Mistery Circle

2017-08

《 山田久美子は実在しない 》 - 2012.07.24 Tue


 著者:白乙







 山田久美子は私の同僚だ。
 年は二十三歳で私と同じ。背中まで伸びたストレートの黒髪に、前髪はまゆ毛よりやや下のパッツンにしており、顔立ちは地味だが品のある顔つきだった。すらりと伸びた手足は同じポロシャツにスカート姿の中でも良く目立ち、まぶしく見える。性格上も問題はなく、先輩後輩上司にも分け隔てなく笑顔を浮かべ良くおしゃべりをしていた。
 そんな山田久美子に、副業で作家をしていという噂がたった。
「山田さん、もしかして小説とか書いてる?」
 最初にその話を持ち出したのは中年のおしゃべりな先輩だった。同じ課内の事務方で一緒にお昼を取る慣習を持つ我が会社は、食堂の隙間時間をぬって長テーブル一つを陣取り、そこでお昼いっぱいまで他愛もないおしゃべりを続ける。今回も弁当を食べおえ、それぞれがスマホをいじり始めた頃のことだった。
「私がですか?」
 山田久美子が小首をかしげる。相変わらず凛とした鈴のなるような声色だった。
「そう、昨日山田さんと同じ名前の人が雑誌に載っているの見ちゃったの……ほらこれ、『山田久美子最新作、累計十万部突破!!』ってやつ」
 先輩がひしゃげた鞄から無造作にファッション誌をとりだした。ページの端を折られた場所を小太りの指が弾く。
「あ、これ知ってますよ。たしか今度ドラマ化しますよね。えっ、もしかして山田さんが書いているんですか」
「山田さんまずいよ。この会社副業ダメなんだよ?」
 ネタに飢えているOLたちは話題に飛びついた。
 対する山田久美子は、愛想のいい笑顔を浮かべる。
「私じゃないですよ」
「ですよね〜! だってこんなベストセラー作家がこんな会社で働いてるわけないもん」
「書いたのは私ですけど、私じゃないです」
「は?」
 みんなの目が丸くなる。私も同じだった。
 戸惑いと驚きのまなざしが、一斉に彼女の品のいい顔立ちに向けられた。
「だから、その山田久美子さんは別人ですよ」
 そういって山田久美子はにっこりと笑った。そこまで言い切られてしまっては先輩たちもすごすごと引き下がるほかなかった。
 ただこの時の彼女は私の心を強く揺さぶった。
 私だけは、彼女が本当に作家であることを知っていたから。
(どうしてそんな嘘をつくの?)
 私は人知れずお茶の入ったカップを握りしめる。茶色い水面がポチャリと震えた。揺れる蛍光灯が映った水面には無表情に怒る私の顔が写っている。
 私は化粧直し、と言って席を立った。足早に食堂の出口へ向かう。
 これ以上、山田久美子と同じ場所にいたくない。

 私は昔からおとなしい子供だった。人見知りがはげしくて、学校では一人で静かに本を読んでいる、そんな子供だった。けれどそれを寂しいと思ったことはほとんどない。お話の登場人物たちはめまぐるしく動き回り、私を楽しませてくれる。たとえ実際にしゃべることがなくても、学校なんかよりも前に「人との関係をつくる、いちばん基本の受け応え」を学べるところなんだ。
 私は、やがてその世界を自分で書くことにのめりこんでいく。いつしか私は文学部に所属し、少ないながらも友人と呼べる仲間ができ、将来は小説家になることを夢見ていた。いや、まるで最初からその夢が叶うことが決まっていたかのように、自身の歴史を、文字を綴ることに夢中になっていたのだ。
 そんなある日、私は初めて文学賞に応募した。初めての投稿でデビューする、そんな夢を見ながらポストの前で何度もお祈りしたり、編集者からの受賞連絡があるかと家電の前で真夜中まで毛布にくるまって待っていたり。
 もちろん結果は惨敗。一次選考にすらかすりもしなかった。所詮はそんなものだ。ただ自意識過剰な当時は編集に見る目がなかったのだと悪態をつき、友人に褒めちぎってもらうだけの文章を散々かいて自分をなぐさめた。
 問題はこの時の大賞受賞者だった。私は雑誌で初めてその名前を目にした時、なんと地味な名前だろうと思った。
 山田久美子、十八歳。現役高校生。
 こんなありふれた名前の子が、しかも私と同い年の子が、大賞受賞者なんて。
 私は雑誌とくっつきそうなほど顔を寄せて文字列を追った。初投稿、よくよく見れば見るほど私と境遇が似ている。それなのにかたや一次落ち、かたや大賞最年少受賞者。この差はなんなのか。私の中にふつふつと怒りがこみあげてくる。だがその怒りも、雑誌の一面に掲載されていた小説を読んでしぼんでしまった。
 まるで文字列に色が付いているようだった。明朝体の活字はモノクロなのに、目を凝らしてみれば様々なインクが混じって黒となっている気さえしてくる。
 舞台は鹿児島のとある農村部で、主人公の少女が親友と一緒に大自然の中で成長していく話で、どこか自分の書いたものと似ていた。けれど決定的に登場人物が生を受けている。少女の瞳に映る自然の風景一つ一つが手に取るように目の前に広がっていく。
 夢中になって最後まで読み終えて、私はようやく本を閉じた。ちょうどその時に仕掛け時計の鐘が鳴り、自分が二時間以上も熱中していたことに気づく。
 なにか言おうと口を開けて、そのまま閉じた。未だ鮮やかなくやしさが胸を焼くのに、頭は一向に働かない。私の完敗だった。
 こうして私は、静かに自分の夢を諦めたのだ。
 それなのに、だ。山田久美子はいつだって自分が作家ではないと言い張る。デビューから数年、ヒット作を何本も飛ばす彼女は誰がどう見ても売れっ子の作家だ。映画化もマンガ化もアニメ化もされて、まだ自分を一流の小説家ではないという。謙遜ではなく、山田久美子は本当にただの社会人だと。
 ふざけるな。
 その名声を、地位を、実力を欲しいと思った人間の前でよく言えたものだ。自身を作家ではないと言い切った女の文章で、夢をあきらめた人間がここにいるのに。
 私は化粧室の鏡をにらみながら、このやり場のない感情を押さえ続ける。。
 こうして、山田久美子に対する、私の一方的な苦悩の日々が始まったのだ。



 山田久美子は都心から一時間ほど離れたカフェによく出没する。ちょうどビル街のすきまをぬった小道にそなえられた小さなお店は、いわば隠れ場的な憩いの場だった。チョコレート色の柱には鉢に植えられたハーブの蔦が絡み、鮮やかな薄緑が良く映えている。品のいいジャスをアレンジしたオルゴール音楽がコーヒーの香りとともに店内を漂う。この店のおすすめは豆にこだわりを持つ店長がブラジルまで直々に仕入れに行くコーヒー、そしてその店長の奥さんが愛情をたっぷり込めて作ってくれるふわふわのパンケーキが一番の人気だ。無論私もファンである。どんなに仕事が忙しくても金欠でも、週に一回は必ず訪れる場所だ。
 だが残念なことに、山田久美子もこのカフェの常連だったのだ。
 山田久美子はこのカフェでよく男と会っている。 こういう書き方をすると少し誤解を招きそうだが、ようは小説の担当と打ち合わせをしているのだ。二人でコーヒーを片手に、同じ原稿を見比べながら、和やかに会話をしているのを何度か聞いた。むろん不可抗力だ、せっかくめったに味わえない至福のひと時を味わおうというのになぜか結構な確率で山田久美子のテーブルと背中合わせになるのだ。
「山田先生、おめでとうございます。あの新作の重版が決まりましたよ」
「あら、本当? ありがとうございます。これも担当さんのおかげだわ」
「そんな僕なんて大したことありませんよ。それで、新作は雑誌で連載してたこの話を……」
 私は冷めてしまったコーヒーをずずっと音をたてて飲み込んだ。あれほど香ばしい香りを立てていた液体はいつしか冷え切った泥水に変わり、私の心臓へと飲み込まれていく。まったく、彼女たちの存在に気付いたのがケーキを食べ終えた後でよかった。そうでなければ、あのクッションのような弾力のあるパンケーキでさえせんべい布団のように冷たく感じられたかもしれない。
 私はつかつかとヒールを鳴らし、山田久美子のいるテーブルへ向かった。
「あら、田中さん」
 山田久美子は普段通りの笑みを浮かべた。
「田中さんもこのカフェの常連? ここ、いいわよね」
 担当と一緒だというのに、私の登場に狼狽えたり動揺したりするそぶりは見せない。細い腕時計のチェーンが巻き付いた手首をひらひらと揺らした。テーブルの上には企画書らしい数枚のコピー用紙と、二人分の飲みかけコーヒー。それとアイスクリームがどろどろに溶けた食べごろを逃した無残なパンケーキの姿だった。打ち合わせするならせめて終わってから頼め!
「ええ、そうよ。ところでこちらの方は誰? 彼氏さん?」
「違うわよ、編集さん」
 この女、みじんも隠す気がない。
「編集? でもあなた、小説は書いてないんでしょう?」
「そうよ、私は山田久美子の代わり」
「山田久美子の代わり」
 首をかしげる私に、山田久美子は頬杖を付いて私の顔を見た。
「作家の山田久美子さん、ちょっと事情があって人前に出れないの。だから同じ名前の私が、作家さんの代わりに打ち合わせってことよ」
「それって副業じゃないの」
「いいえ、私はあくまでお手伝いよ。ねえ?」
 そう言って、山田久美子は担当に目配せをする。化粧をしなくても整った鼻筋がうらやましい。目配せを受け取った担当も照れ臭そうに賛同した。
 あっけにとられた私はまた何か言い返そうとしたが、そんな気力が少しずつしぼんでいく。
「そ、そう……」
 小さく息を吐き、適当な別れを告げて席に戻る。
 結局私は、また山田久美子に負けてしまったのだ。




 それから数か月後、作家の山田久美子のサイン会が都内の某公民館で行われることになった。
 もともと山田久美子の小説は絶大な人気を誇っており、そのためサイン会に参加するのも難しい。あまりの人数の多さに、参加も抽選で決められる。
 だがこの時の私は不運だった。倍率三十倍にもなる抽選の当たりを引き当ててしまった。
 私は沈んだ気持ちで一張羅のワンピースを身にまとい、山田久美子のサイン会へ向かう準備をする。正直行かなければいい話だが、それはそれで癪なのだ。
 私が受付を抜けると会場はすでに長蛇の列だった。男性もちらほら見かけるが、二十代前後の女性が多い。山田久美子の読者層もそうだし、もちろん私もその一人だった。
 私は人の波にのまれながら、静かに列に並んだ。山田久美子に負けぬよう、自分なりにおしゃれをしてきたつもりだが、やはり小太りな体格と猫背はコンプレックスに感じる。前後には長身ですらっとした体格の女性が並び、山田久美子に会える喜びを隠そうとしない笑みを浮かべている。その顔はとても幸せそうで、どこかやはり山田久美子に似ていた。私にはできない顔だ。
やがて前の方から歓声が聞こえてくるようになった。作家の山田久美子様がご登場なさったのだ。列は少しずつ進み、そのたびに山田久美子のいる場所まで近づいていく。最初に山田久美子の頭が見え、顔が見え、やがて全身が見えた。紺色のキャミに淡いエメラルド色の七分丈のVネックを着ている。右手につけられた高そうな指輪が照明に反射して自己主張をしていた。
 とうとう私の番になった。
「あら、田中さん」
 来てくれたのね。自分のサイン会で目の前に同僚である私が来ても、彼女は相変わらずだった。少しも調子を崩さない。
「あなた、作家じゃないんでしょう。なんでこんなところにいるの」
「ただの代理よ。山田久美子先生の」
 聞き飽きた嘘だ。カッとなった私は差し出した右手をそのまま長机に叩きつける。机に置かれた彼女のベストセラーが一瞬跳ねた。
「なんでそんなこというの!」
 気づけば声を荒げていた。頬にはいつのまにか涙が伝っていた。こんな大声をあげたのは久しぶりだ。会社でも一人の私は、声を出すことすら稀なのに。自分で自分に驚いた。
「うそつき、本当のことを言ってよ。私は作家の山田久美子だって。正真正銘の作家だって。ベストセラーを取るようなすごい作家ですって」
 胸の中で泥水のようによどんだ感情が言葉とともに吐き出される。
 山田久美子は静かに私を見ていた。私を引きはがそうとするスタッフの腕を引き留め、私の頬に触れる。
「田中さん、顔色が悪いわ。きっと具合が悪いのね」
「ちがう……」
「よかったら楽屋で休んでちょうだい」
「私は」
 耳元で、山田久美子の凛とした声が響く。
「握手会が終わったら、聞いてほしい話があるの」
 そしてそのまま、呆然とする私をスタッフに引き渡した。

 目を覚ますと、遠くでアナウンスが聞こえた。サイン会終了の知らせであり、私は自分が公民館に備えられた控室にいることを思い出した。サイン会のスタッフによってあれよあれよという間にこの部屋に連れ込まれ、畳の上に寝かされたのだ。どうやら泣きつかれた私はそのままうたた寝をしていたらしい。六畳半の畳に寝っ転がっていたせいで、自分の頬にざらついた畳の跡がついていた。
「気分はどう?」
 覚醒しきらない意識の中、頭上から山田久美子の声が聞こえた。見上げると先ほどまでと変わらない笑顔で、私の顔を覗き込んでいる。
 私はあわてて飛び起き、そのまま彼女に頭を下げた。
「サイン会を台無しにしてしまってごめんなさい」
「あら、大丈夫よ。そんな大したことじゃないから」
「でも」
「それより、ねえ田中さん。どうしてあなたは私のことをそんなに怒っていたの?」
 山田久美子の言葉に、私は思考をめぐらせる。はて、どうして私は彼女のことをこんなに怒っていたのか。
 自分が取るべき大賞を受賞したから? 本当は小説家なのに嘘をついていたから?
 ―――いや、ちがう。
「違うの。全部私が勝手に怒って……あなたに嫉妬してただけなの」
 ああ、とうとう気づいてしまった。
 私の腫れぼったい唇は無意識に言葉を紡ぐ。
「私も元々小説を書いていた。友達やサークルのみんなに褒めてもらって、有頂天になって賞に応募して、結局落選。それで夢をあきらめて就職した会社の同僚にその大賞を受賞した小説家がいて、あなただった。本当は私に才能がなくて勝手に夢をあきらめただけなのに、逆恨みみたいにあなたにちょっかいをだして……最低ね、私って」
「……」
「でもね、ずっと憧れていたの。文字の中に鮮やかな色を生み出すあなたの才能に、それは本当よ。なのにあなたは自分のこと小説家の山田久美子だって認めなくて……どうしてわかりきった嘘をつくの?」
 乾いた笑みがこぼれる。喉にこみあげる嗚咽がまた視界をにじませた。
 山田久美子はためらうように唇をつぐみ、そしてゆっくりと開いた。
「嘘はついてないわ」
「まだそんなこと」
「私は……私は本当に山田久美子じゃないの」
 眉をひそめた私に、山田久美子は苦笑をうかべる 
 作り物のように美しい彼女の表情が初めて歪んだ。
「本物の山田久美子はもうどこにもいないの……あの大賞結果が発表される前日に死んでしまったから」





 窓の外の喧騒が遠くに聞こえた。雨の痕が残る窓辺からは初夏の強い陽光が差し込み、埃っぽい控え室に太陽の匂いをただよわせている。
 その中でぽつりぽつりと山田久美子が木漏れ日のような言葉を紡ぐ。
「私と山田久美子は……そうね、しいて言うなら幼なじみかしら。あの子は昔からお話を考えるのが好きで、私はずっとそばで彼女の物語を聞いていたの。ずっと、これからもずっとそんな日々が続いていくと信じていたわ」
 山田久美子は、否、山田久美子だった彼女は一度目線を地面へ向け、静かに目を閉じた。長い髪をもてあそぶ指先は白く、今にも消えてしまいそうに見える。
「最初のきっかけはあの子が中学に入った時。勉強とか部活とかが忙しくなって、お話を書かなくなっちゃった。やがてどんどん距離が離れて、高校に進学した頃にはずっと疎遠になってしまって……再会したのは二年生の時。あの子は本格的に小説家になることを目指していて、今度応募する小説を読んで聞かせてくれたの。ほら、貴方も応募していた」
「ああ」
  自分の声がひどくまぬけに聞こえる。少しずつ紐解かれる真相に、その重さに、そして自分の身勝手な嫉妬心に。
「その時にはもう、山田久美子の頭の中には大きな腫瘍ができていたそうよ。治療法もなく、残りの寿命はあとわずか。私ったらずっとあの子を見守っていたのに、結局死ぬまで気がつかなくてね。でも、あの子は前を見据えていたわ。残りわずかな自分の人生でなにを為すべきがしっかりわかっていたの」
 そこで一呼吸おいて、細い肩を揺らした。一句一句、箱の中に大切にしまっていた宝物を取り出すように、目の前の彼女は言葉を続ける。
「『私が死んでも、私の書いたお話は残る。それを読んでくれた誰かの心の中に少しでも私が残せたなら……私は永遠に生きられる気がするの』。そういって、彼女は最後のお話を聞かせたあと、私の前から姿を消したわ。その時の後ろ姿を、私は今でも覚えている」
 彼女はそういうと、静かに胸に手を当て、祈るように目を閉じた。さらさらと頬を撫でる彼女の黒髪に、きっと本物の山田久美子も美しい黒髪をしていたのだろうと思った。
「大賞受賞の発表があったとき、正直私もあの子のご両親も驚いていたわ。もう山田久美子は世界のどこにも存在しないのに。けれど私はチャンスだと思った。私は自分を山田久美子だと偽って、小説を書き続けることにしたの。私は昔から彼女のお話を聞き続けていたから、彼女がどんなお話を好んで書くか知っていたから。それを参考にして『山田久美子ならこんなお話を書くだろう』とか想像しながら書き続けて」
「だから、山田久美子は自分じゃないって言い続けていたの?」
「私ってね、嘘がつけない性分なの」
 小首をかしげて、肩をすくめてみせる。
「私にお話を書く才能はなかったけど、山田久美子が書きそうなお話を考えるだけの力はあった。おかげで今までずっと問題なく山田久美子でいられたわ。もしかしたらこれからもずっと……でも、それももうおしまいね」
「?」
「もう山田久美子でいるのはやめるつもり」
 頭を鈍器で殴られたような衝撃を感じた。
「どうして? 私が貴方の正体を知ったから?」
 私は彼女の細い腰にすがりつく。自分がしでかしたことが、ここまで大事になるなんて。
「そんな、私、そんなつもりじゃなかったの。ただ貴方の鼻を明かしてやりたくて……小説家をやめさせるとかそんなつもりじゃなくて」
「落ち着いて、田中さん」
「なんで突然やめるなんて言い出すのよ!」
 大声を上げる私に対し、彼女は私の頭を静かになでた。「最近、ふと思い始めたの。私が書いているのは山田久美子が書いた物語じゃない。私が山田久美子を創造して書いた別の物語なんだって。私がやっていたことは、あの子が望んでいた誰かの記憶の残され方じゃないのよ。たとえ山田久美子の作品が歴史に残ることがあっても、それは私が書いた偽物の山田久美子だから」
 色白な細い手のひらは氷のように冷たく、どこか懐かしいお香のような香りが広がった。
「それに、私もちょっと疲れちゃった。山田久美子で居続けるのが、偽物を演じ続けるうちに、自分が本当に山田久美子でいるような錯覚さえ覚えてしまって……本当はもう、あの子はどこにもいないのにね」
 彼女は腰に巻きついた私の腕をそっとほどき、手を離す。離された私の両腕はまるで糸が切れたマリオネットのように日焼けした畳の上に縫い付けられた。私は静止の声をあげることもできず、部屋の出口へ向かう彼女の背中を見つめる。
 ドアノブを回した彼女が、最後にこちらをふりむいた。
 その整った顔にうかんでいたのは、彼女の……いや、山田久美子の心からの笑顔だった。
「いいきっかけをありがとう、田中さん。貴方を見ていると、必死で物語を書いていたあの子を思い出すの。私はもう私に戻るけれど、いつか貴方のお話を聞かせてね」
 そういって、山田久美子だった彼女は世界中から姿を消した。




 気が付くと私は、自分のベッドの上で目を覚ました。枕元の時計を見ると、日付はサイン会の翌日を示しており、ちょうど目覚ましのアラームが鳴った。会社にいけば、普段と変わらない平凡な日常が送られている。ただ、山田久美子のことを尋ねてみても、誰も彼女のことを覚えていない。帰りに寄った本屋では、平積みにされていた彼女の書籍は別の新人作家の本が置かれていた。
 結局彼女のことを覚えていたのは、私だけになってしまったのだ。

(『ややこしい関係の中でコミュニケーションが上手く運ばなくなってるのはみんな同じ。だからこそ杉本は佐代子の手を取って……』、う~ん、うまくまとまらない)
 カタカタとキーボードを打ち続ける。
 寝不足で赤くなった目をこすり、またPC画面の文字列を追う作業へもどる。眠気覚ましに買ったホットカフェオレもすっかりぬるくなり、カップの底にたまったどろりとしたクリームを喉の奥に押し込めた。私は最後の一行を書き終え、ゆっくりと息を吐く。
(よし、今日はここまで! あとの添削は家に帰ってからだ)
 テーブルの上の道具をカバンに片付け、いそいそとメニューを取り出す。今日はなにを食べようか。視界に飛び込んできた期間限定のパンケーキが私の胃袋を刺激する。
 山田久美子がいなくなった世界で、私は変わらぬ生活を続けている。朝起きて会社に行き、仕事をして帰り、眠る。ただ少しだけ変わったのは、もう一度小説を書き始めたことだ。投稿も幾つかしているがいまだに賞はおろか、選考すら通過できない。やはり凡人の私では、見よう見まねで作家人生を送れる彼女のようにはいかないのだ。
 それでも私は書くことをやめない。
 自分が書いているのは小説ではない、私から彼女へ送る、私の物語だ。
 私はパンケーキを待ちながらカウンター席から外の様子を眺めた。ひっきりなしに流れる人の中で、テラス席に長い髪の女子大生二人組を見つけた。クリームのたっぷりかかったパンケーキを二人で食べながらテーブルを挟んで談笑している。彼女たちから笑い声がこぼれるたび、流れる黒髪が楽しそうにぴょんとはねた。
 そうしているうちに私のテーブルにもパンケーキが届く。今年の新作だというそれにはクリームとベリーがたっぷりと盛られており、夢中になってそれをほうばった。いつしか二人はいなくなり、私も少しだけ山田久美子として出会った彼女のことを忘れた。

 山田久美子は存在しない。山田久美子であった、彼女も。
 けれどもし、彼女がどこかで私の書いたお話を聞いてくれたなら。 
 それだけでもう一度筆をとった甲斐があるというものだ。
 私は今日も小説を書きながら、彼女との再会を待ち続けている。





《 山田久美子は実在しない 了 》





【 あとがき 】
お疲れ様です、白乙です。
今回も参加させていただきありがとうございました。
まず最初に、全国の山田久美子さんにごめんなさい←
結構ありきたりな名前~とか書いてしまってますが、決して山田久美子さんをディスってるわけではないんです!
平凡な名前を探していたときにたまたま読んだ小説の登場人物の名前が山田久美子さんだっただけなんです!!←
もしこのお話を読まれた方の本名やお知り合いの方に山田久美子さんがいらっしゃったら、本当に申し訳ありません……。
どうぞ寛容な気持ちで読んで頂けたら幸いです。

このお話が浮かんだキッカケはネットで見たイラストでした。
髪の長い女性の絵で、その絵を元に山田久美子のイメージが浮かび、そのままつらつらと書き連ねていきました。今までなにかしらの怪異キャラを書いてきましたが、このお話の山田久美子(仮)はひときわ人間味のあるキャラクターになったと思います。
主人公の田中さんは作家志望ということで、自分の過去の思い出やらなにやらを色々思い出しながら書きました。今更ながらちゃんとした名前くらいつけてあげればよかったかも(笑)
そんなわけで、少しでも楽しんでいただける作品であればと思います。

最後に、私事ではありますがカクヨム(https://kakuyomu.jp/users/Kakuriya)さんの方で小説の投稿を始めました。
まだ作品数は少ないですが徐々に数を増やしていきたいと思います。
また、こちらであげた作品も加筆を加えて再掲させていただく予定ですので、もし気になった方がおられたら評価、コメントをいただけると嬉しいです。
ではでは、最後まで読んでいただきありがとうございました!


(カクヨム) 白乙
https://kakuyomu.jp/users/Kakuriya



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