Mistery Circle

2017-09

《 左手の記憶 》 - 2012.07.26 Thu

《 左手の記憶 》

 著者:すずはらなずな







その病室を訪ねると ベッドサイドのテーブルの上に置かれた「左手」が目に入る。 柔らかな皮膚の質感、繊細な色。「本物」より美しい、作り物の「左手」だ。

「やあ、ミシャ来たね」
ハルさんが右の手を軽く上げる。似合わないリクルートスーツの私を見ても、いつものようにただ微笑んでくれる。足の疲れも焦りも、自己嫌悪も この人に会っただけで柔らかになって溶けていくようだ。
「やあ、じゃないよ。調子はどう?寝てなくていいの?絵、描いてたの?」
ハルさんはベッドを起してスケッチブックを開いていた。また痩せたように見えてどきりとする。
動揺を見せまいとして笑顔を作ってスケッチブックを覗き込むと、最後の一枚に新しく描きかけの水彩画があった。窓から射す柔らかな日差、窓外の淡い葉影、誰も座っていない壁際のソファ、テーブルの上の「左手」。変わり映えのしないこの部屋なのに、なぜだろう、ハルさんが描くとこんなにも、物言いたげな、切ないような空間に変わる。
スケッチブックの前のページ、その前のページも私は知っている。ハルさんの家の一室、誰も居ない部屋、誰も座っていない椅子、小さな花だけがひっそり咲く静かな庭、遠く道の向こうに建つ朽ちかけた一軒家。ハルさんのスケッチブックはそんな「誰かの居ない場所」で溢れている。

「個室だからって言ってもさ、いきなり『手』、置いてあったら来る人ぎょっとするんじゃない?」淡い水彩の絵の中に描かれたそれは、手のひらを上にして 何かを求めて差し出しているようにも見えた。
「ふふ、看護師さんたちは誰もこんなものじゃ驚かないよ。残念」
入院に必要なものをハルさんに聞いて用意した時、着替えが少しと画材 お気に入りの画集、そして最後に彼はこの「腕」を持って来てほしいと言った。
「なかなかリアルだけど、使えるものでもないし…そんなにいつもそばに置いておきたいものなの?」
「大切な人から貰ったものなんだ」
「贈り物?」
「うん。お気に入りのオブジェ、ってとこ」

「でも、ミシャを脅かしたこと、あったよね」



ハルさんの家に あの頃の私はよく、母に連れられて行った。人がやっと通れるくらいの小さなつる薔薇のアーチをくぐると、レンガ敷きのエントランスに趣味の良いハーブの寄せ植えがいくつか並んでいる。勝手に居付いた猫たちがそれぞれお気に入りの場所でくつろいでいる。お祖母さんから譲り受け、学生時代から住んでいるというハルさんの家はこじんまりとしてとても居心地がよかった。風通しの良いテラスで過ごすその時間は特別に幸せな 私の思い出の一つだ。
母とハルさんは手際良くテーブルを出し、白いレース飾りのついたクロスを広げる。 ハルさんは右の手と左の上腕 顎などを器用に使って何でも自分でこなす。
「生まれつきだからね。不自由だなんて思ったことはないんだよ」
ハルさんは私の髪を右手でそっと耳に掛け直してくれる。その優しい右手が私はずっと大好きだった。

小さな花瓶に好きな庭の花を一輪飾るのと、フォークを3本キッチンに取りに行って、テーブルに並べるのは私の分担だ。ハルさんはいつも宝石箱のようなフルーツタルトを焼いて私たち母子を迎えてくれた。

その「左手」を初めて見たのはまだ小学校に上がる前の頃だったろうか。母とハルさんがいつものように美術や映画の話に熱中し始めたのがつまらなくて、私は一人、家の中を探検していた。ハルさんの家は広いリビング以外に部屋が二つで、一方はハルさんのアトリエ兼寝室だ。私はハルさんの部屋でハルさんの作品や本棚の様々な画集を見た後、向かいの部屋のドアを開けた。ハルさんの部屋と同じようにベッドと机、窓際に小さな椅子があり、壁に綺麗な女のひとの絵が幾つか飾ってあった。一通り部屋を見渡しベッドに腰かけたとき、サイドテーブルに それは、あった。指が細く美しいハルさんの「本物の」右の手より、少しだけ骨ばった感じのする「左手」だった。

母の勤める美術教室でデッサン用の石膏像も見慣れていたし、母とハルさんの知り合いの個展で、沢山の趣味の悪いオブジェや絵も見てきた。店のショーウィンドゥで 外されたマネキンの腕を見たこともある。驚いて固まってしまったのは、透き通るように繊細で柔らかな色合いや艶やかな質感のせいだ。怖いというのではなかった。何て美しいのだろうと思ったのだ。どれくらい息を止めていたのだろう。くらりとして倒れかけた私を抱きとめてくれたのはハルさんだった。

「勝手に人のおうちをうろうろしないの、ってあの日私は母さんに怒られたよ」
「何であんなもの置いてるのって、僕も後で怒られた」
結局二人とも溯子に怒られたんだね、ハルさんはくすくす笑って言う。 母はこの「左手」をなぜか酷く嫌っていた、
今ではそんな話をして一緒に笑えるけれど 実のところその後私は かなりの間悪夢にうなされ続けていた。ハルさんと手を繋いでいたはずなのに、気がつけば抜けた「手」だけを持っている。母がお土産に持って帰ってきた箱を喜んで開けたら中身がそれ、という時もあったし、種を撒こうとした土からそれが覗いていることもあった。私は驚いて目を覚ます。嫌な汗をかいていた。でも、その時私が怖かったのは、「手だけがある」ということではなく その手だけを残してハルさんがどこにもいなくなってしまったという そちらの方だったのだと思う。ハルさんは私にとって大事な人だった。そし今 その大事な彼を私は失おうとしている。



親しく傍にいる大人の男の人というのがそもそもハルさんしかいなかったので ハルさんのようなひとが「男性」だというのなら私にはそっちの方が自然だし正しい。柔らかい声のトーンとしなやかな仕草、料理と手芸が得意で花を育てる名人。私のどんなつまらない話でも微笑みながら聞いて、共感を持って肯いてくれるひと。
いつも着ていた淡い色合いのコットンのシャツは触れると羽みたいに軽く、柔らかなV首のセーターから覗く奇麗な鎖骨や肩耳の金色の小さなピアスがきらきら光を受けるのを眺めるのも好きだった。

「父親」というものを私は知らない。
私のアルバムを開くとハルさんと母ばかりが映っている。一人っきりの子育てが思った以上に大変で、自信を失っていた母を気遣って よく手伝いに来てくれたのだという。
「夜泣きの時、泣き止むまで付き合ったのも、熱を出した時 寝ずに看病したも僕なんだよ」
「そうなの?」
「だって 朔子は一度寝たら絶対起きないじゃない?」
「鼻つまんでも起きない」
「足の裏くすぐったって絶対起きなかったね」
「火事だぁって叫んだって 起きなかった」
そんな風に私たちは共犯の笑みを交わし こっそり母の「悪口」を言い合った。今、思うと、神経質だった母がそんなにも眠りが深かったのは、起きている間張り詰め切っていたせいなのかもしれない。何をするにも不器用で、その分全力だった人。その母も三年前事故で急に亡くなった。
親しい親類も無く祖父母は遠方の上、母と折り合いが悪かったそうで、頼れない。ハルさんが居てくれなければ 私は世界中でたった一人ぼっちだと思ったかもしれない。



「ハルさんは私の『お父さん』なの?」
小学校の頃、ハルさんに直接聞いたこともある。そうなら何故そう言わないの?何故別々に住むようになったの?
ハルさんは困ったように笑い、幼い私には何とも理解しづらい返事をした。
「僕は『お父さん』になろうと思ったことがないんだよ。ミシャの事は大好きだし、産まれてくれて嬉しいと思ったけど」
ハルさんは私のことを「ミシャ」と呼ぶ。本当は名付け親になりたいと申し出た時 好きな画家に因んで、「ミュシャ」と読める字を色々考えたそうだ。
「妥協しちゃったね」
「いいよ、読めない名前でなくて良かったよ。美紗で十分気にいってるし」
「そっかぁ」
ハルさんはふざけて大げさに肩を落とし、本当に残念そうに言う。
せめて呼び方だけはと、無駄に努力してるんだ、と母は笑った。 しかも絵描きの「ミュシャ」は男性だし、名前なら「アルフォンス」だし、と。



「何度も何度も、ミュシャの絵の飾ってある部屋の絵を描いてたよね」 朝の光に満ちた部屋、雨の日の心沈むような部屋、夕刻の優しい茜色の、夜の重苦しい闇に包まれた部屋。
ハルさんが 少し疲れたと言うのでベッドの角度を替えて 蒲団を掛け直してあげた。スケッチブックをサイドテーブルに置き、水彩絵具を片付け パレットを洗う。
背中を向けていても ハルさんが一瞬 息を大きくつくのが解った。淡い緑と薄い黄色の絵具が混ざって溝の周りに少し溜まり渦をまいて流れていった。私は黙って ハルさんの気配だけを感じながら排水溝を見ていた。

「うん。出ていったきりの同居人。あの部屋は『彼』の部屋、あの椅子に座って『彼』も絵を描いていたんだよ」
そのひとの『不在』をずっとハルさんは描き続けてきたのだ。ミュシャの絵が好きな、部屋の主。
「やっぱり朔子は彼の、君のお父さんのこと、教えてくれないまま?」
母もハルさんも一度も言わなかった、だけど、何となく感じていた。部屋の主はやっぱり私の父親なんだ。がらんとした部屋を描きながら、ハルさんはそれでも彼の帰りを待っているのだろうか。

「『死んだ』って聞かされて そうじゃなさそうだって薄々気付いたのは結構前だけどね」
「きっとミシャにたくさんの嘘はつきたくなかったんだと思う。あのひとは。っていうか作り話とかも苦手そうだったしね」
「大きな一つの嘘ならいいってのも、何だかね。『お父さん』ってそんなに嫌なヤツだったの?」
ハルさんは窓の外を見て、そこにまるで古い友人が立っていたかのように目を細めて 少しだけ微笑んだ。
「私 平気だよ。私が傷つくようなことがあって、そんな風に思って色々隠してくれているんだったら…でも」
ハルさんが悲しむ話なら しなくてもいい。そう思っていた。


「お前の左手だって創れそうだって。そう言ったんだ」
長い沈黙の後、ハルさんがその「手」を取って、と私に言った。思った以上に軽いその「手」をハルさんに渡すと、ハルさんはゆっくりと受け取りながら言った。
ハルさんは私に向いて優しく微笑むと
「ミシャはもう子供じゃない。ひとの心の弱さや駄目なところも、解ってあげる優しいひとに育ったね」
ハルさんに急に褒められて 私は戸惑った。そんな風に言って貰える自分なのかどうか、はなはだ自信がない。

「きみのお父さんの話を、僕がするべきだと思うんだ」
母さんが亡くなるまでずっとその話を避けてきたとしても?

明るくておおらかで皆に頼られるそんな奴だよ…ゆっくりと身体を起し、ハルさんは話し始めた。
高校の時から寛人と僕はいつも一緒だった。クラスも少ない男子高だったから3年間ずっと同じクラスで、同じ美大を目指し、「親友」だった。
彼は運動部とかけもちでの美術部だったけれど 部長を引き受けてたりして、頼りがいのある面倒見の良いヤツだったよ。
「絵も上手かったの?」
私が聞くと ハルさんはとても誇らしげに頷いた。

独特のセンスと才能があって凄く器用な男だった。色んな物事に興味を持っていて、あのときは舞台美術に関心があったっけ。絵も彫刻も得意で他人の課題まで楽しげに引き受けていたよ。
「嫌なヤツなんかじゃないよ。皆に好かれてた」
ハルさんは 私の目をじっと覗き込むようにして 迷いの無い口調で言う。
「大好きだったんだよ、僕も。そして、朔子もね」

─朔子とは大学で知り合った。僕と同じ学科でね。頻繁に僕に会いに教室に来る寛人は 真面目な朔子に何かと絡んだりからかったりしては嫌がられ、それでもだんだん気心の知れた仲になっていったんだ。朔子があいつのこと苦手だって逃げ回っているのに捕まって 怒ったり冷たい対応をすると余計に面白がられていた。人見知りで喋るのが苦手な朔子が 少しずつ自分でも気がつかないくらい少しずつ 寛人に心を開いていくのが解ったよ。
ハルさんはそう言いながら きっと「彼」の笑顔や仕草を思い出しているのだろう。とても優しい、でも寂しそうな顔をした。

「この『左手』の話になると ちょっと長くなるよ」
ハルさんは前置きをし、少しの間目を閉じていた、まるで今、大事にしまっておいた古いフィルムを 巻き戻しているみたいに。それはまだ、『左手』を贈られるよりずっと以前の話から始まる、

─高校時代の学園祭の準備の時期、皆で特殊メイクについて調べていたんだよ。
ハルさんは懐かしそうに目を細め、その手に触れていた。
痛々しい傷のメイクや異形の宇宙人のマスク、そんな画像を検索しながら 作成方法や素材について一緒に検討していた その時にね、寛人は言ったんだ。
『これならハルの左手だって創れそうだ。俺 創ってやるよ』
あんまりさらっと言ったので 周囲が一瞬何を言っているのか解らない雰囲気だった。入学以来ずっと、僕の左の手のことは皆 触れないできた。それが優しさだと 誰もが思っていた。もちろん僕自身もそれで有難かったしね。
「何て答えたの?急にそんな場面でそんなこと言われても 困るよね。」
私が言葉を挟むと ハルさんは小さく笑って 首を横に振った。
『ありがとう。でも、今はいいや。結構間に合ってる』
僕は答え、『ヒロに作らせたら、左のつもりで間違って右手作りそうだし』
見かけによらず繊細だって僕は知ってたけれど、周囲の持つ寛人のイメージは天才肌だけどちょっと抜けてるっていう感じでもあったからね、固まった空気が緩んだことに皆が安堵した。たけど、その話を後で聞いた朔子は凄く嫌な顔をしたんだよ──そこまで続けてハルさんは言い、ちょっと苦しそうに胸を押さえた。
「母さんが?」
「そういうところがデリカシーがない、ふざけ半分で軽々しく言うことじゃないって」
色んな場面でハルさんの気持ちを、母はいつも一番に考えた。その時もきっと、そうだったのだと私は思う。
絵画教室の講師をハルさんと一緒にしていた時も、誰かがハルさんを不用意な言葉で傷つけようものなら母が放ってはおかない。どんな小さなことでも母は見逃さなかった。母はいつもハルさんを守ろうとしていた。どんなに周りを敵に回しても。それは 幼い私にも伝わっていた。

「そういう朔子の気持ちも有難かったけど、でもね、寛人の言葉がただのいい加減な思いつきだとも思わない」
ハルさんはそう言って 作り物の「左手」にそっと触れる。それは最初見た時の印象の通りハルさんの右に合わせた作りではない。明らかに他の誰かのものだ。
「あいつらしいって思ったよ」
そうしてハルさんは 高校入学してすぐの初対面の頃の話をしてくれた。
──戸惑うほど真っ直ぐに僕の身体を見るんだ。左手ってどうなってるの?って。そんなこと聞く人は初めてだった。
そして こういう時はどうやってするのか、不便な時はないのかとあれこれ聞いてきた。興味本位かと思って無愛想に応える僕に、笑顔で食い下がるんだよね。変な奴だと思ったよ。
高校生のハルさんの不機嫌な顔を想像しきれないまま、先を促す私に 「でもね」とハルさんは続けた。
『凄いなぁ。お前マジ凄い。だけど、不便なことあったら他人にもっと頼ってもいいんじゃない?』
背の低いヤツは椅子を使って物を取る。けれど背の高いヤツが来たら頼んで取ってもらうこともある。そんな風に言う彼の態度にまだ釈然とせず『でも…』と言いかける僕に、彼はこう言ったんだ。
『便利なものを使って人間は進化してきたんだ。いいと思うよ。不便なことがあったら 俺の左手、いくらでも貸してやる』
「色々助けてくれた?」
「そうでもなかったかな、案外頼る場面は無くって。却って邪魔だって文句言うこともあった」
でもそういうやりとりの思い出が ハルさんにはとても大切なのだ、愛しいのだ、それはハルさんの横顔からも十分伝わった。
「そんな寛人だからこそ 僕は…」

ハルさんは少し疲れたのか目を閉じた。静かな病室には夕陽が射しこんでいた。窓から見える広い空に目を移すと、遠く、鳥が隊列を組んで飛んで行くのが見えた。
少し長い沈黙の後 ハルさんは深く息を吸い 静かに呼吸を整える。
「大丈夫?疲れたなら今日は帰るよ」



頼まれて ハルさんの家を訪ねた。花に水をやってポストを確認し 窓を開けて空気を入れ替える。天気の良い秋の日だ。家が、部屋が、そっと息を吹き返す。ハルさんが帰っきたのかと庭の茂みから猫たちが顔を出す。
あの日は話はあれで終わりにした。ハルさんの体調を気遣って長く話すこと止めたというのもある。父のことは知りたかったし、左手について最後まで聞きたかったけれど、まだ、全部聞かなくていい、ハルさんとの時間を引き延ばしたい。話を全部聞いてしまったら、ハルさんがどこか遠くに行ってしまいそうで怖かった。

ハルさんの部屋には 以前と同じように馴染んだ油絵具のにおいがした。隅の小さな木の丸椅子に座り ハルさんが絵を描くのを見ているのが好きだった。ハルさんの作業が途切れないよう、ハルさんの今欲しいものを探して手渡すのが私の役目と自分で決めていて、それがぴったりと上手くいった時は 嬉しかった。
けれど今 しんと静まった部屋の中、イーゼルには描きかけの作品は無く、絵具などもきちんと片付けられていた。もう入院は覚悟の上だったのかもしれない。 教えられたように書棚の下の引き出しを開けた。ポストカードサイズの小さなスケッチブックがある。ハルさんに持ってくるように頼まれたものだ。取り出すと 一枚の写真が挟まっていることに気がついた。そっと出して見た。黒ぶちガネで化粧っけの無い仏頂面の女の子は母だ。ハルさんは今より短髪で、柔らかな雰囲気はそのままだが「普通の」男子学生っぽく見える。その二人の真ん中に、伸ばした髪をひとつくくりにした背の高い骨太な男子学生が満面笑顔で写っていた。これがきっと父だ、そう思った。

ポストカードサイズのスケッチブックを見ていると たくさんのことを思い出す。ハルさんは毎年私の誕生日が近付くと、こんな大きさの画用紙に私を描いた。その中でちゃんとモデルとして向き合って座ったのはほんの数回かもしれない。じっとしていられなかった幼い頃、見つめられるのが照れくさかった中学生の頃、ハルさんは普段通りに喋りながら 動く私や横顔の私をその小さな画面に収めた。高校生の頃は、素顔が描きたいからと説得されて、ふくれっ面でメイクを落とした。でも、それらの絵が、全てここには無いことに今 気付いた。

 *

「ミシャは今、好きな人いる?」
翌日 ハルさんの所にスケッチブックを持って来た。久しぶりにきちんと向いて 絵を描いてもらっている。
「すっかり大人の女性になったね」
私の答えを待たずに ハルさんは続けて言った。
「ずっと一緒にいたい人ができたら ちゃんと気持ちを伝えて 幸せになって…」
言いかけて 苦しそうに息をするハルさんに驚いて 手を延ばす。
「そのまま、動かないで。モデルさん」
そう言って笑うけれど今日は 顔色が酷く悪い。

「でも僕の場合は 告白すべきじゃなかったんだ。ミシャをひとりぼっちにさせたら、それは全て僕のせいだ」
ハルさんは「左手」の話の続きをしてくれた。

──寛人は僕の誘いであの家に一緒に住むようになった。朔子や美大仲間がよく訪ねて来たよ。明るくて活気に満ちて、一番幸せな時代だった。寛人の一番近くに自分がいることが幸せだったんだ。でもね、同時に僕の中、どんどん暗闇が広がっていくのも解ったよ。「嫉妬」とか「独占欲」とか そういうの。自分勝手な、ね。
朔子が寛人を好きなのも知っていたし、朔子に寛人の気持ちが向いていくのも解ってた。
「だから 言うべきじゃなかったんだ。なのにある日みっともないくらい取り乱して、僕は」
──好きだって?問いは声にならなかった。でもハルさんには伝わった。
「可笑しい?可笑しいよね」
そんなことはない、私は強く首を横に振った。ハルさんの想いが痛いほど伝わって 胸が苦しい。嗤わないで、お願いだ、自分自身を嗤わないで。
「父さんは?」

父は逃げたのだ。「親友」の想いを受け止めれきれなくて 逃げて母のところに行った。そして彼が自分のところに来た理由を後で知った母は 彼を詰った。そして決して彼を許さなかったのだ。
「朔子は自分自身も許さなかった。馬鹿だよね、ほんと。二人で幸せになれば良かったのに」
ハルさんはそう言って悲しそうに笑った。

──『出て行くのなら 出て行けよ。でも その左手だけ、置いて行って。』滅茶苦茶だよね、彼には何の非もなかったのに。情けない一人芝居の修羅場。
一人で生きて行く。だからその左手だけ僕に下さい。ヒロは僕に 俺の左手いくらでも貸すって言ってたよね。
狂気じみていたんだろうね、僕の目は。寛人は言葉を失って 酷く苦しそうな顔をした。そのままだと本気にして自分の左手を切り付けかねなかったよ。だから言ったんだ。
「やだな、冗談だよ」って。高校生の時こんな約束もしたじゃない。左手、創ってくれるって。だから、記念に寛人の「左手」が欲しいなって思って。
やっとヒロの顔に色が戻り、口元がほころんで 二人で穏やかに笑ったんだ、とハルさんは言った。ハルさんの家を出て、母のところからも追い出された彼が、どこか旅先からこの「左手」を送ってきたのは ずっと後の話らしい。

無理に作った笑顔がゆるゆると泣き顔に変わる。肩を震わして泣くハルさんは小さな少年のようだった。面会時間が終わっても、私はいつまでもハルさんを抱きしめて 背中を擦り続けた。

*
ハルさんが書いてくれた住所を訪ねると そこはのどかな田園風景の広がる場所に ぽつりぽつりと建つ古い一軒家の内のひとつだった。
ひとの住んでいる気配はないけれど、ハルさんの言うように持ち主が手放したわけではないということは 村の人からも教えて貰った。そのうちふらりと帰ってくるんじゃないか 大した荷物も持たず彼が出て行くのを見た人がそう言った。両親亡くして、あの子も一人っきりだったねぇ、と。
丈の高い秋の草が傾いたポストを隠す程伸びて、つる草が窓の格子に絡んでいる。古びた簾が秋風にぱたぱたと揺れている。縞柄の野良猫が縁の下からじっとこちらを見ている。
「ねえ、きみ、ここの住人さんを知らない?」
話しかけても 猫は素知らぬ顔で尻尾だけをぱたりとさせた。
──外のポストは閉じてあるから そこじゃなく 玄関の方にね。
ハルさんが言ったとおりに引き戸の横にある簡易な郵便受けに 持ってきた葉書を落とし込んだ。ハルさんの描いた、泣きそうな顔をした私が そのまま玄関の床にひらりと落ちて行くのが見える。そしてその僅かな隙間から 幾枚もの「私」や、裏面に丁寧に書かれたハルさんの文字が見えた。ハルさんはずっとそうやって いつ帰るのか解らない彼に 私の成長を知らせ続けてきたのだ。私が母のお腹にいることを知らないまま 父は連絡を断ちどこか遠く、おそらく海外に行ったのだという。

ずっと好きだった人、いるよ、告白したこともあるよ、私は呟いてみる。
だって私、何度も何度も「好きだ」って伝えたじゃない。だけどハルさんは「少しはお父さんの代わりになれてるかな」なんて見当違いなことばかり言う。女の人と結婚して「お父さん」になりたいなんて思ったことないって言ったくせに。
たくさんの孤独とたくさんの優しさを抱えて ハルさんはいつも傍にいてくれた。心配しないで。大丈夫 私はちゃんと生きていくよ。

高い空。浮かぶのはすっかりうろこ雲になった。遠いあぜ道 真っ赤な彼岸花。すすきの揺れる中 こちらに向かって来る人が見える。夢でこういう光景を見たような気がする。これも夢なのかもしれない。空で大きな輪をかいて鳥が飛び、どこかで風鈴がちりりと鳴った。ゆっくりその人は近づいてきて 私の存在を認める。私はあの左手を知っている。

もう一度見上げた青空で、ふっ、と誰かが笑った気配がした。





《 左手の記憶 了 》





【 あとがき 】
お久しぶりです。
やっと書けて嬉しかったです♪
色々と収集つかないままで終わっていますが こういう風にしておきたかったので。ということで。

【 その他私信 】
お休みしている間のみなさんの作品の完成度がハンパなくて、ハードルだだ上がり(汗)。これ以上悩むと出せなくなるので 今回はなんと締め切り前に送ります。えいっ。


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