Mistery Circle

2017-08

《 パラッツォ・ヌオーヴォの幽霊 》 - 2012.07.26 Thu

《 パラッツォ・ヌオーヴォの幽霊 》

 著者:李九龍







 随分と冷え込むじゃねぇか――
 と、微かな灯りしかない広く暗い廊下の中に、二つの靴音と一人の男の声が小さく響いた。だがその声さえも闇に飲まれるが如く、瞬時に静寂へと包み込まれて行く。
 そこはイタリアのローマ。深夜零時のヴァティカン宮殿の一画にあるパラッツォ・ヌオーヴォ美術館。但しその場所は、地下の保管庫の更にその下にある、一般客はおろか、そこに勤める関係者さえも知る人の少ない空間。“禁制の間”と呼ばれる、忌み嫌われし場所だった。
 伝染病に掛かった群衆が城の兵士達に虐殺されていると言う地獄絵図。墓から蘇り、かつての恋人に逢いに行く亡者の絵。魔女と呼ばれて生きたまま燃やされる拷問の絵もあれば、一目見ただけで全身に鳥肌が立つぐらいのおぞましき悪魔を描いた彫刻物までもある。
 要するに、廊下の左右に立ち並ぶ温白色の灯りに照らされし絵画や彫刻はどれも、この世で“禁忌”と呼ばれる門外不出の絵ばかり。そう言う意味での、“禁制の間”なのだ。
「寒いのかい?」
 愛用のブリムダウン帽の鍔に手を掛け、先を歩くスーツ姿の男が、皮肉混じりにそう言った。リュート・D・クロフォード、二十八歳。フリーライター兼、“異端”と呼ばれて同業の仲間から嫌われている考古学研究者だ。
「いや……寒いと言うよりも、何だかおぞけがするぜ、この地下室は」
 その後ろを歩く熊のような体躯の大男は、マルコ・ノーラン、三十五歳。自称冒険家だが、その実はフランスの大手自動車メーカーのオーナーでもあった。
「やけに素直だなマルコ。怖い時に怖いと言えるのは、賢い証拠だ」
「ジョークで言ってる訳じゃねぇぞリュート。ここは怖いと言うよりも――」
「よりも、何だい?」
「鬼気迫るって感じだ。空気が重い。この廊下の全てが、悲しみと怒りが充満している」
「感じるだけだろう」リュートは笑う。「気にするな」
「気にするなって――どうやってだよ」
 お互いに軽口を叩き合いながら、その暗く静かな廊下を進む。そしてやがて、その廊下は突き当りへと行き着いた。
 そこには、男が一人立っていた。黒の燕尾服を着込んだ、頭髪の一本もない痩せぎすな背の高い年輩の男だった。普段に出逢えばごく普通に身なりの良い紳士然として見えるのだろうが、今こうしてこの時間帯にこのような場所で出逢えば、それはやけに気味の悪い存在のようにも見える。
「クロフォード様ですね。お待ちしておりました――」
 スミスと名乗るその初老の男性は、火の灯った燭台を片手に、二人に向かって静かに礼をする。蝋燭の灯りがその初老の男の姿を模した大きな影を作り上げ、気味の悪さを引き立てていた。
「館長のヴィクトールさんから呼ばれて来たのですが、彼はどこに?」
 聞けばスミスは静かに首を横に振り、「申し訳ありませんが、急病にて」と、告げる。
「重いのですか?」
「かなり――と言うより」スミスは更に声をひそめる。「悪くすれば、今夜から明日の朝に掛けて息を引き取られるのではないかとうかがっております」と、続けた。
「まさか……二日前に電話でお話しした際には、元気そうでしたのに」
「ですから、急にお悪くなったのです」
 言われてリュートは、「なるほど」と返す。
「では私はどうしたら? 非常に重要なお話しだと聞いて来たのですが」
「それは私が代わりに――」と、スミスは言い掛けて、リュートの背後に立つマルコを見る。
「あぁ、これは私の友人です。同行させる旨は館長にもお伝えしていたのですが」
「聞いてはおりませんが……まぁ、構わないでしょう」
 言ってスミスはスーツの内ポケットから一通の白い封筒を取り出す。そしてその封筒をリュートの方へと差し出しながら、「これを書いた直後に、ヴィクトール様は倒れられました」と告げた。
「おそらくは、御自身の寿命を悟ったのでしょう。二日前の夜、この“禁制の間”より戻られると同時に私に事の顛末を話し、そして書斎へと引き籠ってこれを書き上げました」
「私に電話をくれたのはその直後?」
「えぇ、おそらくは」
 リュートは封筒の裏へと施されたヴィクトール家の紋章の封蝋を剥ぎ取り、手紙を広げた。
「今から私が話す事が、その手紙の内容と一致するかどうかをご確認願います」スミスは言う。
「私は、今あなたがいるこの場所で、とある亡霊に出逢った」
 静かではあるが、どこか覚悟を持った声だった。
「気付くのが遅過ぎた。私が“それ”が何であるのか判った頃には、既に五日もの時間が過ぎていた。そして私が“それ”をこの場所に移動し、ここに飾った直後に、その亡霊は現れた」
「“それ”って何だよ?」
 マルコの問いに、リュートは立てた人差し指でそれを制した。
「その若き男の姿の亡霊は、私に向かってこう言った――。“次の持ち主を探せ”と」
 スミスの言葉にリュートは頷く。そしてスミスは続けて、「“もしくは、この絵の謎を解け”」と、告げる。
 ふとリュートの手が動き、指で自らの唇をなぞり始める。考え込む時に見せる、いつもの彼の癖だった。
「なるほど。どういった経緯かは知らないが、今より一週間前に、この美術館に“それ”が運び込まれてしまった」
 はい――と、スミスは頷く。リュートは既にその手紙の内容には目を通し終わったのか、畳んでそれをジャケットの内ポケットへとねじ込んだ。
「そうなれば“それ”の持ち主はおのずと館長のヴィクトールさんとなる。そしてその事に気が付いたのが二日前。“それ”をここに飾り終えると、彼の目の前にその亡霊が現れ、そう告げた――と、こう言う事ですかね?」
「えぇ、その通りです」
「それで判った」言ってリュートは、その廊下の突き当たりの壁に布で覆われながら飾られている一枚の額を指差した。
「“揺蕩(たゆた)う湖畔の夕べ” ――この世からその名前が途絶えて久しい、禁忌中の禁忌、呪われし死の絵画だ」
 スミスは何も答えない。だが、彼が黙ってその額に掛かった布を取り去る所を見る限り、リュートの推理が全て当たっている事を物語っているようだった。
「おい、ちょっと、リュート――」
 背後でマルコが何かを言い掛けていたが、既にその布は払われ、淡い光の中にその絵画があらわになっていた。
 それは一見した限りでは、呪いだの何だのと言う以前に、全くなんの特徴も見られない程にありふれた一枚の風景画だった。絵の中央に木造の小さな家が描かれており、その背後には夕暮れの空と、その色と同化した広き湖。遠くには白く連なる山々が見て取れた。
「へぇ……これが」
 リュートは、さも嬉しそうにそれを眺める。そこへマルコが横に立ち、「説明しろよ、リュート」と、肘で小突いた。
「今言った通りだ」と、リュートは笑う。「人手に渡ったが最後、その持ち主を僅か一週間で死に追いやる呪いの絵だ。そしてその呪いは確実で、今までに何十人もの人間がこの絵画によって命を断っている」
「ふぅん」と、マルコは腕組みをした。「とてもそんな絵には見えないんだがな。むしろやけに穏やかで、平穏な絵にしか感じられない」
「だからこそ知らずに譲り受けてしまう。実際にはこの絵の呪いなど知らないままに亡くなった人も多いだろうね」
「本当なのか?」と、マルコはリュートに向き直る。「実際この世にそんな曰く付きの絵画なんて山のようにあるだろう。でも大体は、取って付けたウソっぱちの噂ばかりだ。これだってその類なんじゃないのか?」
「根拠はあるよ。僕が昔に何かの文献で見た絵と、これは同一だ」
「それだけか? これと似たような絵画なんて、世界中にゴマンとあるだろうに」
「ヴィクトール館長は、倒れる直前に若い男の亡霊を見たと言っている。これもこの絵画にまつわる伝説の一つだ」
「この絵のせいだとは断定出来ないだろう? これだけ曰く付きの絵画だらけの場所なら、幽霊の一人や二人いてもおかしくはない」
「マルコ、夢中になると否定意見ばかりになる君のその性格は、相変わらずだね」
「いや、この件については真っ向全否定だ。俺に言わせりゃ絵の呪いで人が死んだって言う辺りから眉唾だ。いつどこで、どんな人が死んだのかなんて証拠までは出せないだろう?」
 マルコが言うと、リュートは困った顔をしてスミスを見つめる。するとスミスは軽く首を振り、「御存知ないのですね」と、聞き返した。
「ではまず、この絵を描いた画家の事からお話ししましょう」スミスは静かに話し始める。
「この絵、“揺蕩う湖畔の夕べ”は、旧西暦である1945年に、とあるユダヤ系青年画家の手によって描かれました。その青年の名前は、エーガー・ポートマン。ドイツの某収容所に幽閉されながら生み出されたものでした」
「収容所? ――あれか。大戦中のナチスドイツの時代の事か?」
「そうです。まさにその時代です」スミスは続ける。
「ユダヤ人であると言うだけで強制労働を強いられたり、虐殺されたりした時代です。そんな中、エーガーだけはかなり特殊な立場にいました。小さい頃から絵が上手かったと言う理由から、ドイツ軍を優勢に立たせた軍国主義的な絵画を描かされていました。もちろんそれは、母国や同胞を裏切る行為に他なりません」
「うん、それで?」と、マルコは先を促す。
「恨みはあったでしょう。怒りもあったでしょう。だがしかし、到底逆らう事など出来はしない。毎日毎日、ナチスの言いなりになって描きたくもない絵を描かされ続けた。だが――」
 言ってスミスは、そのエーガーの描いた絵を見る。同時にリュートとマルコもまた、同じ方向へと向き直った。
「彼には一つだけ武器があった。それが、この絵です。エーガーは毎日ほんの少しだけ与えられる自由時間に、隠れてこれを描き続けた。渾身の恨みを込め。更には自身の寿命の全てをこれに注ぎ込んで、そしてとうとう描き上げた。歴史的に実に意味のある、1945年の4月23日の事でした」
「歴史的意味だって?」マルコは不機嫌そうな顔でそう聞いた。「やけに大袈裟な言い回しだな。ナチスを崩壊にでも導いたか?」
「そこから一週間後に、ヒトラーが自殺したんだよ」
 リュートが口を挟む。マルコはそれを聞き、何かを言いたそうな感じで目をしばたたかせた。
「エーガーは、幽閉されていた自室でこれを描き上げた後、砥いだパレットナイフで自らの首を斬り裂き自死しました」スミスが続ける。
「床には、自らの血で書いた文字で、“敬愛する総統閣下にこれを捧ぐ”と一言。これにより、この絵は必然的にアドルフ・ヒトラー所有の物となってしまいました」
「そしてヒトラーもまた、死ぬ二日前にエーガーの亡霊を見たらしい」と、リュート。
「彼の日記の記述のラスト近くにもその事が書かれていたし、彼の周辺の部下達もまた、その話を聞いていた。だがそれでも彼は、その絵を手放そうとはしなかった。彼もまた、芸術を愛する画家の一人であったからね」
「しかし――」
 と言い掛けるマルコを再び制止し、リュートはスミスへと向き直れば、「待って。今は時間が惜しい」と告げる。
「昔話をしたいのなら、後にしよう。まずはやる事をやってしまわなければ」
 言うとスミスは困ったかのように眉間に皺を寄せる。するとリュートはそれを見て、「用意して来ているのでしょう?」と、真剣な面持ちで言った。
「不本意なのは判りますが、館長に何かあってからでは遅い。さぁ、早く」
 急かせば、スミスは足元に置かれた革製のバッグから、数枚の紙片を取り出した。そしてそれを脇から見たマルコは、「何やってんだ!?」と声を荒げる。――それは、“揺蕩う湖畔の夕べ”の絵画に関する権利書だった。
「良いのですか?」
「お気になさらず」
 言ってリュートはその下にある譲渡依頼書に手早くサインをした。
「何やってんだリュート! お前、それ……その絵を引き取るつもりか?」
「見ての通りだ。ヴィクトール氏を助ける為にはこれしか方法はない」
「しかし……今度はお前が死ぬかも知れないんだぞ?」
「おや? 信じてはいなかったんじゃなかったのか?」言い返し、リュートはにやりと笑う。
「それに、死ぬかも知れない訳でもない。この呪いは確実だ。絵を所持している限り、必ず一週間で死ぬ」
「リュート!」
「サインは終わりました。後程、館長の様態をお聞かせ下さい」
 スミスに向かってそう言うと、「何と――お礼を申して良いやら」と、彼は涙ぐむ。
「さぁ、行こう。今日から“お前”は、僕の物だ」
 言って、“揺蕩う湖畔の夕べ”を両手で持ち壁から外す。しかもやけに大切そうに。そしてさほど大きくもないその絵は布に包まれて、彼の脇に抱えられた。
「リュート……お前のもの好きさは、いよいよ狂気的になって来たな」
「今に始まった事じゃない」と、彼は笑う。「それにもし、この絵が街角のどこかに売られているのを見掛けたとしても、僕は迷わず購入したに違いない。それほどにこの絵の持つ魅力と神秘性は素晴らしい」
 そしてリュートは、「では」とだけ告げ、スミスに向かって帽子を持ち上げて見せながら、今来た廊下を逆に引き返す。
「待てよ、リュート!」
 不満げな声を上げながらマルコがそれに続き、その二人を見送りながら、スミスは掛かって来た電話を取り出し耳に当てる。
「ヴィクトールさんが……? えぇ、えぇ――」そして一瞬の間を置き、「意識が戻られたのですか?」
 と、彼が声を詰まらせるのを、遠ざかる二人ははっきりと聞いていた。

 *

 三日後。マルコは、秋深くも尚蒸し暑い、マイアミにいた。
 ハバナのメインストリートの裏を走る通りの高層アパートメントの一室へと辿り着くと、勝手知ったる要領で、滅多に施錠しないドアのノブを回す。
「いるか、リュート?」
 大声でそう聞きながら廊下を進めば、奥のキッチンの辺りからノイジーなポピュラーミュージックと共に、「あぁ、ここだ」と、元気そうな彼の声が聞こえて来た。
 ダイニングの方からカウンターの向こうを覗けば、そこに彼はいた。
 マルコは一瞬で全てを悟った。キッチンのテーブルに載るのは大きなスポンジケーキ。そしてリュートは大きめのボールを片手に、懸命に生クリームを泡立てている場面。
「いや、良かった。実はかなり心配していたんだ」
 両手を広げながらマルコがそう言うと、リュートは横に置かれた山盛りのストロベリーを一つ摘まみ、自らの口の中へと放り込み、二度、三度と噛みながら、「何が?」と聞いた。
「バカヤロウ、お前の事だよ。だがこうしてケーキを焼いてのパーティの準備をしている所を見ると、万事上手く行った様子だな」
「パーティ? 何のだ? このケーキは来月この地区でひらかれる、素人ケーキコンテストの為の試作品だぞ」
「いや、まぁ、何でもいい。とにかくお前が無事で安心したよ。俺はまた、ここに来たら既にお前が死んじまってる想像ばかりで気が気じゃなかった」
「死ぬ? 僕が? どうして?」
 言いながらリュートはまた一つストロベリーを口に放り込む。そしてマルコもそれに倣って、山から一つ摘まんだ。
「何って……例の絵だよ。“揺蕩う湖畔の夕べ”だ。俺もあの後、その絵画の事を調べて驚いてた所だったんだ。いやまさか、そんな呪いの絵がこの世に現存するなんて――」
「何を過去のように語ってるんだ。その絵ならまだそこにある」
 言ってリュートは、泡立てている最中のホイッパーでリビングの一点を指す。そしてマルコが恐る恐るそちらの方へと振り向けば、間違いなく“揺蕩う湖畔の夕べ”は、イーゼルに立てられたままそこにあった。
「な――え? 何だリュート。これは一体、どんなゲームだ?」
「マルコ、今日の君は言ってる事がまるでわからない。果たしてここに絵を観に来たのか、それとも僕の作ったケーキの味見に来たのか」
「ジョークはやめろ、リュート。もうあの絵は、お前の所有するものではないんだよな?」
「いいや、どうして手放す? もったいない」
「ならもう、あの絵の呪いは解けたってのか? もうあれから三日が経ったんだぞ? まだ何もしてないってんなら、後四日もしたらお前はくたばっちまうんだぞ!?」
「いや、別に何もしてなかった訳じゃない。あれから知り合いの研究室に出向いて色々とやってはみたんだ。X線検査に、塗料の分析。毒物の疑いも捨てきれなかったのでそっち方面も調べてみたし、人に害を成すもの、想像出来るもの全てを考慮し調べてみた」
「それで? どうなった?」
「全くのお手上げだよ。それでサジ投げて、今こんな事をしている」
「あああああ、もう!」
 マルコは自らの頭を両手で押さえ、大声で嘆いた。
「ならもう、あの絵はどっかの誰かに譲っちまえ。ちゃんと理由話して、一週間経つ前に更に他の人間に譲る事を説明して」
「何言ってんだ。あれは僕がもらったものだぞ。金を積まれたって譲るものかよ」
「そんな事言ってる場合じゃねぇだろう! なら一回、俺に譲れ! そして五日経ったらまたお前に返す!」
「面倒臭い。もしも僕にあの絵を譲る気持ちがあるのなら、別に返してもらわなくても構わない」
「そう言う話じゃねぇよ!」
 ドンと激しい音をさせて、マルコが両手でテーブルを叩いた。おかげで積まれたストロベリーの山から、いくつかが転げ落ちた。
「うるさいなぁ。別にもう、何も手段が無くなった訳じゃないよ」
 言ってリュートは小型のリモコンを手に取り、白い壁の一面に向ける。同時に天井のセンサーが反応し、プロジェクターがモニター画面を照らし出す。更に素手で操作し、モニターに一枚の絵を浮かび上がらせる。それは見慣れた、“揺蕩う湖畔の夕べ”だった。
「なんだこりゃ」
「見ての通りだ。そこに置いてある絵だ」
「それは判る。ただ、どうしてこれを見なくちゃいけない?」
「こっちは過去に撮影された絵の方だ。しかも、おおよそ百年以上も前」
「おい、聞くのが面倒になるな。まさか同じ絵を見比べろとでも言うつもりか?」
「察しがいいな。その通りだ」
 リュートはホイップし終えた生クリームを、スポンジケーキに塗りたくりながら言う。
「見比べたら何か判るのか?」
「むしろ見比べなきゃ何も判らない」
 ちっ、と舌打ちしながら、マルコは“揺蕩う湖畔の夕べ”を取りに向かう。そしてそれを壁のモニターの横に置き、椅子に座り込みながらそれを眺めた。
 それから無言のまましばらく経っただろうか。やがてマルコは、「全くわからん」と呟く。
「判らない事はないだろう。全然違う部分がいくつかある」
「おいおい、まさか本気で間違い探しをしている訳じゃないだろうな。この二つは全く同一のものなんだろう?」
「あぁ、同一だ」
「なら、違う箇所がある方がおかしい」
「それはただの先入観だ。もしも同一な筈なのに、違う部分があったとしたらどうする?」
「いや、無いだろう」
「あった場合の話だ」
「いや、無い」
 そうして再び無言になる。リュートは黙々と生クリームを絞ってデコレーションを施し、マルコは黙ってその作業を眺めていた。
「あったらどうなる?」
 ぼそりとマルコが聞けば、「あったらおかしい」と、リュートは返す。
「訳が判らない。お前は一体、何が言いたい?」
「だから、あったらおかしい事が現実にあったらどうするって話だ。おかしくないか?」
「おかしいな、それは」
「だろう?」
「あぁ、もう面倒だな、お前は!」マルコは声を荒げて立ち上がる。
「もう回りくどい事は言わずに、どこがどう違うのか説明しろよ! さもなければ、俺はお前の柩を準備しに出掛けるぞ!」
「短絡だな、マルコ。だからまず、この絵の相違点を見付けろよって言ってるじゃないか」
 リュートはそう言いながら絵の前へと移動する。そしてその絵に描かれている空を指差しながら、「空の色が全然違う」と指摘した。
「それは違う部分に当たるのか? 単なる撮影時の光の加減だろう」
「そんな事はない。こっちは青空で、こっちはどんよりとした曇りの空の色だ」
「気のせいだ」
「僕に言わせれば、君の方が面倒だぞマルコ」リュートは苦笑する。
「実を言うと、僕も昨日までは半信半疑だった。君の意見と同じで、空の色の違いなんて気にもしてなかった」
「じゃあどうしてそんな部分にこだわる?」
「君は覚えてないのかい? 三日前にあの“禁制の間”でこれを見た時の、夕暮れ時の空の色を」
「……」
 マルコは何も言わない。だがその口は何かを思い出したかのように、半開きのままだった。
「僕も自分の先入観に騙されていた。絵の内容が変わるだなんて、根底から考えもしていないからこその盲点だった。だがこうして一つの相違点を見付けだしたら、すぐにあの瞬間の事を思い出せた。確かこの絵の背後に広がった湖の色は――」
「空の色に染まった、鮮やかな橙色だった」
 マルコが言う。そしてリュートは正解とでも言いたげな表情で、小さくパチンと指を鳴らした。
「だが、どうして? 絵の中の空の色が変わるのは、その呪いの一部とかなのか?」
「それは判らない」と、リュート。「だが、絵が変化すると言う部分までは判った。そして僕は更にもう一つ、この絵におかしな点を見付けた」
「なんだ、それは」
「変わって行く絵の中に、何故か変わらない部分があるんだ」言いながらリュートは絵の一部を指差す。それは背後の風景にある、白く連なる山々の姿だった。
「ここだ。良く見てくれ。この百年も前の絵と比べて、微かだが違う箇所がある」
「――あぁ、確かにな。昔の絵は、この部分がもっと尖っている」
「そう、まさにこの部分だ。どう言う訳か百年前の絵と比べてここが欠けたまま、元に戻っていない。これに対して、君はどう考える?」
「全く判らない。ただでさえ理解不能な出来事なんだ。ここから更に難しい事考えろと言われても、何の想像も浮かばないぜ」
「うん、まぁ、僕もそれは同感なんだが」
「じゃあここでお前の推理は終わりか?」
「終わりだが――僕はここから別の角度で考えてみた」と、モニターを動かして、リュートは世界地図をそこに広げた。
「作者のエーガー・ポートマンはコンクリートの壁しか見えない収容所の一室でこれを描き上げた訳なんだが、これは本当に想像のみで描いたのだろうか。自らの命さえ捧げるほどに呪いを込めた絵だと言うのに、この平穏さは何なのだろうかと、僕は考えた。人を呪うのだとしたら、もっと不気味でグロテスクな構図でも良かった筈だろう?」
「確かにそうだな」
「しかもこのリアリティさは異常だ。エーガーは確かに写実主義な絵描きだが、この絵だけは他のどれよりも生々しいリアリティさがある。何も見ずに描いた絵としたなら、ここまで細部の繊細さにこだわれたのはどうしてなのだろう?」
 そしてリュートはモニターの地図からドイツを指し示した。
「もしかしたらこの絵は、彼が昔住んでいた場所を描いたものなのだろうかと言う考えに至った。そして僕は、この絵に一致する場所を探した訳なんだが――」
「あったのか?」
 マルコが身を乗り出して聞くと、「いや、無かった」とリュートは答える。
「なんだ。じゃあこれは、エーガーの脳内の光景って事か」
「いや、それがそうでも無いんだ」と、リュート。「彼の生い立ちがドイツ生まれのドイツ育ちだったからこその盲点だった。国内にこそ一致する場所は無かったが、隣国のスウェーデンにならあった。アンマルネスと言う、山と湖しかない田舎町がそうだ」
「証拠はあるのか?」
「ある。この山を見てくれ」と、リュートは町の西側に連なる山脈を指差した。
「もう数十年も前の話になるが、巨大な“フレイム結晶”がスカンディナヴィア山脈に落下したと言うニュースは覚えているか?」
「あぁ。俺がまだガキだった頃の話だな。何でも水爆一個に匹敵する程のエネルギー量だったと聞いたが」
「そう。それだけの威力だ。おかげで広範囲に渡って被害が及んだとある」
「うん。それも知ってはいるが」
「なら、落下地点に至っては地形すらも変化したとは思えないか?」
「あぁ、まぁ、確かに」
「落ちたのはここだ」と、山の一部を拡大する。航空写真で撮った荒い画像でも、その一部が欠け落ちているのが判った。
「そして――こっちの絵で言えば、まさにここだ」
 リュートは、“揺蕩う湖畔の夕べ”の、欠けた山の一部分を指差した。
「……ぴたりと当てはまるじゃねぇか。世界中どこ探したって、ここまで符号する場所なんか無ぇぜ」
 マルコが呟くと、リュートは満足そうに、「そうだろう?」と笑う。
「だが、百歩譲ってここだとして、エーガーはどうやってこの景色を描いたんだ? ドイツで生まれた後、スウェーデンで暮らした過去でもあったのか?」
「いや、無い」と、リュート。「そこが不思議な所だ。エーガーは十五歳で収容所に送られてそこで一生を終える訳なんだが、やはりそれ以前に他所で暮らした事は無い。ましてや今と違って、鮮明な画像で写せるカメラさえも無かった時代だ。こんな写実な絵で、行った事もない場所を描き切るなど、到底不可能の事のように思える」
「なら、この絵はどう説明するんだ?」
 マルコが聞けば、「さぁ」と、リュートはとぼける。
「もしかしてエーガーは、今も尚、この絵を描き続けているんじゃないのか? それなら辻褄合うだろう」
「馬鹿馬鹿しい」
「だがこの絵は、実在する場所ではある。行ってみる価値はあると思わないか?」
「もちろん、あるが――」と、マルコ。「そこまで行き着いて、どうしてすぐに行動しない? もうお前には時間が無いのは判ってるだろう?」
「いや、すぐに行動に移そうとしたさ。だが、そうしようと思った矢先に君が来た」
 リュートは真剣な顔でそう主張する。マルコはそっと彼の視線を外し、出来上がったばかりのショートケーキを眺める。
「これは?」
 マルコがケーキを指差せば、「コンテストの試作品だ」と、彼は答えた。
 そうして彼等二人が不機嫌なままに家を出たのは、お世辞にも美味いとは言えないケーキをワンホール平らげてからの事だった。

 *

 フロリダを起ち、広大な北大西洋を抜け、アイルランドを経由しながらノルウェー上空へと差し掛かったのは、その翌日の午後の事だった。
 南部に位置するクリスティアンサンの街の上空を走りながら、リュートは、「随分と掛かったな」と愚痴った。
「それはお前が悪いんだろう」と、サイドシートで仏頂面をしているマルコは反撃する。
「寄り道さえしなければ昨夜には現地に入れた筈なのに、どうしてお前はそうなんだ」
「寄り道って言うなよ。アイルランドの郷土料理を食べたいと言い出したのは君だぞ」
「だが、そそのかしたのはお前だ。何がビーフアンドギネスだ。何がアイリッシュシチューだ。あれぐらいの料理なら、サン=ドニの下町の安っぽい食堂で食うポトフの方が数倍旨いぜ」
「だが、酒が進むと言って、暴飲暴食をしたのは君だ」
「一緒に飲んでたのなら同罪だろ」
 ふんと鼻を鳴らし、二人は顔を背ける。そうしてまた再び、ノルウェーの郷土料理の話に花を咲かせながらスウェーデン国境を抜け、やがて愛車のフォードはアンマルネスの町へと差し掛かった。
「この絵の場所、特定出来るものかね」
 マルコが聞けば、「難しいだろうな」と、リュートは答える。
「例の大爆発の際に、この町もほぼ壊滅状態だったと聞く。この絵に描かれている家屋が現存しているとも思えないし、何よりこれは三百年からの昔の絵画だ。こんな木造の家が面影だけでも残っているなんて有り得ないだろう」
「確かにな」
「それに、もしこの絵の場所を特定出来たとして、それで呪いが解けるとは考え難い。下手をしたら、今度こそ僕も終わりかも知れないね」
「それは困る」と、マルコ。「俺はこんなアメリカ車を運転するのはごめんだぜ。死んでもお前が運転して帰れ」
 お互いに悪態を吐きながら、夕暮れのアンマルネスの町の上空を、湖沿いにぐるりと一周する。だがどこにもそれらしき家屋は見付からず、徒労のままにその日を終えた。

 二人は、テーナビューの町で宿を取った。
 人口もそこそこに大きく、中心地にはレストランや酒場も数多く存在している町である。
 リュートとマルコは宿の主人から教わった通りに、肉料理が旨いと評判の店を訪ねた。そこで二人が食事を終え、二杯目のスタウトを注文し終わった後の事だった。
「いよいよ僕が駄目になったら、この絵を焼いてくれ」
 リュートは、ほろ酔い気分で笑いながらそう告げた。
「焼くって? どうして」
「炎は浄化だ。それは太古の昔より決まっている。それによって僕がどうなるかまでは知らないが、少なくとも次の犠牲者を出すよりはマシだろう」
「待てよ。まだ死刑執行まで二日ある」
「いや、そうでもないだろう。計算から行けば、エーガーの亡霊が出現するのは今日だ。もしかしたら今夜の内に、僕は原因不明の病熱で倒れるかも知れない」
「心細い事言うな。俺一人でこの絵の謎は解けないぜ」
「そうだな。だから絵を焼いてくれと頼んでる」
「おい、随分と俺は信用されてないな」
「頼られたいのか、そうじゃないのか、どっちだ?」
 言った時だった。二人に背を向けてテーブルに着いている一人の男が立ち上がった。
 そしてその男が二人の方へと向き直った時だった――
「エーガー」
 リュートは呟く。マルコがそちらへと視線を向ければ、目の前に痩せ細った陰気な印象の青年が立っていた。
 恐ろしい程に至近距離だった。それこそ手を伸ばせば届くであろう程の距離だった。突然、周囲の客達の喧噪が掻き消えてしまったかのように静かになる。
 そっと、エーガーは口を開いた。重く、そして何かの覚悟を持ったかのような、暗い声だった。
「絵の謎を解け」見降ろすようにして、エーガーは告げた。
「私はそこにいる。その絵の風景を見渡せる、その場所にいる。――私を探せ」
 言って、立ち去ろうとするエーガーの背中に向け、「待ってくれ」と、リュートは立ち上がる。そして微かにエーガーは振り向いた。
「君は何故、未だに人を呪い続ける? 君が殺したかった相手はただ一人、アドルフ・ヒトラーだけじゃなかったのかい?」
 ふと、エーガーの顔がゆがむ。どうやらそれは、微笑んだものらしい。「お門違いだ」と告げ、「私は常に所持者に忠告して来た。絵を手放せと」と続ける。
「確かにね。――だが、僕にはそう忠告してくれなかった」
「君は特別だ。リュート・D・クロフォード」
 今度こそエーガーは二人に向き直り、はっきりとした口調でそう言った。
「どうして僕の名前を――?」
「知ってるさ。パラッツォ・ヌオーヴォの美術館からずっと一緒だった」
「なるほど」
「君は特別なんだ、リュート」エーガーは続ける。「君がこの連鎖を終わらせる。それだけは、はっきりと判る」
 言って再び、エーガーは立ち去る。「――それが、良い終わりなのか、悪い終わりなのかまでは知らないがね」
 彼が店のドアを開け、その姿を夜の闇へと隠した瞬間、店の喧噪が戻って来た。

 *

 翌朝は、早朝からアンマルネスの町を回り込むようにして、その絵に符号するであろう場所を徒歩で探して回った。
 だが不思議と、同じ風景が見付からない。行けども行けども似たような風景ばかりが続くのだが、どうしても「ここだ」と言うべき場所には行き着けなかったのだ。
「もう、あの欠けた山が見えなくなるな」
「確かにな。どこで見落としたか」
 言って二人は今来た方向へと向き直る。もう既に二回も往復したその道を、再び取って返す。しかしやはり、その絵が指し示しているであろう地点には行き着かない。
「この家が今もあったら良かったんだがな」
 絵を眺めながらマルコが言えば、「それは無茶な話だ」と、リュートが返す。
 結局、昼過ぎまで探して成果のないまま、二人はまたテーナビューへと舞い戻る。
 昼食を食べながら絵をひらけば、いつの間に変わっていたのだろう、絵はまた最初に観た時のような、鮮やかな夕暮れ空が広がっていた。
「リュート、いよいよマズいんじゃないのか? この絵に描かれている場所はきっと、この世に存在してねぇぞ」
「あぁ――そうかも知れないね」さすがのリュートも真剣な顔付きでそう頷いた。
「もしくは根本的に間違っていたか、だ。ここに描かれているスカンディナヴィア山脈と思われる山々も、実は凄く似通っている別の場所なのかも知れない」
「いや、俺はそうじゃないと思うぞ」と、マルコ。「これはやはり、想像上の絵だ。空想のみで描かれた有り得ない場所だ。これはもう探すだけ無駄なんだよ」
「では、あのエーガーの言葉は?」
「言葉? どんなだ」
「“私はそこにいる。その絵の風景を見渡せる、その場所にいる。――私を探せ”」
「あぁ、確かに言ったな。だが、ウソ吐いてるだけかも知れない」
「そうは思えないんだがな」
 などと議論しながら二杯目の珈琲を飲み干し、そして二人はまた、探索へと戻る。だがやはり、全ては徒労のままに終わった。

 夜。二人は町のバーにいた。
 さすがに絞り出せる案も無くなり、二人は口数少なく黙ってエールを傾けるだけだった。
 何故か絵は、今朝方変わった夕暮れの風景のままで止まっていた。珍しくアルコールに手を出さないリュートは、絵を掲げてしげしげとそれを眺めながら、思った事を口にして行く。
「煙突から微かに煙が出ている。誰かが家の中で、夕餉の準備をしているのかも知れない。陽は傾き、山々の向こうに沈んで行こうとしている。間もなく夜が来る――。描き手は絵をしまい、家へと帰る事だろう」
「それはその作者の家ではないだろう? エーガーはその地に行った事すらない」
「じゃあ、何を訴えたい? この家には誰がいる? どんな人が住んでいる?」
「確かにこれは呪いだな。解くにはヒントが少な過ぎだ」
 と、マルコが愚痴った時だった。リュートは目を見開き、一点を見つめた。
 マルコがその視線の先を追えば、先日の夜と全く同じようにして、二人に背を向けて座る一人の男の姿がそこにあった。
 リュートはすかさず立ち上がる。もちろんマルコもそれに続いた。
「失礼――。エーガーさん」
 声を掛ける。だが男はこちらを見ようとしない。そしてもう一度、「エーガーさん」と強い口調でそう問えば、ようやくその、“見知らぬ男”は振り向いた。
「あ……いや、失礼。知人に良く似ていたもので」
 リュートは慌ててそう謝罪する。すると男は微笑んで、「お気になさらず」と返した。
 だがすぐにその男は、「おや?」と声を上げてリュートが傍らに持つ“揺蕩う湖畔の夕べ”の絵に興味を示した。
「これ――? この絵を御存知で?」
「いえ、見た事の無い絵です。ただ、素晴らしいな思いましてね。私はこれでも画家なのですよ。もちろん、全く売れてませんが」と、笑う。
「良かったら手に取って見せて頂いても?」
「えぇ、どうぞ。構いませんよ」
 言ってその絵を男に渡せば、男は嬉しそうにその絵を眺めつつ、「素晴らしい“朝焼け”だ」と呟いた。
 途端、リュートの目が見開く。そして男に、「今、何て言いました?」と問う。
「え? いや、素晴らしい朝焼けだと言っただけですよ? 何かお気に触る事でも?」
 リュートの手が動く。指先が自らの唇を撫で、いつもの彼の考え込む時のポーズとなる。
 やがて男が、「あぁ、申し訳ない。“連れ”が来ました」と言って、絵を返す。男は二人に軽く会釈をして、店の外に立つ若き女性の所へと行ってしまった。
 絵を持ったリュートは、何を思ったか、客席の間をすり抜けるようにして店の窓辺へと歩み寄る。
「リュート、今の言葉で何か判ったのか?」
 だがリュートは無言のままで、黙ってその絵を窓へと掲げた。
 そこには、店の灯りに照らされた“揺蕩う湖畔の夕べ”が、左右反転して映されていた。
 リュートはしばらくの間、無言でいたのだが、やがて「そうか、朝日だ」と、小さく呟いた。
「そしてこれは湖畔ではなく……。そうか、夕べ……あぁ、そうか。違ったんだ。絵の題名こそが罠だったんだ。それは全て逆を意味していた。またしても僕は自らの先入観に騙された」
「なんだ、どうしたリュート?」
「騙されていたよマルコ。僕達は全く見当外れな場所を探していた。実際に探すべきはここなんかじゃなく、鏡に写った反対側だ」
「おいリュート。俺にも判るように話せ」
「いや、行こう。続きは車の中で話す。今はもう時間が惜しい」
 言って二人は夜の町へと飛び出した。そしてそれから十数分後、二人はテーナビューの町を立ち、南へと向かう。
「どこへ行く、リュート!」
 荒々しい運転に、マルコはサポートグリップを握り締めつつ、そう聞いた。
「ここから遥か西、ノルウェーの離れ孤島だ。直線で行ければ早いが、さすがにこのサーフェイサータイプの車じゃああの山脈は越えられない。従って、南側からぐるりと迂回するしかない」
「だから、どうしてそこに行かなきゃならん? あのアンマルネスの町の湖は、違ってたのか?」
「あぁ、全くの見当違いだ。僕はすっかりエーガーの罠にはまっていた」
「何がどう違ってるってんだ!?」
 リュートの急ハンドルに身をよじらせながら、マルコは叫ぶ。
「朝日だ!」リュートも負けじと叫んだ。「僕達はすっかりその絵の題名に騙されていた。まさに先入観に依るものだ。だが何の情報も無いままにこの絵を観た者なら判る。それは夕焼けの構図ではなく、朝焼けなんだ」
「朝焼け? ――じゃあ、方角が全く違ってたって事か?」
「その通りだ。僕はまず最初に、その欠けた山を中心にして場所の特定を急いでしまった」と、リュート。「目標物は合っていた。だが、観る角度が全くの逆だったんだ。その絵はまさにスカンディナヴィア山脈から陽が昇り始めた所。そしてその家の背後に広がるのも、湖畔なんかじゃない。それは――海だ」
「海? これが?」
「そうだ。陸地から海を挟み、そしてまたその向こうに陸地が見える。要するにそこは、入江か島であると推測出来る」
「なるほど」
「そしてその条件の全てが当てはまる場所は――ここだ。ノルウェーにある孤島、デンナ・アイランドの、グレイン」
 言ってリュートは、ダッシュボード上のモニターを指差す。それは、フィヨルドの地形の中に点在する島々の一つ、“Denna”と書かれた小さな島だった。
 マルコはそれを見て、感嘆の溜め息を上げる。それは、先程まで滞在していたアンマルネスから、欠けた山を直線で通過した真反対の場所だった。
「エーガーがいる場所はきっとここだ。島の北東、海に面したこの海岸沿い」
「間違いないな」
 眠気すらも及ばないままに興奮した面持ちで、二人は国境と、満月の掛かる夜を飛び越えた。
 やがて、東側に連なるスカンディナヴィア山脈の向こうから、白々とした紫の空が、顔を覗かせて来た。
「朝が来た」
「あぁ――そうだな」
 最後の朝だ、と言い掛けて、マルコはその言葉を飲み込む。代わりに膝の載せた絵を眺め、向こうの景色とそれをだぶらせて観ていた。
 やがて車がデンナの上空へと差し掛かり、東側の海岸線を舐めるように走らせていた頃、「おや?」と、リュートが疑問の声を上げた。
 島の突端の草原に、佇む一人の人影。同時にマルコが、「ここだ」と、絵を観ながら呟く。
 リュートはハンドルを押し倒し、車を静かに降下させて行った。
 やがて二人の目に、見知った姿が映った。遠くからでも判る、エーガー・ポートマンの横顔だ。果たして彼はそこで一体何をしているのか、立てたイーゼルを前に、草原の中でぼんやりと海の方を眺めているだけ。
 車が着地すると同時に、山の向こうから陽が射した。二人はその眩しさの中、手で目を覆いながら歩き出す。
「エーガーさん」
 リュートが声を掛ける。そしてその男は立ち上がる。光の中、男は確かに笑っていた。
「お待ちしておりました、リュートさん」言って男は手を差し出す。「私は、ヨナス。エーガーの双子の兄、ヨナス・ポートマンです」
 リュートはその手を握り返しながら、「兄?」と、聞き返していた。
「えぇ、兄です。実際はまだ私達が目も開けられない頃に生き別れになってしまった、そんな兄弟の片割れですけどね」
「そう――か。なるほど! エーガーさんがどうしてあの場所で、観た事も無い風景を緻密に描き上げられたのか、今やっと判った。あなたが彼の、“目”だったのですね?」
「その通りです」と、ヨナスは頷く。「と言うより、私が描いた絵を、彼が模写したのです。死ぬ前に一目だけでも母に逢いたいと言う願いだったのかも知れません。遠く離れた地にいても、私には彼の成す事が判りました。この場所を安易に特定されないよう、左右反転させてこの風景を描いていると言う事までも」
 聞いてリュートは、疑問に思いながら、何も載せていないイーゼルを眺める。するとそれを察したか、ヨナスは、「見えていないだけですよ」と、答えた。
「もう長い事、私達の時間は止まったままだ。だからこの世界に現存する事さえも難しい。だがその絵が、この異なった二つの世界の壁を取り払う。さぁ――早く全てを終わらせて。あなたは間違いなく、私達の望んだ終焉を連れて来てくれた」
 言ってヨナスは、“揺蕩う湖畔の夕べ”を、立てたイーゼルの上に載せろと指示した。
「――ここに?」
「えぇ、そこに。それで全て……終わる……」
 言い終えると同時に、ヨナスの姿は朝日の光の中に溶け込むかのように消えて無くなった。それを見てマルコは、「ようやく彼の役目は終わったんだな」と、呟いた。
 そしてリュートは、絵をイーゼルの上へと立てた。
 だが、特に何も起こらない。どうした事だと二人がいぶかしんでいると、マルコが急に素っ頓狂な声を上げる。
「なんだ、どうしたマルコ」
 言って、リュートも驚いた。マルコが呆気に取られて指差す方向には、いつの間に出現したのだろう、絵の中に描かれている木造の家屋が現れていた。
 左右、全く反対ではあるが、まさに絵の中の構図そのものだった。
 陽は山より昇り、背後に広がる海はその朝焼けの色に染まり、そして家の煙突からは、朝食の支度なのだろうか煙が小さく舞い上がっている。
「行こうか」
 リュートはそう言って、一歩を踏み出す。少し先に、“こちら側”を鏡写しにしたかのように、背中を向けた絵を飾る、イーゼルが一つあった。
 近寄って見れば、それはもしかしたらヨナスが描き上げたもう一つの絵の方だろう、“揺蕩う湖畔の夕べ”とは真反対、要するに今見てるその光景と全く同じ絵が、そこに置かれていた。
 リュートは迷う事なくそれを取り上げ、家へと向かう。やがてその家の玄関が近付いた所で、そのドアが静かに開いた。
 そこに立っていたのは四十代ぐらいだろうか、相当な年代物の青いワンピースを着込んだ女性が一人。その女性はリュート達を見るやいなや、「お帰り」と、そう告げて、優しく微笑んだ。
 最初リュートは、それが自分に投げ掛けられた言葉だと感違いしていた。だがすぐに、それはこの絵に対する言葉なのだと理解する。リュートは全てが氷解したかのような表情で、絵を彼女に差し出した。
 震える手で、「ありがとう」と、それを受け取る女性。しばらく神妙な顔でその絵を眺め続けると、今度はそっとその絵を抱き締めるようにして、「ようやく帰って来てくれたわ。――坊や達」と、呟いた。
 もう、言葉は必要そうになかった。デッキの上でいつまでも絵を抱き締める女性を置き去りに、二人はその場を離れた。
 少し歩いてふと振り返る。家から、その女性から、白い靄のようなものが立ち昇っていた。
 良く見ればそれは、炎だった。微かに白く濁るだけの、無色の炎。尚も絵を抱き締めるその女性も既に、その白き炎の中に巻き込まれていた。
「リュート!」
「いいんだ――」と、リュートはそれを引き止めた。「炎は浄化だ。彼女も、そして二人の画家も、それを望んでいる」
「……」
「呪いは、絵に込められていた訳じゃなかった。全ては彼女の内にあった。そして呪いは彼女を時間の流れから取り残し、それを知った二人の子供は、彼女を助ける為に途方もない願いを込めて絵を描いた。――結局あの絵は、エーガーとヨナス、二人の魂そのものだった」
「願いって……二人で母の元へと帰りたい。そう言う願いか」
「その通り。単純なだけに強く、そして純粋だ。絵を所持した者の前に亡霊として現れ、母の元へと連れて行けと指示出来る程にね」
「なるほど」
「時代が時代じゃなかったら、物事はもっと簡単だったんだろうね」
 音も立てずに崩れ落ちて行く家屋を眺めながら、リュートは言う。
 炎は、絵を抱く女性を優しく包み込みようにしながら、全てを飲み込み消えて行った。後に残されたものはその地面に残る消し炭みたいなものばかりで、それすらも秋の風に流されて消えて行く。もはやそこに家屋が存在していた等、痕跡すらも判らない程に。
 一枚の絵画が一人の女性の存在を暗示し、そしてそれを巧妙に隠し、更にはナチスドイツの歴史の結末さえも書き換えた。
 二人はその歴史の終焉に立ち会い、全てを見届けた後、「行こうか」と、背にした。
 向こうにもう一つ、白き炎に包まれた絵画が見えた。きっとあれはエーガーが描いた方の、“揺蕩う湖畔の夕べ”だろう。イーゼルの上でめらめらと、浄化されながら溶けて消えて行く。
「もったいねぇなぁ」
 マルコが言うと、「仕方がないだろう」とリュートは笑う。そしてリュートはふとその場で立ち止まり、静かに向こうを指差した。
「エーガー」
 マルコもまた目を見張る。草原の向こう側に立つ一人の青年。彼もまた、兄であるヨナスと同じ微笑みで二人を見ていた。
 エーガーは、手にした大きな荷物を地面に降ろすと、二人に向かって軽く手を挙げ、そして静かに空気の中へと溶けて行った。
「本当に終ったんだな」
 マルコが言うと、「いや、終わったんじゃないよ」と、リュート。
「戻ったんだ。彼等が存在した、時間の流れに」
 ふんと鼻を鳴らして、マルコは微笑む。そして二人でエーガーの立っていた辺りへと向かえば、そこには布に包まれた一枚の絵画らしきものが置かれてあった。

“親愛なる友人にこれを捧ぐ”

 そんな張り紙が残された、置き土産だった。
 布を取り払う。見て、二人は笑った。果たしてエーガーはいつそれを描いたのであろう、“喧噪たる酒場の夕べ”と名付けられたその絵には、テーナビューの酒場で険悪な表情で言い合いをしている、リュートとマルコ、二人の姿が描かれていた。
 南西の海辺に吹く秋の風は冷たく、白々と向こうの水平線に沈んで行く丸い満月が、やけに寂しそうに見えた。





《 パラッツォ・ヌオーヴォの幽霊 了 》





【 あとがき 】
いやいや、これもまた数年もあたためていたリュートネタの一つなんだけど、ようやくこうして書き切れたので良かった良かった。
たま~にリュート作品の中で、「なんで車が空飛ぶの?」とか、「そう言う世界だって言う説明どこかでしてる?」とか言われるんだけど、一作目からずーっとそう言う世界なんで……今更どうこう言われても? ねぇ?
とりあえず、相変わらずのお題無視はごめんなさいって事で。


李九龍

● COMMENT ●


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック:

http://misterycirclenovels.blog.fc2.com/tb.php/459-260da467
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

《 或る救世主、あるいは大罪人の独白 》 «  | BLOG TOP |  » 《 親心子知らず 》

プロフィール

MC運営委員会

Author:MC運営委員会
このブログの八割は、カボチャで構成されております。

カテゴリ

Mistery Circle(メインカテゴリ) (39)
寸評 (29)
MCルール説明 (1)
お知らせ (35)
参加受付 (23)
出題 (34)
メールフォーム (3)
内藤クンのおもちゃの部屋 (8)
天野さんの秘密の部屋 (8)
Ms.伍長の黙示録の部屋 (0)
伊闇かなでの開かずの部屋 (4)
未分類 (27)
亞季 (2)
いつき (1)
伊闇かなで (2)
空蝉八尋 (4)
黒猫ルドラ (12)
ココット固いの助 (21)
桜井 (1)
桜朔夜 (1)
鎖衝 (11)
知 (21)
しどー (12)
瞬 (3)
白乙 (12)
すぅ (13)
すずはらなずな (29)
田川ミメイ (2)
辻マリ (14)
夏海 (3)
七穂 (1)
氷桜夕雅 (30)
ひとみん (4)
松永夏馬 (12)
望月 (8)
幸坂かゆり (21)
李九龍 (13)
りん (3)
ろく (1)
Clown (12)
MOJO (1)
pink sand (9)
rudo (8)
×丸 (4)
MC参加者に聞け (7)
Mistery Circle ヒストリー (1)

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

リンク

このブログをリンクに追加する

検索フォーム