Mistery Circle

2017-11

《 竜神詣り 》 - 2012.06.30 Sat

《 竜神詣り 》

 著者:鎖衝






 夕刻。陽が沈みかけた辺りで眠りから覚めてしまった時程、虚しく感じるものはない。
 きっと、見慣れない部屋の風景が余計にそう思わせるのだろう。自分以外誰もいないと言う虚しさが、どこかに取り残されてしまったかのような寂しさを強くさせる。
 開け放たれた窓の向こうから、橙色に染まる長い光が部屋の中へと射し込めていた。
 外にはこれから煩くなるのであろう初夏の蝉の声が響き渡り、その合間を縫ってどこからか、篠笛と和太鼓の音が風に乗って流れて来た。
 昼過ぎに湯に浸かったせいか、珍しくも長い昼寝をしてしまったようだ。私はまだ眠気の残るけだるい身体を起こし、窓辺へと寄る。年々衰えて行く、膝と腰が妙に痛んだ。
 確かに旅館の案内で大っぴらに自慢されている通り、そこからの眺めは最高だった。朝と夕刻ではこれほどまでに町の雰囲気は変わるものなのかと感嘆するぐらい、眼下に見える煙に満ちた八尾萬(やおよろず)町の風景は美しく感じられた。
 出来れば、向こうの町のどこかの旅籠にでも泊まりたかった。
 だが、それをためらったのはやはりいつもの癖のようなものなのだろう。私は常に、自分の知っている場所にしか行けないし、自分が知っている道しか歩けない。従って、大昔に泊まった記憶のあるこの旅館を選んだのは仕方の無い事でもあった。
 本当ならばもう一軒、過去に泊まった事のある民宿が向こうの町のどこかにある筈だった。しかしもうその宿は無くなって久しいらしく、この町の宿泊案内にもその名前は載っていなかったのである。
 だがこうして、昼の湯を堪能して午睡に耽る体験をすれば、それもなかなかのものではあった。
 そして、やはり来て良かったと思う気持ちと同時に、どこか強烈に切ない気持ちも溢れ出る。
 幸(ゆき)の想い出を振り切るようにして家から離れたと言うのに、どうしても真っ先に思い出してしまうのは彼女の事ばかり。そうして私は、想い出の場所へと訪れる事は、必ずしも慰めになるものではないなと痛烈に感じてしまう。
 どこかでポッと、灯がともった。同時にそれは町を貫くようにして、淡い紫の光が左から右へと流れて行く。そうして僅か数秒後には、眼下の町の大通りを舐めるようにして、提灯の灯りが夕闇の中へと浮かび上がった。
 思わず、拍手を送りたいぐらいの眺めであった。
 ――綺麗だなぁ。思わず私は呟きながら、横を向く。だがはやりそこには誰もいない。一人で泊まるには勿体ないと思えるぐらい、がらんとした広い部屋があるばかりだった。

「お気をつけて」
 そう言って女将から手渡された鞄を受け取り、私は、「どうも」と返事をしながら、まだ真新しく感じられる豪華な造りの玄関を抜けた。
「またお越し下さい」
 背中へと掛けられる声に私は振り向き、もう一度小さな会釈をしながらその旅館を後にした。
 悪いとは思ったが、きっともう来る事はないだろう。
 もちろんこの旅館に不満がある訳ではない。ただ、一人で来るには色々と居心地が悪いと言うだけの事だ。
 明け方、雨が降ったのだろうか。朝日に負けて少しずつ乾いては来ているものの、未だアスファルトのあちこちに白い陽射しを反射させながら小さな水たまりを作り上げている。
 先程、乗車を断った旅館の送迎バスが、私を追い越し走り抜けて行った。窓から、私よりもずっと若いだろう中年夫婦が私を見降ろしているのが見えた。
 別に、バスが嫌な訳ではないんだよ。私はまるで言い訳するかのように一人ごちた。
 ただ、急ぐ旅でもない以上、自分の脚で歩きたかっただけなのだ。
 しばらくは、全くなんの変化も見られない単調な雑木林の道が続いた。背の高い林の中を覗き込めば、蔦の絡まる鬱蒼と茂った木々が暗闇と同化するほどの向こうまで続いていた。
 田舎はいい、地方の山はいいと思ってはみても、それはただ単に通りすがるだけの旅行者だからこそなのだろう。地の不便さを考えたなら、都会に住む私などは三日で音をあげるに違いない。
 三十分も歩けば、ようやくふもとの町が見えて来た。
 一年中、煙に満ちた町――。昔、妻の幸と一緒にここへとやって来た時は、その町の外観に随分と驚かされたものだった。
 温泉の町として知られる、八尾萬の町。だがそれは、その地を知らない人には想像も出来ないぐらいの場所でもあった。
 なにしろ、町中の至る場所から湯気が吹き出て、硫黄の匂いが立ち込めているのだ。
 路地を歩けばその両側に走る側溝から。家々の排水溝や、マンホールの隙間。町中の至る場所に設けられている手水屋のような場所からも、豊富に湧き出る温泉水の湯気が立ち込め、町全体を覆っていた。
 かつては“聖地”とすら呼ばれた場所だったらしい。戦国の世から現代まで、大きな争いもなく原型を留め続けたと言われるこの町。古くから湯治場として栄え、今も尚その役割のまま、この町は息衝いていた。
 やがて、駅前通りへと出る。民芸店や茶店。食事処や和菓子屋などが軒を連ね、その要所要所から折れる路地の向こうには、当然の如くに“地元随一”と銘打たれた看板を掲げる民宿や旅籠が立ち並んでいる。
 昔、この並びのどこかの店で、幸と一緒に蕎麦を食べた記憶があった。
 もちろんそれは既に二十年以上も前の事であり、どこの店がそうだったのかと考えた所で、どれもそう見え、どれも違うもののように感じられた。
 このまま、電車に乗って帰ろうかとも思った。だが幸との約束の件もあり、温泉宿を一泊しただけで帰るのかと言う勿体なさも相まって、結局私は町外れにある辰乃城址へと渋々向かう事にした。
 夏の祭りが近付いているのだろう。駅前の小さなロータリーに建てられた盆踊り用の舞台や、商店街入り口に掲げられた色とりどりの飾りや看板が目に映る。私はそれらを通り過ぎ、祭りの主役であろう神社入り口の石段の前へと立つ。
 石段の両側には、御神木なのだろう注連(しめ)縄を張った巨大な樹が二本、そびえたっていた。
 どこからか、ジジジジジと蝉の音が聞こえた。同時に、一斉に蝉の大合唱が始まる。目の前の石段は、その空を覆い隠すように繁る木々が朝の雨の名残を留め、黒く濡らしている。
 かつて、幸と一緒に登った記憶のある石段だった。
 僅か数段を登った辺りで、すぐに息切れが起こった。――全く頼りないんだからと、幸が苦笑いしながらたしなめる、そんな声が聞こえて来るような錯覚を覚えた。
 そう言えば、昔もそうだったかも知れない。昔から運動不足で体力のない私は、いつも幸にたしなめられていたような気がする。
 思えば、仕事以外は何もしない駄目な夫だった。幸がいなくなって初めて、それを痛感した。
 食事も、掃除も、洗濯も。なにもかも幸に頼りっぱなしだったなと感じた。それらを自分でやってみて初めて、どれだけ大変なものかを知ったぐらいなのだから。
 幸を亡くしてからのしばらくは、どんな細かい事にも苦労を感じた。
 例えば爪切りがどこにあるのか。郵便の小包を受け取る際の印鑑の場所や、洗濯物の分類やら、テレビ番組の録画。果ては米をどこで買うのかとか、自分が普段履いている下着がどこにしまわれているのかさえも迷うぐらいだったのだから。
 でも今では、簡単な料理ぐらいは自分で作るようになったんだよ。
 靴下だって揃いでしまえるようになったし、珈琲だって自分で淹れられるようになった。もちろんインスタントだけどね。
 ――でもまだ、真夜中の悪夢で飛び起きて、君の名前を呼んでしまう癖は抜けてないや。
 私は誰に言うでもなくそんな事を小声で呟き、まだまだその果てが見えない石段の頂上を仰ぎ見る。
 突然、天上の葉の一枚からこぼれ落ちて来たのだろう露が一粒、私の顔へと降って来た。私は取り出したハンカチで目頭を覆い、ひととき、足を止めた。
 突如、篠の音がひとさし、湿って暑くなりつつある空気の中へと舞い込んだ。
 それは一体どこから流れ出て来るものなのだろう。音はやけに甲高く、かと言って耳障りでもなければ、むしろ侘しさすら感じてしまう程の乾いた音が、周囲の草木に溶け込むようにして聴こえて来た。
 ひょうひょうと流れる篠笛に続き、今度は和太鼓の軽快な音。それに篳篥かなにかだろうか、いくつかの和笛がそれに混じる。
 突然始まる祭りの囃子。私は自分がどこにいるのかすらも忘れ、しばし夏草でむせ返るような空気の中、その流れる音色に聴き入った。
 どうやらそれは、昨日の夕暮れに丘の向こうで聴いた囃子の音らしい。そう言えば町中でも飾りは祭りのムード一色だったではないかと思い出す。
 私はそれを聴きながら、ほんの少しだけ段を登る脚が軽くなったような気がした。

 三の丸の神社の境内で、私はベンチに腰掛け、数人の男女が囃子の稽古をしているのを遠巻きに見物していた。
 年輩の男性二人が稽古をつける以外、他はみなそれを習う若者ばかりだった。
 最近の若者は日本の伝統を軽んじていると言われたりもするが、どうにもあれを見る限りではそんな事はないように思えた。
 私は近くの自動販売機でお茶のペットボトルを一本購入し、何気なくその前に立つ社の案内板の文字を読んだ。
 偶然にも、彼等の練習しているものだろう、祭りの事までもがそこに書かれてあった。
 ――竜神(りゅうじん)祭り。その町だけに伝わる、地方の伝統的なお祭りらしい。
 今では城跡と神社だけしか残らない寂しい場所なのだが、かつてはこの地方を治めた領主が、戦いで傷付いた藩士や武士達の療養の為にと湯治場を作り、それを守る為に砦を作ったのがこの城塞の起源であると記されていた。
 なるほどと、私は唸った。祭りの由来は単純に辰乃城から取った名前だとばかり思ったのだが、語源は意外にも、“流人(りゅうじん)”からだと語られている。
 もちろん、罪人を指す“流人(るにん)”ではない。放浪者や、旅する人を指す“流人”。どうやらここの領主は最初から誰でもござれと考え、湯治場を作ったらしい。戦国の世にも平和主義な殿様もいたものだと、私は素直に感心を示したのだ。
 ――面白いねぇ。こんな滅多に人も来ないであろう場所にまで、長い長い歴史と人生のドラマがある。
 振り向きながら呟くが、辺りには割れんばかりな蝉の音が響いているだけ。
 煩さが、ますます私の孤独を募らせる。私もまた、その土地の長い歴史の中においては僅かなひとこまにしか過ぎない流人(りゅうじん)である事を、強く意識させてくれるような侘しさが感じられた。

 さぁどうしようかと、私は階段の分岐点に立って考えた。
 これより上へと向かえば、二の丸を越えて本丸へと続く。だが私にはもう既に、そこまで行く必要性が見付からなかった。
 思えば随分と馬鹿馬鹿しい話を真に受けて、ここまでやって来てしまったものだと私は思った。それは亡き妻が、唯一言い残した遺言のようなものであり、きっと最後の我儘程度の事で私に言ったものなのだとは思っていた。
 だが、気になる事ではある。例えそれが嘘だとしても、どうしてそんな嘘を最後に吐いたのか。そればかりは未だ、皆目見当が付かないのだ。
 ――手紙を隠したと、確かにそう言った。
 あなたと私の想い出の中に、手紙を隠して来たのだと、幸は言った。
 手紙だって? どこに? 想い出って何の事? 結局幸は私の質問の全てをはぐらかし、そのまま逝ってしまった。
 ――探して。時間があったらでいいから。想い出の中、あなたに贈る手紙を隠して来たから。
 最初は、家中をくまなく探したものだった。そして次には、幸と一緒に行った記憶のある近所の公園やらスーパーマーケット。
 私は幸のその言葉を完全に信用した訳ではなかったが、どうしてもその言葉に引き寄せられるように、彼女と行った事のある全ての場所を歩き回った。
 だが、彼女の言うようなものはどこにも見付からなかった。
 ただ、見付かるものはそこで彼女と一緒にいたと言うおぼろげな記憶ばかり。いつかの昔、一緒に来た事があるなと言うだけの想い出。そしてもう幸は、私の横にいない。ただ虚しさが増すばかりの行為だけであった。
 結局私は、上へと向かう石段を選択していた。
 三の丸から二の丸へと続くその石段は、下にあるものとは違って多少の細工が施されており、両側に均等に並ぶ石灯籠が目に美しい。
 もしも夕闇の頃にこの石灯籠の全てに灯りがともされたならば、きっと幻想的な眺めになるだろう事は容易に想像が出来た。
 両側にせり立つ木々はますます深さを増し、既に周囲は薄暗く感じる程に陽が翳って見えていた。山から吹き降りて来る風は涼しく、火照って汗をまとう肌に気持ちがいい。
 私はその歴史の息吹を間近に感じさせる意匠を見上げ、神社仏閣はなにも宗教上だけの意味で作られたものではないのだろうなと、勝手な推測をした。
 見た者が感嘆の溜め息をもらす程の意匠とは、その存在自体が癒しに近い。――精神の回復。そんな力さえも与えてくれる、そんな場所だったのではないかと、私は思ったのだ。
 かつてこの地を訪れた人々は、何を求めてこの山を登ったのだろうね。
 昔、私がそんな言葉を幸に投げ掛けたような記憶があった。もちろん、彼女からの返答までは覚えていはいない。
 ――なぁ幸。君は一体、どうして最後にあんな嘘を僕に向かって吐いたんだい?
 想い出の中に隠した手紙なんて、どこを探しても見付からなかった。僕は君の嘘を信じて――いや、信じたくて、暇さえあれば色んな場所を探したんだけどね。
 でも、そんなものは見付からなかった。だからこそ、もうそんな惨めな真似はやめたくてこうして家から離れて来たと言うのに、やっぱり僕はまだ君からの手紙を探してる。
 ある訳なんかないのに。無いのは判っていながら、探す事をやめられないんだ。
 ふと、視線を彷徨わせた先にある巨木の根本のうろや、灯篭の中や、階段の手摺りの下など。無駄とは判っていながらも、私は至る場所を目で探しながら一歩ずつ段を登った。
 ある筈がないのだ。病床に付きながら、どうして幸がそんな事が出来るのだと。思いながらもそれを探さずにはおれない自分自身の女々しさを愚かしんだ。
 せめて……後一度ぐらい、一緒に旅行をしたかったものだと。後悔せずにはいられなかった。
 子に恵まれなかった私達は、自由な身分のせいか、暇さえあれば旅をした。
 いつか日本全国を踏破してやろうなどと言いながら、夢は果たせず。だがそれでも、相当に多くの場所には行って来たつもりだった。
 じくりと胸が痛み、込み上げて来る感情はあっても、もう涙は出ない。
 もう、それぐらいの時間は経ったのだ。私は未だに幸の面影を追ってはいるが、それは既に哀しみと言うよりは寂しさの方なのだろうと理解していた。
 やがて、二の丸神社の存在を告げる赤い鳥居が、登る石段の遥か先の方に見えて来た。
 後少しで、幸の想い出に追い付く。かつてこの石段もまた、幸に尻を叩かれ叩かれしながら二の丸まで登り、そこから折り返して降りた記憶があった。
 もう、膝が悲鳴をあげていた。こぼれ落ちる程の汗でシャツは肌に張り付き、ハンカチは既に何度も絞ったぐらいだ。
 それでも一息ごとに足を上げ、懸命に段を登る。そうしてようやく、私は今回の旅の終着地点へと辿り着く。
 巨大な一枚岩から樋を伝って落ちる湧水をペットボトルで受け、一気に飲み干す。痺れる程に冷たい水が喉を抜け、私は一際大袈裟な溜め息を吐きながら近くの岩へと腰を下ろした。
 向こうの社務所の前で、何人かの男性が、神輿の手入れをしているのが見えた。
 もしやここから町まで降りて行くのかと思えば、随分と険しい祭りのように感じられる。
 息がおさまるのを待って、私は神社の前に立ち、賽銭を投げ入れ鐘を鳴らした。
 何を願う訳でもなく手を合わせ、礼をする。本当は二礼二拍手とか言う作法があるらしいのだが、ついぞ私にはその正式のやり方は知らないままだった。
 いつもならば隣で幸がやっているのを薄目を開けながら、覗いて真似をするだけ。ならばもう、おぼろげな記憶で手を合わせる以外無いのである。
 周囲を取り囲むようにして繁る木々が、切り取ったかのような拓けた青空を見せてくれていた。私はぼんやりと日陰の場所を選んで、社の横の裏手の方へと移動した。
 一体それは何を意図して立てられたのか。かなりの達筆で、“いろは歌”が書かれた木製の看板がそこにあった。

 色は匂へど 散りぬるを
 我が世誰ぞ 常ならむ
 うゐの奥山 今日越えて
 浅き夢見し 酔ひもせすん

 私は目で追い、それを読む。
 仏教的な意味合いが多いせいか、注釈は書かれていない。ただ、歌だけがそこにあるだけだ。
 おぼろげにしか覚えてはいないが、確か前半は、世の中は決して不変ではないと言う事を語っていたと記憶している。
 ――初の奥山を、今日越えて行く。
 例え夢を見たとしても、深入りせずにと。酔いはせずにと。
 私はむしろ、その後半部分の歌にどきりとした。何故か、その歌の意味がまさに今の自分に言われているような、そんな気がしたからだ。
 果たして私は、自らの意志で“うゐの奥山”を越えて行く努力をしていただろうか。
 幸が亡くなって以来、ただ幸の言葉を信じ、幸の想い出ばかりを追い、その域を出ようとした事があるだろうか。
 見上げれば、その社の真横からすっぽりと緑が抜け落ち、まるで空へと続いているかのような長い長い登りの階段が見えた。
 ――ねぇ、登ってみようよ。
 ――いや、もういいよ。僕はもう疲れた。
 まるで遠い日に交わした会話が、今まさにその耳元で交わされているかのような生々しさで、私には聞こえた。
 遥か遠くまで真っ直ぐに続いている、本丸へと向かう石段。
 左右にせり立つ高い木々が薄暗がりを作り出している分、その真っ直ぐに抜けた夏の青空との対比がやけに美しく見えた。
 まるで黄泉路から現世を眺めているみたいだな。私はそんな事を思いながら、その階段の一歩目を踏み出していた。
 それは自分自身でも驚くような行動だった。
 幸が亡くなって以来――いやむしろ、幸と一緒になって以来と言った方が正しいだろうか。私は、私自身で行動を決めたり、率先して進む道を決めたりした事がほとんど無かった。
 それは幸と一緒に歩いた旅の道も同じで、行く場所も、行く方向も、全ては幸が決めてくれていた。
 従って、私の知っている場所は全て、幸も同じように知っている場所。幸と一緒に過ごした四半世紀程の年月は、そのまま彼女と同じ視界の、同じ世界であった筈だった。
 それを今、私は自ら破ろうとしていた。
 彼女と同じ視界の中に留まり、そこに彼女がいない事実を受け止められないまま、それに縛られ続けていた自分。
 幸がいない事を直視するのが怖かった癖に、どうしてもそこから逃げ出せずにいた自分。
 きっとこのまま、私が年老いて亡くなるまで続くのであろうと思えたそんな日々が、こんな些細な気まぐれ一つで崩れ去ったのだ。
 どこか、幸を裏切ったのではと感じる後ろめたさはあった。
 だがそれ以上に、何かが軽くなった。どこがどうとは言えないものの、身体の中のどこか一部分。それがまるでこの石段の一番下に、ごろんと転がって落ちてしまったかのような。そんな身軽さで私はそれを感じた。
 もしかして、その重さとは幸自身の存在そのものだったのでは――。
 まさか、そんな事はありえない。思いながら私はその石段の途中で足を止め、手摺りに掴まり振り向いた。
 振り向きながら、ふと。日本の神話のある一説を思い出す。
 あれは、黄泉路を辿った伊弉諾(いざなぎ)尊の話だっただろうか。
 だがその背後には、その妻である伊弉冉(いざなみ)尊の姿もなければ、それを連れ戻そうとする獄卒達の姿も無い。もちろんその石段の一番下で、哀しそうな顔で見上げている幸の姿もありはしない。
 いなくなった人間を想い哀しむ事も。
 いなくなった人間に縛られて自らを傷付ける事も。
 全てはまだ生きている人間の我儘だけでしかない。思いながら私は再び向き直り、ただただ長いだけのその階段を、登り始めた。

 早朝に宿を出たと言うのに、気が付けば既に時刻は昼ちょっと前だった。
 もちろん、過度の消耗で全く腹は空いていない。私は残り少なくなったペットボトルの水をちびりちびりと舐めながら、見晴らしの良いその頂上をぐるりと見て回った。
 それは、城址と言うにはあまりにも狭く、小さなものだった。
 下手をすれば小学校か中学校の体育館ぐらい。それほどの規模の石垣が、かろうじてその城跡を留めているだけの場所だった。
 拓けてはいるが、それが余計にその場所を寂しく見せていた。
 かつてこの地が保養の場所であり、勝手に平和な場所だったのだろうと決めつけていただけに、例え小さくともその城自体が既に無くなっている事を目の当たりにすれば、やはりこんな規模であろうとも戦禍の火は免れなかったのだと思え、やるせなく感じられた。
 私は真上から照り付ける夏の陽射しをさえぎる事も出来ないままに、砕けて転んだ石垣の一つに腰掛けた。
 遠くで、正午を知らせるサイレンの音が轟きだした。
 その騒がしい音は周囲の山々にこだまし、得も言われぬ荒々しさを醸し出す。
 ――つわものどもが夢の跡……か。
 私は小さく呟いた。こだまの音がその静けさの中に響くさまが、まるで進軍の合図にさえ聴こえたからだ。
 私はようやく、幸の嘘の意味に気付けた。
 どうしてありもしない手紙を探せと言ったのか。どうして想い出の中にあるなどと、曖昧な表現を使ったのか。
 きっと、私の性格を良く知る彼女だからこそなのだろう。
 自分が死んでしまったらきっと、あの人はどこにも行かない。何も新しい事をしないだろうと知っていたからこその嘘なのだろう。
 想い出の中ばかりを必死に探す私が、いつかそれに疲れて逃げ出す時。その嘘の意味が判るだろうと信じて、幸はそんな事を言ったのだ。
 私は、もう既にじっとりと濡れそぼったハンカチで汗を拭くようにして目頭を押さえれば、堪えきれずに溢れ出て来る感情で、しばらく動けないでいた。

 下りの道は、比較的楽だった。
 二の丸神社の前で、神輿を降ろす作業についた地元の人達と合流し、私はその後ろを付いて行ったせいもある。
 重そうな神輿を僅か二十人程度の人数で、その階段を下りるのである。見ている方はかなりはらはらしていたが、担いでいる方はどうやらそれほど苦でもないらしく、ともすれば後を行く私よりもずっと早かったりもした。
「お祭りはいつからなんですか?」
 聞けば神輿の最後を担ぐ若い男性が、「明日からですよ」と答えてくれた。
「明日からの五日間。この田舎の町が、唯一盛り上がれる時期なんですよ」
 そう言って笑う若者。私は単純に、それが羨ましく思えた。
 午後の町はますます賑やかになり、飾り付けや、通りに出店する屋台の準備に大忙しだった。
 どうやら観光客だろう姿もあちこちに多く見られ、弥が上にもその盛り上がった空気は、私にも高揚を感じさせてくれた。
 祭りの前の独特な賑やかさは、どこに行っても同じだなと、私は思った。
 なんだか、特別な何かが自分を待ち受けている。そんな気がしてならなくなる。そこで起きるであろう楽しい事の全て、知り尽くしたいと言うような衝動に駆られる。
 立ち並ぶ食堂の一画へと来て初めて、そう言えばまだ昼をとっていないと気が付く。
 一軒一軒、店先をひやかしながら通り過ぎていると、ふと記憶のどこかに触れるものに気が付いた。それは店の奥に置かれた大きな水出し珈琲の器。一見すればそれは巨大な砂時計のようにも見えて、一体これはなんなのだと、昔に聞いた記憶もあった。
 あぁ、ここだったと気が付く。昔、この町に来た時に入った筈である食事処だ。
 きっとそれはこの店の主人の趣味なのだろう。まるで骨董店のようにレトロな雑貨を並べ、その隙間に置かれたテーブルには喫茶店さながらなメニューが置かれてある。
 ここならばきっと一人でも楽しいに違いない。思いながら私は、店の外に近いテーブルの一つに腰掛けた。
 頼んだ茶蕎麦は、なかなかにして美味しかった。そして食後の熱いお茶を啜りながら店内を見回している時だ。通りの向こう側を、楽しげな声を上げながら走り抜ける子供達の姿が目に入った。
 先頭を走る、白いランニングシャツに坊主頭の少年。それが、道の横から立ち昇る湯気に隠され、ぼんやりとした姿で目に映る。
 なんだかタイムスリップでもしたかのような光景だな。思いながら私は笑う。その時だった。
 ――だるま宿まで競争な。
 走り去る、少年の一言に私は耳を疑った。
 その名前は、かつてこの町に来た時に一泊をした宿の名前。事前に調べ、もう既に無くなってしまっていたと諦めた、宿の名前だった。
「あの……だるま宿って、まだ健在なのですか?」
 通りすがった店の女性店員にそう聞いた。
 するとその若い女性は、「えぇ、ありますよ」と言って微笑んだ。
「もしかしてお客さん、かなり昔にここに来ました? 今はその宿、“民宿達磨屋”って名前になってるから、もしかしたら……」
 あぁ、なるほど。私はその女性に場所を聞き、そして店を後にした。
 提灯が頭上に並ぶ、大通りの道の歩道を、私はゆっくりと歩いた。
 夜ともなれば、季節を問わず一年中提灯のあかりがともる町。何故かは知らないが、その特殊な町の光景は、不思議と懐かしさを感じさせてくれる。
 風に乗り、家々の隙間から白い湯気が漂い出て来る。もちろんかなり湿気を帯びた風ではあるが、特に不快な気持ちはしない。
 やがて私は、その宿の前へと行き着いた。――確かに、その宿だった。表の大きな看板に、色褪せた達磨大師の絵が描かれてある。
 どうしようかと迷った。今日、私は家へと帰る筈だった。もう一泊をする予定など、頭の片隅にすらなかったのだ。
 だが、妙にその宿に惹き付けられたのも確かだった。そう言えばかつても、前日に泊まった旅館よりこちらの宿の方が良かったと幸と話した記憶があった。
 結局、私はその宿の戸を開けた。
 どうせ祭りの前日に予約も無しで泊まれる訳もない。そう思っての決心だった。
 断られたのなら、そのまま帰ればいい。それでもう心残りもないだろう。思いながら応対に出て来た老婦人に問えば、皮肉にも部屋はあるとそう告げられた。
 なんだか面倒な事になったなと、宿帳に住所と名前を書き入れる。
 宿の玄関口には店の名前通り、大小さまざまな達磨が飾られていた。そこは妙に薄暗く、町中よりも硫黄の匂いが溜まっているような気までした。
 私はしばらくその場所で待たされたが、やがて女将らしき女性に、「ようこそおいでなさいました」と笑顔で告げられ、部屋へと案内された。
 意外にも、それは一瞬でそれと判った。昔、幸と一緒に泊まった部屋そのものだったのだ。
 懐かしさと嬉しさと、ほんの少しの胸の痛みが込み上げる。窓に立ち外を覗けば、その裏手に流れる小さな川がそこに見えた。
 仕方がない。今日もまたこの町に一泊するか。どうせならば明日からの祭りも少し見てから帰るかなどと考えつつ、私は少し時間が早いだろう風呂へと向かう事にした。

 長く湯を頂き、私は部屋へと戻った。窓を開ければ、とても夏とは思えない程の涼しい風が部屋の中へと舞い込んで来た。
 いい加減、悪い癖がついたものだと思いながらも、その心地良さに身を任せてうたた寝を楽しむのも悪くはなかった。
 またどこからか、ひょうひょうと流れ出て来る篠の音に聴き惚れながら、私はいつしか遅い午睡の中にいた。
 ――果たしてそこはどこだっただろうか。紫陽花の咲き乱れる、長い長い紫に染まった雨の小路。私の前を行く幸は、笑いながらその先にある茶店を指差した。
 私の目の前を、赤いこうもり傘をさした幸が、楽しそうに濡れた石畳を踏んで行く。
 そして私はそれを追う。追いながらも、なんだか少しずつその距離が遠のいて行くような錯覚を感じた。
 ねぇ、幸。呼ぶと幸は振り返る。
“なぁに?”
 ――僕。もしかしたらさ。
“うん”
 いつか……君の進む道とは違う方向に、足を向ける日が来るかも知れないよ。
 くすりと、幸は笑った。そしてほんの少しだけ哀しそうな顔をした後、その表情はゆっくりと安心したものに変わる。
“それでいいじゃない”
 幸は言った。
 ――やはり、陽が沈みかけた頃に目が覚めてしまう午睡程、虚しく寂しく感じるものはない。
 いつしか篠の音もやみ、町は静かに夜へと変貌し始めていた。

 夕飯の膳を運んで来てくれたのは、意外にもその宿の女将本人だった。
 私は本心から、「良い宿ですね」と言ったつもりなのだが、どうやらそれはお世辞に取られた様子だった。
「祭りの前夜だってのに部屋が空いてるんですから。褒められたようなものじゃないと思いますけどねぇ」
「そんな事はない」私は強情にも言い返す。
「私はこの町に来る前に、この宿に泊まりたくて色々と探したんです。想い出にも残っていないような宿なら、最初から探しもしませんよ」
「そりゃあ嬉しいお言葉です」
 言って女将は、そっと袖口から何かを取り出す。そして、「どうぞ」と言って差し出したものは、一通の白い封筒だった。
「これは……?」
「お預かりしていました。――奥様から」
 まさかと思った。だが、その封筒に書かれてある私宛ての名前を見る限り、それは確かに幸の字だと思われた。
「いつ?」
「――もう、三年程前になりますかねぇ。送られて来たのですよ。もっと大きな封筒の中に入って」
 私はその封筒を受け取る。一体何が入っているのか、それはやけに厚くて重い。
「最初に封筒の中の手紙を読んだ時は驚きましたよ。いつかうちの主人がその宿を訪れる筈ですから、その時には同封したこの手紙を渡してあげて欲しいって。――でも、驚いた反面、私共もどこか嬉しくてねぇ。いつお客さんがおいでになるのかって、心待ちにしていたのですよ」
 女将は、簡単な説明だけをして、「ではごゆっくり」と、部屋を後にした。
 幸の言葉は、嘘ではなかった。手紙はちゃんと、存在していたのだ。
 私は目の前の膳を忘れたままにして、手紙の封を開けた。
 中から出て来たものは、幾枚かの便箋と、写真。見ればその写真は、以前にここを訪れた際に一緒に撮った、私達二人のスナップ写真の数々だった。
 微かに震える手で、便箋を開く。一体そこには何が書かれてあるのだと思いながら、幸特有の細かい字を目で追えば、次第に私の顔はほころんだ。
「――どうでもいいじゃないか、そんな事」
 私は小さく呟いた。
 なにしろ、まさにそこには、どうでもいい事ばかりが記されていたからだ。
 先程訪れた二の丸の神社の禰宜さんは、顔がカバに似ていたとか。扇子を買ったお店で、お釣りが百円多かったのを後で気付いたとか。昼に飲む日本酒は酔いが回り過ぎるとか。おおよそ、旅の道中記にもならないような雑多な事ばかり。
 私へと贈る重い内容の言葉や、きっと彼女自身病床の中で書いていたのだろう身体の辛さや苦労話など微塵も無く、書かれてあるのは終始、幸本人の性格をそのまま表しているような軽い雑文ばかりだった。
 ――少しは、僕の事を気遣うような文面の一つでも入れてくれれば良かったじゃないか。
 皮肉を言いながら、私はその手紙を何度も何度も読み返す。まるで今日、一緒にこの町を散策した事を話し合っているかのように、私はその文面の一つ一つに返事をしながらそれを読んだ。
 不思議と、哀しいとか虚しいとか、そんな感情は湧いて来なかった。
 むしろこの手紙の内容よりも、私自身があの本丸の城址で結論付けた事の方が、事実よりもずっと感動的で切なかったぞと、幸に向かって呟きながら手紙を閉じた。

 翌朝は、ポンポンと乾いた音をさせる花火の合図で目が覚めた。
 私はその宿を出る前、女将のついた小さな嘘を一つ発見する。それは受け付けの窓からそっと覗ける宿泊予定の黒板の内容。
 部屋が空いているなど、最初から嘘だったのだ。部屋は全て予約客の名前で埋め尽くされており、どうやって私一人をあの部屋に押し込めたのかまでは判らないが、申し訳ない事をしたものだと思わずにはいられなかった。
「今日は、お祭りを見てからお帰りですか?」
 聞かれて私は、「なるほど、それもいいですね」と、素直に答えた。
「またお越し下さい」
「えぇ、必ず」
 私はそう言うと、帽子を脱いで一礼し、「お世話になりました」と、玄関の方へと振り向いた。
 来て良かったと素直に私はそう思った。少なくとも、幸の手紙を最初に受け取ったのが、この町のこの宿であった事は私にとっての最大の幸運だったに違いない。
 外は、既に真夏の中にあった。陽は既に高く、世界は白色に輝いて見えた。
 裏通りと表通りを隔てている商店や民家の隙間から、その向こうの道を駆ける子供達の姿が見えた。
 誰もが、浮かれた陽気の中にいた。
 きっとそれは、私自身もそうだったに違いない。目の前を通り過ぎる神輿と、その後から続く奏者達の一団。それらを拍手で見送りながら、私もまた“流人“となる最初の門出に相応しいではないかと、嬉しく思っていたのだから。
 屋台の並びを、人混みの中をかき分けながら、私は進む。駅前のロータリーの舞台では、既に舞いが披露されている所だった。
 駅の出入り口から人が大勢吐き出されて来るのに逆らうようにして、私は発券機の方へと向かう。
 ――さぁ、どこに行こうか。
 既に私は、家へと帰る気持ちなど微塵もなかった。
 日本中に散らばる、私と幸の想い出の中。その中に、彼女からの手紙は今も尚ひっそりと私が拾いに来てくれるのを待っているのだ。
 面白いじゃないか。こんなに大規模な宝探しなんて、きっとどんな子供にだって真似出来やしない。
 どうやら僕は、まだまだ君と同じ方向に向かって歩くらしいよ。私は小さく呟いた。
 頭上に見える路線図を眺めながら、私は記憶の糸を辿る。
 その時、本日二度目となる花火の音が夏空にこだました。
 ポン、ポンと、弾ける音と共に、人々の歓声が沸き起こる。見上げれば、雲一つ見えない青空の中、七色に染めあがった落下傘が風に流され、落ちて来る姿が目に映った。
 夏が始まる。いつの世にも変わらない、その祭りの喧噪の中で。



《 竜神詣り 了 》



【 あとがき 】
暗くて長くてごめんなさい。
大昔、初めてMCに参加させて頂いた辺りで書いた、“竜神祭り”と同じ舞台の話です。
ちなみに、書きながら聴いていた曲は、きゃりーぱみゅぱみゅです。(かなりどうでもいい


上昇既流  鎖衝

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