Mistery Circle

2017-09

《 REМOVER 》 - 2012.07.01 Sun

《 REМOVER 》

 著者:ココット固いの助








【first note】

【小野瀬】ベッドの周りには古い本が何列も積み上がり、まるで小さなビル街のようだった。

ビル街という言い方が正しくなければ棺の並ぶ墓所。

なんて不謹慎な女の子だろう.私。

私はベッドに高校の制服を着たままの姿で仰向けになり.クリーム色の天井を眺めている。

ここは彼の部屋だ。

彼といっても彼は私の彼ではない。

音無悠斗君は私の同級生で私の恋人ではない。

そう.2人が恋人と呼ばれる日は永遠に来ない。

彼は4日前に自転車で帰宅途中トラックにはねられて死んだ。

死んでしまって、もうこの世にはいないのだ。

目線を横に移すと本の題名が視界に飛び込んでくる。

【鉄の夢】

彼が亡くなる前に話していたヒトラーが主人公のヒロイックファンタジーだ。

【鼠と竜のゲーム】

ちょっと前までコード・ウェナースミスという作家の正体について熱っぽく語っていたっけ。

これは私も読んだ。

彼の話題にする本は今更ながらに白眉だったなぁ…しみじみ思う。

ベッドの近くに積んである本はごく最近彼が手にしたであろう本たちだ。

部屋の4隅にある本棚にある本は以前読んだ本。

その中でも時々読み返したい部類の本なわけで。

それ以外の本は段ボールにきちんと種類分けされ隣の部屋で眠っている。

以前彼が図書室で同じ図書委員の隅下さんに話しているのを聞いた。

今私は彼の部屋で彼が愛した本たちに囲まれ、彼が過ごしたであろう時に思いを馳せている。


指先で本と本の間に置かれている距離に線を引いてみる。

武者小路実篤と太宰治が仲良く隣同士に並んでいる。

絶対わざとだ。

コリン・ウイルソンとH.Pラブクラフト…これもだ!

その2つから線をまっすぐ引くと目の前に積んである本の一番上にある分厚い黒い本「世界幻想文学体系28」に収録されている作品に行きつく。


1つ1つの本の並びに意図が感じられる。

永井荷風の全集の横にある「ストリッパー物語」は…飛躍し過ぎだが笑える。

悠斗君.私わかるよ。

わかるけど…ね。

本と本との空間の意味を読んでみたところで。

線と線で結んでみたところで魔法は発動しない。

彼が生き返るわけもなく。

私は今こうして彼が2度と戻る事のない寝所を穢している。

私は変態でも犯罪者でもない。

そんな事を意識する事も能わず生きてきた。

少なくとも昨日まで。

実は彼は殺されたとか…そんな新事実が浮かび上がったりする訳でもない。

私は視線を再び天井に向ける。

朝目覚める時に彼の目に映っていた景色。

夜眠る前に彼が目にしたであろう景色。

私は今それを見ている。

私は変態でも、犯罪者でもない、そんな事すら考えるに能わず今日まで生きて来た。

しかし変態や犯罪行為に人が走らんとする時目の前に突然それまで見えていなかった標識が姿を現す。

侵すか侵さないかは。

私はうつ伏せになって枕に顔を埋めた。

湿り気を帯びた深い溜め息が漏れる。

お腹の中が熱くなるのが分かる。

「音無君」

手をのばして彼の魂の欠片に触れる。

彼がとても大切にしていつも枕元に置いてる本。

トールモー・ハウゲンの「夜の鳥」は彼が本の世界にのめり込むきっかけを作ってくれた本だ。

私は音無悠斗の事が好きだ。

けれど彼が死んだと聞かされても泣けなかった。

あまりに突然で。通夜の晩に彼の遺体を目の当たりにしても受け入れる事が出来ずにいた。

でも、今度こそ泣けそう。

だって彼にとって何者でもない私は彼の部屋でこんな事をしている。

私、死んだとしても彼と同じ場所にはきっと行けない。

でも今、私は彼の部屋で彼のブランケットにくるまって彼の残り香と1つになる。


「なによ、これ」

冷水を浴びせられたような拒絶。それを今はっきりと私は感じた。

私と悠斗君の間にもう1人いる。

それは私と悠斗君の間に軽やかに甘やかに両手を広げて立ち塞がる。

香水の香りだった。

最初は部屋の芳香剤や洗濯されたシーツの柔軟剤の香りかと思った。

でも枕に顔を埋めた時はっきり分かったの。

これは女性が男性を惹き付けるために用いられる媚薬。

女性が女性に対して優位に立つために造られたフレグランス。

私たちの年代の女の子が身にまとうような安物ではない。

より複雑で一流の調香師によって調合された名前も分からない高級品だ。

階段を登る音がする。

私はベッドから跳ね起きて身なりを整えた。

シーツを元通りに戻すと手元にあった【少年ヨアキム】の一冊を手に取った。

部屋の扉が開いて悠斗君のお母さんが入って来た。

「買い物にも出てなくて、弔問に来たお客様に出すお菓子しかないの」

精一杯の窶れた笑顔。私は本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「本当に足の踏み場もないわね」

「悠斗君、本当に本が好きでしたから」

「学校でもあの子本ばかり読んでたの?」

「いいえ」

暗い私の心にも灯りが点る。私にも.あの素敵な男の子を亡くしたお母さんに伝えて上げられる。

「悠斗君は読んだ本の話をいつもみんなにしていました。私たち悠斗君がする本の話を聞くのが大好きだったんです」

「悠斗が」

涙が溢れる。拭ってあげる事も私は出来ない。

本の虫という言葉は古くさい。少なくとも私たちは、あまり使わない。

でも悠斗君は間違いなく本の虫だった。

本の虫には2種類いて.ひたすら本を読みまくるのは同じ、でもそれを自分だけの心の図書室に大切にしまって鍵をしておくタイプと。

もう1つは悠斗君のように読んだ物語の素晴らしさを人に伝える事に喜びを見い出す人。

書評家になる人も中にはいるだろう。

悠斗君は私たちクラスのストーリーテラーだ。

隅田さんは本の虫でも前者だから2人は気があったのかもしれない。

音無悠斗は本の虫で.その生態は蝉に似ていた。

1人で部屋に籠って本を読んでいる時期が過ぎたかと思えば、明るい場所に出るなり羽を広げ横隔膜を震わせ物語の素晴らしさをこの世界で歌い続けた。

そして夏が始まる前だというのにある日この世界から居なくなった。

白磁のように白く端正な顔をした彼の脱け殻だけを残して。

「突然お邪魔してすみませんでした」

私は悠斗君のお母さんに頭を下げた。

悠斗君が亡くなって4日。

彼はもう駆けつけた葬儀屋さんの手であれこれ支度を済ませ、火に焼かれて壺に入れられ今は地面の中だ。


お通夜の晩はクラスのみんなが泣いていた。

勿論みんな彼の死を悼んで泣いたのだ。

でも私は思うのだ。

人はびっくりするだけでも泣けるんだ、と。

ある日私たちのクラスメートが、ほんの16時間くらい前まで隣にいて話をしていた友達がトラックに撥ね飛ばされて次の日にはもう永久に居なくなってしまう。

人はいとも簡単に吹き飛ばされ何処か私たちの知らない暗い場所へ行ってしまう。

私たちは皆ショックを受けて泣いたのだ、と思う。

お焼香の順番を待っている時私の前にいた未来が冷たくなった悠斗の少し紫色が残った口元の痣を見て言った。

「いやん、痛そ。かわいそう」

誰に対しも何にも私の心は麻痺っていた。

あまり記憶もないのだが未来の「いやん」という言葉だけが耳に残っている。

学校に行くと40のクラスメートの40の口から悠斗君の事が語られる。

みんなそれぞれ彼の死を悼んでいた。

でも私はそこにすごい生命力みたいな力を感じてしまう。

誰かが死んだ事でみんな自分の命が今ここにある事を実感していた。

悠斗君の事を話す声や言葉にも次代に熱が籠り目には輝きが増して。

それは本当に仕方ない事だ。

けど私は、私が密かに思いを寄せていた音無悠斗がみんなのものになってしまった気がした。

みんなばらばらになった悠斗君の手や足や歯を持って話をしている。

そんな気さえした。

彼が私の彼氏なら、多分みんなこんな明け透けに彼の話なんてしない。

私が不甲斐ないばかりに。

生きてるうちに思いの1つも告げられなかった報いがこれだ。

いっそ勇気を出して振られてさえいれば良かったのに。

私は学校をさぼって悠斗君の家の前に立っていた。

彼にとって何者でもなく、何者にもなれなかった私。

私はなす術なく、気がつくとただ家の前に立っていた。

ふいに玄関の扉が開いて悠斗君のお母さんが顔を出した。

泣き腫らした赤い目と隈、少し埃がついた黒い喪服、解れた黒髪に白すぎる顔の色。

「きれい」

不謹慎な言葉が思わず口に出てしまいそうになる。

悠斗君のお母さん悠斗君が死んでもやっぱり綺麗な人だよ、悠斗君。

「悠斗のお友達?」

「はい」

悠斗君が私の事をそう思ってくれていたなら、いいけど。

「学校は、どうしたの」

「さぼってしまいました」

思わず正直な言葉が口をついて出てしまう。

悠斗君のお母さんは少しだけ俯いてから顔を上げて。

「そう、入って」

と私に言った。

「お父さん悠斗のお友達…学校に行かず来てしまったんですって」

通された客間には新しい、文字通りぴかぴか光る小さな仏壇があって悠斗君のお父さんはそこに座布団を敷いて胡座をかいて座っていた。

紹介された学校をさぼった女の子に対して。

「おお」と感嘆したような声を漏らした。

優しい笑顔が悠斗君にそっくりだった。

学校をさぼる事なんて、もはやご両親には髪の毛ほどの罪悪ですらないのだ。

それよりもっと残虐で非情な幾日かを2人は過ごして来たのだから。

無理と分かっていても私はこちら側の人間でいたかった。

せめて悠斗がこの世にいない今となっては。

私は悠斗君の仏壇に線香を上げてご両親と悠斗君のお話をした。

お母さんは私を悠斗君の部屋に案内してくれた。

「小さい頃は弱くてね、部屋で絵本ばかり読んでいたわ。あそこまで本好きな子になるなんて思わなかったけど」

「本に助けられたって話してました」

「本に助けられた?」

「子供の頃に読んだ本の中にヨアキムっていう自分にそっくりな男の子が出て来る話があって、自分と同じ子がいるって思うとすごく心が救われて、ますます本が好きになったって音無君が」

「その本知らないわ」

私はお母さんの手元に【夜の鳥】を手渡した。

「こちらが続編です」

渡した続編の【少年ヨアキム】も大切そうに胸に抱えた。

「ありがとう、小野瀬さんだったわね」

「はい.小野瀬繭です」

「もし嫌じゃなければ時々あの子に会いに来て上げて。あの子の好きな本の話も聞かせて欲しいの」

「私でよければ」

私でよければ…今のヨアキムの本と彼の少年時代の話は悠斗君が隅田さんに話していた話を盗み聞きした話だ。

私なんかでいい筈がない。

あの香水は隅田さんのものだろうか。

その可能性は高い。

そんな話をするぐらいの仲だもの。きっとそうだ。

「小野瀬さん、失礼な事伺っていいかしら?気を悪くしないでね」

「はい」

「貴女は悠斗とおつき合いされていた…のかしら」

私はお母さんに言った。

「私、悠斗君の事が大好きでした」

「そう、そうなの」

お母さんは2冊の本を胸に抱きしめ目を閉じた。

「そうなのね」

噛みしめるように言った。

「でも悠斗君は私の事は好きじゃないかも。わからないままで…」

別れ際にお母さんは私に言った。

「心配しないで、私だってこの頃は貴女と同じ気持ちであの子の事見ていたの」

音無君のご両親に頭を下げ私の足は繁華街を目指していた。

誰だろう?

私と同じような事を彼の部屋でしていたバカ女は。

もしも見つけたら殺そう。

玄関に入った時から悠斗君の家の中はお線香の香りしかしなかった。

別れ際の悠斗君のお母さんからも同じ匂いしかしなかった。

あのお母さんと悠斗君の枕やシーツに染み付いた芳香…官能的とか野性的な香りとでもいうのか、イメージが違い過ぎる。

あの香りを身に纏うならお化粧だって洋服だって違ってくるはずだ。

つばだけ立派な竹光を差したお侍なんていないだろう。

当然悠斗君のイメージや人となりからもかけ離れている。

私はその日から匂いにとても敏感になった。

常に誰かと話す時も近くに寄ってその人の匂いを嗅ぐようになった。

誰かとすれ違う時もそうだ。おかげでやたらと人にぶつかる。その度。

「ごめんなさい」と謝るのだが私はその時も油断なく相手の匂いを伺っていた。

習慣は人の性格を作るものらしい。痴漢や性犯罪者が何度捕まってもそうした犯罪を止めないのは多分それが性格の1部になってしまっているから。

マツキヨ、ドンキ、その他のドラッグストアをうろちょろしながら安物のフレグランスのサンプルを嗅いでまわる。

はたから見れば色気づいた頭の悪い女子高生に見えただろう。

どれも違う。口当たりのいい人工甘味料みたいに親しみ易い香り、けど本物じゃない。

もっと高級品が置いてあるデパートに行かなきゃだめかな。

それよりまず隅田澄香に会わないと。

澄香なんて名前からして怪しいじゃないか。

「いいわね、お金持ちって」

隅田澄香は図書室の窓から校門を通って下校する生徒達の群れを見ていた。

目線の先には校門の横に停められたベンツに乗り込む男子生徒を追っている。

「お金があるなら付属の私立に行けばいいのに」

先程から横にいる私など眼中にないとでも言いたげに余計な世話を焼いている。

私は、隅田につられて窓を覗くふりをして彼女の匂いを嗅いだ。

Banとパンテーン。やはり違うようだ。

「朝と夕方つい同じ事ばかり言ってしまうようなの」

その横に音無君がいつも居たと言いたいのだろう。

私しか生徒がいない図書室で以前私は本を借りた。

机に座って私が差し出した本の裏表紙から図書カードを抜き取りながら隅田は呟いた。

「音無君がよく口にする本ばかり」

そう言って顔を上げて真っ直ぐ私の目を見つめ。

「好きなの?」

私が言葉を返す前に。

「本が」

「別に好きじゃない」

私は言い返した。

「本自体は」

黒髪でショート、利発そうな額と大きな瞳。

悠斗君はこういう子がタイプなんだろうか?

私は学校でよく本を借りたり読んだりしているが偽物の本の虫だ。

悠斗君が面白いと誰かに話している本にしか興味がない。

それを図書室で隅田に見透かされた時はさすがに恥ずかしかった。

でも隅田と悠斗君はお似合いのカップルと言われていたけど違う、偽物の両思いだ。

用は済んだ、帰ろう。

「邪魔してごめんね」

私は立ち去ろうとした。

「私に用があるんでしょ」

目の前を隅田の細い首が遮る

また、香りが。でもこんなに安物じゃないの。

私の鼻が覚えているのは別の香り。

隅田澄香は本人がどう思おうと悠斗君とは何もない。私と同じ。

彼の部屋に入り込んで彼のベッドに香水の香りをつけて帰る女とも無関係だ。

「隅田さん音無君の部屋とか遊びに行った事ある?」

「ないけど…それが何」

「何でもないの」

私は彼女をその場に残して歩き始めた。

「私と彼しか知らない事だから」

「小野瀬さん」

ドラッグストアで香水をチェックしていた私はふいに声をかけられ振り向いた。

2ヶ月経ったが香水の持ち主には行着けず。

デパートにも探している香りはなかった。

「私は何をしているんだろう」

そう思いつつも私は新しい店を見つける度.香水売り場に足が向いてしまう。

声の主は悠斗君のお母さんだった。

元々細面の女性なのだろう。

この間会った時は病窶れた顔をしていたが今は店の明るい照明のせいか幾分生気を取り戻したようにも見える。

「お買い物?」

「ひやかしです」

「年頃ですものね、やっぱり香水とか興味あるわよね」

悠斗君のお母さんはふいに右手を上げて私においでおいでと手を振った。

痩せて芒の穂が風に揺れるみたいに見えた。

私は言われるままにお母さんの前に進み出た。

「やっぱり違うわね」

お母さんは私の顔に自分の顔を近づけ言った。

手は自分の鼻に向け、ひらひら空気を扇いでいる。

私の、匂いを嗅いでいるんだ。

「なんですか、悠斗君の、お母さん」

分かっていたけど私は聞いてみる。

「香水の匂いが悠斗の部屋に残っていたの。貴女が帰った後悠斗の部屋のベッドに座って本のページを開いていたら、香水の香りが」

「私香水はつけませんよ」

「そうね、貴女が家に来た時も貴女からあんな香りはしなかった」

「高校では薄いお化粧は見逃してもらえますけど、あんなに香りの強い香水はつけられません。汗の匂い消しスプレーぐらいならともかく」

「小野瀬さんも、気づいていたの」

「最初は柔軟剤とかお部屋の消臭剤とかって思ったんですが」

「そうね、それは私が買ってくるものだからすぐに分かるの」

あれは私や悠斗君のお母さんの日常には存在しない香りだった。

でも、その香りの行く先を辿れば2人の女を憂鬱にしてしまう。

「なんなのかしら」

「以前はなかったんですか」

「最近シーツとか自分で洗濯機に入れてたから」

最近なんだね。再び沈黙。
「あの本読んだわ」

短い沈黙を壊すように悠斗君のお母さんが言った。

「2冊とも読んだの」

「私も読みました」

「小さな子供の世の中に対する怯えとか心の震えみたいなものが上手く描かれていて、あの子は子供部屋が怖かったのかな、なんて今更だけど」

「小さい頃悠斗は体が弱くて、小学校に上がる頃には大分丈夫になった」

「あの子の父親は少しでも息子に強くなって欲しくて、早い時期から子供部屋で1人で寝かせるようにしつけたの」

そんな話しをお母さんは私にしてくれた。

「私たちは昔は子育ての事でよく夫婦喧嘩もしたけど…それも悠斗には」

私は黙ってお母さんの話に耳を傾けていたけど、お母さんは、はっと我に返ったように微笑んだ。

「今のは独り言だと思ってね、貴女にする話ではなかった」

「どんなお話でも悠斗君のお話なら、私は聞きたいです」

悠斗君のお母さんは頷いて香水の瓶が並ぶ棚の前に進み出た。

解れた髪を指輪をはめた指で掻き分けながら覗き込む。

赤や黄や紫の小瓶が仄白い顔を照らしていた。

「好きな香水の瓶を1つ選んで小野瀬さん」

「いえ、私は」

私は即刻辞退した。私にはそんな資格はない。

それは自分でも分かっている。

「いやでなければ、私貴女に何かお礼がしたいの。熱心に見ていたから興味があるんじゃないかと思って」

「悠斗君のお部屋にあった香りが気になって、元々香水には関心がなかったんですけど。最近そればかり気にしてしまいます」

「そうなの、でもそれは良くないわ」

「自分でも分かってます」

「ふと気がつくとね、シーツの下から足が8本出ていたの、ペンシルチョコレートみたいな足が」

自分の娘を見るような優しい眼差しだった。

「なんですか、それは?」

ドラッグストアの冷房は効きすぎていて私たちの体はすっかり冷えてしまっていた。

私は香水を買ってくれるというお母さんの申し出は固辞したが表の自販機で飲み物を奢ってもらう事にした。

ドラッグストアは大きなスーパーの中にあって店を出ると焼きたてのパンや冷えた野菜、花屋の店先の鉢植えの蘭や一際香りの強い百合の切り花、レジの前を通る度様々な香りに満ちている。

入り口に向かう途中でお母さんは話をしてくれた。

「ありふれた話よ」

と彼女は私に前置きした。けれど悠斗君の小さい頃の話なら、私は涙が出そうになるくらい嬉しい。

お母さんは昔を懐かしむように目を細めている。

目の前を小学校に上がってから、すっかり健康になった悠斗君が駆け回る。

私は悠斗君のお母さんになったつもりで想像してみる。

悠斗君は学校から帰ると家に男の子の友達を沢山連れて来るようになった。

悠斗君の家で本を読んだりゲームをしたり時々はケンカもした。

悠斗君のお母さんは焼きそばを大皿に焼いてあげたり飲み物を用意したり。

「楽しかったわ。私の心の中はあの子たちの手形や足跡そして毎日のおやつの事でいっぱいだった」

でも男の子たちの足は早くて、どんどん遠くまで行ってしまう。

夏休みになった。庭の物干し竿に干したシーツもすぐに乾く季節がやってきた。

私は洗濯物をたたもうと庭に出た。

足元を走り去る、黒とアイボリーの縞模様の体とメタルブルーのしっぽ。夏になる度に私は蜥蜴の色彩に目を奪われてしまう。


真っ直ぐにのびた可愛らしい足が8つ風にはためくシーツの下から見えていた。

昨年まで、悠斗の足は同じ年齢の子供に比べると一際細く青白かったけど今はスニーカーを見ないと分からない。

すっかり乾いたシーツからは真夏のお日様の香りがするようで。私はシーツと子供たちに頬擦りしたくなる。

息子の履いている青いスニーカー右足の爪先が地面の芝生をぐりぐりほじっていた。
「何してるの?」

私は息子たちの仲間に加えてもらおうとシーツの隙間から顔を出した。

子供達は別に何もしていなかった。

ただ全員少し深刻な面持ちで顔を近づけ話をしているだけだった。

私は吹き出しそうになる。

私が期待したのは行き場の無い鳥の雛や子猫や仔犬。

彼らの生け贄にされるための小さな生き物や昆虫はいなかったけれど。

タケル君だったっけ、俯いたまま唇を噛んでいた。

カズマ君はタケル君の肩に手を置いていて、ケン君はシーツにもたれかかろうとして転びそう。

「悠斗」

なんだか難しい顔をしている息子に声をかける。

「ママには関係ない」

悠斗はこちらを見て言った。

「悠斗がママだってさ」

「ママ!ママ!」

「別にいいだろ!」

男の子たちはシーツを潜り抜けて、あっという間に表に飛び出して行った。

振り向いた時悠斗の瞳は私の知らない夏を映していた。

ほんの一瞬だけど、もう大人の顔をしていた。

「ずっと弱いままでいたらいいのに」

心ならず思ってしまう。


「体が弱かったから、些細な事も見逃すまいと、あの子の事なら何でも分かってるつもりだったけど」

悠斗君のお母さんは自販機の横の壁にもたれて2本目の煙草に火をつけた。

私たちが店の中にいる間に降った俄か雨が路面を黒く濡らしていた。

夕立と呼ぶには少しばかり早過ぎる時間だ。

「男の子って分からないわ、そう思う事が時々」

「今頃どこ歩いてるんだか、バカ息子」

煙草の煙や路面の逃げ水みたいに悠斗君は消えてしまった。

「来週から月曜日と木曜日またお勤めに出るの」

飲み干した缶コーヒーの缶の飲み口に吸殻を押し込むとお母さんは私に言った。

「それ以外は家にいるから、また遊びに来てね」

連絡網はあるけれど私は悠斗君のお母さんとアドレスを交換して別れた。

どうか悠斗君のお母さんがいつまでも清らかでありますように。

私はふとそんな事を思った。

そんな風に願わずにはいられない気持ちで背中を見送った。

「前に進まないとね」

自らに言い聞かせるようにお母さんは何度も呟いた。

私は、どうなんだろう。


月曜日。私は悠斗君の家の玄関のインターホンを3回押した。

家の中から人が出てくる気配はない。

ガレージに車もない。

私はいつも首からぶら下げている悠斗君の家の鍵を玄関の鍵穴に差し込んだ。

多分確証はないが、これで玄関の扉は開くはず。

予想した通り鍵穴は鍵をすっぽりと呑み込んだ。

しかしシリンダーは回転しない。

鍵穴は玄関の扉に縦横に2つ、ついているが結果はどちらも同じ事だった。

私は鍵を抜き取ると掌に握りしめ勝手口を探して家の右側に回り込む。

異常気象の続くせいか毎年五月蝿いだけの蝉の声も霧雨のように迫力がない。

金柑の木が植えてある。きりりと一斉に斜めに空に伸ばした葉の緑が濃い。

秋になると黄色い実をつけて悠斗君のお母さんはそれを摘んで日に干した後金柑酒にする。

「氷砂糖と焼酎やブランデーと一緒に瓶に詰めるんだけど、うちでは誰も飲まないんだ」

悠斗君の声が記憶の中に甦る。

金柑の木を潜ると家の屋根から張り出した軒下の影に入り辺りは急に薄暗くなる。

2、3メートル歩くと洗濯機が置いてある。

横に水道と手製の簡単なタイルのシンクがあって、その先に勝手口の扉が見えている。




私は以前悠斗君の家の鍵を盗んだ。

あれは確か2年生になったばかりの1学期。

私は前から疼いていた虫歯が本格的に痛み出したので午前中に母に予約を入れてもらい近所の歯医者に行った。

治療が済むと母の車で一旦家に戻り自転車で学校に向かった。

自転車がないと学校から家まで帰りは結構な距離を歩いたりバスに乗らないといけないからだ。

教室に着いた時は既に3時間目は始まっていた。

3時間目は体育だった。

今から着替えて授業に出るのも億劫だし麻酔をかけた歯茎や唇が痺れて気持ち悪い事もあり私は教室にいる事にした。

自分の席に座ろうと音無君の席の前を通りかかった。

その時私は彼のバッグの少し空いたファスナーの隙間から覗いている鍵を見つけしまった。

キーホルダにくくり付けられた1つは自転車の鍵、もう1つは多分彼の家の鍵だろう。

私は衝動的にそれが欲しくて、たまらなくなった。

別に鍵を盗んで彼の家で悪さをしようと企んだ訳じゃない。

ただそれが欲しかった。

私は鍵をひっつかむと制服のスカートのポケットにそれを押し込んだ。

そのまま教室を出て駐輪場に向かった。

学校の近くにある商店街にロックセンターが一軒あったはず。

往復で20分もかからないはずだ。

もしも特注で時間がかかるような鍵ならすぐに諦める。

でももし合鍵が作れるなら一生大切にする。

宝物にしよう。

駐輪場のすぐ脇には卒業生が植えた桜の木が一本あって、私の自転車のサドルやペダルにも桜の花弁がのっていたっけ。

私はそんな事も気にする余裕もなくペダルをこいだ。

鍵屋のおじさんは店先で鍵を受け取ると素早く寸法を計り万力に固定した別の鍵を、まったく同じ鍵に仕上げた。

私は鍵を受け取るとダッシュで学校に戻り教室に誰も戻っていない事に安堵した。

悠斗君のバッグに鍵を戻した私は奇妙な高揚と罪悪感に押し潰されそうになった。

予鈴が鳴り男子が教室に戻ってくる。

ふと見ると体操着姿の悠斗君がこちらを見ている。

何か分からないが、ばれたのかも。

そう思って下を向いていると目の前に悠斗君が立っていた。

「音無君なにかな?」

私が顔を上げて恐る恐る聞くと悠斗君は笑って。

「小野瀬の頭の上に、ほら」

私の頭についていた桜の花弁を見せて笑った。

心に沁みる笑顔だった。

机の下に隠した私の右手は小さな紙袋に入った彼の家の鍵を握りしめていた。


勝手口の鍵は苦もなく回った。

チャコール・グレーの薄いアルミで出来た扉を私は開けた。

勝手口の扉の前には40センチくらいの高さの段差があって、その右真横に10センチ位の段差がある。

扉のコックに手をかけると右足が自然と小さな段差に足がのり体を押し上げる格好になる。

「お邪魔します」

扉を外側に開いて中に入る。目の前はお台所だ。

通路を挟んで右側に電子レンジ。

左側にガスコンロ。レンジの下には木製の小さな台があって、足のところにU.Oのイニシャルが彫ってある。

中学の時男子が同じのを技術の時間に作っていた。

台の上には大きな金のザルがあって中に艶やかな茄子やトマトや胡瓜が入っている。

農業をしている悠斗君のお祖父さんが届けてくれる…確かそんな話をしていた。

食べきれないくらいの量の野菜は所々傷みかけている。

野菜に集ろうとするコバエがいて私は手でそれを払う。

ガス台の横のワイヤー製の調味料スタンド。

ナツメグ、ブラック・ペッパー…悠斗君の好物はハンバーグだ。お父さんは肉より魚が好きって言ってたから、もう作る事はないかも知れない。

キューブのコンソメ、塩や調味料はうちにあるのと同じ。

ターコイズ・ブルーの食器棚は落ち着いた色合いでとても素敵。

淡いピンクを基調にしたシステムキッチンもシンクの隅々までお掃除が行き届いていて、うちのお母さんとは大違いだ。

食器棚の中で一際目を惹く茶器が一組。

お母さんのウエッジ・ウッドね。

若い頃から紅茶好きだったお母さんは大学時代にバイトして買ったウエッジ・ウッドを大切にしている。

好きな紅茶は…私は食器棚を見回す。

あった!フォートナム&メイスン!

悠斗君も紅茶が好きで図書室でよく水筒に入れた紅茶を飲んでいた。

「フォートナム&メイスンはすごく美味しい紅茶なんだけどイギリスで国内での需給が足りなくなって茶葉が輸出禁止になったんだって」

「悠斗君もそんな美味しい紅茶を家で飲んでるの?」

誰かが聞いたら悠斗君は笑って。

「僕はリプトンしか飲ませてもらえないよ、昔お茶を入れるようなかんじで母さんの紅茶を入れたらすごく苦くて後で怒られた」

お母さんの好きな茶葉は輸入禁止になったけどティーパックなら買えるらしい。

「それは茶葉より安いんで初めて飲ませてもらえた。でも美味しくなくてさ…「母さんこれならリプトンの方が美味しいよ」って言ったんだ、そしたら」

「いいの、腐っても鯛なんだから」

「以来、母さんの紅茶は全然減らなくて僕の紅茶はすぐに無くなるんだ」

なんて事ない話だけど。

懐かしいな、悠斗君。

また悠斗君のお話が聞きたいな。

きれいに洗い流しされたシンクは少し白っぽく見えるのはハイターを使ったせいかな。

でも、そんな微かな漂白剤の残り香よりも強い匂いがこの家には漂っていた。

朝から閉め切りの家の中には、お線香の香りで満たされていた。昼も夜も御両親が絶やす事なく炊き続けた香の匂いが壁紙や床や柱にまで染みついているようだ。

それと甘い果実。

私は仏壇の前に正座して悠斗君の写真に手を合わす。

暑さのせいで高杯の果物は少し腐敗が早いみたい。

斜めに曲線を描いて窪んだ桃は中央の一点が黒ずんでいた。

斑点が無数に浮いたバナナを見てキリンの模様はこんなんだったかしらと思う。

熟し過ぎた李は線香に混ぜ困れた白檀の香りと相まって尚一層黄泉の香りを漂わす。

根を切られても青々とした香花は女の髪みたい。

香花の匂いはむせかえるように強く仏壇に立ち込めていた。

Marketー0のブラウニーは最近の彼のお気に入りで学校でもよく食べてた。

ちゃんと箱で供えられていた。

好みのジュースの缶も沢山。

初めて来た時から何も変わっていない。

私は鈴棒で鈴を叩いた。

「悠斗君ごめんね。少しだけお部屋にお邪魔するね」

階段の前に立つと、悠斗君の癖なのかな。

手すりを使わず壁紙に触るものだから手垢で壁紙が黒く汚れてしまっている。

まるで黒い煙みたい。

悠斗君、黙ってお部屋に入るけど、ごめんね。

私は思わず手を合わす。

だって好きなんだもん。

私は階段の壁紙についた黒い染みを掌でなぞりながら階段を登った。

残念ながら私には幽霊を見たり感じたりする才はない。

悠斗君の部屋は以前訪れた時のまま何1つ変わりはなかった。

階下の喪に服す家の空気とここは無縁で。

ただ主だけが不在のまま。

カーテンの隙間から射し込む7月の日差しと暑い空気の中に置き捨てられた机と本とベッドがあるだけだった。

静かに密を舐める甲虫の羽のようにそこにある、本たち。

私はそれにもベッドにも触れる事なく窓際にある彼の机に向かった。

「ごめんね悠斗君、机の引き出し開けるね」

怒って出てきても悠斗君なら私は平気。ゾンビの姿でも大丈夫。

デスクトップのPCが置かれた悠斗君の机の引き出しの一段目を私は引いた。

乾電池が沢山…マウスとかテレビやエアコン用だね。

「机の中にあるゴロゴロ君さ、使えるやつと使えないやつと見分けつかなくて困るよね」

「ハンズに乾電池チェッカー売ってたぜ、電池の残量が一発で分かるんだ」

「いいな、それ欲しいよ」

買ったのにまだ包装したままの乾電池チェッカーとゴロゴロ君たち。

それと、ニャッキとかでこぼこフレンズの食いしんぼん等およそ人が欲しがらないキーホルダー。

悠斗君ガチャとかやるんだ。

一段目はそんなかんじ。

二段目は綺麗な箱に入ったCDの帯と文庫本についてくる栞。

レンブラントやフィメールの絵画の栞がモザイクみたいで、とても綺麗。

悠斗君が「レア」と言ってたボッシの栞はさすがに気持ち悪いな。

「富嶽三十六景やシュリンクスの乙女もあるんだね」

悠斗君と出会って彼の話に興味を抱かなければ素通りしてた物ばかり。

私の指先が震えるのは罪悪感よりも悦びからだ。

彼の好きなものに間近で触れ理解出来る悦びにだ。

新潮の文庫に以前シリーズとして入っていた栞、富嶽三十六景の武州玉川。

「あれだけ見つからないんだよね」

私は探して見つけた。

でも結局手渡せなかった。

それは彼が私に話しかけた言葉ではなかったから。

私は自分の栞を悠斗君の机の中の栞の束に混ぜたりはしない。

何かを取りに来た訳でも、こっそり自分のものを忍ばせるために来た訳ではないからだ。

引き出しの中を散らかさぬよう私は細心の注意を払う。

たったそれだけの作業でも額に汗が出た。

エアコンのリモコンをつけたいけれど何処にあるか分からない。

制服の中の下着に汗が染みて背中が痒くなる。

私は首に巻いていた制服のリボンタイを外してスカートのポケットに仕舞う。

それで汗を拭いてしまいたいくらいだ。

美狂乱、まどろみと書かれたCDの帯…ああこれは、こないだ動画サイトでたまたま見つけた古いバンド。

最近よく聞いてるって言ってたね。

どんな音なんだろう?私も聞いてみたいな。

机の一番下の引き出しを開ける。

ここにはPCの説明書が何冊か、それと使用しない付属品がしまわれていた。

机の引き出しには探しているものはなかった。

私は失望と同時に安堵の気持ちに包まれた。

見込み違いならそれで構わない。

家に帰ろう。

フォトアルバム紙用セット補助ロール。

そう印字された紙の筒に目が留まる。

うちのお母さんが「得だから」と薬局で買ってくる業務用ラップの芯と同じくらいの大きさ。

白い芯にはプリンターへの設置方がイラストと文字で印刷されている。

コマ送りのアニメのセル画みたいに同じ絵がいくつも並ぶ。

その余白に文字が一行だけ書かれていた。

大切に保管して下さい

以前お父さんの誕生日に何か買おうとデパートに行った。

お酒のコーナーに並ぶウィスキーのボトル。

高級なウィスキーは紙の筒に入れられて売られていたっけ。

結局お酒の事なんて何も知らない私は別の品物を選んだ。

机の中の補助ロールは使われた様子がないにも関わらずビニールの封が切られていた。

私がそれを手にとると振ってもいないのに中で軽い音がした。

逆さまにすると中から掌に収まるサイズの小瓶が出てきた。

見た目からして香水の瓶に間違いなかった。


私は危険物を取り扱うようにそれを日差しに透かしてみた。

透明な硝子瓶の中で鮮やかに透き通る黄色の液体。

危険物ではないが爆発的な香りが閉じ込められた瓶は静かに開栓される時を待つように見えた。

香水や化粧品の瓶は女性が手を伸ばし易いように男性の生殖器を模してデザインされている。

以前何かの深夜番組でそんな内容の話題を放送していた記憶がある。

全ての商業デザインには販売戦略や意図がある。

この香水のボトルだって、そう言われてしまえば、そんな風に見えない事もない。

けれど、そんな商業的な意図など超越したかのように美しい硝子の瓶であった。

手にすれば女性ならばきっと栓を開けて匂いを確かめたくなる、そんなデザインだ。

私は瓶を一先ず机の隅に置くとPCキーを叩いた。

予想通りPCは起動したまま省電力モードになっていた。これなら立ち上げる必要はない。

Yhaooのホームページの認証欄にパスワードを打ち込む。

初期設定のままなら机の引き出しに入っていたプロバイダーの契約書に書かれていた通り、ログイン出来るはず。

出来た!届いているメールの受信箱を調べると、注文確認のメールと発送のメール2つ確認出来た。

悠斗君は間違いなく、この香水を自分で購入していた。

私は履歴から自分の検索の足跡を消した。

待ち受け画面に戻る。放って置けば自然に画面は消えるはず。

香水の瓶に手を伸ばし栓を開ける。

部屋中に気品のある複雑な花の香りが漂う。

オリエンタルで優雅でセクシー…甘い香りは花だけではないはずだ。

汗にまみれた私の香りや息遣いを消し去り悠斗君の部屋の空気を変えて行く。

心まで痺れさすような、なんて素敵な香りだろう。

開けなければよかった。

開けるんじゃなかった。

私は、すっかり惨めな気持ちになる。

彼が自分で買ったのなら多分片想いなのだろう。

香水の瓶を開ける時私は香りと一緒に香源の主が現れるような気がした。

アラジンと魔法のランプみたいに。

でも、これは惨めな現実の話で惨めな私が1人ここにいるだけだ。

こんな素敵な香りを身に纏える女性に彼は恋をしたのだろうか。

「せめて香りだけでも」

切ない気持ちでいたのだろうか。

或は香りそのものに惹かれた、そんな可能性は低いかと思う。

実体があればこその恋だ。

実体は何処にいる誰なんだろう。

以前図書室で何気なく見た【嫉妬の夜】という絵画。

1992年に盗難にあって以来行方不明らしい。

あれを盗んだのは私だ。

今は私の胸の中に隠してあるの。

だって私の心の中に広がる景色はあの絵と同じ真っ黒な嵐なんだから。

「出て来なさいよ」

「誰なんだよ!」

「出て来いつってんだよ!!」

私は気がふれたように大声で喚き散らしながら部屋の中を歩き回る。

自分でも自分が何をしているのか、よく分からない。

あの香水は確かに上品でエレガントで、そんな月並みな言葉しか出て来ない自分が恥ずかしくなる位素敵。

でも、もう1つ何かぴったりな言葉が思い浮かばない。それが私を余計に苛つかせる。

部屋を出よう。

香水の名前はメモに記した。

もう夕暮れになる時刻だ。

いつまで此処にいてはいけない。

私は香水の瓶を元の位置に戻した。

瓶をしまっても芳香は部屋に立ち込めていた。

香水は時間と共に香りが変化するものらしい。

私は立ち込める香水の残り香から逃げるように部屋を出る。

今や部屋の空気が全て女の姿になり私を嘲笑っている気がした。

ベッドや椅子に残された私には感知出来ない悠斗君の残り香。

積み上げられた乾いた本の紙の匂い。

そして香水、混ざり合う。

恋に落ちる時の香りというものがあるとすれば多分これが、その香りだ。

ふいに階下で誰かが玄関のチャイムを鳴らす音が聞こえた。

チャイムの鳴らし方で玄関の人物を推察する事なんて私には出来ない。

家の人でない事だけは確かだ。宅配業者だろうか。

チャイムは1度鳴らされた後かなり間を置いて再び何度も鳴らされる。

躊躇いを感じさせるような鳴らし方。

私は階段を降り外の人間に覚られぬように静かに音を立てず勝手口に向かう。

表にでると鍵を閉め段差に腰を降ろす。

5分程そこで時間を潰して玄関に向かう。

玄関の前に座り込んだ姿勢のまま両手で顔を覆い泣く人の姿が、そこにあった。

私と同じ制服の女の子。

隅田澄香。

彼女は同学年でクラスは1組、私と悠斗君は3組だ。

彼女の姿を通夜の席で見かけなかった。

報せを聞いて体調を崩してしまったらしい。

悠斗君と最後のお別れができなかった事を悔やんでいるだろう。

私は思うのだ、あの場に悠斗君はいなかったと。

亡骸は確かにあっても彼の魂は、あの香りと香りの源にあると、そんな気がしてならない。

隅田の横にお洒落な紙箱が置いてある。

街で評判のケーキ屋さんの箱で多分中身はモンブラン。

和栗をふんだんに使ったスポンジを使わないモンブランで、やはり栗のペーストが練り込まれた三角のクレープ生地で包まれている。

一番上にマロングラッセと金箔…悠斗君の好物だよね。

私だって考えた、でもお仏壇に備えたら半日も持たないし。

そんなに沢山のケーキお父さんとお母さんには量があり過ぎて哀しいじゃないかって。

それを躊躇せず持って来た。

いつも冷静で理知的と評判の隅田が。

羨ましいくらい放課後悠斗君の側にいて、なんで彼女じゃないんだろう。

私は腕時計を翳して見る。

暑さで文字盤に書かれたラテン数字が溶けて見えるのは仕様のせいだ。

タイムマシンが時間旅行するとき現れる数字みたい。

でも過ぎた時間は戻らない。

たとえ戻れるにしても何時まで私たちは時間を遡れば彼に好きになってもらえるのだろう。

私は裏口にそっと身を隠そうとした。

「小野瀬さん」

見つかってしまった。

隅田は私の姿を確認すると即座に顔を背け両手で顔をごしごし拭いている。

かと思えば玄関の一番上にすっと立ち私に向かって言った。

なんだろう? 

なんで隅田はあんな、ギャルみたいな化粧をしているんだろう?

「あんたここで何してるの?!」

「悠斗君にお線香でもと思って」

「授業中でしょ」

「そう言う…隅田さんだって」

「私はお葬式出れなかったから、ちゃんと先生に断って図書委員を代表して来たの」

「ああ、そうなんだ」

「裏口でなにやってんの」

「チャイム押しても出ないから、お台所かなって」

隅田はい抜くような目で私を見て言った。

「あんたがその首からぶら下げているものは、どうやら鍵のようだけれど」

しまった、リボンを外して引き出しを探した時だ。

あまりに暑いんで私ボタン2つまで外していた。

「非合法の匂いがするわ」

嗅ぎつけられた。

「それにその鍵音無君が持っていた鍵に酷似しているのだけれど」

人を追い込む時こういう喋り方をすると大変効果的、と隅田は私に教えてくれている訳ではない。

「説明して小野瀬さん」

「説明」

「そう、私に分かるように説明して」

「なぜ隅田さんみたいな聡明で可愛い女の子が側にいて音無君は好きにならなかったのか私正直疑問だったの…何故?」

私は肩を竦めた。

「でも今分かった」

「質問に答えないばかりか、今私を侮辱した」

隅田はひらりと玄関の階段から飛び降りた。

その時水色のパンツが少しだけ見えた気がして、私は胸が少し高鳴る。

「選ばれない事はけして恥じ入る事ではないと思うの」

「黙れ、その口!」

隅田と掴み合いになる。





夜家に帰った私は部屋で自分のPCの液晶モニターの前にいた。

さすがに隅田とは掴み合いになったがバトルに発展しなかった。

音無君の家の前でさすがにそれは出来ない。

お互いに引いたのだ。

隅田は直に帰宅するであろう悠斗君のお母さんを待ち、私は帰宅した。

後日放課後の図書室で話そうと約束を交わして。

「これから私は音無君のお母さんと会う事になるけど、お母さんにあんたの事は言わない。先生にもね」

肩で息をしながら隅田は私に言った。

「全て自分で確かめるまではね」

隅田は、あれでなかなかに良い女なのではないか。

いずれにしても、翌日私を待っているのは破滅の二文字かも知れない。

あんたんとした気持ちと奇妙な清々しさが混じり合う。

隅田には包み隠さず話してしまおう。そんな気分。

元より私は音無君柄みで誰1人欺いてはいない。

私の所業に関しては聞かれない事に答えていないだけだ。

そんな言い訳じみたスタンスや言葉が通用しない事は分かっていたが。

突然着信音が部屋に鳴り響く。

悠斗君のお母さんだ。

なんだろう、身に覚えがあり過ぎて私はなかなかでる事が出来ない。

「もしもし、小野瀬ですが」

「もしもし、私悠斗の母です」

「先日はありがとうございました」

「突然電話して、おかしな事を言うけど、ごめんなさい」

「はい」

鍵は出る時ちゃんと閉めた。部屋の照明のスイッチは入れてない。

忘れた物なんてない筈だ。

「…悠斗の部屋の香りが変なの。とても強い匂いが籠っていて、はっきり分かるくらい強い香りで」

私は冷水を浴びた気分になる。窓を開けて換気するわけにはいかなかった。

香水の匂いは部屋に残ったままだったのだ。

「誰か悠斗の部屋に入ったのかしら。夫は帰宅が遅いし、急に電話してごめんなさい」

悠斗君のお母さんは明らかに狼狽していた。

私は、なんて事をしてしまったのだろう。

「そう言えば夕方隅田さんという女の子が訪ねて来たけど、まさかあの子が」

隅田が疑われているのか。

「隅田さんは、そんな人じゃありません!」

私は思わず叫んでいた。

なんで私は隅田を庇うのか。

いや、隅田は私の事をお母さんに言わなかった。

そしてこの件で100%の咎や謗りを受けなくてはならないのは私だからだ。

「全て私がやった事です、ごめんなさい」

電話口でふふと笑う声がする。

「隅田さんは2階に案内してないわ」

「そうですか」

「貴女に至っては家に来てもいないし」

私は沈黙する他なかった。

「友達思いなのね、でも過ぎたるは、何とかって言うでしょ」

「すみません」

電話口のお母さんの声が少し軽くなった。

「もしかしたら香りの強いものが部屋にあるのかも」

「悠斗君のお部屋のものは手付かずのままですか」

「ええ、最近は私が部屋に入って掃除するのも嫌がっていたんで気がひけて」

「私も親とよくそれで喧嘩します」

「どこの子も一緒ね」

「最近は雑貨屋さんでもアロマ・キャンドルとか香水みたいなものも簡単に買えます。悠斗君誰かに誕生日プレゼント貰ったか贈るつもりの品があるのかも」

「この暑さですものね。香りの元を探したら見つかるかもね」

「お部屋の換気は」

「ええ、そうするつもりよ」

ふと会話が途切れた後お母さんは私に言った。

「悠斗と仲良くしてくれてありがとう」

悠斗君のお母さんは見つけるだろう。香りの源を。

それが女性の使う香水であったり、高価な品だと気がつくかも知れない。

けれど多分旦那様にもその話はしない。

部屋の換気をすっかり済ませたらドアを閉める。

来月請求書が届いたら携帯やパソコンの契約は解約されて、私はもう2度とあの部屋を訪れる事はない。

誰の手や目に触れる事なく彼女が守って行く。

解き明かされぬ彼の秘密も本も香水も、全部だ。

「小野瀬さんも隅田さんも、とてもいい子。多分あの子は幸せな学校生活だったと思うの、だから小野瀬さん」

「はい」

「死んだ人の香りなんて追ったら駄目よ」

「はい」

「この間貴女から、そんな話を聞いて心配したの」

お母さんの言葉は優しかった。

「お話出来て嬉しかったです」

「私もよ、夜分にごめんなさい」

電話が切れた後私はPCの黒い画面を眺めていた。

私は悠斗君が好き。ただそれだけだった。

なのに傷つけてはいけない人を傷つけてしまう。

指先がキーに触れる。

省電モードが解除され目の前に検索した画面が現れる。

【HEURE BLEUE  GUERLAIN】

1912年発売

L'HEURE BLEUE(ルールブルー)とは「青の時」を意味する。

ゲラン家は175年続く調香師の家系。

息子とセーヌ河のほとりを散策中だった3代目調香師ジャック・ゲランが太陽が消え星も無い空を見た時。

黄昏があたりを青色に変えていく光景に深い感銘を受け創作された。

最もロマンチックな香水とも呼ばれている。

しかし彼がこの香水に投影したイメージは【言葉にならない災いの前兆】それを香水で表現したのだと生前に彼は書き残している。

彼が歴史に名高い調香師の中でも、とりわけストーリー・テラーと呼ばれる由縁である。

第一次世界大戦前の平和な時代。

穏やかでけだるい夏の黄昏時に感じた不安。

ボトルはレイモンド・バカラによる傑作のひとつ。

当時は全ての香水に違うボトルを作る事はなく、この香水が初めて…

「災いの前兆か」

私の粗末な嗅覚が調香師の香りに込めた意図を嗅ぎ当てた。

なんて事がある筈もなく。

私を戦かせたゲランの香水は優雅で上品で完璧だった。

こんな香りを身に纏う女性と彼が何処かで出会っていたのだという憶測。敵わないと感じさせる空気。

それに尽きる。

私は音無悠斗君の突然の死を受け入れられず。

彼のベッドに染み付いた香水の香りに翻弄された。

しかし否応なしに幕引き。

もうこれ以上何も出ては来ないだろうと思われた。

少なくとも私の身の周りにゲランなんて使ってるセレブはいないのだから。

PCを閉じてベッドに身を投げ出す。

その日私は色々あって自分で思うより気持ちも体も疲れていたようだ。

夢なく香りも音すらない暗闇に私は落ちていった。

翌朝は、いつもより少しだけ遅い時刻に目が覚めた。

登校時間も当然遅めになるが遅刻を心配する程ではない。

登校時間が多少ずれただけで普段行き合う事のない人に出くわす事もある。

昇降口の前でクラスメートの未来にあった。

未来はいつも始業時間ぎりぎりに登校して来る。

「おはよう」と声をかける。

未来は私を指差して。

「言ったのにリボン!」

生活指導の先生みたいだ。

未来は私のリボンタイの結び方がダサイといつも難癖をつける。

「もっと緩めないと可愛くないよ」

逆生活指導に合う。

私は突っ立ったまま新婚の奥さんにネクタイを直してもらう旦那みたいになっている。

「出来た!よし完璧!さあ行こう」

未来と連れ立って昇降口に入る。

室内履きに履き替えている時妙な香りがした。

「なにかな、この臭い」

未来が思わず鼻を摘まむ。

かと言って生ゴミや腐乱死体のような異臭がした訳ではなくて。

多分いい香り、なんだろう。

ジャコウジカ、ムスク、男性用のフェロモン系の香水だ。

デパートで香水のサンプルを嗅いでいたら親切な女性店員さんが色々教えてくれた。

その中の香りの1つだ。

悠斗君の部屋にあった香水とは似ても似つかない香り。

私たちのいる反対側の男子の下駄箱から匂ってくる。

そっちから出てくる男子が皆怪訝な顔や失笑を浮かべながら廊下を通り過ぎる。

「繭、あっちからバカの気配がするよ」

「バカ?」

気配じゃなくてあからさまに匂いだけど。

「4組の藤池って知ってる?」

「名前ぐらいは」

未来は悪戯っぽい顔をして私の手を引いた。

「ほらほら」

未来に促され男子用の下駄箱のある方を覗き込んだ。

なんか、いかにもチャラいですって感じの男子が1人天に向かって香水を振り撒いている。

殺虫剤で蚊を狙うように断続的に何回かに分けて。

「やっぱり藤池だよ~」

未来が押し殺した声ではしゃいでいる。

藤池という男子生徒はたっぷりと身の周りに香水を振り撒くと満足したように1つ頷いた。

そして何を思ったのか空中の蚊を捕まえるみたいに両手をひらひらさせている。

なんの儀式だろう。

彼は頷くと、こちらに向かって歩き出した。

すれ違い様に私たちを見て、こう言った。

「香水は吹き付けるものではなく着るものだよ、お嬢さん方」

なるほど、ファビュラスでブリリアントなバカだ。

何かと話しかけてくるバカを無視して私と未来は教室に向かう。

2年の教室は2階だ。

「小学校の時からあだ名はキザ夫だったけどね」

教室に向かう途中でも話題藤池の話になった。

特に興味はない。しかし未来は小中と学区が同じだったらしく藤池の事にやたら詳しい。

「高1まではあんなんじゃなかったよ、元々調子のいいやつだったけど」

高2になったばかりの頃バイト先で知り合った彼女が出来てから藤池は変わった、らしい。

「何でも年上の彼女らしくて、その彼女に影響されてるらしいよ」

「で、結果があれなの?」

「背伸びしてるの、見え見えで痛いよね~」

「まあ、さっき撒き散らしてた香水かなり高いと思うよ」

「買ってもらったんだよ、セレブな社長婦人に」

「社長婦人って」

「結構学校じゃ有名だけど…あいつのつき合ってる女って既婚者だよ。毎朝ベンツで送り迎えしてもらってるの見た事ない?」

セレブな社長婦人。

送り迎えのベンツ。

図書室の窓から見た風景。

「いいわね、お金持ちって」

隅田の呟き。

て、事は悠斗君も見ていたかも知れない風景。

「セレブ」

私の頭に閃くものがあった。

そのまま教室の入り口と未来に背を向けると駆け出していた。

「未来、悪いけど先、すぐ戻る!」

「なに?トイレ?ホームルーム始まっちゃうよ」

教室をチラ見したが藤池の姿は見当たらない。

私たちが登って来た6組の教室横の階段。

あそこが昇降口から教室に一番近い。

階段の前に着くと予鈴がなり始めていた。

近くにスピーカーがあるせいかやたら音がでかくて階段や廊下に響いていた。

予鈴が鳴り始めているにも関わらず藤池は悠長に階段を登って来るところだった。

「藤池」

私は彼の前に駆け寄ると矢継ぎ早に彼に質問を繰り出した。

私たちの話し声は予鈴の音にかき消され周りには聞き取れない。明らかだれか悪戯でボリュームいじってるな。

慌てて階段を登って来る生徒も何名かいた。

誰1人私たちの事なんて気に止めてなんかいなかった。

でも次の瞬間そこにいた人たち全員が足を止め私たちを見た。

私は階段の壁を背にして藤池と話をしていた。

私の顔のすぐ真横の壁に藤池が掌をついた。

そのまま体を密着させるように体を刷り寄せて来る。

「…いいけど、今度デートしてくれる?」

数えらんないくらいの虫が足元から這い上がってくるんだけど。

「別に構わないけど」

私は答えた。

完璧にこいつ色ぼけの勘違い野郎だ。

彼は私の顔色を伺いながら私の髪や頬に触れるしぐさをして見せる。

口が半開きなのはやっぱバカだからか。

さっきまで壁に触れてた汚い手、そんなんで私に触れたら躊躇なく張り倒す。

でも生憎そこまでの度胸はないようだ。

「さっき下駄箱で君を見た時、ああこういう普通っぽい子もいいなって」

誉めてんのか挑発してのか。やっぱムスクはダメだな。

というか一気に印象悪くなった。

「タイが揺るんでるよ。ちゃんと結ばないと」

指先が私のタイに触れた瞬間。

「なにすんのバカ」

未来が私と藤池の間に飛び込んできた。

「せっかく私が可愛くゆるゆるにしたのに!ダサ!ダサ!!ついでお前も、ダサ!!!」

そっちなの!?

「ファビュラスむかつく」

「キザ夫が」

私と未来は呪いの言葉を吐いた。

「え…あの…」

ダサイと言われて藤池は少なからず動揺しているようだ。

ここで逃げられては元も子もない。

「藤池聞きたい事あっから放課後下駄箱にいろよ」

私は階段の上から藤池を指差した。

「お前が繭にした不埒な行為は全て私のスマホに録画させてもらった」

繭がスマホをつき出す。そんな事は頼んでないが。

「なにこれ、罠?」

藤池は愕然としている。

「繭の約束破ったり変なことしたら担任とお前の彼女に動画見せるからな」

未来のスマホをチラ見する。

ぎっしり私の動画で画面が埋めつくされている。

5分前に未来を置いて走りさる私の後ろ姿まで。

【走る繭のお尻】腰砕けになりそうなタグや絵文字が踊っている。

遠足や体育の時の着替え悠斗君のお通夜の時の動画まで。

「お前にも話がある」

私は未来の耳をつまんで廊下を歩く。

「愛故の無垢なストーキングだよ~」

私も人の事言えた義理ではないが。

「愛故にか…」

私は教室で未来の動画を削除しながら思った。

放課後会う事になってる隅田にそんな言い訳は通用しないだろうな。

「音無君のお通夜の時に未来が言った「いやん」て言葉が妙に耳に残ってさ」

スマホを未来に返して私は言った。

未来はきょとんとした顔で私を見た。

「私、そんな事言ってないよ」


放課後は図書室のドアの前にいた。


【本日は図書の貸し出しは終了しました】


図書室のテーブルに置かれたトランプみたいな色とりどりの紅茶のティーパック。色んなフレイバーがあるものだ、と私はつい感心してしまう。

向かいの席に座る隅田澄香はリラックスした様子だ。

ここは彼女のホームで私は言わば俎の鯉だから。

「どれにする?」

隅田が表情を変えずに言う。

「湯ならあるぞ」

隅田が鞄からステンレスの水筒を出して見せる。

どうやら、お茶をご馳走してくれるらしい。

「別に茶を飲みに来た訳じゃない」

私の声はぶっきらぼうに答えた。

「まあ、そう言うなよ」

隅田は鞄からフォトフレームを出して私の前に置いた。

中学の修学旅行の写真だろうか。

今より少し幼い顔をした悠斗くんが笑っている。

「いい写真だろ?クラスの写真係だった女の子に頼んで、こっそり手に入れた。ずっと私の机に飾ってある」

隅田が写真を指先でなぞりながら目を細める。

「私の秘密の宝物だ」

続いて鞄からお香まで取り出す。

「交霊会でもやるつもりか」

「追悼のつもりだが、交霊会なら細切りにした猫の肉とか…生け贄が必要だな」

「生け贄にぴったりのやつを下駄箱に待たしてるけどね。今日はやめとく」

「そうか残念だな」

隅田はしぶしぶ鞄にお香を戻した。

生真面目な子だと思ったが少し変わってる。

飾り気がなくて言葉に温かみがある。少なくとも私には魅力的な女の子だ。

悠斗君の目には彼女は、どう映ったのだろう。

写真の中の悠斗君は永遠に笑ったままだ。

「お茶どうだ」

結構世話好きだし。

「心配しなくても毒は入ってない」

入ってるわけがない。

毒をもられる謂われは私にはない。

私は綺麗に並べた紅茶の中からダージリンに手を伸ばす。

「本当にそれでいい?」

「だってダージリンが好きだって悠長斗君が」

中学生の時くらいまで、リプトンはイエローラベルの他にも色んなラベルの色の紅茶に分かれて売られていた。

悠斗君の好きだった紅茶は紫のラベル。だけど今はイエローラベルと、ダージリン、アール・グレイ、フレイバーティーしか見かけなくなった。

「だからダージリンを飲んでるんだけど、リプトンのパックって三角のピラミッド型って書いてあるけど三角錐だよね。ピラミッドは…」

「四角錐」

「ああ、言ってたね」

「隅田さん、私紅茶苦手なの」

隅田は気を悪くした様子もなく頷いた。

慣れた手つきでティーパックの包み紙を開けて中身を取り出すと紙コップにお湯を注いだ。

「音無君の分」

フォトフレームの前に置いた紙コップから湯気とよい香りが立ち登っていた。

隅田はGIPのロゴが入ったタッバの青い蓋を開けた。

刻んだ鷹の爪のような赤い色の実を2つの紙コップに取り分け、お湯を注いだ。

「それは何?」

「野生のローズヒップだ」

小さなティスプーンで軽くステアして私の前に差し出す。

「美容にいいから、と母が大切にしているのをくすねてきた。美容食品と名のつくものは味は二の次だけど、これは抜群に美味い」

私は歓迎されているのか。

一口飲むと自然で優しい酸味と、お砂糖も入っていないのに仄かに甘みもあって。

スーパーなんかで売られているのは酸味が強くて色も濃い目だけど隅田が入れてくれたのは優しい味がした。

目の前に赤い液体が入った硝子の小瓶が置かれる。

「これは何?」

「薔薇蜜だ」

少しだけ注いで飲んでみる。

「美味しい」

香りと酸味と薔薇蜜の甘味の絶妙さに心がほどけて行く気がする。

隅田が鼻を鳴らした。

「そんな笑顔を音無君の前でしてないだろうな」

何か先程から隅田のペースにのせられている気がするが。

私が話をしやすいように気を遣ってくれているようにも思えた。

「あの後音無君のお母さんにあった」

「うん」

「その前に小野瀬には恥ずかしいとこを見られてしまった」

「全然だよ」

見られて恥ずべき行為をしていたのは、むしろ私の方だ。

「好きな人が死んで泣く事はむしろ至極自然だし、私は…その…未だに泣けないでいる」

「違うんだ」

隅田は私の目を見て言った。

訴えかけるような目の輝きに私の胸が高鳴る。

「音無君を死なせてしまったのは私だと、ずっと思っていた」

「私が殺したようなものだと」

一口だけ口をつけた紙コップを隅田は右手で所在なく回している。

時間の経過とともに器の中の液体は澄んだ薔薇色から赤いワインの葡萄色に変わっていた。

底に溜まった実がふやけて蛙の卵みたいに震えている。

「今からその話をする。聞き終えたら、私と玄関で会う前に小野瀬が何をしていたのか話して欲しい」

私は頷いた。

隅田に言われるまでもなく最初から、そのつもりで来ているのだから。

私は隅田は悠斗君の訃報を聞いて体調を崩したと思っていた。

実際は彼が亡くなる当日図書室で作業中に具合が悪くなったらしい。

「『気絶ってもっとロマンチックなものだと思ってた』…赤毛のアンに出てくる台詞だけど本当にそうだ」

放課後隅田は図書室で立ちくらみがして倒れた。

「保険医の先生には貧血か軽い熱中症だろうと言われたよ。図書室のエアコンが調子悪くてね」」

一緒に作業していた音無君が保険医の先生を呼んでくれて保健室に隅田を運ぶのを手助けしてくれた。

音無君が事故にあったあの日、彼は街で家族と待ち合わせの約束をしていた。レストランで食事をする予定があったのだ。

「私の事でバタバタしたおかげで帰宅時間が予定より随分遅れたみたいだ」

それでも音無君は知らせを聞いた隅田の御両親が隅田を向かえに来るまで保健室に残っていた。

「私が目を覚まして両親と会った時に音無君はもう居なかった」

御両親に挨拶して音無君は帰宅した。

「急いでたらしい」

音無君のお父さんは昔から躾に厳しい方で特に時間を守る事に関してはうるさかった。

私たちの高校は山間部の街を見下ろす高台にある。

街に出るための道は2つあって1つは校門を出て横断歩道を西に平地を進むルート。

この道は学校のすぐ近くにある自動車教習所を迂回して緩やかな坂道を下る通学路だ。

道幅も広くて車の通りも少ない。

もう1つの道は校門を出て南に県道の坂道を下るルート。

平坦な道路となる高速道路のトンネル付近に着くまで約200メートルの長い坂道が続く。

山を切り崩して作った掘り割りの狭くて勾配のきつい下り坂と急なカーブがある道だ。

教習所に通っていた3年生の先輩が言ってた。

「教習所の門を出たらすぐにセカンドにしないと教官に怒られる」

昔からこの辺りの道路は山間部から伐採した木材を運ぶトラックの往来が激しい道として知られていた。

近年では産廃施設が市民の反対を押しきって建設されたり建て売りの分譲住宅地も増えた。

学校は特にその道を利用するのを規制してはいなかった。

悠斗君はその道のカーブでトラックと正面衝突した。

彼は帰りの道を急いでいたけどカーブでは減速していた。

原因はトラックの運転手の前方不注意とスピードの出し過ぎ。

目撃者が何人か名乗り出て事故の原因が運転手側にあると証明された。
不幸中の幸いと言うには代償が大きすぎる事に変わりはない。

「私は中学からずっと皆勤賞だ」

その隅田がその日に限り体調を崩した。

悠斗君は時間に遅れまいと帰宅の道を変更して事故にあった。

隅田が事故は自分のせいだと自身を責めても仕方ない事だ。

念のためにと救急病院に連れて行かれた。

「体温が平熱まで下がってますから大丈夫です」

医者にそう言われた。実際病院につく頃には、ぴんぴんしていた。

「注射1つしないで随分お高いわ」

「救急の初診は保険効かないからな」

「隅田家は病院とは無縁だからね」

帰りの車内でそんな軽口も飛び出した。

車内で隅田は音無君に「迷惑かけてごめんね」の件名で始まるメールを打った。

返信は来なかった。

「音無君の家はお父さんが礼儀に厳しいから食事中にメールなんて出来ないよね」

安易に想像がついた。

帰りに寄ってもらったコンビニで買ったクラブハウスサンドと桃のゼリーを少し食べて早めにベッドに入る。

ベッドの中でうつうつとして時々目を覚ました。

携帯の着信を知らせる緑のライトが灯る度に受信ボックスを開けて見た。

何人かの女子のクラスメートとからのメール、BOOK・OFFと携帯会社からのお知らせメールが届いていた。

新しく読んだ本の感想とかなら…買わなくていいくらいの長文でよこすくせに。

「ありがとう」とか「ごめんね」の返信には無頓着な人だった。

「明日会えるからいいや」

幸せな言葉だと布団を被りながら思った。

運が良ければ朝登校する時にも、会える。

放課後図書室でも。その時には改めて「ありがとう」って言えばいいんだ。

もしかしたら明日は今日と少し違ったかんじになるかも知れない。

淡い期待の灯りが胸に灯るけど、多分それは今日より明日はもっと音無君の事が好きな自分がいる、それだけの話だ。

考えると人類は滅亡し人間の根源は悪で、この世界から戦争は無くならない。

泣き叫ぶ子供たちの悲鳴が聞こえる前に眠ってしまおうと思った。

「朝目が覚めたら体中がだるくてさ、熱を計ったら40度を越えていた」

隅田は今度は市民病院に担ぎ込まれた。

その頃には意識が朦朧として囈ばかり呟いていた。

「レントゲンを撮ったら医者に肺炎だと言われたよ。この頃は咳が出ない肺炎もあるらしいな」

2日間高熱に魘された。

起き出す気力も湧かない。

解熱剤がようやく効き始めた頃眠り、翌朝携帯を取りだして見た。

「寝ているうちにバッテリーが切れていたらしい」

電源を入れたらメールの着信が30件以上あった。

クラスメートや図書委員の子たちから。

「澄香、今夜お通夜だって」

「私が?って一瞬思ったよ」

メールの着信の大半は昨日届いていた。

「責められるものは母でも自分でも何でも責めた。けど、因果なものだ。中学からずっと図書委員で周りから腐れ縁と囃し立てられたりしたのに最後のお別れは出来なかった」

「後は察してくれ」

一端は引きかけた熱は再びぶり返して隅田をベッドに縛りつけた。

「音無君の玄関の前で小野瀬に会った時、本当はまだ家で寝てなきゃいけなくて」

「先生に断って来たというのは」

「勿論嘘だ」

「あの時会った隅田はとても病み上がりには見えなかった」

「少しだけど、お化粧したんだ。悠斗君の家に行くのは初めてだったから…私変じゃなかったか?」

「変じゃなかったよ」

道理で私に掴みかかって来た時の目力がすごいはずだ。

「結局音無君のお母さんが来る前に素っぴんに戻してしまったんだ」

それは賢明だった。

賢明なる隅田澄香。

彼女は突然の病と「悠斗君が亡くなった原因の一端は自分にある」という罪の意識から悠斗君の家を訪ねた。

悠斗君のお母さんは隅田の告白を聞くと、こう言った。

「私だってあの子と出掛けに口論したのよ」

聞けば悠斗君は親に内緒でアルバイトしていたらしい。

昨日お母さんが悠斗君の部屋に掃除に入った時給料の明細を見つけた。

「親に内緒で一体何のお金がいるの?」

「昨日見つけたなら昨日言えばいいのに」

「お父さんがいるとこで話して欲しかった?」

「何かと言えばお父さんお父さんか第一なんで部屋に入るわけ?入るなって言ってるのに」

「我が家に親が入ってはいけない場所なんてないの」
親子喧嘩は物別れに終わったという。

「でもな、それは嘘なんだと思う」

「嘘、なの?」

「多分私に予期せぬ告白をされて戸惑ったんだと思う。私をこれ以上傷つけまいとしてくれたんだ。だって」

音無くんがアルバイトの給料明細をお母さんに見つけられて朝口論になったのは2ヶ月も前のはなしだ。その後随分優しい言葉をかけてもらった。

「音無君バイトしてたんだ」

「一月半くらいかな、土日と祭日の昼間レストランで「欲しい全集があるんだ」って言ってたな」

祭日も入れて週2日1月半働いて月のお小遣いを幾らか足せばゲランの香水はなんとか買える。

30mlの液体にしては法外な値段だが。

「大人というのは人を傷つけないように相手の目を見て笑顔で嘘がつけるんだな」

「もしも悠斗が最後に隅田さんの事を傷つけたりするような言葉や態度をとってしまったなら私は貴女に何度でも謝らなくてはならないけど、もしも悠斗が貴女に最後まで親切な子だったのなら、その事だけでもいいから覚えておいてあげてね、隅田さん」

「それって息子の生殺与奪に関わって来たのは最初から私だけ、あんたの出る幕じゃないの…という意味にも取れるな」

「ちょっと小野瀬!」

「ごめん、私が悠斗君のお母さんならって思ったの」
私は、そういう風に考える癖がある。

「勿論悠斗君のお母さんがそんな人じゃないって私も会ったから分かるよ。ただ私なら誰か他の女の子が「私のせいで彼は…」なんて言い始めたら「私だって!」と嫉妬する」

隅田は黙って私の話を聞いていた。

「隅田、怒ったのか?」

「いや、観察者が変われば同じ事象でも見解や結論というのは変わるものだと改めて思った」

隅田は感慨深げに、そう呟いた。


「小野瀬繭、私はあんたが大嫌いだ」

「それは私も同じ」

「いつも私と音無君の周りをうろちょろして本を探すふりをしては私たちの話に聞き耳を立てていた」

「そっちこそ、放課後いつも悠斗君と一緒で羨ましかった」

「あんたは音無君と同じクラスで私は羨ましかったよ。私たちは同じ図書委員だけど、【図書室は私語は控えて下さい。他の人の迷惑になります】って札が掛けてあるでしょ?お話しが出来るのは他の生徒が帰った後、それなのにあんた学校が閉まるまで粘って」

「他の生徒が帰ったら、これ見よがしに話しかけてたじゃない」

「ざまあ見ろって思ってた」

随分ぶっちゃけてくるなあ、この女。

「しかし、まあ、対象者本人が強制退場してしまった今となっては」

確かに、こんなやりとりは不毛の一語に尽きる。

「隅田さん」

「気持ち悪いから呼び捨てで構わない」

「音無君は図書室での、その…私の存在に気づいていたのかな」

思いきって聞いてみた。

「勿論気づいていたさ。「小野瀬さんはよっぽど本が好きなんだね」って言ってたよ」

やはりその程度か。ため息すら出ない。

「本の虫に恋をしたら自分も本の虫になれば好きになってもらえる、なんて私も前は考えていたよ」

本の虫は本の虫を好きになる、とは限らない。

「小野瀬の目には音無君はどんな風に映っていたんだ?」

「蝉」

「なんだ、それは?」

私は小野瀬に説明した。

「…なるほどな。当たってるのかもな。蝉が捕食者に捕まるリスクを冒してまで鳴く理由は雌を呼ぶためだ」

私たちはその鳴き声にのこのこつられたのだが、相手にされなかった。

「隅田から見て音無君はどんな人だった?」

「劇場」

「劇場か」

「意味は小野瀬の言ってる事と大作ない」

私は劇場のステージに蝶ネクタイと燕尾服姿の音無君を想像する。そこでも彼はいつもの笑顔で大好きな本について語るのだ。

そんなイメージでよいのかと隅田に尋ねた。しかし彼女は首を振る。

「音無君が劇場で何かするというより彼自身が劇場そのものなんだ」

「どういう意味だかイマイチ分からない」

「劇場でかけられる演目というのは架空のもの、つまりは嘘だ。観客は金を払ってそれを観にわざわざやって来る。作品の出来不出来に不満は言ってもそれが嘘だと文句を言う客はいない」

「まあ、そうだな」

「劇場とは架空のものが存在する事を許された空間なんだ。映画のスタジオとか…それが生み出される場所でもある」

隅田は音無君がそれと同じだと言いたいのだろうか。

「音無君は無類の本好き。それは間違いない。彼みたいな本の虫と呼ばれる人は世界中に五万といる。でも彼はある意味特別なんだよ、小野瀬」

隅田は私に何が言いたいのか。

「彼には物語と現実の境界線が無いんだ」

「境界線が無いってどういう事?」

「つまり教室の椅子に座って昨日見たテレビドラマや借りて観た映画の話をするのは日常よくある事だろう」

「確かに、よくある」

「話している方にも聞いている方にも今目の前にある日常が現実、映画やドラマは架空のもので、無意識下で線引きは出来ているはず」

「音無君は、もしかして」

「出来ていなかったんだ」

「それって天才って事?」

「絵画や小説や音楽を自作したり彼はしなかったから…私は最近まで境界線症候群という疑いを彼に持っていた 」

「境界線症候群」

「でも全然違ってた。彼は好き嫌いを表に出さないし暴力的でもない、幻覚も見ないし自殺願望もない」

隅田によると脳の疾患や遺伝による精神障害の例には当てはまらないらしい。

「物語について語る時の彼は本当に素晴らしかった。まるでファンタジー小説に登場する言の葉使いのようにだ」

確かに、隅田の言う通り私もそれに魅了された1人だ。

「ただ中学に上がったばかりの頃の彼は著しくバランスを欠いていた」

隅田は音無君の写真に目線を移した。

「一度スイッチが入ってしまうとな…普段は物静かな男の子なのに、それで彼は小学校の時は周りから少し浮いた存在だった」

私が知っている音無悠斗君からは想像がつかないが、そういう時期があったらしい。

「だから、私たちは学ぶ必要があった。彼が学校で変わり者扱いされて孤立しないように、訓練したんだ」

生徒のいない図書室で、さりげなく普通の日常会話のように彼が好きな物語を語る訓練。

それは一体なんなのだろう。

そんな事をしなければならない程悠斗君は変だったのだろうか。

言の葉使いって。

「人々は劇場でチケットを買い、中に入り用意された自分の椅子に座る。照明が消えて舞台の幕が上がり、やがて終わる。照明がついて幕が下りたら人々は劇場を後にする。現実の世界に戻るんだ。それが彼には必要だった」

私はどうにも府に落ちない顔をしていたらしい。

隅田は不安気に言った。

「良かったのか悪かったのかなんて未だに分からない」

「でも隅田は音無君のために何かしたかったんだよね」

隅田は頷いた。

「そして彼はそれを受け入れた、なら、それでいいんじゃないかな」

「そうなの、かな」

隅田は音無君のために【上手な話し方】の類いの本を沢山読んだらしい。

「音無君は頭がいいから、直ぐに自分でこつを掴んで上手くやれるようになったんだ」

「隅田が音無君の事を劇場と呼ぶ意味が分かったよ。つまり彼の個性と思っていたけど、あれは2人の作品でもあるわけだ」

「作品…隅田君の個性が私と隅田君の」

隅田の口元がほんの少しだけ緩んだ。

「何をやってたんだろうな私たちは…まるで芝居の稽古みたいに「音無君、そこは少し抑えて。そうだね…時々どうでもいいような話題に戻るのもいいかも、なるべくありふれた話題とか」「ありふれた話題って結構難しいよ」「そうね、例えば乾電池とか」」

「乾電池か」

「そう、乾電池」

乾電池いっぱいあったな、音無君の机の中に。

「隅田は音無君のカウンセラーみたいだな」

「第一志望は恋人だけどね。カウンセラーなんて圏外も圏外よ。第二志望はマルブリッド。それも無理なら、せめて彼の大事にしてる本の栞でも良かった」

本の栞も沢山あった、彼の机の引き出しの中に。

「時々出して眺めてくれたらそれでいいの」

斜に翳るように人の瞳はこんな風に憂いを含んだ色に変わるのだな、とその時思った。

「沢山の物語を人に聞かせて逝ってしまったけど自分の物語には触れなかった」

「悠斗君は自分で小説とか物語を書いたりしなかった?」

「読んで話すだけで何も書かなかったと思う」

日記みたいなものも机の中になかった。

「でも彼は自分の物語を心の奥底に隠してたの」

「自分の物語?」

「あっという間に起きて直ぐに終わってしまったから語れない。語ろうにもヒロインが不在なんだって。彼の劇場にはね、ヒロインが不在なんだよ」

隅田の瞳から憂いが消える。

「ヒロインって音無君の好きな人?」

「そうよ」

「香水の」

思わずそう呟いていた。

「よく知ってるね」

隅田は感心したように言った。

「彼の初恋の話は私しか知らないと思ったのに」

初恋って、どういう事だろう。

ものすごく違和感がある。あんな香水、初恋には出て来ないだろう。

「なあ、隅田…音無君の初恋って、いつ頃の話?」

「幼稚園の年少」

「相手は?」

「多分同じくらいの年だと思う」

「間違っていなければ私がその香水に触れたのは最近の話しだ」

「学校で?」

隅田の眉が片方つり上がるのを見て、私は首から下げたネックレスを机の上に置いた。

「学校じゃなくて音無君の部屋のベッドの中でだ」

私は隅田にこれまでの経緯を全て話した。



「小野瀬お前のした事は屍肉を漁る行為に等しい」

隅田の言葉は一言一句予想した通りだった。

大概どんな人間も食うのは屍肉なんだけど。

私にはかき集める思い出も少なければ貪り食う屍肉だってないのだ。

「お前、音無君のベッドに潜り込んで、卑猥な行為に及んだりしてないだろうな」

「さっき言っただろう、ものの5分もしないうちにお母さんが戻って来たって」

「来なかったら何をしていた事か」

「まあ、そうだな」

「この変態女」

「私は変態だよ」

「呆れたやつだな、開き直るつもりか」

「音無君と出会わなければ私だってこんな風にはならなかった。彼が私をいけない子にしたんだ」

「調教されたみたいに言うな、穢らわしい」

隅田は私に向かって。

「罪の海でお前の魂は腐り果てろ」だの「地獄の炎で焼かれてしまえばいい」

…なんだかピンと来ない罵詈雑言を浴びせ続けた。

人を罵るなんて事に縁のない育ちの良さに逆に私は好感を抱いてしまうのだが。

「ベッドに潜り込んで音無君の香りや温もりに包まれたかったのは事実だ。けど香水が邪魔した」

「そしてその香水は音無君の私物の中にあったんだな」

隅田は相変わらず頭からは湯気が出そうな怒り顔をしていた。

「それ程までに、か」

急にしんみりした声で言った。

「小野瀬、私は自分から進んで誰か大人に進言してお前のした事を語ろうなんて思わないんだ、何故だか分かるか?」

隅田の言葉に私は首を傾げる。

「私は音無君の死が不純なものと一緒にされて汚されるのを何より恐れている」

不純なものって私?

「お前はそのうち自分の犯したくだらない罪の重さに耐えかねて誰かに自分のした事を吐露するだろう、事実今こうして私に話している」

「単なる口封じ前の冥土の土産だ」

「すぐにそうやって憎まれ口をきくが一皮向けば同じクラスにいても好きな男とろくに会話も出来ない純情乙女じゃないか」

「過大評価しすぎだ」

「誉めてなんかいないぞ、このストーカー女」

隅田は、ぴしゃりと言った。

「あんたの魂が何処で、どんだけ腐り果てようと私は知ったこっちゃない、自己責任だ。しかし何かのかたちでそれが人に知れ渡ればお前は説明と謝罪を要求されてペナルティを受けるだろう。大人同士が話合って、「まあここは1つ穏便に」みたいな気持ちの悪い大人の根回しみたいなのがあって保護観察士みたいなのが顔出して「やっぱりいいか…」みたいな。「本来なら退学も検討したがお前の日頃の生活態度もいいし、成績も50番以内だし、お母さん泣いてらしたぞ…よく考えるんだな」何だか釈然としないが、幕…停学中に反省文書いたし、お前の魂も救われた気になるだろう。良かったな少年法も改正前で、使えるうちにポイントは使っとくもんだ」

「あの、隅田」

「でもな、噂は別、別なんだよ小野瀬。たかが噂、されど噂は無力でも凄い力を持っている。学校中に瞬く間に蔓延するお前と音無君の噂。

「小野瀬さん音無君ちの鍵持ってたらしいよ」

「忍び込んで何してたんだろうね」

「あの2人って本当に何もなかったのかな?」

「じゃなきゃ普通そこまでしないよね」

「小野瀬さん、ふられたけど音無君が忘れられなかったらしいよ」

「音無が死ぬ当日小野瀬に告白して2人はつき合う事になったらしいぜ」

「初めて音無の部屋に遊びに行く日だったらしいぜ」

学校の怪談? 都市伝説?みんな奇妙な噂や恋愛話に夢中になるんだ。お前が居場所を無くして引きこもりか他所に転校した後も私はその噂話を聞かされ続けなくちゃいけないんだ、そんな生地獄!!」

隅田の妄想が破竹の勢いで止まらない。

「私の方がずっと彼の近くにいて彼の事なら何でも知ってるんだぞ」

「私の方が遠近法や俯瞰を駆使してより立体的だ」

「あんた、音無君の好きな人嗅ぎまわってたんだよね?随分無駄な事をするもんだ」

私を見る隅田の口の端が少しだけ、つり上がる。

「それで、答えには行き着けた?」

隅田はチュシャ猫みたいなニヤニヤ笑いを浮かべて私が答え言うのを待っている



「4組の藤池」

「それは、また意外な、根拠はあるのか」

「藤池の事知ってるよね?」

「時々合同授業の時顔を見るぐらいだ。変わったやつらしいな。必ず香水で先生方に説教されてて「先生香水は俺の洋服ッス」なんて真顔で答えてた」

隅田の話ではクラスの女子には滅法人気がなくて彼の席から女子が机ごと離れてミステリーサークルみたいになっているとか。

「香水がきつい印象がある」

女子が離れるのは香水のせいばかりとは思えないが。

隅田のつき合っている女性がどんな人かは知らない。

でも彼に彼女が買い与えた香水は今のところ見事な虫除け効果を発揮しているようだ。

「藤池は確かに香水をつけているが、あれはどう考えても男性用だと思う」

隅田の言う通り藤池は今朝も男性用の香水をつけていた。

あれはゲランのブルーじゃない。

だから私は素通りした。

だけど途中で未来が言った。

「あいつ社長婦人とつき合ってるんだよ」

セレブという言葉を聞いて確かめたいと思った。

階段で藤池を捕まえて私は彼に聞いたのだ。

「藤池あんた、彼女の香水つけて学校来た事ある?」

「あるよ」彼は答えた。

「抱きあったりした時の残り香を最初想像したんだ。でも、それだと朝あいつが使う自分の香水で消えてしまう」

藤池は私に言った。

「「会えない日は私の香水を身につけていてね」って彼女が言うんだ」

「…だから、やつの彼女という線も考えたんだけど、朝車で藤池を降ろすだけで彼女は降りないし…直接学校で音無君と接触があるのは藤池かと…お金持ちの女性ならゲランを使っている可能性は高い。でも香りを校内に持ち込んだのは藤池。音無君はそれを藤池の香りと考えるのが自然だと思う」

隅田が寒そうにして自分の左腕を右手でしきりに擦る仕草をしている。

「音無、私は藤池カップルがとてもキモいのだけれど…鳥肌が立って来た」

私は構わず話を続ける。

「停車中の社長夫人を見て一目惚れした、という線は捨てがたい。何と言っても女性だし。でも下駄箱か何処かで音無君が彼女の香水をつけた藤池に接触しても「彼女の香りだ」とは思わないだろう。音無君は香水には…」

「詳しいとは思えないし、そんな音無君は嫌だ」

「隅田が言った初恋の女の子の香りとゲランは、どうしても符号しない、それに」

「それに?」

「図書室で隅田が睨んでいたのは車じゃなくて藤池だった」

「本当は窓辺で車に乗り込む藤池を見ていたのは音無君で、私はいつも横でそれを眺めていた」

「そうなんだ」

「あいつ、懐かしい香りがしたんだ」

音無君は隅田にそう呟いた。

「あの子がいつも帰る時残した香りにとても似ている」

ちょっと待って。

隅田は私に言った。

「残念だけど小野瀬、不正解だよ」

じゃあ誰なの?

「だから初恋の相手だって私は最初に言った」

「初恋の相手って何なの?」

香水が邪魔で像が結べない。

「音無君の初恋の相手は私も名前も知らないし姿も分からない」

「どういう事…」

「音無君の初恋の相手は死神…死神なんだよ、小野瀬」

「なるほど、死神か。それですべての辻褄が合う」

「小野瀬、私の言った事に疑念を持たないのか?てっきり私はお前に馬鹿にされるものと…」

「先程から隅田が私に話してくれた事を思い出せば、バラバラのピースが全部埋まるんだ」

「そう、なのか?」

隅田は半信半疑といった様子で私の顔を見ている。

「隅田お前は境界線症候群だ」

「なっ!」

隅田は絶句して次の言葉が出て来ない。

「音無悠斗くんは純朴で他人への思いやりに溢れ、こよなく本を愛する非のうちどころのない少年…異論はあるか、隅田」

「ない」

「対して隅田は、対人関係に於いて好き嫌いが激しく、暴力的ともとれる言動が目立つ。音無君の家で私を襲った時の先祖帰りしたかのようなプリミティブな化粧」

「変じゃないって言ったのに」

「そして今回の妄言は決定的だ!全てお前が言った境界線症候群に当てはまるじゃないか」

「死神の話は私が音無君から直接聞いた話だ」

「多分音無君はお前から藤池を守ろうとして、とっさにそんな話を思いついたんだろうな」

「私から、藤池を守る?」

「出会った時からお前は音無君に好意と尊敬の念を抱いていた。間違いないか?」

「ああ」

「しかしそれは時として常軌を逸していた。音無君を愛するあまり他人とは違う超越的な才能を持った人とみなすようになったんだ。お前と過ごすうちに音無くんはお前の異常さに気づいた」

「そんな」

「言の葉つかいなどと戯言や普通に話す修練にも彼は黙って、つき合ってくれたはずだ。それはお前が彼に対し本気で心配して親身になる姿を見ての事だろう」

「彼は本当に優しい人だった」

「隅田が治療者で音無君が患者、そのような立場をとる事でお前に正常さを認識してもらいたかったんだ。全て友情からくるものだ」

「友情、か」

「だけど、お前はいつからか音無君に異性として好意を抱くようになった。そこまではどうだ、隅田」

「そこしか合ってない気がする」

私の推理に一点のぶれも曇りもない。

音無君は藤池に惹かれていた。

しかし叶わぬ恋だ。

同学年の彼ら二人が学校で出くわしたとしてもなんら不思議はない。

『いい香りだね。何つけてるの?』

『ああ、これ?ゲランの…』
実は私はまだ藤池の彼女がつけている香水の銘柄を聞けてはいないのだが。

「そんなやりとりがあったのだろう。初恋の相手が死神なんて話はカムフラージュで、あんたの手の届かないような女を創造したんだ」

「私、中2の時に音無君に告白をしたんだ」

隅田の口元から溢れでた呟きに私は耳を疑う。

「で、結果は見事にふられた訳だが。その時に音無君が言ったんだ」

「ずっと忘れられない女の子がいるってさ」

『多分その子は死神だと思う』

「小野瀬お前の言う通りだ、お前本当にすごいな…でも」

隅田は静かに立ち上がると両手で机を力まかせに 叩いた。

「音無君は女の子の告白を断るのに、いい加減な嘘で誤魔化したりする奴じゃない!!」

隅田は目に涙を溜めて言った。

「私の気持ちに対して彼は正直に答えてくれたんだ。今まで誰にも打ち明けなかった秘密を教えてくれた」

「隅田、ごめん」

私は隅田に詫びた。

「少し度が過ぎたよ、謝る」

「この通り謝る」

私は頭を下げた。

隅田はそんな私を制するように右手を軽く上げた。

「お前、跳躍力あるなあ」

「跳躍力?」

「話題が思わぬ方に跳ぶ、まるでバッタみたいだ。音無君もそうだった」

「音無君も」

「彼の場合は羽根があるんじゃないかと思ったくらいだ、私は、いつもとり残されて戸惑うばかりだ」

隅田が読んだばかりのハリーポッターの話をしていると、いつの間にか舞台は中世の英国の森で。

一糸纏わぬ裸の女たちが目に見えぬ森の神に身を委ね抱かれている。

樹の枝や地上に張り出した樹木の根に麻薬を塗り付け自らの股間にすりつける。

女たちは森に入り込んだキリスト教徒たちに狩られ火炙りにされた。

「音無君私はハリーの話がしたいの!」

『魔女や魔法使いって何で箒に股がってるの?って隅田が聞くからさ』

「戸惑う私を見て、彼は笑顔で満足そうに頷くんだ、さっきの小野瀬みたいにさ」

「すみません、今日って図書室やってない?」

突然ドアが開いて女子生徒が顔を覗かせる。うちのクラスの子だ。

「貸し出しや返却なら構わないよ」

立ち上がって隅田が応対する。

「鼬をこっそり飼っている少年の話なんだけどタイトルが難しくて」

「鼬を神様みたいに崇めているんだね」

「そう、それそれ、前に同じクラスの音無君が勧めてくれたんだけどタイトル忘れちゃって」

「題名は【スレドニ・ヴァシュター】だ。ちょっと待ってて」

隅田は書棚から素早く本を見つけると入り口で待っている女子に手渡した。

「ありがとう」

「その作品は短編集の中の一作なんで題名だけ探しても見つからない。ちなみに併録の【刺青奇譚】【イースターの卵】もオススメしとくよ」

女子生徒は隅田にお礼を言って立ち去った。

「あんな可愛い子にスレドニ・バシュターか」

「可愛いけど残酷な話が好きだって言ってたわ」

「なら上等なアクセじゃないか。音無君は気前がいいな」

「ビアスにしないとこがセンスあるわ」

席に戻って来た隅田は私の前に一冊の本を置いた。

【夜の鳥】という題名が書かれていた。

「どう読む名探偵」

「隅田くんの大切な本」

「それだけか、浅いな」

隅田が鼻から空気が抜ける音を聞く。

「傾向」

「全部いうな!」

私は隅田を制して音無君の部屋を思い浮かべる。

彼が大切にしている本や作家の名前が彼の蔵書の中で光だす。

「夜の鳥、ダミアンのヘッセ、ウィーアード・テールズに掲載していた時代のレイ・ブラッドべり、70~80年代末までのスティーブン・キング、まどみちお、金子みすず…」全ての作品が線で結ばれる。子供…」

『絵本は好きで何度も読んだけど児童文学みたいなのは馴染める作品が少なかった。何故かって言うと大概そうゆうのって大人が子供のふりをして書いたものか過去のノスタルジィなんだ。もう子供の心なんてないのにさ』

「子供の心か」

『どんなに恐ろしい話でも子供なんか登場しなくても子供の心がある作家というのがいるんだ。とても数は少ないけどね』

その中でも彼が取り分け大切にしていた本が【夜の鳥】だ。

家庭環境に問題を抱える少年ヨアキム。

ヨアキムと自分しか見えない。

普段は洋服箪笥に隠れている。

夜になると子供部屋に現れる赤い目をした黒い鳥の物語。

悠斗君はヨアキムを自分と同じと言っていた。

少年時代の彼は一体どんな風景を見ていたのだろう。

「小野瀬、私は死神なんて信じていないよ。たとえそれが彼の言葉であったとしても、私は幽霊やモノノケなんて見ないし、見たとしても認めない」

「私もそういうのは、ちょっとね」

「ただ音無君の世界では、それは、あるものだし私の世界にはそれはない…それだけの話なんだ」

私は唸った。

「そんなに難しい話じゃないんだ、小さい頃の彼の話は聞いた事があるか?」

「体が弱かったって音無君のお母さんが話してた」

隅田は頷いた。

「小学校に上がるまで、ずっと病気がちだったらしい」

悠斗君は普段普通に生活していて、

ある日突然食べ物を全く受けつけなくなってしまう病気だった。

風邪を引いたわけでも食あたりしたわけでもないのに、突然強烈な吐き気に襲われる。

その日に食べたものは全部吐いてしまう。

異の中の物を全て吐き出しても吐き気は収まらず吐き続ける。

体中の毛穴から汗が止めどなく吹き出して脱水症状を引き起こす。

「まだ幼い子が…苦しかったろうな。体力を消耗し尽くした頃になると高熱をだして意識が混濁するんだ、そんな事がしょっちゅうあったらしい」

「悠斗君は何の病気だったの」

「多分、アセトン血性嘔吐症。乳時期から幼年期の子供に特に発症例が多い病気で体内でアセトンという毒素を大量に作り出してしまう病気なんだ」

「アセトンって何なの?」

「身近な物だと除光液なんかに使われているのがアセトンだな。あんなもの一口でも飲んでみろ、それが大量に体内で作られるんだ。アセトンが体内に入ると食べ物や水は一切受けつけなくなってしまうらしい」

悠斗君の体は突然体内で毒素を作ってしまう。

「痩せていて神経が過敏な子供がかかりやすい病気という以外原因はよく分からないらしい」

家庭環境に問題がある子供に発症例が多いとも言われているらしい。

「当時の音無君の家の家庭環境は…彼に聞いた限りではお世辞にも子供にいいとは言えなかった」

悠斗君は元々産まれた時は未熟児で体も小さくて弱かった。

悠斗君の父方の祖母に当たる人はあまり性が良い人ではなかったらしい。

悠斗君が産まれるとすぐ実家からやって来て家に居座り、母親から悠斗君を取り上げてしまった。

祖母が体調を崩して実家に戻るまで悠斗君は祖母の事を「お母さん」と呼んでいた。

家のお金も全部祖母が管理するようになり悠斗君に好きなものを欲しいだけ買い与えた。

病気がちなのは全部お母さんのせいにして責めた。

これで諍いが起きない訳がない。

祖母が実家に戻った後もご両親の仲は険悪なままだった。

悠斗君のお父さんは悠斗君のために一人部屋を用意した。

多分お父さんにはお父さんの考えがあったのだと思う。

夜はいつまでも眠れなかった。

ひどい耳鳴りに悩まされた。

1人でドアを閉められた子供部屋は本当に怖かった。階下では両親が言い争う声がいつも聞こえていた。

「音無君は朝起きると耳鳴りと目がチカチカしていたって言ってた」

『子供の時の僕は世界と全くチューニングがあってなかった』

「予兆もなしに具合が悪くなるなんて、お母さんも気が気でなかっただろうね」

「予兆というのは実はあるらしいんだ。気分が悪いとか目眩とか、それを幼い子供は大概は上手く伝えられない。悠斗君にも発作のサインはあった」

「発作のサイン」

「突然目の前に現れる女の子だ」

「それが死神?」

「規則性があって、その子が目の前に現れていなくると必ず発作が起きて死線をさ迷うような体験をした、だから音無君にとってその子は死神なんだろうな」

「でもそれは、きちんと説明がつけられる事なんだ。オカルトまがいの話じゃないんだ」

隅田に言わせると、全て発達児童心理学の範疇で説明が可能らしい。

「幼年期の子供の脳は未発達で善悪や幻想と現実の境界がない」

「これだけの条件が揃えば私や小野瀬だって子供の時何か見たかも知れない」

「香水の香りはどうなの?」

「女の子が現れた時、そして目の前から居なくなった後も周囲には花のような香りが残っていたそうだ」

それがゲランの香りに酷似していた…不吉の前兆か。

「幻覚というのは香りを伴うものなのかな?」

「稀にだけど、ないわけじゃないらしい。素晴らしい森の風景画や果物の絵を見た時に匂いを感じたり」

「でもそれは触媒となる絵画のイメージがあってこそでしょ?死神と花の香りはそぐわない」

「確かに、初めて音無君がその幻覚を見た時近くに花壇とか花があったのかも知れない」

その可能性は否定出来ない。

先日訪れた悠斗君の家の庭には庭木や花が沢山植えられていた。

「アセトン血性嘔吐症って高熱を伴う病気?」

「感染症の場合は熱が出る事も」

「悠斗君は常に感染症だった?」

「…それは、分からないけど、弱い子なら風邪もしょっちゅうひくんじゃないかな」

「発作の頻度は?」

「一週間に2、3回は具合が悪くなったって言ってた」

「その度に発熱か、多過ぎるな」

「その当時の事は音無君のお母さんにでも聞いてみない事には詳しくは分からない」

隅田の歯切れが悪いのも仕方ない事だと思った。

「死神…その女の子は鎌を持っていたのかな」

「…音無君の話では鎌を持っていたらしい」

「全然分かんないや」

私は頭を掻いた。私頭悪いのかな。

「何が分からないんだ、小野瀬」

「隅田は小さい子供だから幻覚を安易に見る事は可能だと言った」

「確かに言った。俗に言う『目には見えないお友達』というやつだ」

「善悪や現実と空想の境界線が無いなら、生と死はどう?死という概念は、幼児期の子供にはあるかな?」

「あるはずかない、それらは全て脳の発達や経験によって得られるものだからな」

「では、何故死神なんだろう。何故鎌なんて持っているんだ」

死の概念が具現化したのが死神なら、死神の鎌は魂を肉体から切り離す道具。死に対する恐怖の象徴的なものなんじゃないかな。

私はその疑問を隅田にぶつけて見た。

「昔から人間の死は肉体が魂から切り離される事と考えられてた、それが死神のビジュアルイメージに繋がってると思うんだ。なんで年端もいかない子供だった悠斗君がそれを見れたのかな」

「人間の脳は簡単に自分自身を欺く」

切り返しが早いな。

「昔読んだ本や映画の結末が記憶と全然違ってる事ってない?音無君のもそれ。女の子が現れる度死にかけた記憶、それに後から死神や鎌の記憶が追加されただけ」

小野瀬の指先が【夜の鳥】の表紙を撫でている。

「私はこの本に出てくるマルブリッドみたいになりたかったんだ」

マルブリッドという少女はヨアキムが密かに思いを寄せる少女だ。

彼女はいつも家の前の路上に立っている。

心臓が悪いマルブリッドのお母さんが、いつも彼女を窓から眺めている。

マルブリッドを溺愛する母親の視界より遠くへ行く事を禁じられている。

ヨアキム少年の日常は過酷だ。大学を出て教職についたお父さんは学校に行くのが怖くて家に引きこもっている。

お父さんが教職についたら今度は自分が目指す仕事に就く勉強を始める約束だったお母さんは今も大嫌いな仕事を生活のために続けている。

家の中は争いが絶えない。

ヨアキムは心配する。

「もしかしたら、お父さんが家を出てしまうんじゃないか」と。

夜になると箪笥から黒い鳥が出てくる。

最初は一羽だったのに数は日増しに増えて行く。

学校や外に出たら。

「お前の父さんは頭がおかしい」と苛められる。

物語の終盤になっても何一つ解決なんてしない。

ヨアキムは脅かされてスーパーで万引きをさせられる。

万引きしているところをマルブリッドと彼女のお母さんに見られてしまうの。

ヨアキムは絶望的な気持ちで夜窓を見ている。

北欧の街に雪の降る夜。

窓の外の街灯の下にマルブリッドは立っている。

ヨアキムは外に出てマルブリッドの側まで駆け寄る。

マルブリッドは黙ってヨアキムの手を握る。ただ、それだけ。

「あの場面が涙が出るくらい好きなの」

「隅田、あんたはマルブリッドのお母さんか、二人でいると何をしでかすか分からない力持ちのサーラだよ」

「違う違う、私はマルブリッドよ」

違う違うって。

「あの物語は私の記憶ではあそこで終わるはずだった、だけど違ってた」

「最後はサーラの台詞で終わるんだ。覚えてる?」

「忘れてしまったみたい」

「思い出せ」

「えっと…ねえ、ヨアキム」

「私たち秘密を解き明かすクラブを作らない?」

そうだ。

だから私は、あんたを追い込むつもり。

悠斗君の恋の香り。
それを辿りここまで来た。

悠斗君は隅田に「幼い頃に出会った死神を思い続けている」と打ち明けた。

隅田は私の前で「幻想に過ぎない」と切り捨てた。おそらく彼の前でも。

「隅田、あんたは神様って信じる?」

「随分、唐突ね」

私は「唐突ではない」と首を振る。

「隅田は幽霊やモノノケの類いは信じないと私に言った」

「確かに、そう言った」

「死神は幽霊やモノノケではなくて神様でしょ?神様は信じる?」

「神様は」

隅田は僅かに口ごもる。

「私の祖母は、母方のだけど、とても信心深い人で私の事をとても可愛いがってくれたんだ。母の実家は関西で、おばあちゃんの家は京都にあった。京都から出て来る度に私に可愛いお守り袋を手渡してくれた「いつも、あんたの事を神さんにお祈りしてる。これ以上ええ子にも可愛い子にもならんでいい、今でも充分ですけど、悪い事がありませんようにってな」」

「悠斗君から聞かされた死神の話は流暢に淀みなく否定したのに自分が信じる神さんは否定できるかと聞かれると言い淀む」

別に責めたい訳じゃない。

「隅田、あんたは正しいと思う、けど」

「けど、何だ」

「初恋だったって言うくらいだから悠斗君にとってもお前じように大切で神聖なものじゃなかったのか?今の口ぶりだと私に話したのと同じ事を幽斗君にも」

「言ったよ」

隅田は顔色一つ変えないで言った。

「そんなのまやかしで本当の恋じゃないってな」

「悠斗君傷ついたんじゃないのか」

「ああ、だけど私の立場になってもみてくれ、私は彼が幼い頃に見たっていう死神だか幻覚だかわけの分からないものに負けたんだ」

「私の質問への答えがまだだ」

「私の立場なんか関係ないって事か」

「その通りだ」

「まったく」

隅田は苦笑しながら、その後ぽつりと呟く。

「虫のいい話だけど音無君がいなくなってしまった時から…神様なんていないんだって時々思う」

「音無君が見た何かだけ否定したかった?」

「そうだな、多分プライドとか体裁が悪いのとか繕うために」

「隅田は悠斗君が他の人に変な人と思われないようにって言ったけど私があんたなら多分ほっておく」

はっとした顔で隅田が私の顔を見る。

「別に私がそっち側の人間にならなければいい。私が彼を理解しているなら、死神の妄想?初恋?それだって音無くんの一部なら好きになるよ、私はね」

そして多分私は間違っている。

「隅田が正しいんだと思うけどね」

結果隅田のおかげで悠斗君は孤立を経験する事なく学生生活を送る事が出来たのだから。

「死神って何処の宗教の神様なんだろうな」

「さあ、死なんてそこら中に転がってるものだからな」

「少なくともキリスト教では死神という神様はいなくて、死神の役目は天使がする」

「なら悠斗君が出会ったのは天使かも」

「可愛いかったり美しく神々しい天使に魅力されたというなら、まだいい」

死を手土産にやって来る死神と知っても、なお…そうなのかな?悠斗君。

「悠斗君は最後に会えたのかな」

隅田は返事をしなかった。

「隅田、神様を否定するなら神様肯定した方が近道だよ」

「どういう事だ」

「神様を信じて疑いを持たず神様を探して。肉体が滅んでも探し続けて。希望を捨てずに」

「言ってる意味が分からんが」

「希望や望みは潰えたり折れたりする事の方が多いから神様が存在しない証拠にぶち当たるかも」

「なるほど」

「そしたら星ぼしを訪ねて…神様のような存在に出会えたら、そいつを殺すの。充分殺し終えたなら最後に自分と自分の中の神様を始末すればいい」

「悪魔かお前は」

「悠斗君のお勧め本に書いてあったよ」

「私が音無君の見たものを否定した時」

「音無君は悲しんだ?」

「いや、ただ一言だけ私に言った」

『隅田は、みすずの【星とタンポポ】読んだ事がある?』

見えぬけれどもあるんだよ、見えないものでもあるんだよ

「これ以上ない美しい言葉の引用での反論、てやつだな」

「しかも星に喩えるか」

「きれいな言葉が心に沁みて嫌になる」

私と隅田は笑うしかなかった。

「隅田」

私はこれだけは隅田に、どうしても言いたかった。

「何故手を握らなかった」

「小野瀬」

「マルブリッドになりたかったら何故悠斗君の手を掴んでくれなかった」

そしたら彼は、多分死なずに済んだかも知れない。

「具合が悪かったり倒れそうになった時くらい、辛いとか…側にいてとか…言ってもよかったんじゃないのか」

「それは…」

「どうせ「私全然平気だか気にしないで」とか言ったんだろうな」

隅田は小さく頷いた。

「でもそんな事が出来るなら、私もあんたも今ここでこんな事してないよね」

「そうだな」

「約束があるから、なんて理由で具合の悪い隅田を置いて帰れるような人じゃなかった」

また頷く。

「選択の余地すらなく、あんたが大切だからだよ、隅田澄香」

隅田が鼻を啜る音がする。

「私のせいで、私なんかのために、なんて思ったら悠斗君が悲しむと思う」

「うん」

運命とか、あの坂道で事故に合う確率とか私には分からない、けど。

「悠斗君は自分で選択したんだ。学校に残る事も帰り道も、お前のせいじゃない」

「小野瀬」

「なんだ」

「最初に言ったお前の言葉と今お前が言った事…矛盾してないか?」

「両方私の本音だよ」

裏も表もない、私の気持ちだ。

「私は何者でもない、 ただの傍観者だ、だから分かる事だってあると思う」

「そうか、小野瀬、ありがとうな」

私は時計の文字盤に目を落とす。しんみりした空気は苦手だ。

「哀れな男を待たしているんだった」

私たちは自然と目の前に置かれた鍵に目が行く。

「これは、持ってていいもんじゃないと思う」

きっぱりとした口調で隅田は言った。

「小野瀬、もうすぐ夏休みだな、予定空いてる日はありよな?」

「あるけど何で?」

「海にでも行くか」

「女2人でか?」

「ああ、江ノ電に乗って鎌倉か湘南なら、そんなに遠くないはずだ」

捨てるなんて出来ないだろうし悠斗君のお母さんに返すのも、と隅田は言うのだ。

「海にでも流してやろう」

隅田は言った。

「鰯の弔いだ」

「この鍵鰯に似てる?」

「音無君の好きな、みすずの詩だよ」

「知ってる」

「癪にさわる女だ」

隅田はいつもの隅田に戻っていた。

「それから、お前は明日から放課後私と図書委員の仕事を手伝え」

「なんで私が!」

隅田は立ち上がると貸し出しカウンターに向かって歩いて行く。

そこから持って来た小さな段ボールの箱を目の前に置いた。

「なんなの、これ」

「栞だ。これに音無君が言ってた本の紹介文を書こうと思う」

箱の中には色とりどりのリボンがついた栞が入っている。

「音無君の名前は入れない。彼は照れ屋だからな」

「それを私に手伝えと?」

「私一人でやるつもりだったが、あんたにも手伝わせてやる」

隅田は私に向かってやわらかな微笑みを浮かべて言った。

「私に出来るのはせいぜいこのくらい、そしてこれが私があんたに科す罰だ」

「まあ、気が向いたら来てやるよ」

「ああ、頼むよ」

私は隅田にお茶の礼を言うと席を立つ。

「隅田、私やっぱりお前は虫が好かない」

「ほう」

隅田の眉が片方つり上がる。

「でも」

私はそっぽを向いたまま隅田の胸を指さした。

「もう会えないと思ってた人に会えた」

音無君はそこにいた。

「私もだ」

「悠斗君に合わせてくれてありがとう」

「こちらこそだ」

隅田と別れた後私は三階の階段を降りて昇降口へ向かった。

大分隅田と話しこんでしまった。

とっくに帰っただろうと思ったけど藤池は昇降口にいた。

案外律儀なやつなのかも知れない。

携帯を片手に、何だかそわそわした様子だ。

「よお、お待たせ」

「ああ、ちっとも来ないんで教室まで見に行ったよ」

「私が聞きたい事に答えてくれたら、すぐ帰っていいよ」

「彼女が「食事しない?」ってメールくれたんだ。もう校門の前に着いてるはずなんだ」

「ああ…それで」

私は納得した。

「彼女、待たされるのが嫌いなんだ」

「デートは?しなくていいの?」

「頼む!小野瀬さん…だっけ、時間ないんだ」

あんまり苛めても面白くないみたいだから。

「彼女が使ってる香水の銘柄教えて」

「知らない」

藤池は即答した。

「興味ないし」

「だって、あんた時々つけたりするんでしょ?」

「けど知らないよ」

「他にうちの学校の生徒で同じ事聞いた人いる?」

「いるよ、音無だっけ、確か2組の。あいつ事故で亡くなったんだよな。話したのは少しだけだけど、いいやつ、ぽくて…」

「ありがと、藤池」

私は藤池の肩を叩くと下駄箱に向かった。

藤池も走って下駄箱に向かう。

昇降口を出て私は走る。

藤池も走る。

「なんで、小野瀬も走ってるんだ?」

「あんたの彼女に聞きたい事があるの」

「あん時の音無と同じ」

そうか、音無君もこんなかんじで藤池の彼女から直接聞いたんだね。

息を切らせ校門の前に辿り着く。そこはちょっとした騒ぎになっていた。

校門の外に停めたベンツに人だかりが出来始めている。

下校する生徒たちが興味深げに車内を覗いている。

だっさいジャージ姿の学年主任の宮崎が生徒を押し退け運転席の女性に声をかけているところだった。

車内にいる綺麗な女性が藤池の彼女か。

眉間に皺を寄せタバコに火をつけ威嚇するように集まった野次馬に睨みをきかせている。

私の背後で「ああ~」という藤池の嘆く声が聞こえた。

宮崎が運転席の窓を叩く前にガラスが降りた。

「父兄!」

彼女が噛みつくように怒鳴った。

気迫に押され宮崎は、すごすご退散した。

溜まっていた生徒たちに向かって。

「用のない者は速やかに下校しなさい」

八つ当たりみたいに怒鳴った。

私はベンツの前の女性の前に進みでた。

「なに?芸能人じゃないわよ」

彼女はぞんざいに聞いた。

「すみません、お聞きしたい事があります」

ヤ〇ザとかプロ野球先週が乗ってるようなタイプじゃなくて、お洒落なコンパ-チブルのベンツ。

高そうだけど白いブラウスと黒のミニスカートを嫌みなく上品に着こなしていた。

短く束ねた明るい色の髪に濃すぎない化粧。

社長夫人というよりアパレル関係の女性起業家といったかんじの女性だった。

「真吾の知り合い?」

こいつ、真吾って言うんだ。親の願い叶わずだね。

いつも間にか私の横に立つ藤池は狼狽した様子で。

「同級生なんだ」

「で、その同級生が私に何の用?」

「あの、いつもお使いの香水は?」

「それ聞くの流行ってるのかしら」

「以前にも誰かいたんですか」

「まあ、立ち話も何だから車に乗りなさい」

私は藤池と顔を見合せた。

「真吾!早くしなさい!私は壁の花じゃないのよ」

言われるままに私は助手席に藤池は後部席に腰を降ろした。

車内には煙草の香りと彼女の香水の香りが満ちていた。

彼女がアクセルを踏み込みハンドルをきる。

周りにいた生徒を蹴散らすように車は走りだす。

「あら、誰か後ろから追いかけて来るみたいだけど…お友達じゃないの?」

ミラーを覗きこんだ彼女がくわえ煙草で私に言った。

振り向くと遠くから手を振りながら走ってくる隅田の姿が見えた。

「いいの?」

彼女が私にそう言った時車はもう県道に出ていた。

「彼女お金持ちが嫌いみたいなんで」

私は彼女にそう答えた。

「香水はゲランのブルーよ」

彼女はハンドルを握りながら答えてくれた。

「聞かれたのは貴女で2度目、この間は男の子だったけど何かあるの?」

私が言い淀んでいると後部席の藤池に向かって。

「音楽でも聞いてなさい」

「いつもは怒るくせに」

そう言いながら藤池は鞄からウォークマンのヘッドホンのコ-ドを引っ張り出した。

「気がきかない男ね」

「まだスイッチ入れてないよ」

藤池が片手を上げた。私は別に構わないんだけど。

「私が好きな人がつけてた香水なんです」

「ゲランを?」

「はい」

「この香水は以前私がフランスで見つけたものなの。当時は日本では手に入らなくてね。現地で試した時は爽やかで華やかな香りで主人も気にいってくれて、でも日本に戻ったらえらくセクシーな香りに変わってしまって。こっちさ湿気が多いから…『これはこれで素敵だ』って主人のお気に入りだったの」

「だったって」

「私未亡人なの」

彼女は右手の薬指にはめたリングを私に見せた。

「貴女と同じように私の車の窓を叩いた男の子がいて同じ事を聞いてきたわ」

「多分その彼です、私の好きな人」

「吸い込まれそうな黒い目をしてたわ」

「間違いありません」

「あんまり真剣な顔をして聞くものだから私は悪戯心が沸いて、その子に聞いたの「貴方にとってこの香水に何か意味があるのかしら?」

彼は頷いた。

「僕の好きな人の香りに似てるんです」

「純粋に疑問だった。あまりにも彼のイメージと合わなかったから。もしかしたら私と真吾みたいな関係かもなんて考えた」

それで彼女は悠斗君に聞いてみた。

「一体どんな彼女?」

音無君は彼女に答えた。

「僕の運命なんです」

僕の運命…か。

胸に最後の楔が打ち込まれた気がした。

「その彼を好きなのが貴女?」

「はい、大好きでした。今でも」

「彼どうかしたの?」

「死にました。つい最近」

「そうなの」

街に出るための急な坂道でも彼女はギアに触れもしない。

スピードを上げたコンパ-チブルが悠斗君の命を奪った坂道を通り過ぎる。

途中轟音を上げ近づくトラックとすれ違う時も彼女の足はアクセルを踏んだまま。

彼女は素足で、横に無造作に置かれた赤いピンヒ-ルが二つ並んでいた。

振り返る間もなく車は坂道を通り過ぎ高速の高架トンネルを通り抜ける。

私たち二人は黙ったまま。後部席から藤池のヘッドホンから漏れるシャカシャカという音が聞こえてくる。

「方角はこっちでいい?」

「はい」

赤信号で車が止まる。

「これ、いい車ですね」

本革のシ-トを叩いて私がアホみたいに言う。

「こんな車私なら悪い事か超玉の輿に乗らないと一生乗れないかも」

「主人と結婚した時周りから両方言われたものよ」

「藤池とは、どこで知り合ったんですか?」

「私が若い頃から通ってたレストランで彼がバイトしてたの。庶民的なお店よ」

「そうなんですか」

「亡くなった夫の遺言なの」

「藤池とつき合う事がですか?」

信号が変わって車は再び走りだす。

彼女の話によると彼女の旦那さんは彼女が勤める企業の社長だった。

「私は大学を卒業して会社で彼の秘書をしていたの、出会ってから半年で彼からプロポーズされた。私は大学を出たばかりで彼は50半ばだった」

「困ってるんだ」

ある日社長室で彼女は言われた。

「どうかされましたか」

彼女が訊ねると彼は言った。

「お金とか、知識とか今までの経験とか、もて余す日々が続いている」

「それは羨ましい悩みですね」

単なる自慢話かと思った。普段そんな事を言う人ではないのに意外な気はしたが、愛想よく受け流した。

「分かち合える人が僕には必要なんだ」

彼は真剣な表情で彼女に言った。

「君は僕と一緒になって必要なものだけ君の物にして欲しい。僕と結婚してくれないか」

彼はその年齢までに1度だけ結婚していた。

お見合いで、2年で離婚した。

プロポーズは生まれて初めてだと後で告白した。

「僕の事は少しだけ好きになってくれたらいいんだ。たくさんは愛さなくて、いい。僕は多分君より早く死ぬから」

「君は僕が生きている間に僕から学ぶ事はあると思う。もしも僕が死んだら若い男とつき合えばいい。良い男に育てるんだ」

「それが旦那様の遺言ですか」

「そ、別に誰でもよかった」

「なぜ藤池を」

「お店に食事に行った時彼ウェイターの格好してて、他の人はみんな見事にウェイターの仕事をこなしてだけど彼だけ、なってなかったから。何者でもないってかんじ、それだけよ」

「いくら、ご主人の遺言でも」

「私は彼に従うの、何故だか分かるかしら」

「いえ、分かりません」

「彼が私の運命だからよ」

後部席の藤池を見る。

彼は右手で頬杖をついて音楽を聞きながら車外の流れる景色を眺めていた。

彼の使っているウォークマンは私が以前使っていた物と同じやつだ。

壊れてしまったので新しいのを買ったけど。

今のやつは曲間でも曲がなっている時でもヘッドホンをつけると外部の音は一切遮断されて何も聞こえない。

藤池のは違う。

私には関係ない事だけど。

車は私が彼女に伝えた住宅街から全然違う道を走っていた。

「L'Heure bleueっていう名前のお店があるのよ。リコッタチ-ズのケ-キがおすすめなの、ご馳走するわ」

車は高速の料金所を通り過ぎた。

「高速にのればすぐだから」

やっぱり違うな。

煙草の匂いと藤池のムスク、私と彼女の匂いが車内で混ざりあって。

悠斗君の部屋の香りとは全然違ってしまっている。

メールの着信が1件あった。

母からだ。

「繭に荷物届いてます」

それだけ。

私はスマホを鞄にしまうと彼女に。

「大丈夫です」

そう答えた時には車はもう高速に入っていた。




ダマスカス・ロ-ズ、ベルガモット、アニス、カ-ネション、ネロリ、アイリスにそして…バニラ!

まるで魔法の呪文のよう。

暗闇の中を私は彼の香りを一つ一つ辿るようにさ迷い歩く。

まるで天国の花の香りに引き寄せられた屍みたいに、歩く。

彼の部屋の前に辿り着いたのはいいけれど。

扉が開かない。

扉の中から彼と聞いた事もない女の笑う声が聞こえる。

私は鍵を持っている事を思い出して首からそれを外す。

けれど、それは生臭い匂いのする鰯だった。

私は泣きながら扉を叩く。

すると扉は苦もなく開いた。

部屋に入ると、やっぱりそこは何もない暗闇で。

暗闇の中から白くて細い腕が何本も伸びてきて私は掴まれ、ヘッドに倒れこむ。

衣服は自分で脱いだのか引き剥がされたのか分からない。

白い腕は男のも女のもあって。

執拗に私の体をまさぐり続けた。

女の体、男の体、私の体が白い蛇みたいに絡み合うけれど。

私が探したものは何一つ見つける事は出来ない。



冷蔵庫に梨が二つ冷えている。

秋の気配は少しの肌寒さで感じる事が出来る。

私は夜明け前に目を覚ました。

ここは、悠斗君の部屋?それとも私の部屋。

積み上げた本も本棚も何もかも同じで暗いと分からなくなる。

隅田と鍵を捨てに行く約束と栞を作る約束をした。

けど鍵なら複製したのが机の引き出しに沢山有りすぎて、どれが最初に作ってやつか分からない。

どうしよう。

ベッドの枕元の棚にある香水の瓶を見て。

「ああ、私の部屋だ」

と、ようやく分かる。

悠斗君のお母さんが「お礼に」って私にゲランの香水をくれたんだ。




夢から覚めた私は自分の下着に指先を忍ばせた。

私の人差し指は私の体の中から染み出た液体で濡れていた。

暗闇の中で濡れた指の先を私は見つめた。

着信がある度に光る、乏しい灯りの中で私はその時初めて声をあげて泣いた。




メールや電話の着信は50件を超えていた。

明け方だというのに。どれも隅田からだ。

「ストーカーはお前の方だ」

私は今届いたばかりのメールを見る。

「窓の外」

とだけ書かれたメールの文字を見て私は部屋のカ-テンを開ける。

まだ薄暗い家の外にサングラスとアロハを着た隅田がこっちを見て手を降っている。ふくらませた浮き輪と変な貴婦人みたいな帽子まで。

もう夏休みも終わる。

私は薄暗い二階の階段を降りながら思った。

「いきなり手なんかつなぐなよな」

本の虫に私もなれば私も本の虫を引き寄せられると信じてた。

別のが来るとはね。

「もうクラゲがいる、つ-の!」





《 REМOVER 》





【 あとがき 】
REМOVERは作中にも出てくる除光液の事ですね。

香水の香りというのはfirst note secand finalと変化して
いくと聞きました。

firstは小野瀬 secandは隅田 finalが音無、異なる視点で進行するお話です。

今回は1番地味で遠い小野瀬視点でした。

今でもこの作品は書いています。

回収していない複線も多々ありますし・・。最後までお読み下さいまして、ありがとうございました。


ココット固いの助
mixiアカウント
 http://mixi.jp/show_friend.pl?id=20662502

《 図書恋愛 》 «  | BLOG TOP |  » 《 藪影庵の彩見さん ~哲学家たちとの夏~ 》

プロフィール

MC運営委員会

Author:MC運営委員会
このブログの八割は、カボチャで構成されております。

カテゴリ

Mistery Circle(メインカテゴリ) (39)
寸評 (29)
MCルール説明 (1)
お知らせ (36)
参加受付 (24)
出題 (35)
メールフォーム (3)
内藤クンのおもちゃの部屋 (9)
天野さんの秘密の部屋 (8)
Ms.伍長の黙示録の部屋 (0)
伊闇かなでの開かずの部屋 (4)
未分類 (27)
亞季 (2)
いつき (1)
伊闇かなで (2)
空蝉八尋 (4)
黒猫ルドラ (12)
ココット固いの助 (21)
桜井 (1)
桜朔夜 (1)
鎖衝 (11)
知 (21)
しどー (12)
瞬 (3)
白乙 (12)
すぅ (13)
すずはらなずな (29)
田川ミメイ (2)
辻マリ (14)
夏海 (3)
七穂 (1)
氷桜夕雅 (30)
ひとみん (4)
松永夏馬 (12)
望月 (8)
幸坂かゆり (21)
李九龍 (13)
りん (3)
ろく (1)
Clown (12)
MOJO (1)
pink sand (9)
rudo (8)
×丸 (4)
MC参加者に聞け (7)
Mistery Circle ヒストリー (1)

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

リンク

このブログをリンクに追加する

検索フォーム