Mistery Circle

2017-11

《 銀蠅 》 - 2012.07.28 Sat

《 銀蠅 》

 著者:pink sand








 くぉっけけぇー。くぉっけけぇー。
 ニワトリのときの声にぽかりと目を開けると、視界がうすぼんやりと霞んだ闇に囲まれている。
 しばらく考えて、ああ、蚊帳だと気づく。
 ここは東京じゃない、岡山の絢倉の家だ。いま、自分は従姉妹たちと枕を並べて、広い和室の蚊帳の中に寝ているのだ。
 彩芽はもともと大きな瞳をさらに見開いてうす闇の中を見渡した。薄暗い部屋をほのかに照らすのは、雨戸の隙間からこぼれる朝日だ。細い隙間から、並んだ布団の上にしらじらと伸びている。お腹の上を横切って、左手の仏壇まで。
 その光の切れるところ、仏壇のお座布団を見ると、大きな蜘蛛がへばり付いていた。
 大きさは10歳の彩芽の掌ぐらいだろうか。四方に伸ばした長い脚は黒と黄色の縞模様で、腹部は薄気味悪いほどふっくらふくらんでいる。
 これはたぶん、……あの蜘蛛だ。
 さなちゃんがいってた。水辺にすむ魔性の女の人の化身で、男を誘って黄泉の世界に呼び入れる、って……
「さなちゃん、ジョロウグモ」
 つぶやいて目を右にやると、さなちゃんとかなちゃんは枕に揃いのおかっぱを散らして寝息を立てている。彩芽と同い年の双子姉妹。大人は皆別の部屋だ。まだ誰も起きてくる気配はない。薄い夏掛けをそうっとあげて体を起こすと、蜘蛛はもう見えなくなっていた。
 蚊帳をまくって畳の上にはい出て、雨戸の間から外を見る。大きな池と灯篭のある日本庭園はすでに夏の光と蝉の鳴き声に満ちていた。槇の生垣で仕切られた向こうには鶏小屋があり、くおっけけー、くぁーっかっかっかっとしきりに鳴き騒いでいる。
「おうし、今朝は三つじゃあ!」
 あいつだ!
 彩芽はがたがたと雨戸を開けて縁側に出た。はだけていたパジャマの前をあわせると、ウサギの描いてある桃色の突っ掛けをはいて鶏小屋へと走る。
ひとつ年上の従兄弟のタカちゃんがざるに卵を入れて出て来た。
「ずるい。わたしの役目なのに、先にとった」彩芽はざるを指さして口を尖らせた。
「そんなの決まっとらんが」下着に短パン姿の、やせっぽちのタカちゃんが鼻の下をこする。
「お婆ちゃんに頼まれてるの、わたしだもん」
「知らんが。はよ起きんからじゃ」
「どうしたん」
 玄関の横の納屋から、箒を手に祖母が出て来た。いつも銀髪をきりきりと後ろでまとめ、洗いざらした割烹着をきちりと着こんでいる。身体はちんまりと小さく、節くれだった指にもしみの散らばった肉厚の顔にも、年輪と威厳が松脂の香りのように漂っている。
「タカちゃんが先に卵とった」彩芽が頬を膨らますと祖母はきらりと目を光らせて孫の隆志を眺め
「あんたは卵取ったらいかん」
「なんでじゃ」
「たいがい一つか二つはその場で飲んどるじゃろ。あんたがあっこにいったあとは藁の上に殻が残っとる」
 タカちゃんは明後日のほうを見ながら彩芽にかごをつき出し、「つまらん」と言い捨てて母屋の方へ駆け出すのを、
「こりゃ。早起きしたんならあんたの役目はこれじゃ」祖母は庭箒を押し付けた。「外の道でも掃いとき」
タカちゃんは舌打ちすると、箒を抱いて納屋の横の木戸を開けて出て行った。
 2000坪はあろうかという屋敷は瓦屋根付きの立派な塀で囲われ、正門以外に出入り口が3か所ある。絢倉家は大地主だった。それはもう、苗字を言うだけで、駅前から乗ったタクシーがまっすぐつくぐらいの。
「どれ、また卵の殻でも拾わんと」彩芽の肩をポンと叩いてから鶏小屋の戸口を開けた祖母は、ひぇっ、と頓狂な叫び声を上げた。
「どうしたの?」
「鶏のトサカが真っ黒じゃが!」
 騒ぎに起きだしてさなちゃんかなちゃんが縁側から出て来た。3人で祖母のもとに駆け寄ると、金網の中で、4羽いる鶏たちのトサカが見事に黒く変化している。
「こりゃ何事じゃ、病気か、茂一に相談せにゃ」とたまげる祖母の後ろからさなちゃんが
「昨日左官さんがおいてったコールタール、タカちゃんがわけてもらって缶に入れてた」
「それでなにしてたん」
「絶対落ちないってきいたから小さいところで試し塗りするって言ってた」
「あのあほうが!」
木戸へ向かおうとした祖母は、小屋の影に置かれていたコールタールの缶にがしゃんと蹴躓いた。黒々と飛び散ったコールタールは祖母の着物の裾をてらてらと染め上げ、舞い散った埃と鳥の羽が張り付いた。

 夏休みになると毎年母は父を東京の家におき、姉と彩芽を連れて新幹線で里帰りするのがならわしだった。集まるときは声をかけあってきょうだい一同が子供を連れて集結するのだ。その年、姉は林間学校で参加せず、実家に集まったのは母と彩芽、母の妹にあたるまさ子叔母と息子のタカちゃん、ゆり子叔母と娘のさなちゃんかなちゃん、茂一伯父さんだった。茂一伯父の二人の息子は中学に上がってからもう親戚の集いに参加しない。祖父は気鬱の病いとかでうるさい母屋に顔を見せず、離れでいつもクラシックのレコードをかけている。
「く~ずい~、おはらいっ」
「く~ずい~、おはらいっ」
 長く尾を引いて歌うような呼び声が塀の外から流れてくる。勲章の沢山ついた古い軍服を着てラッパを吹き、リヤカーを引いてゴミを集める、近所の子たちが「ぎんぎら大将」と呼ぶおっちゃんの声だ。
「聞いたかタカ坊。お前なぞあのゴミ屋に出しちゃるとまさ子母ちゃんは言うとったぞ」
 伯父さんは声楽家なので叱る声もいいバリトンだ。
「そんなんうそじゃあ」
「参ったといえ。ひいひい喚けば許したる」
「お断りじゃあほう」
 体つきの大きな伯父はなかば楽しそうにタカちゃんを組み敷いている。 
「ギブアップ、ギブアップじゃあ」タカちゃんがばんばん畳を叩く。
「あんた、もういいかげんにし、タカ坊が壊れてしまうがな」祖母が隣室に向けて咎めるように声をかける。そうしながら、女たちは樫の大きなテーブルを囲み、のんびりと名物の白桃を剥く。
 黒一点の茂一伯父は、やせっぽちでいたずらばかりしてはお目玉を食らっている甥っ子の隆志をいじっていつも所在無さをごまかしているようだった。
「ほんとにねえ、うちのタカ坊も彩芽ちゃんみたいにお行儀がよければよかったんじゃけど」まさ子叔母が楊枝で刺したひと切れを口に放り込みながら言う。
「そんなん、この子もこれで結構手がかかるんよ」彩芽の母親が面映ゆそうに答える。
「うちの根性曲がりに比べりゃ楽なもんじゃが。ああ、おばちゃんも持つなら娘がよかったなあ。あんなひいひい坊主じゃなくて、彩芽ちゃんみたいな、目の大きなお利口さん」
 自分に向けられた視線がこそばゆくて、彩芽は誤魔化すように丸のままの白桃にかじりついた。彩芽は東京では結構なお転婆なのだが、なぜか岡山に来ると「お行儀のよいお嬢さん」を演じようとする変な癖があって、自分で自分を窮屈に思っていた。
「おとなしいお利口さんならさなちゃんかなちゃんもじゃろ、なあ」渡された肥後守で桃を丁寧に切り分ける双子に向かって母が言う。
「なんの、うちの二人はおとなしいだけで、頭はからきし」
「大人しいのが一番じゃ。うちは一度子どもあかんようにしたからなあ、あれが縁の最後じゃったか」まさ子叔母は昔、女の子を死産したことがあるらしかった。当時はそれは泣きぬれて食事ものどを通らなかったという。いまさら詮無いことじゃと言いながら折に触れては口に出し、今も影膳をかかさない。
「生まれていればもう六歳じゃ」
「数えても子どもは大きゅうならん」眉を寄せて祖母が言う。
「数えるぐらいしたいんじゃわ」
「いない子にゃ苦労はしない、なあ、名言じゃがまさちゃん」母は 東京では家の中以外、方言を封印して標準語をしゃべっていた。ここに戻れば遠慮はいらない。はじけるように故郷の言葉が飛び出す。彩芽は水田で揺れる稲穂のように自然なその音節を聞くのが好きだったが、すると今度は愛想のない自分の標準語が妙に気恥ずかしく思えて来るのだった。
「わしにも桃、ひとつくれ」伯父から解放されたタカちゃんが赤い顔をしてかけこんできた。
「あんたは当分おやつは禁止」まさ子叔母は横目で息子を睨みつけた。
「なんでじゃ」
「自分がしでかしたこと考えてみい」
「ちゃんと謝ったが」
「謝っても着物は元通りにならん」
「あんたそんなきつうに言わんでも」祖母が口を挟む。「食べ物で子どもに切ない思いさせたらいけんわ」
「ええわ、もういらん」タカちゃんは一言いうと奥の部屋へ引っ込んでしまった。
「タカ坊、これから婆ちゃんのお使いしてくれるか。ちゃんとやったら婆ちゃんが桃やろう」奥に向かって祖母がなお声をかける。
「あの子は午前中に桃を二つもむいて食べよったからいいんよ。口が卑しいんよ」と答えた後、まさ子叔母は彩芽に顔を近づけ、
「おばちゃんの子にならん?」と、小声でささやいた。
 彩芽は下を向いたまま首を横に振った。
 
 いくつも和室の連なる、薄暗くだだっ広い空間の隅で、ちゃぶ台を囲み、女の子組は昼間はたいていお絵かきをした。叔母たちは連れ立って天満屋(町一番のデパート)へ出かけ、伯父は縁側で、離れから起き出してきた祖父と碁を打っている。
 さなちゃんかなちゃんは二人とも透き通るように色が白くおかっぱで、目が細い。二人並ぶと、一対のこけしのようだと、彩芽はいつも思う。
「彩芽ちゃん一番絵がうまいね」
「うん、すごく上手」
 二人は彩芽が女の子の絵をかきだすと、すぐ手を止めて覗き込んでくる。彩芽はお姫様の髪を黒く塗りながら聞いてみた。
「さなちゃん、ジョロウグモって、悪い女の人の化身だっていってたね」
「そういうお話があるんよ。でもほんとにばけてるひともおるかも」
「田舎にジョロウグモが多いのは、悪い人が多いのかな?」
「でもね、蜘蛛にとりつかれてる人はおるよ」かなちゃんがこともなげに言う。かなちゃんは唇の下にほくろがあるので、見分けるのに役立った。
「とりつかれてるって、どういうこと」彩芽は顔を上げて聞いた。
「町あるいてるとね、ときどき、うしろに蜘蛛がついてる人がおる」
「背中に?」
「そうじゃなくて」さなちゃんとかなちゃんは顔を見合わせた。
「黒い、……影みたいな」
「蜘蛛みたいな何かを、背負っとるんよ」
 彩芽は二人の顔を交互に見た。
「ふたりとも、見えるの、それ? ついてるの、蜘蛛だけ?」
「のっそり帯みたいに、ながあいもんがついてってるひともおる。男の人に多い」さなちゃんがさらりと言う。
「前も言うたが。そういうの、わたしたち、見えるんよ。ときどき。でもこの話あんまりしたらお母さんが怒るから、やめよ」
 ときどき、と言われて思い出したが、彼女たちは「灰色のひとがたくさんいる」と言って、お墓参りを嫌がるのだ。ゆり子叔母は、怖がりだから言い訳してるだけじゃ、と笑っていたが、そのときになって初めて、彩芽は彼女たちが本当に「何か」を見続けていたことを知ったのだった。けれどそんなこともこの土地の、埃臭い、生き物臭い風の中では自然なことのようにも思われた。

 さなちゃんかなちゃんが母親と買い物に出た日、
「タカ坊と一緒によもぎといちじくもいでおいで」
 祖母に大きな蔓の籠を持たされて、彩芽ははあいと元気に答えた。よもぎもいちじくも、ここらあたりでは空き地や道のはたに生えているものをとってくるのが普通だ。柔らかい春よもぎに比べ夏よもぎは固いのだが、薬効が増すと言って、おばあちゃんは濃い味付けの調味料に漬け込んだり、干してお茶にしたりする。
 彩芽は庭に出たが、どこにもタカちゃんの姿が見えない。仕方なくひとりで木戸を開けると、用水路のきわの植え込みでタカちゃんが尻をつきたてているのが見えた。
「何してんの」
「しいっ」
 タカちゃんはこちらを見ると口に指を当てて片手の牛乳瓶を見せた。何やらどぎついピンク色の液体が入っている。
「それ、なに」
「おもろいぞ。蟻も酔っぱらうんぞ」
「蟻が?」
 彩芽が覗き込むと、埃っぽい地面にいくつも開いた蟻の巣穴の周辺を、タカちゃんがピンクの液体でドロドロにしている。その液体におぼれるようにして、黒い大きな蟻がたくさん、ヨタクタと這いずっていた。
「やめようよ、蟻いじめるの」彩芽は眉間にしわを寄せた。
「いじめとらん、みんな気持ちいいんじゃが」
「気持ちいいの?」
 タカちゃんはにっと笑うと、牛乳瓶をつきだした。
「飲むか。赤玉ポートワインのカルピス割り」
「お酒でしょ。台所からとったんだ。悪いんだ」
「もうここにあるから悪うても仕方ない。うまいぞ、飲んでみ」
 おそるおそる口をつけると、甘味と刺激と果物を煮詰めたような香りが喉元を通りすぎたとたん、頬がかあっと熱くなった。彩芽は思わずのど元を押さえた。
「なんか、顔が熱い」
 よくみると、タカちゃんの頬もぽおっと染まっている。
「どこいくん」赤い顔でタカちゃんは聞いてきた。
「いちじくと、よもぎ採りに。タカちゃんと一緒に行けって」
「というと、線路沿いの土手じゃな。おし」
 タカちゃんは調子に乗って赤い液体にまた口をつけた。なんだか体が軽くなってきて、二人はケラケラ笑いながらはねて歩いた。
 乾いた道の端には深い水路があり、水面には常に水紋が次々と現れては消えている。巨大なオタマジャクシがドジョウのように呼吸をしに出てきては水底にとんぼ返りしているのだ。
「これ何ガエルになるんだっけ」彩芽が聞くと
「ウシガエルじゃ、声も体もでっけえやつ」タカちゃんが答える。
ウォンウォンと野太い声で鳴きしきると頭がガンガンするぐらいうるさい。クラシックのレコードを聞いてしんみりするのが好きな鬱性の爺ちゃんは、ウシガエルの合唱が癪に障るらしく、ときどき雨戸を開けてはやかましいっと喚きながら水をぶち撒いていた。
「食うとうまいらしいぞ。いつか婆ちゃんに言って焼いてもらお」
「カエルなんか焼くわけないじゃん」
「わしがさばいてな、鶏肉だって言って婆ちゃんに渡すんじゃ」
「そんなのばれるよ。お婆ちゃん、怒ったら怖いよ」
「そんでもうちの鬼婆よりましじゃ」
「そんなこと」
「鬼婆はもともと、わしのおふくろじゃないしな」
「えっ?」
「おやじが言ってた。お前の母さんのほうがまさ子よりずっと美人だったって」
 彩芽は何と答えていいのかわからず、目を真ん丸にしたままタカちゃんの充血した目を見た。
「じゃ、ほんとのお母さんて、……どこにいるの」
 タカちゃんはまたピンクの液体をラッパ飲みした。
「死んだ。わしが三歳の時、はしょうふう、とかいう病気でな、転んでけがして次の日に死んだって」
「……」
「きっちり結ってた髪が、死んだ途端にざああって畳に広がっていってな、そりゃあきょうてえ(こわい)けしきじゃったって。そんでもやっぱり、母ちゃんより夕子のほうがきれいじゃったって」
「それも、お父さんが言ったの?」
「酔っぱらってるときにな。そのあと部屋に入ってきた母ちゃんがむちゃくちゃに怒って湯飲み投げつけて取っ組み合いのけんかになった。お前も夕子のとこへ行けって。庭に布団や鍋放り出して、出ていけえって、そりゃすげえもんじゃ、近所中が見に来たわ」
 く~ずい~、おはらいっ。く~ずい、おはらいっ。
 聞きなれた声が遠くから響いてきた。
 二人は思わず立ち止まった。二人が行く古い家に挟まれた道の先の十字路を、畑のほうに向かってリヤカーを引いていく草色の軍服が横切ったのが見えた。
「……ついてくか」
「うんっ」
 ふたりはひたひたと足を速めてリヤカーのあとをつけた。
 あまり近くに寄ったらいけんよ、なにをするかわからん、あれは頭が遅れとるし『ブラク』じゃけえ、と祖母からよくわからない単語を混ぜて言われていたことが、かえって二人の好奇心をかきたてていたのだ。
 足音を忍ばせて近づくと、リヤカーを引く後姿がだんだん大きくなった。
 草色と黄土色を混ぜたような色あせた軍服、帽垂れのついた軍帽、ボロボロの厚ぼったい肩章。なにかよくわからない勲章に交じり、ワッペンやボタンやバッジを体中にぶら下げている。体はまるくころりと膨らんでいて、靴はぼろぼろのブーツだ。リヤカーには自転車やタイヤ、なにかのワイヤーのようなもの、金網のようなものが乱雑に積んであった。
「あれ、売るとお金になるのかな」
「鉄でできてるものは銭になるんじゃと」
「売るなら、そこらへんにあるものでいいのにね。よもぎとか、いちじくとか」
 ひそひそ声で話していると、大将は赤い房の付いたラッパをひときわ大きく、ぱぷー、と鳴らして、くるりとこちらを向いた。
 二人はぎょっとして立ち止まった。
 大将は黒ずんだ顔じゅうでにいっと笑った。
 垢だらけの頬はてらてらと茶色く光って、綿でも含んだように大きく膨らんでいる。細めた目は充血してはいたが、なにか草食動物のような妙な優しさがにじんでいた。
「それ、なんだ」大将はかすれ声で言った。
「えっ?」タカちゃんは素っ頓狂な声を出した。
「そこに、なに、持ってる」
 タカちゃんはそおっと、手に握りしめていた牛乳瓶を翳した。ピンク色の液体を見て、大将は首を傾げた。
「じゅ、じゅうすじゃ」タカちゃんはどもりながら言った。
「ほ、ほしいなら、やるぞ」
 彩芽は、農道で汚い野良犬にあったとき、タカちゃんが同じように食べかけのパンを差し出してから、彩芽の手を握って一目散に逃げたときのことを思い出した。
 大将はゆらりと近寄ってきて、タカちゃんの差し出した牛乳瓶を受け取り、上を向いてひと口飲んだ。それから口の周りをぺろりと舐めると、ぐっと上を向いて残りを全部飲み干してしまった。大将の全身から、汗を煮しめたような、お便所臭いにおいがした。
「ん」大将が差し出したからの瓶をタカちゃんが「いい」と手を振って断ると、大将は瓶をリヤカーにほうり投げ、「いちじく、あるぞ」と言ってまた笑った。
「いちじく? どこに?」
「たくさんあるぞ、こい。よもぎもあるぞ」
 そのまま前を向いてガラガラとリヤカーを引く大将のあとを、二人はおそるおそるついて行った。畑の中の一本道は街はずれの山のほうに向かっていた。ここから先は二人とも行ったことがない。すれ違う農夫が、三人を不思議そうに見ている。カンカン照りの青空の奥で、とんびがぴ~~~ひょろろ~~~と長く鳴きながら弧を描いている。四方八方からクマゼミの声がシャワシャワと覆いかぶさってくる。ぱぷー、とまた大将は勢いよくラッパを吹いた。
 ぴいひょろろ~~~。ぱぷ~~。くずーい、おはらいっ。
 しばらく行くと、鎮守の森の手前に、灰色の墓石がたくさん立ち並んでいるのが目に入った。
 知らないお墓だ。
「タカちゃん……」
 彩芽が、もう帰ろう、という言葉の代わりにタカ坊の腕をぐっと握ると、大将はくるりと振り向いて、赤い顔で言った。
「たくさん、ある」
 これは逃げられないと観念してついて行くと、足を速めた大将は墓地の手前で立ち止まり、足元を指さした。
「ここ」
 畑と墓の間にはきらきらと澄んだ小川が流れ、白い小花が一面に咲いていた。そしてその向こう、木でできた粗末な橋を渡ったあちら側に、それはもういちめんによもぎが生えている。そのきわに、こんもりといちじくの茂みがあった。
「ほんとだ!」
「すごい、たくさんある」
 二人の声に、大将はにっとうれしそうに笑った。そして自分は川に入り、ざぶざぶと水で顔を洗い始めた。
 二人は橋を渡り、夢中でいちじくとよもぎを摘んだ。とくによもぎは墓地の墓石の間にまでわさわさと生えていた。彩芽の持っている籠がいっぱいになるまでよもぎを摘み、いちじくをもぎ、喉の渇きをいやすために皮を向いてはかじりついた。そのうち、無理やり飲んだ酒が全身に回り、彩芽はだるさと暑さと気持ち悪さでへたり込んでしまった。
「もういいことにしよう、タカちゃん」
 彩芽が声をかけると、タカちゃんはぼんやりと、よもぎを握ったまま小川のほうを見ている。
「何見てるの?」
 タカちゃんの視線の向こうで、大将が裸の上半身を拭いていた。どうやら小川で水浴びをしていたようだ。汚いタオルで全身をばたばたと拭いているその背中に、何か妙なものを見て、彩芽は目を凝らした。
 大きなぶ厚い背中に、なにか張り付いている。
 なにか、うすい、透明な、ビニールみたいな大きなもの……折りたたまれているようにも見える。
 透明ななにかは風に揺られるようにふわあっと大将の背からはがれると、背中を中心にして両側に大きく広がった。
「あ」
 タカちゃんと彩芽は同時にそれぞれの口を両手で押さえた。
 大将の背中から生えた透明ななにかは、風にふわふわとそよいでいた。いや、何かではない。それは確かに、羽だった。透き通った蝉のそれのように薄い薄い羽が、ゆっくりと羽ばたきを繰り返している。
 やがて背中のきらめきは空気に溶け込むようにすうっと消えてしまった。
 あとにはただ、水浴びを終えた後のゴミ拾いの大将が身体を拭いている風景だけが残った。
 やがて衣服を身に着け終わると、大将は若草色の軍帽をかぶり直し、こちらに向かってにこにこと笑いながら手を振った。二人も呆然としたまま、手を振り返した。
大将はラッパを手に取った。
 ぱぷー。
 そして二人には目もくれず、そのまま山の方へ向かう道を、がらがらとリヤカーを引いて一人で行ってしまった。
 夕日に顔を照らされながら、彩芽とタカちゃんはぼんやり立ち尽くしていた。
 背中から羽の生えた人間、いや、にんげんの形をしたもの。それには名前があったはずだ。大将とは似つかわしくないイメージの。
 それを口に出すのがなんとなくはばかられて、彩芽はそっと聞いてみた。
「ねえ、タカちゃん。わたしたち、いま、何を見たんだと思う?」
 タカちゃんはぼそりと答えた。
「……ありゃあ、銀蠅じゃ」

 彩芽は家に帰り付くと同時にくたくたになって横になってしまった。籠の中の山盛りのいちじくとよもぎを見て、祖母はこんな時間までどこまで取りに行っていたのかいぶかしんだ。タカちゃんは正直に答えた。
「鎮守の森の手前の、小川のそばの、墓地」
 途端に祖母の声が険しくなった。
「あそこは土地柄も悪い、いい噂を聞くものの墓じゃありゃせん。そもそも、墓で摘んだよもぎやら食べられやせんわ。なんでそんな遠くまで、彩芽が具合悪くするまで連れまわしたん。だれかに教えられたんか」
「あ……」
 隣の部屋の布団で横になったまま、はねのことも含めて喉元まで大将のことが出かかったが、彩芽はひじをついて上半身を起こすのが精いっぱいで、言葉にはできなかった。
「わしが連れてった。たくさんあるて聞いたんで」襖の向こうから、タカちゃんが答えるのが聞こえる。
「いつ、誰から聞いたん」まさ子叔母の声だ。
「知るか。秘密じゃ」
「皆心配しとったんじゃ、ちゃんと答え。誰から聞いたん」叔母が声を荒げた。
「銀蠅じゃ」
「何じゃて?」
 とたんに彩芽の脳裏に、ころりと太ったからだから伸びていた羽が絵になって浮かんだ。
タカちゃんから見ればたしかに銀蠅だ。その答えがあまりにおもしろくて、あの場で否定しなかった自分を、彩芽は大将に対してなんだか申し訳なく思った。
 とにかく、タカちゃんも、あれを見たんだ。
 口に出してはいけないことのような気がして誰にも言わずに来たけど、そしてこれからも多分言わないけれど、確かにわたしたちは、同じものを見たんだ……

「彩芽ちゃん、だいじょうぶ」
 さなちゃんかなちゃんが蚊帳をめくり、水を持ってきてくれた。うとうとしている間に夜も更けていて、喉が渇いていた彩芽は、ありがと、と言ってコップの水をごくごくと飲んだ。汗びっしょりの彩芽には、どんなジュースよりも、その水は甘くおいしかった。
「いちじくとよもぎ、どうなったかな」
 彩芽が尋ねると、さなちゃんかなちゃんは顔を見合わせて、申し訳なさそうに言った。
「お婆ちゃんが捨てちゃった、縁起でもないって」
「そうか……」彩芽は俯いた。
「ねえ、彩芽ちゃん。きょう、ぎんぎら大将といっしょだったん?」
 さなちゃんに突然言われて、彩芽は言葉に窮した。「どうして……」といったまま、後が続かない。
かなちゃんが口を開いた。
「お婆ちゃんから土地借りてる農家のおじさんが言いに来たんよ。今日農道でお孫さんふたりとゴミ集めの大将が一緒に歩いとったが大丈夫ですか、ちゃんと帰ってきましたかって」
 彩芽は頭がくらりとした。近づかないようにと何度も釘を刺されていたのは彩芽なのだ。『ブラク』だから、と。
「あの、それで、タカちゃんは……」
「まさ子叔母さんがふて寝してたタカちゃんに聞こうとしてふとんひっぺがしたら、タカちゃん自分の布団の中に赤玉ポートワイン隠してびしょびしょにしてたん。それで、もうたいへん」
「ええっ」
「彩芽ちゃん、飲まされたんだよね?」
「う……ん、ええと」
「タカちゃんが言っとった。カルピスに混ぜてだまして飲ませたって。酔っぱらっていい気分だったからラッパについてっただけだって。まさ子おばさん本気でビンタするし、お婆ちゃんカンカンに怒るしで、もうえらいことじゃ」
 彩芽は布団の上に置きなおった。そして真剣な表情で、揃いのこけしのようなさなちゃんかなちゃんに問いかけた。
「で、タカちゃん、いまどうしてるの」
「お仕置きだって言って、おじいちゃんと一緒に離れに寝かされとる」
「そうか……」
 あの雨戸に囲まれた陰気な離れを思い出して、彩芽はため息をついた。自分を通り越してタカちゃんだけにぶつけられた罰は、ずいぶんと不当なものに思われた。しばらく俯いて考え込んだ後、ふと顔を上げて彩芽は聞いてみた。
「ね、さなちゃん、かなちゃん。ふたりとも、人の目には見えないものが見えるって言ったよね。じゃあ、ぎんぎら大将、あの人の後ろに、なにか見えたことある?」
 二人は顔を見合わせた。
「ある? さなちゃん」
「あんまり近くで見たことないけど、わからんな」
 二人の答えに、彩芽はほっとしたようながっかりしたような妙な安堵を覚えた。やはり自分とタカちゃんは、ただ、酔っぱらっただけなのかもしれない。
「ありがと、ごめんね。ちょっときいてみただけ」
「あ、でもね」かなちゃんが続けた。
「タカちゃんのうしろに、ときどき、見えるものがある」
「なに、それなに?」彩芽は急き込んで尋ねた。
「さなちゃん、わかるよね?」かなちゃんに尋ねられて、さなちゃんは黙り込んだ。
 やがて、困ったように口を開くと、小声で言った。
「なんか、言いたいことはわかるけど、今は、言っちゃだめじゃわ」

 翌朝は雨だった。
 起きてすぐ渡り廊下を渡ってお手洗いにいくと、庭を横切って、おばあちゃんが何やら風呂敷包みを裏の離れに運ぶ姿が見えた。部屋に戻ってみると、母屋の台所の広い机では、朝食の皿を並べるおばちゃんたちに交じっておじいちゃんがばたばたとうちわを振りながら麦茶を飲んでいる。タカちゃんは今、ひとりぼっちだ。
「あの、タカちゃん、ご飯もここで一緒に食べちゃだめなの」柱に寄り添ってそっと聞いてみると、まさ子叔母さんがこっちを向いて笑って見せた。
「いい加減ここらで思い知らせにゃダメなんよ。根性曲がりだし、悪さばかりして、彩芽ちゃんも危ない目に遭わせて、ほんに悪いことじゃったな」
「あの坊主はしばらく一人にしたほうがええんじゃ。白い目して睨むばかりで辛気臭うてかなわん、わしゃ今夜は母屋に泊まる」おじいちゃんが続けた。
「じゃ、タカちゃん、夜も……」
「なんの、明日になったらおばあちゃんが戻すじゃろ」ゆり子叔母がこともなげに言った。「昔は悪さした子はもっと狭い物置やら蔵やらに閉じ込められたもんじゃ」
「ほうじゃ、お婆ちゃんはそりゃあ厳しかったんよ。箒振り立てて、娘らひとまとめにして、あんたたちはカスじゃ。カスの、ゴミの、クズじゃ!って追いまわしてなあ」母が続ける。まさ子叔母があとを継いだ。
「言われんかったのは茂一さんだけじゃ。姑さんがまあきつい人でなあ。お婆ちゃんもいろいろ我慢していたんじゃろうけど、毎日カスだゴミだ言われるこっちも相当きつかったんよ。それにくらべればあのぐらい、なにへんがありゃあ」

 その日、みんなタカちゃんなど最初からいなかったかのようにお茶を飲み、桃を食べ、おしゃべりをして過ごした。彩芽は夕餉の場でも、言葉少なに自分の箸の先ばかりを見ていた。そして、皿洗いを手伝うふりをして、おかずのお芋の残りと卵焼きをお弁当箱に隠し、それからお仏壇のおはぎもつっこんで布団の中まで持ち込んだ。
 その夜、彩芽は母屋全体が寝静まるのを待って、弁当箱を抱え、蚊帳から起き出した。隣の布団のさなちゃんかなちゃんちゃんがぐっすり眠っているのを確かめて、襖を開けて廊下に出る。つきあたりの木戸を開け、スイッチを入れて渡り廊下の豆電球をつけると、ぼんやりした灯りが廊下を寂しく照らし出した。頭上の蜘蛛の巣をよけながら渡り廊下を渡り、独立したつくりになっている厠に入る。そして手を洗いながら小さな窓から裏を見た。タカちゃんのいる離れは、庭木の陰になっていて見えない。手洗い所から裏庭に出る木戸の閂を内側から開けると、彩芽は闇の中に目を凝らし、踏み石の上の大人用のつっかけにつま先を入れた。
 深夜の庭ではカジカガエルがコココケケケと鳴きしきり、塀の外ではウシガエルがウォン、ウォンと吠えるように鳴いていた。群青色の空にはむら雲が荒々しく流れている。昼間の雨の水滴をまだのせているアオキやヤツデをかき分けてがさがさと離れに近づくと、寝間着の袖がぐっしょりと濡れた。
やがて、離れの雨戸の隙間から細い灯りが漏れているのが見えた。
 雨戸を開けるのは力仕事だし大きな音がする。引き戸のある玄関に向かい、横倒しのつっかい棒を外して彩芽は引き戸に手をかけた。
 内側からかぎは掛かっていないらしく、意外なことに引き戸は簡単に開いた。
 玄関の内部は土間のたたきで、控えの間の豆電球の灯りでぼんやりと薄明るかった。
「タカ、ちゃん」
 小声で呼びかけると、しばらくして奥のほうからごそごそという音が聞こえ、
「誰じゃ」タカちゃんの低い声が答えた。
「わたし。彩芽だよ」
 すすきの描かれた襖がごとごとと開いて、ぼさぼさ頭のタカちゃんが姿を現した。
「お前……」
 タカちゃんはそのまま言葉を途切らせて、ただ普段細い目を真ん丸く開いて彩芽を見た。
「あのね、晩御飯、食べた?」
「ああ」
「それなら、よかった」彩芽は両手で弁当箱をつき出した。「お腹空いてるかもと思って、これ、もってきた」
 タカちゃんはしばらく黙ったまま弁当箱を見ていたが、一言「上がり」と言って背を向けた。
 タカちゃんに続いて8畳ほどの和室に入ると、二人分の布団が敷いてあった。ひとつは多分敷きっぱなしのおじいちゃんの布団、もう一つがタカちゃんのだ。布団の脇の盆の上には白っぽい液体の入ったガラス瓶があった。灰色の扇風機が、ときどき首をこきっと鳴らしながらゆっくり回っている。
「なに、その白いの」
「甘酒じゃ」タカちゃんが座りながら言う。
「爺ちゃんが、誰もわからんところなら何飲んでも文句言われんだろて。子どもだから甘酒で我慢しとけって、置いてってくれた」
「へえ……」
「つまらんことがあった日は酒が最良の友じゃ、わしもここと酒があったからきつい婆さんでもやってこれたって」
彩芽は今朝の爺ちゃんの渋い顔を思い出して、なんだかあったかい気分になった。あの場の誰とも血のつながりのないタカちゃんを思ってくれていたのは、日頃表情のない人嫌いのおじいちゃんだけだったのだ。
 それから二人は向かい合って彩芽の持ってきた芋と卵焼きを食べ、おはぎを半分こしてわけあった。タカちゃんは口をもぐもぐと動かしながら空中の一点を睨んでいるようだった。頬は赤く熱がこもっているように膨らみ、視線がしんとして動かない。彩芽はなんだか怖くなって聞いてみた。
「ねえ、甘酒に酔っぱらってるの」
「あないなもんで酔わん」
「でも、顔が赤いよ」
「おかんに往復でひっぱたかれたからじゃ」
「えっ、それ、腫れてるの」
「おまえなんかいらんて、さいしょからいらんかったって、はっきり言いよった」
「……」
「あの婆、いつか思い知らせてやる」
「タカちゃん……」
「いつか殺したる」
「そんなこと言わないで。怖いよ」彩芽は思わず縋るように言った。
「いつもいつもじゃ。日頃から言いよった。可愛い世話のかからん女子がよかった、ダメ父ちゃんごと外れクジ引いたって。あの婆の家で大人になんかなるか、こっちこそまっぴらじゃ」
「じゃあ、大人になったら、家を出れば」
「それまでこらえられん」
「でもこらえないと警察に捕まっちゃうよ」
「捕まるか。逃げればええんじゃ」
「駄目だったらだめ!」彩芽は大きく目を開けると、赤く膨らんだタカちゃんの顔の前に顔を突き出した。
「いっしょにちゃんと、大人になろう。それから、いっぱい、がんばればいい。誰も殺したらだめ!」
 タカちゃんは思わずのけぞったが、目の前の彩芽の目をまじまじと見ると、ぷっと噴き出して言った。
「お前、目、でっけえのう」
 それからタカちゃんは、けっこう甘くてうまいぞ、といいながら彩名に茶碗を持たせ、甘酒を継いでくれた。これでまたいい気分になったら昨日の倍怒られるんだろうなと思いながら、彩芽は甘酒を飲んだ。そのときは自分も並んで怒られよう。タカちゃんと同じぐらいぶってくれと言おう。そしたらまさ子叔母ちゃんもいろいろ考えてくれるかもしれない。
 頭も瞼も何もかも重くなって、おじいちゃんの匂いのする敷きっぱなしの布団にこてんと横になると、天井板のすみに蜘蛛が見えた。縞々の手足、膨らんだお腹。ああ、ジョロウグモだ。あのときの……あのときの……
 何かもやもやした夢をいくつか通り過ぎた気がする。音や声が耳の中に反響する。カスの、ゴミの、クズです!という叫び声と子どもの泣き声。くぉっけけ~~。ぴ~~ひょろろ、ウォン、ウォン。ピンクの液体の中におぼれてゆく大きなアリたちの、しおたれた触角。
 彩芽がふと我に返ったのは、それまでしきりに聞こえていた庭のカエルの合唱がぴたりとやんだからだった。
 突然の静寂の中で、彩芽はぽかりと目を開いた。
 天井の豆電球がぼんやりとともっている。
 そのとき、左側からふうっと風が吹いてきた。
 扇風機はもう止まっている。雨戸は閉まっている。風が入ってくるはずがない。
 彩芽はゆっくりと体を反転させて左の、タカちゃんが寝ているほうを見た。
 雨戸は庭に向かっていつの間にかあけ放たれ、夜明け前の群青の空気の中、外に誰かがすっくと立ってこちらを見ていた。
 その真っ黒なシルエットは異様に細く、家の誰とも違う体の線で、和服を身に着けた女性だ、ということだけが瞬時にわかった。
 その途端、彩芽の全身は凍りついたように動かなくなった。
 タカちゃん、と隣に声をかけようにも、喉が固まって声も出ない。タカちゃんは目を閉じたまま、苦しそうな寝息をたてている。
こちらを向いて立つ女の人は、のしり、と進んで縁側に足をかけた。そのとたん、結っていた女性の髪がばらりとほどけ、ふわあっと風に乗って四方八方にざんばらに広がった。
 女の人は風に髪を散らばせたまま真っ黒な姿でゆらゆらと部屋に上がってきた。
 そして足音も立てずにタカちゃんの上にかがみ込んだ。
 女の人の横顔が見える。鼻が高い。泣いているのか、唇が震えている。彩芽は全身に冷水を浴びたように冷たい汗にまみれていた。 自分は今、見てはいけないものを見ている。でも、見えてしまう。目を閉じることができない。
 声が出ない、身体が動かない、息もできない……
 そのとき、庭の方から風に乗って声が聞こえた。
 くず~~い、おはらいっ。くずう~~い、おはらいっ。

「だめえっ!」
 
 自分の声で突然体が自由になった。彩芽は跳ね起きると、タカちゃんの体に覆いかぶさり、しがみついた。
「だめ、タカちゃん、起きて、タカちゃん!」
 そのとき、母屋の方でも悲鳴が聞こえた。子どもの泣き声と叫び声、がたがたと母屋の玄関を開ける音、そしてばたばたという足音が門のほうに向かっていく。
「おどりゃあ、何のつもりじゃあ」「何しに来たあ」「逃がすなっ!」
 野太い怒号は多分、茂一伯父だ。がくがくしながら顔を上げると、群青の薄闇にもう女性の姿はなかった。ただ、目の下のタカちゃんの息はひどく荒く、そして砂漠の熱風のように熱かった。顔はますます赤く、汗を含んで膨らんでいる。
 そのとき、あけ放たれた雨戸の向こうに人影が現れた。夜明けの薄明かりの中で、それがまさ子叔母だと彩芽にはようよう分かった。
「おばちゃん、おばちゃん、タカちゃんが」彩芽は震える手を伸ばして、突っ立っているまさ子叔母を手招きした。叔母ちゃんは履き物を脱ぎ散らかして縁側から上がってきた。
「誰か来たんか、ここに。彩芽ちゃん、大丈夫か?」まさ子叔母の声は震えていた。
「か、髪の長い女の人が、着物を着た女の人が上がって来て、タカちゃんを、つ、連れて行こうとした。でも、くずーいおはらいって聞こえて、それで、それで、消えたの」彩芽はどもりながら答えた。
 おばちゃんはタカちゃんの傍に座り込んで、額に手を当てた。そしてひと言、「熱い」と呟くと、ふと庭に向けて顔を上げた。
 それからすっくと立ちあがると、両手を広げて、いきなり叫んだ。
「おまえには渡さん! 誰が渡すか、この子はわしの子じゃ。帰れ、おまえのいたところへ帰れえっ!」
 その腹の底からの絶叫を聞いたとたん、彩芽は全身から力が抜けて、そのまま布団に倒れ込んでしまった。

 それから丸五日、彩芽とタカちゃんは熱を出して、枕を並べて寝込んだ。
 熱が下がったころには、彩芽には、それまで見たこと聞いたことのどこまでが本当でどこからが夢か、よくわからなくなってしまった。
 後で母親から聞いた話では、じっさいに起きたことは、こうだ。

 爺ちゃんの離れにタカ坊が寝かされた日、夜明け前にさなちゃんとかなちゃんがいきなり起きて大泣きし始めた。
 ジョロウグモが女に化けて離れに行ってタカちゃんを食おうとしていると。
 夢見が悪いだけとゆり子叔母がなだめようとして、彩芽がいないことに気付く。そのとき庭から、ぎんぎら大将の声が聞こえた。くず~い、おはらいっ。
 以前から、子どもをさらうやらかどわかすやら悪い噂の立っていた大将なので、てっきり彩芽がさらわれたと思い、大人たちは庭に出た。そして事実、庭に迷い込んでいた大将を捕まえたという。何しに来たと問いただしたが当人は曖昧に笑うだけで答えない。そして彩芽は連れていない。
 それでまさ子叔母が離れに向かうと、タカ坊が高熱を出して人事不省、あとは彩芽の証言がさなちゃんかなちゃんの夢と一致していた。
 長い髪の女が、タカちゃんをさらおうとしていた……
 大将は家宅侵入の罪で警察に突き出され、あとのことはわからない。

 熱が下がったタカちゃんと一緒に、ある日彩芽は母親に手を引かれ、近くの寺にお祓いに連れて行かれた。祖父母と、タカちゃんの両親も一緒だ。
 寺はやたらと背の高い杉やイチョウの木に囲まれて、本堂の周りだけ洞のように空間ができている感じだった。本堂に入ると、夏とは思えない冷気と、不思議な静けさが漂っている。
 立派な袈裟を着てお数珠を持った和尚さんが、大人たちと相対して座り、「よう来んさったな」とさっぱりと言った。そして、最初にタカちゃんのお父さんが、タカちゃんの生い立ちから言いにくそうに語りだした。そのあとを叔母ちゃんが、そして祖母が話を引き取った。
 家の離れで起きたことまでだいたいの話を聞いた和尚は、静かな声で彩芽に聞いた。
「その、女の人の顔、嬢ちゃんはきちりと見たんか」
 彩芽は頷いた。
「どんな顔じゃった。怖かったか」
 大人たちは固唾をのんで彩芽の顔を見た。彩芽は思い出しながら、用心深く言った。
「怖い顔じゃない。きれいで、……なんだか、泣いてるみたい、だった」
 タカちゃんのお父さんお母さんは、俯いたまま手元のハンカチを握りしめている。その横でタカちゃんは、口を真一文字に結んでいた。
 それから長い長いお経が始まった。
 彩芽は、いつ終わるとも知れぬお経と、住職がしゃりんしゃりんと鳴らす錫杖の音を聞きながら、寺の中の装飾に目を奪われていた。きらきらした天蓋や菱灯篭、輪灯や絢爛豪華な幢(どう)幡(ばん)。眩しく金色の光を放っているのに、全体が妙に暗い。あの重々しい飾りの奥で、長い髪の女の人も、膝を揃えて座って手を合わせているような、そんなかなしい気配がする。
 風が吹いているのか、本堂の周りの木々がざあざあとしきりに鳴っていた。そのざあざあはだんだん激しくなり、しまいに雨の音のようになった。
 最後の錫杖がしゃりーんと鳴って、いつの間にかざあざあも止んでいた。大人たちが和尚に頭を下げて礼を言い、ばらばらと立ちあがった。立とうとしたタカちゃんが派手にこけて、いてえっと叫び、周りからわっと笑い声が起こった。彩芽も痺れた足をかばうように膝立ちになって、幢(どう)幡(ばん)の奥を覗いた。
 もうかなしい気配は消えて、ただのきらきらした飾りがかすかに揺れていた。

 帰り際、和尚は彩芽とタカちゃんの頭に手を置いて、柔和な顔で言った。
「わしなんぞの祈祷より、お手柄はこの子じゃ。この子がタカ坊と一緒にいてくれたのが何よりじゃ。いろいろあったが、もう終わり。女の人は行くところへ行った。あんたら、仲良うせいよ。父ちゃん母ちゃんもじゃ、タカ坊は宝じゃ。大事に育てんさいよ」
 タカちゃんと彩芽は顔を見合わせて、肩をすくめ、声を立てずに笑った。まさ子叔母は声もなく、ただ、彩芽とタカちゃん二人の手を握って涙ぐんだ。
 洞の中のようだったお寺を出ると、帰り道はカンカン照りで、あの日と同じにクマゼミが鳴きしきっている。お経を聞いていた時間がまるで夢のように思われた。日傘を差した大人たちに続いて歩く砂利道に、藤色と橙色を足したような、ふたつの影が揺れている。
彩芽は小声で、隣のタカちゃんに聞いてみた。
「ねえ、タカちゃん。どうしてあのとき、銀蠅だって思ったの」
 タカちゃんは少し黙っていた。それから、とても静かな声で言った。
「違うと思うなら、あやめが好きに名前つけたらええが」
 頭上では、とんびがまあるく輪を描きながら、ぴーひょろろろろ、と長鳴きしている。
「あんなふうに、空をとべるはねならいいね。太い体でも持ち上げられる、強いはね。それならどこへでもいけるから」とんびを見上げながら、彩芽は言った。
「ほうじゃね」タカちゃんはなんだか大人っぽい口調で言った。
「あの夜さ。タカちゃんのお母さん、怖かったね」
「……」
「誰が渡すか、この子はわしの子じゃって、すごい声で言ったよね」
 タカちゃんは照れくさそうに笑うと、下を向いたまま鼻の頭をかいた。
「寝てたし、よう知らん」
 あんたら早よう来んさい。そこのお店で、かき氷でも食べてこ。
いつの間にか前のほうにはなれていた大人集団に声をかけられ、タカちゃんは走り出した。
 そのあとに続いて走る、ころりと太った子どもの幻影が見えたような気がしたが、すっと風の中に消えてしまった。
 彩芽も砂埃を蹴立てて走り出した。

 くず~いおはらいっ、の声を、彩芽とタカちゃんが故郷で聞くことは、それから二度となかった。





《 銀蠅 了 》





【 あとがき 】
苦しい時の思い出頼み。今回のお話は、書いていてなんだか懐かしかったです。


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