Mistery Circle

2017-07

《 ローレライの憂鬱 》 - 2012.06.01 Fri

《《 2016年度オススメMC ☆☆☆☆☆☆☆ 星七つ作品 》》




 デンマーク コペンハーゲン――

 そこをなんとか頼むよと、混雑するホテルのロビーの中で、声が聞こえた。
 ロビーは溢れる客でごった返していた。季節外れな突然の豪雨の為に飛び込んで来た客達ばかりなのである。人の発する熱と空気に混じる湿気が妙な生暖かさを感じさせる、秋の日の夕暮れの事であった。
 いや、申し訳ありませんが、今日はもうどの部屋も埋まってしまって――
 頼むよ。どこでもいいんだ。尚もその声の主は、カウンター奥のホテルマンに向かって問答を続けている。
 そう言われましても無理なものは無理でして――と、人と人の擦れ違う隙間から、困惑と迷惑の入り混じった感情をあらわにしたホテルマンの姿が見えた。
 その時、「ちょっと待って」と、やけに恰幅の良い、口ひげを生やした年輩のホテルマンがその間に割って入った。
「お客さん、どこから?」
 聞かれてそのコート姿のしつこい客は、雨で濡れた帽子を手でかぶり直しながら、「アメリカですよ」と答え、そしてのんびりとした口調で、「フロリダ、マイアミから」と続けた。
「それは災難でしたね。――いや、部屋が無い事もないのですが」
「支配人!」
 若いホテルマンが、非難をするような口調でそう咎める。だがその支配人と呼ばれた男性は、立てた指でそれを制し、「お客さん、一つだけ質問してよろしいですか?」と聞いた。
「えぇ……なんでも」
 コートの男は肩をすくめてみせる。
「本を、お持ちですか?」
「本――? どうして」
「いや、何か本を一冊、その鞄の中に入れているかどうかをお聞きしたい。質問はただそれだけです」
 言われてコートの男は、即座に、「いいや」と答えた。「残念ながら僕は、大の活字嫌いでね。本どころか天気予想のニュースですら読めない始末で」と、外を指差し軽い口調で返す。
「なら」と、支配人は言った。
「一つだけ、部屋はあります。但し」
 但し、何? と言わんばかりに、コートの男は鼻を鳴らした。
「“いわくつき”なお部屋です。安眠は全く保障出来ません」
「いいね」
 コートの男は熱のこもった声でカウンターに身を乗り出す。
 そうしてその男――リュート・D・クロフォードは、愛用のブリムダウン帽のつばを上げながら、「実はそう言うサービスのある部屋が好きなんだ」と、愛嬌のある笑顔でそう言った。



《 ローレライの憂鬱 》

 著者:李九龍



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 リュートがその内容に全く見合わない額の仕事を引き受けたのは、ただ単に、“旅行気分な遊びのついで”でしかなかった。
 クリスチャニアの海上に浮かぶようなその施設でオペラを楽しみ、ワインに酔い、そうして翌日からの仕事を適当に片付けるかのように、いくつかの“おつかい”を経て、スタウンスホルトにあるクラスゴー家へと辿り着いたのは、デンマーク滞在三日目の事であった。
 それは古いながらも手入れが行き届いているだろう事が良く判る、木造の瀟洒な家だった。真っ白になった髪を丁寧に結い上げた上品な老婦人は、気軽にリュートを中に招き入れた。
 西側の壁には火の無い暖炉。東の壁には沢山のスナップ写真が乱雑に留められている。
 リュートが何気なくその写真群を眺めながら、一枚の写真の上で視線が止まった時だった――
 バサバサバサと大勢の鳥が羽ばたく音。驚いて振り向けば、窓の向こうに見える裏庭の庭園の雑木林の向こうから鴉の群れが飛び立って行く光景が見えた。
 家の窓は大きく広く取られているものの、外壁に絡まる蔦のカーテンが、室内を暗く見せている。その向こうに見える日当たりの良さそうな庭園が、余計にその空間を暗く静かに変えているようだった。
 雑木林の向こうに、まだ何か建造物でもあるのだろうか、丸いドーム型の屋根が覗ける。
 やがてクラスゴー老婦人は、お茶と洋菓子を載せたトレイを持ち、リビングへと現れた。
 品の良い老婦人はリュートとしばらくの世間話を交わした後、謝礼金だと言ってリュートへと一通の封筒を手渡した。
 礼を言いそれを受け取ったリュートは、封筒の裏に印刷された獅子の紋章を眺め、「これは?」と、夫人に問う。夫人は笑顔で、それはこの家の紋章ですよと答えた。
 ふと、リュートは顔を上げ目を泳がせた。向こうの廊下に白いドレスの少女の姿を見た気がしたのだ。
 軽く首を傾げ、「お孫さんでも?」と問えば、「いいえ」と、夫人は返す。
「私はもう、長い事独りですが」
「あ……あぁ、失礼」
 リビング向こうの暗い廊下を眺めつつ、リュートはそれ以上詮索しないようにし、やがてそこを辞した。
 フーア湖の真横を走る大通りにてタクシーをつかまえ、一路、トーンビューへと向かう。当初の目的ではそこでもう一晩を費やし、その翌日には空港へと行く筈だった。
 今の時期ならばどこのホテルでも空いているだろうとたかをくくり、市内見物へと繰り出したのが、そもそもの発端であったのかも知れない。彼がのんびりとシドグレネセンの通りを歩き、気まぐれで横道を折れた瞬間、視界の端にそれが見えた――
 ふわりと裾の広がる白いドレスの少女。リュートは思わず、「あれは……?」と声に出す。そして足は勝手にそちらの方向へと向かっていた。
 次の路地を曲がれば、もう既にそこには少女の姿は無かった。代わりに目に飛び込んで来たものは、色褪せた木製の看板がぶら下がる、一軒の小さな古書店。そしてリュートは吸い寄せられるようにして、そこへと踏み込んで行った。
 それはまるで、時を止めてしまったかのような書店だった。
 暗く、埃っぽい香りに包まれたその書店は、縦に長い造りの中にひと一人がかろうじて通れる程度なスペースで、本棚がひしめき合っていた。
「凄い。ストルスの原書だ」
 呟きながら一冊の厚い本を取り出すと、またすぐに目移りしたかのように次の本へと手を伸ばす。そうしてそこで何十分を過ごしたか、やがてリュートの手には五冊もの本が積まれていた。
 これはさすがに荷物になるかなと言った表情で首を傾げ、奥で居眠りしているかのように座っている白髪の店主の所へと向かおうとしていた時だった。
 ふと、リュートは何かに引かれたような気がして、とある一画で足を止めた。
 見上げる本棚。そして手に持った五冊もの本を横へと置けば、背伸びをしながらその真っ黒な背表紙の小さな本を取り出す。
“ラ・アクラ”
 一体どこの国の言葉なのだろうか。無理に英語読みしたその本には、副題として、“死の賛美”と言う名前が表紙に彫られていた。
 瞬間、リュートの全身がぞわぞわと粟立った。
「著者名――マジル・C・ゴフ」呟きながら、リュートは大事そうにその本を両手で抱きかかえる。
「間違いない」
 言いながら、横へと置いた五冊もの本には目もくれず、その“ラ・アクラ”と言うタイトルの本一冊だけを持ち、カウンターへと向かう。
 珍しい事に、その時のリュートはやけに興奮していた。もしもそこに彼を良く知る友人や恋人などがいたならば、きっと驚くに違いない程に、その時のリュートは確実に浮ついていた。カウンターに本を置き、そわそわとしながら店主が会計を済ましてくれるのを待っていたのだが、意外にもその店主は、厚い丸眼鏡でリュートを見上げ、「やめときなさい」と、そう言った。
「――え?」
「やめておきなさいよ。この本は興味本位で読むものじゃない」
「え……と、まさかこの本が……」
「“禁書”なのは知っていて置いてある」と、その主人は告げる。
「置いてはいるが、滅多な事では売れないよ。悪い事は言わんから、さっきの向こうの本にしときなさい」
 言って指差すその先には、先程リュートが置き去りにして来た本の山があった。
「どうして売れないのですか?」
 真剣な顔でそう聞けば、「あんた、相当の本好きだろう」と、主人は聞く。「あの本の選択を見れば判るよ。なら、そんな人にこんな危険なものは似合わない。やめときなよ」
「危険、とは? 良かったら教えていただけませんか?」
「――戻って来ちゃうんだよ」主人は言う。
「この本はもう何度もここから売れて行った。だけど、売れて間もなくすぐにここへと戻って来ちまう。どう言う訳かねぇ。しかも再び売りに来るのは、買って行った人じゃない。いつも同じ店の人だ」
「同じ……店?」
「店と言うか、何と言うか」
 言いながら店主はその本を裏に返す。そしてその背には、元の持ち主なのだろうか、消え掛かった小さな文字で、“ヨルク・レオポルト”と読めた。
「ヨルク……レオポルト?」
「知ってるだろう」と、主人が言ったのと同時に、天井近くに設えてある時計が、ぼぉんぼぉんと重い音で鳴り響く。
「百四十年前、某ホテルの一室で自殺を試みた“憂鬱のローレライ”の作曲者さ」
 時計の鐘は、六回鳴ってそして止まった。
 一瞬、稲光が窓から射し込み、世界をモノクロへと変えた。遅れてごろごろと、不吉な音が聞こえて来た。

 *

 エレベーターを六階で降り、赤い絨毯の敷かれた静かな廊下を歩く。
 リュートはとある一室のドアの前で立ち止まると、半ば強引な問答の末に手に入れた部屋の鍵を、そのドアノブに差し込んだ。
 がちりと乾いた金属音。だがドアは手入れされているのか、軋み音一つ立てずに開いた。
 照明のスイッチを探れば、間もなく暗い部屋の中に灯りが点った。それは想像以上に綺麗で、清潔な部屋であった。
 一人で過ごすには少々贅沢過ぎるだろうと思える程のスイート。リュートは小さく、「ここがあの有名な部屋ね」と呟き、重いコートを脱ぐ。
 ルイジットホテル、6025号室。突然の雨で偶然に飛び込んだ場所ではない。事前にこのホテルのこの部屋の“曰く付き”の噂は知っていたし、何より先程立ち寄った古書店で、「決してこの本を持ってルイジットホテルには行かない事」と固い約束をして本を譲り受けたのだ。常日頃から、“好奇心の猫”と仇名されるリュートが、そこまでの好条件を満たしながら人の言う事に耳を貸す筈もなく、今はこうして少年のような輝く目をして大事そうに“ラ・アクラ”の表紙を眺めている。
 さて、読んでみようかとソファーへと腰掛けた途端、背後で――きぃぃぃぃと、音がした。振り返ればちょうど、バスルームだろう部屋のドアが静かに、ぱたんと閉まった瞬間だった。
 軽く首をひねり、リュートは立ち上がる。そしてそのドアを開けると、中はゆったりと使えるであろう浴室が見えた。
 中を見渡すが、誰もいない。ふと向こう側の鏡台で人が通り過ぎたかのような気配があったが、リュートは首を傾げただけで、バスタブへと向かう。
 お湯を出す。最初は水だったが、すぐに肌に心地良い快適な温度のお湯となる。
「いいねぇ」
 言いながらリュートは、のん気にもバスタブに湯を張り始めた。
 ふと、また背後に人の気配を感じ、振り返る。もちろん誰もいる筈もなく、リュートは微笑みながら、服を脱ぐ為にリビングルームへと戻った。

 ――数十分後。バスローブを羽織り、タオルで濡れた頭を拭きながら部屋を出ると、まず真っ先にリビングルームの異変を感じた。
 ついさっきまで誰かがここにいたかのように、低く静かに流れるラジオミュージック。閉めた筈の窓のカーテンは一部だけ僅かに開かれており、テーブルに置かれた本の横には、覚えのないワインのボトルがあった。
 念の為にとドアの施錠を確認すれば、それは確かに閉まっており、誰も入って来てはいない事を示している。するとリュートはまたしても軽く微笑み、ついでとばかりに棚からグラスとワインオープナーを持ち出した。
 遠慮無しにワインを開封すると、リュートは深くソファーへと腰掛け、本を手に取る。同時にラジオは酷いノイズと共に止み、どうしたものかと首を傾げると、今度は部屋の隅に置かれてあるレトロタイプのプレイヤーが、突如ドーナツ盤を回し始めた。
 そうして流れ出たのは、聞き覚えのある憂鬱な曲。リュートはそれを聴きながら、その怪異には全く動じもせずにふんふんと鼻歌をうたいつつ、“ラ・アクラ”の表紙を開く。
“憂鬱のローレライ”
 この世に発表されて僅か数年、全世界で発売も放送も禁止となった幻の曲。理由は、“聴けば死ぬ”と噂された為だ。
 但し、その噂はさほど正確ではない。実際には、曲の発表以降に流行病のようにして相次いだ自殺者のせいで発売が禁止されたからこそ悪評が広く世界に知れ渡ったものだし、それに聴いた人間全てが死に至った訳でもない。ただその独特の旋律と物悲しい曲調が、自殺願望の幇助をしている事は間違いのない事だっただろう。
 そして、その曲の作曲者であるヨルク・レオポルトは、今から百四十年前、まさにこの部屋で死んだ。ピストル自殺だった。曖昧ながらもその曲の犠牲者数と言われた“528”と言う文字をテーブルの上にナイフで刻み込み、そして死んだ。そしてその傍らには、一冊の本があったと言う。
 以来、この部屋で同じようにして自らの命を断つ者が続出した。述べ、七人。全てが同様に、同じ曲を流し、同じ本を手にしながらの自殺だったようだ。
 そしてリュートは事前にその話をホテルの支配人に聞いたにも関わらず、「凄い偶然だな」と、笑って誤魔化し今に至る。今までの自殺者と全く同じ環境に身を置きながら、である。
 表紙をめくる。開いた最初のページには、こうあった。
“――愛するハンナと、アレクシアへ捧ぐ”
 果たしてそれが著者であるゴフの妻であるのか、友人であるのかまでは知らなかったが、リュートはとりあえずその名前を記憶しながら次のページをめくった。
 本の一行目は、こんな感じの文章から始まっていた。
“死とは、人にとっての最高の悦楽であり快楽である。例えどんな麻薬であれ性的興奮であれ、死によってもたらされる幸福には敵わない事だろう”
 なるほど。禁書だなと思いつつ、リュートは笑う。すると今度は、左手の方向からコツコツと何かを叩く音がした。
 そちらへと目を向ける。それはちょうど、僅かに開かれたカーテンの所からだった。
 外はもう暗く、室内の灯りが反射して良くは見えないが、どうやら外に誰かがいるらしいと言う事だけは判った。その窓の向こう側で、チラチラと手を振っているのが見えたからだ。
「非常識だな」
 六階なのに――と、言い掛けた途端に、ふと室内の照明が消えんばかりに暗くなる。同時に、「非常識で申し訳ない」と、声が聞こえた。
 テーブルを挟んだ反対側の椅子に、男が一人、座っていた。
 明らかに普通の様子ではない事が判る。薄暗い紫色の灯りの中、男は片目のまま真っ直ぐに、リュートを見つめていた。
 片目なのは訳があった。恐らくは眉間に銃口をあてがい引き金をひいたのだろう。右目の上にコイン大の黒い穴が開き、その時の衝撃のせいか、右目だけあらぬ方向――斜め上――を向いていたからだ。
 血液と崩れた脳症はそこから尚もしたたり落ち、男の顔面を汚している。その顔はやけに陰気で、照明の色も手伝いやけに青く沈んで見えた。
 さすがのリュートもそれには驚いた様子で、しばらく口を半開きにしていた後、軽く指先で自らの唇を撫で、そして静かに、かつ熱っぽくこう言った。
「――信じられない。あなたはヨルク・レオポルトその人だ。まさかここで逢えるとは思わなかった」
 言って、手を差し出す。「光栄です」と、付け加えながら。
 男――ヨルク・レオポルトは、小さく唇の端を歪ませると、それを拒否するかのように軽く手を挙げ、深く椅子にもたれ掛った。
「なるほど、君は狂人か」
 レオポルトは言う。それに対し、残念そうに手を引っ込めるリュートは、「良く言われます」と答えた。
「だが、それにしてはおかしい」と、レオポルト。「どうして狂人の君がそんな本に興味を持つ? それはこれからの君の人生にはまるで必要のないものだ」
「そうですね。確かに僕自身には甘美な死など必要ないかも知れないのですが――」リュートは返す。
「どうしてあなたがこの本を片手に自殺をしたか。その事実には大いに興味があります。この本があなたにどんな影響を及ぼしたか。どうしてこの部屋を選んだか。そして――」
「そして、何?」
 レオポルトは顔を歪ませる。それが笑っている表情だと気付くには、少しの時間が必要な、見難い表情ではあったが。
「どうしてこの本が、あなたにこんな名曲を書かせたか」
 本の裏に書かれたレオポルトのサインを見せながらそう言うと、しばらくの沈黙の後、レオポルトは両手で激しくパンと手を打った。
 そしてだらしなく足を組み、自らのこめかみ――穴の開いた眉間の横を指差し、「やはり狂人か」と笑う。
「だがとても面白い狂人だ。どうして判る? どうしてその本が、私に曲を書かせたと言い切れる? 時代も場所も恐ろしく遠く離れていて、その著者とは縁も所縁も無ければ、当然逢った事すらない。そんな接点の無い二つを、どうして君は結び付ける?」
 レオポルトが問えば、「接点だらけです」と、リュートは切り返した。
「お互いに“死”を美徳化し、それを世に吹聴して聴かせて多くの人々を自殺に追いやった」
「それだけだ。死を賛美する歌や書物など数え切れない程にある」
「まだある。この本の著者であるマジル・C・ゴフ氏とあなたは、同じ日に同じホテルでピストル自殺をした」
「有り得ない。同じ日であるのはただの偶然だし、ピストルを使ったのは単に簡単だったからこそだろう。それにこのホテルは、私が自殺を図る二年前に建てられたものだ。ならばマジル氏が同じ場所で死ねる訳がない」
「確かに。時代が違いますからね」
 言うとレオポルトは、話は終わりだと言うふうに手を振った。
「だが、あなたがここで亡くなった時代からさかのぼる事、三百年程前。やはりここには同じ名前のホテルがあった」
 言うとレオポルトは、「へぇ」と、両手を広げてわざとらしく感心して見せる。
「そしてわざわざ長い歳月を経て、ここに同じ名前、同じ階数のホテルを建てた物好きな人がいる」
「面白いな。どうして?」
「さぁ? もしかしたらマジル氏と同じ条件で死にたかった人でもいたんじゃないのですかね」
 言うとレオポルトは、声を殺してくっくっくと笑う。
「何より、僕はこの本を手に入れてそれが確証に変わった。まさにこの本の表紙の絵は、あなたの曲のモチーフだ」
「これが? ……ただの岩山にしか見えないが」
「いえいえ、これこそが“ローレライ”だ。ゴフの生まれ故郷であるドイツのライン川、ザンクト・ゴアールスハウゼン近くにある巨大岩。川の流れが急で良くこの岩山の前で舟が沈没する事から生まれたローレライ伝説。あなたはこの本の表紙を見たからこそ、その曲のタイトルを思い付いたのではないですか?」
 言われてしばらくの間、レオポルトは無言のままだった。
 そして彼は、部屋の壁の一画を指差す。「あの壁紙を剥がせ」と付け加えながら。
「どう言う意味ですか?」
「そのままの意味だ。剥がせば判る。それに、その事でホテル側から苦情が来る事はないだろう」
「やはりこのホテルは、あなたが建てたものなのですね」
「その辺りはどうでもいい。――狂人君。君の名前は?」
「僕ですか。僕は、リュート・D・クロフォード。考古学を生業としております」
「なるほど、クロフォード君。その狂わしき好奇心に祝福を授けよう。君に死の恩恵が訪れるよう祈っておくよ」
 言ってレオポルトは腰の辺りから一丁の銃を取り出せば、躊躇いもなくその銃口をリュートの頭へと向け、引き金をひいた。
 ――タン! と鈍い音がして、そしてリュートは目覚めた。そこは、湯を張った浴槽の中だった。
 まるで時間が巻き戻ったかのような錯覚から、ゆっくりと現実へと帰って行く。
「あぁ……寝ていたのか」
 リュートは呟き、少しぬるく感じるバスタブの中で身を起こした。
 部屋は、微塵の異変もなかった。ラジオが付いている訳でもなく、ワインのサービスすらもない。ただ一つ、夢の中と同じく窓辺のカーテンだけは小さく開いていた。
 リュートはバスローブ姿のまま、プレイヤーを操作してレコードを回した。思った通り、それは“憂鬱のローレライ”だった。
 そして次に彼のした事は、夢の中でレオポルトが指し示した場所の壁の内装を剥がす事だった。
 椅子を置き、背を伸ばし、壁紙の継ぎ目を探り当て、爪で軽くその端をめくると、後は迷いもせずにそれを一気に引き剥がした。
 そして――そこに現れたのは楽譜だった。見て一瞬にして理解した。それはまさに今流れている“憂鬱のローレライ”の楽譜。
 椅子を降り、その壁に大きく書かれた楽譜の全貌が見える辺りまで下がると、リュートはそれをくまなく眺め始めた。
 そっと指先が唇をなぞる。彼が自らの思考へと没頭する際に見せる、いつもの癖だった。
 曲が終わる。リュートはプレイヤーに歩み寄れば、再び同じ曲を掛け直す。そしてまた定位置へと戻れば、楽譜とにらみ合う。そうしてそのまま何十分そうしていたか。曲が終われば掛け直し、にらみ合い、やがてそこに何かの突破口でも見付けたか、「あぁ」と呟き鞄の中からペンと紙を探し出す。
 生憎、その日に限って手帳を忘れていた。どうしようかと迷った挙句、リュートは昼間にもらった謝礼金の封筒の事を思い出す。まだ中に紙幣が入っている事にも構わず、リュートはそこに小さく九本の横線を描いた。そして壁の五線の始まりを見た。そこには小さく、“4、6、8、10、12”の数字が下から順に振られている。
 今度は、自ら書いた九本の線の横に、下から順に番号を振って行く。結局それは0から始まり、16で終わる形となった。
 次にリュートが注目したのは、楽譜の小節だった。所々、小節の節目に星の印が振られている事に気付いたからだ。
 後は実に単純な作業だった。星から星までの小節の中に打たれた音符の位置を確認し、それを九線の数字に当てはめて足して行くだけ。
「ここは26。そしてここは……147か」
 言いながらその数字を封筒に書き留めて行く。やがてそこには、まるでなんの意味も成さない数字の羅列が出来上がった。
 リュートはそれを眺め、「うん」と頷けば、「まるで判らない」と笑い、それをテーブルの上に放り投げた。
 テーブルの上には、“ラ・アクラ”と、乱暴に刻み込んだのであろう“528”と言う数字。
 まんま自殺当時のものを使っているんだなと苦笑しながら、今度はその528と言う文字に注目してみるが、やはり何も思い浮かばない。
 結局リュートはそれ以上考え込むのはやめ、ソファーへとだらしなく寝そべると、“ラ・アクラ”を手に取り表紙を開く。
“――愛するハンナと、アレクシアへ捧ぐ”
 微かな既視感。真っ先にそんな文字が目に入る。さっきバスタブの中で見たものは本当に夢だったのかなと疑問に思いながら、その本に没頭し始めた。
 その内容の冒頭は、まさに死への賛美だった。
 まず、いかに死と言う現象が人にとっての幸福であり、肉体的な快楽であるかから始まり、そしてその最初の章の締めくくりに、人が幾度でも死を言うものを体験出来るのであれば、世界は堕落するだろう――で、終わっている。
 そして次の章では、死に至るプロセスで、身体がどんな反応をして死への恐怖を回避するかと言う専門的な方向へと進んで行く。そうして指が次のページをめくり、その左下に振られたページ数が“147”であるのをなにげなく目で確認した時、リュートは何かを思い出したかのようにして、跳ね起きた。
 テーブルの上に置かれた封筒。そしてそこに書き留めた数字の羅列の二番目に、そのページ数と同じ“147”はあった。
 次にそのページの最初の一文字を見る。“H”とある。では最初の数字はとページを追えば、それは“T”であった。
 ペンを取り、ページをめくり、該当する数字を書き込んで行く。そうして七文字までを書き終わった時点で、それ自体が意味を成す言葉と成る得る事を確信する。
“THORVAL”
 ――人の名前か? そう思った瞬間、視界の端で何かが動くのが見えた。
 ハッと振り向く。長いブロンズの白いドレスの少女。その背中が、バスルームへと消えて行くのが見えたのだ。
「君――」
 言って、小走りにそちらへと向かう。間違いない。スタウンスホルトのクラスゴー家から何度か見掛けたあの少女だと確信しながら。
 だが、覗き込んだバスルームには誰もいなかった。おかしいなとリュートが首をひねると、ごぼごぼと浴槽から音がする。まだ湯は張ったまま、泡で中が見えないその浴槽の中から、大きな気泡が浮き出ては消えて行く。
 まさか。思いながら浴槽の縁へと近付き、その中へと手を突っ込もうかと伸ばした時だった。突然湯の中から現れた二本の小さな手に腕を掴まれ、物凄い勢いでリュートの身体は引きずり込まれる。
 一瞬にして、リュートは水中奥深くへといざなわれていた。
 白濁した青。どこまでも透き通っているかのように思えて、とても不鮮明なそんな世界。沈んで行く少女に手を引かれ、リュートの身体も落ちて行く。
 少女の長い髪が藻のように揺れながら、リュートの顔や腕へと絡み付く。その中から見え隠れする端正でどこか幼く見えるその顔立ちの少女は、間違いなくリュートを見つめて微笑んでいた。
 がぼっ―― と、大きな息が口から漏れ出し、とうとう呼吸の限界が来た事をリュートは知る。
 苦痛と恐怖心。残りの息を吐き出した後、鼻から口からと無理矢理に水が注ぎ込まれる。そうして肺の中まで水で満たされた後、完全なる静寂が訪れる。
 静まり返る死の世界。少女と二人、手を取りあった状態のまま、リュートはそれを感じた。
 あぁ――これが死か。
 確かにこれは、何とも言えないぐらいに安心で――

 そして どこか とても
 懐かしくて――

 *

 目を覚ますと、そこはベッドの中だった。
 ほんの少しばかり開かれたカーテンの隙間から、眩しい程の朝の光が飛び込んで来る。
「確かに、奇妙な部屋だ」
 見れば、剥がした筈の壁紙はまるで何事もなかったかのように修復されており、バスルームのドアも閉まっている。昨夜と変わらずあるのはただ、“ラ・アクラ”の本と、数字が羅列された封筒がテーブルの上へと投げ出されている所だけだった。

「ご無事で何よりでした」と、口ひげの支配人がチェックアウトの手続きをしながら笑うと、「おかげで読書に集中出来たよ」とジョークを飛ばしながら、リュートはそこを後にした。
 朝食は、近くのカフェテラスで取った。
 ミルクでアートを描いたカプチーノ。クロワッサンのサンドイッチにサラダボウル。ついでにチョコレートケーキまで付いて来る程のボリュームに苦笑しながら、早朝の町のテラス席で開くのは、あまりにも不釣り合いな“ラ・アクラ”の禁書。
 果たしてここに浮かび上がる人の名前は誰なのか。思いながら昨夜の作業を再開すると、意外にもそれは人の名前などではなく――
「トーヴァルセン……?」
 そう読めた。綴りにすると、“THORVALDSENS”。
 その後の数字を文字に直して行くと、もう既に違う単語になったのか、“虹の塔”、続いて“シエスタ”と言う文字が浮かび上がって来た。
「うん」と頷き、そして「全く意味が判らないな」と、リュートは笑う。
 二杯目のカプチーノを注文すると、それを運んで来てくれたウェイトレスの女性が、「観光?」と、陽気に聞いて来た。短く切り揃えた黒髪の、若くて綺麗な女性だった。
「え? あぁ、観光って感じかな。ただ見る場所が多過ぎて困ってる所なんだけど」
 言うと女性は、「トーヴァルセンならお勧めよ」と、その封筒に書かれた文字に指を当てながらそう笑った。
「じゃあ、ごゆっくり楽しんで来てね。この街を気に入ってくれたなら嬉しいけど」
 と言って立ち去る女性に、「待って」と、リュートは声を掛ける。
「いや、実はそこに行こうと思っていたんだけど、いまいちこの場所が、どの辺りにあるのかが判らないんだ」
「まぁ、お兄さん、イタリア人?」
 苦笑しながら答える女性に、「いや、どうして?」と問うと、「観光に来たイタリー男性は、決まってそう言う誘い方するわ」と、返された。
「いや、違う。そうじゃないんだ。僕はただ単純に、この地名を知りたいだけで……」
 くすりと笑って、「信用するわ」と、女性は笑う。
「本当に知らないみたいね。それは地名じゃなくて、美術館の名前よ。トーヴァルセン・ミュージアム。あの向こうの大通りを運河の方へと向かって真っ直ぐ行った突き当りにあるクリスチャンスボーの城内の一画にあるわ」
「ミュージアム? なるほど」
「でも、行くなら他の観光は後回しにして、早目に行く事ね。そこに書いてある通り、“虹の塔”は午前で閉館よ。何故かそこだけ、“シエスタ”と呼ばれる休憩時間があるの。可笑しいわよね。彫刻が午睡でもするのかしら」
 揃った。リュートは思った。封筒に書かれた文字の全てがそこに出揃ったのだ。
 もはやいてもたってもいられなかった。リュートはその女性に強く感謝の言葉を述べると、早々にそこを発った。
 通りでタクシーを捕まえ、その道を真っ直ぐに北上する。やがてすぐに、クリスチャンスボー城とおぼしき高い尖塔が見えて来た。
 平日のせいか、人はさほど多くもなかった。リュートは足早に美術館を訪ねると、虹の塔と呼ばれる別館へと足を運ぶ。
 入口には大きく、“午前で閉館いたします”と書かれてある。噂通りだなと思いつつ、リュートは腕時計で時刻を確認すると、もう既に9:30を回っており、実質二時間程しか滞在出来ない事を知る。
 中へと踏み込み、絶望的な気分になる。そこはやけに広く、高く、そして多くの彫刻や絵画が収められている場所だった。
 ――情報量が多過ぎる。
 さすがのリュートにも焦りの色が伺えた。とりあえずぐるりと全ての美術品を眺めて歩いたが、注目に値するのはその塔の中央に置かれたローレライの彫像のみであった。
 それは、ライン川の傍に飾られた有名なローレライ像ではなく、いつ頃に創られたのであろうか、岩場へと腰掛け、淡いピンク色の宝石を片手にその腕を天へと掲げているそんな像であった。
 かつて絶世の美女と謳われた、“ローレライ”。幾人もの男を虜にした挙句、一番の恋仲だった男に裏切られて、捨てられて、世をはかなんで岩山の上からライン川へと身を投げた。
 そうして人から妖精へと姿を変えた彼女は、そこを通り掛かる男性の船人を誘惑して、水中へと引き摺り込む。そんな伝承が、ローレライ伝説であった。
 だが――と、リュートは思う。
 どうしてこの地に、ローレライが? その伝承も、その地も、国が違った。ドイツでそれが語られるのならばまだ話も判るが、どうしてここ、コペンハーゲンでその伝承を耳にしなければならないのか。
 全く意味が判らない。うなだれてその彫像の足元にある、石版に彫られた解説を読めば、一点だけ気に掛かる文が見受けられた。
“ローレライの涙”
 妖精が流した涙が結晶化したもの。それを手にした者は、永遠の安息を手に入れる事が出来る――と、書かれてある。
 なるほど。それを模したものがこの彫像か。思いながら再び像を見上げる。まだ少女のようなあどけなさを持つそのローレライ像は、美しい笑みを浮かべて天を見上げている。
 一緒になって、リュートも上を見上げれば、「これが虹の塔か」と感嘆せずにはおれない程に美しい、ステンドグラスで埋め尽くされた明かり取りの窓。円錐を模したその塔は天井へと向かうにつれて細くなって行き、ステンドグラスに埋め尽くされた窓より更に上には、数々の硝子細工を埋め込んだのであろう、螺旋を巻いた虹色の光が溢れ返っている。
 もはやローレライの謎などすっかり失念してしまっているリュートは、茫然とその光の芸術に見惚れていた。そこに、ポンと肩を叩く者。慌てて振り返れば、それは先程のカフェテラスで逢ったウェイトレスの若い女性であった。
「君は――」
「リセよ。リセ・オールセン。お兄さんは?」
 ダウンジャケットに、黒いタイツとミニスカート。赤いニット帽をかぶった彼女は、先程逢ったカフェ店員の時よりも、更に若くて可愛く見えた。
「ふぅん。リュートね。この国の人じゃないとは思ったけど、なんだかアメリカ人とも思えないわ」
「僕には色んな国の血が混じってるからね」と、リュートは笑った。「もちろんローマ人の血も」
「やっぱりちょっとはイタリーなのね」
 言って、リセも笑う。
「でも、どうしてここへ?」
「アルバイトは十一時までなの。その後は学校。でも今日に限って休講で、その帰り道にこの美術館があって、そしてたまたまあなたの事を思い出しただけ」
 言いながらリセはローレライの像の周りを歩きつつ、「それにね」と続けた。
「なんかあなた、不自然……いや、不思議な人とでも言えばいいのかな。ちょっと観光目的な人とも思えなかったし。興味湧いたのよね」
「へぇ、それは光栄だね」
 リュートはわざとらしく襟元を直す仕草をして見せれば、「そう言う興味じゃなくて」と、リセは言う。
「“宝探し”。そんな真似でもしてる? まるで少年みたいな雰囲気なんだわ、あなた」
 問われてリュートは困った顔して両手を広げると、「うん、まぁ……そんな所」と、正直に語った。
「やっぱりね。あのメモ書き見てもそんな感じだったし」と、リセは得意気な顔をする。「それで、リュートは一体何を探してるの?」
「うぅん……やぁ、なんと言ったらいいのか」
 むしろ何を探しているのかさえ判らないと言い掛けた所で、「“ローレライの涙”ね?」と、リセは問う。
「あ、あぁ。正解」
 適当にそう誤魔化せば、「やっぱり」と、リセは目を輝かす。
「私もね。小さい頃に友人達と同じものを探した事があるのよ。あの噂、あの伝説は本当なのかって、文献からゴシップ記事満載のオカルト本までひっくり返してね。でももちろん、探し出すどころか何の手掛かりすらも掴めなかったけど」
 微笑ましいな。思いながら目を細め、そしてある事に気が付き、再びリュートの目は見ひらかれる。
「リセ、君はさっき何て言った?」
「さっきって? どの話題の事を言ってるの?」
「いや確か、アルバイトは十一時までとか……」
「えぇ、その通りよ。それがどうかした?」
 腕時計を見る。時刻は既に正午まで残り十分となっていた。
「おいおい、冗談じゃないぞ」
 呟くと同時に、「閉館のお時間です」と、遠くの方から女性の声が聞こえた。
「どうする? 隠れる?」
「隠れるも何もないだろう。どう見てもここの見学者は僕達だけだ。バレない筈がない」
 現に、入り口付近に立っているここの職員だろう女性は、二人を見ながらもう一度、「閉館ですよ。そろそろ退室願います」と、告げた。
「あ、あぁ、ハイ。もちろん」
 リュートはそう言って出て行こうとするが、「待って」とリセがそれを引き止める。
「ねぇ、どうして午後はここを閉めるの? 他の館はそんな事しないのに」
 職員に早足で歩み寄り、リセは言う。職員の女性はそれを不思議そうな顔で見ながら、「規則だからでしょ?」と返した。
「だから、規則ってなんの規則? 私はその規則がどうして生まれたのかを知りたいんだけど」
「知らないわよ。この館が建ったのは今から百年以上も前の事だもの。いくら私だってそこまで知る訳ないでしょう」
 見れば確かにその職員は、まだ四十代ぐらいだろう、厚い眼鏡を掛けた小太りな女性だった。
「ねぇ、もうちょっとだけ居ちゃいけない?」
 今度は下手に出るリセ。すると職員は、「無理です」とそれを突っぱねる。
「ここに関心を持ってくれるのは嬉しいけど、午後の時間のこの館だけは、例え職員であっても中に立ち入る事は許されてないの。厳重に鍵の管理がされていて、昼過ぎにこの館の中を見たって人は、うちの職場の中にすら誰もいないわ」
「そこをなんとか」
「なりません」
 言いながら二人を追い出し、館の出入り口を閉めに掛かるその職員は、閉じる瞬間ふとその手を止めて、「あぁ、でも」と、思い出したかのように言った。
「例外はあるわ。なんでも大昔は数年に一度ぐらいの割合で、たまに午後の入館を許される人が来たらしいわね。私はまだそう言う人に逢った事はないけれど」
「どうやって?」
 二人が口を揃えてそう聞けば、「招待状よ」と、職員は言う。
「例外はただ一つ、この館を創設した協会の人達の招待状があれば立ち入りが許可出来るらしいわ」
協会? それはどんな――とリュートが言い掛けた所で、リセはその彼の小脇に挟まれた“ラ・アクラ”の禁書を素早く取り上げると、「あるわ」と自慢げにそう言って、栞代わりに挟まれた謝礼金の封筒をそっと抜き出す。もちろん、メモ書きとなった部分は見せずに、紋章が打たれた部分のみだけ。
「ふぅん」
 口を歪め、鼻から息を吐き出し、しばらくそれを眺めた挙句、「初めて見たわ」と、その職員は呟くと、再び館の扉を開いた。
「入っていいの?」
 リセが聞けば、「それがあるなら問題ないでしょう」と職員は告げ、「でも一つだけ」と、続けた。
「後でこっそり教えて。中で一体、何が起こるか」
 言われてリセは、「forståelse(了解)」と、笑顔で安請け合いした。
 二人の背後で、扉が締められる。出る時はインターフォンで知らせてと告げられた上で、外から扉が施錠された。
「今のはどう言うからくりだ?」
 聞けば、「表の扉の上に掲げられている看板見なかった?」と、リセは返す。
「協会のものだろうシンボルがいくつか描かれてたでしょう? その中の一つに、この獅子の紋章があったわ」
「なるほど」
 リュートは肩をすくめる。
 しん――と、静まり返る虹の塔。明かり取りの窓から射し込める幾筋かの光が、館内を舞う埃と混ざり合い、綺麗な帯を形成していた。
 果たして一体、どこで何が? リュートは考えながら、端から端までその内部を眺めて見渡す。
「リュート、私も探すわ。何をどう探せばいいのかヒントをちょうだい」
「ヒント……ヒントねぇ」リュートは自らの唇をせわしなく撫でながら、「怪しい感じのものかな」と、無責任な事を言う。
「オッケー。怪しいものね。任せておいて」
 リセはそう言って、しげしげと館内を物色して歩く。
 リュートもまた黙ってはいられない様子で、また再び全ての展示品を見て回ろうとするかのように歩き出す。
 館内をぐるりと取り囲む壁の全ては、そこに直接描き込んだのだろうか、この国の歴史を描いたのだろう壁画が、一枚絵のようにして綴られていた。
 まさかこの絵の中に? 思いながらその絵を目で追えば、途方もないぐらいの長さである事に気付く。リュートは思わず溜め息を漏らせば、「ちょっと来てくれない?」と、リセの声。
「何かあった?」
 巨大な胸像の後ろを回り込みリセの元へと駆け付けると、「これを見て」と、斜め上を指差した。見ればそれは、精巧に作られた硝子細工の女性の彫像。先程まではローレライの方に夢中だったが為に気が付かなかったのだろうが、あらためて見るとそれは息を飲む程に美しく均整の取れた芸術品だった。
 天井から降り注ぐステンドグラスの光を受けて、七色に輝く硝子の彫像。波の上に立ち、水飛沫を身に纏いながら空を指差す女性の姿。リュートがふとその台座へと目をやると、“Ondine”と、その石版に穿たれている。
「オンディーヌ? これもまた悲哀の物語とされる水の精霊だ」
「リュート、この像が指し示す、指の先を見て」
 言われてその方向を見やれば――
「あぁ」とだけ呟き、リュートは言葉を失う。その像を単体で見たならばただ美しいで済まして終わりだったのだろうが、その隣り合ったローレライの像と一緒に見比べれば、それがいかに意図的に置かれたものかが良く判る構図だった。
 宝石を手に、片手を天に掲げるローレライ。そしてその背後からその宝石を奪い取ろうとするかのように手を伸ばすオンディーヌ。そう、それは指を差しているのではなく、目の前にあるものを欲している。そんな手の形だった。
 でも、何故? そしてこの像は一体、何を語っている?
 穿たれた言葉の続きを読めば、そこにはこう綴られていた。

“イザク黙示 第五章二十八番 オンディーヌの憂鬱”
 ――神は時として悪魔に匹敵する程の悪意を行使する事であろう。
 その姿を変えられし悲哀の少女もまた、祝福と言う名の呪いにて永久を長らえる事となる。
 水を得て泡と化せ。真の安楽は喜びにあらず。

 第五章二十八番――。数字のみに直せば、“528”だ。ふと、ヨルク・レオポルトがテーブルに刻んだ数字を思い浮かべるが……。
 だが、判らない。一体何を伝えたい? 思った瞬間、ふとそのオンディーヌ像の輝きが翳った気がした。
 いや、気のせいではなかった。先程までずっと、天井からの光を一身に受け輝いていたその像は、静まり返ったかのように色気のないただの硝子細工となっている。
 どう言う事だ? 思い、何気なく目を落とす。床の一点に、やけに明るく輝く光の溜まり場があった。
 答えは、宙を舞う粒子が教えてくれていた。その光の帯は、真上の天井から真っ直ぐに降りて来ている。そっとその光の原点を目で追えば、螺旋を描いた虹色の光の全てがとある一点へと集中し、天井中央近くに吊るされたレンズを経て、その床へと光を投げ掛けていたのだ。
 光は動く。じわじわとローレライの像へと向かって。恐らくは太陽の移動に伴うのだろう光の移動は、やがてその少女の像へと辿り着く。
「行こう」
 促して、リュートとリセはローレライ像の真ん前に立つ。そして光が像へと差し掛かり、その手に持つ淡いピンク色の宝石へと交差した瞬間、光の帯は屈折し、二人の間を通り過ぎて背後の壁へとぶつかる。
 振り向き、驚く。向こうの壁に大きく丸く光る一点が現れる。二人は駆け寄り、食い入るようにしてそれを見つめる。だが――
「リュート……何か判る?」
 聞かれてリュートは、「いや」と答え、片手で自らの頭を抱える。
「全く判らない。ピンと来るものがまるで無い」
 絵は、中世の絶対王政の頃だろうか、騎士と市民との対立の場面が描かれている。どこからどう見ても、そこから拾えるだろう情報は乏しい。
 悩んでいる間に、絵の中から光の点は消えてしまった。天井から降り注ぐ光の焦点がずれてしまったのだろう。絵は、ただののっぺりとした群衆画へと戻ってしまっていた。
 きっと今の一瞬こそが、シエスタの間に訪れる奇跡の瞬間だったのだろう。リセもそれに気付いたか、「どうするの?」と、不安そうに聞いて来た。
「どうにも……無理だな。あのヒントだけでは何も判らない」
「明日、また来る?」
「いや、明日もまたさっきの嘘が通用するとも思えない」
 言いながらリュートは胸ポケットからペンシルタイプのライトを取り出すと、先程と同じようにしてその絵の上を照らしてみた。かなり弱い光ではあったが、それなりに再現は出来ていた。
「やはり判らないな」
 嘆くリュート。リセは絵の傍へと寄って、何かが書かれていないかを懸命に探す。
 そうして、リセの片手がペンライトの光を遮り、その円の中に飛び込んだ時だった。
「あっ!」
 リュートは驚きの声を上げる。
「どうしたの?」
 驚いて聞けば、「リセ、こっちに来てくれ」と、リュートは手招きする。
「何? なんか判った?」
「とりあえず……もっと向こうだ。さっきのオンディーヌ像の辺りまで行って、絵を見てくれ」
 指差した方向へと駈け寄り、リセは額に手を添えながら、伸び上がって絵を眺めた。
 しばらく黙ったままでそれを眺めた後、「……紋章?」と、リセは呟く。
「そう、紋章だ。光が指し示したのは絵の構図の方じゃない。あの丸い形こそが重要だったんだ」
 白い光の円の中に浮かび上がる構図は、遠く離れてその絵の内容がぼやけて見える辺りから見てようやく判った。白と黒の色彩が際立って見せる、鷹を模した紋章であった。
「リセ、これに見覚えは?」
「あるわ。これも表にあったシンボルの一つよ。どこの家の紋章かまでは判らないけど」
「良し、調べてみよう」
 二人は出入り口前のインターフォンへと駈け寄り、用事が終わった事を告げる。ややあってドアが開く。先程の職員の女性が、館内の様子をしげしげと眺めながら、「何か起こった?」と興味深そうに聞いた。
「聞かない方がいい」
 リュートは自らドアを閉め、溜め息を吐き出しながら告げる。
「何で? 約束じゃない」
 女性が咎めるように言うと、「やめておいた方がいいわ」と、リセ。
「この塔は呪われている。現実の常識などまるで通じない、魍魎の世界よ」
「まさか……」
「あなた達は良くこんな場所に平気で出入り出来るな」と、リュート。「これからも鍵の管理は徹底した方がいい。もしもドアの施錠を忘れようものなら、きっとこの塔の外まで危害が及ぶぞ」
「本当に?」
 女性が問い返すと、「神のご加護のあらん事を」と告げ、二人同時に胸の前で十字を切る。
 そうして慌てて施錠を施し、管理棟へと逃げるようにして消えて行く女性職員を呼び止め、「失礼。あの紋章はどこの家のものか判りますか?」とリュートが指差して問えば、女性は、ずり落ちた眼鏡を掛け直し、「オルデンブルク家のものね」と、答えた。
「あぁ、そう言えば――」と、思い出したように女性は向き直る。
「あなた達の事を信用してなかった訳じゃないけど、一応、招待状を出したクラスゴーさんのお宅に電話してみたわ」
 ヤバいわと、リセがリュートの背中に隠れ、小声で呟く。
「もしもそれがクロフォードさん事だったら、話しておきたい事があるって」
「あぁ――確かに私がクロフォードですが」
「なら話してもいいわね。“もしもあなたがエミリエに逢ったのなら、言葉を濁さず探しているものの事を伝えなさい”と」
「……はぁ」
 呆気に取られたような顔をして、リュートは答えた。
「それから、こうも言ったわ。“死を探し求める者は、必ず死に魅了される”って。――どう言う意味なの?」
「それは……」
「直接聞くといいわ。同じ事を、双頭の山羊が語っていたから」と、リセは虹の塔を差してそう言った。
 結局職員の女性はそれ以上問う事もせず、「神のご加護を」と十字を切り、二人もまたそれに倣った。
 帰り際、「あれはないわ」とリセが苦笑しながら咎めると、「都市伝説ってのはああやって出来るものさ」とリュートは返し、その後二人は近隣の図書館へと急いだ。

 *

 二人が、先程の場所から二十数キロ程離れたモーレウの町の外れにあるオルデンブルク家へと辿り着いたのは、その日の午後遅くの事だった。
 未だ貴族制度の中に生きる家系だけあって、オルデンブルク家は瀟洒ながらも風格のあるお屋敷だった。格子の門をくぐり、巨大な木製のドアのベルを鳴らす。しばらくしてそこから顔を出したのは、三十歳代ぐらいだろうか、少々横幅のある上品な身なりの美しい婦人であった。
「クロフォードさん?」
 名乗るより先に、そう聞かれた。
 帽子を脱ぎ、半信半疑のまま簡素に用件を伝えると、「どうぞ」と、中に促される。「奥様もご一緒に」と告げられ、二人は軽く目を合わせ、唇の端をゆがめて見せた。
 婦人は、エミリエ・オルデンブルクと名乗った。「どうして私の名を?」とリュートが問えば、「アレンに聞きました」と、返された。
「アレン?」
「あぁ、ごめんなさい。彼女とは親しいのでそう呼んでいるのです。クラスゴー婦人とはお逢いしましたわよね? とても知的な、いつ見てもお若い方です」
「えぇ、それなら。先程も彼女の助けを得て、無事に美術館から戻れた次第です」
「それで、謎は解けましたか?」
 聞かれてリュートは、「ここの家紋を、絵の中で見付けました」とだけ言えば、「なるほど。限りなく正解に近い答えへと導かれましたね」と、エミリエ。
「限りなく……とは?」
「皆、ここで断念するようです」
 エミリエ婦人は笑う。「どうして?」とリュートが問えば、「ここより続く道が残されてないからでしょう」と、溜め息混じりに言う。
「死の秘宝、“ローレライの涙”」迷うことなく、エミリエはそれを口にした。
「この国に生まれた者は誰もが一度は耳にする伝説です。手にしたならば死からの恐怖から解放され、死を快楽とし、そして永久なる死をもたらしてくれる。どうして死に意味と哲学を求めるのかまでは知りませんが、これに魅了される人はそれほど少なくはありません。現に、過去にも何十人とその秘宝を求めてこの屋敷に来たそうです」
「来たそうです――とは?」
「私は知りません」と、エミリエ。「私の母や祖母から、そう言う方達がここに来たと言う過去を聞いたに過ぎません。実際にその秘宝尋ねて来られた方とお逢いしましたのは――クロフォードさん、私にとってはあなたが初めてです」
「僕が……」
「でも、がっかりされる事でしょうね。恐らくはあなたでも、その秘宝の在り処へと辿り着くのは無理でしょう」
 そして、「どうぞこちらへ」と促すエミリエ。果たしてどこへと連れて行こうとしているのか、エントランスの両脇にある螺旋の階段から二階へと登り、そして長い通路を経て更に三階へ。やがてエミリエは廊下の奥のやけに暗い一画にある、重い扉のドアを開ける。
 黴臭い匂いと共に、薄暗い書庫のような空間が現れる。先に立ったエミリエが窓の遮光カーテンを開けると、そこはまさに科学室か研究室のような様相な感じの部屋であった。
「ここは――?」
「ゴフの部屋です」
 聞いてリュートは目を丸くする。
「ゴフ? ゴフですって? それはもしかして、マジル・C・ゴフ――」
「えぇ、その人よ」
 聞いてリュートは、「なんて事だ」と呟き、興奮した面持ちで部屋の中を歩き回る。そうして棚に収まるいくつかの書物の背を見て、思わず手を伸ばし、引っ込める。
 それを見てエミリエは、「どうぞご覧になって」と笑う。
「でも、どれも相当古いし手入れもしておりませんから、どうぞお気を付けて」
 それだけ言って、エミリエは部屋を出て行った。残された二人は、どうしようかと言った感じで顔を見合わせる。
「これはさっきの美術館以上に手こずりそうだぞ」
「そうね。でもなんか――凄く真実に近い場所にいるような気がするわ」
 そうして二人は片っ端から本を広げ、机の中を漁り、ゴフのメモ書きと見れば目を凝らし、手掛かりを探した。
 いつの間にか夜が忍び寄って来ていたらしく、どうにも文字が読み辛いなと思った頃には、既に窓の外は薄闇の刻となっていた。
 今は何時だろうかと壁の一画にある巨大な振り子時計を見るが、もう既にその動きを止めて長い時間が経ったのだろうか、時刻は零時ちょうどを指したままだった。
 壁に取り付けられたスイッチを探し、オンにする。しばらくは暗いままだったが、やがて思い出したかのように頭上の照明が点滅し、さほど明るいとも思えない程度の灯りを投げ掛けて来る。
「無いよりマシか」
 言うとリセは、「そうね」と返し、「ねぇ、リュート。良かったら、ここまであなたがやって来た理由を教えてくれない?」と聞けば、「構わないけど」と、リュートは頷く。
 二人は手を止める事もせずに探し続けながら、リュートはここに至るまでの経緯を話した。全てを聞き終った後、リセは真っ先に、「じゃああなたは別に、“ローレライの涙”を欲しがってる訳じゃないじゃない!」と、それを咎めた。
「そうだね。まぁ、見たいとは思うけど別に手に入れようとは思ってない」
「馬鹿みたい。ならただの野次馬じゃない」
「なら君は?」と、リュートは問い返す。「君こそ、死の秘宝なんか探し当ててどうするつもりなんだい? もしかして永遠の死と言うものを味わってみたいのかい?」
「そうじゃないわ」と、リセ。「私はただ、大昔から伝えられて来た噂が嘘ではなかったと言う事を証明したいだけよ」
「なら君だって野次馬じゃないか」
 お互いに気まずくなった二人はしばらくの間、無言で探し物を続けたが、やはりと言うべきか、二人が気に留めるようなものは何も出て来なかった。
「ただの書物だけね。メモの類も、執筆時に使えそうなアイディア書きばかりだわ」
「そのようだね。――なるほど、ここが行き止まりって事か」
「そう思うしかなさそうね」
 言われて、なんとなくだがリュートは心のどこかに違和感を覚えた。何故だろうか、ここに行き着くまでの道のりに、どこか不自然なものを感じたのだ。
「リセ、何かおかしいとは思わないかい?」
「何についておかしいって? 断片的過ぎて良くわからないわ、リュート」
「いや、何だか少し……全てがスムースに運び過ぎたような気がしたんだ」
「どこが? あれだけ苦労しておいてどこがスムースなの? しかもとうとう最後は見付からず終いよ」
「確かにそうなんだけどね」
 それでもどこか引っ掛かりを感じるんだ、とは言わないまま、リュートは黙った。
 それからまだ少しだけ部屋を探し、結局徒労で終わりだなと結論付いた所で、二人はゴフの書斎を後にした。
「探し物が見付からなかったのは残念だけど」と、エミリエ婦人は玄関先へと立ち、告げた。
「でも、あなた方が死に魅入られる前に探索を断念してくれて嬉しいわ。その秘宝がどれだけ人の興味を惹き立てるのかまでは理解出来ないけれど、死と言うものを軽はずみに考えるのは良くない事だと思うの」
「その通りですね」リュートは素直にそう答えた。「私も、生き長らえて帰路に着ける事を幸せだと思って帰る事にしますよ」
 言って、帽子を取り、エミリエ婦人に礼をする。通りでタクシーを捕まえると、二人は再びトーンビューへと向かう。クリスチャンスボー城の近くで降り、「お礼に夕食でもご馳走したいのだけど」と言うリュートの申し出を、「これでもまだ学生だから」とリセはやんわりと断り、代わりにペンを走らせたメモ書きを彼へと渡した。
「これは?」
「電話番号よ。もしもまたいつかこの国に来るような事があったら電話して。暇だったらガイドぐらいするわ」
 そう言って、リセは夜の街角の中へと消えて行った。
 それからリュートは通りに面したレストラン街で、フリカデラー(豚肉のハンバーグ料理)の店を見付けてそこへと立ち寄った。赤ワインでしたたかに酔い、事前に予約を入れておいたホテルへと向かうと、だらしなくソファーへと倒れ込む。
 疲れたな――
 唇がそう呟いた。明日には帰国の予定だったのだが、どうにも心残りばかりが多過ぎるなと、額に手を当て目を瞑る。
 ふと、脳裏に何かがよぎる。それは、白濁した青い世界の中、頭を下にどこまでも沈んで行く白いドレスの少女の姿。
 死など微塵も恐れていない穏やかな表情で、遥か奥底に横たわる暗き闇の中へと向かって落ちて行く。
 助けようが無いなと思った。むしろ助けて欲しいとすら願ってなさそうなぐらいの穏やかさだった――
 その夢は、恐らく時間にしたら僅か十秒にも満たなかっただろう。リュートはその僅か一瞬の間に眠りに落ち、そして驚いたかのように目を見開いて飛び起きた。果たしてその目が覚めた一瞬の間にどれだけ目まぐるしく脳の整理が行われたのであろうか。その日、一日の間に起こったさまざまな出来事が脳に蓄積された情報の渦へと巻き込まれ、あるべきところへと収納されて行く。
「あぁ――」
 思わず声が漏れた。そしてしばらくして、「騙された」と呟く。
 ――そうか。もう最初から僕は、ヨルク・レオポルト氏の罠に嵌っていたのか。
 両手で顔を覆い、そしてリュートは考え込む。どこに本来のルートがあるのか。覆い悩んだ末に、鞄から“ラ・アクラ”の書を引っ張り出した。
 読み切るしかない。判るまで、何度も。
 そうしてリュートは本をテーブルの上へと載せ、物凄い勢いでページをめくって行く。それは彼の特技の一つである、速読であった。
 一冊を僅か十五分程で読み終え、そしてまた再び一ページ目へと戻る。そんな感じで、三度目の読了が近付きつつある時だった。リュートはそこに、違和感を覚えた。
 開いた場所のページ数が、何故か不思議と気に掛かる。
“648”
 しばらくそのページ数を眺めた後、唐突に最初のページへと戻った。
“――愛するハンナと、アレクシアへ捧ぐ”
 ナンバリングを見れば、それは“1”だった。
“1”と、“648”。それは両方共、開いた本の左側のページであるのに、片方は奇数で、もう片方は偶数なのだ。
 これはどう言う事だ? 思いながら、どこでその数字が狂ったのかを探し始める。
 やがて、それは見付かった――
“528”
 それこそが、その本から抜け落ちているページ数だった。おかげでそれから以降のページが、ずれてしまっていたのだ。
 奇しくもそれは、自殺の直前にヨルク・レオポルトがホテルのテーブルにナイフで刻み込んだ数字。それに思い当るとリュートはすぐに、「やはり」と、何かを確信したかのように頷く。
 まんまと違うルートへと乗せられてしまっていたのだ。だが――果たして本来のルートはどこに? そしてこの落丁となったページの意味は?
「当時は、この本にしか手掛かりはなかった筈だ」
 思いながら、抜け落ちたページの前後の文へと注目する。それはちょうど死ぬ事へと意義について語っている部分で、527ページは、“誰もがそう感じるべきである”と言う一文で終わり、529ページの頭は、“それをどう感じるかは個人の判断へと委ねられる”から始まっている。
 違和感は、あった。同じ言葉を使いながら、実に矛盾している文章だった。確かにここにもう一ページ、何かがあったと考えるべきである。
 だが、どこに? この失われた一ページはどこにある?
 本の所々に、“ライン川”と言う記述が出て来る。とある箇所では、“早朝のライン川を眺めていると”と言う一文さえある。恐らくは、この筆者であるマジル・C・ゴフ氏は、昔その川が望める場所に住んでいたか、この本はその辺りで書かれたものか――
 ゾクリとした感覚と共に、リュートは何かに思い当たった。
 指の先で自らの唇を撫でながら思考へと耽る。事は案外と単純だったのではないか――
 本の最後のページへと向かう。
“ラ・アクラの失われし真実は、時を止めし者の手に委ねる”
 やけに抽象的かつ哲学的な言い回しだが、もしかしたらこれこそが、ヨルク・レオポルトの懸念する一番の不安材料だったのではないだろうか。
「行ってみるか」
 リュートはそう呟くと、明日の朝に発つ飛行機の便を調べ始めた。
 但し、行き先は母国ではなく、何故かドイツ行きの便であった。

 *

 一週間が経ち、あの時の宝探しゲームの興奮も徐々に薄らいで来た頃の事。
「リセ! ――いないの、リセ?」
 リビングから呼ぶ母の声に、リセは急いで部屋から顔を出し、「いるわ」と叫び返す。
「電話よ」
 階下から顔を覗かせ、母が言う。しかもどこか嬉しそうな顔で。
「今行くわ。――誰?」
 聞けば母は左右を見回した後、口に手を添え、「ボーイフレンドよ」と、小声で言った。
 ボーイフレンド? ――それは全く心当たりがないんだけど。思いながら、急ぎ足で階段を下りて行く。あぁ、もう大概、共用電話は嫌になるなと思いながら。
「ハイ。――どなた?」
 興味深げに見守る母を無視しながらそう聞けば、「僕だ。リュートだ」と受話器の向こうから声がした。
「リュート!」
 思わず笑みがこぼれる。そして母は気を利かせたつもりか、いそいそとキッチンへと帰って行く。
「ついこの間の事なのに懐かしいわね。無事に帰れた?」
 聞けば意外にも、「いや、実はまだ帰れてない」と返事が来る。
「どうしたの? 今どこ?」
「今はドイツだ。フランクフルト空港のロビーから電話している」
「ドイツ? どうしてまたそんな所に」
「どうしても確認しておきたい事があったんだ」と、リュート。
「そんな事よりも、君は明日は空いているかい? 多分、そちらの時間で十時過ぎには着けると思うんだが」
「明日? ――いやもちろん空いてるけど、なんでまたこっちに来ちゃうのよ」
「見付かりそうなんだ。――“ローレライの涙”が」
「……本当に!?」
 思わずリセは、口を押さえる。ふと視線に気付いてキッチンの方へと振り向けば、母が笑顔でそっと奥へと引っ込む所だった。
「判ったわ。どこへ向かえばいい?」
「落ち合えるならどこでもいいさ。この前の美術館でも、その隣のスボー城でも」
「なら、アマガーの大通りにあるバロッソ・カフェと言う店まで来て。そこならウチから近いの」
「判った、そうしよう。では、明日――」
 受話器を置くと、またしてもキッチンから顔を覗かせる母が、「デートの約束?」と聞いて来る。
「そんなんじゃないわ」
 言いながら階段を駆け上り、部屋のドアを閉めながら、「何の服来て行こうかしら」と、リセは嘆いた。

 *

 翌日、リセが待ち合わせの時間の十分前にカフェへと到着すると、意外にもリュートは既にそこにいた。
「お久し振り」
 リセは少しだけどぎまぎしながら目の前に立つと、「やぁ、一週間ぶりだね」と、服装も表情もその時と全く変わらないままのリュートが、新聞紙を折り畳みながらそう返した。
「朝食は?」
 聞かれてリセは、「済ませて来たわ」と返せば、「じゃあエスプレッソでも」と、席へ着く事をうながす。
 チェック柄のシャツに白い大きなセーターで来たリセは、少しぐらい服装を褒めてくれてもいいじゃないとの不満げな表情を浮かべながら、「ホットチョコレート」と注文する。
「ドイツ行きの理由を聞かせて」
 単刀直入にそう聞くと、リュートは、「あぁ」と頷き、“ラ・アクラ”の表紙を指差しながら、「ここへ行って来た」と告げた。
「ドイツのライン川沿いに実在する巨大岩だよ。ローレライ伝説、発祥の地さ。どうにもこの本の中にはライン川やこの岩を匂わす記述が多く含まれている。もしかしたらこの作者であるマジル・C・ゴフ氏はこの辺りに住んでいたか、そこでこの本を書き上げたかしたのではないかと思ったんだ」
「ここで?」とリセは聞き返し、「でもちょっとおかしくない? 彼の書斎は、モーレウのオルデンブルク家にあったわ。この本を書く為だけに、わざわざライン川にまで行った訳?」
「いや……それが逆だったんだよ」
「逆って? どう言う事」
「僕らはすっかり騙されていた。もう完全に最初からずっと、ヨルク・レオポルト氏の手の上で遊ばされていたんだ。彼が残した手掛かりを読み取り、拾い上げしながら、どんどん違う方向へと遠ざけられていた。上手いやり方さ。僕がそれに気付いた時は、背中に宝箱を背負わされて、偽の宝の地図を渡されていた気分だった」
「たとえ話ばかりで良くわからないわ。ちゃんと説明して」
 言いながらリセは、運ばれて来たホットチョコレートを前に、サンドイッチを追加する。
「秘宝の隠し場所を示すヒントは、案外簡単な所にあった」リュートは語る。「そう、実際はこの本の中にある記述をくまなく読み解いて行けば、自然にそこへと行き当たるようになっていた。実際にその通りにして秘宝の一歩手前まで行っただろう人も何人かいるに違いない」
「秘宝って……“ローレライの涙”の在り処に?」
「そう。とても近い所まで。いやもしかしたらそれを目にした者もいたのかも知れない。そしてその中の一人が、“憂鬱のローレライ”作者である、ヨルク・レオポルトだ」
「じゃあ、彼はそれを手に入れたの?」
「いや、僕の想像では、彼はそれを手にしてはいない。むしろ彼はそれを他の人の手に触れさせまいとして隠しただろう人だ。だからこそ、真実を知る事は恐ろしく困難になった。まずは、こうだ――」
 リュートは目の前に置かれた“ラ・アクラ”を、ひっくり返し、背表紙が見えるようにする。
「ここに、彼の名前が書かれてある。ヨルク・レオポルト――と。これについて何か疑問は感じない?」
「疑問? ――いいえ、全く何も?」
「じゃあ聞こう。君は学校の教材本以外で、本に自分の名前を書き入れるような真似をした事あるかい?」
「いいえ、無いわ」
「だろう? しかも高価で価値のある本ならなおさらだ。そんな事をする訳が無い。だがこの本に至ってはこの通り。何故だか判るかい?」
「いいえ、全く。意地悪しないで答えを教えてよ」
 リセが不機嫌そうな声で言えば、リュートは笑いながら紙片を取り出し、その裏表紙のサインの所にあてがう。そして今度はその上を、鉛筆で優しく撫で始める。すると、黒く塗り潰されて行く紙の上に、文字が浮かび上がり始めた。
「どう?」
 言って、それをリセに見せる。するとそこには、“Kære Yorck Leopold”の文字。紙片を取り除き裏表紙を見ると、やはりそこには“Yorck Leopold(ヨルク・レオポルト)”の名前しか無い。
「どう言う事?」
 リセが聞けば、「消されたんだよ」と、リュート。「これは恐らく、彼本人のサインなんかじゃない。誰かに書いてもらったものなんだ。だからこそ、“Kære(親愛なる)”と言う一文字が付属している」
「なるほど。じゃあこれ、誰に書いてもらって、そしてどうして消したのかは判るの?」
「あぁ――これは推測なんだが」リュートは語る。「本にサインを書いたのは恐らく、この本の著者であるマジル・C・ゴフ氏の身内か、その子孫だ。そしてこの“Kære(親愛なる)”の一文字を消したのは、彼がその死後に行う計画の為に都合が悪いからだ」
「計画? どう言う事」
「だから――その“ローレライの涙”を、闇に葬る為の計画さ。探せば探す程にその在り処が遠くなる。その計画の為だけに、彼は自殺までしてみせた」
「まさか」
「本当さ。君は、彼がホテルの一室で自殺した際に、その部屋のテーブルに“528”と言う数字を刻み込んでいたのは知っているかい?」
「えぇ、聞いた事あるわ」
「そしてこの本には、偶然にも”528“と言うページが無い。だが、この前話した通り、彼の亡霊が授けた情報を元に楽譜の謎を読み解くと、トーヴァルセン美術館へと辿り着く。そこには”528“と言う数字をさりげなくあしらった、オンディーヌ像があった」
「えぇ、そうね。でもあの台座に書かれたあった文章からは、全く何も判らなかったけど」
「そこが狙いさ。意味ありげで、尚且つ非常に曖昧。解釈に色んな意味を持たせる事が出来る表現を使い煙に巻く。宝探しに夢中な探索者達は、躍起になって意味の無い文章に頭を悩ませ、見当違いな場所を探し歩くって寸法さ」
「どうしてそんな……。そうか、それも全てレオポルトの仕組んだ事なのね?」
「間違いないね。どうして隠さなければいけないと考え、それを行動に移したのかまでは知らない。だが彼の仕組んだ罠は大胆かつ巧妙だった。解けるか解けないかギリギリの所でかろうじて解けるぐらいの謎を散りばめる。そうして探索者はその謎を解きながら次のステップへと進んで行く内に、それがあたかも真実へと近付いているものだと信じて疑わない心理が芽生える。後はもう行き止まりを設定しておいて、曖昧な答えを提示しておけば終わりさ。誰も皆、最初から自分が違うルートへと乗せられていたとは気付かない」
「最初は――そうか。ホテルの壁紙ね?」
「そう、全てはあそこから騙されていた。しかもヨルク・レオポルトご本人が登場しての大芝居だ」
「そして次はトーヴァルセン美術館ね」
「そしてそこからオルデンブルク家へ。だがそこで手掛かりは途絶えた」
「面白いわね。あなたの言う事を全て信じるとしたら、ヨルク・レオポルトは宝探しに来た人達を困らせる為だけにルイジットホテルを建設したって事になるわ」
「あぁ、そうさ。それに彼が作ったのはホテルだけじゃない。調べてみたら表だって名前こそは出て来ないものの、トーヴァルセン美術館の設計から施工までが彼の手に依るものだった」
「まさか!」
「しかも、マジル・C・ゴフの書斎そのものを、ドイツのザンクト・ゴアールスハウゼンから、オルデンブルク家まで移動させたのも彼だ」
 リセは二の句が継げない様子だった。更にリュートは、「違和感があったんだ」と、続ける。
「最初にゴフの書斎へと踏み込んだ時、何故かとても奇妙な感じがした。そして彼が残した資料や日記等を調べて行く内に、ますますその奇妙さは増幅して行った。――気が付いたかい? 彼の書いたものの中に、研究やら実験に関するものの類がまるでなかった事を」
「えぇ、確かに無かったわね」
「なら、あの部屋に所狭しと並べられた科学実験のような器機の数々はどう説明する? まるであたかもあの部屋にて“ローレライの涙”が精製されたかのように見せ掛けておいて、その実、ゴフは生粋の哲学者でしかなかった。もしもあの部屋から手掛かりを一つだけ探せと言うならば、まさにそこだ。ゴフの書斎は、演出が施された、不正解のルートの終着点だ」
「……なるほど」
「僕はあれからドイツへと飛び、ローレライの巨岩を中心としてゴフの生家を訪ね歩いた。そしてやがてそれは見付かった。あの巨岩から上流へとさかのぼった所にある、川沿いの家だった。もちろん家は近代のものに建て替えられてはいたけどね」
「凄いわね。それで何か見付かったの?」
「いや何も。ただそのゴフの子孫であろう家族の人とは逢って、話をする事は出来た。そしてそこで興味深い話を聞けたよ。やはり大昔にとある男が訪ねて来て、ゴフの書斎をまるまる買い取りたいと申し出たそうだ」
「どうしてまた、そんな……」
「多分、秘宝へと行き着く為には、どうしても必要なものがあったんじゃないかな。例えばこの、失われし幻のページ……とかね」
「幻のページ? どう言う事?」
「それは行きながら話そう。今は時間が惜しい」
 そう言ってリュートは立ち上がる。それに続いて席を立つリセを見て、「今日も素敵だね」と、臆面もなく言う。
 怪訝そうな顔で睨むリセに尚も、「君は服装のセンスがとてもいい」と告げると、「やっぱりあなたってイタリーの血が混じってるわ」と、リセは苦笑する。
「それはどうも」と、行きかけた所で、同時にテーブルの上にサンドイッチが置かれた。
 そうして二人はまた、渋々とその席へと戻る事となった。

 *

「あら」と、驚いた顔をしてエミリエは二人を眺めた。
 それは一週間前に訪ねたばかりの、モーレウの町外れにあるオルデンブルク家の玄関先だった。
「先日はありがとうございました」と、リュートが会釈をすれば、「クロフォードさんね」と、エミリエはすぐに気が付いた様子だった。
「今日は何か? もしかしたら忘れ物でも?」
「いえ、そうではないのですが」と、言いにくそうにリュートは返す。「ご迷惑でなければ、もう一度、書斎を拝見させて頂きたくて」
「構いませんわよ」エミリエは言う。「何か判りまして?」
「えぇ、まぁ。少々確認したい事が」
「――どうぞ、お上がりになって」
 この前に来た時と、同じ部屋へと通される。
「すぐに済みます」
 そう言ってリュートは、もう動かなくなった古い振り子時計の前に立つ。
「何をするの?」
 リセがそう聞けば、「さっき話した、失われし幻のページの在り処さ。僕の想像通りなら、事実はすごくシンプルなんだ」と、リュートは答え、時計の文字盤の硝子カバーを開く。
 指先で短針をつまみ、“5”の位置へと持って来る。そして次に長針をつまむと、今度はそれを“28”へ。
 しかし――
「何も……起きないわね」
 堪らずリセが呟く。リュートもまた当てが外れたせいか、珍しく困った顔になる。
 その時だった――
「何をしたいのか判りませんが」と、二人の目の前にエミリエが立つ。「この手の時計を動かす時は、大抵こうでしょう」
 言ってエミリエは下の窓から手を差し込み、振り子の先端をそっと握ると、左に大きく傾げた後、それを離した。
 鈍い光を放つその振り子は、ゆっくりとした動作で右へと大きく揺れた後、低い小さな音でカチンと鳴った。
 次は左に。そしてまた右に。カツン――コツン――カツン――コツン――と、確実にその時計が起動し始めた事が判る、規則的な機械音が聞こえて来た。
 何かが起こる。確かに、そんな予感があった。そしてその瞬間が訪れたのは、起動からちょうど一分が過ぎた辺り。長針が“28”から、“29”へと移った時の事だった。
 ガツン――と、振り子の音が鈍いものに変わった。
「何!?」
 リセが驚き、声を上げる。ガツン――ゴツン――ガツン――と、振り子の音は妙な破壊音を轟かせ、そしてそれと共鳴でもしているかのように、時計の文字盤のパネルが次第に前方へと倒れ掛かって来た。
 それはちょうど、長針が“30”を示すまで続いた。パネルはすっかりと開き切って、壁から水平になるまで降りて止まった。
 恐らくそれは、普通にパネルを開いただけでは到底見付けられないだろう仕掛けだった。それは文字盤と歯車構造のその中間。正しい手順で操作した時のみ開くのだろう、もう一つの文字盤がそこに現れたのだ。
 それはまるで、切り取られた本の一頁のように思えた。
“何故ならば、私はついにそれを手に入れたからだ。永遠の死と呼べるものを、目の当りにしたからだ”から、その文は始まり。
“私はその秘宝を二人の愛娘に託した。きっと彼女達ならば、死の恩恵を求めてやって来た者全てに、その神秘性を語り伝えてくれる事だろう。だが――”で、終わっている。
 リュートは急いで鞄から“ラ・アクラ”の書を取り出すと、抜け落ちたページを探し当てる。527ページは、“誰もがそう感じるべきである”と言う一文で終わり、529ページの頭は、“それをどう感じるかは個人の判断へと委ねられる”から始まっている。前後の繋がりは、確かに合う。
「ようやく見付けた。これこそが正解のルート。マジル・C・ゴフが残した、秘宝への招待状だ」
「どう言う事なの?」
「どう言う事ですの?」
 リセと、エミリエの声が同時に聞こえた。リュートは苦笑を漏らしながら、「こう言う事ですよ」と、エミリエにも判るように手短に説明し、ヨルク・レオポルトが大掛かりな隠蔽工作をして探索者を煙に巻き、この本来のルートを消しに掛かっていた事を告げた。
「まぁ」と、エミリエは本気で驚いた顔をする。「昔から両親には、この部屋の物はうかつに触るなとか、もしもこの部屋の事を知る者が訪ねて来たら通してあげなさいとか言われて今まで来ましたが、まさかそんなものが隠されているとは今まで知りませんでしたわ」
「今までにも何人か、この部屋を目当てに来ましたか?」
 リュートが聞けば、「いえ、誰一人として来ませんでした」と、エミリエ。
「親の代にも来た事は無かった筈です。もしかしたら、今までに誰一人として来なかったのかも……」
「いえ、おりますよ。少なくとも、“たった一人”は」と、リュートは告げる。「元々ここにある物全ては、ドイツのザンクト・ゴアールスハウゼンにある、ゴフの生家にあったものなのです。だが、作曲家であるヨルク・レオポルトが本の謎を読み解き、生家へと行き着き、そしてその書斎の全てを買い取ってここに移した。それは何故かと言うと――」
 リュートは指差す。文字盤に書かれた文を指し、「これを隠したかったからだ」と告げた。
「彼は恐れた。この本に書かれてある謎を読み解きさえすれば容易に辿り着けるであろう秘宝の場所を、他人に知られてしまう事を。だからこそ彼は、然るべき場所からこれを移動し、自らが考案した偽のルートの終着点へと挿げ替えた。それに乗せられた探索者は、そここそが正規のルートの終着点へと導く、重要な場所であると言う事さえ知らないままに断念するであろうと言う悪意と共に」
 指差したまま、文字盤へと歩み寄る。そしてリュートはその低く通った声でそこに書かれた幻の528ページ目を読み上げる。
 ゴフがその秘宝を手にし、その恩恵を目の当たりにし、その衝動でこのような著作を書き綴ってしまった事を説明し、そしてその後悔すらもそこに記述していた。
“終わらない快楽とはどのようなものなのだろう。永遠たる絶望とはどんな暗黒なのだろう”
 叶うならばそれを自らで体現したかったと書き記した後、その秘宝は二人の娘――ハンナと、マジル・C・アレクシアに託すと結び、その後ろに家紋であろう獅子の紋章を絵で刻んでいた。
 本の間から、クラスゴー老婦人に渡された封筒を抜き出す。そしてそこに刻印された紋章は、まさにその文字盤に刻まれた紋章と違わぬ同じものだった。
「エミリエさん。あなたは先日、僕にこう言いましたね。“アレン――とても品の良い、いつ見てもお若い方”と、クラスゴー婦人を指してそう仰られた」
「えぇ……確かに」
「アレン。略さず言うと、アレクシア。――そう、それがあのクラスゴー婦人そのものと問われたら自信はないが、少なくともここに書かれたものと名前は同じだ。マジル・クラスゴー・アレクシア」
 言ってリュートは自らの手で振り子の動きを止め、更には文字盤を閉じた上で長針と短針を零時の所へと持って行き、硝子のパネルをそっと閉じ、二人の方へと振り向く。
「これで、振り出しに戻ったって事ですね。宝探しはクラスゴー家から始まって、再びクラスゴー家へと辿り着いた」

 *

 スタウンスホルトに二人が到着したのは、午後の二時を過ぎた辺りの事だった。
 秋の日にしては陽射しが暖かく、厚手の服でいるには少々暑いぐらいの陽気であった。
 結局、エミリエ婦人は二人と同行する事はしなかった。彼女は懸命にも、真実など何も知りたくはないと、家に留まったのだ。
 クラスゴー家は先日に見た通りの、木々に囲まれた瀟洒な木造家屋であった。但し――この陽気さとは裏腹に、どこかその敷地全体に暗い影が覆っているかのような、どんよりとした濃密な空気が感じられた。
 ガァ――ガァ――と、家屋の向こうに広がる雑木林から、鴉の群れの鳴く声が聞こえた。
 リュートがその玄関のドアを叩けば、しばらくして後、それは開かれた。
「お待ちしておりました」
 クラスゴー・アレクシア老婦人は、確かにそう言った。
「お待ちしていたとは――事前にエミリエさんより連絡でも?」
 聞けばアレクシアは「いいえ」と首を振り、「最初から、またここに来て下さると思っていました」と、アレクシアは答えた。
「最初から?」
「えぇ、最初から」
 玄関先での立ち話もなんだからと、二人を中へと通し、アレクシア婦人は前回同様、お茶を淹れる為に奥へと引っ込んだ。そしてリュートは前に来た時同様に、壁に貼ってある写真群を眺めた。
「あぁ……」
 と、リュートは声をあげた。それは前回に来た時に、ふと視線を止めた一枚の写真。それを見てリュートは掌を額にあてがい、苦悩の表情を浮かべた。
「どうしたの、リュート」
 リセが聞けば、「これを見てくれ」と、その問題の写真を指差す。
 そこには黒いスーツを着た男性と、一輪の花を持ったドレス姿の二人の少女。そしてリュートはその男性を指して、「ゴフだ」と告げた。
「えっ……?」
「間違いないよ。あの時は一瞬だけしか見る事が出来なかったから判断出来なかったが、今ならはっきりと言える。これはマジル・C・ゴフ。“ラ・アクラ”の著者だ」
「そうなの? でも、どうして」
「別におかしくはありませんわ」
 突然背後から声を掛けられ、二人は驚いて振り向く。そこにはトレイを持ったアレクシアの姿。
「それは、父です」と、彼女は言った。
「父……? まさか。ゴフが亡くなって何年経ったと思っているのです」
「四百年です」アレクシアは動ずる事もなく答える。「正確には四百と十二年ですね。随分と月日も経ったものです」
「まさか。有り得ないわ」
 リセの言葉にアレクシアは、「それぐらい信じられずに、一体何を探しに来たのです」と返した。
「やはり」と、リュートは呟く。「あなたが守っておられるのですね。ゴフ――お父上から譲り受けたと言う秘宝を」
「えぇ、秘宝かどうか判りませんし、譲られたかも怪しいのですけどね」
 遠くで鴉の声がする。窓の外、林の木々の間から黒い鳥が何羽も飛び立って行くのが見えた。
「随分と騙されましたが、ようやくここまで辿り着きました。“死の快楽”に興味はありませんが、見せては頂けるのですか? “ローレライの涙”を」
「もちろんです」アレクシアは言う。「ここまでやって来られた方は二人目です。一人目は秘宝の譲渡を拒否されましたが、今度こそは譲り受けていただけるのでしょうか」
「一人目……ヨルク・レオポルト氏は、受け取りを断ったのですか?」
「ヨルク? ――あぁ、ヴェッセルさんね。そうですね、彼は秘宝を前にしてそれを手に入れる事はしませんでしたわ。あれほどに死の魅力に憑りつかれた方はいない筈なのに」
「ヴェッセルとは?」
「あなたが言う、ヨルク・レオポルトと言う人物の本名ですよ。元々はオランダの方で、お金持ちの貴族か何かだったんでしょう。ザンクト・ゴアールスハウゼンに住む私の家へと訪ねて来たかと思ったら、私と姉を連れてここ――スタウンスホルトに移住させられました。秘宝を守る為だとか言ってね。それからですよ、ヨルク・レオポルトと名乗り始めたのは」
「……」
「私達をここに住まわせてからの彼の行動は、実に奇妙でした。ホテルの建設や美術館の別棟の協力。挙句には聴く人を憂鬱とさせる曲まで作り、そして挙句に自殺までした」
「なるほど。もしかして、この本を彼に寄贈したのは――?」
 言って、リュートは“ラ・アクラ”の裏表紙のサインを見せる。だが意外にもアレクシアは、「いいえ」と答え、「あげたのではありません。彼が持参して来た本に、サインをお願いされたのです。――その意図は良く判りませんでしたが」
「トリックの為ですよ」リュートは言う。「どうして彼がそこまで躍起になってその秘宝を隠そうとしたのかまでは知りません。手に入れる事も拒否したと言うのに、どうして……」
「御覧になれば」アレクシアはカップにお茶を注ぎながら言う。「きっとお判りになるかと思いますわ」
 遠くでまたも鴉が鳴く。
 窓から差し込む陽射しが尚も眩しい、午後の一場面だった。



 通された場所は、意外にも家屋の裏手にあるテラスだった。
 簡素なテーブルと椅子が数脚。ただそれだけの裏庭のテラス。果たしてそこで何を見せようと言うのだろうか。リュートとリセが困惑していると、「どうぞこちらへ」と、アレクシアは先に立って芝生の上を歩き出す。どうやら見せたい場所と言うのは、別にあるようだった。
「一体、どちらへ?」
 聞けばアレクシアは、「あそこです」と、雑木林の一画を指差す。見れば木々の向こうに突き出るドーム型の屋根。あぁ、そう言えば前にここに来た時も見た気がするとリュートは思った。
 あそこには一体何が? などと考えた瞬間、アレクシアはまるでそれを察したかのように足を止め、そして二人の方へと向かって振り向いた。
「一つだけ、お約束願います」
「えぇ、どのような事でしょうか」
「例えあなたがヴェッセルさんのように秘宝の受け取りを拒否したとしても、これからお見せする事に関して、口外なさらないようお願いしたいのです。それはとても――人の目に奇異に映るものだと思うので」
「約束します」
「それと、もう一つ」
 言ってアレクシアは、リセの方を向く。
「驚かれませんように。特にそこのお嬢さんには刺激の強いものかと思うので」
「え……えぇ」と、リセは頷き、「約束します」と答えた。
 行き着いた場所は、白いペンキで塗られた小さな離れの洋館だった。
その家屋は横よりも縦に長く、不思議とかなり上の方ばかりに窓が集中していた。
 真鍮の古びた鍵で開錠すると、アレクシアはもう一度二人の方へと向き直り、「取り乱さぬよう、お願いします」と念を押し、ドアを開けた。
 薄暗く、狭くて簡素な内部だった。
 調度品の類などほぼ無いと言っても過言ではなく、部屋の中心に建てられた太く大きな柱と、その前に置かれた一脚の椅子以外は何も無く、天井近くの窓から差し込む陽の光さえも控えめな、殺風景な所だった。
 驚くなだのと、脅かす必要性すらも感じられない場所だなとリュートが思った時だった。
 かなり強い力で、腰の辺りを握られた感触があった。首だけでそちらへと振り返れば、それは驚きの表情で前方を凝視するリセの仕業だった。
「どうした?」
「……見て」
 言われてもう一度、前を向く。だが何も無い。ただ部屋の真ん中に建つ、大きな柱があるだけだ。
 だが――
「……えっ?」
 リュートもまた、血相を変える。今まで見ていたその柱は、ただ単に上から降り注ぐ陽の光のせいで硝子表面に照り返しが起こり、それがそうとは見えなかったせいだった。
 それは柱などではなく、大きな円筒型の水槽。そしてその水槽の中には、青緑色に濁る水が並々と蓄えられており、そして――
「何よこれ!」
 叫ぶと同時にリセは走り出し、あらんかぎりの力でその水槽を両手で叩く。
 信じられない光景が、そこにはあった。水の中に漂う、白いドレス姿の幼い少女。どう言う訳か、赤い瞳を持つその少女は自分の身に何が起こっているのかさえも判っていないかのように、ぼんやりとリュート達の方を向き、水槽の内側から頼りなくその外壁を叩いている。
 リュートはすぐに理解した。その少女の右足首には太い金属製の枷が嵌められており、そしてそのもう一端は水槽の底に太い鎖で繋がれてあった。
 当然、少女は上へと浮かび上がる事が出来ず、その上手を伸ばしてもその水面には届かない。とても絶望的な場所に漂っているのだ。
「リセ、そこを退け!」
 リュートは叫び、水槽の前に置かれた木製の椅子を両手で持ち上げると、その水槽目掛けて横殴りに叩き付けた。
 鈍い破壊音。飛び散る木片。結局椅子はあえなく水槽に負け、リュートの握る背もたれの部分のみを残し、部屋を散らかしただけだった。
「そんな……やめて」
 リセはまた水槽の前まで辿り着くと、今にも窒息しそうな少女を眺め、そして跪いた。
 少女は軽く上を見上げると、片手を上へと伸ばし、そして目を裏返しながら瞳を閉じて、やがて――絶命した。
「なんで……」
 リュートの口から悲痛な呟きが漏れると、背後からアレクシアの、「約束したではないですか」と言う、静かな声が聞こえた。
「驚かず、取り乱さずお願いしますと、先に申し上げた筈ですよ」
「しかしこれは――」
「それは、姉のハンナです」と、アレクシア。「そしてそれこそが、あなた方の探し求めていた死の秘宝、“ローレライの涙”ですよ」
 えっと声を上げ、二人は再び水槽の方へと向き直る。
 そこには、実に穏やかで、どこか恍惚の表情すら垣間見れる、美しい少女の死顔があった。

 *

「私達がまだ幼かった頃、母が川で溺れて亡くなりました」
 アレクシアは語る。三人は、木片が散らばる水槽の前で佇んだまま。
「まさにローレライの巨岩の前でした。下るライン川の途中、舟が転覆。それを岸の方で、父と、姉と、私で見ていました。すぐに救助船が駆り出された様子でしたが、どうにもなりませんでした。自力で岸まで辿り着いたのは僅か十数人。その中に母はおりませんでした」
 二人は無言のまま、それを聞いている。
「その後、私達を置いて父も捜索隊に加わりました。元々、ダイビングの経験もあったのでしょうね。スーツを着て、シュノーケルを装備して、ライン川の中へと飛び込んで行きました」
「――それで?」
「母の遺体は、父自身が見付けて来ました。岩に当たって傷付く事も無く、美しいままの姿で母は戻りました。そしてその晩――」
 アレクシアは水槽の外側をそっと撫で、ハンナの死顔を見つめた。
「父が母の遺体の前で微笑んでいるのを、偶然に見てしまったのです。それはとても優しく、穏やかな笑顔でした。私は深夜にも関わらず父の横に立ち、何が可笑しいのと聞いたのです。すると父が言うには、“とても綺麗だった”と、母の事を指してそう言いました。川底で、光すらも射し込まない暗い世界の中で、彼女はとても優雅に踊っていたと。ドレスの裾がほつれて紐のようになっていて、その一端が川底の岩に引っ掛かり、そんな状態のまま母は長い髪を揺らせ、静かに孤独に踊っているかのようにしていたんだそうです」
 部屋は、静かだった。リュートの隣でリセが喉を鳴らす音までもがはっきりと聞こえるぐらいに、静かな空間だった。
「それから、父は家を空ける事が多くなりました。私達は親戚筋の家に引き取られるようにして、父は滅多に帰る事もなくあちこちを飛び回っておりました。そうして二年程が経った頃でしょうか、やつれた顔をして父が戻って来たのです。“ようやく見付けたんだ”と、とても嬉しそうな表情で」
「見付けた……とは? まさかそれが」
「えぇ、お察しの通り、“ローレライの涙”です」と、アレクシア。「一体どんな場所を訪ねてそれを手に入れたのかまでは知りません。ただ、父の見せてくれたそれは、まさに宝石でした。薄い桃色に輝く、とても綺麗な水晶石。そして父は私達二人に向かってこう言いました。“ハンナ、アレン。どちらがこれを欲しい?”と」
「それを――ハンナが?」
「いいえ、私がもらいました」と、アレクシアは照れながら笑った。「元々姉は物静かで大人しい性格でしたからね。我が儘で何にでも興味を示す私とは大違い。真っ先に“私が欲しい”と叫ぶと、姉は黙って頷いてくれました。そして私はそれを手に入れたのです。それが呪われた秘宝と言う事は知らずに」
「それで……?」
「そして父は、それを飲み込めと私に命じました。私は“こんなに美しい宝石なのに?”と、それを咎めると、“それと同じぐらいに君も綺麗になれる”と、父は言います。そして私はそれを疑う事もせずに飲み下し――」
「……」
「僅か一瞬でそれを吐き出してしまいました。それはとてもおぞましく、嫌な味がしたからです」
 はぁと溜め息を吐き出し、リュートは腕組みをしながら指先で自らの唇をなぞり始めた。目は輝きを増し、どんな言葉でさえも聞き漏らさないぞと言わんばかりの表情だった。
「次に父は、それを姉に与えようとしました。拾った宝石をハンカチーフで丁寧に拭きながら、姉にこれを飲めと言い出したのです。当然姉はそれを拒否しましたが、父が再び私の方へと向き直ると、姉は私を庇ってか、“私が飲むわ”と言い出しました。そして姉は――吐き出す事もせずにそれを受け入れてしまったのです。宝石は姉の体内で溶けて融合したのでしょうか、一瞬にしてその瞳は宝石と同じ色となり、喉を詰まらせたかのように細く叫ぶと、そのまま仰向けに床へと倒れ込んで、絶命してしまいました」
「なんてひどい――」
 リセが呟くと、「酷いかも知れませんが、父としてみれば精一杯の愛情だったようです」と、アレクシアは言う。
「父は姉の亡骸を優しく抱き上げると、いつの間に用意していたのでしょうか、横長の大きな水槽の中へとそれを沈めました。“これでもう、ハンナは永遠を生き続ける”と語りながら。私はすかさず、“死んじゃったじゃない”とそれを非難すると、とんでもないと父は笑い――」
 アレクシアはそこで言葉を一旦切り、二人が立つ間を縫って、水槽を指差した。
 リュートとリセは、慌てて背後を振り返る。そして――見てしまった。今まさに、眠りから覚めたかのようにして瞳を開ける少女の姿を。
 少女は目を開け、そして今そこがどこで、自分の身に何が起こっているのかすらも判っていないかのような顔でそっと腕を突き出す。水槽の内壁へと触れ、ようやくそこが水中だと理解し、水面は遥か上で、自らの足は枷で繋がれている事を知る。そしてやがてゆっくりと、苦痛と絶望がやって来る。慌てて水槽を叩き、必死な形相で外の人間に助けを求め、そして再び――絶命した。
 穏やかな表情で。それはとても安心で、そしてどこか満足げな笑みを浮かべて。
「まさか――」
 リセは両手で口を押さえてそう呟く。
「すぐには信じられない事でしょうが」アレクシアは静かに語る。「これが秘宝の力。永遠なる死。悦楽の絶望。私の代わりに“ローレライの涙”を受け入れて以来、四百年以上もの間、姉はずっとこうやって生き死にを繰り返しているのです」
「冗談じゃないわ! どこが悦楽? 何が快楽よ! ただ死ぬ為だけに永遠に行き返らせられ続けるだなんて、どんな拷問だってありはしないわ!」
 感情的になって叫ぶリセを、リュートは押し留めるようにして、「そうとも言えないよ」と、優しく言った。
「そうとも言えないって、どうしてよ」
「科学で――証明されているんだ。人とは、死ぬ間際のその一瞬に、例えようもない最高の幸せを感じるのだと」
「何でそんな事が言えるのよ!」
「人は脳で死を察知した瞬間、その恐怖と苦痛を和らげる為なのか、通常では有り得ない程の、“幸福”を感じさせる脳内物質が分泌されるんだ。――“死とは、人にとっての最高の悦楽であり快楽である。例えどんな麻薬であれ性的興奮であれ、死によってもたらされる幸福には敵わない事だろう”と、“ラ・アクラ”に書かれている通り、それは既に証明済みだ。ならばあれは、永遠なる死の快楽と呼べない事もない」
「そうですよ」と、そこにアレクシアが割り込む。「私も最初の内は、なんて残酷な事なんだと毎日を悲痛な想いで暮らしておりました。でも――次第にその考えも変わって行きました。姉のこの死顔の穏やかさ、そしてその微かな笑みを見ている内に、もしかしたら姉は本当に死そのものを楽しんでいるのではないかと」
「そんな馬鹿な事……」
 リセが声を詰まらせる。しばらくの無言の時間が続き、やがてまたハンナが皆の前で目を覚ませば、僅かばかりの生の後、声にならない断末魔と共にその少女は絶命する。そしてリセはとうとう顔を覆い、忍び泣きを始める。
 そうしてどれぐらの時間が経っただろうか。リュートはまたも自らの唇をなぞりながら、「二つ、判った事があります」と、告げた。
「一つ。ヨルク・レオポルト氏は、完全に探索者を煙に巻こうとしてあんな大掛かりな仕掛けをした訳ではなかったと言う事。むしろ彼はある意味、自らが作り上げたルートの上に、大いなる“真実”を隠す事に成功していた」
「どう言う事です?」
 アレクシアの質問に、「まだ完全に言い切る事は出来ないのですが」と前置きをした後、「レオポルト氏は、ゴフ氏ですら知り得なかった真実を一つ、隠していたのです」と、リュートは告げた。
「どんな真実なのです」
「それもまだ――少なくとも、私がこの秘宝を受け取る事が出来る権利を得た以上、その真実を確実に突きとめなくてはいけない訳なのですが」
「まぁ……もしかしてクロフォードさんは、姉を引き取る意志がおありなのですか?」
「えぇ、引き取ると言えば、引き取ると言う事になるのか……」
「それで、私も肩の荷が下りました」と、アレクシア。「これでようやく私も、この呪いから解放される」
「呪い?」
「えぇ、もうあなたもお気付きでしょう。私はもう四百年も生きてまいりました。恐らくは一度、秘宝を飲み下してしまったからの事でしょうね。とても長い時間をかけて歳を取り、今まで生き長らえて来ましたが」
「……」
「もうそろそろ、寿命も尽きるようです。なんとなくそれが判るのです。これであなたが本当に姉を引き取って下さるのなら、私にはもう何も思い残す事はございません」
「――判りました。引き取りましょう」
「リュート!」
 リセが咎めるような口調でそれを止める。
「大丈夫だよ、リセ。きっと上手く行くから」
「上手くって……?」
 それには答えずリュートはリセの肩を軽く叩きながら、「判った事、もう一つ」と、人差し指を立てた。
「彼女を見て、どうしてヨルク・レオポルト氏がこんな回りくどい秘宝の隠し方をしたのかがようやく判った。彼がゴフ氏の大きな間違いに気付いていながら、どうしてそれを正そうとしなかったのかが判った。彼は……」
 今まさに、再び瞳を開けたその瞬間のハンナを指差し、「彼女に恋してしまったんだ」と告げた。
「レオポルトは、ゴフ氏が本の中に隠したルートを探し出し、彼女の所まで辿り着いた。しかし彼はそれをどうする事もせず、再び闇の中へとしまいこんだ。――誰にも、触れさせたくなかったんだ。彼女を」
「えぇ、それは私も思ってました」と、アレクシア。「彼は幾度となくここへとやって来て、時間の許す限り姉を眺めて過ごしてました。恐らく彼は、本当に憑りつかれてしまっていたのでしょう。――死に、魅了されてしまったのです」
「そうですね」
 リュートはそう答えると、水槽の傍に立ち、その外壁にそっと手を添える。
 向こう側では、蘇ったハンナが同じようにしてリュートに手を重ねて来る。
「待ってて。またすぐに戻るから」
 リュートは小声でそう言うと、ハンナに通じでもしたのだろうか、絶命するその瞬間に、小さく頷いたようだった。

 *

「部屋を借りたい。6025号室だ」
 ホテルのロビーを突っ切ってカウンターへと急いで来たかと思うと、リュートは“ラ・アクラ”の書を掲げながら、「もう一度、前オーナーに逢いに来た」と告げた。
 この前と同じ、若いホテルマンと、口ひげを生やした恰幅の良い支配人の二人がそこにいた。二人はそれを聞くと同時に顔を見合わせ、「狂人か?」と、聞こえない程度の小さな声でそう言った。
 部屋へと入り、リュートは真っ先にカーテンをほんの少しだけ開いた後、前と同じようにしてソファーへと腰掛け、目を閉じながらその時を待った。
 やがて、その瞬間は訪れた。コンコンと言うノック音に目を開けると、いつの間に現れたのだろうか、この前と同じようにして頭部の片側から崩れた脳症を垂れ流したヨルク・レオポルトその人が、テーブルを叩きながら座っていた。
「また君か、クロフォード君」
 レオポルトがそう聞くと、「度々、申し訳ありません」と、リュートは返す。
「どうしてももう一度お逢いして、お伺いをたてなくてはならない事がありまして」
「どんな事だね」
 以前とは違って苛立ちを募らせたかのような口調のレオポルトがそう問えば、リュートは至って落ち着いた表情で、「オンディーヌを、然るべき場所へと帰します」と答えた。
 それはとても簡素で、しかも単刀直入な言葉だったようだ。レオポルトはしばらく呆気に取られたかのような顔をした後、ふと笑顔になり、「見付けたのか」と聞いた。
「えぇ、“全て”をね。あなたがちゃんと正解へと行き着けるルートを残しておいてくれたからです」
「なら――好きにしたまえ。君には秘宝を自由に扱う権利がある」
「あなたは」と、リュートはあらたまって言う。「凄い人だ。信念の為だけに全てを投げ打って彼女を守った。その意志は決して無駄にはしません」
「何の事か。良くわからないな」
「彼女が……いえ、ハンナが。あなたに“ありがとう”と伝えてくれと」
 言うとレオポルトは真顔となり、「彼女が?」と聞き返した。
「えぇ、彼女が」
「そうか」と、言葉を区切り、「なら、私の役目ももう終わりでいいかな」と、どこか嬉しそうな顔でそう告げた。
「一つだけ、お聞きしていいですか」
 リュートが聞けば、「何かね」と、レオポルト。
「“死”とは――あなたが魅了された通り、素晴らしいものでしたか?」
「愚問だな、クロフォード君」レオポルトは一蹴する。「君程の男がそんな事を聞くとは何事だ。死は誰にでも平等に訪れるし、そして誰に対しても一度だけだ。人生の最後の楽しみぐらい、他人に聞かずに心待ちにしておきなさい」
「なるほど、そうですね」
「だが、一つだけ忠告しておこう」と、レオポルト。「もし君が自殺を試みるのならば、私のような方法だけは避けなさい」
「どうしてです?」
「あれは――僅か一瞬だ。“死”を感じる暇も無かった。私とした事が、実に失敗だった。もし君に時間の余裕があるのならば、もっとじっくりと楽しめる死に方を模索する事だな」
「心得ました」
 言うとレオポルトは半ば崩れた顔面で楽しそうに微笑むと、彼の姿はじわりと崩れたかのように曖昧になり、そして少しの時間を掛けて四散し、空間の中へと消えて行った。

 再び一階フロアのカウンターに顔を見せたリュートは、「チェックアウトを」と告げる。
「チェックアウト? ――あれからまだ一時間も経ってませんよ」
「用件は全て済んだ。清算願いたい」
「あぁ……ならそのまま出て行ってくれて構いませんよ。どうせ普通のお客さんは通せない部屋だし」
 支配人がそう言うと、「もう平気だ」と、リュートは天井を指差しながら、「もう何も出ないし、誰も死なない。ウソだと思うなら君が泊まってみたまえ」と言い残して玄関口へと向かって行った。
 通りを挟んで向かい側にある喫茶店の窓から、手を振るリセの姿が見えた。リュートは急いで彼女の元へと向かうと、「終わったの?」と聞かれた。
「あぁ、全てね」
「私もお逢いしたかったわ。ヨルク・レオポルトの幽霊に」
「やめといた方がいいよ」と、リュートは笑う。「ハンサム過ぎて、とても見られたものじゃない」
「あら。それはリュート、あなたよりも?」
「あぁ、そうだね。ちょっと方向性は違うけど」
 お互いに苦笑いし、そして少しの無言の後、「私も付いて行っていい?」と、リセは聞く。
「構わないけど、延べ三日は帰って来れないよ。学校と、家の方はいいのかい?」
「大丈夫よ。特に両親は、やけに寛容だったわ」
「どうして?」
「さぁ――? もしかしたら、何か大きな勘違いでもしているのかもね」
「勘違い? どんな」
「気にしないで。それより」リセは遠い目で外を眺めながら言う。「どうしてレオポルトは彼女――ハンナに、ぎりぎり辿り着けるだろうルートを残したのかしら。本気で彼女を守りたかったのなら、どんな手掛かりも残さず全て消去するべきだったのに」
「彼が望んだのは、そう言う守り方ではなかったのかも知れないよ」と、リュート。「彼は、ゴフ氏が間違いを犯していた事には気が付いていた。だが気が付いていたにも関わらず、それを正そうとはしなかった。何故か――? それは、ゴフが残した“死の賛美”たる遺産を尊重したからだ。もちろんただそれだけならば、君の言った通りに後から出て来るであろう探索者達のルートを遮断する事も出来た筈。だが彼は同時に、あの少女の事を愛してしまった」
「なるほどね。もしゴフの遺産を取るならば、彼が全てを独り占めた。逆に彼女を一番に想うのならば、あそこから解放していた」
「そう、そのどちらも選べなかったからこそ、あぁ言った手段で全てを保留にしてしまった。次なる遺産到達者に全てを委ねると言う意志でね」
「それがあなたね。――で、結局あなたはどちらを取るか決まったの?」
「いや、取るも何も無いよ」リュートは笑う。「元々、“ローレライの涙”なんてものは存在していなかった。あれは単なるゴフ氏の勝手なネーミング。あるのはただ、いつの時代に生み出されたのも判らない黒魔術の粋、“オンディーヌの憂鬱”と呼ばれた宝石と、それと同化してしまった奇跡のような少女がいるだけ。後はもう、彼女が帰るべきであろう場所へと案内するだけさ」
「ふぅん」リセは背もたれに寄り掛かり、「優しいのね」と微笑んだ。
 表の通りを歩く人々も、どこか急ぎ足になっていそうな程に寒い、そんな秋の午後の事だった。

 *

 穏やかな波の上、一艘の大型クルーザーが水上を舐めるようにして駆け抜けて行く。
 天上には鮮やかな程に白く明るい、正円を描く大きな月。そこは船で丸一昼夜を掛けて辿り着ける北太平洋の某所。風は冷たく、通り抜けて行く空気はまるで刃のようだった。
「リセ」
 操舵室から顔を出し、リュートは叫ぶ。どうやらその声は彼女の元に届いたらしく、顔を上げて軽く手を振る。
「寒くないのかい?」
 聞けば彼女は甲板の真ん中に開いた穴の中を覗き込みながら、「平気よ」と叫び返す。リュートは苦笑しながら船の速度を緩めると、彼もまたデッキへと降りて行く。
 彼女が覗き込んでいるのは、普段ならば船上のプールとして使われている場所だった。但し広さはそれほどでもなく、良くて五、六人程度が水に浸かれる程度の設備であった。
 月明かりの下、プールの水はどんよりと暗く沈んでいた。その中から大きな気泡が一つ浮かび上がり、水面で破裂した後、そこからゆっくりと白いドレス姿の少女が顔を覗かせた。
「リュート」
 少女は静かで、そして実に穏やかな声でそう言った。
「寒くないかい、ハンナ」
 聞けばその少女――ハンナは、「大丈夫よ」と答える。
「水が冷たいのは判るけど、全く苦にはならないわ。むしろこうして空気中に顔を出している時の方が寒く感じるぐらい」
 髪をかき上げ、ハンナは笑う。もう既に四百年は生きているであろう存在だと言うのに、その笑顔はまだ幼い少女そのものだった。
「なら良かった。もう溺れる心配もなさそうだしね」
 言うとリセが、「どうしてなの?」と聞いて来る。「普通の水だと駄目なのに、どうしてこっちの水なら窒息しないのかが、良く判らないんだけど」
「浸透圧差の関係さ」と、リュート。「ハンナが向こうで生きられないのは、酸素不足のせいじゃないよ。あれは極度の脱水症状なんだ。意識が遠退き、昏睡状態になるんだ。淡水魚が海水で生きられないのと同じさ」
「そうだったんだ――」
「リュート」と、ハンナが水面から身を乗り出しながら言う。「もうこの辺りでいいわ。後は自分の力で行くから」
「……判った」
 やがて船は静かに停止する。
「ここでお別れね」とハンナは微笑み、「最後にあなたに見付けてもらえて、私は幸せだったわ」と告げた。
 ハンナは水中から右手を差し出し、リュートの方へと向ける。
「手を出して」
 言われてリュートも手を出せば、ハンナはそれに掌を重ねて、「最初に逢った時もこうしてくれたね」と、笑う。
「覚えてたのかい」
「もちろんよ」ハンナは笑う。「暖かかったわ。あんなに厚い硝子越しなのにね」
 言ってハンナはその指に自らの指を絡め合わせると、「普通に生きてみたかったわ」と、寂しそうに言った。
「申し訳ない。またしても君を、絶望のような場所へと追いやる事になってしまって」
 言うとハンナは大きく首を振り、「それは違うよ」と、答えた。
「感謝してるわ、リュート。そしてリセ。もう逢う事は無いかもしれないけれど、これから先もずっとあなた方の事を想い出す度に感謝するわ」
「ハンナ」と、リセが涙声で言う。「これからあなたが向かう場所は、とても暗くて孤独よ。私はあなたを想い出す度に胸が苦しくなると思うわ」
「そんな事、想わないで」ハンナは手を伸ばし、リセの頬を撫でながら言う。「必要ないわ、そんな心配。私はきっと幸せよ。もう二度と人と逢う事は無いかも知れないけれど、多分上手くやってるわ。だって私、自由だもの。幸せに決まってる」
「ハンナ――」
 リセは身を乗り出し、服が濡れるのも厭わずハンナの身体を抱き締める。
「一生忘れないわ。あなたは私が子供の頃に憧れた宝物そのものよ。逢えて良かった」
「そう言ってくれて嬉しいわ。なら今度は、あなたが伝えて。“ローレライの涙”は実在したって。奇跡はきっと、信じて疑わない人の元へと訪れるって」
「えぇ――伝えるわ。その噂の中に、あなたが生き続けて行けるように」
 手を離し、ハンナは二人に向かって軽く手を挙げると、「ここでお別れね」と、告げた。
「ハンナ。下へと潜れば横に小さな通路がある。そこから外へと出られる」
「わかったわ」
 言うと同時に、ハンナの姿は消えた。いくつかの細かい泡が浮かび上がっては消え、そしてその水面は静かになった。
「――行っちゃったのね」
 と、リセが呟くと同時に、「さようなら」と、あらぬ方向から声が聞こえた。
 それは左舷のデッキの向こう。水平線の向こう側がようやく白々と明るくなって行こうかとしている、その手前の波の中に、シルエット姿の彼女はいた。
「ハンナ!」
 二人が同時に叫ぶと、「リュート、一つだけ教えておいてあげる!」と、ハンナは尚も声を張り上げた。
「さっきあなたが言った“絶望”ね。解釈がちょっとだけ違ってるわ。絶望は“死”なんかじゃない。ましてや孤独でもなければ未来が見えない事でもない。本当の絶望って言うのは、自分の意志を持てない事よ。考えると言う手段の無い事よ。だから私に絶望は無いわ。今も、昔も」
「なるほど。覚えておくよ」
 シルエットのままの彼女は一度だけ両手で大きく手を振れば、今度はもう何も言わないまま海の中へと潜って消えた。
「あぁ――」と嘆くリセは今度こそ我慢せず、デッキの手摺りに掴まったままリュートの肩に顔を預け、口を覆って咽び泣き始めた。
 リュートはそっと彼女の肩を抱き、何も言わないまま長い夜の明けるのを待った。
「探すべきではなかったのかしら」
 ようやく口を開いたリセに、「そんな事はない」と、リュートは答える。
「運命を語る気はないけど、もしもあの日君と出逢っていなかったら、僕は到底、ハンナには出逢っていなかっただろうと思うよ」
「そうかも知れないわね」
「だからこうなるのは必然だった。それに――」
 リュートはそっとリセの頭を撫でながら言う。「そんなに悪い終わり方じゃなかった」
「あなたって……」と、リセは苦笑を漏らす。「恰好はいいけど、やはりどこか女ったらしな感じがするわ」
「どうして。どの辺りが?」
「言う事がいちいち気障ったらしいのよ。でもまあ――」
 リセはそこまで言って口を噤む。水平線はまさにその大地の丸さを教えてくれているかのように、なだらかな湾曲の日の出の模様を描いていた。

 *

 ――五カ月後

 早朝のカフェテラス。空気はまだ幾分冷たいものの、吹く風は既に春めいた匂いを遠くから運んで来てくれていた。
 リセは店の外に並ぶテーブルの後片付けをしながら澄んだ空を見上げ、こみあげる欠伸を噛み殺す。
 流石に夕べは試験勉強に力を入れ過ぎたかなと思いながらも、まだその余熱は治まらない。リセはあれから大学での進路を変更し、今年の春から考古学の学芸員を目指す事に決めたのだ。
 元から興味のあった分野だった――と言えば聞こえはいいのだが、その実はどこかの誰かに触発でもでもされたのだろう。だがその志は相当に本気のように感じられた。
 朝食の時間が過ぎようとしているせいか、客の入りはようやく落ち着き、リセは溜め息を吐きながら空いたテーブルの横を通り過ぎて行く、その時だった。
「――ましたのは、個人で潜水艇を所有するカナダの学生、デリック・ウォーカーさん。話によるとウォーカーさんは以前にも単独で水深六千メートルの航海を成功させたと言われておりますが、今回のこの騒動でその成功は疑問視されており――」
 その音は、向こうのテーブルに座る二人の若い女性が見ているポータブルのテレビの音声で、その映像は今まさに切り替わり、長い髪の若い男性の顔を映し出す。
「“本当なんだ。言っても誰も信じちゃくれないけどね”」と、下に字幕入りで叫ぶその男性。リセは一瞬にして興味を失い、店内へと戻ろうとしたその瞬間。
「“最初は人魚かと思ったんだ。でも……違った。あれは少女だ。白いドレス姿の幼い女の子だった”」
 リセの足が止まる。その映像を見ている二人の女性はその話をまるで信じていないのか、可笑しそうに笑い声をあげている。
「ウォーカーさんの所有する潜水艇は航海中に動力装置が壊れてしまった様子で、先日アメリカのメイン州、ジョーンズ・ポートへと流れ付き、無事に救助されたばかりだったのですが、今回のアタックにおいての失敗を隠そうとした事からこんな狂言が出たのではと専門家は考えています」
 男性アナウンサーもまた、いかにも可笑しそうな表情を浮かべて解説をし、横に座る女性もまた皮肉な笑顔で、「彼はその深海の少女に陸地まで連れて来てもらったと話していますが、本当なのでしょうか?」と質問する。
「今、ウォーカーさんと中継が繋がっております。ではその件も含めて本人に伺ってみましょう。――ウォーカーさん?」
「言っておくぞ」画面に大写しになったその青年は、怒った表情でそう怒鳴った。「世界中の誰もが信じてくれなくてもいい。だが僕は本当にこの船で六千メートルもの深海へと潜った。そしてそこで白いドレスの少女に出逢い、助けられた。これは嘘じゃないぞ。僕はそれを証明する為にまた――」
 音声は途切れ、中継は強制的に先程のアナウンサー達の方へと切り替わる。男性アナウンサーはその青年を馬鹿にしたかのような顔で、「春の風物詩、人魚伝説でした」とだけ言って次のニュースへと移った。
 テレビを観ていた二人の女性は、今の話題を茶化しては大笑いを続けている。
 リセはそれを見て薄く微笑むと、向こうのテーブルで手を挙げている男性を見付け、「今行くわ」と、軽い足取りで駆け寄って行った。

 *

「――こちら、セント・マリノス号。場所はサンピエールから南東約九百キロ辺り」
 一人乗りの小型潜水艇の中で、青年は孤独にマイクに向かって話し掛けている。但しそれは電話でも無ければ無線でもなく、ただの録音に使っているのであろう小型端末に向けての会話だった。
「水深、既に五千メートルを超え、尚も下降中。どいつもこいつも僕の話を信じちゃくれなかったが、この船は充分に六千メートル級の水圧に耐えられる。馬鹿にすんじゃねぇよ、全く」
 船の真横に付いている丸い小型の窓からは、もはや漆黒の暗闇しか見えない。そんな深海。青年は尚もマイクに向かって愚痴をこぼしているが、やがてそれにも飽きたのか、「言ってもしょうがない」と独り言を呟き、端末の電源を落とした。
 しばらくの無言が続いた。やがて船は目標である六千メートルへと達したらしく、青年は器機を操作し下降を停止する。
「この辺りだったんだけどなぁ」
 言いながら青年は、窓の外に取り付けられているのであろうライトを灯す。やけに心細いその光は、海底のプランクトンに反応しているのか、一筋の帯となってその暗闇をそっと照らした。
 果たして青年はそのまま一体何時間を費やしたのだろうか。いい加減その状況に痺れを切らし始めた頃、その光源の遥か先にうごめく白い物体が見えた。
「まさか」
 青年は呟き、窓に張り付くようにして目を凝らす。僕はここにいるぞと呟き、暗闇の向こうに向けて手を振る。
 その白い“何か”は、暗い海底の中、揺らめくように、踊るようにして次第に船へと近付いて来る。そしてそれがやがて“人”であろうと確認が出来る程まで接近して初めて、青年は興奮したかのように頬を赤くし、ライトを点滅させた。
 それは――少女だった。この暗黒の世界の中、裾の広がるドレスに身を包み、優雅な動きで近付いて来る長い髪の少女。そして二人は、船の窓越しに再会を果たす。つい数週間前、同じ場所で逢ったその少女だと確信しながら、青年は上気した顔でボードとペンを取り、そこに何かを書き連ねる。
 窓の縁に手を触れながら、少女は明るい船の中を覗き込む。そうして青年の差し出すボードには一言、“逢いに来たよ”とだけ書かれてあった。
 少女は少しだけ驚いた表情となり、やがてそれは微笑みに変わる。
 手が、差し出される。少女の掌が窓へと張り付き、向こう側の青年のそれと重なる。
 光も届かぬ、暗い暗い海の底。世界はその動きを止めたかのように、二人を優しく包み込む。
 それは他の誰も知る事のない、とある一つの奇跡のラストシーンであった――





《 ローレライの憂鬱 了 》





【 作者コメント 】
実はこれも、相当長い間あたためていたネタだった。
出来ていたのは、縦長の丸い円筒のような水槽の中で、永遠に溺れ続けている少女のワンシーン。ここだけ。
どうしてもその水槽の少女を書きたかった。で、こんな作品となった。
出来はまぁ、置いといて。完成した事だけは非常に嬉しく思う。
票を入れてくれた皆様方には心から感謝。むしろ読んでくれただけでも感謝。
また来年もよろしくお願いします。


李九龍

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