居眠りをしてしまったようだった。
 気が付いた頃には、既に列車は次の乗り換えであるS駅の手前だった。私は慌てて身を起こし、自分の荷物を確認する。そうしながらも、その途中にある諏訪湖を見損ねたと、実に小さく些細な事に腹を立てながら席を立つ。
 ――ホームに降りて私は驚く。そこは既に夏だったからだ。
 蝉の声が遠くから聞こえた。そして頬撫でる風は、都会のものとは違う涼しげな夏の風であり、私は既に別世界へと来ているのだと改めて自覚をする。
 私は近くの自動販売機でボトルのスポーツ飲料を一本買い求め、そして乗り換えのホームを目指す。行き交う人も思ったよりまばらで、なんだか自分が観光でここに来ているような気分になった。
 目的地であるK町は後僅かだった。S駅からローカル線に乗り換えて、終点へと向かう三つ手前の駅。私は今までそんな地名も場所すらも知らないままで過ごして来たのだが、そんな予備知識の全くない事が不安でもあり、逆にまた大きな興味でもあった。
 ホームに年代物の電車が到着する。事前に渡されているのは、依頼者の住所と簡単な地図だけ。生来の方向音痴である私としてはかなり危ない行動だったけれど、これもまた面白い事じゃないと楽しむ余裕すら今の私にはあった。
 一体、どんな田舎の町なのだろう。私はそんな事を思いながら、走る電車がやがて鬱蒼とした森林の中へと向かっているのを見て、ますますその期待は膨らんだ。
 終点駅へと向かう電車は、暗い森の中を進んでいた。遠くを見れば見る程にその先は暗く、これはまるで天然の城壁みたいだとさえ、私は思った。
 また、線路は僅かに登り勾配になっている様子だった。なぜなら、窓辺に置かれたペットボトルの中の飲料水が、若干ながら傾いていたからだ。
 まさか山の中で降りる事にはならないわよねと一人で小さく呟けば、すぐにその視界は開けた。電車は次第にスピードを緩め、小川と田畑の続く集落に忽然と現れるホームの中へと滑り込み、やがて停車した。
 そこが、K町の駅だった。私は急いでドアへと向かい、手動で開くドアのボタンに手を掛けた。

 ――K町は、うるさいぐらいの蝉の声の中にあった。
 私は無人のホームの中に立ち、四方八方から聞こえて来る蝉の合唱に怖気付きながら、線路の上をまたぐ連絡通路の階段へと向かう。そしてその通路途中の窓から外を眺めれば、あまり広くもないK町の全貌がそこから見渡せた。
 瞬間、ドキリとした。私はその瞬間、何かに気が付いたのだ。
 だが今度は、その、「何か」が判らなくなる。確かに今この瞬間に、心の中の何かが疼くようなものを見たと言うのに、その記憶は瞬く間に蓋をされていた。
 嫌な予感がする。私はぼんやりとそんな事を感じながら階段を下りた。
 K町は、そう広くもない町――いやむしろ、村と言った方がしっくりくるかのような場所だった。それはどこか村外れの集落程度のようでもあって、上から見た限りでもその住居数は数えられる程度のものだっただろう。
 私は暑い日差しの中を、重い荷物を担ぎながら歩き始めた。空いている左手には誰が描いたものなのだろうか、依頼者の家へと続く殴り書きな地図の紙片があった。
 私はこんな地図で辿り着けるものかと不安にもなってはいたが、これだけの規模の町ならば、全てを当たって探してもそう苦労ではないかなと、どこか気楽な安堵もあった。そしてそんな事を考えながら、ふと顔を上げれば――。
 ドキン。再び、私の胸が激しく鳴った。
 先程、駅の連絡通路で感じた衝動と全く同じだった。私がそこに何かを感じ、ふいを突かれた驚きの衝動だった。
 だが今度は、自分自身でも判らない、「何か」に疑問を持って、苛立つ事は無かった。今度の驚きは、確実に私の思考の蓋を外した。間違いなく、私が見て驚いたものは、まさに私の目の前にあった。
 よろめきながら片手で左目を押さえる。真っ暗になったその視界の中、想い出の中の幻が浮かび上がる。やがて“現実”を見る右目と、“幻”を見る左目の景色がじわじわと融合し、重なり合う。
 目を開く。もはやそこは、有り得ない記憶の中にある幻の風景ではなくなっていた。
 遠くにゆらゆらと蜃気楼をまとった直線の上り坂。そしてその道に沿って並ぶ、古めかしい民家。それらの風景が、私の中の色褪せた光景と重なり合い、合致してしまったのだ。「私……この風景、見た事がある……」
 呟いて、そして後悔した。――何を馬鹿な事を口走っているのだと自らに呆れ、そして私は小さく首を振る。
 だがしかし、一度気付いてしまった事実は曲げられない。もはやどこを向いても、どこに視点を変えても、融合を遂げてしまった記憶と現実が違って見える場所は無い。
 私はどうして、この風景を知っているのだろう。私はいつどこで、この町を見ているのだろう。昔に旅行で訪れたと言う事は有り得ない。何しろ私は物心付いた辺りからはずっと施設で暮らして、施設で育った人間だ。旅行や観光なんて学校で行く以外にはした事すら無く、未だに行った場所の全ては覚えている。
 もちろん、成人してから友人達と一緒に行った旅行についても同様だ。行った場所を忘れてしまう程ぼんやりとした人間では無い事ぐらい自分自身で知っている。ましてやこんな過疎の集落、観光等で訪れる筈も無い。
 ――じゃあ、どこで? テレビの番組か何かで観て、覚えているだけ?
 もちろんそれも無いと知っていた。例えテレビを通じて観た記憶だったとしても、映ったであろう場所は僅かに目で追える程度の町並みでしかないだろう。だが私は、この町を細部に渡って知っている。
 当然そこには人の営みがあり、人が暮らしているからこその変化は見受けられるが、それ以外の部分ではまさに私の記憶のままだ。
 あの段差の付いた石垣も、向こうに見える家の瓦屋根も、通りから逸れた横道の向こうに見える小さな個人商店も、そしてこの通りの右手側に並ぶ、線路と道路を隔てている緑の網目のフェンスも、当時から比べればただ色褪せて古く見えるだけ。結局は記憶のまま、まるで何も変わっていない。
 そこまで思って、私は気付く。――当時? 当時に比べて? それは一体、いつの頃の当時なの?
 K町は、間違い無く私が初めて来た町だ。何かのついでで、立ち寄った記憶すら無い。でも私は覚えている。まるでこの町の歴史そのものを知っているかのように、非常な懐かしさと共に、私はこの町をしっかりと記憶している。
 瞬間、私は自分の脳を疑った。あってはいけない記憶をそこに貯め込んでいる、自分の脳を疑った。
 これは一体、いつの、何? 私は小さく呟きながら、空いた方の掌で額を押さえ、そして再びのろのろと歩き始めた。
 道は狭く、もしもここに車が乗り入れて来たならば、交差するのもやっとな程度の道幅だった。そしてその狭い道路は、私の目の前から緩やかに上りの坂道となっていた。
 そして私がその坂道を上り始めてすぐ、目に入った光景と共に、激しい頭痛にも似た衝撃が私の脳裏を刺激する。――それは、左手前方に見える寸胴の赤いポスト。私はそれを見た瞬間、見知った記憶と言う以上に激しく、その光景に気を惹かれた。
 心臓が早鳴っていた。こめかみが熱く、脈打っているような感覚があった。進む足は遅く、歩くのを拒否しているかのようだったが、心は既にそのポストから折れ曲がる横道へと飛んでいた。
 そして私はそのポストの前へと辿り着き、左手へと折れる小さな砂利道の始点へと立つ。そして私はようやく気付く。この妙な感覚は、“郷愁”なのだと。
 ――目の前に現れたその小道は、両側からせり立つ木々の枝で深く覆われ、細い砂利の道にまだらな陽の光を落としていた。
 私はぼんやりとその道の先を眺めていた。だが道は、一体どこまでそうやって続いているのか。上空を舞う風で煽られ、枝葉の影が揺れて見える以外、小道の果ては暗く翳ったままその正体を見せようとはしていなかった。
 だが、私は知っていた。この道を行けばどこへと辿り着くのかを。
 何度も何度も、訪れた町。数え切れない程に通った、この小道。――私はこの町を知っている。――私はこの道の行く先を知っている。
 私は、何度も何度もこの道を辿った。私は数え切れない程にこの道を歩き、あの家へと帰った。――そうだ、この町は、私の町だ。私が幼い頃から毎夜の如くにこの町を歩き、私は自らが作り上げた夢の中だけのこの町で、私の母が待つ私の家へと帰った。
 私はそんな事を考えながら重い足を一歩踏み出せば、夢の中の世界と全く同じ風景を歩き出す。
 訳が判らなかった。どうして現実の世界の中に、私が幾度となく見た夢の世界が存在するのか。年齢を重ねる毎にその夢を見る回数は減っては行ったが、それでもまだ時々は、思い出したかのようにしてその夢を再現する事はあった。
 そうしてようやく、その夢と言うものが既に奇怪なものだった事に改めて気付く。それこそ幼い頃から何百回となく見て来た夢だからこそ何とも思いはしなかったのだが、よくよく考えれば同じ夢を繰り返すと言う事自体から異常だったに違いない。
 そしてとうとう、私はその夢から抜け出てしまったかのようにして、現実の同じ風景を歩いていた。
 いや、もしかしたらこれもまた私の見る夢なのかも知れない。進む両足はひたすらに重く感じるのに、踏み締める砂利の地面はどことなく現実離れしたかのようなふわふわとした感覚で、吹き渡る木陰の風は涼しい筈なのに、妙な汗が背中をつたう。
 私はその時、この前に芳樹に聞いた外国の怪談話を思い出す。芳樹の説明は非常にチープで短いものだったが、後に自分で調べたその内容はこんなものだった。――毎夜の如くに、見知らぬ屋敷の中を歩くと言う夢を見た女性。その女性はある日、夢の中に出て来たものと全く同じ洋館を見付けてしまう。そして女性は不思議に思いながらその屋敷へと尋ねて行けば、そこには老人が一人住んでいるだけだった。
 老人に案内されて、女性はその屋敷の中を歩く。するとそこはまさしく、自分自身が毎夜夢に見た屋敷そのものだった。
 女性は尋ねる。ここに住む人はあなた一人ですかと、すると老人は、前は沢山住んでいたけど、みんな出て行ってしまって今は私一人だとそう答えた。
 どうして出て行ってしまわれたのです? 女性が聞くと老人は、この屋敷には幽霊が出るからなんだよと答えた。女性はその答えに驚きながら、恐る恐る聞いた。一体このお屋敷には、どんな幽霊が出るんですか?
 ――あなたの幽霊だよ。老人は言った。
 聞いて私は酷く怖い話だと思ったのだが、今の現実に比べれば全く大した事は無い。今の私は、まさにその怪談話を地で行っているのだから。
 長い長い木漏れ日の道を抜け、その暗さに目が慣れた頃、白く光って見えるかのような道の終わりが見え始めた。暗いトンネルの向こうは、まるで真っ白に飛んでしまった露光の写真のように明るく見えた。
 次第に、その光の溜まりの中にぼんやりと風景が映り出す。同時に、驚く程の大音量で、蝉の声が降って来た。
 それはまるで突然に鳴き始めたかのように思えた。――だがそれはきっと気のせいで、今までずっと聞こえていた音が、気がそぞろな私にだけ聞こえていなかったのだろうと思い直す。
 光の中に、初めて見る家があった。だが同時に、何百――いや、何千かも知れない程に夢の中で繰り返し見た、懐かしいその家がそこにあった。
 広い畑に囲まれた、一軒の古い日本家屋。平屋のその屋根には黒い瓦が敷き詰められ、その家の裏手には涼しげな音を奏でる小川があった。
 私は知り過ぎる程に知っていた。私は、私の夢の中、この木漏れ日の小道を辿って、この家へと帰って来るのだ。そしてただいまと言って家の玄関へと踏み入れれば、いつもそこには母の姿が出迎えてくれていた。
 ――いつの間にか、私の頬を涙がつたっていた。
 驚きは、涙の後からやって来た。どうやら私の中の感情は、数々の疑問を差し置いて、哀しさと嬉しさに満ち溢れているらしい。私はその良く見知った、初めて訪れたその家の前に立ち、溢れ出る懐かしさと感激に次から次へと熱い涙がこぼれ落ちた。
 気を付けなければ、夢と同じように、「ただいま」と言って飛び込んで行ってしまいそうだった。
 これは現実の世界であって、決して私の夢ではないと言い聞かせなければ、私は思わず叫び出しそうなぐらいの感情を、抑える事が出来なかった。
 ――ダメよ。引き返すのよ。私の用事があるのはこの家じゃない。さぁ、早く地図を開いて、目的である家を探さなきゃ。私は必死にそんな事を心で呟き、汗で湿ってくしゃくしゃになってしまった紙片を開く。そしてそこに描いてある地図に目を通せば――。
 カタンと小さな音を立て、開き戸をあけた家の玄関先に初老の女性が現れた。
 私は咄嗟に顔を上げ、女性を見た。同時に激しい衝撃が全身を貫いた。
 夢の中の女性そのものだった。夢の中よりもずっと老けては見えるものの、まさしくその夢の中で見た女性そのものだった。――同時にそれは、母でもあった。夢の中だけで逢える、私だけの母。
 母の温もりを知らないままで育った私にとって、唯一無二の私の母親……。
「いらっしゃい」
 女性は言った。だが同時に、重なり合った私の記憶は夢の中と同じまま、「おかえりなさい」とそう告げていた。
 そして私は手に持った紙片を掌の中で握り潰し、そっとポケットの中へとしまい込む。何故ならばそこに描かれてあった地図の目的地は、まさしくこの家そのものだったからだ。

「浅田康子です」
 女性はそう言って、丁寧に深々と頭を下げた。
 対して私も向き合ったまま頭を下げて、「小野美千代です。しばらくの間、ご厄介になります」と、挨拶をした。
 風が通る、涼しい居間での事だった。私が顔を上げれば、向かい合った康子の視線と目が合った。私を見て優しく微笑む彼女を見ながら、私はまたやけに感傷的な不思議な気持ちになった。
 ――私は、彼女の名前をも知っていた。彼女が私に向かって頭を下げ、そう名乗る直前に、ひらめくようにして思い出したのだ。
 浅田康子。それは幾度となく聞き慣れた名前だった。もちろんここに来る以前に、依頼者氏名の欄で彼女の名前には目を通していた。だがその時には何も思わなかった。私にとっては依頼者の名前と言うだけの意味しか無く、何も特別な響きも感じる事は無かった。
 しかしこうして相対して、目の前に座ったその女性を見ながら思い出したその名前は、書類を見て知っていると言う意味などではなかった。むしろそれより遥か以前に、特別な意味を持って知っていたのだと言う事を、私に気付かせる事となったのだ。
 それは実に複雑な想いだった。初めて逢った人に、初めて訪れたこの家。だが私は目の前のその人の事は良く知っているし、見渡せばどこを向いても懐かしさが滲み出して来るぐらいに記憶の濃い、見知った場所。
 簾を通して伝わって来る、家の裏手の小川のせせらぎや、水の匂いを含ませて流れて行く風。冷たい触り心地のいぐさの畳に、年季を感じさせる古びた大きな卓袱台。私の夢の中の記憶と取り違っている箇所などいくらも無い。
「東京住まいの方には、信じられないぐらいに何も無い田舎でしょう」
 康子は言った。恐らくは、私が懐かしさのあまりにあちこちに視線を飛ばしていたせいだろう。きっと彼女には、物珍しさに辺りを伺っているかのように映ってしまったに違いない。
「いいえ、とんでもありません。なんて言うか……上手く言えないんですが、素晴らしい場所だと思います。人の手が入らない美しさって言うんでしょうか。原風景の景色とでも言うんでしょうか。私はあんまりこう言う景色を見た事が無くて、何か凄く感動しながらここまで歩いて来たのですが……」
 私は取り繕うかのようにして言い訳をしたが、次第にしどろもどろになって行く言葉は、最後の辺りでまさに小声になって消え入ってしまっていた。
「お気を使わなくても結構ですよ」康子は笑った。
「ここは世間から取り残されてしまった場所ですから。田舎と言うよりも、過疎の町。自然が多いと言うよりも、無理して開墾した場所に集落を作ってしまった町ですからね」
 そう言って私の前に差し出されたグラスには、今目の前で冷えたガラスポットから注がれた麦茶があった。
 私は、「いただきます」と言ってそれを受け取り、口へと運ぶ。そしてもう既に私は気付いていた。その麦茶は普通のものとは異なり、特別な味がする事を。
 鼻腔に麦茶独特の香りが広がり、そしてその後から甘味がやって来る。なめらかで、野性味溢れる蜂蜜の味。それは母康子が作る、この家独特な夏の味だった。
「あら、驚かない。この家に来る方は皆、この麦茶を口にしてびっくりした顔をするのに」
 康子はいたずらそうな笑顔でそう言った。そうしてからようやく私は事実に気付き、慌てて驚いた振りをする。
「あぁ、いえ。驚きました。甘いんですね、この麦茶」
 下手な芝居だと、我ながら思った。元々嘘は吐けない性格でもあり、咄嗟に機転の利いた芝居は出来そうにもない。
「えぇ、その麦茶には蜂蜜を混ぜているんですよ」
 康子は言った。そして康子は、少しだけ哀しい顔をする。
 ――そう、私はそれを良く知っていた。夏が近付くと、私は自ら母にそれをねだった。いつもの甘い麦茶が飲みたいと。
「夏が近付くとね。いつもこれを作るんです。――不思議よね。もうこの麦茶をいただけるのは私しかいないのに」
 ――お父さんがね。好きだったのよ、この麦茶。母はいつもそう言った。そして私は少しだけ背の高い母を見上げながら、私も大好きとそう言った。
「娘が……大好きだったんですよ、この麦茶。もう飲ませてもあげられないけど」
 ――私が――私が大好きだったこの麦茶。もう……飲めはしないけど。
「でも、夏が来る度に作っちゃうのよ。作ったって、もう誰も喜ばないのに」
 ――息が止まった。いや、その瞬間、私の心音さえも止まったかのような衝撃が走った。
 夢じゃない。何もかもが夢じゃない。夢で見たものは全て真実。真実だからこそ全てリアルで、私はただその現実の世界を夢の中で反芻していただけ。
 そして今、目の前にあるのが私の真実。私が生まれる以前の、前世の記憶。私は確かに、夢ではなく現実に彼女の娘だったのだ。
 ぐらりと、世界が歪んだかのような眩暈が襲った。我ながらいかに馬鹿げた想像をしているかなど充分過ぎる程に判っていると言うのに、どうしてもそれが真実であるようにしか思えない。――いや、それこそが真実である事は、私の中では完全に確信出来る事だった。
 私は、転生する以前の記憶を持って生まれて来てしまっている。そして私は今、その記憶にある通りの場所へと行き着いた。
 なんと言う偶然なのだろう。なんと言う皮肉なのだろう。今の世で親を知らないままに生きてきた私が唯一親だと錯覚した夢の中の母親は、まだこの世に生きていて、生まれ変わった私に向かって微笑んでいる。もちろんそんな想いを彼女に向けて言える筈もなく、私はただ黙ったままで、遠くにエコーのようにして聞こえる康子の話を、ぼんやりと聞いているだけだった。
「――と言う訳なんですが、お願い出来ますでしょうか」
 康子の話が終わった。だがもちろん私はその話の内容を覚えている筈も無く、ただ呆然と頷くだけだった。
「とりあえず明日、病院に伺ってもらった際に、あなたに引き継ぎをすると仰ってましたから。それで構いませんよね?」
「え、えぇ、もちろん」
 私はまるでなんの事かも判らないまま、返事をした。
「それじゃあとにかく、お部屋に案内しますわ。そろそろ肌着を取り替えなきゃいけない時間だし」
 言って康子は立ち上がる。そして私は事の成り行きが判らないまま、黙って康子の後を追い掛けた。
 居間を出て、黒塗りの板の廊下を私は歩く。少し前を行く康子の足と、その後を辿る私の足が、古くなった板の床を踏み締めて、ギシギシと軋る音を響かせる。康子は足を悪くしているのだろうか、やけに痛そうな足取りで、右足を引き摺るような格好で歩いていた。
 窓の少ない、暗い廊下だった。やけに狭くて息苦しいような閉塞感を感じるが、私にとってはどこか安堵を覚えるような懐かしさも伴っていた。そうして再び玄関に出てその前を過ぎ、扉を開けて中を覗いた訳でもないのに何の用途の部屋なのかが判ってしまう、各々の扉の前を通り過ぎる。
 行き先は判っていた。生前、私が使っていた部屋だ。
 過去の記憶の中の視界と、今ある現実の視界とがだぶり始める。揺れ動く二つの視界がやがて一つに合わさって、それが溶け合わさるのと同時に、母康子が立ち止まり、廊下の突き当たりの部屋の戸を開く。
 ――仄かな優しい光と共に、涼しげな風が廊下へと流れ出して来た。
 再び私は息を詰まらせる。瞬時に遥か昔の記憶がよみがえる。確かにそこが、私自身の部屋だったと思い出せる、懐かしい家具や持ち物が目に飛び込んで来た。
 帰って来たんだ。私は叫び出したい程の想いで、その部屋の中へと踏み込んだ。目に入る子供用の勉強机や、その横にかけられた赤いランドセルまでもが全く記憶のままだった。
 壁も、そして床も、この家の中で唯一洋風に改造された部屋。私はその色褪せてしまった白い壁を眺めながら康子の方へと視線を移せば――。
「この子が、娘の優子です。――信じられないでしょうけど、これでももう、三十二歳なんですよ」
 言われて、私は視線を下へとおとす。そこには懐かしい子供用のベッドが置かれてあり、そしてそこには色の白い幼い少女がタオルケットを羽織り、横たわっていた。
 瞬間、私は全身の力が抜けてしまったかのようにして、その場で尻餅をついてしまった。膝がくだけて立っていられなかったのだ。
 喉の奥から何かがせり上がって来た。私はその悲鳴を飲み込もうとして、自らの掌を口の中へと押し込み、強く噛んだ。なにしろ、そうでもしなければ理性を保てそうにはなかったからだ。
 目の前で、私にその横顔を見せて眠っているのは、紛れも無く――“私”だった。
 私自身が、そこにいた。小野美千代と言うこの肉体が生を受けるその以前、私自身が入っていたであろう肉体が、“抜け殻”のようにして、そこにあった。

「申し訳ありませんでした。取り乱しちゃったりして……」
 廊下を挟んで向かい側。康子の寝室にて、私は畳にだらしなく座り込みながらそう言った。
 私はまだ息も荒く、動悸も激しいままだった。そして話す言葉もまた、自分でも驚く程に震えているのが良く判った。
「いいんですよ。あんな姿を見ちゃったら、誰だって驚きますものね」
 康子は、優しくそう言った。一瞬、ドキリとした。康子に私自身の思考が読まれてしまったのかと思ったからだ。
 だが、違った。どうやら康子は、見たままだけの少女の肉体の事を言ったのだろう。私は自分が何に驚いたのかは隠したままで、康子のその勘違いに便乗する事にした。
「えぇ――。そうですね。書類の上では三十二歳と書かれていたものですから、あんな幼い子供の姿を拝見してしまっては……」
「来る人来る人、皆さんが驚くんですよ。どう見てもまだ小学生程度だろうって」
「そ、そうですね。何でまた娘さんは、歳を取らないのでしょうか?」
「さぁ……」康子は片手を頬に当てながら、首を傾げた。
「そればかりはお医者さんも判らないと、そう仰ってました。でも確かに、優子の身体はあの当時から全く成長しなくなってしまったんです。――全く、あの頃のまま。あの子が事故にあって、意識を無くしてしまった時のまま」
 ドクン――。心臓が激しく高鳴った。
 事故? 事故だって? さすがにその辺りの記憶は、今の私には全く無い。
「当時あの子は、十歳でした」康子は続ける。
「この辺りは滅多に車も通らないものですから、あの子もついつい油断していたのでしょう。この家の先にある小道の先の道路で、走って来た車に撥ねられましてね。身体の方は軽い打撲程度で済んだのですが、結局あの子の意識だけは、戻る事はありませんでした……」
 十歳。交通事故。戻らない意識――。
 かなり強引だが、辻褄は合った。もしも――もしも前世の自分が十歳で魂を失ってしまったとしたら、それから二十二年もの月日が経っている事になる。
 私の年齢は、つい先月で二十二歳となり、眠るあの少女は十歳の肉体のままで、三十二歳の年齢となる。――差し引けば、まさしくその通りな年齢だ。
 そして私の記憶にある母康子の姿と、今の康子の姿との比較を考えれば、二十二年と言う月日も全くおかしくはない。だが、何と言う皮肉だろうか。何と言う奇跡のような偶然なのだろうか。私は生前の記憶を持ったまま生まれ変わり、そして前世の肉体はまだ、私と共に同じ時代を生きているのだ。
「やっぱり、気持ち悪いですよね。歳を取らない人間なんて」
 康子は無理に笑顔を作って、自嘲気味にそう言った。
「いいえ、そんな事はありませんよ」私は咄嗟に、まだ微かに震える声でそう返す。
「ただちょっと、想像していた事とは違う部分があったので驚いただけです。――大丈夫ですよ。もう平気です」
 言って私は立ち上がる。まだ少しだけ足に力が戻ってはいないが、充分に立って歩けるぐらいには回復をしていた。
「無理をしないで下さいな」
 康子は言うが、「えぇ、お気遣いなく」と返し、私は康子の寝室を出た。
 私は、私の部屋へと戻った。病弱なほどに真っ白な肌の少女が、微動だにせず横たわっているのが見えた。
 枕元には背の高いスタンドが置かれており、そこからぶらさがる点滴の管が少女の羽織るタオルケットに下へと続いている。もはやそれは完全に、自分の意思で栄養を取る事が出来ない事を証明していた。
 私はそっとタオルケットをめくり、そして少女の着ているパジャマのボタンを外し、下から手を入れるようにして肌着の背中側に触れてみる。すると思った通りに肌着は汗を吸って湿っぽくなっていた。
「身体を拭きたいのですが」
 私が康子にそう言うと、康子は、「洗面所の棚に、洗面器と一緒に乾いたタオルが……」と、呟く。私はそれを聞きながら、「判りました」と、既に行動を始めていた。
 洗面器は、すぐに判った。昔から洗濯用の洗剤や石鹸などの替えを置いていた棚に、介護用と書かれた洗面器が置かれているのを見付けたからだ。そしてその横には、康子のものか、前任の介護士の手によるものなのか、綺麗に洗われて畳まれているタオルが幾重にも重なって置かれてあった。
 私は洗面台の蛇口をひねり、温度を調整しながらぬるい湯を出す。そしてそれを洗面器に受け取って、寝室へと急いだ。
 部屋へと戻ると、康子は勉強机の椅子をひき、そこに腰を掛けていた。そして康子は、「足を悪くしちゃって以来、この子の介護が難しくなっちゃってねぇ」と、言い訳をするような事を言った。
「大変でしたね。お一人じゃあ、苦労なさったでしょう」
 言いながら私は少女――いや、自分自身の服を脱がせにかかる。次第にあらわになって行く真っ白な裸体を見下ろしながら、私はどこか自分自身の気が変になってしまったのではないかと言う不安と戦っていた。
 客観的に見て、昔の自分はそれなりに綺麗な子供だった。こうして目を瞑って寝ている姿を見る限りでは実に儚げで美しく感じられる。身体は思った通りに壊れそうなぐらいに痩せ細ってはいるが、やはりそれもまたこの子の病的な美しさを醸す要因の一つに見えた。
 自らの死体を洗う女――か。まるで出来損ないのホラーみたいじゃない。そんな馬鹿げた想像をしていると、かなりの間を置いて康子が私に言葉を返した。
「この子はまだ……生きてますから。だから平気ですよ。生きている子供の面倒見るのは、親の務めじゃないですか」
 私はその言葉に驚いた。またしても、瞬間的に自分の思考を読まれたかのような錯覚を覚えたからだ。
 だがやはり、康子の言葉は先程の私の言葉に反応しての事だった。私は自らの考えを恥じ、努めてこの子は私と違う、この家の子供なのだと考えるようにした。何故ならばそうでも考えなければ、自分自身の肉体だからと大雑把な世話をしたのでは、至る部分に不徹底が起きると思ったからだ。
 だが、どうしても私と康子の間には相容れない大きな相違がある事を、今の一件で私は気付いた。私にとってのその少女の肉体は、完全に、“死体”だった。なにしろその子の心は、既に私の中にあるのだ。それはすなわちその少女にとっては、“生き返れない”と言う絶対的な証拠でもある。
 しかし母康子にとってみれば、ただ意識が戻らないだけの、“生きている子供”なのだ。言葉にこそ出さないものの、きっと母はまだ、自分の娘の意識が戻る事を信じている筈。そうでなければ、ここまで綺麗にこの部屋を保存している理由が見付からないからだ。
 私は濡らしたタオルを寝ている少女の裸体に滑らせ、汗を拭き取る。そうしながら、ふと有り得ないだろう奇妙な事を、私は想像してしまった。
 もしも今、この少女が瞳を開けたらどうなるのだろう。私が見ているこの前で、少女の意識が戻ってしまったならばどうなるのだろう。
 この子の心は私の中で、この子の中には何も無い。なのに、もしもこの子が目を覚ましたなら、その子の心は一体誰のものなのだろう。そんな不気味な想像を働かせていたその瞬間、ガシッと音がするぐらいの激しい力で、私の腕が引っ張られた。
「何!?」
 思ってその腕を見てみれば、私の手首を掴む細い指が視界に入る。私はそれを見て慌てて振り払おうとするが、掴んだ腕は凄い力でびくともしない。
 そしてその腕がどこから来ているのかを辿って行けば、それはまさに――寝ている少女の腕だった。
「どうして!?」
 叫んで私は尚もそれを振り解こうとする。だが力は一向に緩まない。
 何で意識の無い身体が――と、少女の顔を見て私は再び腰がくだけた。ベッドの上で横たわり、大きく見開いた目で私を見ているのは、紛れも無く私自身の空の肉体。心が入っていない筈のその顔には、怒りとも哀しみともつかぬ複雑な表情が浮かび上がり、へなへなと崩れ落ちて行く私を、ベッドの上から視線で追っていた。
「――返して」
 声が聞こえた。――懐かしい、聞き覚えのある声だ。
 いつしか私の口からは、嗚咽のような声が漏れ出していた。もう既に、私にも理解が出来ていた。少女の意識が戻った事を、痺れる思考の中で私は気付いてしまっていた。
「返してよ!」
 もう一度、細いながらも大きな声が、私の頭上から飛んで来た。そしてそれは間違い無く、私へと向けられて放たれているものだと理解していた。
 あぁ、そうだ。私はこの子に返さなきゃ。この子から奪ってしまった心と魂を、意識の戻ったこの子に返してあげなくちゃ。
 ――でも、どうやって? どうすれば、私の心を返せるの?
 だがそんな疑問も、すぐに解決する事が出来た。ベッドの上から伸びる細い両腕を見ながら、私が“死ねば”心は元の場所に戻るのねと、ぼんやりとそんな事を思った。
 腕が垂れ下がって、床に倒れる私の首へと絡み付く。そうして私はゆっくりとその首を締め付けられながら、随分と遅れて登場した少女の顔を見上げつつ、「ごめんね」と小さく呟いた。
「――返して」
 少女はもう一度、私に向けてそう言った。
 何故か少女の顔は濡れていた。次から次へと溢れ出る、少女の涙で濡れていたのだ。

「美千代さん!」
 激しく揺さぶられ、私を呼ぶ声を聞きながら、私は夜の闇の中で目を覚ます。
 見れば、私を起こしてくれたのは康子だった。白い和風の寝巻きに身を包み、もう一度私の肩を強くさすりながら、「起きて」と、そう話し掛けた。
 ――そこは、私の部屋だった。いや、正確に言うならば、優子の部屋。私が康子に頼み込み、優子の隣で寝たいと我侭を言い、ベッドに並ぶようにして床に布団をひいて寝ていたのだった。
「大丈夫? かなりうなされていたみたいだけど」
 言われて私は、夢だったのだと気が付いた。
 またやっちゃったと思いながら、ふぅと大きく溜め息を吐けば、開けっ放しのままの部屋の戸の向こうから聞こえる、涼しげな風鈴の音がした。
 康子の寝室からは、直接裏手の小川の風が入った。壁の一辺がそのまま裏の縁側となり、そこの雨戸さえ開いていれば、山から下りる夜の冷気がそのままこの部屋まで通るようになっているのだ。
「大丈夫です。ごめんなさい」
 私はそう言って、ごく自然に康子の手を握り締めていた。少し体温が低いのか、ひんやりとした冷たさが母の掌から伝わって来た。
「環境が変わったせいかも知れませんね。――大丈夫だから、ゆっくりお休みなさい」
 言って康子は手を離し、そして向こうの寝室へと戻って行った。
 私はそれを見送りながら、もう一度大きな安堵の溜め息を吐く。そして隣のベッドを見れば、全く何の変化も無い寝ている少女の横顔が見えた。
 時間を見るついでに枕元の携帯電話を開いてみる。メールの着信一件。――芳樹からだ。
 内容は簡素に、“おつかれ!”とだけ。半日以上も前に送った到着メールの返事である。私は苦笑を洩らしながらそれを閉じた。
 向こうの部屋から流れて来る、蚊取り線香の香りが漂っていた。外では夏の虫がうるさいぐらいに大合唱をしているのが聞こえ、私はそっと瞼を閉じながら、無防備ながらもなんて懐かしい体験なんだと、想像の中で都会の夜と比べつつ、再びやって来る睡魔に身を任せていた。

 翌朝、私は一通りの仕事を終えてから、少女の担当医である病院の医師を尋ねに町へと向かった。
 K町と言う地名は元々、あの町のものではなかった。三十年程前に山を切り開いて通された線路によって、開発予定地としてK町の飛び地の名前が付き、人が移り住んだのだと康子は教えてくれた。
 そして本物のK町と、飛び地のK町の名前が混ざるのを防ぐ為、地元民は皆、元からのK町を、本K町と呼んでいた。そして実際に駅名もまた、そのように書かれているのだそうだ。
 聞けば確かに、あの規模で町と言うのはおかしかった。結局あの町は開発の断念によってあれ以上の広がりは望めないそうだが、少なくとも人が移り家が建ってしまった以上、そこに住む以外に方法は無かったのだそうだ。
 そう言えば確かに私も、毎日ランドセルを背負って電車に乗り、二駅先の本K町の小学校に通っていた事を思い出す。
 毎朝母と一緒に電車を待ち、そして本K町の駅前で別れ、私は一人で小学校へと歩いて向かった。一方母は、本K町の市役所の食堂で働いていた。仕事は夕方の五時が定時だったので、私はたまに学校帰りにその市役所の前の芝生で時間を潰し、母を待って一緒に買い物をして家に帰った記憶があった。
 思えば楽しい日々だった。暮らしはそう豊かでもなさそうだったが、私はそれでも満足の行く暮らしをしていたと思い出す。なのにあの日は、もう二度と帰っては来ない。
 そんな愁傷な事を思いながら歩いていると、やがて気付かぬ内に、本K町の病院へと辿り着いていた。病院自体はそう大きくもなかったが、それでも受付へと向かえば平日でも診療患者で溢れ返っているのが見て取れた。
 私が受付で浅田優子の名前の書かれた書類を出せば、いくらも待つ事無く名前が呼ばれ、担当医師の待つ部屋へと迎えられた。
 担当医の名前は、柴田と言った。薄く白い頭髪を無理に後ろへと撫で付けた、五十代半ばほどの男性だった。柴田は屈託の無い笑顔で、「ようこそいらっしゃいました」と言いながら、既に用意されていた薬の処方箋と、引継ぎの為の注意事項を書き記したファイルを、私の前に並べて見せた。
「助かりますよ。住み込みの看護士がいないと大抵はウチの病院の誰かが浅田家に向かわなくちゃいけなくなっちゃうんでね」
 言いながら柴田は、厄介な仕事を放棄出来る嬉しさを隠そうともせずに、私に対して事務的な申し送りを始めた。私はそれを耳から耳へと流すかのようにして聞きながら、こうも大雑把に扱われる過去の自分の存在に、少なからず苛立ちを覚えた。
「ところで、どうして浅田さんのお子さんをここに入院させないんです? 栄養剤の点滴を施すと言うのならば、自宅療養なんかしないで入院をさせた方がお互いにずっと楽じゃないですか」
 言うと柴田は、「出来ないから、自宅療養になってるんじゃないですか」と、書類に目を向けたまま、全く笑顔を崩さずにそう言った。
「それにあなただって、患者を診て判ったでしょう。あの子はもう完全に意識が戻る見込みは無いんです。後はただ、ここで死ぬか、自宅で死ぬかって問題だけなんですよ」
「でも、まだ生きているじゃないですか。もう二十二年もあのままらしいけど、まだ彼女は元気そうじゃないですか」
「そうですね。問題はただ、そこだけなんですけどね」柴田は言う。
「当時はもう二度と、意識が戻らないものだと思われていたんですよ。だからこそ浅田さんは自宅での介護を希望した。あなただって知っているでしょう。点滴による延命で患者は何年ぐらい生きられるかを。――だがそれは、予想に反した。まさか我々も、あの子がこんなに長生きをするなんてあの時は思ってもいなかったんですから」
「――待って下さい」私は堪らず聞いた。
「それじゃあ、浅田さんも覚悟の上だったんですか? あの子はもう意識が戻らずに亡くなる運命だったと……」
「あぁ、諦めていましたよ。だって、身体も脳もまるで正常なんですから。普通ならすぐに目を覚ましてもおかしくないケースなんですから。――だけどあの子は目覚めなかった。それだけ、心が身体に戻る事を拒否していたんじゃないですかね」
 そう言って柴田は、話をそこで打ち切ろうとするかのようにして、ファイルと処方箋を大判の封筒へと入れて、私に向け大きな振りで渡して寄越した。
「後は宜しくお願いしますよ。薬の補充ならば、是非院内で処方してもらって下さい。院内ならば、いつでもお待たせせずに渡せるように手配しておりますから」
 私はまだ聞きたい事があったのだが、柴田の方は完全に話を終えたかのように振る舞い、わざとらしく電話の受話器を上げたのを見ながら、私は黙って一礼すると部屋を後にした。
 続いては薬だ。私はあまり気が進まなかったのだが、柴田の言う通りに院内の調剤窓口を訪ねた。そこもまた患者で溢れ返ってはいたのだが、私が処方箋を差し出すや否や受け取った年配の受付の女性は、ジロリと私を一瞥した後、「お待ち下さい」と奥へと引っ込む。だがすぐに、女性は大きな紙袋を持って現れれた。
 妙だと思った。待たされずに済むのは良いとしても、どうして私――いや、浅田優子と言う存在がこんな特別な扱いをされるのだろうか。外来受付にも、この調剤受付にも、自分の番を待つ患者さん達は溢れんばかりに多くいる。私はそこに些細な引っ掛かりを感じ、差し出された大きな紙袋を受け取りながら、目の前の女性に向かってこう聞いた。
「相変わらず、浅田さんは特権階級なんですね」
 するとその年配の女性は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに含んだ笑みを顔に浮かべ、「あら、あなたは二度目なの?」と、そう聞いた。
「えぇ、もう随分前の事ですけどね」
 私は出たとこ任せな返答をすれば、女性は軽く掌を上下させながら、「あの家は、相変わらずよ」と、そう答えた。
「ウチの病院が何でも言う事聞いてくれるの判ってるから、未だにわがまま言いたい放題よ。ちょっと娘の熱が上がったり、点滴の針がずれてたりしただけで呼び出しだし……」
「何でも聞いてくれるって、何で?」
 私は女性の話を中断させるかのようにして、聞いた。
「あら、あなた知らないの?」女性は言う。
「院長から直々の通達が来てるのよ。極力、浅田さんからの依頼は最優先の事ってね。尤もそれは、浅田さんを特別扱いしろって言うだけじゃなく、なるべく波風を立たせたくないからってのと、あの子をこの病院に近付かせたく無いからって理由じゃない。ただでさえ歳を取らないバケモノみたいな娘なんだもん。そんなの入院させて話題にされたり、ましてやその娘が例の事件に関わっていたなんて知られたら……あっ、ハイすみません、今行きます!」
 女性の最後の言葉は、窓口の奥から聞こえて来る声に返事をしての事だった。女性は大きな声で返事をかえし、もはや私との会話の事など忘れてしまったかのようにして、振り返りもせずに飛んで行ってしまう。
 私は一瞬、またあの女性が出て来るのを待とうかとも思ったのだが、あまりしつこく詮索をして怪しまれるのもどうかと思い、結局は全てうやむやな話のまま病院を後にした。
 帰りの電車の中、担当医の柴田と、調剤窓口の女性の話を何度も反芻しながら、私の知らない過去の因縁について考えてみた。――双方共に承諾された死。そして延命。身体は健康なのに、戻らない意識。
 そして院長命令の特別視に、優子の存在を病院に近付けたくないと言う意思。更に、優子が関わっていた事件とは? 優子の存在が病院に関わると、どうして波風が立ってしまうのか? 考えれば疑問だらけな事ばかりだった。
 駅を降り、K町の通りを歩く。どこの民家からか、漏れ出て来たテレビの音が聞こえる。今日も暑いなと思いながらとぼとぼと歩けば、悲鳴のような甲高い声をあげながら遊んでいる子供達の姿が見えた。まだ五歳かその辺りだろう小さな女の子に、それよりももう少しだけ背の高い男の子。二人はどんな遊びをしているのだろうか、例の赤いポストに抱き付いたり、よじ登ったりを繰り返しながら、はしゃいでいる。
 ふと、二人はその視線に私を見付け、動きを止めた。もしかすれば、余所者の姿が珍しいのか。それとも地方の町にはありがちな排他的精神なのか。二人の子供は無表情な顔でずっと私を目で追っていた。
 ――嫌な感じ。思いながら私は二人の前で道を逸れ、家へと向かう木立の小道へと足を向ける。するとようやくそこで、男の子の方から声が掛かった。
「どこ行くの?」
 聞かれて私はその曖昧過ぎる問いに困り、とりあえずその小道の先を指差し、「向こうの家よ」と、笑顔で答えた。
「……幽霊が出るよ」言ったのは、今度は女の子の方だった。
「この道をずっと行くと、幽霊の出る家があるんだよ」
「違うよ、馬鹿。この道の途中で幽霊が出るんだよ。そしてその家に、幽霊が帰って行くんだよ」
 聞いて、思考が停止する。それは一体、どう言う意味? それじゃあまるで、私が毎夜のように見ていた夢そのものじゃない。
「あのね。この道の真ん中あたりでね、髪の長い女が出て来て、向こうの家の方にすうっと飛んで行くの。みんな見てるんだよ」
 女の子に言われてようやく気付く。
 違う。私が見る夢とは若干違う。今この子は、“髪の長い女”と、そう言った。
 この子達が直接その幽霊を見ているのかどうかまでは知らないが、どうやらその視点は、幽霊の容姿が見える第三者視点であり、私が見るのはその幽霊そのものな本人視点なのだから。
 やはり、私がこの家の事を夢に見る度、同じようにして私の幽霊がここにも出現していたのだろうか。そうして私があの家へと向かう度、その後姿を町の人に見られていたのだろうか。
 ぼんやりと考えている私の前で、二人の子供は尚も言い争いをしている。内容は些細な話の差異でしかないが、二人の子供にとってはどっちの話が正しいかがその論点になっているようだった。
 突然、背後から声が掛かった。それは二人の子供の母親だろうか。やけに神経質そうな痩せ型の中年女性が叱るような口調で子供の名を呼び、つまらない事言ってるんじゃないよとたしなめる。
「ねぇ、お母さん。こいつ嘘吐くんだぜ。幽霊が出るのはこの道の先だよね」
「違うもん。お父さんは向こうの家だって言ってたもん」
 二人の問いに母親は大きな声で怒りながら、腕を引いて連れて行く。だが一度湧いた疑問は子供達の口を止める事も出来ず、母親に引っ張られながらもまだ同じ話題を口にしていた。
 私はそれを聞きながら、複雑な想いに囚われる。私はまだ生きている。幽霊なんかじゃないと、苛立ちのこもった想いでその三人を見送った。
 ――本当に嫌な感じ。こんな田舎の地でも、野次馬な噂って広がるのね。私はそんな事を思いながら歩き始める。向こうではまだ少年と少女が、立ち去ろうとしている私を見ていた。
 私は子供達の視線を無視し、木立の小道へと足を踏み入れる。すると突然、嘘のように周囲が暗く翳る。向こうからはやけに冷たく感じる風が吹き込んで来て、熱く火照った肌に心地良い。
 風の中に、水の匂いを感じ取る。そして私はすぐに気付く。これは山から降りて来て、裏手の小川の水を含んだ風の匂いだと。
 私はその匂いを嗅ぎながら、その瑞々しい風が嫌な気分までもさらってくれそうな気がして、胸いっぱいに吸い込んだ。――途端、私の周囲の頭上から、一斉に蝉の声が止んで遠ざかってしまったかのような錯覚を感じた。
 なによ、ただ偶然に声が止んだだけの事じゃない。思いながらも、そう言えば先日ここを通った際にも、同じような感覚があった事を思い出す。私はやけに遠くに聞こえる蝉の音を聞きながら、何気なく前方に視線を向けた。
 ――人がいた。十数メートル前方、道の左脇の大きな木に寄り添うようにして、後ろ向きな白い服の女性が立っていた。
 ドキンと大きく心臓が高鳴り、足を止めて瞬きをした瞬間、もうそこには誰もいなかった。木漏れ日が揺れ、暗いその地表を微かに照らすだけ。今しがた見た、長い黒髪と白いサマードレス姿の女性の姿はどこにも無かった。
 ひゅうと、喉が鳴った。ふつふつと、恐怖が込み上げて来た。まさにさっきの子供達が言った通りのものがいた。後姿で顔が見えなかった部分にも激しい恐怖を感じられたが、私が一番に怖いと感じた部分は、もっと別の所にある。
 長い黒髪。白い服。そしてまだ成長過程のあるからだろうか、線の細い華奢な身体に、低い背丈。僅か一瞬だったが、私はそれをはっきりと見た。
 ――あれは、私? 前世の私? ――もしもあれが私なら――
 今の私は、一体誰!?
 思った瞬間、背後で何かの小さな音がした。私が反射的に振り向けば、そこには今、弾み終わって動きを止めようとしている、小さな赤い毬があった。
 私は両手で口を押さえた。だが腹の底から湧き上がって来る震えと恐怖とその悲鳴は、難なく私の掌を貫通した。――だが、悲鳴はまるで聞こえなかった。私は確かにあらん限りの声を振り絞って叫んでいるのに、声はどうしても私の耳に聞こえて来ない。
 毬は依然、そこにある。少女の幽霊とは違い、瞬き一つで消えたりはせず、黙って私の目の前にある。
 果たしてその毬のどこに、私を刺激する恐怖があるのか。私はその存在から目を離す事が出来ないまま、いつまでもいつまでも声にならない悲鳴を上げながら、転がる赤い毬を見つめていた。

 ――あぁぁぁぁぁ――
 声が、途切れた。ようやく閉じられようとしている唇は、まだ恐怖の余韻で震えているのか、噛み合わない奥歯と共に軽い痙攣を起こして鳴っている。
 辺りはまだ、真っ暗なままだった。天井に一つ、オレンジ色の小さな灯りがあるだけの子供部屋。周囲には、蚊取り線香独特の香りが充満している。
「美千代さん」
 部屋の向こうから、声が聞こえた。見れば部屋の入り口で、柱に掴まりながら立っている寝巻き姿の康子がいた。
「ごめんなさい。うるさくしちゃって」
 私は身を起こしながらそう言った。すると康子は、「大丈夫よ」と、笑いを含んだ声でそう返す。
「やっぱりこんな田舎の生活じゃ、ストレスが溜まっちゃうのかしらね。美千代さん、身体壊さなきゃいいけど……」
 言いながら康子は、私の布団の横へと座る。私は申し訳なさで、「すみません」とだけ、呟いた。
 ――また、夢だった。昨日に引き続き、私の恐怖を刺激するそんな夢だった。
 だがどちらも昔から見る私の夢に繋がっているようで、だがしかしどちらも私にとっては初めて見る内容の夢でもあり、私は無言のままに心で悩む。
「まぁ、こんなに寝汗かいちゃって」
 言いながら康子は、寝巻きの袖で私の額を軽く押さえる。私はどこか恐縮しながらも、その母の行動の懐かしさに安心を感じ、黙って目を瞑りながら身を任せていた。
「誰かに……起こしてもらえるって、嬉しい事なんですね」
 私はぼんやりとしながら、そんな事を言っていた。
「あら、どう言う意味?」
 康子は聞く。そして私は、「そのままの意味ですよ」と、返した。
「私は物心付いた頃から、ずっと一人だったので……。悪夢でうなされても、誰も起こしてはくれなかったんです」
「まぁ――。じゃあ、ご両親は?」
「いません」私は言った。
「私はずっと施設で暮らし、施設で育ちました。生まれて間もなく親から捨てられてしまったようで、母の顔すら知らずに今まで生きて来ましたから」
「そうだったの……」
 薄暗がりの中、康子は悲痛な顔で私を見ていた。
 私はそんな母の顔を見つめ、思わず衝動的に、「お母さん」と呼んで抱き付きそうになるのを必死で我慢する。
「優子も……良くうなされる子だったわ」康子は言った。
「感受性が強かったのかしら。奇妙な夢ばかり見ては、夜中にうんうんうなされていたわ。――また今日も、同じ夢を見た。優子が幽霊になって、この家に帰って来るの――って」
「……」
「良く同じ夢ばかり見る子だった。男の人に包丁突き立てられる夢を繰り返し見たりね。その度に私はこうやって、起こしに来たわ」
「――すみません」
「いいのよ。なんだか昔を思い出せて嬉しかったわ」
 言って康子は私の頭を軽く撫で、そして、「おやすみなさい」と言って、部屋を出て行ってしまった。
 残された私は隣に眠る少女の様子を伺いながら、今度は枕元に置いた携帯電話を広げて時間を読む。――時刻は、深夜の一時を少し回った辺り。メールの受信は何も無い。随分と眠った気がしたが、まだこんな時間なんだと不思議な気持ちになる。
 向こうにいれば、こんな時間でも平気で起きていたなと思いながら、ふと芳樹の事を思い出し、声が聞きたくなる。
 明日、電話してみよう。きっと夕方には、芳樹のバイトも終わってる筈だと思いながら。

 それから数日は、何事も無く過ぎた。
 芳樹は電話にこそ出てはくれなかったが、翌日にはちゃんと簡素なメールが届いたので私はそれを見て安心した。
 そして、一番の心配事である夜中の悪夢は、それ以降は全く見ていない。おかげで母康子からも、ようやく空気に馴染んだのねと言われるようになった。
 だがある日の昼の事、突然にそれは起こった。それは康子が茹でた地元産の蕎麦を、二人で頂いている所だった。突然に鳴り出した電話に私が出れば、意外にもそれは前世の時代に慣れ親しんだ間柄の、遠方の叔父の声だった。
 叔父は、その兄である私の父に良く似ていた。私は亡くなった父の事はあまり良く覚えてはいないが、生前から父と叔父がやけに良く似ていて、声までもがそっくりだった事に、子供心ながら覚えていたからだ。
「あなたは、どなた?」
 叔父は聞いた。私は、「優子です」と言う言葉をぐっと飲み込んだ後、「介護士の者です」と、答えた。
 その後私は母康子と電話を代わり、一人で昼食の続きを取った。だが意外にも康子の表情は暗く翳り、何度も何度も頭を下げては、困り果てた返事を繰り返していた。
 康子が小声で話すのは、もしかして私に聞かせたくない内容だったからだろうか。私は早々に昼食を切り上げて、自室の方へと引き上げた。
 私はその母の対応にかなりの疑問を抱いたが、他人である身分では突っ込んで聞く訳にも行かず、とりあえずその日の午後に予定していた薬の受け取りに、本K町へと行く事を優先させた。
 病院へと着いてみれば、そこは相変わらずの混み様だった。私はその人込みを掻き分けるようにして調剤受付へと辿り着けば、また先日と同じように、既に用意されていた薬の袋を手渡される。
 受付は、先日の人とは違う若い女性だった。もしもまた同じ人ならば話を聞いてみようとも思っていたのだが、どうやらそれは無理らしい。私は諦めて薬を受け取り、後ろを向いた時だった。
「じゃあ、お先に」
 そう言って受付の女性に会釈をしながら通り過ぎたのは、まさしくこの前、受付に立っていた中年女性の姿だった。
 それはもう帰るだけの格好なのだろう、女性は私服姿だった。私は考えるよりも先に行動へと出て、女性の後を追い掛けた。そうして彼女に追い付いたのは、一般の出入り口とは違う関係者専用の裏口ドアへと向かっているその手前だった。
「すみません、ちょっと宜しいですか」
 私はその女性の横へと並ぶようにして、声を掛けた。
「あら……誰だっけ。顔は覚えてはいるんだけど」
 女性は言う。
「小野と言います。浅田さん――浅田優子の介護の者です」
 言うと彼女も思い出したらしく、「あぁ」と、表情を明るくする。
「今日は薬の受け取りの日? ごめんなさいねぇ、先日は途中で話を切っちゃって」
「いえ、いいんです。お仕事中に話し掛けた私が悪いんですから。――でも、どうしてもあの時の話の内容が気になっちゃって。お姿を見掛けたものですから、つい追って来ちゃったんですけど」
「物好きねぇ。どうせ聞いたって、仕事するのが嫌になるだけな話なのに」言いながら女性は苦笑した。
「それで、何を聞きたいの? 前も浅田さんの所で介護していたなら、それなりに事情は詳しいでしょうに」
「あ、いえ。前回はいくらも居なかったものですから」
 私は咄嗟に嘘を吐いた。
「あら、そうなの。――まぁ、あまり長くもいたくはないわよね。三十過ぎて尚、まだ子供のままの患者の介護なんて、薄気味悪いしねぇ」
 言って女性は笑うのだが、聞きながらその心中では、腹立たしい事この上無かった。
「あの……この前の話の続きなんですが」私は、なるべく感情を顔に出さないようにして聞いた。
「この前、そうおっしゃってましたよね。とある事件にその子が関わっていて、そのせいで病院側は極力話題に上らせたくないとか、近付けさせたくないとか」
「あぁ、その話ね。そうよ、その通り。大昔の町長の時代からの圧力で、未だに院長がそれに従っているんだもん。そうなれば病院側だって極力係わり合いにはなりたくない筈でしょう」
「何で町長が直々に? 事件の内容って、どんなのなんですか?」
 聞くと突然、女性の顔に酷く楽しそうな笑みが浮かんだ。
 それは私がその事件の事を知らないと言う部分に掛かっているのか、それともそんな下世話な話題を語る喜びがそうさせるのか、女性は、「あら、知らなかったの?」と小声で言いながら、そっと私に近付いた。
「あの子、レイプされたのよ」女性は言った。同時に私の心臓が、跳ね上がったかのような音を鳴らした。
「しかもその犯人ってのが、あの近所に住んでいた町長の息子。――当時大学生だったその息子は、あの町で一人暮らししていてね。あの子とは通学の時、良く一緒だったらしいのよ」
 ――知っている。私はその人を知っている。
 朝、駅のホームで必ず顔を見掛けるあの人。茶色い長い髪と、丸眼鏡の、背の高い若い男性。
「でも、あの子の方はそんな人だとは知らずにしょっちゅう声を掛けてたみたい。――まぁ、当然よね。同じ駅で乗り降りして、帰る方向も一緒な比較的歳も近い人だし、息子も息子で普段は大人しい面倒見の良い青年だったらしいし」
 ――そう。私は良く彼に話し掛けていた。
 学校帰り、母と一緒で無い時には必ずと言っていい程に、私は彼と同じ電車を待っていた。実際私は彼との会話は面白かったし、何よりも帰る道すがら、母と同じ程度に頼もしい存在でもあった人だった。
「一見、本当に性格は良さそうに見える人だったみたいよ。実際にあの子も相当なついていたらしいしね。尤も、どんな会話していたのかまでは知らないけど」
 ――そうだった。いや実際に彼は、温厚で優しい人だった。
 何よりも、彼は私を一人前の存在として、子供扱いせずに話し掛けてくれる事が嬉しかった。
「でもちょっと、ここがイカれていたみたいね」女性は、自分の頭を人差し指で突付きながらそう言った。
「おかげで父親からは疎まれて、あの町で一人暮らしを強要されてたみたいよ」
 ――確かに彼も、それは言っていた。
 両親や家族と離れて、僕は一人暮らしなんだって。僕はお父さんに嫌われてるから、家には帰れないんだって、良く私に話して聞かせてくれていた。
「何でもあの息子がおかしくなっちゃったのって、結局は町長のせいだって言うじゃないの。自分とは違う大人しい性格なのが気に入らなくて、いつも劣等感を煽るような事ばかり言って、最後にはお前の代わりだとか言って養子なんかもらって来ちゃうし……」
 次第に、女性の声が遠ざかり始めた。代わりに、やけに耳に大きく聞こえる私の心音が、取って代わった。
 ドン、ドン、ドンと、まるで太鼓のような心音が私の体内で鳴り響き、そしてそれは直接私の頭痛となってこめかみの辺りを刺激する。女性はまだ楽しそうに話を続けているのだが、もはや私の耳は細切れになって届く単語程度の言葉しか拾えない。
 家の前の並木道がどうしたとか、仕事帰りの母親がそれを発見しただとか色々と話をしてくれてはいるのだが、もはや私にはどうでもいい。
 私は、思い出してしまったのだ。――私は――私が殺されたその瞬間を。

 日差しの暑い午後。確かこの辺りだと、私は見当を付けながら歩いた。
 記憶を頼りに坂の道の通りを曲がり、不安に感じるぐらいに背の高い草が両側から押し寄せている細い道を進んだ。
 やがてそれらしき一軒の家へと辿り着く。中には入った事はなかったが、これだけの狭い町なのだ。嫌でも全ての家々の場所は把握出来てしまう。
 ――だがその家だけは、前世の記憶とはまるで違う様相を見せていた。元々簡素に作られた感のある小さな平屋だったのだが、もはやそこは家と言うよりは、ただ奇跡的にその家の原型のような支柱と屋根が乗っている程度のものだった。
 それは明らかに、人の手による破壊の痕が見られた。へし折れて破られた薄い木造の壁の間から、荒らされて壊され尽くした部屋の内部が見えた。
 最初の破壊は確かに人為的なものだったのだろうが、その後にここまでこの建造物を荒らしたのは、恐らくは風や雨による天災の方だろう。そこは既に廃屋と言うより、かつては家だったものの白骨死体のようでもあった。
 そこは昔、彼が独りで住んでいた家だった。――そう、私を殺したあの人の家。私はその瞬間の記憶が戻ると同時に、理由も無くこんな場所まで出向いて来てしまったのだ。
 彼は、どうなったのだろう。私の生きたままの死体が見付かり、そして彼が犯人だとされて知れ渡ってはいるのだ。もしも逃亡して行方をくらませていないなら、今頃はきっと刑期を終えて一般の生活に戻っていてもおかしくはない筈だ。
 私にとってはまるでついさっきのような記憶でも、時間は確実に過ぎ去っているのだ。それは平等に、彼にも、母にも、町の人にも。
 その時間に縛られていないのは、私の前世の肉体と、今の私の心と記憶だけ。全ての人には古臭い色褪せた記憶であっても、私にとってはあまりにも生々しい今現在の記憶なのだ。
「何してるの?」
 それは突然の声だった。私は背後から掛けられたその声に、小さな悲鳴すらあげて振り向いた。
 だがそこにいたのは、彼でもなければ母でもない。数日前にポストの前で出会った、小さな二人の子供だった。
「あぁ、驚いた。――こんにちは。また会ったわね」
 私が言うと、「この家に用事なの?」と、女の子の方が聞いた。
 私は何も返事が出来なかった。用事があるのだと言えばあるのかも知れないし、無いと言うなら無いようなものだ。だがこんな子供達に大真面目に返答する必要もないだろうと考えていれば、またしても女の子の方が、私に言った。
「幽霊が出るよ」
 そう言って女の子は、私に向かって指を差す。そして私はその指先と、女の子の真剣な表情に気圧されて息を呑む。
「この家、幽霊が出るよ」
 再び語ったその言葉で、ようやく私はその少女の指先が私に向かっての事ではないと気が付いた。依然その指先は私の視線にぶつかるようにして指し上げられてはいたが、その子の言う幽霊が私ではないと言う事に、少なからず安堵を感じる。
「違うってば。幽霊が出るのはこの家じゃなくて、坂の向こうの店だろう」そこに割り込んだのは、やはり男の子の方だった。
「死んだのはここじゃなくて、向こうの店だからな。全くお前は、間違った事ばっか覚えて人に話すんだもんなぁ」
 聞いて私はギクリとする。――死んだのは、ここじゃない? それは一体誰の事を言ってるのだろう。そしてこの家が、もう何十年もこのまま放置されているその理由は?
「ねぇ……その幽霊って、この前話してくれたのと同じ幽霊?」
 聞けば少年は、「違うよ」と答える。
「それはあのポストの先の道に出る白い女の子の幽霊だろ。俺が今言ってるのは、前にこの家に住んでた男の幽霊。――あの白い女の子を殺しちゃったから、その男の人も幽霊になっちゃったんだぜ」
 次第に、その内容が見えて来た。それはまだ私の中の想像でしかなかったが、それは大きく外れてはいないだろうと言う予感もあった。
「ねぇ、その男の人の幽霊って、どこに出るの?」
 聞けば、男の子と女の子は、同時に同じ方向を指差した。
 指されたその方向には、駅からずっと上へと続く上り坂の中腹があり、その先には大きくくねったカーブがあって、更にその先には壊れて崩れた大きなネオン看板が見えた。
「あそこの看板の下に、小さなスーパーマーケットがあるよ。男の幽霊は、いつもあそこに出るんだ」
 聞いて私は、「判ったわ、ありがとう」と二人に返し、そしてその方向へと向かって歩き出した。
 近くには民家も何も無い、雑草と雑木林だけの家。ともすれば今歩いているこの道すらも、生い茂る夏草で埋もれてしまいそうな細い道。こんな場所で良く一人暮らしなんかしていたなと半ば感心をしながら、私は彼の家に背を向け立ち去った。
 やがて小道は、再び坂の道へ出る。そこで私がもう一度振り返って見てみれば、果たしてあの二人の子供はどこへと消えてしまったのか。先にはどこかの山へと続くのだろう、静かで暗い山道の登り口だけが見えた。

 子供達の言うスーパーマーケットは、確かにそこにあった。
 そしてそれは私の記憶にもあった。母から危険だと注意されていた為に何度かしか来た事はなかったが、結局はただの一度も開業される事も無く、広く舗装されたその敷地の真ん中に、寂しげに佇む鉄骨だけの建造物はそこに存在していた。
 私は山へと続くその道に立ちすくみながら、遠巻きにその骨組みばかりの姿を眺めていた。赤黒く錆を浮かせたその建物の中、きっと彼は自らの罪に有罪を言い渡し、首でも吊ったのだろう。
 ――私は確かに記憶していた。彼の目が大きく開かれ、その大きな両腕で私の首を締め付けて、のしかかるようにして押し倒して来た事を。
 あれはレイプなんかじゃなかった。ただ純粋な私への怒りと、純粋な殺意。彼は私の首を絞め、そして今度は自らの命を絶った。そしてただそれだけの話を、町の人達は皆、下世話な内容へと置き換えた。
 良くある話じゃないと思いながら、彼が私に向かって何かを叫んでいたシーンを思い浮かべる。
 彼は私に何かを怒っていた。何かを叫び、私の吐き出した言葉の何かに強烈な怒りを表していた。そして私は、締められる首とその息苦しさだけに気を取られ、彼が何を叫んでいたのかがまるで思い出せなかった。
 振り向けば、向こうには更地のまま放置された住宅予定地が、荒涼とした姿で横たわっている。そしてそのすぐ下では、結局何の稼動も無いまま捨てられてしまった大きな工場があり、更にその下にはいくつもないK町の民家がポツポツと見えた。
 時間を止めた町。時間の進まない町。私は酷くゆっくりとした足取りで、今来たばかりの坂の道を下り始める。遠くからこちらへと近付いて来る電車の音を聞きながら、私はなんて場所に来てしまったのだろうと後悔せずにはいられなかった。
 気が付けば、そこは既に家へと向かう並木の小道の中だった。蝉の声はとうとう、ヒグラシに変わりつつあった。私はサンダルで砂利を踏み締めながらとぼとぼと歩いて行けば、やがて鮮明な記憶と共に例の地点へと辿り着く。
 あの日私は、彼と一緒に駅から帰って来た。そしてどちらが誘ってそんな事になったのだろうか。私はランドセルを部屋へと置いて、再び彼に逢う為外へと出た。
 白いサマードレスに、ビーチサンダル。結わえていた髪を解放し、部屋の隅に転がっていた、赤いゴム毬を持って家を飛び出した。
 彼は既に、私の家の近くの並木道へと来ていた。いつも通りに少しだけ困ったかのような笑顔で片手を挙げて、私に挨拶をしてくれた。
 ――思えば彼は、いつも私と一緒にいてくれた。それは学校の行き帰りや私が彼の家を訪ねた時だけに限られてはいたけれど、十以上も歳の離れた私に対し、彼は面倒臭がる様子も見せず、常に一緒にいてくれた。
 そして私は、そんな想いを彼に向かって言ったような気がした。いつも私と一緒にいてくれる感謝の気持ちを、言葉にして彼に伝えたような気がした。
 そして場面は飛んで、彼は私にのしかかり、必死の形相で怒りの言葉を口にしていた。
 ――思い出せない。何も思い出せない。私は一体、何を言って彼を怒らせたのか。
 見れば私の目の前に、転がる小さな赤い毬。そしてその左側の大きな木の根元辺りから突き出ている白く細い足。
 あぁ、ここだ。やはり私が殺されたのは、まさにこの場所だったんだ。思いながら近付けば、赤い毬も白い足も、まるで陽炎が消えるかの如くに私の目の前で姿を消した。
 私はそこで気が付いた。どうして前世の私が、心だけを無くしてしまったのかを。
 大人になった今の私ならば、その全てを受け止めて生きて行けるだけの心の余裕は持っている。だが過去の私には、その現実全てを受け入れる事も、そしてそれを忘れる事も出来なかったに違いない。
 私は――私自ら、肉体へと戻る事を拒否していたんだ。
 思いながら、鈍くなった足取りで砂利を踏む。遠くにぼんやりと見える母屋を眺めながら歩き出せば、遠くから運ばれて来た、秋を思わせる涼しげな風が私の横を通り抜けた。

 その事件は、にわかに起こった。
 夕方近くの事だった。私が居間の前を通り掛かれば、中から尋常ではない程に声を荒げる母が見えた。
 母は、電話中だった。片手で受話器を握り締め、そして電話の向こうの相手に叫ぶような声で何かを訴え続けていた。
 相手が誰なのかは判らない。だが、あの母が敬語でもない言葉で語り掛けているのを聞けば、ある程度近しい間柄の人間である事は確かだった。
 耳を澄ませば、「どうしてこの家じゃなきゃいけないの」とか、「私がここから立ち退けないのは、あなただって良く判っている事でしょう」と、そんな言葉が聞こえて来る。
 そうして私は思い当たった。電話向こうの相手は、先日も電話を寄越していた叔父ではないかと。それならば、母が近しい話し方で対応しているのは理解出来るが、今度はその内容が判らない。叔父は私の父同様、決して人と諍いを起こすようなタイプの人ではなく、口論すらも想像が出来ない程の人だった。
 やがて母は、「助けてもらっているのに、我侭な事言ってごめんなさい」と返し、電話を切った。私はそれを居間の出入り口から見ていたのだが、受話器を置いて溜め息を吐きながら背を屈める母のその姿は、やけに小さく私の目に写った。
「あの……」
 遠慮がちに声を掛ける私に気付き、母は振り返る。目は赤く充血し、かなり感情が昂っていただろう事が判った。
「あぁ、ごめんなさいね。大きな声、聞こえちゃったかしら」
「いえ、こちらこそ立ち聞きするような真似しちゃって……」
 言うと母は、「良かったら、座って」と、私を呼ぶ。そして私は言われた通りに母の真向かいへと座れば、母はぼつりと話し出した。
「この家ねぇ、もうすぐ取られちゃいそうなの」母は言った。
「今、義理の弟が一生懸命手を尽くしてくれてはいるんだけど、もうどうしようもないの。もう随分前からこの一帯に高速道路を渡す計画があってね。その工事を引き受けている業者が、この町では相当に顔の利く人なのね。――もう、私個人なんかじゃあどうしようもないみたい。頑張って、優子が目覚めるまでここに住むつもりだったのにねぇ」
 言われて私は、ズキズキとした痛みを胸に感じた。
 優子も私も同じ人間なのに。何故か今の私は、優子と言う少女の命を奪って生きているような、そんな罪悪感さえ持ち始めていた。
「なんとかならないんですか」
 私は聞いた。すると母はゆっくりと首を振りながら、「きっと無理ね」と、そう言った。
「権利書が見当たらないの。それさえあればもっと上手く対処出来る筈なんだけどね。夫が大事に保管していたのは知っていたんだけど、その場所を教えずに亡くなっちゃったものだから、もはやどこにあるのかさえ判らなくて」
 ――ふと、記憶が甦る。生前、父が書斎で私に内緒の話をしてくれた事を。
 私が小さい頃にプレゼントした絵の具で着色しただけの貝殻を持ち、お父さんの宝箱にしまっておこうと言いながら、笑顔を見せた父の姿を。
 父は、「内緒だよ」と言いながら畳の一部を外してずらし、四角に切り取られた床板をも外して、取り出した大きなつづらの中にそれをしまった。
 あの中だと、私は直感した。父はあのつづらを、宝箱とそう呼んだ。ならばきっとこの家の権利書だって、その中にしまっている可能性が大きいだろうと私は考えたのだ。

 夜、母が風呂を使っている間に、私は行動に出た。
 今では何にも使われていないと言うのに、昔のままに綺麗になっている父の書斎へと入り、そっと音を立てずに清掃の行き届いている畳の縁に手を掛けた。
 畳はなかなか外れては来なかったが、それでも苦労してようやくそれを引き上げれば、今度はそこに見える床板を外しに掛かる。そうしてその下に、記憶のままの黒塗りのつづらがしまわれているのを私は見た。
 私はそっとそのつづらを取り出して蓋を開ければ、どこか黴臭いような匂いと共に、茶色く変わった大判の封筒がそこから出て来た。
 権利書らしきものは、すぐに見付かった。雑多な他の書類と一緒になって、その封筒にしまわれていた。私はそこで少し迷ったのだが、他のものは今はあまり必要とされるものはないだろうと判断し、結局はその権利書だけを取り出した。
 つづらの隅には、昔私が作った、着色した貝殻がひっそりと転がっていた。きっとこの貝殻も、私の記憶と共にずっとこの中で眠っていたのだろうと思いながら、それも一緒に手に取った。
 ――翌日私は、その書斎を掃除する振りをしながら、わざと大袈裟な演技で本に挟まる書類入りの封筒を、母に見せた。
 掃除をしている最中に本棚の本に手がぶつかり、そして落ちて来た本の中に偶然これが挟まっていたのだが、もしかしたら探し物はこれではないかと問うシナリオ。かなり言い訳めいた苦しい内容の嘘だったが、それでも母には相当に嬉しいものだったらしく、何度も何度も私に頭を下げては、「まだ頑張れそうな気がするわ」と、繰り返し言っていた。
 その晩、私は外に出て、恋人である芳樹に電話をした。
 例え慣れ親しんだ恋人であっても、呼び出しのコールの最初だけは相変わらず緊張するものだなと感じつつ頬が緩んだりもしたのだが、何度呼び出しを繰り返しても出る気配がない電話に苛立ち始めると、次第に緊張は焦りに変わる。そうして手に持った貝殻の装飾品を、思わず力を込めて握り締める。
 今日も出ない。思えば芳樹は、私がここに来て以来、一度も声を聞いていない。私はしばらくその虚しい呼び出し音を聞いた後、方法を変えてメールを送った。
「大丈夫? どこか具合でも悪いの?」
 そうやって送ったメールには、すぐに返事がかえって来た。
 大丈夫。問題無い。――たったそれだけの短い文面だったが、それでもそこに芳樹の存在を感じた私は嬉しくなって、再びそれに返事をかえす。
「私がいなくて寂しいのかな? もうすぐ帰るから待ってて」
 そうやって送ったメールには、結局返事は来なかった。私は寂しい想いで例の貝殻をポケットにしまえば、家の中へと戻って行った。

 早いもので、私がこの家に来てから、既に二ヶ月半が過ぎていた。
 季節はすっかり秋の様相で、朝や晩の空気には、冷たさすら感じられるようになっていた。
 この仕事も終わって、ようやく家へと帰れる。私は、ガタガタと大きく震える洗濯機の前に立ち、そんな事を思う。だがそんな想いとは裏腹に、私はこの生家から再び離れなければならないんだと言う哀しさもあった。
 特に、今の私はこの家にとっては、なんの縁も無い赤の他人だと言う事実。それはすなわち、ここを離れたらもう二度とここに来る理由はなくなってしまうと言う事だ。
 過去の自分を介護すると言う立場だけは複雑なものがあったが、やはり生まれ育った生家と、老いた母親と疎遠になるのだけは、息苦しく感じられるぐらいに辛い事だった。
 ――もしも東京に、芳樹と言う恋人の存在が無かったとしたら、今頃は自ら仕事の延長を依願していたかも知れないなと思いながら携帯電話を開けば、やはり届いてはいない彼からのメールに私は小さな落胆を覚える。
 向こうで何かあったのかな。私はぼんやり考える。
 前から頻繁にメールや電話なんかしない彼だったが、最近は何故か特に酷い。私が何か怒らせるような事を言ってしまったのかと言う予感もあったが、思い起こしてみても特にそれらしき話題も無い。そんな不安で塞ぎ込んでいると、突然背後から声を掛けられ私は驚く。
「いつも携帯電話を気にしてるけど、もしかして彼氏か何かの連絡を待っているの?」
 それは、母の康子だった。
 私は洗濯機の前で振り返りながら、「えぇ」と、返事をした。
「恋人が、向こうで待っているんです。でも最近は、メールをしてもなかなか返事をくれなくて」
 言うと母は、「あら、それは心配ねぇ」と、返す。
「でも、帰ればまたいつもの通りよ。きっと。――羨ましいわねぇ。出来れば優子にも、そんな恋をさせてあげたかったわ」
 言われて私はまた、ドキンとする。
 目の前で私自身の事を言われた事にも驚いたのだが、私が一番気に掛かったのは、母が過去形で私の事を話した事だ。
 ――そんな恋をさせてあげたかった――か。きっと母もまた、前世の私である優子の未来は諦めているのだろうと思えば、ふいに胸が苦しくなった。
 私はちゃんと、人並みの恋をして幸せに暮らしています。――言いたかったが、言える訳が無い。私がその優子本人だと名乗ってみても信用なんかされる筈も無く、例え信じてくれたとしてもそれで母の心が休まる訳も無かった。
 私の魂は既に私のものであり、もう二度と優子の元へは戻らない。そんな現実を母に認めさせてどうなると言うのか。
 結局私は無言のままで、すすぎ終わった洗濯物を取り出せば、それを籠に入れ暗い廊下を歩いて庭へと向かった。

 振り返ってみれば、あっと言う間の三ヶ月だった。
 翌日の夜には、私は再び東京のアパートへと帰っている予定だった。
 私はとりあえず引き継ぎの報告の為に、その日は本K町の病院を訪ねた。一向に連絡の来ない介護人の後任者の存在が気になったが、病院でそれを聞いて驚いた。担当医の柴田は、いかにも何でもなさそうな表情で、「まだ後任は決まっていないですね」と、そう答えた。
「決まっていないって、どう言う事ですか!?」
 私が聞けば、「しょうがないじゃないですか」と、柴田は言う。
「誰も好きこのんで、妖怪みたいな少女の介護をしようなんて人間、いる筈無いですしね。それにただ介護が出来るだけじゃあだめだ。あなたみたいに看護士の資格も持っていなくちゃ」
「だから、理由を知らない遠方の人を頼んでいる訳ですね?」
「その通りですよ」柴田は言う。
「大丈夫、後任はすぐ見付かります。今までだって何とかなって来たんだし、その間はウチの病院のスタッフが通えば用は足りるし、何よりもうあなたには関係の無い事でしょう。あなただってようやくあんな任務から解放されたんですから、もう余計な事は考えずに黙って帰った方が利口ですよ」
 言われて私は、内心腹が立った。柴田のその無責任で無頓着な言い方にも腹は立ったのだが、何よりも私は、「それは私の身体だ」と言う気持ちが何よりも大きかったのだ。
「どうしてあの子を、ここに入院させないのですか」
 私は聞いた。
 だがやはり柴田は何も答えるつもりは無いらしく、素っ気無く横を向いて申し送りの書類に目を走らせながら、私の言葉を無視した。
「――あの子が、町長の息子さんに襲われたからですか?」
 覚悟を決めて放った言葉は、確かに柴田を揺さぶったらしい。彼は表情こそ変えはしなかったが、確かに彼の息を呑むような気配は感じられたからだ。
「ここの病院の方、数人にお聞きしました。彼女がああなってしまったのは、当時町長の息子だった青年に襲われたからだと。そうして襲われて首を絞められ、そして意識を失った。そしてその事が大袈裟に飛び火するのを恐れ、この病院のオーナーでもあるK町の町長は、あの子の面倒を生涯面倒見る代わりに、町からも病院からも、町長に関係するであろう全ての事から遠ざけた。――そうですよね」
 スッと、キャスターを回しながら柴田はこちらへと向き直る。
 そしてより一層の無表情を作りながら、柴田は言った。
「やはり三ヶ月と言う期間は長過ぎましたねぇ。もうそんなにこちらの事情を知っている」
「そうですね。私ですらこれだけ聞く事が出来たのですから、もはや町の人々の間で、内緒も何も無いんじゃないのですか」
 言うとようやく柴田は笑った。
「別に噂やデマなどに臆病になっている訳ではありませんよ」柴田は言う。
「ただもう、蒸し返して欲しくないだけなんです。もう二十年以上も前の事なんだし、その事で再び町長だった人を責める人間もいないでしょう」
 言われて私は気が付いた。――そうだ。事件はもう二十年以上も前の事なんだと。それならば当時町長だった人が、今も尚町長をしている方がおかしいと。
「もう、町長さんは引退されているんですか」
 私が聞くと、「とっくの昔ですよ」と、柴田は言った。
「もっと簡単に言うと、死にました。自宅の部屋で首を吊ってね。それを知っているからこそ、町の人達だってもうそれ以上噂で面白がる事をしないのですよ。――もういいでしょう。もうあなたの満足の行くであろう答えは、既に得られたでしょう」
 言われて私は、頷いた。そうしてから、私は気付いた。
 これは思った以上に、この町に対しては深く影を落とした事件だったのだと。私と母だけが被害者だったように思えていた事が、実際はそれほど小さな事ではなかったのだと。
「でも……どうしてまだ、浅田さんのお宅の面倒を見続けているのですか。もはや町長さんがお亡くなりになった以上、そこまで病院側が負担しなくても……」
「私が当時の町長の息子だからですよ」柴田は言った。
「尤も、ある程度大きくなってから呼ばれた形だけの養子ですけどね。そうして義理の兄であるあの人があんな事件を起こし、そして飛び地であるK町の開発は中止となり、責任を問われた義理の父は首を吊った。――ならしょうがない。付き合いはそんなに古くはなくても、身内と言えばまさに身内だ。そんな兄や父に代わって、私があの家の面倒を見続けた。それには別におかしな部分は無いでしょう」
「じゃあ、今のこの病院のオーナーって……」
「私ですよ。だから大丈夫だって言ってるでしょう。あなたが心配しなくても、ちゃんと介護は付けますよ。それが今生きている人間の、責任の取り方だ」
 私はもう、それ以上何も聞く事は出来なかった。
 そして私は黙って頭を下げて病院を後にし、家へと帰った。
 秋の夕暮れの中に見るK町は寂しげで、そして哀しかった。もはや二十年以上も前に開発が止まり、後はただ廃れるに任せただけの死せる町。そして私はここに生まれてここに育ち、そして私はこの町を殺した上でそれを見放し、何もかもを忘れて次の人生をやり直していた。
 無責任どころの話ではない。私は担当医の柴田を責められるような立場などではない。私と言う存在の死が、この町にどれだけの影響を与えたのかを考えれば、私の前世など小さな事のようにすら思えてしまう。
 前世の私は自分の死を受け入れる事が出来ないまま生まれ変わってしまったが、それは今も尚変わっていないような気がすると、私は思った。
 可能ならば、思い出さずにいれば良かったと痛感する。同時に、明日この町を発つ事には寂しさを感じていたのだが、今の心境はそうでもなかった。私はこの町に来た事を後悔し、そして既にこの町の事を記憶から封印してしまいたいとすら思っている。
 私は、夕暮れの陽の光を遮る並木の小道を辿りながら、最初にこの町に来た時に同じ場所で反芻していた外国の怪談話を思い出す。
 もう誰も住んでいない家。もう死に行くだけの運命な家。女性はその家へと入り込み、どうしてその家がそうなってしまったのかを老人に尋ねる。
 そうさせたのは、女性本人だった。女性の幽霊がその家の住民を追いやり、そして家ごと死へといざなった。
 ――まるで同じじゃない。私は思った。死んだ事は私の意志ではないにしても、結局はこの町を滅ぼしたのは私の死だ。そして怪談の中の女性だって、家の中の夢を見たのはその人のせいではないにしろ、幽霊となって夜な夜な現れたのは間違いなくその女性本人なのだから。
 それじゃあ、町の人々が噂しているであろう白い少女の幽霊は、やはり私の幽霊なのか。私が幼い頃から幾度も見て来たあの夢は、私の魂が実際にこの道を通り抜けていたと言う事実となってしまうのか。
 その時だった。私は突然背後から肩を叩かれて、無防備に振り返る。
 そこには、彼がいた。二十数年もの歳月を経ても尚変わらない、あの当時のまま、あの瞬間のままの彼がいた。
 うわんうわんと耳が鳴る。騒がしいぐらいにその周辺を埋め尽くしていた蝉の声が、一瞬にして消える。それはもしかしたら、彼が私の首を絞めているからなのだろうか。首を絞められ喉と血管を圧迫されて、私の耳は奇妙にうねったうわんうわんとした音だけを拾う。
 彼が私の真上で泣いていた。眼鏡を取り落とした素顔のままで、私に覆いかぶさるようにして、私に何かを叫び泣いていた。
 それはもはや声にもならない魂の叫び。細切れに、馬鹿にするなだとか、君もいつか僕を捨てるのか等、訳の判らない単語をわめき散らして、彼は私にすがりつくようにして首を絞めている。
 ――ごめんなさい。そんな言葉が私の中から込み上げて来るが、もはやそれは声にもならないまま再び私は闇へと落ちる。そうして私は身体ごと濃厚な闇へと包まれた。だがそれは決して恐怖でも絶望でも無く、何故か私には解放と喜びにすら感じられた。

 気が付けば、そこはやはり私の部屋の中だった。
 真っ暗な部屋の中、私は前世の私の身体が眠るベッドの横で、まるで記憶が飛んだかのようにして眠っていたのだ。
「――また、夢か」
 呟きながら身体を起こす。今日は寝言で悲鳴を上げなかっただろうなと思いながら廊下へと続く部屋の出入り口を見れば、部屋のドアはしっかりと閉まっていた。
 良かった。今夜は母を起こす事はしなかったなと思い胸を撫で下ろせば、「夢を見ていたの?」と、その暗がりの中、背後から声が掛かった。
「お母さん!?」
 叫んで振り返れば、そこには母の康子がいた。
 いつも通りに白い和風の寝巻きの姿で、母は私の布団の枕元に座るような格好で、そこにいた。
「今夜はどんな夢でした?」
 母は言う。暗闇の中でその母の表情は良く見えないが、何故か私にはその母の瞳に怪しい光が潜んでいるような気がしてならなかった。
「あ、えぇと……。何か、殺される夢でした。男性に組み敷かれて首を絞められ殺されるような」
 起きたての私には咄嗟に嘘を考えられる余裕も無く、そしてその母の声に圧倒されるかのようにして、私は今見た夢の事をありのままに話す。
「そう。――可哀想に」言って母は、伸ばした掌でそっと私の頬を撫でた。
「可哀想に、優子。いつまでもいつまでも、そんな夢ばかり見て」
 撫でられながら、その手に甘えながら、しくしくと私の胸の奥底から、何かが湧き出し這い上がって来た。
 それは、恐怖だった。まさにそれは、恐怖そのものだった。今度こそは夢ではない本物の現実の中で、私は母に、「優子」と呼ばれて頬を撫でられている。
 同時に私は思い出す。今の夢で目を覚まし、母の声に、「お母さん」と返事をしてしまった事を。そしてそれはたったそれだけの事なのに、絶対に口にしてはいけない禁断の呪文を声に出してしまったかのような、果てしない後悔を感じさせた。
「優子、もう大丈夫よ。もうそんな夢なんか見なくていいから。殺される夢も、夜な夜なこの家に帰って来る夢も、もう一人のあなたが心を返してくれないと嘆く夢も、もう二度と見なくていいからね」
 言われて私は、更に強烈な悪寒が背中を走るのが判った。
 母が何を言っているのかがまるで判らないのだが、その一方で母のその言葉が痛いぐらいに私の胸へと突き刺さる。――まさか、まさか母は、私が優子だと言う事に気付いていたとでも言うのだろうか。
 思った瞬間、母が私の目の前へと突き出して見せたものは、その昔に前世で作った父へのプレゼントだった。
 貝殻に絵の具で着色しただけの、子供が作った粗末な玩具。あの日、この家の権利書と同時に父の宝箱から抜き取って、ズボンのポケットにそっと隠しておいたものだった。
「いつか本当に帰って来るって信じてたの」母は言った。
「いつか必ず帰って来るって。そう信じていたから頑張れたのよ。例えなんの保証も見込みも無い話だったとしても、私には信じるしかなかった。だって私にとっては、優子、あなただけしかいないんだもの。あなただけしか生きる望みが無いんだもの。あなたの魂が何度も何度もこの家の周りを彷徨って帰って来ているのは知っていたけど、その夢を辿ってこの肉体まで帰って来るなんて、あまりにも非常識な話で信用なんか出来なかった。――でも、本当に帰って来た。あなたは本当に、夢を辿ってここまでやって来た。だからもう安心よ。後はもう優子の中へと帰るだけ。そうすればもう、何もかも無かった事になるわ。過去の事件も、今まで辛い思いをしてこの家の周りを彷徨っていた事もね」
 言って母は、貝殻を私に押し付けた。そして私がそれを受け取れば、母はその手で暗闇から何かを取り出した。
 ――包丁だった。その暗闇の中でもはっきりと判る、窓からの月明かりに映える一振りの包丁。母はそれを片手で掴み、自らの胸元で私に向けてそっと構える。
「な、何を言っているんですか、浅田さん。私には何も……」
「最初は、洗面所だったわね」母は言う。
「私はただ洗面所と言っただけなのに、あなたはまるで昔からこの家を知っているかのようにして洗面器とタオルを持って来た」
 言われて私はハッとなった。そう言われてみれば、そうだった。初めて来た家の中で、どうして中も見ずに私は洗面所の場所へと辿り着いてしまったのか。思い返せば、実に不自然な行動だったと感じられる。
「そして、甘い麦茶もそう。あなたは全く動揺せずにそれを口にしていた」
 あぁ、そうだ。あの時の私は驚くよりも、懐かしさが先に立っていた。
「そう言えばこの家に来た時だって、何故か家の前で泣いてたわよね。まるで懐かしい故郷の家に帰って来たみたいに」
 ――そうだ。その通りだった。私はこの家を見て感動のあまりに涙ぐみ、そしてまた母の姿を見て目を潤ませた。
「最後は、これ。普通なら誰も辿り付けないであろう場所に隠してあった、あなたのお父さんの宝箱。そしてそこに隠してあった、権利書とこの貝殻。――私は十年も探してやっと見付け出したのに、あなたは私が湯をつかっている間の数十分の間で、これを見付けた。――有り得ないわよね。あなたが父に直接聞いて、これを知っていない限りは」
 ――愕然とした。母は既にこの宝箱であるつづらの在り処を知っていたのだ。そしてその場所を知った上で、権利書を欲して――。
「まさか……叔父さんとの電話も」
「そうよ。あなたが優子である確信が欲しくて、芝居を打ってもらっただけ」
 言って母は小さく笑った。
 もちろんその暗闇の中で母の笑顔までは見えなかったが、確かにそのシルエットは私に向けて笑っていたとそう感じられた。
「お帰り、優子。私はとある聡明な先生の言う事を聞いて、ずっとあなたを待っていたの。そしてその甲斐はあったわ。――後はただあなたが、今の肉体を捨てて優子の身体へ戻るだけ。大丈夫よ、すぐに終わるし、すぐに忘れるから」
 そっと母の腕が持ち上がった。そうして母はその格好のままゆっくりと立ち上がり、私の前に立ちはだかった。
「もう、辛い思いはしなくていいの。あなたが望むなら、すぐにでも一緒にここを出て他の土地で暮らしてもいいのよ。もう全てを忘れて、新しい人生をやり直せばいい。十歳の肉体から、再び人生をやり直せばいいの」
 呪文のように、うわごとのように言いながら、母は私の前に立った。
 私にはそれが何を意味するのかが、まるで判らなかった。ただただ恐怖で、ただただ世界が真っ暗なまま、私はその瞬間を待ち続けた。
 もはや逃げる気力も、抵抗する力も無かった。私は無力のまま両手で顔を覆って目を瞑り、後はただ母のその行動を受け入れるだけだと悟りながら、身をこわばらせた。
「――お母さん」
 私の口から、声が漏れた。だが次の瞬間に私の脳裏に広がったのは、前世の記憶でも、母の姿でも無く、今もまだ東京で待っているであろう恋人の芳樹の顔だった。
 ――芳樹、ごめん。――ごめんね、芳樹。
 果たしてその言葉は、私の口から漏れ出たのだろうか。私は屈託無く笑う芳樹の笑顔を思い出しながら、果てしの無い哀しみのまま死の瞬間を待ちわびた。
 だが、その瞬間はやって来なかった。どれだけ歯を食いしばってその沈黙の時間に耐えていたのかは判らないが、長い長いその時間の果てに聞いたのは、むせび泣くようにして聞こえる母の声だった。
 見れば母は、私の布団の横で倒れるようにして泣いていた。
 優子、ごめんね、ごめんねと繰り返しながら、母は暗闇の中でひたすら嘆き苦しんでいた。

 翌日は、また残暑がぶり返したかと思うぐらいに暑く感じる秋晴れの日だった。
 私は家の前に立ち、片手でひさしを作りながら空を仰げば、まぶしいぐらいの陽射しが降り注いでいた。
「何のお土産も持たせないで、ごめんなさいね」
 背後からの声に私は、「そんなもの要らないよ」と、振り返りながら言った。
 母は、そこにいた。少しだけ哀しそうな顔で、そして精一杯の笑顔で、私を見送るようにしてそこに立っていた。
「元気で……」
 母は言う。
「また来るね」
 私は言う。
「もういいのよ」母は言った。
「あなたにはあなたの新しい人生があるわ。もうこの家も私の事も忘れていいから、あなたは自分自身の未来を生きてちょうだい」
 私はそれを聞いて思った。あぁ、きっと母は本気で言っているのだろうと。
「いいえ、また帰って来ます」私は言った。
「またいつか必ず……ううん、きっとすぐに帰って来るわ。だから待ってて」
 ――お母さん。
 そう言った時には既に私は母の腕の中だった。
 それはまるで大昔に母に抱きとめられた時の感覚そのままで、私は黙って母の胸の中に顔を埋めた。
「必ず……必ず来るわ。だから待ってて」
 言うと母は私の頭上で、「うん」と頷く。
「待ってるわ。ずっとこの家で」
 私は母のそんな涙声に、思わず嗚咽を漏らしていた。

 帰りの電車の事は、ほとんど記憶に無い。私はただひたすらに母と、家と、町の事だけに想いを傾けていて、行きに見損ねた諏訪湖の景色さえも気付かぬままに通り過ぎて来た。
 母はあの後、私にこんな話しをしてくれた。寝たきりで意識の戻らない私の為に、母は色んな方面から回復の手段を求めたらしい。
 中には医学的な方面から脳に刺激を与えたり、微量な電気を流したりする治療や、時には怪しい宗教紛いなものや、交霊の類なども利用したのだとそう語った。
 だがその中で唯一母が信用したのが、とある霊能者の言葉だったと言う。その霊能者の先生は私の身体に妙な経を唱えたり、法外な費用を請求したり等は一切しなかったそうだ。代わりにその先生は、私の姿を見るなり、「魂が無い」と言い放った。
 もうこの身体には魂は無い。しかもその魂は輪廻を果たして現世に生まれ変わっている。従って、この娘の意識を取り戻すのは不可能だと。
 だが代わりに、娘の魂は夢を通じて身体と共振している。そしていつか魂の方から、引き付けられるようにしてこの身体を求めて来るだろうと。だから、いつか訪ねて来るだろう娘の生まれ変わりを待ち、それを楽しみに生きなさいとそう言った。
 だが、母はこう聞いた。じゃあもう二度と、この子の身体には魂は戻らないのかと。そして先生から返って来た言葉は、「もしも生まれ変わった身体が娘さんよりも先に死を迎えたならば、それも有り得るかも知れない」と言う事。
 そしてそれをそのまま鵜呑みにした母は、いつか訪ねて来るであろう私を待って、殺そうと計画をしていたらしい。
 だが、母はそれが出来なかった。結局は私の前で包丁を取り落とし、ほんのちょっとでも娘を殺そうと考えた自分を恥じ、後悔し、そして私に詫びた。例え生まれ変わった別の人間であっても、かつては自分の娘だった存在を手にかけるなど出来ないと、母はいつまでもいつまでも泣きじゃくっていた。
 そしてそんな話を聞いた私は、本気でまたこの家に帰ろうと決心していた。帰りに通ったあの並木の小道の中で、私はやはりこの家に帰りたいのだと切実にそう感じていた。
 例え芳樹に大反対されようとも、どれだけ長い時間を説得に費やしても、私はあの家に帰ろうと思った。それは決して母のためだけではなく、私自身の心からの望みでもあったのだ。
 どれだけあの地に嫌な思い出があろうとも、かつて私が命を落とした場所が目の前であろうとも、私はここに帰るんだと意思を固めながら、私はあの小道を後にした。
 そんな事を思い出しながら惰性のままに電車を乗り継ぎ、気が付けば既に車窓から覗ける景色は、住み慣れた東京の街並みとなっていた。私はいつもの最寄りの駅で降りれば、まだ時間も早いから職場に顔を出してから帰ろうとも思ったのだが、結局は一番逢いたい人を優先させた。
 今から帰るよとメールを打って、駅前のケーキ屋さんで二つだけケーキを購入する。きっと芳樹は私のマンションにいる筈だと、何故かそんな確信めいた想像で、家路を急いだ。
 芳樹には、どんな説明をしようか。私は、生まれ変わる以前の私に逢って来たと、そんな荒唐無稽な話をして信用してくれるだろうか。
 そして芳樹は、向こうに引越しをしようとせがむ私の言う事を、聞いてくれるだろうか。彼は都会生まれの都会育ちだから嫌がるかも知れないが、以前に持ちかけられた結婚を承諾さえすれば、なんとかなるのではないかと。
 そんな事を延々と思いながら道を急げば、いつしか私はマンションのエレベーターの前にいた。たった三ヶ月だけの留守なのに、何故かやけに懐かしく、ドキドキと心臓を昂らせる感覚を知る。
 エレベーターを降りて廊下を行けば、夕暮れの私の部屋には、既に灯りが点っていた。やはり芳樹は中にいるのだと思いつつ、そっとドアノブに鍵を差し入れドアを開けると、思いも掛けない光景がそこにはあった。
 玄関に脱ぎ散らかされた靴。そこには堂々と芳樹のスニーカーが横に転んで置かれていて、その横には同じように脱いで放られただけのパンプスがあった。
 意味が判らなかった。最初に私が思ったのは、そんな靴など一足も持ってはいないと言う思いだけだった。――だが、私の靴が玄関の隅に追いやられて小さくなっているのを見て、ようやく私はそれが意味する事を理解し始めた。
 良く聞けば、廊下に面した寝室のドアからは、軽快な音楽と共に人が交わす声が聞こえた。
 一人は私も良く知る、芳樹の笑い声。そしてもう一つは、誰のものかも判らない女性の声。二つの声は愉快なままに交錯し、そして私の胸をえぐって切り崩す。
 私は足音を立てないままそっと玄関を上がれば、黙ってその部屋の前を通過してキッチンへと向かう。そしてその点けっ放しの電気の下では、据えた匂いと共に有り得ないぐらいに汚れて散らかされたキッチンのシンクが見えた。
 そしてその中に一つ、パネルに表示を伝える携帯電話が見えた。そしてそれは確かに芳樹の持っていた携帯電話であり、パネルには何件か貯まっているであろうメールの着信が見て取れた。
 ――彼から返事が来ない理由はこれだったのだと思いながら、私は痺れる思考と震える手で、キッチンの下の開き戸から包丁を一本取り出した。
 別にそれで芳樹をどうにかしようと言う意思は無かった。ただ、私は虚しかったのだ。こんな程度の脅しでもしなければ、私自身が可哀想だと思ったからだけに過ぎない。そうして私がそんな物を持って寝室のドアをそっと開けば、思った通りに芳樹は私の知らない女性と共に、裸体で私のベッドに寝転んでいた。
 二人に、声は無かった。ただ信じられないものを見るかのように私を凝視し、今までずっと楽しげに交わしていた会話が途切れたままになっているだけだ。
 芳樹が私に向かって何かを叫ぶ。そして腰が退けたかのような格好でベッドから降りれば、私をなだめるような声色で、恐る恐る手を差し出した。
 何をやってるんだろう、この人。隠すべきものも隠さずに、だらしない格好で何を私に言っているんだろう。私は彼の言葉を聞こうと努力はしているが、何故か一向に彼の言葉が耳に伝わって来ない。
 怯えたままベッドで丸くなっている安っぽくて不細工な女。そして奇妙な笑い顔を浮かべながら、私ににじりよる輪を掛けて安っぽい男。
 私が愛し、私が死の間際に求めた男って、こんなに下品な男だったかしら。私はそんな事を思いながら、無理に引き剥がされて取り上げられる包丁を、ぼんやりと眺めていた。
 その時、私はふいに思い出した。あの時、あの瞬間に、私にのしかかって首を絞めたあの男性。私はただ彼に対して思ったままの好意の気持ちと、そして彼を慰めようとして言ったその言葉を、こんな場面で思い出す。
 彼はいつも私に対しては、真面目に真摯に接してくれていた。もしかしたら彼にも、私と同様、ある種の恋が芽生えていたのかも知れない。少なくとも、私から彼へと向かうその気持ちには、好意以上の何かがあった。
 私はただ、こんな幼い子供に対していつも一人前に扱ってくれるその気持ちが嬉しく、それを感謝の言葉にしただけだった。だが当時の私はまだ語彙が少なく、その意味も用法も間違っていたに違いない。
 そして彼の方はきっと、トラウマや心の傷が多かった人なのだろう。人からの好意に飢え、人からの評価に怯え、幼かった私以上に臆病な性格だったのだろう。
 ――寂しいね。あなたには、私しか心許せる人がいないんだね。確か私は、そんな事を彼に言ったような気がしていた。
 私はただ、「そうだね、君だけだよ」と、そんな言葉が欲しかったに違いない。それだけ私も彼が好きだったし、そんな言葉で嬉しく思う年頃でもあったのだ。
 だが言葉は擦れ違う。彼は気分を害して、私は語彙の少ないままに、彼の心の傷も知らないままに、不毛な会話を繰り返していた。
「気の毒な人……」
 私は呟く。ポケットに突っ込んだ指の先に、何か固いものが触る。
 記憶の中の彼は、怯えた目で私を睨んでいた。そして現実の中の芳樹は、私の目の前で同じような表情を作って私を睨む。
「そして物凄く、寂しい人」
 思えば、原因は常に私の中にあるんだなと、変な事をぼんやりと考えながら、再び記憶の反芻を始める。
 意識は飛ぶ。あの町へ。あの小道へ。あの家へ。あの小川へ。そして、私を待つ母へ。
「あなたにはきっと、人に愛してもらえる自信が無いのね」
 想い出の中、彼の手が伸び、私の首に絡み付く。
 同時に現実の芳樹は、私に何かを叫び、包丁を持った手を思いっきり振りかざした。
 ころん――音がして、“それ”が転がった。私の指をすり抜けて落ちる貝殻。私はそれを拾おうとしゃがみこみ、その背中で何か、嫌な音を聞いた気がした。

 ……あ……あ……あ……
 声が途切れた。ようやく閉じられようとしている唇は、まだ恐怖の余韻で震えているのか、噛み合わない奥歯と共に軽い痙攣を起こして鳴っている。
 辺りはまだ、真っ暗なままだった。天井に一つ、オレンジ色の小さな灯りがあるだけの子供部屋。周囲には冷たく濃厚な空気が漂っている。
「――優子?」
 部屋の向こうから、声が聞こえた。突然その開かれた空間から、まぶしいぐらいの光が差し込める。
 部屋の入り口には、誰かが一人、立っていた。向こうの部屋の灯りでその人はシルエットでしか判らないが、やはりそれは母らしい。その声と、その雰囲気ですぐ判る。
「ごめん……な、さい。うるさ……く、しちゃ……って……」
 声が震える。喉に力が入らない。しかも舌がもつれて上手く言葉になっていない。
 どうして急にこんなになってしまったのか。私自身良く判らないまま身を起こそうと試みれば、身体は口以上に緩慢で、全く身動きが取れそうにない。
 これじゃあまるで、繭の中に潜んでいる蛹のようねと思いながら苦笑をすれば、母は何故か忍んだような声を上げて鼻をすすり上げながら、そっと私の横に座った。
「どう……したの……よ」
 私は言うも、やはり上手く言葉にならない。すると母は、「喋らなくていいから」と優しく言いながら、私の頬と頭を撫でた。
 何故か、ホッとした。ここに母がいると思えるだけで、私はこの上ない安堵と安心感で、目を瞑る。
 そう言えば、目覚める前に悪夢を見たのと、母に言い掛けてやめた。どうせまた、上手くは喋れないのだから。
 部屋の向こうで、テレビか何かの音がする。果たして母は、いつの間にテレビを自分の自室に持ち込んだのだろう。夜のニュースらしき音声は、どこか遠い都会の街で起こった最新の事件を報道していた。
 一体どこの誰が殺されたのか。ニュースキャスターは大真面目な声で、逆上して刺されて死亡した気の毒な女性の名前を読み上げた。
 その名前には全く聞き覚えも無かったし、次の瞬間には忘れてしまう程度のものだったが、何故か横に座る母だけは、その名前に何か思う事がある様子で、大きな溜め息を吐きながら肩をすくめた。
「嫌な……世の……中、だよ、ねぇ……」
 今の私の言葉は伝わったのか、暗がりの中、母は私に向かって微笑むと、「ここは大丈夫よ」と言って笑った。
 窓から聞こえる秋の虫が、うるさいぐらいに響いていた。もうすっかり夏は終わったのねと思いながら、私はけだるい眠気に再び瞼を閉じ始める。
「おやすみ」と、母の声。
「おや……す、み……」と、私の声。
 今度こそ悪い夢は見ないようにね。
 今度こそ朝までぐっすり眠れるようにねと、静かに静かに祈りながら。





《 繭と蝶 了 》





【 あとがき 】
リ・メ・イ・ク・だ!!!(いきなり開き直り
どうもどうも。俺です。そんな李九龍です。時間がなかった為、今回はちょー手抜きしやがりました。すいません。
えーっと、タイトルだけ見て、「読んだからいいや」って方もいらっしゃったかも知れませんが、この作品は実は単独で発表するようなものではないんですね。
実際は今回書いたもう一作品にも登場する、“深葬怜夜”と言う長編ホラーに出て来る短編の一つなのです。
で、この“深葬怜夜”ってのはどんなものなのか。
とある推理作家がランダムで選んだ読者数名を都内の料理店へと招待して、そこでみんなが持ち寄った、“今までで一番怖かった悪夢”を語る会を始める。そうして皆が夢を語り始めると、奇妙な同調が生まれて来る。そうしてやがてその夢は、開催者である作家をとある場所へと導いて行くのだが……みたいなね。
あ、うん。途中で断念している最中だけどね。だってまだ半分なのにめちゃ長過ぎて、どの公募枠にも引っ掛からないんだもんさ。


 李九龍

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