Mistery Circle

2017-11

《 サクラメント 》 - 2012.07.22 Sun

オススメMC 2015  ☆☆☆☆☆☆ 星六つ作品



 著者:Clown






 ペダルが重い。ぎいぎいと、古い自転車の車体がきしむ。涙と汗で顔がぐちゃぐちゃになる。それでも僕は、こいで、こいで、そして坂の上にたどりついた。
 視界が、一気に開ける。
 一面を覆いつくす、桜色。まるで花びらで敷き詰められた絨毯のようだ。緩やかな風が枝を揺らし、無限のパターンを描き出していく。やんわりと干渉しあう枝と花びらがさらさらと音を奏で、互いに囁きあっているようだ。
 僕は自転車を脇に止め、恐る恐る歩き出す。慣れてきたとはいえ、接地感覚の伴わない義足で一歩目を踏み出すのはいつも勇気が要る。それが両足ともなればなおさらだ。太腿に感じる圧迫感を頼りに、ゆっくりと歩き出す。一歩、二歩。十歩を数えるころには、ほとんど違和感なく歩くことができた。緩やかな下り坂を踏みしめ、僕は桜の園へと降りていく。
 少し歩くだけで、じっとりと汗ばむ。春めく陽気のせいだけではない。普段動かなさい体のほうが抗議しているのだろう。頭の中で自分の体に叱咤激励すると、僕は逸(はや)る心を諌めながら歩く速度を維持する。
 境界を越えると、日差しが和らいでほんの少し楽になった。見上げると、桜色の天蓋が僕を誘うようにゆらめいている。幾分湿って柔らかくなっている土の上を、僕は導かれるままに歩く。木漏れ日のレースをかき分けるように進みながら、いつしか僕は首から下げた小さなカプセルをぐっと握り締めていた。
 見えるかい。僕は、ここまでたどり着いたよ。
 カプセルを握る手がほんの少し暖かくなったような気がして、僕は微笑んだ。そうだよ。君がいたから、僕はここに来れたんだ。君がいたから、僕はここまで・・・・・・






               サ ク ラ メ ン ト




「ユーイング肉腫・・・・・・?」
 聴きなれない言葉に、僕の母は鸚鵡返しした。複数のモニターに映された画像の前で、主治医が連れてきた別の医師がゆっくりと首肯する。
「成人までに発症することの多い腫瘍です。手足の骨に出来る事が多く、進行の早い悪性腫瘍です」
「そんな・・・・・・」
 悪性腫瘍、という言葉を聞いて、ようやく母は事態の大きさを飲み込めたようだった。今にも卒倒しそうなほど顔色が悪くなり、後ろにいた看護師が母を支えるように背中をさする。
 僕はといえば、特に何の感慨もなかった。いや、無かったといえば嘘になるかもしれない。動揺はしたものの、心の中には既に諦めに似た感情が棲みついていた。何しろ、僕の両足は今も薬がなければまともに動かせないほど強く痛み、自らの悪性度を主張し続けているのだから。
「稀な病気ですが、中でも両足に同時に発症する事は非常に珍しいのです」
「治療は・・・・・・治療法はあるんですか?」
 すがる様な目で問いかける母に、医師はほんの少し目を伏せた。
「治療は手術か化学療法、または放射線治療になります。ただし、化学療法や放射線治療はそれほど有効ではありません。多少の延命効果は望めますが、根治はまず不可能です。根治の可能性があるのは手術しかありませんが・・・・・・」
「で、でしたら、手術を・・・・・・」
 医師の言葉をさえぎるように、母。しかし、医師はゆっくりと諭すように母に言った。
「手術すれば、息子さんは両足を失うことになります」
「・・・・・・!!」
 息を呑み、母は肩を震わせた。両手で顔を覆い、絶望を嗚咽に乗せる。医師は何も言わず、そのまま待った。彼は僕にも気遣わしげな視線を送ったが、僕はそれにただ会釈を返しただけだ。
 母の様子が落ち着いてから、説明が再開された。腫瘍が骨だけにとどまっているなら、骨を人工骨に置き換えることで足を温存できるが、今回の腫瘍は両足とも骨を食い破って周囲の筋肉にまで及ぶため、足を温存できないこと。足を切断して病巣を全部取り除いたように見えても、血管やリンパ管を通して散ってしまった腫瘍細胞がほかの部位に転移し、再発する可能性が非常に高いこと。それを抑制するため、結局は化学療法を行わざるを得ないこと。そして、それらを全て行ったとしても、やはり完治にいたる例は少ないこと。
 途中から仕事を早退してきた父も加わり、説明は長期に及んだが、結局は変わらない結論について延々と言葉を変えた説明が加わるだけだった。低い完治率、高い治療リスク、そして、それに伴う家族の負担。
 最後に、医師は僕に視線を向けてこう言った。
「どんな治療を選択するにせよ、私たちは全力でサポートします。しかし、選択そのものは私たちにはできない。よく考えて、最良と思える選択をして下さい」
 それが一番難しいことにせよ。そう言い残し、医師は去っていった。母は再び泣き崩れ、看護師に代わって父がその背をさする。僕は去り際に残していった医師の言葉を反芻しながら、ぼんやりと天井を見上げた。
 最良と思える選択。
 僕にはその言葉の意味が良くわからなかった。医師の言葉を要約するなら、僕が生きて大人になれる確率はきわめて低い。唯一完治する見込みのある手術にしても、提示された生存率は5年間で50%を下回っている。当然、手術すれば両足を失う。今は良い義足もあると医師は言っていたが、元のように走り回ったりすることはできないだろう。加えて、化学療法は副作用も強い。それだけでも死に至ることすらあるという。
 当然、放置すれば確実に死ぬ。治療をすれば、それを先延ばしに出来、運が良ければ生きてはいられる。
 生きて、その先は?
 両足を失い、化学療法の苦痛に耐えたその先にあるのは、再発に怯え、失った両足に焦がれ続ける生活しか残らないのではないか。果たしてそれは、死に比べてどれほどの価値があるのだろうか。
 そんな不安定な選択肢しかない中で、最良の選択とは何だろう?
 病室に戻り、父母は僕を気遣う言葉をかけながらも、二人で治療の話を進めていった。僕の意思は、あまり反映される余地はなさそうだ。これまでも、僕の進むべき道は彼らが決めていた。来春から通うことになっている高校も、早いうちからそこを目指して進むよう発破をかけられていた。そこにも僕の意思を挟む余地はほとんど無かった。それに逆らうほどの強い意志がなかったとも言えるのだけれど。
「明日、もう一度ゆっくり話そう」
 そういって、父母は病室を出て行った。僕は一人取り残され、また天井を眺める。明日には彼らの間で結論が出て、僕はその結論に沿った道に進むのだろう。放置という結論はまずありえないだろうから、化学療法か、あるいは手術か。いずれにせよ、僕はもうまともに歩くことも出来ないだろう。片方の足は、既に折れてしまっている。もう片方の足も、少し体重をかければ簡単に折れてしまう。化学療法で仮に腫瘍が小さくなったとしても、骨が元通りにならなければ僕が二本の足で歩ける日は来ない。
 どうしてこうなったのかと問いかけても、それに答えてくれる人はいない。当然、その問い自体に答えは無い。敢えて言うならば、運が無かった。それだけだ。
 体をベッドに横たえ、しばし窓の外を眺める。夜の帳が降り、幾つかの星が遠慮がちに瞬く空と、ギラギラとその存在を主張し続けるビルの明かりと街灯の境界線。交じり合うことの無い二つの光景が、僕の視界を分断する。
 僕は今、どちら側にいるのだろう。
 また足がジクジクと疼き始めた。そろそろ痛み止めが切れる。ベッドの横に据え付けられたテレビ台に転がる薬の中から、痛み止めを取り出す。今日から痛み止めは麻薬に切り替わった。名前を聞いて少し不安はあったが、効果は覿面だった。今まで痛みがあったことを、瞬間的に忘れることすらあった。
 ポットの中の水をコップに移し替え、粉薬を飲み下す。即効性があるわけではないから、これから薬が効いてくるまでの時間は痛みと同居せねばならない。じっとしていると痛みに押し負けそうだったので、僕はベッドから抜け出した。折れた足は固定されているが、無事な方の足は体重をかけると悲鳴を上げるため、なるべく体重をかけないようにゆっくりと床に足を下ろして隣の車いすに移動する。病室は個室のため、多少音を立ててもほかの患者の迷惑にはならない。僕は少し古くなってキシキシとなる車いすをこぎ、病室を出た。
 消灯までにはもう少し時間があったが、人気は少ない。見回りの看護師が僕に気を遣って声をかけてくれたが、僕は痛みを紛らすだけだからと同行をやんわりと断った。まだ明るい廊下を、慣れない車いすで移動する。小児科病棟のため、小さい子供たちの騒ぐ声が時折ほかの病室から聞こえてくる。喧噪を後ろに、僕は廊下を渡る。二度目の角を曲がると、外を見張らすことのできる展望スペースに出る。
 自販機で冷たいコーヒーでも飲もう。そう思って奥に進むと、先客がいた。薄いピンク色のパジャマを着た、髪の長い女の子だ。備え付けのベンチに座って、まだ湯気の立っている缶を両手で大事そうに持つ彼女は、ガラスの先に広がる夜の世界をぼんやりと眺めながら、時折ため息をついている。
 僕は驚かせないようにわざと車いすを雑にこぎ、彼女に背後から人が来ることをアピールした。だが、彼女は余程物思いにふけっているのかこちらに気づくこともなく、ずっと窓の外を見たままだ。
 仕方なく、僕はベンチに座る彼女の後ろを通って自販機の前に移動した。お金を入れ、冷たいコーヒーのボタンを押す。スチール缶が勢いよく取り出し口に放り込まれ、ガコンと音を響かせた。そこで初めて、彼女がびくりとこちらを振り返る。
 深く、吸い込まれるような黒い瞳が印象的だった。少し痩けた印象の頬には、うっすらと赤みが差している。唇は薄いが艶があり、さらりと流れる黒髪によく映えた。
 僕と同年代くらいだろうか。ぼんやりとそんなことを考えたが、ふと彼女と目が合い慌てて視線を下げた。
「驚かせてごめん、すぐ戻るから」
 少しどぎまぎしたのを誤魔化すように、僕はコーヒーを取り出してすぐさま引き返そうとした。けれど、慌てたのが災いして車いすの車輪が自販機の角に引っかかってしまう。なんとなく恥ずかしくなって、照れ笑いのような若干引きつった表情で彼女を見ると、彼女はきょとんとした目をして、それからくすりと笑った。しばらく互いにクスクス笑っていたが、やがて彼女は「よかったら一緒に」とベンチの右隣へと招く。僕は誘われるまま車いすをベンチの横につけた。そこで初めて、彼女が僕と同じ立場にあることに気づく。
 彼女の左側には、使い古された松葉杖。そして、彼女の右膝から下には、だらりと余った布が垂れ下がっている。空虚なそれに注がれた視線を恥ずかしがるように、彼女は少し足を揺らした。
「去年、病気で」
 短く言うと、彼女は湯気の立つ缶の上に視線を落とした。コーンポタージュと書かれたそれに、そっと口をつける。僕はコーヒーの缶を開けると、同じように中身をなめた。独特の苦みが舌をしびれさせ、僕は顔をしかめる。
 窓の外には、相変わらず分断された夜景。煌々と存在を主張するビル群が静寂の夜空に手を伸ばし、星々がその様を見下ろしている。決して届かぬところを目指す彼らを哀れむように。
「僕も、多分そうなる」
 同じく缶コーヒーに視線を落としながら、僕はつぶやく。僕の場合は両足だけど、と心の中で付け足しながら、もう一度コーヒーを口に含む。苦みの中にうっすらと漂う甘みを探し求めながら、僕はそれを飲み下した。
 彼女は「どうして」とは聞かなかった。ただ黙って僕と同じ時間を共有してくれるだけだ。今の僕には、それがありがたかった。ここで理由を聞かれたら、僕は蕩々と説明しただろう。淀みなく答え、答えなくて良いことまで喋り出し、そして深い自虐に陥ったに違いない。今の僕には、それを自制する自信がない。
 しばし無言の時間が過ぎた。互いに自分たちの飲み物を飲み終えると、どちらからともなく席を立つ。僕は少し据わりの悪くなった車いすの上で姿勢を整えると、杖を手に立ち上がる彼女を眺めた。この足がまともだったら手の一つも貸してあげられたのに、と思ってから、それを否定する。この足だからこそ、彼女に出会ったのだ。順番をはき違えてはいけない。
 軽く会釈をして去って行く彼女の背を、僕はしばらく見送った。杖を使って器用に歩いて行く彼女の姿に、僕はほんの少し力づけられる。彼女がどんな病で足を失ったのかはわからないが、それでも歩き続ける彼女の姿を見て、両足と死を天秤にかけていたさっきまでの自分がどこか気恥ずかしく感じられた。
 右手に握りしめていた空き缶を、自販機に備え付けのゴミ箱へと放り込む。カコン、と小気味よい音を立て、缶は吸い込まれていった。

 翌日、僕の治療方針が確定した。
 両足の根治的切断と、再発を予防するための化学療法。両親の出した結論は僕の予想通りで、かつ僕の希望通りだった。自分が果たして両足の喪失に耐えられるのか、そしてそれに続く過酷な化学療法に耐えられるのか、僕には想像もつかなかったが、昨晩の彼女の後ろ姿が僕に一歩を踏み出させてくれた。少なくとも、躊躇はない。
 手術の日取りが決まった。少し時間が空くため、僕はいったん退院することになった。僕の希望で今晩は病院にとどまり、明日朝に退院の予定が組まれた。
 僕の中には、今夜も彼女に会えるのではないかというよこしまな希望があった。今度は彼女ともう少し話がしたい。もしかしたら、彼女ももう退院してしまっているかもしれない。名前も聞いていなかったから確かめようもないが、何となく彼女にはまた出会えるという根拠のない予感が僕の中にはあった。
 夜、消灯前の時間に僕は再び部屋を出た。痛み止めを飲み、車いすに乗り込んで昨晩の展望スペースを目指す。今日は見回りの看護師さんと出くわすこともなく、スムーズにそこまでたどり着いた。はやる気持ちを押させてゆっくりと進むと、長い黒髪が姿を現す。昨晩とは違った萌葱色のパジャマに身を包んだ彼女は、今日もまた湯気の立つ缶を手に窓の外を見ていた。分断された夜景。その境界線で、彼女の髪が揺れる。
「今度は気づいた」
 振り返った彼女が、僕の顔を見て言った。突然のことに、僕はまたもやどぎまぎする。昨晩と同じようにくすりと笑うと、彼女はまた窓の外を眺める作業に戻った。僕は自販機で昨日と同じコーヒーを買うと、彼女の右隣に車いすを止める。
 静寂が、場を支配した。二人が缶の中身をすする音だけが、展望スペースに響く。色々と聞きたいこと、言いたいことがあったはずなのに、それらは僕の頭の中からさっぱり失われてしまっていた。何かを言おうと口を開くが、数回ぱくぱくと空気を漏らした後は完全に沈黙する。
 緩やかに流れていく時間の中、最初に空気を振動させたのは彼女だった。
「足、悪いの?」
 控えめな言葉で、彼女が聞く。見た目にも状態のよくない僕の足だが、多分昨日の僕の言葉を受けてのことだろう。僕は軽く頷くと、ようやく言おうと思っていた事柄の一つを思い出す。
「両足とも腫瘍が出来てるんだって。ユーイング肉腫って言う、悪いやつ」
 そう言うと、彼女ははっとした表情で僕を見た。何か変なことを言ったかなと思ったが、彼女はすぐに視線を戻したため、僕にはそれ以上何も読み取れなかった。彼女はしばらく湯気の立つ缶を見つめていたが、やがてぽつりと言葉を漏らした。
「両足とも、手術するの?」
 その言葉にズキリと胸が痛んだが、僕はなるべく平静を装って答える。
「両足とも。来月にはこの足ともさよならだ」
 悲壮感を押さえつけるように無理矢理明るく両足をたたく。薬が効いているとはいえ文字通り骨まで響く振動に思わず顔をしかめると、彼女は寂しそうな笑顔を見せた。
「私も、足を無くす前は空元気で乗り切った」
「……そっか」
 お見通しか、と思いながらも、僕は何処かほっとしていた。彼女もその時期を乗り越えてきたのだろう。先例が目の前にいることほど、心強いことはない。
 再び、沈黙が降りる。相変わらず、言いたかった言葉は出てこない。でも、それでいいのかもしれない。言ったところでどうなるわけでもない。彼女とは昨日初めて会ったばかりで、そして今後も会えるわけではないのだから。
 僕は缶コーヒーの最後の一滴を飲み干すと、ふぅっと長いため息をついた。消灯時間はもう過ぎている。そろそろ戻らないといけないけれど、体はそれ以上動かなかった。無言の時間でも、もう少し彼女との時間を共有していたい。
 窓の外では、帰りの遅い車の列がゆっくりと流れている。建設中のビルの隣で眠るクレーンの頭には赤いランプが明滅し、空気の澄む冬空に自らの居場所を顕示していた。
「手術」
「え?」
 唐突に発せられた彼女の言葉に、僕は思わず声を漏らす。彼女は吸い込まれそうな黒い瞳をまっすぐ僕に向け、噛みしめるように言った。
「うまくいくと良いね」
「……うん、ありがとう」
 僕の返事を聞いて、彼女は少しだけ、ほんの少しだけ悲しそうな顔をした。何故そんな表情をするのかと引っかかりを感じたが、その意味するところを尋ねる前に彼女はすっと立ち上がる。
「もう行くね。付き合ってくれてありがとう」
「……あ、うん。こっちこそ」
 杖を手に、彼女は僕に背を向けて歩き出した。僕はそのまま見送ろうとしたけれど、衝動に突き動かされてその背に声を掛けた。
「ねぇ!」
「……?」
 振り返った彼女を見て一瞬躊躇したが、僕は思いきって尋ねる。
「また、会えるかな」
 その言葉に、返事は無かった。ただ、吸い込まれるような黒曜石の瞳が、僕を見つめるだけで。
 僕がそれ以上何も言えずにいると、彼女は再び僕に背を向けた。歩き出そうとした足が、不意に止まる。そして、微かに聞こえる声で、彼女は言った。
「……その時は、お願いを聞いてね」
 その言葉に、僕は全身に電流が走ったような感覚を覚える。僕の返事を聞かず、彼女はそのまま去って行った。僕はその場に取り残され、彼女の言葉を反芻する。お願いとは一体何だろうという疑問とは別に、少しばかり舞い上がった気分になっていた。きっとまた会えるに違いないという漠然とした予感を、言葉の中に感じられたからかもしれない。もちろん、それは単なる予感に過ぎないのだけれど。
 翌日、僕は予定通り退院した。帰り際に何となく病棟の廊下を見て回って彼女の姿がないか確認したけれど、見つけることは出来なかった。結局名前すら聞けなかったことを少し悔やんだけれど、これから会える確率を考えれば聞かなくて正解だったかもしれない。知ればきっと入院するたびに彼女の名前を探してしまうだろう。
 退院してからの生活は、慌ただしく過ぎていった。学校には痛みの加減で行ったり行かなかったりしたが、次の入院まではそれほど長くなはかったし、実際手術後のための家の改装などもあって家の中はバタバタしっぱなしだった。術後しばらくはどうしても車いす移動になるだろうし、義足があると言っても歩けるようになるとは限らない。色々とやっている間に、あっという間に手術のための再入院となった。
 たまたま前と同じ部屋に入院となり、流れるように検査や麻酔科との面談、当日手術の説明などが行われる。手術が入院翌日に設定されているため、凝縮された予定をこなすだけでも体力を使い果たしそうだったけれど、主治医は「どうせ手術中は寝てるんだし」と笑いながら説明を開始した。手術の内容が内容だからか、主治医は終始暗くならないように努めて明るく話をしていた。そのおかげか、割と冷静に話を聞けていたと思う。
 全ての予定を終えると、もう日も暮れていた。軽めの夕飯を食べ、以降は絶食を言い渡された僕は、両親と話をしながらも彼女のことが気になっていた。退院してから、一ヶ月弱。彼女がどんな理由で入院していたかはわからないが、流石にもう退院してしまっているだろう。
 トイレに行くふりをして展望スペースにも足を運んでみたけれど、やはりそこに彼女はいなかった。遠くに見える夜景が、境界を曖昧にしている。クレーンが撤去され、完成したビルにはまだ覆いが掛けられていた。あふれる光の中にあって、そこだけが黒く切り取られている。
 病室に戻り、一度家に戻る両親を見送ると、僕は薬を飲んで早々に床についた。自分の足もこれで見納めと思うと寂しい気持ちもあったけれど、執着はそれほど無かった。この一ヶ月ほどの間に、気持ちの整理がついたのだと思う。後は、そのときを待つばかりだった。
 痛み止めと一緒にもらった安定剤が効き始め、僕の意識は少しずつ薄れていった。まぶたの裏に、いろんな風景がよぎる。最後に、僕の目をじっと見つめて唇を開こうとした彼女の顔が見え、僕の視界は闇に飲まれた。
 翌日、朝から手術が行われた。両親に見守られながら手術室に入り、寒々しいほど広々とした部屋の中央に置かれた手術台の上に乗り換える。昨日面談した麻酔科の医師が僕の顔をのぞき込んで挨拶し、会釈した僕の口元にマスクをかぶせた。ほとんどその瞬間から、僕の意識はぷっつりと途切れる。
 次に目覚めたとき、僕は元いた部屋とは別の部屋にいた。ピコピコと様々な電子音が規則的に、あるいは不規則に鳴り響く部屋の中で、目を覚ました僕の前に主治医が立っていた。手術成功の旨を知らせる彼の言葉をぼんやりと聞きながら、僕は再び闇に落ちた。
 その後の記憶は、断片的にしか残っていない。記憶がはっきりしているのは、自分の病室に戻ってきてからだ。病院の薄い掛け布団の下に膝から下の盛り上がりがないのを見て、たまらなく悲しくなったのが一番印象に残っている。切り落とされた足がどうなったのかは知りたかったが、両親の手前聞く勇気は無かった。
 数日のリハビリを終えた僕は、自分である程度動く許可をもらった。幾分か軽くなった体を、僕はゆっくりと動かす。膝下の切断面はまだ完全には傷が癒えていなかったが、がっちりと固定されているためかそこまで痛みはない。おそるおそるベッド際まで移動し、車いすに移乗する。新しく自分用に買ってもらった車いすは以前に病院から借りていたものと違って滑らかに動き、耳障りな音も鳴らない。
 足を喪失して、何度目かの夜。車輪をこぎ、僕は展望スペースへと向かった。それほど期待していたわけでは無かったが、やはりそこに彼女はいなかった。僕はそっとため息をつくと、スペースに入り込んで自販機でコーヒーを買った。座る人のいないベンチの横に車いすをつけ、缶を開ける。一口中身を煽ると、途端に口中を苦味が暴れ回る。むせそうになるのをぐっと堪え、飲み下す。痛いほどの苦味が消えていくのを待ちながら、僕は誰もいないベンチを撫でた。
「戻ってきたよ」
 誰にともなく言う。静寂だけが帰って来る空間で、僕は多分病気が分かってから初めて泣いた。喪失が、唐突に実感を伴って感情を揺さぶり始める。しばらく声を殺して涙が枯れるのを待ち、残滓を拭って窓の外に目を向けた。新しいビルの覆いが取れ、航空障害灯が弱々しく天を指している。空と地上の境界が、再び明瞭になっていた。

 僕が彼女の訃報を聞いたのは、僕が退院するその日だった。
 顔なじみになった看護師さんの哀しい笑顔は、何故か僕にそれを予感させていた。彼女は一通の手紙と、一つの銀色のカプセルを託していた。手紙には、彼女が僕と同じユーイング肉腫で片足を失ったこと、そして全身への転移で既に余命が決まっていることが記されていた。そして、僕が手術を受ける頃にはもう生きてはいないであろう事も。僕と出会ったあの時、彼女は既に僕とは比べものにならないくらいの大量の麻薬を使用していたのだと、その看護師さんから聞かされた。そんな感じは、あの時の彼女からは全く受けなかったのに。
 二枚目には、彼女が去り際にぽつりと残したお願い事が書かれていた。それは、彼女の遺骨の一部を彼女の故郷にある桜の森に埋めること。彼女のたっての希望により、遺骨の一部がカプセルの中に納められているらしい。何故そんなことを二回しか会ったことのない、それも足を失うことがわかっていた僕に託したのか、その時の僕には理解できなかった。でもあのとき見た彼女の愁いを帯びた瞳が、僕から拒否するという選択肢を取り上げる。
 手紙の最後には、こうあった。
 死ぬまでにしたいことは、10もなかった。そのうちの1つを、君に送るね。
 僕は手紙とカプセルを手に、自宅へと戻った。しばらくは車いすの生活を送っていたが、義足の調整が終わると本格的なリハビリが始まった。義足には当然感覚が無いため、地を踏む感覚が掴めないことに強い戸惑いを覚えた。義足から伝わる振動を膝と大腿で受け止め、その感覚の強弱でどれくらい足を踏み込んでいるかを見極めなければならない。膝は曲げられるが、90度以上曲げてしまうと義足との接続部にかかる負担が大きいため、階段を上るのにも一苦労だった。何より、普段使わない筋肉を使うから、翌日には強い筋肉痛が僕を襲った。
 けれど、僕は根気強くリハビリを続けた。もう一度自分の足で歩きたいという欲求もそうだが、何より彼女との約束を果たさなければならないという思いが日に日に強くなっていた。彼女の故郷は、僕の家からかなり遠い。そして、彼女の希望は桜の森に自らの一部を埋めること。ならば桜の季節に埋めてあげたい。そのためには、もういくらも日は無かった。
 術後の化学療法も待ってもらい、僕は春休みが始まるまでに何とか歩行と、自転車を乗れるようになった。父が乗っていた折りたたみの自転車をもらい受け、旅行の計画を立てる。自宅から駅までは送ってもらうが、そこから彼女の故郷の最寄りまでは電車で、そこからは自転車で、そして最後は徒歩で。彼女の手紙に記された桜の森へと向かう。
 彼女の遺骨が入った銀のカプセルは、チェーンを通して首から提げられるようにした。カバンの中に入れるよりも、なんとなくその方が良い気がしたからだ。義足をもう一度調整してもらい、荷物をまとめ、僕は彼女の故郷へと旅だった。

 ペダルが重い。ぎいぎいと、古い自転車の車体がきしむ。涙と汗で顔がぐちゃぐちゃになる。それでも僕は、こいで、こいで、そして坂の上にたどりついた。
 彼女の故郷。そこに広がる、一面の桜。
 自転車を降り、桜の森に入った僕は、中心近くにある一際大きな木の下に腰掛けた。じっとりと汗ばんだ体を吹き渡る風に冷やしながら、僕は握りしめた銀のカプセルに向けて語りかけたる。見えるかい、君の故郷が。満開の桜が。僕は、ここまでたどり着いたよ。君がいたから、僕はここまで来れたんだ。君がいなければ、僕は未だ車いすに甘んじていたかも知れない。両足の喪失を、まだ引きずっていたかも知れない。君が僕にくれたお願いが、僕をここまで引っ張り上げてくれたんだ。自分の一部を、僕に預けてまで。
 僕は大きな桜の木の根元を携行していたスコップで掘り下げると、首から提げていたカプセルを外してそっと埋めた。掘り起こされないようにしっかりと固め、手を合わせる。瞼の向こう側に写る淡い光の中で、彼女が微笑んだ気がした。僕は両方の義足に力をこめて立ち上がり、彼女に背を向けて歩き出す。しっかりと、しっかりと一歩を踏みしめて。
 彼女が僕に託してくれた希望を、引き継ぐために。





《 サクラメント 了 》




【 作者コメント 】
こっそりコメントを書き足す愚行をおかす事をお許し下さい……○∠\_
ご投票頂いた皆様、ありがとうございました!
また今回これしか書いて無くて、それでも票を頂けるとは、本当にありがたいし自分が情けない気分です……。
この作品は後書きにも書いたとおり「心情を抽象化して景色で表現」することを目標にかいたモノなので、色々と設定が雑な部分があります。それでも、夜景と生死の境界、桜と決意など、自分なりに表現出来たと思ったので、そういうのが伝わっていたらと思います。
色々とやりたいことが出来て、自分のサークルでの作品発表を今年は優先してしまったのと、とうとう「論文を出せ」と上司からプレッシャーを掛けられてしまい、上半期はそれにかかりっきりだったことなどもあって、色々と心の余裕が無かったんです……。
来年度も公募用の原稿などでなかなか余裕が出来ないかも知れませんが、単発のバトルロワイヤルなどでの参加はさせていただこうかと思っています。
最後にもう一度、ありがとうございました!


道化師の部屋・ターミナル  Clown
http://clownsroom.tumblr.com/

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