Mistery Circle

2017-10

《 常世の長鳴き鳥 》 - 2012.06.01 Fri

《《 2016年度オススメMC グランプリ ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 星十四作品 》》

 著者:pink sand






 起こりえぬこと、起こってはならぬことなど何もない。

 想像や仮説好みの傾向がここほど有害でない場所は他にないだろう。
さらにあらゆる夢物語もだ。
 闇夜の魔神、良き精霊悪き精霊、神の怒りと人の欲が境なく横行する砂の平原。
そのただなかに、バッシャール王国はあった。

 あなたが砂漠の猛禽類だとする。大きな羽を風に乗せ、見渡す限り砂また砂の殺風景な大地を飛んでいくとしよう。
 時折眼下にラクダの隊列が見えるはずだ。砂漠に住む部族だ。宗教や地方によっていくつかにわかれ、時に争い対立しときに同盟を結び、大きなテントの下に一族郎党で住んでいる。
 その砂の下には生存競争に敗れた幾多の獣と人の骨が埋まっていよう。
 やがて、視界の果てに忽然とオアシスが現れる。
 近付けば、そのただなかに塔が立ち、その天辺には双頭の鷹が描かれた旗が風にはためいているのが見える。バッシャールの国旗だ。
 塔は金色に塗られた丸いドームの脇に立ち、そのドームを石造りの王宮がロの字型に取り囲み、四つの角にそれぞれ小さな見張り塔が立っているのがわかるはずだ。
 王宮は丈の高い椰子の木々に囲まれ、その周囲に砂漠色の石造りの建物が立ち並んでいる。
 さらに俯瞰すれば、都市の南側をキラキラと大河が流れているのが見えよう。
 バッシャールを潤す命の水、ハディサ川だ。

 灼熱の砂漠のただなかにありながら、バッシャールは豊かな大河沿いに栄えていた。
 四方を砂漠の蛮族に囲まれてはいたが、充実した兵力と猛き王によって平和のうちに統治されていた。
 王の名は、ハイサム。
 みずから黒馬に乗り弓を引き刀を振るう、勇猛果敢な王だ。
 日焼けした顔の周囲をぐるりと黒い髭が取り囲み、眼光は鋭く深く人を射た。

 王には双子の息子がいた。
 名を、ラキードとハビールという。
 いかつい父の風貌に似ず、二人とも涼やかに清い顔立ちをしていた。
 王はせめて濃い髭なりと息子たちに生えてくれないものかと思わないでもなかったが二人とも、申し訳程度の顎髭がちらほらと生えるばかりだった。
 息子たちはともに学に秀で楽器をよく鳴らし、兄ラキードは竪琴が、弟ハビールは絵がうまかった。
 さらに刀をとってもなかなかの腕前で、かけたところのほとんどない二人であったから、王にとっては自慢の息子たちなのだった。

 さて、二人が二十歳になったころ、王は花嫁探しに取り掛かった。
 とにもかくにも見目麗しく、貞淑でつつましく純潔な女でなくてはいけない。
 そこで王は一番信頼できる友人に相談した。かつてもっとも戦闘力のある砂漠の民と言われたディディ族を率いていた長、ゴラン族長だ。
 長い戦いの末にハイサム王と手を結び、砂漠に境界線を引いて和平交渉を結んだ後、二人の戦士は友人となったのだ。
「それでは私の娘たちはどうだろう」とゴランは言った。「ハイサム王よ、あなたの臣下のうちからどの女をもらっても、将来の出世と足の引っ張り合いで妬み嫉みからは逃れられない。親戚筋から取れば王位継承権をめぐって醜い争いが起きるだろう。街の華やかさを知る女は贅沢にも慣れているしわがままも言う。その点、砂漠の中で厳しく育てたうちの娘たちなら贅沢もわがままも知らぬ、私に似ず器量もよい。余計な口も利かず息子殿によく仕えるであろう。この婚姻は砂漠の民との友好にも役立つだろう」
「それはいい考えだ」
 王も頷き、息子たちの意見も聞かずさっさと縁談を決めてしまった。

「お前たちの嫁が決まったぞ」
 夕餉の席でそう切り出されて、ラキードは驚いた。
「決まったとおっしゃるのですか。自分の意志で選ばせてさえいただけないのですか」
「わしの見る目に間違いはない。おこぼれの地位狙いの貴族どもよりもよほどいい、砂漠の勇敢な民、ゴランの娘たちだ」
「するとディディ族ですね」弟のハビールは浮かぬ顔で答えた。「砂漠の陽射しで真っ黒に日焼けしていることでしょうね」
「女はベールをかぶってテントの中だ。男の許しなしに出歩いたりしない、それが砂漠の民だ。日焼けなどしておらぬ。ディディ族の女は決して男に逆らったりはしない。妻となるものは貞淑が一番だ」
 ラキードは黙りこくって下を向いた。王はナツメ酒の盃を口に運びながら言った。
「どうした、父の選択が気に食わぬか。お前たちに選ばせてもどうせ欲深な臣下の阿呆娘か遊び女が群れ寄ってくるだけだろう。任せておけ、父親のゴランは身の丈二メートル、猛き砂牛のようななりだが娘はきちんとしつけられ、しかもなかなか美しいと聞くぞ」
ラキードは俯いたまま呟くように言った。
「すべて父上にお任せします」
 ハビールも頷いた。
「父上のお目に間違いはありますまい」
 何を言ったとて父王に逆らえないのは二人ともわかっていた。

 だが、ラキードの憂いにはさらに深いものがあった。

 ラキードは今は亡き母、アイシアを深く慕っていた。
 母は辺境の小さな王国、スルヤの王女だった。亜麻色の髪とハシバミ色の目を持つ、美しい女性だった。だがハイサム王の統治するバッシャール国は二十五年前、豊かな資源を持つスルヤに配下に入れと迫り、断ったスルヤ王家を容赦なく攻め滅ぼしてしまったのだ。
 王族の男たちは殺され、アイシア姫はまるで奴隷のようにこの国に連れて来られた。
 オアシスの花のように美しい母、アイシアを、父は一目で気に入り、妻として娶った。そうして父は母を、粗暴なりに愛した。
 そうして二人の間には間もなく双子の息子が生まれた。だが、彼女の美しさに目を留めた男がもう一人いた。
 他ならぬ族長ゴランである。
 ゴランはある日ハイサム王の元を訪れた。もちろん王が旅行中と知ってのことである。そうして、対応した王妃に言い寄り、平手打ちで妃が答えると、力づくで王妃をわがものにしたのだ。
 帰宅して王妃の様子がおかしいのに気付いたハイサム王は、なにがあったのかと問い詰めた。
 王妃は泥棒が入っただけだと言い逃れたが、当時十歳のラキードは扉の影から一連の出来事を見ていた。
 ラキードは怒りに震えながら言った。
「お父様、おそろしい大男が入ってきてお母様にひどいことをしました」
「それは誰か」父王は恐ろしい勢いで息子に問いかけた。
「お父様の友人の、ゴラン様です」
 アイシアは息子の言うことは嘘だと慌てて被せたが、その様子が父王にすべてが息子の言う通りだと確信させた。
 砂漠の族長とハイサム王がトラブルを起こせば王国がどうなるか、女性に厳しい宗教のもとで夫以外の男性に汚された自分の身がどんなことになるか、アイシアはよくわかっていた。
「違います。ラキードが見たのは別の男です。二、三度ほどしかゴラン様と会ってはおりませぬもの、顔の見分けなど子どもにはつきません」王妃は懸命に抗弁した。
「では別の男とねんごろになったという事か」王は憤怒にまみれたままゴランを呼びつけ、問い詰めた。
 ゴランは悠々と言ってのけた。
「奥方を責めるのは酷というもの。石造りの暗い王宮に閉じ込められていれば、猛き男の腕も恋しくなるのかもしれませぬな。私によく似た男が妃を慕っていたと聞いたことがあります、王の隙を見ては時々訪れていたとか。なんなら私がそのならず者を捕まえてきましょうか」
 王は激昂した。
 その週のうちに、ゴランによく似た顔立ちの男―何かあった時の影武者であったのだが―が無理やり王妃との関係を白状させられ、首をはねられた。
 そして、泣いてとめるラキードの嘆願も聞かず、王は不貞を働いた妃に自害を言い渡したのだ。

 父王の目を盗んで訪ねてきた息子ラキードと鉄格子越しに面会した時、黒いベールの向こうで母、アイシアは言った。
「もしあなたが姫を娶る時が来たならば、姫の心と体を慈しみ、大事にしておあげなさい。
 その言葉を聞き、信じ、心の色に目を向けてあげてください。
 この国でも砂漠でも、女性は生き方を選べない。あなたがた男の心根次第なのです。あなたは姫にとって神にも悪魔にもなれるのです。
 どうか悪魔にだけはおなりにならないように、愛しいラキード」
 翌日、母親は毒をあおって失意のうちに死んだ。

 自分の言葉がすべての不幸を招いたと知った王子は、嘆き悲しみ、ただひたすら自分を責めた。
「母上を殺したのは自分だ。父上ではない、自分なのだ」
 その繰り返しのうちに、幼いラキードは耐えられないほどの父への憎しみを溶かし込んだ。

 それなのに。
 そのゴランの娘を娶れというのか。これは天の罰か。

 ラキードは一人部屋に引き上げると、ベッドにうつぶせに倒れ、奥歯を食いしばり、握った掌に爪を食い込ませた。
 どうして母上の仇などを妻として愛せるだろう。
 何故憎い父の言う通りに、悪魔のような男の血を受け継いだ娘などと結婚しなければならないのか。
 だが、とラキードは思った。
 これはチャンスだ。
 父とゴランに対するささやかな復讐のチャンスだ。
 自分はゴランの娘を妻としよう。やさしい振りもしよう。
 だが閨(ねや)はともにしない。理由も語らない。そして跡継ぎは決して作らない。
 この誓いは母の願いにそむくものであるかもしれないが、少なくとも父やゴランのように女の命をもてあそぶようなまねはせぬ。その身に触れず、愛を語らず、ただ王宮の中で孤独を与え続けるだけだ。
 跡継ぎはハビールが作ればいい。あの悲劇を目にしていなかったハビールが。
 自分は悪魔ではないはずだ。
 母上、そうですよね。
 胸の中に血の涙を流しながら、王子は亡き母に呼びかけた。


「娘たちの花婿が決まったぞ」
 豪壮な族長のテントの中で、妻のポッピナに酒を注がれながら、ゴランは上機嫌で言った。
 眼前には年若い娘二人が神妙な顔で座っている。十八歳のマティヤと、十七歳のアミーナだ。
「まあ、急なお話。どなたでしょう」驚きに言葉を失ったままの娘たちに代わり、ポッピナは問うた。
「バッシャール王国のハイサム王の息子、ラキード王子とハビール王子だ」
 日焼けした顔を笑みで崩しながらゴランは酒を飲み干した。
「これで誇り高きディディ族とバッシャールの王家はつながりを持つこととなった」
「素晴らしいお話でございます」ポッピナはさらに酒を継ぎ足した。
「楽器にも弓にも秀でる、見目麗しい王子たちだ。娘たちも幸せになることだろう」

 ゴランには含むところがあった。
 あの遠い日、ただひとり自分の顔を見た王子ラキードが、いずれ権力を手にした時自分に反旗を翻す危険だけは避けねばならない。手中の珠である美しいアミーナを使うのは今だ。
 並ぶものとてない美しさのアミーナを妻とすれば、そして後継ぎの子が生まれれば、もう私憤に走って暴挙に出ることなどできまい。

 夫が寝屋に入ると、ポッピナは娘たちふたりの前に座して言った。
「マティヤ、アミーナ、よくお聞きなさい。明日死んでも悔いはないように生きるのよ。
 ひとの命も定めも神のもの。常に身を清め、神に祈り、美しく着飾って気高く、心正しくありなさい。良き男性に愛されればそれなりの幸せが訪れましょう。神の祝福を受ければ、良き子も産めましょう」
「はい、お母様」娘たちは声をそろえた。
 母親は二人の娘を両手に抱きかかえ、それぞれの頬にキスをした。

「あなたはいいわ、アミーナ。きっとラキード王子に愛されることでしょうね」
 その夜、並んだベッドの中で、マティヤは囁くように言った。
「どうして、わたしだけが。明日のことなんてわからないわ」アミーナは答えた。
「砂漠のサソリだって知っていることよ。あなたは誰より美しいじゃないの。わたしと比べるまでもないわ。そのつややかな黒髪、砂漠に住んでいるのに真っ白な肌、輝く瞳。あなたに並ぶ女なんてどこにもいない。でもわたしは平凡のそのまた下よ。新しい美姫があらわれたら、簡単に王子も心変わりなさるかもしれないわ」
 そんな、と言い返そうとして、アミーナはすでに嫁いだ三人の姉たちのことを思い出した。
 みな輿入れの時、悲壮な顔をしていた。婚礼の喜びは部族同士のものであり、姉たちの幸せの外にあった。そののち元気な男の子をたくさん生んだ一番上の姉はそれなりに幸せにやっているが、女の子しか生まなかった下の二人の姉はあっという間に第二夫人第三夫人にその座を奪われ、無事でいるのか元気でやっているのか、もうその顔を見ることも噂を聞くこともなかった。
「殿方は誰も、わたしたちの心など求めないのかしら。誠実に心を込めてお仕えしても、愛は生まれないのかしら」アミーナは言った。
「とこしえの愛は神様に対するものだけよ、そうお父様も仰っているじゃないの。わたしたちも、神様にお祈りするしかないのよ」マティヤはそう言って頭から毛布をかぶった。
 テント越しに砂漠の月が青々と輝いていた。アミーナは青い光を見上げながら思った。
 神様というものがせめて、毎晩姿を現し、砂漠の夜道を照らすあの月ほどに確かなものであったらいいのに。
 嫁いだ姉さまたちもきっとお祈りしたのだろう。不遇に苦しんだ女たちも月を見上げて祈ったことであろう。その声はいくらかでも届いたのかしら。こんなことを思うと、罰が当たるのかしら……


 婚礼の宴は盛大に行われた。
 二人の王子が同時に結婚するという慶事に、バッシャール王国中のものが着飾って王宮前に押し寄せた。
 王宮のテラスに二組の夫婦が姿を見せると、群衆は沸き返った。
 とくに、アミーナの美しさは注目の的だった。
 ジャスミンの生花を細かく編んで作られた白いベールが黒髪の輝きを一層引き立たせ、草花の汁から作ったヘンナの液体で描き上げた手足の蔦模様の細かさは他に類を見ないもので、鮮やかな朱色のドレスと相まって彼女の浮世離れした美貌を輝かせていた。
 隣に立つ姉のマティヤは、黄色コスモスをあしらった明るいオレンジのドレスを着ていたが、アミーナの華やかさには比ぶべくもなかった。髪の色は砂漠の日に茶色く焼け、貧相な顔立ちを暗い表情が一層貧しく見せていた。
 ハビール王子もそわそわとアミーナを盗み見るばかりで、マティヤは居心地悪そうに終始俯いていた。
 二組の夫婦の前で、集まった人々は楽器を打ち鳴らし、祝いの歌を繰り返し歌った。

 我らが花婿は一番の王子
 国一番の王子が我らが花婿
 我らが花婿は神に選ばれし良き若者
 選ばれし良き若者が我らが花婿

 花嫁がヘンナを持ってやってきた
 彼女は月のよう、すべての美が彼女とともに
 ヘンナはこの花嫁にこそふさわしい
 いと美しき花嫁が揃って良き花婿のもとへ

 ジャスミンのベールの向こうの花嫁を見ながら、ラキードの心は千々に乱れていた。
あの獣じみた男の娘がこれほどとは。これほどまでに美しいとは、
……ああ、なんということだろう。なんと、呪わしいことだろう。

 宴も終わり、二組の夫婦はそれぞれの新生活のために増築された棟に入っていった。
ラキードはアミーナを背後に従えて、新婚夫婦のためにあつらえられた豪奢な寝室のドアを開けた。
 蔦模様の透かし彫りが細かく施された象牙のランプが部屋の四方に下がり、二人の影を四方の壁にゆらゆらと躍らせた。
 ベッドを覆う天蓋には何重もの華麗なレースが揺らめいており、王子が両手でそれを引き開けると、ベッドの上には、真紅の花々が一面に散らしてあった。
「まあ」
 可憐な十七歳の花嫁は、感嘆の声を上げたまま絶ち尽くした。
「お花のベッドですね。わたくしの居場所はありませんわ」
 ラキードは若妻の背後から言った。
「そのまま花の上に横になるのも一興でしょう」
「いいえ、下敷きになればお花が可哀想。水盆はないのですか」
 ラキードは手を叩き、召使に大きな銀の水盆を持ってこさせた。アミーナは真紅の花をひとつひとつ丁寧に水に浮かべ、窓辺に置いて言った。
「ここからは月も見えます。花々も清い光で永らえましょう」
 そして王子に向き直ると、その足元にそっと跪き、胸の前で手を合わせた。
「ラキード様。今日よりわたくしのすべてはあなた様のものです。
 心を込めて尽くしますので、お慈悲により、どうぞこのアミーナを末永く可愛がってくださいませ」
 たおやかで可憐な姿に、ラキードの胸は高鳴った。
 だが心にせりあがるどんな感情も自分で認めてはならない。この妃に対して一切心を揺らしてはいけないのだ。ラキードはアミーナの手を取って立たせ、その甲にキスをして言った。
「いろいろなことが一度にあって、お疲れでしょう。今夜は何も考えずそのままおやすみなさい。ぼくはあなたに触れません、その眠りのお邪魔はしません」
「なんとお優しいお心遣いでしょう。ありがとうございます」
 アミーナは花がほころぶように微笑んだ。
 そうして艶やかな髪を広げてそのままベッドに倒れこむと、くたくたな体を夢の世界に投げ込んだ。

 王子は途方に暮れたような表情で、美しい花嫁を眺めつづけた。


 婚礼の日からふた月がたった。
 アミーナは王宮の中すら自由に歩くことはできなかった。王子以外の男性が彼女の美貌を見たらよからぬ欲望にとらわれるからと、父王が新婚の棟から出ることを禁じたのだ。
ふた組の夫婦の新婚の棟は、緑あふれる中庭と池を挟んで向かい合っていた。境界には砂漠の蔓薔薇のからみつくフェンスがあり、たまに雨が降ると一気に赤い花を開花させた。
 ラキード王子は誓い通り、若妻と褥を共にすることは一度もなかった。
 おやすみ、の言葉を残して妻を置いて部屋を出ると、毎夜従妹たちとゲームをしたり酒を飲んだり、書斎にこもって一晩中本を読んで過ごした。王宮の若夫婦用の広い空間は幾部屋にも分かれており、二人が寝床をともにしていないことは父王にはうかがい知れぬことだった。
 それでも若い妻は、王子の気にいられるようにと、召使たちの手によって毎夜念入りに飾り立てられた。花々を浮かべた湯で湯あみをし、特別な灰に草花のエキスを練り込んだクリームを肌に塗られ、アルガンオイル入りの香料で髪を漉かれて、アミーナは暁の女神のように美しくなっていった。
 艶やかな若妻の美貌は王子の胸を一層苦しくさせた。それは一種の毒であった。
ときどき、王子は寝る前の余興にと得意の竪琴をアミーナに弾いてきかせることもあった。
 新妻は首をかしげながら黙ってその音を聞いていた。二人とも、なにかに耐えるように、無言であった。

「二人とも、妃との間に早く子どもを作れ。一日も早くわしに後継ぎを与えるのだ」父王は二人の王子の顔を見るたびにそう言うようになった。
「そう言われましても。まだ早すぎます、父上」ハビールは毎回、浮かぬ顔で答えた。
「お前はどうだ、ラキード。あのように美しい花嫁を迎えて、何の不満もあるまい。毎晩やさしく睦言をかわし、贈り物の一つもしているか」
「ええ、もちろん」視線を落としながら王子は力なく答えるのだった。

 ある日、ラキードは泊りがけで砂漠に鷹狩りに出た。
 獲物を求めて砂漠をかけているうち、お付きのものたちとはぐれ、棘だらけの砂漠の植物の茂みに迷い込んでしまった。
「隊列を見つけよ。見つけたらそこに案内してくれ」
 王子は自慢の白鷹を空に離したが、やがて鷹は爪に何か獲物をひっかけて戻ってきた。
「求めているのは獲物ではないというのに」
 王子はため息をついたが、その足に引っ掛けている獲物を見て驚いた。
 極彩色の、見慣れない鸚鵡だった。
「おや、これは……」
 王子が鷹から獲物を取り上げると、その体には大した傷もなく、鸚鵡は弱弱しい声で歌い始めた。

 まことの幸せはどこにある。まことの幸せは砂の上に、川の中に、砂漠の楼閣のあの方の心の中に。

 それはまるで女の歌声だった。

「お前。まさか、……砂漠の長鳴き鳥か」

 王子はその鳥をひと撫ですると、持っていた皮袋にそっと入れた。

 砂漠の狩から帰った翌日、ラキード王子は天気がよいからと召使たちにテラスに朝食を運ばせた。
 三階のテラスからは、王宮を取り囲むヤシの並木とバッシャールの街なみが見えた。ラキード王子は豆のスープを口に運びながら、久々に妻に話しかけた。
「毎晩よく眠れていますか」
「はい、夢も見ずにぐっすりと」
「それはよかった。今日はあなたに贈りものがあります」
「なんでしょうか、嬉しいわ」アミーナはぱっと顔を輝かせた。
「狩の獲物です。気に入っていただけるかどうかはわからないが」そう言って手元の鈴をりんりんと鳴らすと、召使が布をかけた鳥かごを持って現れた。
 ラキードが布をとると、籠の中から輝くような極彩色の鸚鵡が現れた。
「まあ、綺麗」アミーナは感嘆の声を上げた。頭頂部に噴水のような青い冠をいただき、胴は真紅、羽に虹色が織り込まれたようなそれは美しい鸚鵡だった。
「こんなに美しい鳥は見たことがありませんわ」
「ぼくも話に聞くばかりで実際に目にしたことはなかった。エローラという鸚鵡です。人の言葉をすぐ覚え、歌うように真似て語るので、砂漠の長鳴き鳥といわれています。鷹狩でとらえたのですが、大した傷も負わず十分元気です」そして王子は少し得意げに付け足した。
「市では金貨百枚の値がつきます」
「家が立ちますわね」
「言葉も覚えます。あなたの話し相手になればと」
「ほんとうにほんとうにわたくしにくださるのですね?」
「そう申し上げました」
「では」
 アミーナは鳥かごの入り口を開けた。
 クワッ、というような歓喜の叫び声を上げると、エローラはばたばたと羽ばたき、鳥かごから一直線に飛び出した。
「あ!」王子は叫び声を上げた。その視線の先を、大空に向かって伝説の鸚鵡は飛び去って行った。
「あなたにとらえられたあの子は幸運です。市に売りに出されれば、一生どこかの籠の中でしょう」アミーナは透き通ったとび色の瞳で鳥の行く先を見ながら言った。
「このわたくしに、あの子を自由にする権利をお与えくださり、ありがとうございます」
王子は妻の輝くような美貌をまっすぐに見ながらしばらく黙っていたが、やがて低い声でつぶやいた。
「やはりぼくを恨んでいるのですね」
「とんでもない。どうしてそんなことがあるでしょう」アミーナはしんから驚いたように答えた。
「ぼくはあなたをこの石の城に閉じ込め、自由を奪っている。そして何も与えていない」
「いいえ。あなたはわたくしが知る限り、最高の夫です。ほんとうにお優しいかたですわ」
「ぼくのどこが優しいというのです」王子は驚いて問い返した。
 アミーナは涼やかな声で語り始めた。
「あなた様はわたくしに一切の暴力を振るわず、丁寧な言葉を使ってくださいます。わたくしを一人の人間として扱ってくださいます。
 朝はやさしくおはようと声をかけてくださり、食前の祈りをわたくしとともに唱え、夜の眠りも邪魔せず見守ってくださいます。父王に対する尊敬と恭順のご様子は素晴らしいものです。夜は竪琴を奏でるその指の優雅さに見とれました。
 すべてが品よく美しく、この世にこんな男性がいたとはと、わたくしは夢でも見るようにあなた様のすべてに見とれておりました」
「本気で言っているのですか」
「ええ」
 アミーナの表情に曇りはなかった。王子はしばし言葉を失った。
「……あなたの母上は、どうしてそのようにつつましくあなたを育てることができたのだろうか」独り言のように、王子は言った。
「母は敵対する部族同士の和解のために父のもとへ寄越されてきたと聞きました。そういう婚姻では、嫁ぎ先で夫に飽きられれば終わりです。親戚に下げ渡されても砂漠に捨てられても文句は言えません」
「なんと。自分もそのような目に遭うと思っていたと?」
「はい、その覚悟で嫁いでまいりました。こんなに大事にしていただいて、ほんとうにわたくしは幸せ者です」
 王子は黙って妻の、澄んだ瞳を見つめた。一瞬、悲運な母の面影が幻のように重なった。
 危うく自分の手が伸びてその細い両肩を抱きしめそうになった瞬間、王子は音を立てて席を立ち、妻に背を向けた。
「きょうから軍隊を率いての軍事訓練があります。帰りも遅くなります」
「はい、どうぞお励みくださいませ」アミーナは席を立つと、夫の背に向かって深く頭を下げた。


 中庭を散歩していたハビールは、背の高いアルガンツリーのてっぺんに鮮やかな鸚鵡を見つけて立ち止まった。
「あれは、ラキードがとらえたエローラじゃないか? アミーナ妃へのプレゼントにすると言っていたのに、なぜこんなところに」
 そろりそろりと近寄ると、木のてっぺんでエローラは節をつけて高く声を上げた。

 ほんとうにおやさしいかたですわ……おやさしいかたですわ……

 すると木の下から鈴を転がすような笑い声が聞こえた。
「やめてちょうだい、恥ずかしいわ。お願いだから、歌わないで」
レンガ造りのベンチに片足をかけて、妻の妹、アミーナが極彩色の鸚鵡に語り掛けている。
 青空色の衣を身にまとい、白いレース編みのベールで髪を覆ったアミーナの姿こそは、蒼穹から舞い降りた幻の鳥のようだった。
「ぼくがとらえて差し上げましょうか」
 突然話しかけられたアミーナはハビールの顔を見ると、さっと白いベールで鼻から下を覆い、頭を下げた。
「お姿に気付かず、ご無礼をいたしました。ご在宅と思わずこのような」
「なるほど、すぐにぼくと兄が見分けられるのですね。大したものです」
 ハビールは、臣下が間違うほどに双子の兄とよく似ていたのだ。
「妻のところに遊びにいらしたのですか」
「はい、見慣れない鳥がいるから見にいらっしゃいと言われて。今朝がた逃がした鳥が、この庭に逃げ込んでいるなど思いもしませんでした」
「なぜ逃がしたのですか。兄からあなたへの贈り物だったはずだが」
「鳥は空に住むものだからですわ」
 歌でも歌うようにアミーナは軽やかに答えた。そこに、マティヤがお茶菓子を持った召使とともに現れた。マティヤは夫の姿に目を留めると言った。
「あら、お早いお帰りでしたのね」
「陽射しがきついので軍の訓練を早めに切り上げた」ハビールは投げやりに答えた。
「そんなに暑いかしら。軍全体がお休みに入ったのですか」
「ぼく個人がだ。昨日から体調が悪い」
「毎晩お酒を召し上がりすぎるからでしょう」
「お前が口を出すことではない」
「確かに今日の陽射しはたいそうきついですもの、お大事になさいませ」
 アミーナがするりと言葉を挟むとハビールは間が悪そうに笑い、「どうぞごゆっくり」と声をかけて邸内に引っ込んだ。

「プレゼントの鸚鵡を逃がしてしまって、ご主人は何も言わないの」召使が注いだバオバブのジュースを口にしながら、マティヤは妹に聞いた。「わたしなら宝物にするわ」
「怒られても当然だと思っていたの。でも何も言われなかったわ」
「お優しいのね。愛されているのね」
「お優しいかたなのは確かだわ」
「エローラもそう歌っていたしね」
「まあ、やめて」アミーナは赤くなって頬を押さえたが、ふと表情を曇らせた。
「でもわたしのほうが何一つ、妻らしいことができていないのが悩みなの」
「愛されているのでしょう。早く子どもを作ればいいのよ、それが一番の務めだわ」マティヤは視線を落とすと、ドレスの上から自分の腹にそっと触れた。
「実はね、誰にも言っていないけれど、わたし、もしかしたら赤ちゃんができたかもしれないのよ」
「まあ、お姉さま」
 思わず手を取ったアミーナを制して、マティヤは言った。
「まだ確かじゃないのよ、でも近いうちお医者様に診断していただこうと思っているの」
「どうしてわかるの」
「月のものがなくなって、味覚が変わって吐き気がして、バオバブやハイビスカスのジュースがほしくなるのよ」
「本当だったらおめでたいお話だわ、ハビール様もお喜びでしょうね」
「さあ、どうかしら」マティヤは複雑な表情を見せた。「王子が生まれれば喜ぶでしょうけれど」
「愛のあかしですもの、女の子でもきっと喜んでくださるわ」
「あなたはどう、アミーナ」マティヤは真顔になって妹を見た。
「毎晩愛されているのでしょう?」
 アミーナは頬を染めて答えた。
「ええ、おやすみの挨拶は欠かさずしてくださるし、寝室はいつも花でいっぱいだわ。そしてわたしの眠りの邪魔をしないように、いつも一人にしてくださるの。たまに子守唄代わりに竪琴を聞かせてくださるのよ」
 マティヤは首をかしげて妹を見た。
「あなた、いつも一人で眠っているの?」
「ええ。ここに来てからずっと、一人でなかった夜はないわ。おかげでよく眠れるのよ。あのかたの思いやりにお応えして、早く赤ちゃんを産んで差し上げたいわ」
「アミーナ。あなた、赤ちゃんがどこから来るか知っている?」まさかと思いながら、マティヤは問うた。アミーナはにこやかに答えた。
「それはもちろん神様のおぼしめしよ。神様のもとでとこしえの愛を誓い、誠実さとつつましさを持って夫にお仕えしていれば、自然と天から授かるものとお母様は昔、言っていたわよね」そして無邪気に付け足した。
「でもね。お食事も身の回りのお世話も召使がしてしまうし、あのかたがわたしに求めるものはこれと言ってないし、いったいどうやって夫のお役に立てばいいのか、それが分からないのよ。お姉さま、妻の一番大事なお務めって、具体的に言って何なのかしら」
「まあ、アミーナ……」マティヤは言葉を失った。
 そして邸内のドアの向こうで、マティヤの夫ハビールもまた、自分の口を押さえていた。

 ほどなくしてマティヤの妊娠が確定した。王はたいそう喜んだ。
「悪い魔物(ジン)に憑かれぬよう強力な術師(ムタウワ)をやとわねばならぬ。よき精霊を招くのだ。子は何としても男児でなければならぬ。とにかく栄養のあるものをたくさん食べさせよう。良質な干し棗と砂牛の干し肉、それとそうだな、ダチョウの卵を取り寄せよ」
 祝福の宴は砂漠の魔物(ジン)の耳に入らぬよう、内輪で行われた。
 美しい服や珍しい果物や肉、乳香や没薬がマティヤに贈られ、神官が祝福の祈りをささげた。
 宮廷の主治医、サダムは腹の中の赤子を出産まで確実に健やかに守る重責をハイサム王に背負わされ、いささか顔色がさえなかった。アミーナが隣に来て、語り掛けた。
「わたくしにも姉と同じ恵みが訪れるといいのですけど、こればかりは天の采配ですわね」
サダムは笑みをこぼしながら言った。
「妃殿下は美しく健康であらせられる。必ずや同じ幸せに恵まれることでしょう」
「そうだったら嬉しいのですけれど」
 婚姻の時に歌われた夫婦の祝い唄を、楽師たちが奏で、女たちが歌った。マティヤは微笑み、アミーナも手拍子を打って声を合わせた。今まで見たことがないほど、マティヤの顔は誇らしさに輝いていた。

 ヤシ酒の酔いをさましにラキードがテラスに出ると、ハビールがひとりぽつんと月を眺めていた。
「今夜のマティヤは美しいな」背後からラキードは弟に声をかけた。「母となる誇りは女性を美しく輝かせるとみえる」
「気のせいだ」にべもなくハビールは答えた。「兄さんの妻とは比べ物にならないよ」
「そんなことを言うものじゃない」ラキードは顔をしかめた。弟は構わず続けた。
「いやなお役目はさっさと済ませるに限る。男児であればいいと思うよ」
 ラキードはテラスの手すりに寄りかかって酒をあおる弟の隣に身を寄せた。そして、銀の杯をその手から取り上げた。
「悪酔いしているな、ハビール。水でも飲んで頭を冷やせ」
 ハビールは酔眼を兄の上にひたと止めた。
「兄さんは……」
「ん?」
「兄さんは幸せかい」
「どういう意味だ、それは」
「奥方を愛しているかい。ほんとうの意味で」
 少し躊躇すると、兄は答えた。
「神の定めた存在だ、妻への愛もまた神への忠誠と同じだ」
 弟はじっと兄の黒い瞳を見た。
「兄さんは大したものだ。ぼくならそんな愛し方はできない」
 呟くようにそう言うと、兄から銀の杯を奪い返し、ハビールは酒をあおりながら邸内に戻っていった。

 ハビールは翌日から妻と食卓をともにするのをやめた。
 臭いのあるものを、つわりのひどい妻の目の前で食べられないから、というのが理由だった。お茶と果物と薄いパンしか食べず、痩せて口数も少なくなり、公務以外では部屋に籠るようになった。一人で本を読み、砂漠の絵ばかり描きはじめた。
「妊娠中の妻のつわりが夫にうつる例もございます。ハビール様はお優しいがゆえにともにお苦しみになっていらっしゃるのでしょう」宮廷医サダムは、心配する王の話を聞いてそう診断した。
「軟弱なやつだ」王は苦笑いした。

 ハビールの不在中、夫専用の書斎でマティヤが読みかけの本をめくっていた時、ページの間からそれははらりと落ちてきた。
 上等な漉き紙に羽根ペンで描かれた、女神の絵。
 豊かな黒髪の、薄い衣の、白い腕に鸚鵡をとまらせた、…… 
 どうみてもそれは、アミーナの肖像画だった。
 その横には乱れた文字が書き綴られていた。

 月の女神よ、砂漠の美酒よ
 あなたに孤独は似合わない
 無垢なるアミーナ、純潔の姫
 愛という光であなたの全身が輝くのなら、それを与える者に何の咎があろうか

 マティヤは唇をかみしめると、漉き紙を持つ手をぶるぶると震わせた。


 ラキードとハビールはある日、揃って父王に呼び出された。
 ハイサムは窓辺に立ち、重々しい口調で二人の息子に告げた。
「由々しき事態が起きている。北方の蛮族がラナのオアシス地帯に基地を置いて都を狙っているようだ。早速兵を率いて討伐に向かわねばならない」
「北方の蛮族……」呟いたハビールに、王は声を一層低くして言った。
「我が国は周辺の様々な小国を統合して大きく成長してきた。だが反乱分子が辺境の地で勢力を結集しつつあるという事だ」
「スルヤも、……でしょうか」ラキードは隣で声を上げた。その名は一種の禁忌だった。
「そうだ」
 王は一言で答えた。王子は二人とも声を失った。
「お前たちの言いたいことはわかっている。これから討伐する部族には、お前たちの血縁の者たちもいるかもしれぬ。だがお前たちはすでにこの国の王座を継ぐ身だ。国民たちに教えてやるのだ。どこの地のものであれ、バッシャールの王子はこの国を奪おうとする者に対しては容赦しないと」
「……」
「わしの血を引く男は勇猛果敢でなくてはならぬ。ディディの族長、ゴラン殿も兵士とともに同行してくださるとのお話だ。王家を継ぐ者が真っ先に身を危険にさらしてこそ国民の信頼を得ることもできる。迷いはないな?」
「はい」
 王子たちに、それ以外の返事が許されるはずもなかった。

「お前はどう思う」廊下を歩きながらラキードは弟に問うた。
「本当に迷いはないか。心の底から、この戦いについて」
「そんなものを含んでいては戦えないだろう」兄の目を見ずに、ハビールは答えた。
「この都を侵すというなら、それがどんな相手であれ戦うしかない」
「血のつながったものと刃を交えることになるかもしれないのだぞ」ラキードは問いを重ねた。
「敵ならば仕方がない。亡き母上も、今はこの王国の安定のみを願っておられるはずだ。父上のお話ではゴラン殿も力を貸してくださるということじゃないか。負けるわけがない」
「ゴラン……」
 その名を思うだけでラキードの胸の奥に紅蓮の炎が燃え上がった。弟には、母はならず者に身を汚されて心を病み、自害したとしか伝わってはいないのだ。
「お前は何も知らないからな」吐き捨てるようにラキードは言った。
 ハビールは立ち止まり、兄の顔を見た。
「ぼくが何を知らないというんだ」
「お前の知らないことをさ」
 バカにしたような返答に、ハビールは決心したように口を開いた。
「そうだな。ぼくには知らないことがたくさんあるのだろうし、兄さんのこともよくわからない。あの美しい人を、どうしてそんな風に放っておけるのかも」
「なんだと?」
「だが、戦う時は力を合わせるしかない。愛するものを守るために。わかっているよね、兄さん」
 ラキードはこちらをまっすぐに見る弟の視線を、同じぐらいの力を込めて見つめ返し、唸るように言った。
「……わかっている」

 兵をまとめての出立はその二週間後と決められた。


「ほら、どうかしら」レンガのオーブンから出した蜂蜜と棗のケーキをマティヤが皿に載せると、アミーナはのぞき込んで香りをかいだ。
「すばらしい出来だわ、マティヤ。なんていい匂い」
「二人でケーキを焼くなんて久しぶりね。まず味見して、おいしかったらもう一つ一緒に焼きましょうね。ラキード様へのお土産にするといいわ」
 アミーナはふと顔を曇らせた。
「あと十日で、北の蛮族の討伐に出立なのね」
「ええ」
「お姉さまは不安じゃない? みな無事に帰ることができるかしら」
 ケーキを皿に乗せながら、マティヤは言った。
「もちろん、心配よ。でも一番厳しい思いをしているのは兵士たちと、戦いに行くわたしたちの夫だわ。一番大事なことは、そんなことを顔に出さず、笑顔で送って差し上げることよ」
「その通りだわ」アミーナは自分の未熟さを恥じた。「お腹に赤ちゃんがいるのに、お姉さまは冷静ね」
「そうするしかないじゃない。わたしたちには祈り、待つしかできることはないのよ」
 召使に熱い茶とケーキの乗った盆を運ばせて、二人はテラスに出た。
「さあ、いただきましょう」
 ケーキを口に入れてしばらくすると、アミーナは眉をしかめ、口元を押さえた。
「ああ、だめだわ。お水をちょうだい」
 マティヤが不思議そうに言った。
「口に合わなかった?」
「おいしいのよ。わたしの好きな味のはずなのに、なんだか吐き気がして。なにか、お茶じゃなくて酸っぱいジュースがあれば……」
「酸っぱいジュース?」
「なんだか味覚が変わったみたいだわ」お茶をすすりながら、アミーナは言った。
「お医者様にみていただいたほうがいいかもしれないわね」
「わたしは病気かしら?」
「もしかしたらとても喜ばしい病気かもしれなくてよ」
 意味ありげなマティヤの笑顔を見ながら、アミーナははっと以前の言葉を思い出した。
 味覚が変わって吐き気がして、バオバブやハイビスカスのジュースがほしくなるのよ……
「まあ」アミーナは口元を覆った。そしてマティヤの目を見ながら、おろおろと言った。
「どうしましょう。どうしましょう、こんな、もしもそうなら…… いえ、まず、どうしたらいいかしら」
 驚きと喜びに顔を紅潮させる妹の肩をやさしく抱いて、マティヤは言った。
「落ち着いて、まだ何もわからないわ。とにかくお医者に診てもらいましょう。サダム医師は口の堅いかたよ。まずは事実をはっきりさせて、もしうれしいお話だったら、出立前に旦那様だけにそっと打ち明けるのよ。どれだけ戦いの励みになるかしれないわ」
「ええ。ええ、そうね。ありがとう、マティヤ」
 アミーナは胸の奮えを抑え切れなかった。
 ああ、もし本当にそうなら、どんなに嬉ばしいことだろう。
 子どもを授かることで、わたしは、夫の愛が真実だと神に証明していただけるのだわ……


 夜遅く、帰宅したラキードが邸内の廊下を部屋に向かっていると、召使頭が背後から呼び止めた。
「ラキード様、こんなお時間に申しいわけがないのですが、見ていただきたいものがございます」
「何だ?」
「どうぞ、少しだけこちらへ」
 召使頭は洗濯部屋に王子をいざなうと、そっと扉を閉めた。そうして、収納棚から真っ赤なバラの花束を取り出した。
「何だ、それは」
「今朝アミーナ様のお部屋をお掃除しに入りましたら、窓の内側にこれが落ちていました。おそらく外から投げ込まれたものと」
 王子は花束を受け取ってしげしげと眺めた。花束は白い薄い紙を細く折ったもので帯のようにくくられていた。
「アミーナはこれを見たのか」
「いえ、わたくしがこの花束を見たのは奥方様が湯あみなさっているときで、すぐに預からせていただきました。この花については何もご存知ありません」
「……」
「おそれながら、その紙のリボンをといてご覧くださいませ」
 王子は不審に思いながら、花をくくっている白い薄い紙のリボンを外し、細く折りたたまれたそれを広げて見た。そしてはっと口を開いた。
 そこにはほぼ裸身の女神と見える美女が腕に鸚鵡をとまらせている絵が描かれてあった。誰が見ても、その顔はアミーナに間違いなかった。絵の下には特徴のある筆致で詩のような言葉が綴られていた。

 月の女神よ、砂漠の美酒よ
 あなたに孤独は似合わない
 無垢なるアミーナ、純潔の姫
 愛という光であなたの全身が輝くのなら、それを与える者に何の咎があろうか

 ラキードはぐしゃりと紙を手元で握りつぶした。弟の絵の特徴とその腕前を一番よく知る兄であった。氷のように表情を閉じたまま、ラキードは低い声で言った。
「これを投げ込んだものの姿は見ていないのだな」
「はい」
「誰かにこのことを話したか」
「いいえ、誰にも」
「よし。では、いいか、誰にも話すな。これを投げ込んだのは、警備のものに金貨を渡してこの庭にまで入ってくることができて、しかも高価なバラを隊商から購入することができる者だ。おそらく父王の臣下か高官に属するものが下らぬ横恋慕をしているのだろう。妻に心を奪われているものが少なくないことは知っている。警備を厚くしよう。だが父王に余計な心配をかけたくない。決して誰にもこの件は口外せぬように。命に代えてもだ。わかったな」
「はい、誓って誰にも申しません」
 白髪交じりの召使頭は肉厚の体を曲げて王子の前で膝をついた。

 ラキードの魂の中心をいま一つの名前がどす黒い色で染めていた。
 だがまだその言葉を、その名を口にしたり憎しみの対象にすることは許されない。大事なのは戦いだ、バッシャールの王国を継ぐ者として力を合わせて戦わねばならない。……力を合わせて。
 けれど一つの疑惑が黒雲のように頭をもたげてくるのはどうしようもなかった。
アミーナは果たして弟の思いを知っているのか。勘付いているのなら、どのようにそれを受け止め、対処しているのか……
 いつも、おやすみだけを言いに入る寝室のドアの前でラキードがしばし戸惑っていると、中から軽やかな歌声が聞こえて来た。

 まことの幸せはどこにある。まことの幸せは砂の上に、川の中に、砂漠の楼閣のあの方の心の中に……

 ラキードははっと顔を上げ、ドアを押しあけた。
 ろうそくの炎が揺らめく部屋の中では、窓辺の椅子に腰かけたアミーナが、出窓の柵にとまる極彩色の鳥の歌に聞き惚れていた。
「エローラか」
 王子の声を聞いて、アミーナは振り返った。
「ええ、ここがよほど好きなようです。素敵な歌ですわね」
「辺境の小王国の姫であったぼくの母が、よく口ずさんでいました」
「まあ。この歌をですか」
 ラキードは静かに鳥に歩み寄った。エローラは首をめぐらせて王子を見上げた。
「砂漠で最初に拾った時もこの歌を歌っていたのです。あなたに聞かせたくて、連れ帰りました」
 アミーナは一瞬言葉を失ったが、やがて声を小さくして言った。
「そうだったのですか。あの時は申し訳ございませんでした。あまりに羽が美しくて、それならここよりも空が似合うだろうと」
「いいのです。あなたらしい」ラキードは微笑みを浮かべて答えた。
「目に見えぬ幸せを信じ、祈る女たちの切ない歌ですわね」アミーナはそこまで言うと、頬を染めて付け足した。
「でもわたくしには、現実になった幸せです」
 ラキードは複雑な顔で妻を見ると、側らにそっと座った。
「あなたに少し話がある」
「わたくしもですわ」
「よい話なら、あなたの話から先に聞こう。ぼくの話はあまり喜ばしいものではなさそうだ」
「では……」
アミーナは頬を染めて、夫を見上げた。

「お喜びくださいませ。神の祝福を得て、赤ちゃんを授かりました」

 ラキードは絶句して妻の顔を見た。
 混乱する頭の中で、いくつもの問いが交差した。そのどれひとつとして、言葉にはならなかった。
 アミーナの表情は無垢な喜びに輝いていた。
「あなた様が、わたくしを大事に愛してくださった証です。神様の下された、愛の結晶ですわ」
「医者に……」かすれた声で、ラキードは言った。
「医者に診てもらって、そう言われたのですか」
「ええ、もちろん。間違いないそうです。でも、あなた様に言うまで、そしてお許しが出るまで、公にはしないでとお願いしておきました」
「……」
「お喜びくださらないのですか?」
こちらを見つめる妻の目には一点の曇りもなかった。ラキードは眩暈を覚えながら、懸命に考えを巡らせた。
 この自分が、アミーナを大事に愛した証拠……
 確かにそう言った。
 アミーナは心から腹の中の赤ん坊が自分の子だと信じて疑っていない。
 だが自分と彼女との間に子などなせるはずがない。まともに考えれば彼女にもわかる話だ。だが、この様子からして、既成事実はすでに彼女にとって成立しているのだ。
 既成事実……
 誰を相手に? 
 もしも……
 もしも夜陰に乗じて、自分になりすまし、この部屋に忍び込んで妻に愛を囁き、その腕に抱いたものがいたとしたら。自分が妻を避け、しょっちゅう砂漠に狩りに行っていたのは確かだ。ではその間男は、妻にも見分けがつかぬほど、自分と似た男でなければならないではないか。だとすれば、それはただ一人……

「ラキード様?」
 不審そうにこちらを見上げるアミーナに問いかけられ、ラキードははっと妻の目を見下ろした。
 ここは、今だけは、自分から事を荒立ててはいけない。泡立つ胸に鉛の碇を沈めながら、ラキードは慎重に言った。
「思ってもいなかった話に、一瞬我を忘れました。神に祝福されたぼくたちの子どもです、本当ならこれ以上うれしいことはない。だが、それは一人の医者に診てもらった結果ですね?」
「ええ」
「ならまだ、間違いということもある」
「そんな……」
 思いもかけない夫からの言葉に、その暗い表情に、アミーナは言葉を失った。
「まだまだ確かなことは分からない時期です。そしてアミーナ、ぼくはしばらくはここを留守にするしかない。よく聞いてください。後継ぎができたとするなら、それはこの上なくめでたい話ではあるが、王位継承権をめぐって、きな臭い話にならないとも限らない。現に滅ぼされた異教徒の国、スルヤ王国の血を引くぼくや弟よりも、同じバッシャールの王族の血筋の従兄弟を擁立しようという動きもあるらしい。弟に子ができたことも国の民にはまだ伏せている段階です。今は公表はなりません」
「ええ」神妙な面持ちでアミーナは頷いた。「それはよくわかりますわ」
「ですから、今は誰にも語らず、邸内で静かに過ごしてください。少なくとも、討伐を終えてぼくが帰るまでです。誰にも何も語ってはなりません。帰ったら、ぼくの信頼するお医者に診てもらいましょう」
「わかりましたわ」アミーナは深く頷いた。「でも、戦いに赴く前に、せめて胎内のこの子に、父親からの祝福をお願いできませんか」
 ラキードは一瞬躊躇したのち、震える手でアミーナの腹に手を当てた。
「ここに確かに宿るならば、わたしたちの愛の結晶に、とこしえに神のご加護のあらんことを」
 アミーナは白い細い指をその上に添えた。
「生まれてきたこの子の双眸にうつる景色が、愛と平和に満ちた王国でありますように」

 今この時に至って、ラキードは美しく素直な妻へのいとおしさと、同時に沸き起こるどす黒い憎しみを認めないわけにはいかなかった。
 だが。憎しみを向けるべきは、目の前の妻であってはならない。自分は決して、父と同じ穴に落ちてはいけないのだ。
 憎むべきは……

「それで、旦那様からのお話は何なのですか?」
 アミーナの言葉に、ラキードははっと我に帰った。
「それはもういいのです。あなたの話に比べれば、ささいなことだ」
 そう言ってラキードはアミーナの柔らかい髪を手の中で揉みしだいた。

 ―奥方を愛しているかい、本当の意味で。
 ―兄さんは大したものだ。ぼくならそんな愛し方はできない。
 ―愛という光であなたの全身が輝くのなら、それを与える者に何の咎があろうか。

 目にし耳にした弟の言葉は今や千の矢となってラキードの胸を射た。地獄の業火のような怒りは、もはやラキードの全身を焼き焦がさんばかりだった。
 そうだ、愛する者に触れずに来た自分が悪い。そうだとも、これ以上の馬鹿はいない。だが。
 見よ。自分のアミーナへの愛は少しも揺るがぬ。
 ぼくは父、ハイサムとは違う。ハビール、お前とも違う。たとえこの身は重ねずとも、この女を心から愛する者は自分一人なのだ。アミーナが愛しているのはこのラキードだ。勝者は自分一人だ。アミーナを憎めば自分の負けだ。
 しかし、それはそれ。
 許さぬ。
 この自分と同じ顔をし、同じ女に心奪われ、何食わぬ顔をしてこのラキードになり替わろうというのか。
 あえてこの身から遠ざけていた手中の珠に、よくものうのうと。よくも、よくも……

 ……ハビール。
 もしも自分の想像通りだとするなら、もはや、きさまの存在そのものを許しはせぬ。


 討伐の日を間近に控え、王宮の訓練場では、連日厳しい剣技訓練が行われた。閲覧席の王の隣には、ゴラン族長の姿もあった。
 王子二人は手練れの剣の使い手であり、ほぼ腕は互角ではあったが、ハイサム王の目から見て、二人の剣には乱れが目立った。
 上級剣闘士相手の打ち合いをみても、ハビールには持続力が足らず剣さばきに切れがなく、反対にラキードは力任せに剣を振り回すばかりで、荒さのみが目についた。
 王は髭をひねりながら二人の訓練を見て居たが、やがて手を上げると二人に声をかけた。
「どうもいかん。ラキード、ハビール。お前たち二人で戦ってみろ。互いの欠点が分かるはずだ。短剣と長剣、双剣での戦いを命ずる」

 二人はそれぞれ二本の剣を与えられると、黙したまま向かい合った。
 閲覧席から自分に向けられたゴランの視線が火矢のように不快に感じられ、ラキードは務めてそちらに視線を向けないように顔をそらした。
 目の先にあるのは、何の曇りもない視線をこちらに向ける弟の顔だ。
 つま先から脳天にかけて、焦げ付くような感情が駆け上がった。
「はじめ!」
 王の声が天高く響いた。
 二人は両手に持った剣の切っ先をたがいに向けると、数秒静かに見合った。短い叫びをあげ、先に撃ちかかったのはハビールだった。ラキードはハビールの右手の長剣を力ずくで横に薙ぎ払った。それでも左手の剣で音高くラキードの刃をはね返すハビールに対し、ラキードはいきなり足払いを食らわせてその体を転がした。そして、倒れた弟の頭上に両手の剣を振りかざした。
「そこまで!」
 ゴランが声を上げると、ラキードは振り向きもせずハビールにのしかかったまま叫んだ。
「あなたに指図されるいわれはない。戦の場ならば待ったはないはずだ!」
「あなたのために言ったのだ。自分の首筋を見てみなさい」
 ラキードははっと振り返った。下敷きになった弟は、左手の短剣を王子のうなじに突き付けていた。いや、その切っ先は首に触れており、薄く血が流れていた。
「すまない、兄さん。とっさのことで、手加減が」ハビールは荒い息で言った。
  父王はラキードの代わりに答えて言った。
「いや、いい。前に前に出ることばかり考えて技をないがしろにしたこやつが悪い。ゴラン殿が声をかけなければハビールは体を回転させてお前の延髄を切断していたぞ、ラキード」
「いや、私が止めなければラキード王子は弟君を刺す覚悟だった。この目にはそう見えましたが」ゴランは重々しく言った。
 ラキードは茫然と首筋に手をやると、薄くついた自分の血に顔を歪め、唇を噛んだ。
 王はしばらく二人の王子を見つめていたが、
「訓練はここまでだ。お前はわしの部屋に来い、ラキード」重々しい声で兄一人にそう言いわたした。

 日の落ちた父の書斎で、薄暗いランプを前に、ラキードは無言でうなだれていた。
 ハイサム王は大理石の卓を挟んで向かい合わせに座り、王子と自分の前に置かれた銀の杯になみなみと酒を注いだ。
「わしの持っている中で一番きつい酒だ。まあ、飲め」
「今はそんな気になれません」王子は唸るように答えた。
「お前はいつもそうだ、そうやって自分に蓋をして酒を楽しむということをしない。だがたまには己の魂に休暇を与えぬか。何も考えずに飲め、わしが許す。いや、これは命令だ」
王子は仕方なく言われるままに二杯三杯と杯を重ねた。やがてその頬が朱に染まり、上体がゆらゆらと揺れ始めたころ、王は静かに語りかけた。
「ハビールと何かあったか」
「……何もありません」
「力の勝る敵に負けるのは戦いの定め、だが将の心が割れ、兵士の意気を下げる愚だけは避けねばならぬ。わかっているな」
「わかっています」
 ラキードは注がれた酒をまた飲みほした。
「ハビールは身重の妻を抱える身、討伐に行くのにはお前以上の覚悟が必要だろう。だが妻子の為に無事に帰ることを思えば、士気も上がろう。やつにはまだまだ不器用な点もあるが、真面目に励んでおる。だがお前はどうだ」
「……」
「お前の眼はどこも見ていない。敵も、この王国も、未来も。暗く自分の内に凝っておる。得体のしれぬ苛立ちばかりが渦巻いておる。違うか」
 ラキードは下を向いたまま、答えなかった。
「何を迷っている。美しい妻のことを思え。お前が王国を守り、蛮族をせん滅し、無事に帰ればこそアミーナの顔も見られる。可愛い子もいずれその手に抱けよう」
「そんなものは夢物語です」父王の言葉を断ち切るようにラキードは言った。
「なんだと?」
「あの女は永遠の処女です。ぼくなどの手の届かぬところで、そうだ、きっと神に愛されて神の子を身ごもることでしょう。そうに違いない。あれは、天と交わって……」
「罰当たりなことを言うな」王は怒りを込めた口調で息子の言葉を遮った。「永遠の処女とは何事だ、お前の妻であろう。神の前で契った妻だ、夫はお前一人」
「アミーナは誰のものでもない」王子は叫ぶように言った。「ぼくすら手を触れることの許されぬ存在です。誰も触れてはならないんだ。誰かがふれたなら、ぼくはそいつを殺す。それがぼく自身でもだ。たぶんぼくにはその資格がないんです。そうとも、神でもない限り……」
「お前が何を言っているのかさっぱりわからん」王はため息をつくと、そこではっと気づいたように顔を上げた。
「まさか、まだ真の夫婦となっていないということか。そういうことか」
「だったらどうだというのです」ラキードは中空に視線を投げてほほ笑みながら言った。
「エロ―ラ。砂漠の長鳴き鳥。彼女はその化身かもしれません。だから女たちの夢の歌を歌い……」
「もういい」王は杯を置くと首を振った。
「結婚前も、わしの見ぬところで遊び女どもとよろしくやっていると思ったが、本当の堅物だったか。真に愛する女を前にしては手も足も出ぬか。それでは戦いに出る覚悟もつくまい、弟の幸せも羨ましかろう」
「父上にはわかりません。わかる話でもない」
「お前は酔っている。もういい、部屋に戻って休め」
 ラキードはもうひと口酒をあおって立ち上がると、父王を見下ろして言った。
「ぼくはちゃんと戦いますよ。そして、真の敵をしっかり射止めます。愛するものを守るために」
 王に向かって深々と頭を下げると同時に、かしいだ体がどんと柱にぶつかった。王が立ち上がりかけると、王子は右手でそれを押しとどめ、よろよろと背中を揺らしながら扉の外へ消えていった。

 王は顎髭を撫でると椅子に背を投げ、首を振りながら目を閉じた。


 バッシャール王家においては、カンドゥーラ―裾まである長袖の衣装―の色は白、頭にまとう布―グドゥラも白、その上に乗せる丸い輪―イガールの色は青、さらに戦いの時は砂除けにその頭部を水色の長いスカーフでぐるぐるに巻くことになっていた。
 そうして二人そろって駱駝にまたがると、ラキードとハビールは揃いで作られた彫像のようで、どちらがどちらと見分けられるものは一人もいないのだった。
 王子たちの隣にはゴラン族長が手下の兵士を控えて並び、その背後にはバッシャール王国の自慢の戦士たちがずらりと整列していた。
 並んで見守る従者の列からつと歩み出ると、アミーナは馬上のラキードの前に進み、白い花の咲くジャスミンの一枝を差し出した。
「これをわたくしと思召してその懐にご一緒させてくださいませ。ご武運をお祈りしております」
 マティヤはその背後から歩み寄り、ハビールに黄色コスモスを一輪差し出した。
「わたくしの気持ちです。ご武運をお祈りしております」
 実は整列を何度かやり直しているうちにどちらが夫かわからなくなっていたマティヤは、先に歩み出たアミーナに助けられた気持ちだった。
 ハビールは小さな声で礼を述べると懐に花を仕舞い、ラキードはそっとジャスミンの香りをかいで両手でおしいただくようにすると、同じように懐にしまった。そして妻の目を見ると、言った。
「戦いの結果がどうあろうと、ぼくは必ず戻ってきます。どんな形になっても、必ずあなたのもとへ」
 アミーナは喜びと悲しみに頬を染めて、俯いた。
 ハイサム王は王国を守るために王宮にとどまることになった。隊列と対峙して、王座からハイサムはゴランに呼びかけた。
「ゴラン族長よ、あなたの可愛い娘たちが寡婦とならぬよう、わしの息子たちをきっと頼む」
「ご安心召されよ」族長ゴランはにっと笑うと、剣を高々と上げて叫んだ。
「王国に栄えあれ、王子に勝利あれ、神に栄光あれ!」
 整列した兵士たちは轟轟と声を上げて唱和した。アミーナとマティヤは深々と腰を折った。
 王宮を出で出陣する兵士たちを見送る民衆は沿道にならび、神のご加護を、と口々に唱和した。
 そうして砂煙を上げて、駱駝に乗った隊列は砂漠へ向けて進軍を開始した。

 民衆の声が風にかき消えたころ、駱駝の背に揺られながら、ハビールは隣に並ぶラキードにそっと話しかけた。
「今まで聞かずに来たが、あの夜、父上に呼び出されて、何の話をしたんだ」
「ずいぶん飲まされて、ろくに覚えていない」
「まさか」
「嘘は言っていない。あんな強い酒は初めてだ。もう酒は御免だ」ラキードは眉間に皺を寄せながら答えた。
「今も、ぼくがつけた首の傷は痛むかい」
「二度とそれを言うな」
 ハビールは前を向いたままの兄にそっけなく言い捨てられて、黙って駱駝を側らから離した。

 残党が隠れているというラナへ向かう途中、スルヤの一族はすでにラナを離れ、大地の亀裂と言われるノベラの渓谷に隠れているという情報が斥候によりもたらされた。
 ノベラの谷は身を隠す場所はいくらもあるが、戦陣を広げての戦いができる場所ではない。しかも亀裂は長々と東西にわたって広がっており、そのどこにどう敵が隠れているかはうかがい知ることはできなかった。
 谷を囲む灌木がはるかかなたに見えてきたころ、途中のオアシスで小休止をとることになった。
 急ごしらえのテントの中で、ゴラン、老軍師、ラキードとハビールが策を練った。
「夜になれば灯りで敵の場所も確認できるのでは……」ゴランが広げた地図を見ながら、ハビールが言った。
「あの谷は洞窟も多く、灯りは外へは漏れないでしょう。灯りを消して近づくこちらが闇討ちにあう可能性のほうが高いでしょうな」老軍師が横から言った。「谷の地形は相手のほうが確認済みでしょう。安易に踏み込まないほうがよろしいかと」
「さよう、相手のほうが人数が少なくこちらが多いことも弱点となるかもわからぬ。統率のとれた動きをしないと、不意を突かれたら一気に乱れます。少数の精鋭はむしろ自由がきく」ゴランが重々しく言った。
「ならばこちらも数が減ったほうが望ましいということだ」背後で腕を組んでいたラキードが突然口を挟んだ。
「兄さん!」
「さよう、最初に近づくものは少数であったほうがいいというならその通りです。一気に攻めるのは無謀というもの」ゴランは動じずにラキードの言葉を受けた。
「ならば先遣隊にぼくを選んでもらおう。精鋭を少数つけてくれればありがたい」
「それはぼくが……」ハビールが言うと、
「いや、では、先陣はお任せしましょう。頼もしいお言葉だ。よき兵を集めておきましょう」ゴランが言った。ラキードはグドゥラを外すと、テントの奥に目を向けて言った。
「水を飲んで少し休む」
 ラキードが続きのテントの奥に引っ込むと、ゴランは老軍師にも休憩を命じて下がらせた。そして、ハビールの肩を抱いて耳に口を近づけた。
「ここだけの話だが、兄上には気をつけられたほうがいい」
 ハビールは眉間に皺をよせて怪訝そうに聞き返した。
「兄に? なぜ」
「私の目から見て、あの試合の時、兄上には明らかな殺気が感じられました。それを止めたこの私も罵倒された。失礼ながら、兄上はあなたに心を許してはおられないようだ。敵はスルヤだけと思召さないほうがいい」
「そのような……」
「さらに、王家に双子の王子となれば、後継ぎの時に禍にもなりましょうな」
「ゴラン殿、何が言いたいのです」ハビールは語気を強めてゴランの巨体を睨みつけた。
「よろしいか。私はあなたの味方です。だがラキード様はそうではないと思召しておいたほうがよろしい。何かの時はこのゴラン、力になりましょう」
 そこまで言うとさっと身を離し、ゴランはテントを出て行った。ハビールは口を引き結んで彼に語られたことの一言一句を胸によみがえらせ、小さく身震いした。
 もしかしたら、この地のどこかに潜んでいる蛮族を敵として戦おうとしているものは自分一人ではないのか。
 この荒涼とした星空の下、心を許し、力を合わせられる仲間がどこにもいない。寂寞とした絶望感が、背後からハビールを包んでいった。


 ラキードを隊長とした先遣隊は、日が暮れてから出発した。やがてノベラの渓谷を見下ろす丘に小さな洞窟を見つけ、そこに拠点を置いた。
 ラキードを除いて総勢わずか五名。武具や食料を洞窟内に運び、駱駝は岩陰に隠した。
「いいか、我々の役目は戦闘ではない、偵察だ。敵の陣がどこにあるかを探るのが目的だ、すべては静かに行わねばならぬ。早まったことはするな。どんな場合であっても、ぼくの命令なしに動くな、闇雲に戦うな。わかったか」ラキードは洞窟の暗闇の中で兵士たちに言った。
「承知いたしました」兵士たちは声を合わせた。
「まだ周囲の地形が明らかでない、安易に動くな。見張りを二人残してあとは中にいろ。ぼくが周囲を偵察して来る」
 天球技がそのまま回るような明るさで星ぼしが移動するその夜、丘から見下ろす谷の亀裂は大地にぱっくりと空いた口のようだった。先遣隊の見張りが二人、それぞれ指定された場所で剣を手に待機しているのを認めると、ラキードは星空の下に歩み出た。
 スカーフを口元に巻き、剣を片手に、ラキードは荒涼とした砂岩の丘を歩いた。ふと、このまま誰も知らない地へ逃れたい、という衝動が身のうちを突き上げた。
 今味方としてともにあるのは憎い弟のハビールと母上の仇、ゴラン。国で待つのは忌まわしい父、ハイサム王。母上を死に追いやり、仇の娘をこの自分に嫁として与えた。
だがその仇の娘が、今では自分にとって一番大事な存在なのだ。そしてその腹には……。
 ……何という皮肉な運命(さだめ)だ。
 自分は今、誰を敵として、なんのために戦うのだ?
 その瞬間、自分を呼ぶくぐもった声が聞こえた気がしてラキードは振り向いた。続いて、人の倒れる鈍い音が確かにした。月はつと雲に隠れ辺りは全き闇となった。ラキードは剣に手をかけ、砂岩の影に隠れた。
 ……見張りがやられた。誰かくる。
 と、はっきりとした足音と同時に、岩陰に大きな人影が現れた。
 逃げている暇はない。
 王子は飛び出ると大きく剣を振り上げ、人影を横に薙ぎ払った。大きな影は高く飛んでそれをよけ、一回転した王子の前に飛び降りた。スカーフはほどけ、ラキードの顔はあらわになった。その刹那まばゆいばかりの月が雲間から顔を出し、王子の顔貌を照らし出した。だが自分に襲い掛かろうとする人影は、ラキードからは黒い塊にしか見えない。王子は剣を逆手にもって下から突き上げた。高い音を立ててその剣をはねのけると、黒装束の人影は押しつぶしたような声で叫んだ。
「ハイサムの息子か」
「その通りだ」
「ではハビール……」
「ラキードだ。この首がほしいか」
 黒い影は突然動きを止め、剣を降ろした。
「あなたは敵ではない」
「……なに?」

「剣を収められよ、あなた様は我々の同胞(はらから)だ。母上によく、よく似ておられる……」

 ラキードも剣を降ろすと、細かく震える黒装束の男の影を呆然と見上げた。
「ラキード王子、私はジャバード・イル・スルヤです。母上の従兄弟にあたります。あなたをお助けしたい」
「……」
 男は深くかぶっていたフードを外し、髭だらけの顔をラキードに近づけて膝を折った。岩のような顔貌の、初老の戦士だった。
「スルヤ王国の生き残りとして、我々はあなたの御身を預かりに来たのです。
 ご存知か知らぬが、あなたの母上の国、スルヤはハイサム王によって滅ぼされ、国王は処刑され、あなた様の母上……いと美しきアイシア姫はハイサム王に捕らわれた。無念この上ないことだ。王家の血を引く一族はことごとく殺されたが我々は逃げ延びた、いつか好機が来ると信じ、果てしない恨み憎しみを胸に。この苦渋の月日がわかりましょうか」
 わかる、と口元まで出かけた言葉を押しとどめて、ラキードは眼前の男の砂だらけの真っ黒な顔をただただ見つめた。
「憎い敵に復讐を遂げると同時に、伝え聞く双子の王子をわがもとに引き入れ王家を再興する。これは悲願でした、だがそこに至る道のりは果てしなく遠いものと覚悟していた。だがなんとしたことか、アイシア様の面影をそっくり残すあなたが今この私、たまたま偵察に出たこのジャバードの眼前にある。これが神のおぼしめしでなくて何であろうか」
 男はほろほろと瞳から涙をこぼした。ラキードの胸に、久しく感じたことのない肉親への愛情が深いところから湧き上がってきた。それは何年も乾ききっていた大地を潤す恵みの泉のようだった。
 男はラキードの手を取った。
「この私を敵と思うならばその手で首をはねられても構いませぬ、だがご両親の無念と愛を大切に思われるならばどうか私たちと」
「……母は死んだ」
「存じております、そのいきさつも風の噂にて」
「……」
「あなた様のお苦しみはお察しするに余りあります。すべてはハイサムの罪。私たちと無念を晴らしましょうぞ」
 ラキードの目にはありありと苦悩の色が浮かんだ。
「だが、……だが、生まれ育った都がよそ者に奪われるなら、王子として国民として、看過はできぬ」
「我々の望みははるか西の緑の大地に、尊き王子とともに我々の理想(シャン)郷(グリラ)を作り上げることです。それさえかなうなら都は襲いませぬ。約束いたしましょう。どうか私たちとともに来てはくださらぬか」
 ラキードの体は今や細かく震え、その瞳の奥にも熱いものがこみ上げてきた。
 ここだ、自分が身を置くべき同胞、目指すべき未来はここにある。今こそ……

「ぐあっ」

 突然目の前の男はのけぞって悲鳴を上げ、そのままどうとラキードの前に倒れた。
「ジャバード! ジャ……」
 肩に手をかけたラキードは、その背に深々と刺さる矢に気付いた。
 振り向いた視線の先に、月光を背にした戦士、
 ……駱駝にまたがったハビールの姿があった。

「なんで敵を懐に入れるんだ。これはスルヤの紋章入りのマントじゃないか。殺されるところだったよ、兄さん」

 ラキードは唖然とした表情で弟を見、眼下の遺体に視線を移し、その背を静かに揺すったが、毒を塗った矢に射られたその体にはすでに命のかけらも残ってはいなかった。ハビールは駱駝を降り、かたわらに歩み寄ると言った。
「あっちでは見張りが二名やられている。ゴラン殿から、兄さんの様子が変だからつけていくようにと言われて、離れて後を追っていたんだ。来てよかった」
 低く呻くと、ラキードはよろめきながら立ち上がり、いきなり弟の横面を張り飛ばした。
 予想していなかった兄の暴挙に受け身も取れず、ハビールは人形のように大地に打ち倒された。そして鼻血を砂の上に垂らしながら、信じられないといった表情で兄を見上げた。
「兄さん……」
「貴様、自分が何をしたかわかっているのか!」ラキードの叫びは絶叫に近かった。
「母上の、その血につながる、血縁上の同胞を」
「そんなことはわかっていたじゃないか! スルヤと戦うというのはそういう事だろう、わかっていて」
「近寄るな、もはやお前とは兄弟でもなんでもない!」ラキードは叫んだ。
「兄さん、今は仲間割れはしたくない。聞いてくれ、ゴラン殿はぼくらの仲を裂こうとしている」
 ハビールは今にも剣に手をかけようとしている兄を必死に押しとどめながら言った。
「彼は本当はぼくに、兄さんを暗殺することを暗にすすめていたんだと思う。王家の跡取りをぼくひとりにしてその後ろ盾になろうとしているようだ。そんな愚かな策に乗りたくはない。敵はバッシャールの国を侵そうとするもの、それだけでいい。兄さん、ぼくらは力を合わせなくてはならないんだ。力を合わせて国を守ろう、ぼくたちの国を」
「理想の国を作ろうとしていたのはこの者も同じだ。今そう話していた、それをお前が!」
「そういう甘言を弄して兄さんを誘拐し、人質にして交渉するつもりだったとは考えないのか!」
 ラキードは弟を睨みつけると、喉をすり合わせるような声で答えた。
「そうか、なるほどな。そう考えるのも無理はない。お前は父上の血を正しく受け継いでいる。
 ゴランがこのラキードを殺そうとしていたと言ったな。そうだろうとも、ぼくたちのたった一人の母上を汚したのはあいつだからな。恋人じゃない間男でもない、ゴランだ。父上の親友の、ゴランだ。暴力で母上を犯した。ぼくは見た、それを見ていたんだ!」
「な、何……」思いもかけぬ突然の告白に、ハビールは目を見開いて絶句した。
「それでもなにもできなかった。怖くて、恐ろしくて、禍々しくて、それは子どもだったからじゃない、ぼくが臆病の卑怯者だったからだ。その罪は一生消えない。お前にわかるか!」
 ラキードは髪を振り乱して咆哮した。
「ゴランは自分とよく似た男のせいにしそいつを処刑した、父上は母上を罪人として自死を命じた。母上は父上に命じられて無念のうちに死んだんだ。そして母上がゴランに汚されたと知らせたのは幼いこのぼくだ。父がゴランを罰してくれると思った、だが父が罰したのは、死を命じたのは、母上だった!」
 そこまで言うと頭上を振り仰ぎ、ラキードは両手で顔を覆った。
「母はぼくのせいで絶望して亡くなった。ぼくも父もゴランも死ねばいいんだ、どいつもこいつも罪びとだ。だが今は、今は、このラキードはおまえが一番憎い!」ラキードは剣を振り上げると仁王立ちになった。
「剣を取れ、ハビール。この時を待っていた。われわれは戦わねばならない運命(さだめ)だ。どちらかが死なねばならない」
「嫌だ!」ハビールは地面に手をついたまま叫んだ。
「兄さんの、兄さんの言ったことはぼくは知らなかった。何も知らず、兄さんにばかり……」
「謝れと言ってるんじゃない、剣を取れ!」
「それでも、戦うのはいやだ。ぼくらがなぜ殺しあわねばならないんだ。ぼくの敵は兄さんじゃないし、兄さんの敵も……」
「剣を取れと言っているんだ!」
 頭上にいきなり兄の剣が振り下ろされた。ハビールはすんでのところで横に転がると自分の剣を手に立ちあがった。続けて降りかかる刃を全力で受け止め、二人は剣を交差したまま押し合った。
「貴様はゴランの手先となって母上の従兄弟殿を殺し、このラキードの妻に懸想してその身を奪い、妊娠させた。それでも敵ではないというのか!」
「に、妊娠?」
 二人は同時に身を離し、再び激しく打ち合った。兄の剣を払いながら、ハビールは懸命に叫んだ。
「兄さん、やめてくれ。誤解だ、ぼくはアミーナに何もしてない」
「恋ごころひとつないと誓えるというのか」
「それは……」
 言いよどんだ弟を力づくで押し飛ばすと、よろめいたその身の上にラキードは全身で剣を振り下ろした。受け身一方のハビールはそれをすれすれで受け止め、薙ぎ払った。
「恋なら、していた。正直に言う。あの方をいとおしいと思った。でも、それ以上は」
「お前以外誰の子を身ごもるというんだ!」ラキードは音高く剣を弟のそれと交差させた。「ぼくに父王のようになれというのか、ぼくはアミーナを処刑しなければならないのか!」
「そんなことはしてはいけない、絶対に」
「だろうな、そう言うだろうとも、お前の子だからだ!」
「違う、違う、兄さん」
「アミーナはこのラキード一人のものだ。彼女を愛しているのはこのラキード一人だ、お前に汚されるぐらいならこの手で」
 狂気に奪われた兄の表情は、ああ、なんと父王にそっくりなことかとハビールは思った。あの無情な父も、その苦しみから魔に捕らわれたのか。苦しみから逃げたくて、母上を……
 瞬間、バランスを崩した二人の足は同時に滑り、どうと音を立てて砂の上に倒れた。地面に倒れたのはラキード、その上にのしかかったのはハビール。二人とも、何が起きたのか一瞬わからなかった。ハビールはただ瞳を広げて、兄の胸元に広がってゆく血の朱色を見つめていた。
 声にならない声でうめくと、ハビールは唇を震わせて神への祈りの言葉をむなしく繰り返した。神よ助け給え、見恵みを垂れ給え。
 ラキードは白くなっていく顔をあお向けたまま、途方に暮れたように虚空を仰ぎ見ていた。
「兄さん、兄さん……ああ、こんなつもりじゃなかった、こんなバカな!」兄に覆いかぶさったまま、ハビールの瞳には涙があふれた。
「ぼくは兄さんが、好きだった。小さいころから、なんでも兄さんのまねをした。あこがれだった。な、なぜ、こんな……」
 ラキードは泣きむせぶ弟の頬に震える手をようよう伸ばし、指先で触れた。ハビールはその手の上に自らの右手を重ね、叫ぶように言った。
「死なないで、兄さん。だめだ、ぼくを、ぼくを憎んだまま死なないでくれ。ぼくとアミーナの間には何もない。ぼくは兄さんを裏切っていない、こんな……こんなのはいやだ!」
 兄は唇をわななかせながら、囁くように弟に語り掛けた。

「……すべて、話した。お前は、すべて、聞いた。そう、だな」

 ハビールは言葉もなく、ただ何度もうなずいた。

「それでは、……お前に託す。いいか」ラキードはかっと目を見開き、眼前のハビールの充血した目におのれの視線を釘づけた。

「お前は、聞いた。このラキードの、苦しみも、憎しみも、あ、愛も、みな、お前に託す。お前は、ぼくだ。ぼくはお前のその、そのからだとひとつになって、生きる。それならば」
「……」
「死は、ない。ひとつの、生しか。ラキードは、今、借り物の服を、ぬ、脱ぎ捨てるだけだ」

「兄さん……」

 そのときはるか頭上から、天のもののような歌声が聞こえて来た。

 まことの幸せはどこにある。まことの幸せは砂の上に、川の中に、砂漠の楼閣のあの方の心の中に……

「アミーナ……」

 そう呟いてわずかに微笑むと、兄は虚空に目を薄く向けたまま呼吸を止め、動かなくなった。

 ハビールは茫然と天を仰いだ。天空のかなたに、羽ばたく鳥の姿が白く見えたような気がした。
 その刹那、天と地を突き通すように、その身のうちを何かの意志が刺し貫いた。
 奔流のように自分の中に流れ込む何か、そして自分から出て行こうとする何かは渦になってわが身を取り巻き、ぐるぐると縛り上げると、ハビールの身を白い闇に閉じ込め、そして同時に途方もない無限に向かって放り出した。
 弟の体はぐらりとかしいで兄の体の上に倒れ、
 やがて黒い一つの塊となり、星月夜のもとに沈黙した。


「ゴラン殿。王子がご帰還です!」
 テントの外で見張りをしていた少年兵に声をかけられて、ゴランは飛び上がるように絨毯から身を起こすと、テントの幕をはね上げて外に出た。
 ラキードの率いる偵察隊が出発し、ハビールが後をつけて三日。何の連絡もなく日々だけが過ぎていた。
 夜明け前の空は、地平近くに虹色のグラデーションを広げながらも、頭上はまだまだ暗い。
 切り落とした爪のような三日月が天空にかかるその下を、マントと顔に巻いた水色のスカーフをはためかせるようにして、ひとつの黒い人影が彼方からこちらに歩み寄っている。
ごう、と地鳴りのような音がして、ふいに強風が吹き下ろしてきた。突然の風は砂塵を舞い上げ、それを合図のように四方八方から風が吹き付けて、ゴランの視界を遮った。
 砂のうねりの上に立ち止まった青年が、ラキードなのかハビールなのか、片手を顔の前にかざしながらもゴランには判別しかねた。服装から見て王子なのは間違いないのだが……
 ゴランはそこで異様な予感に身を震わせた。
 夜明け前の空の下に突っ立つその姿には、生気というものがまるでなかった。どころか、全身が闇と一体化したような異様な妖気を放っている。
 ゴランはおびえた様子の見張りを後ろ手で払い、テントに入れと合図した。
「ゴラン様……」
「中に入っておれ。いいか、合図するまで誰も出てはならぬ」
 そしてぐっと腹に力を入れると、王子と見える人影に向かって歩いて行った。やがて夜明け前の空の下で、ゴランは王子……のどちらか、と対峙した。野太い声で、ゴランは尋ねた。
「ラキード殿か」
 スカーフで口元を覆ったまま、くぐもった声で人影は答えた。

「ラキードは死んだ」

 ゴランは眉間に皺をよせ、用心深く尋ねた。

「なぜ死んだのです」

「ハビールが殺した」

 ゴランはかすかな笑みを唇に乗せた。
「なるほど、宿命というものです。兵たちにはこの私から良いように説明しておきましょう、ハビール殿下」
「ハビールももういない」
「なんと?」
 王子の人影は腰の剣を抜いた。剣には変色した血がべっとりとついていた。

「ゴランよ。母なる大地と父なる天のもと、お前の罪はもはや隠せぬ」

 怯えたようにゴランは叫んだ。
「……お前は誰だ!」
 真っ暗な顔をこちらに向けたまま人影は腹の底から出すような声で答えた。
「ラキードでありハビールでもある。だがすでにどちらでもない」
 ゴランは震える左手でおのれの剣の鞘をはらった。
「おのれ、……死霊か!」
 ゴランは剣を正面に構え、全身をぶるりと震わせながら仁王立ちになった。
「魔物(ジン)に操られた哀れな王子の躯(むくろ)よ。お前ごときを恐れるわしだと思うか!」
 その瞬間、四方八方からごうごうと風が押しよせ、砂を思うさま巻き上げた。
 あちこちに綱のように砂のねじり棒が立ち、まだまどろんでいた鳥たちや砂の中のサソリさえも巻き上げた。
 ゴランは叫び声を上げると、人影に向かい突進し、やみくもに剣をふるった。だが恐怖に手はわななき腰は引け、切っ先は震えていた。
 王子の姿をした人影は風のように身をひるがえし、ゴランの刃先をすり抜けた。その動きと剣さばきはゴランの知る王子のものではなかった。鬼神のごとき力でゴランの剣を跳ね上げ、横ざまに打ちかかり、その巨体をよろよろと後退させる。足をもつれさせたゴランは砂岩に躓いて斜めに倒れた。うむと唸って剣を杖に立ちあがったそのとたん、闇を切り裂いて火を噴く矢が飛んできたと思うとゴランの胸から背中を貫いた。
「ぐ……」
 ゴランは仰向けにどうと倒れ、その体の中心からめはらめらと炎が燃え上がった。
 それと同時に砂丘の向こうから次々と火矢が飛んできて、赤々と燃えながら激しくはためくテントに次々と刺さり、炎上していった。
「急襲だ!」
「敵の来襲だ! 皆、起きろ!」
 眠りからさめやらぬまま、兵たちは叫びながらあわただしくそれぞれのテントを出て、燃え盛る火を払い、武器を拾った。見張りの少年兵はがたがたと震えながら腰を抜かしてテントの影にへたり込んでいた。
「このバカ者。ゴラン殿はどうした! なにがあった!」老兵士が頭上から怒鳴りつけた。
「お、王子の、王子の死霊に襲われて、火が……」少年兵は砂丘を指さした。
「王子の死霊だと? バカを言うな、どこにいる!」
 老兵士は少年兵の首根っこを掴んで立ち上がらせた。「王子の死霊といったな。いつ、なぜ亡くなったというのだ!」
「いまそこにいらして、ハビールさまもラキード様ももういないと、そしてゴラン様をき、切り倒し……」
 やがて火矢の雨の向こうから地鳴りのような叫び声がして、一列になった兵士のシルエットが砂丘の上に姿を現した。
「……死霊の軍隊だ!」
 少年兵が叫ぶと、呆然と見ていたゴランの部下のディディ族は
「砂漠の魔物(ジン)だ」とわめき、慌てふためいて逃げ出した。
 砂漠の部族は何よりも闇の魔物の呪いを一番におそれていたのだ。
 バッシャールの兵は逃げる者とどまるもの、乱れに乱れて大混乱となった。
「逃げるな、戦え! 戦うんだ!」
 数名の老兵が叫んだが、悲鳴と怒号の上に火の矢がまたも降り注ぎはじめた。やがて砂塵とともに押し寄せた黒装束の軍隊が混乱するバッシャールの兵たちに向け次々と剣を振り上げていき、あたりは叫び声とともに濛々たる砂塵に覆われていった。



 その日は風が強く、王宮の周囲でも早朝から物の転がる音ぶつかる音が絶え間なかった。
そんなわけで、まだ夜も明けやらぬ時間、何者かが王宮の裏木戸を打ち叩き続ける音も、警備兵は我楽多がぶつかる音としか思わなかった。が、しつこさに木戸を開けた警備兵の目に映ったのは、ボロボロな服でようやく膝立ちしている、討伐隊の伝令だった。まだ少年で、道の途中で駱駝から落ちたといい、すでにその目からは生気が失われていた。
「伝令、伝令が来たぞ!」
 警備兵と王の側近が入り乱れて宮殿内は騒然となった。
 もはやほとんど意識のない伝令の少年兵に気付けの酒が浴びせられ、頬を叩かれて質問の嵐が降り注いだ。
「王子はご無事か?」
「ゴラン殿は? 討伐隊は蛮族を仕留めたか?」
 だが傷だらけの少年兵の口から出た言葉はこれだけだった。

「ゴラン殿は、焼死」
「討伐隊は、ほぼ全滅……」
「蛮族からの、手紙はここに」

 やがて急を聞いて宮廷の広間に駆け付けたハイサム王は、氷のような場の空気に、最悪の事態を覚悟した。
 ぶるぶると全身を震わせる側近から手渡された文の内容は、あまりに衝撃的だった。
 文は羊皮紙に青いインクで書かれていた。

『バッシャール国の王子、ラキードとハビールはおふたりとも亡くなられた。
 相討ちともいえる最後だった。この争いの罪を一身に負われて、我々の罪咎をすべて背負って逝かれた。
 この上は我々もバッシャールと争おうとは思わぬ。正当な王子を戴いて新しい国を作ろうという野望は砂漠に潰えた。
 今砂漠は死霊と悪霊(ジン)に満ちている。
 この上は深追いをして呪いに取りつかれるよりも、これ以降の争いを放棄し、あとは神の慈悲に任せるよう賢明なる王に望む

                      神の名において真の王国再建を目指す一族より』

 ハイサム王はその場に座り込んだ。周りのものが慌てて手を添え、王座にいざなったが、すでにその頬からは生気が失せていた。
 床の上で、両側から脇を支えられている傷だらけの少年兵に、かすれた声で王は尋ねた。
「何でもいい、覚えていることを言え。お前は王子の最期を見たか」
 頭を上げ、少年兵は弱々しい声で言った。
「お、おそれながら、最後に見たのが王子か、それとも王子の、か、影法師かもさだかでなく……」
「影法師とは何だ」周囲のものが声荒く詰め寄った。王は手でそれを制止すると、続けて問うた。
「よい、おまえの見た通りを全部話せ」
 少年兵は視線を宙に彷徨わせ、唇を震わせた。
「その、早朝は、風が強く、先遣隊の、王子……と見える人影がお戻りになり、ゴラン様が砂丘にて対峙、……そして、そして突然争いとなり、鬼神のごとき強さにて王子がゴラン様を打ち倒し、続いて敵の軍勢が一気に現れ火矢を用いて攻め寄せ、火が、火が、すべてを……」
「王子とはラキードかハビールか」王は勢い込んで尋ねた。
「王子と見えたお姿は、こう、おっしゃられました。
 ラキードはハビールに殺された。ハビールも、もう、いない」
 周囲から悲鳴に似たどよめきが上がった。
「ゴラン殿は、王子を、おのれ死霊、と、おっしゃり……」
 もうやめろ、おぞましい、無礼者、と怒号が飛ぶ中、少年兵は再び気を失いかけて前のめりに体を倒した。
 そのとき、背後でことりと音がした。皆一斉に振り向くその先に、真っ青な顔のアミーナが立ち尽くしていた。
 王は蒼白な顔を上げて視線を合わせた。
 シルクの青いドレスに白いスカーフをかぶった美しき若妻は小刻みに震えながら男たちをかき分け早足で歩み寄ると、少年兵の前に座り込んで、その頬に両手を添えた。

「どうか、そのまま、最後までお話しください。ただ、知りたいのです。夫の身はいまどこにあるのですか」

 少年兵の目に一瞬生気が戻った。アミーナの涙に満ちた美しい瞳を見ながら、詩でも綴るように少年兵は言った。
「あたりに、死が、満ちたのち、自分も意識を失い、目覚めれば、目の前にはたき火が燃え、そこは知らない景色で、丈高い岩々に囲まれた空間で、黒い影たちが何かを埋め、砂を盛り、塚を築き、花を添え、香油をまき、歌が、あたりに……」
「歌? どのような歌が」アミーナはひしと少年の目を見ながら問うた。少年兵はかすれた声で、宙を見ながら口ずさんだ。

「まことの幸せはどこにある……まことの幸せは砂の上に、川の中に、砂漠の楼閣のあの方の心の中に。……ラキード・イル・スルヤ……ハビール・イル・スルヤ……」

 アミーナは目を見開いて口元で手を合わせた。

「その、のち、老戦士のひとりに手紙を、渡され、駱駝を渡され、国へ、国へ帰れと…… ああ、わが、都、バッシャール……永遠なれ……」そこまで言うと、くっと喉を鳴らし、身体を逸らせて、少年兵はそれなり倒れ伏した。

 口を開くものは誰もいなかった。
 アミーナは握っていた少年兵の手を、重ねて、彼の胸の上に置いた。
 王は人垣の後ろに立っていた宮廷医のサダムを手招きした。白い布で頭髪を包み込んだ初老の気の弱そうな医師は小走りに歩み寄り、少年兵の脈をとり目をのぞいて首を振った。
「終わりか」
 王は青い顔で椅子に背を預けると、上を向いて長い息を吐いた。
「これで。……これで、何もかも終わりだというのか」
「まだ終わりではありませぬ、兵もまだまだおります。第二陣を」側らの大臣が急くように声をかけた。
「息子たちは帰ってこぬ!」王はいきなり雄叫びをあげた。
「これは呪われた戦いだ。なぜ王家を継ぐ二人の王子がこの戦いのさなかで相打ちになどなるのだ? 誰も伝えに帰ってくることさえできぬのか。戦場に残った死霊とは何だ。ゴランと王子はなぜ戦った。
 得たものは一つもない、だが失ったものの数はわかる。
 わしの二人の息子、朋友ゴラン、バッシャールの精鋭、その妻と子の家庭、そして……」
 突然言葉を切ると、王は目を横に向けた。つわりがひどく自室で静養していたはずのマティヤが脇の扉を開け、ふらつきながら歩み寄ってきた。
「夫は、なぜ死んだのです」切り裂くような声でマティヤは叫んだ。「相打ちとはどういうことなのですか!」
「マティヤ様、御身に触ります、まだ詳しいことは何も」マティヤ付の召使頭が駆け寄ってマティヤを押しとどめた。
「わたしはこの耳で聞いた。相打ちということは、夫ハビールはラキード殿下に殺されたと、そういうことですか」マティヤはなおも叫んだ。
「お姉さま、わたくしたちはまだ何も見ていません。まだ何も失われてはいませんわ、信じてはいけません」アミーナは悲痛な声を上げた。妹の蒼白ながらも美しい顔を睨むと、マティヤはかすかに膨らんだおのれの腹に手を添えながら言った。
「ラキード殿下は夫を憎んでいたわ。わたしにはわかる。いつかこうなるんじゃないかと思っていたのよ」
「そんな、なぜ……」
「あのひとが愛していたのはあなただわ、アミーナ。みすぼらしいわたしなどどうでもよかったのよ。それを知っていたから、ラキード殿下も夫を憎んだのです!」
「そんなことはありません、わたくしとハビール殿下の間には何もありません。わたくしが愛しているのは夫だけです。だから、だから天もこの身の内に愛のあかしに命をお与えくださったのですわ」
「なんといった?」王は腰を浮かせて言った。マティヤは妹の顔から眼をそらさなかったが、その瞳には冷たく青い炎が燃えていた。アミーナもやはり自分の腹に無意識に手を添えたまま、姉を見返した。
「説明せよ、アミーナ。その腹の中に赤子がいると、そういうことか」
 アミーナは正面から王の瞳を見据えると、きっぱりと言った。
「はい。お国の大事な時ですし、夫が帰還し、勝利をおさめてから公にすればいいと思っておりました。けれどこのようなことになっては、もう隠す理由がありません」
「……」王は口元に手を持っていくと次に首をめぐらせ
「サダム、診断したのはお前か」宮廷医を指さして問うた。
 初老の医師は狼狽した様子だったが、覚悟したように口を開いた。
「はい、わたくしでございます」
「間違いないのか」
「ま、間違いはございません」ちらりとアミーナのほうを見ながら、サダムは続けた。「けれど、蛮族の討伐が終わるまでは内々にしておきたいとのお話で、わたくしの胸に収めておきました。王へのご報告が遅れ、まことに申しわけございません」
 アミーナの瞳からは、せきを切ったように涙がほろほろと零れ落ちた。
 だが黒々と凍った王の瞳に喜びの色はなく、次にその口から発せられた言葉は信じがたいものだった。

「誰の子だ」

 周囲はどよめいた。
「王、なんということをおっしゃいます」「ラキード殿下の魂に対してもそれはあまりなお言葉」側近が口ぐちに抗議の声をあげた。王は音を立てて椅子から立ち上がり、床に膝をついて茫然と王を見上げるアミーナを見下ろした。その全身からは声にならない憤怒がわきあがっていた。周囲の者は異様な空気に思わず口を閉じた。
 アミーナは王の瞳を見上げ、はっきりと言った。
「もちろん、天が定めたただ一人の人、わが夫の子です」
 王は眉間に深い皺をよせると、低い声で言った。
「では神の子を身ごもったと、そういうことか」
「お義父さま、なぜ、……なぜそのようなことをおっしゃるのでしょうか」アミーナは身を震わせながら問うた。
「妻は永遠の処女だと。自分などの手の届かぬところで、きっと神に愛されて神の子を身ごもることだろうと、ラキードはそう言っていた。そして苦しんでいた、お前のせいで。お前たちは本当の夫婦になってはいない、わしはそれを息子からこの耳で聞いたのだ」
「……?」
 アミーナはただ訳が分からぬという風情で言葉を見失っていた。冷たい絶望の燃える瞳で妹を睨みながら、マティヤは言った。
「わたくしも存じております。妹、アミーナはひと夜たりとも夫と床をともにしてはいないと、わたくしに打ち明けました。子が宿ったというならばそれは」
「おまえはハビールを疑っているのか」王は言葉を被せた。
「いいえ。夫は確かに心からこの妹に恋い焦がれておりましたが、ただ言葉に出さず、思い悩むばかりでございました。思いを遂げていたならどうしてあんなに苦しみ続けるでしょう。胎内の子が誰かは神のみが知るところですわ」
「おそれながら、アミーナ様のお姿が描かれ、恋歌を添えたお手紙で結ばれた花束が、アミーナ様の寝室に投げ込まれたことがございます」アミーナの召使が言葉を添えた。
「わたくしは見ていません」アミーナは即座に返した。
「もちろんお目に届かない場にラキード様がお隠しになったからですわ。お相手は大臣か側近の誰かであろうと殿下はおっしゃっておられました。アミーナ妃に思いを寄せる者は多いからと。どれほど苦しまれたことか」
 今や場の空気の流れは一方的だった。そして、アミーナに恭しく仕えていた者たちまでが、早くも自分たちの利を考え勝算のあるほうにおもねり始めたのは明らかだった。
 王は首を振ると、両手を上げて周りのものを制止した。そして重々しく言い放った。

「もうよい。聖女の顔をした娼婦(アーヘラ)、偽りの妃を東の塔に連れていき、監禁せよ!」

「お義父様、誤解です。申し開きをさせてくださいませ」懸命に叫ぶアミーナはその両腕を警備兵にしっかりとつかまれて力づくで立たされた。哀れな若妻に背を向けたまま、王は付け足した。
「今日ここに集うものたちが耳にしたすべては公の通達となり公表されるまで外に漏れだしてはならぬ。一筋でも外部のものの耳に入ったならば、そのときは全体責任とする。意味は分かるな。姦通の相手はこの場にいる誰かかもしれぬ。そのときは慈悲はなしだ」
 一同は声もなく凍り付いた。

 足音も荒く自室に戻ると、あたりに響き渡る音で扉を閉め、王は大理石のテーブルに両手をつき、首を垂れた。

 自分は呪われているのか。
 ……何故同じことが繰り返される。
 王妃アイシアに裏切られたときのあの怒りと屈辱が、形を変えて再びこの身に降りかかるとは。聖女のような風貌、誰もが憧れる美しさ。そしてこの結末。いったいどうしてこのようなことが繰り返されるのだ。いったい、なぜ?
 だがそのとき、長いこと掘り起こさずに来た苦い記憶は、正視したとたんまるで矢をつがえるように、王の傷の中心めがけて別の問いを放って来た。

 自分はあのとき、妻アイシアの罪を信じたか。少しのほころびもなく、余さず彼女の罪を信じたか?
 息子、ラキードは母親の命乞いをした。それはもう必死だった。ゴランは自分の影武者が横恋慕したと言ってそいつの首を切って寄越した。ディディの族長は国の安定のためにも失うことのできぬ朋友だ。
 そしてこの国では、姦通の罪は女も同様だ。身分は関係ない。
 自分はもしかしたら、王としての自分にとって都合のいい方向に傾いただけではなかったか。滅ぼした国の王族の娘の潔白を信じ慈悲を垂れることを、臣下に向けて恥じたのではなかったか。
 アイシアは本当にそのような女であったか? 本心から、そう思うのか?
 本当は……
 本当のところは……
 酒棚から度数の高い酒を取り出し口をつけようとしたハイサムは、ふとそれがあの日ラキードと酌み交わした酒だと気づいた。
 ハイサムは力なく座り込むと、アイシアと瓜二つの息子たちの面影を瞼に浮かべ、獣のような声で低く唸ると、酒瓶を床にたたきつけ、両手で顔を覆った。


 日が落ちれば狭い部屋の中はあっという間に藍色の闇に飲み込まれてゆく。それにつれてどんどん気温も下がり、塔の頂上の部屋にはただ孤独だけが満ちた。冷たい石の壁にはひとつ窓はあったが鉄格子がはまり、人の顔ぐらいの大きさしかなかった。アミーナは格子を掴み、ただ取りつかれたように星々の犇(ひし)めく夜空を見つめていた。
「妃殿下、お気の毒に存じます。役目ゆえ、お許しください」
 自分をここに連れてきた若い兵士は憐れみを込めた目でそう言うと、アミーナに服をわたし、室内で着替えるようにと言って出ていった。
 服は捕らわれ人の装いで、黒い長袖の上着に裾の膨らんだズボン、黒いマグナエ(顔だけ出して頭部から胸を包むスカーフ)だった。それでも、月明かりのもと、アミーナの美貌は青く白く輝いていた。
 やがて窓から視線を落としたその目に、塔に続く細い道をやってくる灯りが見えた。
 灯りは塔の下に到達した。風に乗って、門番と誰かが交わす会話が聞こえたが、すぐに静かになった。ほどなくして、階段を上る重い足音が聞こえて来た。
 アミーナは窓辺を離れると、固いベッドに腰掛けて、じっと鉄の扉を見つめた。
 鍵を回す陰鬱な音がして、ドアがゆっくりと開いた。やがて手にしたランタンに照らし出されたのは、マントに身を包んだ初老の男だった。
「……サダム医師」
 アミーナは自分を診断した老医師の名を、思わず唇に乗せた。
 サダムは後ろの見張り兵を少し振り向くようにすると、小さく頷き、そのままゆっくりと室内に入って扉を閉めた。そしてランタンを部屋の中央のテーブルの上においた。
 左手には、首の長い白い壜を下げていた。
「これを、妃殿下にお飲みいただくべく、お持ちしました。……王の命にて」低い声で、医師は言った。
「それはなんでしょうか」静かな声でアミーナは聞いた。
「おそれながら、腹のお子を流す薬でございます」
「……!」
 アミーナは絶句して、その白い壜を見た。砂鳥のように首が長く胴は楕円に横に広がり、優雅なラインを描いていた。医師は瓶の首を握ったままかすかに手を震わせていた。
 アミーナは歩み寄ると、医師の手からそっと瓶を受け取った。そしてそのすべらかな手触りを確かめるように、瓶の胴を撫でた。
「これをわたくしが飲み干すのを見届けるのが、あなたのお役目ですね」
 老医師はただ罪びとのように苦しげに目を伏せた。
「わたくしに赤子の存在を告げてくれたあなたは神の使いのようでした。そして今、その赤子の命を奪うお薬を携えて長い階段を登ってこられた。どんなお気持ちだったでしょう。あなたとて人の子の親、役目とは、さだめとは残酷なものです。
 それでも、それは、あなたの罪ではありません」
 サダムは肩を上下させて一つ息をすると、絞り出すような声で言った。
「なんというおかただ、あなたは。……あなた様はそれで、それでよろしいのですか」その瞳には涙が浮かんでいた。アミーナは白い顔に感情を閉じ込めたまま、答えた。
「何もかもがもう終わりました。この宮殿に、わたくしの味方をしてくれる人はもう一人もおりません。それがよくわかりました。なぜかはわかりませんが、世界は変わってしまいました。
 この世に残す未練ももうありません。夫と過ごした時間だけが、わたしの幸せでした。
 ただ、夫は言いました。必ず戻ってくると。どんなかたちになっても、わたくしのもとへ帰ってくると。どんなお姿でもいいからあの人に会いたい。どこかにお隠れになっているなら、わたくしから会いに行きたい。それのみがわたくしの望みです」そこまで言ってアミーナは俯き、腹に手を添えた。
「この子とともに」
 そして顔を上げると、サダムの目を見て、ささやくような声で尋ねた。
「このお薬に、わたくしに現世の体を捨てさせ、魂を自由にしてくれるほどの慈悲はありますか」
 そのとき、どさりとドアの向こうで音がした。ひとの倒れる重い音だった。サダムはつと立ってドアを細く開け、見張り兵が倒れているのを確認すると、つかつかと戻ってきて、アミーナの手から瓶をもぎ取った。
「時は来ました。ほんとうのことを申し上げましょう」今までと違う、切迫した何かを込めた強い声だった。
「ほんとうのこと?」
「わたくしは妃殿下をお連れに参りました。どうぞお逃げなさい、生まれ故郷のお国へなりと。兵たちは皆薬入りの酒で眠らせてあります」
「え……」
 サダムはアミーナの目の前でいきなり床にどんと膝をついた。
「どうぞその前に存分にこのサダムめに罰をくれてください。すべてを今申し上げます。これはマティヤ様の仕組まれた罠でございます。ハビール殿下のお気持ちがあなた様に向いているのを知って、マティヤ様は腹いせのためにわたくしにうその診断をするよう言いつけました。アミーナ様は妊娠されていると。命令通りにしなければ自ら冷水につかり流産し全てをわたくしの調合した薬のせいにすると、そうおっしゃいました。庭師に金をやってあなた様の寝室に文を結んだ花を投げ込ませたのも、マティヤ様です」
「……」アミーナはただ言葉を失って老医師の瞳を見た。
「王の逆鱗に触れればわたくしも家族も生きていけません。仕方なく言われるままにまず吐き気を誘う粉薬を調合し、それを入れてマティヤ様はあなた様と共にケーキを作りましたでしょう。そののちアミーナ様にわたくしの診断を受けさせ、わたくしは偽りの診断をいたしました。あなた様はご懐妊なさっていると。だが、だが」そこまで言うと、サダム医師は両手で顔を覆った。
「愚かにも、知らなかった。あなた様が、今まで、ラキード様に触れられずに過ごしてきたなどと。懐妊などと診断されれば、それだけで死罪となるような身であるなどと」
「いいえ、ラキード様はわたくしに触れてくださいましたわ。肩を抱き、歌を歌い、手も握って、やさしくわたくしを愛してくださいました」
 サダム医師はため息をつくとゆっくりと首を振った。
「なんといたわしい、無垢なお方だ。そのようにしてその年までを生きてきたのですか。子がどのように与えられるかも知らぬままに、なんという、……」
「では、では、わたくしは、夫の子を授かってはいないのですか? ……そういうことですか?」途方に暮れた様子でアミーナは子どものように問うた。「では、子を授かるには、どうすれば……」
「それを口に出すのははばかられます。おそらく砂漠の民であったあなた様から見て、蛮族が欲望に任せて娘をさらい乱暴狼藉を働く、それと同等の行為であるとしか」
「なんですって……」
 アミーナは声を失った。そういう悲劇なら身のまわりで見聞きしたことはあったのだ。
「そのようなことで天は子をお授けくださるのですか。愛がなくても?」
「はい」サダムはきっぱりと言った。
 アミーナは俯くと、口元を覆い、首を振った。
「でも、わが夫は、わたくしが子を授かったと告げたとき、このお腹に手を当てて祝福してくださいました。子などなせるはずがないと知っていながら、なぜ……」
 サダムの瞳から、涙が一筋こぼれた。
「わたくしの偽りの宣告で、殿下はどれだけお苦しみなさったか。だが、まことにラキード様はあなた様の魂を慈しみなさった。だから、一切あなた様をお責めにならなかったのでしょう。尊いことです。ああ、どうぞ、どうぞこの罪深い年寄りをご存分に……」
 アミーナは両手を床について体を震わせるサダムの横に座ると、背に手を添えた。
「あなたは持てる勇気のすべてを振り絞ってすべてを話してくださいました。何を罰することがあるでしょう。
 わたくしに自由を与えに来てくださって、感謝します。可能ならば、わたくしは砂漠へ行きますわ、そうして夫を探します」
 サダムはまぶしげに、充血した目を細めてアミーナを見上げた。
「そうなされるがよい。塔の裏に駱駝が一頭つないであります、宮廷で一番足の速い駱駝です。裏口の錠は外させてあります。あなた様のご不幸に心を寄せるものがいないわけではないのです」
「まあ……」
「真相のすべては文にしたためてわたくしの自室に置き、王にご覧いただくようにと召使に言い渡しておきました。アミーナ妃殿下の名誉は守られるでしょう。
 わたくしの罪は、神の裁きにゆだねます」そこまで言うと、サダムはいきなり床の瓶を持ちあげ、中身を一気にあおった。
「あ!」
 アミーナがとめる間もなく、瓶は空になり、サダムの手を離れて石造りの床に落ちて割れ、雫とともに砕け散った。
「さきほどの、ご質問に、お答え、しましょう」途切れ途切れにサダムは言った。

「現世の体を、捨てさせるほどの慈悲は、十分に、ご、……ございます。
 心正しきアミーナ妃殿下に、神のお慈悲の、あらんことを……」

 そして床に身を投げ出し、全身を波打たせて荒い息を繰り返した。アミーナが床を掻きむしる手を握り、その名を読ぶと、老医師は深い呼吸を一つして、そのまま瞳を閉じた。

 窓の外で、鳥が一声鳴いた気がした。
 アミーナは、衣擦れの音をさせて静かに立ち上がった。

 扉を開けると、足元には屈強な身なりが二人、薬入りの酒で前後不覚になっていた。アミーナは何一つ持たず、ただその細い体ひとつを黒い装いにすっぽりと包み、二つのからだを跨ぐと、急な階段を降りていった。
 夜のみがその身に親しかった。足元の見えない闇は恐怖ではありえなかった。
 塔の下に到達し、重い扉を押し開けると、鍵のかかっていない扉はきしみながら開いた。流れ込んできた月光のもと、足元にはまたひとつ、見張りの兵士の体が転がっていた。
それもまたいだとき、塔に続くあおじろい道を、大柄な体がもがくようにしてこちらへ駆け寄ってくるのをアミーナは認めた。
 右に左に身をかしがせるその体躯。
 国王、ハイサムだった。

 闇と同じ色の服に身を包んだアミーナの元へ、ハイサムは息も荒く駆けつけた。その手には、ぐしゃぐしゃになったサダムからの文があった。硬い髪を振り乱し、酒臭い息を吐きながら、ハイサムは言った。

「薬は飲んだのか」

「いいえ。サダム様がわたくしの代わりに飲み干し、お倒れになりました」

 アミーナはそのまま王の脇を通り抜けた。王は呆然と立ち尽くしたまま、独り言のように言った。

「よくぞくたばった」

 アミーナは塔の裏に回り、サダムの言っていた大型の駱駝を見つけた。立派な鞍をつけられ、椰子の木に綱をくくられていた。中身を確認するアミーナの背後で、王の言葉は続いていた。

「わしの耳に入るのは、裏切り者どもの策略ばかりだ。だから、なにも、信じなかった。……信じたかったが、それを自分に禁じた。信じるべきものも信じられなかったのだ。アイシア、アイシア!」

 アミーナは駱駝の手綱を手に、天を仰いで体をぐらつかせる、狂気の王の元へ戻った。
「わたくしを駱駝に乗せてくださいますか」
 王は充血した目でアミーナを見下ろすと、濁った声で問うた。
「どこへ行く」
「はい。ラキードさまの元へまいります」
 王は笑みを浮かべた。
「行ってくれ。ハヒードにも会ってくれ、アイシア。抱きしめてやってくれ。わしの自慢の息子たちだ、二人とも立派に育ったのだ」
「はい」
 王はアミーナの細い腰を抱えると、軽々と駱駝に乗せた。
 その背の上からアミーナは問うた。
「マティヤ妃はどうなりましょうか」
 そのとき天の高みから歌が聞こえた。

 本当にお優しい方ですわ、おやさしいかたですわ……

 極彩色の羽がひらひらと落ちて来た。王はかがんで羽を拾うと降るような星空を見上げ、一瞬正気を取り戻したような口調で言った。
「罪を抱えていようと腹にわが息子の子を宿しているなら育てる義務がある。その命は守られねばならぬ、終生自由は与えないが」
 そして両手を天に伸ばすと、叫んだ。

「砂漠の長鳴き鳥よ、エローラよ。そこにいるなら汚れなき乙女を導いてくれ。わが息子たちのもとへ」

 クアアアアアアと遠い声が響き渡った。

 王は分厚い城壁の扉を自らあけ放ち、駱駝の尻に一鞭くれた。

 アミーナを乗せた駱駝は砂煙を上げて夜の道を走り出した。その頭上を、鮮やかな、砂漠の長鳴き鳥が先導した。
 王はそのまま座り込むと、天を仰いで地面に転がり、片手に下げた瓶から残りの酒を顔にかぶった

 宮殿の裏手に続く並木が途切れれば、もう砂漠だった。駱駝と乙女と鳥は、波打つ砂の海に向かって駆け出した。人の手によるあかりはひとつとてなく、視界の果て、星々のきらめきが途切れる場所が地平だった。月と星が白く輝いてしゃらしゃらと夜の歌を歌った。
頭上を行くエローラも、呼応するように声を上げた。
 フルルルルル、ルルルフルルルルル。ラララララ、ララララララ……
 不思議な節だった。聞くだけで湧き上がるなつかしいような愛しいような思い、命のぬくもりを感じる声。星空の元、命尽きるまで駆け続けたなら、その先にこの歌を歌うものたちがいるような気がした。
 砂漠の夜の寒さは厳しく、夜が更けるにつれて気温は下がり、凍てつく風が容赦なく吹き付けた。
 どれぐらい駆け続けたか、次第に寒さと眠気がアミーナの意識を奪っていった。朦朧としながらも、駱駝がどんどん下り坂を降りているのは分かった。砂漠はいつか砂岩地帯になり、岩と岩の間を駱駝は速度を緩めて降りていく。すでに、谷底と言えるぐらいの位置についたようだ。駱駝は足を緩めた。うっすら瞼を開けたアミーナの視界にはごつごつした岩山の影ばかりが映った。
 星屑を散らしたような空を先導していたエローラのシルエットが、尖った岩の群れの一つの中に、すっと降下した。アミーナははっと目を凝らし、気力を振り絞って駱駝を走らせ、その岩のあたりを目指した。
 やがて龍の牙のような形の丈高い岩の群れの中にさまよいこむと、星空は狭くなり、さらに深い闇が迫ってきた。もはや駱駝では通れない。と、目の前の岩と岩の隙間からぼんやりした灯りが漏れているのをアミーナは認めた。
「ここで待っていて」
 アミーナは駱駝を降りて、凍える身体を励ましながら、おそるおそる岩の隙間を覗き込んだ。
 四方を灰色の岩に囲まれた、洞窟のような空間がそこにあった。
 大人三十人ほどが車座になれるほどの広さの砂地の中央に、こんもりと砂を盛りあげられた塚がある。その上には枯れかけた花々が添えられ、そのすべてを空間の隅のたき火が照らし出している。
 火のにおいに重ねて知らない香の香りが満ちている。
 見上げれば、岩の天辺にエローラがとまってこちらを見下ろしていた。
 
『目覚めれば、目の前にはたき火が燃え、そこは知らない景色で、丈高い岩々に囲まれた空間で、黒い影たちが何かを埋め、砂を盛り、塚を築き、花を添え、香油をまき、……』

 少年兵の言葉を思い出して、アミーナは塚に駆け寄ると夢中で砂を掘った。手ではまだるっこしいとなると、たき火から燃えさしの木切れを持ってきてそれで掘った。やがて、手にあたるものがあった。さらに砂をかきどけると、破れた水色のスカーフが見えた。

「……あなた!」

 アミーナは短く叫ぶと、懸命に砂を払いのけた。やがて、頭部を水色のスカーフでぐるぐる巻きにされた男の体の一部が現れた。スカーフの間に、あの日アミーナが手渡したジャスミンの花が茶色く変色して挟んであった。
「……ああ!」
 アミーナは叫ぶと、その顔を確認しようとスカーフの下の白い布を外そうとした。だが、香油と油で固められた布は容易にほどけなかい。アミーナは布の一部に爪を立てて懸命に引きはがした。やがて顔の上半分が現れたが、片目は長い睫をそろえて閉じられ、もう片目は砂サソリに食われて無残にも暗いがらんどうとなっていた。
 アミーナはその体の上に身を投げ出すと、両手で夫の体を抱きしめた。
「あなた、あなた、アミーナです。すべてを捨ててここまでまいりましたのに」
 激しく慟哭するアミーナの声は狭い空間に響き渡った。
 背を波打たせて嘆き悲しむその背に、突如ふわりと誰かの手が置かれた。
 アミーナは振り向いた。
 月あかりの下に立つものは、その背の高い戦士は、
 あの日見送った夫……美しく健やかな夫の姿、服装、そのままだった。

 男はかがみこむと、呆然としているアミーナの目の前で遺体を包んでいた布を元通りにし、砂を集め、遺体を埋め戻し始めた。丁寧に砂を盛りあげ終えると新しい花を添え、香油をその上にまいた。下を向いたまま、男は言った。

「やがてきちんとした墓を作ります。だが、それまで無事な姿でもいられまい。
 片目だけでも以前通りの様子をあなたに見てもらえてよかった」

 アミーナは隣に座り込んでその顔を凝視した。そして、両手で男の胸元をつかみ、さらに顔を近づけた。その拍子に、男の胸元から黄色い花がこぼれて落ちた。
 姉のマティヤが渡した、黄色コスモスだった。
 男は花を拾った。
 再び上げたその顔を、アミーナは少し顔を離して凝視した。そして、首を振った。

「わからない……」

 男は幽かに微笑むと、アミーナの手を取ってともに立ち上がった。そうして腰に下げていた幅の広い短刀を鞘から抜くと、刃をおのれに向けてアミーナに差し出した。

「ぼくがこれから話すことをお聞きになり、そのうえで兄の仇を取ろうとお思いになるなら、どうぞ使ってください。もし使われないというなら、あなたのために、失われた民が王国を用意して待っています」
「あなたは、ハビール殿下ですね?」
「はい」
 アミーナは苦し気に首を振った。
「そうであろうと思うのです。似てはいるけれど、少なくともわたくしの夫ではない。
でも、でも、……そこにいらっしゃる。わたくしの、ラキード様が。そう思えてなりません」

 焚火の揺らめきにその優しい顔貌を揺らしながら、男は言った。

「彼は失われてはいません。ここにいます。そして魂がちぎれるほどに、あなたをこの手に抱きたがっている。だが、現世のこのハビールの手は、罪に塗(まみ)れています」
「あなたが、ラキード様を殺したのですか」
「そうです」
「そして、父の安否は……」
「お父上も、わたしが手にかけました」

 アミーナはハビールに渡された剣を握り直した。
 そしてじっとその刃を見つめると、目を閉じ、渡されたときとは逆に、刃を自分の身に向けて持ち直した。

 ハビールは手を上げて、急き込むように語り掛けた。
「アミーナ姫。あなたがご自分の体を鞘にしようと、それでラキードと同じところに行けるわけではない。時間はいくらでもあるのです。死など、望めばいつでも手にすることができる。けれど、後戻りはできません」
「……」
「自分の愛も、憎しみも、このぼくに預けると、兄はそう言いました。ぼくのこのからだとひとつになって、生きる。それならば死は、ない。ひとつの、生しか。そう言って、旅だったのです。信じられないかもしれませんが、ラキードは、今このからだとともにいるのです。どうか、ラキードとハビールの長い物語をお聞きください」
 アミーナはするりと瞼を上げると、王子の顔を見て、言った。

「その前に、あなた様の心臓の音を聞かせてくださいますか」

「……心臓の?」

「わたくしの音も聞いてくださいませ。どうか、その腕の中で」
 そして剣を持った手を下に向けた。

 真上から風がついと吹き下ろしてきて、焚火の炎が揺らいで消えた。
 空間全体を闇が飲み込んだ。
 二人は暗闇の中、互いに一歩ずつ歩み寄った。
 ハビールは両の手をアミーナの背に回し、強く抱きしめた。
 凍てつく星月夜の元、今生きてここにあるふたりの肉の温度とその鼓動を伝え合った。
アミーナの甘い声が、闇に響いた。

「あなた……」

 そして、嗚咽がそれに続いた。

「たしかにここにいらっしゃる。ああ、ああ、ようやく、お会いできました……」

 ハビールの声が胸に響いた。

「いまここにいるぼくを、受け入れてくださいますか。そうであれば、この身のすべてをもってあなたを愛しましょう。仇を取りたければ、どうぞその剣をお使いください」

 短剣がささやかな音を立てて砂に落ちた。清流を転がる鈴のような声で、アミーナは答えた。

「どうぞ、あなたの愛と罪のすべてをこの身に刻印してくださいませ。
 今はじめて出会った人として、アミーナはあなた様のすべてを受け入れましょう。
けれど、わたくしという器は小さく、もろいのです。愛や命の何たるかも、いまだにわかりません。どうか少しずつ、少しずつ、雫を垂らすように、これからわたくしを満たしてくださいませ」

 フルルルルル、ルルルフルルルルル。ラララララ、ララララララ。妙なる歌があたりに反響した。それは長い年月のうちにこの岩山に籠った女たちの祈りが、水を与えられた花のように咲きほころんだかのようだった。幻の花は限りなく咲き続け、歌はあたりの岩山に反響してとめどなく響き続けた。


 やがて、砂漠をゆく孤独な旅人がいたなら、見ただろう。
 夜明けの空の下、首と足に飾り鈴をつけた駱駝に乗る若い王子と花冠の姫を先頭にして進む、異国の兵士と異国の女たちの長い長い隊列を。
 その頭上には色鮮やかな鳥が先導していただろう。
 長く尾を引くその鳴き声とともに、女たちの歌も聞いただろう。

 まことの幸せはどこにある。
 まことの幸せは砂の上に、川の中に、砂漠の楼閣のあの方の心の中に。
 ハビール・イル・スルヤ。ラキード・イル・スルヤ。
 アミーナ・イル・スルヤ……



 バッシャールはその後、マティヤの産んだ男児を跡取りとし、王家は継続したという。

 しかし、砂漠に消えたスルヤの幻の隊列が、その後どこに行きついたかは、誰も知らない。

 ただ波打つ砂漠の果てに、誰も届かない常世の都があり、スルヤの王子がいと美しき姫と民衆を伴って凱旋し、可愛い子どもたちを授かって末永く平和に暮らしたと、長鳴き鳥の歌が伝えるばかりだ。





《 常世の長鳴き鳥 了 》





【 作者コメント 】
まずは、長尺な物語にもかかわらず読了してくださって、票を入れてくださったすべての方に感謝です。こういった架空の世界ものを描くのは初めてで、そのぶんいくらでも好きに書けるのが結構楽しく、頭の中に展開する風景や人物を文字で追う形でかいていました。
うまくいかないときは文字で無理やり世界を描き出す感じなのですが、乗ってくると勝手に展開される世界を文字で追う形になるんです。後半そういう状態になったので、これは自分の世界掴んだかも、という手ごたえはありました。その一方、自分のジャンルじゃない、という抵抗が常にありました。そこを楽しんでいただけたならすごく感激です。これに力を得て、架空世界のファンタジーにも挑戦してみようかとも思います。


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