Mistery Circle

2017-07

《 あなたと私のファースト・ステップ 》 - 2012.07.24 Tue


 著者:×丸







 考えてみれば、子どもは家か自分が普段通う場所か、その限られた範囲が世界の全てだ。
だからこそ、子どもはいつだって純粋で、いつだって真剣で、そしていつだってまっすぐ。

 ただ前だけを見て進み続ける。それが子どもの存在意義であり、強さ。
 私はその姿が眩しくて羨ましいと思う。“好き”という気持ちを何にも囚われることなく、時には性別の壁すら軽々と貫いて相手に届けてしまえるのだから。


『せんせー! おんなのことおんなのこってけっこんできるよね!!』
 今思えばその言葉は、きっと私の心を敏感に感じ取って放たれた一言だったのだろう。




「真理せんせい、わたし、せんせいのことが好きです」
 彼女の口から放たれた、なんの飾り気もない告白。まっすぐで、純粋な好意。
 それは取り立ててお洒落というわけでもない、いたって普通の居酒屋で発せられた。
 あまりに直接的な言葉過ぎて、飲もうと持ち上げたビールのジョッキに口もつけぬまま、機械的な動作で静かにテーブルの上に置いてしまう。

 ほのかなオレンジ色の、食事をおいしく見せようとする工夫が凝らされた照明の下に置かれたテーブル。そこに私たちは向かい合って座っている。
 周囲には私たちと同じように、一日の仕事の疲れを癒そうとする大人で賑わっていた。それは昼間子どもたちに囲まれた職場と年齢は違えど、童心に返るという意味では同じようなものかもしれない。それでも女同士二人きりというのは私たちくらいで、周りは男ばかりだ。
 そんな中での告白は正直ムードとしてどうなのだろうと、思わなかったと言えばうそになる。

「えーと……それは先輩として、という意味かしら?」
 だから少し意地悪なことを聞いてやろうと思った。彼女が単に尊敬だとか頼りにしているだとか、そんな気持ちだけで話しているのではないことは表情で分かっていたが、なんとなくそう言ったときの反応が見たかったのだ。
「いいえ、わたしは、真理せんせいのことをずっと想っていたんです。その長くてきれいな黒髪も、すらっと伸びた身長も、楽しいピアノを弾く指も、全部……。せんせいとずっと一緒にいたい。職場の仲間としてだけじゃなくて、……それ以上の関係としても、ずっと」
 果たして予想通り、いやそれ以上の答え。それ以上軽口を言えなかったのは、彼女が懸命だったからだ。たどたどしくも私を射抜こうとする直線的な想いが見て取れた。彼女の真剣な眼差しが、私に焦点の当てられた熱っぽい視線が、何よりもそれを物語っていた。
 かわいい子だな、と素直に思った。体の奥底から湧き上がってくる暑さは、きっとアルコールのせいではないだろう。初々しさがどこかくすぐったく感じて、思わず体をくねらせる。

 私はできるだけ優しく彼女を見つめた。目が合った彼女は、赤くしていた頬をさらに紅潮させて目を逸らす。髪を耳にかける、その何気ない仕草に愛おしさすら覚える。
 率直に言って嬉しかった。私の余裕ぶった振る舞いの奥には、言葉では言い表せないくらい熱く湧き上がるものを感じていた。



 でも、いやだからこそ私は彼女の想いを受け止めることができない。
 ……いや受け止めてはいけない。それ以上踏み込んではいけないのだと、私の心が警鐘を鳴らす。


「少し……考える時間をちょうだい?」
 言うべき答えは既に決定している。だが期待に満ちた彼女の表情を曇らせることができなかった私は、悩むふりをして少し時間をおいてから答えるという逃げの一手に思わず出てしまった。
 私の言葉を聞いた彼女は少し驚いたような表情をして、意外にも柔らかい笑顔を見せて言った。
「返事、待ってますから。……ありがとうございます」
 そう話す彼女の無垢な笑顔を見ていると胸がいくらか痛んだ。どんなに待ち望んでも、私には彼女の欲する答えを示すことができない。

 結局その後はとりとめのない会話をするに留まり、そのまま私と彼女はお互いの家路についた。
 夕方過ぎから降り始めた雨のせいかどこか肌寒い、5月の金曜日の夜の出来事だった。




 彼女――――美緒せんせいは私と同じ幼稚園で働く、いわば仕事仲間だ。年は二つ下、でも四年制の大学を卒業した私と違って、短大を卒業してすぐ就職した美緒せんせいは、私と同期になる。
 周りが10年以上のベテラン先生の中、美緒せんせいは唯一歳が近く、趣味も似通っていてとても気が合った。職場でだけじゃなく、金曜日には仕事のあと駅の近くの居酒屋で慰労会なんて言って飲んだりするのがいつもの日課みたいなものだった。
 色んなことを話した。お互いの仕事の愚痴、悩み、他にも色々。
 初めて職場に勤めたときから、お互いを励まし合って仕事を頑張ってきた。慣れない環境で子どもに振り回される日々。行事に追われて周りが見えなくなっていて心細くって……そんなとき美緒せんせいとの会話だけが救いだった。
 私とは対照的な明るい栗色の髪。内側にふわりとカールした毛先は、彼女が軽やかに動くたびに羽が舞うように靡いて素敵だなといつも思っていた。笑顔の苦手な私と違って、彼女の笑顔は太陽のように子どもたちを照らしていた。そして、それは同時に私にも光を届けてくれた。
 単に仕事上の仲間というだけではない好意を抱いていたのは、きっと私も同じだったのだろう。でもまさかそんな彼女から告白をされる日が来るとは夢にも思わなかった。
でも、それ以上の関係になることはありえない。仕事仲間としての関係、それだけで私は充分だ。

 週末、土日の二日間たっぷり時間を使わせてもらった。このくらい時間を空けてからなら、それが悩んで悩んで悩み抜いて出した答えだと納得はせずとも受け入れてはくれるだろう。
 ベッドの中でまどろみながらそう思う日曜日の深夜。どこか憂鬱なのは明日が月曜日だからだ、と繰り返し自分に言い聞かせて眠りについた。


「ごめんなさい、私、美緒せんせいの気持ちには応えられない」
 そして次の日、子どもたちがみんな帰ったあとの夕暮れの光が差す部屋でそう告げた。
 日中は子どもたちの明るい喧騒で満ちている空間も、二人きりだとどこか虚しいほどの静寂に包まれている。
 その中で私の言葉はまるで漂うようにじわりと部屋に響き渡る。

「……分かりました。それがわたしのために考えてくれた返事なら……それでいいです」
 私の答えと、それに応じる自分の答えをゆっくりと噛みしめるように、私の出した薄っぺらな答えを彼女は静かに受け止めた。
 もちろんその表情は決して明るくなどない。失恋したものの反応としてごく当たり前のものだ。
 その陰った瞳を見ると後悔の念がちらつく。私の答えに対する彼女の様子は充分予測できたものだったはずなのに、実際に目の当たりにすると本当に正しかったのかと思わずにいられない。

「……明日からまた仕事仲間としてよろしくお願いします」
 そう言って彼女は足早に部屋を出て行ってしまった。あっ、と思い、手を伸ばしそうになる。引き止めそうになる。でもその伸ばしかけた手を思考ごともう片方の手で抑え込む。
たとえそうしたいという欲求にかられたって。今すぐに謝って、彼女を抱きしめたいと思ったって。それをしてはいけないのだ。

 彼女だって言っていた。明日からまた仕事仲間、私がどんな返事をしたってそれだけは変わらない。
 もう少し時間が経てば、このことだって良い思い出になってくれる。これ以上の関係にならなくたって、私と彼女の関係は今のまま変わらず続いていくのだから。
 彼女にとって、そして私にとってこれが一番いいのだと、そう自分に何度も言い聞かせながら。私は小さくなって消えていく彼女の背中を見つめていた。




「えっ……もう帰ったんですか?」
「そうなのよー子どもたちもみんな帰ったし、1時間の時間休をもらって帰ったわよ」
 できるだけ彼女から離れようと少し時間をおいて職員室に戻った時には、すでに彼女の姿はなかった。急な用事が入ったといって急いで荷物をまとめて帰っていったらしい。
「真理せんせい、美緒せんせいから何か聞いてない?」
「……いえ、特に何も」
 上司にはそう返すが、心当たりがあるとすればおそらくさっきのことなのだろう。
 彼女をきっぱりと振っておいて、あの影が差した後ろ姿を見て、何も知らないとは言えない。だが、それを上司に伝えることはできるはずもなく…………

 結局彼女から遅れること1時間、私も保育所を後にして家路についた。
 保育所から駅へと向かう道をぼんやりと歩いていく。それ自体はいつもの帰り道なのだが、どこか気持ちが落ち着かない。
 ……分かっていた。隣に彼女がいないからだ。お互い最寄りの駅が同じ路線の二つしか離れていないから、保育所から駅までの道はいつも一緒に帰っている。週末の居酒屋ほど長い時間でもないけれど、それも仕事後の心安らぐひと時だった。
 でも今日は彼女が先に帰ったから、滅多にない一人ぼっちの帰り道になる。
 辺りはもう夜といっていい時間。太陽は沈み、そこかしこに町明かりが灯っている。ビルの間を吹き抜ける風が、初夏の季節なのに肌に突き刺さるようだ。
「………………ふう」
 寂しい、なんて思ってはいけない。
 彼女を突き放したのは私なのに、隣に彼女がいないことを嘆く資格なんて私にあるはずがない。

 大丈夫、明日になればきっと元通り。彼女から告白されるより前の、お互いを仕事の面で支え合ってたあの関係に戻れる。帰り道も明日から、また一緒だ。

 どうしてだろう、なんでそんな根拠のない希望を夢見てしまったのだろう。

 一度壊れてしまったものは決してもとに戻らないことを、他ならない私が知っていたはずなのに。


「あ…………」
 乗っていた電車が止まった。私が下りる駅の二つ前。
 いつも彼女が下りている駅だった。住宅が立ち並ぶ、今の時間は私と同じように家へと帰っていく乗客が行き交う駅。偶然、人波の中に彼女の姿を見つけた。でもそこにいたのは一人ではなかった。
 彼女は抱きしめられていた。相手は見知らぬ男、その胸の中に顔をうずめていたのだ。
 後からでもはっきりと彼女だと分かる栗色のカールした髪。そこに手を回し、身体を優しく包み込む男。……そこまでしか、私はその光景を見ることができなかった。

 電車が出発してしまったから? 違う、その前に私が顔を逸らしていたからだ。
 揺れる電車の手すりに身体を預け、胸を服越しに強く抑えつける。握りしめられた服が熱を帯びてもなお、張り裂けそうなものを内へと押し込もうと指により強く力を込めた。
「なんで……なんで、こんなに苦しいの……?」
 何をうろたえているんだ私は。彼女は安心したかっただけなのだというのに。だから私に告白したのだし、私がそれに応えなかったから違う人にそれを求めた。たったそれだけのことじゃないか。
 だからあの光景を見た私がすべきなのは暖かく見守ることだけであって、悲しんだり、怒ったり、取り乱したりすることなんかじゃないはずだ。

 …………違う。安心したかったのは私の方だ。あの時のように裏切られるのが怖くて、今ある関係を失いたくなくて。でもどんな関係だって、そのまま続くはずがない。今同じ職場で働いているからといって、これからもずっと同じでいられるとは限らないのだ。
 きっとどちらかが離れていく日がくる。転機が訪れて仕事を辞めるかもしれない。彼女だって、いつ結婚してもいい年齢なのだから寿退社のようなことだってあり得る。
 その時になって、無くなったものを無くなったと嘆いたって遅いのだ。差し出された手を掴まなかったものに、何を得ることもできないのだから。


 過去を恐れて後ろを振り返り続けても、前には進めない。私はいつまで経っても、一人だ。
 気づきたくなかった、気づくべきだった、いつか気づく日がくると思っていたこと。
それがまさかこの瞬間訪れるなんて……分かっていたこととはいえ、恋とはなんて無慈悲な感情なのだろう。

 レールの上を駆ける電車の規則的なリズムは、さながら底の見えない階段を降りるそれのようだ。
 目まぐるしく移り変わる車窓の景色をぼんやりと見つめながら、そんなことを考えていた。




「真理せんせい、おはようございます!」
「あ……お、おはよう」
 次の日の美緒せんせいは、いつもと変わらない様子で子どもとお絵かきを楽しんでいた。彼女の絵は子どもたちに人気で、描いてとせがまれているところを何度も見てきた。
 ピアノと違い、絵どころか何かを作ること全部が子どものときから苦手だった私にとってはそれが羨ましくて、憧れだった。でもその憧れすら今ではなんだか違う感情に変わりそうで、振り払うように顔を振る。

「せんせー? どうしたのー?」
 子どもが心配そうに私のそばに寄り添ってくる。
 子どもは大人の些細な変化にもすぐに気付くものだ。きっと私の淀んだ心が、意図せずして表情に表れていたのかもしれない。
「ううん、なんでもない。えーと、私はお姉さんになればいいのかな?」
「うん! まりせんせーがおねえさんで、わたしがおかあさん!」

 喜々とした表情でおままごとの準備をいそいそと始める子どもたちを、私はぼんやりと見つめていた。
「えー、わたしもおかあさんがいいなー!」
「じゃあしーちゃんもおかあさん! わたししーちゃんとけっこんするの!」
「うん、やさしいみーちゃんすきー!」
 そう言い合って女の子同士で抱き合うその姿は、多くの人にとってはきっとなんてことのない、微笑ましさすら感じる一場面でしかないのだろう。
 でもそれは、私の心を圧迫するには十分すぎるほどだった。眩しさすら感じるその光景に思わず目を背けてしまう。

 私たちの問題は子どもたちには関係のないことだ。当然、そのことを保育に持ち込むようではまだまだ未熟だときっと叱られてしまうだろう。
 ふとテーブルの方に視線を移すと、描いた絵を子どもたちと見せ合う彼女が目に入った。明るく、それでいて温かな笑顔を子どもたちに向けるその姿からは昨日の夜男の胸に抱かれて泣いていた姿をまったく感じさせない様子だった。
 きっともう私への告白、好意を抱いていたことは彼女の中で過去になったことなのだ。
 私が彼女の告白を断って、彼女には他に寄り添う人ができて、いつものように戻って。それで、おしまい。嘆くこともまた、その結果の一つとして甘受するしかない。


 本当に、本当にそれでいいのだろうか…………


「ねえ先生、この間の告白のことだけど――――」
 情けないことだし、恥ずかしいことなのは自分でもわかっていた。
 でも今日一日保育をしていて分かった。私は自分で閉ざしたはずの彼女の好意を引きずっている。
 だから、できるなら正直に話してほしかった。他に付き合っている人とか好きな人がいると言ってもらって、彼女の手でこの関係を終わらせてほしかった。

 なのに彼女の口から放たれた答えは、私の身勝手な願望とは違ったものだった。
「や、やめてください! もう……もう終わったことじゃないですか。せんせいはわたしなんかじゃなくて、もっとちゃんとした人と結ばれればいいんです!」
 それは明確な拒絶。何物をも受け入れまいとする意思。彼女の口から初めて聞いた突き放すような強い口調に、私の心は鈍器で殴られたような感覚を抱いた。

 ああ、似ている――――あの人に――――あの時に――――もう……限界だ。

「……ええ、そうね。確かに、もう終わったことだわ。だから、あなたが誰と付き合おうが、もう私にはどうだっていいのよね」
 心にもない、いや、ないものにしようと心の奥底に閉じ込めていたものを叩きつけるようにこぼす。
 その言葉にハッとした顔をし、彼女は慌てて口を開いた。
「! ……まさか、昨日の!? ち、違うんです! あれは――――」
「違うって何!? 駅で男と女が抱き合ってて、他に何があるっていうの!? ……あなたも結局、あの人と同じなのね。女同士なんて無理だってわかった上であんな思わせぶりなこと……はじめから男の恋人がいるくせに……どうせ、本気じゃなかったんでしょ!?」
「そんな……! 振ったのはせんせいじゃないですか!? なのに……なのになんでそんなこと言われなきゃならないんですか!?」
「分からない……分からないよ! 傷つきたくなかったから突き放すつもりだったのに……今のままでいられればそれでいいと思ったのに……あなたが離れていくと思うと悲しくてたまらないの!」

 それはため込んでいた想いだった。どこまでもまっすぐな、思わず道を踏み外してしまいそうなくらい純粋な気持ちだった。
 心の箍が外れていくのを感じた。それが醜いことだと、子どもじみたわがままだと分かっていても止めることができなかった。
「……いやだ。いやだよ。先に進むのが怖い。でもこのまま何もなかったみたいに終わってしまうのが、一人がもっと怖い……」
 想いがとめどなく溢れてくる。どこに向かっていけばいいのか分からない、何も見えない想い。
 さながら親の姿を求めてあてもなく彷徨う迷子の子どもだ。探して探して探し回って、挙句歩き疲れて途方にくれたように、私はその場にしゃがみ込んでしまった。
 その姿をただ黙って見つめる彼女は、一体何を思うのだろう……


「……せんせい、子どもたちももう帰りました。私たちももう帰りませんか?」
 ただお互いが無言のまま時間が過ぎていき、薄暗い部屋で先に口を開いたのは彼女の方だった。
「……え、だって定時にはあと1時間……」
「そんなのどうにだってなります! いきましょう!」
 彼女は私の手を引いて、そのまま上司の元へ早引きの直談判をしにいった。
 彼女がどんな話術を使って時間休をつかみ取ったのか、遠巻きで見ていた私には分からなかった。ただキョトンとした上司の表情だけが目に映った。




 連れてこられた先はいつもの居酒屋だった。客が増える時間から少し早いからか、まだ店内はランチの雰囲気を残す落ち着いた様相だ。入り口に入るなり、そのままいつもの場所に向かい合うように座る。
「……情けないところ、見せちゃったわね」
「いいえ、いつも素敵なせんせいが泣いてるところ見たの初めてで、変な言い方ですが……綺麗だったです」
「ふふっ……」
 彼女の歯に衣着せぬ正直な気持ちに、思わず笑みがこぼれてしまう。
 泣けるだけ泣いてすっきりしたのか、憑き物が取れたように心が軽くなったのを感じた。


「実はね、女の人から告白されるの、これが2回目なの」
 だからかもしれない。今なら素直に言えるかもと、私は閉じ込めていた過去を今こそ伝えようと言葉を紡いだ。
 それは高校生のときのこと。私が初めて告白されたところから始まる昔話。


「幼馴染というものね。仲のいい友だちだった。……いいえ、少なくとも私の抱いていたものはそれ以上のものだった」
 あの人に想いを告げられるより前から、私の中の『好き』が単なる友だちとしてでないことは気づいていた。でもそれは明らかにしてはいけない感情だと心を押さえつけてきた。
「そんな時のあの人からの告白だった。はっきり言ってあんなに嬉しかったことはなかったわ。私はすぐに返事をした。その後もデートだってしたし、……キスくらいはよくしてた」
 それは夢のようなひと時だった。こんな関係が永遠に続くと、信じて疑わなかった。
 まさかあっけなく崩れてしまうとは私には、想像すらできなかったのだ。

「半年も経った頃、彼女と二人で会う時間が急に減ったの。当たり前のようにしていたキスも、指折り数えられるくらいになっていた。疑念は予感に変わり、そして私は認めざるを得なかった。あの人の心が私から離れていっているのだということに」
 所詮は誰もが経験するいくつかの恋の一つ、私はあの人と話をして、きっぱりと終わりにすればそれでいいと思っていた。悲しい気持ちはあっても、単に恋人として好きでなくなったというなら昔のように友だちに戻ればいいと、あの時の私は無知にもそう考えていた。
 でもあの人の言葉は、私の軽はずみな希望をも粉々に打ち砕いてしまった。

『えっまさか本気にしてた……とか? いやいや違うでしょ? わたし、彼氏ができたの。やっぱり本当の恋人が欲しいじゃん? 大丈夫だって、真理にもちゃんと好きになれる人ができるよ』

 本当? ちゃんとした?
 彼女への恋愛感情は偽物だったとでもいうのだろうか。
 彼女との思い出は真っ当なものでなかったとでもいうのだろうか。
 踏みにじられたと思った。これまでの恋心も、これからの誰かを愛する気持ちも、それだけじゃない私の全てを否定された気さえした。

 何もかもが崩れ去っていくのを感じた。視界は暗闇に閉ざされ、ただあの人が私を励ます空っぽな声だけが頭の中を何度も反響し続けていたことだけを覚えている。
 それ以降、あの人とはついに二度と言葉を交わすことなく卒業してしまった。
 私は思い知った。せっかく安定した関係を築けたなら、それを先に進めてはいけないのだ。より多くを望もうとしたから、元の関係まで壊れてしまったのだと。

「……だから、私はあなたの想いに応えることができなかった。またあの時見たいに裏切られるのが怖かったから。今の関係を大事にするあまり、あなたを突き放してしまった。……ごめんなさい、ただ私が弱かっただけなのに。……こんなのただの言い訳よね」


 私の話はこれでおしまい。懺悔のような、贖罪じみた話を終えて、ふと彼女の方を見る。
 私の目に映った彼女の表情は……
「――――なんで、あなたが泣くのよ……!」
 彼女は泣いていた。頬を伝い零れ落ちる涙をハンカチで拭ってもなお、その目からは涙があふれて止まらなかった。
「だって……真理せんせいがそんなに辛い思いをしたのに、わたし、全然知らなくって……なのに、自分の想いばっかり一方的に押し付けて……せんせいを苦しませてしまって……ごめんなさい、わたし……ごめんなさい……!」
 彼女に非なんてあるはずがない。それなのにまるで子どものように、彼女は何度も何度も謝った。
 それが純粋な想いでなくてなんだというのだろう。それが正直な気持ちでなくてなんだというのだろう。謝るとすれば、私だ。過去の傷を盾にとって彼女の気持ちをないがしろにして、自分だけが傷つけば丸く収まると思いこもうとしていた。

 そんなのはただの逃げだということに気づいた時には、もう手遅れだった。
 彼女の涙を人差し指ですっと掬う。なんて愛おしい……できればこんな姿、誰にも見せたくないな。そろそろ誰かお客さん来るかもな、なんてふと店の入り口の方に視線を移したときだった。
「「あっ……」」
 思わず声が漏れたのは、彼女とほぼ同時だった。どうやら同じタイミングでそれを見つけたらしい。
 二人の視線の先を見ると、入り口のすぐそばに立てかけてあるホワイトボードが目に映る。
 それは普段季節のおすすめメニューが書いてある何気ないもの。少なくとも私たちの知る限りではそれ以外の何物でもなかったはずだった。でもそこに書かれていたのは……

『毎週火曜日はレディースデー! 女性限定で生中ジョッキ1杯の値段が半額!!』

「……せんせい、知ってました?」
「いいえ、私も初めて。考えてみれば、私たちって金曜日にしかここに来てなかったから、他の日に何があるかなんて知らなかった。新しい発見……ね」
 そんなことを言って、お互いに笑いあった。
 店員が怪訝そうに私たちの方を見る。そういえばここに着いてから何も注文していないままだった。
 せっかくなので、半額だというビールを二つ頼んだ。すぐに目の前にビールが並々注がれたジョッキが置かれる。泡が立ち上っては弾けて消えていくビール。理想的な7対3の比率のそれは店の明かりに照らされて、金色に輝いていた。

「……私ね、こういうことでよかったんじゃないかなって思うの」
「こういうこと、ですか……?」
 彼女は少し落ち着いたのか、ハンカチを下におろして私の方をじっと見ていた。
 涙で潤んだ瞳もまた、キラキラと光っていて綺麗だなと思った。
「少しだけ寄り道をして、今まで知らなかったことを知ることができた。また一歩進むことができた。この一歩を少しずつ積み重ねていって、それが大きな幸せになる」
 そうだ、変わってしまうことを恐れていては前に進めない。でもだからといって、前に進み続けなきゃいけないなんてことはないんだ。
「止まってもいい。そうすることで気づくことがあるから。回り道をしてもいい。そうしないと見えない景色だってあるから。そうやって少しずつ、ゆっくりと歩いていけばいい。そしてその隣にはどうかあなたにいてほしいと思った」

 我ながら、なんて虫の良い話だとも思う。でもそれが私の想い。純粋でもなければまっすぐとも言えないけど、今私が言える真剣な気持ち。
 それを伝えられただけでいい。これでたとえいつこの関係が終わったとしても悔いはない……

「あのー……やっぱりせんせいは誤解してます。昨日のアレ、……実は兄なんです」
「…………へ?」
 せっかくのかっこいい話が台無しになるくらい、間の抜けた声が出てしまう。
 嘘、は言っていない様子だった。というより口をキュッと結んでうつむくその表情は、私の早とちりに気まずそうにするそれだった。
 なんてありがちな勘違い。あまりの恥ずかしさに腰が抜けてしまいそうになる。
「それじゃあまさか……あの時泣いていたのって……」
「はい……真理せんせいに振られたと思って兄を呼び出して泣きついてたんです。引きずったらせんせいに迷惑をかけるからこっそりと思ったんですが……まぎらわしいことしてしまいました…………」
 彼女の申し訳なさそうに思う気持ちが、縮こまる姿全身で物語っていた。その小動物のようだとさえ思う仕草に私の心は温かいもので満たされていく。


 こんなに単純なことでさえもすれ違ってしまう。なんて不器用で、なんて不安定な私たちなのだろう。これからそんな二人が同じ道を歩いていくことに、迷いはもちろんある。でも、道を歩く以上迷うことは自然なことなのだろう。
「えーと、それじゃあ改めて言ってもいいですか? 真理せんせい、わたしはあなたのことが好きです。これからも恋人として、一緒に歩いて行ってほしいです」
 涙を拭う彼女の口から放たれた、やっぱりなんの飾り気もない告白。私の手を引いてくれる、まっすぐで純粋な好意。
 こんなにも温かな手を差し伸べられて、掴まないなんて嘘でしょう?

「ええ……少しずつ、二人の道を歩んでいきましょうね」
 一人で悩んでいた前とは違う。今は隣に彼女がいてくれる。
 決して緩やかでなだらかな道のりばかりではないだろう。躓いたり、踏み外してしまいそうになることもあるかもしれない。
 それでも二人一緒ならきっと大丈夫。そのはじめの一歩を今踏み出したのだ。


「はー、気が抜けたらのど乾いちゃったなー。真理せんせい、早く飲みましょう! あ、店長生二つ追加で!! 今日は半額だからいつもの倍いけますよね!」
「ちょっと美緒せんせい、倍飲んだらいつもと値段変わらない……ていうか明日も仕事!」
「だいじょーぶです! 酔いつぶれたら真理せんせいに送ってもらいますから! あ、せっかくですし手をつなぎましょうよ! ……それとも、また新しい発見を探します?」
「新しい発見……?」
「はい、たとえば――――」

 そう言って、私の耳元に彼女は口を寄せてそっと囁いた。吐息交じりのその言葉に、私の顔がみるみる赤くなっていくのが鏡を見ずとも分かった。
 何て囁かれたのかは…………恥ずかしいから言わないでおこう。





《 あなたと私のファースト・ステップ 了 》





【 あとがき 】
 はじめまして、×丸と申します。

 まず始めに、主催者様、他参加者様、並びにこの物語を最後まで読んでくださった方々。本当にありがとうございました。
 そして百合という同性愛をジャンルに据えた作品であること、事後報告になってしまい申し訳ありません。

 どのような形の恋愛であれ、全てのものには始まりがあります。
 今回のテーマはその一つのカップルの始まりです。これから真理と美緒の二人がどのような道を歩んでいくのか、期待や応援をしていただけるようなものを意識して書きました。
 ちなみに二人ともアラサーだとかそうでないとか……

 まだまだ未熟であるため不十分だったり拙い点は多々あるかと思いますが、それでもこうやって様々な方の目に触れる機会を頂けたこと、本当にありがたく思います。

 また同じように参加させていただくこともあるかと思いますが、その際もまたよろしくお願いします。


風の記憶簿  ×丸
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アメブロ ~あの空へ、いつかあなたと~  ×丸
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