Mistery Circle

2017-08

《 黒魔法ブックマーク 》 - 2012.07.01 Sun

《 黒魔法ブックマーク 》

 著者:Clown








「ボクは本を傷つけないが、人間には容赦しないよ」
「だからと言って逆さ吊りは無いだろう、逆さ吊りは……」

 大地七緒(なお)は目の前の少女を『見下げ』ながら、今年何百回目かのため息と共に呟いた。真夏の太陽に焦がされた地面からジリジリと湧き上がる熱気が顔に痛い。おまけに、無風のためまとわりつく熱気が逃げていかない。さらに言えば、見下げた先に太陽が顔を出しているため、目も痛い。
 眞木(まぎ)詩織は、首から上に集中する諸々の痛みに顔をしかめる少年を、涼しげな顔で見下ろしている。まるで暑さを感じる器官など存在しないかのように汗一つかかない少女は、今年何百回目かの決まり文句を呟いた。

「キミが悪い」
「へーへー、そうですね。無断で本を拝借した俺が悪いですよ」

 口をとがらせながら、七緒は逆さまの体勢から器用に地面の上の学生鞄をまさぐる。目当てのものを指の感触で探り当てると、ゆっくりとそれを引き抜いた。
 取り出されたのは、真っ黒い表紙のハードカバー本。銀で箔押しされたタイトルには「村上メソッドでみるみる分かる! 黒魔法の体系的習得術・中級」とある。

「……ところで、村上さんって誰?」
「なんで知らないのに持って行ったの」

 本をひったくるように受け取る詩織の冷たい目線を愛想笑いで軽く流し、七緒は勢いをつけて体をくの字に折った。何とか自分の足首を掴むと、そこに結わえ付けられている丈夫な麻紐の結び目を解き始める。「うわ、何この嫌がらせみたいな結び方……」などと愚痴りながら解体作業を進める七緒から目をそらし、詩織は本のほこりを払ってさっさと歩き出した。

「あれ、ちょっと、行っちゃうの? てか、これホントに取れないんだけど。おーい」

 次第に小さくなる詩織の姿に焦りながら、七緒は団子になった紐を懸命に引っ張ったりしていたが、やがて諦めたようにため息をつくと、そのままだらりと垂れ下がった。再び器用に鞄の中をあさって今度は携帯電話を取り出すと、電話帳を選んで目当ての人物を捜し出す。通話ボタンを押すと、僅か2コールで相手が出た。

「ちょっとお兄ちゃん、いい加減にしてよ。今年何回目?」
「うぉ、いきなり何を怒られてるんだ俺は」

 出鼻から怒りと呆れの混じった声が飛び出て、七緒は心外という体で突っ込んだ。しかし相手はそれを意に介さず、説教口調で続ける。

「詩織さんから電話があったよ? 校庭に吊してあるから回収しておいてって。どうせまた無断で本を持ち出したんでしょ」
「く……根回しばっちりか……」

 素早い対応に半ばげんなりした声を出す七緒に「後で行くから待ってて」とだけ言い残して電話は切れた。七緒は携帯を鞄の中に戻すと、先ほどとは別の文庫本を取り出す。本のタイトルは──



【黒魔法ブックマーク】



「あぁ、死ぬかと思った」
「いっそ死んじゃえば良かったのに」
「……こわ。この妹、怖いわー」

 ようやく逆さ吊りから解放された七緒は、妹の暴言に恐々としながらもこわばった体の節々を伸ばしにかかった。吊されていた時間はおよそ十五分ほどだが、重力に抗し続けた疲労感はすさまじい。
 妹・大地八千流(やちる)はそんな兄を見て頭を抱えながらため息をついた。

「全く、こんなのが兄だと思うと、情けなくて涙が出るわ」
「こんなのとは何だ、こんなのとはー」
「お兄ちゃんだけだよ? うちの家族で吊され経験あるの」
「……うん。多分それは人類の大多数が経験してないんじゃ無いかな……」

 遠い目をしながら呟く七緒。隣を歩く八千流は、さらに追い打ちを掛ける。

「それに、魔法を使えないのも、お兄ちゃんだけなんだからね」
「へーへー、そうですよ。どうせ落ちこぼれですよ」
「ほら、またそうやって拗ねる」

 口をとがらせる七緒に、八千流は改めてため息を重ねた。


 魔法。
 その存在が確認されてから、既に十余年が経つ。

「それにしても、魔法人口もあっという間に増えたな。アメリカでも使える人間が八割に達したって」
「ニュースでやってたね。ちょっと前まで五割くらいだったのに」

 最初はごくありふれた『噂』に過ぎなかった。超常現象、ポルターガイスト、アブノーマルアクティビティ……様々な名称で呼ばれ、時にプラズマや精神病理で片付けられてしまうものの中に、ほんの一握りの『現実』が含まれていた。
 日本国政府を始め、各国政府がひた隠しに隠してきたと言う魔法の存在も、広まってしまえばあっという間に日常のものとなってしまった。今や学校の授業にまで『魔法学』の項目が設けられているほどだ。

「学校に魔法が持ち込まれた国は軒並みそうだよな。日本も早かったし」
「私が小学校に上がったときにはもうあったもんね。私にとっては、無かった時代の方が想像つかないんだけど」

 きっかけは長野県の山奥で起こったバスの事故だった。運転手の不注意でガードレールを越えて山道から転落したバスが、空を飛んで山麓まで帰還したのだ。目撃者も少なく、乗客も混乱していたためすぐに情報は封殺されそうになったが、偶然動画を記録していた人間がネット上にアップロードしたことで状況は一変した。
 これまでオカルト扱いされてきた超常的な力は、実在する。日本国政府を皮切りに、各国政府が次々とその事実を公表すると、世間は色めきだった。しかし、それと同時に人々は大きな絶望を抱えることになる。

「ま、その代わりに『アイツら』がやってきて、世界は大混乱だけどな」
「そんなに混乱してなさそうな気もするけど……」

 魔法は、源となるものがあって初めて成り立つ。それが、各国政府が魔法の存在をひた隠しにしてきた理由でもあった。
 その源とは、南極から発見された未知の生命体、通称『悪魔』。いつからそこにいたのか、いつ頃から活動していたのかは分からないが、魔法の存在が初めて確認された年は彼らが初めて発見された年と一致する。そして、彼らはそこから徐々に活動範囲を広げ、ついには人間の生活圏にも紛れ込んでいるという。
 ただし、彼らが名前の通りの生物かと言えばそうでもなく、実際に人間と敵対する悪魔の数は非常に少ない。時折人間社会にやってきて混乱をもたらすものもいるようだが、ほとんど自然災害のようなものだと理解されている。
 そして、中には積極的に人間社会に関わろうとする者も。

「やァ、兄妹揃って散歩かネ?」
「ほら来た。大混乱の元だ」
「このイメージがあるから、余計に混乱してる気がしないのよね-」

 七緒と八千流が別々の意味で軽く頭を抱えるのを、前からやってきた男は不思議そうに眺めていた。そんな男の様子を、通りがかる通行人達が一様にぎょっとした目で二度見していく。
 男の顔は、まるで歌舞伎役者か芸者のように真っ白だった。黒い口紅をして奇妙な模様を目の下に書き入れており、耳には不思議な色合いのピアスをしている。体つきはガリガリでもやしのようだが、上から時代錯誤のパンクバンドかと見紛う鋲付き革ジャケットを着込んで両腕には金属製のガントレットを装着していた。
 角のようにねじくれた髪を撫でつけながら、男は周囲の目線を気にした風も無く二人に近づいた。

「奇遇だネ。ワタシもちょうどキャッチセールスに勤しんでいたところだヨ」
「奇遇じゃないし、キャッチセールスすんな」
「どう見ても『悪魔』じゃなくてピエロよねー」

 悪魔・グラシャ=ラボラス。ソロモン七十二柱の一柱で、悪魔の貴族。そう吹聴する彼は、人間社会に分け入って適応しようとしている希有な悪魔の一人だった。とは言え、誰も彼を本当の悪魔だとは信じようとしないし、彼も別に信じて貰えなくても問題なさそうに振る舞っている。
 ただし、彼はとある出来事がきっかけで大地兄妹に対してだけは何故か異様に信頼を置いていた。そのため、街で出会う度に何かと彼らに話しかけてくるのだが。

「ピエロじゃなく、悪魔ですヨ、ア・ク・マ。間違えちゃ困りますヨ」
「うざい」
「うざい」
「……いつもながらヒドイ仕打ちだネ」

 非常に鬱陶しいため、毎度悪し様に扱われていた。しかし、彼らだけはこの男が正真正銘の悪魔であることを知っている。彼の本体がこんな悪趣味な人間の男の姿では無いことも。
 いつもならこのまま適当にあしらって通り過ぎるところだったが、二人はふと彼がいつもは持ち歩かないようなものを手に提げていることに気付いた。
 細身のステッキ。光をほとんど反射しない漆黒の杖は、その頂点に翼の生えた髑髏を冠している。長さは彼の身長に頭一つ分ほど低い程度で、掲げるとそこそこの威圧感がありそうだ。

「あぁ、これかネ? 良いだろう、新調したのだヨ」

 彼らの視線と思考を読み取ったグラシャ=ラボラスは、自慢げにステッキをぐるぐると回した。しかし、二人の視線はどちらかというと冷ややかだ。新調したと言うが、今まで彼はずっと手ぶらだったし、彼がこう言った物を見せびらかすときは決まって良くないことが起きるときだった。
 そんな二人の気配を感じとった彼は、我が意を得たりと言った様相でにやりと笑った。やはり何かろくでもないことを考えているらしい。

「ま、そのうち分かるヨ……フフフ……」
「いや、知りたくない」
「知りたくないわね」
「……あんまりじゃないかネ?」

 いつも通り適当にあしらうと、後ろでこれ見よがしに手を振る悪魔を無視して二人は帰路についた。
 家に着くと、七緒は鞄を机の上に置き、中から一冊の文庫本を取りだした。吊されていた間にも眺めていた本だ。シンプルな白い表紙に文字は無く、ただ不可思議な記号だけが描かれている。魔法に関する本だと言うことは分かるが、作者名も書かれていないその本には異様な雰囲気が漂う。
 ぱらぱらと中をめくってみても、書いてある内容は到底理解できない代物だった。というよりは、まともに読める文字ですら無い。以前にグラシャ=ラボラスから見せられた謎の契約書にも、ルーン文字に近い文字が書かれていたが、それに近いものがある。

「うーん、やっぱりよく分からん」

 七緒は最後の一ページまでめくると、本をそっと机の上に置いた。これも詩織の蔵書の中から失敬してきたうちの一つだ。幼なじみである彼女は、昔から驚くほどの本を所有していた。その数は、彼女の蔵書のためだけの十畳に及ぶ部屋があるというだけでも想像がつく。当然彼女自身の部屋にも本が溢れかえっており、正確な数は分からないが一万冊はあると彼女自身も認めていた。
 そして、その半数以上が魔法書だ。
 一体いつから集め始めていたのかは定かではないが、恐らくは魔法の存在が明らかになる前から集め続けていたのだろう。中には年代も特定出来ないような古い書物もあり、入手方法もさることながら、どうやって見つけてきたのかも不明なものも多い。
 ずっと一緒にいるのに、彼女がどのようにして本を収集しているのか、全く知らない。彼女が異常なまでに本を大事にすることは知っていても、その理由を一つも知らない。だから、彼は彼女の本をこうして時々失敬してくる。追いかけ回されても、吊されても、彼女の本を知ることで、彼女の本質の一掴みでも知ることが出来たら。その一心で、何度も彼女の家に通い詰める。
 そうやって、本を失敬し続けて、もう三年になる。最初は一冊ずつだったが、最近では今回のように隠し場所を変えて二冊持ち出すことに成功することもある。借りてきた本ののべ冊数は千を越えるはずだが、一向に何かが分かりそうな気配はない。それどころか、彼女の蔵書は加速度的に増え続けているようにすら思える。

「……何やってんだろ、俺」

 幼い頃からずっと知っているはずの彼女のことを、七緒はほとんど知らない。知っていることと言えば、親戚の叔父と二人暮らしであること、身体能力が群を抜いて高いこと、思ったより冷徹な一面があること、そして、本を何よりも大事にしていると言うこと。彼女について語れることは、五指にも満たない話題のみ。
 思えば、出会ったきっかけすら、もう覚えていない。

 ──ピンポーン

 不意にチャイムの音が鳴り、七緒はびくっと背筋を伸ばした。「はーい」と言う八千流の声と足音が響き、しばらくして玄関の開く音が聞こえる。何となく嫌な予感がした七緒はこっそりと何処かへ抜け出そうとしたが、間髪入れずに八千流の声が届いた。

「お兄ちゃん、詩織さんが来たよ-!」
「……」

 がっくりと肩を落とす七緒の後ろで、階段を上ってくる少女の足音が聞こえてくる。観念して椅子に座り直すと、同じくして詩織が部屋に入ってきた。詩織は七緒に軽く目をやると、そのままゆっくりと部屋を眺め渡す。
 そして、お目当ての物を見つけ出すと、つかつかと七緒の方へ歩み寄ってきた。そのまま脇をすり抜け、机の上に置いてある白表紙の文庫本に手を伸ばす。何となく頭を抱える七緒を、詩織は感情のこもらない目で見下ろした。

「……キミには少し折檻が必要みたいだね」
「木に吊されるのは折檻とは言わないっすか……」

 今度は家の屋上からでも吊されそうだと半ば覚悟しながら、七緒はぼそりと呟く。詩織はしばらくじっと彼の目を見ていたが、ややあって珍しく彼女の方からため息をついた。そして、何もせずそのまま七緒に背を向けると、部屋の外に向けて歩き出す。
 七緒は慌てて机の上の本を取ると、詩織に差しだそうとした。しかし、詩織は後ろを向いたまま片手を挙げて七緒を制した。

「その本はキミに貸しておいてあげる。そのかわり、肌身離さず持っていること。良いわね?」
「……え、でも、この本何が書いてあるか分かんないし」
「良いわね?」
「……はい」

 強引に押し切られ、七緒は黙って詩織を見送った。彼女はそのまま階下に降り、八千流と何やら談笑してから彼らの家を後にした。
 七緒は右手に持ったままの文庫本を所在なげに彷徨わせると、もう一度しげしげと眺めてみた。よく見ると魔方陣のような図形が薄く表紙に刷られており、その中心に謎の記号が描かれているようだった。中身はやはり訳の分からない記号の羅列だが、その中の一部が妙に目についた。
 △と▽で区切られた一文と思われる部位に、少なくともαと読める記号とωと読める記号が二回出てくる。他の記号は全く解読できないため、逆にこの部分だけが異質さを感じさせた。
 再び本を机の上に戻そうとして、七緒は遅れてため息をついた。彼女が本を奪い返さずに置いていくことも初めてだが、それを肌身離さず持っておけという命令も初めてだ。それに何の意味があるのか、あるいはただの嫌がらせなのかも知れないが、万一手放して汚損・紛失した場合にどんな責め苦に遭うか、想像するだに恐ろしい。
 しばし逡巡したが、ひとまず机の上に置くことにした。自分が部屋の中にいる間は取られることは無いだろう。そう思いながら、七緒は引っかけて落とさないように慎重に本を机の真ん中に置いた。今日はいつにもまして気の滅入る日だ。こういうときは下手に動かない方が良い。
 何となくブルーな気分に陥りそうなのを首を振って追い払い、気分転換にと七緒は手元のリモコンを操作してテレビをつけた。十二インチしかない液晶テレビだが、ぼーっと何かを考える時のBGM程度にしか使わない彼にとって、映像の有無は正直どうでも良い。ならばラジオでも良いはずだが、七緒にとっては雑然としたテレビの音の方が性に合っていた。
 しばらく画面を眺めながら、一つずつチャンネルを変えていく。今の気分に波長の合う雑音を探しだし、後は適当に放置しておく……はずだったのだが。

「……!?」

 そこに映った映像を見て、七緒は思わず椅子から落ちそうになった。
 番組は何かの緊急特番のようだった。ざわついた街の様子を映しているカメラがパンニングすると、映し出されたのはさっきあしらってきたばかりのグラシャ=ラボラスだった。手には例のステッキを持ち、何やら画面外に向かって指示を飛ばしているように見える。
 リモコンで音量を上げると、いつもののんびりした声とは違い、軽い緊張を孕んだような声で男が遠くをステッキで指した。その指示に従うようにカメラが向くと、画面のちょうど真ん中に映り込む影があった。
 遠くにそびえ立つビルの上。ほとんど豆粒みたいな影だが、輪郭は不思議とはっきり視認出来た。両手を広げ立つ人影。しかし、その背部には人には決して見られないものが背負われている。
 翼。風になびく、四枚の翼。
 その姿は、歴史上何度も描かれてきた聖なる存在、『天使』を想像させる。だが、画面の向こうから漂う緊迫感は、聖なるものに恐れおののく類のものではなかった。飄々とした表情のままのグラシャ=ラボラスでさえ、その額には僅かに汗が浮かんでいる。
 カメラは人ならざる人影を映し続けていたが、しばらくして周囲の様子を映し出そうと視点を切り替えた。恐らく突如現れた謎の異形に軽くパニックになったであろう人々の様子が順繰りに映し出される。これまでも悪魔の出現が話題になったことはあったが、実際に目にした人は少ない。恐らく今回出現したあの人影も悪魔なのだろうが、同じ悪魔のグラシャ=ラボラスが緊張する位だから、そこそこ格の高い悪魔なのだろう。
 画面に映し出された人々も同じ程度の認識のようで、ざわめきはあるものの動きには余裕がある。中には携帯で写真を撮ろうとしている人間もいた。そんな映像を見て、七緒はグラシャ=ラボラスの様子と群衆の乖離に違和感を感じ始めた。何か良くないことが起こる。そんな予感が芽吹いた時。
 画面の中心に、翼の生えた男が突如出現した。何の前触れもなく、画面を切り取って貼り付けたかのように、最初からそこにいたかのように。
 そして、全てが無に帰した。
 砂嵐を映し続ける画面から、七緒は目を反らすことが出来なかった。何が起こったのかは全く分からない。なのに、その砂嵐の向こう側が何故か容易に想像出来る。向こう側の空気が、こちら側を浸食する。ここが自室であることを、思わず忘れてしまうくらいに。

「……ッは……!」

 機能停止していた呼吸筋が、ようやく脳の指令を受けて呼気を受け入れた。その一瞬を逃さず、七緒は画面から目を背ける。ほんの数秒なのだろうが、時間を早送られたかのように酷い動悸と息切れが彼を襲った。同時に、どっと冷や汗が流れ落ちる。
 アレは、何だ?

「『無価値な者』、『無益の王』、『大いなる虚無』、呼び名は様々だネ」
「……うわ!?」

 突如心の声に割って入ってきた闖入者に、七緒は今度こそ椅子から落ちた。ベッドの上に白塗りの男、グラシャ=ラボラスが転がっている。先程まで画面の向こう側にいたはずの男だが、どうやらこの手の瞬間移動は悪魔の中では常識的な移動方法らしい。
 彼の姿は、テレビに映っていた時よりも大分みすぼらしく見えた。実際、体のあちこちに汚れや擦り傷が見受けられる。この一瞬の間に行われたことを再び想像して、七緒の全身が粟立った。

「予見はあったが、まさかこんなにも早く現れるとはネ。せっかく新調したステッキの見せ場が無かったヨ」

 煤だらけのステッキをブラブラと宙に揺らし、グラシャ=ラボラスは何事もなかったかのようにぼやいて見せた。だが、実際はそんなものでは済まないのだ。
 グラシャ=ラボラスは決して弱い悪魔では無い。軽薄で奇怪な姿を借りてはいるが、正体は翼竜の如き翼を有した巨大な犬型の悪魔だ。その気になれば街一つを一晩で廃墟に出来ると吹聴する彼の言葉も、その姿を見れば納得がいく。そんな彼が一瞬で敗走してくると言う事が、事態の異常さを物語っている。
 それに、七緒の部屋に駆け込んでくる、と言う事も。

「俺のところに直接来るって事は、前に言ってた『激ヤバ』な事態……って事だな?」

 七緒の言葉に、目の前の悪魔はやや真剣な面持ちで頷いた。

「……そうなるネ。実際、少しばかり目論見が甘かったのかも知れないヨ。出来れば、君にはあまり頼りたくないのダガ」
「俺だってそうだ。出来るならこの『体質』ごと誰かに譲り渡したいくらいだ」
「それはワタシが困るから却下だネ」

 大げさに両腕で×を作る目の前の悪魔に半ば腹立ちながらも、七緒はグラシャ=ラボラスの前に左手を差し出す。だが、彼は首を横に振ると、無理矢理右手を引っ張り出させた。

「ノンノン。左手はワタシには荷が重いヨ。右手が良いネ」
「なんでだよ。どっちでも良いんじゃないのか?」
「契約は順序が大事なのだヨ」
「?」

 よく分からない言い訳をしながら、悪魔はその手にガントレットを外した右手を重ね、しばし目を閉じる。数秒の後、悪魔の手の甲には奇妙な模様が出現していた。
 そして、同じ模様が七緒の右手にも現れる。淡い光を放つその模様は、まるで揺らめく蜃気楼のように不安定に明滅を繰り返している。その間に、グラシャ=ラボラスの体からは擦り傷がほとんど消え、微かな汚れだけが残された。

「ふむ。これで契約は完了だヨ。今からワタシが解除を申し出るまで、君はワタシの能力を使いたい放題!」
「逆に、お前は俺から魔力を吸いたい放題な訳だけどな……割に合わん気がする」
「良いじゃないかネ。どうせ使わないモノなんだカラ」

 七緒が魔法を使えない理由。それは、彼の『体質』にある。
 人間は基本的に魔力を外に放出する性質を有する。これは魔力が悪魔の到来によってもたらされた一種の『異物』であるため、自然に排泄しようとする働きが起こるからだと推測されている。人はそれぞれ呼吸するように魔力を内にため込み、一定間隔で体外に放出している。これを意識的に大きくため込み、様々な事象に変換して放出するのが魔法だと考えられている。
 七緒は、その放出をコントロール出来ない。つまり、吸い込んだ魔力を蓄積し続ける性質を持っているのだとグラシャ=ラボラスは言う。溜め込まれた魔力は彼の中で圧縮され続けており、その総量は彼曰く『悪魔の常識を越える』のだとか。
 彼は大容量の魔力のバックアップを得るために七緒と契約を交わした。見返りに、七緒はグラシャ=ラボラスが有する膨大な能力を使用する権利を得る。つまり、一時的に魔法を使えるようになるのだ。
 魔力は人体にとって異物ではあるが、直接害を与える類のものではない。そのため七緒自身がそれによって困ることはないが、グラシャ=ラボラスのようにそれに目をつける悪魔がいることが、今後の彼の人生を大きく左右することになりかねない。

「……こんな変態に目をつけられた時点で大分マイナスだが……」
「何か言ったかネ?」
「……いや。怖い悪魔が出てきたなー、と」

 グラシャ=ラボラスは以前に一度七緒に命を救われたことがある。悪魔同士の闘争に敗れ、本来の魔力を失って小犬の姿で街を彷徨っていたとき、大地兄妹に助けられたのだ。彼は七緒の魔力を吸って見る間に力を取り戻し、本来の姿へと変貌して兄妹を驚かせた。七緒が魔法を使えない理由を知ったのは、その時だ。
 それ以来、この悪魔は街をうろついては大地兄妹に対して気軽に声を掛けるようになった。人間に化けているときの奇抜さも相まって正直迷惑ではあったが、彼なりに恩義は感じているらしく、魔法の知識や悪魔の歴史について通常は知り得ないことを彼らにリークしたりもしている。
 その中に、一つの警告が含まれていた。それは、いつか彼と同じ悪魔の中に地上を制圧しようとするものが現れるというもの。地上に溢れ出した魔力を回収し、それを以て全てを虚無に落とし込もうとする者。

「ベリアル。彼が自らに刻み込んだ名前だヨ」

 無価値、無為、無益、虚無。その名に込められた意味はそのいずれもが『無』だと言う。何もかもを無に帰すべく、己の名にまで無を冠したこの悪魔は、グラシャ=ラボラスと同じソロモン七十二柱の一柱にして絶大な力を有するまさに別格の存在らしい。ただ自らの欲求にのみ従う、ある意味原初的(プリミティブ)な悪魔とも言える。
 人間だけで無く、悪魔ですら彼の前に立つことは許されない。彼の後ろには灰の道が延び、彼の前には炎が立ち上る。自由意志を持つ災害。それを退けるためには、人間も悪魔も関係なく協力し合わなければならない。その時は七緒に協力を願いたいと、グラシャ=ラボラスは以前から請うていた。他の悪魔も恐らく彼の登場を快く思ってはいないが、積極的に介入するつもりのある悪魔は恐らくいないだろうからと。

「でも、なんで真っ先に俺なんだ? それこそ他の悪魔に頼み込めば良いじゃないか。いくら個人主義が強いと言っても、自分も危機にさらされるとなったら黙ってはいないんじゃないか?」
「うむ、イイ質問だネ! だが、答えはノン。ほとんどの悪魔はベリアルを恐れてはいるが、崇拝してもいるのだヨ」
「崇拝?」
「ソウ。ワタシ達悪魔にとって、力は絶対的な正義なのだヨ。彼はその点で最強の力の持ち主、揺るがぬ正義の象徴でもアル。進んで自ら矛を向けようとする者など、皆無に近いだろうネ」
「力こそ正義、か……まぁ、人間もある意味では似たようなもんだけどな」

 グラシャ=ラボラスはベッドから降りると、全身の状態を確認してから紋様の浮かぶ右手を天井に向けて掲げた。まるでポケットから物を取り出すかのように、空中から焼け焦げたステッキとは別のステッキを取り出す。全長は先程のステッキと同等か、やや長い。頂点には翼を持つ髑髏の代わりに獅子と薔薇のレリーフが施されている。
 ステッキをひねると、中から細身の刃が顔を覗かせた。彼はそれを確認すると、刃を仕舞って七緒に差し出す。少し戸惑いながらも、七緒はステッキを受け取った。見た目に反して軽量で、思わず取り落としそうになる。

「これは聖女・ジャンヌダルクの遺骸の一部を埋め込んだ特別製の仕込み杖だヨ。悪魔にとっては触れることすら忌避される、まさに破魔の逸品!」
「……お前も悪魔だよな?」
「……はて、何のことヤラ」

 相当に胡散臭い代物だったが七緒はひとまずもらっておく事にした。本当に効果があるかどうかは分からないが、あの悪魔と鉢合わせたとして僅かでも助かる確率が上がるならそれに越したことは無い。
 グラシャ=ラボラスは七緒がステッキを受け取ったのを確認して、にやりと笑った。何となく不吉な予感がしたが、今更後には引けない。彼の話が正しければ、ベリアルは世界を全て灰にするまで動きを止めない。その歩みがどれほどの物かは分からないが、いつかは七緒も否応なく直面する危機だ。ならば、覚悟は早いほうが良い。

「さて、ワタシは勝率を上げるために一仕事してくるヨ。キミは月夜でも眺めながらのんびり来るとイイ」
「来るといい……って何処へだよ」
「時間が来ればわかるヨ。では、マタ」

 言うが早いか、グラシャ=ラボラスは七緒の前から姿を消した。引っ掴んでやろうと思った右手が空を切り、七緒は舌打ちする。そのままゆっくりと椅子に腰を沈め、握っていた仕込み杖を見やった。魔力のバックアップだけかと思ったが、しっかりと自分も戦わせるつもりらしい。
 七緒は今年恐らく最大の溜息をついた。下手に動かない方が良いと思っていた矢先に、トラブルが向こうから文字通り転がり込んできた。これはもう、どう頑張っても悪い事象を回避出来ないパターンだ。そう思いながら。


 深夜。
 ほのかな月明かりの元、七緒は街路を北に向けて歩いていた。歩く、といっても実際には彼が歩かなくても強制的に進んでいくのだが。
 零時を過ぎた途端、七緒はまるで動く歩道に無理矢理乗せられたかのように移動を開始した。部屋で一通り準備している最中に急に動き出したため、七緒は慌てて仕込み杖とショルダーバッグを引っ掴み、流されるまま自宅を後にした。グラシャ=ラボラスの言っていた「時間が来ればわかる」を分かりすぎるほど体感しながら、七緒は流され続ける。
 移動中誰にも出会わないのは、恐らくグラシャ=ラボラスの魔法の所為だろう。彼は互いの存在を感知出来なくする魔法を多用する。それにより、こちらが周囲の人々を探知出来ない代わりに、周囲の人々もこちらを探知出来なくなる。
 しばらくして、街の雰囲気が急激に変化したのを七緒は肌で感じ取った。まるで冷気が吹き込むような感覚の後、広がる光景に目を見張る。
 街が、えぐられていた。月面のクレーターのごとく、建物があったはずの場所に巨大な窪みが出来上がっている。円周に近いところでは建物の基礎がなめらかな断面を披露しており、まさに『えぐられた』という表現がぴったりだ。
 昼間の映像が、七緒の眼前にフラッシュバックする。突如現れた翼の男と、途切れた映像。砂嵐の向こう側で行われていた惨劇の結末が、ここにあった。
 最早廃墟と化した街の中心付近で、移動速度が緩やかになる。こちらに向けて手を振るグラシャ=ラボラスの姿が近づいてくると、ついに移動が止まった。そのまま歩いていくと、彼はいつもの軽薄そうな笑顔でお辞儀をし、七緒を出迎えた。

「やァ、よく来たネ!」
「それが強制連行してきたやつの台詞か」

 適当な挨拶をカウンターで返し、七緒は周りを見渡した。至る所でえぐられ、ほとんど平地となった凄惨な街の様子が映し出されるが、目標は見当たらない。

「……相手は?」
「もうすぐ来ると思うヨ。宣戦布告してきたからネ」
「勝算は」
「五分以下だネ」

 胸を張って言うグラシャ=ラボラスを殴り倒したい衝動をぐっと抑え、七緒は仕込み杖をひねった。曇り一つ無い銀の刀身が姿を現し、抜き放つと淡い光が一瞬ともる。眼前に構え、グラシャ=ラボラスの側面に立って周囲を警戒する。瞬間移動出来る相手に対してこの程度の警戒が役に立つとは思えないが、緊張感無くぼんやり立っていられるほど七緒の肝は据わっていない。
 一秒が一時間にも感じられる沈黙の中、一瞬周囲の景色がゆがんだように感じられた。七緒が隣をちらと見ると、グラシャ=ラボラスがやや緊張した面持ちで前方を凝視している。その視線の先に、それはいた。
 四枚の、白い翼。真っ赤な髪をたなびかせ、微動だにせずこちらを凝視している。
 ベリアル。
 画面の向こう側にいた彼は、ただただ不気味で不吉な予感に満ちていた。だが、直接対面する彼は違う。感じるのは、驚くほどの静けさ。自分の呼吸音さえ消え去るほどの、圧倒的な静寂。彼の周囲にある全ての物が沈黙し、頭を垂れてひれ伏す。その場に存在する意味も、意義も、意志も、全て刈り取られる。
 一瞬、七緒は一切の見当識を失った。何故自分がここにいて、一体何を成そうとしていたのか、瞬間的に分からなくなった。自分が何であるのかさえ、忘れそうになる。隣でグラシャ=ラボラスがガントレットを打ち鳴らすのが少しでも遅ければ、そのまま七緒は自分の存在理由を永久に失ってしまっていたかも知れない。

「……呑まれすぎだヨ。彼に視線を合わせるのは危険だヨ」
「あぁ、助かったよ……先に言ってくれるとなお良かったんだがな」
「おヤ、言ってなかったかネ?」
「言ってねぇ」

 笑えないボケを封殺し、七緒はほんの少し視線をずらしたままベリアルと対峙した。彼我の距離はまだ五十メートルはあるが、この程度の距離は相手にとってゼロに等しい。意識を最大限に研ぎ澄まし、視界を広く保って相手の動きに備える。
 隣ではグラシャ=ラボラスがガントレットを外し、七緒との契約印が浮かぶ右手をベリアルに向けて翳していた。よく見ると彼の手は全体的にぼんやりと輝き、ベルアルに向けて光の筋が伸びている。

「対ベリアル用の捕縛魔法だヨ。捕縛と言っても、移動先を予測する程度の能力しか発揮出来ないだろうけどネ」
「勝率を上げる仕事ってのは、それか」
「そうだヨ。他にもいくつかあるけどネ」

 対するベリアルは、自身にまとわりつく光にも全く興味を示すそぶり無く、ただこちらをじっと見ていた。もしかしたら、彼にとっては自分たちの姿など背景の一部程度にしか映っていないのかも知れない。
 七緒がそう思った瞬間、ベリアルの姿が視界から消えた。それよりも一瞬早く、グラシャ=ラボラスの光が七緒達の後ろに回り込む。二人が一斉に後ろを振り返ると、翼の生えた背中が目と鼻の先に姿を現した。冷や汗をかく暇もなく、二人は展開した翼に弾き飛ばされる!

「うぉぉぉッッ!!」
「ヌゥ……」

 軽く五メートルは吹き飛ばされ、二人は大地に叩き付けられた。グラシャ=ラボラスが咄嗟に展開したシールドによって何とか重症を免れたが、七緒は衝撃で一瞬息が出来なくなる。それでも素早く起き上がった二人は、次の攻撃に備えて身構えた。だが、ベリアルは先程の姿勢のまま微動だにせずそこにいる。
 こちらから攻めてみようか。そう七緒が一歩を踏み出そうとした時。

「 何 の 用 だ 」

 押し潰されそうなほど重苦しい声が、二人の動きを封じ込めた。気の弱い人間なら、この一言で意識を失っているかも知れない。思わず後ずさりしそうになるのを、七緒は気力で何とか押しとどめた。隣のグラシャ=ラボラスは張り詰めた表情でベリアルの背中を凝視し、次の一手を打つ隙をうかがっている。
 再び、光が走った。今度は若干反応が上回り、ベリアルの軌道沿いに仕込み杖の刃を置いてくることに成功する。だが、ベリアルはそれを意に介した様子もなく再度二人を弾き飛ばした。グラシャ=ラボラスは空中で一回転すると、宙を舞う七緒を捕まえて背中に担いだ。そのまま、彼は本来の姿へと変身する。
 巨大な黒い犬となったグラシャ=ラボラスは、七緒が背中の毛にしっかりと捕まったのを確認して背に負う翼を思い切り羽ばたかせた。一降りで十メートル近い高度まで飛翔した後、地上のベリアルに向けて一気に急降下を試みる。当然のごとく直前で消え失せるベリアルを光の帯で追い、グラシャ=ラボラスは前足で大地を叩き付けると同時に右へ跳躍した。現れては消えるベリアルを追ってグラシャ=ラボラスは跳躍と爪による斬撃をたたき込む。七緒は背中の上でじっと光の先を追っていたが、不意にそれが頭上に移動したのを捉えた。

「グラシャ=ラボラス、上だ!」
「……!!」

 七緒の叫びを受けて横に飛んだグラシャ=ラボラスだが、強烈な衝撃波が容赦なく二人を吹き飛ばした。耐えきれず魔犬の背から手を離した七緒は、グラシャ=ラボラスの魔法を使用して衝撃の何割かを和らげることに成功したものの、地面にまともに叩き付けられて悶絶した。
 ベリアルは腕を一降りすると、無数の氷の槍を天に向けて放った。槍は空中で反転すると、そのままグラシャ=ラボラスの方へと降り注ぐ。満身創痍の魔犬は何とかそれらを躱そうとしたが、一本が後ろ足に刺さると、激痛の叫びを上げる間に次々と降り注ぐ槍が彼の周囲に檻のごとく突き立った。

「……躾の無い犬には、檻が必要だ」
「グゥ……」

 グラシャ=ラボラスは檻を構成する氷の槍をへし折ろうと試みるが、全く歯が立たない。それどころか、槍に当たった足に無数の切り傷が刻まれ、魔犬は唸った。空から脱出しようにも、狭くて翼が動かせない。隙間がほとんど無いため、人間の姿に戻っても脱出は難しい。
 ベリアルは足掻く魔犬の姿を冷めた目で見やると、ゆっくりとした足取りで七緒の方へと歩いてきた。痛みに吐きそうになる七緒だが、向かってくる驚異に対してじっとしているわけにはいかない。何とか手放さずにいた仕込み杖を手に、震えながらも立ち上がる。が、再び腕を振るったベリアルによって更に後方へと吹き飛ばされた。今度は魔法が間に合わず、全てのダメージが七緒に襲いかかる。地面に接触すると同時に嫌な音が鳴り、ややあって鉄錆のような臭いが肺から立ち上ってきた。
 肋骨が折れて肺を傷つけたらしい。血の混じった痰を吐き、七緒は起き上がることも出来なくなった。起き上がったところで、ベリアルの圧倒的に過ぎる力の前では、七緒は赤ん坊にも等しい。
 最早、出来ることはない。七緒は諦めて両手を投げ出した。その手が、何かに当たる。 慌てて持ってきたショルダーバッグ。そこからはみ出した、白い装丁。
 詩織から肌身離さず持っていろと命じられたため、こんなところまで持ってきてしまった白い表紙の文庫本を、七緒は手元に引き寄せる。今までなんだかんだでちゃんと返していた本だが、どうやらこれだけは永遠に返すことが出来なくなりそうだ。
 再び血痰が吐き出され、白い表紙をまだらに赤黒く染めた。ベリアルが近づく。もう数える間もなく、自分は消滅する。七緒は本を胸に抱き、吐き出すように空に向けて呟いた。

「ごめん、詩織……」

 視界の端で、ベリアルが腕を振り下ろす。これで終わりだ。七緒は、ゆっくりと目を閉じた。

「謝るなら、最初から取らない事ね」
「……!?」

 耳慣れた声に、七緒は反射的に目を開けた。居るはずのない人影が、すぐ隣に立っている。白いスカートをたなびかせ、長い黒髪をかき上げる少女が、七緒を見下ろしている。

「でも、ちゃんと言いつけは守ったんだね。そこは評価するよ」

 その手には、七緒が持っていたはずの白い表紙の文庫本。血糊がべっとりと付いているのを気にする様子もなく、詩織は本のページをぱらぱらとめくりながら何かを呟くように読み上げた。
 すると、七緒の体からすっと痛みが消え去り、口中に広がっていた血の臭いも嘘のように霧散した。筋肉はまだぎしぎしと引っかかるが、それでも動けないほどではない。
 体を起こすと、詩織は更に何かを読み上げ続けていた。それに反応してか、詩織の持つ本が時折淡い光を放っている。やがて彼女が全てのページをめくり終わると、本はばらばらとページごとに分解して詩織の周囲を漂い始めた。
 淡く光る紙片が、ある種幻想的な光景を造り出している。同じ光景が、一瞬七緒の脳裏をかすめた。だが、それが一体いつの、何処の風景であったか、全く思い出せない。
 詩織はちらと七緒の方を見ると、「キミは下がってなさい」と言って前を見据えた。その先には……虚無の王、ベリアル。まさか戦うつもりなのか、と問う七緒に、詩織は前を見たまま、今までに見たこともないほど静かで美しい笑顔を見せた。

「すぐに、終わるわ」

 たった一言を残し、彼女の姿が消えた。ほぼ同時に、ベリアルの姿も光とともに消え去る。詩織の周囲に舞っていた紙片は光を追って竜巻のごとく進み、やがて空中の一点に収束し始める。そこへ再び詩織が姿を現し、スカートのポケットから更に二冊の文庫本を取り出し投げた。ベリアルが彼女の背後に現れると同時、彼女は両腕を広げて呟く。

「ブックマーク:天獄の鎖」

 突如、ベリアルの翼に巨大な枷が出現した。それに引きずられるように、ベリアルは地面に向けて落ちていく。詩織は投げた本のうち一冊を捕まえて最初の本と同じようにページを繰ると、落下するベリアルに向けて右手を翳した。

「ブックマーク:炎の女王」

 瞬時にベリアルは炎に包まれ、初めて彼に苛立ちの表情が現れた。枷に繋がれながらも両手に氷の槍を創り出し、グラシャ=ラボラスの時と同じように空中に向けて放つ。複数の槍が詩織に殺到するが、次々と炎の前に蒸発していく。
 とうとう地面に激突したベリアルは、両手で枷を引き千切り、自由になった翼を羽ばたかせた。竜巻が巻き起こり、コンクリートの破片を巻き込みながら詩織の方へと近づいていく。
 詩織は空中を矢のように移動してベリアルを挟んだ竜巻の反対側へと逃れると、周囲を舞う紙片を一つ取り上げ、素早く丸めてベリアルに向けて放った。

「ブックマーク:魔弾の射手」

 紙片は形を変えて散弾となり、ベリアルのいる場所に向けて降り注ぐ。瞬間移動で逃れるベリアルの方向をグラシャ=ラボラスの光で先読みし、詩織は更にもう一つの紙片を縒って投げつけた。

「ブックマーク:不断の槍」

 現れたベリアルの両腕、両足を、ねじくれた槍が次々と貫く。とうとう苦悶の表情を浮かべたベリアルは、銀に輝く瞳を細めて詩織をにらみつけた。

「……『ビブロス』……また邪魔をするか」
「あの時とは違うよ。今度は消滅するまで続けるか?」

 ベリアルは無表情に戻り、しばし詩織を凝視していたが、やがて姿を完全にくらました。先回りするはずの光も虚空を彷徨っていたが、やがて消え去った。
 詩織はゆっくりと降下すると、七緒の方に向けて歩いてきた。途中グラシャ=ラボラスのいる檻の前に来ると、先程と同じように炎で檻を溶かしてやる。自由になった彼は人型に戻り、珍しく詩織に会釈をすると、そこから立ち去った。
 七緒は唖然としてその光景を眺めていた。詩織が魔法を使えることは知っていたが、ここまで強力だとは知らなかった。まして、グラシャ=ラボラスが手も足も出なかった相手に対して、ほとんど手を出させることもなく追い払ってしまうほどとは。
 それに、ベリアルとの去り際の会話も気になる。ベリアルは詩織に向けて耳慣れない名で呼びかけ、詩織もそれに疑問を呈することなく、まるで既知の間柄であるかのように返答していた。一体、彼女は何者なのか。
 複雑な表情の七緒を見て、詩織は苦笑いをした。恐らく、彼の考えていることを読み取ったのだろう。詩織は何も言わず、いつの間にか元通りになっている白い文庫本を七緒に差し出した。おずおずと手を伸ばした七緒は、本を持つ彼女の左手を見て思わず声を上げた。
 左手の甲にぼんやりと光る、不可思議な紋様。本に触れた七緒の左手にも、同じ紋様が姿を現す。

「……思い出したかな」
「……あぁ」

 グラシャ=ラボラスが契約を右手にこだわった理由。それは、七緒が既に左手で契約を結んでいたから。
 目の前の、この美しい悪魔と。



 少年は、路地に打ち捨てられていた古い本を拾った。雨に濡れてぼそぼそになった本だったが、その装丁は汚れてもなお何処か魅力的に見えた。
 ページをめくることも一苦労だったが、何とか開いたページには見たこともない文字が躍っていた。少年は読めないことに落胆したが、再び捨てることもためらわれたため、家に持ち帰ることにした。
 家に着くと、少年は幼いなりの知恵を絞り、タオルで本を拭き、ドライヤーで中身を乾かした。ほとんどのページはくっついてしまっていたが、さっきよりはめくれるページが増えていた。相変わらず中身は全く理解できなかったが、不思議な文字を眺めているだけでも面白かった。
 ふと、背後に気配を感じて少年が振り向くと、いつの間にか一人の少女が窓際に立っていた。少年は驚いたが、少女が今にも倒れそうなのを見て慌てて手を差し出した。
 少女がその手を握ると、少年から紫色の光が立ち上り、少女に向けて流れ始めた。同時に、少年と少女の手の甲にそれぞれ同じ形の紋様が現れる。しばらくすると、少女はまるで成長を早回したように大人の女性へと変化した。
 目を丸くする少年に向け、女性はほんの少し笑みを浮かべた。ゆっくりと歩みより、少年の前に置かれた本に触れる。すると、本はたちどころに綺麗な、新品同様の状態に変化した。
 女性は本を手に取ると、ぱらぱらとページをめくった。あるページで手を止め、手を翳して何かを念じると、そのページから新たに小さな本が出現した。白い表紙に、魔方陣のような記号が描かれている。

「キミは、ボクを救ってくれた。だから、信頼する証に、自分の一番大事な本を預ける。大切にして欲しい」

 そう言って、女性はそれを少年に手渡した。少し戸惑った少年だったが、やがて素直にそれを受け取った。仄かに輝く文庫本サイズのその本は、少年にとってまさに宝物のようだった。

「その本は、キミの願いを叶える本だ。キミが願えば、一度だけその願いを叶えてくれる。キミが望むときに、使えば良い」

 それを聞いて、少年は少し考えると、彼の願いを女性に向けて打ち明けた。女性は少し驚いたような顔をしたが、やがて表情を和らげて首肯した。

「キミが本当にそれを望むなら、ボクはその本と引き替えに願いを叶えよう。それで、良いんだね?」

 少年は、迷うこと無く頷いた。女性は少年から本を返してもらうと、何かを呟いた。見る間に女性は先程よりも幼い、少年と同じくらいの年齢の姿に変化し、そしてこう言った。

「ボクの名前は、ビブロス。そして、今日からはキミの友達、眞木詩織だ」


「いつしかキミはあの時のことを忘れ、願い事だけが残った。人間は忘れていくものだから仕方が無いと思っていたが、キミはいつからかボクの正体を探し始めていた。いつも必死なキミの姿が面白かったから、黙って見ていたんだけど」
「……教えてくれれば良かったのに」
「それでは信じないかも知れないだろう? でも、キミはこの本にたどり着いた。だから今、キミはボクの正体を再び知ることが出来た」
「それはそうだけど……」

 やや不満げな七緒だったが、少しして冷静な口調で聞いた。

「……詩織は、俺の願いで友達になってくれたんだよな。もしその願いが無かったら……」
「ボクは、キミの前に二度と現れなかったかも知れない」
「……そう、だよな」

 少年だった七緒が望んだこと。それは、一緒に遊んでくれる友達。近くに同年代の子供がいなかった彼には、いつも遊んでくれる友達はとても貴重だった。
 だけど、それは願いによって生まれた、少しいびつな友人。彼の望みが無ければ、生まれ得なかったかも知れない関係。そう考えると、七緒には詩織が何処かと追い存在に感じられる。
 そんな彼に、詩織は続きを語った。

「でも、ボクはこうも言った。キミを信頼する証に、自分の一番大事な本を預ける。キミがこの本を持っていた限り、ボクはキミのそばにいただろう。その過程で再びキミと出会えば、ボクとキミはやはり友人になっていたかも知れない。何より、あの日あの場でボクを救ってくれたのは、紛れもなくキミで、それが無ければボクらはそもそも出会わなかった」

 その言葉に、七緒ははっとして頷いた。詩織と七緒は出会い、きっかけはともかく二人は友となった。そして、今も詩織は友として七緒を救ってくれた。それで、十分だ。

「そうだ。……そうだな」

 七緒は笑った。詩織も、呆れたように笑った。


 遠くで二人を見ていたグラシャ=ラボラスが、ニヤニヤしながら小さくぼそりと呟いた。

「今日が二人のブックマーク、なんてネ」





《 黒魔法ブックマーク 了 》





【 あとがき 】
ホンマごめん○∠\_

公募用の原稿の後にそのままのノリで書いてたら、ただのライトノベルになっていましたとさ。
一応学会中も帰りの電車でも頑張って書いたから許して○∠\_


道化師の部屋  Clown

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