Mistery Circle

2017-09

《 つばめ さる 》 - 2012.07.27 Fri

《 つばめ さる 》

 著者:pink sand








 少女が少年を初めて見たのは、黄昏時の満員電車の中だった。
 右隣の吊革につかまって、彼はまっすぐに窓の外を見ていた。
 誰もが手の中の電子機器に心を奪われている、無言の空間の中で。
 
 異様な空だった。半分は晴天、半分は暗雲。西から迫る黒雲はあと十分足らずで天空を支配する勢いだ。真夏の午後六時にしては暗すぎる空の下で、オレンジ色の街灯りがきらめいている。一分間隔で、遠雷が響く。
 少年の視線は壁に打ち付けられた画鋲のように尖っていて、動かなかった。長い睫は南米のアルパカのようで、視線の切っ先の鋭さは冬山の狼のようだった。それで少女もなんだか、その視線の先から目が動かせなくなっていた。
 空を覆ってゆく雷雲の元に白くのびやかに立つごみ焼却場の煙突が正面にきた。その周囲を白い鳥の群れが渡ってゆく。
 とその瞬間、白く輝く稲妻が煙突の突端に縦に落ちかかり、雷鳴が轟音となって車内を揺るがした。
 白い鳥たちははじけるように飛散した。
 ガラス越しの雷雨を前に、ふたりぶんの感嘆の吐息が人いきれの中に解けて消えた。
 乗客たちは驚いた様子で視線をあちこちさまよわせたが、すぐに手元のスマホに視線を落としてそれぞれの世界に戻っていった。
 少女は胸の高鳴りをおさえながら、短い呼吸を繰り返した。大丈夫、恐くはない。幼い頃は大キライだったけど、今は雷なんて平気だもん。こんなにドキドキしなくても平気。電車内で落雷にあっても電流は地面に流れて感電はしないはずだから。
 でも。
 少女はちらりと視線を動かして、右隣の少年の滑らかな鼻筋を見た。
 ゆっくりとしたまばたきと、長い睫毛を見た。
 胸のドキドキは収まらない。
 少女は視線を落とした。
 そして思った。

 ああ……。
 雷は煙突にではなく、いま、自分に落ちたのだ。


                     
 
 明日から夏休みというその日。
 駅の改札を出ると、少年は見慣れた駅前の風景を見上げた。
 黄昏色に染まりかけた空をバックにした、桜並木と灰色のビルの群れ。ずらずらと店名が並んだ看板のうちの一つが目に入る。
「2F 珈琲 玄鳥去」
 目にするたびになんて読むんだろうと思い、いつの間にか忘れる。
 その日も同じように、そうだ帰ったら調べようと思い、目の前の信号を見ているうちに、いつしか意識丸ごと自分の中の真空地帯の中に吸収されていった。
 信号が青に変わる。
 横断歩道に足を踏み出したそのとき、背中をどんと誰かに思いきり押された。
 肩にかけていた黒いショルダーが前方に振られ、伸ばした自分の両手が視界に入る。そのままアスファルトに肩から落ちて身体が一回転した。足元をバイクが一台すごい勢いで走り去っていくのが目に入る。
 仰向けになった少年の視界に、駆け寄る少女の姿が映った。セーラー服の女子高校生だ。ショートカットで、くるりとした黒目がちの大きな瞳を見開いて叫んでいる。
 ごめんなさいごめんなさい! 大丈夫ですかっ!
 少年はゆっくり瞬きをすると、そろそろと体を起こしてあたりを見た。
「いま、ぼくに、何が起きたんだろう」
 独り言のように言うと、少女は急き込みながら答えた。
「あの、わたしが悪いんです。あの、あなたの後ろを歩いていたら急になにかに滑って、それで両手であなたの背中を突き飛ばしちゃって」
「なにか?」
 少年は肘をついて起きあがると、少女の背後の道路を見た。緑色の長いものが落ちている。
「長ネギだ」少年は呟いた。
「長ネギ……」
 少女は鸚鵡返しにして振り向き、しげしげと道路で潰れている野菜を見た。
「わたし、長ネギで滑ったんだ……」
 小声で確認するように言うと、少女は肩をゆすって笑いだした。少年は潰れたネギに歩み寄って二つ折りにすると、手元にぶら下げていたコンビニ袋にがさがさと押し込んでしまった。
「食べるの?」少女が驚いて尋ねると、
「また誰か滑るかもしれないから」あっさりと答えて信号を見上げた。
 青のランプがすでに点滅し始めている。
「渡らなきゃ」
「あ、うん」
 少年に言われて、少女は背中を追うように小走りに横断歩道を渡った。
「お礼、言わなきゃいけない、かもしれない」渡り終えると、少年は俯き加減で言った。
「お礼?」
「前にすっ飛んだ途端に信号無視のバイクが足元を通過してったから。きみがつき飛ばさなければぶつかっていたかもしれない」
「そう、か……」
 少女は立ち止まると息を吸いこみ、きっ、と少年の顔を見た。
「あの、このままじゃいやなので!」
「え?」
「つまり、わたし、もともと用事があったんです。いや、用事とかじゃないか」
「?」
「これ!」
 少女は俯いて通学鞄をごそごそ探ると白い封筒を差し出した。
「これを、これを渡したくて、一週間ずっとそう思っていて、待ってたの」
「待ってた?」
 少年はきょろきょろとあたりを見回したあとで言った。
「これを、……ぼくに?」
「あなたです。ずっと見てました。勇気がなくて今まで渡せませんでした。これを、こんなになっちゃったけど、どうか受け取って、あの、読んでください」
 ショートカットなのであらわになっている耳までが桃色に染まっていた。少年は少女の震える手の中の封筒の、ハートのシールの封かんを見ると、困惑した様子で黙り込んだ。
「あ、……迷惑ですよね」少女は慌てて封筒をひっこめた。「ごめんなさい、強引にこんなこと、道路につき飛ばしておいて図々しいですよね。本当にごめんなさい、もういいです」
「いや、あの、いや、そうじゃなくて、……」
 みじかい沈黙の時が流れた。少年はふと夕空を見上げた。そのとき、頭上の古びたビルの看板にぱっと灯りが灯った。
 珈琲 玄鳥去……
「ずっと気になってたんだ」
「え?」
「あれ、なんて読むと思う」
 少女は少年の指差す先を、眉を寄せ気味にして見上げた。
「わからない…… げん、ちょう……なんだろ」そして上を向いたまま続けた。「お店の人に聞けばわかるんじゃないですか?」
「じゃあ、一緒に聞きに行ってくれる?」
 少女は少年の顔を見た。何かを乗り越えようとしているときに見る、頬の色がそこにあった。茜色に染まる直前、これから燃え上がろうとしている夕焼けの色。
「はい!」
 二人は肩を並べ、無言で古いビルの階段を上がった。

 木製のドアには、尾が二つに裂けた鳥のステンドグラスがはめ込まれていた。
 少年が先に立ってドアを押し開け、恐る恐る店内を覗くと、藤製の衝立の向こうから、ロマンスグレーの男性が現れた。ノーカラーの白Yシャツに、ちょっときつめの黒のベスト。雑誌LEONに出てくるちょいワルオヤジのワル成分を半分にした感じだ。
「いらっしゃいませ。お二人様ですか?」
「はい、あの、……」
「では、窓際の席へどうぞ」
 店内には、なにか哀切な調子のピアノ曲が流れていた。金魚鉢を逆さにしたような形のレトロなクリスタルのライトの下、こげ茶のソファが、四角いテーブルを挟んで几帳面に並んでいる。壁の窪みのひとつひとつに収まっているのはレトロな灯油ランプのコレクションだ。お客は中年から初老の男性が三人、みな下を向いて煙草を手に新聞を読んでいる。紫煙が店内全体に漂っていたが、窓辺の席との間には背の高いベンジャミンの鉢が二つあって、空気の流れを遮ってくれた。
 木のテーブルを挟んだソファに向かい合って腰を下ろすと、スプリングが二人の尻の下できしりと音を立てた。
「ご注文は」
「あ、コーヒー…… アメリカン」少年は落ち着かない様子で答えた。
「じゃ、わたしはアイスコーヒー」
「かしこまりました。何か追加があったらここからお選びください」
 そう言ってマスターはメニューを置いていった。表紙の「玄鳥去」のレタリングは、看板と同じ、ガラスペンで書いたような繊細な花文字だ。二人は顔を寄せて、中のメニューを見た。バタートースト、ジャムトースト、海苔トースト、ホットドッグ、ホットサンド、ナポリタン、生姜焼き、田舎カレー……
「なんか、昭和の喫茶店みたい」少女が呟いた。
「……店の名前の読み、聞きそびれちゃったな」
「このピアノ曲、きれい。なんていう曲か知ってる?」
「知らない」
 会話が途切れ、気まずい沈黙が続いた。思い切ったように少女は言った。
「あのね、さっきの手紙ね」
 少年は顔を上げた。
「もう、渡さない。渡さないけど、書いたこと、ここで言っていい?」
 少年は真面目な表情でこっくり頷いた。
「いいよ」
 少女は背を伸ばして座り直した。
「わたし、ね。あなたをはじめて見たとき、なんか、可哀想な人だなあって思ったの」
「かわいそう?」少年は不本意そうに眉を寄せた。少女は慌てた様子で言い足した。
「ごめんね、こんなこといって。でも多分、あなたの考えてるような意味じゃない。
 初めて見たのって、一週間前なんだけど。ほら、夕方から夜にかけてすごい雷が鳴ってた日、あるでしょ。あのとき、学校からの帰り、同じ電車……T線に乗って、あなたの隣に立ってたの。覚えてないだろうけど、あなたは、ただまっすぐ窓の外の雷を見てたから」
「あ……」
 少年ははっとしたように目を見開いた。
「みんなスマホとか本とか見てるのに、あなたはとりつかれたみたいに雷を見てた。空の半分が真っ黒で半分は夕焼けで、なんだかこの世の終わりみたいで。でもすごく綺麗だった。わたし小さいころから雷は大嫌いだったんだけど、あのときは妙にワクワクしてたの。そして、どうしてかわからないけど、遠くで鳴ってる雷聞きながら、おちろ、落ちろって思っていたの。そしたらががーんって落ちたよね、煙突のてっぺんに」
 少年は小さく頷いた。
「わたし、頭がふわーっとなるぐらい、一瞬、気持ちがよかった。そして、きっとあなたも同じだと思ったの。なんでかわからないけど、何かすごいことが起きるのを待って、同じものに打たれて、痺れたようになって……そんな風に思った」
 少年は戸惑ったように視線を揺らし、遠慮がちに尋ねた。
「……でそれが、可哀想どうつながるの、かな」
「えと、それは」
 少女は数秒黙った後、続けた。
「うまく言えないけど、あなたはとても一人だと思ったの。あの空を一人でじっと見るぐらい。そうかどうかわからないけど、ほかの誰とも違う場所に一人で立ってる人みたいな気がして、それで、可哀想な人って決めることにしたの。そしたら気になって気になって、あなたの顔が頭から離れなくなって、これはきっといろいろと気のせいだから本人に聞くべきだと思って、それでずっと電車の同じ時間を狙って乗ってみたりしたんだけど、逢おうと思ったらなかなか逢えなくて」
「お待たせしました」
 いつの間にか脇にロマンスグレーが立っていた。二人は同時に口をつぐんだ。彼は優雅に腰を折って少年の前にアメリカン、少女の前にアイスコーヒーを、音も立てずに置いた。
「ごゆっくり」
「あの、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」少女は顔を上げて声をかけた。「今かかっている曲、なんていうんですか」
「Once in a blue moonです」ロマンスグレーの声は心地いいバリトンだった。「With love という、昔のドラマで使われた曲らしいですよ。知ってますか?」
 二人同時に首を振った。
「まあ、古いドラマだからね。Blue moonはひと月に二度訪れる満月のことを指す英語で、ふつう満月はひと月に一度だから、Once in a blue moon は“滅多にないこと”を示す言葉になってるんです」
「へえ、そうなんだ。ひとつ勉強になりました。なんだかすごくきれいな曲ですね」少女は感動したように言った。大事なことを思い出した、という表情で、少年が割って入った。
「ぼくもききたいことがあるんです。ここのお店の名前、なんて読むんですか」
 彼の指し示すメニューの表紙を見ると、ロマンスグレーは口元に笑みを浮かべた。
「つばめさる、ですよ」
「つばめ?」少女が言った。「げんかんのげんに、とりで、つばめって読むんですか?」
「玄(げん)鳥(ちょう)とも、乙(おつ)鳥(ちょう)とも書きます。玄はくろ、とも読みますからね、つばめの背中の色を表しているんですよ。乙は蛇行して飛ぶ時の軌跡」そう言うと彼は骨ばった手を伸ばし、空中ですいっとカーブさせて見せた。へー、と二人は声を上げた。
「七十二候ってわかるかな。季節を細かく区切ったもので、その中の二十四節気の白露の末あたり、9月18日から9月22日の間を指す言葉なんですよ。世に言う、中秋の名月、のころだね。家の軒に巣を作っていたつばめがその家を空っぽにして、南へと去ってゆく時期。それで、つばめ・さる」
「へえ。なんだか、ロマンチック」少女は声を弾ませた。「でも、ちょっと寂しい感じですね。どうしてそれが店名になったんですか?」
「ただぼくの誕生日が9月18日だからですよ。それで何か気の利いた名前がないかなと考えてたらこれを思い出して」
「あ、じゃあ店長さん……ここのマスターさんなんだ」
「そうですよ。マスターであり店員でもあり」
「実はわたしの名前、雀(すずめ)なんです。姓が、米、好き、とかいて米(こめ)好(よし)なの。米好雀なんて冗談みたいな名前、親もノリでつけたんだと思う」少女は早口で語った。
「いや、すごいじゃないですか。すごい、うん、いい名前だなあ。お握り大好きでしょ」
「たいていそういうこといわれるんですよね。おやつはお婆ちゃんのぽたぽた焼きでしょとか」
 少年を見ると、かがんで口元を両手で覆っていた。
「続きは彼氏と、ごゆっくり」マスターはくすくす笑いながら去っていった。
「ねえ、そんなにおかしい? だから名前いうの、いやだったんだ」米好雀は若干ふてくされたように言って、少年の顔を覗き込んだ。
「思い切って言ったんだから、ね、笑ってないで次はあなたの名前、聞かせて」
 そのとき雀は、少年の顔色が真っ白なことに気付いた。その肩は小刻みに震えていた。
「……ねえ、どうしたの。大丈夫? どうしたの?」
 雀は少年の顔を覗き込んだまま繰り返した。
 少年はただ首を振り続けた。額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
 やがて少年は口元からゆっくりと手を離し、どこか断固とした口調で言った。
「よし、もういい」
「なにが?」
「ぼくの名前は、桐野(きりの)瑞(みず)希(き)。高校三年、18歳」
 雀は顔を上げた瑞希をじっと見つめた。彼の視線はあの雷を見つめていた時と同じに、固く尖っていた。
「ね、……もしかして具合悪い?」
「いや、別に」
「でも顔色が」
「いろいろあってね。今から話すよ。ちょっと込み入っててね、ずっと同じことばかり考えて、頭がオーバーヒート気味だったんだ。でも、もういい。もう、わかったから」
「だから、なにが?」
 桐野瑞希はくっと顎を上げると、まだ青白い顔のまま口元で強引に笑みを作った。
「これから話すことは、今まで誰にも話したことはなかったし、これからも多分、誰にも話さないと思う。それに、とっても妙で重たい話なんだ。聞いたら重荷になるかもしれない。それを初対面の人に打ち明けるなんて無責任かもしれない。ぼくは……」
「前置き長いのね」瑞希の言葉を遮って雀は言った。「わたしも高校三年、18歳。話してくれたことはちゃんと受け止める。そんな大事なことをわたしなんかに打ち明けてくれるの、すごくうれしい。何でも話して」
 少女の視線を受け止めながら、まるで動物のように深くてまっくろな瞳だと瑞希は思った。その混じりけのない黒さに寄りかかるようにして、少年は語りだした。
「ぼくは、自分が何月何日に死ぬかを知ってるんだ。だいぶ前から。
 そしてそれは決して動かせない。父も祖父も、曽祖父も同じ日だったから。そしてそれは、……たぶん今年なんだ」
 雀は何も言い返さず、ただ穴が開くほど、少年の顔全体を見た。
「それを知ったのは父の葬式の時。ぼくは12歳だった。父は38歳で、肝硬変が死因だった。死んだのは9月18日。ずいぶん長いこと酒浸りで、飲んでは暴れてばかりだったから、父に関していい思い出はないんだ。
 精進落としの席で、しこたま酒飲んでた伯父が……昔からぼくを可愛がっててくれた人なんだ……小さな声で言ったんだ、ごめんな、お父さんはおれの代わりに死んじまったんだなって。どういう意味って聞いたら、一族の男はみな9月18日に死ぬことになってる、50を越えて生きたものはいない。順番から言っておれだったのに先に逝かれた、って」
 そこまで話すと、瑞希は目の前のコーヒーを一口飲んだ。
「周りの大人が慌てて割って入って、酔った伯父をどこかに引っ張っていった。それで気がついた、祖父の命日も確か9月のこのころだったって。母は慌てた様子で、酔っ払いの言うこと真に受けちゃだめよって言ってくれたけど、そのあと伯父がひどくしょげかえってたのは覚えてる。酒に逃げた父と同じように、伯父は多分恐れてたんじゃないかな、自分にいつその運命が回ってくるのかと。でも幸いなことに」そこで瑞希は口の端を上げて歪んだ笑顔を作りながら続けた。「何の関係もない日、その年の12月30日に伯父は酔っ払い運転のトラックに轢かれて44歳で死んだ。
 そして誰もが思っていたと思う、きっと次に9月18日に死ぬのはぼくだと。そしてその話題は誰も、決して口にしてはいけないのだと。口に出したが最後、命を持っていかれるんだと。
 今年の正月、初夢にあの伯父が現れたんだ。初めてのことだった。そして、壁に貼ってある、今年のカレンダーを指さしたんだ。一枚一枚めくって、9月で止める。尻尾が二つに裂けた黒い鳥が夕空に群れ飛んでる写真を、指先でとんとん、とやって、にっと笑った。そこで目が覚めた。
 もちろん夢だと思った、ただの夢だって。
 でも、そのころからぼくの中には確信が生まれていたんだ。
 今年だ、間違いない。今年の9月18日にぼくは死ぬ。
 それからもたびたび、夢に伯父は現れた。そして、カレンダーを指さすんだ。ぱらぱらとめくって、9月のところで止める。今考えればあの絵の中で飛んでいたのは、つばめだと思う。
 そしてきょう、ぼくはきみに会った。そして気になっていたこの店に来ることになった。
 店の名が、つばめ・さる…… 9月18日だった」
 少女はしばらく黙ったまま少年の顔を見ていた。そして眉根を寄せ、視線を下に落とした。
「……つまり、わたしは死神なの? そう言いたいの?」
 それからまっすぐ視線を上げた。
「わたしはあなたにとって、確実に死ぬぞ、と伝えに来た死神なの? わたしを指さして、そう言いたいの?」
「違う」瑞希は断ち切るように言った。
「傷つけたならごめん。今まで誰にも言わずに来たから、急いで喋ったから、ぶった切ったみたいな言い方になっちゃった。けど、ぼくはいいんだ。前々から知っていて、自分一人で抱えていて、どうにもできないまま大きくなっていた予感に、ちゃんと向き合うことができた。これはもう、どうしようもないことなんだ」
「そんなの、わたしは認めないからね」雀は身を乗り出して、テーブルの上に握りこぶしを二つ乗せた。
「覚悟ができた? きょうは7月の24日よね。あとふた月も生きられないって、そんなつるっとした顔で宣言しないでよ。雷がいつどこに落ちるかなんて、誰にわかる? 長ネギがいつどこに落ちてるかなんて、誰にわかる? 人が生まれていつ死ぬかなんて、あなただけ、あなたの一族にだけさだめて、神様に何の得があるの」
 瑞希は目を丸くしたあと、ぷっと噴き出した。
「おもしろいな。確かに何の得もないや」そして続けた。「この話を誰かにして、笑うことになるなんて思わなかった」
 雀は、相変わらず青白いままの少年の顔をじっと見た後、ゆっくりソファの背にもたれかかり、腕組みをした。
「わたし、平気だからね」
 さらに、組んだ足をぶらぶらさせ始めた。
「こう見えても、おもしろがりで非情なんだから。
 あなたのことが気になって仕方なかったのは、この人はすごく可哀想な人だって思ったからなの。そう言ったでしょ。そしてあなたは本当にその通りだった。わたしが思っていた以上に、ものすごくその通りだった。
 だからわたしはあなたから、もう、離れないの。こんな気の毒な人見たことないもの。ずっとそばにいて、その思い込みの最後まで付き合ってあげる。夏休みの退屈しのぎにはぴったりだし、あなたにとって鬱陶しくても、9月18日に終わる話なら、たいして長い付き合いにもならないでしょ」
 少女は、押し黙ったままの少年の前に顔を寄せた。
「9月18日まで、あなたから離れない。そして日付が変わったら、そのときも生きていたら、二人でお祝いをしようよ。あなたの二度目のお誕生日のお祝い。無事9月19日を迎えたなら、そんな思い込みはぜーんぶ捨てて、気持ちよく生きようよ」
 瑞希の睫がそっと下を向いた。最初見たときと同じだ、やっぱりラマかアルパカみたい、と雀は思った。その睫がふるふると震え、次にひしと閉じた瞼の下から、すうっと涙がこぼれ落ちた。少年は拳を握ると、その甲で頬を拭いた。少女は彼の震える肩にそっと手を置いて、繰り返した。
「そばにいていいよね」
「……うん」
 ふいに胸に流れ込んできた彼の孤独の、恐怖の痛みが、鼻から目がしらを通り抜けてゆく。人差し指を自分の目もとに伸ばして、雀はそっとその出口をふさいだ。

 
 最初のデートは、新宿御苑だった。
 植物が多いところがいいな、と雀が言い、じゃあ新宿御苑はどうかなと瑞希が答えた。大きな温室があるよ、欄やサボテンや多肉植物が好きなんだというと、雀は、わたしも大好き、と目を輝かせた。
 新宿駅南口の改札は人でごった返していたが、瑞希はすぐに彼女を見つけることができた。
 白地に黒の大きなドット模様のワンピース、真っ黒なショートヘアに白い顔。少女の姿はまるで人の波の間を揺れながら飛んできた蝶のようだった。雀は弾んだ声でまっすぐに呼びかけてきた。
「お待たせ」
「ぼくも、今来たとこ」不器用に言いながら、瑞希は改めて少女の姿を見廻した。
「へん?」
「いや、そうじゃなくて」自分の視線に気付いて、瑞希は口ごもった。「元気な服だね。すごく似あってる」
「遠くからでもわかるようにしたの。途中ではぐれないように」雀ははにかみながら言った。
「はぐれる?」
「わたしすぐ迷子になるから」
 瑞希はあたりの人波を見廻し、そっと手を少女の手元に伸ばした。けれどその手を握りこぶしにしたまま、ただ肩を寄せ、並んで人の群れに乗って歩き出した。
 夏の新宿御苑は空いていた。その日雲は風に乗って太陽の下を忙しく流れ、明と暗をかわるがわるきらめく樹木の上に落としていた。
「親は何も言わなかった?」
 入場料を払い、木陰の道をたどりながら瑞希が遠慮がちにたずねた。
「何って?」
「普通、高校三年の夏休みって受験の正念場だよね。こんな時に誰とどこ行くのとか」
「ああ、それ」雀は足元に視線を落とした。「うちは女子大付属の高校だしそこは関係ないの。両親二人とも医者なんで忙しくて娘なんて構ってる暇ないし」
「へえ、すごいね。二人とも?」
「母親が外科、父親が内科」つまらなさそうに付け加えると、雀は瑞希の顔を見た。
「瑞希君のほうこそどうなの? 有名な進学校よね」
「学校名言ったっけ?」
「あの日着てた制服のブレザーのライオンのエンブレム、T高校のでしょ」
 瑞希は目を丸くして笑ったあと、続けた。
「母親が勝手に決めた高校だよ。まあ、出かけるときは適当に嘘ついてるから」
 そしてメガネの中心を指先で押しあげた。
「父が死んだ後母親が気合入れて干渉してくるようになってさ。一応高校は母親の期待通りのところに入れた。でも、今年の正月の……夢のことがあった後、正直大学受験とかどうでもよくなっちゃったんだ」
「夢のこと、お母さんには言ったの?」
「それは言ってない。おふくろは、泣きごとや愚痴を言ったら即負け組って信念の人だからね。夢見て後ろ向きになったなんて病気扱いしかされないよ。かたちだけ予備校に登録してるし、たまに通ってる」
「たまに、なんだ」
「小テストがあったり課題出されたりしたらまあ顔出して一応点数はクリアしてるんだけど、もうそろそろ限界かな」
「限界って……」
「もう7月だし。体内時計と脳内時計がさ、磁場に入ったみたいにぐるぐるし始めて、気持ちがついて行かないんだ」
 温室の外観は優雅な骨組みに沿ってガラスばりの壁面が曲線を描いていた。中に入るとふわりとシトラスの香りが二人を包んだ。
 順路は、熱帯の植物、熱帯池沼の植物、熱帯低地の植物、乾燥地の植物と植生に分かれて、むっとする南国の空気の中、緩やかなアップダウンを描いて続いている。
「マルハチ。こんなにおっきい木なのに葉っぱが羊歯みたい。なんでこんな名前なんだろ」
 熱帯の植物が葉を重ねるエリアで、雀は上を見上げながら言った。
「羊歯の仲間なんだよ。幹にある枝痕が、〇に八の字かいてさかさにしたみたいだからマルハチ。ヒカゲヘゴともいう」本でも読むように、瑞希は説明した。
 バナナの木には、緑の実が重くたわわに実っていた。母親に連れられた幼児が何層にも重なった実を指さして、見て、バナナだバナナだ! とはしゃいだ声を上げた。子どもを眺めながら、雀は言った。
「バナナの実を見ると、妙にうれしくなるよね。植物園でも、バナナのところで必ずちいさい子が興奮するじゃない。パパイヤとかコーヒーの実だとああはならないよね。どうしてかな」
「どうしてかわからないけど、バナナって陽性の木だって感じはするね」生真面目な顔で少年は答えた。
 半分干からびたような葉っぱを砂の上に元気なくはわせる、奇怪な植物を見下ろしながら、雀は展示してある植物の名を読んだ。
「キソウテンガイ?」
「ナミブ砂漠の生物で、生まれてから死ぬまで一対のひらひらした葉っぱを伸ばし続けるんだ。砂漠の地下水を吸い上げるため根っこは10メートルぐらいまで伸びるんだって。それで、1000年から2000年は生きる」
「2000年? うそみたい」心底驚いたように雀は言った。「それだけ長いと、かえって生きものって気がしないね。化石か、鉱物みたい」
「……何で生まれてきたんだろうとか、死んだらどうなるんだろうとかごちゃごちゃ考えてる人間のたいがいがたかだか100年も生きられないのに、なんにも考えず葉っぱ伸ばしてるだけの植物が1000年も生きるんだ」瑞希は自分に向けて言うように呟いた。
 雀はじっと砂漠の孤独な植物を見つめて、言った。
「バナナはきっと、自分の実が、時がたつと甘く熟するってことを知ってるね。子どもが、その実を好きなことも」
 その日、夏の温室内に、お客はまばらだった。二人の頭上で、細かい三角の枠で区切られたガラスが時折きゅるきゅると音を立てて開閉した。
 蒸し暑い温室を出ると、夏の風でさえ涼しく感じられた。少し歩くと、目の前に広々とした芝生が広がった。ユリノキや春楡などの巨木が緑の絨毯のあちこちに影を落とし、ぐるりを濃い緑が囲む。その向こう、代々木方面に、アールデコ風の巨大な塔が見えた。
「この景色、なんだかセントラルパークみたい。広い芝生と、あの塔のおかげで」雀が指さすと
「ドコモタワーだね。ぼくは嫌いだな、あれ」視線を逸らして瑞希が答えた。
「なぜ?」
「理由はないけど。なんとなく、見るのが怖いんだ」
「ふ-ん……」
 少し歩くだけで汗が吹き出る。二人は屋根付き休憩所のベンチに座り、売店で買ったアイスをなめた。一つはなれたベンチで、老夫婦が肩を寄せ合ってシャトルポットに入ったお茶を飲んでいる。その様子を目の端で見やりながら、雀は瑞希に尋ねた。
「いつもひとりで、植物園にきてるの?」
「そうだよ」
「だから何でもよく知ってるのね」
 手元のアイスをひとなめしてから、瑞希は言った。
「いつも頭の中で自分と会話してた。それで頭の中が言葉でいっぱいになってた。破裂しそうになるぐらい。でもきょう、気持ちを外に出したら、きみがすぐに思いがけない方向からポンポン打ち返してくれて、なんか、……一人で見るより、とても、楽しかった」
 雀の頬が朱に染まった。二人はしばらく黙ったまま、アイスの下のコーンの部分までガリガリとかじった。
「いろいろ、その、不慣れでごめん。ぼく、デートとか初めてなんで」瑞希が申し訳なさそうに言った。
「わたしもよ」
「え?」瑞希は驚いたように首をかしげて雀を見た。
「なにが、え、なの?」
「いや、ぼくなんて見たとおり地味だけど、きみは……その、誰とも付き合ったことがないなんて不自然というか」雀のなめらかな白い肌と濡れたように光る大きな瞳から微妙に視線をずらしながら瑞希は言った。雀は肩をすくめると、コーンを包んでいた紙を手の中で丸めた。
「わたし、嘘吐きなの。だからすぐ人に嫌われるの」
「うそつき?」
「あ、デートしたことないってのは本当。
 ていうか、小学校の時仲良しの男の子と学校さぼって探検ごっこにいったことはあるよ。その子転校生で、またすぐいなくなったけど」
 雀は幾分声のトーンを落とした。
「ひとつ言い訳するなら、両親がとにかく忙しくて、シッターさんが小さいころから面倒見てくれたの。でも、家にいつも親がいないのはやっぱり寂しかった。両親は仲が悪くて顔あわせるとケンカばっかりしてたし、一家で出かけるなんてほとんどなかった。で、小学校でみんなが親と旅行いったとか遊園地いったとか楽しそうに話してると、わたしも首突っ込んで話あわせちゃったのね。そこうちも行った、こないだそこも行ったって。それが丸ごとボス格の子にばれちゃったの。
 ある日みんなの前で、指さして糾弾されたの。あんたのお母さんにきいたもん、外国なんていったことないって言ってたもん。遊園地も海もいってないって。うそつき。うそばっかりつく子はそのうちろうやにはいるんだよ。
 うそじゃないもんって強情張ってるうちみんなわたしを無視するようになって、そのまま開き直って孤立しちゃったの。今度はうちに帰ったら嘘をつくようになってた。学校たのしいよ、お友達になってっていろんな子から言われてうるさいから口きかないようにしてるの。クラスの男子がわたしのこと好きだって手紙くれたけど捨てちゃった。こんど〇〇ちゃんの誕生日パーティーに行くからプレゼント買わなきゃ、お金ちょうだい」
「そんなに次々に?」呆れたように瑞希は言った。
「うん。自分をみじめな子だと思われたくなかったのかな。
 でも親にとってはわたしが寂しかろうがいじめられていようがどうでもよかったのよ。いがみ合うのに忙しかったからね。
 小学校6年の時かな、とにかく壮絶な夫婦ゲンカがあって、怖くて廊下で泣いてたら、父がバターンって出て行ったのね。急いで居間に入ったら、母はソファにうずくまってた。大丈夫? って聞いたら、腫れあがった顔で言われたの。……あんたさえ。あんたさえいなきゃ離婚できるのにって。
 それからはもう、親なんて他人だと思うことにしたの。ただもう、早くひとりでも生きていけるようになりたかった」
 言葉が途切れ、甲高い鳥の声が空の高みに響いた。
「それは、なんていうか、辛かったね……」
 暗い声で答える瑞希の顔を見て、雀はふ、と笑った。
「でもね。メガネ君の前では、昔から正直になれるの」
「メガネくん?」
「クラスで勉強ばかりして男の子の群れから孤立してるメガネ君。よくいるでしょ、静かで存在感のない子。て、初恋の、転校しちゃった男の子がそうだったんだけどね。とにかくそういう男の子見るともうキュンキュンしちゃって。そういう子が、怪我とかして包帯巻いてるともう、一発でだめ」
「怪我してると……?」
「うん。自分からは反撃できずに、ただ殴られてるタイプの子が好き」
 瑞希はしげしげと雀を見た後、慎重な口ぶりで聞いた。
「じゃあ、例えば映画かドラマみたいに、二人で歩いてて街角でチンピラに絡まれたら……」
「戦ってくれなんて言わないよ。人を殴れないほうが当たり前だもん。ただわたしを捨てて逃げないで、一緒にあざだらけになってくれたら、それだけですごく感激すると思う」
 雀は笑いながら答えた。瑞希もつられて微笑みながら、それを聞いて安心した、と言った。
「もうひとつ、聞いていいかな。きみが嘘をつくとき、どういう特徴があると思う?」
 雀は斜め上を見てしばらく考えた。
「少し早口になるかな。それ以上は自分でもわからないわ。でも」まっすぐに瑞希の目を見ると、ゆっくりとした口調で続けた。
「大切な人には、もう、嘘はつかないつもり」

 玄関のドアが開く音がした。マンション特有の、重い金属音だ。
「ああ、暑かった。遅くなってごめんねえ、瑞希。駅ビルでお惣菜いくつか買ったから、きょうはそれで勘弁して」スリッパの足音が近づいてくる。
「あら?」ダイニングを覗いて、母親は心底驚いたように声を上げた。「どういうわけかしら、いい匂いがすると思ったら、うちの少年がご飯を作ってるわ」
 ネイビーブルーのエプロンを身につけて母に背を向けたまま、瑞希は言った。
「ちょっと暇だったもんで。冷蔵庫開けたら、卵がたくさんあったから」語尾を濁してフライパンの中味をかきまぜる。山芋、ひじき、丹波シメジを刻んだものが混ぜられた卵液が、くつくつと甘いにおいを発し、スクランブル状に固まりかけていた。
「すごいじゃないの。どれどれ」母親はいそいそとテーブルスプーンでフライパンからひと口分掬い、ふうふうしながら口に含んだ。ふわりとしたボブへアに白いブラウス、タイトな黒のスカートの母は、年齢よりずっと若く見える。
「うん、すばらしい。上出来!」そして大げさに付け加えた。「こんな日が来るなんてねえ。生きててよかったわあ」
 その日の夕食は、母親の買ってきた酢豚とおこわ、そして瑞希の作った卵焼きだった。母親は美味しいおいしいと卵焼きばかりを食べ、惣菜には申し訳程度にしか箸をつけなかった。
 二人きりの食事が終わると、自分の皿を重ねながら、瑞希は言った。
「話したいことがあるんだ」
「なあに、改まって」流しの皿を湯ですすぎながら母親は答えた。
「この夏、ぼくは好きに過ごす。好きなことしかしない」
「どういう意味?」
「ぼくはもう、勉強しない」
 水を止めると、母親の真面目な顔がこちらを向いた。
「……勉強しない?」
「もう予備校に行かない。行っても無駄だ。今はしたいようにする。この夏は、やりたいことしかやらない。悪いけど、そう決めたんだ」
 母親は皿洗いをやめ、手をタオルで拭い、ダイニングテーブルに来て瑞希の向かいに座った。
「瑞希。……予備校で、なにかあったの?」
「ごめん、予備校はしばらく行ってない」
「なんですって?」
 そのまま母親はしばらく言葉を失っていた。大きく息をつくと、ゆっくりと問うてきた。「いつからよ?」
「ずっと。ごめん、とにかく、9月までぼくを自由にして。それからまた考えるから」
「自由? 自由ですって?」
 怒ったとき特有の腹式呼吸の太い声が室内に響いた。
「昼も夜も働いて買い物して洗濯してご飯の支度してあんたの心配して、自分の体を構う暇もありゃしない。自由をくれ? それは、こっちのセリフじゃないの?」
「だから、母さんも自由になっていいよ。ぼくのことは考えなくていい、掃除もしなくていいし食事もきょうみたいにぼくが」
「そういうことを言ってるんじゃないでしょう!」
「9月までなんだ。今年の9月ですべては終わるかもしれない。だったらそれまで少しは人生を楽しんだっていいじゃないか。嘘をついて適当にごまかすことはできるよ、でもぼくはもう嘘はつきたくないんだ」
「何が終わるっていうのよ?」
「わかってるだろう、ぼくの人生と、なにもかもがだよ」
「どういうわけでそんなことを決めつけるの! 終るなんて誰が一体」ひきつった声が少年の言葉を遮った。
「伯父さんだよ。夢の中でカレンダーを指さすんだ、何度も見た。それは今年の」
 ばん! 母親が平手で打ったテーブルの上で、花瓶の花が飛びあがった。
「馬鹿なことを言うんじゃないの!」
 そのとき、何のタイミングか、ふと二人同時に窓の外を見た。
 ドコモタワーは丁度正面だった。巨大な時計が光りながらこちらを見ている。
 その瞬間、無言の部屋を、母親の鋭い悲鳴がナイフのように切り裂いた。

 
 次に二人が会ったのは最初のデートから10日後だった。
 会おうと決めた日を、瑞希のほうから先延ばしして来たのだ。メールで知らせて来た理由は、「母親の急病」だった。
 待ち合わせのカフェは薔薇のガーデンに向けて大きくガラス窓がはめ込まれている。窓の向こうに揺れるブルー系の薔薇を、雀は一心に見つめていた。
 視界の端に瑞希が立っているのにはっと気づくと、雀ははにかんだような笑顔を浮かべた。
「ごめん、気づかなかった。この窓、開かないかなと思って」
「開けると暑いよ。きょうの最高気温は35度だって」藤椅子に腰かけながら瑞希は言い、注文を取りに来たウエイトレスにアイスティーを注文した。
「うん、暑いよね。でもいま、あの薔薇の匂いが嗅ぎたい。ブルーの薔薇って、しんと冷たいような香りがするの」
 雀はレース地の黒いワンピースを着ていた。見るからに高そうな素材でできた繊細なその服は、肌の白い雀によく似会っていた。
「で、お母さんの具合、どうなの」
「入院することになった。ていうか、もう、してる。体じゃなくて、頭のほうの」瑞希は淡々と答えた。
「え……」
「9時18分だったんだ」そう言って、瑞希は窓の外を眺めやった。
「9月で終わるからもう自由にしてくれってうっかり言っちゃったんだ、ぼくのすべてが終わるからって。おふくろはすぐに意味を察したと思う」
「わたしのことも言ったの?」雀は心配そうに口を挟んだ。
「言ってない」瑞希は即答した。「とにかく予備校にはもう行かないって宣言して、もちろんおふくろは受け入れなかった。で、頭に血が上ったんで伯父の夢のことまで話した。そのとき、なにかの拍子に一緒に窓の外に目を向けた。あのタワーのでかい時計が目に入ったんだ。9時18分。きっちりそこを指してた」
「……」
「おふくろはいきなり大声で叫んで、テーブルの上の花瓶を窓に投げつけた。そして座り込んで頭を抱えて大泣きし始めたんだ。手もガラス片で切ってるし、あんまり様子がひどいんでタクシー呼んでどっか病院へ連れて行こうとしたら、かかりつけがあるっていうからそこへ」
「かかりつけ?」
「おふくろは、長いことぼくの知らない間に通院していたんだ」
 瑞希はため息をついた。
「大きな総合病院の精神科。初めて聞いた。そこで担当医から始めておふくろの話を聞いた。数字にこだわり続けてだんだん追い詰められていたのは、母のほうだったんだ。もう何か月も、薬に頼らなければ眠ることも働くこともできないぐらい。それでもぼくのためを思って、懸命に押し隠してた。そこへぼくが、爆弾を落とした」
「……」
「もう、取り返しがつかない」
 窓がカタカタと鳴って、窓辺の薔薇が突然の風にてんでに頭を揺らした。水やり直後だったのか、水滴がパラパラと窓に散った。薔薇の花壇の向こうはカフェの駐車場になっていて、水色の車が静かにバックで寄ってくるのが見える。自然にナンバープレートが目に入った。
 
 **918 つ 2016

 二人は絶句した。先に口を開いたのは瑞希だった。
「9月18日だけじゃなく、2016までついてきた」
「瑞希くん……」
「これでも、気のせい? ただの偶然?」
「……」
 瑞希は窓の外に目をやったまま、かすれ声で続けた。
「世界はだいぶ前から暗号をぼくと母親に送ってる。意味のない出来事なんてない、それはみんな、お前は9月18日に死ぬ、という運命をぼくに忘れないようにさせるためなんだ。神様や天にとってそれがどんな意味を持つかなんて知らない、でも、ぼくにとってそれが現実なんだ。ぼくにとって」
「わかった、信じる。わけがわからないけど、あなたは何かの運命の真ん中にいる」
 雀は瑞希の手の上にそっと自分の手を置いた。
「そしてあなたもお母さんも頭がおかしいというわけじゃない」
「信じてもらっても、どうにもならない」
「わたしがそばにいて、ずっと見てる」
 瑞希は青ざめた顔を上げて、雀を見た。
「おもしろがりで非情だって言ったよね。自分のこと」
「言ったわ」
「……今もおもしろい?」
 雀は手に力を込めて、瑞希の冷たい手を握った。手のひらには熱がこもっていた。
「ぞくぞくしてる」
 捕えがたい黒目がちの少女の瞳の奥には、瑞希の知らない炎がともっている気がした。
 瑞希はゆっくり唇を開き、そっと閉じた。
 いま、きみに、キスしたい。とっても。そう言ったら、彼女はどうこたえるだろうか。
 ほかに、言いたいことはないのだ。短い時間の中で、思うことだけをまっすぐにかなえながら、前に進みたい。これは、我儘だろうか。きみの体温を感じたいんだ、今。
「……どこへ行こう、これから」少年はかすれ声で言った。
「夜景を見たいな。高いところから」少女はふわりと答えた。
 そうして日が暮れるまでの時間、二人は迷子のように夏の街をさまよい歩いた。フリースペースのある図書館に入り、植物図鑑を眺め、メモ帳を広げ、お絵かきしりとりをして時間をつぶした。
  
 ……たぬき。たぬきってこんなおなかでてるっけ、でもこれで、たぬき。

 じゃあ、ぼくはこれ。わかる?

 なんなの、これ。ばった?

 きりぎりす。くつわむしとの違いが難しいんだ。

 ちがいなんてわからないもん。でも、虫の絵、うまいなあ。じゃあ、わたしはへただからかきやすいやつ。

 スイカだね。じゃぼくはこいつ。細部に自信あるんだ、これは血を吸ったあと。

 モスキートだな。じゃあおなかを赤でぬっちゃえ、ぐりぐり。

 蚊の小さなお腹に赤い丸を描きながら、雀は言った。

 ……この色はこれから、おなかの中で、いのちになる。おかあさんの、だいじないのちに。

 午後7時。
 二人は直径115メートルの観覧車の中にいた。
 東京タワーにスカイツリー、さらに東京ゲートブリッジとレインボーブリッジが、暮れなずむ空のなかに光の衣装を点滅させ始めていた。行方も定めず夏の街をぶらついた二人は、エアコンのきいた夏の観覧車の中でも、まだ汗のにおいをまとっていた。
「街は光、海は真っ暗」外を見ながら、雀は歌うように言った。
「でも、海の中のほうが、命は多い。もし命のすべてに夜光虫みたいに光が宿っていたら、この街なんか比べ物にならない」瑞希が答えた。
「よくできました。ロマンチック」少女は無邪気に手を叩いた。
 そのあと、会話のない時間が続いた。語りたいこと、思うことは心にあふれているのに、二人の中で何一つ、思いは形を成さない。海の暗さと街の灯りが、くっきりとした境界を描きながら眼下に広がってゆく。
「負けちゃだめよ」
 瑞希の瞳を見て、雀が囁いた。
 瑞希は無言で頷いた。
 二人の乗る観覧車は頂上に届こうとしていた。
 頭の上にほかの観覧車が見えなくなったそのとき、二人は唇を重ねた。はやる動悸と血脈の流れが二人の体を揺らし、熱い息が互いの頬に触れた。互いの口の中で触れ合う歯が、かちかちと小さく音を立てた。
「ぞくぞくする」瑞希はそっと囁いた。「なんだか、熱があるみたいに」
「わたしも」耳元で少女は言った。「わたしたち、生きてるんだね」
 点滅する光の海の中をゆっくりと観覧車は下降してゆく。少年の両手の中で、少女の体は真冬の小動物のように震えていた。瑞希はその震えがおそろしくて、さらに両手に力を込めた。少女は両手で少年の背中にひしとしがみつき、それでいて母が幼子に子守歌を歌うように呟き続けた。
 だいじょうぶ、だいじょうぶ、わたしがいるから、わたしがいるから……
 繰り返すその甘い囁きを、果たして耳から聞いたのか体の内側から聞いたのか、あとになっても瑞希は思い出すことができなかった。だが確かにそのリフレインは、繰り返すさざ波のように、少女の魂から少年の魂へあたたかく流れ続けたのだ。

 8月の中旬を過ぎると、立て続けに台風が日本に上陸した。
 南の海で生まれた台風たちは、沖縄の南の海上でかっきり右へ曲がり、あるいは太平洋を迷子のように迷走し、勢力を上げては日本列島を目指した。
 台風と台風の短い合間も、日本中に雨が降り風が吹き荒れた。二人はそれでも時間を惜しむように会い続け、会うと必ず手をつないだ。髪を乱して歩む道みち、花は散り、木の枝は折れ、蛹から出て来たたばかりの鮮やかな蝶々が風に押し流されていく。雀は目にした蝶の名を瑞希に問い、瑞希はすぐに答えた。   
 ツマグロヒョウモン、アサギマダラ、アオスジアゲハ。
 ふたりはただ一心に目を開けて、二人で見つめる風景すべてを心いっぱいに詰め込んだ。

 その日は曇天だった。市内で一番広い総合病院の北の端の、ロの字型をした白い病棟は、無言で夏の風に吹かれていた。中庭をぐるりと囲むポプラの木陰には細いレンガの道が蛇行して続き、その内側にはペチュニアやサフィニアが群れ裂いている。つばの広い帽子をかぶり、麻のカーディガンを羽織って、サングラスの女性がふらりふらりとレンガの道を、自分の影を追うように歩いていた。その足も腕も、竹のように細かった。
「あの」
 ふいに背後からかけられた言葉に、ベージュの帽子の揺れが止まった。
「桐野瑞葉……さんですか」
 女性はゆっくりと振り向いた。
「……どなた」
 二人の間を、ひらりふわりとオレンジ色の蝶々が飛んでいった。

 デイルームのガラス窓にはカラーテープで花や鳥が描いてあり、壁際にはカラフルな絵本や写真集が並んでいる。中庭にもこの空間にも、監視するように白衣の看護師がたたずんでいる。白い四角いテーブルを挟んで、ふたりは灰色のソファに座った。雀はオレンジ色のポットを出して、水出しのジャスミンティーです、と言いながら、バッグから出したプラスチックのピンクとオレンジのコップについで、自分の前と瑞希の母親の前にひとつずつ置いた。
「7月の終わりあたりから、瑞季くんとお付き合いさせていただいてます」
 母親はコップを手に取り、黙ったままジャスミンティーを一口飲んだ。
「いろいろ、たいへんだったこと、あの、聞いてます。そして、でも、わたしといると、瑞希くんは元気です。そのことだけ、わたしの口からお伝えしたいと思って」
 重そうなサングラスが、白い頬に影を落としていた。顔を俯けたまま、母親は口を開かなかった。雀は構わずに続けた。
「あの、さっきわたしたちの目の前を飛んでいったオレンジの蝶々、いましたよね。名前、ご存知ですか」
「……いいえ」母親は怪訝そうに答えた。
「ツマグロヒョウモン、です。瑞希くん、とても物知りで、何でもすぐ答えられるんです。もともと南西諸島とかにいた南国の蝶々で、だんだん北限が上がってきてるって。わたしが、そういえばきれいな蝶々が最近増えてるよねっていったら、でも、モンシロチョウのほうが好きだって。キャベツ畑がだんだん都会からなくなってるから、あまり見られないのが残念だって、言ってました」
 雀はがさがさと布のパッチワークのバッグを探り、赤いバンダナの包みをひとつ、テーブルに出した。
「それで、ホントはわたしもモンシロチョウが好きなのっていったら、キャベツ畑か菜の花畑のあるところに行こうかってことになって、そしたら房総のあたりかなって。それで、決めたんです。じゃあ今度行こう、菜の花畑にピクニックに。美味しいお米と美味しいお塩でおにぎり握って、あんまり料理できないけど卵焼きやいて浅漬けもつけて」
「いつもふたりで、そんな話をしているの」瑞希の母は意外そうに言った。
「はい、もうなんかそんな話ばかり」雀は首を傾けて笑った。
「で、こんなに暑いのに菜の花畑になんか行ったらおにぎりが腐るし暑くて死ぬって、瑞希くんが。第一今菜の花の季節じゃありませんよね。でもとりあえず、二人でおにぎり握って、とてもおいしくできたんです。で、お母さんに届けたいって言ったの、彼なんです。入院してからほとんどなにも食べてないって聞いてるって。で先週断られて、めげずに今週も」
 テーブルの上でコップを握る母親の手は、かすかにふるえていた。
「瑞希くん、お母さんに近寄ると、悪いとこばっかり共鳴しそうで怖いって言って……。あまりお見舞いに行ってないって言ってたけど、に来たくないわけじゃないんです」
 桐野瑞葉はバンダナの包みに痩せた手を伸ばした。
「おにぎり、食べていただけますか」
 尖った顎が、かすかに頷いた。雀は声を弾ませた。
「よかった!」
「あなたは怖くないの」
 突然の語り掛けだった。
「あの子の恐れていることが、あなたは怖くないの」
 サングラスをかけたまま、母親はこちらを凝視している。
「あの子の背負っているものは変えられないわ。どんなに思ってくれても、誰にもどうにもできない。どうにも」
 悲痛な色合いを含んだ、断固とした口調だった。窓からの陽射しが、母親の顔に濃い陰影を落としている。雀は背筋を伸ばして、まっすぐに母親の顔を見た。
「わたし、彼と会って安心したんです。わたしの居場所が見つかったって。どんなことになっても、後悔なんてしません。そして瑞希くんも、わたしがいれば、大丈夫です」

 瑞季は銀行の前に立ち、改めて鞄の中を探ってカードを確かめた。
 入院費は二週間ごとに払いこむことになっている。カードでもいいが、とつぜんカード所有者に万一のことあったら引き落としができない。自分に何かあっても常に家の中に一定の現金があるようにしておきなさいというのが、父親を失ってからの母親の口癖だった。
 受付番号の自動発券機のボタンを押すとき、体を内側から揺り動かす確かな怖れがあった。そしてそれは形になって出てきた。

「No.918」

 そのとき、いつもの怖れは激痛となり、確信に姿を変えた。
 
 ……自分は近く、あの雀と、そして母を置き去りにするのだ。そうして、この世を去る……

 そのとき、ポケットの中で携帯が鳴った。呆然と取り出したその画面は、相手が雀であることを告げていた。
「……はい」
『わたし。あのね、お母さんとお話で来たよ。それで、おにぎり全部食べたよ! おっきいの、二つとも。お医者さんがそっとあとで教えてくれたの、形のあるものを噛んで食べたのって久々に見たって』
「……そう。よかった。助かった。ありがとう」抑揚のない声で、瑞希は言った。
『どうしたの。……大丈夫?』
「なにが」
『声が震えてるみたい。喋り方もヘン。もしかしてまた何かあった?』
「……なんでもない」
『今どこにいるの』
「K駅前の銀行」
『ああ、そうか』雀はわが意を得たり、というように答えた。『また数字に苛められたのね』
「そう簡単に言うなよ」
『いい? 瑞希くん。深呼吸よ、深呼吸』
 瑞希は一つ大きく深呼吸すると、目を閉じ、ただ雀の真っ黒な深い瞳を脳裏に思い描いた。震えていた膝が、段々におさまってきた。
「ありがとう、落ち着いた。今から会えるかな。できれば玄鳥去とかで」
『うん』
 そのころの二人のデートは、天候があれた日は大抵、最初に入ったその店になっていた。

 店内にはG 線上のアリアが流れていた。
 二人の姿を見ると、口元に笑みを浮かべ、マスターはいつもの窓際の席に笑顔で案内してくれた。
「ちゃんとおふくろ、会ってくれたんだ。きみを認めて、おにぎり食べてくれたんだ。それだけでも、本当にすごい。ありがとう」銀行で言ったのと同じことを、今度は心を込めて瑞希は言った。
「ぼくがたまに行っても、あんまり顔も見ないし会話にならないんだ。いつも、鬱なんて弱虫の言い訳、みたいに言ってた人だから、自分の今を見られたくないんだと思う」
「そうかもしれないね……」雀は声を落として言った。
「とにかく、9月18日を過ぎたら、母親を迎えに行こうと思う。それまではあんまり意識せず、普通に過ごそうと思うんだ」
「うん、そうだね。それが一番大事だね」
「大事とかいうとまた意識しちゃうんだよな」
「じゃあ意識しないように全力でがんばろ」雀は冷たい水を飲みながら笑った。
「いつも思うんだ。ぼくにはきみがいる。でも、きみの前にいるのは、ぼくだ」瑞希はため息をついた。「きみのために、なにもできない」
「いいのよ。瑞希くんはメガネをかけて、ただ可哀想な人でいればいいの」
 何か言い返したくて口を開いたとき、マスターが二人の前にアイスコーヒーを置いて声をかけた。
「きょうも暑いですね。ここで夏休みの勉強ですか」
「まさか、勉強なんてどうして」雀が答えると
「ときどきノートを広げているから」
「ああ、あれはお絵かきしりとりです」
「しりとり?」マスターは意外そうに微笑んだ。
「ここ、大人の店だし、ぼくたちいつも場違いですよね」瑞希は顔色の悪さを悟られまいと、努めて明るい口調で言った。「夜は何時までやっているんですか」
「夜はお酒が主になって、1時までやってますよ」マスターは腰をかがめて声を潜めた。「いや実はね、一部のお客の話題になってるんですよ」
「なにが?」二人同時に答えた。
「こういう店には不似合いなあの高校生カップルはどういうわけでここでデートを重ねてるのか、なんだか昼間見るときの雰囲気が変わっていくけど、かなりいい線までいってるんじゃないか。ほんとのところはどうなの、マスターってね」
 二人は顔を見合わせた。雀は頬を赤くして抗議するように声を上げた。
「ほんとですか?」
「冗談です」あっさり言うと、くるりと背を向けてマスターは去っていった。
「いい年してくだらない嘘つくよね」
「きみと同じじゃないか」雀の不満顔に瑞希が微笑しながら切り返すと
「じゃあこれからも来ようよ、意地でも来つづけようよ。あ、そうだ」雀は思いついたように身を乗り出した。
「あなたの記念日のお祝い、ここでいいんじゃない? 9月19日の午前0時、日付が変わったその瞬間を、最初のデートをしたここでお祝いするの。ナポリタンとか生姜焼き定食で。どう?」
 瑞希は顔を上げた。最初あった時と同じ、黒目がちの、明るい月のような雀の顔がそこにあった。
 そうだ。彼女は、太陽とは少し違う。明るい月なんだ。眠りについた小鳥や小動物を抱える森を照らす、煌煌たる満月……
「いいね。すごく、地味で普通でいいね」瑞希は微笑みながら答えた。
「わたし田舎カレーがいいな。あれだけまだ食べてないから」
「じゃあ、日付が変わったころ、ここで会おう」
「……あと5日ね」
 そのあと、二人はすっと沈黙した。壁にかかるアナログ時計の秒針の音が、やけに大きく響いた。
「無事にその日を祝えたら」瑞希は静かに口を開いた。
「その日からぼくは、なにがあっても、きみを守る。命懸けで、そういう存在になる」
 雀の笑顔が揺れて、いっそう煌煌と瑞希の顔を照らした。


 その電話があったのは9月18日の午前だった。
『突然のお電話ですみません。そちらにお母様はお帰りになってらっしゃいますか』
 担当医の声だった。瑞希はしゃっきりとベッドの上におきあがった。
「いえ。あの、なにかあったんですか」
『病院内のどこにも、お姿が見えないんです。朝食のあと、食後のお薬……安定剤を飲んで、病室でお休みになっているのを看護師が確認しているんですが』
 瑞希は壁の時計を見た。雀との長電話のあと未明までゲームをし続けて床についたときは空が明るかったのを覚えている。もう午前11時を回ったところだった。
「安定剤がきいている状態で、いなくなったんですか」
『日が日なので、多少大目に処方してありました。通常ならば、かなりふらつくか眠っているのが自然な状態です。携帯も病室に置いたままです』
 日が日…… 
 彼にとっても母親にとっても運命のその日だった。
『お母様の行先にお心当たりはありませんか』
「いえ……。 そちらでは、変わった様子はなかったんですか」
『お話できるような変化は特になかったですね』
「……」
『とにかく、何かあったらご連絡ください。こちらもまたあちこち探してみます』
「よろしくお願いします!」
 電話を切ると、携帯を手に取り、瑞希はすぐに雀に電話をかけた。雀とは、特別にきょうという日を意識せず、それぞれ好きにすごし、日が変わるころ会おう、と約束してあった。
『はい』雀はすぐに出た。『運命の日ね。どう、がんばって淡々としてる?』
「してない。母親が病院からいなくなった」
『えっ……』
「どこに行ったかまるで見当がつかないんだ。強めの安定剤処方されてラリった状態のままで、いなくなった」
 電話の向こうで息をのむ気配があった。
『それ、……かなり、かなり危険よね』
「うん。それで、きみ、おにぎりもっていっておふくろと話したよね。全部食べたと言ってたね」
『うん』
「ほかに何か特別な話をした? どうしていなくなったか、心当たりはある?」
 しばし沈黙が続いた。
『……具体的には、思いつかない。ただ……』
「ただ?」
『息子の運命は、あなたには変えられないって。で、おにぎり食べながら、少し泣いてたわ』
 口元を覆い、しばらく絶句してから、瑞希は続けた。
「とにかくこれから病院に行って、母の様子をいろいろ聞いてみる。それからあちこち探してみる。きょうは真夏日だし、ただでさえ弱ってる身体が暑さでやられちまう」
『……ね、瑞希くん。警察に捜索願を早めに出して、家でおとなしく待ってるほうがいいんじゃないかな』言葉を選ぶようにして、雀は言った。
「なんで?」
『あのね、……きょうは18日でしょ。それに、今は晴れてるけど、天気予報では、爆弾低気圧の影響で、午後から天候が荒れ始めるっていってたわ。だから……』
「……だから?」
『あの、あまり動き回らずに待ってた方が』
 雀の言いたいことも、その心配も瑞希にはわかった。そう、きょうは18日だ。そして自分の運命を散々悲観し披露して見せたのは自分だ。それでも、母を一番に思う自分に寄り添わない彼女の態度に、瑞希の胸には言いようのない靄が広がっていった。
「きみに何かしてくれとは言わないよ。ぼくの母親のことだから、ぼくが探す」
『あのね、お母さん大人だし、そう大ごとにはならないと思うの。なんなら、わたしが』
「きみはいいよ、ぼくの親の問題なんだから。夜までに見つからなかったら、例の待ち合わせの約束もなしだから。たぶんメールやり取りしてる余裕ないんで、悪いけどしばらく連絡してこないで」
 一方的に電話を切ると、駄々っ子のような自分の怒りに無理やり蓋をして、瑞希は財布と携帯を握り、玄関のドアを開けた。

「なくなっているのは財布と帽子ぐらいですね」
 到着するとすぐ、初老の主治医が母親の個室に案内してくれた。
 白い壁に囲まれた狭い部屋の窓にはブラインドが降りている。サイドテーブルにはコップと歯ブラシ、タオル、そして置いていったままの携帯があるきりだった。ロックをかけられているので中身は見ることができない。
「母は……最近はどんな様子でしたか」瑞希は室内を見渡しながら尋ねた。
「波がありましてね、ひどく気が立っているときもありましたね。デイルームのカレンダーを破り捨てたり、売店で求めた品が偶然918円で、店員につかみかかったことなんかも」医師はブラインドを上げながら続けた。「それでも、あのお嬢さん、米好さんという方が来てからはなんだか雰囲気が変わって、あまり荒れた様子を見せなくなっていたんです。それからは何か、遠くを見る感じになって、よく中庭を散歩していましたね。考え込むようにして」
 ときおり眺めていた本は主に花や自然物、虫や動物の写真集や画集だという。微妙に最近の自分と似ている、と瑞希は感じた。数字が出てくるような書物はおそらく、すべて怖かったのだ。
 医師は瑞希を中庭に案内した。
「お母さんはよくこの道を散歩なさってました。中庭にはいちおう看護師を置くことにしていましたが、急患で手を取られて、……その隙に出られたとしたら、申し訳ない」
「いえ……」瑞希は雀の言葉を思い出し、二人で語らったというその風景を頭の中で再現してみた。だが風景はかたちをなさず脳内で陽炎のように霞むばかりだった。医師は声を潜めて続けた。
「後で聞いたところでは、帽子をかぶったご婦人が通用門から出て病院前のバス停に向かっていったのを、植木職人さんが見たというんですよ」
「えっ……」
「お母さんだとはっきりしているわけではないですが」
 瑞希は中庭から外に通じる小さな門を見やった。
「……バス停はどこ行きでしたっけ」
「ここを通るのはS駅行きですね」
「S駅……」
 JRや私鉄の各線が乗り入れる都心の駅。何一つ行先に思い当たらない。瑞希は額を抑え、無意識に首を振った。
 日暮れまで音沙汰がなければ捜索願を出す、と決めて病院を出たときは、明るかった空の半分はどんよりとした雲に覆われ、冷たい風が吹き下ろしていた。
 考えまいとしても、雀と初めて出会った時の異様な空が脳裏に展開する。
 ……夕焼け空を覆い尽くそうとしていた、真っ黒な雲の進軍。
 遠雷が鳴った。最初より最後のほうが野太く、なかなか吠え終わらぬ獅子のような、長い長い雷鳴だった。病院を囲む柳の木がしゃらしゃらと頭を振り、冷たい風が通りを吹き抜けた。瑞希は大股で病院の敷地を出ると、いつしか大通りを走り出した。
 ……瑞希、やっとみつけたわ。
 商店街で、迷子になった自分を抱きとめた母の声と姿がふいに蘇る。
 どうして走るの。おかあさんがみつからないからって、闇雲に走っちゃだめよ。おちついて、周りの人に聞くのよ。ここはどこですか、ぼくはまいごです、って。
 
 ……自分がこの世を突然去り、雀が、母が置いて行かれる。
 そんな想像しかしていなかった。母が姿を消し、自分が置いて行かれる。こんな想像をかけらもしていなかった自分はなんておめでたいのだろう。多分母は、こんな想像をずっとしていたのだ。一人きりの息子がいつか運命に運び去られる。自分はこの世にひとり、取り残される。その恐怖の前に立ちすくんでいることに耐えられなくなって、暗雲のもとへ飛び出したのだとしたら……

「いらっしゃ……」
 ドアの音に振り向いたマスターは、続く言葉を飲み込んだ。ジーンズに空色のTシャツという軽装の雀が、全身から雨水を滴らせて立ち尽くしていた。
 窓際の席に案内して机にメニューを置くと、マスターは白いタオルをわたして、言った。
「とにかく、拭いて。急な雨だったよね。きょうは、彼はあとから?」
 向かいのビルでは休日だというのに改修工事をしていた。その振動と騒音が、店内に鳴り響いた。
「たぶん来ない」
 雀はそのままぼんやりと窓の外を見た。マスターは雀の向かいに座ると、優しく声をかけた。
「ケンカしたのかな」
「……」
「メールした? 家は知ってる?」
「家は知らない」そう呟くと、雀は俯いて、渡されたタオルで顔をぬぐった。
「住所知らないの? 付き合ってるのに?」
「この夏に出会って、9月18日……きょうまでは淡々と付き合う、そういう約束で」
「へえ、淡々とね」マスターは不思議そうに首を傾げた。「じゃあ、明日からは?」
「明日からは……」
 雀は声を震わせた。
「彼が、全力で、わたしを守る。そういう存在になる、って……」
「素敵だねえ」マスターはにっこり笑いながら言った。「でも何でこの日が境なんだろう」
 おーい、この天気じゃ無理だ。もう中止中止! 工事現場の叫び声が聞こえ、遠雷がそれに続いた。
 少女は顔を上げると、じっとマスターの目を見て言った。
「お誕生日……」
「え」
「おめでとうございます」
「ああ、ありがとう。誰かにそう言われたのって久しぶりだな、嬉しいものだね」
「あの、わたし、ここにいてもいいですか。夜まで」
「夜って、何時」
「午前零時、です。そのころ会おうと、彼と約束してたんです」
 マスターは眉を寄せて壁の時計を振り仰いだ。
「あと7時間もあるよ」
「かまいません」
「暇な店だから長居はいいとして、18歳未満の青少年を午後11時以降まで外出させておくというのは青少年保護条例に抵触しますからね。なんでまたそんな時間に」
「年齢なら大丈夫、18歳です。学生証だってあるし」
「じゃあちょっと見せてくれる? あと親御さんにもちゃんと言わないと」
「両親はわたしに関心なんてありませんから」雀は学生証を濡れたパッチワークのバッグから取り出すと、マスターに渡した。
「どうぞ」
 マスターは渡された学生証を一瞥すると、「はい、確かに」と言った後、「え?」と驚いたようにもう一度覗き込んだ。と同時に雀はさっと手を伸ばしてあわてて学生証を奪い去った。
「きみ……」
 長く尾を引いて雷が鳴った。今度はかなり近かった。ゆっくり首を振る雀の瞳には、断固とした光が宿っていた。
「ここで、待ちます。たとえ来なくても、わたしは、ここにいなくちゃならないんです」
 マスターは腕組みをすると、背もたれに背を預けた。
「どういうことでこうなってるのか説明してくれるなら、9月18日記念特製のディナーに、デザートもご馳走しようかな」

 雷雨は最高潮に達していた。あたりが真昼のように光ると同時に雷鳴が鳴り響き、ビルの間を稲光が走る。
 帰宅ラッシュでごった返すS駅の混雑に、やがて酔客が混じり始めた。
 絶えず押し寄せる人の群れは川の流れのようだった。この中から、いるかいないかわからない人間一人掬い出すのはほぼ不可能に近い。無力感がずっしりとした重みで瑞希の全身を支配する。地下道の丸い柱に背を預けたそのとき、ふいに尻ポケットの携帯が鳴った。取り出してみると、病院からだ。瑞希は急き込むように耳に当てた。
「はい、もしもし」
『桐野君だね。今、千葉の警察から電話がこちらにあった。お母さんが見つかったそうだよ』
「生きて?」思わず瑞希はたたみかけた。電話の向こうで医師が笑った。『もちろんだ』
「千葉って、千葉のどこに。どんな様子で」
『なんでも、畑で倒れているのを通行人に発見されて、大部前に地元の病院に収容されていたとか』
「畑?」
『身元確認に手間取ったらしくてね。何しろ財布の他は何も持たなかったから。意識がもうろうとしているという話だけど、熱射病と薬の副作用だろうし、命に別状はないでしょう。今こちらの病院に搬送してもらっているところです』
「ありがとうございます。あとどれぐらいでそちらに着きますか」
『1時間ぐらいかな』
「とにかく、行きます」
 閉じた携帯を、瑞希は胸に抱きしめて長いため息をついた。
 そして、なんとなく避けていたメールの着信確認を始めた。
 ……何も来ていない。
 そのときになって、自分が投げかけた言葉と雀の無言が、胸に刺さった。
 いくら気持ちに余裕がないからと言って、あの言い方はなかった。これまで一心に支えてくれたのに、どれだけ彼女を傷つけたことだろう。身勝手を承知で、瑞希はその場でメールを打った。

 母親が見つかった。今千葉からK病院に搬送されてる。とりあえず会いに行って様子見る。いろいろテンパってて、酷いこと言ってごめんね。間に合うようなら、玄鳥去、行くから。多少遅れても行くから。勝手ばかりで、頼ってばかりで、ほんとにごめん。
 
 移動しながら何度か画面を見たが、返信はなかった。
 
「安定剤追加したんでうとうとしているけど、話はできると思います。瑞葉さん、息子さんですよ」
 看護師が開けてくれたスライドドアの向こうで、母はベッドに横たわっていた。
 病室の白いあかりの元で見る母親はなんだか荒れ野に打ち捨てられた枯れ木のようで、その腕に刺さる点滴の管がひときわ痛々しかった。
 落ちくぼんだ眼窩の中で真一文字に閉じられていた瞼が、すっと開いた。そして流れるように、黒い瞳が瑞希を捕え、ふ、と和らいだ。
「……みずき」
「うん。大丈夫?」
「みずき、いきてる……」
 瑞希は泣き笑いのような顔になった。
「それはこっちのセリフだよ」
 母は痩せた手で目元をこすると、恥ずかしそうに横を向いて言った。
「ごめんね。……馬鹿なことしちゃった」
 二人は向き合ったまましばらく沈黙した。
「……行くなら今だって思って。でもあんな遠くまで行かなくても、考えてみたら、……近くだってよかったのに……」
「……なにが?」
 母親の顔がサイドテーブルの方を向いた。ハンカチをかけた、小さな花瓶サイズの何かが、そこにあった。
「それ、とってみて」
 瑞希がハンカチをとると、金色のふたのガラス瓶の中で、モンシロチョウが二羽、はたはたとはためいていた。
 瑞希は目を見開き、久しぶりに見るモンシロチョウをじっと見つめた。白い鱗粉がガラス瓶の中に幽かに舞っていた。母親が背後から続けて言った。
「あの子に、あなたの彼女に、……見せてあげて。おにぎりの、お礼」
「……これを、取りに?」
「うん」
 瓶の中で、はたはたはた、とささやかな羽音が続いた。
「本当にほんとうに、おいしかったの。あのおにぎり」
「……」
「もう少し涼しくなったら、ピクニック、ふたりで、いくといいわ。そのときはわたしが、おにぎり、握ったげる」
 瑞希は母親に向き直り、背をかがめると、唇をかみしめ、ありがとう、と言った。母親は指先で息子の頬に触れると、かすれ声で尋ねた。
「みずき。今、何時」
 病室に時計はなかった。瑞希は囁くように言った。
「夜中の零時を過ぎたよ。母さん、9月19日だよ。もう大丈夫だ」
「ああ……」
 瑞葉は細い腕を伸ばすと、瑞希の背を抱え、しがみついた。悲しくなるほど、弱々しい力だった。
「あの子、言ってくれた。わたしがいれば、瑞希くんは大丈夫だって、言ってくれたわ」母の涙声が胸の中から響いた。
「うん、……うん。その通りだ」
「もう、大丈夫なのね」
 なにか粉くさいような香りのする、骨ばったからだと、弱々しい心臓。一回り小さな人形のようになったその体を、背を、瑞希はうずくまるようにしてさすり続けた。
 怒鳴っても罵っても、ここまで病んでやせ細っても、薬を飲んでも寝ても起きても、自分という存在から逃れられない、母という存在……
「ちょっと、眠いわ。寝てもいい? わたしが眠っても、瑞希、大丈夫?」舌をもつれさせながら、母親は言った。
「うん、もちろん。今夜は何も考えず、ゆっくり眠って」
 瑞希の手を握る母親の手から次第に力が抜けていった。静かにその手がシーツの上に落ちたのを見届けると、瑞希はサイドテーブルの蝶の瓶を手に取り、看護師に頭を下げて、病室を出た。
 腕時計は、午後11時35分を指していた。

 自転車にまたがり、空を見上げる。
 雨上がりの夜空を滑るように流れゆく雲の合間から、月が見え隠れしている。たまに漏れるその灯りは、あたりをしんと青く照らした。風は、まだ強い。
 腰を上げ、ペダルを踏み込む。深夜の国道は車もまばらで、ひと漕ぎごとに風を切る自転車は、濡れた深夜の道を疾走した。
 母は生還したんだ。自分も、生きるだけだ。
 向かうのは雀の居る場所。帰る先は、彼女の視線の正面。
 20分余り全力でペダルを踏むと、胸が切なさに高鳴り始めた。あと少し、あとちょっとだ。そら、駅が見えた。あの高架をくぐって向こう側に出れば、最初に声をかけられた交差点だ。その先のビルの横で光るのが、玄鳥去の看板だ。小さく灯りがついているのが見える。窓辺の席に彼女はいるだろうか。
 交差点についた。直前で信号が赤になる。瑞希は自転車から片足を地面に降ろした。
 と、道の向かい側に女性の人影が近づいてくるのが見えた。
 それが雀だというのは瞬時にわかった。
 ジーンズに水色のTシャツ。待ちきれなくて出て来たんだ。ああ、笑ってる。よかった、笑ってる。手を振ってくれている。
 瑞希も伸びあがるようにして大きく手を振り返した。そして横目で駅の時計を見た。
 11時58分。
 ……正面に視線を戻した瞬間、瑞希は全身をこわばらせた。

 雀から右に2メートルほど離れた場所で、よれた背広を着た中年の男がこちらを見つめている。
 夜の闇に妙に白々と浮かぶ、その白い顔に見覚えがあった。

 ……伯父さん。

 白い顔を光らせたまま、伯父は目を逸らさない。あたりから音が消えた。瑞希の全身は石のように固まったまま、その場に縛り付けられた。信号が青に変わる。動けない。伯父がこちらに向かって、ゆっくり横断歩道を渡りはじめる。動けない。雀は怪訝そうにこちらを見ている。

 ……誰か。誰か……

 そのとき突然、激しい突風が頭上から吹き下ろし、ビルの谷間で渦を巻いた。がしゃん、ばーん。立て看板が倒れゴミ箱が転がる音があちこちから響く。外壁工事中のビルの保護シートがぶわっと大きく膨らむ。そして一部がほどけ、内側の足場に絡み、もつれたヨットの帆のようになった。
 危ない! と誰かが叫んだ
 雀の真上で工事現場の足場が大きく揺れ、つなぎ目が外れ、パイプがばらけるのが見えた。
「雀走れ!」
 自分の絶叫を聞くと同時に瑞希は自転車を放り出して駆け出した。
 それからの光景はスローモーションのようだった。
 雀は走らない。上を見上げ、こちらに視線を戻し、かすかに首を振る。彼女の前後に、崩れた足場のパイプが次々と落下していく。
 がらんがらんがらんがらんがらん、がらんがらんがらーん。
 辺りは埃と轟音に包まれ、周囲から悲鳴が上がった。
 目の前の、積み重なったパイプの山に瑞希は全身を突っ込んだ。体の上に金属の部品と外壁の残骸がなおがらがらばらばらと落ちて来て、腰から下が埋まった。
 身をよじって雀の服を掴んでも、積み重なった足場は絶望的に重い。指先に柔らかいものが触れる。手だ、雀の手だ。視線の下に血だまりが広がってゆく。どんなに手を引いても体が出て来ない。がれきの下に、横を向いて目を閉じた雀の顔がちらりと見えた。うおおおおおおおお。瑞希は獣のような声で絶叫した。マスターが何か叫びながら必死にパイプをかきどけている。握りしめる雀の細い手首は、細くやさしく、暖かかった。喉をひりつかせながら、瑞希は叫んだ。
 すずめ、すずめ! 誰か、誰か、誰か助けてください、誰かだれか!
 かーんかーん、かーんかーん。叫び声に被せるようにして、鐘の音があたりに鳴り響いた。
 午前零時を告げる駅の時計だった。
 倒れた自転車からいつの間にか逃げ出した白い蝶が、頭上をふわふわと横切っていった。

 風はやみ雲が切れ、いま、煌煌とした月が天空に君臨した。
 


 

 
 桐野 瑞希くんへ           


 わたしはいま、玄鳥去で、瑞希くんを待ちながらこの手紙を書いています。
 便箋と封筒は、お店のものを借りました。
 きょうは9月18日。いまは、夕方の5時半。
 本当は、9月19日になった時、その瞬間に、直接瑞希くんに言おうと思っていたことなんだけど、
 いろいろあって微妙なことになってるから、やはり書いておきます。保険みたいなものかな。正直、夜中の12時までかなりあって、暇なの。
 最初はやっぱりこれでいきます。

 ……この手紙を読んでくれているということは、もうわたしはこの世にいないのですね。

 この書き出し、実際に一度やってみたかったの。で、ごめん、ここからは真面目に書くね。
 いろいろ無神経で、瑞希くんを傷つけたとしたら、ごめんなさい。
 でもそのごめんなさいよりも、もっと謝らなければならないことがあります。
 わたしは、大事な人にもう嘘はつかないと言いました。でも、瑞希くんにつき続けていた大きな嘘があるんです。

 わたしの名前は、すずめじゃなくて、つばめなんです。
 このお店の漢字だと、玄鳥。わたしは、ひらがな。

 嘘言ってごめんなさい。どうしてちゃんと本名を言わなかったかというと、昔の嘘吐き癖が出た、というより、あの瞬間はただ、そんな縁起の悪い名前はいやだったから。
 だって、憧れの人とやっとデートできたのに、最初に入った店の名前が つばめ去る、だなんて、認めたくなかったんだもん。
 だから咄嗟に自分の名前を変えちゃいました。そしたら、訂正する機会がなかなかなくて……

 でもね、瑞希くんの恐怖の運命話を聞いてるうちに、……最初は冗談半分で付き合ってたけど、これはわたしが助けなくちゃ、って思い始めたの。そして、気がついたの。
 あなたの宿命がほんとなら、そんなことがほんとにあるなら、わたしが助けられるかもしれない。
 店の名前は つばめ さる。名前が示すのは9月18日。
 じゃあ、その日に去るのは、瑞希くんじゃなくて、わたしかもしれないじゃない?
 あなたの伯父さんは、あなたが運命の彼女と出会う日として、そこを指さしてたのかもしれない。
 あなたを呪うためじゃなく、あなたを助けるために、教えてくれていたのかもしれない。あなたは大丈夫だよって。あなたを救う彼女が現れるよって。
 理解不能かもしれないけど、わたしは、願をかけたんです。
 わたしがいる限り、あなたは大丈夫。その日が来ても、宿命がほんとならなおさら、去ってゆくのはわたしの方。その日どういういきさつでそうなるかわからないけど、もしそうなっても、わたしは本望だからね。
 わたしは長ネギを踏んで瑞希くんにアタックして、瑞希くんはわたしと出会ったことで、この運命の輪の外に放り出されるの。素敵じゃない?
 でも、無事9月19日を迎えたら、こんな話は笑い話になるね。ほんとはそのときが来ることをもちろん、望んでいます。
 この手紙をくしゃくしゃにして、二人で大笑いしながら捨てることができますように。
 そして、くしゃくしゃじゃなくピンピンのままひとりぼっちで読んでいたとしたら、
 可哀想なメガネの瑞希くん。わたしはそれでも、あなたを守っているからね。
 だから一生、大丈夫だよ。
 でね、いつかわたしを思い出すことがあったら、そのときは、つばめ じゃなくて、すずめ、って呼びかけてね。
 だってわたしはあなたの前でずっと、雀だったから。
 雀でいれば、あなたの記憶の中から、飛び去らずに済むもの。
 さよなら。
 また、どこかで会いましょう。

                                   雀



 一歩、一歩。
 自分のつま先を見つめながら、慎重に歩く。
 見つめて、意識していないと、つま先が自分をどこかへ持ち去ってしまうから。

 踏みしめる足の下でかさかさと音を立てているのが枯葉だとあらためて気づき、
 足の裏に感じるゴロゴロした小さなものがどんぐりだと、靴を上げて気付く。

 薄い鞄の中には、携帯と財布と、ハンカチとティッシュ、そして手紙の入った封筒。
 何度も何度も読み返したので、封筒ごとヨレヨレになっている。
 側らの、苔の生えそうな木のベンチに座り、封筒を取り出す。
 事故から二週間ほどたったあの日、急に呼び出された玄鳥去で、マスターは思いつめたような表情でこの封筒を渡してくれた。
 店の名前の入った空色の封筒。緒が二つに割れた鳥のシルエットが、四方に散っているデザイン。
 店内に流れる曲は、最初訪れたときと同じ、Once in a blue moonだった。

「彼女は自分で話すことにこだわっていたし、そうできると信じていた。でも、そうできない可能性も考えていたから、あの日、これをかいたんだと思う。ぼくの目の前で」
 読み終えた手紙を手に呆然としている瑞希の前で、マスターは言った。
「でも今、きみにこそ必要なことだと思ったんだ。ちゃんと知るのは」
 窓の向こうのビルは塗装工事を終えて、外壁は真っ白に輝いていた。夕日がその壁に照り映えて、店内を薄い茜色に染めている。
「かわいい、ですよね」瑞希は唐突に言った。
「え?」
「すずめでも、つばめでも。可愛い名前ですよね」
 マスターは真意を測りかねたようにとまどっていたが、控えめに、そうだね、とだけ返した。
「彼女は、……雀ちゃんは、ちょっと、悪い風にとりすぎていたかもしれない。と、ぼくは思うんです。
 両親のことを。
 どんな理由でケンカしていたのかはわかりませんでしたが、つばめなんて可愛い名前を付けて、あんな風に、素直で、まっすぐに、育ててくれた。それなりに、愛は、あったんだと思います。見捨ててなんかいない。彼女は……」
「そうだね。彼女はいい子だ。とてもいい子だ」マスターは絶句した瑞希の言葉を継いだ。
 丁寧に便箋をたたむと、瑞希は言った。
「読ませてくださって、ありがとうございました」
 ビルの反射で頬が染まっているのが自分でわかる。ぼんやりと、温かい。温かい頬を、同じぐらいの温度の涙が転がり落ちてゆく。それはまるで、雀に小指で頬をなぞられているような感触だった。
「運命について、あえて考えたことはないけれどね」
 黙り込んだままの瑞希の前で、マスターは口を開いた。
「9月18日に生まれたぼくは、きみたちの運命の分岐点に居合わせたのかもしれない。何の役に立ったのか立たなかったのかわからないが……。伯父さんも、きっときみの宿命に立ちはだかるために」
 流れていたピアノ曲がふっと終わった。
 瑞希は包帯を巻いた手で頬をぬぐうと、言った。
「なにがあってこうなったとか、どうすればどっちにいけたとか、もう考えないことにしたんです。
 すべて失ったのだから、見通しもいい。道は、ひとつしか見えません」
 マスターは食い入るようにじっと瑞希の瞳を見た。
「歩けるかい。その道を、一人で」
 それだけ、最後にたずねてきた。
 瑞希は大きく頷いた。

 黄色い葉を落とし終わったイチョウの並木を歩く。
 頭上の黄色いあかりが今は地面にうつり、行き交う人を下から照らす。
 たとえ返事がなくても、会話ができなくても、彼女という存在はぼくにとって変わらない。
 瑞希は胸の中で繰り返した。
 一筋の道。それは彼女へと至る道だ。
 あの手紙の言葉がある限り、ぼくは歩き続けることができる。
 腰の携帯が鳴り続けていることに気付き、瑞希はゆっくりとポケットに手を入れた。


 


 ……まどのそとが、あかい。

 あれは、なんの色だろう。
 葉っぱだ。木だ。
 葉っぱはもう茶色だけど、夕日をうけて、燃えながらおどっている、みたい。

 いまはいつで、どうしてこの体はここにあるんだろう。
 わたしは、どこからきたんだっけ。
 ずいぶんかんがえているんだけど、何もわからない。
 いろんなひとにおしえてもらったけど、すこしねておきると、ぜんぶまっ白になる。
 ……どうしてわたし、こんなに、ひとりぼっちなんだろう。

 背後で音がした。
 少女は背もたれを起こしたベッドに体を預けて、頭を窓に向けたままだった。
 スライドドアが開く音、閉まる音、女性と男性の話し声。

 突然電話かけて……だいじょうぶですか、走ってきたんですか。
 いや、それどころじゃ…… いま、話は……
 意識はもどったんですが、娘は何も思い出せないようで…… わたしのことも……
 何を聞いても、わからない、と……
 きおく そうしつ……

 きれぎれな会話が少女の耳にとどく。
 何もかもが怖くて、背後を見ることさえできない。
 ふと上を見ると、メガネをかけた少年が、視界に入った。
 顔をのぞきこんでいる。汗をかいて、息を切らせて、涙ぐんでいる。
 少女は身を逸らせた。

 そんなにちかくで見ないで……
 あ、でもなにか、なにかなつかしい気がする、このひと。
 どうして、そんなにふるえているの?

 話しかけて、いいですか?
 かまわないわ、どうぞ。
 白衣の女性に言われて、少年は、少女を覗き込んで口をひらいた。

 ぼくが、わかる? ぼくの名前は?

 少年をじっと見たまま、少女は力なく首を振った。

 そうか。いいよ。じゃあ、きみの名前は?

 その時初めて頭に、明確な一つの言葉が浮かんだ。
 なんとなくそれでいいような気がして、少女は口に出した。


 ……きりの すずめ。


 少年は笑った。
 それからメガネを外すと、少女の手をとって、お辞儀するように顔をうずめた。
 背を丸めて、獣が唸るような声を出し、
 それから、体を震わせて嗚咽しはじめた。
 白衣の女性は目元を指先で押さえると、そうっと病室を出て行った。
 少女の手はあたたかいもので濡れて、濡れ続けて、びしょびしょになった。
 やがて少年はびしょびしょの顔を上げた。
 少女は戸惑った様子で言った。

 わたし、まちがった? まちがったから、泣いてる?

 まちがってないよ。あたったから、泣いてる。

 少年はまた下を向いて、腕で頬を拭くと、顔を上げて言った。

 よくきいて、すずめちゃん。
 ぼくはきみをよく知ってる。そしてきみのことが大好きだ。
 でも、きみはぼくを覚えていない。
 だから、ここからまた知ってほしい。
 もしきみが許してくれるなら、ぼくはこれからずっときみのそばにいる。
 そして、きみを守る。
 一生、いのちがけで、きみを守るからね。

 少女は、まるで知らない街で親切なおとなに出会った迷子のような顔で、ふわっと笑った。
 少年はそっと、少女を抱きしめた。その瞬間、あたたかいものが奔流のように少女のからだと心をかけぬけた。少女はその震える背に手を回した。自然に、両腕に力がこもった。それに答えるように、少年の腕にも力がこもった。それは、どんどん強くなった。
 強くなればなるほど、少女は安心した。
 息ができないぐらい強くなったとき、自分がどこから来たのかわからなくても、もうどうでもいいと思った。

 そしてこの安心は、きっとこのまま永遠に続くんだ、と思った。





《 つばめ さる 了 》





【 あとがき 】
またまたまた長いお話に。そして姿を変えたお題が埋もれ状態に。これでも頑張って縮めたんです、お許しください。

【 その他私信 】
命も人生もなんてはかない、と思い知らされる出来事が続いて、文字を眺めながら頭がどこかへ行ってしまうこともしばしばでした。頭を元に戻すために散歩して、歩くたびに紅葉の美しさに見とれました。公園の四季と猫とお酒に、ありがとう。


pinkmintマイページ:小説家になろう pink sand
http://mypage.syosetu.com/81450/



● COMMENT ●


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック:

http://misterycirclenovels.blog.fc2.com/tb.php/473-7e8dff4c
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

《 色読のタマ 》 «  | BLOG TOP |  » 《 I Love You 》

プロフィール

MC運営委員会

Author:MC運営委員会
このブログの八割は、カボチャで構成されております。

カテゴリ

Mistery Circle(メインカテゴリ) (39)
寸評 (29)
MCルール説明 (1)
お知らせ (36)
参加受付 (24)
出題 (35)
メールフォーム (3)
内藤クンのおもちゃの部屋 (9)
天野さんの秘密の部屋 (8)
Ms.伍長の黙示録の部屋 (0)
伊闇かなでの開かずの部屋 (4)
未分類 (27)
亞季 (2)
いつき (1)
伊闇かなで (2)
空蝉八尋 (4)
黒猫ルドラ (12)
ココット固いの助 (21)
桜井 (1)
桜朔夜 (1)
鎖衝 (11)
知 (21)
しどー (12)
瞬 (3)
白乙 (12)
すぅ (13)
すずはらなずな (29)
田川ミメイ (2)
辻マリ (14)
夏海 (3)
七穂 (1)
氷桜夕雅 (30)
ひとみん (4)
松永夏馬 (12)
望月 (8)
幸坂かゆり (21)
李九龍 (13)
りん (3)
ろく (1)
Clown (12)
MOJO (1)
pink sand (9)
rudo (8)
×丸 (4)
MC参加者に聞け (7)
Mistery Circle ヒストリー (1)

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

リンク

このブログをリンクに追加する

検索フォーム