Mistery Circle

2017-08

《 妣ヶ島(ははがしま) 》 - 2012.07.16 Mon

※過激な性描写と暴力的描写、そしてグロテスクな表現と差別用語が多く混じります。ご了承下さい。



 鈍い地鳴りと震える大気。遠くにあがる純白の噴煙が、活火山の振動である事を教えてくれている。
 真っ白に染まる午後の空に、青い稲光が走る。恐らくは火山雷と言うやつだろう。白地に鮮烈な青とは、やけに美しいものだなと、空を見上げながら僕は思った。
 ――灰が、降る。真冬の雪のように。
 深々と、粛々と。真白き大地を、更に白く染め上げようとするかの如く。
 枝垂れ桜と、八重桜。名前通りな絵柄を模した唐傘が、僕の前を行く。
「あの……失礼ですが、あなた方二人は御姉妹で?」
 聞けば、ゆっくりとした緩慢さで二人の足が止まる。
 紫色と桜色の和服。くるりと唐傘が振り向き、黒髪の女が二人、俯き加減に僕を見つめる。
 二人は無言のまま首を傾げ、そして静かに微笑んだ。切れ長の細い瞳が更に細まり、朱を重ねた唇が僅かに吊り上る。
 ――なんと言う美しさなのだろう。僕はそれを言葉に出さず、感嘆した。
 雲の上に陽を頂き、世界を白く染め上げる、緋諸岐(ひもろぎ)島訪問初日の事であった。



《 妣ヶ島(ははがしま) 》

 著者:鎖衝








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 妣ヶ國の著者 折口信夫氏へ捧ぐ





「旅行記でも書いてみたら?」
 太田は僕の目の前にプロットの束を放り返しながら、面倒臭さを隠そうともしていないような声でそう告げた。
 場所は、S出版社のロビーの一画にある打ち合わせブース。とは言うものの、両隣がパーティションで仕切られているだけの簡素な区画。当然話し声などは当たり前のように漏れ聞こえる。
「旅行記……ですか? どこの?」
「どこのって、別にどこでもいいじゃん」太田はとうとう顔までそむけながら言う。
「どっか行ってさぁ、そこの土地の風土とか食いもんとか、適当に面白く書いて持って来てよ。フィクション作家初のノンフィクションって感じでさぁ。とりあえずそれなりに目立つ気しない? ここらで一発、路線変えてみるのもいい手だと思うしさ」
 煙草に火を点けながらの、まるで真剣味の無い返事だった。言葉からもその表情からも、「もうお前に賭けてる時間なんか無いよ」と、心の声が聞こえて来そうなぐらいの無慈悲さが感じられた。
 彼とはもう四年越しの付き合いであった。
 確か僕が三十二歳で、彼が二十一歳の新入社員であった頃。前任の橋本さんからの引き継ぎで彼が僕の担当となり早四年。彼が担当した(僕ではない)作家の作品が有名となり、それに伴ってとんとん拍子に出世。そして僕の方はと言うと二冊目以降は全く鳴かず飛ばずの状態で落ちぶれたまま今に至る。
 当初は、先生先生と慕ってくれた彼も、今は「木戸さん」と僕を呼ぶ。忙しい時や余裕の無い時などは、「君」とか、「あんた」呼ばわりまでされる事がある。
 ――売れている間が華か。やがて来るだろう、“干(ホ)される時”の事をぼんやりと思い浮かべながら、「では、旅行プランを練って来ます」と、僕は返した。
「じゃあ、まとまったら電話ちょうだい。期待してるから」
 紙コップの珈琲を片手に、太田は早々と立ち去る準備である。僕は丁寧にお辞儀をしながら、「宜しくお願いします」と返事をしたが、それが彼に聞こえたのかどうか。頭を上げる頃には既にそこに姿は無かった。

 *

 昭和から平成へと年号が変わり、景気の降下だとかバブルの崩壊だとか、僕にはまるで縁の無いだろうニュースが飛び込んで来る中。数カ月遅れで、僕はその時代の波に乗る破目となった。
 増刷する予定だった筈の二冊目の本は初版本のみの発行となり、一冊目の処女作は全ての書店から姿を消し、“木戸優二”と言う名前はあっという間に世間から忘れ去られた。
 元々、話題性の無い作家である事は自覚していた。ローカルな出版社で、ローカルな新人賞を頂き、そして何の注目度もないままにデビューを果たして、処女作がいくらも売れないままに無理強いされた二冊目を書いた。ただそれだけの話なのである。
 一冊目の本が第五版まで増刷されたのは、単に景気の良さの恩恵だけだったのだ。いい加減、作家として続けて行くのは諦める頃合いだろうとは思うのだが、どうにもその決断が出来ないままであった。
 一つは、まだ心のどこかにくすぶるプライドがそれを許していない事。そしてもう一つは、今更自分に他の何が出来るんだと言う自信の無さがそれだった。
 ショーウィンドウに映る自分自身の老け込んだ姿。元より見てくれの良くない容姿ではあったのだが、ここ数年で増々そのみっともなさは進んでいた。細めな身体は更に痩せ衰え、頭には白髪が増え、度の進んだ視力のせいでますます眼鏡は厚ぼったくなり、流行になどには無頓着な服装が酷く野暮ったい現実を見せ付けてくれている。こんな衰えた身体で、再び昔のような肉体労働へと戻らなければいけなくなるかも知れないと考えれば、もう心には恐怖しかなかった。
 建築作業員、居酒屋の従業員、組み立てラインの作業に、軽トラックでの配送。どれ一つ取ってみても自分には合わず、どこの職場でも辛い思いしかなかった事を思い出し、戦慄する。
 公募に出した自分の原稿が賞を取った時、ようやく僕と言う人間はゴールへと到達したのだと錯覚をした。生活や仕事の苦痛から解放されたのだと、そんな勘違いをしてしまった。作家こそが自分の天職であり、それこそがようやく見付けた自分の居場所であると思い込んでしまっていたのだ。
 ――結局、これも駄目だった。そうは思いたくはない。ならば、どれだけ頭を下げても、どれだけ冷たくあしらわれても、今あるその立場で頑張るしかない。思いながらも、きりりと胃の辺りが痛むのを感じてしまう。
 ならばまず、与えられた仕事をこなすしかない。さぁ、それではどこに行こうか。考えながら書店を覗き、旅行雑誌や旅行ガイド、日本地図等を片っ端から開いて見る。
 だがどれもピンと来ない。近場から、逗子に鎌倉、横浜に八景島と色々調べてはみるが、それらは全て観光名所として名高く、そこを訪れて旅行記を書いた所で太田から鼻で笑われるのは目に見えていた。
 人のあまり行かない隠れた名所で、かつ歴史をまじえて面白く書けそうな、そんな場所――。
「出不精の僕に、思い付く訳がない」
 声に出して、ガイドブックを棚にしまった。

 結局僕は、雑誌のコーナーにあった、“隠れた名所百景”と言うタイトルの本一冊と、折り畳める大判の日本地図だけを購入し、喫茶店でそれを眺めていた。
 だがやはり、無駄な事をしている感は否めない。人の行かない名前を聞いた事もない名所や穴場はそれなりに見付かったが、果たしてそんな場所に行って読者が面白がるような文章が書けるかどうかが判らないのだ。
 例えば注連縄(しめなわ)が張られた巨大な御神木と、その前に置かれたお供え物を見て、僕はどう描く?
 例えば、森林の奥深くに忽然と現れる泉は? 山奥深くにある白糸の滝は? どうせそこに辿り着くまでの苦労から、辿り着いた後の感動まで。実にありきたりな言葉で飾ってそれでおしまいなのではないだろうか。
 元よりユーモアセンスなど全く持ち合わせてはいないのだ。“面白く”は無理としても、ドラマ性も描けないとなると既に作家としては致命的なのではないだろうか。
 これは、旅行プランを立てるより先に、他の作家が書いた旅行記を読んで傾向と対策を練る方が先なのではと、ぼんやり考えていた時――。
「ご旅行ですか?」
 突然、声を掛けられた。見ればそれは、通路を挟んだ隣の席に座る初老の男性だった。
「ご旅行ですか?」
 再び同じ事を聞かれる。そして僕は、「えぇ、まぁ」と、言葉を濁しながら返事をした。
「なにやら大変そうなご旅行のようですね。先程から何度も何度も溜め息を吐きながら本を読んでいらっしゃる」
 しまった。悩みがそのまま態度に出ていたか。気が付き、「お恥ずかしい」と、頭を掻いた。
「旅行などした事のない人間が、どこか珍しい場所に行って、それを紹介しなければならないんですよ」
「へぇ、お仕事か何かで?」
「えぇ、そんな感じのものです」
「それはそれは――」男性は笑った。「かなり大変そうですねぇ」
「大変と言うよりも、向いてないんだと思います。最初から」
 言ってから気付いた。太田の奴、僕に出来ないだろう仕事を押し付けたなと。もしかしたらこれが事実上の、“干(ホ)され”なのかなとすら考えた。
「――“ひもろぎ”、なんてどうです?」唐突に、男は言った。
「珍しいって言ったら、ひもろぎなんかその最たる場所じゃないかなって思うんですけどね。あぁ、でも、行くにはいいけど本土と連絡取れないんじゃあ意味がないのかな」
「えっ、ひも……なんです?」
 思わず聞き返す。上手く聞き取れなかったのだ。
「ひもろぎですよ。ひ、も、ろ、ぎ。伊豆諸島の外れの外れにある小さな島なんですけどね。珍しさ美しさで言ったら、どんな場所でもあの島には敵わない。物見遊山で行くような場所じゃないかも知れないけど、あなたが“珍しい所”を探してるんなら、そこは最高の場所かも知れませんよ」
「ひ――も、ろぎ、ですか? ちょっと待って」
 急いで日本地図を広げる。――伊豆諸島、伊豆諸島と――あった。
 その耳慣れない名前の島は、男性の言った通りに諸島の外れにあった。八丈島より更に西。遥かに遠く、むしろ諸島に分類するよりも和歌山県の離島と言った方がしっくり来るだろうぐらいの遥か西。そんな場所に、“緋諸岐島(ひもろぎじま)”は存在していた。
「ここ、どんな所なんです?」
 男性の方へと振り返り、そう聞いた。男性はちょうど伝票を持って立ち上がる所だった。
「いい所ですよ」
 男は笑う。そして僕はただ、「はぁ」としか言えなかった。
「行きたいんなら、三重県の志摩にある和俱(わぐ)の港を訪ねるんですね。連絡船はそこからしか出ていないから」
「えっ、ちょっと待って下さいよ。もう少しお話しを聞きたいんですが……」
「いい所ですよ」もう一度同じ事を言って、男は笑った。
「明日の夜、深夜の一時過ぎに船は出ます。“詞願丸(しがんまる)”って言う船ですね。それを逃したら当分は島に渡れないから、決断するなら早い方がいいかも知れませんよ」
 話しながら、男は足早に立ち去って行った。
 引き止める隙さえも無かった。僕は急いでペンを取り出し、地図の空欄部分に今言われた事の全てを書き写す。
 ――三重、志摩、和俱の港。明日、深夜、詞願丸。
 そこまで書いて、顔を上げる。既に男の姿はどこにもなかった。そして僕は、その男の顔を綺麗さっぱりと忘れてしまった。本当に今さっきまでここにいたのかすらも疑ってしまう程、綺麗に。

 *

 夕刻。僕は市営の図書館にいた。
 行く行かないは別にして、事前に緋諸岐の事を調べておこうと思ったのだ。
 しかし、肝心の緋諸岐についての資料は一向に見付からない。ガイドや名所マップはおろか、史料の片隅にさえその詳細は載っていない。
 かなり遠くはあるが一応は伊豆諸島の一つなのだからと、東京都の文献等も調べてはみるが、片鱗すらも探せない。こうなって来ると緋諸岐がどこの県であるのかさえも判らない。
 だがとりあえず、地図には存在する場所だ。そして疑わしくはあるがそこへと渡るルートも聞く事が出来たのだ。まずは行動してみるかと、路線の時刻表を調べれば――。
「マズい。明日の朝イチに出ないと間に合わない」
 僕はそれをメモすると、家路を急ぐ事にした。

 四畳二間のボロアパートで、電話の子機を肩に挟みながら、ザックに荷物をまとめる。
 ダイヤルした先は、S出版の編集部。太田に事前連絡でもと思ったのだが、不思議な事に太田どころか電話自体がまるで繋がらない。
 おかしいな。編集部ならば真夜中ですら誰かがいる筈なのに。思いながら通話を切ると、念の為と思い葉書きを一枚、持参する事にした。
 その晩は、なかなか眠りに就く事が難しかった。早朝の四時頃に起き出して電車に乗らなければいけない事に加え、滅多にない早起きと言うプレッシャーと、単純に旅への期待と不安感がそうさせているらしい。
 果たして緋諸岐とはどんな場所なのだろうか。喫茶店で出会った男性は、緋諸岐の事をただ、「珍しい」と、「美しい」しか言っていなかった。それがどのように珍しく、どれほどの美しさなのか等全く判らないと言う期待、そして不安が、心の中に渦巻いている。
 ――とりあえず、本に纏められるぐらいの話題性があればいいんだがなぁ。
 そんな都合の良い事ばかりを考えながら、いつしか自分でも気付かぬ内に眠りに落ちていた。

 *

 まだ夜に近い程の朝。僕はなんとなく想像した通りに息せき切らしながら最寄の駅のホームへと立っていた。ようするに、寝坊して予定の時刻のぎりぎりだったと言う話だ。
 ハンカチで汗を拭いながら、滑り込んで来た電車へと乗り込む。流石に早朝の電車だけあって、乗客の姿はほとんど見掛けない。
 川崎のS駅より出発し、向かうは三重県の志摩市。旅費節約の為に新幹線は使わず、鈍行だけで行くつもりだった。
 ごみごみとしたグレイ一色の川崎の街並みを眺めつつ発車した電車は、やがて藤沢を抜けて海岸線を走り抜ける。結局、乗り継ぎの失敗は杞憂なままで、名古屋の駅中で昼食を取った以外は特に何も無く、予定通りに志摩市の鵜方駅に着いたのは午後の五時過ぎであった。
 これならば充分に到着可能だな。なら晩飯ぐらいはゆっくりと美味いものでも食おうなどと思いながら、バス停留所へと向かう。そうしてバスで乗り合わせた人に聞いて、刺身が美味いと評判の店を紹介してもらい、前浜と言う場所で降りてしまったのが失敗だった。
 確かにそこの海鮮丼と地酒はなかなかのものだったが、腹を満たして再びバス停へと戻った僕は、相当に焦る羽目となってしまったのだ。
「あんたぁ、どこへ行くんけぇよぉ知らんっと、今日はもうどんだけ待っとってもバスは来いへんで」
 漁師らしき、網を担いだ年輩の男性に言われて、僕はバス停の標識を見直した。
 最終、二十時二十一分。――時計はまだその時刻には達してはいないのだが、どうやらそれは平日に限っての時間らしい。そして今頃思い出したが、今日は土曜日だった。
「もしかして……もう、バスは無いんですか?」
「あらぁへんよ。今日はもう諦めてどこぞの旅館にでも泊まるんじゃあねぇ」
 そうはいかない。船は今夜の内に出るんだ。思いながら僕は地図を広げた。
 ざっと目的地までの距離を指で測る。高低差は考えずに、おおよそ二十キロ弱。決して歩いて行けない距離ではない。――但し、健康な足腰であればの話ではあるが。

 ひゅうひゅうと、開きっ放しになった唇から吹く風の音が聞こえた。
 結局、僕は走った。左手に夜の海原を眺め、後方から脅かす車のヘッドライトに怯えながら。走っては休み、休んだらまた歩き、息が戻ればまた走る。一体僕はなんの為にこんな苦労をしているんだろうか。自問自答を繰り返しつつ、真っ暗なだけの国道を西へと向かってひた走った。
 脇腹がじんじんと激しく痛み、呼吸が有り得ない程大袈裟に鳴る。汗がとめどなく頭から滴り落ち、背中も尻も気持ち悪い程に濡れそぼっていた。
 日頃の運動不足が祟ったな。思いながら腕時計にちらりと目をやれば、いつの間にそんな時間になったのだろう。もうすぐ夜の十時を回ろうとしている所。しかし景色はいくらも動く気配は見せないまま、いつまでもいつまでも同じ場所で足踏みをしているかのような寂しい夜景ばかりが眼前に広がっていた。
 ――間に合わないかも知れない。そんな想いが脳の中を駆け巡り、席巻して行く。
 何やってんだよ僕は。こんな場所まで一体何しに来たんだよ。結局こんな簡単な事すらも満足に出来ないのが本来の僕なんだ。もはや汗なのか涙なのかすらも判らない何かをぼろぼろと垂れ流しながら、僕は震える足をまた一歩、また一歩と前へと踏み出す。もう間に合う筈もないと確信しながらも、崩れ落ちそうなその足は止まらない。
「もうホント、何やってんだよ僕は……」
 呟いた瞬間、足がもつれて冷たいアスファルトの上へと倒れ込む。パタパタと音がするぐらいに、汗が地面へと滴った。
 あぁ、もう立ち上がりたくないな。そう思った時だった。背後から近付くヘッドライトの灯り。地鳴りのようなタイヤの音と排気音。そしてけたたましいクラクションと共に、大型のトラックが僕の真横を通過して行く。――その瞬間。
 目の前の案内板に、ライトで照らし出される表示。そしてそこには左に折れる矢印と共に、“和俱港”の文字と距離。
 ――五キロ? 残り五キロだって? 思いながら腕時計を確認すれば、時刻は零時を少し過ぎた辺り。
 これならばまだ望みはある。思いながら僕は、震える足で再び立ち上がった。

 国道を折れ、民家の点在する一般道を行く。所々に見える民家はもう時間が遅いせいか、どこの家の灯りも消えている。
 方向だけを頼りに狭く細い道をぐねぐねと曲がりながら歩いた。やがて左手に暗い水平線が現れると、遥か遠くに一ヵ所だけ外灯のともる明るい場所が見えた。
 おそらくあれだ。思いながら僕は歩いた。そしてそれが間近に見える頃、それは確信に変わった。そして僕は鞄から一枚の葉書きを取り出すと、漁港の入り口近くにある郵便ポストにそれを投函した。
 文面は既に電車の中で書いておいていた。簡素に一言、「緋諸岐島に行きます」と、S出版の太田宛てに。
 深夜の漁港を歩く。不思議な事にこう言う場所には時間の概念はあまり無いらしい、きっとこれから出航するのであろう明かりを灯した漁船があちこちに見られた。
「すみません、この辺りに“詞願丸”って言う船、ありませんかね」
 忙しそうに歩く船員の一人に声を掛ける。だがあいにく、その船員は首を横に振るばかり。その後も何人かに同じ質問を繰り返したが、どの人も皆同じように知らないと言う。
 そうこうしながら僕はどんどん端の方へと向かって行き、やがて停まる船の姿も寂しく閑散として来た頃、最後に逢ったその年輩の船員からようやく、「あぁ、知っとるよ」という言葉を聞く事が出来た。
「知ってる? ほんとに?」
「知っとるさぁ。あんたぁ、それに乗るつもりけぇ」
 聞かれて僕は、「えぇ」と即答する。
 老人に近いだろうその男性は丸めた底引き網を担ぎ、伸びた顎髭をさすりながらしばらく無言で宙を見上げ、それからこう言った。
「引き止めるつもりはあらへんけど、きっと後悔するよ」
 ――後悔? どう言う意味だろうか。聞き返したくもあったが、なにぶん時間が無い。ただ、「大丈夫ですよ」とだけ返し、再度その船の場所を問うた。
「向こうさぁ」男は暗がりの更に向こうを指差した。
「あっちの埠頭の外れの外れ。行きゃあわかる。まだ出てなけりゃあ一隻だけぽつんと停まってる筈やけん」
 僕はその男性に、「ありがとう」と頭を下げたが、どうやら彼はもう関わり合いを持ちたくないらしい、黙ってそっぽを向くとさっさと自分の船へと乗り込んで行ってしまった。
 ――真っ暗な晩だった。空は一面雲で覆われているのだろうか、ぼんやりとした朧月が頭上に一つ見える以外は、星一つさえも見当たらない程の暗い夜。僕はその夜空さえ明るく見えるであろう暗闇の中へと分け入って行く。
 近くでしきりと打ち付ける波の音が聞こえるが、どうにも埠頭とその向こう側の区別が付きにくい。万が一にも足を踏み外して海へと落ちたならばただでは済まないだろうなと考えながら、おっかなびっくりと進んで行く。
 そうしてどれぐらい歩いたのだろう、気が付けば暗闇の中にぽつんと一つ、ほの暗い電燈が灯っている事に気が付いた。船の穂先部分に取り付いた小さな電球の明かりであった。
 あれだろうか。思いながら近付けば、今にもその小型船から足場を取り外そうとしている人が僕の存在に気付き、手を止めた。
「あの……」
 声を掛けて、思わず言葉を飲み込んだ。そこに立つ人の姿が、あまりにも奇妙であったからだ。
「――何か?」
 その、“馬の首”はしゃべった。良く良く見ればそれは木を彫って作ったのであろう馬の顔を模した仮面であった。何故かその面の目の部分は閉じられている。人の目が覗ける場所はきっと、その細長い面の鼻の孔の部分であろう。きっと見え難い事この上ない筈だ。
 仮面の下は男であろうその人物は、時代錯誤であるかのような黒い絣の着流しに草履をはき、船首部分に立っている。
「あの、この船――」
「緋諸岐行きですよ」
 躊躇なく、男は答えた。逆にこちらがうろたえてしまう程に澱みが無い。
「乗るのですか?」
 聞かれて僕は、「え、えぇ」と、ためらいがちに返す。
「どうぞ、間もなく出航します」
 揚げられそうになった足場は戻され、僕の目の前でその船は波に押されて揺れていた。船の横腹には剥げて消え掛かった、“詞願丸”と言う文字がかろうじて読めた。
 そして僕は――船上の人となった。
 背後で足場は揚げられ、すぐに船は岸を離れた。そうしてから僕はまだ船賃を払っていない事に気が付き、急いで先程の男性に尋ねてみる。
「あぁ、船賃ですか」
 何故か男の方もまた、忘れていたような口ぶりだった。
 そして男は金額を言わないまま、指を六本立ててみせる。まさか六千円かと思い慌てて聞けば、男は仮面の下で笑い声を上げながら、「六百円で“いいですよ”」と答えた。
 いいですよ――とはどう言う意味だろう。思いながら僕は、硬貨で百円玉を六枚、男に手渡した。
 気が付けば港の灯りが既に遠くに見える程に、船は遠ざかっていた。足元では船のエンジンが上げる振動音が、絶えず小さく鳴り響いていた。
「客室へどうぞ」
 うながされ、僕は船の後部にある狭い空間へと足を踏み入れた。そして驚く。それまでは全く想像すらもしていなかったのだが、なんとそこには僕以外の先客達の姿があったのだ。
 じわりとするような緩慢さで、皆の視線が僕の方へと注がれるのを感じた。
 天井に吊るされたワット数の低い裸電球が、狭い室内を照らす。目で追い、客の数を確認すればそれはたったの四人だけ。
 一人は革のジャンパーを羽織った若い男性。目付きが鋭く、どこかやさぐれている感のある雰囲気で睨みつけるようにして僕を見ていた。
 もう一人は部屋の隅で小さくなっている短く切り揃えた黒髪の背の低い女性。厚手のコートを羽織り、首にはマフラーを巻き、大きなマスクをした上に色の濃いサングラスをしている。
 そして残り二人は夫婦なのだろうか。年老いた男女二人が、寄り添うようにして座っている。夫人の方は足が悪いのだろうか車椅子へと腰掛け、口元まですっぽりと毛布に包まれて寝ており、老紳士の方はその夫人の手をさすりながらその横に付き添っていた。
 総勢四人。そこに僕と船頭の仮面の男を加えれば、たったの六人だけである。
「あ、あの……ここ、いいですか?」
 目付きの悪い男にそう聞けば、男はただ僕から目を逸らすばかりで何も返事はしない。僕はそれを勝手に、「どうぞ」の応えと解釈し、少し離れた場所に腰を下ろす。
 繰り抜いたかのような丸い窓に顔を近付け、曇ったガラス越しに外を眺める。だがその窓には、まるで厚手のダンボール紙でも貼り付けているのではないかと疑ってしまうような闇しか映らない。再び船室へと目を向けるのだが、そこもまた深き闇に沈んでしまったかのような重苦しい空気。“誰一人として喋るな”とでも言ったような暗黙なルールがあるかのようだった。
 時折、若い女性が思い出したかのように激しい咳き込みをする以外には、船のエンジン音と波を掻き分ける音のみ。そして僕もまた、その空気に同化するかのように口を閉ざすと、まるで悪い事でもしてしまったかのように俯いた。
 そうしてそれから何時間が経ったのか。何度かのまどろみと何度かの覚醒を繰り返し、ふとその船室から姿を消した人の存在に気が付いた。
 革ジャンの男は、私の隣でまどろんでいた。老夫婦は相変わらず同じ恰好のままそこにいた。するといなくなったのは若い女性か。思いながら窓を見やれば、そこは既に真の暗闇ではなくなっていた。
 ――朝が近付いているな。濃い群青から深い紫へと空が変わりつつあるのを見付け、僕はそっと立ち上がる。
 軋む扉を開け、外へと出る。刺すような風の冷たさを覚悟していたのだが、意外にも外の空気は爽やかな程度に涼しい。
 水平線に沿い、僅かばかりに空が白み始めている頃。僕は船室を回り込むようにして船の後部へと向かえば、姿の見えなかった女性はそこにいた。風にたなびく髪をかき上げながら振り向けば、彼女はマスクもサングラスもしていなかった。
 お世辞にも美人だとか可愛いとか言える程の女性ではなかった。どちらかと言えば男性的であり、唇は厚く、目は細く、地味で暗そうな雰囲気の女の子であった。彼女は私と視線が合うと、慌ててその顔を隠すようにしてマスクを付ける。そしてその上にマフラーを巻き付け、口元をすっかりと覆ってしまった。
 やけにガードの固い子だなと思いつつ、「おはよう」と声を掛ければ、驚いた事に彼女が発した第一声は、「近付かないで」だった。
「あ、え……」
 困って言い澱めば、尚も、「近付かないで!」と、彼女は悲痛な声をあげる。
「お願いだからもうそれ以上は近付かないで。私に近寄るとろくな事無いから」
「近寄るなって、どうして?」
「大方、酷い伝染病かなんか持ってんだろ」と、突然背後から声がした。
「そいつ昨日からずっと妙な咳してたし、厳重なぐらいに顔を隠してやがる。しかもなるべく誰の傍にも寄らないようにしてたしな。ちょっと考えれば誰でも判る。お前もうそれ、末期的なんじゃねぇの?」
 振り向けばそこにはあの、目付きの悪い男性が立っていた。両手をズボンのポケットに突っ込みながら、下卑た笑いを浮かべながら。
 女は急いでサングラスをかける。すると男は尚も畳み掛けるように、「島に埋まりに行くのか?」と聞いた。
「――だから何? 悪いとでも言いたい訳?」
 怒気をはらんだ声でそう聞き返せば、「ハハハッ」と笑って、男は甲板の手摺りに寄り掛かる。
「別に良くも悪くもねぇんじゃねぇ? どうせだぁれも帰れやしねぇんだから」
 言うと女は一拍置いて、「そうね」と呟く。どうやらその一言で二人の会話は満足したらしいのだが、僕としてはそうは行かない。
「ちょっとそれ、どう言う事なんですか? 埋まりに行くとか、帰れないとか。これ、“ひもろぎ”行きの船ですよね? あなた方、ひもろぎに何しに行くんですか?」
 矢継ぎ早にそう聞けば、二人は――尤も、女性の表情はマスクに隠れて見えはしないのだが――呆気に取られたまましばらく黙り込み、そして、笑った。
「あははははは、なんだよそれ! どこからツッコんだらいいのか全くわからねぇ! これはひもろぎ行きの船ですかって? まずはその辺りからなのかよ! あははははははは!」
 男が笑うと今度は女の方が、「何しに行くんですかとか、こっちが聞きたいよ」とヒステリックに言い、そして腹を抱えて笑い始めた。
「まさかおじさん、観光とか旅行気分でこの船に乗ったの? ――有り得ない。マジ有り得ない。可笑し過ぎて逆に苛立つわ」
 言って女は、思い出したかのように激しく咳き込んだ。僕は思わず、「大丈夫?」と反射的に聞いたのだが、それが彼女の癇に障ったのか、「うるさい!」と怒鳴り返された。
「なにその“大丈夫?”って。大丈夫だったら今ここに私がいる訳ないじゃん。下手な同情とかしてんじゃねぇよ。絶望してる人間笑いものにして楽しいのかよ、オッサン!」
「オ……オッサン?」
「やめとけよ、二人共」男が息を整えながら言った。
「別に観光で来たってぇんならそれでもいいじゃねぇか。そんならそれで、コイツの絶望はこっから始まるってこった」
 男は僕の顔に向けて人差し指を突き付けた。
 なんなんだ、オッサンだとかコイツだとか。僕は珍しく瞬間的に腹を立てたが、それはすぐに収まった。僕を見る男の瞳はやけに血走りながらも、どこか妙に虚ろだったからだ。
「あの……“ひもろぎ”って、どんな島なんですか?」
 敢えて僕がそう聞けば、「まだそんな事を」と女性が叫び、そして男は手でそれを制止した。
「オッサン、マジで知らねぇで乗ったのかよ」
「え、えぇ、まぁ。人に勧められてこれに乗ったって言うだけで……」
「有り得ない」と女が言うと、「そうだな、全く有り得ない」と、男は賛同する。
「オッサン、この船に乗れるのは、もう完全に生きて行ける望みの無い人間か、既に余生いくらもない人間だけだ。“ひもろぎ”は、普通の人間じゃあ辿り着けない楽園であり、流刑地なんだ。もしもお気楽に“ひもろぎ”に向かってるってぇんなら、そりゃあとんでもねぇ勘違いだ。悪い事ぁ言わねぇ、今すぐこっから海へ飛び込んで、泳いで現世を目指すことだな」
「え、それってどう言う……」
「おじさんも本当は絶望してるんでしょ?」サングラス越しに僕の目を覗き込みながら、その女性は問う。
「そうじゃなきゃこの船に乗れる筈が無いもん。――ねぇ、おじさんも絶望してるんでしょ? もう自分なんか生きていたって仕方がないとか思ってるんでしょ?」
 そう言って彼女が指差した方向には、白々と夜が明け始めて来た暗い空の中、ぼんやりと浮かび上がる小さな島のシルエット。
「あぁ……」
 男の口からそんな呟きが漏れた。僕は身を乗り出してその島の影を食い入るように見つめる。
 ふと、空に舞い散る白いものに気が付いた。
 ――雨? いや、雪? いやそのどちらでもない、これは……?
「あぁ、母ちゃん。もう着いちまったよ」
 男は手摺りに掴まったまま、その場で崩れ落ちる。
 灰は降る。静かに、ただゆっくりと。そうして海原へと落ちた灰はそれ自体で固まるようにして、その水面を白く覆い始めていた。
「もう帰れねぇよ。……ごめんよ、母ちゃん。……ごめん」
 そして男ははばかる事なく、孤独に泣き始める。女はいつの間にか船室へと戻った様子で、そこに取り残された僕はただ一人、咽び泣く男の声を聞きながら次第に大きくなりつつある緋諸岐島の全容を眺めているだけだった。

 *

 まるで童話に聞いた鬼の棲む島のようだなと、僕は思った。
 その島の入り口は大きな丸太で組まれた柵の向こう側にあった。水中から突き出ている柵と言うのもかなり奇妙ではあったが、その内側は更に奇妙なものが立ち並んでいた。
 一目見て判った。それは積み石――仏教で言う所の、賽の河原に立ち並ぶ石の塔であった。
 但しその積み石は尋常ではない大きさであり、どれだけの労力を使って積まれたのであろうか、巨大な岩盤を幾重にも積み重ね、そうして作られたであろう海の中から突き出る岩の塔なのである。
 それが何十、何百と言う単位で船の進路の左右にとそびえ立ち、見る者の度胆を抜きにかかる。激しい波が押し寄せその塔へとぶつかるが、その積み石はまるでひるむ事なくその場に立ち塞がっている。それはまるで狂気の人工物だなと僕は思った。
 そうしてその積み石の塔を抜け、再び見えて来る第二の柵も抜け、ようやく船は島の岸辺へと辿り着く。ゴンと言う鈍い音と共に船の腹が渡された足場へと繋がり、下船の用意は出来た。
 但し、我先にと降りるつもりは毛頭無かった。その細く長い粗末な木製の足場も怖かったのだが、それ以上に気味が悪い光景がその向こうにはあったからだ。
 覗き込む暗い浅瀬の水中には、赤や緑色をした海藻が隙間など見付からない程にびっしりとひしめいており、それはまるで海へと生者を引き摺りこもうとしている亡者の手にさえ見えた。
 そしてそれ以上に気味悪く感じられるのが、その足場の向こうにある岸辺。
 まず先に、鮮やかな程に真っ赤な鳥居が見えた。そしてその向こうに見えるのが、小高い絶壁の岩肌。その岩肌には何百と言う小さな穴が繰り抜かれ、その全てに地蔵が祀られているのが見て取れる。
 その絶壁を伝って右へと向かえば、波押し寄せる真っ暗な洞窟。左へと向かえば砂浜に敷かれた石畳の道を抜け、松林のそびえる町らしき場所が見えた。
 叶うならば駆け足でその左手方向へと進みたいのだが、どうやら現実的にはそうは行かないらしい。その真正面に見える鳥居のすぐ向こうには、この船の船頭と同じ恰好をした黒い着流しの馬の面の男達が十数名程、竹槍のようなものを掲げ、立っているのが見えるのだ。
 しかもその男達の中央には、更に奇妙な恰好の者がいた。
 真っ白な長い髪に、病的な程の白い肌。そしてきっとその背格好から若い男性であろう事が推測出来るその存在は、周りの黒い男達から浮き出して見える程に真白き装束を身に纏い、片膝を立てたようなだらしない恰好で茣蓙(ござ)の上に座り込んでいた。
 突然背後でドンッと言う鈍い音が聞こえ、同時に、「さぁ、降りませい」と、槍を掲げた船頭の男が告げる。
 最初に船を降りたのは、マスクの女性だった。危なっかしい足取りで足場を渡り、女は白髪の男の前まで辿り着く。従えた馬の面の男達は一斉に槍を交差させ、男と女性の間を遮ぎり、同時に女性の退路までをも塞いだ。そんな状態のまま二人は二言、三言、何かを問答した後、白髪の男はスッと右手を上へと挙げた。
 槍の戒めはすぐに解放された。そして女性は軽い会釈をすると、男の挙げた右手の方向――つまりはこちらから見て左手、町のある方へと向かって行った。
 続いたのは、目付きの悪い男だった。足場へと移る際、何かを言いたげにこちらをちらりと向いたのだが、結局は何も言わぬままに彼は向こうの鳥居をくぐった。
 次に白髪の男の挙げた手は、左手――洞窟のある方向だった。
 その行動は驚く程に素早かった。二人の馬の面が交差した槍の先端で男の首を押さえ、残る男達が一斉に荷物や衣服を奪い取る。目付きの悪い男はあっという間に下着姿の軽装にされ、荒縄を打たれて身動き出来ない恰好にされてしまった。
 何事だと言っている暇さえなかった。男は手荒く急き立てられると、引き摺られるかのようにして洞窟の方へと連れて行かれる。
「あぁ、あの子は“おつとめ”なんだろうねぇ。大変だねぇ」
 ふいに声が聞こえ、振り向く。いつの間に来ていたのだろう老夫婦の片方、老人男性の姿がそこにあった。
「おつとめ……とは? あの人、どこに連れて行かれるんです?」
 聞けばその老人男性は、「おつとめは、おつとめだよ」と笑った。
「あっちにいる人達と同じように、何かの仮面付けて働かされるんだよ。気の毒にねぇ……まだ若いのに」
「働くって、どんな? 一体何があって……」
 咳払いが聞こえた。振り向けばそこには馬の仮面の船頭の姿。
 どうやら立ち入って聞いていい話でもなさそうだと、その空気から読み取った。仮面の間から覗く瞳には、静かな怒りすらも混ざっているような気がしたからだ。
「さぁて、よっこらしょっと。悪いがあなたも手伝ってもらえんかね。婆さん押してこの橋渡るにはちょっと厳しいみたいだからね」
 振り返って老人男性がそう言うと、仮面の男は仕方なしと言った感じで夫人の車椅子を押す手助けを始めた。先に老人男性が渡り、その後ろに夫人を乗せた車椅子を押す仮面の男が続く。そして三人が向こう岸に渡りきって初めて、僕も足場に飛び乗った。
 どうやらあの老夫婦もまた、町のある砂浜方向へと向かわされたようだった。何人かの仮面の男達が車椅子を押す手助けをしながら石畳の道を行く。
 ――果たして僕はどっち? やはりそこは疑わずにはおられない所だった。
 引き返そうかと何度も後ろを振り返っては、また数歩前へと進む。そんな繰り返しをしながら恐る恐る足場を渡りきれば、今までの皆と同じように、僕の目の前に槍の囲いが出来上がった。
 そうして、茣蓙に座る白髪の男は僕を見上げる。意外にもその瞳は、金色に近い程の綺麗なオレンジ色に見えた。男は僕を眺めながらちょっとだけ首を傾げると、「おやぁ、不思議だねぇ。なんだかどちらでもない方が来られた様子だ」と、微笑む。
 だらりと垂れ下がった前髪の間から覗くその笑顔は冷淡で、おぞましい程に綺麗な顔立ちの男だった。
「あ、あの……僕は……」
「あぁ、いや」困りながら話す僕の言葉を、白髪の男は制止する。
「大丈夫、“御館様”からちゃあんと聞いてるよ。脅かしただけさ。ごめんごめん」
 男はそう言って笑うと、懐からこれまた真っ白な扇子を取り出せば、スッとそれを広げて宙を指す。
 馬の面の男が一人その扇の後ろに顔を隠す。どうやら白髪の男が耳打ちしたいと言った感じの合図らしい。その扇伝いに、「報告されい」と、呟いた声が聞こえた。
 耳打ちされた男は町の方へと駆け出して行く。それを見届け、白髪の男は扇子をしまうと、気だるそうにのそりと立ち上がる。従者の差し出す下駄を履き、やけに緩慢な動作で洞窟の方向へと向かって行く。馬の面の従者達は急いで茣蓙をしまい、男の後を追って歩き出す。
「あっ、あの……」
 僕は思わずその背後へと声を掛ける。だが誰一人として振り返る事をしない。
「ちょっと待っ」
 足を一歩、踏み出した時だった。僕はその言葉を最後まで言い終える事は出来なかった。従者の一人が突き出した竹槍の先端は、僅か数センチ足らずと言う距離で、僕の喉の真正面にあったからだ。
 直観的に、今ちょっとでも動けば殺されるだろうと言うのは判った。
 向こうで白髪の男がちらりとこちらを向いた。ただそれだけ、言葉は何もないままに、男は歩み去って行く。そうして僕と充分にその距離が離れたと同時に、槍は下げられた。
 もう何も言うつもりはなかった。向こうの洞窟に従者の最後の一人が消えるまで、僕は何も言わず、動かずにいた。恐怖はその後から来た。どっと噴き出す汗と共に、僕は迷わず町の方へと歩き出す。
 多分ここは、普通の日本の常識には当てはまらないルールで動いている。そんな事を考えながらとぼとぼと砂浜の上の石畳を歩けば、微かな振動と地鳴り音。――おや、地震か? 思いながら身構えれば、遥か遠くの山から噴煙が上がっているのが見える。
 なるほど、ここに来る途中で灰が降って来たのはこのせいかと思い当たる。しばらくすれば、少し前に海の上で見た光景通りないつわりの雪景色が垣間見られた。本当に不思議な場所だなと、感嘆せずにはいられない。
 町へと入るその手前、石垣に立て掛けてある折り畳んだ車椅子を見付ける。もしかしたら先に行った老夫婦のものかも知れないとは思ったが、どうしてそこにあるのかが判らない以上、僕は放っておく事にした。
 町の外れにはこれまたやはり、仮面をかぶった男が二人、立っていた。
 但し今度は馬の面ではなく、牛を模した面だった。目を閉じている所までは一緒だが、どうやら馬と牛ではなんらかの区別がある様子で、その二人の男はやけに屈強で、手にした得物は重そうな青銅の剣だった。
 その二人は扉を守る門番なのだろうか、僕がその門をくぐると同時に、重そうな音を立てて扉は閉められた。
 僕はその門の前に立ち、目の前に広がる町の風景を眺めながら一つ大きな溜め息を吐く。
 多分こんな風景、今の日本ならずとも世界中のどこに行ったとしても見る事は叶わないだろう。心からそう思ったからこその溜め息である。
 そこはさながら大正ロマンか、昭和モダニズムな世界であった。しかも現存するフィルムやら写真で見るようなレトロ感覚あふれるセピア色などではない。町中に色とりどりな天然色の花が咲き、山から吹く風に運ばれ桃と桜の花弁が真白き灰と共に舞い降りて来る、そんな極彩色の世界なのだ。
 僕はただ、呆気に取られるばかりであった。季節は初春。だがまだ桜どころか桃の季節にも早い。それどころか向こうの辻には菊が咲き、向かいの家の庭先には金木犀が満開になっている。いくら花には疎い自分であっても、それがおかしい事ぐらいは判る。ここは到底、正常な季節の中にある土地ではないと言う事が。
 ――そうだ、写真撮らなきゃ。今更ながらにそんな重要な事を思い出し、背負ったザックの中を探る。だが――。
「なんだこりゃ」
 思わず疑問が声に出る。入れた筈のカメラを取り出そうとザックの口を開いたならば、そこに入っているものはまるで記憶のないゴミばかり。木屑に軽石、丸まった和紙に布の切れ端。かろうじて残っているものはプラスチックケースに入れておいた大量の原稿用紙と筆記用具のみ。そして――。
「あぁ、財布も無くなってる」
 恐らくは昨夜、うとうとと寝てしまった時にやられたのであろう。せめてザックを抱えながら寝るべきだった。いやそれよりも、下船の前に中身を確かめるとか、その軽さに疑問を持つべきだったと今更ながらに後悔をする。
 後ろを振り向く。だが既に船へと戻る道は閉ざされている。ならばもう警察しかないか。思いながら通りの店先を流して歩き始めた。
 そうして数件目で、僕はそこに見知った顔を見付けた。先程船で別れたばかりの老人男性だ。とても彼が盗んだとは考え難いが、疑わしき時間帯にはずっとあの場にいた筈である。とりあえず何か知っているかもしれないと思いながら近付けば――。
「な、にを……」
 ――しているんですか? 言葉は続かなかった。
 狭い畳敷きの居間の中。老人の見ているその前で、妻である筈の老婦人は丸裸にされ、ボロ布のような服を身に纏った男達数人に取り囲まれながら、乱暴されている場面がそこにあった。
 止める間もなかった。足首を持ちあげた男の片手には大きな木槌が握られ、躊躇する気配もないままにそれを老婦人の膝に打ち付ける。ボコっと言う鈍い破壊音が聞こえると同時に、老婦人の足は逆側にくにゃりと折れ曲がる。
「あ、あ、あんたら、何をやってんだ!」
 僕はありったけの勇気と怒りでそう叫んだ。
 木槌を持った男達は、一斉に僕に視線を投げ掛ける。どいつもこいつも、どろりと濁った生気の無い瞳だった。これはただじゃあ済まないかと覚悟すれば、意外にもそれを止めたのは夫人の連れ合いである老人の方であった。
「まぁまぁまぁ、あなたちょっと……勘違いしてらっしゃいませんかねぇ」
「か、勘違いって、な、なにを」
「あぁ、みなさん申し訳ございません。そのままお続けになって」
 老人が言うと、男達は皆ふんと鼻を鳴らし、再び木槌を持ち上げる。またしても、止めに入る暇がなかった。木槌は振り落とされ、夫人の腕を打つ。頭を打つ。そうしてようやく気が付いた。老婦人が、ただの一言も悲鳴をあげない事に。
「あ、え……まさか……」
「申し訳ありませんねぇ」老人は笑顔のままでそう言った。
「家内はね、もうとっくに息してなかったんですよ。亡くなってすぐにあの船に乗せたんですけどね。やっぱり皆には言っておくべきだったのかなぁ」
「言っておくべきだったって――」僕は老人に向き直る。
「何を呑気な事をおっしゃってるんですか。奥さんが亡くなったのなら、それなりの手続きを踏んで葬儀をあげるのが常識でしょう。なのになんで船になんか乗せてこんな辺鄙な場所まで連れて来るんです。あなた、奥さんを弔うつもりはあるんですか?」
 怒りに任せてそう言えば、老人は尚も笑顔で、「困りましたねぇ」と笑う。
「困りましたって、何がですか? 大体あなた、あの人達に――」
 言い掛けて、そこでようやく判った事がある。床に無造作に広げられた白装束。向こうの壁に立てかかる無地の柩。そうしてみれば椅子に座った形で固まってしまった老婦人の身体を木槌で叩き、無理矢理に曲げているのも頷ける。要するに今、あの夫人の遺体は柩へと収められようとしている所なのだ。
「まさかあなた、奥さんを弔う為だけにこの島へ――?」
「為だけに、と言う部分に引っ掛かりますが、まぁその通りですよ」
「どうしてまた? 葬儀ならばどこでも出来るじゃありませんか。なにもわざわざこんな遠い島まで連れて来なくても」
「あぁ、わかってませんねぇ」
「……何がですか」
「あなた本当に、この島がどんな所か知らないで来たのですね」老人男性は穏やかな口調のままそう言った。
「緋諸岐は、死せる魂の集う場所。黄泉路に一番近く、そして現世と隣り合った場所にある、そんな島なのですよ」
「……」
「もちろん誰でもが来れる場所ではありません。必ずそれなりの対価が必要ですからね」
「対価、ですか? それってどんな?」
「私達の場合はそれ相当に見合う財産でした。先に向かったお二人は、その自身の体か魂か。この島は、貨幣を持たない人間にとってはやたらと厳しい場所ですからねぇ」
「じゃ、じゃあ――」僕は自らの胸を指す。
「僕は?」
「さぁ」
「さぁって……」
「私は、あなたが何の目的でここに来たのか知りませんのでね」
 言って、老人は笑う。そして老人は奥から出て来た男が差し出す白装束を受け取り、自らの背に合わせ始める。その横で尚も木槌は振るわれ、老婦人の硬直した身体はいびつに、“真っ直ぐ”に折れ曲がって行く。
 なんだ、なんなんだこの島は。訳がわからない。どんな風習の、どんな常識で成り立っている場所なんだ。
 僕は片手で右目を覆い、ふらつく足で歩き出す。背後で老人が尚も何かを告げていたが、言葉の意味はまるで耳に入って来ない。
 そのおぞましき“店”を後にして、再び通りへと出る。その隣の店は柩の店なのだろうか、大小様々な柩が所狭しと並べられ、その店先では皮膚がただれて崩れ落ちそうになっている幼い子供が、両親であろう二人に小さな柩を見立てられている。
 向かいを見れば、“蕎麦処”と書かれた看板の店と、一杯飲み屋のような大衆酒場の店に挟まれて、“ンリマルホ(右から読むらしい)”と言う看板の店があった。見ればその店頭には巨大なガラス瓶に詰められた成人女性の肢体の標本。もしかしたらそれすらも弔いの一つなのだろうか、瓶の表面に書かれた経文が禍々しく見える。
 通りの向こうからなにやら奇妙な声が聞こえて来る。目を凝らして良く見れば、道に積もった灰を掻く人夫を押し退け現れる黒づくめの僧達。聞き慣れない読経を声高らかに読み上げ、鐘を鳴らし、踏み固めただけの泥の上を草履のままでやって来る。
 そしてその背後には信者とおぼしき人々が、こうべを垂れ、黒い襷ばかりを渡した格好で付いて来る。その中には、船で逢ったマスクの女性の姿があった。
「なんだよこれ……狂ってる!」
 僕はたまらず走り出す。複雑に匂いが絡まる香の店の前を通り過ぎ、全身に黒い斑点を浮かべてげらげらと笑っている裸体の女性の前を通り過ぎ、行き倒れた死体を目の前に串刺しの肉を焼く屋台を通り過ぎ、地べたに座り込みながら物乞いをしている顎の無い男の前を通り過ぎ、人の片腕を噛みながら歩く野良犬を避け、僕は満開の染井吉野の桜の樹の下で立ち止まる。
 ぜいぜいと喘ぎながら幹を背にして座り込む。にわかに木陰が有難い。
 逃げて――逃げてどうするんだ。目的も無ければ行くあても無い。しかも今の僕には頼るべき人も金も無い。先程の老人が言った通り、どうやらここでは貧富の差が全てを物語るらしい。何十人もの僧を従えて、金箔に塗り固めた柩が通り過ぎて行くその横で、乳房もあらわなみすぼらしい老婆が、数珠を片手に力尽きて倒れ込む。
 ――狂ってる。ここは絶対に狂ってる。そう強く思った時だった。
「あなんでもここの土の上で死ねるだけ有難ぉ事やんのすけどねぇ」
 ふわりとした、涼しげな声だった。それはまるで真夏の夕暮れ時に山から吹き降りて来る清涼なる風のような。
「木戸先生おすなぁ?」
 聞かれて振り向く。そこには二人、日唐傘を差し立っている和服の女性。傘が上手い具合に影を作り、二人の表情は良く見えない。
「――どなた?」
「S出版の太田はんから連絡を受けた者おす。よぉけぇ遅うなりましょって、勘弁おつかぁし」
 太田? S出版の太田だって?
 どこか胸の奥でじんわりと、熱いものが湧き上がる心地がした。太田と言う人間は苦手だし好きな奴ではないのだが、何故かその名前を聞いた途端に激しい安堵が込み上げる。まだ――僕はまだ向こうの世界と繋がっている。そんな安心が僕を包んだ。
「あっ、は、はい。木戸です。木戸優二と申します。太田……さんとは仕事の関係で……」
 言いながら立ち上がる。
「聞いておあします」
 傘が、閉じられた。そこに立っていたのは紫の和服に身を包む若き女性。髪を結い上げ薄化粧を施した、切れ長の目の美人だった。それはもう、一瞬呼吸さえも忘れる程に美しいと思える女性であった。
「八重(やえ)と申しあす。御贔屓に」
 言ってその女性――八重は、深々とこうべを垂れた。そして僕もまた、それに倣って頭を下げる。つい今しがたまで恐怖に突き動かされて駆けていた事など、既にに失念してしまっている。
「あ、えぇと……聞いていると言いますと?」
 しどろもどろに問えば、八重は片手で唇を覆いながらくすりと笑う。
「今度お書きゅうなる小説の取材とお聞きしとりあす。先生がこちらぁに滞在している間、うちらがお世話の程仰せ仕ぅとりあす。なんでもおっしゃって下さいあし」
「あ、は、はい……えぇと」
 ――うち、ら?
 そう言えばその八重さんの後ろにもう一人いる。果たして彼女は一体誰? と、視線をそちらへと移したその瞬間――。
「枝垂(したら)と申しあす。御贔屓に」
 僕は、息を飲んだ。まず最初に、何ごとだと思った。
 優雅な手付きで傘を閉じ、そこから現れたその表情は、八重さんと同じ――いや、僅かながら更に若いのだろうか。間違いなく同じ血だろうと思える程に似通った麗人が二人。同じ妖艶な瞳で僕を見つめていた。
 何かを言葉にすると言う事が、まるで出来なかった。それはそうだろう、今までの自分自身の人生において、果たして女性を相手に何回会話をした事だろうか。きっと買い物の際のコンビニエンスストアの店員さんや、出版社の事務員さん等、仕事や生活を絡めて必要に迫られてした会話を除けば、プライベートで女性と会話を交わしたのは高校生の頃が最後だったのではないか。
 ならばそれはもう既に、二十年以上も前の事になる。そこまで女性に対しての免疫が無い自分が、どうして器用に会話なぞ出来ようか。ただただその二人の美貌に見惚れるばかりで、気の利いた言葉一つさえ出て来ない。
「どないおぁしあした?」
 聞かれてようやく我に返る。しかし、「あぁ、いや」と言ったきり、何も続ける事は出来ない。
「なら参りあすえ。お宿の方へとあない(案内)いたしあす」
 しゃなりと柔らかい物腰で八重は振り向きながらそう言った。振り向くその一瞬に見えた八重の横顔の微笑は、まるで背筋を羽箒で撫でられたかのようなぞくりとした淫靡さを感じさせた。
 そして一方の枝垂は、八重とはやけに対照的で、終始無表情のままだった。顔や姿形は似ているものの、その性格はそうでもないのだろう。
 僕はぼんやりとした心地のまま、高下駄で悠々と歩く彼女達の後について行った。
 往来に並ばる店々はやはりどれも不気味で滅入るものばかり。僕がそれらを気にしながら歩いていると、「怖いおすか?」と聞かれる。意外にも声を掛けて来たのは枝垂の方だった。
「い、いえ、怖いと言うよりは……」
 思わず言い淀み、視線を外す。
「言うよりは? なんでおす?」
 静かでゆったりとした口調ではあったが、やはりどこかに冷たい棘のようなものを感じる。
「なんでしょうね。ここにいるとなんだかまるで……日本ではない別の国のような気分になります」
 言うと枝垂はくすりと笑い、「可笑しい」と呟いた。
 それはまるで少女の作る笑みそのもので、彼女は今まさに子供から大人へと移り変わろうとしている時期なのだと言う事がわかった。
 急に陽射しが温かくなったような気がした。見上げれば大粒の白い灰が尚も空から降り続けるも、陽は翳りもせずに射し込めている。
 ――本当に不思議な所だな、ここは。
 片手で陽をさえぎりながらそんな事を思っていると、挙げた手の袖を引っ張るようにして、「おにいさん、おにいさん」と、妙なだみ声で話し掛けられる。視線をそちらへと移せば、やけに汚らしい小柄の男が僕を見て薄ら笑いを浮かべていた。
「いい女紹介するよ。ちょんの間だけど遊んでってよ」
「えっ、いやちょっと……」
 慌ててその手を振り解けば、尚も男は僕の手を取り食い下がる。
「本当にいい子が揃ってるよ。今なら何人抱いても同じ料金だよ。ねぇ、寄ってお行きよおにいさん」
「いや、今は……」
「お待ちなぇ」
 瞬間、男がたじろぐ。どうやら今の声は八重だったらしい。少し向こうでこちらを振り向き、先程までの柔和な表情はどこかへと消えてしまったかのような顔で男を睨んでいた。
「あ、あぁ、いや、これはこれは……」
「お消えなさぇ」
 次にそう告げたのは枝垂の方だった。果たしてその二人にいかほどの権力があるものなのだろうか、客引きの男は一言小さく、「ひい」とだけ言うと、土煙を巻き上げながら駆け出して行く。
「下賤めぇが」
「やめとぉさい。そういう言葉遣い」
 二人で言い合いながらくすくすと笑う。僕はそんなやり取りを聞きながら、「あれは一体?」と、八重に問うた。
「見ての通りの“遣り手(ポン引きの事)”おす。先生がお好きなのならどうぞ遊んで来ておくなし」
「いえいえ結構。僕は生来、生身の女性は苦手らしくて」
 なんて冗談めいて言うと、「あら、それならむしろ先生向きおすねぇ」と、枝垂が笑う。
「僕向き? 何がです?」
「あの遣り手はぁ生身のおなごを売ってる訳ざぁございあせんよ。どの上臈(じょうろう)も皆、“冷たく”なってる身でおすえ。お好きな殿方はそう言うおなごがよろしいかも知れあせんがねぇ」
「冷たいって――えぇ!?」
 僕が問い返すと、再び二人はくすくすと笑い合いながら歩き出す。
 今のはどう言う意味なのだろうか。僕はあえてその言葉の意味を考えずに後を追う。
 通りの向こうの店先では下半身の無い若い女性の亡骸に、死化粧を施す狐の面の男の姿。そしてその店の横では三味線を弾き鳴らし浄瑠璃のようなものを詠う全裸で盲目の女性の姿。その前を、夜鷹のような恰好をした肉腫だらけの女が顔を隠しながら通り過ぎる。
「なんて――」思わず呟く。
「なんて場所なんだここは。まるで日本のどこでもない、独自の文化で成り立っているかのような場所じゃないか」
 なるべく小さな声で言ったつもりなのだが、どうやらそれは前を行く二人に聞こえていたらしい。二人同時に振り返りながら、「そうおすなぁ」と、微笑をたたえながら言葉を返す。
「ここは“本州”とは随分違った風土、風習に染まっとりあす。あまり本土の常識でははからない方がえぇかと思いあすえ」
「そうかぁ――」
 そうだよなぁ。僕は一人、納得をする。
 えぇい、郷に入れば郷に従えだ。どんなに道理が違っても、言葉が通じる以上はここは日本だ。ここに滞在する間は、ここの風習に染まって生きよう。
 思った瞬間、ごごごご――と大地が鳴り出し、不安定に足を取られる。
 鈍い地鳴りと震える大気。遠くにあがる純白の噴煙が、活火山の振動である事を教えてくれている。
 真っ白に染まる午後の空に、青い稲光が走る。恐らくは火山雷と言うやつだろう。白地に鮮烈な青とは、やけに美しいものだなと、空を見上げながら僕は思った。
 ――灰が、降る。真冬の雪のように。
 深々と、粛々と。真白き大地を、更に白く染め上げようとするかの如く。
 枝垂れ桜と、八重桜。名前通りな絵柄を模した唐傘が、僕の前を行く。
「あの……失礼ですが、あなた方二人は御姉妹で?」
 聞けば、ゆっくりとした緩慢さで二人の足が止まる。
 紫色と桜色の和服。くるりと唐傘が振り向き、黒髪の女が二人、俯き加減に僕を見つめる。
 二人は無言のまま首を傾げ、そして静かに微笑んだ。切れ長の細い瞳が更に細まり、朱を重ねた唇が僅かに吊り上る。
 ――なんと言う美しさなのだろう。僕はそれを言葉に出さず、感嘆した。
 雲の上に陽を頂き、世界を白く染め上げる、緋諸岐(ひもろぎ)島訪問初日の事であった。

 *

 からからからから――と、窓の外の手摺りに結わえられた色紙のかざぐるまが回っている。
 ぼんやりと緩慢に目が覚め始めて来る。まだ思考に繋がらない視線が、風に乗って白き灰が舞い散って流れて行くのを捉える。それに続き、淡く朱に染まる桜の花弁がそんな真白き背景に鮮やかに浮かび上がっては共に舞う。
 向こうの山々に見える紫色と黄色の花はなんなのだろう。桃や梅、桜の色の中にひっそりと、艶やかなアクセントを添えている。
 喉が、からからだった。どうやら昨夜は少し飲み過ぎたようだ。この異国めいた雰囲気に飲まれでもしたのだろうか、普段は滅多に口にする事もない冷酒を勧められるがままに飲み干し、酩酊のまま今に至る。
 僕はだらしなく布団の上に転がり、窓から飛び込んで来る風に身を任せながら昨夜の醜態をおぼろげに思い出して行く。
 あれは――夢だったのだろうか。
 いや、夢だろう。むしろ夢だと思いたい。思いながら布団に寝そべる自分を眺めれば、記憶の通りな裸体のまま。おい、冗談じゃないぞと重い上半身を持ち上げたその瞬間、からりと部屋の障子戸が横へと滑った。
「うわあっ!」
 慌てて布団に丸まれば、くすくすと甘い笑い声。布団の端からそっと顔を覗かせると、そこにはやけに扇情的に薄物の襦袢を着崩した八重が、盆を片手に笑っていた。
「八重……さん?」
「まぁた先生は、やめてぇ言っとりますのに、“さん”呼ばはりしなさる」
 言いながら八重は起き上がった僕の真横へと座り、結わないままの長い黒髪をかきあげながら、綺麗な青色の切子の椀に琥珀色の冷たい茶を注ぐ。はだけて見えそうになっている胸元がやけに艶めかしい。
「あ、あの……」
「なんでおす?」
 化粧を落とした素面のままで微笑む彼女は、まるで枝垂と同じか、もっと年下であるかのような幼さが感じられた。
「あの、八重――さん?」
「“さん”はよぉけやって言っとりますがね」
「じゃ、じゃあ、八重」
「ふふ、なんでぉすか?」
「あの、ですね。昨日僕達、相当飲みましたよね?」
「よぉお飲みなっておざいましたよ。弱そうに見えて相当お強ぉございますなぁ、先生は」
「あ、あぁ、いやそれ程でも」
 違う。その話じゃない。
「八重――も、かなり強いみたいですねぇ。なんか、お互いに随分と……」
「随分と? なんですやろ?」
 ――続かない。どうしても聞き出したいのに、どうにもその核心に触れられない。どうやって切り出せばいいものかと思い悩んでいると、「昨夜みたいに“お注ぎ”ますかえ?」と、八重は椀を片手に迫って来る。
 八重は両手で碗を傾け、茶を自らの口へと含む。そうしてから八重は僕に覆いかぶさるようにして伸し掛かると、その小さな薄紅色の唇を僕の唇へと重ね合せる。
 そしてはっきりと思い出す。昨夜はお互いにずっと、こんな酒の“やり取り”をしながら、へべれけになるまで飲み続けたのだ。
 ごくりと、喉が鳴った。合わせた唇越しに冷たく香り良い渋い茶が注ぎ込まれる。僕はそれをこぼさず飲み下し、そして口内にねじ込まれる彼女の舌先までをも強く吸い上げる。
「もっとお注ぎ差し上げおすか?」
 八重は僕の首の後ろに両手を回しながらそう聞いた。
「う、うん」僕は至極素直に頷いた。
「欲しい。――もっと」
 言うと八重はふふと小さく笑いながら、意地悪そうな表情で僕の上へと乗って来る。
 向き合うようにしながら八重は僕の膝の上へと座り込み、再び椀を傾ければ、今度は自ら襦袢の前側をはだけさせて抱き付いて来た。
 八重の乳房が僕の胸へと重なる。彼女は僕を下に見ながら、挑発的な仕草で唇を突き出した。――これじゃあまるで鳥の雛だな。なんて思いながら、僕は口を半開きにしながら彼女の唇を待ち続ける。
 彼女の目が、訴え掛けていた。“懇願しろ”と命令するかのように。
「下さい」
 言うとようやく八重の許しが降りる。そのしなやかな手が指が、僕の頭を絡め取るようにして抱え込み、引き寄せて来る。深い深い接吻をかわしながら、僕は再び茶を飲み下す。舌を絡め、鼻息を交わらせ、八重の掌が僕の髪をくしゃくしゃに撫で回し、そして僕の両手は彼女の衣服をせり上げて、その柔らかい腿を、尻を揉みしだく。
 何も――何も考えられなくなる。頭の中は、外に降り積もる真白き灰のように空白となり、ただひたすら彼女の愛撫を受け入れながら身を任せるだけ。八重の腰は、その下にある屹立した僕のものを刺激するかのようにして動き始める。そうだ――そうだった。僕達は昨日もこうして、酒の酔いと興奮に任せて何度も何度もまじわった。
 次第に八重もまた高揚して来ているのか、吐息が喘ぎに変わりはじめる。彼女は乱暴に僕を押し倒すと、自らの掌で挿入を促した。
 ずるりとなめらかな感覚で僕は彼女の胎内へと飲み込まれて行く。なんとも言えない、なんとも形容しがたい快楽だった。八重は僕の上へと重なりながら、何度も何度も接吻を求めつつ腰を動かし始めた。そうして次第にその行為が盛り上がり始める頃、なんの前触れも無しに、「おはやくおざいます」と言う声が部屋の入り口の方から聞こえた。
 枝垂だ。僕は慌てて、「い、今ちょっと……」と追い返そうとしたのだが、意外にも八重は、「お入り」と、平然と言ってのけた。もはや止める暇も無い。再びからりと障子戸が鳴り、そこに膝をつきかしこまっている枝垂の姿が目に入る。
「あ、いや、これはその――」
「お気になさらぁでよろしいおざんすよ」
 八重は僕の頬を撫でながら笑う。上気してほんのりと赤く染まった顔が余計に厭らしい。いやそう言う訳にも行かないだろうと僕は取り繕うように枝垂を見るが、どうやら彼女もまた僕達のこのような情事にはまるで興味を示していないかのように、黙ったままで膳を掲げ部屋へと入って来る。
「お気になさらぁで良いおすよ」
 枝垂が座椅子の前に膳を置きながら、無表情な顔でそう言った。
「そうそう、お気になさらんで」八重は舌先で僕の耳の中を舐め回しながら言う。
「シタラはん、冷やいの一本持って来ておくれな」
「へい、姐さま」
 枝垂はすくと立ち上がり、まるで何事もなかったかのように部屋を出て行く。どうやらお互いにこう言う場面は慣れているものらしい、僕は少し醒めたものを感じた。
 尚も八重の愛撫を受けながら、さてはここは女郎屋か何かなのだろかと思った。昨夜来た時には夕暮れも近付きこの屋敷の外観程度しか見る事は叶わなかったのだが、それでもここがやけに大きな旅籠のような場所である事だけはわかった。もしかすれば、そう言う趣旨の場所なのだろう。
 とすればこの八重もまた、そう言う職の女なのだろうか。――いやいや、当たり前だ。そうでなければこんな僕とこんな関係を持とうとする筈が無い。
 次第に八重の吐息が荒くなり、同時にその腰の動きも激しくなる。僕は下から八重の乳房を揉みしだきながら、全てを彼女に任せていた。
 やがて絶頂の訪れを全身にて感じる頃、僕は小さく、「八重」と彼女の名を呼んだ。そして彼女はそれで悟ったのか、僕に強く覆いかぶさりながら舌を僕の唇へと無理矢理に押し込んで来た。
 脳が白く感光する。びくりと全身が強張り、そして僕は欲望の全てを彼女の中へと放出した。――そして訪れる無気力さと倦怠感。八重は嬉しそうな表情で何度も僕の頬を撫でまわしながら、「お疲れあそばしましたなぁ」と笑った。
 からからからから――と、窓の外の手摺りに結わえられた色紙のかざぐるまが回っている。八重が手拭いで後始末をしてくれている間、僕は天地が逆になった視界のままで、その光景をぼんやりと眺めていた。
「八重、あれは一体なんの為のものなの?」
 聞けば八重は僕の陰茎を握り締めながらその先端に舌を這わせつつ、「かざぐるまの事ぉすか?」と問い返して来る。
「そう、あれには何か意味があるのかな? ここに来るまでの至る場所で、あれと同じものを見掛けたんですけど」
「そうぉすなぁ」八重は腿にへばりつきながら、上目使いに僕を見る。
「ここいら辺の古い習わしみたいなもんおすなぁ。気になりましょうか?」
「いや、特に……」
「ならお気にしなぁすな」
 そう言って八重は僕の陰茎を喉の奥まで飲み込んだ。膣内とはまた違った、ぬめりとした感覚が再び僕の性欲を震え上がらせる。
「や、八重さん、ちょ、ちょっと――」
「“さん”はよぉけやぁて」
「や、八重……」
 言葉は継げなかった。彼女にされるがまま、僕は悶えた。
 心の底では彼女のような職業を蔑み敬遠していたりするのだが、どうやらその世界を知ってしまった今となっては、とても拒み切れるようなものではないと悟る。僕は八重の頭を両手で鷲掴みにし、そしてまたじわじわと込み上げて来る絶頂に身構えた。
「失礼おあします」
 そんな時だった。部屋の外から聞こえる枝垂の声。待ってと言う暇も無かった。開け放った障子戸の向こうでこちらを見つめる枝垂の表情を眺めながら、僕は八重の口内で果ててしまった。なんとも惨めかつ倒錯した気分だなと思いつつ、冷酒の瓶を置いて出て行く枝垂の後ろ姿をぼんやりと見送った。

 気が付けば既に外は夜だった。また寝てしまったと自らを叱咤する。
 時刻を知りたいのだが、運悪く腕時計すらも盗まれてしまっていたのだ。おかげで時間の感覚は酷く曖昧なものとなってしまっている。
 開け放った窓から篳篥と小太鼓とおぼしきお囃子が夜風に乗って響いて来る。
 こんな夜更けに聴く笛は、なんとも寂しい音色だなと思いながらけだるいままに身を起こす。
 からからからから――と、窓の外の手摺りに結わえられた色紙のかざぐるまが回っている。向こうには仄かに明るい町の灯と、群青の山の稜線が空の闇色に入り混じり、なんとも言えない郷愁感を漂わせている。
 隣に八重はいなかった。僕は夏掛けの毛布に包まりながら独り寝ていた。朝夕無く勧められる強い酒のせいで、どんよりと頭が重い。僕は布団の傍に綺麗に畳まれている浴衣に身を通し、ふらつく足で部屋を出た。
 板張りの廊下は目を凝らさなければいけない程に暗く、僕は右手で壁に触れながら、奥の厠へと急いだ。
 どうやらこの旅籠らしき建物には照明器具と言うものが存在していないらしい。厠の中にはかろうじて皿に載った蝋燭が一本、小さな炎で辺りを灯している。
 格子の窓から外を眺めつつ用を足す。そうしながらふと思う。なんとなく――なんとなくだが、一日の過ぎるのがやけに早いような気がした。
 今日はひたすら怠惰な一日だったせいでまともな時間感覚ではなかったにしろ、どうにも腑に落ちない時間の速さに思える。そう言えば昨日もそうだ。早朝にこの島の港へと着いた筈なのに、町からこの旅籠へと到着しただけで既に夕暮れであった。どこかで無駄な時間を過ごしたような記憶は一切無かった筈なのに。
 そうだ、明日にでも太田に電話しなきゃなぁ。思いながら厠を出て、再び軋む板張り廊下を進む。幾分暗闇に目が慣れたせいか、いつの間にか歩く事が苦ではなくなっていた。良く見れば自分が泊まる部屋の他に、いくつか同じような部屋らしき障子戸があるのがわかる。だが、どの部屋からも人の気配が感じられないのはどう言う事なのだろうか。などと戸惑っていると、向こうから小さく光る燭台の炎が近付いて来るのが見えた。
「あ……えぇと」
 名前を呼ぶのに困った。髪を下ろし、白の長襦袢姿でいるその女性が、八重か枝垂かどちらなのかが見分け付かなかったからだ。
「先生」
 呼ばれて慌てて、「はい」と返事をする。暗がりの中、蝋燭の炎の灯りを通して見る彼女は、綺麗さを通り越してどこか薄気味悪くさえ感じられる。
「ご入浴のお支度、整いおあします」
「あ、あぁ、はい」
 言われて僕は、その長襦袢の女性の後ろを追い掛ける。途中、カマを掛ける意味も含めて背後から彼女に問い掛けた。
「さっき外からお囃子のような音が聞こえたのですが、もしかしてどこかでお祭りでもやってるんですか?」
「えぇ」女性は躊躇う事もなく答える。
「この島では毎晩、どこかで祭事は行っておざいあすよ。でも今夜だと――そうぉすねぇ、ミシャグウジ様の祠辺りではあらんすかねぇ」
「みしゃく……なんですか、それ?」
「御社宮司様でおあしますよ。塞の神様おすけぇ、よお祀らんといつ祟られるかわからんとぉですよ」
「へぇ」
 聞いても良くわからないが、きっと土着の信仰か何かなのだろう。とりあえず僕は理解した振りをして本題へと入る。
「ところで、僕の部屋の窓にかざぐるまが結わえられているのですが、あれは何か意味があったりするものなのですか?」
 聞けば間髪入れずに、「まぁ」と言って彼女は振り向く。
「先生はぁ面白いお方おすなぁ。何度同じ事を聞けば済みます事やら」
 そう言って彼女は笑った。ようやく僕は安心して、「なんだ、八重さんの方か」と笑い返す。
「それももうやめとぉつかわさいな。何度も言うとりますやろぉ」
「あぁ、ごめんなさい。八重――ね」
「今度また他人行儀な呼び方しなさったら怒りますえ」
 言って八重は僕の手の甲をつねった。その仕草がやけに可愛らしく、僕は思わず自らの意志で彼女に接吻を求めた。八重はほんの少しだけ間を置いて、唇を重ねて来た。
 意外にも、案内された浴室は月夜を望める屋上の露天風呂だった。
 一目見て、圧倒された。脱衣所から覗けるその浴槽の大きさだけ見ても相当な筈なのに、そこから広がる周囲の風景はまるでどこかの庭園か何かのようで、ぐるりと周りを取り囲む淡い薄紅色の桜が灯篭の灯りでぼんやりと闇に浮かび上がっているのだ。
 真正面には真白き上弦の月。風に煽られ桜の花弁と火山灰が、ゆるりゆるりと流れて落ちる。
「八重、ここは随分と凄い……」
 振り返り、言葉を失う。
 こちらに背を向け、衣擦れの音一つ立てずに襦袢をはだける八重の姿。月明かりに晒され、その真白き背が異様なまでに艶めかしく目に映る。
 簡単に髪を結い上げ、櫛と簪でそれを留める。その一連の動作さえ息を飲む程に美しい。
 八重はようやくこちらの視線に気付いたか、振り返りながらそっと薄く笑い、「見てらっしゃったのおすか」と問うた。
「あ、あぁ。なんか――凄く綺麗で」
 素直にそう答えれば、「恥ずかしおすな」と八重は笑い、裸体のまま近付いて来ると抱き付くようにしながら僕の浴衣の帯を解いた。
 まるで獣の皮を剥ぐかのような慎重な手付きで、ゆっくりとゆっくりと僕の身体を掌で撫ぜながら着物を脱がして行く。あらわになった胸元に唇を押し付け、時にはその小さな舌を肌に這わせながら。
 愛撫のような脱衣が終わると、八重は今度はそっと僕の手を握り締め、小さな声で、「参りぉすか」と呟いた。その仕草がまた幼い子供を連想させ、大胆な大人の女性の仕草との差に驚かずにはいられない。
 湯は、少々ぬるいのではないかと思える程の適温であった。薄い硫黄の匂いに混じり、どこか草原か牧場のような草の香りが立ち込めている。八重はそんな僕の疑問に気付いたか、「これは天然の温泉でぉすよ」と教えてくれた。
「ここいらぁではどこも湯が沸き出ましょうで、源泉には事欠きませんのおす。向こうに見える活火山のおかげで一年中暖こうて、咲く花々も季節ば選ばしませんのや」
 なるほど、だからこそこんな時期にてんでばらばらに色んな花が咲いているのか。ようやくそこに納得が行った。
「これ、元はと言えば数百度の熱さの海水なんどぉすよ。それに薬草と井戸水ばぁ加えてぬるくしておるのおす」
「へぇ」
 随分と贅沢な湯だな。思いながら指先で湯をぺろりと舐めてみる。確かに海水のものなのだろう、微かなしょっぱさが感じられた。
「ねぇ、八重さ――あぁ、八重」言い直して笑われる。
「この桜って、染井吉野ですか? 随分と素晴らしいんだけど」
「違いますえ」八重は、やんわりと言った。
「先生ば桜の種類、いくつあるか知っとおりやすか?」
「えぇと、何種類だろうなぁ。とりあえず知っているのは、君の名前と同じ八重桜と――後は姥桜(うばざくら)の二つくらいかなぁ」
 大真面目に言ったつもりなのだが、八重はそれが相当に面白かったらしく両手で口元を押さえて大笑いをした。
「それはどちらも御座いあせんよ先生」
「えっ、本当に?」
「姥桜は先生の冗談やとしても、八重桜と言う品種もありしませんのぉすよ。実際に“八重”と付く桜は八重左近(やえさこん)か、八重紅枝垂(やえべにしだれ)かのどちらかおす。それに桜の種類は実に四十種以上もあおします。白い桜に紅色桜。黄色や鮮やかな緑色の桜なんぞもありんすよ」
「へぇ、そうなんですか」
「ちなみにこの桜はどれも、阿亀(おかめ)桜と言う品種おす。名前の通り綺麗な花でおざいあすやろう」
「オカメ……ねぇ。名前だけ聞くとそうとは思えないんだけど」
「何を言うとりやす。阿亀とは元々、神様の名前おすやろう。天照大神が天岩戸にお隠れもうしたお話しは御存じないですやろうか」
「あぁいや、それは知ってます」
「その時に岩戸の前で舞いを舞って扉を開かせたのが阿亀――つまりは、大宮能売命(おほみやのめのみこと)。別名、天宇受賣命(あまのうずめ)の事おす」
「そうなんだ。そこまでは知らなかったよ」
 僕は素直に感心して言う。
「“槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れき”。古事記の中で天宇受賣命は扇情的かつ官能的な踊りをしたと伝えられておりあすが、一体どんな舞だったんでおざいあしょうねぇ。神をも惹き付ける舞とは、どんな情熱なんでおざいあしょうねぇ」
 そう言って八重はすいと僕の横から移動して、月を背にしながら目の前に立つ。月光に照らされ白く光る水面から浮き上がるかのように映える若い女体のシルエット。余分な脂など微塵も無いかのような引き締まった肢体が、水晶のように輝く滴を振り撒きながら闇夜の中で優雅な舞を踊り始めた。
 それは一体、どんな舞踊なのだろう。円を描くかのような腕の動きに加えて、艶めかしくその腰がくねり出す。ひときわ大きく腕を振り上げた後、八重はその艶やかな黒髪を目の前で解いて見せた。
 ――妖しい。怖いほどに妖しく、美しい。月光に晒され夜桜舞い散る星空を背景に踊るその裸体は、まさしく神話の中のアマノウズメを彷彿とせんばかりの官能さだった。
「八重……」
「先生」
 二人の声が同時に重なる。
「あ、あぁいや、どうぞ」
 言うと八重はくすりと笑い、そして、「お願いがありもうす」と、小さな声でそう告げた。
「お願い? どんな?」
「まだ言えまへん」
 伸ばされた手を取る。誘われるがままに立ち上がり、そして彼女の身体を抱き締める。
「言えないって、どうして?」
「色々おざいます」
 言って、八重は笑った。そうしてひとしきり物憂げな表情で笑った後、急に真顔となって唇を重ねて来た。僕はそれを受け止めながら、ぎこちない接吻を続ける。心なしか彼女の身体が震えているような気がした。
 急に僕の中の何かが燃え上がり、彼女を抱き締める腕の力が強くなる。無理矢理に舌を捻じ込み、彼女の舌と絡め合う。乱暴に尻を掴み、逃がさんとばかりに彼女の頭を押さえ付け、そして激しく乳房を揉みしだいた。合わせた唇越しに彼女の吐息が僕の口内へと吐き出され、余計にその欲望は熱を帯びて来る。
 もはや我慢の限界だった。いっそこのままここで抱いてしまおうかと決意したその時だった。
「駄目っ!」
 突き飛ばすようにして、八重は僕を拒んだ。僕が驚きながら彼女を見つめていると、「ごめんやす」と、素のままなのだろう声でそう言いながら湯から上がってしまった。
「八重さん?」
「先生、かんにんな」
 早足で出て行く八重を見送りながら、今のは一体どうした事なのだろうかと考える。だがその答えはそうそう簡単に見付かりそうにはなかった。

 *

 夜も更け、外で静かに鳴り響いていた篳篥の音さえも止んだ時刻。「おばんであす」と、障子戸の向こうから声が聞こえた。
 僕は行燈の灯りの中、まだ一行すらも書けていない原稿用紙の上に万年筆を放り出し、「お入り下さい」と告げた。
 戸がからりと開く。そこには白い長襦袢姿の八重と枝垂が、燭台と徳利の乗った盆を横に座礼していた。
 なんとなくだが二人の雰囲気がおかしいような気がした。八重が僕の横へと座れば、枝垂は盆を置いてそそくさと出て行ってしまう。
「お捗りやすか?」
 聞かれて僕は、「いや全く」と照れ笑いをする。そうしてお猪口を差し出されるが、僕は、「今夜は要りません」とそれを断る。
「燗酒はお口に合いませんやろうか」
 聞かれて、「そう言う訳じゃないんですが」と、僕は慌てて付け加える。
「どうにもここにいると居心地が良過ぎて仕事の事を忘れてしまいます。だからとにかくなんか書かなくちゃと思って四苦八苦していた所なんですけど……」
「あら、まだなぁんにも書けておりまへんのですねぇ」
「そうなんです」
 素直に答える。すると八重はいかにも可笑しそうな表情を作り、口元を袖で隠す。
「ところで八重」僕はあらたまって彼女に向き直る。
「言い出しにくい事なんですが、ここの宿のお代はどうなってます? 恥ずかしい話になりますが、僕はここに来る前に船の中で財布をすられてしまいましてね」
「おやまぁ、大変でおざいあすねぇ」
「とりあえずそれは置いておいて話しますが、察しの通り僕は完全に無一文なんです。ここの旅籠の代金と、その――君達のね」
「私達の? それはお花代の事おすか?」
 うんともいいえとも言えずに黙っていると、八重はまたしても袖で口元を覆い笑い始める。
「僕、今なにか可笑しい事でも言ってしまいましたか?」
「いいえぇ」八重は言う。
「ただ先生ばぁ私達の事を上臈(じょうろう)とお間違いなさっとりあすなぁ。まぁ仕方ない言うたら仕方のない事おすけど、私らはそう言う手合いとは違いますえ」
 気まずさに黙り込んでいると、「先生ばお銭の心配要りませんえ」と、八重は僕の膝をさすりながらそう答えた。
「お代金の方は先に太田はんの方から頂いてやすし、それに先生ばこの島にとっては特別なお客人であらせられおす。私ら二人は、“御館様”より仰せつかって先生の傍に置いとってもらっとりあす。だから先生ばぁなぁんもお気になさらず、いくらでもここで長逗留して下さってって構いませんのおすえ」
 そうなのか。聞いて安堵するのと同時に、別の疑問が頭をよぎる。
 本当に太田が先んじて送金などしているものなのだろうか? 確かにここへと来る前に和俱の港で葉書きを投函した事は間違いない。だが、ここへと到着するより先にどうやって太田が旅籠等の段取りを付ける事が出来たのか? 少なくとも葉書きが編集部へと届くのは少なく見積もっても翌々日。だがこの島の反応はそれよりもずっと早い。
 それに――そう、例え葉書きの到着が僕の上陸よりも早かったとしても、あの太田が僕の為にそこまでしてくれるとは到底思えない。これは何か裏があるような気がしてならないが、そのからくりまではまるでわからないのが現状だった。
「ところでその、“御館様”って誰なんですか? どう言う訳あって、八重は僕の所に来たんです?」
「――聞きとぉおすか?」
 八重は少しだけ意地悪そうな表情でそう聞いた。
「聞きたいですね。少なくともあなたを通じてお世話になっているんですから」
「私の主(あるじ)でおす」八重は言った。
「そしてこの島のいっとう偉い人。だぁれも彼には逆らえまへんし、裏でこそこそと悪口言う人すらもおりまへん。そんな絶対的な方おす」
「そんな人がどうして――」
 どうして僕なんかを気に掛けて人を送る? 全く意味がわからない。
「先生ば特別なお客人であらせられおすからなぁ」
 八重は再び同じ事を言った。
「わからない。僕が特別だと言う事がまるでわからない。僕はただ単にここへ観光に来ただけの人間ですよ?」
「でもここの旅行記をお書きになる」
 ――確かにそうだ。
「充分に特別であらせられますやなぁ。先生は高名なお方らしいおすから、ここの事もよぉけ書いてくれますんやろう?」
「いや、高名だなんて……」
 むしろ無名過ぎて“先生”と呼ばれる事自体、遠慮したいぐらいなのだが。
 だが、なんとなくぼんやりと疑問の輪郭は掴めて来た。要は僕がここで特別視扱いされていると言う事は、僕がまがりなりにも作家と言う職業のはしくれであるからこそなのだ。ならばやはり、意地でもこの旅行記は完成させねばならぬと言う事である。
「――でもなぁ」
「なにが、“でもなぁ”でおすか?」
 八重が僕の顔を覗き込む。思わず、「書ける気がしない」と言い掛けてやめた。とりあえず彼女が言う、“御館様”と言う人物だけは刺激しない方がいいだろうと感じたからだ。
「いや、冒頭をどう書こうかで悩んでいるんですよ。ここさえ書けちゃえば、後はなんとかなるものだから」
「なるほどぉすな。私にはよぉわからしませんが、大変な事なんでおあしましょうなぁ」
 言いながら八重は襦袢の前をはだけながら僕の膝の上へと乗って来る。そうして無理に僕を押し倒し、片手で股間をまさぐりながら激しい接吻を求めて来る。
「もう大丈夫なのですか?」
 僕は下から彼女の肢体を抱き締めながらそう聞いた。
「大丈夫とは? なんの事ぉす?」
「さっきの事ですよ。浴場で今みたいな事を僕がしたら、駄目って言って逃げちゃったじゃないですか」
「……」
 八重の手が止まる。僕の上へと覆い被さった状態のまま、その顔がすうっと音を立てるかのように無表情へと変わる。
「ど、どうかしましたか八重さ……あぁ、いや、八重」
「いいえぇ」
 言いながら八重は後れ毛を指で漉きながら、僕の頬へと自らの頬を重ね合せた。
「もう大丈夫おす」
「そ、そうですか」
 直接耳の中にねじこまれる彼女の声に、くすぐったさと同時にどこか冷たい苛立ちのようなものを感じる。
「大丈夫ならいいんですよ。僕てっきり、なんか失礼な事しちゃったのかなと」
「平気おす」
 八重は顔をあげる。その表情はもう既にいつもと同じ艶めかしい笑顔であった。
 夜はふける。だがどうやら僕はまだ当分眠れないらしい。八重の爪が僕の首筋を痒い程度に撫でて行く。それはやけに淫らで挑発的な愛撫であった。

 *

 朝、けたたましい女性の泣き声で目が覚めた。
 ひどい泣きようだった。外の往来を芝居じみた悲鳴のような嗚咽で何人もの女性が通り過ぎる。窓からそっと顔を出して覗けば、向こうの黒塀の外を喪服を着た大勢の人々が列をなして歩いているのが見えた。
 振り返り見れば、いつの間に部屋を出て行ったのだろう、八重の姿はとうになかった。確かに明方までは一緒の布団で寝ていた筈なのに。
 この島に来て早くも四日が経っていた。原稿は相変わらず何も書けていない。毎日毎日、食べて飲んで、八重と一緒に怠惰な時間を過ごすだけだ。
 そう言えば一つ、酷く困る事があった。それはこの島に、“電話”と言う通信機器が存在していないと言う事である。おかげで太田と連絡を取る事が不可能なのだが、郵便物の送り届けは可能だと言う事なので、その内にまた葉書きでも書こうと考えた。
 僕はそろそろと浴衣に着替え、顔を洗いに階下へと降りる。階段横の厨房の前を通り過ぎれば、僕を見付けた枝垂が割烹着を外しながら、「おはやくおざいます」と、相変わらずどこか棘のある口調で声を掛けて来る。
「あぁ、おはよう。――八重さんは?」
 聞けば枝垂はいよいよ無愛想な口調で、「本家おす」と、膳に食器を載せながら言った。
「あぁ、いいよいいよ。今朝はこっちで食べる」
 そう言って中へと踏み込めば、「お部屋で召し上がって下されば良ぉおすに」と小言をつきながら、今度は膳に乗せた食器を卓袱台の上へと並べ始める。
 今朝の食事は魚の塩焼きと山菜の和え物、そして漬物の小鉢に佃煮と海藻入りの味噌汁。いつもの事だが食事は実に豪華で旨い。だがしかし――。
「枝垂さん、この魚はなんて名前の魚なんだい?」
「あぁ、それぁおすなぁ――」
 その都度、枝垂は教えてはくれるのだが、どうにもどの名前も僕の頭には残らない。その場で復唱して終わり。その次の瞬間にはもうどれも忘れてしまっているのだ。
 考えれば考える程に、どの料理も馴染みのないものばかり。記憶から引っ張り出せない料理の数々ではあるのだが、それらはどれも口に入れれば懐かしく感じる。そんな奇妙さに満ち溢れているのだ。
「ねぇ、枝垂さん」
「何でおすか?」
 枝垂は見慣れない赤と黄色に染まる果実を器用に包丁で皮を剥きつつ答える。
「さっき“本家”って言ったけど、それってどこの事を言ってるの?」
 聞けば枝垂は簡素に、「御館様の所おす」と答える。またしても御館様か。妙に胸に引っ掛かるなと思いながら、熱い茶を啜る。
「そうか。じゃあ八重さんは向こうで何をしているんだい?」
「答えられまへん」
 枝垂は即答する。
「どうして?」
「どうしてもおす。答えられない言うよりは、答える為の権限持っておりませんのぉす。かんにんしてつかっさい」
 堪忍して――か。なら仕方がないなと諦める。
「姐さまの事が心配おすか?」
 逆に聞かれ、僕は慌てて、「いや」と答えた。
「ただ、なんか良くわからなくてね。君達は一体どう言う理由で僕の食事の世話をしているのかとかさぁ、そう言う部分を知りたいなと思ってね」
「夜の伽も含めての事おすな」
 いきなり核心を突いて来る。僕はどぎまぎとしながら、「それも含めて」と、照れながら返事をした。
「私達ばぁ御館様から、先生の“なにもかも”の世話を仰せつかっとりあす。それで全部でぉすよ。御館様から“抱かれて来い”と言われたのなら、どうあってもそうせずにはおれあせん」
 酷い話だな。その当事者ながらも、思わず眉を顰めてしまう。
「それって……もしかして君も?」
「伽の相手は姐さまだけであす。私ばぁまだそのお役目は頂戴されておりまへんで」
「お役目って、そんな――」
「でもきっと、もう間もなくの事ですやろうねぇ」枝垂は剥き終わった果実を皿によそい、僕の目の前に差し出した。
「私ら“お役目”のおなごたちは、ある年齢になれば御館様の所に召し上げられあす。そこで教え込まれるんおす。殿方の悦ばせ方、癒し方などを念入りになぁ」
 ――なんだって? 無茶苦茶な話じゃないか。僕は自らの耳を疑わずにはいられなかった。
「姐さまも言うておりましたぁで。狭い部屋に押し込められて、今が昼なのか夜なのかもわからないままに幾人もの殿方に代わる代わる教え込まれよりましたぁて」
「馬鹿げてる!」思わず声を荒げてしまった。
「枝垂さん、あなたが生まれたこの島を悪く言うつもりはないが、いくらなんでもそれは個人の尊重を度外視し過ぎだ。おかしいと言うよりも異常だ。それが風習なのか特殊な家訓なのか、それとも個人の考えに依るものなのかは知らないけれど、そんな馬鹿げた事に付き合う必要はない。断りなさい」
 断固として言えば、枝垂はしばらくぽかんとした表情でいると、突然くっくと笑い始めた。
「何が可笑しいんですか」
「そりゃあ先生が可笑しいに決まっておりあす」
「何で? どうして? 僕は間違った意見でもしましたか?」
「いいえぇ」枝垂は微笑みながら言った。
「先生ば合っちょりますよ。多分なぁ。――でも、この島に住むもんにはこの島なりの理屈がございあす。先生がおっしゃるのが常識であるなら、この島にも特有の道理と常識がおざいあす。もしもそこから逸脱して生きて行こうと申すなら、それ相当のお覚悟が無ければいけあせん」
「なら出て行けばいい」僕は尚も言い張った。
「ここに住むからこそここに縛られる。ならば出て行けばいいじゃないか。一人じゃ無理だと言うのなら僕が手を貸そう。八重さんと君と僕と三人で、この島を出ようじゃないか」
「無理おすえ」
「どうして」
「出られるわけあらしまへんやろう。先生一人ならともかく、私ら二人は到底無理おす。気持ちは有りがとぉ思いますけど、そんなの夢物語に出て来る夢のようなお話しですえ」
「訳がわからない」僕は言う。
「あなた達がここで生まれた事については仕方のない事かも知れない。だけどその先、あなた方がどこでどうやって生活して行こうとそれは個人の自由だ。他人が口を差し挟めるような類のものじゃない」
「無理おすえ」
「だからどうして!?」
「――“業”ですわ。私らは業に縛られ、業の為に生きておあします」
「なんなんですかその“業”って。曖昧過ぎて全然良くわからない。失礼ですがあなた方は、その御館様とかに弱みか何か握られてでもいるのですか?」
「わからしまへんやねぇ」枝垂は微笑む。どこか哀しみを含んだ表情で。
「私らはこの島離れて生きて行く事なんぞ出来しまへんのおす。だからどうぞ、同情せんでおくんなましな。先生のお気持ちばかり有難くちょうだい致しますよって」
「……」
 無言。どうやら彼女達を説得するには相当の根気が必要だなと僕は思った。
 僕は手を合わせ、「いただきます」と、剥かれた果実をひとかけら齧り付く。――正直、驚く程に美味かった。桃のような、メロンのような歯応えで、口の中で瑞々しく甘い果肉が芳香と共に広がって行く。
「枝垂さん、この果物はなんて言うものなのですか?」
「あぁ、それはおすなぁ――」
 その名前を聞き、「へぇ」と返事をしてもう一口。その頃にはもうすっかり果物の名前は失念していた。
 今日は外へ出ようかなと、僕はぼんやり窓の外を眺める。外でどこからか、鶯の鳴く声が聞こえた。

 枝垂に出してもらった絣の浴衣に袖を通す。背丈は驚く程にちょうど良かった。
「先生ばぁ、いつも衿の向きが逆おすで直さんと」枝垂は苦笑しながら衿を開き直す。
「衿は右前おすよ。左前やと仏さんおす」
「いや、しかし」僕は言い返す。
「枝垂さんも八重さんも、いつも左前じゃないですか。僕も前からこれは変だ変だと思ってたけど、皆さんの衿向きがそうだから僕の方が間違ってるんだと思ってましたよ」
「それはぁ、ここの島だけの風習おすよ。先生はぁ真似したらいけまへん」
 そう言って枝垂は再び帯を解きに掛かる。前の方から抱き付くようにして手を伸ばすその様は、なんだかいつぞやの八重の仕草に良く似ていた。
 着替えも終わり、部屋を出る。町の案内を枝垂の方から申し出てくれたおかげで、散策は思った以上に楽しくなりそうな気がした。
 最近になってようやくわかって来た事が一つ。八重と枝垂を判別するにはその服の色を見る事が一番手っ取り早いと言う事。八重は常に群青や紫と言った暗めの色を好み、枝垂はその逆で白に近い薄紅色や山吹色と言った、明るめの色を好んで着ているようだった。
 だがこれが夜更けに現れる無地の襦袢となれば、もうどにも区別が付かない。八重は比較的朗らかでやんわりとした口調で話し、枝垂は棘のある冷やかな口調で話すのが特徴ではあったが、それはあまりアテにならないと言う事もわかった。どうやらその癖は二人が一緒にいる時だけ使うものらしく、八重か枝垂のどちらか片方と一緒にいる際にはほぼ同じ話し方をするのである。
「ねぇ、枝垂さん。あなた方は御姉妹なんですよね?」
 玄関先でそう聞けば、枝垂は愛用のものなのだろう枝垂れ桜を模した模様の日唐傘を開きながら、「どうでおざいましょうねぇ」と、素っ気ない返事をする。
「だって枝垂さん、八重さんの事を“姐さま”って呼んでいたじゃないですか」
「そうでしたっけねぇ」
「でも、親子って話ではないでしょう?」
「さぁねぇ」
「どっちなんですか」
 隣に入れと言わんばかりにして待っている枝垂の横へと並べば、枝垂はそっと僕の腕に指を絡ませながら、「野暮おすよ」と、笑いながら歩き出した。
「野暮って、どうして?」
「この島ではそう言う話は聞いちゃいけん事になっとりやす」
「どうして?」
「わかりまへん。でもそう言う立ち入った話は常に禁句となっとりあすね」
「立ち入ったって……こう言うのも立ち入った事なんですか?」
「そらぁそうでおすえ。先生ばぁ私の名前も御存知ないことですやろ?」
「名前って……“枝垂(したら)”って名前じゃないの?」
「ちごぉおす」言って、枝垂は笑った。
「人には、“真名(まな)”と“仇名(あざな)”がおあします。そんで八重も枝垂も仇名でおあします。そんな感じで、個人に掛かる事ぁ全て禁句となっとりあす。誰もが隠しとぉすんで、誰もそれを聞こうとばいたしまへん」
「なんでそんな馬鹿な真似がまかり通ってるの?」
 呆れながらそう聞けば、「ここじゃあそれが当たり前おす」と、枝垂は言った。
「本土ではおかしい事かも知れまへんが、ここではそれが常識おす。全ては代々の“御館様”がお決めになった事。だから人の真名を知っているのはこの島の中では御館様だけ。親であっても子の名前すら知らないのがこの島の常識おす」
「――訳がわからない」
「わからないで結構おす。でもここにいる間はそれに従ごうて下さりあせ。人の身の上は聞かない、知りたがらない。その内に先生もわかって来るようになると思いますえ。ここにいたならそんな事ぁどうでも良い些細な事だと思うようになりあす」
「そうなのか」
 でも僕にはわからないよ。と、心の中だけで呟いた。
「じゃあ、あれか。ここの人々が皆、左前で帯を結ぶ理由も立ち入った事なのかな?」
「いいえぇ、それは違いますけど」
「……けど?」
「その理由は私もよお知りまへん。ただここが、“死”で成り立つ土地だからってぇ事ではありまへんかね」
 ――“死”か。そう言われると確かに頷けない事もない。だがそうすれば、衿を左前に着るここの人達は皆、“死者の側”であるとでも言う事なのか。もしそれがその通りなのだとしたら、もしかすれば今この島にいる“生者”とは、僕一人だけではないのだろうか。
 旅籠を出てすぐに、妙な光景に出くわした。朝、旅籠の二階の窓から見た喪服姿の一行が往来の隅で寄り固まって何かをしているのだ。良く見れば例の泣き叫ぶ女達もいる。僕がこっそりと、「あれは何?」と聞けば、枝垂は躊躇う表情一つ見せずに、「鳥葬おすね」と答えた。
「鳥葬? 鳥葬って……あの鳥葬?」
「他にどんな鳥葬がおざいあすのや。ほら先生、上ばぁ見て御覧さいな」
 言われて見上げる。そして僕が言葉を失う。
 やけに黒々とした木々だなとは思っていた。だがその枝葉全てが艶やかな黒色の羽根で覆われている鴉の大群だとは思いもしていなかったのだ。
 果たしてそれは何十――いや、何百何千と言う数だろうか。枯れた木の枝全てを覆い尽くすかのような鴉の群れが、まるで微動だにせずに眼下の喪服姿の一行を見守っている。そんな異様な光景だった。
 見ている間に裸に剥かれた死者の亡骸が現れる。それが木の下の石台の上へと仰向けに寝かされる。そしてそれが最後の弔いとなるのだろう、袈裟を着た坊主が念仏を唱え始めると共に、またしてもあの女達が芝居掛かったヒステリックな声で泣き始める。
「あれは“泣き女”おす。ただ泣く為だけに雇われた弔い用の黒子達ですなぁ」
 坊主が鞘から抜いた短刀を振りかざす。その一刀が亡骸の胸へと深々と突き刺さる。
「見ちゃいらんない」
 そう言って僕が立ち去れば、少し遅れて枝垂が付いて来る。
「気分わろぉなりあしたか?」
 枝垂に聞かれ、「そうだね」と僕が答える。そしてどうやら例の弔いはほどなく終わったのだろう、背後でけたたましい程の羽音が轟くのが聞こえた。
 確かに、この島には独自で成り立つルールと言うものが数多く存在しているのだろう。大きな桶に火山灰を詰め込み車(リヤカーのようなもの)で引いている野良着の男や、道端に転がる人骨を拾い集めて来ているのだろう、骨を積み上げ塔のようなものを作っている老人。これから墓穴でも掘りに行くのか、鍬と円匙(シャベルの事)を担いでぞろぞろと歩く馬の面の集団と擦れ違う。
「ずっと気になっていたんだけど、あの仮面の人達は何なの?」
「質問が多おすなぁ」枝垂は笑った。
「あれは、“馬頭(めず)”と呼ばれる衆でおあす。簡単に言えば御館様に直で遣える下っ走りでおす。私らなんかとそんな変わらしまへん」
「じゃ、じゃあ、町の門の辺りで見掛けた牛の面は――」
「そっちは“牛頭(ごず)”でおすな」枝垂は言う。
「牛頭は馬頭よりもちょっとだけ位が上でおす。どちらか言えば下っ走りと言うより番兵のような仕事おすね。気の荒い衆やて先生も気ぃば使ってごせ」
「牛頭に馬頭か――」ふと、どこかの寺で見掛けた地獄絵巻の図を思い浮かべる。
「どちらも“鬼”ですね。獄卒と言う奴だ」
「でも、あの衆達ばぁ鬼じゃあおあしまへん」枝垂は無表情のままに言う。
「どちらも、“模して”生きとるだけの者おす。この島の鬼はもっと他におあします。御館様に使役する、本物の鬼でおすよ」
「……冗談でしょう?」
「そう思えましょうか?」枝垂は僕を見て笑う。悪戯っぽい、艶めかしい笑みで。
「その内、先生もお逢いになるやも知れまへんよ。鬼は鬼おす、“角”が生えておいでやからすぐにわかろう思いますけど」
「へぇ」
 さすがにそれは本気で取り合わなかった。
 道端で直に座り込みながら客引きをする口寄せ(イタコのようなもの)達の前を通り過ぎ、中からもうもうと煙が流れ出して来る“香”の店の前を左へと折れ、やがて街道は色とりどりの梅、桃、桜に混じり、石楠花(しゃくなげ)と躑躅(つつじ)が咲き乱れる草原のようなひらかれた場所へと辿り着く。
 思わず息を飲んだ。――極彩色。そんな言葉が良く似合う、目が痛くなるほどの色の洪水がそこにあった。
 パステルのように淡く、蛍光のように鮮やかに、どんな光源を用いても再現が出来ないかのような濃密な色の数々が、無節操かつある種の秩序を保ちながら目に飛び込んで来る様は、脳すらも痺れさせる程な圧倒さを誇っていた。
 見上げればまだらな雲が青と白とをぼかしながら陽の輝きを妨げて、光の帯を放射線状に映し出している。その中にひときわ鮮やかな雷光が瞬き、その遥か向こうには溶岩流を纏う山の稜線が浮かび上がる。
 紫と薄紅の桜の花弁が、灰に混じって舞い飛んで来る。白く積もった火山灰が、向こうに見える大地を雪景色のように染めていた。
「ここは――?」
「墓地おすえ」
 枝垂は笑いながら言った。
「墓地? ここが?」
「この島全てが墓地みたいな所おすけど、ここはこの土地の中でもひときわ大きな墓園の一つでおあします。ほら、よぉ見ればところどころに卒塔婆ぁがありますやろう」
 ――確かに、それはあった。咲き乱れる花々に混じり込み、土筆のように地面から突き出ている背の低い卒塔婆の数々。――まさか、本当にここが墓所なのだろうか。目の当りにしても尚、疑問を感じざるを得ない程の美しさがそこにあった。
「あぁ、枝垂さん。なんとなくわかって来ましたよ。本土の人々がここを死地として訪れると言うその意味が」
「ほぉどすか」
 振り向き、笑う。くすぐったく感じてしまう程の悪戯な笑顔で。
 どこからか神楽かなにかを想像させる、雅楽の音色が風に乗って聴こえて来る。それはとても、現世とは思えない程の幻覚さを感じさせてくれていた。
「ねぇ、先生」
 呼ばれて僕は、我に返る。
「どうしました?」
「原稿ばぁ、お進みになりました?」
 やけに痛い所を突いて来る。だが――。
「まだですが、ようやく書けるような気がして来ました」僕は素直にそう告げた。
「どこから始まってどうやって何を書こうかと随分悩みましたが、どこをどうやったって僕が今感じて思う事の全ては文字としてあらわす事なんて出来ないんだ。だから、好きに書こうと思いました。書きたい所から適当に、僕が思ったままを綴って書こうと思いました。どうせそんな文章、誰も読んではくれないし頭で想像もしてくれないだろう事はわかってるんですから。肩の力を抜いて、書きたいままに書こうと思いました」
「よぉおざいますな」枝垂は言った。
「もしやそれには私も出ぇはるんおすか?」
 聞かれて僕は、「もちろん」と答える。すると枝垂は嘘ではないだろう程の照れ笑いをしながら俯いて、「それは嬉しおすなぁ」と呟いた。
「嬉しい? 本当に? 僕が書く程度のつまんない小説だよ?」
「嬉しいおすえ」枝垂は言う。
「それに先生の作品ばぁつまんなくはおざいまへん。先生の筆で書かれる私ば見てみたいと思わしょう存知あす」
「えっ……もしかして枝垂さん……」
「えぇ、読ませて頂いておりますえ。“深葬怜夜”も、“刻の迷路”も、両方共に読みましたえ」
「すごい!」僕は驚きのあまり声が裏返る。
「本当に? 両方共? 凄い……どっちも全然売れなかったのに」
「売れた売れないやありまへん」枝垂は笑う。
「どちらも綺麗でおあした。退廃的で、悲哀めいていて、それでもどこか美しくて、郷愁を誘うえぇお話しでおあした。あれは先生でなければ書けんお話しやと思います。そんな先生にこの島の事をば書いてもらえるんなら、それはそれは光栄な事やと思いますえ」
「光栄だなんて、そんなに言ってもらえるこっちの方がよっぽど光栄ですよ」
 そう言いながら僕もまた笑い、「でも」と、付け加える。
「今はもう早く書きたいって、本気でそう思えるようにはなりましたね。拙い文章でしょうけど、僕は僕なりにこの島の事を綴ってみようと思っています。果たしてどこまで表現出来るやら見当も付きませんが」
「えぇですなぁ」
「だから、もっと色んな所を案内していただけませんか。もっとこの町の事を知りたい。もっと独自の色んな風習、風俗を見てみたい。なんだか凄く俗で色物的な旅行記になりそうですけどね」
「もちろん、あない(案内)致します」
 そう言って枝垂は僕の腕を取る。遠くで起こる噴火の空振が、音に遅れてやって来る。
 ふと、横を歩く枝垂を抱き締めたいと思う衝動に駆られるが、僕はそれを必死に押しとどめる。
 ――妙な気持ちだ。声に出さずに僕はそう呟いた。
 彼女といると、どこか落ち着きがない自分を感じてしまう。何故かせわしなく、どこか気恥ずかしく後ろめたい。だが決して彼女が嫌とかそう言う訳ではなく、むしろずっとこのまま一緒にいたいと思ってしまうような。
 果たしてどこから流れて来るものなのか、香のものだろう白檀の匂いが風の中に香って来る。
「“千羽(せんば)の路”はどないですやろう? 鳥居が延々と連なる、綺麗な小路おすえ」
 そう言って枝垂は僕の手を握って来た。
「いいね。是非、見てみたい」
 僕は言う。見上げるようにして薄く微笑む彼女の表情に、込み上げて来る熱い昂ぶりを胸の奥に感じていた。

 *

「おばんであす」
 部屋の外から声が聞こえる。僕は書き掛けのまま万年筆を転がすと、「お入り」と告げた。
 今日は、八重一人だけだった。「失礼おあします」と言って、冷酒の瓶を持ち部屋へと入って来た。
「八重、おいで」
 僕は書見台の横に敷かれた布団を手で叩きつつ八重を招く。
「どうされました先生」
 後れ毛をかき上げながら、八重は僕の横へと座る。そして僕は彼女の肩を抱くようにして、布団の上へと組み敷いた。
「どうされましたのぉす」
 八重はくすくすと笑いながら、再び同じ事を聞く。
「抱きたいんだ」
 僕が素直にそう言うと、「どうぞお好きになさっておせ」と、八重は僕の手を取り指を絡ませた。
 屈み込み、彼女の唇に吸い付く。ねっとりと舌を絡ませながら、着物の前をはだけて行く。わざと帯は解かぬままに腿をあらわにし、その陰部へと指を這わせれば、八重は塞がったままの唇で悩ましげな苦悩の声を上げた。
 堪らず僕は彼女の身体をまたぐようにして覆いかぶさった。脚を押し広げ、屹立した陰茎を八重の陰部へと押し当てる。八重はもう既に濡れそぼっており、それはやけにぬるりとしたしなやかさで吸い込まれるようにして胎内へと収まって行く。
「八重……」
「どうおしたのですか。今日はやけに積極的でおすなぁ」
「色々とね」
 誤魔化しながら、下で喘ぐ八重の顔を覗き込む。ただでさえ淡麗かつ妖艶な顔立ちの女性であるのだが、その上気して頬を赤らめた幼いまでの表情を見れば、背徳の念がさらに欲望を募らせて行く。
「八重」
「先生……」
 すぐに最初の絶頂がやって来る。逃がすまいとばかりに八重の両手と両足が僕の身体に絡み付き、その快楽の一瞬は全身が身悶えする程に素晴らしいものだった。
 八重の胎内へと注ぎ込み、陰部から体液があふれ出て来るのにも構わず、僕達は何度も何度も唇をむさぼりあった。その時突然、八重は僕の頭を痛いぐらいに掴んで引き寄せ、そして静かな声で僕の耳の中にこんな言葉を流し込んだ。
「何を考えておいでであす?」
「な……何って?」
 僅かばかり、声が震えた。
「なら質問を変えておざいましょうか。先生ばぁ今、“誰”を抱いていておざいましたか?」
「だ、誰って……」
 身を起こす。少しだけ冷めた表情の八重が、下から僕を見上げていた。
「君は――八重さん、だよね?」
「“さん”は余計でおす」伸ばした指先が、僕の鼻をつんと突いた。
「御覧の通り、私は八重の方でおすえ。何度も何度もまぐわりもうしたものおす、もう間違えたりせんでごすなぁ」
「――何を言いたいんだい?」
「先生ばぁ抱きたいのはどっちでおすか?」
「どっちって、君が何を言いたいのか良くわからないんだけど」
「先生ば今、私を抱きながらシタラの事をば考えておざったっしょう?」
「……」
「言わんでもわかりあす。目が私の事ばぁ見ておらんでしたからぁねぇ。私ば抱きながら、シタラの事を抱いてるおつもりだったぁおすものなぁ」
「な、なにを馬鹿な事を……」
「えぇのぉすえ」八重は僕の頬に手を当てながらそう言った。
「殿方ばぁ誰でもそう言うものおすからなぁ。与えられたものだけで満足する方ばあまりおざいませんものなぁ。――でも先生、シタラだけは抱いたらいけんおすえ」
「いや、そ、そりゃあ枝垂さんはまだ子供だし」
「そう言う意味やぁおまへん」八重は言う。
「あの子ばまだ御館様の所に召し上げられておりまへんのぉす。ここに住まう“お役目”のおなご達ばぁ皆、最初のお相手は御館様と決められておす。その禁ば破りもうしたらとんでもない事になりあす。シタラはともかく、先生もまたただでは済みぁせんおせ」
「済まないって……まさか、殺されたりするのかい?」
「いいえぇ、殺さればぁせんおすよ」八重は笑った。
「もっと陰惨で絶望的な罰ばぁ待っとりあす。死にたい、殺して欲しいって願っても、決してそんな許しなど下りないようなおとろしい責め苦おす。先生も余計な悪戯心なんぞ出さずに、私ばぁ抱いて我慢しとぉておせ。もしも先生ばぁまだ島におって、シタラはんのお召し上げの儀ば終わりましたらいっくらでも抱ける機会ばありますおって、それまで辛抱してぉせ」
 急激に陰茎が萎えて行く。八重の胎内に収まったままで萎んで行く陰茎は、入った時と同じようにしてぬめりとその陰部から押し出されて垂れ下がった。
「もう間もなくあの子も召し上げになりますよって、そうして初めておなごになって行くのぉす。それまで待ってはおざったいな先生――」
「帰ってくれ」僕は苦々しく、言葉を絞り出した。
「今夜は一人で寝たい。頼むから出て行ってくれないか」
「先生」
「……頼む、八重」
 背後で衣擦れの音がした。そうしてしばらくして、八重は何も言わないまま部屋を出て行ったらしい、向こうで小さくトンと、障子戸の閉まる音が聞こえた。
 なんとも間抜けな男だと、僕は自信を恥じた。
 確かに八重の言う通りだった。僕は彼女を抱きながらその心は枝垂を抱いている気分になっていた。喘ぐ八重の表情を眺めながら、枝垂を犯している気分になっていた。
 なんと言う卑劣な話だろうか。それではまるで、八重はただの“代用品”だ。不純であるにも程がある。数日前までは心の奥底で八重の事を売春婦だとか遊女だとかと蔑んでいたくせに、自分自身はなんなのだろう、そんな遊女にさえ心の内を見透かされる程に醜いではないか。
 それに――そう、それに、八重も枝垂も元々は僕の彼女でも愛人でもありはしないのだ。ただお役目に従って、床の相手でさえも務める程の“世話”をしているだけ。要は単なる“仕事”なのだ。
 馬鹿げている。どうにも僕と言う人間は、勘違いはなはだしい程の俗物である。仕事でなければ、彼女達などどちらであっても僕なんかとあぁやって接して来たりなどする筈がないのに。
 八重が置いて行った冷酒の瓶を片手で掴み、そのまま直に口を当ててそれを飲み下す。一体どんな米で作ったのかその酒は、いつもながら水を飲むように軽く、淡く芳醇な香りで満ち溢れていた。
 せめて――そう、せめて、徹底して誤魔化すべきだった。
 枝垂の事など考えていない。君を――八重を抱きたいと願ってそうしているのだと、嘘でもそう言い張るべきだった。例え彼女は主の言い付けで誰とでも寝る女だったとしても、そのプライドだけは守ってやるべきだった。それを何の言い訳もしないまま出て行ってくれとは、我儘を通り越して下衆も極まれりである。
「ごめん……八重」
 瓶を額にあてがいながら、僕はぼそりと呟いた。
 緋諸岐島、七日目の夜の事だった。

 *

 からからからから――と、窓の外の手摺りに結わえられた色紙のかざぐるまが回っている。
 目が覚めてすぐに僕は、「帰ろう」と、そう思った。
 やはりここは僕なんかがいるような場所ではない。ここにはここの、独自の規律と倫理がある。そして僕には僕の、ふがいない生活がある。
 戻ろう。あの惨めで貧乏な場所に。きっとあれこそが僕には相応しい身分なのだ。そうと決まったらこうしてはいられない、僕は跳ね起き身支度を整えようと鞄を探る。だが何故か、ここに来た時に着ていた筈の私服の一揃えが見当たらない。
「おはやくおざいます」
 気が付けばいつの間にそこにいたのか、紺色の振袖を身に纏う八重の姿があった。
「八重?」
「なんでおすか?」
 どこか気の無い返事で、八重は食事の膳をそこに置く。そしてそれに遅れてお櫃を持った枝垂の姿があらわれた。「おはやくおざいます」とこれまた素っ気ない挨拶で碗にご飯を盛り付ける。
「すまないが、食事の前に聞いて欲しい事があるんだ」
 大真面目な口調でそう告げると、二人はかしこまってこちらを向く。
「悪いが、僕はもうここからおいとましようと思っている。服と、それから帰りの手筈をお願い出来ないだろうか」
 言うと、一呼吸置いてから八重が告げた。「出来ませぬ」と。
「出来ないって――どうして?」
「それは、先生の“おつとめ”が終わっておらんからおす」
「おつとめ? それはどう言う意味?」
「そのまんまの意味おすえ。先生ばまだ、原稿書き上げておあしませんやろう」
「書いてないけど……どうして?」
「それが先生の“おつとめ”おす」
 と、枝垂。その表情は嘘でも冗談でもなく、本気そのものに見えた。
「書き上がらん内は、どうあってもここから出してはもらえん筈おすえ。帰りたい思うなら、はよう書き上げんとどうしようもありまへんよ」
「そんな……どうして?」
「本土に戻ろうたら、もうここの事ばぁ忘れおります。そうなったら書こうにも書けしまへん」
「忘れるって――忘れる訳ないですよ。ちゃんとここでの生活を思い出しながら書き上げます」
「無理おす」と、今度は八重。
「なら先生、昨夜お召し上がりになりました料理、覚えておいであすか? 正直、どの料理もどの食材も、まるで覚えてはおられないんではありまへんか?」
 図星だった。不思議とここに来てからと言うもの、記憶障害でもあるかのような健忘振りに悩まされているぐらいなのだから。
「持って帰れまへんよ。ここにいて、ここで書き上げる以外にその原稿ば埋まりあへん。観念して書いて下さいな。もしも不便ありましたら、なんとかそれに応えますおうて」
 肩が下がる。溜め息が漏れる。帰りたいのに帰れないと言う落胆は、思った以上に辛かった。
「どうして――」僕は思わず呟いた。
「どうして僕は、ここにいてこんな待遇にあるのですか? 僕の原稿が書き上がる、書き上がらないに、何か意味でもあるのですか? こんな事を僕自身が言うのもなんですが、僕が書くものにいくらも価値はありませんよ? どうやらここでは奇跡的に枝垂さんに読んではもらえたみたいですが、本土では誰の話題にも上りはしない程度の無名の貧乏作家です。僕がここでの出来事を書いたとして、それが出版される可能性は低いし、例え巷に流通される事となってもこの土地に何かの恩恵があったり知名度が上がったりするような事など無いに等しいでしょう。それでもあなた方は僕にそれを書かせたいのですか? もちろん書く事に依存はないし僕自身書き上げたいとは思ってはいますが、正直、傑作が出来上がるとは露程も思ってはおりません。それでも僕にそれを書かせる意味があると思っているのですか?」
 まくしたてるかのように僕は語った。自分でも驚く程の雄弁さで、自らの不甲斐なさを語った。――さぁ、どう出る? 呆れるか、それともここを追い出されるか。だが意外にも彼女達がくれた返答はそのどちらでもなかった。
「大いにございあす」
 八重は言った。
「先生ばぁまだ、自分がどれ程のものかわかっておあしまへん」
 枝垂が続いた。
「わかってないって……何が?」
「先生ば、“マレビト”であるのぉすよ?」
「マレビト? マレビトって何? どう言う意味?」
「ご自身でお調べ下つかあさい」
 八重はそれをぴしゃりとはねのけた。
「とにかく先生の作品の内容の出来不出来を、先生ご自身が一喜一憂するのは構いまへん。でも私らにとってはそれが書き上がる書き上がらないに未来が賭かってる程なんであす。だから先生が書かずに帰るだのとおっしゃるのであれば、私らはそれを命に代えてでもお留めせんとあかんのおす。だからどうか、書いておくんなし。毎日ほんのちょっとずつでも構いまへん。何年掛かっても構いまへん。どうか書いておくんなし。書き上げておくんなし」
 言われて僕はこうべを垂れた。またしてもやってしまったかと、反省しきりだった。
「――申し訳ありません。そう言う事ならば、今はお二人の為に書き上げる事に全力を尽くします」
 言った途端、二人の表情は雲が晴れたかのような明るいものとなった。
 そして食事は振る舞われ、僕はそれをいただきながら二人の質問に答える羽目となった。
「どんなお話しになるのおす? ここでの生活も全て、書いてくれるんのぉすよね?」
「私の事も書いておくなしな。どんな事書いてもかましまへんから、ちゃんと書いておくなしな」
 僕は苦笑しながら、はいはいと頷いた。
 そうしてひとしきり質問攻めにあった後で、僕は箸を置き、二人に頭を下げた。
「僕は無礼な事をしました。それを謝りたい。特に――八重さん」
「……」
「確かに昨夜のあなたの指摘は正しい。僕はあなたを抱きながら、とても失礼な振る舞いをしてしまった」
 枝垂が何事だと言った表情で八重を見る。八重は何も答えないまま、僕の次の言葉を待っていた。
「でも僕は、あなたも同じぐらい大事に想っているんです。今更卑怯な言い方かも知れませんが、僕はあなたと――枝垂さんをここから連れ出したい。叶うなら三人でこの島から出たいと思っているんです。その件については昨日の朝に、枝垂さんにもお話ししたのですが……」
「無理おすえ」
 八重は困ったような、それでいてどこか自嘲めいた笑みで僕を見た。
「わかってますよ」僕は静かにそう返す。
「全て僕の一人相撲だって事ぐらい良くわかってます。でも僕の本心をお二人にわかってもらう為にはこの話をするのが一番手っ取り早いんだ。あなた方は単なる“お役目”で僕の傍にいるのだとしても、僕の方はそうではない。今まで女性と言うものに接して来なかったせいもあって公私混同気味ですが、僕にとってはあなた方はとても大事な人達なんだ」
「先生――」
 言ったきり八重も枝垂ももう何も言う事はなかった。きっと呆れたのだろう、二人は少しして無言のままに退席して行った。
 さぁ、言うべき事は全て言った。そして僕がここで成すべき事も明確になった。
 書き上げよう。そしてここを出て行こう。――最初からわかっていた事ではないか。僕と言う人間は単なる旅行客であり、単なる通りすがりなのだ。
 旅の恥はかき捨て。一生に一度、良い思いをした。それでいいではないだろうか。
 思った通り、その日の執筆は予想以上に捗った。今朝まではこの町に辿り着いた所を書いていたのが、今はもう八重と枝垂に出逢い、宿へと着いた場面まで進んでいる。
 当然、八重との情事までは書くつもりだった。こう言う描写を書くのは苦手だったし、何より今まで自分自身の経験が無かったものを上手に描ける訳もなかったのだから仕方ないとは思うのだが、今回は敢えてそこまで触れてみる事にした。
 そうして何日か目の夜、八重と一緒に風呂へと入り、そこで彼女に“お願い”をされると言う描写で筆が止まった。
 そう言えばあの時彼女は、何を言い掛けてやめたのだろう。お願いがあると言い出しておいて、その内容はまだ言えないと、そう言っていた。
 お願い――お願い、ねぇ。彼女が願って、僕が叶えられそうにあるのはそんなに多くはないだろうに。思いながら僕は書見台の前でごろんと寝転がる。また少し風が出て来たのか、からからからから――と、窓の外でかざぐるまが回り始めた。

 夜、食事をして間もなく、「ご入浴のお支度、整いおあします」と呼ばれ、僕は席を立った。
「本日は“朧の湯”へあない(案内)いたしあす」
「おぼろ? 何それ」
「朧月が天に見える、そんな湯場でおあします。滅多な事では使う事の無い、特別な湯でおざいあすよ」
「へぇ、それは楽しみだね」
 どうやら彼女はまた入浴に付き合うつもりらしい、いつぞの夜と同じ白の襦袢姿だった。大きく開いたうなじがやけに艶めかしく見えた。
 意外にも向かった先は一階よりも更に下。見慣れない階段を辿って地下へと向かう。
「へぇ、地下なんてあったんだ」
「はい。この湯の為に作りおぉした場所おすけど」
 彼女は更にもう一階、下へと向かう。「ここより下ばぁ灯りが無ぉて不便おすけど」と、燭台の灯りで僕の足元を照らしながら、ゆっくりと降りて行く。
「ねぇ、一つ聞いていい?」
 問えば彼女は、「なんですやろう?」と返して来る。
「ずっと気になっていたんだけど、もしかしてこの旅籠って僕以外の客はいないのかな? ここに来て以来ずっと君達二人以外と顔を合わせた事が無いんだけど」
「その通りでおす」と、彼女。
「誰もおらしまへんよ。全て先生一人の貸し切りになっておりあす」
「貸し切りかぁ、そりゃあいいな」
 そう言って笑えば、「冗談で言ってるんやのうて、ほんまにそうなんおすよ?」と言われた。
「え、本当に? どうして僕一人なの?」
「それは――」一旦、言葉を切る。
「大切なお客人であらせられあすからなぁ」
 長く冷え込んだ廊下を進み、やがて突き当たりの引き戸の前へと出る。“朧”と書かれた大きな筆字がやけに仰々しく見える。
 暗闇の中、蝋燭の灯りだけで僕達は服を脱いだ。この前と同じように、彼女のしてくれる愛撫のような服の脱がせ方がやけにもどかしく、くすぐったい。
 ――その部屋の中を最初に見た時、僕は“それ”が何なのかわからなくてかなり狼狽した。
 無理にでも形容するならば、天井に巨大な海月(くらげ)が浮かんでいる。そんな感じの暗い部屋だった。いや、確かにそれは海月のようだった。ゆらゆらと揺らめき、そして触手を伸ばしているかのように絶えずその動きをやめない。青く、そして不鮮明な巨大な海月。その海月が自ら発光し、その室の全てをぼんやりと照らしている。
「ね、ねぇ、あれは何?」
「近くで見ればわかりあすよって」
 彼女は笑いながら僕の手を引く。そして僕は恐る恐る、足を踏み出した。
 だがそれはやはり良くわからない。促されるまま湯に入り、気味悪がりながら天上を見上げるのだが、やはり今一つそれが何なのかがわからない。――ただ、何か小さなものが光る海月の下を横切っているのはわかった。あれは――そう、あれは。
「魚……ですか?」
「えぇ、魚おすねぇ」
 魚――。天井を泳ぐ魚? そしてようやく気が付いた。
「池だ。そこに見えてるのは池だ」
「ご名答」
 彼女は笑う。――なんて事だ。今いるこの場所は、この旅籠の庭先に見える大きな池の真下にあるのだ。そして僕達はその池を透明な壁を隔てて下から見ている。ならばあの巨大な海月の正体は――。
「今宵ば盈月(えいげつ)おす。この湯は盈月の夜に入るのが一番綺麗でおざいあす」
 輝く満ちた月が青く見えるのはその水の色。海月が巨大に見えるのは、その池の周りに設えられた灯篭の灯りのせいだろう。そして絶えず海月が蠢いて見えるのは水の揺らめき、水面の波紋。なんと言うセンスなのだろうか。なんと言う粋なのだろうか。確かに今僕は、朧に掛かる月をそこで見上げていた。
「あぁ、綺麗だね。――何も、言葉が浮かんで来ない」
「なぁも言わんでよろしいおすよ」
 言って彼女は湯の中から僕に抱き付いて来る。そして僕は彼女の肩を抱き、そして激しい接吻を求めた。
 今夜は、抵抗しなかった。全てを受け入れようとするかの如く、遠慮しがちな掌で僕を抱き締め返して来た。
「今夜は聞かせてくれるかい? この前話し掛けた、“お願い”ってやつ」
「あぁ――」彼女はそっと横を向く。
「妙なお願いおすえ。お気を悪ぅされんとよろしいおすけど」
「しないよ」
 そう言って笑えば、彼女はそっと僕の頬に唇を触れさせ、「私を選んで」と、ささやくような小さな声でそう呟いた。
「お願い先生。私を選んで。ただそれだけでいいの。――お願い」
 意外だった。想像も付かないお願いだった。だがそれ以上に僕は、彼女のその口調に驚いた。今まで一度たりともあの遊女言葉のような話し方を崩さなかったと言うのに、今だけは素のままで言葉を伝えている。そんな真剣な雰囲気が感じられた。
「君は――枝垂さんだね?」
 聞けば彼女はひとつまばたきしただけで、無言のまま唇を重ねて来た。
「ねぇ、いまひとつ意味がわからないよ。君を選ぶって、どう言う事だい?」
「その時が来たらわかるわ」枝垂は言った。
「姐さまか、私か。あなたはどちらかを選ばなきゃいけない時が来る。その時、私を選んで欲しいの」
「枝垂さん、でも――」
「私をあげる」
「……」
「私の全てを先生にあげる。だからお願い、私を選んで」
「枝垂さん」
「お願い」
 震える手が、僕の迷いを示していた。
 しかし、後には退けなかった。彼女の背に触れ華奢なその身体を抱き締めて、その額に唇を触れさせながら、僕はそっと目を瞑った。

 *

 ――奇妙な夢を見ていた。
 モノクロの世界。土蔵の屋根裏部屋。四方を檻で囲まれた座敷牢。そしてそこに佇む、真っ白な着流しの一人の少女。
 あれは……八重か枝垂か。なんだかどちらでもなさそうな、それでいてどちらでもあるかのように顔や姿形がそっくりで。
 少女は僕に問い掛ける。“何故、書ケナイ?”と。
 手が持ち上がる。白い指先がゆっくりと僕を指す。そして――暗転。

 鴉の声で目が覚めた。ひゅうと喉が鳴り、同時に外でけたたましく飛び立つ羽の音。
 今どのぐらいなのだろう。暗闇の中でぼんやりと浮かんで見える障子越しの月明かりに、まだ早朝ですらないだろう時刻が伺えた。
 真夜中の鴉とはやけに縁起が悪い。思いながらふと目を凝らす。隣に、小さな寝息をたてる枝垂の横顔があった。
 ――やってしまったなぁと、今更ながらに後悔の念が込み上げて来る。
 歳こそは聞いてはいないが、どう見ても彼女は成人女性には満たないだろう程の幼さがある。そして次に想い浮かべるのはどうしても、この島のしきたりと御館様と言う者の存在だ。
 ――いいえぇ、殺さればぁせんおすよ。むしろもっと陰惨で絶望な罰ばぁ待っとりあす。死にたい、殺して欲しいって願っても、決してそんな許しなど下りないようなおとろしい責め苦おす。――脳内で、八重の言葉が陰々とした声で再生される。
 馬鹿め、どうして抱いた? それに彼女も、どうして僕なんかに抱かれようとする? 彼女自身だって、この島に伝わるしきたりぐらい充分に知っているだろうに。
 だが、彼女は自らの意志で僕に全てを委ねて来た。そして僕も――止められなかった。迷う暇さえなかった。気が付けば既に、彼女のその若き肉体に没頭していたのだ。
 なんて事を。思いながら僕はそっと、彼女の頬を撫でる。すると枝垂も起きていたのか、布団の下から伸びて来た手が、僕の手の甲に重なる。
「枝垂さん……」
「“さん”は余計ですってば」
 そして言葉もないまま僕達は何度も何度も唇を触れ合せた。何が可笑しいのか、その度に枝垂は小さく笑う。
「さぁ、先生。そろそろお部屋に戻りましょう。もう間もなく姐さまが帰って来る頃ですから」
「えっ、こんな時間に?」
「時間はあまり関係ありませんよ。さぁ――お連れ申します」
 暗闇の中、うっすらと浮かび上がる枝垂の肢体に僕は見惚れた。
 あれは――もう間もなく蕾がひらくだろう直前の花の美しさだ。僕は声には出さず、そう呟いた。枝垂は襦袢を羽織り、だらしなく帯を巻き付けた後、僕の衣服へと取り掛かる。
 されるがままに、彼女に任せた。そのしなやかな掌が僕の身体に触れる度、また幾度も押し倒しそうになる葛藤と戦いながら。
 燭台の灯りを頼りに廊下を急いだ。床が軋む音を立てる度、背徳と後悔が一層募って来るように感じてしまう。
「まだ八重さんは戻ってないよね?」
 誰に聞かれるともなく声をひそめてそう聞けば、なんとも頼りなさげに、「えぇ……多分」と、枝垂の消え入りそうな声が返って来る。
「ねぇ、枝垂さん」
「“さん”は余計です」
「今夜の事は――小説の中に書いてはいけないよね?」
 言うと枝垂はふと立ち止まる。ゆっくりと振り向き、僕の目を見る。
「書いては――おくれへんのおすか?」
 また、口調が元に戻る。僕は慌てて、「書いてもいいの?」と聞けば、「お好きになさって下さいあせ」と、すねたような事を言う。
「だって……もしもこの件がバレでもしたら……」
「バレる頃には、先生はここにはおらしまへんやろう?」
「でも君が――」
「書いてはおくれへんのぉすか?」
 顔が近付く。見上げるようにして、枝垂は僕の目を覗き込む。
「き、君に迷惑が掛からないのなら」
「迷惑おすか?」ほんの少しだけ首を傾げてみせる。
「迷惑とか何だとか、そう言うのは考えんでよろしいのおす。私ばぁ、先生のお話しを読みたいのおす。先生が感じ、どう想い、どうお話しを紡ぐのか、そればかりが楽しみなんおすよ」
「でも――」
「私ば、先生が私を抱いてどう想ったのか。それを知りたいのぉす」
「枝垂……さん」
「書いておくなし」言いながら枝垂は、空いた片手で僕にしがみついて来る。
「書いておくんなし。私ばぁ先生がここにおる限り、全てを投げ打って先生に尽くすつもりでおりあした。だからもしも――もしも先生ば少しで私を好いてくれているのなら、書いておくなし。先生のいっとう素直な言葉で、私を紡いでおくんなし」
「いいんですか?」
 聞けば今度は素に戻ったか、「書いてって言ってるじゃない」と、僕の胸元に顔を埋めながらそう言った。
 そして僕達はその場で長い長い抱擁と接吻を重ね、「また忍んで来てつかあさい」と言う枝垂の言葉で、僕達は離れた。
 部屋には――誰もいなかった。
 身体は気だるくまだ微かに眠気もあったが、そのまま布団に入る気にはならず、逸る気持ちを抑えながら僕は行燈に火を点した。
 書かねば。強く、心から真剣に強くそう思った。
 少なくとも今夜の内に。朝日が昇り、明日と言う日を感じる前に、つい今しがたの事を――枝垂を抱いた事を。そして僕が彼女をどう思っているかを書き記す。そう決意しながら万年筆を手に取った。
 もちろん彼女に迷惑がかからぬよう、細工はするつもりだった。“枝垂”と言う名前は全て“八重”に変え、矛盾が起きそうな部分は全て上手く誤魔化しながら書き綴るつもりだった。
 遠くで、鴉の鳴く声が聞こえた。真夜中の鴉とはやけに縁起が悪いなと思いながら、いつしか僕は執筆に没頭し始めていた。

 *

 からからからから――と、窓の外の手摺りに結わえられた色紙のかざぐるまが回っている。
 僕は酔いと気だるさのまま、布団に横たわっている。
「八重……」
 呟くと同時に、絶頂が訪れた。僕の足の間に挟まりながら愛撫に勤しむ八重の口内に、僕は堪らず果てた。
 そして八重が尚もその舌先で僕の陰茎を弄んでいると、黒々とした艶のある小さな鴉が一匹、かざぐるまの横の手摺りへととまった。鴉は特に何をするでもなく、ただ僕と八重との情事を微動だにしないままに眺めている。
 八重の愛撫はいつも驚く程に上手い。特にその口内での舌技は見事で、一度それで果ててからが本番であるかのように攻め立てて来る。既に射精も終わり敏感となった陰茎はその快楽自体が苦痛であるかのような悶えを誘発して来る。
 正直、苦しい。まるでくすぐられているかのような程にその行為は苦痛であり、そして耐え難い。だが同時にその苦痛を少しでも長く味わっていたいと感じる自分自身もいる。その両天秤に苦悩しながら全てを八重に預けていると、いずれ予期せぬ絶頂の第二派が訪れる。これが、とても言葉では表せない程の快感なのである。
「八重……八重っ!」
 何の意味もありはしない名前の連呼が、余計にその絶頂を昂ぶらせる。
 腰が浮く。強制的に引き出されたかのようなその絶頂は脳を真っ白に感光させ、そして身体の全てが硬直のまま麻痺をする。それはまさに、拷問のような悦楽なのである。
「八重、もういいよ。もう持たない」
 言うと八重は僕の腰にしがみつきながら、「よろしゅうおざいましたか?」と、上目使いに笑い掛ける。
「うん、気持ち良かった。もういいからこっちに来て」
 そう言って布団の横を叩く。すると八重は着ていた襦袢をまるで脱皮でもするかのように脱ぎ捨てて、裸体のままで僕に抱き付いて来る。
 僕は腕枕をするかのように八重を抱き寄せ、その額に唇を触れる。すると八重は嬉しそうな笑い声を上げ、僕の首筋に接吻する。
 猫のような女だなと、僕は彼女を抱きながら思った。なついている時は限りなく従順で甘えたがりだが、ある時突然、唸り声をあげて爪を立てる。八重は、そんな小型の肉食獣を思わせる節があった。
 正直、僕は自分自身の心がわからない。こうしていると八重が愛おしく、そして枝垂と一緒にいれば彼女が愛おしい。どちらか一方が好きだとか言うのではなく、どちらも違う方向で同じように情があるのだ。
 だが、枝垂は言った。私を選べと。
 あれは一体、どう言う意味の言葉なのだろうか。いつかどちらか一人を選ばなくてはいけない時が来るのだろうか。
 どうして? 一体何の為に、何が目的で選ぶ?
 知っている。僕は彼女達二人のどちらにも愛されている訳ではない事を。もしもこの島を出て行けば、それっきりの間柄になると言う事を。
 なのに、選ぶ? どちらを? ――何の為に!?
「考え事ぉすか?」
 聞かれて我に返る。「あ、あぁ、いや」と、返答に詰まる。
「原稿がね。ちょっと……上手く捗らなくてね」
 嘘である。内容は既に現実に追い付いている。そしてこの後僕は、今のこの情事を紡ぎに掛かる。行にしたら僅かに三十行か四十行だろうか。あまり詳しくならない程度に、八重との情事の事をそこに書き記すのだろう。
「私も出て来るのぉすか?」
「もちろんだよ」
 言いながら彼女の頭を撫でる。八重は僕に擦り寄りながら、「嬉しいおすえ」と顔を埋める。
 ――ガァ
 唐突に、手摺りにとまった鴉が鳴いた。小さいながらも驚く程に大きな声だった。
 慌てて身を起こすと、既にその鴉はけたたましい羽音と共に飛び去って行った後だった。黒い羽が一枚、外に見える曇天の雲に染みのような点を残して舞い落ちて行く。
 からからからから――と、窓の外の手摺りに結わえられた色紙のかざぐるまが回っている。
 なんだか、妙な胸騒ぎがした。なんの根拠も無いし、何かが変わって見える訳でもない。だが何故かどこか、“追い詰まる”かのような奇妙な強迫観念が込み上げて来る。
「どうかおあしましたか?」
 八重に聞かれ、「いや」と答える。
「愛してるよ、八重」
 言ってまた額に唇を触れようとすると、八重はそれを拒むかのように突き離し、そして僕を真剣な表情で睨んだ。
「――本気おすか?」
「え……何が?」
「今、先生ば私の事を、“愛してる”とおっしゃいましたえ」
「あ、あぁ」思わずしどろもどろになる。
「何か、まずかった?」
 聞けば八重はまたしても顔を埋めながら、「いいえぇ」と、ささやいた。
「うれしゅうおすえ」
 思わずその仕草に胸が高鳴る。情事の時の大胆さなど微塵も無いかのように。まるで男を知らないうぶな童女であるかのように。
「私も――お慕い申してあす」
 そして、無言。やがて訪れて来る静かな眠気に身を任せ、僕は八重を抱き締めたまままどろんだ。
 瞼が自然に閉じ、そしてなんだかとりとめのない浅い夢へと落ちる頃、「――全て許してさしあげますえ」と言う呟きと共に、柔らかい唇の感触を頬に感じた。

 *

 足が、やけに震えた。
 どうやら運動不足が祟ってしまっているのだろう、上手く足に力が入らない。
「お使いになられあすか」と渡された小さな杖を枝垂から受け取って、僕は外へと出掛けた。
 今日もまた、やけに“白い”空模様の朝だった。
 まだ行った事の無い場所へと行きたいと告げると、「なら、島の南西の海岸はどうおすか?」と勧められ、そこに決めた。
 歩くのはしんどかったが、何故か疲れはあまり感じない。牛車を勧められはしたが、僕は運動不足の解消も含めて徒歩で向かう事にした。
 いつもの見慣れた繁華街とは違う、民家のような家々が立ち並ぶ裏の街道を歩いた。
 何故かどれも特色が無い長屋のような建物ばかりで、すぐに風景に飽きが来る。
「もう少し行けばまたちょっと違う場所になりますえ」
 まるで僕の心を読んだかのように枝垂は言う。
 何故かどの家もやけに閑散としていて、人の声どころか気配さえも感じない。だが、無音な訳ではない。絶えずどの家からも、からからからから――と、窓に取り付けられたかざぐるまが風に弄られ乾いた音を立てている。
「ねぇ、枝垂……さん」
 呼ぶと横目で睨まれる。そしてすぐに笑顔に戻る。
「なんですえ、先生“さま”」
「さまは勘弁して欲しいんだけどなぁ」
「御相子おす。それで、何ですえ」
「あれ」僕は指差す。
「“かざぐるま”。あれは一体、なんのおまじないなんだい? どうやら人が住んでいるらしい所には必ずあるみたいだけど」
「あぁ」言ってから一寸言葉を切り、そして、「ここいら辺の古い習わしみたいなもんおす」と、いつぞやに八重に聞いた時と全く同じ台詞が、枝垂から返って来る。
「もしかして教えちゃいけない事なの?」
「そんな事はあらしまへんが――あまり気にしない方がえぇおすえ」
 からからからから――と、四方からかざぐるまの乾いた音が鳴り響く。やはり秘密にしていかなくてはいけない事なんだろうなと思った矢先だった。
「風が――風の通り抜けるのを確かめるものおす」
「……風?」
「あれは風の吹く方向に首を向けるものおす。あれをば見れば、どっちの方向から風が吹いているかよぉわかるものぉすやろ」
「あ、あぁ、まあ確かにね」
「つまり、風に聞くもの教わるもの。そんな感じのものおす」
 そして説明は終わったらしい。良くわかったようなわからなかったような。ただ、あの存在は風を知らせる為のもので、そしてこの島ではどうやら、“風”と言うものは何かの意味を持っているものらしいと言う事だけは理解出来た。
 やがて長い時間をかけて島の南西にある海岸の町へと辿り着く。風の吹く方向のせいか、やけに塩の香りが強く感じられる。驚いた事にその場所は、海岸を連想させる光景はまるで見る事が叶わなかった。
町は、岩と共にあった。見渡す限りのその岩場は、今もなお地の奥底から隆起して来ているかのように町を飲み込み、包み込み、ごつごつとした巨大な岩の壁の中へと隠しながら存在させていた。
 肝心の海岸は背の高い岩々に阻まれていてまるで見えない。だが確かにその向こうに波が押し寄せているのだろう、ざざざざざぁと言う引いた音の後に、どぉんと言う衝撃音が至る場所から聞こえて来る。そしてその音は立ち並ぶ岩の壁へとぶつかって、町全体に反響していた。
「不思議な場所だ」
 僕は呟いた。家は至る場所に点在していた。岩を切り開いて家を建てようとする意志はまるでないのだろう、自然の形を壊さぬようにひっそりと、岩の影に隠れるようにしてその建造物は存在している。
 水路が引かれ、どの家の前にも側溝が渡されている。そしてその側溝をさかのぼり、海水が荒い波を起こしながら地面へとあふれかえっている。おかげでどの場所もしっとりと濡れそぼって黒々と見えていた。
「本当に不思議な場所だ」
「そうでございあしょう」
 案内を買って出た枝垂は、どこか嬉しそうな感じだった。なので僕は敢えて口には出さずにいた。――むしろここが陰気で嫌な場所だとは。
「この上に茶屋がおあします。参りましょう」
 枝垂がそっと手を取る。指が絡まり、その指の先端が僕の手の内側をくすぐった。
 どうやらここは大昔に火山の溶岩流が押し寄せた場所らしい。岩肌の荒さを見ればそれが良くわかった。
 枝垂は一体どこに連れて行こうとしているのか、そそり立った岩肌の方へと向かって行けば、その隙間から洞窟のような穴場が現れた。
「まさか、ここ?」
「この上おす」
 穴の中にはしっかりとした、なだらかな階段が設えられていた。所々に蝋燭の灯りもあり、登るにはそう苦労もなかった。
 但し、不安ではあった。一体これがどこへと通じているのかだけが疑問だったのだが、やがて外の光が見えて来る頃、その不安は解消された。辿り着いたその場所は、海が一望出来る露台のような場所だった。
 岩をくり抜き切り開いて、横に長く作った見晴らしの良い場所に適当に、椅子と机を並べている。ただそれだけの簡素な場所。奥に店員とおぼしき給仕姿の女性の姿が見えるだけで、客の姿は他に無い。僕と枝垂はその店の真ん中辺りにある席へと向かい、腰を落ち着けた。
 驚く事に、窓の際には手摺りどころか縄一つすらも張ってはいなかった。床は地続きのまま崖へと落ち込み、ただ空中がそこに繋がっているだけ。客への安全性はまるで配慮されてはいないらしい。
「枝垂さん、これ。もしもここから落ちたら……」
「死にますやろうなぁ、先生さま」
 運ばれて来た緑茶を啜りながら、平気な顔で枝垂は言った。
「君は平気なのかい? もしかして高い所が好きとか?」
「ほんまに先生は面白い事をお言いになりあすなぁ」枝垂は笑う。
「高い場所が好きとか嫌いとか、そう言う話ば“死ぬ”と言う事に何か関係ありあすやろうか」
「無くはないだろう。高い場所から落ちたら誰だって死ぬ」
「それはこじつけおす。落ちたら死ぬのは道理であって、人の生き死にが平気かどうかと言う話と、ここから落ちなあかんと言う話もまるで繋がりあせんやろうか」
「それは僕こそわからないよ。君が言う常識と僕の認識は根本で違うみたいだからあえてそれは正さないけど、やはりこの場所は怖いね。全然落ち着けない」
 片足を崖からはみ出させながらぶらぶらと揺らしそう言うと、枝垂は可笑しそうにくすくすと笑う。
 遠くに小さな島らしきものが見えた。あれは本土かと思い目を凝らすが、どうやら方向的に有り得ないなと思い直す。
「あれは離島か何かかい?」
 指差し聞けば、枝垂は団子を頬張りながら、「答えられまへん」と返した。
「答えられないって、どうして?」
「むしろ聞いたらあきまへんよ先生。見えても、見ていない振りをせねばならんものもあるのおす」
 なるほど、そう言う類か。思って黙ると店の入り口の方から人の気配がした。
 振り向けばそこには、どこかで見知ったであろう人の姿。真っ白な長い髪に、病的な程の白い肌。上から下まで真っ白な装束を身に纏う華奢で若い男性。あれは確か――。
「おや?」
 背後に馬の仮面を付けた従者を二人したがえながら、男は僕に目を留め近寄って来た。
「お久し振りだね、お客人。――いや、マレビト様と言った方がいいのかな」
 懐から取り出した扇子を広げ口元を隠し、金色に輝く瞳で男は笑った。やけに下卑た、人を小馬鹿にしたかのような笑い方だった。
 それはこの島へと上陸してすぐに出逢った、船着き場の鳥居の下の男だった。男は僕を見下しながら笑った後、横に座る枝垂を見て表情を変えた。笑みから、能面のような無表情へと、だ。
「おやおや、姫様ではありませんか。随分と格上げされたものですね。どうなさったのですか、マレビト様と御一緒の席だなどと――」
「お黙りなぇ、ダツエ。なんでおまはんがこげな所におるとぇ。きちっとお勤めしいや」
 それはやけに刺々しい、冷徹な声だった。この前の夜に床の中で聞いた甘い喘ぎとは正反対な、“拒絶”の声であった。
「うふふふ、怖いなぁ姫様は。あまり舐めた口をきいてると、私まで喰われてしまいそうですねぇ」
「黙れ言うのが聞こえんのぉか、この下賤めぇが」
 枝垂の一喝に、さすがのその男もたじろぐ。一歩後ろへと下がりながら、「くわばらくわばら」と唱えつつ、またしても視線を僕の方へと戻した。
「君も随分と見た目が変わったねぇ。果たしてマレビトとしてのお勤めを果たすのが先か、それとも姫君二人に喰われるのが先か。他人事ながら心配だねぇ」
「大概に退かれいや!」
 言って枝垂は立ち上がる。同時に男の背後にいた従者二人が、脇差しを抜き取り枝垂へと向けた。
「枝垂さん!」
 叫んでその前に立ち塞がった僕を退け、枝垂は、「誰に向かって刃ぞ向けた」と冷徹な言葉を吐けば、従者二人はすぐにそれを収めて床に這いつくばる。
「あらら、お前ら抜いちゃったの?」
 白装束の男は落ち着き払った表情で後ろの二人にそう聞けば、「誠にあいすみませぬ」と枝垂に向かって頭を下げ、そして振り向き、店の入り口の方へと向かって行った。
 従者がそれを追い掛けようやく誰もいなくなってから、僕と枝垂はどちらからともなく深い溜め息を吐き出した。
「先生……」
「何も聞こえなかったよ」僕は努めて明るく言った。
「ここでは誰とも逢わなかった。だからもういいじゃない。お互い、気にしないでおこう」
「先生」
 枝垂は笑ったが、それはやけに哀しい作られた笑みだった。
 帰り道、妙な一行に出逢った。門番として立っている姿しか見た事がない牛の面――牛頭(ごず)達が、大きな竹編みの籠を担いで通りを行く姿。どうやらその籠の中には罪人か何かが入っているのだろう、血塗れの裸体姿の男が二人、それぞれの籠の中に縛めをされて転がっていた。
 見るとはなしに見てしまった。男達は二人共に顔の皮膚が焼けただれ、かろうじて目だけが開ける程度な酷いケロイド状になっていた。そんな男二人が、棒で殴られ鞭打たれでもしたのだろうか、身体中裂傷と打撲の傷を負いながら縄で縛られ、轡をかまされ運ばれて行くのだ。
 枝垂に腕引かれまた前へと向き直るが、気にしないではいられない。なんだかあの二人の男が、今しがた店で騒動を起こした従者二人のような気がして。そしてあの馬の面の下は誰も皆、あんな感じの火傷痕があるような気がして――。

 *

 あれから何日かが過ぎた。最近になっての事だが、八重がいない夜は常に枝垂と共に過ごすようになっていた。
 夕食の膳に、小さな桔梗の蕾が一輪乗っていたならその合図。八重が外出するのを見計らい、枝垂が入浴の案内をしにやって来る。そして僕達は一緒に湯を遣い、早朝までの間を過ごすのだ。
 破瓜の痛みかそれとも不慣れがそうさせるのか、最初はあれほどぎこちなかった枝垂の様子も、逢瀬を重ねる毎に大胆に、そして慣れて行くのがわかった。
 八重との交わりは常に彼女が主導権を握っていたが、枝垂との交わりはその逆だった。僕が導き、彼女が応える。八重の場合は任せたままの快楽だが、枝垂の場合は教える喜び、染める愉しみがそこにあった。
 枝垂は僕のどんな要求にも従った。照れて強張りながらその指示を受け入れ、そして歓びに変えていた。自然、僕のその欲望は次第に燃え上がり、その行為は徐々にエスカレートして行った。
 時には湯の中で交わる事もあったし、時には使われていない空き部屋の中でいたした事もあった。枝垂を上に乗せて自ら快楽を得る事を強要させたり、手や舌先で愛撫を強要させた事もあった。だがそれらは全て彼女の快楽にも繋がっているらしく、僕のどんな要求にも応えながら、彼女もまた満足している様子だった。
 だが、そうして枝垂と交わっている最中に、ふと醒めた想いで考える事があった。それは前に茶屋で逢った白装束の男の話。
 ――マレビトとしてのお勤めを果たすのが先か。それとも姫君二人に喰われるのが先か。
 あれは一体、どう言う意味だったのだろう。あの時枝垂に、「何も聞かなかった」と言ってしまった以上、もうそれきりその話題に触れた事はないのだが、心の片隅でその棘が疼く事は幾度もあった。
 姫君――か。どうして枝垂と八重はそんな呼ばれ方をしたのだろうか。そしてあの後の従者達の態度も妙だった。あの従者達は主であるあの男――ダツエと呼ばれていただろうか――を守ろうと抜刀した筈なのに、結局は枝垂の前にひれ伏した。あの一連の行為は一体何を指しているのだろう。
 思いながらも僕は枝垂の未成熟な身体を抱き、そして飽く事なく何度も何度もその体内で絶頂を果たす。枝垂は僕のその心の内は知らないでいるのか、ただただ喘ぎ、そして僕を受け入れるばかりだった。
 ある晩の事、いつもの通りに枝垂の部屋で惰眠を貪っていた時、またしても窓の外の鴉の鳴き声で目が覚めた。
 ――あぁ、今は何時頃だろうか。もうそろそろ部屋に戻らなきゃと思いつつ身を起こした時だった。
 障子の一部が破けでもしているのだろうか。外からの月明かりが一条、斜めに部屋を横切り座卓の上へと落ち込んでいた。
 何故かそれを見た瞬間、妙な予感に襲われた。その月明かりが示す所が、やけに気になって見えたのだ。
 隣を見れば、よほど疲れたのか枝垂は深い寝息を立てている。どうやら起こしても起きそうにないなと確かめ、僕は布団を抜け出した。
 どうやら枝垂の読書癖は本当らしく、座卓の上は古めかしい書物が無造作に積まれている。そしてその中に一冊、月の光を浴びて輝く本があった。
“深葬怜夜” 僕が書いた処女作、その本だった。
 ――本当にこれを読んでくれていたんだなぁ。感慨深い気持ちでそれを手に取り、ぱらぱらと数頁をめくる。そして――。
「……どうしてこれが?」
 思わず声に出る。その本に栞のように挟まっていたのは、見覚えのある一枚の葉書きだった。
 宛先は、神田にあるS出版社。僕の担当である太田宛て。
 僕の字。僕の住所。僕の名前。そんな差出人欄。そして葉書きを裏返せば――。

“緋諸岐島に行きます”

 ふと、妙に世界が無音になったような気がした。そして少し遅れて、キーンと言うような耳鳴り。ゆらりと揺らめく軽い眩暈。
 どうしてこれがここに? どうしてこの葉書きがここに? 再び裏返して消印を見るが、それらしき印はどこにも見当たらない。
 何故? どうして? 全く訳がわからない。ただ一つ言える事と言えば、この葉書きは結局、太田の元には届いていなかったと言う事のみ。
 では、彼女達が言っていた事の全ては嘘なのか? 太田から連絡を受けて来たとか、宿代は既に支払い済みだとか、そう言う話も全てでまかせだったと言う事なのか?
 訳がわからない。そっと振り向き枝垂が起きていない事を確認すると、僕は葉書きと本を元の場所へと戻して部屋を後にした。
 自室へと戻り、行燈に火を灯さぬまま月明かりの中で僕は独り考える。果たして今あるこの状況は、どう言う事なのだろうかと。
 とりあえずあの二人がS出版社から依頼を受けて僕の世話をしていると言う事は間違いなく嘘だ。だが、それが嘘だったとしてあの二人にどんな得があるのだろうか。
 無一文かつ無名で将来性もない平凡な中年の男。それが僕だ。そんな底辺をうろつく人間を騙して得をするような事は何も無い。もしも僕をひっとらえて強制的な肉体労働をさせたとして、それはいくらも戦力にはならないだろう事は目に見えている。
 ならば――? と考えてみてももう何も出て来ない。どんな穿った考え方をしてみても、彼女達が僕を騙して益を産むような事など何一つとしてありはしないのだ。
 だが、例え僕から何も搾取出来なかったとしても、僕がそのままただで済む筈がなかった。何かしらの代償は支払わされる。それだけはこんな僕でも充分にわかる。
 ならばどうする? 酷い目に合う前にここから逃げ出すか?
 いやいや、待て待て。この旅籠から逃げ出すのは簡単だろうが、果たしてこの島から無事に逃げ出す事は可能なのか? ――答えは、“否”だ。そんな事ぐらい僕でもわかる。
 船は無い。連絡船はあるにはあるが、船頭がこの島の者である限りすんなりと渡してもらえる可能性など無いに等しい。
 結果、手の打ちようがないと言う答えが導き出された。今あるこの状況は、どうやら僕が妙な事をしない限りは何も起こりそうにない。ならば一番の安全は、騙されている事に気付かない振りをしながら流されている事。これしかなかった。
 だが、いつまでこの状況が維持出来るのだろうか。騙されている振りが、どこまで通用するものなのだろうか。そしていつの日にか来るだろう、僕を“不必要”と判断した時、僕はどんな処分のされ方をするのだろうか。
 考えれば考える程に滅入る想像ばかり。なんだかもう、生きて本土へと帰る事は叶わないのではと思い始めていた頃、からりと部屋の障子戸が開いた。
「あら先生――。まだ起きておあしたのおすか?」
 それは、八重だった。一体今まで本家にて何をしていたのだろうか、きっちりと髪を結い上げた振袖姿であった。
「あ、あぁ……ちょっと眠れなくてね」
「そうおすか。ちょっと驚きましたえ。なら、燗でもつけて参りあしょうか?」
「いや、要らない。そろそろ眠くなって来た所だったし」
「そらようございあした。私も横で御一緒させて頂いてもよろしおあすか?」
「あぁ、もちろん」
 そう言って僕は、自らの浴衣の帯を解きはじめた。

「――ねぇ、八重。もう寝た?」
 そっと声を掛けてみると、既にうとうととしていたのだろう、「起きてますえ」とだるそうな声でそう答えた。
「何か――心配事でもおありおすかえ?」
 薄く目を開け、八重は僕を見る。
 僕は彼女の腰を抱き、頭の下にあった腕で引き寄せきつく抱き締める。
「どう……なさいあした?」
「八重、聞きたい事があるんだ」
「どうぞ、遠慮無しにおっしゃって下さいあし」
「僕は……」言い掛けておきながら、僕はそこで息を飲んだ。
「無事にここから帰れるのかな。本当はもう……生きて帰れる見込みなんて無いんじゃないのかな」
 ふと、八重の身体が強張ったような気がした。両手で僕を押し返し、腕から離れるようにして八重は僕を覗き込む。
「先生次第でおあすねぇ」
 信じられるだろう、嘘の無い返事のようだった。
「僕次第、とは? 見込みはあるの?」
「見込みも何も……先生ばもうかなりの量を書いておあしましょう。大丈夫ではないでしょうや」
「書くって――」
 ふと頭を上げて振り返り、書見台の上の原稿の束を見る。
「もしかしてあの原稿の事を言ってるの?」
「他に何がおあしましょうや」
「でも……あれに一体、何の価値が?」
 聞けば八重は片手で口元を隠しながら可笑しそうに笑った。
「まぁたこの前と同じような事を聞きますのぉすなぁ。――価値? 価値ですかえ? これまた今更な御質問おすえ。逆に聞きあすが、先生ばどうしていつもご自身の書くものに価値が無いと思えるんおざいあしょう」
「え……だって僕は……」
「先生のような高名な文筆家さまがこの島の事をばお書きになる。これほど名誉で価値のある事など他に多くはありあすまい」
「いや、僕はそんな……」
「今まで、書き上げる事の出来たマレビトば、だぁれもおらんのですよ」
「――えっ?」
「今までに何人か、この島を訪れたマレビトがおりあす。つい最近も一人来たようおすが、結局あかんかったと聞いとりあす。でも、先生ばぁ違ぉおあす。ちゃんと書いてくれはります。今までのどのマレビトさまとも違ぉおざいあす」
「そんな……じゃあ、今までに来たどのマレビトもまだここに?」
「生きてはるなら、まだどこぞにおるのではないでおあしましょうか。出られた事が無いのおすから、今も尚ここに御滞在しているのではないでおあしましょうか」
 正直、ぞっとした。――他の人でも書き切れなかった? どうして? 他の人でも無理だったと言うのに、僕にそれが可能なのか?
 確かに今は順調に書き進められてはいる。だが、それを書き上げる為にはとてつもなく厄介な問題が一つあるのだ。
 僕は床を抜け出し、簡単に浴衣を羽織ったままで行燈に火を入れる。そして原稿用紙をめくり始める。一枚、また一枚と。
「先生……どうなさいあした?」
「――わからないんだよ」
「わからない? 何の事ぉすか?」
「この物語のやめ時だ」僕は言った。
「小説と言うものは始まりがあって終わりがある。一応この物語は僕がどう言う経緯でこの島に来たか――から書かれてあるから、とりあえずは始まっている」
「はぁ」
「だが、終わり所が見付からないんだ。一応はノンフィクションの旅行記であるからどこでどう終わってもいいようなものなんだが、それでもその結末にはそれなりの“締め”が無きゃいけないんだ」
「――はぁ」
「今までのマレビトが書き切れなかった理由がそこにあるんじゃないのかな」僕は八重を見てそう告げた。
「きっと誰もがそれなりに有名な作家だったとして、そのプロ意識が強ければ強い程にそうなるだろう。なんの事件性も、なんの結末も盛り上がりもないままで物語を終わらせられる筈が無い。プロであろうとすればする程、そんな尻切れ蜻蛉な結末で締める事なんて出来ない筈なんだ」
「それは……難儀な悩み事おすなぁ」
「そうか。――そうなんだ。きっとこの島での出来事を綴ろうとしたならば文章を書ける人間ならば誰にでも出来る。だが――そう、一つの物語として読み手を惹きつける盛り上げ方に無理があるんだ。書き手が“面白くない”と思った以上、それは書き切る事なんか出来ない。こうしてだらだらと続く退屈な日常を書いたとして、それを閉じてもいいだろうと思えるような大きな事件や出来事が起こる筈が無いんだ」
「……」
「ならばやはり僕が書いたこの原稿だって、ただの駄作だ。面白味などどこにもありはしない。そして他の作家同様、やめ時を見付ける事が出来ないままいつまでもそれを引き延ばしてしまう事だろう。――無理だ。どう考えても無理だ。僕にはもうエネルギーが無い。これを盛り上げる為の努力をする気力も無い。無理だ……僕には無理だ」
「そうおっしゃいあすな」八重が僕の手を取る。
「大丈夫おす。先生ば大丈夫おす。書けぁすよ。ちゃあんと書けぁす。ただちょっとだけ混乱しているだけで、先生ばちゃんと書き上げられあす」
「いや、無理だよ」僕は返した。
「僕だってこう見えても物書きの端くれだ。だからわかる。これはもう既に、“物語”ではない。単なる絵空事の奇妙な世界をただ見たままに説明しているだけの駄文だ。誰が読んでも僅か数頁をめくって放り投げられる、そんな程度のものだ。――伝えられない。この島の魅力の全てを。この島の特異さを。僕の技量では全く何も伝える事は出来ないんだ」
「……」
 思わず、目が潤んだ。自分の言葉に影響されている部分もあるのだろう。情けなさと惨めさで、じわりと目の前の行燈の灯りがぼやけて行く。
 あぁ、情けない。情けないがこれが僕の実力だ。こんな程度の三流作家。それが僕の限界だ。結局、どんなに素晴らしい題材や舞台を与えられても、それをそのまま、見たままに伝える事すら出来やしない。そんな自分の不甲斐なさに拳で膝を打てば、八重が呟くように、「先生」と声を掛けて来た。
「八重さん……」
「先生、書いておせ」
「いや、だから……」
「先生、“全て”を書いておせ」
「……?」
「書くのぉすよ。なぁんも隠さず、なぁんも遠慮せんで、全てをそのまま書くのぉす。そこにあなたの素直な心を捻じ込んで、あなたの感情のままに大袈裟なぐらいに盛り上げて。あなたの感じたまま、思ったままを書くのぉす」
「いや――全てを書くって――?」
 何を言ってるのかわからなかった。僕としては今までも全てを書いているつもりだった。むしろ他に何か、特筆すべきようなものなどあるのだろうか。考え悩んでいると再び、「全部書けばえぇのおす」と、八重は続ける。
「先生ば敢えて書かんかった事も全て書けばよろしいやないですか。私とまぐわりながらシタラの事をば想っちょうてた事とか、私が出掛けている最中にシタラと逢引きしては一緒に寝ている事とか」
「八重……」
 血の気が引いた。どうして彼女はその事を知っているのだろう――?
「まだまだおありやないですか。シタラばこの島のしきたり破って御館様よりも先に先生をお選びなさった事とか。岩場の茶屋でダツエ達との騒動の一件とか。後は先生、シタラの部屋でお見付けになられましたんやろう? 仕事先に送った筈の葉書きが部屋にあった事とかもえぇ話題になりあすやないですか」
 ――どうして? どうしてそこまで知っている? 困惑しながら言葉に窮していると、「全部書けばえぇのぉす」と、八重は重ねてそう言った。
「私ば本などよぉ読ましまへんのでわかりまへんが、先生が今困っとった事に関してならよぉわかりあした。そして今までのマレビトさま達がみんな、書けずに終えてしまった事もつくづくよぉわかりあした。――だからこそ進言させて頂いとるのぉす。先生ば、知られて良き事あしき事、選んで書いておりあすなぁ?」
「あ、あぁ……確かに」
「それなら今までのマレビトと同じおす」八重の掌がそっと僕の頬へと触れた。
「書かんとあきまへん。選んで書いておったら先生ばご自分の文章に喰われはりますえ」
「しかし――」僕は八重の手を掴み、きつく握り締めた。
「しかし、書いて良いものでしょうか。もしも、そうもしも全て真実をそこに書いてしまったら、間違いなくあなた方に迷惑が掛かる。特に枝垂さんには――」
「シタラば、迷惑だと言うておりあしたか?」八重は言う。
「あの子ばそんな事言うておりあしたかえ? むしろ言うとしたならば、全て真実を書いておせと――そう言う筈やと思ぉすのやけどねぇ」
 言っていた。確かに八重の言う通り、“先生のいっとう素直な言葉で私を紡いでおくんなし”と、彼女は僕にそう言った。
「だけど……前に君は言ったじゃないか。もしも禁を破ったならば絶望するより他は無い陰惨な責め苦が待ち受けていると。ならば僕は彼女をそんな目に合わせたくはないし、僕自身だってそんな酷な死に方はしたくない」
「本心おすか?」
「え――?」
「それは本心から言うとりあすか? 実際の先生ば、そんな程度の信念で生きとりあすか?」
「……」
「一生に一度の大作を書いて死ぬ事と、書けずに終わる事と、先生ばどちらが大切でおすか」
「それは……」
「質問ば変えましょうかえ。――先生ば、どっちを書きたいのぉす? 自分が見たまま感じたままを書いた小説と、他人の目を気にして取り繕った小説と」
 前者だ。もちろん。
「書いてる人が面白ぉないと思っている小説ば、他人が読んだら面白くなろうものぉすか? “生臭さ”を徹底して取り除いたものに他人が興味を示すものぉすか?」
 何も返せなかった。――そうだ。まさに彼女の言うとおりだ。自分だってそれは充分に知っていた筈なのに、どうして臆病の方が上回ってしまうのだ。
「他人の迷惑なんぞ考えておりあしたらなんも書けしまへん。禁だの罰だのと考えとうたら人様の目を惹くようなものなど生まれまへん。――人ばぁ、普段ならば目を背けたくなるようなものほど欲するのぉす。自分の弱さ、醜さ、恥ずかしさを連想させるようなものほど惹かれるのぉす」
「――なるほど」
「先生ば、“地獄絵図”ちゅうもんは御覧なった事おあしあすか?」
「あ、あぁ。昔どこかの寺で見た事があったかなぁ」
「見て、どう思いました?」
「え――思ったって言うと?」
「残酷で暴力的で、思わず目を背けたくはなりあせんでしたか?」
「あぁ、なった」僕は頷く。
「だが不思議と、目が離せなかった。むしろその絵に惹かれている自分を感じていた。どの絵も、どの責め苦も、有り得ない程に生々しくて残忍なのに、いつまで見ていても飽きない程の魅力があった」
「そうでしょう」八重は笑う。
「それが人の持つ純粋な“欲”やから。あの絵に描かれているものはどれも全て、人の持つ“煩悩”ぉす。持っていて当然、惹かれて当然な、普通に欲する事の全てが描かれているだけなんぉすよ。ただそれを、“地獄”と言う世界を背景にして、“禁ずる”と説く仏教の教えがああなったんぉすね」
「なるほど。――そうなのか」
「だからこそ余計に惹かれるんおす。“禁”じられるからこそ、“欲”するのぉす。それが人の持つ“業”おすよ。先生が、手を出してはならんシタラに惹かれたのも同じ理由おすなぁ」
「……」
 二の句が継げない。何もかも、八重の言う通りだと思った。
 そうかと思い直し僕は原稿の束を手に取る。そうだ、ここには“業”は無い。これは徹底して生臭さを取り除いた、無菌な文章で綴られている駄作だ。骨を取り除き、食べやすくされた魚の刺身だ。噛めば旨いかも知れないが、それは“魚”と言うものの本質の全てではない。
「書いても……よろしいのですか?」
 あらためてそう聞けば、「書いておくなぁし」と、八重は言った。
「人の迷惑をば考えるのならば、誰にも見せずにしまっておけば良い事。まず先生ば、御自身で書きたいものを書かねばなりあせん。読まれる前提で書きなさるな。書きたい前提で書いておくなあし」
 僕はたまらずその原稿の束を横に放り投げ、そしてつんのめるようにして八重の身体を圧し抱いた。
「先生……」
「ありがとう」
 八重を抱く手に力がこもる。
「ありがとう。僕は君に気付かされた。僕は一体、何を思い上がっていたんだろう。どうせろくに読まれはしない三流小説家だって言うのに、何を選り好みして文章を削っていたりしたんだろう。――目が覚めたよ、ありがとう。全て君のおかげだ」
「先生……」
 仰け反るようにして、八重もまた僕の背に手を回す。
「ありがとう八重。僕を……ここまで気付かってくれた人は今までの人生の中で君が初めてだ」
 無言。だがその答えは抱き締めた彼女の体温から伝わって来るようだった。

 *

 それからの僕は、ひたすら原稿の修正と加筆の作業に没頭した。
 どうしてこの島へと来る事になったか。どう言う経緯があってここへと辿り着けたのか。そんな下りも全て加えて冒頭へと挿入する。
 隠す事はなにもなかった。見る人が見たら眉をしかめ頁を閉じてしまうだろう事までも全て、書き記すつもりだった。
 それからの僕はなんだか“何か”に憑かれたかのような生活を送っていた。
 どこか――トランスめいた自分を感じていた。それはまるで自分自身から幽体離脱して、少し後ろからその背中を見ているかのような。そんな気分で僕は、執筆作業に没頭した。
 不思議と疲れは感じなかった。気が付けば窓の外でいつの間にか夜が来ていたり朝が来ていたりとめまぐるしく時間が過ぎて行くのがわかったが、ほとんど眠る事もしないまま僕はその作業に夢中になっていた。
 時々、八重か枝垂かどちらかが、酒を運んで来る事があった。僕はその度喉を潤し、そして彼女達を抱いた。もうその頃にはどちらが八重でどちらが枝垂かまるで見分けが付かなくなっていたのだが、それすらもどうでも良いかのように僕は彼女達に夢中になった。
 からからからから――と、窓の外の手摺りに結わえられた色紙のかざぐるまが回っている、ような気がした。
 今は昼過ぎだろうか。不思議と何の音も聞こえない。極彩色だった世界はいつの間にかモノクロのような味気のない景色となり、ノイズ混じりな砂の嵐が混じり始めた。
 僕はその若き女体を抱き締めながら、開け放たれた窓の外を眺める。くるくると風に弄られて回るかざぐるまのその横に、一羽、二羽――ざっと数えて七、八羽程はいるのだろうか、やけに鮮明な漆黒の鳥が窓辺の手摺りにとまりながら微動だにせずに僕を見つめていた。
 早くしなくちゃなぁ――と、声に出したつもりだが、それはまるで夢の中の出来事であるかのように僕の耳には届かない。ただ、薄く低く、遠くで鳴り響く篳篥の寂しげな調べだけが風に乗って流れて来るようだった。
「祭りば来ますのえ」
 いつの間に起きたのだろう、美しい二つの瞳が薄く開きながら僕を見ていた。
「――祭り?」
「えぇ、祭りおす。賑やかになりあすえ」
「ふふ……今更だね。この島じゃあいつもどこかで祭りがあるって言う話じゃない」
「“祭り”の意味が違いあす」彼女は長い髪をかき上げながら言う。
「“祀り”と、“奉り”。“政り”に、“祭り”。祈りがあれば祝福もあり、願いも呪いも、祈祷ですらも、“まつり”おすえ」
「さすがは枝垂さんだな。知識量が違う」
 言うと彼女は、「よぉ私やと見破りあしたな」と笑った。
「そりゃあね。――もしかして僕がいつも君達を見分けられていないって事、気付いてた?」
「えぇ、気付いておりあしたよ。先生さまば、名前で呼ばない時はいつもそうだと知っておりあす」
「それは失礼」
 相変わらず、僕自身の声はやけに不鮮明で聞き取りにくい。ただ彼女の声だけがはっきりと届いて来るのが救いだった。
「少し寒いね」
 僕の腹の上に乗る枝垂の太腿をさすりながらそう言うと、彼女は「もうすぐ“盆”ばぁまりあすのに」と笑った。
「盆? ――こっちでは夏以外でもお盆があるの?」
「なにを可笑しな事をば言うょりあす。盂蘭盆会(うらぼんえ)と申しあしたら季節ば夏に決まっておりあしょう」
「夏って――えぇ? こんなに涼しいのに?」
 枝垂は笑いながら僕の上へと覆い被さりながら、「夏はこれからおすえ」と、唇を求めて来た。
 ――ガァ 鴉が一羽、声を上げて飛び立つ。同時に一斉に他の鴉達も飛び去り、音と色彩が飛び込んで来るかのような勢いで元へと戻る。
 どうしたんだ、一体。思いながら片手で目を押さえれば、「どうかなさいあしたか?」と、枝垂が心配そうに顔を覗き込む。
「いや、なんでもないよ。――さっきの話、詳しく教えて。“まつり”の種類と、うら……なんとか言うの」
「盂蘭盆会おすな。日本の古代信仰と仏教行事が混合された祭事でおあす。本土ではお盆の時期になるとホトケさんが戻って来るぉうて教えられあすやろう」
 語りながら枝垂は僕の唇の上を舐め回し、糸引く舌先で今度は首筋へと移る。
「ここでは逆でおあす。盂蘭盆会が始まれば、ここからホトケをば送り出す祭りが始まりあす。そらぁもう盛大に、黄泉の御釜の蓋も開きそうな程の賑やかさでなぁ」
 枝垂の指先が僕の胸をくすぐり、そしてもう片方の手は陰部へと伸びる。
「そうなんだ。それは興味が湧くね」
 僕が息を荒くしながらそう返すと、枝垂の手はさんざじらした後、きつくその陰茎を握り締めた。
「そして盂蘭盆会ばぁ、“祭り”おす。ここで言う祭りとば、古来の意味では“慰霊”。つまりは“葬儀”と言う分類で扱われあす。先生ばさっき島のあちこちでいつも祭りば行ってるとおっしゃいあしたが、実際は“祭り”やのうて、“祀り”か、“奉り”の方おすね。ここでは仏教と神道ではそれなりに区別しておりあすよって、本土の方にはわかり辛い思いますけど」
「ならこの島は、宗教についてはうるさい所なんだね」
 その刺激に僕は身悶えする。だが枝垂はその攻め手を休ませる事なく淫らに動かしつつ、「そら逆おすえ」と、耳に直接ささやくようにして言葉を返した。
「どんな宗教でも受け入れるからこその規律おすえ。適当な事ばしとりましたら商いにはなりあせん。でもそんな宗教行事とはまた別に、この島には独自の文化がおあします。――御覧になれば良いおすね。そうすれば大体の事ばぁわかりあすやろう」
 枝垂は一体どこで覚えたのだろう。屹立した陰茎をまたぐようにしながら自らの股を擦りつけ、執拗に淫らな刺激を与えて来る。
「枝垂……」
「先生、私の事をば書いておくれあしたか?」
「あ、あぁ。書いてるよ。君が言った通り、全て隠す事無く」
「先生が私と寝た事も? 御館様よりも先に私を抱いた事もぉすか?」
「書いた。全部、詳しくね」
「――よろしいぉあす」
 言うと枝垂は自らの手で僕を導き、その胎内に陰茎を埋め始める。そうして僕は枝垂に愛されながら考える。一体、僕の身体はどうなってしまったのだろうかと。
 元より僕は、さほど性的な欲望について旺盛な方ではなかった。独り身で寂しいと思う事はあっても、懸命に伴侶を探そうとか金で性欲を満たそうとか、そう言う事を思う機会はほぼ無かった。
 だがここに来てからと言うもの、この欲求は果てが無い。まるで自分は常に発情期が来ている獣か何かではないかと思ってしまう程にその欲望に満足する事が無い。体力的に疲労困憊して眠りこけない以上、昼夜問わずに交わっていても平気な程なのだ。
 そして今もまた、これで何度目かと考えてしまうぐらいに激しい絶頂が訪れようとしている。僕は寝そべりながら枝垂の腰を両手で掴み、口付けを求める。
「先生、まだあきまへんよ」
「いや……もう無理だ。頼む、枝垂」
「あきまへん。もうちょい辛抱なさいあし先生」
 嬉しそうな表情を作り、枝垂は倒れ掛かって来る。
「頼む……あぁ、頼む枝垂。もう……もう……」
「しょうありあへんなぁ」
 そして枝垂は、ぬめぬめと唾液の絡んだ舌先を僕の口内へとねじ込みながら、腰を深々と沈ませた。同時に――果てた。もうこのまま魂さえも彼女に吸い取られたいと思ってしまう程に恍惚とした絶頂だった。

 やけにだるいなと、ぼんやり天井を見上げながら思った。
 交わった後はいつも放心状態でだるくはあるのだが、ここ最近の身体のだるさは異常だった。枝垂に事後の始末をさせながら、僕は両の手を持ち上げてじっと見比べた。
 ――こんなにも肌が汚かったっけ? 僕は思う。
 脂がそげて骨ばった手首。血管ばかりが浮き出てかさついた手の甲。相当に血のめぐりが悪いのか、爪の色などは紫に近い。指先はかすかに震え、握り締めてもいくらも力が入らない。
 まるで老人の手そのものだなと思う。元より不健康な人間ではあったが、ここに来てやけに老け込んで来た感は否めない。そう言えば最近、鏡で自分の姿を見ていない事に気付く。思えばこの旅籠にはどこにもそれらしきものが無い。言えば出してはくれるのだろうが、たかが自分の顔を見るだけで鏡を欲するのもおかしな話だと思い、僕はそれを飲み込んだ。
 だが、このだるさだけはどうにも気に掛かる。足の力が入らなくてなかなか思うように歩けなくなったのもここに関係して来るものなのだろうか。時にはあまりのだるさに書見台の前に座る事さえ難儀で、布団の中、うつ伏せで原稿に向かっている事もあるぐらいなのだから。
「枝垂さん。風呂に入りたいんだが、どこか空いてはいないかな」
 聞けば枝垂は、「地下も屋上も今は入れまへんなぁ」と言う。多分地下とはあの朧の湯の方で、屋上とは最初に入った桜吹雪の露天風呂の事だろう。
「不思議だね。天然の温泉なのに常時入る事は出来ないのかい」
「お風呂だけならいつでも大丈夫おすが」枝垂はそこで言葉を区切る。
「準備ば大変なんおす。先生さまに入っていただくのに、万全な準備無しにおすすめ出来まへんよって」
「そんなのどうでもいいのに」
 笑いながら言うと、「そうは行きまへん」と枝垂は返す。
「先生ば全力で小説書いてくれなはる。なのにこちらが手を抜いたおもてなしをしたらいけまへんやろう」
 ちくりと、胸の奥が痛んだ。おもてなし――か。改めて自分自身はただの客であり、彼女達の恋愛対象ではないと言う事を自覚させてくれる一言だった。
「とにかく、万全なんかじゃなくてもいいよ。なんだか今凄く湯に浸かりたい気分なんだ。どちらかに案内してもらえないかな」
 言うと枝垂は、「なら、ちょっとばかぁし遠いおすが、“桃源の湯”まであない(案内)いたしあしょう」と、立ち上がる。
「桃源の湯? 桃源郷みたいな凄い名前だね」
「名前だけおす。さほど凄い場所やありあせんが、昼に入るには良い場所やもと思いあしてね。ただ――ちょっと坂道が急でおすので、車ば用意させあすので少々お待ち願いあす」
 そう言って簡単に着物の帯を巻き付けると、そそくさと枝垂は出て行ってしまった。
 それから約一時間後。僕と枝垂は馬車の上にいた。だが馬車と言っても、本物ではない。枝垂が言う所の“下っ走り”と言う、馬の面の男が引く人力車だ。僕に一台、枝垂にも一台。体格の良い人夫が一人ずつ車を引いてくれた。
 枝垂が車を用意すると言ったのは納得が行った。それは到底、今の僕の足腰では登れないだろう程の山道だったからだ。
 急ではないが、平坦な道など皆無な程にいつまでもいつまでも緩い坂道が続く林道。しかも地面は僅かに轍が残る程度な狭い砂利道で、乗っているだけでもその振動と仰向けになりがちな姿勢とでかなり辛い。
 但し、その車から眺める景色の移り変わりはなかなかに楽しかった。
 そこは果樹園か何かなのだろうか。道の両側に桃の樹が並び、なんとも言えない甘い芳香と共に、咲き乱れた鮮烈な色彩の花々が目を楽しませてくれる。いつの間にここまで登ったのだろうか、時折木々の間から見え隠れする眼下の麓の風景がやけに美しい。
 時折、「重いですか?」とか、「申し訳ありませんね」と、車を引く馬頭(めず)の男に声を掛けるのだが、もしかしたら会話そのものを禁止でもされているのか、男はほんのちょっとだけ振り向いて小さく会釈するばかり。やがて僕の方も声を掛けるのをやめた。
 やがて辿り着いた場所は、桃の木々が植わる場所よりも若干高台になるような土手の上に建てられた、丸太組みの家屋の前だった。
 妙な事に、家の壁は三方にしかなかった。残る一方は素通しで、そこから巨大なごつごつとした黒い岩がはみ出し、小さな崖を作っている。いやむしろ、その岩を保護するような形で家屋が組まれたような印象を受ける。せり出した岩の際から、幾筋か白い線となって絶えず水がこぼれているのがやけに美しく見えた。
 先に着いた枝垂に手を借り、車を降りる。それでも自らの体重を支えきれずに地面に手をついてしまう自分が情けない。
 家屋はそれほど大きなものではなかった。風通しの良さそうな居間と厠があるだけで、他は全て浴室に割かれていた。
 見てすぐに圧倒された。巨大な岩盤を掘って作ったのだろう浴槽は暗く静かに湯をたたえ、それ自体で空中へとせり出していた。
「準備しあすので、お待ちくださえ」
 言って枝垂は勝手知ったる要領で、居間の方から何かを運んで来た。
 大きな瓶二つを逆さまにしてその中身を湯へと投じる。それはなにやら、草か何かのようだった。次には大きめな壺が三つ。中身は液体のようで、それが次々に湯の中へと注ぎ込まれる。
 一体それは何? 聞く前に、香りでわかった。――桃だ。
 一瞬にしてその室内は芳醇な桃の香りで包まれる。枝垂は適当に櫂で湯を撹拌させると、「準備出来あした」と、僕の元へと寄って来る。
 湯は、素晴らしいものだった。入ってすぐに気が付いた。湯の表面には様々なものが浮かんでおり、先程枝垂が何を投じていたのかが良くわかった。
 この草のようなものはきっとポプリのようなものなのだろう、乾燥させた桃の皮や千切った葉などと共に、色鮮やかな桃の花までもが浮かんでいる。
「こればぁ、桃の蕾の岩塩漬けおす。こうしておけばいつまでも花の色が綺麗なんぉすよ」
 言って枝垂は花弁を一輪、すくって見せる。「でもそれだけじゃあこんな香りにはならないんじゃないの?」と聞けば、「酒ば入れたんぉす」と、照れ臭そうに笑った。
「あぁ、最後に入れた?」
「えぇ――良かったら一寸味見てみあすか?」
 そして渡された盃には、まるで桃の香りが凝縮して詰め込まれたかのような強い香りの酒で満たされていた。
 壁が屋根ごと突き破られでもしたかのようなその空間から、眼下に望める一面の桃の花。鮮烈な朱から純白に近い程の白。そんな色のグラディションが山の斜面を埋め尽くす。瞬間、山から吹き下ろす風が木々の枝を弄ったのだろうか、ざざざざざぁ――と言う音と共にその色とりどりの花弁が一斉に舞い上がる。
 一瞬にして、その暗闇の室内から切り取られたかのように映す外の景色を桃の花弁の嵐が覆う。――圧倒。そして感動。それに続く微かな恐怖と戦慄が過ぎると同時に、舞い上がった花弁はいくらか遅れてその窓から室内へと飛び込んで来る。
「きゃっ」
 横で枝垂のあげる無邪気な声。そして僕はまだ圧倒されたまま口を半開きにしたまま宙を見上げていた。
 花が、降る。まるで雪のように。まるで灰のように。花はひらひらと右へ左へと揺れながら、湯の上へと舞い落ちる。そして僕はそれを眺めながら、今のこの一瞬が物語の最後として相応しいのではないかと考えた。
 だが、本当にそれでいいのか? ようやく今の興奮が醒めて来た辺りで考える。
 確かに今の一瞬は素晴らしくはあった。――だが、今までを通じて語られて来た全ての出来事に何の決着もつけずに終えていいものだろうかと言う疑問を持ってしまったからだ。
 いや、やはり考え直そう。まだ――きっとまだ他に、相応しいワンシーンがある筈だ。思いながら僕は花弁が一枚浮いた盃の酒を一気に呷ると、その喉の火照りに低い声で唸った。
「どうしあした?」
「何が?」
「さっきから心ここにあらずな顔しとりおうした」
「あぁ――」注がれるままに僕は空の盃を差し出す。
「まだ、小説の終わり処が見付からないんだ。どこでどんな終わり方をすれば僕自身が納得出来るのか。最後ぐらいは僕自身で考えた創作で終わらせてもいいかもとは思っているんだけど、それでもやはりどんな終わり方がこの旅行記には相応しいのか、まだ見当が付いていないんだ」
 言うと枝垂はふふと笑い、「なら、今度のお祭りば書いておせ」と、遥か向こうの方角を指差した。
「この島でいっとう盛大なお祭りおす。島の亡者共が娑婆へと帰れる喜びを模した、真夏の夜のいっとう華やかなお祭りおす。私が一番好きなお祭りおあしあすって、先生もきっと気に入ってくれるやろうおもいあすよ。なぁ、先生。一緒に見に行きあせんか」
 聞いて僕は、「いいね」と頷き、盃を傾ける。
「なんだか真夏とは思えないような季節感だけど、僕も祭りは嫌いじゃない。是非に見に行きたいものだね」
 言うと枝垂は嘘の無い笑顔で、「嬉しい」と、抱き付いて来た。
「……ねぇ、先生」
「何?」
「いい事教えて差し上げあしょうか」
 言いながら枝垂は、どこか悪巧みでもしていそうな顔で笑った。

 結局その日は、夕暮れ近くまでそこにいた。湯に入っては酒を飲み、のぼせると今度は風通しの良い板の間へと移り、惰眠を貪ると言う堕落さのままで一日を過ごした。
 再び車上の人となった頃には陽も相当傾き始めており、向こうの山の空は既に群青色へと変わりつつ見えていた。
 馬頭の二人はそれまでずっと近くで待機していたのだろう。再び軽快な足取りで山を下りて行く。祭りのお囃子の稽古だろうか、遥か遠くから太鼓と笛の音が微かに響いて来るのが感じられた。

 *

 とうとう物語は、これ以上書き進める事が出来ないと言う所まで来てしまっていた。
 物語はとうに現実へと追い付き、加筆や修正さえももう施しようがない所まで終わってしまっている。
 後はただ、どう終わるべきか。それだけが残された大きな課題だった。
 足腰はさらに弱っていた。今では誰かの手を借りなければ立つ事も歩く事もままならなかった。
 但し、食欲と色欲だけはまるで衰える気配が無い。酒もすこぶる旨いし、悩みで眠れなくなると言う事もない。ただ、日に日に老化が加速して行くだけ。それだけが悩みであった。
 ――書き切れるのだろうか。僕は窓の外の鴉を眺めながらそう問うた。
 いつの間にか鴉の群れは、相当なものになっていた。窓の外の手摺りのみならず、向こうに見える木の枝の全てにまで黒々とした鴉の姿があり、それらは全て虎視眈々と何かを狙うかのように微動だにせずそこにいた。
 知っている。あれは間違いなく僕の死を待つ死神だ。いつぞやに枝垂と一緒に見た、鳥葬の時のそれと酷似している。
 僕は想像してみる。このまま返事も出来ず、瞬きもせず、手足を動かし暴れる事も出来ないままこの胸に刃を落とされ、腹の臓物をぶちまけて鴉共の餌食となる自分の姿を。生きたままについばまれ、叫ぶ事すらも出来ずに痛みを堪え、骨と化して行く自分の姿を。
 死に至る病とはこのような事を言うのだろうか。もう既に僕は、絶望にも似た生の諦めを心の中に秘めていた。
 だが特に、思い残すようなものは無かった。もう一度本土へと戻り、前と同じ生活を送ろうなどとは微塵も思ってはいない。むしろここで、この島で、八重と枝垂の二人に看取られながら死ねるのならば本望だとさえ思ってしまう程に、死への恐怖は少なかった。
 祭りは、明日へと迫っていた。こんなざまでどうやって見に行けと言うのだろうか、僕は少し可笑しくなって布団の上で自嘲めいた笑みをこぼしていると、部屋の外から、「ごめん」と言う声と共に障子戸がからりとひらいた。
 ――誰だ? 思いながら目だけでそちらを見れば、それは意外にも茶屋で枝垂と一悶着を起こした、“ダツエ”と呼ばれた白装束の男だった。
「……」
「あぁ、いいよいいよ。起きなくていいし挨拶も要らない。用件だけ済んだらすぐにおいとまするからそのまま寝ていて」
 言いながら白髪の男はずけずけと部屋の中へと分け入って来て、僕の枕元にしゃがみこみながら、「老けたねぇ」と、笑った。
「……」
「あぁ、うん。老けたよ。最初に逢った時から比べたらまるで別人みたいだ。――相当、“喰われた”ね。まぁ、気の毒だけど同情はしないよ。自業自得だし、君だって充分に楽しんだだろう?」
 そう言って男は懐から一枚の札のようなものを取り出し、弛緩したままに開いた僕の掌に押し付けた。
「“書”を書き終えたら、これを上に貼り付けて御館様の所へと渡しに行くんだ。もちろん君はその体たらくだ、自身で行く必要は無い、誰かに頼んで渡してもらうんだな」
 言って男は立ち上がる。そして振り向きもしないまま部屋を出て行こうとするその背中に、僕は声にならない声で語り掛ける。
「え――何?」
 男は振り向く。
「……」
「あぁ、そんな事気にする必要無いんじゃない? あの鬼っ子二人は君が思っている程弱い立場じゃあないよ。――と言うか、そこまで喰われておいてどうして君が彼女達の心配なんかするんだい。本当に変な人だね。彼女達の身を案じるより先に、君はここからどうやって無事に逃げ出すのか、それを考えるべきだったね。もうとっくに手遅れな話だとは思うけど」
 そう言って男は再び僕の元へと戻って来てしゃがみこめば、「これをあげよう」と、小さな小瓶を僕の肩の辺りに置いた。
「中は、菖蒲の葉を煮詰めて作った魔除けさ。特に、“鬼”に効く。こいつを振り撒けばその手の類は君を追っては来れなくなる」
 そして今度こそ男は部屋の外へと出て行って、「また逢えるといいね」と笑い、そして戸を閉めた。
 僕は震える手でその瓶を握り、札と共に袖の中へと隠す。そうしてすぐに、「失礼おあします」と声が聞こえ、八重が顔を出した。
「い……今……」
「どうしあした? ――いいえぇ、別に私ば誰とも逢うておりあへんけど」
 おかしい。普通ならば廊下のどこかであの男と八重が鉢合わせをするだろうタイミングだったのに。
 からからからから――と、窓の外の手摺りに結わえられた色紙のかざぐるまが回っている。いつの間にやら、鴉の群れはどこかへと消えていた。僕は風が通り抜ける方向を目で追いながら、八重の膝に頭を置いて酒を啜る。
「不思議だね」
 僕が呟くと、「何がおすか?」と、八重は問う。
「この酒さ。どう言う訳かこの酒を口にすると途端に力が戻って来る。完全ではないにせよ、こうして君と話をするぐらいには回復するんだから不思議だと、そう言いたかったんだ」
「そうおすか。そらよぉおざいあしたなぁ」
 八重は笑って僕の頭を撫でる。そして僕はうっとりと彼女のするがままに任せ目を閉じる。
「八重……明日からの祭りは三人で行こう。もし君に何の予定も無いのなら、ずっと一緒にいよう」
 言うと八重は躊躇もせずに、「よぉおざいあすよ」と、笑った。
「混むし賑やかな祭りですえ、先生ば疲れやせんとよろしいのぉすけどなぁ」
 そっと手を伸ばす。見上げながら八重の頬をさすり、そして引き寄せるようにして接吻を求める。
「――どうなさいあしたか、先生」
 唇を離しながら、八重は小さく笑った。
「殺して……くれないか」
「――え?」
「僕を殺してくれないかな、八重。僕はもうこれだけ弱り果てているんだ、もしも君に激しく愛されたなら、それだけで死ねるような気がするんだ」
「何を言うとりあす」
 お互いの顔を逆さまに見つめ合いながら、八重はまた笑った。
「冗談で言ってる訳じゃないんだ」僕は尚も続けた。
「良く考えての決断なんだ。僕は――この島で、君達に愛されながら死にたい。もちろん君達の愛情は単なるお役目の一環であるって事は重々承知しての話だけど」
「何を言うておりあすか、先生」八重は怖い声で言う。
「確かに私ばお役目で先生の身の回りのお世話ばさせていただいておあすけど、ただそれだけでここまで先生に尽くす訳ありはしまへんやろう。その辺り、先生ばどう考えておざいあしたのおすか」
「それは――」僕は息を飲む。
「わからないよ。恥ずかしい話だけど、僕はこの年になるまで女性と付き合うと言う経験は全く無かったんだ。だから今ある関係が正しいのかどうかなんてまるでわからない。でも、これだけは確かだ。僕は君を――いや、君と枝垂さんの事は誰よりも好きだ。前にも言ったが、これが愛情なのだとしたら僕は間違いなく君を愛している」
「先生……」
「だからこそ、“殺して欲しい”と言ったんだ。もしも君達の愛情が偽物だったとしたならば、僕があの小説を書き終えると同時に君達は僕の元を離れて行ってしまうだろう。そして僕は船上の人となり、今では望みもしていない元の生活へと戻る事になる」
「……」
「だけど、もしも君達にもいくらかの情けか好意があるならば、別れはそれ以上に辛い。例え別れると言う選択をせずに僕がここに留まったとしても――多分僕はもういくらも生きてはいられない。自分でもそれはわかる。もうすぐこの命が尽きるだろう事ぐらいはね」
「先生、そんな事ば言わんとぉて下さい」
「だから……殺してくれないか。本土でならばそれは殺人なんだろうけど、どうやらこの島では、“死”と言うものは禁忌ではない。むしろ“死”と言うものが身近であり、尊ぶべきものであると言う事は理解している。ならこの島に暮らす君は僕を死に至らしめる事に関してさほど抵抗は無いだろう? ――殺してくれないか。僕は君達に殺されるのなら本望だ。僕の人生の中での大団円だ。これ以上に幸せなままで死ねる好機など無い。頼む……もしほんの少しでも僕を憐れんでくれるのなら、頼む」
「……」
 八重はしばらく考え込んだ後、「小説ばどうなさるのおす?」と、小さく聞いた。
「書き上げる。明日の祭りを舞台にし、それを締めとして書き上げる。――問題あるかい?」
「なら――」八重は僕の目を覗き込む。
「叶えて差し上げあしょう。先生がそれでえぇとおっしゃるのなら」
「八重……」
 僕は笑った。但し八重は笑わなかった。暗い瞳で僕を覗き込むだけで、それ以上は何も言わなかった。

 *

 翌朝、トーントーンと響く昼花火の音で目が覚めた。
 まだまどろみの中にいながらぼんやりと目を開ければ、向こうの空に赤、青、黄、紫、緑――と、様々な淡い色の煙が立ち昇っているのが見えた。
 花火は尚も続く。島のあちこちで上げているのだろう、音はこだましいつまでも鳴り止まない。
 こうして、この島の一番大きな催しである、“燮魂祭(しょうこんさい)”は始まった。
 しばらくして枝垂が粥の膳を運びに来たのだが、どうやら彼女自身もこの日が来るのを心待ちにしていたらしい、その陽気さはいつもの彼女とはまるで違うものだった。
 粥を食べ、ちびりちびりと冷酒をやっていると、今度は八重が僕の着替えを手伝いにやって来る。驚いた事に彼女の恰好と言えば、肩と胸元が大きくあらわになった花魁のような和服姿。僕がその事を指摘すれば、「祭りの間だけの特別な衣装やぁで」と、八重は笑った。よくよく聞けば、どうやらこの日だけは仮装の衣装で往来を歩くのが粋らしい。僕は半ば無理矢理に裃(かみしも)を着せられた。
 車か籠を用意すると言うのを断り、僕は杖を突いて出る事に決めた。両側を八重と枝垂に付き添ってもらいながら、僕は自分の足で歩いた。
 往来に出て初めて、今この島が全く別の顔を見せていると言う事が肌で感じられた。
 誰もが浮かれ、そしてその祭りを楽しんでいた。沿道の両側に店が立ち並んでいる上に、更にその表側に一列、屋台が立ち並んでいた。
 きっとこれから何かを作るのだろうと思える、湯気がもうもうと立ち昇る大きな釜を設えた屋台があるかと思えば、もう既に商いを始めているのだろう、低いだみ声で、「いらっしゃい、よってらっしゃい」を連呼している焼き団子売り。升酒を売っている屋台があれば、冷やし飴を売っている屋台もある。中には気の早い客だろう男が、焼き烏賊を片手に焼酎を値切っている。どこの地方でも見る事の出来る、祭りの日の朝の光景がそこにあった。
「いいね。なんだか歩いているだけでわくわくして来る」
「まだおすよ先生。これから山車が出て来あすよって、それからがいっとう盛り上がりあす」
 八重は言いながら、「大社(おおやしろ)に向かいあすえ」と告げた。
「大社? それって?」
「神籬乃大社(ひもろぎのおおやしろ)おす。この島でいっとう大きな神社おす」
「ひもろぎ? ――この島と同じ名前なんだね」
「同じやありあへん」と、枝垂。
「島は“緋諸岐”。大社は、神の籬(ませ)。神ば、神霊の事を差し、籬はそのまま垣根の事。つまりぁ聖域の事をば指すんおす。神をばおろす、憑坐(よりまし)の意味あすね」
「へぇ」とは言ったものの、その意味する事はほとんどわからなかった。
 神籬乃大社はこじんまりとした高台の森の中にあった。平地である町並みの中にぽつんと浮いてしまっているかのように現れる小島のような木々の塊。その森の一角から点々と上に向かって赤い鳥居が続いているのが見える。
 長い長い石段の下に立ち上を見上げると、両側から競り立った鬱蒼と生い茂る木々が行く手を暗く翳らせている。いつもそうであるのか、それとも今日と言う日の為に特別なのか、石段の両側に並ぶ赤い灯篭群が昼の頃から火を灯し、なんとも言えない風情を醸し出している。うるさいぐらいに蝉の声が降って来る辺りが、ようやく夏らしい夏の情緒に感じられた。
 叶うならばここを昇って行きたいものだったが、今の足の衰えではとても敵うまいと諦め、八重の勧めの通りに、馬頭の担ぐ籠を借りる事にした。
 つづらに折れる山道を、三つの籠が登る。このまま頂上まで行くのかと思いきや、三の丸を越え、二の丸が見えて来た辺りのひらけた場所で籠は停まった。やはりそこも屋台やら何やらで賑やかさを誇っている。
「ここは……?」
 籠を降りて聞くと、「女人結界おす」と、枝垂。
「女人結界? なんですか、それ」
「簡単に言うと、おなごば汚らわしいって事でここから先ぁ禁制となってるって事おすなぁ。もちろん先生ば立ち入っても構しあせんよ」
「いや、それなら僕もここまででいいよ」
 そう言って、眼下に望める町並みを眺めれば、今日と言う日の人の多さに驚く。
「こんなに島の人は多かったんだ。どの通りも賑やかだねぇ」
「そらぁ先生、今日は黄泉の釜の蓋が開く日おすもの、人ではない人もよおけいらっしゃいますやろ」
「えっ……本当に?」
「やめなはれ、姐さま。先生ば本気になさりあす」
 枝垂がそれを咎め、八重は笑う。
「何だ、冗談か」僕も釣られて笑った。
「でも……なんか変だねぇ。お盆って、仏教に属するものだよね。それなのに同時期に神と見立てて神輿を担ぐお祭りが重なるなんて、なんか矛盾しているようにも思えるんだけど」
「矛盾と言えば、矛盾おすなぁ」枝垂が言う。
「でも元々、盂蘭盆会は古くからの祭祀や農耕儀礼から始まったものおすで。そこに仏教の教えを取り入れて来たのが今の盆おす。元々ば神に通じる同じものやと、私ぁ思うとりあす」
「へぇ、そうだったんだ」
「大体、盂蘭盆自体がこの島の発祥で、本土へと伝わりあしたからな」
「本当に?」
 聞けば枝垂は、「本当の事おす」と頷く。
「死者が年に一度、霊魂となって現世へと戻るなんて伝えば仏教に無いものおす。でもこの島ではその習わしが当たり前の事のように言い伝えられてまいりあした。それがいつの日にか海を渡り本土へと広まり、今の盂蘭盆会となったみたいおすなぁ」
「シタラはん、島の自慢話はもうえぇおすから、一杯いただきあしょうや」
 声を掛けられ振り向くと、馬頭の男に買わせて来たのだろうか、八重が甘酒の入った椀を差し出して来た。
 受け取って、香りをかいでみる。それは驚く程に濃厚な甘い香りだった。
「美味い」
 思わず声に出る。その味わいは想像していたものよりも遥かに上で、普段使われていない脳の部分が覚醒してしまうかと思える程に鮮烈な感動があった。
「いや、美味いものだねぇ。甘酒なんて子供の頃にちょっとだけ飲んだような記憶がある程度だったんだけど、なんかその時とはまるで違う、素晴らしい味だ」
「大袈裟おすよ。単に生酒をばちょっと混ぜてるだけあすのに」
 やがて町のあちこちから煌びやかに飾られた神輿、山車が登場し、町の中を練り歩く光景が見えて来た。静かにゆっくりと、町に活気が帯びて来るのがわかる。人々の上げる喧噪が、耳鳴りのような“うねり”となってこんな高台の場所まで伝わって来る。
「――祭りだねぇ」
 僕はぼそり呟く。ただ見ているだけで、何とも言えないような熱が身体の奥から込み上げて来るのが自分でもわかった。
 桜の花弁の絨毯の上に茣蓙が広げられ、僕達三人はそこに座った。酒の味の強い甘酒を啜りながら、八重の膝に甘えて横になる。その横で枝垂が、広げた扇子で僕を煽いでくれていた。
 そして僕達は、神輿が山道を越えて神籬乃大社の本丸へと終結しようとする頃を見計らい、そこを降りた。酒の威力のせいだろうか、にわかに足腰に力が戻っている。高台を下った後、僕は籠を降りて自らの足で歩いた。
 やはり八重と枝垂は町の中では特別な存在のようで、その美しさと優雅さは誰よりも勝っていたし、何よりも目立った。そしてその美しさばかりではないだろう雰囲気で、町行く人々が彼女達を敬遠して道を譲るのがわかった。
 例え彼女らの仕事であろうとも、こうして一緒にいられるのは相当な待遇なのだろうなと言う事は自然、僕にも理解出来た。
 気分の良いものだな。思いながら歩いていると、向こうからまた別の山車がやって来るのが見えた。
 ――いや、あれは山車ではないな。思ったと同時に、往来の人々も皆、それに注目し始めた。
 あれは、“籠”だった。竹編みの大きな籠。いつぞや、罪人のような男二人が縄を打たれてそこに入れられていた事を思い出す。人々はざわざわとその籠の前から退き、誰が入れられているのだろうと注目しはじめる。
 その時だった。どこかで誰かが呟く、“マレビト様だ――”と言う声が、微かに耳へと届いた。
 マレビト? マレビトだって? やはりこの島には僕以外にもそう呼ばれている誰かがいるんだ。思いながらその籠が通過するのを眺めていると――。
 籠の中、胡坐座りの恰好で縛られている男は生気の無い目で遠くを眺めていた。だが、何の拍子かその目は突然驚いたかのように見開かれ、そして――僕を見た。
 籠越しに目が合った。通り過ぎながらその視線はお互いを意識しあいながら、いつまでもそれを追っていた。
 何を言うつもりも無かったし、掛ける言葉さえ見付からない。だが、せめて一言だけでも何かを言いたかった。
 あの人――あの男は多分――。
 やがて籠は通り過ぎ、尚もそれを見つめていると、突然横から怒号のような大声が飛んで来た。
「退かれい! 退かれおし!」
 慌てて振り向く。目の前に、馬頭の男が三つ又の槍を掲げながら立ち塞がっていた。
 よろけるようにして道をあける。驚いた事にその馬頭は他のものとは違う、“眼”のひらいた面だった。馬頭はその背後に眼を閉じた面の、何十人と言う格下の馬頭を引き連れ籠の後を追う。にわかに祭りの華やかな喧噪は失われ、その一行の列に街道は分断された。
 ふと気付く。いつの間にやら八重と枝垂の姿を見失ってしまっていた事を。
 振り返り、そして周囲を見回すが、どこにもそれらしき姿は見当たらない。ようやく隊列が通り過ぎ往来が何事もなかったかのように戻り始めても、二人の気配はどこにも無かった。
「八重!」
 僕はたまらず叫んだ。
「枝垂さん!」
 だがその叫びはどこにも届く事なく人々の喧噪と雑踏の中へと掻き消える。
 なんだか――ひどく眩暈がする。騒音はやけに遠くて近く、うわんうわんと音をうねらせながら僕の真横を通り過ぎて行く。
 上手く立てない。歩けない。汗のにじむ掌で杖を握り締めるが、うまく力が入らない。
 ――ここは、どこだ? 僕は一体、どこにいるんだ? こめかみの辺りがやけにずきずきと痛くて空いた左手でとんとんと叩くが、その痛みはますます酷くなるばかり。
 みんみんみん――と、どこか遠くに蝉の声。鼻の奥がつんと妙な匂いを感じ取りながら、妙な熱さを帯び始める。
「あれ……?」
 呟きながら袖で鼻をこすればそこには一筋の赤い染み。――鼻血? 思いながら当惑していると、突然背後から、「ちょっと」と肩を叩かれた。
「え……誰?」
 僕は聞く。振り返りそこに見たのは乳房もあらわな半裸の女性だったからだ。
 思いきり短く切り揃えた頭に、痩せぎすながらも小ぶりで形の良い乳房。衣装はだらしなく腰よりも下の辺りでまとめて縛ってある黒い着流しに、草履も何もないと言う裸足の恰好の若い女性。但しその女性の身体の全てには、真っ黒い浮腫でも浮かんでいるかのように、大小様々な経文やら梵字がとある秩序を保つかのごとく綺麗に乱雑に描かれていた。
 女は、僕を見ていた。どこかうつろでどこか可笑しがっているかのような目で僕を見つめ、そして、「お久し振りね」と、そう言った。
「……?」
「覚えてないの? ここに来る時に船で一緒だったのに」
「あぁ――」
 言われて初めて気が付く。あの時の、マスクの女性だと。
「随分と……その……」
 言い淀めば、「変わったでしょう?」と、先に言われた。
「あ、あぁ、うん」
「気を使わなくていいのよ。自分でも今どんな恰好かわかってるつもりだから」
 そして彼女は笑った。どう言う訳かそれは、船で逢った時の陰気さなど微塵も感じさせない魅力的な笑顔に見えた。
「あなたも相当変わったわ。よぉく見なきゃ気が付かないぐらいね」
「そう?」
「そうって――まぁ元々、自分の容姿には無頓着っぽかったもんね。かなり酷いもんよ、“おじさん”。正直に言ったら、オジイチャンって感じだけど」
「お爺ちゃんか」
 僕は苦笑する。多分、そうなのだろう。充分に予感はしていた事だった。
 またしても鼻の奥が熱くなり、僕は慌てて袖で隠す。だがすぐに彼女はそれに気付いたか、「具合悪そうね」と、心配そうに言った。
「あぁ、ちょっと……ね」
「ちょっとどころじゃないわよ、それ。まるでこの島に来た時の私と同じレベルじゃないの」
 言いながら彼女は腰にまとめた着流しの袖から何かを取り出す。
「受け取って」
 差し出された手に戸惑っていると、彼女は僕の手を引っ張るようにしてその“何か”を握らせた。
 冷たい感触。同時にどこかすうっと、気持ちが軽くなって行くのが感じられた。
 そっと指を開く。そして僕は見た。――お金? それは久し振りに見る日本の通貨。合計、百七十六円。
「……」
「おじさん、あなた本当にこの島がどんな場所か知らないで来ているみたいね」
「え……?」
「その恰好見ればわかるけど、あなた現世(うつしよ)のものは全て取り上げられちゃったんでしょう? その上で獄卒連中に弄られてたらそりゃあ――」
 と、彼女はそこで言葉を切り上げ、「口には注意ね」と、自らの唇に人差し指をあてがって、片目を瞑ってみせた。
「とにかくそれ、あげるから持ってなさいよ。どのみちお金がなきゃ現世に戻る事だって出来やしないしね。――尤も、帰してもらえるかが一番の悩みっぽいけどさ」
「いや、ちょっと待って」僕はそのお金を再び差し出す。
「嬉しいけど、これがなきゃ君の方が困るだろう? 受け取れないよ」
「もう要らないの」そう言って彼女は、僕の手を押し戻す。
「見ての通り、私はもう現世は捨てたから。その“六文銭”を持っていたのは単なる執着心ね。もしかしたらいつの日にか向こうに帰れるかも――みたいな」
「帰ればいいじゃないか。どうして帰る事を諦めるんだ」
「だから……見ての通りよ。もう帰るつもりは無いんだってば」
 そう言って彼女は着流しの前をはだけるようにして広げ、たくし上げた。太腿があらわになり、そして女陰までもが見える程にそれを広げると、彼女は僕を見て笑った。
「どう? 凄いでしょう。まるで“する”事以外には必要のない下半身みたいじゃない? でも、これでもまだまだなんだって。もっとイジればもっと気持ち良くなるんだって。――凄い所よね、ここは。何もかもの欲望に忠実で、それを全く隠そうともしていない」
 往来の人々が見ているにも関わらず、彼女は“それ”を広げたまま語る。
「ここに来てから、私の病気は軽くなったわ。いえ、軽いと言うより消えて無くなったのかな。どうやらここでは病気ですらも無縁の所らしいしね。――だから捨てたの。元の家族も生活も。そして昔の自分も。向こうで死期に怯えながら発作に苦しみ、人々に忌み嫌われ暮らしに困窮し、なんの愉しみも歓びも知らないままでくたばるのを待つのはもう嫌だから」
「だからと言ってそんな……」
「そんな、何? 私は凄く気に入ってるのに?」彼女はようやく手を離し、前を隠す。
「見てこの刺青の数々。一人、男に抱かれる度に一文字ずつ入れてるの。抱かれた男の仇名を一文字、この身体に刻み込むの。そうしていつか私の身体は男の印で一杯になるのよ。それが私に与えられた修行。――うふふ、面白いでしょう?」
「修行だって? なんて馬鹿げた……」
「馬鹿げてなんかいないわよ。私にはよぉくわかるわ。どうして私にこんな役目が与えられたか」
「……」
「誰しもが何らかの“業”を持っているのよ。そして罪深き男達はほんの少しだけ私の“中”に、“業”を注ぎ込むの。そうしていつしか私は、そんな男達の“業”で一杯になり、弾けて千切れ飛ぶの。なんて――なんて素晴らしい最期なのかしら」
 言いながら彼女は振り返り、悩ましげに腰を振りながら遠ざかって行った。
「あの――」
「さよならおじさん。もう二度と逢う事はないだろうけど、もしも生きて帰れたならお元気で」
 片手で小さく手を振る。その仕草はやけに自然で優雅に見えた。
 開いた掌には百と七十六円。要するに、六枚の硬貨。――“六文銭”か。ここに来た時にどうして船頭が、六百円で“いいですよ”と言ったのかがようやくわかった気がした。
 顔を上げる。既に彼女の姿はどこにも無かった。僕はその六文銭を握りしめた手を引っ込め、袖の中へと隠す。――こつん。指の先に何かが当たる。そうして思い出す。あの“ダツエ”とか言う男から貰った小瓶だ。
 果たしてこの小瓶と六文銭はいつか使う機会があるのだろうか。思った所で、「先生!」と遠くから声が聞こえた。
 見れば人垣の向こうに、枝垂れ桜と八重桜。まるでその二人をそのまま模したかのように見える唐傘が二つ。僕はそっとその六文銭から手を離し、所在なさげに微笑んだ。

 *

 コツンと音をさせて、僕は万年筆を置いた。
 長く深いため息を吐き出し、そしてゆっくりと肩の力を抜く。
 物語は、終わった。僕はとうとうそれを書き上げたのだ。後はただ一通り見直しをしながら推敲するだけ。但し、推敲そのものは時折冒頭から読み返してはその作業を繰り返しているせいで、残るは今日書き上げた分ぐらいしか残ってはいない。
 遠くに盆踊りのものだろう賑やかな曲が夜風に乗って耳へと届く。出来る事ならば夜の祭りにも参加してみたかったのだが、結局僕は執筆作業を優先させた。
 書きたかったのだ。今日の事を。
 僕は朝、この旅籠を出る前から心に決めていた。今日のお祭りを舞台としてこの物語を締め括ろうと。そしてそれは叶った。“僕”と言う一人称の視点は、高台から町を見下ろしその祭りの喧噪を肌で感じながら幕を下ろす。
 最後の一文はこんな感じだ。――明日、僕は本土へと帰ろう。だが、心だけはここに置いて行こう。いつかまたここに来る日まで。いつの日にかここで人生の終焉を迎えるその日まで。
 祭りの熱は尚も冷めやらず、いつまでもいつまでもその賑やかさを空へと放ち続けていた――と。
 ありきたりだがこれでいい。所詮これは僕が書いた、僕の視点の小説だ。今更背伸びしたって始まらない。格好つけずにこんな場面で終わらせよう。思いながら開け放った窓を覗く。
 からからからから――と、手摺りのかざぐるまが静かに回る、そんな夜長の事だった。
「おばんであす」
 障子戸の向こうから声が聞こえた。「どうぞ」と返事をすれば、そこにいたのは八重と枝垂の二人の姿。
「どう……しました?」
 思わず声を掛ける。何故かどこか、二人の様子が変に感じられたからだ。
「小説ば、書き上がりあしたか?」
 八重に聞かれて、僕は、「うん」と返事をした。
「今しがた書き上がった所だよ。但し、推敲やらなにやらで完成とまでは行ってないけど」
 言うと二人は顔を見合わせ、小さく頷いた。
「なら、今夜にしておあしますか」
「――何を?」
「先生の望みばです」
「……?」
 首を傾げると、八重は「お忘れおすか?」と聞いた。
「先生ば夕べ、こうおっしゃいあした。――殺して欲しいと。叶うならばここで私らに殺されたいと」
「あ、あぁ――」
 確かに言った。そしてそれはその場限りの嘘ではない。本心からの事だ。
「殺しに参りあした」
 枝垂が続いた。
 彼女は一礼して部屋へと上がり込むと、僕の前へと座り直す。そしてその懐に手を入れて何かを取り出そうとしていた。
 短刀か何かだろうか。一突きに、心臓でも刺されるのだろうか。思いながら彼女が何をするのかを待っていると、意外にも取り出したものは折り畳まれた和紙と小さな牛蒡のような木の根だった。
「これは……?」
「“毒”おす」
 枝垂ははっきりとそう告げて、脇に置かれた冷酒の杯にその根を放り込み、酒に浸けた。
 続いて和紙を広げると、そこには白い粉末状の物体。枝垂はそれも杯に注ぎ込み、根を手に持って溶かし込むようにくるくると掻き混ぜ始めた。
 ――ごくり。喉が鳴る。確かに殺して欲しいとは願ったが、まさか本気でそれを聞き入れ、こうして二人揃って殺しに来るなどとは予想もしていなかった。しかも殺害方法は毒殺だ。それはもう素人の僕でも、激しく苦しい死に方になるだろう事は充分に理解が出来た。
「飲んでおせ」
 枝垂は根を取り除くと、それを僕の前へと突き出した。
 飲む――? これを? 僕は微かに震える手でそれを受け取ろうとすると、「お待ちなえ」と、八重がそれを止めた。
「シタラはん、そんな勧め方しはったら先生かぁてよぉ飲みあせんですやろう」
 苦笑を漏らしながらそれを取り上げると、八重は自らそれを一口、傾けた。
「八重……さん?」
 声を掛ける間もなく、今度は枝垂が同じ事をした。
「さぁ、今度は先生の番おすよ」
 そう言って枝垂は盃を手渡す。もはや引き返す事が出来なくなった状態で、「毒ではないんですよね?」と苦し紛れにそう聞けば、「いいえぇ」と、八重は笑う。
「毒おすよ。しかも猛毒おすえ。飲んだら最後、とんでもなく苦しみ抜いて死なはりあす」
「しかし――これはあなたがたも飲んだのでは?」
「飲みあしたなぁ」
「飲みはりあしたなぁ」
 二人は交互の言い合い、そして笑った。
「ちょっと――いや、吐いて下さい。まだ間に合います。早く吐き出して下さい」
 慌てて言えば、二人は尚も笑い合いながら、「もう手遅れおす」と、僕の腕を軽く叩いた。
「こればぁ三人での“心中”おすよ。言いだしっぺは先生なんやから、はよう飲んでおくなぁし」
「心中って……」
「さぁ、はよぉ。愚図愚図しておうたら先生だけ死ねなくなりあすえ」
 無理に勧められ僕は渋々とその盃に唇を触れた。
 妙な香りがした。どこか生臭く、そして苦い香り。僕は息を止め、それを一気に飲み干した。
「さぁさぁさぁ、先生、参りあすえ、参りあすえ」
「祭りの宵おすえ。くたばろうには最高の夜あすえ」
 二人に手を引かれ、僕はよろめきながら廊下を急ぐ。次第に顔が熱くなり、奇妙な眩暈が視覚を奪う。やがて耳まで熱くなり、そして熱は首へと伸び、意識が朦朧とし始めて来た。
 連れて行かれた場所は、地下にある朧の湯だった。今までに見た事もない程に陽気になった二人は、まるで追い剥ぎのようにして僕の衣服を脱がせると、倒れ込むようにして湯船へと急いた。
 ――そこで一旦記憶が飛ぶ。再び意識が戻れば、僕達は湯船の中にいて、天を仰いでいた。
 極彩色の光の渦。虹のようなオーロラのような、目が眩む程のまばゆい光が部屋の天井一杯に広がり燦々と注ぎ込んで来る。そして絶え間なく轟く地鳴りと湯船を震わす振動。それに合わせて光りの洪水もまた何とも言えない波を作り上げて降って来た。
 ――あれはなんだい? 多分僕は、そんな言葉を発したかったんだと思う。だが舌はもつれてあわあわと呟く事しか出来ない。それでも枝垂はその言葉を察してくれているのだろうか、「花火おす」と、そう教えてくれた。
 ――花火か。なるほど、水の底から天を仰げば花火もまた奇跡のような美しさになるのかと感心する。するとそれに続いて八重が、「違いあすえ」と笑った。
「あれはぁ、タマシイおすえ。冥途の釜の蓋ば開きもうしたのぉす。そんでタマシイは元いた土地目指して飛んで行ってるのぉす。あれば――タマシイの色。亡者達のタマシイが夜空に輝く、その色おすえ」
 タマシイ――魂か。あれは、そうか。人の心が燃えて見せている命の色か。
 どちらにせよ美しい。まるで全身でその素晴らしさを堪能出来る万華鏡のようだ。
 そこでまた記憶は飛び、次に気が付いた時、僕は二人の“下”にいた。
 もはやどっちがどっちだと考える余裕もなかった。一人は騎乗位の姿勢で腰を揺らし、もう一人は僕を組み敷くようにしながら唇を貪り吸っていた。
 果たしてそこはどこなのだろう。先程と同じように真上には光の洪水が見える。二人は代わる代わる場所を移動しながら、あの手この手で僕を攻め立てる。
 何もかも、彼女達の成すがままだった。
「玄、慟ぉ、詑、允ぅ、允、允、允、允――」
「塵、蜜、ぁ魏、咒、咒、咒――」
 艶めかしい喘ぎの声すらも、陰々とした妙な響きとなって耳へと届く。
 彼女達に触れられた部分から、快楽を遥か通り越した程のおぞけのような感覚が伝わって来る。絶頂感が絶え間なく続き、息すらも忘れる。
「せん、せぇ、い――」
 これは枝垂だろうか。僕の顔を両手で包み込むようにしながら覗き込んでいる。
 ぺろり。開いた唇から赤く長い舌が現れる。その舌先から滴のように唾液がこぼれ、糸を引きながらしたたって来る。僕はそれを自らの舌先で受け止め、二人の糸が繋がる。枝垂は嬉しそうな表情で薄く笑うと、僕の口内へとその長い舌を押し入れて来た。
 呼吸が止まる。彼女の爪が僕の胸の上を、強く引っ掻きながら移動して行く。
 ぺろり。首筋を這う舌先は八重のものか。強く握り締められた陰茎がやけに痛い。ずるりと舌が引き抜かれると、今度は入れ替わりに八重が唇を求め、舌を捻じ込んで来た。
 呼吸困難のまま何度も何度も気が遠くなり、その度に身体のどこかを激しくつねられ、無理矢理に覚醒させられる。
 座位にさせられ、両側から二人が挟み込むように抱き締めて来る。枝垂が僕の上に乗り、八重が背後から僕の脇腹をくすぐる。
「せぇん、せぇえ、い――まぁだ――てぇ、いたいおす、やろうか――」
 耳に直接流れ込むように、八重がささやく。僕が枝垂の舌技に何も返事が出来ないままでいると、八重は尚も問うて来る。
「――そろそろ、しにたい、ぉすか? それとも――っと、くるしみたい、おすか?」
 うぉんうぉんと音がうねり、声がもつれる。だが八重が何を問うているのかは理解出来た。
 ずぶりと音がしそうな感触で、僕の陰茎が枝垂の胎内に飲み込まれる。右耳と左耳同時に二人の舌が捻じ込まれ、頭の中が掻き回されているかのような悦楽が全身を駆け巡る。
「えぇい――てぇ――おぉ――」
 声にならない。僕は懸命に何かを訴えるのだが、痺れた舌は何も語れない。
「なぁに――?」
「なんで、ぁすか、せん、せぇい」
 尚も二人の愛撫を受けながら、僕は何度も同じ言葉を繰り返す。
「――ぃいてぇ――あえったい――」
「よぉ、きこえぁへん」
「なんてぇ、おっしゃい、あした、せんせぇ」
「いきてぇ――」
 僕は言葉を喉の奥から絞り出す。
「いきて――かえり、たい――」
 言えた。そう思った。だが二人の反応は意外にも無言だった。そうしてしばらくしてからの、突然の笑い声。それはもしかすれば苦笑か嘲笑か。ひどく楽しげに笑った後、八重は背後から僕の首に濡れた手拭いを巻き付けた。
「かえれ、あせんよぉ、せんせぇい」
 ぐいと、力がこもる。
「ひどいおすぅなぁ。しにたいゆうとぉったぁのは、せんせいやぁないですかぁ」
 枝垂の人差し指の爪が喉に食い込む。それは皮膚を破いて刺さりでもしているのだろうか、妙に痛い。
 あはは、うふふと、やけに甘ったるい声で笑い、そして二人は僕に罰を加える。
 どこから取り出したのだろうか、僕は後ろ手に枷を嵌められ、尚も執拗に首を絞められる。そして同時に淫らな愛撫。目をこじ開けられ、そして舌で舐め上げられ、唾液を注ぎ込まれる。髪の毛を掴まれ、耳を齧られ、乳首をつまみ上げられて、そして身体中の至る場所に接吻痕を付けられる。
 時折、「死にたいおすかぁ?」と尋問するのも忘れない。そして僕が、「しにたくない」と答えると、再びその責め苦を継続させる。
 次第に罰は熱を帯び、痛みも快楽も倍加して行く。もはや苦痛も屈辱も愛撫と同じように身体が受け入れ始めた頃、ついに僕は彼女達の誘惑に負け、「死にたい」と呟いてしまった。
「よぉ――おっしゃいあした」
 二人の声が冷徹に重なる。そして二人の唇が同時に首の両側へとあてがわれ、そして、“吸われ”た。
 ふぅ――と、気が遠くなりだした。
 天井でひときわ大きな光が瞬き、そして僕は胎内で果て、そして――僕は死んだ。

 *

 最初に、熱がやって来た。
 ひどい熱さだと思った。さながら火口へと投げ込まれたかのような熱さに顔をしかめながら目を開けば、拍子抜けした事にいつも通りな旅籠の一室で僕は寝ていた。
 からからからから――と、窓の外の手摺りに結わえられた色紙のかざぐるまが回っている。
 不思議な事に、今日はその手摺りにとまる鴉の姿は一羽も無い。
 ぼんやりとしながら先程までのあの記憶は夢の中の事なのかなと頭を掻けば、続くようにして身体中のあちこちから鈍い痛みがやって来る。
 ――何事だよ。思い手首を見れば、そこには皮膚が擦り切れまだ少しだけ血の滲む手枷痕。
 夢じゃなかったのか? 呟き袖をまくればやはり、二の腕には唇の吸い付き痕。その赤味はまだ生々しく鮮やかだった。
 死んだと言う実感はあった。あぁ、これが“死”であると感じながらの暗転だった。
「あれは一体――」
「お目覚めでおあしょうか」
 突然の予期せぬ声に僕は驚く。そして振り返ればそこには団扇を持った八重の姿。
「八重さん、いつからそこへ?」
「“さん”はよぉけおす」言って、八重は笑う。
「ずっとおりあしたえ。先生ば暑い暑い言うて汗かきながら寝ておざいあしたもの、こうして扇いでおりあした」
「そ、そう。……ありがとう」
「まだ、死にたいと思ってあすか?」
「……」
 返答出来なかった。僕はバツの悪いまま手首の傷をさする。
「“死ぬ”と言う体験ばなかなか貴重でおざいあしたでしょう。あれは先生のように死にたいと思う人に飲ませる薬やありあへんが、それでも充分に怖さと楽しさば理解出来あしたでしょう」
「あれは――本当の臨死体験なのかい?」
「そうおすよ。だから“猛毒”やと申しあした」
 そう言って八重は笑った。僕もまた、「ひどい悪戯だな」と、苦笑する。
「そうか――」ぽんと、傍らの原稿の束を手で叩く。
「死んだか。望み通り、僕は死んだか」
「えぇ、望んだ通りにお亡くなりになりあしたえ」
「なら良かった」
 僕は原稿を手に取ると、あの白髪の男から渡された札を上に貼り、それを八重に差し出した。
「――先生?」
「推敲はもういいや。もうこれで完成でいい。――渡して来てくれないか」
「……」
 何も答えない。八重は驚いたかのように目を見開き、そしてただ黙っているだけだった。
「どうかしたの? 渡して来てよ。君の言う、“御館様”に。出来れば原稿の出来不出来については黙認してくれるとありがたいって注釈付けてね」
 軽口を叩きながら尚も彼女の前に差し出したままにしていると、八重は静かに、そして震える手でそっとその原稿へと触れた。
「八重――?」
「あぁ……」
 溜め息を洩らし、そして原稿を手に取ると、八重はそれをまるで壊れ物でも扱うかのような仕草で胸へ抱き、そして――。
「八重、どうしたの?」
 僕は驚き、声を掛けた。
 八重は、泣いていた。隠す事なく、はばかる事なく、その切れ長の美しい両目からぽろぽろと涙をこぼしながら、僕の書いた原稿の束を押し抱いていたのだ。
「なんと……なんと言う光栄でありあしょうか。先生ば最初に私にこれを預けてくだはりあした。あぁ、なんと言う幸せでおざいあしょうか。先生ば、原稿を私に預けてくだはりあした」
「いや八重さん、そんな。たかが僕ごときの書いた原稿ですよ。それは少々大袈裟では」
「先生さまにはわからしあせんのぉす」八重は泣き声ながらも、はっきりと言い切った。
「先生がどれほどに貴重で大切なマレビトさまか、先生は御本人やから御存知ないのおす。そして先生ばちゃあんと原稿書き切って、そしてそれを私に預けてくださいあした。――身に余る光栄おす。これほど名誉な事が他にありあすかと問い返したくなるほどに光栄おす」
「あ、あぁ、そう」
 少々照れ臭くなって、僕はそこで話を打ち切った。
 窓の外から、お囃子の音が聞こえて来る。今日もまた祭りの続きなのだろうなと、ぼんやり遠くの風景を眺める。
 お囃子に混じり、やかましい蝉の声までもが響いて来る。
 昨日までとは違い、今日はやけに暑い日だなと思いながら浴衣の前をはだけていると、「では、お渡しして参りあす」と、八重が言うのが聞こえた。
「あぁ、うん。お願いするよ」
 八重は袖口で涙を拭いつつ、そっと立ち上がると、黙したまま部屋を出て行った。
 ようやく肩の荷が下りたな。思いながら窓辺へと寄り掛かり、僕は思わず笑った。
 これがもし煙草飲みな人間だったら、今まさにここが煙草の吸いどころだろうと。だが生憎僕は煙草を吸わない。吸った試しもない。ならばせめて恰好付けて万年筆でも咥えてみようかと手に取り、そんな馬鹿げた真似をしている自分がやけに可笑しかったからだ。――と、突然。
「変なマレビトだな。筆を吸って笑ってなさる」
 驚き振り向く。なんとそこには、いつの間に来ていたのだろうダツエの姿。
「いつ――」
「今さっきだよ。意外にもまた逢えたねぇ」
 人の言葉を待たずに答える。相変わらず妙な男だなと思った。
「な、なにか……」
「書き上がったんだって?」ダツエは言った。
「ご苦労さん、と言いたい所なんだけど、もう愚図愚図している暇なんか無いよ。さっさと帰りな、お客人。早くしないと永久にここから出られなくなるかも知れないよ」
「どうして――」
「あんたは少々、疑問が多いな。とても大義を果たした人には見えないけど……まぁいいや。とにかく、あんたは“選んだ”んだ。鬼っ子が御館様に原稿を届けるまでに、早く逃げるこったね。私からの忠告はここまで。仕事があるから帰るよ」
 ぴしゃんと派手な音をさせて障子戸を閉める。僕は尚も彼に聞こうと後を追い戸を開けるが、一体どんな魔法を使ったものか、既に彼の姿は長い廊下のどこにも無い。
 妙な胸騒ぎがした。――今、彼は何と言った?
 選んだ? 選んだと言ったか? 選んだとは何を? 僕が――僕が何を選んだと?
 じわりと底知れぬ不安が込み上げて来る。どう言う訳か、すぐにでも思い出せるであろう出来事の一つを封じ込めようとするかのように頭の端から振り払い、僕は部屋に戻って杖を拾い上げた。
 そして書見台の引き出しから、六文銭と、ダツエに渡された小瓶とを取り出すと、袖にしまった。
 廊下を過ぎ、階段を下りている所で、一斉に旅籠中が揺れ出した。
 地震かとも思ったが、どうやらそうでもないらしい。ここに来てからと言うもの絶えず聞いている地鳴りの音が、遅れてやって来たからだ。
 だが、大きい。今まで聞いたどの地鳴りよりも大きい。慌てて外へと飛び出せば、遥か向こうの山から立ち昇る噴煙が、尋常ではない程の大きさで空へと広がっているのが見えた。
 かつん、かつん――と、周囲に音が響く。どうやらあの噴煙と共に飛んで来た溶岩石の破片だろう。小さな石があちらこちらに散らばり始めているのがわかる。
 僕は杖を突き、急いだ。とりあえず町外れへと向かえばいいのだろうかと考えながら。
 町では往来を行く人々が、三々五々と家路を急いでいた。気の毒な事に街道で屋台を出している連中は、店じまいをする事も叶わず撤退している。
 こりゃあ外に出ているのは危ないのかな。思っている矢先に、近くの地面に相当な大きなのものだろう石が、どんと派手な音を立てて降って来た。頭にでも当たったなら普通に即死するであろう大きさの石だ。
 引き返そうかとも思った。だがそう出来ない何かが僕の足を突き動かした。
 とにかく、気のせいでもなんでもいい。思ったままに行動しよう。まずはあの船着き場へと行ってみよう。思いながら不自由な足で急いでいると、「先生」と、どこからか小さなか細い声。
 どきりとした。僕は立ち止まり、そっと周囲を見渡した。
 視界の端に、“彼女”を見付けた。逢った時と同じ桜色の振袖と、枝垂れ桜を模した唐傘で顔を隠した“彼女”が、そこにいた。
「――枝垂さん」
 妙に、彼女に似つかわしいなと思える光景だった。
 ぼた雪のような大粒の灰が降る、無人の町。そこに佇む一人の少女。噴煙で陽は翳り、ただでさえ薄暗い世界の中、唐傘で顔を隠しながら“彼女”はそこにいた。
「どうか……したんですか? ここにいては危険ですよ」
「先生、嘘吐きはりあしたぁねぇ」
 枝垂は小さな声ながらも、はっきりとそう告げた。
「嘘……とは?」
「先生に全部捧げあしたのに」枝垂は続けた。
「何もかも――この島のしきたりを破って、御館様ば裏切って、それで尚先生に私の全てをば捧げあしたぁのに。先生ば……嘘吐きあした。私を選んではくれへんかった」
「枝垂さん」
 やはりそうだと思った。さっきのダツエの言葉はそこに掛かっていたのだ。
 今ならばわかる。八重があそこで涙を流しながら喜んだその意味が。そう、僕は選んだのだ。――八重を。
 一体あの原稿にどれほどの価値があるのかなど見当も付かないのだが、要するに僕がそれを最初に手渡した人こそ、“選ばれた”とみなされる人なのだ。
「うそつき」
 枝垂は言った。
「いや、枝垂さん。僕はただ――」
「うそつき!」
 それはほとんど叫びにも近い批難であった。
 傘をあげる。涙でぐしゃぐしゃに濡れた枝垂の顔が見えた。
「枝垂さん……」
「――しかった」
「え?」
「選んで欲しかった」
「……」
「あなたに……選んで欲しかった。あなたに愛されたかった。そしてあの小説を手渡して欲しかった。でも――何一つとして叶わなかった。あなたが愛したのは姐さまで、そしてあなたに選ばれたのも姐さま。私は何も……私には何もくれなかった」
「いや、違うんだ枝垂さん」
 言い掛けた時だった。ごつんと鈍い音がして、そして世界が傾いた。
 何が起きたのかまるでわからなかった。だが、少しずつ緩やかに足の痛みを感じて来た頃、ようやく僕の左足が妙な具合に折れ曲がっているのがわかった。
 足元に、こぶし程の大きさの石が転がっていた。多分これが直撃したのだろう、地面に這いつくばり痛みをこらえながら枝垂を見上げると、何ごとだろう、枝垂の右目が大きく裏返り白目となっていた。
「枝垂……さん?」
「見んといてぇ、先生――」
 ぐきっと、鈍くも高い音が聞こえた。同時に枝垂の首が大きく左側へと傾く。
 もしかしたら彼女の頭に石が直撃したのかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。頭上に広げた傘にはなんの傷も見当たらないからだ。
 一体どうしたのだろう。思っている間に、“変化”は訪れ始めた。枝垂の唇から血が一筋こぼれ落ち、そしてぶちぶちと嫌な音をさせ、“それ”は現れた。
 右目の少し下。頬骨の辺りから皮膚を突き破り、凄い勢いで隆起して来る一本の“角”。真っ赤な血をしたたらせ、その角は妙な具合に枝垂の顔面を破壊して伸びていた。
「枝垂……さん」
「先生のせいやからね」
 言って、枝垂は笑った――のだと思う。だがそれは、崩れた顔面を僅かばかりに歪ませただけであった。
「先生が姐さまを選んだからの事おすえ。――だから、恨みを言うつもりはありあへんが、あまり嫌わんで下さいあせ。女の嫉妬言うもんは、こんだけ業の深いものなんであすから」
 そして枝垂は結った髪から一本、かんざしを抜き取れば、それを僕に向けて放って寄越した。
 とすんと音をさせて僕の目の前の地面に刺さるかんざし。そして枝垂は、「持ってっておくれあす」と告げた。
「それば差し出して、“通せ”と言えば、あの牛頭も門ば開けて下さりあす。私が出来るのはここまであすね。先生、お気をつけてお帰りなさえ」
「枝垂さん!」
「近付かんといて!」
 言うが早いか枝垂は口からごぼごぼと鮮血の泡を吐き、そして今度は左の鎖骨の辺りから大きな角を生やし始めた。
「枝垂さん……そんな。僕が何も考えずに原稿を渡しただけで、そんな……」
「心配せんで良いであすえ」枝垂は聞き取りにくい声で言う。
「元々、こんな身体おす。言ったであしょう、この島には本物の鬼ばおると」
 何も言えなかった。僕はただ、惨めにも地面に這いつくばって枝垂を見上げるだけ。
「大丈夫、ほっとけば引っ込みあすえ。いつか先生の事ば忘れて、心の傷ば癒える頃には元通りなりあすえ。だから――」
 枝垂はまた、傘で顔を覆う。そして二、三歩後ずさりすると、「はよう行って」と、静かに言った。
「枝垂さん、ごめん」
「えぇから! はよう行って! そんで――」
 全部忘れてと、確かに彼女は言った。小走りに遠ざかって行く彼女の後姿を見送りながら、もう一度、「ごめん」と呟き、僕は刺さったかんざしを引っこ抜いて懐へとしまう。
 折れた左足を杖で庇いながら立ち上がろうとするも、激しい地鳴りと振動で再び倒れ込む。
「うああああ」
 思わずうめきが漏れる。激痛で顔が歪む。降り続く石は尚もその大きさを増し、背中に頭にとぶつかる痛さも尋常ではなくなって来た。
 前方に、どこかの屋台から落ち出て来たのだろうか、長い板切れが落ちているのが見えた。――きっとあれならと思い、僕は這いながらそれに近付く。
 そして、その予想は当たった。なんとかそれに掴まり立ち上がり、板ごと脇の下へと差し込んで歩いてみる。要するに、松葉杖の要領だ。掴みにくくはあったが、それでなんとか歩ける程度にはなった。
 噴煙はますます激しさを増していた。見れば山の頂上には僅かに流れ出る溶岩さえも垣間見れた。歩き難さは更に酷いものとなり、もはや立ち止まって立っている事さえも困難なぐらいに地面が揺れ動いていた。
 からからからから――と、音が聞こえた。いつの間にやら周囲は横殴りに吹き抜ける白き灰で一色に塗り潰され、町の光景はぼんやりとした陰影程度にしか見えない。
 ただ、かざぐるまの音だけが響いていた。ひゅおおおおおお――と吹き抜ける風に紛れて、家屋の軒先や窓に結わえられたかざぐるまの群れが、かろうじて街道の中にいるのだと言う事を教えてくれている。
 目が上手く開かない。息する事さえも苦しい。せめてこの吹き下ろす風さえ止んでくれればと思うのだが、それは尚も強まるばかり。数歩あるいては立ち止まり、しばらく立ち往生してはまた再び歩き出す。
 やがてもう二進も三進も行かなくなった頃、僕はふと、いつだったか枝垂が教えてくれた言葉を思い出す。
 ――かざぐるまは、風に聞くもの、教わるもの、と。
 あれには何か意味があるのだろうか。思いながらも僕は呟いた。「――八重」と。
 一度その名を呼んでしまえば、まるで胸のつかえが下りたかのように連呼し始める。
「八重――。八重!」
 いる筈もないのに。来る筈もないのに。何故か僕は必ず彼女が助けに来てくれるものだと信じ込んでいるかのように、何度も何度もその名を呼んだ。
「……先生?」
「――八重?」
 確かに聞こえた。ような気がした。
 この白い風の中、どこかから八重の声が聞こえたような気がしたのだ。だがもう一度、「八重!」と叫べば、それは確信に変わる。
「先生! そこにおあしあすの?」
「八重、ここだ! 動けないんだ! 助けてくれ!」
 叫ぶとやがてそれは、白い闇の中からのっそりと現れた。
 まるで巨大な猛獣かなにかを連想させる、黒く大きな影。だがよくよく目を凝らして見てみれば、それは馬頭が引く車輪付きの人力車だった。
「先生!」
 馬頭が手を貸すよりも早く、八重は車から飛び降りた。そして僕を助けつつ車へと向かい、「よぉおざいあした」と、小さく言った。
「すまない。なんだかどうしても旅籠の中に居辛くてね」
「良い選択でおす。あそこばいたら、今頃捕まっておりあした」
「捕まる? ――やはり御館様が?」
「えぇ。但し、本来の意味での捕縛ではありあへんですけどね」
「じゃあどう言う意味で?」
「しっ、もう説明している暇はございあせん」
 馬頭の男の手を借り、僕は車上の人となる。そして八重は馬頭の男に、「いっとき、お役目から外れる権ば与えようぞ」と、その面の額に指を押し当てた。
「先生ば守ぉとうたる事、約束せい」
「――命(めい)に賭けて」
 男は静かにそう答え、車の前へと回った。
「八重、一緒に来い。僕と船に乗ろう」
 僕が叫ぶと、「お静かに」と、八重は唇に人差し指をあてがってみせた。
「もう間もなく、獄卒の連中ばやって来あす。私ばここで足止めいたしあすから、先生ばはようお逃げくだされ」
「駄目だ。どうして君を置いて行ける。一緒に乗れ」
「大丈夫おすえ」八重は笑った。
「私ぁこう見えてもかなり強いんであすよ。尤も、先生には見せられへんですけどなぁ」
 八重は閉じた唐傘の柄を掴み、そして抜く。どうやらそれは仕込み刀だったらしい。中から細身の刃が一振り、鮮やかな光沢を放ちながら現れた。
「八重! 頼む、一緒に来てくれ」
 僕は尚もそう告げるが、八重は既に決心を固めたかのような表情で、「えぇ、参りあすとも」と、笑った。
「必ず先生の後ば付いて参りあす。だから先に言っておせ。ちゃあんと一緒に行きあすよって」
「嘘だ、八重。君は嘘を吐いている」
「嘘やありあへん」八重は下からそっと手を伸ばす。
「約束しあす。必ず行きあすで、船で待っとっておせ。――但し」
「但し、何?」
 僕は八重の手を握り、聞き返した。
「ここから先は、決して後ろを振り向かずに行っておせ。それから私には決して声を掛けない事。私の名前ば呼ばない事。あの男に指示するのは構いあせんが、私には決して構わないでおせ」
「……どうして?」
「どうしてもおす。これば黄泉路から抜ける為の鉄則おすえ。本土へと帰ったら、勉強なさって下さいな先生」
 八重はそう言って僕の手の甲へと接吻すると、「さぁ、行っておせ!」と、強い口調でそう言った。
「八重!」
「もう呼ばないで」八重は笑った。
「愛してあすえ、先生。あなたば軽はずみに私へとそう言いあしたが、私は今、本気でこう申し上げあす。――愛してあすえ。お慕い申してあすえ」
 そして振り向き、八重は唐傘を広げた。
 白い闇の中に咲く、満開の八重桜。そして無情にも車は走り出す。僕はもう一度彼女の名前を呼び掛けて、やめた。
 信じよう。思い直し、僕は前を向く。馬頭の男はこの白い闇の中でもまるで苦とせず駆けるかのように街道を抜けて行く。
 果たして逃げ切れるのか。そんな不安のまま車の手摺りを握り締めていると、ちらと馬頭の男が振り向き、そしてこう告げた。
「六文銭は持って来たのか、オッサン」
「お……おっさん?」
 聞き返してようやく気が付く。黒の装束衣装に馬の面を付けているからこそわからなかったが、多分車を引いているその男は、ここへと来る際に船で一緒だった革ジャンパーの若者だ。
「あ、あぁ、持って来ている。あの時のマスクの女の子からもらった」
 言うと、「なら大丈夫だな」と、その鼻から下だけ露出した唇が笑っていた。
「君こそ無事で良かった。ずっと心配していたんだよ、あれからどうなったかって」
「そりゃあどうも。あまり無事とも言えないが、なんとかやってるよ」
「なら、一緒に行かないか? もうこんな場所は懲り懲りだろう。一緒に本土へと戻ろう」
「無茶言うなよ」男は笑った。
「あんたはいいけど俺ぁ無理だ。もう既に中身も外見もどっぷりとこの島の住民さ。どう足掻いたって帰れない」
「そんな事は無いだろう。船に乗ったらこっちのもんさ。船賃が無いってんなら、向こうに着いてからなんとかすればいいじゃないか」
「そう言うこっちゃあねぇんだよ、オッサン」面倒臭そうに男は言う。
「相変わらずなぁんも知らねぇでいるんだなあんたは。ホントにまぁ、そんなんで良くこんな所に来れたもんだよ。まんざら旅行者っての悪くねぇもんだな。気楽で羨ましいや」
 言って男は、懐から何かを取り出し僕へと渡した。手を開き見てみれば、それは一体どこの神社のお守りだろう、ごく普通に境内で売られているであろう安っぽい緑色の小さな袋がそこにあった。
「それ、もしあんたが無事に本土へと帰れたら渡してくんねぇかな」
「――誰に?」
「おふくろだよ。高田馬場のさぁ、新宿線のガード下に、“満北亭”って言う中華屋があるからさぁ。そこで住み込みのパートやってる、“野田”って言うばばぁに渡してくんねぇかなぁ。――約束したんだ。おふくろの誕生日に何か買ってやるって」
「……」
「今までなんにもしてやれなかったからさ。せめてそんぐらいは返してやりたくてさ。運がいい事に本土のお守りだけはここの連中も取り上げる事は出来ねぇみてぇで、それだけは残してもらえたんだ。――だから頼むよオッサン。帰れたらいつでもいいからさ。それ、渡して来てくんねぇかなぁ」
「自分では渡せないのかい?」
 聞けば男は少しだけ怒ったような口調で、「無理だって」と答える。
「この島からはもう出られないんだっての。それに……もし出られても、おふくろはもう俺の事はわかんねぇよ。この面の下、もはやまともな顔じゃなくなってるから」
「あぁ――」
 知ってる。とは言わずにおいた。同時にいつぞやの籠に入れられた男達の姿を思い出してしまう。
「わかった。もし帰れたら渡して来よう」
「すまねぇ。恩に着るよ」
「他に、何か伝えたい事は?」
「あるけどいいよ。多分そういう事言ってもオッサン忘れちゃうだろうから」
「何で? 忘れないよ。そこまでボケちゃいない」
「いいっての。本土のものは持ち帰れても、島のものは記憶であっても持ち出せねぇから」
 言いながら男は、車の下から何かを取り出す。見ればそれは、自らの手で削って作ったものだろう木刀が二本。
「何を――」
 言い掛けてやめた。前方に数人、同じように馬の面をかぶった男衆が武器を携え立ち塞がっていたからだ。
「オッサン、門までもうすぐだ。こっから先は付いて行けねぇから、自力でなんとかしてくれ」
「君は……どうするつもりだ?」
「さっきあの“御方”と約束した通りさ。あんた守る為に身体張るんだ。――なぁに大丈夫。木刀持った俺に敵う奴なんぞ滅多にいねぇ」
「やめなさい、死んだらどうする!」
 叫べば男は、「ばぁか、もうこれ以上は死ねねぇよ」と笑い、勢いを付けて車を弾き、外へと飛び出した。
「グッドラック、オッサン! もう戻って来んなよ!」
 男は車の背後に蹴りでも入れたのだろうか、激しい衝撃音がした。そうして無人で駆ける人力車は、後にあの若者を置き去りにし、そして前方に立ち塞がる馬頭達を二人程跳ね飛ばし、尚も物凄い速度で街道を走り抜けた。
 誰も追って来る様子は無かった。つい身体を乗り出し後ろを確かめたい願望に駆られるが、八重との約束を思い出してそれを堪える。
 だがしかし、やはり漕ぎ手のいない無人の人力車である。次第にその速度は勢いを弱め、もうじき門扉に突き当たると言う辺りで、屈強な牛の面の男二人に車ごと取り押さえられた。
 何奴だと問い掛ける暇も無い。牛頭の二人は問答無用で車上の僕に剣先を突き付ける。そして僕は、「待って」とそれを手で制し、袖から枝垂のかんざしを取り出す。
「通して……くれないかな?」
 言ってそれを渡せば、牛面達は迷う事なく剣を引き、そして黙って門扉を開け放った。
 ――門は開いた。だがもちろん、自動で車は動かない。僕は杖を駆使して自力で地面に降り立つと、折れた足を引き摺るようにしながらそこを後にする。
 火山灰はようやく薄くなり始めていた。おかげで門の外からは、海岸が見渡せた。目を凝らせば遠くには見覚えのある船着き場までがあった。
 もうすぐだ。――が、今のこの足では遥かに遠い。歯を食いしばり、激痛に顔を歪ませながら懸命に歩くが、やはりいくらも歩けはしない。
 どうする? このままではいずれ追い付かれる。思いながら周囲を見渡せば、左手にきらりと光る何かが見えた。
 すぐにわかった。あれは、車椅子だと。ここに来た時にあの老人夫婦が乗り捨てた、例の車椅子だ。
 あれならば。思いながら今度は、そちらへと向いて歩き出す。いつ追い付かれるか、いつこの背中を掴まれるかと焦りながら、僕は歩いた。
 どうやら車椅子はあれから誰の手にも触れられてはいなかったらしい。折り畳まれたまま灰が積もり放題となって放置されていたが、動かせばなんの抵抗も無しにそれは広がる。もはや僕は灰を払う余裕もなくそれに乗り込み、急いで車輪を手で漕いだ。
 大丈夫だ。行ける。漕いで間もなく、そう確信する。そして万が一の為と思い、袖から取り出した小瓶の栓を抜き、背後に向けてそれを振りつつ車椅子を走らせた。
 船着き場へと繋がる石畳の道はおうとつが激しく、自力で車輪を漕ぐのは容易ではなかった。だがここで諦める訳には行かない。もはや腕は痺れて握力も低下し、顔から頭からととめどなく汗がしたたり落ち、息は切れ切れで喉を通る風の音だけがやけにうるさいと言う悲惨な状況だったが、僕は休む事もせず車輪を回した。
 やがて向こうに、例の白髪の男が見えて来た。先程逢った時と同じ恰好で、のん気に茣蓙へと座り込みながら、広げた扇子であおいでいる。
「やぁ、来た来た」
 何が嬉しいのかは知らないが、ダツエは実に楽しげな笑顔で僕を見て、手を振っていた。
 近付くと同時にダツエの従者達が一斉に槍で通行を妨げて来たが、「通せよ」と言うダツエの一言で、再び槍の囲いは解除された。
「いやいや、あんた凄いね。もしかしたら本当に、今までに来たどのマレビトよりも凄いんじゃないの? さすがの私もあんたの功績はたたえなきゃなぁと思って――おいおい、黙って通り過ぎちゃうのかい」
 ダツエに構っている余裕は無かった。鳥居越しに向こうを見れば、船は今にも出航しそうな勢いで煙を上げている。
「さようならお客人。なんだかあんたのおかげでこの島も再び栄えそうな気がするよ。――達者でなぁ」
 ダツエの声を背中で聞き、僕は急いだ。後はただひたすらこの長い足場を渡り、船へと辿り着くだけだ。しかし無情にも出航の時間が来たらしく、後もう少しと言う辺りで船は足場を離れ出した。
 ――待って。心で叫び、もはや感覚すら無い腕で車を掻く。
 もはや船は、一メートル以上も離れていた。だが、車輪を掻く僕の腕は止まらない。更に勢いを増し、全力で船へと向かって漕ぎ続ける。
「待って!」
 声に出た。それと同時に、僕は空中を舞った。
 足場の先端に設えられた段差に車輪を取られ、僕は車椅子共々、空を掻き、そして――したたかに船の甲板に身体を打ち付けた。
 どぼんと音がして、水しぶきが降り掛かる。どうやら車椅子は海へと落ちたらしい。僕は慌てて身を起こし、そして急いで振り返る。
「八重!」
 ――目を、疑った。
 手を伸ばせばまだ掴めるかのような距離に、彼女はいた。
 向こうの足場の上に。笑顔のまま。そしてその胸に、幾本もの槍の先端を覗かせたまま、八重は僕を見て微笑んでいた。
 ちゃんと八重は付いて来ていたのだ。約束通り、僕の後を追って来てくれていたのだ。
 だが、ほんの少しだけ追い付くのが遅かったようだ。僕の見ているその前で、八重は背後から馬頭の悪鬼達に刺し貫かれ、その振袖を朱に染めていた。
 伸ばされた手が、落ちる。そしてその美しい唇から血をしたたらせ、八重は僕に向かって何かを言った。
「――何? 聞こえないよ、八重」
「“南依(なえ)”って言ったのよ……先生。それが私の……名前」
 同時に槍が引き抜かれる。八重は「ぐっ!」と唸って、それに耐えた。
「八重……」
「だから――南依って呼んでよ先生。最後ぐらい、真名(まな)で呼んでくれない……?」
「来てよ――南依」僕は尚も手を伸ばす。
「一緒に来てくれ、南依。僕は君と一緒に帰りたいんだ!」
「無理よ」八重――いや、南依は言う。
「どのみち、私は行けない。だから代わりに……私の“心”を持ってって。私の……名前を持ってって……」
「嫌だ! 来てくれ南依! 一人じゃ帰りたくない! 君と一緒に帰りたいんだ――南依!」
「嬉しい……」
 言って、南依は口から血を吐き、そして尚も何かを言いたそうに口を開いて腕を伸ばし――そのまま海へと落ちた。
「南依ーっ!!!」
 僕は我も忘れて飛び込もうと、身を乗り出した。同時に背後から羽交い絞めされるように止められ、「やめなせぇ!」と、怒鳴られる。
「離してくれ! 南依を助けなきゃ――」
「もう無理だ。海へと落ちたら二度と浮かび上がらねぇ」
「なにが……」
 言い掛けて言葉を飲み込む。乗り出したその眼前、海の中に無数に漂う亡者達の顔と腕。ゆらゆら、ゆらゆらと、まるで底から生える海藻のような仕草で亡者達はその腕を揺らしながら僕が飛び込むのを待っていたのだ。
「落ちたら……もう助からねぇ。連中に掴まって、未来永劫この海の中で溺れ続けるだけだ。――ろくなもんじゃねぇ、もう諦めるこった」
 膝が震え、僕は尻から崩れ落ちた。
 気が付けば船着き場はもうかなり遠くにあり、八重を刺しただろう悪鬼達が三々五々と引き上げて行くのが見えた。
 もはや僕には、喪失感以外の何も無かった。
 あの時、あのまま旅籠へと残っていれば良かったとか、僕も一緒に刺されていれば良かったとか、そんな後悔すらもない。ただただ茫然と、“無くした”と言う気持ちばかりが溢れ返って来るばかり。
 そうしてその場でどれぐらいの時間を経たのだろう。気が付けば周囲は既に夕暮れのような暗さとなっており、僕はまるで死人のような緩慢さで身を起こした。
「気が付いたのかい」
 声を掛けられ、振り返る。そこにはこの船の船頭だろう、馬の面の男が一人。
「もう少しで着くよ。だから少し寝てな。――疲れただろう? 着いたら起こしてやるからよ」
「あぁ――」
 返事をして立ち上がる。どう言う訳か折れた筈の足は元の通りで、既に痛みすらも無い。
「疲れたよ。とっても疲れた」
 客室へと向かい、誰もいない椅子の一つに腰掛けて目を瞑る。
 もう、どうでもいいやと思った。心の全てを遮断して、鈍感を決め込み、壁に背を預ける。そして睡魔がやって来るのは、僅か数秒にも満たなかった。

 *

 うわぁぁぁぁぁぁぁ――ん―― ぎゅあああああああああ――
 激しい軋み音で目が覚めた。そのヒステリックな音は僕の座り込む数メートル先で停止し、そして――。
「……なん、だ。ここ」
 見渡せばそこは闇。ただ一つ、前方で光に照らされて浮かび上がる看板の文字だけが僕の記憶を蘇らせてくれている。

“和俱港 左折五キロ”

 バタンとドアの閉まる音がして、それに続いて地熱を帯びたアスファルトを踏みしめる靴の音。
「おい、何やってんだよ!」
 声を掛けられ顔を上げる。どうやら前方で停止しているトラックの運転手らしい。だらしなく着崩した作業着姿の若い男性の姿がそこにあった。
「生きてる? 生きてる? まさかとは思うけど、幽霊とかじゃあねぇよな、オッサン」
「あ、あぁ――」言って、僕は立ち上がる。
「“生きてる”よ。大丈夫、幽霊でも妖怪でもない」
 そして僕はそのトラックに便乗し、和俱の港を目指した。
 真夜中の港は意外にも賑やかで、早くも漁から戻って来た船から魚が上げられていた。
 なんとなく見覚えのあるようなないような港をてくてくと歩き、一番端で停まっている船の中の人に声を掛けてみる。
「すみません、この辺りに“詞願丸”って言う船、ありませんかね」
 聞けばその年輩の男性は丸めた網を担ぎながら、「さぁ」と答える。
「聞いた事ぁねぇなぁ」
「そうですか」
 僕は内心ほっとしながら、「失礼しました」と返した。
 再び僕は、荷を積んだトラックへと乗り込み、一路東京へと向かう。道中、若い運転手は、「あそこで何やってたの?」としつこく聞いて来たが、僕は頑として、「覚えてない」と答え続けた。
 もちろん、嘘ではない。僕はそれまでの一切合切の記憶を失っていたのだから。
 記憶にあるのはただ、旅行記を書く為に向かった“和俱”と言う港の名前と、“詞願丸”と言う船の名前だけ。それに乗ればどこに向かうのかさえ忘れてしまっていた。

「先生、ついに第五十刷目の発行が決まりました」
 S出版社のロビーの一画にある打ち合わせブースにて、僕の担当編集者である太田は、満面の笑みを浮かべてそう言った。
「へぇ、そう」
「へぇ、そう――って、なんなんですかもう。もうちょっと嬉しそうな顔してもいいんじゃないんですか先生」
 太田は苦笑を交えながら意見する。どうやら彼にとっては相当に名誉な事らしいが、当の本人である僕にとっては、どうでも良い話題でしかなかった。
 目の前のテーブルには、“妣ヶ島”と言うタイトルのハードカバー本が一冊、置いてある。
 著者名は僕、木戸優二となっているが、実の所、それが僕自身の納得の行かない所なのである。
 なにしろ僕にはそれを“書いた”と言う記憶が無いのだ。読み返してみれば確かにその文章は僕が書きそうな筆回しで構成されてはいるのだが、僕自身が書いたと言う記憶が無い以上、自信を持ってこれは僕の作品だなどとは、おこがましくて言えるものではない。
 本の帯には、“十万部突破! とどまる事なき木戸ワールド”などと、こちらが恥ずかしくなってしまう程に仰々しい文句が並べられている。なるほど、数字だけ見れば確かにベストセラーの仲間入りではあるが、それでもやはり手放しで喜ぶ訳には行かない。とにかく僕には、「それは私の本です」と言い切れる自信がまるで無いのだから。
「いやぁ、でも良かった」太田は僕の悩みなど知りもせず、勝手に話を続けている。
「あの時僕は、“フィクションなんてやめときましょうよ”なんて反対していましたけれど、それを先生が承諾せずにいてくれて本当に良かった。やはり僕はまだまだ未熟者ですね。先生はちゃあんと、読者が望むものを肌で感じて書ける人なんだって再認識した次第でしたよ」
 うるせぇ、このおべんちゃら野郎め。内心でそう罵りながらも、「いやいや、君がそうやって舵取りしてくれているからこそだよ」と、持ち上げる。
「今回はたまたま僕の意見の方で当たったけれど、毎回こんな訳には行かないでしょう。だから今後もお願いしますよ、敏腕編集者さん」
 なんて酷く陳腐な台詞なんだ。僕は自分の吐いた言葉ながらも激しく後悔するが、太田はどうやらまんざらでもないらしく、「とんでもないですよ先生」なんて言いつつ、得意満面である。
 さて、僕の名前のこの本が出版された経緯の裏には、実はこんな話があった事をここで付け加えておこう。
 二年前の初春の頃、僕は太田の制止も聞かず、勝手に単独旅行へと出掛けた。行き先は告げなかったそうなのだが、僕の行方がわからなくなって数日の後、ここS出版社に一枚、僕からの葉書きが届いた。
 文面は短く一言、“緋諸岐島に行きます”とだけ。もちろんそんな島は日本のどこにも存在していない、架空の島の名前である。従って、僕の行方はそこで途切れる事となった。
 そうして約半年後、僕は何事もなかったかのように太田の前に現れる。――そう、記憶を失い、“和俱”の港の近くでトラックに拾われたその次の日の出来事である。
 どこに行っていたのですかと、太田の尋問のような問いが繰り返される中、僕には何一つとして答えられるものは無かった。但しそれから更に数日後、三重県の志摩市にある民宿からかかって来た一本の電話によって全てが明らかになった。
 僕の空白の半年間は、その民宿に滞在していたと言う事で落ち着いた。僕がずっとそこに滞在していた事を、民宿の主人が証言してくれたからだ。
 半年間をそこで過ごし、ある日突然僕は消えた。主人は慌てて捜索願いを出し、僕の宿泊していた部屋を調べて私物から住所を割り出した。そうしてS出版へと行く着く事になったらしいのだが、やはり僕にはそこで過ごしたと言う一切合財の記憶が無い。
 だが、そこに置き去りにされた私物の全てはやはり、僕の物であった。どうやら宿の清算をこまめにしていた事が幸いしたらしい、民宿の主人は怒る事もなく私物の全てを返してくれた。そして――その私物の中に、“それ”が含まれていた。“妣ヶ島”と銘打たれた小説の原稿。そこでようやく、僕がその民宿でそれを書いていたと言う事が明らかになったのだ。
 僕が書いたと思われるその原稿を、記憶の無い僕が読む。そして気付いた。――真実はこの小説の方にあると。
 もちろん何も覚えてはいない。だが、不思議と懐かしさが込み上げる。そしてどの場面もどの人も、大昔――そう、僕と言う人間がこの世に生まれるそれよりも前、どこかで逢っているなと感じさせるような人達ばかりが登場する。
 特に、八重と枝垂。この二人に関する感情の昂ぶりは特別なものだった。
 そうして僕はその原稿を何度も何度も読み返し、そして――気付いた。やはりこれは空想の中の出来事ではないと言う事を。
 僕自身がその島にいたと言う証拠は、至る所にあった。
 まずは無数に付いた身体中の傷跡。手枷であろう擦り傷から、首を絞められて出来たであろう鬱血痕。そして人の爪のものと思われる切り傷に、治り掛けている蕁麻疹のような全身のキスマーク。そして何より、あの太田が僕を見分けられなかったぐらいに変貌してしまったこの容姿だ。
 僕自身、声を上げて驚いた。鏡に映ったその姿は、半年の間に何があったのかと自らに聞いてみたい程に老け込み、やつれていた。髪は完全に白髪となり、肌は乾いて張りが無くなり、目はくぼみ、頬はこけ、両手の爪は紫色で、腕は意識せずとも絶えず震えている有様だった。
 だが、あれから二年。髪は再び黒くなり、肌も年相応に見えるまで回復した。
 そして次なる証拠は、身体の回復と同時によみがえって来た微かな記憶にある。この物語を読みながら頭の中で空想を描いていると、どうしてもそれが想像ばかりで補われているとは言い難い場面に突き当たる。特に、この物語の冒頭、“僕”と言う視点的主人公が和俱の港から船に乗り、緋諸岐と言う島へ辿り着くまで。そして今度はその終盤、“僕”が、八重と枝垂の二人と性的な行為を交わし、“死んだ”と言う一文で締めた後である。
 確かにどこか微か、記憶に残っているのだ。旅籠を抜けて、火山灰が降り積もる町の中を逃亡する場面。人力車に乗り、駆け抜ける場面。そして船着き場へと辿り着き、出航する場面など。とてもこの物語を読んで感情移入をしたからと言うだけで再現出来るようなリアルさではない。確かに僕はそこにいたと、確信に変わる程の記憶が残っているのだ。
 そして――“僕”は、その見慣れない原稿に手を加える決意をした。
 まるで自分が書いたと言う記憶の無い原稿に加筆する。有り得ないような暴挙だが、せずにはおれなかった。なにしろ、許せなかったのだ。このままの原稿でこの物語を終わらせるには、「勿体ない」と、僕が思ってしまったからだ。
 冒頭はまだしも、この原稿の終わりは酷かった。確かにその原稿の内容は、僕がうっすらと思い出す記憶のそれと一致してはいるのだが、ただそれでは面白味がまるで無いのだ。
 だから僕は、“殺す”決意をした。
 そう、“僕”がその作中にて愛した二人、八重と枝垂を、“殺す”事にしたのである。
 なにしろ実際の原稿は酷くつまらない終わり方をしていた。逃げる道中で出逢う枝垂とは、あんな劇的な別れ方などしていない。ただ、「利口な選択おすね」と苦笑され、かんざしを渡されただけ。
 そして八重もそう。ただ人力車を引き渡されて、「ご無事で」と逃がされただけ。後はただ自力で船着き場へと辿り着き、船頭に手助けをしてもらいながら船へと乗り込んで終わりなのである。
 振り向いた先には、拍子抜けする程に誰の姿も無かった。
 追手の姿も無ければ、八重の姿も枝垂の姿も無い。ただ深々と灰が降り積もり、静かな波が押し寄せる船着き場に僕は独りきり。かろうじて向こうの鳥居の下に、広げた扇子をひらひらとさせている呑気なダツエの姿が見えるだけ。そうして船は、何事もなかったかのように出航した。
 つまらない話だが、これが現実だった。
 そしてそれをつまらなくさせたのは、きっと僕自身。なにしろ僕は――“選ばなかった”のだ。八重も枝垂も、僕は選ばなかったのだ。
 そう、原稿はずっと僕と共にあった。書き上げた原稿に札を貼った後、僕はそれを懐に仕舞い込み、そして逃げた。それが真相だ。
 だからこそ原稿は本土へと渡り、こうして製本されて出版もされた。時間はかかったが意外にも売れ行きは好調でベストセラーにまで登り詰めた。結局僕は、枝垂との約束は自ら破ってしまったのだ。
 だが、それを後悔はしていない。多分――僕は一番の最良の選択をした。枝垂もそう言っていたし、そして僕もそう思っている。
「ところで太田君。前にお願いしたもの、出来上がったって聞いたんだけど」
 僕がそう言うと、「あぁ、そうだった」と、太田は慌てて鞄から本を二冊、取り出した。
「はい、これ。先生のご注文通り」
 そう言って目の前に並んだ二冊の本は、“妣ヶ島”のハードカバー。但し普通のそれではなく、特注によって作られた、“この世にたった一冊しか存在しない”、そんなオリジナルの本なのである。
 紫色の背景に八重桜。薄いピンク色には枝垂れ桜。それぞれ異なる二冊の本。
 そして中身も一ヵ所、特別に印刷された箇所があった。
“妣ヶ國の著者 折口信夫氏へ捧ぐ”
 冒頭のその一文を、それぞれの本に彼女達の名前と差し替えたのだ。
「先生、ところでそれ……誰に差し上げるんです?」
 太田に聞かれ、「誰とは?」と、とぼけてみせる。
「いやいや、ちゃんとわかってますよぉ。やっぱり八重と枝垂って、実在のモデルとかがいるんでしょう? いやぁ、先生も上手だなぁ、これだけ本が売れた所でそんなオリジナルの限定本作ってプレゼントしちゃうんだもん。本人達だって大喜びに決まってますよね」
「そんなんじゃないよ」僕は太田の能天気さに辟易しながら答える。
「モデルなんかいないよ。ただちょっと……ね」
「ちょっと、なんですか?」
 ――モデルじゃなくて、本人だよ。
 僕は何も言わずにその本を受け取り、「じゃあ」と立ち上がる。
「先生、そろそろ次回作の構想でも打ち合わせましょうよ。もうしばらく書いてないじゃないですか」
「あぁ、そうだね。考えておくよ」
「それから、“妣ヶ島”の次回作もね。読者の皆さん、相当心待ちにしているみたいですよ」
「あぁ、そうだね」
 気の無い返事をしながら、僕はロビーを後にする。
 そうだね……と、返事だけはしたものの、僕にはもうどんな作品ですら書く意志は無い。
 元より僕は、単なる売れないフィクション作家だ。少々グロテスクなホラー臭漂う、三流の文章書きだ。この世界に実在していただろうもう一人の“僕”とは違い、ノンフィクションものなど書ける訳がないし、それにもう“妣ヶ島”の次回作などそれ以上に不可能な話だ。
 出版社の近くにあるコインパーキングへと向かう。そこには僕の愛用の白いポルシェが停まっている。僕がそれに乗り込みキーを回すと、独特なエキゾーストノートが轟いた。
 この世界の“僕”は、相当に金持ちだったみたいだな。万年貧乏な僕とはえらい違いだ。なんて皮肉りながら車を発進させる。
 そう、僕は知っている。いや、僕だけが知っていると言った方がいいのだろうか。
 僕は、本来の僕がいる世界とはまるで違う所に辿り着いてしまった。僕は、“僕”であり、ここでも木戸優二と言う作家ではあるのだが、その内容は遥かに違う。何度も言うようだが、この世界にいたであろう“僕”は、現実に起きた事しか書かないノンフィクションの作家だったのだ。
 従って、僕があの原稿を書いたと言う記憶が無いのはやはり、僕ではない“僕”が書いたと言う事なのだろう。なるほど、それならば頷ける。最後の最後までありのままを書いたと言うのも、ノンフィクション作家だからこそなのだろう。
 結局、僕はもう一人の“僕”の手柄を全て奪ってしまった。いやもちろん、奪いたくて奪った訳ではない。必然的にそうなってしまったと言うだけの事だ。
 気の毒に、結局“もう一人の僕”は、あのまま幽閉されたか殺されたか。
 僕は知っている。あの時、あの場所で逢ったのが“もう一人の僕”だ。祭りの最中、人混みを掻き分け籠に乗せられてやって来たあの男――。あれが、“僕”だ。
 奇妙なシンパシィは見た瞬間から感じていた。どこかで見た顔なのになかなか気付けなかったのは、それが“自分の顔”だからこそなのだろう。どうして彼が捕縛され、僕は許されたのか。その辺りはまるでわからなかったが、とりあえず僕はもうあの島の規則では無罪放免の身の上なのだ。
 きっと、僕があの島で成さなければいけなかった事。それは単に、原稿を書き上げると言う事だけではなかったのだろう。
 書き上げて、そして出版する。この世界に緋諸岐の存在を広く伝える。それこそが一番の役目だったに違いない。
 もしもあの時、八重か枝垂に原稿を渡していたならば、きっと僕もまた捕縛される運命だっただろう。僕が事前に、原稿を渡した人を“選ぶ”と言う事に気付かなければ、きっと原稿を持ち出そうとは思わなかっただろう。
 なるほど、原稿用紙と万年筆だけは奪われなかった理由が今更ながらにわかる。あの島にあるものは本土には持って帰れない。最初からこの本土のものだったからこそ、持ち出す事が可能だったのだ。
 そしてきっと、“これ”も――。
 車を路肩に寄せ、車窓から眺める。“満北亭”と書かれた古ぼけた看板。僕はその小さな緑色の袋を握り締め、車を降りた。
 野田と言う女性はいなかった。但し、今日は休みでその店の二階にある部屋にいると片言の日本語で教えられ、僕は薄汚い狭い階段を登って行った。
 女性は四十代前後の、やけにくたびれた印象の人だった。僕は簡潔に、「息子さんから」と、そのお守りを渡した。
 しばらく怪訝そうな顔でそれを眺めていたが、意外にも返って来た言葉は、「息子からですか?」だった。
「私には息子はおりませんが……なんなんでしょうかねぇ。なんだかそう言われると、いたような気もしますねぇ」
 なるほど。向こうに“おつとめ”に行った人間は、存在自体が消えてしまうらしい。それでもその女性は愛おしそうに何度も何度もそのお守りを眺めてはさすり、曖昧な記憶を取り戻そうとしているようだった。
「誕生日、おめでとうとの事らしいです。――それでは」
 言って僕は部屋を後にする。そして彼女からの声は、掛からなかった。

 僕はそのまま首都高速へと乗り、一路、西へと向かってひた走った。
 やがて陽が落ち、夜がやって来たのだが、僕は疲れも知らず延々と車を飛ばし、目的地へと急いだ。
 途中のパーキングエリアで仮眠を取り、そしてまだ夜の明けきらない程の早朝に、そこへと着いた。
 向こうに、和俱の港の灯りが見えるそんな場所。
 僕は車にもたれ掛り、陽が登るのを待った。やがて水平線から白々と濃紺な闇が消え掛かって来る頃、僕はその横にある郵便ポストに、“それ”を投函した。
“緋諸岐島 八重様”
“緋諸岐島 枝垂様”
 住所も何も無い、いい加減な額の切手を貼り付けただけの茶封筒。中身は、出来上がったばかりのあの本だ。
“――八重に捧ぐ”
“――枝垂に捧ぐ”
 冒頭にそう書かれた、この世に一冊だけの本。
 ゴトンと音をさせて、その二つの大きな郵便物は赤い箱の中へと飲み込まれた。
 そして、ようやく僕の中の物語は完結した。――何故か不思議と、そんな気分だった。
 白々と明け始める空を見上げ、一つ大きな呼吸をする。
 あの時、“死にたい”と願ったのは嘘ではない。本心からの願望だった。だが今はこうしてまだ生きている。そしてまだ当分、死にたいとは思わないまま歳を重ねて行く事だろう。

 そしてあれから更に、数年の歳月が経った。
 僕はまだ相変わらず、“妣ヶ島”の続編どころか何の新作も書けずにいる。とりあえずは適当にエッセイやら何やらの駄文を書き、そして以前の本の印税で暮らしては行けている。もちろんさほど裕福な暮らしは出来ない。
 時折、ファンから、“緋諸岐に行きます”とだけ書かれた手紙を貰ったりする事がある。もちろん本当かどうかを確かめる術は無い。
 世界では相変わらず、大きな事件や事故が多発している。特に国内では去年から今年にかけて“サリン”とか言う毒ガス兵器により多くの人が亡くなった。それでも人々は生活し、どんな出来事であれテレビの中の絵空事のような関心の無さで成り立っている。
 そして僕にとって一番の身近な出来事としては、やはりこれだろうか。
「寒い?」
 聞けば隣に寄り添う理香子は、「ううん、大丈夫」と笑った。
 石畳の両側、居並ぶ灯篭の淡いあかりに照らされ、舞い散る桜がその背景を彩る。まだ少しだけ肌寒い、結婚一年目の春の夜の事だった。
 理香子との交際は六カ月越しの文通から始まった。編集部宛てに届いたファンレターからの事だ。
 最初は、彼女の書いた綺麗な毛筆の字を見て、非常に驚いたものだった。内容もまた良く僕の作品を読み込んでいるんだなとわかる、そんな文章だった。そして僕はすぐに彼女宛てに返事を書き、そして半年の時を経て巡り合う事になる。
 一目ぼれだった。理香子とは親子程も歳が離れていたが、彼女の両親は既に他界していたが為、僕達の結婚を引き止める人は誰もいなかった。
「ねぇ、優二さん」
 彼女は名を呼び、上目使いに僕を見た。
「どうしたの?」
「あの……ですね。ちょっとお話ししたい事がありまして」
 彼女は僕に対してはいつもこんな感じで、敬語で話す。それについては何度も直してくれと頼んだのだが、未だに彼女は言う事を聞いてくれない。
「何? あらたまって」
「大事な――お話しなんです」
「どうしたのさ」
 僕は立ち止まる。そして振り返り、彼女を見て微笑んだ。
 理香子は清楚で、賢い女性だった。なんだかいつかどこかで出逢った誰かに似ているような気がした。
「えぇと……あの」
「なぁに?」
 重ねて聞けば、「――ました」と、小声でささやくように答える。
「聞こえないよ。はっきり言ってくれればいいのに」
「はい。……えぇと、その……赤ちゃんを、授かりました」
「……えっ?」
 驚いて彼女の目を覗き込めば、理香子は少々困った顔をして、「駄目、ですか?」と、聞いて来る。
「駄目って、何が?」
 焦ってそう言うと、「産んじゃ駄目……ですか?」と、問い返して来た。
「いや……まさか。とんでもない。ただちょっと驚いただけだよ。――うん、大丈夫」
 そこで僕は一旦言葉を切ってから、「頑張って」と答えた。
 彼女がゆっくりと笑顔になったのは、それからたっぷり数秒の後の事だった。
「あの、ですね。もう三カ月になってるらしいんです」
「そうかぁ……そうなんだ」
 なかなか実感が湧いて来ない。正直、内心ではどうしたらいいものかわからずそのまま素直に、「僕はどうすればいい?」と聞きそうにまでなってしまう。
「それでですねぇ、優二さん」そっと理香子が僕の袖を掴む。
「お名前、優二さんに付けていただきたくて。――何か、良い名前考えてくれます?」
「そうだねぇ」
 僕は考え込み、咄嗟に、「優理なんてどう?」と聞いた。
「僕と、君の名前を一文ずつ」
「いいですねぇ、凄く可愛い。優しい女の子になりそうな気がしますねぇ」
「え、いや、それって男の子の名前じゃなくて?」
「あっ……あぁ、男の子の方でしたか」
 笑いながら、桜並木の遊歩道を歩く。どこからか祭りの宵のお囃子が寂しげに響いて来る。
 理香子は僕の手を握りながら、空いた手で髪をかき上げる。
 桜の花がひとひら、その髪にとまり、そしてはらりと舞って流れた。
 ――幸せだった。彼女と知り合ってからずっと。そしてきっとこれからもずっと。
「じゃあ、優二さん。女の子だったらどうします?」
 聞かれて僕が現実へと引き戻される。
「あぁ、女の子ね。女の子の名前だったらねぇ――」

 ――お願い先生 ――私を選んで

 ぞくりとした悪寒のような感触と共に、そんな言葉が耳の奥底で再現される。
 え――それって、誰の言葉だっけ? なんだかいつかどこかでそれと同じ言葉を耳にした事があるような。
「……優二さん?」
「あ、あぁ」我に返る。
「そう、だねぇ。男の子だったら優理で、女の子だったら二香子なんてどうだい?」
「やぁだ優二さん、それじゃあちょっといい加減過ぎませんか」
 理香子は笑う。そして僕はつい、喉元まで“だれか”の名前が込み上がり、そしてそれを必死に飲み込む。

 ――私を選んで ――ただそれだけでいいの

 何故か、聞き覚えのある声だった。そう、それはきっと、“枝垂”の声だ。
 何を考えている。何を思っている。あれはただの、“小説”の世界の話だ。僕が体験して来たものじゃない。
 それに、そう。僕は彼女の名前なんて聞いてない。ただの一度として彼女は僕にそれを打ち明けてはいなかった――筈だ。そう、あの小説の中においては。
 ざぁと、強い風が弄り吹く。目の前の光景が、紫色に照らされる桜の花の一色に染まる。
 その一瞬、僕は頭の中に光線が走ったかのような閃きで思い出す。

 ――ねぇ先生 ――いい事教えて差し上げあしょうか

 あれは、嵐のような桃の花弁が舞う湯船の中での事だった。
 そう――僕はあの時、聞いた。彼女の名を。いや、彼女の“真名”を!
「……」
 僕はそっと、それこそ隣にいる理香子にさえ聞こえないだろう程に小さく、そっと。思い出したばかりのその“真名”を口にした。
 ふわり、風が止み、再び静けさが戻って来る。
 何をやってんだ僕は。今更それを思い出してどうすると言うんだ。しかもそれだって、僕自身が勝手に創り上げた妄想の中のエピソードではないのか。
 突然、強く腕を引っ張られる。
 歩く僕に、立ち止まる理香子。「どうしたの?」と、振り向けば、理香子は何を思ったか、うつむき加減に頭を落としてその表情は夜の闇へと溶け込んでいる。
「……」
「どうかしたの、理香子?」
 聞けばたっぷりと待たせておいて、そしてぽつり、「――あしたな」と、彼女は呟いた。
「えっ?」
「先生。ようやく私を選んで下さりあしたな。長く長く待ちましたえ。いつ先生ば私を選んでくれよりあすのか、ずっと心配しながら待っておりあしたえ」
「……」
「先生」
 理香子は、そっと顔をあげる。
 目が合う。無表情なその顔は、しばらく僕の顔を眺め続けた後、「ぷふっ」と頬を膨らましながら妙な音を立てて笑った。
「やだ、優二さん。どうしてそんな真剣な顔になってるんですか?」
 言われて僕は間抜けにも、「えっ、理香子?」とまで聞き返してしまう。
 とうとう理香子は腹を押さえて笑い出し、そうしてひとしきり笑った後、涙を拭きながら、「もしかして今の芝居、本気にしてました?」と聞いて来た。
「いや……本気と言うか……」
「いやですね、優二さん。元々私はあなたの熱烈な読者だった人間ですよ。咄嗟にあなたの作品の内容をそらんじてみせたり、登場人物になりきって会話するぐらいお手の物です」
「そうか――」
 言って、僕は笑った。すると理香子は少しだけ不安そうな顔をして、「もしかして優二さん、がっかりしたの?」と、聞いた。
「がっかりって? な、なにが?」
「だって――」理香子は後ろ手にしながら首を傾げ、ちょっとだけ寂しそうに微笑んだ。
「やっぱりもう一回、シタラさんに逢いたかったんだろうなぁって、わかっちゃったから」
「何を言って……あれは単なる創りもののお話しで……」
「うそつきですね」理香子は言う。
「知ってますよ。優二さんは本当にあの島へと行った事。そして二人の女性と恋に落ち、今もまだ忘れられないままでいる――」
「理香子」
「いいんですよ、それでも。だからこそあんな傑作が出来上がったんじゃないですか」
 ――傑作かぁ。いや、ひょっとして行ったのは確かに僕かも知れないけれど、実際にあれを書いたのは僕ではないんだ。
 言おうとしてやめた。代わりに空を見上げ、星を仰ぐ。
 うん、確かに僕は恋をした。八重と枝垂と、両方に。その想いは少々違う所はあるけれど、同じように同じぐらい愛していたのは間違いなかった。
 もしも実在するならばここから直線距離で僅かに三百キロ程度。その緋諸岐と言う名の島はこの世界のどこにもなかったけれど、あの時、あの場所にいたと言うおぼろげな記憶は本物だ。
 今もあの二人はあの場所で、同じようにして同じ空を見上げたりしているのだろうか。その想いは違う所にあるにしろ、時々は僕を思い出してくれたりするのだろうか。
 ざああああ――と、再びの風にさらわれて、月夜に花弁が舞い飛んだ。
 その時、どこからだろう、からからからから――と、かざぐるまのあげる乾いた音が響いたような気がした。
「……理香子?」
 気が付けば、一体どこに行ってしまったのだろう理香子の姿が見当たらない。
 いやそれどころではない。幾分まばらではあるが、さっきまでは花見の客で賑わいを見せていたこの遊歩道。今はもう誰の姿も見当たらない。ただ寂しげに居並ぶ灯篭の和紙越しの淡い灯りが、ぼんやりと周囲の桜を紫色に染めているだけ。
「ねぇ、どこに行っちゃったんだい?」
 呟けば、闇に紛れてどこからか、からん、からんと、石畳を踏む下駄の音。
 やがて向こうにぼぉっと浮かび上がる二つの傘。――枝垂れ桜に、八重桜。そんな柄を描いた傘二つ。
 ――からん
 立ち止まる二人を見つめ、僕はゆっくりと微笑んだ。
「なんだ、そこにいたのか……」
 くるり、二つの唐傘が回ると同時に、その下から微笑む二つの赤い唇が覗いた。





《 妣ヶ島(ははがしま) 了 》





【 あとがき 】
去年の暮れ頃の話なのですが、とある方から柳田國男の遠野物語と言う本を頂きまして。
読んでいて思ったのが、あぁやはり私はこう言う日本古来な怪談が好きなんだなぁと言う強い再確認でした。
さて、今回のこのお話し。以前に某所で、倉の二階の座敷牢に閉じ込められた少女の話を書いた織、どうしてもその話を膨らませて続きを書きたいと強く思い、今回のこの話へと繋がりました。
随所にその少女の存在を盛り込んで行こうと思っていたのですが、結局はほんの僅かな数行、わけのわかんない部分に登場させたに過ぎず、そこだけちょっと残念かなぁ、なんて。
本当はもっと毒の強いものを考えていて、なんとかそっち方面へと軌道修正しながら書いたせいか、この作品は少々強引な展開になってしまったような気がします。
ところで皆さん、もしも八重か枝垂のどっちかを選べって言われたらどっち選びます? 私は断然、迷いもせずに八重派なんですけどね。
とにかく、桜の季節に間に合って良かった。今年もお花見行くぞー!
ではではみなさま、お疲れ様でございました。


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