Mistery Circle

2017-10

《 シベリア鉄道のビッグ・バンド 》 - 2012.07.19 Thu

《 シベリア鉄道のビッグ・バンド 》

 著者:白乙







 規則正しい車輪の音が列車内に響いている。年代物の機関車は蒸気を吹き上げ、モスクワの夜空に煙を撒き散らした。雪にその影を落としながら走りつづける寝台列車の片隅で、ロングコートを羽織った少年が一人震えていた。
 寒いわけではない。身体はあたたかく指先まで熱がこもっているし、ましてや一人の夜が怖いわけでもない。
 少年はひどく興奮していた。
 かすかに響く音色に、感動していた。
(まさか、まさかこんな幸福な日がくるなんて!)
 美しいとび色の瞳から大粒の涙がこぼれる。悲しみ以外にも涙が流れるということを、この日少年は初めて気づくことが出来た。
 少年は震える手で旅行かばんの金具をはずす。中から少年には少し大ぶりな、使い古されたトランペットを取り出した。真鍮製の曲線はランプの明かりに照らされ、鈍い金色の光を放つ。
 少年はマウスピースに口をつけ、音色に合わせて音を吹いた。かすかな音はしだいに大きくなり、その動きに合わせて少年の身体もステップを踏みだした。
 管楽器の高い音は車輪の音よりはるかに響くものだったが、だれも彼を咎めることはしない。車内に敷かれた真紅のじゅうたんを踏むのは、少年ただ一人だけだった。
 彼の演奏は、まだ終わらない。

 モスクワの谷底に不規則な車輪の音が響き渡る。
 生物の息の根を止める吹雪が数十年ものの客室二号車の窓を叩いた。窓はすでに雪の結晶に侵されており、吹き荒ぶ風は簡易ベットに横たわった北見英一郎の安眠を何度も妨げる。
 北見は何度を寝返りを打ち、舌を鳴らす。薄手のコートの裾からの片足を持ち上げてさするが、首とマフラーの境目から入り込む冷たい空気が北見の気力をどんどんすり減らしていった。季節はとうに夏を迎えたが、山脈を抜ける道には厚い雪が残っていた。 乗車駅であるウラジオストクが暖かかった分、山脈をたどる極寒の空気は容赦なく襲いかかってくる。だが、北見が眠れない理由はそれだけではない。
『『『『カンパーイ!!』』』』
 がしゃん、とかれこれ数度目の祝杯が鳴る。それはまだ日の高い、昼食の時間から続いていた。そのおかげで北見はうんざりした気分にさせられているというわけだ。
(『酔うというのは、体が夢を見ることと同義である』とはいうけどね、人の安眠を妨げてまで惰眠をむさぼるのはどうなんだい、まったく) 
 垂れてきた前髪をかきあげ、北見は何度目かのため息をついた。
 現在の二号車では、北見のとなりの個室、否、北見以外の二号車に乗り合わせている乗客全員が酒盛りをしているのだ。しかもタチの悪いことに彼らはおのおの自分の好きなタイミングで酒盛りをするため、耳障りな喧騒がとぎれることがない。一人が寝落ちれば一人が起き上がり、持ち込んだ酒で何度も杯を重ねる。現に昼間に騒いでいた左隣の部屋は静まり返り、現在は右隣、すなわち北見のベットがある側の部屋で騒ぎを起こしているわけだ。
 面白くないのは、一人個室で横になっている北見である。窓枠からは冷たい吹雪が入り、車内は酒臭いロシア人がうるさくて眠れない。他の車両にいこうにも個室はすでに決められているため別の部屋への移動もできないという三重苦でもあった。そもそも日本の真冬以上の寒さの中で寝ようとするのは死の危険すら感じさせられた。
(これだから人の多い一般車両は嫌だったんだ。本当は一号車の方で予約をとっていたのに、上流階級が貸し切るだかなんだかで借りれないとか、ないだろう)
 薄目を開けて窓枠の方へ目を向ける。ちょうど内巻きのカーブに差し掛かったらしく、前方の一号車の窓からカーテンが揺れるのが見えた。ぼんやりとした明かりが漏れるのを見ると、ここよりもはるかに暖かそうに見える。
 全くついてない。そう舌打ちを打ちながら寝返りを打つと、二つの目玉がこちらを見ていることに気付いた。
「……」
「うわっ」
「なんだ、起きてたじゃねえか」
 口から心臓が飛び出るかと思うほど驚きの声を上げた。幽霊の類かと思ったそれは、二十代前後のロシア人男性だった。もともと小柄である北見の身長より一回り以上大きな身体を丸め、じっと北見の顔をのぞきこんでいたのだ。体格に似合わぬつぶらな瞳は深い藍色をしており、わし鼻の先が寒さで赤くなっている。
 北見は勢いよく起き上がると、ロシア人青年から慌てて距離をとった。枕元のメガネをかけると、部屋の中には青年以外に二人の背の高い男がおり、一人はは部屋の中を見渡し、一人は北見の方を興味深そうに眺めている。
「あ、あんたたちは誰だ。というよりなぜ俺の部屋にいる!」
 北見は疲労と男たちの来襲で混乱する頭をかかえながら声を張り上げた。 対するロシア人は悪びれもせずに返答をする。
「お、こっちの言葉がわかるならよかった。なに、東洋人が一人でこのシベリア鉄道に乗ってきたって聞いたからな。今日は山岳地帯を走ってるからすこぶる寒いし、凍え死んでないかと思ってよ」
「……いやいや、たしかに寒いが、凍え死ぬほどの寒さではないだろう。」
 北見はうまく働かない頭をかかえながら答えるが、別の青年(こちらはやや小太りの方だ)は、大真面目な顔で間に入った。
「いーや、凍えるね! あれはおれがちっちゃい頃の話だ。おれは一生あの夏を忘れないだろう。地獄の釜で煮られているような夏で、街のみんなはあんまりにも暑いから半袖で過ごしていたんだ。そうしたら港で異国人に奇妙な目で見られてな。どうやらこの国の真夏日っていうのはよその国の冬らしい。たかがちょっと雪がつもってるくらいでな」
「……まあ、雪がつもってるのならそんな目で見るだろうな」
 北見は雪の中を駆け回る半袖の青年を思い描いた。たしかにそんな奴が日本にいれば、自分も信じられないような目で見るだろう。
 少しずつ冷静になってきた北見は、自分がようやく酔っ払いに絡まれていることに気が付いた。暗闇でわかりづらいが、彼らの肌は赤みがさしており、部屋の空気もはるかに酒臭い。
(……鍵をかけ忘れていたのか? まずい、めんどうなことになったな)
「そういうわけで、異国人には気を使ってやってるんだ。特に今日は山岳地帯を渡るから、お前みたいな子どもにはひとたまりもないからな」
 ぴくり、と北見の身体が動きを止めた。
「子ども……?」
「そうさ、ウラジオストク駅から間違えて乗ってたのか? 今は寒いがもうすぐで最終駅だ。そこで親御さんたちを待つとしようじゃねえか。なあにお兄さんに任せておけば安心ぐへえ」
 自信ありげに笑う頬に革靴がめり込む。わし鼻の青年は北見の綺麗な回し蹴りをくらい、向かい側にあった予備の簡易ベッドに倒れこんだ。
「余計なお世話だ、この酔っ払いめ!」
 入り口付近にいた別の青年が、あわてて蹴り飛ばされた青年の方へ駆け寄った。
「お、おい大丈夫か?」
「いってえ、なんだよこのガキ。人がせっかく善意で助けてやろうと思ったのに!」
「私はガキじゃない、あんたたちよりも年上だ」
「はあ? いくつだよ」
「三十二歳」
 一瞬、空気が静まりかえる。青年たちは北見の顔をまじまじと眺めた後に互いの顔を見合わせ、顔をしかめる。
「……もうちょっとマシな嘘をつけよ」
「まぎれもない事実だ!」
 もう一度その顔をけりあげようとした北見だったが今度はかわされてしまった。
「っち」
「な、なんなんだよお前は!」
「うるさい! ただでさえ日本にいた頃から童顔だチビとからかわれていたのに、こっちではとうとう未成年扱い。しかも俺よりはるかに年下の奴にだぞ? 図体だけのくせに!」
「ひいい!」
 慣れぬ列車の旅で疲労していた上、見た目のコンプレックスを刺激された北見はとうとう堪忍袋の緒が切れてしまった。近くにあった木製の座椅子を青年たちめがけて降りかぶる。
「おーいなんだこれ、ヴァイオリン?」
 あわや大惨事かと思われたその時、部屋を物色していた青年……栗色の髪を持った一等若い男が北見のカバンから一つの楽器を見つけた。そちらに目を向けた北見が目を見開く。彼の酒とすすにまみれた手が、今まさに開かれた北見の持ち物、ヴァイオリンに触れようとしていた。
「っ! 汚い手で触るな」
「いって!」
 栗色の髪の青年を突き飛ばし、慌ててカバンを奪い返す。カバンは開かれたままだったが、中の弦楽器には傷一つついてない。
 安心したのもつかの間、突き飛ばされた青年たちの目線が鋭くなった。
「なにすんだよガキ!」
「ガキじゃないといっているだろう。勝手に人の持ち物に触ろうとするからだ。これはあんたたちみたいな奴らが気軽に触っていい道具じゃない」
「なんだあんた演奏家か、せっかくだし一曲弾いてみてくれよ」
 下賤な笑みを浮かべるわし鼻の青年に、北見は一層目線を鋭くした。
「断る。人の部屋に不法侵入してくる連中に聴かせる演奏はない」
「そんなこといって、演奏に自信がないんじゃないの?」
「……そんな安い挑発に乗る気はない」
 背を向けた北見だったが、男たちは先ほど散々こけにされたお礼にとさらに批判の声をあげた。
「俺たちに聴かせる曲がないっていうより、聴かせる自信がないんだ。だってそうだよな、来たっていうのに全然儲かってなさそうだし。このへんの上流階級だったら腕のいいえんそうかを一人や二人子飼いにしてるもんだが、あんたのその様子じゃ相手にもされてなかったんだろ?」
 ぐっと喉の奥がなる。北見が上流階級に相手にされなかったのはまぎれもない事実なのだ。
「それは、ちゃんとした理由があるんだ」
「はいはい、負け犬の言い訳はけっこう。俺たちだって下手くそなくせに自信だけはあるくそ生意気なちびっこ演奏家なんて嫌だね」
「ガキはせいぜい泣き寝入りして祖国に帰っちまいな」
 ちびっこ、ガキの部分を特に強調しながら、酔っ払いたちが部屋を出て行こうとする。酒臭い息を撒き散らしながらドアの取っ手に手をかけた。
「いいだろう」
 ドアノブに手をかけた男たちに向かって、北見は静かに振り返った。髪をかきあげた額には青筋が浮かんでいる。
「そこまで言われて黙っているつもりはない。あんたたちに最高の演奏というものを聴かせてやろう」
 北見はわりと短気で、ことさら見た目の話題には敏感だった。
 つまり北見は、その酔っ払いたちの安い挑発に乗ってしまったのである。

*****

「おい、ギャラリーが増えていないか?」
 自分の部屋では狭すぎる、広い場所がいいと文句を言った北見は、食堂庫へ連れてこられた。一号車と二号車の間に挟まれるこの車両は、泊まっている乗客が食事をとるための場所になっている。向かい合った座席の間には正方形のテーブルが置かれており、美しいレースが刺繍されたテーブルクロスがかけられている。しかし今は、その内装に似合わない酔っぱらいのロシア人青年たちが隙間なく席を陣取っている。北見をあおった青年が仲間を呼び寄せたのだ。
「せっかくの生演奏だ。客は多いほうがいいだろ?」
「しかもここは一号車に隣接してるじゃないか。こんな真夜中に演奏をして、怒られでもしたらどうするんだ」
「拾い場所がいいって文句を言ったのはお前だろう? 大丈夫だ、一号車の人間は文句をいってこねえよ。」
「しかし……」
 なおもしぶる北見に、別の酒臭い男が野次を飛ばした。
「おうおうどうした、怖気付いたか?」
「……違うよ、演奏はちゃんとする」
 北見はそれ以上の討論はさけ、かかえていたケースから相棒のヴァイオリンを取り出した。夜の冷気で楽器はすっかり冷え切っていたが、ぴんと張った弦は力強い。傷一つついていないボディは雪明かりに照らされて飴色の光沢を放っている。
 北見はひとつひとつ音を確かめながら、弦の長さを調節していく。音合わせは演奏家にとって大切な作業だが、慎重さゆえにのんびりしているように見え、酔っぱらいたちはだんだんとイライラしてきていた。
「おい、まだか」
「楽器の扱いは丁寧にしなければならないんだ」
「くそ、本当は弾きたくなくて時間稼ぎしているんじゃないのか?」
「……」
 わし鼻の男が悪態を吐くと、北見は静かに楽器をケースへ戻し、文句を言った男の前へ歩み寄った。
「な、なんだ、弾けないからって喧嘩でもしようっていうのか?」
 北見は答えない。ただ無表情のままに男の赤い顔を見下ろしている。北見に思いきり顔をけられたわし鼻の男はやや警戒しながら東洋人の様子を伺う。
 そうしているうちに、北見がいきなり手を振り上げた。
「な!」
 殴られる。
 そう酒飲み達の中に緊張が走った時、ばしりと、威勢のいい音が響いた。
「~~~っ!」
「は?」
 北見が力強く頬を叩いた。
 目の前の男ではなく、自分の両頬を。
「—————よし」
 しびれる手のひらの感覚に熱が灯る。冷え切った頬は今まで以上に赤く痛々しいものになったが、構わなかった。なにせこれから北見は舞台の上に立つのだ。きらびやかなコンサートホールでも、薄汚れた列車の中でも違いはない。
 北見の演奏を待つのは『客』なのだから。
「さあ、始めようか」
 北見は颯爽と持ち場に戻り、ヴァイオリンを構えた。かわいそうに、長年連れ添った相棒は曲線上に凍え、頬当ても氷のように冷たくなっている。それでも北見は弦に弓を添え、機会を見計らった。
 酔っ払い達はあっけにとられている。当然だ。突然目の前で己の頬を叩いたかと思えば、ヴァイオリンを構えたまま動かなくなったのだ。あいつは一体どうしたのだろうか、と。
 一瞬賑わった酔っ払いの動揺も、北見の姿に少しずつおさまっていく。汽車が風を切る音と列車の振動音だけが車内に響き渡った。凍える呼吸を数度繰り返し、北見はゆっくりと瞼を開いた。
 響いた音色はかすかなものだった。例えるなら楽器を習いたての幼子が初めて曲を弾いた時のように、弱々しい、かほそい音だ。酔っ払い達は一瞬あっけにとられたのち、乾いた笑いを挙げる。なんだ、たいしたことないじゃないか。
 そう思った瞬間、ヴァイオリンの音色が一気に爆発した。ささやかだった音色は力強く脈を打ち、吹雪に閉ざされた車内を縦横無尽に走り回った。流れ出る音色は軽やかで冬将軍をものともしない。ひと呼吸もつけぬ程に、ウォトカに酔いしれた観衆の意識を奪い去った。
 何より彼らの心臓を掴んだのは……―――。

*****

 演奏を終えた北見はずいぶんと汗をかいていた。それは額に汗がにじむ程度のものだったが、さきほどまで凍えていたことを考えれば十分すぎるほど暑い。熱気で曇った視界を脱ぎ捨てた手袋で軽く拭った。
 ひとしきり呼吸を整えた北見は酔っ払いの観客にどうだ、とばかりの笑みを向けた。揺れる車内、凍える体での演奏は完ぺきといえるものではなかったが、それでもどっと緊張のほどけた身体の疲労感は満足感を得るには十分すぎるものだった。
「さて、演奏はいかがだったかな? もし気に入ってもらえたのなら、心ばかりのお気持ちを頂戴したいね」
 わざとらしい動作で一礼をし、帽子を差し出す。各地を回る演奏家が小銭をせびる時の常套句だ。むろん、金が欲しいわけではない、が。
「は?」
 その帽子に次々と小銭が投げ込まれた。手垢にまみれた使い古しのコインが一枚、また一枚と投げ込まれる。中には財布の中身をそのままひっくり返して入れる者もいた。
「ちょ、ちょっとまってくれ。いくらなんでもこれは」
 これにはさすがの北見も驚きだ。本当に金をせびるつもりはなく、せいぜいひと泡吹かせることができればそれでいいと思っていた。だが実際は観客全員が金を投げ込み、とうとう両手で帽子を抱えなければいけないほど溜まってしまった。
「……あんたち、なんで泣いているんだ?」
 顔を上げて北見はさらに驚いた。
 酔っ払いたちが涙を浮かべながら、小銭を入れていたのだ。
「兄ちゃん、あんたもひどい奴だな」
「なにが!」
「なんでもっと早く言ってくれなかったんだ。あんたがーーージャズ・ヴァイオリニストだって!」
 涙と一緒に吹き出された言葉に、ようやく北見にも合点がいった。
「そうか、あんたたち、『スチリャーガ』か」

*****

『スチリャーガ』という言葉はとあるソ連の民衆誌から生まれた。

“最近流行っているジャズに傾倒し、朝まで踊り明かす若者が増えている。彼らは伝統の素晴らしさを理解しない『スチリャーガ』だ”

 スタイルを語源としたこの呼び名は、つまり流行に流される若者へ向けた軽蔑の呼称だ。
 当時のロシア音楽の主流はクラシックだ。何十人もの演奏家を屋敷へ招き、最高級の楽器と贅沢の限りを尽くした演奏を行うのが主流だった。社会主義に移行し始めた昨今ではそんな金をかけた演奏をするものはいなくなったが、それでも富裕層の中で求められるのは格式高いクラシックだ。上流階級の彼らにとってジャズという音楽は、庶民の娯楽文化の一つに過ぎない。
 北見はそんなロシアにジャズの文化を正統に広めるため、ようは楽器を片手に殴り込みをかけたのだ。
「私が所属している楽団で日本のジャズ・バンドをソ連に招いて演奏会を、という話が出ていたんだ。私はその交渉とスポンサー探しのためにソ連の外交官を訪ね、上流階級の家を回った。だが、結局はこのありさまだ」
「そうか、上の連中が求めている演奏会はクラシック! ジャズはお呼びでない、だからあんたほどの人が上流階級から捨て置かれてたのか」
 スチリャーガの青年の言葉に、北見はかわいた笑みを浮かべたまま首を振った。
「いや、結局は私の力不足だったんだ。自分の演奏では彼らの心を動かすことがきなかった。だから私はすっかり失望して、モスクワから帰国するためにこの列車に乗ったのさ……皮肉だな、まさかその列車の中でジャズ愛好家の同志に出逢うとは」
「俺たちは政府にジャズが規制され、スチリャーガと呼ばれてもなお、ジャズを愛しているんだ。隠し持っていたレコードを毎夜流して、憲兵に怯えながら朝まで踊り明かす……そんな生活だ。だがら、生の演奏が聴ける日が来るなんて思ってもみなかった」
 ありがとう。涙をぬぐいながら感謝の言葉を続ける青年に北見は頭を下げる。
「こちらこそ、ジャズの楽しさを思い出させてくれてありがとう」
 この国にもまだ、自分の演奏を求める人がいる。
 自分の演奏が誰かの心を揺さぶることができる。
 それが知れただけで、北見はこの極寒の地に来たかいがあるとさえ思えた。
「———ん? 今、なにか聞こえなかったか」
 その時、北見の耳にかすかな音が聞こえた。
「ん、なにが?」
 酔っ払いたちも顔を上げるが、酒のせいでよく聞き取れないらしい。だが、北見の耳にはよりはっきりと音が聞こえていた。
 車輪の音にまぎれて聞こえるのはーーー金管楽器の音色。
「トランペット?」
「ああ。今だってかすかに聞こえている、ほら」
 車輪の音に紛れてトランペットの小刻みなリズムがかすかに響いている。それは前方をゆく車両の方から聞こえていた。
「これは、一号車のほうからだ。しかもこの音階、クラシックじゃなくてジャズの音階だよ!」
 身を乗り出して聞いていた北見は思わず立ち上がった。現在一号車に乗っているのは上流階級の人間のみ。その場所からジャズの音階の演奏が聞こえるということは、乗車している上流階級の中にジャズの演奏家がいるということだ。もしかしたら日露ジャズ演奏会の足がかりとなってくれるかもしれない。
「一号車ってことは、あいつか……」
 やや小太りの青年がぽつりと呟いた。どうやらトランペットの主に心当たりがあるらしい。
「知り合いなのか?!」
「いや、知り合いだし仲がいいけどさ。正直なんていうか、今は近づかないほうがいいっていうか」
「なんでだ!」
「だ、だから、今は危ないから近づかないほうがいいというか……」
「そんなことをいって、向こう側の気が変わったらどうするんだ!」
「とにかくあとでちゃんと紹介するからさ!」
 どうにも言葉を濁すスチリャーガたちに、北見はとうとうしびれを切らした。
「こうしちゃいられない、ちょっと覗いてくるよ!」
「あ、おい兄ちゃん!」
 彼らの制止を振り切った北見は、一号車へと続くドアをかけぬけていった。

*****

 北見が足を踏み入れたとき、一号車ではまだトランペットの演奏は続いていた。
 薄暗い車内には小型の洋燈が点々と灯っており、汽車の揺れと金管楽器の響きで時々揺らいでいた。その演奏はムラのある拙いものではあったが、聴く人が聴けば将来を感じさせるような可能性を秘めたものであるとわかるだろう。少なくとも北見にそう感じさせるものが“彼”の演奏にはあった。
「さっきは素敵な演奏をありがとう。車両越しだから途切れ途切れだったけど、でも僕の大好きな曲だってすぐわかったよ。思わず僕も演奏しちゃった! いつもはパパに怒られちゃうんだけどね」
 マウスピースから唇を離した“彼”が、流暢なロシア語で北見に話しかけてきた。北見が想像していたよりも高い、少年の声だった。
 薄明かりの中に浮かんだのは、
「わ、私は北見。日本人だ。君は……」
「ミーシャだよ。よろしくね、キタミ」
「ミーシャ、教えてくれ。これは一体———何があったんだ?」
 北見は早鐘を打つ心臓をおさえながら、震える指で足元を示した。
 最初に目に飛び込んできたのは、雪明かりに照らされた黒檀色だった。
 ところどころランプで照らされた車内は、しかし灯を持ってしてもその黒檀色の正体を判別することはできず、ただ弱々しく点滅するばかりだ。どうしたことだろう、あれほどぬくもりを感じられた一号車の中は予想よりもはるかに凍えていた。
 想像上の一号車で香っていたのは柔らかな花の香りではなく、タールのように重く淀んだ血の匂いだった。それも一人や二人のものではない。濃い緑色の絨毯が血しぶきで黒檀色に染められ、水たまりのように広がっていた。すでに血は乾いていたがこびりついた匂いは血が流れた直後のままだ。
「気にしなくてもいいよ。ここにはもう何もない」
「何もない?」
「モスクワの亡骸はウラジオストクの終着駅へ、ってことさ」
 シベリア鉄道はモスクワから大陸を横断し、七泊八日かけて終着駅のウラジオストクへたどり着く。つまりこの血の主は、モスクワから乗車した時に殺され、北見と入れ替わりでウラジオストクで降ろされたのだ。
「ミーシャはずっとこの車両にいたのか」
「うん、初めの日から今日まで見張りとしてね。モスクワ行きの時は一日早く着くからいいよね」
 停車駅の関係上、モスクワ行きの時は六泊七日でつく。この夜が明ければモスクワへつくので、つまりこの少年は十日以上も血の匂いの残った車両にいたわけである。血の匂いがこびりついたこの車両に、一人で。
「……君がやったのか」
「ううん、僕はただの見張り。やってくれたのはパパの知り合いの人で、遺体を運ぶ時は僕の友達が手伝ってくれたんだ。ほら、向こうの車両でお酒を飲んでたでしょ?」
「どうしてこんなことをしたんだ」
「……」
「どうして!」
 北見は信じられなかった。こんな子どもが、同じジャズを愛好する者たちが殺人を犯すなど。そんな思いが北見の心を占めていた。
「交換条件だったからだよ」
 対するミーシャはひどく落ち着いていた。
「僕のパパは上流階級の中でも有力な人で、良く音楽を聴いていた。たまたまレコード売りが持ってきた中にジャズのレコードが紛れていて、その演奏を聴いた僕はすっかりジャズの虜になったんだ。だけど世間はジャズを規制して異端視するし、パパもあまりいい顔をしない」
 ミーシャは立てかけてあったトランクに腰掛けたまま、話を続けた。
「ここで殺されたのは誰だと思う? パパと同じ上流階級の人で、パパのライバル。大のジャズ嫌いとしても有名で、この人のせいで何人ものスチリャーガが首に縄をかけて殺されたんだ」
「だから殺してもいいと?」
「ううん。でも、パパに約束してもらったんだ。この殺人に協力してくれたら家を出てもいいって……家を出て、大好きなジャズを好きなように楽しめって。もちろん引き受けたよ。それができるならどんなことをしても良かったんだ」
 やや濁った鳶色の瞳に迷いはない。その事実が北見の心をよりしめつけた。
「ねえキタミ、僕たちはどうして、自分の好きなものを『好き』ということができないのかな?」
「……」
 純粋な少年の言葉に、とうとう答えることはできなかった。

*****

 列車は時刻通りにモスクワへと到着した。一月ぶりに来た首都の景色は赤銅色の煉瓦が敷き詰められていた。時刻は午後の三時、列車はようやく、終着駅であるモスクワへとたどり着いたのだ。
「……あのままでいいのか」
 列車から降りると、北見はスチリャーガたちに小声で話しかけた。視線の先は鉄道の最前列車、血塗られた一号車だ。あのまま放っておけば、どれほどの騒ぎになるだろうか。
「いいんだよ。こういう後始末には専門の人がいるから」
 ミーシャは飄々と言ってのけた。ほかの同乗者も顔色一つ変えずに足を進めていく。人を殺した後とは思えないほど、彼らはモスクワの街並みに馴染んでいた。
「これからあんた達はどうするんだ」
「そうだなあ。とりあえず馴染みの酒場で一杯やって今日は解散かな」
「まだ飲むのか」
「僕もいっしょだよ。お酒はのまないけど!」
 呆れた笑みを浮かべる。彼らは酒だけではなく、徹夜にも強いらしい。
「キタミはこれからどうするの?」
「私は……一度国に戻ろうと思う。ジャズ・バンドの演奏会がどうすれば実現するか、楽団のみんなと策を立てる。本当はもうあきらめようかと思っていたけれど」
 北見はちらりと青年たちの顔を見渡した。自分より若い彼らが、自分のジャズ演奏に涙する姿を思い出す。そして、ミーシャと交わした拙いセッションを。
「ジャズを愛する同胞のためにも、頑張らないとね」
「キタミ……ありがとう!」
 まだあどけなさが残る顔立ちがとろけるようにほころぶ。楽器ケースをかかえる手に力が入っていた。
「それじゃあ、キタミ」
 そこまでいってミーシャは口をつぐんだ。手を振ろうとして上げた腕が、中途半端な高さのところで止まる。
 昨日の夜は楽しかった。思わぬ同志が現れ、距離が一気に縮まった。
 だからこそ皆、別れが惜しいのだ。
「……あ〜、その、そうだな」
 居心地悪そうに髪の毛をかき上げながら、北見は言葉を紡いだ。
「せっかく異国の地で同志に巡り会えたんだ。別に今すぐ帰国しなくてもいいだろう」
「!」
 北見はコートの内ポケットから、薄汚れた麻袋を取り出した。手のひらに乗る程度のそれは中でじゃらりと音が鳴る。スチリャーガたちからチップとして頂いた小銭だ。
「ジャズといえば酒場だ。そこでなにか呑みながら話をしようじゃないか。なに、金はいくらでもある。どこかいい店を知らないか?」
「……知ってる、知ってるよ! 僕たちの酒場、ジャズ用の小さなダンスホールも付いているんだ。案内するよ!」
 ミーシャは目を輝かせ、北見の腕をひいた。落とし子たちは和気あいあいと雪の道を進んでいく。その姿には殺し屋の面影はなく、ただ自分の好きなものを楽しむ者たちがいた。

*****

 こうして北見はミーシャたちと出会い、日本ジャズ楽団・ソ連招致への一歩を踏み出した。慣れぬ土地での生活、また、ソ連外交官の反ジャズ圧力はたいへんなものであっただろう。だが、のちに日本へ帰国した北見は、『彼らと過ごす日々は、私の人生の中で確かに輝いたものであった』と語っている。北見とスチリャーガたちの話は始まったばかりであるが、それを語るのは別の機会とさせて頂こう。

 代わりといってはなんだが、おまけ話をひとつ。

 酒場へとやってきた北見は、席に案内され、酒の注文をしようとした。
「(さて、せっかくだし私もウォトカを頂くか)……マスター、すまないが」
「マスター、ホットミルクちょうだい。ストレートでね!」
 しかしミーシャが素早くホットミルクを注文し、北見の目の前に置く。
「……ミーシャ?」
「キタミはまだ子どもだからお酒はダメだよ! 小さなうちからお酒を飲んでると、大きくなれないんだからね」
 酒場の空気が一気に静まりかえった。流れる沈黙の中、北見の実年齢を知っている青年の一人がこらえきれずに吹き出す。
「っぶ」
「いま笑ったのは誰だ!!」
 かくして、二号車での顛末を聞いていなかったミーシャのせいで、酒場はあわや乱闘騒ぎとなったそうだ。





《 シベリア鉄道のビッグ・バンド 了 》





【 あとがき 】
おつかれさまです、白乙です。
今回も参加させていただきありがとうございました。
この作品の元は私の好きな曲をイメージして書かせていただきました。
その曲自体にも原作となった小説があり、ぜひ読んでから執筆を!と思ったのですが、古い本だったので手に入らず・・・。
なので自分の想像が大いに入った作品となってしまいました。いつか原作をちゃんと読んで書き直したいです。

最後に、今回もぎりぎりの投稿になってしまい申し訳ありませんでした。
読んでいただき、ありがとうございました。


白乙
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