Mistery Circle

2017-07

《 The Moon Wall 》 - 2012.07.21 Sat


 著者:李九龍




 ノルウェー、トロンデラーグ。トルスデン自治区の街の外れにて――



 背の高い針葉樹が生い茂る狭い林道の中、けたたましく酷い騒音を響かせ、砂利の混じる黄色い地面の道の上を、旧式な貨物トラックが通り過ぎて行く。
 木漏れ日の中に舞う、土埃とディーゼル仕様車の排気ガス。そしてそれらを洗い流すかのように吹き過ぎて行く涼しげな春の風。やがて白く濁った粉塵が消え掛かって来る頃、切り崩した小高い山肌を背にして佇む“二人”の姿が見えた。
 一人はおそらくは地元の若者だろう、パーマネントなブロンドの髪を風にたなびかせ、どこかで摘んで来たのだろう紫色の野花を一輪片手でもてあそんでいるラフないでたちの青年。そしてもう一人はその場にはとても不釣り合いな、茶系のスーツに身を包みベンチに腰掛ける若き紳士。
 果たして二人はバスでも待っているのだろうか、スーツ姿の紳士はトランクバッグを横に置き、木製のベンチの端でしきりと時間を気にしている。そして若者の方はベンチの近くの石柱に背を預けるようにしながら、時折その紳士を盗み見ていた。
 遥か頭上、険しきラクヴィル山を背景に、甲高い鳴き声の鳥が飛んで行く。そして束の間の静寂。紳士は再び腕時計に視線を送り、深い溜め息を吐いた。
「あんた、旅行者か何かかい?」
 若者が、横目で紳士を見つめながらそう聞いた。
 紳士は顔を上げ、そして空いた隣の席を見た。それからゆっくりと青年の方へと視線を移し、立てた人差し指で自らの胸を指した。
「おいおい、あんた以外に誰かいるってのかい」
 青年は笑う。使う言葉とは裏腹にその笑顔はやけにあどけなく、そこから彼自身の育ちの良さが垣間見られるような気がした。
「あ、あぁ、どうも失礼。見ての通りな、通りすがりの者です」
 愛用のブリムダウン帽の唾に手をかけ、紳士は言う。
「そうかぁ、やっぱりね。もしかしたら隣のクジャートまで行くつもり?」
「えぇ、そのつもりですが」
「なるほど。ひょっとしてこのバス停の場所、町のパン屋か酒屋のばぁさんに聞かなかった?」
「えぇ……まぁ」
「どっちに聞いたの?」
「両方に」
 言うと若者はさも可笑しそうに腹を抱えて笑い出す。
「やられたね。あのばぁさん達、あんたにウソを教えたんだよ」
「えっ、嘘なんですか?」
「いや……ウソと言い切るにはちょっと強引かもだけど」と、青年は言葉を濁す。
「ここのバス停は、日に三本しかバスは来ないんだよ。普通は町の西側にあるオレド通りのバス停から乗る。向こうなら少なくとも一時間に二本は来るからね」
「へぇ、ここは三本だけなんですか」
「この道はエイスケイクに続いてるんだ」青年は道の向こうを指差す。
「バスはここからエイスケイク経由で、ぐるりと遠回りしながら隣町へと向かう。要するに、相当な変わり者の観光客相手な路線バスさ。地元の人間なんかまず誰も乗らない」
「エイスケイクか。いやぁ、いい所ですねぇ」
「どこがいいのさ。昔の城跡だけがわずかに確認出来る程度の、何もない平地だよ」
「素敵な所じゃないですか。かつてはどんな城が建ち、どんな城下町があったんだろうって想像するだけで充分に楽しい」
「なるほど。それで判った」青年は笑った。
「あんた、ウチの町長から頼まれてやって来た噂の考古学者だろ? それならばぁさん達も、喜んで騙しにかかる訳だ」
「ちょっと待って下さい。噂ってどんなですか」
「悪い噂だよ。金で買収された考古学者が、ここいら周辺の土地の値踏みしてるってね。そうして歴史的価値無しって判断されたら一気に町ごと観光地化だ。こんなど田舎にリゾートホテルが立ち並び、森や山は切り崩されて、洒落たバーやらレストランが町中にはびこる事になる」
「ひどいなぁ。でもその噂は、半分程当たってますね」言いながらリュートは、帽子を脱ぐ。
「リュート・D・クロフォードです。アメリカの大学で考古学を教えるかたわら、遺跡調査員もしております。どこに行っても現地の人に嫌われる、損な職業の人間です」
「あははは。ごめんごめん、嫌ってはいないよ。ただ、ここいら周辺を安く見積もられるのが嫌なだけさ」
 青年は笑い、そして「僕はハベルだ。ハベル・ハルヴォルセン。目下の所、求職中」と、手を差し出した。
「どうもハベルさん。では、バスに乗るには一度町まで引き返した方が良いのですかね」
 立ち上がり、手を握り返しながらリュートは聞いた。
「いや、その必要はないんじゃない」ハベルは手に持った花の匂いを嗅ぐようにしながら、左手側の道の向こうに視線を送る。
「来たよ。日に三本のバスの最終便だ。あれに乗れば、あんたの好きな遺跡を眺めながら、のんびりとクジャートまで行ける」
 リュートはその指差す方向を眺めながら立ち上がる。確かに、遠くのカーブの向こう側から、ゆっくりと近付いて来るバスの姿が確認出来た。
「いや、助かった。今日は宿に帰れないかと思いましたよ」
 リュートが苦笑を交えてそう言うと、「どうして町で宿を取らなかったのさ」と、ハベルは返し、すぐに続けて、「取れる訳ないか」と笑う。
「えぇ、どうやら私は町中の方々に嫌われている様子で」
「そうか、色々と申し訳ないね。じゃあ、僕も町長に言っておくよ。大事なお客さんをあんまり困らせるなってね」
「おや、ハベルさんは町長さんとはお知り合いで?」
「あぁ、僕の親父だよ」ハベルは照れ笑いをしながら言う。
「もっとも、これから親父になるって感じなんだけどね」
 やがてバスは二人の前に停まる。リュートはハベルに、「お先にどうぞ」と促すが、「いや、僕は乗らないんだ」と、ハベルはそれを断った。
「――では」
 リュートは軽く会釈をすると、帽子をかぶりバスへと乗り込む。
 横に長い椅子へと腰掛け、窓の外へと視線をやる。バスがゆっくりと走り出すのと同時に、手に持った花を岩の上へと置き、町の方へと向かって歩き出すハベルの姿が見えた。
 リュートはそれを眺めながら帽子に右手を置き、もう一度小さな会釈をする。彼が去って行った後には、四角の短い柱のような岩だけが残された。そしてその岩の上には、ハベルが置いた花と同じような沢山の野花が、風に弄ばれ揺れていた。

 *

 午後の三時を過ぎた頃、いつも通りにハベルはそこに現れた。
 片手には小さい紫色の花。ハベルはいつも通りに四角の石柱の前に立ち、無人のベンチを眺めて溜め息を吐き出すと、石柱に軽くもたれ掛るようにして腰掛けた。
 誰もいない、誰も来ない、忘れ去られた寂しい街道。日に数度の巡回バスと、その先に続く城址跡を見物に行く物好きな車以外は何も通らない、そんな場所。ハベルはそんな場所に設けられた辺鄙なバス停に、律儀にも毎日同じ時間に現れた。
 それは、やけに静かな空間だった。森の奥から聞こえて来る野鳥の鳴き声さえも、その静寂を醸し出しているかのような印象を与えている。
 ハベルは何をするでもなく、ただそこにいるだけだった。時折、摘んだ花の香りを嗅ぐかのような仕草をする以外は、辺りを見回す事すらもしない。ただただ、“何か”を待っているかのように、そこに佇むばかり。
 そこに変化が訪れたのは、それから一時間と少しばかり経った頃だった。
 町の方から歩いて来る人影を遠くに見付け、ハベルは思わず眉をひそめた。そして向こうもハベルを見付けたか、大袈裟な仕草で帽子を持ち上げてみせる。
「やぁ、こんにちは。またお逢いしましたね」
 声の届きそうな辺りまで来て、リュートはおどけてそう言った。
「またあんたか」ハベルは苦笑する。
「今日はどうしたんだい? まさかとは思うけど、二日も続けて騙された訳じゃないよね?」
「あははは、それもいいですね」リュートは笑う。
「でも残念ながら今日は自分の意志でここに来ました。昨日バスから眺めたエイスケイクの遺跡がなかなか気に入りましてね」
「やっぱりあんた、変な人だ」ハベルもまた、一緒になって笑った。
 リュートはハベルと軽い握手を交わすと、再び帽子を取って軽い会釈をしながらベンチの前を通り過ぎ、そしてハベルとは少し離れたそのベンチの一番端へと腰掛ける。
「ヘイ、リュート。話し辛いよ。どうしてそんな場所に座るんだい?」
 聞けばリュートは少しだけ困った顔をしながら、「えぇ、まぁ。申し訳ありません」とだけ答える。そしてハベルはそんなリュートの行動を拒絶とでも受け取ったのか、軽く肩をすくめてもう一度石柱へと腰掛けると、すかさずリュートは、「誰かを待っているのですか?」と、ハベルに聞いた。
「いや……まぁ、そんな所だけどね」
 困りながらそう返すと、リュートはすかさず、「女性ですね?」と、言葉を継ぐ。
「男が健気に人を待ってるのなら、そりゃあやはり、相手は女性だろうね」
 ハベルの言葉にリュートは、「真理です」と、指を立てておどけてみせた。
 そしてしばらく、沈黙が続いた。バスがやって来る気配はまだない。もちろんそこに誰かが通り掛かる事もなければ、待ち人である女性が姿を現わす事もなかった。
「どう? まだしばらくは仕事続くの?」
 沈黙に耐えきれなくなったのか、ハベルがぼそりとそう聞いた。
「いえ、もうそんなに仕事は残っておりません。長引いても、後二日ぐらいで終わりそうです」
「そうかぁ。それで、どうなんだい? やはりこの辺りは、掘っても何もなさそうな感じなのかい?」
「えぇ、何もないとは言えないのですが」リュートは少しだけ口ごもる。
「ただ、開発中止に追い込める程の重要さはなさそうですね。大変、心苦しいのですが」
「別にリュートが心苦しく思う事はないじゃない。調査員としての立場上、正しい目でそう判断したんだろう?」
「そうですね。調査員としての見解はそうなのですが、考古学者としての私は、開発に多いに反対なので」
「へぇ、考古学的に見て、ここは何か魅力的なものがあるのかい?」
 聞けば、「もちろん!」と、リュートは大きな声を出す。
「ここは、町の全てが素晴らしい。私は一目見て感動しました。個々の家々が、なんて作りをしているんだろう、なんて美しい並び方をしているんだろうってね。私に言わせてもらえれば、この町全てが考古学的に意味がある。そんな素晴らしい土地です」
「ありえないよ」ハベルは笑った。
「リュートが知らないだけだ。それこそ町自体になんの価値も無い。この町の家屋の全ては比較的新しいものばかりだよ。なにしろ国の内乱の火の粉を受けて、何度も何度も破壊されているからね」
 ハベルが得意そうに言うと、「あぁ、最近ではイェフト内戦ですね」と、リュートは返した。
「あれは酷い内戦でした。モラルも正義も何もない。被害を受けたのは国民ばかりで、結局、国自体は何も変わっていない。おかしな話です」
「あははは。まるで見て知っているかのように言うね。もう既に二百年以上も前の事なのに」
 ハベルが言うと、「まだたったの二百年です」と、リュートは落ち着いた顔でそう返す。
「この国の長い歴史の中のエピソードの一つとして考えてみれば、ほんの僅かな短い時間の事です。衰退、消滅、破壊など、どこにでもある当たり前の話ですよ。この地の歴史を語る上で、それはさしたる重要な事ではない」
「へぇ、じゃあこの土地のどこに価値があると言うの?」
「何もかも、全てです」リュートは手を広げてみせる。
「ハベルさんは気付きませんか? あの町の全ては旧西暦以前――それこそ、千年以上も昔からほとんどその風景や外観を変えていない事を」
「さすがに千年も生きてはいないから判らないよ」
 ハベルは苦笑いする。
「変わってないんですよ。実に」リュートは構わず話を続ける。
「向こうのひらけた場所にエイスケイクの城が建ち、それを取り囲むようにしてトルスデンとクジャートの町がある。“ムーンウォール”。三日月になぞらえた、エイスケイクの城下町の名残です。それが証拠にトルスデンの町を一本道で貫くメインストリートは、エイスケイクを中心として眺めながら大きな円を描くように緩いカーブをもって続いている。要するに、城を起点とした環状線です。町並みの一つを取っても、それは歴史と言うものを教えてくれている」
「へぇ、そうなんだ。知らなかった」
「それは街道だけに限りません。立ち並ぶ一つ一つの家屋も皆、昔の面影を色濃く残しています。何度破壊されようが、再び人々の記憶のままによみがえる素晴らしい町です。貴重な文化財として町の開発を差し止める程の重要性は持ってはいませんが、もしもあの町の風情が変わって行くとなると、それはちょっと哀しい事ですね」
「それはそれは……」ハベルは小さく手を挙げる。
「嬉しいよ、ありがとうリュート。僕の住む町の事を良く思ってくれていて、ちょっと感動したよ。出来れば町長に向かって、直にそれを言ってくれればもっと嬉しいんだけど」
「言いましたよ。でも全く聞き入れてはくれませんでした」
「やっぱりね」
 ハベルは苦笑する。
「どうやらハベルさんのお父様は、その昔の面影を連想させる町並みが嫌いらしい。何故にそう躍起になって町を変えようとしているのかは判りませんが、その決心はなかなか動きそうにないですね」
「あぁ、確かにそうだね。彼は非常に頑固だし、そして何もかもに対して強硬的だ。おかげで僕までもが、彼には振り回されっぱなしだ」
「息子さんなら仕方のない事でしょう」
「いや、まだ息子じゃないよ。でも、すぐにそうなる。面倒臭い話だけど」
「すぐに……とは? 差支えなければ」
「差支えもなにも無いよ。要するに、彼の養子になるんだ。結婚相手は町長の三人娘の長女。美人だけどわがままで世間知らずで泣き虫な娘さ。何で彼女が僕なんかを選んだのかは判らないけど」
「へぇ、それはおめでとうございます」
「ありがとう。でも全然めでたくはないよ。僕は生涯、自由な身でいたかったのに」
「ふぅん」
 頷きながらリュートは自らの唇を指でなぞる。それは彼が考え事をしている時のいつもの癖のようなものだった。
「――昔、ねぇ」ふいにリュートは語り始める。
「この地で大きな戦があったんですよ。それこそ、当時の町のほぼ全てが壊滅的被害を受ける程の大きな大きな戦です」
「さっき言ってた、イェフト内戦の事かい?」
「いえいえ、それよりももっとずっと昔の話です。まだこの地が、トルスデンと言う名前になる前の話で」
「ふぅん。なんかやけに話が途方もなくなってない?」
「時代はまだ、王制だった頃の話です。当時この国は、周囲の様々な国に狙われておりましてね」
「へぇ、どうして?」
「広範囲に渡って、海に面しているからですよ。まだ世界の地図が大きく塗り替えられる前の話ですからピンと来ないかも知れませんが、当時は内陸部の国々にとってはまさに憧れの地だった」
「まぁ、そうだろうね。と言っても、この国は海に追いやられていると言った方が正しいような気がするけど」
 ハベルはそう言って笑う。
「時代の王シグルツェソンは、屈強たる各国の侵略者達を退けた」リュートは続ける。
「当時は無敵の王だったそうです。自ら剣を取り、どんな国のどんな軍隊にも応戦し、そして勝ち続けた。だが、そんな無敵の国王とは言え、寄る年波には勝てない。自らの老いを感じ、息子に王位の全てを譲ろうとしていた矢先に、国は落とされました」
「ふぅん……なんかその話、昔、学校で習ったような気がするなぁ」
「もしも、ね」リュートは指を立てる。
「もしも今、その当時のシグルツェソンの“王冠”が発見されたら――事態は好転するかも知れませんよ。きっと町長だって、無暗に町を観光地化しようだなんて思わない筈です」
「本当かい? でも、当時の王冠だなんて、実際にどこかにあったりするのかな」
「判りませんけどね」リュートは再び、唇をなぞりだす。
「でも、その時の王の冠が忽然と史実から消え去ったのは間違いありません。国が滅んだと同時に消えた、興味深い“王の証”です」
「へぇ――」
 そして会話は途切れる。やがて遠くからガタゴトと鈍い音を響かせて、砂利の道をバスがやって来た。
 前日と同じように、二人はそこで別れた。前日と同じようにリュートは軽い会釈と共にバスへと乗り込み、ハベルはそれを見送り歩き去る。石柱の上に一輪の花を置き、残念そうに背中を丸めて町へと向かう道を行く。
 走るバスの中、リュートはそれを眺め、そして意を決したように、「あの、すみません」と、二人きりしかいないバスの中、運転手に向かってそう声をかける。
 ハベルは知らない。背を向けた道の遥か先の方で、走り去った筈のバスが停止した事を。そしてそれから数分後、先程のバス停の前に再びリュートが訪れた事を。
 リュートはバス停のベンチの前に立ち、帽子を脱いでそれを胸の前に掲げる。
「こんにちは」
 きっとそう言われた誰でもが笑顔で挨拶を返しそうな程の、優しい笑みだった。そして――彼女はそれに応えた。
 二度、三度、周りを見渡した後、ベンチの端に座る“彼女”は自分の胸に手を当てて、「私?」と、聞いた。
「あははは。他に誰かいらっしゃいますか?」
 言われて彼女はぼんやりと、「どうして?」と聞き返す。
「どうして――とは?」
「あなたには、私が見えているのですよね?」
 聞かれてリュートはにやりと笑って俯いた。そして、「“彼”には、見えてなかったようですけどね」と、静かに答える。
「もしかして、昨日から?」
「えぇ、昨日から。最初からずっと見えておりましたよ」
「――不思議ですね」と、彼女は困った表情で笑った。
「正確に数えた訳ではないのですが、私に声を掛けて下さった方はここ数十年程いなかったのに」
「それはそれは。どうやらこの国の男性方はかなりのオクテのご様子だ」と、リュートはおどけてみせた。
 彼女は笑う。口に手を当て、本当に可笑しそうに。
 年の頃は、二十代の半ばぐらいだろうか。季節的に少しだけ違和感のある厚手の長いコートを羽織ったその女性は、その裾から更に長めの白い衣装をはみ出させている。
 ブルネットの長い髪と、雪のような染みの無い白い肌。その表情は知性と才気に満ち溢れているようで、とても魅力的に見えた。
「あ、えぇと。私は米国で――」
「リュートさんね。大丈夫よ。ちゃんと聞いておりましたわ」リュートの言葉をさえぎり、彼女は言った。
「私は、アドレアナ。――アドレアナ・ダール。よろしく、リュートさん」
 そしてリュートは、「よろしく」と手を差し出してから、ハッと気付く。だがごく自然にアドレアナはその手を握り返し、軽い握手を交わした。
「……」
「どうされましたか?」
 アドレアナは聞く。
「いえ」
 とだけ言って、リュートは先程と全く同じ、アドレアナとは反対側のベンチの端に腰掛けた。
 両手をせわしなさそうに揉みながら、たっぷりと困惑した後、「あの」と、リュートは切り出した。
「あなたは――」
「わかりません」
 リュートの質問の意味を察したか、言い終わらない内にアドレアナは返す。
「気が付けばこうでした。多分私は、幽霊でもなければ人でもない。ただ、延々と空気のようにここに存在し続けるだけ。今しがたあなたが感じたように、私の姿が見える方には普通の人と同じように言葉を交わせるし、触れる事も出来る。でも実際は……私自身がどんな存在なのかが全くわからないのです」
「ふぅん」
 さすがのリュートも困った様子で、片手を頬に当て、組んだ足の上に肘をつく。
「でも、きっとあなたは相当に特別な方なんだと思います」アドレアナは、前方を見据えそう言った。
「もう私の目はほとんど何も映しません。今この目の前に人がいて、その人が私を見る事が出来ないのなら、私も同様。ただぼぅっとした影が微かに映るだけなんです。そしてこの目の前の風景も同じで、ひどく曖昧で霧がかかった様。でも何故かあなただけは他の方より鮮明に見える。もうこれだけで、あなたが特別である事が凄く良くわかります」
「光栄ですね。女性に特別だと言われる程、嬉しいものはない」
 リュートは笑う。そうしてふと何かを思い出したかのようにして、「もしかして」と、続けた。
「さっきまで横にいたハベルと言う男性は、あなたを待っていたのでは?」
 聞けばアドレアナは、「多分――そうでしょう」と、静かに答えた。
「ここ最近、ずっと私の横に誰かが立っていたのは気付いていました。そしてなんとなくですが、それは彼ではないかと言う期待もありました。でも昨日、久し振りに彼の声を聞き、それが確信に変わりました。リュートさん、全てはあなたがここへと来てくれたおかげです」
「なるほど。そして彼もまた、あなたをここで待っていた。――違いますか?」
 聞けばアドレアナは少しだけ照れたような表情を浮かべ、「そうだったら嬉しいです」と、答えた。
「一本、宜しいですか?」
 リュートは胸ポケットからシガレットのケースを取り出し、アドレアナに聞いた。
「どうぞ、お構いなく」
 オイルライターで火を点け、リュートは煙をくゆらせる。春の風が、その紫煙をゆっくりと押し流して行く。
「最後に、彼と逢ったのは?」
 聞けばアドレアナは少しだけ考えた後、「おそらくは三年程前の事だったと思います」と、答えた。
「彼がまだ学生だった頃の事でしょう。どうしてここを通ろうと思ったのかは定かではないのですが、夕暮れ前の午後にふと、彼がここでバスを降りて帰る所に出くわしました」
「ふぅん」
「私を見た彼は、気軽に声を掛けて来てくれました。そして私も、人と会話をするのはとても久し振りで、とても楽しかった。あれは――本当に良い想い出です」
「なるほど」
 アドレアナの嬉しそうな表情を見て、リュートもまた同じようにして笑った。
「それから、彼はいつもここでバスを降りるようになりました。彼は毎日、私に逢いに来てくれました。時間にしたらほんの僅かな十分程度の会話。――でも、嬉しかった。それまでの、永遠にも近いと思える程の寂しい時間が嘘だと思える程に、毎日が楽しかった」
 リュートは無言で、二度、三度と頷いた。
「でもある日、彼は私にこう告げました。遠くの大学へと向かう事になったから、当分の間、逢えなくなると」
 アドレアナは遠い目をして語る。それはどこか寂しさの混じった、憂いのある笑顔だった。
「そして彼は言いました。今度逢った時に、君に大事なことを伝えたい……と。それだけ言い残して」
「……」
「まさか、あれが彼との最後の会話になるとは思いもしませんでした」アドレアナは、立ち昇る煙草の煙を見つめながら言う。
「気が付けばもう私は、彼と以前のように逢えるだけの存在ではなくなっていました。元々、もう私がこの世界に存在していられるだけの時間は、そんなに残されてはいなかったのでしょう。後はただ、その煙のようにゆっくりと消えて行くだけ。仕方のない事です。元より生きている人間ですらなかったのですから」
「それで、良いのですか?」
「私が見えないのですから、どうしようもないじゃないですか」アドレアナは笑った。
「でも、一つだけ心残りがあります。どうして――私はこんな存在にならなくてはいけなかったのか。神は私に、何をさせたかったのか。ただそれだけが気がかりで」
「神に存在の意味を問うなど、非常に無駄な――」
 言い掛けて、リュートはやめた。横目で見た彼女の服装に、少しだけ疑問を持ったからだ。
 しばらくした後、「逢いたいですか?」と、リュートは問うた。
「もう一度、彼に逢いたいですか? 少なくとも彼はあなたに逢いたがっている」
「そう……ですね。どっちとも言えないです」アドレアナは困った表情で言う。
「逢いたくはあるのですが、逢っても仕方の無い事だし、余計に心残りが増えるだけだし」「……」
「それに、どうやったら再び前のように彼の姿が見えるようになるのかが判りません。ごく稀に私が見える方がここを通り掛かったりする事があるのですが、あれもどうしてなのか――」
 リュートは突然、立ち上がる。そして帽子をかぶりながら、「また明日、ここに来ます」と、アドレアナに告げた。
「どうされました?」
「用事が出来ました」リュートは言う。
「ちょっと調べものがありますので、今日はここで失礼致します。またお逢いしましょう」
 言いながらリュートは早足でそこを立ち去った。
 どう言う訳か彼が向かう方向は、町へと向かう道が続いている方向だった。

 *

「やぁ。あんたは本当に暇な人なんだね」
 ハベルが手を振る。それを見てリュートもまた、手を振り返しながら近付いて行った。
いつもの場所。代わり映えのしない、切り崩した山の中のバス停前。そこには相変わらず、お互いの姿の見えないハベルとアドレアナの二人がいた。
「ハベルさん、お別れを言いにまいりました。私の仕事は本日で終了です」
「そうか。残念だね」ハベルは少しだけ哀しそうな表情で言う。
「これからも毎日、リュートがここに来るような気がしていたんだけど、それも今日で終わりか」
「えぇ、残念ながら」
 そう言って二人は、手を握り合った。
「それで、結果の方はどうだったの? やはり町の開発は進む方向?」
「えぇ、審査上はどこを掘り返しても全く問題ありません。――但し」
「但し、何?」
「おそらく、開発は進まない事でしょう。色々と状況が変わりました」
「変わったって――どんな?」
「ご存知ありませんか? 昨日、首都の方で大規模なクーデターが発生しました」
「あぁ、ニュースで観たよ。新政権の発足が気に入らないとかで、反対派が何か行動を起こしたみたいだね」
「えぇ、下手をしたら色々な場所に飛び火します。ならばさすがに今、町を開発する訳にも行かなくなります」
「なるほど。――まぁ、中止しても僅かな期間なんだろうけど」
 ハベルは手にした一輪の花の香りを嗅ぎながら、さほど関心を示さないような顔でそう返した。
「この国は、ある時から急に内乱が多くなりましたね」
「あぁ、そうみたいだね。あまりこの国の歴史には詳しくないけど」
「時代の王シグルツェソンは――」ふいにリュートは話し始める。
「ただ一度の敗戦で、その命を落としました。それからと言うもの国の君主は幾度も変わり、その都度政権も不安定となって行きます。今あるこの国の不安定さも、元を辿れば大体その辺りに行き着きます」
「ふぅん。まぁ、わからない事でもないけど。でも結局、リュートは何が言いたいんだい?」
「要するに――あれ以来、この国では正当な君主と言うものは存在していない。そこが問題なのです」
 ふと、ベンチの端に座るアドレアナが顔を上げた。その顔は、驚きの表情に満ち溢れていた。
「正当って……どう言う意味?」
 ハベルの問いに、「戴冠式が行われていないのですよ」と、リュートは簡潔に答えた。
「昨日言った通り、時の王の死と共に、冠がどこかへと消えてしまっているのですよ。したがってそれ以来、正式な戴冠式と言うものは全く行われてはいない。要するに、正当な王位継承はその時以来、一度も無いと言うわけなのです」
「なるほど、王冠ねぇ」ハベルは呟くように言う。
「でも、その冠が無い以上、どうしようもない事なんじゃあないのかな。冠が見付からないのなら、未来永劫、正当な継承者は現れないと言う事になる」
「いいえ、実はそうでもないのですよ」リュートは返す。
「国の戴冠に関する絶対的な規則はただ一つ。選出された神官による王位の承認。ただそれだけが正当なる君主の条件なのです」
「え――それだけ? じゃあ、冠なんて特に必要無いじゃん」
 そんなハベルの言葉に、アドレアナはくすりと笑う。どうやらハベルの声だけなら一方的には聞こえるらしい。
「まぁ、簡単に言えばそうですね。だが戴冠式に冠が無いと言うのも、ちょっと寂しい気がしますがね」
「でも……そうだね。この国に内乱が絶えないのは、君主たる存在に正当性が無いからなのかな。尤も、僕にはあまり興味のない話だけど」
 そう言ってうつむくハベルに、「逢いたいですか?」と、リュートは唐突に聞いた。
「ハベルさん。彼女に逢いたいですか? ずっとここで待ち続けているその人に、もう一度逢いたいと願いますか?」
 一瞬の間を置き、「あぁ、うん」と、ハベルは答えた。
「逢いたいよ。でも、きっと無理さ。彼女が一体どこの人で、どこに住んでいるのかも判らない」
「確かにそうですね」リュートは言う。
「でも、もしかしたら奇跡は起こるかも知れない。奇跡とは、それを信じて待ち続ける人にしか訪れないものです」
「そんなもんかねぇ」
 ハベルは笑った。
「ところでハベルさん、あなたの結婚式とはいつ頃なのですか?」
「いつ頃って――明後日だよ。実は僕もリュート同様、ここに来れるのは今日が最後って話さ」
「二日後ですか。ギリギリですね」
「ギリギリって、何が?」
「あぁ、いえ。こちらの都合の事です。ではハベルさん、その日、僅かばかりの時間で結構です。もう一度ここに来ていただけませんか。たった一人で」
「結婚式を抜け出して来いって? ――うん、わかった。但し、来れるのは午前中の比較的早い時間になるかも知れない」
「構いませんよ。こちらもそれに間に合わせます」
「良く……わかんないけど、とりあえず約束は守るよ」
 言ってハベルは花に軽くキスをして、いつも通りに石柱の上へとそれを置いた。
「じゃあ」
 振り向きながら手を挙げて、ハベルは町の方向へと歩いて行く。途中、一度だけこちらに向き直りハベルは言った。
「ねぇ、リュート。僕の結婚は間違っているのかな。町長の娘は嫌いじゃないけど、心から愛せそうにも思えないんだ。こう言うのは――なんか違うのかな」
「いいえ」リュートは答える。
「合ってるも間違ってるもないと思いますよ。きっとその結婚だって、あなたが本気で嫌がっているのなら、拒否する事だって出来た筈です。でもそうじゃないのなら、単にその決断に不安があるだけの事。あなたはもう自分自身で選んでいるんです。正解は、あなたの心の中次第ですよ」
 ハベルは頷き、無言で手を挙げ、そして今度こそ、そこを立ち去った。
 再び二人だけとなり、リュートはハベルを見送る姿勢のまま、「ダール神官長」と、呟いた。
「良く――調べましたね」
 アドレアナは言う。
「意外と簡単でした。そのコートの下から見え隠れしているローブの模様は、まだエイスケイクが存在していた時代の神官のものだ。自然、あなたの名前からそこへと行き着く」
「まさかそんな少ない情報だけで、千数百年もの昔の神官を特定するだなんて、思いもしませんわ」
「半分以上は勘でした。でも今、あなた自身が白状した」
 言うとアドレアナは両手で口を押さえて、ふふと笑った。
「エイスケイクは、どんな所でしたか?」
「素晴らしい所でしたよ」アドレアナは即答する。
「優雅で洗練された、芸術品のような城。そしてそれを取り囲むようにして立ち並ぶムーンウォールの町並みと城塞、城壁。城の背後には神々が住まうと言われる険しきラクヴィル山。町には海の幸から山の幸まで、数多く撮り揃えられた店々の食材。至る場所から香って来る、焼き立てのパンの匂い。素晴らしい――本当に素晴らしい町でした。目を瞑れば、今でもそれらがありありと思い浮かびます」
「そうですか。その当時を知るあなたが羨ましい」
 リュートもまた釣られて、昔を懐かしむような表情となる。
「エイスケイクの城内に、ネノクシュと言う名の教会がありました。そして私の父がそこで神官長を務めていたのですが、国王の退位に伴い、父もまた私にその神官長の座を譲りました。そうして私が新国王の戴冠式の儀を務める事になったのですが――」
「えぇ」
「もう、そこからの記憶がありません。何か、物凄く怖い何かが起こったような気がするのですが、そこからまるで思い出せません。そうして気が付けば、私はここにいました」
「……」
「一体、神は私に何をさせたかったのでしょう。そして何を見せたかったのでしょう。こうして何の意味もない千年以上もの歳月を費やし、私に何を成し遂げよとおっしゃるのでしょう」
「そんな事は考えない方がいい」リュートは言う。
「神は何かを与えたりはしないし、何かを奪うと言う事もしない。ただ、神はそこに存在するだけです。あなたが今ここにいると言う事でさえ、それは神が与えた試練でも罰でもありはしない。尤も、神官に対して言うべき事でもないのでしょうが」
「いいえ、わかってますよ」アドレアナは苦笑いする。
「神はなにもしない。それは良くわかっております。あれだけ毎日熱心に祈り、捧げて来ても、結局は暴力の前に何の加護も与えてはくれなかった。そう、あんな慈悲無き横暴に対してさえ――」
 言いながらアドレアナは片手で自らの顔半分を覆う。
「何か、思い出されたのですか?」リュートが聞けば、「えぇ、少しだけ」と、アドレアナは答えた。
「なんだか一瞬だけ、物凄く恐ろしいシーンが頭の中を駆け巡りました。あれはもしかして、戴冠式の時の一場面だったのかしら」
「そうかも知れませんね」リュートは言う。
「あなたは……ご自身の最期についても何も?」
「えぇ。幸か不幸か、何も。むしろ――私が死んだものかどうかすらまだ疑問なのです」
「そうですか」
 と、リュートが顔を背けたと同時に、「教えて下さい」と、アドレアナは言った。
「リュートさん。あなたはきっと、全てを知った上で再び私の前へと訪れた筈です。もしも私にその意志があるのなら、その全てを告げようと決意してここに来られた筈です。そして私の意志は、既にあります。だから――どうか」
「良いのですか?」リュートは、アドレアナが言い終わらない内にそう聞いた。
「あなたはご自身が非常に曖昧な存在だとおっしゃっておりましたが、実際は人としての生涯は全うしている方です。そしてその全てを知りたいと願うのならば、自らのその最期のシーンにも向き合うと言う事です。その覚悟は本当におありですか?」
「えぇ、怖い事ですが、覚悟は出来ております」アドレアナは告げた。
「むしろ何も知らないまま消えて行く事の方が怖い。どうして私がこうなってしまったのか、それすらも知らないままで無になるのが怖い。ならば――それが例えようもなく酷い事実だったとしても、私はそれを知りたいと願います」
「それがあなたの二度目の“死”となるとしても?」
「――えぇ、もちろん。例えそれで絶望のままに消えて行くとしても、です」
「なるほど。それは相当の覚悟ですね」
 言いながらリュートはジャケットの内ポケットから小さな包みを取り出すと、それをベンチの上へと置き、立ち上がった。
「どこへ――」
 言い終わらない内に、アドレアナは自らの口を両手で塞ぐ。そして、まるでリュートを見失ったかのようにして辺りを見回し始めた。
「やはりこれですね」
 リュートは再びその包みを手に取ると、アドレアナに向かって笑い掛けた。
「リュートさん、今のは……?」
「お見せいたしましょう」
 リュートは赤いリボンの付いた綺麗な包装紙を破り始める。そしてその中の小箱から出て来たのは、薄いピンク色をした小さな石の、一組のイヤリングだった。
「それは?」
「リチア輝石――クンツァイトと呼ばれる天然石です。尤もこの国では、同じ種類で希少価値のある紫色のクンツァイトを、“皇帝石”と呼び、有難がっていたそうですね」
「……!!」
「きっと、あなたと私がこうして会話出来るのはこの石の力に依るものでしょう。元々この天然石は世界でもごく限られた一部でしか産出する事が出来ない上に、当時の国王がこの石の輸入を禁じていた。王族のみ持つ事が出来る証の一部としてね」
「えぇ、知っております。そしてそれも、王の持つ冠と記章のみに使われていました」
「そのおかげで、あなたを見る事が出来る人間が限られて来た訳です」リュートはそのイヤリングを、アドレアナに手渡した。
「もしかしたらあなたと会話が出来たのは、ハベルさん以外では旅行者ばかりだったのでは?」
「え? ……あぁ、そう言えば何だか、言葉の通じない海外の方々ばかりだったような」
 アドレアナはそれ受け取りながら返事をする。
「やはり、ね。きっとそれは、たまたま相手がその石を持っていたからこその奇跡だったのですよ。それが証拠に、この町の中であなたを見たと言う人はほとんどいない。要するにこの町の人々は、今もってクンツァイトを所持する事はいけない事だと考えているからこそです。従って、あなたの姿を見る事が出来る人間は限られて来る。この町のしきたりに従う必要のない人、要するに、私みたいな旅行者ばかりとなる」
「では、ハベルはどうして――」
「そこは私にも良く判りません」リュートは言う。
「ただ、その石の力のみがあなたを現存させる唯一の方法らしいですね。ホラ、今みたいにあなたがその石を持っていれば、きっと誰でもあなたの姿が見える筈。そう、それがハベルさんであってもね」
「……」
 そしてしばらくの沈黙の後、「わかりました」と、アドレアナは静かに言った。
「では、もう一度だけ彼に逢えるのですね。私が消えてしまうその前に、もう一度だけ」
「えぇ。でも……それが本当に最後の逢瀬になりますよ」リュートは返す。
「私がこの国に滞在していられる時間はもう残り僅かでしかない。そして五日後にはこの道は拡張する為の工事が入る。従って、明後日彼と逢ったその後は、すぐにあの石柱を退かさなくてはならない」
「石――? あれが何か?」
「あれは……」
 リュートは言い淀み、そしてしばらく考えあぐねた後、アドレアナと目を合わせないままの姿勢で、「あれは、あなたです」と、答えた。
「実際にはあれは石じゃない。溶けて固まった鉄の塊です。当時の職人が上手に表面処理を施してくれたおかげで、今以て崩れる事なく現存している鋳造品です。尤も、長年風雨にさらされてしまっていて、きっと中まで腐食が進んでいる事でしょう。あなたの力が弱まっているのは、多分それが原因です」
「……」
「どうしてあなたがそのクンツァイトと共鳴するのか。それは、一緒に溶けた皇帝石があなたに力を貸しているからなのかも知れません。神の加護は、確かにそこにあったのですよ」
「あれは……私?」アドレアナはよろけるように立ち上がり、その石柱の前へと移動した。
「皇帝石……あぁ、そうだわ。私はそれを持っていた。誰にも渡したくなくて、私はそれを持って逃げ出した。そして――」
「そう。あなたはその戴冠式の時、冠を持ったまま単身、逃げ出した」リュートは続けた。
「どちらも敵の手に渡す訳には行かなかった。どちらか一つでも敵方の手に渡れば、正式なる国王を承認する手続きが踏めてしまう可能性があるからです。そしてあなたは走った。走って走って、町の端まで辿り着き、そして敵兵に取り囲まれる」
「あぁ……」うめくようにしながら、アドレアナは手で顔を覆う。
「そう。私はもう走れなかった。通りのあちこちに兵士の姿が見え隠れして、私はどこかへと姿を隠そうと」
「そう、そしてあなたはとある工房へと逃げ込んだ」
「――えぇ」
 アドレアナは、その石柱をゆっくりと手でなぞり始めた。
 撫でながら時折、目の端をローブの袖で拭いつつ、何度も何度も愛おしそうにその石柱をなぞった。
「冠と私の身体は、ここにあるのですね」
 アドレアナの言葉に、「はい」と、リュートは答える。
「あなたが逃げ込んだ場所は、刀剣を専門に扱う鍛冶屋でした。あなたを追い、家屋にまで踊り込んで来る兵士達の前で、あなたは決断をします」
「えぇ、思い出しましたわ。炉に――飛び込んだのでしょう?」
「……」
「迷う暇もありませんでした。私と言う存在にどんな意味があるのかも充分にわかった上での決断でした。私は胸に冠を抱いたまま、その炉の中へと身を投じました」
「――なるほど」リュートはせわしなく手を動かしながら、返答を迷いつつそう返した。
「つらい決断でした。だがおかげで、正当なる国王の座は守られた」
「でもそのせいで、この国の内乱が今も尚続いているのでしょう?」
「それは……まぁ」
「でも今更、冠を返せと言われても無理な事ですね。私はあさはかな事をしてしまったようです」
 そして再びの沈黙。先に口を開いたのはリュートの方だった。
「この石柱――いや、鉄柱と呼んだ方がいいのか。その時の様子を知っていた町の何人かが、あなたのその想いを汲み、エイスケイクの跡とその城下町が望める、小高い丘の天辺にこれを祀りました。だがある時、町から城址跡までこの道を向こうまで走らせようと計画された際、今度はこの鉄柱が邪魔になります。これはまさに、その道のど真ん中に位置していたからなのです。おかげでこの鉄柱は、こんな辺鄙な場所に置き去りにされる事になってしまった」
「あぁ、なるほど。色んな偶然が重なって、私は今ここにいるのですね」
「そうですね。さぁ、急がなくては。工事が始まれば今度はあの鉄柱はどこかへと移動される事もなく打ち砕かれてしまいます」
「構いませんよ」アドレアナは笑った。
「それはそれでいいじゃないですか。どのみち私はもう僅かしか存在していられなさそうです。それに――最後にまたハベルと逢えるのであれば、それでもう心残りはありません」
「しかし」リュートは言った。
「あなたには……いや、あなたが今ここに存在している事には、何かの意味があったのでしょう。そしてあなたもそれが何かを知りたがっていた。それを断念して、消えてしまっても良いのですか?」
「えぇ、少しだけ哀しいですが、もうそれで結構です」
「……」
 リュートは黙って立ち上がり、そして、「二日後、またここに来ます」と、アドレアナに告げた。
「とんでもなく邪魔者になってしまうでしょうが、その際には同席させて頂きたい。あなたが心変わりする事を願って」
「えぇ、お待ちしてます。では――二日後に」
 リュートは立ち上がり、「では」とだけ言って、その場を立ち去った。アドレアナは、早足で町の方へと向かうリュートを、無言で見つめるだけだった。

 *

 土埃を撒き散らしながら、一台の車がやって来た。それは真っ白なスポーツタイプのオープンカー。太いタイヤで砂利を掻きながら、やがてそれは、二人の前で停車した。
 最初、ハベルはその運転席でハンドルを握り締めながら、呆気に取られたような表情をしていた。そうしてようやく我に返ったか、ハベルはのろのろとサイドブレーキを引き、軽やかとは言い難い動作で車を降りた。
「まさか――」
 呟くハベルは、本当に結婚式を抜け出して来たのだろうか。真新しい白のタキシード姿だった。
 ハベルは車を回り込み、そして彼女――アドレアナの前へと立った。そしてもう一度だけ、「まさか」と呟いた後、「アドレアナかい?」と、問う。
「えぇ」
 アドレアナは答えた。髪を軽くかき上げ、照れ臭そうに「ハベル、お久し振りね」と笑うアドレアナの耳には、リュートが貸したのであろうクンツァイトのイヤリングが光っていた。
 それはやけにぎこちない逢瀬だった。抱き締めあうでもなければ、手すらも握らない。ただお互いに無言のまま相手の反応を伺うだけのような、やけに不器用な再会であった。
「あの――」
 ハベルが言い出し掛けるとアドレアナはハッとした表情で顔を上げ、そしてまた黙る。あぁ、この二人には特に会話は必要無いのだなと察し、その少し後方で二人を見つめるリュートは、軽く微笑んだ。
「ハベル……ご結婚おめでとう」
 しばらくの沈黙の後、アドレアナは言った。そしてハベルはひたすら困惑した表情で、「ありがとう」と、小さく呟いた。
「知ってたんだ?」
「えぇ……」と、アドレアナは振り返る。
「彼とあなたが会話していたのを聞いてたわ」
 言って初めてハベルは気付いたのか、「リュート!」と、驚いたような声をあげる。
「ひどいな。いつからそこにいたんだい?」
「最初からずっとおりましたよ」
 リュートが笑えば、「そんな恰好じゃあ、あんただって気付けないよ」と、ハベルも笑った。
 確かにそれはいつも通りな彼の服装とは異なり、車の修理でも始めようかと言う具合な、デニム生地のツナギの服を着込んでいた。
「どうやら私は大変お邪魔だったようですね。気が利かずに申し訳ない事をしました」
 リュートが言うと、「とんでもない」と、ハベルは言った。
「申し訳ないのはこっちの方だ。彼女以外は全く視野に入ってなかった」
「視野に入っていない割には言葉数が少な過ぎじゃないですか。良かったら私は向こうをむいておりますよ」
 冗談を飛ばすと、二人は笑う。「お気になさらず」アドレアナの言葉に、それはこちらの台詞だと言わんばかりに、リュートは肩をすくめた。
「アドレアナ」
 ハベルは名を呼ぶ。そして彼女は彼に向き直る。
「知っての通り、僕は今日、とある女性と結婚する。――判ってくれると嬉しいんだが」
「判るもなにも無いわ。おめでとう。心から」
「ありがとう」と、ハベルは呟いてから、「上手く言えないけどさ」と、続けた。
「僕はもう一度、君に逢いたかった。なんて言うんだろう……君に対する想いはなんだか異性に対するものとはちょっとだけ違ってて……あぁ、なんだろう。上手く言えないや」
「もういいわ、ハベル。私にもそれはわかるから」
「特別だったんだ――」
 そう言って彼は、ジャケットの内ポケットから何かを取り出した。
 瞬間、アドレアナは両手で自らの口を覆い、そしてそれを遠目に見ていたリュートは驚きのあまり目を見開いた。
「これを……受け取ってもらえないだろうか」
 そう言って差し出されたものは、金と銀の細工でこしらえた煌びやかなメダリオン(記章)。そしてそのメダリオンの中心に嵌め込まれたものは――。
「“皇帝石”」
 思わずリュートは小声で呟く。それはありえない程に大きく、そして洗練された紫色のクンツァイト。この国の人間ならば誰でもが判る、正当な王たる証のメダリオンだった。
「これは……?」
「知らない」
 アドレアナの問いに、ハベルは簡潔に答える。
「知らないが、僕を育ててくれた叔父はこれを渡して、『肌身離さず持っていろ』といつも言っていた。それも物凄い真剣な表情で。だから僕はいつもその言い付けを守っていたんだけれど――」
 ハベルはそっとアドレアナの手を取り、その白く華奢な掌の上にメダリオンを置く。
「きっともう、僕と言う人間にこれは相応しくない。だから君に託す、アドレアナ――」
「ハベル。駄目よ……」
「頼むよ、アドレアナ」
 言ってハベルはアドレアナの手を取り、メダリオンを握らせる。そしてそのままその場でひざまずき、アドレアナの手の甲にキスをした。
「君に託す、アドレアナ。僕のこの命が尽きるまで、僕は君を想い続ける」
「ハベル……」
 そっと伸ばされたアドレアナの左手が、祈るようにして佇むハベルの頬を撫でた。
 見上げるハベルの目には、木漏れ日の光の中で微笑みながら瞳を濡らすアドレアナの姿があった。

 遠ざかる車を見送りながら、「いいのですか?」と、リュートは尋ねた。
「それを受け取ったと言う事は、もう既にあなたにはそれなりの責任と言うものが生じる訳ですよ」
「えぇ――」とアドレアナは、メダリオンを手でなぞりながら言った。
「それは判ってますよ。彼がこれを取り出した瞬間から、覚悟しなきゃって思いましたからね」
「しかしそれ以上に」リュートは困った顔をしながら言う。
「それだけの大きな皇帝石だ。あなたがそれを持っている以上、もしかしたら未来永劫、その存在のまま生き長らえなきゃいけないかも知れない。あなたにはもう二度と、安息の日は訪れないかも知れない」
「それでも構いません」アドレアナは言う。
「託されたのですから。彼は、私にこれを預けてくれたのですから」
 そう言って顔をあげて笑うアドレアナの表情は、神官長としての威厳も何もないような、屈託ない少女のようであった。
「なら、仕方ないですね」
 そう言ってリュートは、ポケットから鈍く光る鍵を一本取り出した。
「では、参りましょうか」
「どこへ……でしょうか?」
「お忘れですか? もうあなたはここには居られないんですよ」
 リュートは、ベンチ横の鉄柱を指差す。そうしてアドレアナもそれに気付いたか、「あぁ」とだけ返答をした。
「もしかして、あの石ごと私をどこかへと運んで下さるんですか?」
「そのつもりですが、どこか行きたい場所があるのなら伺いますよ」
 言うとアドレアナは、「じゃあ――」と、目を輝かせた。

 *

 遥か遠くに望める木々の合間にかろうじて、夕暮れ間近なエイスケイクの城跡とその城下町の痕跡が見えた。
 アドレアナは、「はぁ」と、感極まった様子な溜め息を吐き出した。
「どうです?」
 リュートが聞けば、「まさか本当にここへと来れるだなんて思ってもおりませんでした」と、アドレアナは返した。
 そこは標高千五百メートルを越す、ラクヴィル山の頂。二人は断崖絶壁の端に立ちながら麓を見降ろしてはいるが、その後ろを振り返れば果てしない緑の高原が広がっていた。
「ここが、神の住まう山だと言い伝えられていたのは本当ですね」
 足元に生る赤黒いベリーの実を指先でつまみながら、アドレアナは言った。
「確かにそうですね。向こう側からでは険しい崖の岩肌しか見えない。あれを見た限りでは、誰もここに来ようだなんて思いもしない事でしょう」
 リュートはツナギの袖口で額の汗をぬぐいつつ、そう答えた。
 間もなく、夜が近付いて来ようとしていた。見上げれば既に、おぼろげに見える丸い月が昇っていた。
「文明は、ここまで発展したのですね」
 アドレアナは傍らに停まるジープタイプの反重力車を見上げた。
「いや、発展したと言うか、絶望たる衰退の始まる兆しとでも言うべきか」リュートは皮肉な笑みをもらす。
「今や突き抜けた科学の進歩に対し、供給されるエネルギーが圧倒的に足りないと言う時代に突入しました。世界は不足した資源を奪い合うべく紛争が深刻化し、そして人々の生活は再び――」
「再び? 何です?」
「旧西暦以前なものに戻ろうとしています」
 鉄柱に結わえられたロープを解き、リュートは息を整えながらその地面を足で踏み固め始めた。
「ここまで良くして頂いて、あなたにはなんとお礼を申し上げたら良い事か」
「いやいや、お気になさらず」リュートは鉄柱の座り具合を確かめながら、満足げな表情を作った。
「私は無駄な程のお節介が信条です。特に女性に対しては――ね」
「半分程しか人間でなくても?」
「もちろん。あなたの場合、残り半分は神か精霊だ。ここであなたにコネを作っておかないなんて、大損もいい所ではないですか」
 ジョークを飛ばせば、アドレアナは屈託ない声で笑う。そうしてひとしきり笑った後、「でも、私はあなたに何もお返しする事は叶いません」と、哀しそうな事を言った。
「必要無いですよ」リュートは返す。
「ただあなたがご自身で仰っていた、“存在すべき意味”に、いつか自力で辿り着いてくれれば私はそれで満足です。遠い地で、私もそれを祈っていましょう」
「また、お逢い出来ますか?」
 アドレアナの言葉にリュートは一瞬だけ迷いながら、首を横に振った。
「いえ――申し訳ありませんが、それは約束出来ません」
「そう、ですか……」
「心苦しいお話しですが、この国は当分入国が不可能な状態となるでしょう。実はこの国は近々、かなり大規模な内戦へと突入します。おかげで私も含め、外からやって来た人間は例外なく強制退去させられる事になりました。実際私も早く出て行かないと大変な目に会ってしまいそうでしてね」
「まぁ」
「尤も、再びこの国が安定し、出入国も自由となれば話も別ですが、それが一体いつになる事やら」
 ふと、眼下のあちらこちらで町の灯がともりはじめたのが見えた。
「私に……何か特別な力があればいいのに」
「あなたは充分に特別ですよ」リュートは言う。
「あなたはただそれだけで充分に奇跡だ。何も望まなくても――ね」
「リュートさん……」
 アドレアナは寂しそうに微笑むと、両耳に下がるイヤリングを取り外し、リュートへと返した。
「ごめんなさいね。それはきっと、恋人か誰かへのプレゼントだったのでしょう?」
「えぇ、まぁ。でもおそらく、贈ってもそんなに喜ばないと思いますが」
「まぁ、どうして? 装飾品の類が嫌いな女性なんて、いるのかしら」
「それがまぁ、いるのですよ。ちょっと……ね。その人もまた特殊な女性でして」
「そうですか。まぁ、仲良くやって下さい」
 そう言ってアドレアナは、自らの首に下がる十字架のペンダントを外し、それもリュートへと手渡す。
「――これは?」
「せめてものお礼です。どうか受け取って下さい」
「しかし、これはあなたの……」
「もう必要ありませんよ」アドレアナは言う。
「もう、このメダリオンさえあれば私には何も要らない。むしろこれ以外、何も欲しくない気分なんです」
「そうですか。――では」
 リュートは素直にそれを受け取り、自らの首へと掛ける。そしてごく自然にアドレアナの手を取り、ハベルがしたのと同じようにして、片膝をつきながら手の甲へと口付けした。
「さようなら、神官長。この国の治安の安定をお祈り致します」
「えぇ、ありがとうリュート。あなたに神のご加護がありますように」
 ごく僅かな短い挨拶だけをかわし、そしてリュートは車上の人となった。
 イグニッションキーを回し、軽やかなモーター音の響く中、「寂しくは……」と言い掛けて、「大丈夫ですよ」と、アドレアナにその言葉を阻まれた。
「凄く幸せよ、リュート。ありがとう。全てはあなたのおかげ」
 頷き、リュートは軽く微笑むと、額に手をかざしながらゆっくりと車をホバリングさせた。
 後はなんの言葉も無かった。手を振るアドレアナに会釈をし、そして車はその下部から煌びやかな光を噴出させながら高く高く上昇して行く。そしてやがてそれは満月の夜空に爆発音を轟かせ、一筋の光だけを残しながら闇の中を駆け抜け、消え去って行った。



 ――十八年後

 シロツメクサが一面に咲き乱れ、白い絨毯のようにしながら風にそよぐとある初夏の日の午後。
 アドレアナは崖の端へと立ち、切なそうな表情でその眼下を見降ろしていた。
 その視線の向こうは、燃える木々と立ち昇る黒煙。もはやあのムーンウォールの面影さえも無くなってしまったかのように、町は瓦礫の山と化していた。
 アドレアナの足元には、真ん中から二つに割れて崩れ落ちた鉄柱の残骸があった。心痛めた表情でアドレアナはメダリオンを胸に、祈りの姿勢を取った。
 もう、全ては終わりなのかしら――と、小さく呟いたその時だった。
 ザッと、背後で誰かが立ち止まった足音。アドレアナはハッとして振り向けば、そこにはまだ十代の半ばかもう少し上だろう年頃の青年の姿。
 誰? と、問う暇もなかった。青年はアドレアナが口を開くよりも先に、「神様?」と、聞いた。
 アドレアナは軽く首を傾げ、左右を見回し、それからゆっくりと自らの胸に手を当てて、「私?」と、問い返した。
 果たして青年はここまで自分の足で登って来たのだろうか。その靴も足もやけに汚れ、疲労を色を濃くし残した顔で、ふふと笑った。
「あなた以外、ここに誰かいるの?」
 青年は言う。疲れ果てたその表情とは裏腹にその笑顔はやけにあどけなく、そこから彼自身の育ちの良さが垣間見られるような気がした。
「あなたは?」
 聞けば青年は、「ハミル」と、答えた。
「ハミル・ハルヴォルセン。目下の所しがない学生。尤も……もう通う学校も無くなっちゃったけど」
「ハミル……ハルヴォルセン?」アドレアナの目が驚いたように大きくなり、そして次の瞬間には優しい表情となった。
「そう、良い名前ね」
「神様は?」
「えっ?」
「神様の名前。もしかしたら本当に神様だから名前とか無いの?」
 言われてアドレアナは慌てて自らの名前を名乗る。するとハミルは、「アドレアナ」と、呟いた。
「残念。神様じゃなかったんだ。最初ここであなたの後ろ姿を見た時、あぁ、あの噂は本当だった。ラクヴィル山の頂には本当に神様が住んでいたんだって胸が躍ったのに」
「え、えぇ、残念ね。私はこの通り……普通に人間よ」
 アドレアナはローブの帯にメダリオンを隠しながら言う。そして、「ハミルはどうしてここへ?」と聞けば、「最後に一度だけ、神様の姿を見たかったんだ」と、答えた。
「もう何も無くなっちゃった。町は無い、学校は無い、家は無い。家族も皆死んじゃったし、両親も……」
「両親も、亡くなったの?」
「あぁ、僕を逃がそうとしてね。家の地下から通じる隠し通路に僕を押し込み、パパとママは一緒に亡くなった。酷いもんだよ。慈悲も涙もありゃしない。いくら真剣に神に祈ったって、神なんか結局何もしてくれないじゃないか」
「それは……」違うと言い掛けて、やめた。自分自身、そう思った時期もあったからだ。
「あなたのお父さんは、いい人だった?」
 聞けばハミルは、「あぁ、そうだね」と、顔に付いた煤をこするようにして、袖口で拭った。
「いい人だったと思うよ。厳しかったけど、それ以上に優しかった。銃弾に倒れ、もう虫の息だったママを最後まで庇っていた。二人で……僕が逃げ込んだ通路のドアを隠すようにしながら……」
 言いながら、ハミルは声を殺して泣き始めた。アドレアナはそっと彼の前に立ち、その身体を包み込むようにしながら押し抱いた。

「アドレアナはどうしてここにいるの?」
 草むらに倒れ込み、空を見上げながらハミルは聞く。
「さぁ、どうしてかしら」
「まさかずっとここにいたの?」
「さぁ、どうだったかしら」
「なんだよさっきから。ちゃんと答えてよ」
 ふふと笑い、「ごめんなさい」と、アドレアナは返す。
「そうね、ずっといたわ。ずっとずっとここで、“私はどうしてここにいるの?”って考えてた」
「なんだそれ。良くわからないな」
 ハミルはシロツメクサの花を口に含み、二、三度それを齧っては吐き出す。そうすると、ほんのりと舌の上が甘く感じられた。
「それで? その答えは出たの?」
「えぇ、そうね。出たと思うわ」
 陽気な声でアドレアナは言う。ハミルの横に座り込み、せっせと背の高い花を摘みながら。
「へぇ、どんな?」
「そうね。私は……人を待っていたの」
「人? ここで?」
「えぇ、ここで」
「ふぅん……それで、誰を?」
「さぁ」
「さぁ、じゃないだろ。こんな所で人を待ってたって、誰も来る訳ないじゃないか」
 そう言って飛び起きるハミルに、「あなたが来たわ」と、アドレアナは言った。
「そうじゃなくて――僕はたまたま偶然でここに来ただけさ。この人生の最期に、神様ってのが本当にいるのか見てやろうって感じでさ。僕は君が待ってた誰かじゃない」
「偶然? 偶然かしら。もしかしたら偶然なんかじゃなくて、必然だったのかも知れないわ」
「君は、言ってる事が良くわからないな」
「ありがとう。わかってもらえても困るだけだし、ちょうどいいわ」
 そう言ってアドレアナが空に掲げたのは、シロツメクサで編み込まれた花の冠。その輪の中心に、夕暮れ間近な日の光があった。
「出来たわ。さぁ立って」
「――何で?」
「いいから立って! さぁ、早く!」
「急がなきゃいけない理由が良くわからないよ、アドレアナ。君はちょっと謎が多過ぎないかい?」
 言いながら渋々と立ち上がるハミルの目の前で、アドレアナは上に羽織ったコートを脱ぎ、神官のローブの衣装となって、彼に向かって深々と祈るような礼を取った。
「何……してんだよ、アドレアナ」
 心配そうに問い掛けるハミルに、「しばらく黙ってて」と、アドレアナは厳しい口調でそう言った。
 いくつかの聴き慣れない言葉とその仕草。アドレアナは幾度か胸の前で十字を切った後、「ハミル、あなたを――認めます」と呟き、そして手に持った花の冠をその頭に載せた。
 怪訝そうな顔でアドレアナを見つめるハミル。そしてアドレアナはもう一つ、帯から惹き抜いたメダリオンをハミルのシャツの胸に刺し、「シグルツェソン」と、そう呟いた。
「シグルツェ……何?」
「あなたの名前よ、ハミル。――ハミル・シグルツェソン。前の名前は捨てて、今からあなたはそう名乗りなさい」
「……どうして?」
「もう、あなたには何も無くなったのでしょう?」
「……」
「だからあなたに与えます。ハミル・シグルツェソン。それがあなたの本当の名前。私がずっとずっと待っていた、正当な王」
「王って……」
「お行きなさい」アドレアナは、有無を言わせぬ口調で言った。
「私がここに存在した理由は、あなたに全てを繋ぐ為。あなたのお父様が私に何もかもを託したのも、今この瞬間へと繋げる為。あなたこそが、一度終わった時代を新しく復興させる唯一の王よ。――さぁ、自信を持って」
 アドレアナはその両手を伸ばし、ハミルの顔をその両側から包むようにして、そして――
「!」
 顔を赤くしながら、ハミルは袖で唇を覆い、後ずさった。
 悪戯っぽく笑うアドレアナ。ハミルもまた照れ臭さそうに笑うと、今度のキスはハミルの方からだった。

「一緒に……行かないかい?」
 世界がオレンジの色に染まる中、ハミルは聞いた。
 逆行の中、アドレアナはゆっくりと首を横に振る。
「ありがとう。でも、私は行けないわ」
「まさか、またずっとここにいるつもり?」
 聞けばアドレアナは、「いいえ」と答える。
「私も――帰るわ。だからあなたとは一緒に行けない。わかって、ハミル」
「あぁ」と、ハミルは頷く。
「じゃあ、ここでさよなら。縁があったら――」
 言い掛けてやめる。そして二、三歩程歩いた所で振り返り、「ねぇ、アドレアナ。君は寂しくは……」と、ハミル言い掛けた所で、「大丈夫よ」と、アドレアナはその言葉を阻んだ。
「今は凄く幸せよ、ハミル。ありがとう。だから、もう――振り返らないで」
 ハミルは頷く。そして彼はアドレアナの忠告通り、もう二度と振り返る事もしないまま、オレンジ色に染まる白き花の上を堂々と、歩き去って行った。
 果たしてその時のアドレアナの表情はどんなだったのか。背に夕焼けの光を浴びながら、徐々に、ゆっくりと、その光の中へと溶け込んで行き――そしていつか、魔法の如くにその姿は消え失せていた。





《 The Moon Wall 了 》





【 あとがき 】
え~と……何作目? 多分、十……一か、二作目。そんな新作リュート作品。
かなぁり前から、砂利ばかりの未舗装の道で、ベンチで腰掛け安楽椅子探偵をするリュートと女の子の話を書きたかったんだよな。
なんかそのワンシーンばかりが思い浮かんでさぁ。二人でその道端にある石柱にどんな意味があるのか。そんな事を推理する物語を書きたかった訳よ。
で、叶ったはいいけど当初のイメージとは随分違ってしまったのが余計に面白い。
まぁとりあえず、今年も一年お疲れ様。また来年もよろしく頼む。


李九龍

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