Mistery Circle

2017-11

《 乾涸びたバスの中で 》 - 2012.07.20 Fri


 著者:白乙







 抱きしめたぬいぐるみが、くしゃりと潰れた。
 顔を押し付けた布からは柔軟剤の香りがして、それが余計に目にしみて。柔らかな布地がぼろぼろと溢れる涙をすいとっていく。
「ほら、もう離しなさい」
 母親がぬいぐるみを取り上げようとする。嫌だ、その言葉を声にできず、必死で首を振る。けっして離さないと、一層強く布の塊を抱き潰す。
 わがままをいう自分を母はさらに咎めようとするが、父が静かに引き止めた。周りの人も好きにさせなさいと言って、大きな箱を運んで行った。
 母はもう何も言わず、赤い目元をハンカチでぬぐって彼らの後についていく。父も鼻をすすりながら、先頭を切って歩き出した。
 残された自分は、しばらく泣きはらしたまま、震える脚を叱咤して歩き出した。
(いかないと、置いていかれちゃう)
 おぼつかない足取りで、潰れたぬいぐるみを抱えながら、ただただ無心に歩き続けた。




 誰が危なくて、誰に逃げろ、といったのか、叫んだ本人にもよく判らない。
 ただ、バスで眠っていた男子高校生・木村ヒロシは自分の叫び声で飛び起きた。
「うわ!!」
「うひゃ! 急にどうしたの、兄ちゃん?」
 ヒロシの弟・みちるは怪訝な目で兄を見た。小学四年生になったばかりのみちるは少し癖のついた猫っ毛が特徴的で、長袖のTシャツに膝丈までのハーフパンツを履いている。座席はみちるにはまだまだ高いようで、届かない足を落ち着かない様子でぶらぶらと揺らしていた。
「寝てたと思ったら急に飛び起きて、なんかへんな夢でも見たの?」
「いや、なんだろう。変な夢というか、嫌な夢というか……わからん、もう思い出せない」
 寝ぼけた頭をむりやり起こし、数度瞬きをした。
 二人が乗っているのは、ヒロシが通学用でよく利用している市営のバスだ。赤と灰色で塗装されたバスは部分的に金属の錆びつきがかなり目立っており、エンジンもおんぼろなせいで止まるときに大きく車体が揺れてしまう。そのせいで車酔いしやすい体質のヒロシは、今もまだ体調不良に悩まされているのだ。
「今どこを走ってるかわかるか?」
 錆びついた手すりにつかまって身体を起こす。ぐらりとした視界が揺れ、頭の中が霞みがかったようにぼやけていく。Yシャツに嫌な汗が染みこんでおり、冷える背中に悪寒が走って気持ち悪い。
「知らないよ、今日は霧がすごくって窓の外が全然見えないんだ」
 ヒロシはみちるに促されるまま窓の外を見た。都営バスの窓からみえた景色は、寝ぼけているヒロシの意識をそのまま映し出したかのように深い霧に覆われていた。数メートル先も見えないような白い霧が薄暗い車内をほのかに照らしだす。
「本当だ。こりゃあひどいな」
「でも、降りる場所はまだまだ先みたい。放送が聞こえないから」
「そっか、じゃあもう少しくらい寝てても……ん?」
 顔を上げると、セーラー服姿の少女が前の座席から二人の様子をじっと見つめている。
「……えっと」
 ヒロシはとまどいながら少女のほうを見返した。
 少女は肩につかないくらいのボブカットをしており、セーラー服の上から薄手のカーディガンを羽織っている。整った顔立ちは笑みを浮かべており、とろけるような黒い瞳がヒロシの顔を映し出していた。
 彼女は身を乗り出すと、ヒロシの額に手を伸ばそうとした。
「へ?」
 びっくりして、思わず身を引いてしまう。しかし少女は気を悪くする様子もなくヒロシの身を案じる言葉を紡いだ。
「もう大丈夫かなって。なんだかすごく具合が悪かったみたいだから」
柔らかい声色だった。髪の毛が揺れるたびに甘い香りが漂う。
 どきりと心臓が跳ねる。
「あ、まあ」
「よかった、みちるくんが心配してたよ。お兄ちゃんが車酔いして眠ってるって」
「兄ちゃんが寝てる間、お姉ちゃんとず~っとおしゃべりしてたんだよ」
 少女はみちると顔を見合わせ、首を揺らす。どうやら自分が寝ている間にずいぶんとなかよくなっていたようだ。
 ヒロシは申し訳なさ半分、知らない人に話しかけられた戸惑い半分で少女にお礼をいった。
「なんかすいません。弟が迷惑かけたみたいで」
「ちがう! 迷惑かけてたのは兄ちゃんでしょ」
「う」
返す言葉もない、元々はみちるの面倒を見るのは自分の役目だ。家に出る前に両親からさんざん言われていたことのはずなのに。
「大丈夫。みちるくんはとってもいい子だったから、ねー?」
「ねー!」
 ふんわりと笑う。空気全体が花が咲いたように明るくなる。
 可愛い女の子が年の離れた弟と遊んでいる。はたから見ればとても微笑ましい光景なのだが、ヒロシにはどこか懐かしさを覚えた。
 その柔らかそうな雰囲気に、妙な既視感があったのだ。
(なんだろう、どこかで見たことがあるような、ってあれ?)
 ヒロシはみちるの座席のほうを見て、ぎょっと目を見開いた。
「おいみちる、クリーミーベアはどこにやったんだよ」
「え?」
「今日も家から持ってきたはずだろ、なんで今持ってないんだ」
 能天気な弟の返答に、ヒロシは焦りの声を上げた。
 クリーミーベアとは、みちるのぬいぐるみの名前だ。みちるが抱いて持ち運べるくらいのサイズで、クリーム色の毛並みと青いリボンがついているテディベアである。背中には肩紐が付けられており、リュックとして持ち運ぶことができる代物だ。みちるは誕生日プレゼントでもらったそれをとても気に入っており、出かけるときに忘れようものなら手が付けられないほどに泣いてだだをこねるのだ。 
 だが今のみちるはクリーミーベアを持っていない。ざっと車内を見たがそれらしいものは見当たらなかった。
「あの中に財布も入ってただろ。いったいどこへやったんだ」
「う〜ん、わかんない」
「わかんないって、お前なあ。大事にしてたんだろ?」
「うん、でも、もういいんだ」
 そういってみちるは、先ほどの少女の元へ駆け寄り、その胸元にぎゅっと抱き着いた。
「それに今は、兄ちゃんとお姉ちゃんがいるから寂しくないもん」
「お、おいこらみちる! 勝手に抱きつくな」
「気にしないで、むしろかわいいみちるくんに抱きつかれて嬉しいくらい! なんだったらヒロシくんもぎゅってする?」
「は!?」
 少女が自分を招くように、空いた腕を広げて見せる。
 まさかの少女の提案に、さすがのヒロシも顔が赤くなった。
「いや、俺はいいよ」
「兄ちゃんたら何を恥ずかしがってるの」
「あ、当たり前だろ!」
「あはは、ごめん。ちょっとからかいすぎちゃった」
 小さく肩を震わせて少女が笑う。完全に弄ばれた上、本気に受け取っていた自分が恥ずかしい。
「そういえば、お姉ちゃんはどこへ行くの?」
そんな微妙な空気の中で、みちるが思いついたように少女に問いかけた。
 少女は少し悩むしぐさをした後、少し困ったように笑った。
「私はどこにもいかないよ。このバスが止まるまで、ずっとこのままかな」
「止まるまで? 終点ってこと?」
「そう、このバスが行き着く先まで」
少女は指で先をバスの進行方向を示した。もしかしたら終点に家があるのだろうか。
「なんだかずいぶんと遠い場所からきてるんだな」
「ヒロシくんたちは、今日はどこまで行くの?」
「ああ、俺たちは……」
(あれ?)
 はたと、そこで気づく。
「俺たち、俺たちは……どこまで行くんだっけ?」
「え、兄ちゃんまで忘れちゃったの? 忘れんぼうだな〜」
「う、うるさいな。お前は覚えてるのかよ」
「僕? 知るわけないじゃん、兄ちゃんについてきたんだから」
「偉そうに言うなよ……」
 ヒロシは大きなため息をつき、頭を抱えた。頭はまだぼやけていてはっきりとしない。すっぽりと抜け落ちてしまった記憶を必死に思い出そうとして焦りが出始める。
「どうする、一旦降りたほうがいいのか? でも外はすごい霧だし、みちるを連れていくわけにも……かといって運転手に聞こうにも行き先が分からなけりゃどうにもならないし……」
 一人車内を右往左往するヒロシに、少女がなだめるように声をかけてくる。
「ヒロシくん、落ち着いて。忘れちゃったものはどうしようもないし、とにかく一旦座ろうよ、ね?」
「あ、ああ」
「とりあえずもうちょっと休んだらどうかな? 思い出せないのはまだ体調が良くないせいかもしれないよ」
「そうだよ兄ちゃん、一眠りしたらまた思い出すんじゃない?」
「そう、だな。そうしたほうがいい、のか?」
「それがいいよ。ほら、今なら後ろの四列が空いてるから、横になれるよ!」
 そう少女に促されるまま、ヒロシは四人掛けの椅子に座り込んだ。椅子のスプリングが錆び付いた音を立てる。
「みちるくんのことは私が見てるから安心して、ね?」
「ありがとう、なんかごめん。今日会ったばかりなのにこんなに世話になって」
「いいのいいの」
 硬い布地に背中を押し付けると、ヒロシの視界が少しずつ歪んでいく。
 まどろみの中でヒロシの意識がドロドロにとけていく感覚だ。
 自分がなぜ、どうしてここにいるのか。みちると二人、バスに乗ってどこに行こうとしているのか。
(なんで俺は、こんなことも思い出せないんだろう)
まどろむ意識の中で、ふと窓の景色に目が留まった。
(……?)
 濃霧の向こうから、かすかな輪郭の影が見えた。
(なんだ。建物、か?)
 ヒロシは肘をついて起き上がり、バスの外の景色をのぞいた。深い霧がバスの周囲を覆っており、自分がいまどこにいるのかもわからない。それでも、霧の向こうにはうっすらと大型の建物のシルエットが浮かび上がっていた。
(あの場所、どこかで見たような気がする)
 最初に見えたのは建物にはめ込まれた大型の時計だ。幾つも並んだ窓は少なくとも十以上の数がある。かすかに見える窓の先は似たような作りの部屋が並んでいた。
 どうやらどこかの学校のようだ。コンクリート製の校門には学校名が掘られているが、霧のせいでよく見えない。
 ヒロシはもっとよく見ようと、身体を乗り出す。
「だめだよ」
 そして目を凝らそうとしたとき、不意に視界が暗くなった。
 後ろから目隠しをするように少女が手をかぶせてきたのだ。後ろからおおいかぶさるようにのしかかってきた少女の体は綿のように軽く、また、花のような柔らかな香りがした。
「もしかして横になるのが嫌になっちゃった? だったらこっちで一緒にお話しようよ。ほら、みちるくんも君と遊びたいって」
 甘い声が耳元でヒロシを誘惑する。
 その感覚が引き金だった。
「ヒロシくん?」
「兄ちゃん?」
「……みちる、行くぞ」
 ヒロシは少女の手をふりはらい、降車ボタンを押した。バスは徐々にスピードをおとし、やがて霧の中で完全に動きを止める。
 ここがどこかなんてわからない。
 けれどこれ以上、このバスに乗っているわけにはいかない。 
 その思考が鈍いヒロシの身体を動かしていた。
「兄ちゃん、ここどこ? こんなところで降りてどうするの」
「知るか」
「兄ちゃん……!」
 みちるの手を引き、バスの階段を降りる。運転手の顔は見えなかった。
「待って、二人ともどこにいくの?」
「お姉ちゃん」
「いいから、はやくこい!」
 少女が二人を引きとめようとしたが、ヒロシはそれよりも早くみちるを連れてバスを飛び出した。




 先の見えない霧の中、二人の兄弟は走り続けた 「兄ちゃん、疲れたよ。休もうよ」
「もう少しだから頑張れ」
「もう少しってどこまで?」
「俺の学校までだ」
 ヒロシは息を切らしながら、弟の手を引き続ける。行き先はさきほどバスが通り過ぎた、自分が通っている学校の校舎だ。
(ようやく思い出した)
 ヒロシは弟のみちると一緒に、ヒロシの高校の文化祭に行こうとしていたのだ。先ほどバスから見えた高校の校舎が記憶を思い出させてくれた。
 そして、あの少女についても。
(あの子……あの子には、体温がない!)
 背後から少女に目隠しをされたとき、触れた指先に人間らしいぬくもりはなかった。それは単に冷えているというより、素手で触っているのにまるで空気に触られたような無機質な感覚だった。
 つまりそれは、彼女が人ではないということを証明していた。
(俺たちはずっと同じ場所をバスで周回させられてただけじゃないか)
 それだけではない。少女はヒロシが何か思い出そうとするたびに、ヒロシの記憶を消していたのだ。甘い言葉で誘惑し、何度も眠りつづけ、忘れさせる。それはすべてヒロシとみちるがあのバスから出ないように、この霧の中から出られないようにするためのものだったのだ。
「兄ちゃん」
 ヒロシは少女に対する恐怖と怒りで走り続けた。これ以上みちるを、幼い弟を得体のしれない少女と一緒にいさせるわけにはいかない。
「しっかりしろ、走れないならおぶってやるから」
 なかば怒鳴るように弟を叱咤する。
 だが、対するみちるのほうはひどく冷静だった。
「ちゃんと思い出して」
「はあ?」
「思い出してよ、お姉ちゃんは何もしてない。できなかったんだ」
 沈んだ声だった。無機質で感情のない、子どもではないような声。
 思わず脚が止まった。
「みんな手遅れだったんだよ」
「……みちる、さっきから何を言って」
 ヒロシはそういって、左手に握った弟の方をみた。
 だがそこに、みちるの姿はなかった。
 代わりにいたのは……もっと別の物。
「——————クリーミーベア?」
 自分が弟だと思って手をつないでいたのは、弟が大事にしているクマのぬいぐるみだった。淡い色の毛並みをした腕はヒロシにひっぱられ、頭と胴体は重力にしたがって力なく垂れ下がっている。黒い無機質のボタンの瞳がヒロシの顔をじっと見つめているような気が気がした。
「なんで、みちるは無くしたって言ってたのに」
 クマのぬいぐるみをじっと見つめる。いくらなんでもぬいぐるみと弟を間違えるはずがない。クリーミーベアはまだ綿がぱんぱんに詰まっていてふかふかしていた。
 ―――まだ?
「みちる、みちるはどこに」
 嫌な胸騒ぎがする、そう思った瞬間。
 ヒロシの目の前で、さっと幕が引くように霧が晴れた。




「ここは……学校か?」
 薄ぼんやりとしていた視界が晴れ、気づけば自分は学校の校舎の中に入っていることに気づいた。廊下には幾人もの生徒が歩いており、各教室はボードや花紙で彩られている。ある教室ではアイスを売っているし、別の教室ではバザーを開いていた。
(そうか、今日は俺の学校の文化祭だ。行きたいってダダをこねていたみちるとバスに乗って、文化祭に行ったんだ)
 手元のぬいぐるみを見る。中にはみちるの財布と、おもちゃのカード。子どもが持つには十分だが、小学生が持つには子供っぽい。それを偶然会ったヒロシの同級生にからかわれたのだ。
(『男の子なのに、そんな可愛いリュック背負ってるんだ』って言われて。だから拗ねてクリーミーベアを置いてどこかへいったんだ)
 急激に戻っていく記憶に、ヒロシの頭の処理がついていかない。
(なんで俺、忘れてたんだろう)
 呆然とするヒロシの耳に、つんざくような悲鳴と何かが割れるような破裂音が聞こえた。
「なんだ……?」
 周囲がにわかにざわつき始める。ぬいぐるみの腕をつかむ手に嫌な汗がにじんだ。
 やがて音が聞こえた方向から数人の生徒が飛び出してヒロシの横をすり抜けていった。
「大変だ、早く救急車を!」
「展示用のパネルが落ちて、子どもが下敷きに!」
「———————」
 口々に叫んだ言葉を最後まで聞く前に、ヒロシは駆け出していた。
(みちる、みちる)
 人ごみをかき分けながら、ヒロシは心の中で弟の名前を呼んだ。無事であってほしい、せめて違う子であってほしいと下世話なことを願いながら。だが同時にヒロシはそれが叶わない願いであることも知っている。自分はこの光景を何度も見てきたのだから。
 ヒロシが到着したのは、大人一人分ほどの大きさのパネルが何人もの生徒によって移動される頃だった。
 ようやく再会したみちるは、うつぶせで倒れこんでいた。床にぶつけた彼の額からは大量の血が流れている。彼の周囲にはガラス片が幾つも散らばっており、天窓から覗く光に反射してキラキラと輝いていた。
「嘘だろみちる、しっかりしろよ」
 ヒロシの手からぬいぐるみがすべり落ちる。
 みちるはもう、ピクリとも動かなかった。
「みちる―――っ!!」
 ヒロシはあらん限りの声で叫び、小さな身体にすがりついた。




 気が付けばヒロシは一人、校舎の中に残っていた。足元には血の跡が生々しく残っている。もちろん、みちるの血痕だ。
「みちるくんはヒロシくんの学校へ遊びに来た時、落下してきたパネルの下敷きになって、死んじゃった」
 振り向くと、自分のすぐ背後にあの少女が立っていた。手に持った空き缶の中には、詰んだばかりのシロツメクサが生けられていた。
「あの日もこんな天気だったね、覚えてる?」
 少女が前へ進み、血だまりに花を添えた。まだみずみずしい白い花は陽の光を浴びて光り輝いているように見えた。
「ああ、覚えてる」
 忘れるものか、とヒロシは呟いた。
文化祭から三日後、分厚い雲がたれ込める完璧な曇り空の日に……まさに葬式日和と言えるような日に、みちるの葬儀が行われた。
 その時も彼女は、ヒロシとずっと一緒にいたのだから。
「俺はあの日、お前を棺に入れ損ねたんだ。そうだろう? ―――クリーミーベア」
 ぬいぐるみと同じ名を呼ばれた少女は、にっこりと笑った。今まで見た中で一番下手な笑い方だった。
「よくよく考えれば、そのカーディガンと毛色はそっくりだし。お前の匂いもうちの柔軟剤の匂いだ。妙な違和感はそのせいだったんだな」
「そうだよ、私はクリーミーベア。ここまで思い出したなら、どうして私たちがここにいるのかもわかるよね」
 ヒロシは頷いて肯定する。今となっては乾いた笑みしかでてこない。
「みちるの葬儀の日……最期の別れの時に、お前を棺に入れようとして、できなかった。未だにみちるが死んだことが信じられなくて、子どもみたいにお前を抱きながら、ずっと首を振って嫌がった」
 今ならするりと思い出せる。ヒロシは涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったそれをずっと抱えて泣いていた。母さんにみちるの宝物だから一緒に入れてあげなさいと言われても離せなかった。クリーミーベアまで失ってしまったら、本当にみちるがいなくなってしまうような気がして。
「しびれを切らした母さんが無理やりお前を奪おうとしたけど、父さんが止めてくれた。そして親戚の人たちと一緒にみちるを火葬場へ移動させようとして……俺はどうなった?」
「階段を踏み外して落ちたんだよ。私を抱きしめたままでね。気がついたら君と私は霧がかったこの世界に迷い込んでいたし、私はぬいぐるみから人の形になっていた」
「そうか」
 ヒロシは静かに顔を上げた。天窓から差し込む陽光が憎々しいほど爽やかだ。
 こんな景色はもう見たくない。晴天も曇りもない、あの霧がかった世界へ帰りたかった。
「ここは不思議な場所だね。死んだはずのみちるくんがいて、私とヒロシくんが一緒におしゃべりするの。でも、ヒロシくんがみちるくんが死んだことを思い出したら、みちるくんがまた同じように死んじゃう。ヒロシくんが忘れている間だけ、みちるくんはあのバスの中で一緒にいられるんだ」
「だから俺の記憶を奪っていたのか」
「うん、だってそれを一番望んでいたのは君でしょう?」
 ヒロシは泣きはらした目をそらした。少女はそんなヒロシを気にも留めず、血だまりに向かってしずかに手を合わせる。祈る仕草にも似たそれは、はたして彼女がぬいぐるみのままでも持ちえた感情だったのだろうか。
「私はみちるくんと一緒に逝くことはできなかった」
「俺のせいだって言いたいのかよ」
「いじわるな言い方をしてごめんね。でも、今はこれで良かったと思う。だってこんな状態の君を一人おいていくなんて、できるわけないもの」
 少女は振り返る。真っ黒な瞳がヒロシの目を捉える。
「ねえ、今の君はどうしたい?」
 少女はヒロシの口元に顔を近づけた。
「……なあ、頼むよクリーミーベア」
 対するヒロシは、乾いた笑みを浮かべて懇願した。
 かすれた声で紡いだ言葉は熱情にも似た激情だった。
「嫌なこと全部、忘れさせてくれ」
「いいよ」
 少女がゆっくりとヒロシを押し倒す。倒れた先に背もたれの感覚があった。
 気がつけばヒロシは、あのバスの中に戻っていたのだ。
「きっと君は、みちるくんを失った悲しみから逃れようとして私を作り出したんだと思う。この霧のかかった世界も、全部ヒロシくんが望んだから生まれたんだよ」
 少女の体が座椅子のソファに膝をのせる。スプリングをぎしりときしませながら、ヒロシと向かい合うように馬乗りになった。
「だから私は、何度だって君の願いを叶えてあげる」
 それが自分の生まれた理由なんだから、と。
 彼女の柔らかな髪がヒロシの顔に触れる。隙間なく生えた長いまつ毛からのぞく、とろけるような黒い瞳がヒロシの目を捕らえた。
「君がもう一度全てを忘れるまで……それまでしばらくの間、おやすみ」
 願いを聞き入れた彼女は笑みを作り、ゆっくりと顔を近づけてくる。
 それがきっと合図なのだ。彼女はこうやって、ヒロシの記憶を奪う。
 ヒロシもまた、それを受け入れた。自分から口を開き、ぬくもりのないそれを己のものと合わせる。
 ドロドロにとけていく意識に、世界が二転三転するように揺れた。




 乾いたバスは今日も走る。
 濃い霧が立ち込める中、眠り続ける乗客を乗せて。
 乾涸(ひから)びた夢を見せながら、今日もどこかで走り続ける。





《 乾涸びたバスの中で 了 》





【 あとがき 】
初めましての方は初めまして、白乙です。
今回自分がお題を担当させていただきましたが、お題を選ぶのってすごく難しいですね(汗)
自分で選んでおきながらどうお話とお題を絡めようか四苦八苦してました。

今回の作品は、自分が実際に夢で見た場面を元に書きました。
大体流れは小説と同じですが、クマのぬいぐるみと女の子は別々の存在でした。
もともと自分が見た夢はもっと素敵な感じだったのに、いざ文章にまとめようとすると全然違うテイストに(笑)
もうちょっと救いのある感じに書きたかったな~と思いつつ、今回はこんな感じでまとめさせて頂きたいと思います。

こんな作品ですが、少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
では、ここまで読んでいただきありがとうございました!


【 その他私信 】
せっかく延長していただいたのに、遅刻してしまってすみません><
次回もまたぜひ参加させてください!


白乙
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