Mistery Circle

2017-10

《 巻き戻しは走馬灯のように 》 - 2012.07.30 Mon

《 巻き戻しは走馬灯のように 》

 著者:李九龍








 クソみたいな人生だったなぁ――なんて、深夜独りきりの静かなリビングの天井を見上げながら、ぼんやりと呟いた時だった。
「下らないことしないでよ。勿体ないなぁ」
 やけに軽々しい口を叩きながら、そいつは突然、泥酔中の俺の目の前へと現れた。
 一見して普通じゃない人間だなって分かる恰好だ。黒いスパッツに、黒ブーツ。黒のタートルネックセーターと、撫でつけた短く黒い髪に、フレームの太い黒眼鏡。まだ年齢は二十代ぐらいかなって感じの、若い男性だった。
 そしてその男は椅子に座り込んでいる俺の前へと立ち、「大石正樹さんだね?」と、優雅な身振りと口調でそう言った。
「もしどうしてもその、“クソみたいな人生”終わらせたいってんなら、僕に投資してくれたらいいじゃない? そうしてくれれば一回だけあんたの人生、巻き戻してあげる」
 そりゃあかなり胡散臭いけどね。でも、頷くしかないじゃん。だってその時の俺って、片手に氷入りのグラス。もう片手にはウォッカの瓶。そして座り込んだ椅子の真上には、先端が輪になったロープが一本。
 要はアレだ。もうまさにそのクソみたいな人生に終止符打つ寸前だったって話。
 どうでもいいが、俺のアパートメントの部屋に無断で上がり込むのはまぁいいとして、せめて靴ぐらいは脱いで欲しかったな。――と、その男に向かって視線だけでそう訴えれば、「気にしないで」と、微笑みながら返された。
「とにかく早く決断してよ。巻き戻すのか、それともこのままぶら下がるのか」
「いや……まぁ」と、煮え切らない返事をする。「もし本当に巻き戻るんであれば……」
「じゃあ、商談成立」
 言うが早いか、その男は右手の親指を俺の額に強く押し当て、ぐりぐりとその指先を喰い込ませるかのように擦り付けた。
「え、今、何したの?」
「契約、契約。もう破棄は出来ないから覚悟しといてね」
 言いながら男は取り出した手帳に何かを書き込み、「まだちょっとノルマ足りないなぁ」なんて、険しい顔をして呟く。
「それじゃあ、まぁ、満期近くになったらまた来るからね」
 そう言って出て行こうとする男の背中に向かって、「ちょっと待て」と呼び止めると、グラスと酒瓶を床に置いて立ち上がる。酔い過ぎたせいか、なかなか上手くは立っていられなったが。
「お前、誰?」
 聞けば男は早口で、「Όπως ανακυκλούμενων φανάρι」と返事をする。
「え、何? 何て言ったの?」
「僕の名前。つーか、聞いたって聞き取れる訳ないんだから、聞かない方がいいと思うよ」
 そう言ってまたリビングを出て行こうとする男を大声で呼び止め、「そんで、俺はどうすりゃいいんだ?」と問い掛ける。
 男は面倒臭そうに振り向きながら、「別に何も」と返す。
「ほっといたって巻き戻るから、何もしなくていいよ。後、満期になったら回収するからよろしくね」
「回収? 回収ってなんだよ?」
 聞いてる傍から男は部屋を出て行き、そうして上半身だけ再び部屋の中を覗くように戻りながら、「投資金」と、俺を指差す。
「もしくは担保とかね」
「担保? 担保って何だよ?」
「あんたの残りの寿命と、そして過去の記憶さ」
「寿命? ちょっと待てよ、おい」
 そう気色張ると、黒づくめの男は、「どうせ死ぬつもりだったんだから構わないだろ」と笑う。
「いいかい、担保はあんたが生まれて今日に至るまでのこの時間全てだ。満期になったら待った無しで回収しちゃうから覚悟しといて」
 男は言って、今度こそ部屋を後にした。
 がちゃがちゃと玄関のドアノブを開ける音をさせながら、男は陽気に、「VTR逆回転~!」と叫びつつ出て行ってしまった。
 またしても静かになってしまったリビングの中で、俺は小声で、「VTR逆回転~」と、男と同じ台詞を呟きつつ、氷の溶けたグラスを持ち上げ一気に呷った。
 なんかひでぇ酔い方したなぁ。思いながら、残った氷を口の中で噛み砕き、その場で倒れ込むようにしながらフローリングの床に寝転がる。
 ぐらんぐらんと、揺れと回転の激しい天井に、先端が輪になったロープが一本、ぶら下がっていた。
 どうしようかな。やっぱ勢いのまんま吊っちまおうかな。なんて思いながら目を瞑ると、なんだかやけに心地良い眠気がじんわりと襲って来るのを感じる。
 もし、俺が今ここで死んだなら、誰が俺の遺体を見付けてくれるんだろうか。
 千鶴だろうか。いや、それはないだろうが、願うならば彼女に見付けて欲しいなと俺は思った。――尤も、発見した当事者には堪える状況だろうけど。
 あぁ、だんだん面倒臭くなって来た。泥酔して事を起こそうと計画したまでは良かったが、なんだか泥酔して幻覚見る程度で終わりそうだなと、俺は自分自身の不甲斐なさを呪いつつ――いつしか眠りに落ち込んでいた。
 そうして俺がその眠りの中で見た夢は、千鶴と、そして彼女が抱っこする産まれたての子供と、そして俺。三人でここで仲良く暮らすと言う、もう二度と叶わないだろうとてもとても残酷で悲しい夢だった。

 *

 目覚めは盛大な頭痛と喉の渇きから始まった。
 朝か――と、どこか諦めにも似たような感覚で身を起こせば、続いて盛大な背骨の痛みが襲って来る。
 すぐに、フローリングの床で寝てしまった事による痛みだなと気が付く。そう言えば昨日、ここで酒を飲みながらとんでもない事しようとしていたんだなと思い出し、天井を見上げる。
 ――?
 どう言う事だろうか。見上げた梁の部分に、確かに吊るした筈のロープが見当たらないのだ。
 良く良く見れば、その足元に置いた筈の椅子も無い。ついでに言えばグラスもウォッカの瓶も無い。妙な事だなと思いながら自分自身の服装を見てみれば、それはいつの間に着替えたのだろうチェック柄のパジャマだった。
「……え?」と、思わず声が漏れる。確かにこのパジャマは俺の愛用しているものではあるが、先日の寝煙草のせいで所々に焦げ痕の穴が開き、勿体ないなと思いながらも捨てた記憶があるのだ。
 どう言う事だろう。思いながらリビングを見回してみると、不思議と、昨日とは違っている箇所がいくつか見受けられた。
 テーブルの上に置かれたままの食器の類。ソファーの上に脱ぎ散らかされたスーツの上下。窓際には、しおれて枯れ掛かっている花瓶の花。電話機の棚の前に置かれた椅子には、グレイのコートが掛かっている。
 そのコートに、見覚えはあった。確か千鶴が、同じようなコートを持っていたような覚えがあったのだ。
 だが、どうして? 別れて彼女が出て行った時、そのコートも一緒に持って行った筈。以来この家のどこでも見掛けてはいないものなのだから、間違いは無い。
 などと不審がっていると、廊下の奥の方から物音が聞こえて来た。
 ゴトンと、何か重い物を置く音。パタンとドアを閉める音。そしてスリッパを履いて廊下を歩く音に続き、とても懐かしいその人がリビングに顔を現わした。
「千鶴……」
 思わずその名を口に出す。半年前と変わらない、彼女の姿がそこにあった。
 どうして戻って来たんだ? 何か用事でもあったのか? 聞きたい事は山ほどあれど、何一つとして聞けそうにはない。どう言う訳か、千鶴はそうせざるを得ない程の緊張をはらんだ雰囲気で俺を睨んでいたからだ。
「マー君」と、唇だけで俺を呼び、そして次に彼女が口を開いた時には、いかにもよそよそしい、「正樹さん」と言う呼称になっていた。
「じゃあ、もう行くから」
 そう言って彼女は椅子の上のコートを手に取り、静かに羽織る。その姿を見ながら、俺はふと、いつかどこかでこれと同じ光景を目にしたような気がした。
 千鶴はコートの襟を直し、そして電話機の上に飾ってある小さな鏡を見ながら髪を直す。
 そして――確か次は、彼女がお気に入りの三日月型のピアスが曲がってないかを気にする筈。と思う間もなく彼女は耳をさぐりながらそれを鏡に写して見る。
 あぁ、これ……記憶にある筈だと俺は気付いた。そして彼女の次の行動も分かった。
 バッグから取り出す家の合鍵。お気に入りのキーホルダーからそれを外し、音もさせずにそれをそっとテーブルの上へと置く。
 そして彼女はもう一度俺の方へと振り向く。とても哀しそうな目をして、無理して微笑む。
 もう、この半年の間に何度も何度も夢で繰り返して来たこの光景。何度も何度も夢に見ながら、その度に枕をびっしょりと濡らし続けたこの悪夢。
 俺は何度この光景に後悔を感じて来たのだろうか。あの時どうして俺は彼女を止める事が出来なかったのか。どうして素直な一言が言えなかったのか。どうして、どうして、どうして――
 俺は彼女だけが好きだった筈なのに。
 彼女の唇が開く。ぽろりと右目から一筋の涙をこぼしながら。
 ――言わせてたまるか。そう心で思った時には、俺は既に行動していた。
 彼女の腕を強く握り締める。顔をこわばらせ、咄嗟に手を引っ込めようとする彼女を無理に引き寄せると、両手でしっかりとその身体を抱き締め、彼女にだけ聞こえる程の小さな声で、「ごめん」と呟く。
「……やめて」
 千鶴は言うが、その言葉さえも拒むようにもう一度、「ごめん」と大きな声でそう言った。
 もう、ほとんどヤケクソのような気持ちだった。何がどうあれ、千鶴は間違いなく家を出て行くのは分かっている。ならば、もう二度と後悔しないであろう選択をしよう。俺はそう思いながら彼女から手を離し、そして目を覗き込むようにしながら、「悪かった」と告げた。
 千鶴の表情は、既に緊張から恐怖へと変わっている様子だった。踊るような視線で俺を見つめ、両手で自らの口を塞いでいた。
「済まなかった。本当に俺が悪かった。許してくれと言いたい訳じゃないんだ。君がこう言う決断を取る全ての原因は、何もかも俺にある。悪かったのは全て俺なんだ」
 そうして俺は彼女の目の前で大きく頭を下げると、もう一度、「ごめん」と、謝った。
 しばらくの沈黙が訪れた。俺は気まずさのあまりずっと同じ姿勢を取っていたのだが、やがて彼女が、「何をしたいの?」と聞いて来たのをきっかけに、ようやく顔を上げる事が出来た。
「いや……」と、俺は答える。「何をしたいかとか、どうして欲しいとかじゃないんだ。ただ君に謝りたかった。俺は君にとんでもなく酷い事ばかりして来た。謝っても、許されないだろう事ばかりだ。だからせめて、君は何も悪くないと言う事だけ伝えたかった。ただそれだけなんだ」
 言うと、千鶴は首を小さく横に振る。「わかんない」と呟くと、「あなたがどうしたいのか全くわかんない」と続けた。
「だから……どうしたいとかじゃないんだよ。何もかも俺が悪かった。全部俺が悪かったんだ。言いたいのはそれだけだ」
「良くわかんないってば!」
 千鶴はヒステリックな声を張り上げる。そして今度は彼女自ら俺の手を取り、俺の目を覗き込みながら、「どうして欲しいの?」と問い掛ける。
「いや……だからもう、どうして欲しいとかじゃなくて」
「そう言う所が駄目なの!」と、千鶴。「あなたはいつもそう。自分自身ではこうして欲しい、あぁして欲しいとか考えてるクセに、結局そう言う願望は一切口に出さずに全て相手に選択を丸投げする。そうして自分の願望通りに事が運ばなかったら、スネてへこんでずっと後悔し続けるんだわ」
 言われて俺は一言だけ、「う……」と、うなった。他に言葉は出なかった。
 確かに図星だ。それが俺の性格だ。良くないとは思ってみても、性格ばかりはなかなか直るものではない。
「どうしたいの?」
 もう一度、千鶴は聞いた。そうして俺はしばらく無言でためらった後、「出て行かないでくれ」と、か細い声でそう告げる。すると彼女はそっと俺の身体を包み込むような感じで抱き締めると、「もちろん」と、嬉しそうな声でそう言った。

 気が付くと、時刻は既に午後の一時だった。俺は枕元の目覚まし時計を眺めながら、「腹減ったな」と、呟いた。
 どうやら俺の声で起きてしまったらしい。隣でごそごそと、千鶴が寝返りを打つ音が聞こえた。
「どうしたの、マー君」
 起き抜けの、だるそうな声だった。俺は思わず苦笑しながら、「腹減っただけ」と答えると、千鶴は裸体のままで俺の腕に絡み付き、「朝から何も食べてないもんねぇ」と、俺の肩にキスをする。
「もうちょっとしたら、どっか行こうか」と提案すると、「どっかって、どこ?」と、聞き返す。
「そうだな。イタリアンか、もしくはメキシコ料理」
「どっちよ」
 千鶴は尚も聞いて来る。そして俺が、「イタリアン」と答えると、「良く出来ました」と、今度は頬にキスをくれた。
 俺は千鶴の肩を抱き、腕枕をするような恰好で再び目を瞑る。千鶴は相当に眠かったのだろうか、既に寝息のような深い息を吐いていた。
 半年前と変わらぬ彼女がそこにいた。いや、尤も、千鶴と最後にこう言う行為に及んだのはそこから更に一年以上も前になる。懐かしいものだなと、俺は千鶴の頭を撫でつつ考えた。
 確かに、俺の時間は巻き戻った。それは疑いようのない事実だ。あの黒づくめの男が言っていた事は嘘じゃなかった。
 但し――そう、巻き戻しが嘘でなかった以上、彼が言った寿命と過去の記憶の回収と言うのも嘘ではないのだろう。
 ならば……そう、ならば俺の残りの寿命ってのは、もうここから約半年分しか無いと言う事になる。
 確かに、俺が願った通りに千鶴が出て行ってしまった過去は消えてなくなった。
 だが同時に、これからは以前と同じように千鶴と一緒に暮らす半年間を過ごす事になるのだろう未来が想像出来る。多分それは、きっと楽しい。俺が望んだ未来になる筈だ。
 でも、残りは半年。絶望で死ぬまでの半年とはまるで逆なのだろうが、幸せのままで迎える死期と言うのも、なかなかに残酷な気がした。
 半年……半年か。俺はその半年の間に何が出来るだろう。俺は隣で眠る千鶴の顔を覗き込みながら、何とも言えない不甲斐なさを感じていた。

 翌朝。気が付けば既に千鶴は起き出していたのだろう、寝室にその姿はなかった。
 俺はぼんやりとしながらリビングへと向かう。キッチンで彼女は洗い物でもしているのだろうか、食器のぶつかる音が聞こえた。
「おはよう」
 努めて明るい声でそう言いながら入って行ったのだが、千鶴からの返事は無い。もしかすると水道水の音で聞こえていなかったのだろうか、彼女は無言のまま俺に背中を向けていた。
 ふと、キッチンのテーブルの上に妙なものを見付けた。黒の革製のカバーに包まれた携帯電話。そう言えば今のものに変える前、これに良く似たスマートフォンを持っていた気がする。
「ねぇ、千鶴。これ、どうしたの?」
 聞けばようやく彼女は軽くこっちへと向き、「知らない」とだけ返事をした。
「知らないって……」
「あなたが昨日、ここに忘れて行ったんでしょう。何もかも私のせいにしないで」
 やけに冷たく、恐い口調だった。――どう言う事だろう。昨日は付き合った当初の頃みたいにとても仲良く過ごした筈なのに。
 大体、どうしてこんな古いタイプのスマートフォンを引っ張り出してまでここに置いて行くと言うのだ。有り得ないと思いながらそれに触れると、驚いた事にモニターに光が差し、起動し始めた。
 え……何事? 思いながらそのモニターを指で触れると、そこには未読メールを知らせる赤い文字のマークが見えた。
 どうして? もうこのスマートフォンは使わなくなって久しいのに。思いながら目で追った画面右上の日付と時間。
 2017/02/05
 ――二月五日? ちょっと待てよ。
 俺がリビングで自殺を図ろうとしたのは、確か十一月十五日。そこから半年間巻き戻って、五月だとしよう。ならばこの日付はそこから更に巻き戻った三カ月前と言う事になる。これは一体、どう言う事だ?
「大丈夫よ。こっそり開いて見たりとかしてないから」
 千鶴は皮肉めいた口調でそう言う。良く良く見れば彼女のヘアスタイルもどこか違和感がある。昨日見た彼女の髪型はとても短かったのに、今日の彼女の髪は肩ほどまであったからだ。
 巻き戻った? ――どうして!?
 目の前に並べられるトーストとサラダを眺めながら自問自答する。意味がわからない。巻き戻しは一回きりではないと言うのか? 俺はてっきり、自分自身の後悔の原因へと行き着いたらそこで終わりだとばかり思っていたのに。
 ゴトンと少々乱暴な音を立て、目の前に熱い珈琲を注いだマグカップが置かれた。多少こぼれたのだろう、カップの端から一滴したたり、カップを黒い線で汚す。
「ねぇ、マー君」
 呼ばれて俺は顔を上げる。冷ややかな視線の千鶴と、目が合う。
「どうした?」
 聞けば彼女は迷う様子もなく、「別れよう」と告げた。
「別れよう……って?」
「離婚しようよ」千鶴は言う。「私、これから不動産屋に行くから。独りで住む場所探して来る。見付かったらすぐに出て行くからさ」
 ゾクリと、背筋が凍るような感覚。
 そうだ、この場面、この台詞。俺には覚えがある。これは二人の離婚が成立した日だ。事実上、夫婦と言う関係が終了した日だ。
 なるほど。俺の苦悩の原因はこっちだったのか。もう一度、巻き戻る訳だ。妙な納得をしながら、俺は立ち上がる。
 隣で千鶴が、バッグから小さな茶封筒を取り出すのが見えた。あの中には、既に片方の名前が明記された離婚届が入っている筈。
「ねぇ……」と、それを俺に向ける千鶴。俺はそれを受け取ると、間髪入れずにそれを真横に引き裂いた。
「何するの!?」
 ヒステリックに叫ぶ千鶴。
「ごめん!」
 同時に、その声に被さるようにして俺も叫ぶ。
「離婚は……したくない」
「なんで?」
「俺が悪かった!」
 俺はテーブルの端に額をぶつけんばかりに頭を下げる。
「全て俺が悪かった。今更許してくれだなんて言えないけど、とにかくこれだけは言わせてくれ。何もかも俺が悪かったんだ。君にはとても酷い事をした。心から謝る」
 なんか昨日から千鶴に同じ事で謝ってばかりだなと思いながらも、努めて懸命に頭を下げる。
「申し訳なかった」
 言うと千鶴は想像通り、「何をしたいの?」と聞いて来る。そして俺は三カ月後の彼女に習った通り、「出て行かないでくれ」と、単刀直入にそう言った。
「え……?」と、困った顔をして首を傾げる千鶴に、俺は畳み掛けるようにして、「俺には君が必要なんだ」と告げる。
 千鶴は無言のまま、どこか凄く哀しそうな目をしながらもゆっくりと微笑んだ。
 すかさず俺は彼女の身体を抱き締める。そしてもう一度小さな声で、「ごめん」と呟けば、彼女もまた、「私も……」と呟き、俺の背を抱き締めるようにした。
 これで今度こそ終了か。なんとなくだが、もう心残りは無いように思った。
 半年で終わる筈の人生も僅かばかり延びた事だし、もうこれでいい。これで満足としようと決意する。
 食卓から立ち昇る淹れたての珈琲の香りが、やけに新鮮に感じられた。

 *

 朝起きると、俺は真っ先に枕元のスマートフォンを手に取った。
 同時に右手で顔を覆い、「あぁ」と呻き声をあげる。寝ぼけまなこで眺めるそのモニターには、昨日の翌日とは違う、更にそこから七カ月前の日付が表示されていたからだ。
「何で? どうして?」
 隣に千鶴がいない事を良い事に、愚痴をこぼしまくりながら起き上がる。
 2016/07/15
 道理で暑い筈だと思った。俺はTシャツとパンツと言う恰好で、汗だくのままに目覚めた。
 何がどうなった? どうしてこの日に巻き戻った?
 思い出せ、思い出せ。離婚話が出る七カ月前の事だ。俺と彼女との間に何かやり直したい事があったか?
 無いと言えば嘘になるし、あると言っても深刻な程ではない。もうその頃には俺達の間には深い溝が刻まれていた事だし、既に会話もあまり無くなっていた頃だ。特別な事など何も思い出せない。
 おっかなびっくりとキッチンに向かえば、いつも通りに千鶴は珈琲を淹れ、トーストを焼いてくれている。
「おはよう」
 声を掛けると千鶴は驚いたように俺へと振り向き、「どうしたの?」と聞いて来る。
「どうしたの……って、何が?」
 問い返せば、「あなたの“おはよう”なんて聞くの、久し振りだわ」と、千鶴は笑う。
 多少、皮肉も混じっているのだろうが、多分本心だろう。言われてみれば、俺も彼女に向かってそんな言葉すらも言わなくなっていたのかと今更ながらに後悔する。
「ごめんよ」
 そう言って、置かれた珈琲を一口啜る。――美味い。自分で淹れたインスタントとはまるで違う美味さだ。
 思えば俺は、こんな朝食一つにさえ彼女に感謝をしなくなっていた。
 愚かだった。トーストの焼き上がり一つ取ってみても、自分の焼いたものとは違うのに。
 俺の、ごめんと言う言葉に驚いたのだろうか、千鶴は呆気に取られたような表情でサラダボウルを持ったままこちらを向いていた。
 俺は手を伸ばしてそれを受け取ると、「愛してる」と、付け加えた。
 千鶴は照れたような、困ったような顔をしながらキッチンを出て行く。――馬鹿だなぁ、たったこれだけの言葉であっても、充分だった筈なのに。
 思いながらトーストを齧り、スマートフォンを開く。
 未読、一通。何気なくそのメールを開けば、それは会社からのものだった。
“本日、明石電工のプレゼン。役職以上は10:00までに会議室集合の事”
 どくんと、心臓が跳ね上がる。あぁ、この日か! 俺は瞬時に全てを悟った。
 忘れもしないこの名前。明石電工。ウチの会社に売り込みを掛け、そしてその場でウチの社長が気に入り即決で契約。だがそれが、会社の命運を大きく傾ける事となった。
 市場クレームだ。ウチと明石電工とで共同開発した製品に、致命的なミスがあったのだ。おかげで損失は莫大なものになり、のちに相当数の人員削減が起こり、俺を含めた残留組は地獄のような仕事量を抱える事になる。
 ――止めなきゃ。俺はそう決意し、急いでトーストを頬張る。
 思えばこの一件のせいで千鶴と顔を合わす機会が著しく減ったのだ。なるほど、これもまた巻き戻しの原因なのかと俺は理解した。

 午前十時。予定通り会議室にてプレゼンテーションは始まった。
 過去の記憶の通り、ホワイトボードの前に立ついかにもエリート然とした男は、プロジェクターに映し出された企画内容を補足説明して行く。
 なるほどと思う。この時は俺も含めて誰もがこの企画にだまされた。ここに大きな欠陥があったなどと、この時点で気が付く筈もなかった。
 一通り説明も終わり、今度はこちら側からの質問の時間となる。もはや誰もがこの企画に乗った前提で、質疑が繰り返される。そしてそろそろ、ウチの社長が独断で契約の話に移る頃だなと思った時だった。
「私も質問、よろしいですか?」
 俺は手を挙げた。もちろん誰も反対する者はいない。
 この時のクレームの内容は良く覚えている。と言うか、俺がその事に対しては一番明るい。何しろクレームの対応と製品の組み換えの処置はほぼ全て俺が先陣を切って行った事だ。どこがどう駄目なのかは、俺が一番知っている。
「冷却用のファンの数は、それで足りている計算ですか? 放出熱量のシミュレートは出来ているのですか?」
 ざわりと会議室の中に不穏な空気が漂う。
 そしてその説明に困っているプレゼン担当者を無視し、今度は設計者を指名して部品の強度と素材の説明を求めた。続いては配線等の不備を指摘し、起こり得るだろう初期不良の問題点を次々と上げて行く。
 誰もが何も言わずに俺の指摘を聞いている。そして最終的には長期間に及ぶ製品の耐久テストを行う事を提案した上で、もしも市場クレームが出た場合の損失額を適当に電卓で弾き出し、それを告げてから発言を終えた。
 しばらく、困惑したままの奇妙な時間が過ぎた。そしてその空気を打破したのはウチの社長で、「まずは今の問題点を全てクリアーにして来てくれ」と発言し、会議はそこで終了した。
 会議室を出て行く時、仲の良い同僚達が一斉に、「どうしちまったんだよ、お前」と、小声ではやし立てた。
 確かに普段の俺からしたら、とても違和感のある行動だっただろうと思う。だが、背に腹は代えられない。なにしろこのクレームは直結でウチの家庭に響いて来るのだ。変えない訳には行かないだろう。
 そして一時間後、俺は社長室に呼ばれる事となる。重役達のいる前で先程の件をもう一度説明させられた上で、「君はどう判断する?」と、投げ掛けられた。
「良い企画だと思いますよ。但し、不安材料全てが無くなった上での話ですが」
 そして企画は通される事となった。新たに共同開発部を設け、そこの部長に俺が任命される事となった。これから数カ月後に“クレーム担当”と呼ばれるようになるのとでは、大きな差だった。
 その晩、俺は千鶴を誘い、駅近くのバーでささやかな担当就任祝いをした。
 二人で冷えた白ワインのボトルを減らしながら、これで巻き戻りは終わりだろうかと密かに考える。
 終りだ――と、断言出来るほどの自信は無い。だが出来れば、ここで巻き戻りが終了してくれたならばとても嬉しいと、俺は切に願っていた。

 *

 起きてすぐに、またしても巻き戻った世界だと言う事を知る。
 なにしろ枕元に置いてある携帯電話が、スマートフォンですらない旧式のガラケーだったからだ。
 これ、どうやって使ってたっけなぁ。なんとか記憶の隅からその頃の情報を引っ張り出しつつそれを開く。
 2015/06/22
 まさかと思った。昨日の世界よりも更に一年以上前だ。もはやこの時代のこの日に何があったかなどと、思い出せる訳がないだろう。
 キッチンへと向かうと、鼻歌をうたいながら目玉焼きを作っている千鶴がいた。
「あ、おはよう」
 笑顔でそう言う千鶴を見て、俺は思わず無言で彼女を抱き締める。
「マー君、どうしたの?」
 聞かれても素直な所は答えられない。俺はとりあえず、「あいしてるよぉ」と甘ったれた声をあげつつ彼女の身体を強く抱く。
 出がけに千鶴は、「今夜も遅くなりそう?」と聞いて来た。さすがにこの頃の仕事内容を思い出す事は無理なので、「会社次第」と苦笑しながら俺は答える。
 千鶴は俺が階段の向こうに行くまで、ずっと見送り続けていてくれた。どうやらこの頃はまだ、二人の仲が酷い事になっている様子は無い。だとしたならば――
 家を出て間もなく、胸ポケットの携帯電話から着信の合図のメロディが鳴り出す。
 開いてすぐ気付く。佐野多香美からのメールだ。内容は単刀直入に、“今夜も逢えない?”だった。
 今夜も? と言う事は……。
 昨日以前のメールを開く。どうやらこまめに消しているらしく二日前までのメールしか残ってはいないが、それでもその頃に多香美と頻繁に逢っていただろう形跡は伺えた。何しろその二日間だけのメールでも、三十通程もあったからだ。
 そうか。彼女との火遊びの真っただ中か。
 ここから少し後に彼女との付き合いを千鶴に感付かれ、そして結局は離婚へと向かったんだ。
 どうしてそんな事を思い出せずにいたのだと、我ながら自分の鈍感さに驚く。
“今夜19:00に、いつもの場所でどう?”
 メールを返すと、間髪入れずに、“オッケー”と戻って来る。
 今夜、決めなきゃ。巻き戻しの原因は間違いなくここだ。俺はそう思いながら、混雑する朝の駅へと早足で向かって行った。

「もう逢えない」
 俺は挨拶もそこそこに、ズバリとそう切り出した。彼女の好きな、フレンチのレストランの一画での事だ。
 佐野多香美の、困惑した表情が目の前にあった。もう彼女と泥沼になって別れて久しいが、相変わらず記憶のままに綺麗な女性だとあらためて思う。
「マサ君、どうして?」
 聞かれて俺は、「良くないよ、こう言うの」と告げ、「君にとって」と続けた。
「私にとって? どう言う意味?」
「君はもっと普通の恋愛をすべきだ」と、俺。「こんな無益な恋愛じゃない、もっと前向きで楽しい恋愛を――」
「前向きじゃないのはマサ君の方だよね?」
 多香美は言う。じっと、俺の目を見据えながら。
「私はマサ君の事を信じてるし、至って普通のお付き合いしていると思ってる。マサ君が私を選んでくれたのは本気だと信じていたし、きっといつかはちゃんとケリを付けて私と一緒に暮らしてくれるものだと思っていたわ」
「多香美……」
「でも、今の一言で良くわかった。マサ君は私達の未来の事なんか全く考えてなかったって事。私にとってあなたは恋人以上、婚約者未満な人だったけど、あなたにとっての私は単なるセックスフレンド。――そう言う事よね?」
「いや……」
「私にとって良くないだなんて、体裁良い事言わないでよ。別れたいのは自分の為でしょ?」
 多香美の言葉の全てがナイフのように身体中に突き刺さって来る。
 彼女の声が大きいせいか、周囲のテーブルに座る人達が聞き耳立てているのがわかる。俺は恥ずかしさのあまり、耳が熱くなるのを感じた。
「いいよ」と、多香美は微笑みながら言う。「別れてあげてもいいよ。――但し、ね」
 バッグを取り上げ、多香美は立ち上がる。今日のために着て来たのだろう、薄い緑のワンピースがやけに目立って見えた。
「奥さんとも別れてもらうから」
 そう言って彼女は席を後にした。
 結局、巻き戻ってもこの原因だけは回避出来なかった。俺は自分の無力さと、そして考えなしな行動を呪った。
 その夜、千鶴の作ってくれていた二度目の夕食を無理に詰め込みながら、嘘の仕事の内容をだらだらと並べて行く。千鶴は何の疑いも持たないだろう表情で、楽しそうにその嘘に付き合ってくれている。
 大変だねぇ。疲れるよねぇ――と、どこか皮肉にも聞こえる相槌をくれながら。
 俺は思った。もっと根本から、この原因を断たなきゃ。
 戻ってくれ、もう一回。後、もう一回でいい。時間よ巻き戻ってくれ。俺はそう願いながら、残った食事を掻き込んだ。

 *

 2015/02/03
 良し! と、俺は思った。この日付で合っているかどうかまでは確証無いが、昨日よりも更に巻き戻っている事だけは確かなのはわかった。
 メールを確認する。佐野多香美らしきメールは見当たらないし、そもそもアドレスすらも無い。
 これから出逢うのだろうか? ならまだチャンスはある。
 その日の午前中は、特に何も起こらずに済んだ。午後から外回りを言い渡されたのだが、そのルートにも多香美が勤める取引先の会社は無い。
 そう言えば、彼女とは一体どうやって知り合ったんだっけ? なんて思いながら取引先の会社へと出向けば、そこに当の本人である佐野多香美がいた。
 正直、驚いた。彼女のあまりもの美しさにである。きっとモデルでもしたならばそこそこに売れたであろう美貌の若い女性がタイトな黒のスーツを着こなしながら、先客よろしく担当者相手に仕事をしているのである。
 良くまぁ俺自身もこんな女と付き合えたなと思いながら、「こんにちは、遅くなりまして」と、取引先の担当に挨拶をする。同時に多香美も俺の方へと振り向く。一瞬だけ合った視線を無理に外しながら、「お忙しければお待ちしますが」と告げると、担当の男性は、「ちょうど良かった」と、俺を多香美の横に座るよう促した。
「紹介します。こちらKM通商の佐野さん」
 担当に言われ、どうも初めましてと、俺は多香美に向かって極力笑顔で自己紹介をした。
 話は、多香美の会社とウチの会社の製品のアセンブリについての件だった。担当から簡単な略図をもらいながら説明を受けるが、どうにも頭に入って来ない。考える所は一つ、隣に座る多香美の事ばかり。
 思えば、そう。多香美とそう言う関係になったのはまさにこの日だ。ここでの説明を受けた後お互いにメールを交換しあって別れたのだが、夕方頃に彼女からメールが入り、今日の件で詳しい話がしたいから逢えないかと持ち掛けられたのだ。
 話は、食事の間だけでは終わらなかった。次のアイリッシュバーへと行く頃には次第に怪しい方向になり、最終的にはラブホテルの一室で事を終えた後、「結局、まとまらなかったね」と、お互いに笑い合っていた。
 ――変えなきゃ。俺はそう決意する。担当の前で連絡先を交換するまでは仕方がないとしても、それ以上の仲まで進んではいけない。そう思いながら会社へと帰る。
 メールは思った通りに、夕方辺りで届いた。今夜お逢い出来ないでしょうかと言う文面に断りの返信をしようとした所、それを上司に見咎められる。
「今日の件ならちゃんと話し合って来い。不都合のあるまま生産しても良い事なんぞ無いぞ」
 結局、俺は定時で会社を追い出された。なかなか思うようには事態を変える事は出来ないんだなと思いながら、待ち合わせの場所へと出向く。
「こんばんは。お呼び立てしてしまって、申し訳ありません」
 向かい合って座る多香美は、俺が持っていた記憶以上に美しかった。
 当時は今以上にどぎまぎとしていたに違いない。俺は、「あ、あぁ、どうも」などと、動揺を隠せないままに席へと着く。
「こんな騒がしい場所だと打ち合わせに向いてなかったかしら」
 などと顔を傾げてみせる。そんな行動一つ取ってみても、彼女は男がどんな女性になびくか、良く知っているようにしか思えない。
 どうでもいいが、そこは確かに打ち合わせに適している店には思えなかった。決して騒がしい場所ではないが、ピアノの生演奏が静かに流れて来る高級そうなフレンチレストランで、逆に居心地が悪くて落ち着けそうになかった。
 だが彼女はそう言う店には慣れている様子で、俺が困っている所を見抜きでもしたのか、自らオーダーを済ませる。
 冷えた白ワインで乾杯を済ませた後は、特に仕事らしい話もないまま時間は過ぎて行った。
 それは確かに楽しいひと時ではあった。彼女の言葉の巧みさやその美貌、そして時々自分へと注がれる熱っぽいまなざしが、とことん酔いを増長させてくれていたからだ。
 あの時は、後先など考える余裕はなかったなと反省する。ただ目の前にぶら下げられたエサが欲しさに、下手な愛想笑いを浮かべて彼女の言葉に合わせていただけだった。
「ねぇ大石さん。この後、まだ時間あります?」
 ――来たなと思った。俺はすかさず腕時計を確認し、「もうちょっとならあるけど」と前置きしながら、「あまり遅くなると女房が心配するもんでね」と、遠回しに断った。
「まぁ、大石さんって奥さん想いなのね」
 多香美は上目使いに俺を見つめながら言う。そして俺はと言うと、「そうだね」と頷き、「愛してるから」と笑う。
 どこか彼女の目の奥で、揺らいだ炎が消えたかのような気がした。
「羨ましいわ」と、多香美。「私もそんな事言ってくれるような旦那さん、出来るのかしら」
「出来るさ」俺は言う。「君のような可愛い女性を目の前にして、平然と料理を平らげるような男さえ選ばなければね」
 そう言って膝に載せたナプキンを折り畳むと、多香美は可笑しそうに、「残念だわ」と笑った。
「私はそう言うタイプが好みなんだけどね」
「やめといた方がいい」と、俺は席を立つ。「きっとその男は長生き出来ない」

 別れ際、多香美は尚も名残惜しそうに、「また逢えます?」と聞いて来た。
 俺は鈍感を装って、「外回りのついでに、時々寄らせて頂きますよ」と返した。
 その時だった。ふと、哀しそうな顔をする多香美を見て、俺は胸の奥のどこかがチクリと痛んだ。
 あぁ、そうだ。俺がその夜、彼女に惹かれた理由を今思い出した。
似てるんだ。彼女に。大昔に付き合っていたあの女性に。
 同時にあの時の激しい後悔も一緒になって甦る。思えばあの時が最初だった。死んでしまおうかななんて本気で考えたりした事を。
 その晩俺は、隣の布団で眠る千鶴の寝息を聞きながら、嫌な想像をしていた。もしかしてこの巻き戻しは、俺自身の後悔の一番の原点へと行き着かない限り終わらないのではないかと。
 最初は、千鶴が家を出て行ってしまった原因を取り除けばいいものだと思っていた。
 だが結局原因は、千鶴との和解でも、会社の業績不振や多香美との浮気でもなかった。もしかしたら俺は、もう既に心の奥底ですら忘れ掛けているあの日の出来事まで巻き戻ってしまうのではないかと、怖れ初めていたのだ。

 *

 2012/05/01
 五年前――か。随分と飛んだな。思いながら俺は頭を振った。
 隣を見るが、そこには誰もいない。どころかそこは、見慣れたいつもの寝室ですらない。
 あぁ、ここって、俺がまだ独身だった頃に住んでいたアパートメントか。思いながら眺める。とても懐かしい想い出のある、安普請な汚い部屋だった。
 さて、何の日に巻き戻った? ヒントを目で探すが、どこにもそれを指示してくれるような手掛かりは無い。
 眠気と困惑でしばらく布団の中で横になっていると、突然どこかで携帯電話だろう着信音が鳴り出した。すぐにどこか分かった。壁に掛かったコートの中だ。俺は慌てて飛び起き、コートのポケットに手を突っ込めば、それは見付かった。
「もしもし?」
 聞けば電話の向こうで、千鶴のものだろう、「おはよう」と言う声が聞こえた。
「あ、あぁ、おはよう」
 答えると千鶴は、「ねぇ、今日は大丈夫?」と聞いて来る。
「もちろん大丈夫――なんだけど、待ち合わせってどこだっけ?」
 とぼけて聞けば、「やだなぁ」と千鶴は笑いながら、「神谷町よ」と教えてくれた。
 神谷町? それって――
「もしかして、東京タワーに登ろうって話だったっけ?」
 聞けばまたしても千鶴は笑う。そうだけど、なんで言い出しっぺが忘れちゃうのよと。
 そうか、この日か。俺が千鶴からプロポーズされた日かと思い出す。
「ごめんごめん。じゃあ、十一時辺りに神谷町で」
「自分で十時って言ったクセにいい加減ね」
 笑いながら、千鶴は電話を切った。俺は慌てながら駅までの所要時間を計算しつつ、支度に取り掛かった。

「待った?」
 と、目の前に現れた千鶴は、驚く程に若くて綺麗だった。
 俺達は駅近くの店で早目の食事を取り、そして東京タワーへと登った。その間、千鶴が投げ掛けて来る共通の友人の話題には、とても困らされた。どの名前を聞いても俺にとっては“とても懐かしい名前”でしかなく、思わず、「今あいつ何してるの?」と、いう言葉を必死で飲み込み続けた。
 眼下に、都心の風景が見えた。しばらく雑談を交わした後、ちょっとだけ空いた会話の途切れで、俺はおもむろに「一緒に暮らさない?」と、切り出した。
 え――と、俺を見る千鶴。本当は彼女からして来たプロポーズだったのだが、そんな過去はどうでもいい。俺は、驚きの表情で見つめる彼女に、「君と結婚したいんだけど」と告げる。
 答えはもちろんオッケーの筈だった。だが意外にも、しばらくの無言の後に出て来た彼女の言葉は、「一晩考えさせて」だった。
「え……どうして?」
 思わず心の中で湧いて出た疑問を、そのまま口に出してしまう。すると千鶴はちょっとだけ哀しい表情を浮かべながら、「ごめんね」と謝る。
「まだ、ちょっとね。吹っ切れないんだよね。あなたから聞いた、昔の彼女の話」
 あっと、声に出しそうになる。そしてようやく思い出す。どうして彼女から俺にプロポーズをして来たのかを。
 俺は――そう、過去の俺は、今日この場で、千鶴を相手に過去の想い出話をしながらベソをかいていたのだ。
 亡くなった彼女の話をして、そして俺はベソをかき、なぐさめ役だった千鶴は、「私じゃあ、あなたのその心の隙間を埋める相手にはならない?」と、切り出して来たのだ。
 そうか、あの時の彼女からのプロポーズは単なる同情か。実に情けない話だと思いながら、俺は仕方なく、「待つよ」と答えた。
 だが、返事は一日も待つ必要はなかった。帰り際、駅前で別れる直前に、「オッケーよ」と、千鶴はそう言った。
「私は死なないから大丈夫」
 言われてまた、胸の奥のどこかがチクリと痛む。
 やはりだ。やはりそうだ。巻き戻しは必ず、あの日のあの場面まで行き着く。俺はその瞬間、そう確信した。

 そうして俺の巻き戻しは、だらだらと記憶に濃い時間だけを選択しながら過去へと飛び続けた。
 そのほとんどは、千鶴との想い出の日々ばかり。
 家に初めて彼女を呼んだ日があったかと思えば、彼女と過ごす初めての夜や、初めてのキスの日へとさかのぼり、そして忘れもしない真夏の祭りの夜市の一角へと飛んだ。
「俺と付き合わない?」
 言うと千鶴は嬉しそうに、「いいよ」と微笑んだ。
 幸せだった。その時の記憶のままに自分自身までもが若返り、切ない恋をしているかのような錯覚まであった。
 寝て起きたら、この夜の次の日であればいいのに。なんて思いながら暑苦しくも寝苦しい夜を越え、その翌朝を迎える頃には再びまた違う過去へと飛んでいた。
 大学のキャンパス。ふざけながら一緒に歩く友人達。その友人の一人が、向こうで固まっている女の子ばかりのグループに知り合いでもいたのか、遠くから声を掛ける。
 手を振りながら、こちらへと向き直る女の子達。そして――遠くからでも分かる。一人、こちらに背を向けて話し込んでいるあの女性こそが千鶴だと。
 とうとう、この日にまで巻き戻ってしまった。これが最初の、千鶴との想い出。彼女と初めて出逢った時のものだ。
 俺はその背に近付く。そして小さく、「あの……」と声を掛ければ、彼女は俺の方へと振り向いた。
 驚いたような表情が、いつしか照れたような笑みへと変わる。
 思わず、泣きそうになった。どうして俺は、彼女のこの微笑みを守りきれなかったのだろう。こんなに、切ない程に好きだったのに。
 翌朝は、大学入学の一日目だった。俺は懸命に四方八方へと目を光らせ、千鶴の姿を探したが、結局どこにも彼女は見当たらなかった。
 もう既に彼女は、文字通りの過去の人となってしまったのだ。

 *

 1983/08/12
 俺は、実家にある自分の部屋のベッドの上で目を覚ました。
 全身、汗でびしょ濡れだった。窓を開け、扇風機も回してはいるのだが、それでも暑い。この小さな屋根裏部屋は、夏が来るたびこんな暑さだったと思い出す。
 目覚まし時計のデジタル表示を見ながら、今が高校時代の夏休みなのだと知る。同時に、やはりここへと巻き戻ったんだなと、どこか諦めにも似た確信をする。
 間違いない。俺の巻き戻しの原因は今日のこの日の為にあったんだ。
 俺は濡れたシャツを脱ぎ捨て、新しいシャツへと着替えながら階下へと降りた。
 久し振りに見る両親はやけに若く、俺に対して素っ気ない。――当たり前か、当時は一緒に暮らしていたのだから。
「あら、おはよう。あなたも朝食、食べる?」と、母。
「今日もどこか行くのか? 宿題はちゃんとしろよ」と、父。
 向こうでは七歳年下の妹が、「どうせ野原でバッタ取りだよ」と、知ったような生意気な事を言っている。バカヤロウ、高校生にもなってそんな下らない遊びするかよ。
 午前十時を過ぎた辺りで、家の電話が鳴る。母が出て、「ユウキちゃんよ」と、俺の友人の名前を告げる。
「なぁ、マサ。今夜、“別荘”に行かねぇ?」
 開口一番、ユウキはそう言った。ちなみに別荘とは、本来の意味での別荘ではない。町の外れの高台にある、人が住まなくなった古い洋館を指してそう呼んでいて、要するに廃屋、肝試しの為に使われる幽霊屋敷の事を指していた。
 あの時の俺は、何も考えずに、「行く」と答えていた筈だ。友人数人と幽霊探索なんかしている間に、大切な人を亡くしてしまう等とは思いもせずに。
「あぁ、悪いけど俺、今日ちょっと用事あるんだわ」
 告げるとユウキは、「付き合い悪いな」と罵りながら電話を切った。
 ちくしょう。さっき妹から、「どうせ野原でバッタ取りだよ」と馬鹿にされ、そんな下らない遊びするかと思ったものだが、大して変わらないじゃないかとあらためて知る事となった。
 そして俺は昼を待たずに家を出た。向かう先は、迷う事なくただ一つ。小向陽菜の自宅だ。
 彼女が誰もいない家の中で自殺を図ったのは今日の夜。どこで手に入れたのだろう、大量の睡眠薬を飲み込んでの死亡だった。
 思い出せばまだあの時のショックで胸が痛む。あれはきっと――俺が殺したと言ってもおかしくはない、そんな死だった筈だ。
 記憶を頼りに、どこを見ても同じ建物ばかりに見える住宅地を行く。そして次の角を曲がった所で、小向陽菜らしい後ろ姿を遠くに見付けた。
 あれはきっと両親が乗るものだろう、走り去って行く車を見送り、陽菜が手を振っている所だった。俺はその車が走り去り、見えなくなった辺りで声を掛ける。
「陽菜」
 えっと、小さな声をあげて振り向く。線の細い、華奢な姿の彼女がそこにいた。
 懐かしさと同時に、切ない程の愛おしさが込み上げる。俺は何の遠慮もなしに彼女の前へと歩み寄ると、無理矢理にその細い身体を抱き締めた。
「正樹君、どうして――?」
「逢いに来た」
 身を離し、彼女の顔を見つめながら、「未来から逢いに来たよ」と、彼女に伝えた。
 不思議そうな顔をして、首を傾げながら陽菜は俺の顔を覗き込む。そんな彼女の表情を見ながら、俺は悟った。
 どうして俺が佐野多香美の誘惑に負け、浮気をしてしまったのか。
 陽菜と多香美は、驚くぐらいに雰囲気やその顔の造形が良く似ていた。多分俺が多香美に惹かれた大きな要因の一つは、ここから来るものだったに違いない。
 ここで話しをするのは何だからと、俺は陽菜の部屋に通された。そこは実に彼女らしい、清潔で余計な物はほとんど無い簡素な部屋だった。
 ベッドに腰掛けた陽菜は開口一番に、「“未来から”って、どう言う意味?」と聞いて来た。
「そのままの意味だよ」と、俺。「俺は未来を知っている。だから君を止めに来た」
「ふぅん……」
 陽菜は疑わしい顔で俺を見る。
「信じないのか?」
 聞けば陽菜は、「信じるよ」と答えた後、「正樹君、いつもとちょっと違うもんね」と笑った。
「違う? どこが?」
「話し方が大人っぽいし、それに私に対して“君”なんて呼び方したのも初めて。いつもはぶっきらぼうに、“お前”って呼ぶじゃない」
「え……そんな失礼な言い方してた?」
 言うと陽菜は、「ホラ、全然違う」と更に笑う。そうしてひとしきり笑った後、「じゃあ、私がこれから何するかも知ってて来たんだ?」と、聞いた。
 俺はゆっくりと頷きながら、「だから止めに来た」と告げる。
 ふと、思い出す。この巻き戻りが始まる直前に俺が選んだ自殺のスタイルは、まさに陽菜の死因と同じものだったなと。その時、陽菜の事を思い出したりした訳ではなかったのだが、もしかしたら潜在的に同じ選択をしたのかも知れないなと。
「俺は……君が嫌いだった訳じゃないんだ」
 言うと陽菜は小さく頷く。
「むしろ逆だ。俺もずっと君の事を気に掛けてた。だけど――君みたいに上手く気持ちを伝えられなかった。俺も君を好きだと、上手に言えなかったんだ」
「どうして?」
「子供だったからさ」と、俺は正直に打ち明ける。「恥ずかしかったんだよ。照れ臭かったんだ。自分の気持ちよりも他の人達にそう言う自分を知られる事の方が怖かった。それを茶化される事の方が嫌だったんだ」
 そう話した後に、「それだけ子供だったんだ」と、締めた。
 言うと陽菜は「なるほどね」と小さく笑った。「色々納得したよ。ありがとう」
 でもね――と、陽菜は真顔になって続ける。
「別に、正樹君に振られたから死のうとした訳じゃないんだよ」
「え……?」
「私ね、多分もうすぐ死ぬの」
 言われた事の意味が良くわからなかった。陽菜が真顔で、「腫瘍が見付かったの」と言うまでは。
「あのね、これから私、長期入院するんだ。なんかもう、難しい治療するか自宅療養するかってぐらいのものらしくて、うちの両親その事であちこち飛び回ってるの。今日もその件でどこかに出掛けて行ったらしくて――」
「そんな……」
「この前、正樹君に告白したのもそんな事があったからなんだよ。とりあえず死ぬ前にやっておきたい事の一つだったから」
 そう言って陽菜は照れ臭そうに笑う。とてもこれから数時間後に自殺を試みるような表情には見えない。
 あぁ、そうか。思い出した。あの時陽菜は俺にこう言った筈だ。「好きだったよ」と。
 どうして過去形だったのかまでは気が付かなかった。俺はただその告白に驚くばかりで、どうやってそこから逃げ出すかなんて事ばかり考えていた気がする。
「そんなに悪いのか?」
 聞けば陽菜は、「相当悪いみたいね」と、どこか困った表情でそう言った。
「親の顔を見れば分かるわ。いつも私を見る度、二人共泣き出すの。だからね――」
 死ぬつもりなのと、声には出さないまま唇がそう動いた。
「どうして?」
「見てるのが辛いわ」
 そうか。それならば少しは気持ちも分かる。
「俺さぁ……ずっと引き摺っていたんだ」と、告白する。「君の死を知り、そしてその事を何十年経っても忘れる事が出来ないまま引き摺っていた。まぁ、その心残りのおかげで、また再び君に逢えたんだが」
「そんなに想ってくれてたの?」
「想ってたと言うか……」俺は陽菜から目を逸らし、「後悔なんだろうな」と、素直に言った。
「君自身を思い出すと言うよりも、君の死を引き摺ったままその過去に縛られて行動して来た気がするんだ。それはとても些細な行動だったけど、君の死が原因で引き起こされた未来がいくつもある」
「光栄だわ」と、陽菜。「正樹君にとっては嫌な未来だったのかも知れないけど、私と言う存在はまだここに残ってたって事よね」
 言いながら陽菜は俺の胸に手を当てた。
 しばらく、無言の時間が続いた。そして俺達が再びお互いの目を見つめ合った後、どちらともなく自然に唇を重ね合せていた。

 気が付けば、既に夜だった。
「帰らなきゃ」と俺が言うと、「まだ居てよ」と、ベッドの中で陽菜が引き止める。
「行っちゃったら、死んじゃうかも知れないよ」
 言われて俺は陽菜の手を取り、そしてまたキスを交わす。
「一緒にいよう」
 俺は言った。
「――どう言う意味?」
「そのまんまの意味さ」俺は陽菜の髪を撫でながら、「君の残りの時間、ずっと一緒にいる」と、そう告げる。
「意味無いわ。多分私は、そんなに長い時間は一緒にいられない」
「構わないよ」
 暗がりの中、俺は陽菜の目を見つめ、「高校を卒業したら、一緒に住もう」と提案する。
「無茶言わないで。私はもうすぐ入院するのよ。あなたの貴重な未来を、私の為に無駄にしないで」
「無駄じゃない」と、俺。「どうせ今から二十年後に、俺も死ぬんだ。どうせ残り少ない人生だと言うのなら、自分の好きなように生きてやるさ」
 言うと陽菜は目を丸くしながら、「正樹君もそんなに早死にするの?」と、そう聞いて来た。
 俺は自ら招いた死の事ははぐらかしながら、「間違いない」とだけ答えた。
 ベッドの上、裸のままの陽菜の身体を抱き締める。そうしながら、大きく自らの未来を変えてしまった事を想う。
 これから陽菜と一緒に暮らす時間は、この先の未来にどう影響して来るのか。
 多分きっと、俺は大学へは進まない。地元のどこかの小さな会社に就職して、きっと千鶴とも多香美とも出逢わない未来へと進むのだろう。
 俺は何度も何度も陽菜とキスを交わしつつ、そしてそのまま眠りに落ちた。
 今度こそ巻き戻りは終わりだと思いながら――

 翌朝、目を覚ました俺は、やけに自分の背が低い事に驚いた。
 階下へと向かい、洗面所の鏡を覗いて更に驚く。それは中学生か、高校一年生かと思える程に幼く、髪の毛を丸坊主にした自分自身の姿がそこにあった。
 それは、高校入学の初日だった。身長が伸びる事を想定したぶかぶかの制服を着込みながら向かった先に、同じぐらいに幼い顔をしたおさげ髪の少女がいた。
 陽菜だった。一瞬だけ俺と目を合わせた彼女は怯えるようにして視線を逸らし、同じ中学から来たのだろう友人達と合流して教室の方へと逃げ去ってしまった。
 これから、彼女と知り合いになるのか。気の長い話だなと思いながら、俺もまた自分の教室を探しに廊下を急いだ。

 *

 それからの俺の時間の巻き戻りは、実に緩慢だった。
 一気に数年が巻き戻るような事は無くなり、長く戻ったとしても一カ月。遅ければ一日ごとに巻き戻るぐらいに、それは緩慢になっていた。
 ある日の朝、俺は中学校二年生にまで戻っていた。季節は夏。非常に蝉の声がうるさい、とある夏休みの日だった。
 俺はなんとなく、千鶴の育った場所を訪ねてみようと思ったのだ。
 少ない小遣いをかき集め、記憶を頼りに電車を乗り継ぎ、千鶴の実家のある場所へと辿り着く。
 何度かは一緒に帰省した場所だ。尤も、お互いにその関係が気まずくなってからは行く事も無くなってしまったが。
 知らない田舎道をとぼとぼと歩く。逢える訳などないと分かっていても、何故かその進む足は止まらない。
 やけに暑い昼下がりだった。両側に竹藪の広がる細い道を歩いていると、背後から来る自転車の音に気付いて俺は振り返る。
 瞬間、心臓が跳ね上がる。僅かその一瞬の間で俺は確信した。それが幼い日の頃の千鶴だと。
 だが彼女は俺の存在などまるで眼中にないように、軽快にその横を走り抜けて行く。
 それは本当に僅か一瞬の事だった。千鶴はプールの帰りだろうか、タンクトップに七分丈のキャロットスカートと言うラフな格好で、走り去って行ってしまった。
 千鶴――と、喉まで出掛かった声を飲み込む。彼女の後姿は、緩くカーブした竹藪の向こう側へと消えて行く。
 なんとなくだが、きっともう彼女と出逢うだろう未来は二度と無いだろうなと、その姿を目で追い掛けながら想像する。
 なんて馬鹿だったんだろう。俺はなんて浅はかだったんだろう。何をどう選んだとしても、全ては俺自身の決断による未来だった筈なのにと、激しく後悔をしながら。
 自然に涙がとめどなく溢れ出て、俺はこのまま歩いて行くべきか、戻るべきかも判断付かないままに、うるさい程に蝉の音が降り注ぐ竹林の中、いつまでもいつまでも泣き続けた。

 *

 思えば俺は、一体何を後悔していたのだろうか。
 千鶴に嫌われ、家を出て行かれた事か。それとも多香美と不倫を繰り返し、結局家庭まで壊す程に泥沼へと落ち込んでしまった事か。
 それとも陽菜と言う大事な人を亡くしてしまった事か。それとも――
「後悔してる?」
 目の前に現れた黒づくめの男はそう聞いた。
 ひさしぶりだな。俺は言った。すると男もまた、「久し振り」と、小さく手を振りながら笑う。
 そろそろ、あれか? たんぽのかいしゅうか? 聞けば男は、「いや、まだだけど」と言いながら、「あんたがもう終わりでいいやって言うなら、今回収しちゃうけど」と返す。
 なるほど、そりゃあいい。おれもこれからどうしたらいいものかなやんでたんだ。
「でしょ? さすがにもういい加減、巻き戻しも嫌になったんじゃないかなぁって思ったんでね」
 けっきょくあれだろ? まきもどしってのはいっぽうつうこうなもんで、ふたたびつうじょうのながれになるってことはないんだろう?
「うん、無いね。ただ巻き戻るだけ。そしてそのまま生まれる直前まで戻ってそこでお終い。ただゼロになるだけだよ」
 ならもう、おわりでいいや。もうこのかっこうでふじゆうにすごすのはごめんだ。
 言うと男は、「可愛くなったもんねぇ」と笑う。
 果たして今の俺は四歳か、三歳か。とにかく話す事すらも上手く出来ない程に巻き戻ってしまった事だけは確かだ。
 もういっかいおふくろのおっぱいのむはめになるんじゃないかとひやひやしたぜ。もうこのせかいにみれんはないよ。はやくおわらせてくれ。
 言えば男は、「じゃあ、ここで満期って事で」と、俺の額目掛けて指を伸ばして来た。
 ぴたっと、男の冷たい指先が触れる。俺はひたすらに舌ったらずな口調でこう言った。
 おれがぜろになるのはいいとして。おれのみらいのすべてはきえさってしまうのかい?
「まぁね。あんたの未来は全部消える」
 まじかよ。
「でも、あんた自身の存在は消えないよ。消えるのは、僕と出逢った夜にあんたが自殺を図るその未来だけだ。――いや、それも正確じゃないな。消えるのは自殺まで辿り着いたあんたの過去の記憶だけ。あの晩あんたは僕と出逢わずに一人孤独に首をくくって死んだんだけど、僕はそのあんたの記憶と後悔を頂く代わりに、ただ巻き戻るだけの体験をさせてあげたって訳」
 そうか――でも、なんだ。おれはそのまきもどしのあいだに、じっさいのかことはちがうせんたくばかりしてきた。それでみらいがかわるってことはないのかい?
「ないね」と、男。「いや実際はあるんだけど、それはもうあんたには全く関係の無い未来ばかりだからさ。それはもうそっちの選択で進んだあんたの世界だ。自殺がゴールだったあんたには全然関係無いから」
 じゃあ、ちづるやたかみがしあわせにくらしているせかいもあるんだな?
「もちろんあるよ。当然、あんた自身が幸せに暮らしている未来もね」
 そうか――まちがったのはおれじしんか。
「そうじゃないでしょ」男は笑う。「何でそうあんたは学ばないんだよ。どこぞのシーンでどんな選択をしたって、俺はあんたが望んだ世界ばかりだ。後悔なんかする必要性なんかどこにも無いんだよ。その結果であんたが幸せかどうかなんて、それはあんた自身で決める事だ。もしあんたが辿り着いた世界であんたが何も満足していないなら――」
 それはあんたが、何も選択して来なかったせいだろう?
 上から目線で、男は言う。そして俺はと言うと、何も言い返せないままに深い溜め息を吐き出して、無念とばかりに目を瞑るだけだった。
「じゃあ、もういいかな?」
 聞かれて俺はうんと頷いた後、ひとついいか? と男に聞いた。
「何?」
 ひとつだけねがいをきいてくれ。そんなにたいしたことじゃない。
「叶えられる事ならね」
 てがみをわたしてほしい。
「誰に?」
 みらいのおれに。
「それはちょっと……規則違反なんだけど」
 やっぱだめか。
「いや、いいよ。でもさっさと書いてね」
 いいのかよ。言いながら俺は身を起こし、テーブルの上にあるらくがき帳に手を伸ばす。
 紙を一枚破り取り、黒のクレヨンを片手に俺はうなる。手紙を書こうと決めたと言うのに、何を書けばいいのかさっぱり分からない。
「一つだけ教えてあげる。あんたが聞いた僕の名前」と、男が言う。
 きいたってよくわからないから、べつにいいよ。
「そうじゃない。その名前の意味さ」と、男。「あれね、日本語で言うと、“走馬灯のように”って言う意味になるんだ」
 なるほどね。それはきみにぴったりだ。
「どうでもいいけど、まだ?」
 いや、もうちょっとまってくれ。
 俺はその真っ白な紙を見つめながら考える。未来の俺へ。想いを託すこの手紙に相応しい言葉は何だろうかと。
「きめた」
 俺は言う。そして、俺は懸命に字を紡ぐ。
 俺はここにいたぞ。俺は俺なりに、不器用で馬鹿な生き方をしながらも存在していたぞと。
 そして最後の一文字を書き終えると同時にクレヨンは折れ、「ハイ、終了」と言う男の声と共に、目の前が真っ暗になった。

 *

「つまんないことしないでよ。勿体ないからさぁ」
 言われて、ふと我に返る。どうやらほんの僅かな時間、眠ってしまっていたらしい。俺は背後から聞こえて来た妻の声で目を覚ます。
 手元には、山のようにグラニュー糖を盛り上げたマーガリン。どうやら珈琲に入れるつもりが眠くて判断を誤ってしまったらしい。確かに妻が言う通り、つまんない事をしていたようだ。
「すまん。なんか寝ていたっぽい」
 言うと妻は、「見れば分かるわ」と、俺の頭を撫でながら笑った。
「せっかくの休日なんだから、無理しないで寝ていたら良かったのに」
 そう言って彼女は自分の分のトーストをテーブルに置き、俺の向かい側に座る。
 大石奈美恵。俺よりもひとまわり年下の二十五歳。結婚して二年目になるのだが、未だに新婚の気分でいられるのが不思議だ。
 彼女とは、たまたま立ち寄ったバーで知り合った。その時はあまり深く考えもせずに連絡先を交換しただけだったのだが、そこから僅か数カ月で結婚するに至った。自分としては意外な事に感じるが、縁とはこう言うものなのだろうとも思った。
 奈美恵は俺の盛った砂糖をマーガリンの中にぐちゃぐちゃに混ぜ合わせながら、「バターシュガートーストだね」と笑う。そんな彼女の陽気さに、俺は慰められる。
 首を振りながら、「なんか夢を見ていたみたいだ」と告げる。
「へぇ、どんな?」
「覚えてない」と、俺。「でもなんか、凄く哀しい夢だったような気がする」
 朝食を食べ終わると、俺達は二人で外に出掛けた。少し先にある植物公園に秋の花を観に行こうと言う事になったのだ。
「寒くなったね」
 言うと奈美恵は俺の隣に並んで空を見上げながら、「そうだね」と、返した。
 なんだか――隣にいるのが彼女で良かったなと、不意に思った。俺には女性に縁が無いとずっと思い込んでいたのだが、実はそうでもなかったらしい。俺が奈美恵に向かって微笑むと、奈美恵もまた俺を見つめて微かに微笑む。
「どうしたの?」
「いや、どうもしないよ」
 そう言って誤魔化しながらコートのポケットに手を突っ込めば、その左手にくしゃりと触る紙の感触があった。
 ――何だ? 疑問のままそれを取り出せば、それは無造作に畳まれた白い紙片。広げてみればそこには非常に汚く稚拙な文字で、こう書かれてあった。
“素直に生きろ”――と。
「何だこりゃ」
 言うと奈美恵もそれを覗き込みながら、「子供のいたずらね」と笑った。
 気を取り直し再び散歩へと戻ると、向こうから歩いて来る女性と一瞬だけ目が合った。グレイのコートに長い髪をした綺麗な女性だった。
 擦れ違うその瞬間、彼女が髪をかき上げたその耳に三日月型のピアスが飾られているのを見た。
 なんだか――いつかどこかで逢った事があるような気がした、そんな人だった。
 俺はそっと振り向けば、向こうはこちらを見る事すらなく通り過ぎて行く。
「誰? 知り合い?」
 奈美恵に聞かれて、「いいや」と、俺は答える。
「全然知らない人」
 そう言って俺はポケットの中の紙切れをくしゃりと手で丸めると、コンビニエンスストアの前にある屑箱にそれを投げ捨てる。
 次の瞬間には、捨てた紙切れの文面も、そして通りすがった綺麗な女性の事もすっかりと忘れ、俺は奈美恵の手を握り、寒空の向こうの陽の当たる場所へと向かって歩き始めた。





《 巻き戻しは走馬灯のように 了 》


 李九龍


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